ものごとはどう変化するか — エネルギーとエントロピー — 小波秀雄 2005 年 10 月 i 目次 iii はじめに 第 1 章 全エネルギーは保存される 1.1 モノ同士は力で結合して,上の階層のモノが作られる . . . . . . . . 1.1.1 1.1.2 モノに分け入ってみよう . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 力のまとめ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 1 1 1 4 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 力が存在することで何が起きるのか . . . . . . . . . . . . . . . . . . 化学的なエネルギーの本質 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 5 5 7 7 8 1.7 エネルギーが外界に逃げる方向へと変化は進行しやすい . . . . . . . 9 ポテンシャルエネルギーの登場 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . エネルギーは保存される . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . エネルギーは熱になって逃げていく . . . . . . . . . . . . . . . . . . 第 2 章 エントロピーは増大する — 熱力学の第二法則 2.1 2.2 エネルギーが下がる方向への変化だけだろうか? . . . . . . . . . . 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 そろったものはバラバラになっていく . . . . . . . . . . . . . . . . . 教室全体で大実験しよう . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 11 11 12 . . . . . . . 12 14 15 16 16 18 19 19 21 3.1 自発的な変化の方向は決まっている . . . . . . . . . . . . . . . . . . 25 25 3.2 現実の変化は複雑である . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 26 「乱雑さ」を定量化する . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 熱力学の第二法則 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 自由エネルギーという考え方 . . . . . . . . . . . . . . . . . 熱の移動とエントロピー . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 2.8.1 エネルギーは粒として存在する . . . . . . . . . . . 2.8.2 物体にエネルギーが流れ込むときの状態の数の変化 2.8.3 温度とは何か . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . エントロピーの概念 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 第 3 章 反応速度論の考え方 ii 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 安定と準安定 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 時には自由エネルギーが上昇することすらある . . . . . . . . . . . . 流れをせき止める自由エネルギーの壁 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 結論 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 酵素の働き 付 録 A 補遺と問題 A.1 用語の説明 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . A.2 レポート問題 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 26 27 28 29 30 31 31 33 iii はじめに 自然界で起こる変化は,その方向や進み方がある必然によって決定される1 。たと えば物は下に落ち,水は川下に流れる。生物は死ぬと腐敗して小さな分子になり,花 火に火をつければ派手に燃えていく。これらの現象は決し逆に進行することはない。 このような物事の変化を司っている大きな原理はなんだろうか?熱力学と呼ばれ る理論は,大局的な物事の変化を記述するきわめて包括的な理論である。たとえば, どうして部屋に置かれた熱いものは冷めていき,どうして “It is no use crying over spilt milk.” なのだろうか?これらのよう決して後戻りしない変化の方向は, 熱力学的に決定されているといってよい。自然科学アプローチの中での熱力学の本 格的な講義は不可能であるが,そのエッセンスを学ぶことにしたい。そこでのキー ワードは,エネルギーは保存される,エントロピーは増えていくという2つの法則 である。 また,変化のようすにいろいろな「味」を付けて,ある変化は速く,ある変化は 遅くというようなバラエティをもたらしているのは,エネルギーの山や谷という考 えを基本とした,反応速度論という分野である。一般に反応速度論は化学反応の速 度という限定された領域に適用されると考えられがちであるが,この理論も大きな 普遍性をもってあらゆる分野で2 思考の基本に置くことができる,深い考えなのであ る。ここでのキーワードは活性化エネルギーである。 以上を貫いている根本的な思想は「エネルギー的な世界観」ともいえよう。この 講義では,息抜きの演示実験なども交えながら,この世界における変化のようすを 理解するための,ものの考え方を学んでいく。 1 これは必ずしも変化がある法則によって完全に予測できるという意味ではない。ある法則と現在の 状態に関する知識のもとに先が完全に予測できる時には,その変化は決定論的であるといい,たとえ法 則と現在の状態がよく分かっていても将来の状態が予測不可能なときには,それは非決定論的であると いう。非決定論的な現象は大規模な系での変化,たとえ気象予測などに現れて,カオスと呼ばれる非常 に「荒れた」状況を作ることがある。その場合でも,法則性や必然性自体は存在していると考えること ができる。 2 物事が進まないときに,障害になっている「ネック」を考えるのが大事であるというのは,まさに 反応速度論の思想である。 1 第 1 章 全エネルギーは保存される 1.1 1.1.1 モノ同士は力で結合して,上の階層のモノが作られる モノに分け入ってみよう この世界は,多種多様なモノすなわち物質 material でできている1 。ちょっと見 ていってみよう。私たちの体,動植物,空気,水,立っている地面,床,道路,月, 惑星や恒星等々,つまり世界に存在するものすべてを,私たちはモノというわけだ。 それらは単にそこにあるというだけでなく,互いに関連しあいながら変化を続けて いる。すべてはモノの織りなす巨大な変化の流れの中に存在している。こういった 考察ははすでにギリシャの哲学者たち,レウキッポスやデモクリトスらの著述が書 き残されているし,きっと人間が意識を獲得した瞬間から,不可思議な思いにとら われて考えてきたことなのだろう。 私たちは今,これらのモノに細かく分け入ってみると,それらが原子 atom や分 子 molecule からなっていることを知っている。物質が原子からなっていることを 人類が確信したのは,実はごくごく最近の 1900 年頃のことである2 。 化学結合のアイディア 原子の実在の確証は 20 世紀に持ち越されたが,原子が結びついて分子を作るこ と,つまり化学結合 chemical bond が存在することは,すでに 19 世紀に化学者 たちには疑いのない仮説であって,それに基づいてすでに無機化学や有機化学は発 展を迎えていた。つまり,原子と原子がくっついて,化学物質ができている。 1 「モノ」と「こころ」を対立させて,あたかも前者が卑しいもので,後者こそが貴いとするような 「哲学」が語られることがあるが,それは単なる俗論である。その種のオッサンオバハン哲学では, 「モ ノ=金=物欲=利己主義=けしからんやつら」という悪の等式で物事を考えようというのである。 