2008年度英米文化履修コース卒業論文

新潟大学人文学部
英米文化履修コース
2009 年度卒業論文概要
英語学専攻
金子圭奈
前山友香
竹内理絵
佐藤元樹
長澤春香
小野達也
丹麻菜美
On Anaphoric Expressions in English : From a Crosslinguistic Point of View
On Postposition Sentences in English and Japanese
Remarks on VP Deletion in English
On Ellipses in English
Notes on Case Marking in English
Notes on Gerunds in English
On Existential Sentences in English
イギリス文化・文学専攻
熊倉裕美
斉藤真喜子
更科菜摘
清水明日香
水晶宮建設とその反応
ナショナル・トラスト研究
『序曲』における「流れ」の研究 ―詩人の魂の成長過程を追って―
Jane Austen: Emma 研究 ―影の主人公としてのジェイン・フェアファック
ス―
高橋絵里子 E.M. Foster: Howards End 研究 ―ハワーズ・エンドの継承の意味―
半沢香耶子 Henry James: The Turn of the Screw 研究
堀川祥弘
『マクベス』研究 ―魔女の標的としてのマクベス―
松本裕章
『ハムレット』研究 ―ハムレットの罪の意識の欠落―
The Secret Garden 研究 ―舞台描写から考えるバーネットの表現技法―
北村文乃
捧優花
Nadine Gordimer: Burger’s Daughter 研究
アメリカ文化・文学専攻
渡辺宏樹
田中真奈美
朝野智仁
佐藤浩貴
清野真弓
星野純
本間真珠
松田未希
『ハックルベリー・フィンの冒険』論 ―金めっき時代の「処世術の書」と
しての『ハックルベリー・フィンの冒険』―
ロバート・メイプルソープ研究 ―ゲイの写真家としての役割―
トクヴィル研究 ―民主的社会の問題点に対して宗教と利益の理論が果た
す役割―
ニューエイジ研究 ―なぜアメリカで起こったか―
銃規制とアメリカ社会
戦場のアメリカン・ヒーロー ―繰り返される戦争のなかで生まれたアメ
リカン・ヒーロー像の考察―
Twixters 研究 ―Twixters とアメリカ社会の変容―
ローザ・パークス研究 ―彼女が成功した理由とは―
長瀬悠
トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』研究
ライトリーの“捉えがたさ”―
―ホリデー・ゴ
卒業論文概要
金子
圭奈
新潟大学人文学部英米文化履修コース
On Anaphoric Expressions in English: From a Crosslinguistic
Point of View
この論文では、英語の照応表現のひとつである再帰代名詞が、他の言語の再帰代名詞と
比較してどのような特性をもっているのかということに焦点を当て、英語の再帰代名詞の
姿を明らかにしようと試みた。まず、英語の再帰代名詞は一般的に束縛原理によってその
分布が制限されるといわれてきたが、それによってだけではなく、主要部統率によっても
制限されるということを示した。さらに、英語の再帰代名詞は元来局所的であり、指向性
がないという特性をもつために束縛原理に従うと考え、その特性を明らかにした。局所性
というのは、照応形の先行詞が長距離的か局所的かということであり、指向性は先行詞が
主語であるか、または特に区別をもたないのかということである。
(1) John thinks [Tom knows [Bill likes himself]].
(2) a. Bill told Mike about himself.
b. Bill told Mike about himself.
(1)では himself の先行詞は Bill であり、John や Tom は先行詞にはなりえない。このこと
から、himself は局所的な特性があるといえる。また、(2)から himself の先行詞には主語
Bill または主語ではない要素 Mike の両方がなりうるため、himself は指向性をもたないと
言える。これらのことから、英語の再帰代名詞は局所的で指向性を持たない照応形である
といえる。
次に、日本語、中国語、韓国語の再帰代名詞の分布について観察した。そして、これら
の分布は全て、それぞれの局所性と指向性によって決定されるということを述べた。また、
英語の再帰代名詞が現れることができない場所にそれらの再帰代名詞が現れることから、
ここでは束縛原理は英語と同じようには働かないということを述べた。
さらに、英語の再帰代名詞と、他の再帰代名詞の局所性と指向性を比較した。そこで、
それぞれの言語において、英語の再帰代名詞 himself と同じ特性をもつ再帰代名詞があると
いうことを示した。例えば、日本語の kare-jisin もそのうちのひとつである。
(3) John-ga [Bill-ga Mike-ni kare-jisin-no-koto-o hanasita to] itta.
‘John said that Bill told Mike about self.’
このような再帰代名詞は全て、代名詞と self の二つの要素を組み合わせてつくられており、
この形こそがそれぞれの局所性と指向性を決定していると考えた。例えば日本語の
kare-jisin は代名詞 kare と、英語の self に対応する jisin を組み合わせてできた形であり、
局所的で指向性がない。このことから、これらの再帰代名詞が指向性を持たないのは代名
詞が指向性を持たないからであり、局所的な照応になるのは self が付加することによって
再帰代名詞の局所性が制限されるからであると考えた。このように、これらの再帰代名詞
が同じ局所性と指向性を持つのは、再帰代名詞の形に理由があるからだと結論付けた。
卒業論文概要
前山
友香
新潟大学人文学部英米文化履修コース
On Postposition Sentences in English and Japanese
この論文は、英語と日本語の後置文についての研究である。特に主語からの後置に焦点
を当て議論を進める。後置文とは、文中にあるはずの要素が文末に後置されている文であ
る。後置文に関しては様々な観点からの分析がある。まず、機能論の観点からの分析であ
る。機能論では、話し手の視点や情報の配列の順序などといった、言語使用に係わる概念
を用いて言語事実を説明しようとする。この観点の場合、英語の後置要素は重要度の高い
情報であるといえる。一方、日本語の後置要素は重要度の低い情報であるといえる。
(1) a. A man came yesterday with blue eyes.
b. *A man came by taxi with blue eyes.
(2) a. 女子学生が昨日研究室に訪ねて来ましたよ、長い髪の。
b. *りんごが一番おいしいですよ、青森の。
英語の後置文については語用論の観点からの分析もある。語用論の場合は機能論の場合
と同様に派生の過程を考慮に入れず、文の内容や意味に基づいて分析している。この観点
の場合、後置要素の内容は前述の内容と関係があるといえる。
(3) a. A man hit Mary who had hostility toward her.
b. *A man hit Mary who was wearing a T-shirt.
次に、統語論の観点からの分析がある。統語論の場合は派生の過程を考慮に入れている。
この観点の場合、英語の後置要素は移動あるいは基底生成で生じるといえる。
(4) a. A man came in with blue eyes.
b. A man hit Mary who had hostility toward her.
一方、日本語の場合は、外池(1994)の OVS 構造を採用した場合、主語からの後置におい
て、後置要素は付加部からの移動であると考えられる。外池が主張する OVS 構造とは、日
本語で主語に見える要素は実は主語ではなく付加部であり、本当の主語は目に見えない
PRO であるというものである。
(5) [僕のクラスメートの][山田君は][パーティーに来なかった
PRO]
このように英語と日本語の後置文には様々な観点からの分析があるが、複数の分析を採
用することで説明できる例もあるので、どれか1つの分析のみが正しいのではなく、どの
観点からの分析も正しいのではないかと考えられる。
卒業論文概要
竹内理絵
新潟大学人文学部英米文化履修コース
Remarks on VP Deletion in English
この論文では、まず英語の動詞句削除はどのレベルにおいて起こるのかを考察した。そ
の結果、LF 部門においてλx(A)=λy(B)という alphabetic variant である動詞句が削除可
能であることが判明した。
(1) a. Peter loves Besty, and Sandy does [VP ø], too.
b. Peter, λx(x loves Besty) & Sandy, λy(y loves Besty)
このλ表記によって、削除された動詞句が代名詞表現を含むときに、二通りの解釈を得る
ことができる。(2b)で表されているような『厳密な解釈』と『ゆるやかな解釈』である。ゆ
るやかな解釈は厳しい解釈から派生したものと考えられ、(2c)のように his という代名詞を
xやyなどの変項に変える操作が行われている。
(2) a. John loves his mother and Bill does [VP ø], too.
b. Johni, λx(x loves hisi father) & Billj, λy(y loves hisi/j father)
c. John, λx(x loves x’s father) & Bill, λy(y loves y’s father)
次に、動詞句削除における問題点である先行詞内包型削除を取り上げた。これは、削除
された要素が先行詞を含んでいるために復元するとまた別の先行詞が現れてしまうという
遡及問題である。また(4a)の例文で削除されている動詞句の解釈は VP1 であり VP2 にはな
りえないという有界性制約がある。この二点をうまく説明するために最近の理論を扱った。
これは、削除された動詞句内にある目的語を(3b)や(4b)の下線位置へ移動させる理論である。
(3) a. John bought everything that you did [vp ø].
b. Johnj [T[AgrO’’ [everything that you did [vp ø]]i [AgrO[VP tj[VP1 buy ti]]]]]
(4) a. Who [VP2 thought that Fred [VP1 read]] how many of the books that Bill did [ø]?
b. who [VP2 thought[CP that[IP Fred[AgrO’’ [how many of the books that Bill did [VP
ø]]i [AgrO [VP t[VP1 read ti]]]]]]]
最後に、不定詞の動詞句削除について観察した。時制のある動詞句削除と時制を持たな
い不定詞の動詞句削除を比較し、その相違点として残存要素と空動詞句を認可し同一化し
ている要素の二点を挙げた。前者の残存要素は助動詞や完了形の have、進行形や受動態の
be である。そして INFL の位置にあるこれらの残存要素が Agr 位置へ繰り上げられること
で、空の動詞句を認可している。一方、不定詞の動詞句削除の場合、空動詞句の前に to が
現れることが必須条件である。そして空動詞句を認可し同一化している要素は、主要部補
部の連鎖関係を通して最大投射された動詞に編入した Tense 位置の to であることを論じた。
卒業論文概要
佐藤 元樹
新潟大学人文学部英米文化履修コース
On Ellipses in English
本論文は、英語における省略現象についての研究である。ここでとり上げるのは、次の
ような VP 削除、NP 削除、IP 削除である。
(1) a. Pam likes soccer and [IP Rebecca [I does] [VP e]] too.
b. John's car is old but [DP Mary [D 's ] [[NP e]] is new.
c. John was reading, but nobody knows [CP what [C +wh] [IP e]].
