zyesuimi.doc (B5). H. Ueda 白水社『スペイン語ジェスチャー小辞典』 【解説】 上田博人 0.はじめに よく知られているように人のコミュニケーションは必ずしも音声や文字による言語 (ことば)だけで行われているわけではない.ある研究者によれば,アメリカ人の日常 的な会話の中で,ことばが伝えるメッセージの量は全体の 30-35%に過ぎず,残り の 65-70%は音調,間の取り方,表情,しぐさなどノンバーバル・コミュニケーション (Non-verbal Comunication: NVC)によるものであるという(Birdwhistell, 1970).また, 聞き手への感情を示すのに,言葉による表現はそれほど重要ではなく(わずかに 7%),むしろ顔の表情(55%)や声の調子(38%)が優勢で,もし言葉と表情が矛盾す るときは,表情によって伝えられる感情のほうが優先し,それによってメッセージ全 体のインパクトが決まってくる(Mehrabian, 1981).これも,私たちの経験からうなず けることである. このように,コミュニケーションの場において重要な役割を果たしている NVC の要 素は,後で見るように,言語学,心理学,社会学,文化人類学やコミュニケーション 理論などの分野でさまざまな方法を用いて研究されている.スペイン語学の中でも 最近重要な研究が次々に発表され,注目されている(Saitz 他 1972, Meo-Zilio 他 1980, Martinell 他 1990). 私たち日本人を含めた東洋人は一般に,顔の表情や身ぶり(ジェスチャー)で表 現することは少ないと言われる.一方,スペイン人やラテンアメリカ人を含むラテン 系の民族は表情やジェスチャーが豊かなことで知られている.このように両者は対 照的なので民族間の比較研究にはよく取り上げられ,興味深い比較考察がなされ ている(金山 1983, Forment Fernández 1996). そこで,日本人の立場からあらためてスペイン語圏の人々の身ぶりを調べ,比較 的重要と思われるものを拾い出して辞典の形にしたのが本書である.ここでは,ジ ェスチャーの範囲と機能,その研究方法,そしてスペイン語教育への応用面などに ついて概観してみたいと思う. 1 1.非言語伝達(NVC)の中のジェスチャー ジ ェ ス チ ャ ー (gestos) は 非 言 語 伝 達 (NVC) の 一 部 に 過 ぎ な い . 小 林 (1991:684-687)によれば,NVC 要素は以下のように大きく2つに分類できる. • 音声的要素…声量,声の高低,声の質,話し方などの音声特徴.人の生 まれ,育った環境,性格,心理状態などを知る手がかりとなる. • 身体的要素…外見的特徴,空間行動,身体接触,身体動作. 音声的要素は言語学の中では「周辺言語学」(paralingüística)と呼ばれる分野で 研究される.ここではとくに二番目の身体的要素に注目しよう.まずはじめに,外見 的特徴としては顔つき,体つき,髪・肌の色,付加物(化粧,服装,眼鏡,持ち物, 香水など)が挙げられる.これらがコミュニケーションの要素だとするのに異論があ るかもしれない.しかし,私たちは会話をはじめるときに,相手の様子を観察し,そ の特徴から人物に関する情報を読みとろうとするものである.これは初対面のときと くに当てはまるだろう.私がメキシコの大学である教授と話していたときの経験であ るが,秘書が私の後の未知の面会者が到着したことを告げたとき,その身なりにつ いても説明していたのは印象的であった.どの社会にも大なり小なりあることだが, とくにスペインやラテンアメリカでは服装がひとつのメッセージになっているようだ. 身体特徴は簡単に変更できないので,それにメッセージ性があるというのでは人 を差別していることになる.これも,あまり厳密に考えないで,私たちが抱きやすく, だまされやすい第一印象のことを思えば,理解されるだろう. 空間行動.ある文化人類学者の研究によると,物理的な対人距離は文化によっ て差異がある(Hall, 1959, 1966, 1968).