2 その 2000 年前には,すでに原子 (ατ oµoσ = atomos) というアイディアと名称がギリシャで登場 しているし,1800 年頃には原子説に基づいて化学が発展してきたのだが,それでも 1900 年時点で原子 の実在を疑う科学者がいたのである。その論争に詳細な実験で決着を付けてノーベル賞を受賞したのは, フランスのジャン・ペラン (Jean Perin) であるが,そのための重要な基礎理論を提出したのは相対性理 論で有名なアインシュタイン (Albert Einsten) である。 2 第1章 全エネルギーは保存される クーロン力で原子や分子ができる その原子は,さらに原子核 nucleus と電子 electron から成っている。電子が 静電気的 electrostatic な力,すなわちクーロン力 Coulombic force で原子核に 引っ張られて,その回りをまわっていることは,1900 年から 1940 年の間にほぼ理 論的に解明され尽くした3 。それと同時並行して,化学結合がどのようにしてできる のかという理論が完成してきた。化学結合には共有結合,イオン結合,あるいは金 属結合と呼ばれるものがあるが,ここでは細部には触れない。重要なのは,化学結 合もやはりクーロン力の賜物,つまり電子と原子核が引っ張り合い,電子同士,原 子核同士は反発し合うという力の所産であるということである。 分子間力 原子が結合してできた分子の間にも,やはり力が働いている。この力は分子間力 intermolecular force と呼ばれ,化学結合の力よりもさらに弱い。しかし,この弱 い力によって紙はばらばらの繊維にならずにしっかりしているし,水(水分子の集 団)や油(油の分子の集団)はいきなり蒸発してしまわずに,液体のままで存在で きる。分子間力は,私たちにもっとも身近な結合力であるともいえる。なお分子間 力の本質もクーロン力であって,電気的な力がデリケートな形で表れたものである。 核力が原子核を作っている また原子核は,その中に陽子 proton と中性子 neutron があるのだが,陽子が 電荷を持たない中性子とクーロン力で結合することは,電気的な力ではないことにな り,モノの間に働く力に,何かそれまで知られていないもの,すなわち核力 nuclear force が存在すると考えられるようになった。その疑問には,1930 年代に湯川秀樹 によって解決がもたらされた。湯川はこの研究によって日本で最初のノーベル賞受 賞者(1949 年)となっている4 。 クオークがグルーオンで束にされて重い素粒子を作っている さらにごくごく最近,この 30 年ほどの間に,陽子や中性子といった重い素粒子が もっと基本的な粒子,クオーク quark からなっていることが分かってきた。クオー 3 原子の構造の解明,すなわち,原子の中で電子がどのように運動していて,そのことが関わる現象, 例えば原子が特定の光を吸収したり放出したりすることなどがその仕組みとどう関わっているのを突き 止めることで,現代の科学技術が発展してきたと言っても過言ではない。 4 ちなみにアジアで最初にノーベル賞を受賞したのはインドのチャンドラセカール・ラマンで 1930 年 のことだった。 1.1. モノ同士は力で結合して,上の階層のモノが作られる 3 クには 6 種類のものが存在し,例えば陽子も中性子はいずれも 3 個のクオークの組 み合わせからなっていて5 ,グルーオンと呼ばれる接着剤6 によって,クオーク同士 は結合している。 すなわち,この世界の基本的な粒子は 6 種類のクオークとそれ以外の電子などの 軽い粒子であるという認識にまで,現在の物理的な世界観は到達している。 ただし,クオークの間に働く力があまりにも強いために,自然界にクオークが単 独に現れることはない。唯一,ビッグバンの直後に,クオークがばらばらになった 状態が出現して,それが陽子や中性子を作りながら宇宙全体に広がっていったので ある。 重力は天体を統合させている力 ここまで述べてきたのは,いわば私たちの手にするモノに分け入って,その中で 働いている力を考えてきたのだが,それ以外に太古から人間が認識してきた力があ る。いうまでもなく重力 gravity である。ニュートンによってその性質の解明が始 まった重力も,この世界を支配する巨大な力である。 ☆☆考えのポイント☆☆ この世界は,より基本的なモノが何らかの力によって くっつき合って,その上の構造ができている 5 電子はそれ自身が基本的な粒子である。 は glue(糊) から来た命名である。 6 gluon 4 第1章 1.1.2 全エネルギーは保存される 力のまとめ 私たちが観察しているこの自然界に存在するモノの間には何種類もの力が働いて いる。そのようすを次の図に示した。 1.2. 力が存在することで何が起きるのか 1.2 5 力が存在することで何が起きるのか さて,宇宙に関する壮大な哲学的な考察から離れて,力とは何であるかを,身近 な方法で考えてみることにしよう。最も単純な系として,離れた二つのものが引力 で引き合っているという状況を考えてみよう。 簡単な実験を試みる。一本のゴム紐の両端を二人の人に握ってもらい,そのまま 離れてもらうことにしよう。離れていきながら彼らは何を感じるだろうか? いうまでもなく,この人たちが感じるのは引き寄せようとする力である。遠くに 行けば行くほど,ゴムの場合には力は強くなるが,こういう力の働き方は,ケース によって千差万別であって,本質的ではない。とにかく,引き寄せられる力を感じ ている状態では,そのままでいようとするには,程度の差はあれ,足を踏ん張って いなければならない。 そこで大事な問いは,次のものである。 ゴム紐が伸びた状態で,二人が足を踏ん張るのをやめたらどうなるか? 「大事」と言いながら,実はあまりにも素朴な疑問だ7 。どちらも互いに引っ張ら れているのだから,抵抗することをやめれば引き寄せられ,近づいていくに違いな い。ところで,そのときに起きているのはどういうことか?それは,力によって引っ 張られると,動きが与えられるということに他ならない。 ☆☆考えのポイント☆☆ 力とは,モノに動きを与える何かである。 ここまでのことをまとめると,力はモノとモノを互いに近づけさせようとし,モ ノは力で動きを与えられるのだということである8 。 1.3 ポテンシャルエネルギーの登場 二つの物体が離れて存在していて,それらの間に引力が働いているとしよう。最 初これらは動いていなかったとする。この後,どうなっていくだろうか? 7 読者にとって,この問いかけは「それがどうしたの?」という感じの,あまりにも自明なものに思 えるかも知れない。しかしどの学問の理論体系でも,単純で自明そうな言明から出発していくのである。 ここで試みている思考実験も,本質を繰り返し反芻(はんすう)する中で,意味の深さが分かってくる ものだ。 8 クーロン力の場合には,互いに反発する力すなわち斥力も存在する。ただし,この場合のようにプ ラスとマイナスの電気を帯びたモノが混在しているときにも,全体としては引力の方が優勢になる。な ぜかというと,引力がモノを近づけるのに対して斥力は遠ざける。ところで引力にせよ斥力にせよ,近 いときの方が強く働く(正確には,力の強さは距離の二乗に反比例する)のであるから,近づき合って いるモノ同士の引力の方は,より遠くにあるモノ同士の斥力よりも大きくなるからである。NS 両極をも つ磁石を何個か持ってくると,全部がくっついてしまうのはそのためである。 6 第1章 全エネルギーは保存される 既に書いたように,この場合には,二つの物体は力によって引っ張られていると ころから動き始めて,どんどん近づいていき,ついには衝突することになる。 引き合って速度を増しながらぶつかり,くっついてぐるぐるまわる磁石 さて衝突したところでどうなるかを見てみよう。単純に考えれば,これはくっつ いて終わりのようである。実際に 2 個の磁石を近くに置いて様子を見てみよう。最 初ゆっくりと,徐々にスピードを増して衝突して,ついにはくっつき合う。それだ けで終わりだろうか? よく観察すれば,くっつき合ったときに音が出たり,くっついて一体になった磁石 がぐるぐると回ったり飛び跳ねたりしてから,静止するのが見られる。つまり,くっ つく直前に得ていた二つの磁石の運動が形を変えて出てくるのである。つまり,力 は運動に転化されていく。またその逆も起こり得る。 私たちは,運動している物体は運動エネルギーを持っているということを,あま り厳密にではないが,常識的に知っている。 「電気のエネルギーが扇風機のファンの 回転エネルギーになる」といった言明に疑問を感じる人はいないだろう。またエネ ルギーというものが,さまざまに形態を変えながら流転していることも,おおよそ は知っていよう。 では,上の実験でみた運動のエネルギーは,運動が始まる前にはどこにあったの だろう?これは,二つの磁石の位置関係に依存して存在していたと考えるのが妥当 ではないだろうか。