Lobeck(1995)によれば、機能範疇内で指定部と主要部に一致が起こるときに、その補部が
削除されると提案されている。この Lobeck の提案が、不定詞の to と文否定の not の後に
おこる VP 削除にも拡張できるということを論じた。
不定詞の to の後には VP が省略できるものとできないものがある。
(2) a. Kim isn't sure she can solve the problem, but she will try [PRO [I to] [VP e]].
b. *I believes Sarah to be honest, and he believes Kim to [VP e] as well.
Martin(2001)によると、主文に対し未来を表す不定詞節のみが VP 削除を認可でき、不定
詞節内の IP では、I の主要部にある to とその指定部にある PRO に一致が起きていると分
析している。
また、文否定の not もその後に続く動詞句が省略される現象がある。
(3) a.
b.
Mary wants to go to the fashion show but her husband might not [VP e].
A: Should I attend the meeting?
B: I suggest you not [VP e].
Laka(1994)のΣP 分析にもとづき、文否定の not は否定と強調を表す句 ΣP に生じると考
え、否定文の VP 削除も機能範疇ΣP 内で一致があると提案した。具体的には、ΣP の指定
部にある not とその主要部にある[+neg]素性に一致が生じるという分析である。
(4)
[ΣP not [Σ' [Σ +neg] [VP e]]]
本論文では、Lobeck の提案した指定部と主要部の一致が不定詞の to や文否定の not
にも拡張できると結論づけた。このように、削除がおきているのは機能範疇内であり、ま
た削除された要素は最大投射であるというように、削除現象には共通した規則があると考
えられる。
卒業論文概要
長澤春香
新潟大学人文学部英米文化履修コース
Notes on Case Marking in English
この論文では、英語の文における「抽象的な格」の働き、そしてこの格が関わっている
規則について言及した。
英語において格付与能力があるとされているものは、V、P、Agr であり、逆に格を付
与される要素は NP である。格フィルター規則により、「すべての NP は格を持たなければ
ならない」とされており、格を持たない NP は格フィルターによって排除される。
(1) a. The animal inhabits the forest.
b. *The animal lives the forest.
さらに、格付与は隣接条件に従うため、これに違反する場合も非文となる。
(2) a. Paul opened the door quietly.
b. *Paul opened quietly the door.
しかしながら、隣接条件によって排除されると思われる V+adverb+complement という
語順も存在する。この語順は補部が PP である場合のみ可能である。
(3) a. Bill knocked recently on it.
b. *Bill pushed recently the door.
また、この語順は「動詞の左方への移動」が原因で起こると考えられている。
この論文では Radford(1997)の Agreement projections という考え方を採用し、実際の英
文の派生を見ていくことによりどの位置で格付与が行われているのか、どのようにして V
と NP が格付与位置に移動していくのかを明らかにした。
(4)
AgrSP
D
AgrS’
Bill
AgrS
TP
[ed]
vp
ADV
vp
recently
D
v’
v
VP
knock
V’
V
PP
P’
P NP
on it
格付与においては believe、guess、suppose、think などの限られた動詞が使用されてい
る場合、統率の障壁と隣接条件に従わなくても非文とならない例外があり、これは ECM 構
文と呼ばれている。また、認可という考え方の中で格付与のための移動を考えることによ
って説明可能になる事象についても言及した。
卒業論文概要
小野 達也
新潟大学人文学部英米文化履修コース
Notes on Gerunds in English
本論は、英語における動名詞に関する研究である。英語には 3 種類の動名詞がある。
(1) a. John’s telling the story (所有格動名詞)
b. John telling the story (対格動名詞)
c. hitting Jack. (主語無し動名詞)
所有格動名詞とは、動名詞節の主語が所有格の形で現れるものである。所有格動名詞は
抽出を許さない点(2a)や、節全体を移動させることが出来る点(2b)などにおいて名詞と似た
振る舞いをみせる。
(2) a. *Who did we defend John’s kissing ?
b. Egypt’s attacking Israel, we admired.
また、その構造について Chomsky(1970)の所有格動名詞と NP、VP の比較、Horn(1974)
の決定詞分析、Abney(1987)の分析を参考にした。ここでは現在用いられている Abney に
よる構造を支持し、所有格動名詞の名詞的な特性を明らかにする。
対格動名詞は、主語が対格の形で現れるものである。対格動名詞は要素の抽出を許す点
(3a)や、名詞のような移動を許さない点(3b)などに関して、所有格動名詞とは対照的に補文
と似た振る舞いを見せる。
(3) a. Who did we imagine John kissing?
b. *Egypt attacking Israel, we admired.
構造については、Reuland(1983)と Abney(1987)を参考に観察していき、対格動名詞の補文
としての特性を言及する。
主語無し(Subjectless)動名詞は、節内に目に見える主語が存在しないものである。この動
名詞は、解釈の仕方から二つの構造に分類される。動名詞節の主語が主節主語との一致の
下で削除されて派生した Equi-ing 構造と、動名詞節の主語が不定の名詞句であるという解
釈を持つ Indefinite-ing 構造である。
(4) a. Who did we imagined hitting?
b. *Killing himself, John imagined.
c. *What did we defend drinking?
d. Drinking beer, we defended.
後半ではこの二つの主語無し動名詞についての解釈の違いを見ていき、前者は抽出を許し
(4a)、名詞のような移動を許さない点(4b)で対格動名詞と似た振る舞いをみせる一方で、後
者は抽出を許さず(4c)、節全体が移動できるという点(4d)から所有格動名詞のように振舞う
という事実を観察する。
卒業論文概要
丹 麻菜美
新潟大学人文学部英米文化履修コース
On Existential Sentences in English
この論文は、存在文の中でも there 構文の特性について調べるとともに、迂言的
(periphrastic)存在文に焦点を当て議論を進めていく。迂言的存在文とは there 構文の名詞
句に動名詞、過去分詞、形容詞が後続するものである。迂言的存在文は Milsark(1974)によ
って以下のように定義づけられている。
(1) Structural definition:
[S there-AUX-be-NP-[VP V-ing -X / V-en -X / [PRED AP]] -Y]
Examples: There were many people sick.
述部を持つというところから、迂言的存在文は動詞に後続する名詞句と述部で小節を形
成している。小節とは be 動詞を欠いているものの、名詞句と述部で叙述関係が成立してい
るものである。平叙文では名詞句、述部の順に成り立っているが how などの疑問詞に引き
付けられ小節の枠を越えてしまった場合容認不可能となってしまう。
(2) How happy is there someone?
述部に生じる形容詞については、従来の分類である場面レベル述語と個体レベル述語を
採用し、それぞれ存在文に生起できるかを確かめていく。
(3) There is a man sick /*tall.
上記の例の場合 sick が用いられているが、これは場面レベル述語に分類される。反対に
tall や intelligent に代表される個体レベル述語は生起できない。このことは個体レベル述
語がもつ恒常的性質によるものであると考えられる。
また、新しい見解として加賀(1998)の分類を取り上げ、その分類の下、存在文を表した場
合容認可能性はどのように変化していくかを示していく。そして、加賀の分類が有利なも
のとなる例として描写の二次叙述についても説明する。加賀は、場面レベル述語を状態記
述述語と状況記述述語に分け、個体レベル述語を特徴記述述語と定め、従来の述語分類を
更に展開させた見解を示した。
(4) a. *There is a man {intelligent / of considerable talent}. (特徴記述述語)
b.??There is a kid {hungry / in high spirits}. (状態記述述語)
c. There is a firemen {available / in the room}. (状況記述述語)
存在文について触れるにあたり定性制限が重要となる。存在文では名詞句に the などの
決定詞が置かれる場合容認不可能となってしまうがそれは意味的なものであり、the が許さ
れる場合もある。
(5) a. In England there was never the problem that there was in America.
b. There was never the same / equivalent problem in America.
c. There’s the strangest bird in that cage.