次はアメリカ合衆国の人が見える4段階の 距離を示している(千野編 1995,「ノンバーバル・コミュニケーション」の項).これが アラブ人となるとずっと距離が小さくなる,という. 2 * 密 接 距 離 個 人 距 離 社会距離 公衆距離 intimate personal social distance public distance distance distance 音声的特徴 ささやき声 小さめの声 普通 大きい声 話題 秘密の事柄 個人的話題 半公的話題 公的話題 物理的距離 0 - 0.5m 0.5 - 1.2m 1.2 - 3.7m 3.7m- 日本人ならば,これらの距離はより大きくなり,スペイン人やラテンアメリカ人では より小さくなるだろう.このように対人関係の距離と空間における記号性を研究する 分野を「近接学」(proxémica)という. 身体接触.スペイン人は挨拶のときに頬にキスをしたり,抱き合ったりする.日本 人ならば距離を保ちながら,おじぎをしたり,手を振ったりする.このように接触の問 題は比較文化的な視点から研究されることが多い(小林 1991:686). 身体動作.ジェスチャーは身体動作の代表的なものであるが,他にも顔の表情, 姿勢,まなざしなどが含まれる.これらを研究対象とするのが「動作学」(kinésica)で あり,実に多くの研究成果がある(Knapp 1978). 空港の待合い室などでそれぞれの会話の輪を見ると,これらの NVC 要素と言語 は独立して存在するわけではなく,自然な形でコミュニケーション全体を構成して いること,そして言語文化の違いによって様子が微妙に異なることがよくわかる. 2.ジェスチャーの研究概観 先で見たように,ジェスチャーは非言語伝達(NVC)の一部ではあるが,その中で とくに重要な位置を占めている.また,音声による言語伝達との関わりも強い.欧米 ではこのジェスチャーを含めた身体動作の研究が盛んである.そこにはさまざまな アプローチの方法があるが,次に研究過程の順に沿って重要と思われるこれまで の研究を概観する. 2.1 記録 身体動作の研究はふつう帰納的な方法がとられるので,はじめに資料の収集が 行われる.収集方法には次のようなものがある. 1) 内省.自分の行動を振り返る.表明するにしろしないにしろ,多くの研究に は研究者自身の内省が含まれていると思われる. 3 2) 自然観察.他者の社会生活の行動を観察する.自分が属する文化を観察 する場合と他の文化を観察する場合がある.「ヒト」を対象とした自然科学 的な方法がとられることもある(Hall 1968, Knapp 1978, とくに 7 章). 3) 実験観察.一定の条件の下での他者の行動を観察する. 4) アンケート調査.面接を行ったり,質問票を渡して一定の形式に揃えた材 料を収集する. 5) 文献調査.文学作品(演劇・小説・随筆など)や非文学資料(ニュース記事 など).小林(1991)は 1960 年以降の比較的新しい英米の小説,戯曲,雑誌, 新聞か ら採 集した豊 富 な資料を体 の 各部の名 称によって分類した. Martinell (1995)はアメリカ大陸に到着したスペイン人が先住民と身ぶりに よって交信した様子を記録文献によって説明している. これらは一次資料の収集であるが,もちろん,先行研究を二次資料として使用す ることもある. 2.2 目録 記録したものを何らかの基準を設けて整理すると,身体動作の目録ができあがる. その分類基準には,身体動作の表象(形式)と機能(意味)がある.どちらも「辞典」 (diccionario)の形式をとる. 表象による分類は,視覚的な項目を立てて説明する方法(Morris 1977; 金山 1983; Archer 1988)と,言語表現に変えて項目にする方法がある(大木他 1985; 小 林 1991).機能(意味)を分類基準にする場合には,内容による分類(Martinell 他 1990) と 内 容 を 言 語 形 式 に 変 え て ア ル フ ァ ベ ッ ト 順 に す る 方 法 (Meo-Zilio 他 1980-83)がある. 