2006年度 - 新潟大学人文学部

新潟大学人文学部・情報文化課程
文化コミュニケーション履修コース
2006 年度
卒業論文概要
軍 勇
金庸の武侠小説について――『神鵰剣侠』を中心に
1
浅田 舞花
石田衣良と「現実」
2
井上 円
文化資本とマイノリティ
3
小川 良恵
仮想現実における遊び
4
加藤 雄司
メディア社会の中のフォトジャーナリズム
5
杵鞭 梓
セバスチャン・サルガドの静かな抵抗
6
相楽 紘子
亀山千広論
7
佐久間 夏美
食べる人々――山田詠美論
8
白井 奈緒子
草間彌生――美術史の中の自画像
9
高井 麻衣
ラップ・ミュージックの変遷――「世界の音楽」のこれから
10
田邉 智章
推理漫画に見る誤読と誘導
11
玉木 麻梨
三谷幸喜論
12
傳川 麻美
向田邦子作品についての考察
13
寺崎
東野圭吾小説研究――『白夜行』における「白夜」という空間につ
可奈子
いての考察
14
ファンタジー作品におけるディテールの描写
15
中山 舞
よしながふみ作品におけるコミュニケーションのあり方について
16
堂上 堅太郎
バスケットボールシューズのブランド性について
17
村上 優子
よしもとばななに見る少女漫画らしさ
18
渡邊
現代日本の音楽産業におけるプロデューサー ――その位置と戦略
中嶋
蘭菜
博史
について
19
長谷川 恭子
バンドブームについての考察
20
松田 典恵
多言語社会における言語教育と異文化相互作用
21
水澤 知香
藤沢周平論
22
阿部 有紀子
重松清論
23
芝田 佳奈子
ゴールディング論
24
高橋
デジタルアーカイブと記憶――紙とデジタルの書物から
25
百合
中野 寛子
RENT におけるエイズ――その聖書的イメージをめぐって
26
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
金庸の武侠小説について―『神鵰剣侠』を中心に―
軍
勇
すでに武侠小説の断筆宣言をした香港武侠小説家金庸(本名:査良鏞,1924〜)の作品
は全部で 15 作(長編 12 作、中短編 3 作)のみで、決して多くはないが、未だに彼の小説
がいろんな言語に翻訳され、繰り返し映像化され続けている。
武侠小説は、中国文学独特のジャンルであり、今日の武侠小説に至るまで、長い歴史を
持っている。武侠小説作家が数多くいる中で、なぜ金庸ばかりがこれほどの人気を集めた
のだろう。本論文においては、金庸小説の代表作である『神鵰剣侠』と『射鵰英雄伝』を
取り上げ、特に『神鵰剣侠』を中心に、作品中の人物像・テーマ・思想などについて分析
し、彼の作品の持つ独特の魅力とは一体どのようなものかについて考察した。
第一章では、武侠小説と金庸について調査をおこなった。第一節では、武侠小説とはど
ういうものなのか、中国の大衆娯楽文化の長い歴史の中、武侠小説はどのように変容して
きたのかについて、第二節では、金庸がどのような家庭で生まれ、育ったのか、なぜ武侠
小説の執筆を始めたのか、また金庸の武侠小説が日本市場での受け入れ状況についてそれ
ぞれ考察をした。
第二章では、
『射鵰英雄伝』に触れながら、金庸の代表作『神鵰剣侠』を中心に、考察し
た。漢語圏社会で生きる人々の日常会話の中によく出てくるほど、金庸小説の登場人物に
は個性溢れるキャラクターばかりである。第一節では「ベストカップル」や「儒家の侠」
と「道家の侠」という典型とされる代名詞を取り上げ、それぞれに当たる登場人物の性格
特徴などについて分析し、考察した。
武侠小説の祖型とされる『三国誌』や『水滸伝』では、ヒーローたちにとって、天下国
家のことが関心の的になっていて、男女の情愛描写はほとんどなく、あっても否定的な描
かれ方をされるのが常だった。また、女性に関する描写が極端に少なく、女性の存在感が
非常に薄かった。第二節では、『神鵰剣侠』のテーマ構成について分析した。従来の武侠小
説と異なって、『神鵰剣侠』においては恋愛が一つの大きなテーマであると言える。第三節
では『神鵰剣侠』中の男女関係について分析した。金庸は『神鵰剣侠』の中で男女対称の
世界を創造し、男女平等を主張している。
現代性のあふれる登場人物、武侠小説に取り込んだ恋愛的な要素、また従来の男性中心
的な観点を超越し男女平等を主張したことは金庸小説の代表作である『神鵰剣侠』の最大
的な魅力となっている。
1
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
石田衣良と「現実」
浅田
舞花
直木賞作家である石田衣良は、
「エンターテイメント小説の場合は最初のとっかかりが大
事」と述べ、自身の小説に「現実」を取り込むことをスタイルとしている。実際に作品の
題材に、池袋西口公園周辺でのカラーギャング抗争、オタク、1997 年に神戸で起こった「神
戸連続児童殺人事件」通称「酒鬼薔薇事件」を扱っている。石田は作品に
いま
を取り
込んで、時代のドキュメントを作りたいと述べている。しかし一方では、
「小説全体が、目
の前で起きていることに対して、あまりにも鈍感になっているのではないか」という指摘
がある。
本論文では、このように「現実」を自身の作品に取り込むことをスタイルとしている石
田が、「現実」をどのように捉え、作品に表現しているのかを分析した。
第 1 章では、村上春樹、村上龍の二人を取り上げ、両氏の「現実」を作品に取り込む際
の、小説への態度を確認した。村上春樹には世の中の大部分を「ジョークなもの」として
見るという態度があったこと、村上龍には分かりやすい社会問題を作品に取り込むことで、
読者の欲望に合わせて物語るという「サブカルチャーの手口」があったことを確認した。
第 2 章では、前章で取り上げた村上春樹・龍の「現実」に対する態度が、石田にも共通
して見られることを指摘し、石田と「現実」の関係について見た。その際には、同じエン
ターテイメント小説というジャンルに身を置く桐野夏生と比較し、石田と桐野の「現実」
を小説に取り込む際の態度が全く異なることを明らかにした。また、石田の作品の中で、
「酒鬼薔薇事件」を題材にした『うつくしい子ども』を取り上げ、内容・視点・土地の 3
つの観点から分析した。この結果、
『うつくしい子ども』を書こうと思ったきっかけである
過激な報道に対する嫌悪というのが作品に表れていることを確認した。
第 3 章では、石田の作品における「土地」の役割を考察した。『4TEEN』と『アキ
ハバラ@DEEP』の 2 作品を取り上げ分析したが、石田の作品における細かな土地描写
は、単にその土地を目の前に映し出すための情報という役割を担っているだけではなく、
「土地」(地名)は登場人物を形成し、活かすためのものであることを明らかにした。実在
する「土地」と登場人物が相互に関連しあうことで、石田のそもそもの小説にこめる思い
である「読者に嫌なもの」を渡さないということが達成できていることを確認した。
以上から、石田のエンターテイメント小説作家としての立場の意識、またその上で読者
が入り込みやすく、また「読者に嫌なものを渡さない」という絶対的な信念を確認した。
石田が自身の作品に「現実」を取り込むこと、また実在する土地を描き、登場人物を形成
していることはその石田の信念を達成するために欠かせない要素だと言えるのである。
2
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
文化資本とマイノリティ
井上
円
文化資本とは、家庭環境や学校教育を通して身についた知識・趣味・感性や、物資とし
て所有可能な書物・絵画、また学校制度や試験によって賦与された学歴・資格などをいう。
本論では、この文化資本というものが個人の生活にどういった役割を果たし、影響を及ぼ
しているのかを、異なる文化的背景をもつ民族的マイノリティ、主に日系ブラジル人、そ
のほか中国帰国者や在日コリアンに焦点をあてて考察し、日本において民族的マイノリテ
ィと呼ばれる人々が直面し、抱えている問題と文化資本との関係性を見出し、そこからみ
えてくる問題を明らかにしたいと考えた。
まず、彼らの生活場面からうかがえる文化資本の影響をみていった。その生活場面という
のは、労働・仕事に関する面、学校生活に関する面、そして食生活に関する面の 3 点に焦
点をあてている。労働・仕事に関する面においては、彼らが自国で得てきた資格や職業資
本ともいえるものは、現在の状況の日本では彼らにとって資本にはなりにくいことが多々
あり、本来であればプラスに作用するはずのものが、それをもっているがゆえに、現実と
のギャップに悩まされたりプライドを傷つけられたりするマイナスの要因になっているこ
とがわかった。学校生活に関する面においては、子どもや親が自国で身につけてきた学校
文化と日本のそれとの相違に起因して、ギャップを感じたり抵抗感をもったりすることが
ある。また仕事面と同様に、自国で身につけてきた学歴や学力といった資本を日本でプラ
スに発揮することができず、それらをもっているがゆえに、プライドが傷つけられてしま
ったり意欲を失ったりするというマイナスを引き起こすことがある。食生活に関する面で
は、継承され慣れ親しんできた食との違いに戸惑ったり馴染めなかったりすることもある
が、家庭で調整するなどして、食の文化資本は比較的保ちやすいようであった。
次に、彼らの生活場面における文化資本の影響をフランスの社会学者ピエール・ブルデュ
ーの文化資本論に照らして考えてみた。
そして、これまでの考察をふまえて文化資本の影響からみえてきた問題は、文化資本の否
定、自己の否定へとつながる危険性である。日本で自身の能力を思うように発揮できず、
低い立場へ追いやられたり評価されなかったりすることで、自身の文化資本を負の文化資
本というように捉え、それが自己の否定へとつながっていく恐れがあるということだ。ま
た、このことは日本の尺度でしか見ようとしない日本社会の閉鎖性をもあらわしているの
ではないだろうか。異なる文化資本が認められず否定される社会は、異なる文化を排除し