every のような普遍数量詞、また例外として存在数量詞である most も存在文に生起できな
い。
卒業論文概要
熊倉裕美
水晶宮建設とその反応
1851 年 5 月 1 日にロンドンにて開催された万国博覧会は、世界初の国際的な博覧会であ
り、特に工業面での著しい発展を見せていたヴィクトリア朝時代のイギリスの繁栄を示す
一大行事でもあった。しかしその会場となったハイド・パークの使用や水晶宮の建設に関
(Punch)などを
しては、当時の有名新聞紙『タイムズ』(The Times)や風刺雑誌『パンチ』
中心に激しい批判が起きた。本論文では当時の『タイムズ』と『パンチ』における万国博
覧会についての記事を検証することで批判の背景にあったイギリス国民の意識について考
察するとともに、一貫して万国博覧会の開催を支持し続けた『絵入りロンドン・ニューズ』
(The Illustrated London News)の記事から、最終的には広く国民の支持を受けて成功する
に至った万国博覧会の持つ意義について考察する。
まず第1章では、公園の使用に反対する市民の意識について取り上げた。当時の市民は
ハイド・パークが博覧会の会場として使用され、景観が損なわれてしまうことについて強
い抵抗感があった。これは庭園のデザインの変化が、フランスの専制政治に対抗してイギ
リスの立憲主義を確立しようとした国民意識を反映していることと、十九世紀のイギリス
で土地所有者に対する社会的運動として公園の設置が進められてきたことが関係している
と考えられる。公園とは政治や社会制度の改革を求めて自由を勝ち取ってきたという自負
の象徴であり、景観を維持しようとする市民の強い愛着はこうした意識の表れであるとみ
なすことができる。
第2章では『タイムズ』と『パンチ』の記事を検証した。博覧会に強く反対していたと
みられる『タイムズ』だが、外国での博覧会の前例などを紹介する記事から、対外的な観
点においては肯定的であったことが分かった。また『パンチ』では、水晶宮の建設が進む
につれて、次第に揶揄や皮肉のこもった記事が全面的に博覧会を支持する記事に変化して
いったことが見て取れる。加えて『パンチ』の記事では当時のイギリスが宗教問題や社会
不安を抱えていたという側面を見ることができたが、市民の間に広まっていた自助の精神
によってそうした不安は軽減され、博覧会に賛同する風潮のほうが大きかったのではない
かと考えられる。
第3章では、第1章で考察した市民の反対が賛成へと変化した要因として、対外事情と
水晶宮建設について取り上げ、『絵入りロンドン・ニューズ』の記事を検証した。万国博覧
会は開催目的のひとつとして国際平和を挙げていた。フランスで共和制に向けての革命が
縮小したという時代背景から、ここではイギリス主導の国際平和の実現を博覧会の成功と
結び付けようとする意図がうかがえる。また水晶宮は当時では珍しいガラスを大量に使用
した建物であり、その建設方法も斬新であったことから、イギリスの諸外国に対する産業
的優越を示すのに有効な建築物として認められたと考えられる。特に景観を損ねないとい
う特徴は第1章における市民の危惧を払拭するものとなった。
以上のことから、万国博覧会は立憲主義を確立させた国民性の自負にもつながる国際平
和の主導と、水晶宮建設による技術力の高さの明示を目的とすることで強い支持を受けて
成功した行事であったといえる。
H05B227A
卒業論文概要
齋藤真喜子
ナショナル・トラスト研究
今日、地球規模での環境問題が深刻さを増し、人々は自然を守るということに関心を抱
くようになった。本論文においては、100 年以上も前に設立されたイギリスの民間の自然保
護団体であるナショナル・トラストに注目した。イギリス国内でのナショナル・トラストの
規模は非常に大きい。ナショナル・トラストはなぜイギリス国内でこれほどまでに巨大な団
体となることができたのだろうか。本論文では、今も活動を続けるナショナル・トラストの
発展理由をイギリス人の国民性や歴史的背景から考察した。
第 1 章ではナショナル・トラストの創立背景について論じた。ナショナル・トラストが創
立された 19 世紀末のイギリスの自然環境は相当に悪化していた。また、第 2 次エンクロー
ジャーや、鉄道敷設によるオープンスペースの減少にも危惧を覚え、ナショナル・トラスト
の創立者達は活動を始めた。
第 2 章では 19 世紀にイギリス人がナショナル・トラストに賛同した理由を考察し、その
理由を大きく分けて2つ提示した。1つはイギリス人独特の自然観によるもの、もう1つ
はイギリス人のアイデンティティとの結びつきである。イギリス人が愛する自然はただそ
こにある自然ではなく、「田舎の」自然であったり、「庭園にある」自然であったりする。
そのような自然はナショナル・トラストが保護するプロパティにある自然と当てはまる。ま
た、19 世紀のイギリスは世界の頂点に立っていた。その繁栄の時代にあったイギリスに住
むイギリス人が自国を称える一環としてナショナル・トラストの活動に賛同したと考えた。
ナショナル・トラストの会員数は 20 世紀後半に爆発的な増加を見せている。第 3 章では、
20 世紀後半という時代になぜイギリス人はナショナル・トラストに多大な関心を持ち、会員
になったかということについて考察した。その理由として、大英帝国の衰退と、イングリ
ッシュネス再考の必要性を挙げた。20 世紀のイギリスは繁栄から衰退へと変化した時であ
る。その時にイギリス人は「偉大な」イギリスの姿を求めた。ナショナル・トラストの持つ
プロパティにある豊かな自然と歴史ある建物からは、イギリスが世界に誇ることのできる
イギリスの「偉大さ」を感じることができる。また、20 世紀後半からイギリスには大量の
移民が流入してきた。これらの移民の存在はイギリス人のイギリスらしさ(イングリッシ
ュネス)を模索させる契機になったと考える。従って、イギリスなるものを守ろうとし、
またイングリッシュネスを確認する目的で、ナショナル・トラストの活動に賛同したと結論
付けた。
これまでの章でナショナル・トラストが巨大な団体に成長した理由を、イギリス人の国民
性や歴史的背景に関連させて考察したが、その理由がいかなるものであったとしても、ナ
ショナル・トラストがイギリスの自然を守っているという事実には反しようがない。第 4 章
ではナショナル・トラストの 21 世紀において果たすべき役割を考察した。それは、様々な
動機からナショナル・トラストに関心を抱き、会員になった人々に自然保護や環境問題とい
うことに対しても関心をもたせるということである。これから深刻さを増していく環境問
題を解決するには多くの人々が関心を持つということが重要であり、その役割をナショナ
ル・トラストは担うべきだと考えた。
H05B236K
卒業論文概要
更科菜摘
『序曲』における「流れ」の研究
―詩人の魂の成長過程を追って―
ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth)の『序曲』(The Prelude)は、
詩人ワーズワースがいかにその魂を成長させてきたかをつづった自叙伝的長詩である。
全 13 巻から成り立つこの詩は、作品の副題である「詩人の魂の成長(growth of a poet’s
mind)」が表すとおり、幼年期の自然との交感から始まり、それが失われた過程、そし
て想像力が回復された過程という流れに沿って進む。本論文の目的は、ワーズワースの
詩人としての成長を二段階に分け、作中の「流れ」に象徴されるいくつかの要素の組み
合わせによってそれぞれを図式化し、比較・評価することである。
第一章では、まずワーズワースの故郷を流れるダーウェント川(Derwent)が、彼の
基準となる理想的「時間の流れ」をあらわしていることを挙げ、更にはその時間の流れ
の中に身を置く彼の精神状態がうかがえる例をとりあげる。この「時間の流れ」は「→」
の矢印を用いてあらわすことのできる、過去から未来へ流れる感覚的な時間の流れであ
るが、この流れに逆らうように「←」の矢印によってあらわされるのが「追憶の流れ」
である。ここで「spots of time」と呼ばれる幼少期の原体験を追憶することで、現在の
自分の他に「もう一人の存在者(some other being)」の意識を感じられる最初の成長
段階 Style 1 を図式化するが、ここでは spots of time が作り出した印象的流れの上でし
か失われた過去の栄光を取り戻せず、あくまでも「永遠性」を垣間見るに過ぎない段階
である。
そして第二章では、水から発生した霧が上昇し、天に雲をつくる流れ「↑」に、「想
像力の流れ」があらわれている例を挙げ、想像力の拡大性と遮蔽性がもたらす、肉体的
感覚を抜け出た霊的感覚での空間把握について考察する。第三章では、これらすべての
「流れ」が第 13 巻のスノードン山上のヴィジョンに集結し、更には閃光のように天か
ら降り注ぐ月の光「↓」が「啓示の流れ」として加わっていることに注目する。眼下に
広がる霧の海の奥底に想像力の源を見ながら、想像力の限界をも見ているワーズワース
は、もはや想像力を超えた「詩人の無意識」なる状態に入っていると言える。この状態
こそ、詩人としての最高成長段階であり、楽園喪失後の「現世」においても「永遠性」
を獲得できた詩人の偉大さを讃えることができるのだ。
この成長段階は Style 2 として、
「時間の流れ」、
「追憶の流れ」
、
「想像力の流れ」、
「啓示の流れ」の四つの流れを用いて
図式化でき、Style 1 と比較すると「永遠性」を獲得しているのは現在のワーズワース
である点で、それは持続可能な真の永遠性であると評価できるのである。
終章では、スノードン山上のヴィジョンが最終巻である第 13 巻に収められている
ことの重要性について考える。似通ったヴィジョンの描写が第 4 巻にも収録されている
ことと、第 4 巻執筆当時にワーズワースが全 5 巻完結を予定していたことを合わせて、
彼が Style 2 の成長段階を『序曲』の最終巻に向けて描いていたことが明らかになる。
さらに、1805 年版と 1850 年版のテキストを比べても、第 4 巻のヴィジョンが削除、
転置されることなくほぼ変わらない内容で収録されていることから、ワーズワースは
『序曲』の成長過程を残したかったのか、または、最終巻でこれらのヴィジョンを再び
読者に想起させ、特別なヴィジョンだと意識させたかったのか、と考えた。私たちは、
Style 2 に表現された詩人の魂の成長が、長い間真理を探究してきた時間の深淵から立
ち昇る「想像力」のたまものであると、ワーズワースから提示されているのである。
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
H05B237H
清水明日香
Jane Austen: Emma 研究
―影の主人公としてのジェイン・フェアファックス―
本論文では、Jane Austen 作 Emma(1815)において、エマと同年代であり、正反対の性
質を持った女性として描かれているジェイン・フェアファックス(Jane Fairfax)の影の主人
公としての存在意義を明らかにすることを目的とした。
まず第一章では、エマとジェインが対照的に描かれていることを比較することで、二人
の長所と欠点が互いに引き出しあう形で存在していることを論じた。二人はどちらも優れ
た長所の面と欠点の両方を持ち合わせている存在であり、どちらかが欠けても二人の長所
はあれほどはっきりとは現れなかった。また、彼女たちの欠点には対照的な二人の共通点
である、「母親の不在」が大きく影響していることも指摘した。
第二章では、作品の中で最も客観的な判断ができる人物であるミスター・ナイトリー(Mr.