最初に遠くにあれば,衝突するときに得ている運動エネルギー は大きいし,その逆も真である。 そこで次のような形態でエネルギーが存在し得ると考えることは合理的だ。つまり, 物体の位置関係で決まるようなエネルギーが存在する。 このようなエネルギーの形をポテンシャルエネルギー potential energy あるい 1.4. エネルギーは保存される 7 は位置エネルギーという。 ☆☆考えのポイント☆☆ 物体の間に力が働いているとき,ポテンシャルという形で エネルギーが存在し,ポテンシャルエネルギーを減らしながら 運動が引き起こされる。 要するに,坂の途中に置かれたボールは坂道を転げ落ちるという,ありふれた現 象は,重力によるポテンシャルエネルギーが運動エネルギーになっていっているの である。 1.4 エネルギーは保存される さて,ポテンシャルエネルギーが解放されて運動が起きるとき,ポテンシャルエ ネルギーが減った分だけ運動エネルギーが増えるはずであるから,いつまでたって もこれらのエネルギーの和は変化しないはずである。実際,太陽の回りをまわる惑 星の運動などでは,中心に近いときには速度が大きく,遠ざかると速度は小さくな る。このように,総和としてエネルギーが一定に保たれるという,自然界の法則を エネルギー保存則 the low of energy conservation という。 ところが上の実験の観察では,2 個の磁石がくっついた直後は,激しい動きが見 られるものの,すぐにその動きは止まってしまった。ポテンシャルエネルギーから 運動エネルギーに変わったあと,そのエネルギーはどこに消えてしまうのだろうか? この場合にはエネルギー保存則というのは成立しないのだろうか?そのエネルギー の行方を考えてみよう。 1.5 エネルギーは熱になって逃げていく 磁石のような物体は,おびただしい数の原子や分子が集まってできている9 が,私 たちの目には極微の粒子は見えず,全体が「かたまり」として認識される。このよ うに,私たちが五感でとらえるような大きさのスケールをマクロ macroscopic な 世界といい,分子や原子の大きさのスケール,すなわち 10−9 m 程度の大きさでモ ノを見るような世界を,ミクロ microscopic な世界と呼ぶ。 結論から先に書くと,マクロな物体では,それを構成する分子や原子が内部でて んでに運動できるから,熱という形でエネルギーを持つことができる。そして,磁石 9 化学を学んだことがあれば,一塊の物質の中にはアボガドロ数 = 6.02 × 1023 個を単位として量る だけの分子や原子が存在することは覚えていよう。 8 第1章 全エネルギーは保存される 同士が衝突する瞬間に持っていた運動エネルギーは,すべて熱エネルギーに変わっ ていく。(音のエネルギーもすぐに空気の熱エネルギーに変わる) このように,マクロな系でも,熱エネルギーも含めればエネルギー保存則が成立 する。このように一般化されたエネルギー保存則を熱力学の第一法則 the first law of thermodynamics といい,最も普遍的 universal な自然法則の一つである。 ☆☆考えのポイント☆☆ 熱力学の第一法則 = 普遍的なエネルギー保存則 ここで重要なことは,熱に変わってしまったエネルギーを運動エネルギーやポテ ンシャルエネルギーに戻すことは,不可能ではないがなかなか難しいということで ある。通常,いったん熱になってしまったエネルギーは散逸してしまうだけである。 後で出てくる熱力学の第 2 法則によれば,熱から運動エネルギーやポテンシャル エネルギーを取り出すためには,温度差のある二つの物体を接触させなければなら ない。ということは,そもそも温度差がある物体をくっつけると同じ温度になろう として熱が移動するのだから,最後に温度差がなくなってしまって,そこからエネ ルギーを取り出すことはできなくなるわけである。どんな温度であろうと,平坦に なってしまえばもうエネルギー源として役には立たないのである。ようするに,熱 エネルギーというのは,エネルギーの終着駅であると言ってもよい。 1.6 化学的なエネルギーの本質 化学変化では,光が放出されたり熱が出たりと,なかなかにぎやかなエネルギー の放出が起きていることが多い。いったいこのエネルギーはどこから来ているのだ ろうか?実は,化学反応におけるエネルギーの源は,化学結合などの結合の三角関 係10 に由来すると思っていい。実験してみよう。 アルミニウムの粉と酸化鉄 (III) Fe2 O3 の粉末をまぜて点火すると,猛烈な光と 熱を出して反応が進む。これを反応式で書くと Fe2 O3 + 2Al −→ 2Fe + Al2 O3 (1.1) となる。よく見るとこれはきわめて単純な変化である。つまり,鉄と酸素が結び ついて,アルミニウムが単体である状態が,ちょうどその逆の状況に変化したので ある。これをたとえて言うと,たいして仲のよくない夫婦の目の前に,ぐっと魅力 的な女が現れて,古女房を追い出して自分が妻に納まったようなものである。 10 この三角関係というのは科学的な用語ではなく,世間のうわさに出てくるあれである。 1.7. エネルギーが外界に逃げる方向へと変化は進行しやすい 9 つまり,原子同士の化学結合がより結びつきの強い組み合わせに組み替わるとい う化学反応は,例えば燃焼のように,ごく普通に起きている。他にも,化学反応の 壮大な集合体である生命体は,どれもみな熱を発するのである。 1.7 エネルギーが外界に逃げる方向へと変化は進行しや すい これまで述べてきたことをまとめると,私たちが「ふつうに」観察する変化とい うのは,エネルギーが減少する方向へ進むことが多いということの説明がつく。 例えば,多くの化学反応では熱が発生する。その熱は,化学結合の組換えによっ て生じた「余り」である。それがまわりを暖めながら逃げていくのだから,その物質 がもともと持っていた全エネルギー(=運動エネルギーとポテンシャルエネルギー の和)は減っていく。 運動を伴なう変化であっても,摩擦熱などの形で運動エネルギーが熱エネルギー になって散逸していくから,物体の持つ全エネルギーはここでも減少することにな る。ものが下に落ちていくような変化はこの例であるし,他にいくらでも例はある。 また,エネルギーは電磁波(広い意味での光)になって出て行くこともある。温 度が 300 ℃以下と低ければ赤外線の形で,太陽表面のように 6000 ℃もあると赤外 線–可視光線–紫外線と広い波長範囲にわたって,連続なスペクトルになって出て行 く。また,1000 ℃以上の高温にさらされたり,電気的にエネルギーを与えられた原 子やイオンや分子は,特定の波長の光を放出することがしばしばある。これは蛍光 灯の光を観察したことで理解できよう。 もっとも,自然に進む変化が常にエネルギーを下げる方向にだけ進むわけではな い。ぜんぜんエネルギー的には得にもならないのに,進む反応もあるし, 「冷えなが ら」進む変化もある。その点については,次の章で詳しく取り扱う。 11 第 2 章 エントロピーは増大する — 熱 力学の第二法則 2.1 エネルギーが下がる方向への変化だけだろうか? 前の章では,高いエネルギーを持った状態は,熱や電磁波1 の形でエネルギーが出 て行く方向で変化していくことが,自然に起こる方向であることを知った。つまり, 水は高いところから低いところへ流れ,高温の物体は熱を放射しながら冷えていき, モノが燃えるときには光や熱を発生し,生物は熱を発生しながら生きている23 。もっ とも,エネルギーを持っていれば必ず,それが下がるように変化が進むわけではな い。たとえば,1000˚C の物体があったとしても,まわりがそれと同じ温度であれば, その温度が下がるわけはない。この点は前の章で説明した通りである。 ところで,世の中では,必ずしもエネルギーが下がっていく方向での変化だけが 起きているわけではない。たとえば,食塩を水に入れると簡単に溶けていくが,実 はこの時には,わずかではあるが温度が下がっている。食塩の代わりに塩化アンモ ニウムや硝酸カリウムなどを使うと,この変化は容器に手で触れていても分かるほ どにはっきりしている。 温度が下がるというのは,熱エネルギーがそのモノの内部に吸い込まれてしまっ たのだから,これはエネルギーが低くなる変化ではなく,逆に高くなる変化である。 こういう変化を吸熱的な変化というが,この種の変化は,そうしばしばではないが, 時折見られる。発熱するでもないのに進むような変化では, エントロピーが大きな 推進役を果たしている。 1 実は電磁波というのは,真空がもつ「熱」であるというふうにみなすこともできる。真空といって も,実は空っぽの空間ではなく,光(電磁波)が満ちた状態であり,その中での「温度」もちゃんと存在 するのである。例えば太陽の表面の温度はほぼ 6000˚C であるが,太陽表面から放出される光がそのま わりの真空に 6000˚C の放射を満たしているとみてよい。