本辞典はキーワードとなる言語形式を ABC 順に並べたものなので,どちらの分 類にもあてはまらない.ただし,巻末に身体部位の視覚的項目による索引を付して ある. 2.3 比較 身体動作は一言語文化内に限った研究(大木他 1985; Martinell 他 1990; Diadori 1990; 小林 1991),二言語文化間の比較研究(中野他 1985; Brosnahan 1988),多文化間の比較研究(Morris 1979, 1995)がある.また一言語文化内のバリ エーションを扱うこともある(Meo-Zilio 他. 1980, 1983).文化間の比較が行われる場 合には表象(形式)を一定にして,その機能(意味)の相違を見る方法と(金山 1983), 逆に共通する機能(意味)が文化の相違によって,どのような表象となるかを見る方 4 法がある(Saitz 他 1972). 2.4 発展 身体動作の資料の収集,整理,比較考察などを終えた上で,研究の理論化が試 みられる.この作業がなければ,以上の研究は「資料」に留まる.これらの膨大な資 料は,構造化,理論化,他分野との関連性の追求,応用などでの研究の発展を待 っていると言えるだろう. ブント(W. Wundt 1985:邦訳 45-92)はジェスチャーの発展過程について次のよう なモデルを示した. a) 指示的身ぶり.最も原始的なもので,視野にある対象物を示して,その対象を 注目させる.「私」,「これ」などの身ぶり. b) 叙述的身ぶり.空中に屋根と壁を描いて「家」を示す(模写身ぶり),ネクタイを 締める身ぶりで「男」を表す(特徴記述的身ぶり)など. c) 象徴的身ぶり.頭の上に両手の人差し指を立てて「怒り」を表したり,人差し指 をカギのように曲げることで「盗み」を意味するなど,抽象概念を表す. a)は b)に比べて本能的な動作のようであるが,それでも文化差がある(たとえば→ 本文●yo).最後の象徴的身ぶりは,前二者と比較して表現(身ぶり)と意味の関係 が恣意的であり,文化差が大きい.実際に最初のジェスチャーはスペイン語圏では 「侮蔑」を示すし(→●cornudo),また「盗み」を示す手の動きは異なる(→●robar).い ずれにしても,このモデルにはジェスチャーを内的に観察して,原始,具体,直接 から文化,抽象,間接に至る発展の経路が認められる. Knapp (1978)は「非言語伝達が人間の情報伝達にどのような影響を与えるか」と いう視点から,環境,外観,身体動作,顔の表情,話し方を論じている.記述は総 花的であるが,そこには情報伝達体系の全体性を志向した理論化の意図が見られ る. さらに,身体動作の文化差を認識した上で,異文化コミュニケーション論に発展さ せることもできる.Argyle (1975)の実験は,日本人の顔の表情はイギリス人,イタリ ア人にとって理解困難であるという結果となった.これら3つの文化の人々の顔のさ まざまな表情の写真を,それぞれの文化の判定者に示すと,理解度は次のように なった. 5 判定者↓・表情→ イギリス人 イタリア人 日本人 イギリス人 63 58 38 イタリア人 53 62 28 日本人 57 58 45 日本人の表情は,イギリス人とイタリア人だけでなく,日本人にとっても理解困難 であることがわかる(古田 1987:95-6).このように非言語伝達は文化固有の性格が あるため,異文化間コミュニケーションを扱う書物の多くで取り上げられている(たと えば Condon 1980, Sitaram 1985, 石井他編 1997 など).なお,身体動作研究の応 用面については後述する. 3.ジェスチャーの意味論 ここでは,人間のコミュニケーションの場で展開されるさまざまなジェスチャーのあ り方を次の3つの観点から考察する. 3.1 解釈可能性 人の身体運動には必ずしも伝達の意味や意図があるわけではない.むしろ量的 には他人にとって意味のない動作のほうが多いだろう.空港の待合い室を見渡し ても,すべての人の動作がメッセージであるとは思えない.