Knightley)の視点を通してジェインについて分析した。しかし、そんな彼の視点を通しても、
ジェインの長所は見ることができたが、彼女の欠点についてははっきりしなかった。この
ことから、ジェインの欠点を理解するにはエマの視点が不可欠であり、また、エマがライ
バル的存在であったジェインに親切にしようとした行動がなければ、ジェインのネガティ
ブな面は明るみに出なかったことがわかる。
第三章では、Joan Aiken による、ジェインを主人公とした Jane Fairfax(1990)を参考に
して、ジェインの本質について論じた。エイケンが強調していたエマの亡くなった母親の
影響は、エマとジェインの関係に影響したのではなく、第一章で述べたようにエマ自身の
性質に大きく関係したものであることを証明した。また、Jane Fairfax と Emma を照らし
合わせることで、ジェインが持っている結婚への執着を明らかにした。ジェインが結婚へ
の執着を持っていることが、Emma で描かれているジェインの苦悩に繋がっていたのであ
る。
第四章では、エマとジェインのそれぞれの結婚がもたらす意義について論じた。そして、
エマはミスター・ナイトリー、ジェインはフランク・チャーチル(Frank Churchill)といっ
たように、それぞれが持っている性質に見合った結婚をしており、そこにはオースティン
の意図が働いていた。そして、オースティンは失敗も多いが、それを受け止め、反省し、
成長していくことができるという長所を持ったエマには結婚後、ミスター・ナイトリーと
いう形で欠落していた母親を与えた。しかし、エマとは反対の、消極的であるという欠点
を持ったジェインには母親を与えなかった。
以上のことから、一見エマよりも優れているように見えるジェインには、間違いを犯し
ても自分で事態を打開しようとする素直さや行動力が欠けており、これは主人公の素質と
して必要なものである。この素質に欠けていたジェインは主人公にはなれなかった。また、
エマが主人公でジェインが「影」の存在であるからこそジェインの魅力は十分に引き出さ
れ、現代にジェインが主人公の小説も誕生したのである。エマとジェインは対照的な存在
として描かれていながらも、二人が主人公か影の主人公かは表裏一体であり、どちらが欠
けても、二人のキャラクターとしての魅力は現れなかったのだ。
H05B242D
高橋絵里子
E.M.Forster, Howards End 研究
ハワーズ・エンドの継承の意味
E.M.フォースターの『ハワーズ・エンド』(1910)は、シュレーゲル家とウィルコックス
家という対立する価値観を持つ二つの家族の結び付きを描いた物語である。本論文では、
ルース・ウィルコックス、マーガレット・シュレーゲル、そしてヘレン・シュレーゲルの子
供という 3 人の人物によってハワーズ・エンド邸が継承される意味について考察する。ま
た、シュレーゲル姉妹の弟のティビーという、他者とつながりを持たない人物が、作品の
中でどのような役割を持っているのかについても明らかにする。
第一章では、マーガレット・シュレーゲルとヘンリー・ウィルコックスが結婚し、ハワ
ーズ・エンド邸に住むという、両家の結合について考察した。この結合に不可欠である 2 人
の人物、ルース・ウィルコックスとエーヴェリー夫人の言動によってマーガレットはハワ
ーズ・エンド邸の後継者となる。彼女たちの助けがなければ果たされなかった両家の結合は
不自然なものであり、この不自然さの理由はフォースターが結合を困難なものと捉えてい
たからであると考えられる。
第二章では、不自然な結合が果たされなければならなかった理由について、ルースから
マーガレットへとハワーズ・エンド邸が受け継がれる理由から考察した。ルースが過去を崇
拝し家を女性の居場所と考えているのに対し、マーガレットは女性が働くことを主張して
いる。ルースからマーガレットへと続く流れは、変わり行く時代における女性の変化を表
現し、古き良き時代を望むフォースターが積極的に変化を受け入れようとしていることが
うかがえる。また、目に見えないものを重要視しているルースの外見の描写が乏しいこと
から、彼女自身が作品の中で目に見えないものとして存在しているということを指摘した。
第三章では、つながりを持たないティビーと、彼とは対照的につながりを象徴する子供
について考察した。フォースターは、イギリス人の国民性について、非精神的であると誤
解されやすいが、ただ心が未発達なだけであると考えている。こういった国民性をティビ
ーが体現しており、彼が精神的なものを重視しているシュレーゲル家にいるのは、イギリ
ス人が非精神的でないということを伝えたかったからであると考えた。そして、上層中産
階級のヘレン・シュレーゲルと下層中産階級のレナード・バストの子供は希望を象徴する
と同時に、全く新しい価値観を示す存在である。フォースターは対立する価値観を結びつ
けるだけでなく、新たな価値観の存在も許容しなければならないと考えていたと思われる。
以上のことから、この作品は変化する時代の中で、家の継承を通して変化していく価値
観や結び付きのあり方を示していると結論付けた。また、フォースターは、寛容をもって
全ての人物を受け入れようとしていたが、一度もハワーズ・エンド邸を訪れることなく、
最後には姿も現さないティビーは、フォースターのこういった考えの限界を表している。
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
H05B259J 半沢 香耶子
Henry James: The Turn of the Screw 研究
Henry James の『ねじの回転』(The Turn of the Screw)は、教え子を狙う幽霊をただ
一人目撃した家庭教師が、子どもたちを守るために幽霊と対決しようとする物語である。
その曖昧さゆえ、これまでの批評の最大の争点は、幽霊の存在の真偽に関するものであっ
た。けれども本論文では家庭教師の未熟さと偏向的な性質、そして子どもたちが置かれた
環境に注目し、ジェイムズが歯車の噛み合わない彼女と幼い兄妹を描いた意図を探ること
を目的にした。
第1章では、主人公である家庭教師がガヴァネスという職業柄階級意識に敏感な、精神
的に不安定な女性であることを示し、また作品が描かれたヴィクトリア朝の子ども観に支
配された存在であることを明らかにした。ジェイムズは主人公をこのように偏った考え方
の持ち主とし、未熟な女性に設定することで、彼女が子どもを教育するには不適格な人物
であることを読者にはっきり示したのである。
第2章ではマイルズの放校問題を、子どもたちを囲む大人全ての幼稚さを浮き彫りにす
るためにジェイムズが仕掛けたものと捉え、さらにマイルズとクイントの同性愛という観
点から問題にされることの多いマイルズの階級意識と女性意識について述べた。家庭教師
が考える理想的な子ども像からはかけ離れた彼らの現実が露呈したことで、子どもたちは
将来「gentleman」や「lady」ではなく、ジェイムズが最も懸念する「a generation of “spoiled”
youngsters」となる可能性がある、ということが判明した。
そして第3章ではジェイムズの他の作品に登場する、生きて無垢を勝ち取る子どもたち
と、本作品のマイルズとフローラを対比して、
『ねじの回転』が「生きた無垢の敗北」につ
いて見ようとしたジェイムズの、一つの実験的小説であるということを示した。ジェイム
ズは生涯独身でありながらも子どもに強い関心を持っており、大人と子どものあるべき姿
について独自の考え方を持っていた。子どもは永遠に無垢な存在か、それともいずれは堕
落する存在か、という彼の子ども観の葛藤は、
『ねじの回転』だけでなくその前後に書かれ
た『メイジーの知ったこと』(What Masie Knew)『厄介な年頃』(The Awkward Age)にも
現れている。
以上のことから家庭教師は子どもに執着しすぎて、自分の偏見を子どもに押し付けてし
まうような大人であると言える。そういった大人に囲まれては無垢な子どもも堕落してし
まうことがある、というジェイムズの考えが、
『ねじの回転』には現れていると結論付けら
れる。
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
『マクベス』研究
―魔女の標的としてのマクベス―
シェイクスピアの Macbeth は、彼の作品の中でも特に不気味な印象をあたえるものであ
る。この不気味な印象を与えている主たるものが、作中に登場する魔女たちである。魔女
たちは、マクベスに予言を与えるなど、この物語において重要な役割を果たすが、その行
動には謎が多い。彼女らがマクベスに予言をあたえる点もその一つである。マクベスは、
この予言からいわば操られるようなかたちでダンカン王を殺害することになり、没落して
いく。魔女たちはなぜ、マクベスをこのような標的として選んだのだろうか。
本論文では、マクベスがなぜ魔女の標的となったのかということを以下の五章にわたっ
て考察していく。
まず第一章では、マクベスを標的とした魔女たちの正体について見ていく。彼女たちは
印象的な登場の仕方をするが、そこから彼女たちの正体が、神と対立する立場にある悪魔
的存在であるということが明らかになった。
第二章では、魔女たちがマクベスを操ることを可能にした内的要素について検証した。
内的要素としては、彼の強大な権力欲、そしてその物質主義的な価値観、倫理観、加えて
彼が魔女たちと神に対しての立場を同じくし、悪魔的性質を示すことがあげられた。
第三章では、魔女たちがマクベスを操ることを可能にした外的要素について論じた。外
的要素については、マクベスや魔女たちと性質や神に対する立場を同じくするマクベス夫
人の存在が示された。
第四章では、魔女たちがマクベスを操ることによって何を成そうとしたのかを考えてい
った。マクベスは魔女たちに操られるにつれ、彼女たちの言葉に依存するようになる。こ
