**市町村アカデミー 特別講演** 歴史・文化を生かした 地域づくり ユネスコ設立の経緯 8 前ユネスコ事務局長 松浦 晃一郎 止するというのが、1970年条約です。 この1954年ハーグ条約と、もう1つの1970年の条 ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)が設立 約の2つで文化遺産、歴史的建造物、さらには文 されたのは1946年の11月です。第二次大戦の結果、 化財へのネガティブな影響を排除することを、ユ 歴史的な建造物が徹底的に破壊され、このような ネスコは最初に非常に力を入れたわけです。 ことをくり返してはいけないという反省が連合国側 しかし、それだけではもちろん不十分です。や にありました。ヨーロッパにおいては、まさにドイ はり、歴史的な建造物をもっと積極的に町づくりに ツを中心として、歴史的な建造物、ときには歴史 活用していくためには、歴史的建造物を常日頃か 都市といわれる都市全体が破壊される。それから、 らしっかり守っておく必要があるという問題意識が、 日本においてもまさに東京がそうですけれども、徹 1960年代の前半から国際的にも出てまいりました。 底的に破壊されました。ただ、京都と奈良に関し 1960年代の後半から本格的な交渉が行われて、最 ては、アメリカにおける学者が運動を始めてアメリ 初は文化遺産だけを対象にしていましたが、自然 カ政府に働きかけて、京都と奈良は救おうというこ 遺産も対象にしようということで、1972年に世界遺 とで爆撃をしなかったわけです。 産条約が採択されました。今、日本でもぜひ自分 そういう例も踏まえて、まずユネスコが最初に手 のところの文化遺産を世界遺産に登録したい、あ がけたことは、戦争、もっと広く言えば武力紛争の るいは自然遺産を登録したいという動きが活発に ときに、歴史的な建造物、文化遺産、さらには文化 なってきています。 財を守るという動きでした。1945年11月にユネスコ 今、有形の文化遺産が911のうち、大体700に達 の成立総会が開かれ、ユネスコ憲章ができ、1946 しますけれども、そのうち250は歴史都市です。こ 年11月に発効しました。直ちに武力紛争時におい れは日本でいえば、京都、奈良で、幸いにして第 て文化遺産を守ろうという動きが出てきて、条約交 二次世界大戦のときには爆撃の対象にならず、む 渉を行い、1954年にハーグ条約を締結しました。 かしの建造物が残っています。また、ユネスコの それから、博物館やお寺、神社から文化財が盗 本部があるパリ、これもパリの中核が世界遺産に まれるのを防がなければいけないということで、ユ なっていますし、ロンドンの中核もそうですし、モ ネスコは文化財の非合法な国際取引禁止条約を スクワはモスクワ全部ではなくて、まさに中核のク 1970年にまとめました。ユネスコが手がけるのは、 レムリンが世界遺産になっています。 国際法の次元です。日本国内で博物館なり、お寺 ですから、地域のまちづくりという点から言えば、 なり、神社から盗まれた文化財が、例えば、日本 文化遺産約700の中核をなしているのは歴史都市で、 からAという国に非合法に輸出される。それがAと 歴史的建造物の保存に力を入れてまちづくりを進 いう国で発見された。そういう輸出するということ めている。さらに言えば、歴史的な建造物と調和 を禁止する。あるいは、それを輸入することを禁 する形でまちづくりをする、というのがヨーロッパ vol.96 松浦 晃一郎(まつうら・こういちろう) 【略 歴】 山口県出身、1937年生まれ。東京大学法学部在学中に外交官試験に合格 し、1959年外務省に入省。経済協力局長、北米局長、外務審議官、駐 仏大使を歴任し、1999年から2009年まで、アジアから初めてのユネスコ 事務局長を務めた。主な著書:『アフリカの曙光─アフリカと共に50年』 (かまくら春秋社)『世界遺産─ユネスコ事務局長は訴える』(講談社)な ど多数。 