温度というのは,接触している物体同士では 必ず等しくなっていくので,その放射を浴びた物質の方も, 6000˚C まで暖められることになる。 2 生物が熱を発生するというのは,温血動物に限ったことではない。冷血動物も植物も,すべて生き て活動していれば熱を発している。例えば酵母が発酵するときに熱をもつこと,堆肥が微生物の活動に よって暖かいことは,よく知られている。温血動物というのは,動物の種の歴史の中で,一定体温を維 持していた方が常に活動できるから有利であるという理由で進化してきたものだと考えられる。 3 熱を発生しながら発生した熱で暖まるような変化と,高温の物体が冷えていく変化とは,逆のこと のように思ってしまうかも知れない。だがそれは思い違いである。どちらにしても,その物体から外へ と熱の形でエネルギーが出ていっているのだ。 12 第 2 章 エントロピーは増大する — 熱力学の第二法則 2.2 教室全体で大実験しよう ここでちょっとした実験を試みよう。教室の右側の数十人の人に赤い紙を 1 枚ず つ持ってもらい,左側の人には青い紙をもってもらうことにする。そして,合図と ともに,紙を持っている人は誰でもいいから近くの人とじゃんけんをして,勝った ら相手にその紙をわたす。負けたり,合子になったりしたら,5 秒数えて,また誰か とじゃんけんする。相手は替わっても,替わらなくてもよい。紙を 2 枚以上持つこ とになってしまってもよい。これを何回も繰り返すのである4 。途中,いったんやめ ては,紙を持っている人はそれを高く掲げてもらって,どういう分布になっている かを目で確認する。さあ,どうなるだろうか? 想定される回答を選択肢にしてみると,(1) 赤い紙が集団になって右から左へ,青 い紙は左から右へと移動していく,(2) どちらの紙も,時間がたつと全体に広がって いく (3) じゃんけんで勝ったり負けたりする確率は同じだから,紙は行ったり来た りしているだけで,だいたいその場所にとどまる— というあたりだろう。さあ,ど れが正しいのだろうか?あるいは考えもつかない結果があらわれるのだろうか? おそらく多くの人は,正解を選ぶだろうが,しかし,その「予言」の実現してい く過程は,相当に意外なものであるはずである5 。 2.3 そろったものはバラバラになっていく きれいにそろったトランプを切っていくと,ばらばらになっていく。では,ばら ばらの状態のトランプを切っていって,偶然そろうことがあるだろうか?経験的に それはありそうもない。 コーヒーにミルクを入れてみよう。かきまわせばあっという間に,放置して数時 間で,ミルクは全体に均一に広がっていく。逆に,ミルクの入ったコーヒーから,ミ ルクだけがカップの中心に集まることはあるだろうか?あったら大ニュースになる だろうけど,そういうことが起きたためしは,多分ない。 どうして,トランプは切るとばらばらになり,コーヒーに入れたミルクは広がっ ていくのだろうか?少し数学的に考えてみよう。 トランプが「そろった」状態というのはそもそも何通りあるかというと,これは 厳密な表現ではないが,まあスペード,ハート,クラブ,ダイヤの 4 組がそれぞれ エースからキングまで並んだ状態が「そろった」ということであろう。とすると,こ れらがそれぞれ並んだ4つの塊をどう並べるか,それらが何通りあるかということ でいいだろう。そうなると S H C D だとか,H S D C だとかいう並び方の順を数 4 10000 回できると理想的なのだが…。 5 と,もったいをつけて,答えは書かないでおく。 2.3. そろったものはバラバラになっていく 13 え上げればいいわけで,それは 4! = 24 通りである6 。ただしジョーカーは抜いてあ るものとする。さて,ジョーカーを除く 52 枚のトランプを並べたとき,一体何通 りの並び方が可能かというと,これも同じ論法で,52! = 52×51×50×...×3×2×1 = 80658175170943878571660636856403766975289505440883277824000000000000 通り になる。もう何桁あるか数えるのもめんどうであるが7 ,これだけの組み合わせの中 から,無作為にカードを切った結果,たった 24 通りの組み合わせのどれかが実現す る確率は,宝くじの特等を引き当てるよりも低い8 。 逆にいうと,ある, 「そろった」状態,つまり秩序のある状態をかき混ぜていくと, 「ばらばら」の状態,つまり乱雑な状態に,ほとんど必ず 移行するのである。 「ほと んど必ず」というのは,確率的な言い方で,100% 間違いなくではなく,99.999...% 間違いなくという意味である。 さて,トランプでは「切る」という操作が「かき混ぜる」ということであった。 コーヒーに加えたミルクの場合,スプーンで文字通りかき混ぜるということもでき るが,そうしなくても,だんだんにミルクは均一になっていく。この場合に誰が「か き混ぜる」役目をしているのであろうか?それは熱である。 熱エネルギーというのは,分子のばらばらな運動のエネルギーであった。コーヒー の中のミルクの微小な油滴9 は,まわりの水分子の運動によって,絶えずあちこちか ら叩かれて動いている。その動きの向きは,ランダムである。いわば油滴は絶えず まわりとじゃんけんをして,行き当たりばったりに動いているのだ。その結果とし て,油滴は最初まとまった状態だったのが乱雑に広がった状態になっていき,ミル クは均一に広がっていくことになる。当然,温度が高いほどこの傾向は著しくなる。 前の章では,エネルギーの高い状態は,そのエネルギーを外に捨てるような方向 へと変化する傾向があることを論じた。ところが,もう一つの変化の方向性がここ で示されたわけである。外部とエネルギーの出入りがなくても,内部で乱雑さが増 える方向への変化は必然的に生じるのである。 ☆☆考えのポイント☆☆ 熱運動がある状態では,放っておくと乱雑さは増大していく 6 4! というのは, 4 × 3 × 2 × 1 のことで,これを 4 の階乗という。一般に n を整数としたとき,n の階乗は,n! = n × (n − 1) × (n − 2) × ... × 2 × 1 である。ここで,4 種のトランプの並び方がなぜ 4! になるかというと,最初の 1 つは 4 通り選べるが,次のは残りからの 3 通りしか選べず,その次は 2 通 り,最後は残りの 1 通りとなって,その積が,ありうる場合の数になるからである。 7 怠惰は悪であると思い直して数えたら,8.07 × 1067 であった。 8 宝くじファンには水を差すようで悪いが,宝くじやその他のギャンブルは基本的に損をするように できている。「だって,当たる人もいるじゃない!」というのはもっともだが,ならしてしまうと,賭け た金額は,必ず儲ける金額を上回るのがバクチというものの本質なので,買う回数を増やすほど,確率 の法則は冷酷に損を約束することになる。とはいえ,ささやかな金で夢を見るという生き方にケチをつ けるつもりは毛頭ない。 9 牛乳が白いのは,油の微小な粒が溶液中に分散して光を散乱させているからである。こういう状態 をコロイド溶液という。 14 第 2 章 エントロピーは増大する — 熱力学の第二法則 2.4 「乱雑さ」を定量化する ここまで, 「乱雑さ」という,かなりあいまいな言葉で定性的に表現して来たこと をきちんと定式化しよう。 すでに出てきたトランプの例では, 「そろった」トランプの状態は 4! = 24 通りで あった。一方, 「ばらばらの」トランプの状態というのは,52! ≈ 8 × 1067 もの組み 合わせを取り得る。つまり,秩序のある状態というのは,ある数少ない「選ばれた」 状態であって,一方無秩序な状態というのは, 「なんでもあり」なのである。という ことは,乱雑さというのを定量的な尺度として扱うには,「とりうる状態の数」の 大小という観点で捉えていいのではないだろうか。例えば,下のように 30 個の分子 の居場所があって,10 個の分子がいま,左端にぎっしりと詰めて置いてあるとする。 ⇓ ○○○○○○○○○○ つまり,矢印のところで仕切りを入れてあって隣の箱に移動しないようになって いたとする。この「左側にぎっしり詰まった状態」では他に分子は動きようがない のだから,ありうる置き方はこれひとつしかない。これは,いわば秩序が高い状態 である。 さて,次にこの仕切りを取ってしまおう。すると,10 個の分子は 30 のスペース のどこにでも動けるようになる。 ○ ○ ○○ ○ ○○ ○ ○ ○ このように,どこにあってもいいという条件では,分子の置き方の数は, 30 C10 = 30! = 180270090 10! × 20! となる10 。つまり,分子が部屋の隅に固まっているという,乱雑さのない状態から, 部屋中に好きなように飛びまわっている乱雑な状態では,取り得る場合の数が一億 八千万倍になったというわけだ。このように,乱雑さという概念を,その状態で取 り得る場合の数という数学的な定義で扱うことができる。 