ようとする社会であると考えられる。私たちはその危険性に目をむけ、マイノリティが自
己の文化資本を資本として肯定でき、選択の幅をもてるような多様な尺度をもった社会を
築いていかなければならない。
3
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
仮想現実における遊び
小川
良恵
近年、コンピュータゲームのオンライン化が著しい。ブロードバンド普及による、イン
ターネットへの接続環境が高速化されたことに加え、各メーカーから発表された次世代型
と称されるコンシューマーゲーム機には、オンライン機能が標準搭載されており、一部の
パソコン愛好者向けであったオンラインゲームのプレイ人口は今後も益々増加すると考え
られる。同時にオンラインゲームは、非常に依存性の高いものであるとされ、「ネットゲー
ム廃人」と呼ばれるゲーム中毒者も生み出している。何故このような熱中者が現れるのだ
ろうか。オンラインゲームの特徴の一つは、他者とのコミュニケーションであると言われ
ている。そこで本論では、オンラインゲームにおけるコミュニケーションについて、ロー
ルプレイ、すなわち役割演技という特性に注目し、キャラクターを介したコミュニケーシ
ョンの特徴について考えた。
まず、オンライン・オフラインを問わず、キャラクターを演じることを特徴としたゲー
ムの歴史を辿り、ロールプレイがどのようにゲームに取り入れられていったのかを纏めた。
ロールプレイが遊びの一要素であることは、ロジェ・カイヨワによる遊びの四分類でミミ
クリ(模倣)としても提唱されている。しかし、コンピュータゲームにおいては、一口に
ロールプレイと言っても、媒体やシステムの違いによって、プレイヤーの関わり具合は大
きく異なっている。例えばコンピュータの処理能力や他のプレイヤーの存在の有無により、
どこまで自由にキャラクターを操ることが出来るのかが変わってくるためである。
次に、これらのゲームとの比較を加えた上で、明らかになったゲームプレイヤーとキャ
ラクターの関係についてシナリオや画面視点の問題に触れて考察した。ロールプレイを主
眼にしたゲームでは、いかに主人公とプレイヤーの同一化がなされようとしてきたのか、
あるいはプレイヤーはどこまでキャラクターになりきることができるのかという点が注目
されがちである。実際、非オンラインのコンピュータゲームは、他プレイヤーが存在せず、
プレイヤーとキャラクターの乖離が最も起こり易いと考えられ、これを解消しようとする
試みがなされた例もある。一方で、キャラクターとプレイヤーに距離を置いて見ている点
についても述べた。役割演技の遊びには、キャラクターを演じる「ごっこ遊び」的な面と
「人形遊び」的な面があると言える。
その結果、ロールプレイとは、プレイヤーが主人公に自らを重ね合わせ、感情移入する
ものとは限らないということが分かった。そして、プレイヤーとキャラクターとは、キャ
ラクターを通して物語を受容しようとする動きなのではないだろうかということだ。それ
は物語を経験するのではなく創るという感覚である。「ごっこ遊び」も「人形遊び」も「お
話を創る遊び」であるという点は同一である。オンラインゲームのプレイヤーが、出演者
であると同時に観客であるといわれるのもそのためだ。プレイヤーが求めているのは主人
公との同一化というよりも、物語への関わりなのである。
4
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
メディア社会の中のフォトジャーナリズム
加藤
雄司
ある報道を人々により現実的に伝えるために、報道写真は登場したと言われる。そして、
「戦争の世紀」とも呼ばれる 20 世紀、戦争写真の隆盛とともに、報道写真は発展を遂げた。
批評家のスーザン・ソンタグは、1979 年に著した『写真論』
(近藤耕一訳、晶文社)におい
て、写真の特性と報道写真と現実との関係性について整理した上で、報道写真の現代社会
の中でのはたらきと、人々に与える影響について述べている。本稿では、この『写真論』
が発表された後の社会の変化を整理し、報道写真を取りまく状況がどのように変化し、ま
た、報道写真のあり方がどのように変化したのかを論じる。
まずは、
『写真論』の主張を整理する。本稿では、ソンタグの主張を三つ示す必要がある。
一つ目は、写真は、報道の現実性を高めるはたらきを確かに有しているが、それは決して
現実そのものではないというものである。二つ目は、報道写真は人々の良心を喚起し、人々
を世界各地で起きている悲惨な出来事に注目させるというはたらきを有しているというも
のである。そして三つ目は、大量に映像が消費される現代社会では、人々は視界に映し出
される大量の映像によって、現実を正しく理解することができなくなってしまうという主
張である。
そして、『写真論』が発表された後の社会の変化とは、ポストモダンの出現である。この
社会では、記号化された情報は、現実の表象ではなく、オリジナルのないコピーである「シ
ミュラークル」と見なされる。この場合、報道写真が表しているものも、現実の表象では
なく「シミュラークル」となってしまう。報道写真のはたらきが、現実を伝え、その現実
に関心を抱かせ、良心を刺激することであるとするならば、このはたらきの第一段階から
躓くことになる。
また、報道写真の良心を喚起するというはたらきについても、問題がある。それは、人々
は衝撃的な映像を何度も見せられると、そのような映像に対して麻痺や慣れが生じてしま
うためである。そのため、大量に映像が消費される現代社会では、このはたらきも機能し
にくいと述べることができる。
しかし、報道写真は、そのはたらきが機能しにくい現代社会であっても、私たちの周り
に溢れかえっている。この事実は、
「社会には消費者が見たいと感じる映像のみが存在して
いる」という、ポストモダンのシステムに基づいて説明すると、私たちの中に「衝撃を与
えてくれる報道写真を見て、心を痛めたい、同情したい」という欲望があると考えられる。
つまり、現代社会の中で、報道写真が消費され続けている要因のひとつとして、人々の衝
撃的な写真を求めているという欲望を挙げることができるのである。
5
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
セバスチャン・サルガドの静かな抵抗
杵鞭
梓
セバスチャン・サルガドは経済を学び、ブラジル大蔵相勤務、国際コーヒー機関勤務と
いう経歴を持ち、1973 年に写真家としての活動を開始してから、世界各国を巡り様々な問
題を撮影してきた国際的写真家であり、現在代表的な報道写真家の一人である。彼の作品
は、たとえそれが悲惨な状況にある人々を撮影したものであっても、見るものに美しいと
いう印象を与える。なぜ彼は、このように美しいとされる写真を撮るに至ったのか。また、
彼が写真を撮る目的について考えた。
第 1 章では、
『ライフ』という写真週刊誌の終焉をフォト・ジャーナリズムの歴史におけ
る大きな転機ととらえ、その『ライフ』が休刊となった 1972 年までの流れを明らかにした。
フォト・ジャーナリズムは戦争のプロパガンダとしての役割を果たし 1950 から 60 年代に
かけて絶頂期を迎え、テレビという新たなメディアの普及、また写真がそれまでのように
はっきりと善悪をとらえることができなくなってくるに従って失速していった。
そしてその勢いが収まったところからスタートしていくサルガドの写真家としての姿勢
を考えるために、第 2 章ではユージン・スミスとの比較を行った。スミスは『ライフ』時
代に活躍した写真家であるが、その写真に見られるヒューマニズムや、騒々しいフォト・
ジャーナリズムへの抵抗という点でサルガドと類似しており、表現者として自身を位置づ
けることに極端なまでのこだわりがあったものの、客観的にあるべきとされていたフォ
ト・ジャーナリズムに主観的なまなざしを持ち込み、サルガドを含めた新しい時代の写真
家の先陣を切っていたのである。
続く第 3 章では、サルガドがブラジル出身の写真家であるという点に注目し、新たなフ
ォト・ジャーナリズムの流れにおける第三世界の写真家について考えた。彼らは主観的ま
なざしで世界を見つめ、それまでの見るものと見られるものとが固定されていた記録の構
図を打ち壊している。報道写真では、悲惨な状況にいる人々は、同情すべきものとしてそ
の悲惨さが強調されるような写真が伝えられるが、彼の写真に見られる美しさは被写体に
対する尊敬の念の表れであり、必要以上に被写体を貶めるフォト・ジャーナリズムに対す
る抵抗ということができる。
第 4 章ではサルガドの作品を時代順に追い彼の考えを追求した。彼の写真に対する取り
組みは、自分自身のルーツを探るラテン・アメリカの撮影に始まり、そして国や文化によ
って妨げられることのない人類の共通基盤を写し出すことにつながり、そして現在、彼は
『GENESIS』というプロジェクトにおいてすべての動植物を含む地球に存在するものの共
通基盤を求めて撮影を行っている。写真家として、また経済学者として、情報と経済のグ
ローバリゼーションについて考え、またその写真を見るものに考えさせることが彼の目的
であり、騒々しく一方的なジャーナリズムに対する静かな抵抗であるといえるのである。
6
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
亀山千広論
相楽
紘子
日本映画は今、大変な盛り上がりをみせている。日本映画製作者連盟の調べによると、
2006 年の日本映画の興行収入が、外国映画を上回ることが確実となっている。これは、1985
年以来、21 年ぶりの快挙である。日本の映画業界が活況を呈している中、2005 年の日本映
画の興行収入の全体の内の 23%のシェアを占めていたのが映画事業局長の亀山千広率いる
フジテレビである。
本論文では現在の日本映画の盛り上がりには、フジテレビ、ひいてはフジテレビ映画事
業局長である亀山千広が関わっているという想定を立て、その視点から日本映画の興隆の