の中心的な考えであり、それが世界的にもあてはま 造物、具体的に言えば教会、あるいは教会に関連 ります。さらには、それが1970年の世界遺産条約 する建物が中核でしたが、やはり世界遺産という の中心的な考えになっています。 のは人類全体の宝である。ということは、人類とい 世界遺産という概念の弾力化 うのはいろいろな文明や文化を持っているのです から、そういうものがしっかり反映される必要があ 世界遺産の対象となる文化遺産というのは、当 るということで、今申し上げた奈良文書を採択した 初建造された状況で、それが完全な形で残ってい 頃、もう1つの重要な選択を世界遺産委員会で採 るということが求められます。つくった当時のもの 択しました。 をそのままの形で残していく、それも一部だけでは それはグローバル戦略と呼ばれるもので、その1 だめで、全体を完全な形で残すということになって つの柱は、世界遺産を地理的に拡大していくとい います。ところが、日本は木の文化です。ヨーロッ うことで、日本をはじめとするアジアの国が、その パでは石の文化ですから、長持ちをするわけです。 後、大挙して入りました。それから、サハラ以南 木の文化ですと、メンテナンスをしっかりしたとし のアフリカの国、中南米の国、カリブ海の国が入る ても、どこかの段階で少なくとも一部が腐って、取 ことで、地理的な拡大がその後しっかりと図られて、 り替えざるを得ないんです。しかしそれでは、世 現在、世界遺産条約は187カ国になりました。 界遺産は日本では誕生しないことになるので、日本 それからもう1つの柱は、人類全体の宝という点 が音頭をとって、日本が加盟してから2年後の からいって、人類の多様な文化遺産を反映させな 1994年、奈良会議というのを開き、奈良文書を採 ければいけないということです。建造物とモニュメ 択しました。 ント、遺跡の三本柱だけでは十分カバーしきれな これは非常に重要な歴史的な文書で、世界遺産 い、もっと広い概念で拾っていかなければいけな にとって重要な概念を弾力化させました。それは、 いのではないかということで、文化的景観という概 木が腐る、あるいは土が風雨にさらされてだめに 念が導入されました。 なってしまうというときに、同じ材料で、同じ工法 で、同じデザインで再構築すれば、それは受け入 景観という概念 れられると奈良文書で決めました。これが、その 文化的景観というのは、1つ1つの建物や遺跡 後の世界展開の重要な柱になっております。これ を見ると、それほど顕著で普遍的な価値があると は日本の大きな貢献であり、その結果日本で多くの は言えないけれども、全体として見ると、その時代 文化遺産が誕生することができましたし、土の文 の重要な文化を反映しているということです。日本 化のアフリカなども、それについて裨益しています。 で言えば、近畿地方の吉野熊野が日本の伝統的な さらに言えば、ユネスコの世界遺産も、当初は 参詣の道、お参りの道ということで世界遺産になり ヨーロッパの中世から近代にかけての歴史的な建 ました。石見銀山は、江戸時代から明治時代にか vol.96 9 けての銀山の町で、単に銀山として登録するので ネスコの事務局長をしているときにも、京都の地元 はなくて、銀山を中核としたまちづくりということ の有志グループから手紙をいただいたことがありま で、文化的景観で最終的に登録されました。けれ す。このバッファゾーンの外の森の後ろに高層のア ども、残念ながらその過程で、イコモス(国際記 パートをつくろうとしている、そうすると銀閣寺か 念物遺跡会議)の専門的評価は厳しくて、これは ら見ますと、まず銀閣寺の後ろに森があって、その 顕著で普遍的な価値がないというところまで言わ 後ろに高層のアパートが見えることになる。私もす れたのですが、世界遺産委員会では理解があって、 ぐに日本政府にかけ合って、日本政府から京都市 幸いにして登録されました。