ところで, 「取り得る場合の数」というのは,系の大きさについてどういう性質を もつだろうか?もっと具体的に言うと, ある系の乱雑さが A だったとしたら,その系の大きさを 2 倍にしたら, 全体の乱雑さはどうなるか? 10 これは次のように考えて計算できる。まず 30 の異なったものを並べる場合の数は 30! である。と ころがそのうち 10 の玉は互いに区別がつかないのだから 10! で割る。さらに 20 の空席も互いに区別 がつかないから 20! で割る。 2.5. エントロピーの概念 15 ということである。 これは,上で考えた,分子が隙間のある箱に置かれた時の場合の数が,その箱を 2つ並べた時にはどうなるかを考えるといい。つまり A = 180270090 であって,そ れが 2 つだったらどうなるか?— これは単純に A2 である。つまり,ある状態が A 通りあるのなら,もうひとつ同じ状態を並べたときには,A × A だけの状態がある ことになる。あるいは,ある系の取り得る場合の数が A 通りで,もう一つの系の取 り得る場合の数が B 通りであるとするならば,全体としては A × B 通りの場合の 数が生じる。 つまり,場合の数で乱雑さを定義したとすると,2 つの系を考えた場合の乱雑さ は,それぞれの系の乱雑さの積となるのである。 ここで,話しをエネルギーの問題に戻ろう。エネルギーというのは足し算が可能 な量である。つまり,ある状態の物体がもつエネルギーが U だったとすると,同じ 状態の物体をもうひとつ持ってくれば,全体のエネルギーはその 2 倍の 2U となる。 乱雑さというのも,エネルギーと同じように, 「変化の方向を決める量」として同じ ように扱えるようにしたい。 さて,ここにくればエントロピーという重要な量を簡単に導入できる。 2.5 エントロピーの概念 「乱雑さ」を,エネルギーと同じように足し算が可能な量として定義しよう。 S = k loge W (2.1) ただし,k は定数, W はその系が取り得る状態の数であり,S はエントロピー という,物質の乱雑さを表す重要な量である。また loge は,e を底とする自然対数 である。以後,底は省略して単に log を使うこととする11 。 対数関数の性質をちょっと考えてみよう。a = ex という関係を対数で表すと loge a = x となる12 。あるいはもっと具体的に書くと,1000 = 103 だから,log 1000 は 3 で ある。ここで,対数関数の次の重要な性質が出てくる。 ☆☆考えのポイント☆☆ 対数にすると,積を和に変える つまり 11 自然対数に出現する e という定数は,自然対数の底(てい)と呼ばれ, e = 2.71828... である。こ の数は,指数関数 y = ex , あるいは 対数関数 x = log y を微分したり積分したりするときに出現する特 別な数であるが,ここではそのことには触れない。 12 これは対数の定義であるから, 「どうして?」と尋ねられても困る。まあ,尋ねられれば説明はしま すが。 16 第 2 章 エントロピーは増大する — 熱力学の第二法則 Z =A×B であるとすると, log Z = log A + log B となるのである13 。つまり,ここでの結論は,乱雑さをエントロピーという量で式 (2.1) のように表すと,エネルギーと同じように足し算が出来る量として扱うこと ができるということである。 2.6 熱力学の第二法則 ようやく,自然法則の中で最も基本的な法則のひとつである,熱力学の第二法則 the second law of thermodynamics を述べることができることになった。2.3 節で既に示したことは, 孤立した系の中では,乱雑さは極大に向かって増大する ということであった。これをエントロピー entropy という言葉を使って言い換え るならば,エントロピーは,対数の性質によって,乱雑さと同様に増減するから, 孤立した系の中では,エントロピーは極大に向かって増大する となる。これを熱力学14 の第二法則という15 。 2.7 自由エネルギーという考え方 以上で,自然界における自発的な変化 spontaneous change16 を支配する 2 つ の「原動力」を取り出すことができた。もう一度まとめておくと, 13 この証明は簡単である。a = log A, b = log B としよう。定義によって,A = ea , B = eb である。 指数関数の性質として,A × B = ea+b であるから,a + b = log(A × B) より log A + log B = log Z となる。 14 実は,ここで説明しているエントロピーという概念は,原子説の確立によって定式化されたものであ り,それより古い理論である熱力学によって定式化されたエントロピーとは,定義の仕方が異なる。物質 が原子や分子からできているということとは全く無関係に,産業革命時代のさまざまな実験や熱機関の理 論的な考察から,現象の変化の方向を決定するエントロピーという量はすでに明らかにされていた。この テキストで導入してきた,乱雑さを数え上げるというやり方で定義したエントロピーは,古典的なエン トロピーとはまったく独立に成立したのであるが,両者は驚くべきことに一致したものだったのである。 15 「乱雑さ」であろうと, 「エントロピー」であろうと,まったく同様な言明しかしないのであるから, 数ページの数式まじりの説明を費やして,この言い換えは「大山鳴動して鼠一匹」という喩えに相応し いと思う人がいるかも知れない。しかし,次に述べるように,エントロピーに足し算ができるような性 質を持たせることで,エネルギーとともに扱いが可能になったことの意味は大きい。 16 自発的な変化というのは,放置しても「成りゆきまかせ」で起きる変化であり,外から動かしたり エネルギーを与えて起きる変化は自発的ではない。 2.7. 自由エネルギーという考え方 17 1. 閉鎖系では,エネルギーの高い状態はエネルギーを外部に放出するように変化 していく。 2. 孤立系では,エントロピーは,より大きくなるように変化していく。 さて,もう少し定式化を進めよう。エントロピーの「効き目」は,2.3 節で示した ように,分子の熱運動が激しいほど大きいのであった。ところで,分子の熱運動の 激しさを表しているのは,絶対温度17 である。すると,エネルギーは温度とは関係 なく下がりたがるが,エントロピーは温度が高いほど大きくなりたがるということ になって,両者を統一的にあつかう工夫をしたくなる。そこで登場するのが自由エ ネルギー free energy という概念である。なお,ここまで単にエネルギーといって きた量のほうは,区別をはっきりするために,内部エネルギーとこれから呼ぶこと にする。 自由エネルギーは次のように定義される。 F = U − TS (2.2) ここで,F は自由エネルギー,U は内部エネルギー,T は絶対温度,S はエント ロピーである。つまり,自由エネルギーとは,内部エネルギーが下がりたがる傾向 と,エントロピーが温度のファクターと一緒になって大きくなりたがる傾向の両者 をまとめたものなのである。 自由エネルギーを使うと,結局この節の最初でまとめたふたつの法則は一つに統 一されることになる。すなわち, 自由エネルギーが減少する方向に変化は進む これが,最終的な結論である。 輪ゴムの実験 — エントロピー変化と温度変化 輪ゴムを使った簡単な実験で,エントロピーの変化に伴なう温度変化を調べるこ とができるので,試してみよう。 1. 輪ゴムを急に引き伸ばして,唇に当ててみよ。温度はどうなっているか? 17 絶対温度 (単位は K: ケルビンと読む) は,普通の摂氏温度 (単位は ˚C) と異なり,ゼロより低い値 は取らない。つまり 0 K は絶対零度,すなわち分子運動が停止した最低の状態なので,それよりも低い 状態はあり得ないのである。 18 第 2 章 エントロピーは増大する — 熱力学の第二法則 2. 輪ゴムを引き伸ばしてから,息を(口をやや離して)吹きかけて,室温に冷や しなさい。その後急にもとの長さに戻して,唇で温度を確かめてみよ。どうな るか。 ゴムというのは,炭素原子が 1000 個以上つながった長い分子でできた高分子物質 である。ゴムを引き伸ばすと,分子も引き伸ばされて分子の動きの方向は制約され る。このとき,ゴムに加えられた力学エネルギーは分子の運動になり,ゴムの内部 エネルギーは上昇する。同時に,分子の運動は制約されて,それまで許されていた 向きの動きの一部は許されなくなる。そのため,分子運動のエネルギーは,制約さ れていない運動(主に,引き伸ばされた方向と垂直な動き)に集中する。このよう にして温度が上昇する。この過程を通じて,内部エネルギーの増加とエントロピー の減少が起こるので,自由エネルギーは増加する。もちろんこれは自発的な変化で はないので,自由エネルギーが増大するという「自然の」方向に反した向きの変化 が起きてもかまわない。 