要因を考察した。その際に映画は文化的側面と産業的側面の 2 つがあるが本論では産業的
側面から日本映画の盛り上がりの背景をみていった。
第 1 章では、現在の日本映画をみていく前に、日本映画が 1957 年から 1960 年を頂点と
して、そこから観客動員数がどのようにして激減していくかまでを辿った。そこから日本
映画の衰退の原因は観客を無視した映画製作や映画を産業として成立させることができる
プロデューサーが不足していたことなどが導き出された。第 2 章では、亀山千広という人
物を探り、彼の映画プロデューサーとしての地位を確立していくこととなる、『踊る大捜査
線』という作品について掘り下げていった。第 3 章では、亀山のマーケティングを重視し
た映画製作が日本映画にどのような影響を与えたかを論じていった。
亀山は自分がサラリーマンであると自覚し、テレビドラマのプロデューサー時代、自社
の利益をあげるために激しい視聴率競争を戦い抜いてきた。その結果辿りついた亀山の観
客を主体とした製作方法は、観客を置き去りにしがちであった当時の日本映画業界の中で
際立つ存在であった。全国に広がっていたメディア・コンプレックスも絶大な効力を発揮
し、亀山の作品はメガヒットを記録した。マーケティングを中心とした映画作りや、他の
メディアと連動した宣伝は、日本映画の一つのモデルとなり、その後続々と他の映画製作
会社がこれに続き、その手法は確立された。彼の映画を産業として捉える作品作りは、他
のプロデューサーから批判されることも多々あるが、亀山の実績から日本映画を産業とし
て成立させることができることを証明した。
映画市場の有望性が認識され、映画関係以外の会社でも比較的簡単に参加できる製作委
員会という方式が確立した今、テレビ局以外の広告会社や新聞社、IT 企業なども映画製作
へ参入し、映画製作のマーケットはますます拡大している。つまり、亀山がリードしなが
らシステムを整備し、そこに続く映画業界全体で活発な動きを見せているため、日本映画
は今盛り上がりを見せているのである。映画をビジネスとして成立させ、そして今なおリ
ードし続けている亀山千広は日本映画業界において欠かせない存在になっている。
7
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
食べる人々−山田詠美論−
佐久間
夏美
人間の生活の中で、食事は、単に空腹を満たすことを目的とするばかりでなく、人間
関係を表すものでもある。本論文では、山田詠美の作品を中心に、小説作品における、
食事を通した人間関係を明らかにしていく。山田は 1987 年、『ベッドタイムアイズ』で
作家デビューし、主に男女の恋愛物語を描く作家として知られている。しかし、本論文
では、山田詠美の作品内の食事描写を通して、恋愛以外の人間関係を探っていく。
第一章では、食事が表す心理状態や人間関係を示した上で、山田詠美作品との比較の
ために、彼女の文壇登場とほぼ同時期に発表された、吉本ばなな『キッチン』(1987)、村
上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1988)、村上龍『村上龍料理小
説集』(1987)を取り上げ、各作品の中で食事の果たす役割を考察した。これらの作品では、
食に関する描写は、各作家がそれぞれの作品に共通して持つ「世界観」や「物語構造」
といったものを構築していくための道具として用いられていた。一方の山田詠美の作品
においては、登場人物達の人間関係の表象として食が機能している。
続く第二章では、山田詠美『解凍』(1998)、『MENU』(2002)、『間食』(2005)の三作
品を取り上げた。これらの作品に共通して登場する「おやつ」は、主人公の男性達にと
って「移行対象」として機能していた。そして、この「移行対象」としてのおやつを手
放せない主人公達は、内的世界に止まることに執着し、不毛な「死」の世界へと導かれ
ていく。
第三章では、山田詠美の初期作品である『ハーレムワールド』(1987)と、後期作品であ
りながら物語内容に共通点の多い『アニマル・ロジック』(1998)の二作品の食に関する描
写を通して、主人公の女性達の他者との関わり方を比較した。この二作品では、食を通
して、主人公と関わる人間達が、内的世界に住む者と、外的世界に住む他者とに二分さ
れることが見て取れる。
『ハーレムワールド』では、主人公サユリは、他者の一切存在し
ない、孤独な世界へと辿り着くことで、自身を呪縛していた、内的世界から解放される。
続く『アニマル・ロジック』では、他者の一切存在しない世界で生きていた主人公ヤス
ミンが、食を通して、黒人少年ソウルという他者を受け入れ、その結果内的世界から解
放されると同時に、肉体は死んでも、他者の意識の中で永続性を持って生き続けること
を可能にした。
山田詠美作品における食の描写から、登場人物の人間関係を考察してきたが、そこか
ら分かるのは、他者との関わりの重要性である。内的世界に生き続け、他者と関わるこ
とを拒絶する人間は、成熟できず「死」を迎えるしかないが、内的世界の呪縛から解放
され、他者を受け入れた人間には、希望のある生が提示されのである。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
草間彌生――美術史の中の自画像
白井
奈緒子
草間彌生について書かれた近年の美術批評を読んでみたとき、草間の精神病と関連づけ
て作品の解釈を行うものが大半であることに気づいた。草間自身も精神病との闘いが創造
力の源泉であると述べる一方で、美術史上のモダニストの立場に自身を位置づけ、精神病
者と美術史上の先駆者という二つの自画像を強調している。本論文ではそれら以外の第三
の自画像の存在を指摘し、新たな草間彌生像を明らかにすることを目的とした。
第一章では草間の年譜と作品を追った。草間を評価するとき一つの論点への固執のため
に重層的な解釈ができず、全体像の把握ができていないことが多い。もしくは全体像を求
めるあまりに作品を断続的、断片的に羅列して終わっていることもある。一章で重要な作
品を網羅し従来の草間研究の不足点を確認することで、二章以降でのこうした失敗を防ぐ
ことができた。
第二章では精神病を中心的な概念として展開した場合、どのように作品が論じられるか
を検討した。その結果、精神病から全作品を説明しようとしたとき、とりわけ近年の草間
の作品においては無理が生じることが確認できた。近年の作品には上昇的な空間の広がり
が見られ、精神病の集積的な反復行為ということでは説明ができないのである。
第三章では病理学的アプローチと異なる客観的な観点から草間を考察することを目的と
し、美術史の流れの中に彼女を位置づけ作品を検討した。草間の作品は身体との関係性が
非常に強く、そのために草間の言い方を借りれば精神的な要素も含むことになっていると
分かった。ゆえに、草間の作品はどの美術史上の概念のカテゴリーの中にも納まりきらな
いのである。
第四章では精神病者、美術史上の先駆者ということ以外の第三の自画像を見出し、草間
の独自性がどこにあるのか結論づけることを目的とした。芸術作品以外の自画像の提示の
分析により、草間の作品と草間の身体や精神といった自伝的な要素が強力に結びついた関
係にあることが指摘できた。また、純粋な作品自体の分析では作品の奥行きと表面の表現
の葛藤から上昇的な空間の追及へという変化と、身体性の緩和、昇華という変化が過去か
ら現在へ向かって起こっていると言えた。
第五章では最新の個展「KUSAMATRIX クサマトリックス」に焦点をあて、精神病から
解放された自画像の提示を指摘し、その到達点を明らかにした。
以上のことから私は草間作品の本質は精神病からの回復の過程を表現しているものだと
考えた。精神病者であることと、美術史上の先駆者であることという表向きの二つの自画
像の提示をしつつも、その影で自身の純粋な制作を追及して精神病の克服の過程という自
画像も提示する。このような三つの自画像の提示を複合的に行うのが草間の作品の独自性
であり、重層的な構造である。
9
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
ラップ・ミュージックの変遷 ─「世界の音楽」のこれから
高井
麻衣
MC(マスタ−・オブ・セレモニー)、DJ、ブレイクダンス、グラフィティという四大要
素によって構成されるヒップホップ文化。このうち、MC と DJ によって作られる音楽をラ
ップ・ミュージックと呼ぶ。今や世界各国に広まったラップだが、はじめはアメリカの黒
人コミュニティ、ゲットーで起こった事象にすぎなかった。この小さなムーブメントがい
かにして広まっていったのか。本論文では、その変遷とともに、ラップの抱える問題と未
来について考察した。
1970 年代半ば、10 代の若者たちの間で流行したブレイクダンス。第一章では、このダン
スを楽しみたいという観客の声に応えた3人の DJ を、それぞれのアプローチ方法とともに
紹介し、ヒップホップ文化の創成を確認した。DJ は自らの独自性確立のために MC を起用
するようになり、ラップが誕生。レコードは人気を博し、ラップはこれまでの音楽価値の
根幹を揺るがすこととなった。
‘80 年代、乱暴な言葉を用いた攻撃的な歌詞内容が特徴のギャングスタ・ラップが登場し
た。この出来事はニューヨークで生まれたラップをアメリカ全土に浸透させる大きな原動
力となったが、その過激さゆえにネガティブな側面ばかりが取り沙汰されるようになった。
第二章ではギャングスタ・ラップの誕生が社会的背景に大きく起因していることを、歴史
的事実をもとに検証し、それが音楽業界に与えた影響を探った。
第三章では「商品」としてのラップの姿に注目した。‘90 年代に入り、ラップは世界各国
で聴かれるようになったが、その反面、より売れることを意識した楽曲も多くみられるよ
うになった。’80 年代と 2000 年代の楽曲を比較しながら、
「変化」と「商品化」との違いを