これも文化的景観と におろしてもらって、結局、そういう建物を認める いうことで、第4のカテゴリー、つまり建造物やモ かどうかは京都市の権限ですから、京都市が高さ ニュメント、1つ1つはそれほどではないけれども、 を低くするということ、さらに言えば、森の後ろに 全体として見れば当時の文化を反映しているとい アパートが完成しても、銀閣寺の方から見えないよ うことで登録されました。 うにする、銀閣寺の景観を守るということに配慮し ほかの例では、イギリスの産業革命の遺跡や、ス てもらうということになりました。 イスにある高山鉄道も世界遺産になっており、文化 世界全体では都市化が進んで、人口がどんどん 遺産を多様化していこうという動きが進んでいます。 都市に流入しています。そうすると、都市に流入 日本の文化遺産も内容をもっと多様化していく してくる人口を収容するためにアパートをつくると 必要があります。現在、14が候補に挙がっていま か、ビルをつくるとか、そういう需要がどうしても す。その中には堺市をはじめとする大阪府にある あるので、歴史や文化を踏まえた地域づくりという 仁徳天皇など5世紀の古墳群も入っておりますし、 ときに、歴史的な建造物の景観を損なわないような それから、群馬県の日本の最初の紡績工場である 地域づくりをする必要があるということを強調させ 富岡工場をはじめとする紡績工場の関連施設、そ ていただきたいと思います。 れから萩市、長崎市、北九州市、鹿児島市にある、 それから、世界遺産条約は、有形の文化遺産に まさに日本の産業化の発端になった一連の施設が は建造物、モニュメント、遺跡と3つの形態があり あります。私は、そういう日本の文化遺産もぜひ多 ますけれども、私がユネスコの事務局長になる前、 様化してほしい。さらに、そういうものを中心とし それに文化的景観というのが入り、4つになりまし た、しっかりした町づくりを進めてほしい。そうい た。しかしまだこれでは不十分で、国際的には有 うものをいずれ世界遺産にしたいという願望が地 形の文化財一本であったわけです。有形の文化遺 元の方々にあるときには、今の段階からしっかり大 産も、文化的景観を加えることによって、若干弾力 事に保存して、その上で世界遺産の候補として提 化はしましたけれども、まだまだそれでは不十分で、 案していってほしいと思います。 歴史的な無形の文化遺産、伝統的なお祭り、伝統 そのときに重要なことに、景観という概念があり 的な歌、伝統的な儀式、地方の伝統的なお祭りが ます。例えば京都では、京都の全体が世界遺産に とてもカバーされません。それで、私が音頭をとっ なっているのではなくて、17の神社仏閣が世界遺 て、無形遺産条約をつくりました。これは日本の文 産になっています。その1つに銀閣寺があります。 化財保護法による無形文化財よりも、もっと広い概 お寺のあるところが、世界遺産の本体ゾーン。そ 念であります。 れを守るために、周りにバッファゾーン(緩衝地 帯)というのがあって、銀閣寺で言えば後ろの森 10 無形の文化遺産を守るために が当てはまります。もちろん本体は触ってはいけな 日本の無形文化遺産には、京都の祇園祭、神奈 いことになっていて、その緩衝地帯も触ってはいけ 川の先の踊りのちゃっきらこですとか、雅楽、アイ ないことになっているのですが、その外は従来か ヌの伝統的な踊りなど16ほどあります。 なり大目に見ていました。しかし、21世紀に入って 無形の文化遺産というのはあくまでも伝統的な かなり厳しく見られるようになっています。私がユ 文化遺産です。世界遺産条約でいう有形の文化遺 vol.96 産というのは、本来の元の形をそのまま維持してい ります。 くというのが基本です。ところが、無形の文化遺 ただ、私から見て日本が十分だと思っていない 産条約では、無形の文化遺産というのは、人から のは、景観です。2004年に景観法ができましたが、 人に伝えられるもので、したがって人から人に伝え これはあくまでも一般的な規定で、景観をしっかり られる間に、どんどん進化していく、そういうもの 守っていくためには、やはり地方自治体が音頭を を受け入れる。