次に,引き伸ばされたゴムを,かけている力をとりさって放置すると,ゴムは直 ちに縮む。こっちは自発的な変化である。なぜゴムは縮むのだろうか? 伸ばされた状態のゴムの分子は,上に書いたように動きが制約されている。言葉 を換えれば分子に許された状態が少なくなっていて,エントロピーの小さい状態な のである。これが縮めば,分子はより自由に,つまりさまざまの状態を取れるよう になっている,つまりより自由度が大きい状態になって,エントロピーが増加する ことができる。だから,より大きなエントロピーを求めてゴムは縮むのである。こ の時,分子の運動は,より大きな自由度に分散されていくので,温度は低下する18 。 2.8 熱の移動とエントロピー 温度の高いものと低いものを接触させると,かならず高い方から低い方へと熱が 流れていく。この逆の流れが起きることはない。このような熱の流れは,高い温度 の系が外部に対してエネルギーを放出しながら冷却するという考えでも理解できる が,系全体を内部に高温と低温の部分があるひとつの孤立系とみて,その中でエン トロピーが増大する方向を考えることで,より的確に理解できる。 18 要するに,温度が下がるのに,そっち向きに変化が進むというのは,エントロピーが増大するとい う「メリット」があるからである。 2.8. 熱の移動とエントロピー 2.8.1 19 エネルギーは粒として存在する これまでの力学的エネルギーの考察では,運動エネルギーやポテンシャルエネル ギーは連続的な値をとる量であって,いくらでも細かく分けることが可能であると いうことが暗黙に了解されていた。すなわち,振り子の振幅やばねの伸縮の幅は,切 れ目なくどこの位置にでもなりうるというわけである。 ところがミクロなレベルでは,エネルギーそのものも,飛び飛びの値しかとれな くなるのである。たとえば原子のエネルギーは,電子の軌道が決まっているために, とびとびのレベルしか取れない。したがって,原子に吸収されるエネルギーや,逆 に高エネルギー状態の原子から発する光は,ある特定の波長をとることになる。 原子の軌道は不連続であり,遷移のエネルギーも飛び飛びになる また,ばねのように振動するもの (振動子 oscilator という) のエネルギーも,分 子のようにミクロなものは飛び飛びのエネルギーをとる。さらに光も,光子 photon という粒子として空間を飛びまわっているのである。 このように,あるとびとびの大きさの粒19 としてエネルギーが存在していること を指して,エネルギーが量子化 quantize されているという。量子化されたエネル ギーの粒をエネルギー量子 energy quantum と呼ぶことにしよう。 2.8.2 物体にエネルギーが流れ込むときの状態の数の変化 物質の中でエネルギーが量子化されて存在しているということから,それらのエ ネルギーが原子にどのように分配されているかという組み合わせの数は,数えられ る有限のもの20 であることになる。ここでは,N 個の原子からなる結晶21 の中に r 19 ただしエネルギーの粒子は,こちらの結晶の中ではこの大きさ,あちらの気体分子の中ではこの大 きさというふうに,それが存在している系によって,大きさが異なる。また光子のエネルギーはその振 動数 ν に比例し,E = hν (h はプランク定数 Planck’s constant と呼ばれる定数) という有名な関 係式で表される。 20 とはいえ,この数はおそろしく莫大なものであって,実際的に数えることはまったく不可能である。 21 結晶を扱うのは,結晶の中の原子はどれも同じ状態にあるので,エネルギー量子のサイズも等しい とみなせるからである。なお,結晶といっても水晶や食塩の結晶のようにきれいな形のものとはかぎら ない。たとえば 1 円玉もアルミニウム原子からなる金属結晶である。 20 第 2 章 エントロピーは増大する — 熱力学の第二法則 個のエネルギー量子が存在するとしよう。すなわち,N 個の原子全体で r 個の粒を 持っているのである。このとき,エネルギーの配分の仕方,すなわちエントロピー を決定している上体の数は何通り存在するだろうか。 これはきわめて簡単で,エネルギーの配分の組み合わせの数を W として, W = (N + r)! N ! r! (2.3) となる。 これは次のように考えると容易に理解できる。いま,10 人に合計 20 円を持たせ るやり方が何通りあるかを考えると,たとえば最初の 1 人に 3 円,2 人目に 1 円,3 人目には 0 円, 4 人目には 3 円,... という状況は次のように表せる。 ○●●●○●○○●●●○・ ・ ・ すなわち,○を人,●を 1 円玉として,それらを一列に並べていく場合の数を考 えればよいのである。したがってこの時には (10 + 20)! 10! 20! 通りの並べ方が存在する。上のエネルギー量子の配分の組み合わせの数も,まった く同様にして導かれる。 さて,N 個の原子から成る結晶中に r 個のエネルギー量子が存在する状態にもう 1 個のエネルギー量子を加えたら,状態の数は何倍に増えるかを考えてみよう。こ の場合,N はそのままで,r だけが 1 増えるのであるから,場合の数は (N + r + 1)! N ! (r + 1)! (2.4) となり,したがって 1 個のエネルギー量子が増えたときの状態の数の増加の割合は, 式 (2.3),(2.4) の比をとって, N +r+1 N +r N ≈ =1+ r+1 r r (2.5) となる。ここでは N も r もきわめて大きい数なので,N + r + 1 → N + r, r + 1 → r という近似をしても差し支えない22 。 22 実際, N はアボガドロ数 6.023 × 1023 で量られる数であり,さらに r は極低温(ざっと 10 K 以 下,ちなみに常温は 300 K)でもない限り N よりずっと大きい数であるから,式 2.5 で分母と分子の 1 を無視しても問題はないのである。逆にいうと,ここでの近似方法は極低温では成立せず,もっと厳密 な考察が必要になるであろう。 2.8. 熱の移動とエントロピー 21 ここでもし 1 個のエネルギー量子のもつエネルギーの大きさが ² であるとすると, この結晶に ∆Q だけのわずかな23 エネルギーが流れ込むときの,結晶の状態の数の 増加の割合は, µ ¶∆Q/² N 1+ r (2.6) となる。この式は次のように考えればよい。すなわち,式 (2.5) によって,1 個の量 子の流入の際の W の増加の割合が与えられていて,2 個ならその 2 乗,3 個ならそ の 3 乗というふうに,複数個の量子の流入による増加の割合が求められ,したがっ て流入エネルギーが ∆Q であれば,∆Q/² 個のエネルギー量子が結晶の中に入って いくことから式 (2.6) が出てくる。ただしここで移動するエネルギー量子の数は r に比べるとずっと小さいものとする24 。 2.8.3 温度とは何か さて,今度は互いに接している 2 個の物体の間で熱が移動するときの状態の数の 変化を考えてみよう。一般に,結晶といっても異なる物質であればエネルギー量子 の大きさは異なるので,一方からもう片方へと ∆Q の熱が移動したとしても,増減 するエネルギー量子の数は等しくならないことに気をつけて,考えていってみよう。 A NA εA, rA B NB εB, rB A, B ふたつの物体の中に,原子がそれぞれ NA , NB ずつあり,そこに rA , rB 個のエネルギー量子が入っている。エネルギー量子は原子に配分 されている。 二つの物体 A, B はいずれも固体であり,内部のそれぞれの原子がエネルギー量 子を持つことができる。A の中の原子は NA 個で,エネルギー量子の数は rA 個, 23 「わずか」というのは,もともと結晶の中にあったエネルギー量子の数 r に比べて,何桁も少ない 数のエネルギー量子だけが移動しているということである。この前提を置くことは推論過程に勝手な制 限を加えているわけだが,この後で 2 つの物体の間のエネルギー移動がどちら向きになるかという議論 をする上では問題がないし,数学的には単純な扱いを許してくれるのである。 24 この近似をしておけば,式 (2.5) を単純に使うことができる。 22 第 2 章 エントロピーは増大する — 熱力学の第二法則 B についても同様に NB , rB が与えられているとする。また,A, B の中のエネル ギー量子のエネルギーの大きさはそれぞれ,²A , ²B としよう。 ここで,B から A へと ∆Q だけの熱が移動したとしよう。このときの状態の数 の増加の割合が物体 A, B でそれぞれどうなるかは,式 (2.6) によって次のように求 められる。 µ ¶∆Q/²A NA 1+ (2.7) rA µ ¶−∆Q/²B NB 1+ rB A, B 全体での状態の数の変化は,これらの積をとればよいから,次のようになる。 