指摘した。また「変化」の必然性を示すため、日本におけるラップも取り上げた。
以上を踏まえた上で、最終章ではラップ・ミュージックの将来性について論じた。まず
ラップを構成する要素を歌詞部分と音楽部分とに類別し、それぞれについて重要と考えら
れるものを、楽曲やアーティストを示しながら分析した。歌詞部分における特徴は、その
メッセージ性にある。ラップは人種や地位や年齢に捕われることなく、誰もがより容易に
自己主張をすることのできるツールなのであり、そこに用いられるテーマも多様で、非常
に柔軟である。そして、音楽部分は踊ることを前提として作られたものでなければならな
い。ラップが生まれた当初同様、既存の楽曲を繋ぎ合わせたサンプリングという手法が現
在でも主流だが、近年はオリジナルの楽曲を制作するラッパーも増え、その魅力を一層深
めている。
ラップの人気を一時の現象とみる専門家も少なくない。しかし、誰にとっても平等な「世
界の音楽」として、ラップはこれからも時代や世相を色濃く反映しながら、我々の心情に
強く訴えかけていくだろう。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
推理漫画に見る誤読と誘導
田邉
智章
漫画表現は、多様化してきている。作者独自のものから、読者・作者の両方に共通に漫
画表現として知られるものまであり、その表現はさまざまである。本論では、漫画表現の
中でも特に、読者が誤読してしまう表現や、作者が読者を誘導するときにどのような表現
を使い、どう読ませたいのかを題材とした。それによって、読者が普段は何気なく読んで
いる表現が、作者の意図通りに読ませるためにどのように使われているのかを考察した。
第一章では、現在の漫画の定義や表現だと考えられているものを調べた。
第一節では、実際に漫画を読んでいった際に、その定義では問題があった部分などを考
え、定義の曖昧さや逆に少々、狭義になっている部分について明らかにした。
第二節では、細かな漫画表現とその読み方について注目した。これも実際に漫画の中で
どんなときに適用されるのかを見ていくことで、表現の効果を考察した。また、この場合
は補足として、漫画表現について細かく考えた部分が多くなっている。これは、ページを
めくることが前提という考えに対して、読み返す表現があるのではないか、などの補足を
加えるなど、第一節と同じように、狭義になっている部分を主な対象としている。
第二章では、推理漫画を利用して、読者の誘導について考察した。
第一節では、キャラクター性を使った読者の誘導について注目した。漫画において、ス
トーリーと同様に、大きな位置を占めるキャラクターについて考え、キャラクターの成立
が読者にどのような影響を与えるのかを示した。
第二節では、コマや積み重ねを使った読者の誘導について注目した。この積み重ねには
伏線と呼ばれるものや、ストーリーなどの要素が含まれる。積み重ねにはコマの扱い方が
関わることが多い。第三節の台詞と違う部分で使われていたので、こちらに分類した。ま
た、読者の視線の誘導だけでもないので、コマとして分けている。
第三節では、台詞や視線を使った読者の誘導について注目した。台詞による誘導は、誘
導の上で重要なものだが、コマなどとは違い、漫画以外の作品でも多く見られるため、こ
こに分類している。ここでは、第二節で考察したコマについての表現と組み合わせて、ど
のように台詞が読者を誘導するのかを考えた。視線とは、読者の視線がどのように動くの
か、ということである。読者の視線の動きも、作者によって考えられていることを示した。
以上のキャラクター、コマ、積み重ね(伏線・ストーリー)、台詞、視線などによって、
作者が読者を、作者の意図通りに読ませることが出来ることを考察した。これらの表現を、
作者の読ませたいようにずらすことによって、読者を誘導する表現が生まれることと、ず
らさない部分を用意して、そこを足場にすることで、その誘導が成立することを示した。
ただし、本論では、読者の考えや視線をずらすための足場として、もっとも適した表現
は何か、という点は考察の対象外である。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
三谷幸喜論
玉木
麻梨
三谷幸喜は現在日本で活躍している脚本家の一人である。彼の生み出す作品には、
「笑い」
の要素が散りばめられており、自分自身も喜劇作家であると自負している。三谷は 1983 年
に自らの劇団「東京サンシャインボーイズ」を旗上げし、以降数々の作品を発表していく。
外国のシチュエーション・コメディを手本とした三谷の芝居は、それまでの演劇界の中で
は異色であった。しかし、当時舞台には馴染みのなかった人々にも理解しやすい三谷の作
品は徐々に評価され、1990 年に発表した『12人の優しい日本人』で三谷はその名を確か
なものとする。こうして着実に世間の支持を得た三谷の活躍ぶりは演劇界にとどまらない
ものとなり、1994 年に劇団を活動休止にしたのちも、その勢いはおとろえず、今や映画や
テレビドラマの脚本家としても活躍している。本論文では、こうした三谷作品の特徴を分
析し、笑いを通して生み出す世界を考察することを目的とした。
第一章では、「笑い」についてまとめた。本論文で三谷の喜劇における笑いを論じるにあ
たって、根本的に笑いとはどのような性質を持ち、いかなるときに発生するのかを述べて
おかなければならないと考えたためである。また、そのなかで喜劇における笑いには、観
客と劇中人物の距離関係が重要であることが明らかになった。
第二章では、三谷の喜劇作品の中から 1995 年に発表された『君となら〜Nobody
But
Else
You』を取り上げ分析した。作品中で使われている「笑い」を生み出す要素や彼の作
品にいくつか共通して見られる項目を取り上げて、既存の喜劇的手法と比較し、第一章で
述べた笑いを生み出すための観客と舞台の距離についても考慮しつつ、劇中でなぜ笑いが
生じるのか、三谷が使う笑いを起こさせるテクニックとは何なのかを探った。
第三章では、三谷作品で用いられる「嘘」という要素に注目した。三谷作品で「嘘」が
笑いを生み出す要素として用いられ、話の展開に使われている作品は多くあり、三谷作品
を分析するには重要な要素であると考えたからである。こうして三谷は「嘘」を使って観
客が舞台を支配するまたは舞台が観客を支配するという、観客と舞台の位置関係を作り、
観客を魅了していることを指摘した。また、三谷が頻繁に用いる「群集劇」という形式や
「当て書き」による制作方法にも注目した。
第四章では、演劇の脚本家として以外の三谷の姿について述べた。映画では、三谷の作
品に影響を与えているという60年代からのアメリカ映画やそれらを作った監督、また、
コメディの脚本家を取り上げ、喜劇作家としての三谷にどのような影響を与えているのか
を明らかにしていった。また、テレビドラマの脚本家としての姿や、ウェルメイド・プレ
イとしての評価について指摘した。
以上のように三谷作品を分析していき、笑いを通して表現する姿やその中での三谷独自
の技法や特徴を見出せたように思う。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
向田邦子作品についての考察
傳川
麻美
向田邦子はテレビドラマの創成期から昭和の終わりにかけて数々のテレビドラマの脚本
を書いた。そのほとんどが家族の日常を描いた、いわゆるホームドラマと呼ばれるもので
あり、それらの作品は多くの視聴者の心をつかんだ。また向田の作品は彼女の死後もたび
たび映像化され、多くの支持を集めている。ではこのように長きにわたって視聴者の心を
つかむ向田の作品とはどんなものなのか。向田の作品を一つずつ取り上げていくことで考
察した。
向田のテレビドラマ作品は昭和52年を一つの転換点として、それ以前を前期、それ以
後を後期と分けることができると考えられる。前期の特徴は『寺内貫太郎一家』に代表さ
れるような涙あり笑いありのほのぼのとした作品であるということである。ここではしば
しば登場人物が喜劇的に、誇張されて描かれる。しかし後期に入るとこの作風は一転する。
それまでとは異なり人間の陰の部分に光をあてた苦味のある作品が次々と発表され、そこ
では家族の恥の部分があらわになる。この変化は、当時の社会状況を反映したテレビドラ
マ全体の流れに向田も乗ったためであるが、それだけではなく、向田自身の問題とも深く
関わっていると考えられる。
そして、こうした作風の変化にともなうように、ナレーションが多用されはじめる。こ
れは、作品がシリアスなものへと変わり、映像では表現しきれない登場人物たちの心情を、
言葉のもつ広がりによって表現するために必要であった。しかしその一方で映像を効果的
に利用し物語を印象づけようとするテクニックもみられる。
「神は細部に宿る」という言葉を好んでいた向田は、「ディテールが豊かでないと作品は
やせたものになってしまう」という考えをもっていた。そのため向田の作品には、細かな
日常の描写へのこだわりが強く感じられる。その描写は普段何気なく目にしているもので
あるが、それを拾い上げ、そこに光を当ててみせたところに向田作品の特質があると考え
られる。それは、ときには、女性特有ともいえる鋭い視点から描かれた日常であり、そう
した描写は作品世界にリアリティを与えている。
また日常の描写と同様に、人間の心理描写も細かく、そうした描写の積み重ねによって、
人間の深みを描きだしている。さらに人間とはどういうものなのかを抽象的にではなく、
常に具体的な事柄を通して語っている。
以上のように向田邦子の作品はある点を境にシリアスなものへと傾き、より人間の深い
部分へと迫るようになっていった。しかしどの作品においても向田特有の細かな日常描写
が見られ、それは作品世界を支え、リアリティを与えている。そしてそのように細かく描
かれた家族の日常を通して、人間というのはどんなものかを具体的に描きだした点が向田