ですから無形の文化遺産では、当 とって、景観地区に指名をされて初めて具体的な措 時つくられたものがそのまま残っている必要はない 置がとれるんですね。ところが、まだ日本全体で景 ので、どんどん形を変えていくということが当然視 観地区に指定されているのは28しかないのです。地 されています。 方自治体の音頭で景観地区に指定されれば、歴史 そうはいっても、これはあくまでも伝統的なもの 的建造物との景観を大事にしていくために歴史的 が中心となっていますが、ユネスコとしてはそれに 建造物の景観をそこねるような建造物は建ててはい 加えてもっと現代のものを、例えば現代の映画、 けないということになる。実は、景観法の建前はそ 現代の演劇というものも、もう1つの重要な柱とし うなんですけれども、実際には景観地区になって て、2005年に文化的表現の多様性の保護および推 いないと、そういう措置が取れないと私は理解して 進条約をつくりました。日本語ではなかなか熟して おります。ところが、景観地区になっているのはわ いませんが、文化的表現というのは、英語ではカ ずか28だけであるというのは、私は非常に寂しいと ルチュラル・エクスプレッションズといって定着し 思っております。ぜひ、それぞれの地元で景観地 ています。文化的表現で入れようとしているのは、 区になるように努力していただきたいと思います。 まさに現代の劇、音楽、文学、バレエ、その他そ それから、次の無形文化遺産ですが、これも法 ういうものを全部指しています。 律的なバックグラウンドとしては、文化財保護法し 国際的なレベルでは歴史的な建造物、遺跡を中 かありません。歴史まちづくり法は、あくまでも有 心とした有形の文化遺産をしっかり保護して、そ 形の文化遺産というものを推進していて、これもぜ れに調和した形でまちづくりをしていく。もう1つ ひ拡大してほしい。しかし、これに無形をもっと は無形の文化遺産というものをいかしたまちづくり しっかり取り入れてほしい。 をしていくというのが2つめ。3番目が現代芸術を あるいは、法律はともかくとしても、有形の文化 しっかりいかした形のまちづくり、この三本柱をユ 遺産と無形の文化遺産というのは、本来結びつい ネスコとしては、今、考えていて、国際的にもその ている話です。例えば鎌倉。八幡宮といえば、流 方向で動いています。日本では、例えば金沢が伝 鏑馬です。流鏑馬というのは、無形になっておりま 統的な工芸と現代の工芸をまちづくりの大きな柱に せんけれども、流鏑馬という無形と、八幡宮という しています。私はこれを、第2と第3の柱をいい形 有形が結びついて、特に意味があると私は思って でいかしたまちづくりだと思っています。 いますので、そういう結びつきを持たせてほしい。 日本も、有形の文化遺産、あるいは歴史的な建 ですから、無形の文化遺産に関して、それを踏 造物を守っていこうということに関しては、かなり まえた地方の運営、まちづくりの法律的バックアッ しっかりした法体制ができていると思います。まず、 プとしては文化財保護法しかないようですけれど 文化財保護法が、有形の文化財を対象としており も、できれば歴史まちづくり法にも関連させて、 ます。それから、古都保存法というのは1966年に しっかり進めてほしいと思います。 さかのぼってできておりますし、都市計画法という それから、現代の文化的表現で、最近、瀬戸内 のもあります。また、最近では歴史まちづくり法と 海の小豆島などで演劇祭が行われたりしておりま いうのが2008年にできております。 す。やはり現代の演劇祭なり、映画祭なり、彫刻 歴史的な建造物をしっかり地域づくりにいかして 展なりいろいろな形でも、その地区の特性をいかし いこうということに関しては、日本は相当の問題意 たことを繰り返し行っていくということが、まちづ 識を持ってやってきておられて、うれしく思ってお くりの上でもいいのではないかと思います。 vol.96 11
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