たとえば,人が<座って いる>という姿勢だけではメッセージ性は生じない.しかし,たとえばここで,別の 人が近づいたとき,<立って挨拶する>という行為の代わりに<座ったまま>であ れば,そこに「(上下関係に基づく)尊敬・謙譲」という,いわば「敬語」が発生しなか ったことを示している.このように,ある特定の姿勢や動作はその状況・文脈によっ て異なる「意味」を帯びる. また,中立的な<座っている>という姿勢にも実は文化差がある.日本の女性に 見られる<足先を内側に向ける椅子の座り方>は,欧米人にはほとんど見られな い(野村 1984:27).これには内股歩きの伝統が考えられる.そして,同じ文化圏に 属さない他者にとっては,有標の形式,つまり中立的ではないと解釈される. 先に紹介した<日本人の表情>の難解なことは,解釈可能性を危うくしている. また,Archer (1980)はボディ・ランゲージの解読が必ずしも成功していない例をあ げている.ことばによる伝達行為と比較して,身体動作は多くの曖昧性をはらんで いる.とくに,伝達意図のない動作は解釈が分かれるし,そもそも解釈そのものを 拒むものも多いだろう.このように「解釈可能性」は段階的(gradual)なものである. 6 3.2 伝達意図 意味解釈が可能なジェスチャーの中には,明確な伝達意図がある動作と (→●cuenta, pedir, Siéntese),自然発生的な動作(→●dolor, impaciente, olvidarse) がある.前者は発話されたことばと同じ価値を持つため,話者は内容に責任が生じ る.一方,後者にはそのような責任はなく,また,本人もそのようなふるまいを覚えて いないこともある. 同じ動作でも伝達意図がある場合とない場合がある.「暑い」(→●calor)の動作は 自然に発生することも,また「暑い」ことに同意を求めたり,たとえば「窓を開けてほ しい」という意味をこめた伝達意図がある場合もある.しかし,話者にとっての伝達 意図の有無は明確であるし,多くの場合聞き手にとっても,その伝達意図の理解は 容易である.もちろん,異文化間では正しく理解されないこともあるので,要注意と なる. 3.3 恣意性 異文化間で解釈が困難なジェスチャーは,その<表現>と「内容」の間に自然な 関係がないときである.さきに取り上げたブントの「指示的な」動作ならば,たとえ異 文化に属する日本人でも解釈は容易である(→●aquí, tú).空港で観察される様々 なジェスチャーを理解するのに必ずしも同国人である必要はない.しかし,これも 相対的な問題で,同じ指示的なジェスチャーであっても「以前」(→●antes)や「これ から」(→●después)などの動作は,もしスペイン語による表現が随伴していなければ 日本人にとって解釈はむずかしいと思われる. むしろブントの「叙述的」身ぶりのほうが<表現>と「内容」の関係が自然である. スペイン語の例としては,「太っている」(→●gordo),「背が低い」(→●bajo)などが挙 げられる. 一般に,<表現>と「内容」の間に自然な関係がない,よって社会が異なれば両 者の間に不一致が起こるような関係を「恣意的関係」という.たとえば<イヌ>という 表現が「犬」という内容を表すのは,とくに自然ということではなく,言語が異なれば dog(英語), perro(スペイン語), chien(フランス語)など様々な<表現>で表される. このように<形式>と「意味」の関係は恣意的なものである. 同じようにジェスチャーも一つの言語記号として機能するときは,その<表現> (身体動作)と「意味」(身体動作が示していること)の関係は恣意的になることが多い. たとえば「一文なし」という意味は<人さし指と中指でV字形にして鼻をはさむ>と いう動作と必ずしも必然的な関係はない(→●sin dinero).日本人ならば,この動作 7 は理解に苦しむところである.他にも,「注意」を呼びかけるための<人差し指で目 の下に当てる>動作(→●cuidado)や,「喜び」を示す<両手をすり合わせる>動作 (→●alegría)など多数ある.