邦子作品の大きな特徴であり、また、多くの視聴者をひきつけた理由であった。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
東野圭吾小説研究―『白夜行』における「白夜」という空間についての考察―
寺崎
可奈子
『白夜行』は、質屋殺しをきっかけに、主人公の桐原亮司と唐沢雪穂が犯罪行為を重ね
ていく様を描いた物語である。その結果、彼らは「白夜」という空間の中で生きることと
なる。本論文では、『白夜行』の舞台である大阪、東京といった都市空間やそれぞれの家庭
やそこで出会う人々の関わりに着目して、「白夜」という世界はどのような空間として設定
されているか、2 人がどのように生きているか考察した。
第 1 章では、主人公と彼らの故郷である大阪や異郷である東京、家庭環境について分析
した。まず、同じく大阪を舞台にした作品である『あの頃ぼくらはアホでした』と比較す
ることで、『白夜行』における大阪が暗く陰鬱な世界であることを明らかにした。また、こ
の作品がそのような暗さを帯びた大阪を舞台としていることを踏まえ、彼らの家庭や職場
について分析した。亮司にとっての家は安らぎの空間でなく、職場は商売のための手段と
して利用されている。一方、雪穂にとっての家や職場は本来の自分の姿を偽るための手段
として利用されている。またそれぞれの家族関係は崩壊していた。
第 2 章では、主人公と犯罪との関わりを分析した。2 人の犯罪行為からは、亮司が雪穂を
支えるという 2 人の在り方が明らかになった。
しかし 2 人が協力して行う犯罪が多いため、
犯罪は亮司から雪穂への一方的な想いの表れではなく、2 人の互いの協力の証であると言え
る。また、『白夜行』と同様の構成で、続編であるとも考えられる『幻夜』の主人公である
水原雅也、新海美冬と 2 人を比較することで、2 人の犯罪行為が互いの支えとなることを明
確にした。雪穂については、この作品の中でもキーワードとなっている『風と共に去りぬ』
のスカーレット・オハラとも比較し、彼女が貧しい生活から抜け出すために上品さを身につ
け、金を稼ぐことに執着していることを確証させた。
第 3 章では、主人公と「暗い空間」、
「明るい空間」との関わりを分析した。2 人とって「暗
い空間」との関わりは犯罪空間に身を委ねることである。一方、「明るい空間」との関わり
は、亮司の場合は友人の園村友彦と中島弘恵との関わりであり、雪穂の場合はブティック
R&Y という職場との関わりである。またそれぞれの存在が互いにとっての「明るい空間」
として設定されている。家族関係が崩壊し、自己不安定な状態の 2 人は互いの存在を生き
る希望とするのである。
これらのことを総合的に判断すると、2 人にとっての「白夜」という空間は、犯罪という
「暗い空間」であり、生きる希望を見出せる「明るい空間」でもある。彼らの、どちらか
一方の世界に属することないという姿勢が昼でもなく夜でもない「白夜」という不明瞭な
性質を持つ空間に例えられているのである。このような両方の空間に身を委ねながら、彼
らは互いに助け合いながら生きていたのである。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
ファンタジー作品におけるディテールの描写
中嶋
蘭菜
本論文の目的は、ファンタジー作品のディテールの描写の分析をすることで、ファンタ
ジーの魅力を解き明かしていくことである。ここでいうディテールの描写とは、風景の描
写や、人物の特徴の描写などの、ストーリーとは独立した部分を指す。本論文ではまず一
章で、ファンタジー作品について大雑把に定義し、二章と三章でそれぞれ静の描写と動の
描写について分析していった。
第一章では、ファンタジーについて定義したあと、ファンタジー作品を5つに分類した。
トールキンの言葉を借りると、ファンタジーとは、「『現実に存在しない』だけでなく、こ
の第一世界ではまったく見られない、あるいは見られないと思われているもののイメージ」
のことである。分類は以下の5つである。①現実世界にファンタジーが入り込んでくるも
の(ファンタジー侵入型)、②現実をもとにした世界だが、当たり前にファンタジーが存在し
ているもの(擬似現実型)、③異世界が舞台だが、物理法則は現実世界に近いもの(秩序異世
界型)、④異世界が舞台で、かつ物理法則が違い、異法則が支配しているもの(異法則異世界
型)、⑤現実世界と異世界が共存しているもの(共存型)。
二章と三章では、ディテールの描写を静の描写、動の描写に分け、それぞれの項目ごとに
ファンタジーの魅力について語ってきた。静の描写とは、山や海などの風景、女性の衣服
などの描写のことである。この描写の中では、ゆっくりと時が流れ、ファンタジーの世界
をゆったりと味わうことができる。静の描写には4つの描写があった。物語の輪郭を描き
出し、設定について細かく説明する
世界観描写 、物語の登場人物の容姿についての
容
姿描写 、私たちの世界に当たり前のように存在しているものが、当たり前のものとして描
かれず、新鮮なものとして描かれ、または、よく知っているものがまったく別の姿をとっ
て現れてくる
異化描写 、ファンタジー特有の現象のうちで、静かで美しい
静の神秘描
写 。動の描写とは、戦闘や真相暴露などの息もつかせぬ展開、動きのある描写のことであ
る。この描写の中では、 時間の圧縮
とでも言うべき現象が起こり、しばしば感じている
時間の流れが変わってしまう。動の描写には、戦闘シーンの描写である
神秘描写とは逆に、豪華で動きをともなう
戦闘描写 、静の
動の神秘描写 、の二つがあった。
以上のようにディテールの描写について見てきた。ファンタジー作品では、世界観描写
と容姿描写で土台を作ったうえで、異化描写で新鮮な感動を、静と動の神秘描写で幻想的
な感動を、戦闘描写で時間を忘れさせ、引き込まれる感覚を読者に与えていく。
本論文では主に六つのディテールの描写について見てきたが、これでファンタジー作品
の魅力の全てを語りつくせたわけではない。それぞれの描写についてもっと細かく分析す
る余地があるし、ファンタジー作品にはまだここで取り上げていない多くの描写がある。
とりあえず本論文では、ファンタジー作品の輪郭を大雑把に描き出すことができたが、今
後さらに発展させていくための余地が残った。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
よしながふみ作品におけるコミュニケーションのあり方について
中山
舞
よしながふみは 1971 年東京都出身の女性マンガ家である。同人誌活動を経てボーイズラ
ブ誌でデビューしたよしながは、ボーイズラブにとどまらず幅広い内容の作品を発表し、
現在『フラワー・オブ・ライフ』(2004 年〜)と『大奥』(2004 年〜)の 2 作品を連載中
である。
よしながの作品を特徴付けるのは、「少女マンガらしさ」からの逸脱とそれの継承という
点である。萩尾望都、大島弓子、竹宮惠子といった 24 年組の少女マンガ家たちが成立させ
た少女マンガの特徴とは、表現対象としての「内面」の発見とその表現方法の確立という
ところにある。そこでは人物の内面を、コマ割りやネームを重層的に表現するという方法
を用いて描いているが、よしながの作品はコマ割りもネームも平面的である。この点にお
いてよしながの作品は「少女マンガらしさ」から逸脱しているが、しかしそれらを用いず
とも人物の仕草や表情で、24 年組の作品と同じく人物の内面を描いているという点では、
それを継承しているともいえる。
このような表現活動を行うよしながが描くものは、マンガ評論家の夏目房之介の言を借
りて表すと「受け入れる」ということである。周囲の状況や現実、過去といったものに対
し反発や抵抗をするのではなく、事実の裏にある必然性や根拠といったものを見出して納
得し「受け入れる」という姿や過程が、よしながの表現するところのものである。
このような状況を描くためによしながは、個々の表現物に対してそれぞれ一定の距離を
持って表現をしていると言える。このことはよしながの画面構成が平面的であるというこ
とと関係している。平面的な画面構成は特定のコマやセリフに読者の視線が集中すること
を避けるという効果を持ち、そのことは同時に読者のキャラクターへの視線も均等にする
ということに繋がっている。だから各キャラクターの行動の裏にある彼らの心境や状況と
いった必然性や根拠を作品に反映しやすく、「受け入れる」という過程を表現しうるのだと
言える。
このことはまた、ポストモダン的な特徴とも言える。1970 年以降のポストモダンの時代
において、人々は社会全体で通用する価値観や規範をなくし、「人それぞれ」という気運が
高まった。そのような状況を描く手段としても、各キャラクターを、たとえ優秀なキャラ
クターと無能なキャラクター同士であっても同じ程度の重要性を持たせて表現するよしな
がの平面的な画面構成は有効である。また、「人それぞれ」という時代において誰も他人の
存在や方法を否定する判断基準を持たないからこそ、よしながは「受け入れる」という執
着地点に行き着いたとも言える。それは、ポストモダンの時代を「自分の生きる時代」と
して祝福し愛そうとするよしながが、自身の作品に与えたコミュニケーションのあり方へ
のひとつの答えなのではないか。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
バスケットボールシューズのブランド性について
堂上
堅太郎
井上雄彦の『スラムダンク』
(1991〜96 年、週刊少年ジャンプ連載)は、バスケットマン
ガであり、『スラムダンク』のキャラクターの履くバスケットボールシューズ(通称バッシ
ュ)はそのキャラクターごとに特定することができる。それらのバッシュのブランドとモ
デルが『スラムダンク』においてどのようなことを意味しているのかということをバッシ
ュのブランドの歴史や知識から検証する。
80 年代において三井の履くアシックスというブランドと赤木と宮城の履くコンバースが