こでは魔女の正体が悪魔であることを知りながらもさらにその言葉に依存している。ここ
から、彼は操られることによって、悪魔に心を売ってしまったということがわかってきた。
第五章では魔女たちの目的について見ていく。マクベスは操られることで悪魔と化すこ
とになるが、そうされたことで神と魔女が戦う際の助力とされていたようである。
以上のことをふまえると、マクベスがなぜ魔女たちの標的となったのかということがわ
かってくる。戦には負けたものの、容易に悪魔化し引き入れることを可能にする魅力的な
要素、あまり発揮されなかったが強力な武力をもつこと。このような点を示すマクベスは、
魔女たちが神と戦う際に非常に優良な人材であったと言える。彼は図らずも魔女たちにそ
ういった優良性を見出され、ゆえに不幸ながら魔女たちの標的にされたということになる
だろう。
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
H05B267K 松本 裕章
『ハムレット』研究
―ハムレットの罪の意識の欠落―
本論文では、ウィリアム・シェイクスピアの『ハムレット』を扱う。ハムレットは最終的に
自分の父である先王を殺した王クローディアスに復讐を果たすが、その過程で復讐に関係ない殺
人を犯してしまう。さらに、それについて罪の意識を持っていないような描写がされている。本
論文では、なぜハムレットは自分の犯した罪に対して罪の意識を感じないような描写がされてい
るのかという問題について考察した。
第 1 章では、劇中でハムレットが犯してしまう殺人とそれに対する罪の意識について検証し
た。ハムレットが犯す殺人は1ポローニアス殺害、2ローゼンクランツとギルデンスターン殺害、
3レアティーズ殺害、4クローディアス殺害の 4 つが挙げられる。以上のうちポローニアス殺
害とローゼンクランツ・ギルデンスターン殺害に関しては、ハムレットには殺害する十分な理由
がなく、また罪の意識を感じていないことが表れている発言をしている。この2つの殺人によっ
て観客にハムレットの残酷な一面が印象付けられる。
第 2 章では、ハムレットの精神状態という観点から第 1 章で挙げた殺人を検証した。ポロー
ニアス殺害に関しては、ハムレットは王と間違えてポローニアスを殺害したが、冷静に考えれば
間違いようのない間違いを犯している。したがって、ハムレットはポローニアス殺害の瞬間は狂
気であった。しかし、それに関して正気で語っている場面で罪の意識がないことがわかる発言を
している。ローゼンクランツ・ギルデンスターン殺害に関しては、王の親書を盗み出し、改ざん
する過程で、ハムレットは冷静な思考に基づいて行動しておらず、激情に流された狂気の状態で
行動していた。しかし、こちらに関しても正気で、罪の意識がないような発言をしている。した
がって、ハムレットの罪の意識の欠落は狂気によって引き起こされたものではない。
第 3 章では、ハムレットの劇中の役割という観点から検証した。ハムレットはクローディア
スに復讐をするという復讐者としての役割を持っている。しかしそれと同時に、ハムレットはポ
ローニアスを殺害してしまうことによって、レアティーズに復讐されるという被復讐者としての
役割も同時に担うことになる。復讐者は社会的道徳規範に均衡を回復する神の代理人であり、被
復讐者は社会的道徳規範の均衡を乱すような人物である。ここではハムレットには、道徳規範を
正すという側面と、それを乱すという側面があり、二重の役割を負っている。
以上のことから、ハムレットの罪の意識の欠落は、社会的道徳規範を乱すものとしてのハムレ
ットの役割を観客に印象付けるためのものであると私は考える。ハムレットに対する復讐者であ
るレアティーズは、王と結託して策略に陥れようとするため、被復讐者としてのハムレットの役
割はレアティーズと王の悪の影で霞んでしまう。そのため、ハムレットが自分が犯した殺人に罪
の意識を感じない人物として描かれることで、被復讐者としての役割を明確にされる必要があっ
たのである。
卒業論文概要
H05B288B
北村文乃
The Secret Garden 研究―舞台描写から考えるバーネットの表現技法―
バーネット(Frances Hodgson Burnett, 1849-1924)の『秘密の花園』(The Secret Garden,
1911)の物語の主な舞台となるのは、ミッスルスウェイト屋敷 (Misselthwaite Manor)と、
この屋敷の庭にある秘密の花園 (The Secret Garden)の2か所である。この二つの場所は、
両方とも閉ざされた空間として表現されている。一方で、どこまでも続く開放的な空間と
してムーア(Missel Moor)が何度も登場し、ムーアに遊びに行く計画についての話題も登場
するが、主人公二人はムーアへ一度も行かないまま物語は終わっている。
この論文では、3つの場所の描写の特徴と、それぞれの場所を作品の語り手や作中の登
場人物が誰に対してどの様に語って(説明して)いるかを考察、検証することで、三つの
場所が作品全体に与えている効果はどの様なものであるか、その効果を使ってバーネット
は何を表現しようとしたのかということと、この物語が「屋敷」と「花園」という二つの
閉ざされた空間の中だけで完結しているのは、作品全体にどの様な影響を与えているのか
ということについて論じる。
第一章では、ムーアが開放的なイメージを、屋敷と花園が閉鎖的なイメージを読者に対
して与えているということを証明するとともに、それぞれの場所の表現の特徴について検
証した。その結果、ムーアを解放的であると感じるのは言葉による直接表現によるもので
あるのに対し、屋敷と花園の閉鎖性は登場人物の行動などによって「見せる」ことによる
ものであるという事が明らかになった。
第二章では、この作品では「話を語り聞かせる」という行為が大きな役割を果たしてい
るということから、3つの場所についての話を誰が、誰に対して、どの様に語り聞かせて
いて、その「語り」を聞いた登場人物がどの様な反応を示しているか検証した。その結果、
児童文学特有の教訓物語としての一面がここに表れていること、および、語りを利用して、
読者が登場人物と同じ様な体験が小説を通してできるように仕向けるという、読者に対し
て働きかける構造をバーネットはこの小説の中で用いているということを明らかにした。
第三章では、第一章および第二章で指摘したもの以外にも、色彩表現など様々な部分で
表現に工夫を加えられているということを証明した上で、バーネットはこの作品を通じて
何をしようとしていたのかということについて検証する。その結果、三つの場所が作品全
体に何らかの効果を与えているというよりも、バーネットは三つの特徴的な場所を利用し
てそれぞれ異なる表現技法を小説の中に取り入れる実験をしているのではないかという結
論に至った。ムーアへ一度も行くことなく終わっているのは、物語に大きく関係する重要
な場所(あるいは物事)の直接描写を最小限に抑えながらも、読者にその場所への興味を
抱かせるためのものである。そのため、二つの閉ざされた空間の中だけで物語が完結して
いるので、物語の中に適宜ムーアという開放的な空間を挿入することで、奥行きを出し、
閉鎖性や閉塞感をやわらげる効果を与えているのである。
以上のように、様々な表現技法の工夫がなされている『秘密の花園』は、単なる児童文
学としてだけではなく小説技法的な面からももっと研究・評価されるべき作品なのではな
いか。
H07B914B 捧
優花
Nadine Gordimer: Burger’s Daughter 研究
Nadine Gordimer の Burger’s Daughter(1979)のテーマとは、アパルトヘイトと呼ば
れる人種差別と女性差別という二つの差別の解放だと言われてきた。だが、まず題名に注
目してみると、Burger というのは南アフリカに移住してきた白人たちのことである。また、
作品中に描かれた黒人達の白人に対する考えと作品の中で頻繁に出てくるキーワードに注
目すると、南アフリカの革命家の家庭に生まれた白人女性ローザ・バーガーの物語を通じ
てバーガー子孫達の未来が暗示されていると考えられる。そこで本論文では題名に注目し、
この作品にはバーガー子孫たちの未来がテーマとなっていることを明らかにする。
まず第一章では、「鏡」、「ローザの顔」、「灯り」を取り上げた。まず、黒人に鞭打たれ
る「地を受け継ぐ弱く卑しいもの」の象徴であるロバと自身を重ね、その苦しみを味わっ
たことから、ローザがバーガーの子孫の姿と重なる。そして、ソウェト蜂起の描写も合わ
せて考察し、この作品の真実とは、黒人にとっては白人である限り白人はみな同じであり、
未来を共有できない反存在となる。さらに、ローザの横顔は英雄である父ライオネルの反
面であり、彼によって植え付けられた尺度からは逃れられない状態を示している。そして、
ローザの灯りに照らされた正面の顔がこの作品の真実を示していることをそれぞれ論じ、
彼女の物語にバーガー子孫の未来が暗示されていることの材料とした。
第二章では、ローザにとってのリアリティが「セックスと死」であることに注目したと
ころ、ローザが目撃したものの中で生殖に関係するローザの経血と一角獣を挙げ、考察し
た。さらに、一章で明らかにした真実と結末から、白人は黒人にとって‘place’
(住んでい
る場所だけでなく、精神的な繋がりも含む場所)も未来を共有しない反存在となる。よっ
て、ローザの月経が女性側から、一角獣の角が男性側から生殖能力の停止をそれぞれ表し、
バーガー子孫達の「絶滅」の未来を白人ホームレスの死が象徴することを明らかにした。
三章では、まず、「ヨット」、「螺旋形と渦巻き形」、「海」の三つのキーワードに注目し、
物語をノアの箱舟の物語と当てはめて考察した。すると、螺旋系と渦巻き形の描かれ方の
違いから「漂流」か「刑務所」という二通りの未来が暗示されているとまず仮定した。
次に、確かに白人には境界は無いが、社会への関わり方でノアの救いの船に乗せる未来