これらは「象徴的な身ぶり」と分類されている. 以上の「意味」の有無,「伝達意図」,「恣意性」という3つの観点からジェスチャー を分類すると,次のようになる. * 恣意性 伝達意図 意味 例 a) × × × 呼吸,まばたきなどの本能的動作 b) × × ○ あくび(→●pereza) c) × ○ ○ 「ここ」(→●aquí) d) ○ × × 座っている姿勢 e) ○ × ○ 精神の集中(→●concentración) f) ○ ○ ○ 注意(→●cuidado) 本書は「ジェスチャー辞典」という性格を持つため,上の表からもわかるように, 「意味」のある身体動作だけを扱っている.そこで,意味のない a)と d)を除くならば, 恣意性と伝達意図という2つの観点から次の4つのタイプが分類される. * 恣意性 伝達意図 例 A)自発的ジェスチャー × × あくび(→●pereza) B)直接的ジェスチャー × ○ 「ここ」(→●aqu ) C)習慣的ジェスチャー ○ × 精神の集中●concentración) D)象徴的ジェスチャー ○ ○ 注意(→●cuidado) A)の「自発的ジェスチャー」(gestos espontáneos)では,その行為者はジェスチャー をほとんど無意識に行っていて,その<表出>も各文化に共通で,恣意性がない ものを指す.しかし<行為>そのものは何らかのメッセージ性を持っていて,たとえ ば<あくび>や<腕の伸び運動>は「退屈であること」や「同じ仕事に飽きている」 という意味を伝えている. B)「直接的ジェスチャー」(gestos inmediatos)はブントの「指示的身ぶり」と「叙述的 身ぶり」を含む.どちらも,位置や時,話し手と聞き手の関係などを示すという動作 や,人や物をジェスチャーで示すという行為に直接性という特徴が見られる.明確 8 な伝達意図があり,<動作>と「意味」の間に曖昧性は少ない. C)「習慣的ジェスチャー」(gestos habituales)は,<動作>と「意味」の関係はかな り恣意的で,言語文化間で差異が見られる可能性がある.しかし,言語文化内で は一つの習慣と化しているので,行為者は無意識に行っていることが多い. D)「象徴的ジェスチャー」(gestos simbólicos).言語文化に固有のジェスチャーで あって,<身体動作>と「意味」の間の関係は恣意的であって,社会の約束による. もちろん,言語文化を越えて共通することもあるが,それでも普遍性はない.この中 には,言語表現の「身体動作的模倣」(calco gestual)であるものも多い.たとえば, "¡Ojo!"「気をつけなさい!」と言いながら,実際に<自分の目を指さし>たり (→●cuidado),<まりつきの真似>をして,「おべっかを使う」(hacer la pelota)を意 味することなどが(→●adular),その例である. 上の表をよく見ると,上の A)から D)の順で言語らしさが増加し,異文化間での理 解を困難にさせていることがわかる. 4.ジェスチャーと言語 これまで見てきたように,ジェスチャーはさまざまな形態と意味をそなえ,言語によ る伝達行為を支えている.もちろん,ジェスチャーのない言語伝達,たとえばラジオ 放送や手紙文などもあるが,前者はしばしば繰り返しや話し方,スピード,声の質 や高低の変化などによって通信を支えているし,後者は反復して読むことができる. 自然言語の通信を確実にするには,このような冗長的・反復的な要素がかえって 有効である.対人コミュニケーションの場合,非言語伝達要素の重要性は先に見 た通りであるが,これも言語による伝達を支援する冗長的要素と考えられる.また, さらに身体動作の機能が優勢になると,言語を代替するジェスチャーも現れてくる. スポーツの審判員のジェスチャーや,人間とイルカ間のコミュニケーションで用いら れるジェスチャーなどは,完全にコード化された独立のシステムを形成している. 先に述べたように,確かにスペイン語圏でのジェスチャーは種類も量も豊富であ る.