老舗ブランドであり、桜木と流川の履くナイキが比較的若いブランドであり弱小ブランド
であった。しかし 1980 年代後期から 90 年代にかけて桜木と流川の履くエアジョーダンと
いうモデルが 84 年に誕生し、80 年代後期に熱狂的な人気を博することを契機に、ナイキは
圧倒的なシェアと人気を短期間に老舗ブランドから奪う。エアジョーダンはそのカラーリ
ングと新人のマイケル・ジョーダンのためバッシュという点で前例のないバッシュであっ
た。
このような 80 年代から 90 年代にかけてのバッシュのブランドの歴史的な背景から『ス
ラムダンク』の登場人物のキャラクター性を説明するということを試み、登場人物のキャ
ラクター性とバッシュのブランドイメージとが一致する部分があった。また『スラムダン
ク』においてバッシュからキャラクター性を理解するができ、バッシュとキャラクター性
には関係があることが分かった。
次にキャラクター同士の関係について見ると、主人公の桜木のいる湘北高校の上級生と下
級生の上下関係が成り立っていない。上級生は老舗ブランドを履き、1 年生はナイキを履い
ている。80 年代から 90 年代にかけてナイキが他の老舗ブランドを押しのけて圧倒的にシェ
アを拡大していき、90 年代に確固として地位を築くなか、1 年生がシェアを持ち人気のあ
るナイキを履き、2,3 年生が老舗ブランドのバッシュを履く。90 年代のブランドのシェア
の上下関係と学年の上下関係が逆転しているということから、湘北高校において上下関係
が成り立っていないのではないかと考えた。
次に主人公の桜木花道の履く靴に焦点を絞り、体育館シューズと 1 足目のバッシュから 2
足目のバッシュを買うという過程が、桜木のキャラクター性とバッシュから喚起されるキ
ャラクター性が一致する過程であるということを考えた。
1980 年代後期から 90 年代にかけてのバッシュのブランドイメージとブランド間の関係
を把握することで、『スラムダンク』におけるキャラクター性の理解やキャラクター同士の
上下関係を説明することにつながると考えた。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
よしもとばななに見る少女漫画らしさ
村上
優子
よしもとばななの作品は少女漫画のようだと言われることが多い。そこで彼女が読んで
いたと考えられる時期の少女漫画と比較し、その相違点を見ていきながら、よしもと作品
の特徴や描こうとしているものの本質を探っていった。第1章では、よしもとや 24 年組と
呼ばれる少女漫画家の評価や彼女らの社会環境について簡単に紹介し、第2章から第4章
にかけては、よしもとの作品でよく扱われているテーマを定め、そのテーマごとの特徴や、
そのテーマで何を表現しようとしているのかを考察した。その際、同じテーマを用いてい
る少女漫画と比較し、よしもと独自の点や影響を受けている点も探っていった。
第2章では少女漫画と共通するテーマである恋愛と、登場人物の性別について見ていっ
た。まず「少女漫画らしい」恋愛を分析し、よしもとの作品で描かれている部分を取り上
げた。さらに、よしもとが描く恋愛の特徴として、不倫や同性愛などの「複雑な関係」と、
瞬間的に相手と情報を共通しあう「知っている」関係を指摘した。また性別の問題は、よ
しもとの登場人物の中性的な部分をふまえたうえで、作品の中で当時の女性のあり方に疑
問を投げかけたり、男性の性転換を扱ったりしていた 24 年組と細かく比較した。育った環
境によって生じた考え方の違いはあるものの、中性的な人物の登場自体は影響を受けてい
ると考えた。
第 3 章では、メインテーマにはならないもののよく出てくる「家族」と「食」が象徴す
るものについて分析した。家族については、まず 24 年組がよく扱っていた母親との関係を
取り上げ、24 年組の作品でよく扱われる確執や不仲はよしもとの作品ではほとんど見られ
ず、個人対個人として接することは多いが、娘が愛情を受けていることはよく感じられる
書き方をしていることがわかった。その後家族全体について見ていき、その形態は非常に
多様ではあるが、母親との関係と同様に愛情で繋がっていることを重視していると考察し
た。その愛情、「あたたかさ」として「食」が用いられていることを指摘し、さらに「生き
る力」の象徴としても「食」を用いていると考察した。
最後に第 4 章では、彼女の作品のテーマとして特に欠かせないものだと考える「死」に
ついて見ていった。彼女の描く「死」の独特な点は、死と生が強く結びついていると感じ
させるところであり、そこが暗い、怖いといった一般的なイメージや、少女漫画での描き
方とは異なる点である。暗いテーマでも暗く見せないというやり方は、少女漫画の表現か
らきていると考えられる。また「擬似的死」とも言うべき経験もよく用いられ、それを経
験することによって何らかの成長をするという、「生まれ変わり」が描かれている。
これらのことから、よしもとの作品は少女漫画の影響はさまざまな面で見られてはいる
が、それをうまく自分の中に取り込んで、彼女が最も描きたいと思われる「関係の美しさ」
を表現する手助けとなっていると考えた。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
現代日本の音楽産業におけるプロデューサー〜その位置と戦略について〜
渡邊博史
1990 年代の日本音楽市場において、ヒット作を次々に送り込んで一大ムーブメントを巻
き起こしたのが全権型音楽プロデューサーという存在である。彼らは既存のプロデューサ
ーシステムの枠組みを越え、自らも歌手や楽曲のプロモーションのためにメディアの中に
登場しながら、担当歌手に対してトータルプロデュースを行い、好セールスを連発してい
った。そんな全権型音楽プロデューサーに焦点を当て、プロデューサーの活動内容、そし
て彼らの音楽業界、または担当歌手に対する位置づけと音楽を消費させるために用いた戦
略について考えたのが本論文である。
まずはプロデューサーたちが活躍した J-POP という日本の国内音楽産業における分類の
特徴についてまとめた。J-POP とはもともと様々なジャンルに分けられていた異なる性質
をもつ音楽をひとまとめにしたものであり、80 年代後半に誕生した新しい概念である。洋
楽風な国産音楽である J-POP は日本人が持っていた欧米に対する憧れを叶える手助けとも
なった。そのなかで音楽番組やカラオケ、歌手のキャラクターなど幅広い観点からのプロ
モーションを利用して音楽作品を聴衆に消費させようと裏方として活躍していたのがプロ
デューサーという役職にあたる人物たちで、考察をしていくとプロデューサーそれぞれの
プロデュース内容に異なる色が見えてきた。彼らが表舞台に登場するきっかけとなったの
が小室哲哉である。TM ネットワークのメンバーとして音楽活動をしていた経験を持つ彼は
多くの歌手に対するトータルプロデュースを担当し、楽曲制作から販売促進までの指揮を
執り、多くのミリオンセールスを生みだした。また、小室と同時期にプロデューサーとし
て頭角を現した小林武史は、楽曲製作能力をもつバンドに対するアドバイザーという立場
を保ちながら互いの音楽を融合させることで彼らがヒットシンガーとなる要因を作った。
つんくは女性アイドルをデビューさせてイメージ戦略やユニット編成によって聴衆に新鮮
さを与え続け、自らがプロデュースを務める女性たちを「ファミリー」として確立させる
ことに成功した。プロデューサーのクレジットが話題を呼び、それ自体がヒット楽曲を生
む要素となったのだ。
時代に対する「先見の明」をもち、マーケティングを用いて消費者たちがどのような音
楽をどのように消費したいのか、という要求を鋭い感性で捉えて、これから何が売れるの
か、ということを正確に予測できたのがプロデューサーたちである。彼らは若者を中心と
する一般大衆が J-POP に求めていたものを感知し、大きな成功を収めることができた。人々
に幅広く受け入れられる音楽とは、プロデューサーが消費を拡大させるために意図的に作
り出した音楽とも言えるだろう。彼らは音楽市場で活躍し続けるために音楽を商品として
考えることを忘れずにいた、とも考えられる。J-POP という枠組みの中で、商品化された
音楽の流通に力を注いだのがプロデューサーという職人たちなのだ。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
バンドブームについての考察
長谷川
恭子
バンドブームは 1980 年代後半から 90 年代前半にかけて起こったブームである。このブ
ームの背景や、日本のミュージックシーンに与えた影響などをこの論文で考察した。
まず、欧米と日本のロックミュージックの歴史を比較して、バンドブームと関係が深い
日本の特徴を探った。その特徴とは社会に対する反抗精神の欠如していること、西洋コン
プレックスを持っていること、ロックを金儲けの手段として日本に持ち込んだことなどで
ある。そしてこれらの日本のロックの問題に対する諦めを乗り越えた明るさのような感覚
がバンドブームでは特徴的で、その明るさが音楽やパフォーマンスにも反映されていたと
考えられる。またそれ以外にもバンド活動をすることが容易になったこと、インディーズ
の動きが活発になったことや日本人がロックミュージックに主義主張を求めない傾向にあ
るという日本の特徴もバンドブームと関わりがあることがわかった。
第3章ではバンドブームを描いたマンガ『アイデン&ティティ』(角川文庫
みうらじゅ
1996 年)を基に、バンドブームにおけるミュージシャンとリスナーのアイデンティテ
ん
ィの在り方を考察した。バンドブームでデビューして日本のロックの現状と本物のロック
とのギャップに悩む主人公中島の台詞や歌詞をとりあげることで、バンドブームとはミュ
ージシャンのアイデンティティの崩壊が顕著になった時代だとわかった。それに対してリ
スナーは音楽の嗜好を個人のアイデンティティとして認識するようになり、それゆえにバ