への備えが異なっていることをそれぞれ考察した。社会の現状から目を背ける innocent(無
知=無実と考える)バーガー子孫達は未来への備えが無いために漂流し、白人難民となる
未来が暗示されている。他方、白人がイニシアティブを取る革命こそが、白人と黒人が共
有できる未来を作ることができると勘違いしたバーガー子孫達は、革命という未来への備
えを船に乗せた。しかし、黒人から断絶されていることに気づけなかった彼らは、ソウェ
ト蜂起では攻撃の対象となった。白人政府からも黒人政府からも反発者として扱われるだ
ろう彼らには、刑務所という未来が暗示されていることをそれぞれ明らかにした。
以上、この作品は、アパルトヘイト崩壊と共に、黒人たちと未来を共有できない反存在
となってしまうバーガー子孫たちの「絶滅」、「漂流」、「刑務所」という未来がテーマとな
っている。
渡辺
宏樹
『ハックルベリー・フィンの冒険』論
―金めっき時代の「処世術の書」としての『ハックルベリー・フィンの冒険』―
本論文は、The Adventures of Huckleberry Finn(1885)(以下『ハック・フィン』)がその
執筆された金めっき時代の「処世術の書」として解釈できるという仮説を立証することが
目的である。
作品の舞台設定は 1840~50 年代のミシシッピー河流域であり、作品の中で 19 世紀後半
の金めっき時代の直接的な描写は見られない。しかし、作者マーク・トウェイン(Mark
Twain)が金めっき時代の一攫千金を求める時代風潮に染まっていたという事実に注目する
ことで、その時代風潮の影響、つまりアメリカ資本主義経済社会に関する描写を作中に読
み取ることができる。
第一章では『ハック・フィン』の一般的解釈とされている「自然児ハックルベリー・フ
ィン(Huckleberry Finn)による文明批判の書」という解釈に一貫性が見出せないことを論じ
る。作品には確かに文明批判的な側面も見られるが、トウェインがその文明的価値観に影
響されながら執筆していると思われる箇所もある。そのため「文明批判の書」という解釈
には一貫性が見出せない。
第二章では金めっき時代の資本主義社会における金銭万能という時代風潮を形成する一
助となったマーカンティル・エージェンシーという会社の存在に焦点をあてることで作品
にその風潮が表現されていることを論じる。この会社の目的は端的に言えば、「キリスト教
道徳を身に付けたビジネスマン」というアイデンティティを持った人間の養成である。作
品にはダグラス未亡人(the widow Douglas)という人物がキリスト教道徳の象徴として、そ
してゲイリー・リンドバーグ(Gary Lindberg)が 1982 年に論じた説を考慮するとトム・ソ
ーヤー(Tom Sawyer)がビジネスマンの寓意として描かれていることが読み取れる。
第三章では第二章で論じたことを踏まえ、多くの研究者によって議論されてきた作品の結
末の問題に焦点をあて、作品の解釈を試みた。まず、第二章で論じた説を考慮したときに、
主人公ハックはダグラス未亡人ともトム・ソーヤーとも異なる人物、つまり金めっき時代
が求める人物像とは異なる社会における周縁の人物であるといえる。作品の結末部分では、
そのハックがトムに一定の理解を示す姿が描写されているが、この箇所を、「文明」を象徴
するトムによる「自然」を象徴するハックの支配として捉える研究者は多い。しかし、私
はこの部分を金銭万能という時代背景に則して解釈する場合において肯定的に解釈できる
と論じた。つまりビジネスマンの寓意としてのトムに対するハックの理解は、金めっき時
代の背景を考慮すると時代を生きる抜くための一つの処世術を身に付けたという成長と捉
えられるのではないだろうかということだ。
以上のように私は本論文において、作者トウェインが時代風潮に染まって一攫千金を求
めていたという事実に注目することで『ハックルベリー・フィンの冒険』が「文明批判の
書」としてだけではなく、「処世術の書」としても解釈できるということを論証した。
H04B297G
卒業論文概要
田中真奈美
ロバート・メイプルソープ研究
―ゲイの写真家としての役割―
ロバート・メイプルソープは写真における形式美の超越さを評価される一方、黒人を物
体のように撮ったことによる人種差別主義者など、両極端な批評が多くされてきた。しか
し、そのどちらもメイプルソープの内面については触れられていないし、彼の写真を芸術
表現のひとつと見なす一方で倒錯した芸術とも見なしていることも事実である。したがっ
て、本論ではメイプルソープの内面と写真との結びつきを基に彼の写真を読み解くことで、
これまでのメイプルソープ論とは違った解釈を提案し、彼がゲイの写真家として果たした
役割について考察することを目的とした。
第一章では、タブー視されてきた同性愛が性革命によって解放される過程を明らかにし
た上で、メイプルソープのゲイとしてのアイデンティティが形成される要因と写真を撮る
要因を考えた。それは、メイプルソープの育った環境が厳格なカトリックであったことや
当時の時代背景が自己分裂へと導いたことが、ゲイというアイデンティティを抱くように
なった要因であるとした。また、写真を撮ることは白人男性中心主義のアメリカ社会や保
守的なピューリタン的道徳に対して挑戦と抵抗をする要因であると考えられる。
第二章では、まずメイプルソープへの批評を比較することで私なりの写真の読み解き方
を提示した。それは、写真の複雑さの中にある「単純さ」とそれを維持する「緊張感」だ
と考えられる。さらに、メイプルソープの写真の特徴でもある「二面性・両極性」を明ら
かにした。そこからはメイプルソープが暗示していることが読み取れ、それは私たちが社
会によって形成された、もしくはすでに抱いている性、黒人、ゲイに対するイメージや固
定観念を錯乱し、それらを再定義することを鑑賞者に促す目的があると考えられる。
第三章では、主にメイプルソープのセルフポートレイトを取り上げることで、それが彼
の自己探求の結果であることを明らかにした。メイプルソープはセルフポートレイトにあ
えて「死」、「悪魔」、「ナイフ」などの負の要素を表現することで、逆説的に自分のアイデ
ンティティから生じる罪の意識へと立ち向かおうとしていると読み解いた。
以上のように、私たちは彼の写真をただの性の解放や自己解放として理解するのではな
く、私たちが当たり前のように抱いている固定された性からの脱却を通して、人間にも個
別性があるように性にも多様性という個別性があるということを理解すべきであると求め
られている。つまり、メイプルソープの写真を解釈することによって、現代の私たちにア
イデンティティやセクシュアリティとは何かを問い直すきっかけを与えてくれることにお
いて、メイプルソープはゲイの写真家としての役割を果たしていると結論づけることがで
きる。
卒業論文概要
朝野智仁
新潟大学人文学部英米文化履修コース
トクヴィル研究
―民主的社会の問題点に対して宗教と利益の理論が果たす役割―
Alexis de Tocqueville は『アメリカの民主政治』において、なぜアメリカにおいて民主政
治が繁栄することが可能なのかを考察すると同時に、民主主義社会に内在する、
「多数者の
専制」および「民主的専制」といった問題点を発見した。Tocueville はまた、アメリカ社会
を観察する中で、これらの問題を緩和し、解決するための要素も発見した。それが宗教と
「正しく理解された利益」の理論(以下「利益の理論」とする)である。本論文において、
私はこれら二つの理論の役割の違い及びその妥当性について考察した。
第一章においては、民主的社会の特徴である、「諸条件の平等」によって世論への服従や
他者や公共の事柄への無関心を生み出し、「多数者の専制」や「民主的専制」が起こるとい
うことを明らかにし、そして、それらを解決するために、宗教と利益の理論が類似した役
割を果たすことを示した。どちらの理論も人の行動を抑制する理論であり、他者とのつな
がりを作り出すことによって上記の問題点を解決するという点では一致している。では、
なぜ類似した二つの理論が必要であったのか、また、何か役割の違いがあるのかというこ
とを Tocqueville は本文中で明らかにしなかった。
第二章においては学説をもとにしてこれらの理論がどのように位置づけられているのか
を明らかにした。主要な学説においては、Tocqueville は当初、宗教が民主的社会において
主要な役割を果たすと考えたが、民主的社会がその性質上、人々を富の追求に向かわせる
ため利益の理論のほうが民主社会に適した理論だと考えるようになったこと、そして宗教
自体が「多数者の専制」を生み出す可能性があるため、利益の理論の方がより有力になる
と Tocqueville が考えていたことが明らかにされている。さらに、当時のアメリカは世俗化
が進んでいたこと、そして宗教自身が「多数者の専制」を生み出す可能性があったことを
指摘する学説も存在し、こうしたことを考慮すると宗教は民主的社会の問題を解決できな
いのではないだろうか。
第三章においては、1830 年代に起きていたリヴァイヴァリズムを手掛かりにして、社会
情勢に照らして宗教と利益の理論のどちらが有効なのかを考察した。リヴァイヴァリズム
は人々に「善行」を通じた救済を説き、それを達成するための手段として政治活動を選択
した。しかし、リヴァイヴァリストたちは、「善行」が奴隷の解放や禁酒運動などといった
特定の活動を通して実現できるものと考えており、宗教が政治に関わる分野は限定されて
いたことを意味するので、宗教は「多数者の専制」や「民主的専制」を解決するために作
用するが、それは特定の分野に限られることが分かる。同時に宗教は特定の分野において
のみ「多数者の専制」を生み出しうるが、それをもってトクヴィルの宗教理論の妥当性を
否定することはできないといえるであろう。一方、利益の理論に関しては主として経済的
な分野において機能すると言えると考えられる。Tocqueville が訪れた当時のアメリカは銀