µ 1+ NA rA ¶∆Q/²A ³ µ ¶−∆Q/²B 1+ NB × 1+ =³ rB 1+ NA rA NB rB ´∆Q/²A ´∆Q/²B (2.8) 自発的な変化の方向は,系全体,すなわちここでは A と B を合わせた全体とし ての状態の数が増加する方向である。したがって,式 (2.8) が 1 よりも大きければ, 熱は B から A へと流れることになる。すなわち,熱が B から A へと自発的に移 動する条件は次のようになる。 µ 1+ NA rA ¶∆Q/²A µ > 1+ NB rB ¶∆Q/²B (2.9) 式 (2.9) の自然対数をとって整理すると,次のようになる。 ² ³ A log 1 + NA rA ´< ³ ²B log 1 + NB rB ´ (2.10) ここで両辺に整数 p を掛けて,∆QA = p ²A と置くと,次のようになる。 ∆QA ∆QB ³ ´p < ³ ´p NA B log 1 + rA log 1 + N rB (2.11) さて,こうして得られた式 (2.11) を見ると,式 (2.1) で定義されたエントロピー の変化が分母に,熱の出入りが分子になっていることが分かる。すなわち, ∆QA ∆QB < ∆SA ∆SB (2.12) は,熱の移動方向がエントロピーと熱量という 2 つの巨視的な量の変化の比で決定 されることを意味している。 2.8. 熱の移動とエントロピー 23 ここで温度というのはどういう性質を持つものであるかを思い起こしてみると, 熱の移動は温度の高いほうから低いほうへだけ起きる という動かしがたい経験的事 実に思い当たる。すると,式 (2.12) の両辺は,まさに温度に相当するものではない だろうか。その考えから,温度を逆にこの式で定義してしまうことができそうであ る。すなわち, ∆Q (2.13) ∆S とすれば,TA < TB の時に熱が B から A に流れるという事実が説明できる25 。 これで温度とは何かという問題を,まったく異なった角度から見直すことができ た。すなわち, T = ある物体の持つ温度とは,熱が流入するときに物体のエントロピー がどの程度増加するかということの尺度である。温度の高い物体か ら低い物体へと熱が流れるのは,そのことによって,全体の乱雑さ (可能な状態の数)が増加する,あるいはエントロピーが増加する からである。 25 これだけでは,式 (2.13) で定義した温度と普通使っている温度との対応がとれていない。それを実 現するには,他の物理現象で温度が関わってくるもの,たとえば気体の状態方程式などを使ってやれば よいのだが,ここでは省略する。 25 第 3 章 反応速度論の考え方 3.1 自発的な変化の方向は決まっている 第 1 章と 2 章では,ある変化のどちら向きに現象の自発的な変化や化学反応が進 むかということを考えた。そこでの結論を繰り返すと, 1. 外に向かってエネルギーを捨てる方向=内部エネルギーが減少する方向 2. 系の内部でエントロピーが増大する方向 の2つの向きの変化が拮抗しているのであった。そして,エントロピーの効果は高 温ほど支配的になる。そのことは,F = U − T S という自由エネルギーの定義にも 表現されていて,まとめて言えば, 系の自由エネルギーが減少する方向へ,変化が進行する ことになる。これが,前の章までの議論のまとめである。 このように,何かの変化がどの向きになるのかを決定するためのエネルギーやエ ントロピーの問題を考察する理論を,熱力学 thermodynamics という。熱力学は, あらゆる自然法則の中で最も基本的なもののひとつで,どうやらその法則に逆らう 例外は存在しないらしいと思われている1 。 従って,ある系の状態が与えられると,その系がそれからどういう方向へ進むか は,決定できることになる。例えば空気中に放置された砂糖水のショ糖2 は, 「いつか 1 時々, 「私は,永久にエネルギーを生み出しつづける装置を開発することに成功しました!」とか, 「私 は海水の熱エネルギーを吸収して永久に動きつづけるエンジンを発明しました」といった類いの発表を する人がおり,永久機関発明家と呼ばれている。こういう人の主張は,100% 間違っていると断じてもよ い。少なくとも,それで 1000000:1 の賭けをしても損をすることはない。もちろん,前者はエネルギー 保存則である熱力学の第一法則に反しており,後者は,温度差がなくなった,すなわちエントロピーが極 大になってしまった状態からエネルギーの流れを作ることができるというものであるから,熱力学の第二 法則に反している。ちなみにドクター中松とかいう(実は博士号を持っていないらしいが — goo で調 べてみると色々な情報が載っていて,なかなか楽しめる)「発明家」のおじさんも,真空からエネルギー を無限に取り出す装置の特許をもっているそうである。(ついでにいうと,特許というのは,その発明が 現実に可能なものであるかどうかの審査は行わない。書面の形式審査だけで認可される) 2 食用の砂糖の主成分はショ糖 (分子式 C H O ) で,それ以外にブドウ糖 (C H O ) を 10%程 12 22 11 6 12 6 度含んでいる。 26 第 3 章 反応速度論の考え方 は」酸素と反応して二酸化炭素と水になってしまうはずである3 。なぜなら,誰でも 知っているように,糖は酸素によって酸化されて大きなエネルギーを発するものだ からである。酸化することでエネルギーを放出し,なおかつばらばらの小さい分子 に変化していくのだから,エントロピーも増大する,つまり高い内部エネルギーを もち,エントロピーは増大の余地が大いにあるのだから,その二重の意味で,糖の 酸化による分解は自発的に進むのである。あるいは,砂糖は空気の中では大きな自 由エネルギーを持つと言ってもよい。「行くしかない」のである。 3.2 現実の変化は複雑である 砂糖の塊を空気中に置いておいたとき,それは見ている間に変化していくだろう か?もちろんそんなことはない4 。何年たっても砂糖の塊はかたまりのままであろう。 今度はためしに砂糖水を放置しておいてみよう。するとどうなるだろうか?何日か のうちにカビが生えてくる。また侵入した微生物によって酸性の物質ができてくる。 そういう変化の中でショ糖は徐々に分解されて,いろんな物質に変わっていく。 ショ糖が微生物によって分解されていくと,より小さなブドウ糖を経て,さまざ まの小さな化合物になっていく。そのときに物質は少しずつ酸化されていって,自 由エネルギーがちょっとずつ低下していく5 。そして結局,最終的には二酸化炭素と 水になるのである。 すなわち,生物はショ糖(と酸素からなる系)のもつ自由エネルギーを小分けに して化学反応させ,自ら必要な物質を途中で産み出しながら,生きるためのエネル ギーも得ているのである。どうやら自然界においては,大局的には熱力学の法則に 従いつつも,いろいろな巧妙な仕掛けが働いて,途中に細かい停車駅ができている らしい。 3.3 安定と準安定 自由エネルギーの高い状態をたとえて言えば,クレーンで吊り上げた物体が宙に 浮いているようなものである。すなわち,いったん留め金が外れればエネルギーの 3 おそらく 100 年も待てば砂糖水の中の砂糖は(微生物の働きを借りなくても)分解してしまうであ ろう。ちなみに DNA はきわめて丈夫な分子で,DNA 分解酵素がなければ自然分解に数億年かかる。な お,RNA はそれより一桁か二桁ほど分解が速い。遺伝情報は 染色体上の DNA によって伝えられ,細 胞内のタンパク合成工場では, RNA が DNA の情報をもとにその場で合成されたり分解されたりしな がら働いていることを想起して,この配剤の妙に感嘆せよ! 4 実は,砂糖は案外よく燃える。アルミ箔に載せてガスの火にかざすと,炎を上げながら燃えていく のを見ることが出来る。高温ではまさに, 「見ている間に」変化していくのである。 5 糖を含む穀物や果実から,発酵によってエタノール (C H OH) が作られて酒になり,さらにそれが 2 5 酸化されて酢(酢酸, CH3 COOH) になることを,化学をやった人は思い出してほしい。 3.4. 時には自由エネルギーが上昇することすらある 27 低い安定な状態へと変化すべきなのであるが,その「留め金」のせいで,高いエネ ルギーに保たれているわけだ。 これは前節でみた空気中に置かれた砂糖水と似たような状況である。自由に反応 してしまえるのなら,砂糖はどんどん酸化して二酸化炭素と水になって安定になる であろう。しかし,反応の「きっかけ」のようなものがないために, (火でもつけな い限り)砂糖水はほとんど反応していかない。 さて,このように本来は不安定な状態,つまり,自由エネルギー的には安定な状 態が別に存在するにも関わらず,何らかの理由で反応が進まないために,一時的に そこにとどまっているような状態を,準安定状態という。前節の議論は,準安定状 態から安定状態への流れがどうなっているのだろうか,というように読み替えても よい。 