それはこの辞典で扱った材料を一覧してもわかることである.Knapp(1978)は, 「言語と非言語の体系は互いに複雑にからみ合っているので,それぞれの体系を 別々に扱うのは不適当である.基本的に話しことばにあらわれた行動と,話しことば にあらわれない行動の両方を同時に観察する方法が最も望ましいであろう」と述べ ながら,しかし,「不幸にしてこのような方法を開発する努力は今日までほとんどな されていない」ことを嘆いている.筆者がスペイン語学の分野を見渡しても,そのよ 9 うな研究は皆無に近い.広範な Cortes Rodr guez (1994)の文献録の分類にも見あ たらない(大倉 1997). 本辞典ではジェスチャーとともに使われる言葉を次のように太字で示してある. 例1:Quiero un trocito así de pastel, s lo para probarlo. ちょっとケーキの味見だけしたいので,ほんのこれくらいください (→●poco). 例2: Os apetece algo de beber? 君たち,何か飲みたい?(→●beber) 例3:Un estudiante: ¿Estás preparado para el examen? Otro estudiante: Así así. 学生:試験の準備できた? 別の学生:まあまあだね(→●m s o menos). これらの動作は,状況によっては言語表現を伴わず,つまりジェスチャーだけでも 理解される.筆者の息子(7 歳)は,食事中に「まだ気分が悪いの?」と聞かれて,茶 碗に口をつけたまま,例1の動作をしたことがある.これは言語文化を越えた自然 発生的なジェスチャーなのかもしれない. 全体的な言語研究の理想を実現するには,言語要素と平行して,NVC の各要素 の詳細な記述があることが望ましいだろう(Allen 他 1974). 5.おわりに ノンバーバル・コミュニケーション(NVC:非言語伝達)の観察には絶好である空港 の待合い室で,搭乗開始のアナウンスが流れると,それまでに様々な形でできあが った会話の輪がくずれ,旅客は一斉に搭乗ゲートに並ぶ.こうして言語行動と同時 に NVC も終了する.この概観もそろそろ締めくくらなければならない. これまでに見てきたように,身ぶり言語(ジェスチャー)の研究は NVC の一つとして 位置づけられる.そして,この NVC は,さらに大きく異文化理解や国際コミュニケー ションを考察する上で,避けることのできないテーマとなっている.NVC 要素を研究 の対象とするとき,研究者は多くの場合,先の旅客と同様に観察者の立場に留まる が,その応用面である教育の現場において,彼は俄然アクティブになる.これまで のスペイン語教育は得てして文字と文法に重点が偏りがちで,NVC はほとんど等 閑に付されてきたことは否めない(寿里 1973, ルビオ 1992, 水越 1994 などは例 10 外である).海外へ出かける機会も少なかったころは文法・訳読方式による文字言 語教育が中心となっていた.それが,国際化された現在では現代言語学・音声学 の知見を生かした音声言語教育へと重心を移してきている.ここで,その将来にも 思いを馳せるならば,さらに NVC 要素をも包括する行動言語まで見据えることが 必要になるだろう. スペイン語圏のジェスチャーを含めた NVC の研究と教育は,これからの発展が 大いに期待される.この辞典の作成者たちは日本とスペインにおいて,少しずつで はあるが,スペイン語教育の中にこれらの要素を取り入れてきた.しかし,まだまだ 試行錯誤の段階である.この辞典も,とくに注目に値するスペイン語圏のジェスチ ャーだけを収録したものに過ぎない.その点,体系性や網羅性に欠けるうらみがあ る.私たちの願いは,このささやかな辞典がスペイン語のノンバーバル・コミュニケ ーション研究・教育の火付け役になってくれることである. 参考文献 Archer, Dane. 1980. 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