行戦争など、経済に関する問題が主要な政治的課題となっていた。そのため「利益の理論」
の方が役割を果たす場面が多かったのではないだろうか。
佐藤 浩貴
ニューエイジ研究―なぜアメリカで起こったか―
「ニューエイジ(New Age)」とは、アメリカ合衆国において、1960 年代に顕在化され、
1970 年代から次第に影響を世界的に及ぼし、1980 年代から 90 年代にかけて世界的な霊的
潮流となってきている運動である。日本でも「精神世界」と呼ばれるジャンルの多くがニ
ューエイジの影響を受けている。世俗的な可能思考、念力やテレパシー、チャネリングや
霊媒、霊視、予言、ヨガの瞑想、リラクゼーション、統合医療などを用いて、キリスト抜
きで人々に神秘的な解放をもたらそうとし、結果として、反キリスト・反既存宗教の方向
へ導いている霊的流れであり、教育、ビジネス、医療、宗教など多面に浸透している。
ニューエイジはこれまでも多くの研究者によって研究されてきた現象であるが、ニュー
エイジの領域があまりにも広大且つ曖昧なせいか、その概念化や、個々のニューエイジグ
ループ及びニューエイジ文化の研究に集中しており、そもそも何故アメリカにおいて誕生
したのか、その原因が明確に検証されてこなかった。そこで本論では、既存宗教への関心
が高いアメリカで、なぜ既存宗教と異なるものを目指すニューエイジが生まれたのか、そ
の背景を整理・検証することを通して、アメリカにおけるニューエイジの意義を考察する
ことを目的とした。
第一章では本論におけるニューエイジの概念化を試みた。前述のとおり、世界的潮流で
あるニューエイジは研究者によってその対象範囲や概念も様々である。そこで著名な先行
研究を比較した結果、本論のように“アメリカのニューエイジ”について限定した考察を
行う場合には、Heelas の説をモデルとするのが適当であると分かった。即ち、
「ニューエイ
ジャー(自己の内部や自然の秩序全体に潜んでいる内的なスピリチュアリティこそが、人生
の間違ったものを正しく変えていく、と主張する人々)によって生み出された、組織性を備
えた宗教運動から各種のセミナーやニューエイジ・ショップまでを包括する総体」として、
アメリカのニューエイジを規定した。
第二章では、アメリカでニューエイジを誕生せしめたと思われる具体的な要因について、
個々に考察した。その結果、一般にニューエイジの直接的起源と言われる「抵抗文化(ベト
ナム戦争末期の厭戦ムードや、行き過ぎた資本主義の矛盾を受けて若者が既存の文化に敵
対するものとして生み出した文化)」はニューエイジ誕生の基礎となったに過ぎず、
「折から
の世俗化」で既存宗教の束縛が緩み、新しい宗教的運動・文化が生まれやすくなっていた
ことや、それを促進する「アメリカ固有の強い個人主義」といった要素が、抵抗文化に深
い宗教性を与え、ニューエイジを生み出したことが分かった。
第三章では、その後のニューエイジについて考察した。組織化した運動はニューエイジ
と類似の新興宗教と同一にカルトとして危険視され、ヨガやヒーリングなどのニューエイ
ジ文化は消費社会に取り込まれ「商品」として注目されている様に、ニューエイジは未だ
既存宗教のアンチテーゼとしてあり続けている。しかしながら、二章で挙げたニューエイ
ジ誕生に関わる 3 要素は、どれも反既存宗教ではあっても反宗教ではなく、むしろニュー
エイジは宗教の新たなあり方を模索していたといえる。よって、現代アメリカで「宗教」
と言うよりも、もっと大きな「聖なるもの」への関心が高まっていることの象徴として、
ニューエイジは重要な意義があったと結論付けられる。
H05B238F
卒業論文概要
清野真弓
銃規制とアメリカ社会
大量の銃が氾濫しているアメリカ社会において、アメリカ国民の 4 分の 3 が合衆国憲法
によって個人の銃保持権が保障されていると信じているが、半数以上が現行法より一層厳
しい銃規制を望んでいるという調査結果がある。しかし、実際は銃規制を推し進めること
は容易ではなく、なかなかうまくいってないのが現実である。その原因を明らかにし、ア
メリカ社会が今後どうなっていくのか将来の展望を探ることを本論文の目的とした。
第一章では、現在のアメリカ銃社会がどのように形成され、歴史の中で銃が人々にとっ
てどのような役割を担っていたのかを述べた。銃による暴力の文化の起源は入植時代に溯
り、フロンティア時代にアメリカ独特なものへと形成され、その後の独立戦争は民間に武
器が普及させるきっかけとなった。銃文化が今日でも存在している大きな原因の一つには、
メディアがそれを伝えてきたことが挙げられる。歴史の中で、人々にとって銃を所持する
こととは、自己防衛の役割を果たすという意味をもつことが共通している。
第二章では、アメリカにおける銃社会、犯罪の現状、また成立した銃規制法について述
べた。ガン・ディーラーのライセンスの取得の簡易さ、ATF の人員不足により銃が犯罪者
の手に渡ることで銃暴力犯罪の増加を招き、人々は自己防衛の為に銃を求め、結果として
大量の銃が国内に氾濫している。しかし、銃所持によって自分や子供を含む周囲の人間に
危険を及ぼす可能性があり、銃による犯罪を減らすには国内に氾濫する銃の数を減らすこ
とが重要であると述べた。これまでいくつかの銃規制法が制定されたが、効果はあまりな
く、銃規制反対派の活動によって緩和され、銃規制がうまくいってないのが現状である。
第三章では、銃所持派と銃規制派の主張を明らかにし、それぞれが主張する憲法修正第
二条の解釈について述べた。これまで同条文は連邦最高裁でその解釈を巡って何度か議論
されている。この規定が成立した歴史的、思想的背景から考えると、銃所持派、銃規制派
が主張する両方の解釈は可能であるが、現代のアメリカ社会と同条文が制定された時代の
アメリカ社会は全く異なっていることが明らかであり、同条文は現代において有効的では
なく、このまま議論を続けることは何の解決も生み出さないということを指摘した。
終章ではこれまでの結論と将来の展望を述べた。2008 年に連邦最高裁が修正第二条の解
釈として個人的銃保持権を認める判決を下したが、これによって銃規制は違憲ということ
になる可能性もあるし、火器の保有を禁止している州法や市の法律において同条文とは無
関係ということを主張し続けてはいられなくなるかもしれない。同条文を廃止すべきとの
意見もあるが、廃止に至るまでには多くの困難が待ち構えており、銃規制問題は混沌とし
ている。しかし、アメリカの銃犯罪を減らすには、やはり銃を規制し、州や都市によって
銃規制に関する法律や制度を国内で統一することが必要である。そのために、銃所持派と
銃規制派の主張の妥協点を見出して両者の意見を汲み取り、組織からの圧力を受けずに国
の将来を考えることが出来る政治家が求められる。
卒業論文概要
H05B261A
星野
純
戦場のアメリカン・ヒーロー
―繰り返される戦争のなかで生まれたアメリカン・ヒーロー像の考察―
アメリカはヒーローを崇める国である。かつてのアメリカン・ヒーローたちは、国民の求める
「帰属意識」と「神話」を体現し、また国民の代弁者となり語り継がれてきた超人的存在であっ
た。しかしアメリカは幾度となく戦争を繰り返してきたため、その従来のヒーロー像は歪められ、
新たなタイプのヒーロー、「戦場のアメリカン・ヒーロー」の崇拝が生まれていた。本論文では、
そのヒーロー像を考察してきた。
まず第一章では、第二次世界大戦帰還兵とベトナム戦争帰還兵とを検証し、彼らの英雄像を探
った。彼らに共通して見られたのが、強い「仲間意識」と究極の「自己犠牲」の精神、そして「名誉
勲章(Medal of Honor)」の受章であった。多くの兵士たちが「自己犠牲」を示した際にその名誉勲
章を受章し、アメリカではこの勲章を受章したものは「ヒーロー」として崇められる。イラク戦争
において「戦場のヒロイン」となったジェシカ・リンチ上等兵についても検証したが、彼女は偽
りのもとに国家によって戦争のプロパガンダとしてヒロインに仕立て上げられてしまい、真のヒ
ロインとして崇拝の対象となることはできなかった。
第二章では、9.11 において人命救助に尽力した消防士たちを検証した。その「9.11 のヒーロー」
たちが体現していたのはやはり究極の「自己犠牲」の精神であり、それはアメリカ本来の助け合い
の精神やカトリック文化の影響を受けていた。そして彼らは、「自己犠牲」に真の意味や価値を与
えていた。さらに、その 9.11 の後のイラク戦争を、ブッシュの「善悪二元論」にそって考察した。
そこでは、全てが「キリスト教対イスラム教」、「敵か味方か」、「善か悪か」という二項対立の中
に存在していた。「ヒーロー」もみな、「善か悪か」「敵か味方か」という二項対立のなかで存在し
ており、彼らはその二項対立の中で常に葛藤しているという傾向があった。
第三章では、戦場のアメリカン・ヒーローたちが抱いている「愛国心」の排他性を考察した。ア
メリカ人の持つ愛国心は、自分の属している生活様式を外から侵害しようとする者が現れた場合、
それに対して防御的に攻撃する傾向がある。戦場の「ヒーロー」たちが抱いていた愛国心にも他を
攻撃する危険な排他性が見られ、今そこに、愛国心の排他性を否定する「憂国心」や、自分たち
を「世界市民」であると考え、そして敵をも愛そうとすることが必要とされている。
以上のことから、「戦場のヒーロー」は、他者ではなく自らが、強い「仲間意識」や究極の「自己
犠牲」を体現している。また、9.11 の英雄像は「戦場の兵士にはない、国民の求めるアメリカ本
来の精神(助け合いの精神)を体現し、
“自己犠牲”に真の意義を与える戦場のアメリカン・ヒ
ーロー」であった。しかし彼らは、「善悪二元論」の中で存在していたため、従来のアメリカン・
ヒーローの強くたくましい超人的存在というものではなく、「不条理な現実に悩み葛藤する」と
いう「ヒーロー」であったと考えられる。そこで、彼らが愛国心の本質である憂国の情や、「世
界市民」という考えにもとづいた他や「敵」をも愛そうとする姿勢が備われば、「戦場のアメリカ