ンドブームにおいてリスナーが音楽を記号として消費する傾向がますます強くなったと考
えられる。そしてそれが、『アイデン&ティティ』の主人公中島が抱えていたようなミュー
ジシャンのジレンマを強めるという結果になったと推測できる。
続く第4章では、バンドブームを支えた要因について論じた。バンドブームはテレビや
雑誌などのメディア、1980年代後半のバブルという時代背景、ニューウェーブという
新しい音楽ジャンルの登場などに支えられていたことがわかった。
第5章ではバンドブームがその後の日本に与えた影響を考察した。バンドブーム出身の
ミュージシャンの中には現在では文学や演劇など他の分野で活躍する人が多く、バンドブ
ームという足がかりを使ってミュージシャンが他のフィールドで活躍する場が与えられる
ようになったと考えられる。また、バンドブームがお笑いブームという同じエンターテイ
メントでありながらも別ジャンルのブームで再生産されているといえる。
バンドブームは第1、3章で挙げたような要因が絡み合って起こったブームだ。それら
の要因は日本独自のものであり、1980 年代の日本にはバンドブームが起こりうる材料が揃
っていたといえるだろう。つまりバンドブームは日本のミュージックシーンにとって必然
的で避けることのできなかった流れだといえる。またバンドブームによって日本のロック
ミュージックの問題点が顕著になり、現在も日本はその影響を受けているのではないか。
20
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
多言語社会における言語教育と異文化相互作用
松田
典恵
文部科学省によると、平成 17 年度の公立小学校・中学校・高等学校、盲・聾・養護学校
及び中等教育学校に在籍している日本語指導が必要な外国人児童生徒及び日本国籍を有す
る児童生徒は 23,906 人にものぼる。現在、国によるこれらの児童生徒に対する教育の実態
を把握するための十分な調査はなされていない。しかし、外国人集住都市会議や千葉県教
育委員会など、各自治体によっては先進的な実態調査及び取り組みを実施しているところ
もある。これらの調査から、現在の日本には、外国人児童生徒の教育を受ける権利を十分
保障するだけの教育体制が整っていないこと、手探り状態の日本語指導と必要性さえ十分
に認識されていない母語教育の実態が窺える。
一方、多民族国家とも呼ばれるオーストラリアでは ESL 教育や LOTE 教育など、先進的
な言語教育が行なわれている。こうしたオーストラリアの言語教育と現在の日本の言語教
育を比較すると、日本の言語教育には「多文化共生」という視点が欠如しているという問
題点が浮かび上がってきた。
「多文化共生」とは、異なる文化を持つもの達が、互いに受け入れ、尊重し、その類似
性を認めることで、優劣をつけることのない対等な立場に位置づけられ、各々が生かされ
ながら、共によりよく生きることのできる状況を創っていくことであり、そこでは異文化
相互作用によって創造される「共生言語」が必要とされる。このため、「多文化教育として
の言語教育」も言語の学習を目的とするのではなく、「共生言語」の創造の手段及び自他の
文化的枠組みを知り、受け入れ、コミュニケーション能力を身につけるための手段として
捉えられなければならない。また、
「多文化共生社会における言語体系」が複数の「共生言
語」を必要とすることやそれぞれの権利を保障するためには、どちらか一方だけが他の言
語を学ぶのでは不十分であり、モノリンガル側には「多文化教育としての母語教育」と「多
文化教育としての第二言語教育」が、バイリンガル側には「多文化教育としてのホスト語
教育」と「多文化教育としての母語教育」が、それぞれに加算的二言語併用教育として行
なわれなければならない。
以上のことから、日本はまず、言語教育の対象を外国人児童生徒のみならず、一般の日
本人児童生徒も含め、双方が共に学ぶ環境を作り、言語教育を互いの文化をつき合わせ、
受け入れ、交流することで学んでいく過程とすることが必要である。また、学習対象とな
る言語も、ホスト語(日本語)のみならず、参入側の母語をも対象としなければならない。
こうした取り組みを実際に行なうには、さまざまな問題が立ちはだかり困難を極めること
が予想される。しかし、神奈川県横浜市立いちょう小学校をはじめとするいくつかの学校
では先進的な取り組みが行なわれおり、こうした取り組みが日本全国に広まり、また、発
展しつつある。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
藤沢周平論
水澤
知香
藤沢周平(1927−1997)は、時代小説というジャンルにおいて多くの小説を書
いてきた作家として広く知られている。本来、時代小説とは、大衆が娯楽として読むこと
のできる小説として登場したもので、それは知識人が教養のために読んでいた純文学に反
発するものであった。しかし、藤沢の後期にあたる作品である『白き瓶』や現代小説『早
春』は、時代小説の特徴でもある娯楽性や物語性が抑制された小説であり、他の藤沢の小
説の中でも異質なものであった。本論文では、これらの作品を主として取り上げ、テクス
トの分析から、藤沢周平の小説の特徴を明らかにしていくことを目的とした。
第一章では、時代小説の成り立ちをまとめ、さらにそこから純文学、また現代文学と比
較して、大衆娯楽小説としての時代小説というものについてまとめた。その中で藤沢は、
時代小説本来のあり方に近い、読者を意識した娯楽性の強い小説を書くことで、物語の名
手として知られ、昭和の代表的な時代小説作家という確固たる地位を築いた、ということ
を提示した。
第二章では、長塚節に対する傾倒から、想像よりも史実に重きを置き、娯楽性や物語性を
抑えて書かれた歴史小説『白き瓶』を、そして第三章では藤沢唯一の現代小説『早春』を
分析した。この二作品の分析から、藤沢は決して読者を意識した、娯楽性の強い小説だけ
を書いてきたのではない、ということを明らかにした。長塚節を尊敬していた藤沢にとっ
て、節は一人の「他者」であった。ゆえに『白き瓶』において藤沢は、あくまでも客観的
な立場で小説を書く姿勢を保ち、想像で書く小説の部分を可能な限り抑制した。これは森
鴎外の「歴史其儘」という歴史小説を書く際の手法に似たものであった。さらに藤沢は『早
春』という現代小説を執筆したことで、安易に大衆娯楽文学としての時代小説という呼称
に寄りかかるのではなく、時代の流れによって変化した、新たな大衆を視野に入れた小説
を書こう、と意識するようになる。
第四章では、藤沢の遺作となった歴史小説『漆の実のみのる国』を分析した。戦争体験
から人を導く力に嫌悪を抱き続けた藤沢は、小説にそのような要素を織り込むことを嫌い、
自己の物語の中で人を諭すような言葉を並べることをしなかった。しかし藤沢はこの作品
において、武家社会の権力者を、しかも歴史小説という形式で書いたのである。
歴史という過去の事実を題材に小説を書くこということは、ある種の責任が藤沢にのし
かかってくることであった。しかし、それを背負ってでも歴史に向かい合い、謎を解き明
かそうという姿勢でもって書かれる歴史小説は、藤沢にとって時代小説作家という枠を超
えた、一人の文学者としての存在に自分を高めるものだったのではないだろうか。それは
純文学とも、虚構の物語である時代小説とも性質を異にする、新たなひとつの文学として
あるようにも思える。これは、歴史に対して責任を持って物語を書き上げることができる
者しか創ることができない、文学としてある種の権威を有する小説体系であり、この意味
で藤沢は大衆娯楽小説としての時代小説というジャンルを超えた存在に成り得る作家だっ
たのではないだろうか。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
重松清論
阿部
有紀子
重松清は、2000 年に『ビタミン F』で直木賞受賞、家族をテーマに数多くの作品を書い
ている。また、フリーライターとしても有名である。
重松の作品の多くは、郊外ニュータウンを舞台としている。本論文では、重松が郊外ニ
ュータウンを舞台にするのはなぜなのか、またニュータウンにどのような意図を込めてい
るのか考察した。その際、重松の作品の中で特異な三作品を取り上げた。
第一章では、個々の作品の分析に入る前に現実のニュータウンの成り立ちと現在の問題
点を確認した。ニュータウンは戦後経済の発展とともに誕生し、都会に集中する地方出身
者の住まいとして提供された。また、鉄筋コンクリートの団地は「空中での居住」を体験
させた。現在、初期に作られたニュータウンの老朽化が問題になっている。
第二章では、『定年ゴジラ』と『トワイライト』を扱った。重松作品の主人公は 30 代か
ら 40 代の男性で地方出身者であるという設定が多い。『定年ゴジラ』において、主人公は
60 代の男性であり、また『トワイライト』の主人公たちは小学生時代をニュータウンで過
ごしたという点において特異である。重松はニュータウンを理想の場所として描くのでは
なく、現実のニュータウンに見られるような問題点も描いている。しかし、主人公の設定
等、異なる作品を分析しても、ニュータウンに地縁や血縁を新たな原理によって再生し、
ふるさとと見なそうとしていると考えられた。
『定年ゴジラ』では主人公のふるさとの母を
思わせる妻、
『トワイライト』ではタイムカプセルや小学校の担任教師の墓、主人公の娘た
ちの存在によって、ニュータウンを代替不可能な場所として描いている。
第三章では、
『疾走』を取り扱った。この作品は、1999 年池袋通り魔殺人事件の犯人の生
い立ちと中上健次の『十九歳の地図』を下地に書かれている。重松は公私ともに交流があ
った中上を、伝統的な共同体に根ざしたふるさとを持つ存在として意識していた。『疾走』
の主人公シュウジの故郷は干拓地として設定されている。干拓地とは、「人為的につくりか
えられた故郷」である。干拓地=ニュータウンと見なすことができる。重松は干拓地に教