ン・ヒーロー」は更に、そして真に崇拝される存在になると考えられる。
本間
真珠
Twixters 研究
~Twixters とアメリカ社会の変容~
現在のアメリカでは、職を転々と変え、結婚もせず親と暮らし、享楽的とも思える生活
を続ける若者の増加が問題となっている。20 世紀のアメリカには、「恐慌の子どもたち」、
「ベビー・ブーマーズ」
、
「ジェネレーション・X」など、人口統計学的に 3 つの世代が存在
したと言われているが、現在問題となっている若者たちは、過去に世代論として様々な名
前がついた若者たちのように一時的なブームとして捉えられているのではなく、持続的な
現象として捉えられている。人々の成長は、かつて、子ども時代から青年期、青年期から
成人期へと移行するものであったが、今日においては、青年期と成人期の間に新たなライ
フステージが存在すると考えられているのである。この大人とも子どもとも見なされない
若者たちは、twixters と呼ばれている。本論文では、twixters と呼ばれる若者たちが、ア
メリカで増加の一途を辿っている理由を解明し、twixters とはどういった存在であるのか
を明らかにすることを主題とした。
第一章では、twixters の教育、仕事、結婚についての考え方を考察した。twixters は、
教育を終えても、なかなか定職に就かず、転職を繰り返し、結婚をせず、社会的に大人と
見なされない。twixters がそういった行動を取るのは、自己実現や自分探しを重要視して
いるためと思われる。また、それを支える社会システムが存在し、何度でもやり直せる環
境が整っているのである。こうした社会システムに後押しされて、自己実現や自分探しを
重んじる若者が増加していると考えられる。しかし一方で、借金や雇用の問題を抱え、社
会的に大人になろうとしてもなれない twixters もいると考えられる。
第二章では、1990 年代のアメリカのグローバリゼーションと IT 革命の時代に焦点を当
て、その twixters への影響を考察した。その時代アメリカでは、グローバリゼーションと
IT 革命によってニューエコノミーという考え方が生まれた。ニューエコノミーは多くの富
を見出したが、一方で非正規労働者を大量に生み出し、若者の労働市場を崩壊させた。そ
のため、若者が経済的に独立するのは、かつてよりも困難になっている。
このことが twixters
の増加の一因となっていると考えられる。
第三章では、アメリカ社会の 2 つの特質に焦点を当て、自己実現や自分探しを重要視す
る twixters への影響を考察した。まず 1 つは実験の精神である。歴史的に考えると、アメ
リカはピューリタンの理想を原点とした実験の精神が満ち溢れており、アメリカの人々は
困難に直面した時に失敗を恐れずアメリカをより良い方向に導こうと努力してきた。アメ
リカにはこういった風潮があるからこそ、何度でもやり直しがきく社会システムが構築さ
れ、自己実現や自分探しを重んじる人々が生まれてくるのだと考えられる。アメリカのも
う1つの特質として、民族の多様性が挙げられる。そこでは、マイノリティーの文化的ア
イデンティティの喪失が問題となってくる。文化的アイデンティティを見失った人々は、
独自のアイデンティティの確立を自己実現や自分探しの場に求めるのではないだろうか。
以上のことから、twixters の中には、自ら twixters となった者と、twixters とならざる
を得なかった者がいることがわかる。私は前者が多数派なのではないかと感じる。自己実
現や自分探しを重要と考える風潮は、今日のアメリカ社会に強力に根付いているからであ
る。twixters はそうしたアメリカの文化の表れである。
卒業論文概要
H05B266A
松田未希
ローザ・パークス研究
―彼女が成功した理由とは―
ローザ・パークスは 1913 年にアラバマ州のタスキーギに生まれた。彼女は 16 歳で裁縫
工場に就職し、1932 年に全国黒人向上協会(NAACP)の活動家であったレイモンド・パ
ークスと結婚。その後は、裁縫労働者として働く傍ら、NAACP のメンバーとして書記や、
モンゴメリー支部青年部のリーダーを務めた。1955 年、当時 42 歳だったローザ・パーク
スは、モンゴメリーの市営バスに乗車中、運転手の命令に従わず白人に席を譲ることを拒
み逮捕された。彼女の逮捕は訴訟へと発展し、さらには、モンゴメリーでの一年以上にわ
たるバス・ボイコット運動の引き金となった。彼女の勇気ある行動は伝説的となり、ロー
ザ・パークスは現在「公民権運動の母」として世界中で知られている。
確かに、ローザ・パークスは本人も自伝 MY STORY の中で述べているように、裁判の起
訴人に大変適した人物であり、「アメリカ公民権運動の母」という賞賛に値する人物であっ
たということに異論はない。しかし、彼女の逮捕が訴訟へとつながり、バス・ボイコット
運動が成功した背景には、他に様々な要因があったはずである。本論文では、それらの要
因を明らかにし、それらがいかに働いたのかと言いうことについて考察した。
第一章では歴史的背景に焦点をあて、1955 年までの NAACP や WPC の活動が、パーク
スの逮捕を訴訟へと導いた、重要な要因であったということを明らかにした。当時、NAACP
モンゴメリー支部は、市営バス内における人種隔離をたてに、モンゴメリー市当局を告訴
することを考え始めていたが、それには適切な起訴人と説得力のある訴訟事実が必要であ
った。1955 年という年は、まさに変革の時であったに違いない。また、第一章では黒人の
意識改革がバス・ボイコット運動を成功させた重要な要因であったことを明らかにした。
第二章では、1955 年までのローザ・パークス自身の活動家としての取り組みを観察し、
それまでに築き上げた幅広い人脈が、彼女の成功には不可欠であったということを明らか
にした。ローザ・パークスは夫をはじめとし、人種差別撤廃のために闘う多くの活動家か
ら、強い刺激を受けていたということがわかった。
第三章では、ローザ・パークスの性格について考察し、論文の第二の目標であった「強
さをもった女性」として彼女を捉え、彼女がバスにおいて勇気ある行動をとることが出来
たのは、家族の教えや厚い信仰によって支えられた強さがあったからであったということ
を明らかにした。また、彼女が席を譲ることを拒んだのは、尊厳を守るためであり、ロー
ザ・パークスは生涯を通して尊厳を守り続けた女性であったと述べた。
卒業論文概要
長瀬 悠
新潟大学人文学部英米文化履修コース
トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』研究
―ホリデー・ゴライトリーの“捉えがたさ”―
本論文では、
『ティファニーで朝食を』(1958)の主人公ホリーの“捉えがたさ”に着目し、
それが作者の意図によるものかを検討し、その設定の理由や意義を考察した。
ホリーの複雑な内面は、彼女が孤児であったことから形成されたものが多い。彼女は幼
い頃に無償の愛が与えられなかったために、自分で自分の存在価値を守るしかなかった。
そのために、彼女は一方で他人に受け入れられることを強く望み、その一方で、自分の意
志が尊重され自由であることにもこだわった。更に彼女には、自分自身の出生や自身の内
面を、必要以上に知られまいと、それらを隠そうとする性質がある。それは彼女の話し方
や、外見に表れている。このように彼女は複雑な内面を持ちながら、更にそれを隠そうと
するので、“捉えがたい”存在になってしまうのである。
また、彼女を語る語り手は、ホリーをできるだけ客観的に描写しようとしながらも、ホ
リーに愛情を持つ存在である。愛情を持つ存在ゆえに、語り手はホリーに引きつけられた
り、逆に激しい嫌悪を覚えたりと、その気持ちは大きく揺れ動いている。このような語り
手の立場の揺れがあるために、読者は語り手の視点に強い影響を受けやすく、ホリーとい
う人物を正確に捉えにくくなる。そして、語り手の性質以外でも、作品全体が回顧録であ
ることなど、ホリーと読者に距離を持たせるような仕掛けが見られる。これはカポーティ
が意図的にその距離を作り出したと考えざるを得ない。
このようにホリーが意図的に“捉えがたい”存在として描かれているのにも関わらず、
作者カポーティには、結ばせようとするホリー像がある。その手がかりとなるのが、作品
中に繰り返し出てくる象徴である。作品中に繰り返し表れる“旅”や“移動”を表すモチ
ーフ。これらが象徴しているのは、ホリーが移動を続けなければならない存在だというこ
とだ。ホリーが旅を続けざるを得ない理由は二つある。
一つ目は、彼女の求める安住の地は、現実世界では実現不可能であることだ。なぜなら
その安住の地とは、自分をありのままの姿で受け入れてくれるだけでなく、そのことによ
って何の見返りも、責任も求めない場所だからである。このような場所は、現実世界では
ほとんど実現不可能なのだ。作品のタイトルとなっている “Breakfast at Tiffany’s”という、
矛盾を含んだフレーズも、ティファニー宝飾店で食事をとることができないように、彼女
の理想が実現不可能であることを暗示しているのだ。
二つ目は、彼女は他人に寄りかかることも、そして他人から理解してもらうこともでき
ないため、“コミュニケーション不全”に陥っているということだ。そのために、問題を自
分ひとりで抱え込むしかなく、不安要素を分散できない。そして彼女はそのような自らの
傷つきやすさや弱さを直感的に自覚しているために、現実に起きている問題に対して、雄
雄しく立ち向かうことができないのである。
これらを踏まえると『ティファニーで朝食を』は、崩壊してしまいそうな美しさ、儚さ
を持った女性に対する、一種のオマージュとして読むことができる。作者カポーティは、
何重もの仕掛けを用いてホリーの“捉えがたさ”を全面に出すことで、人の理解を得にく
く人知れず崩壊へと向かってしまう女性を、作品全体を通して表現したのである。