会と神父といった存在を置くことにより、故郷を捨てたシュウジが罪を犯しながらも、帰
りたいと願う、救いの場所として描いている。また、この作品において携帯電話は悲劇的
な結果をもたらすツールとして描かれていた。携帯電話は場所を持たないツールである。
重松は完全に場所から離れたツールには希望を見出していないように見受けられた。
小説の舞台としてのニュータウンは、かならずしも希望に満ちた場所ではない。しかし、
その縁もない場所であっても、新たな結びつきによって、地縁や血縁を再生すればふるさ
とになり得るということを、重松は表現しているのではないだろうか。そして重松の描く
物語はニュータウンのように縁のない場所に暮らす人たちに希望を与える小説であり、そ
のような点で、重松は多くの読者に受け入れられていると考えられる。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
ゴールディング論
芝田佳奈子
20世紀の作家ウィリアム・ゴールディング(1911-1993)の作品を読んでいると、
「闇」
が描かれる部分が多いことに気付く。ゴールディング作品には、「闇」を思わせる描写が頻
出する。ゴールディング作品に共通する「闇」の描写は、一体どのような役割を果たして
いるのだろうか。この「闇」描写が、ゴールディング作品を解く鍵となるのではないかと
考え、本論文では「闇」にまつわる描写という視点から構成した。
第一章では、ゴールディング作品の「闇」の描写について整理し、
「闇」の描写が登場人
物の内面と深く関係していることに気付いた。それからゴールディングの長編第一作であ
る『蝿の王』を中心に取り上げ、『蝿の王』における「闇」の描写と、「獣」の意味を考え
ることで、ゴールディング作品における特徴を再考してみた。その結果、作品内の「闇」
描写とは、人間にもともと備わる悪である、「人間の本質的自己」を知覚する場面で大きな
役割を担うという側面があることがわかった。
第二章では、長編第二作『ピンチャー・マーティン』における「自己」について考えてみ
た。主人公マーティンは、強烈な「自己」を守ることに執着し、「自己」を守るために、自
分の知性を使うことで、それを可能にしようとしたことを明らかにした。マーティンの守
りたい「自己」とは、他人を犠牲にしてきた傲慢さ(本質的自己)に気づかせまいとする
ものである。そして、それを守るための知性は、
「文明」につながるこということから、
「自
己」を成立させるものとして「文明」というものがあるのではないかという問題提起を行
った。
第三章では、その問題提起の答えを探すべく、ゴールディングのエッセイの記述から、
文学に対する姿勢を明らかにしようとした。また、他作品と構成が違う『後継者たち』を
取り上げ、文明と人間という観点からもう一度構成を考えようと試みた。
そこからゴールディング作品には、
「光」と「闇」の構図が存在すること、人間と「文明」
という関係性に重きを置いていること、またそれらによって「人間の本質的自己」を読者
に提示しようとしていることがわかった。
以上を踏まえ、最終節では、「闇」の描写がどうして頻繁に使用されたかについて、再考
した。「闇」とは、「文明」を飲み込む、人間の人智を超えた部分の象徴ではないかと結論
付けた。
しかし、ゴールディングの作品は「人間の本質的自己」である、悪の部分を描くだけで
は終わらない。なぜなら、すべての作品には、それに気付き、抱えて生きていく登場人物
がいるためである。ゴールディングは、創作活動を通じて、人間の救いを描いた作家とい
えるのではないだろうか。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
デジタルアーカイブと記憶――紙とデジタルの書物から
高橋
百合
デジタルメディアが発達した今日、そのメディアによって形作られた情報を集め、アー
カイブ化することがさまざまな方面で進められている。多々あるコンテンツのデジタル化
が行われていく中、文字を主体とするテキストデータも初期の頃から否応なしにその変化
の波に飲み込まれていった。現在、書物はデジタルメディアに関するさまざまな問題が集
約的に現れる場となったと見ることができるだろう。よって本論文では書物のデジタル化
を中心に論を展開する。
第一章ではデジタルアーカイブの概要と、書物のデジタル化がどう捉えられているのか
を、先行研究をもとに見た。先行研究には、デジタル化した書物が持たず、紙の書物のみ
が持っているものが存在しているという前提が見て取れる。続く第二章では、デジタルテ
キストに対し先行研究が抱いている違和感を指摘した上で、紙の本が持つ独自性を明確に
した。ここで、デジタルと紙とは確かに対立するといえるがそれはデジタル化した書物す
べてに当てはまるものではなく、デジタル化した貴重書については対立以外の関係性が見
られるのではないかと考えた。そこで第三章では、貴重書のデジタル化が一般書籍のデジ
タル化とは異なった位置にあることを明らかにした。第四章では、一般書籍のデジタル化
とは異なる貴重書のデジタル化が、紙の本とデジタル本の間に見えていた対立の前提を崩
すものであることを確認した。
まったく別方向に分かれていくのではなく、双方が重なり合うような変化の一つとして、
貴重書のデジタル化が挙げられる。これは、紙の本だけが持ちデジタルテキストが持たな
い特徴を、デジタルの形態の上に回帰させる存在であると言うことができるだろう。しか
しこれは、単に「回帰」して元の場所、つまり紙の書物に戻ってきているわけではない。
デジタルという形態で、その上テキストだけをデータとして持つのではなく、画像として
書物自体をデータ化した新たな形状で、権威を保ち、連続した時間を感じさせる、愛すべ
き書物として「再構築」されているのだといったほうが正しいかもしれない。電子ペーパ
ーを開発し、それを本の形にしてページをめくる形で利用する本の開発を目論んでいる研
究者もいる。こういった書物の「再構築」は、人が線的で終わりが存在する「書物的な思
考の枠組み」から外れない限り行われていくと考えられる。
この先、もし人の身体や思考が冊子本から離れ、デジタルの枠組みにはまりきったとき
には、紙の書物はその役目を終えるか、新たな役目を与えられて存在することになるのだ
ろう。そのとき冊子本に与えられる新たな役目とは、知識そのものを広めるのではなく思
考のプロセスを構築する方法を伝えるようなものではないだろうか。再構築という形で再
び永遠の命を得た本は、過去からの歴史をそのまま持って、より未来の人々へとつながっ
てゆく。過去の知識をより未来へとつなげる貴重書のデジタル化が表象するようなデジタ
ルとアナログの関係が、今後も多く生み出されることを願う。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
RENT
におけるエイズ
〜その聖書的イメージをめぐって〜
中野
寛子
RENT (以下『レント』と記す)とは、1996 年にピュリッツアー賞、トニー賞など
を受賞したジョナサン・ラーソンのミュージカル作品である。この作品は、プッチーニの
オペラ『ラ・ボエーム』を下敷きとして、1990 年代のニューヨークに暮らす若くて貧しい
芸術家(ボヘミアン)たちの姿を描いている。
第一章では、
『レント』と『ラ・ボエーム』の比較をおこなった。登場人物たちの命を脅
かす病が『ラ・ボエーム』では結核であるのに対し、『レント』ではエイズに置き換えられ
ている。それぞれの病の描かれ方についても、
『ラ・ボエーム』のミミが結核で死んでゆく
のに対し、『レント』のミミは、一度はエイズによって命を落とすが、奇跡的に息を吹き返
すという違いがある。また『ラ・ボエーム』のショナールに相当する登場人物であるエン
ジェルは、同性愛者であり、物語の途中でエイズを発病して死ぬという点において、ショ
ナールとは大きく異なっている。
第二章では、エンジェルによってあらわされる『レント』の天使像について考察した。
聖書『トビト書』に登場する天使ラファエルとエンジェルには類似点があることから、エ
ンジェルには人々を救う癒しの天使ラファエルのイメージがあると考えた。それに対し、
『レント』より数年早く発表された演劇作品『エンジェルズ・イン・アメリカ』
(1991−1992)
では、エイズを撲滅することができない無能な天使の姿が描かれている。この天使像の変
化には、エイズをめぐる状況の変化が影響していると考えられる。
第三章では、エイズ患者に対するメタファーを否定する方法について考察した。
『レント』
ではミミが生き返るという奇跡を起こすことによって、「エイズ患者は必ず死に至る」とい
うメタファーを否定する。この奇跡はエンジェルの死によって導かれるため、エンジェル
の死にはイエスの死が託されていると考えられる。エイズには神罰というメタファーがあ
るが、しかしエイズが神の意志にそむいたために下された罰であるとするならば、エイズ
もまたイエスの死によって贖われると考えることができるのではないだろうか。
エンジェルには癒しの天使ラファエルのイメージがあり、さらには、エンジェルの死に
はイエス・キリストの死のイメージが託されていると考えられる。ラーソンが『レント』
の製作に打ち込んでいた七年の間にもエイズをめぐる状況は刻々と変化し、少しずつでは
あるがよい方向に向かっていた。そのようなエイズの治癒の可能性に対する希望が、エン
ジェルというキャラクターによってあらわされていたと考えられる。
『レント』がエイズ問
題を扱った他の作品と異なるところは、たとえエイズに感染しても、その後の生活をより
よく生きれば、それがイエスによって癒される可能性があることを示している点にある。
エイズはいつか治るという希望を持っていまを精一杯生きていれば、いつか救いはおとず
れる、そうしたメッセージをラーソンは『レント』に託したのではないだろうか。
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