3.4 時には自由エネルギーが上昇することすらある 生物の体の中には,大きな自由エネルギーをもつ物質がかなり存在する。糖も,と りもなおさず高エネルギー化合物の一つであり,だから私たちは食物の主たる部分 として糖を食べているのである6 。自然界にはもともと自由エネルギーの低い物質し かないのに,どうやって生物は高エネルギー化合物を作り上げられるのだろうか。 これは単純なことで,要するに「多くの犠牲のもとに少数が高いところにたどり 着く」のである。一見して熱力学の法則に逆らうような変化,つまり内部エネルギー が高まったり,エントロピーが減少したりするようなことは,生体内では常に起き ている7 が,それと同時に,必ず自由エネルギーが減少していくプロセスが起きてお り,全体としては熱力学の法則は決して破られないのである8 。つまり 高エネ物質 −→ より高エネの物質 (少量) + 低エネ物質 (多量) (3.1) というふうになるわけだ9 。 6 「えーっ,あたしは甘いものは太るから食べないようにしてるよー!」などとおバカなことを言わ ないように。要するに穀物の主成分はでん粉などの糖であり,甘かろうと甘くなかろうと,高いエネル ギーを持つのである。とはいえ,無理なダイエットはやめて,必要な栄養は取って,そして体をよく動 かして健康を保とう。 7 これを生物のもつ特別な能力と見る人もいるが,自然界における他の変化においても,ある範囲で 自由エネルギーが上昇するようなことは起きる。ただ,生物においては,後述するように化学反応の調 節がそもそも生命活動の本質であると極言できるほどに,自在に反応が操られているのである。 8 生命は特別な法則に従っており,そこでは物理や化学の法則を超えた変化が可能であるという「信 仰」がたまに出現するが,それは全くのウソである。人間を含めて,あらゆる生物は自然法則を破った 現象を引き起こすことはできない。精神的健全を保つために,このありがたいテキストをよく読んでお こう。 9 全質量のほとんどの部分を下に向けて放出しながら上昇する宇宙ロケットと,ちょっと似ているかも しれない。 28 第 3 章 反応速度論の考え方 3.5 流れをせき止める自由エネルギーの壁 前のクレーンの喩えは,しかしながら乱暴なものである。宙にぶら下がった物体 は,掛け金が外れれば単純に落下するだけで,砂糖が生物に消費されるときのよう な回り道も途中段階もない。 砂糖の酸化の例でみたように,高い自由エネルギーの系は,途中にさまざまの中 間的な物質からなる状態をへて,最終的に安定状態へ移行していく。つまり,流れ の中にはまた数多くの準安定状態があって,その間を変化が進行していくのである。 その様子を絵に描くと,下のようになるであろう。 A ↑ エ ネ ル ギ | 6 B C D 反応の進行→ 図 3.1: 多段階の反応に伴なう自由エネルギーの変化のようす A は高い自由エネルギーをもつ出発点である。これが最終的にエネルギーの低い D という状態にまで変化していく。 さてここで,A が変化するためには,その右側の山を越えなければならない。そ のためには,矢印で示された高さのエネルギーをもつことが必要である。ところで, すでに何度も見たように,分子は熱でばらばらの運動をしているのであるから,沢 山の分子の中にはおとなしいものや元気のいいものがある。そして,ある割合で,こ の山を越える分子も存在するはずである。その分子だけが障壁を越えて B に到達で きる。 このように,ある状態から他の状態へ変化するために必要なエネルギーの山の高 さのことを活性化エネルギーという。つまり活性化エネルギーというのは,試験に おける合格最低点と同じで,それを越えるパワーを持つ選ばれた分子だけが,次の 段階に進むことが出来るのである10 。 10 というわけで,がんばって勉強してください。 3.6. 酵素の働き 29 これだけの考察から,反応の進む速度について,次のことが言える。 1. ある反応が速いか遅いかは,活性化エネルギーの大きさによって決まる。 2. 温度が高いほど,一般に反応速度は大きい11 。 温度が高いということは,分子の持っている熱エネルギーが平均して大きいと いうことであり,それだけ「選ばれた分子」の数の割合も大きいからである。 3. 物質が出発から最終まで何段階かをへて変化していくとき,もっとも遅い反 応,すなわち活性化エネルギーの大きい反応が全体の反応速度を決めることに なる。この反応のことを,反応全体の中の律速段階という。 最後に登場した律速段階という概念は,なかなか有用である。すなわちいくつも の段階で構成されたプロセスがあったとき,全体の速度を決定するのは,その中で 最も遅い段階である12 。すなわちこれは化学反応の世界だけでなく,物事が変化す るとき,一連の仕事を遂行していくときなど,変化を伴なう多くの局面で使える概 念である。 3.6 酵素の働き 話しを生物に戻そう。微生物によって砂糖が代謝されて,途中いろいろな化合物 が作られるのは,巧妙な反応のコントロールがなされているからである。そして,反 応のコントロールとは,まさに活性化エネルギーをコントロールして反応速度を自 在に操ることである。 山の頂上から下に下りることを考えよう。図 3.1 のように下っていく曲線は,実 は一通りではない。別の方角に降りていけば,もっと活性化エネルギーが低い経路 があるかもしれないのだ。そちらの道を行けば,別の化合物が生成する。同じよう な活性化エネルギーの経路が複数あれば,どちらの反応も同時並行で起きて,複数 の化合物が生成するだろうし,ちょっとした活性化エネルギーの変化で,作られる 物質の割合が変化したりすることになる。 生物の内部では,さまざまの反応の活性化エネルギーを微妙に調節しながら,何 万種類もの化合物の連鎖がうまく運ばれている。この調節をおこなっている主役が 酵素である13 。 11 通常,温度が 10˚C 高いと,反応の速度は 2∼3 倍になる。このことから,火の温度が少なくとも 200∼300˚C であることを考えると,燃焼というのが,常温での変化に比べていかに急激な反応になって いるかを理解できるだろう。 12 こういうのを巷では「ネック」というのであるが,ある分野の科学者たちの社会では,全体の足を 引っ張っているやつを指して, 「あいつが律速段階なんだよ」と表現するらしい。 13 心理的な要因で心臓が速く動き始めるとき,主にアドレナリンという酵素が,心臓や血管における 30 3.7 第 3 章 反応速度論の考え方 結論 この世界におけるすべての変化は,激しく輝く恒星から暗黒の宇宙へと向かうエ ネルギーの流れの中の瀬や淵のようなものである。これは詩的な喩えではなく,真 の姿である。 すなわち恒星におけるエネルギーは,小さな原子核が強い核力で結合していくとき に発生するものであり,今の宇宙で最も発生エネルギーの大きなプロセスがそこにあ る14 。そして恒星の中心温度は数千万度に達し,わが太陽の表面の温度は約 6000˚C である。 一方,宇宙の暗い空間の温度は,きわめて低く,絶対温度でなんと 3K ほどしか ない!15 つまり,11 ページの脚注で触れたように,空間にも電磁波の放射による温 度が存在し,宇宙で最も温度が高いのは恒星の中心部であり,逆に温度が低いのは 宇宙の涯の暗い空間である。だからこの宇宙には,高温の恒星内部から表面に達し, さらにその表面から宇宙の涯に向かう巨大なエネルギーの流れが存在していること になる。 その流れが惑星表面に達すると,大気や水の動きのためのエネルギーとなり,あ るいは物質に化学変化を引き起こして,高い自由エネルギーを持つ化合物を生成さ せたりする。もちろん,この化学変化を巧妙な仕掛けによって高い効率で引き起こ しているのは,生物による光合成である。要するにエネルギーの高い準安定状態が, 太陽からのエネルギーの流れを無機的,生物的に受け取ることによって,地上に引 き起こされるのである16 。 準安定状態から安定状態へと向かう変化の流れは,生物の体の中では酵素によっ てきわめて精妙かつ大規模にコントロールされ,必要な物質が作られたり,必要に 応じた変化がもたらされたりする。 変化を引き起こしているのである。ただし,このときにも多数の酵素がアドレナリンの作用によって活 性化したり抑制されたりして,全体的な変化が引き起こされることになる。 14 ビッグバン直後の宇宙の始まりには,クオーク同士が結合して陽子や中性子を作っていった時代が あって,その時に発生したエネルギーはもっと巨大だったはずである。 15 これについては,宇宙の背景放射と呼ばれるきわめて面白い話しがあり,宇宙の涯を遠ざかって行 くビッグバンの名残が関係してくる。2 年次後期の「文化としての科学 2」では,このきわめて興味深い 話題が取り上げられる。 16 地球内部の放射性物質の核反応によって生じる熱,つまり地熱も地球表面の温度を保つのに重要な 寄与をしている。このテキストではそのことに言及していないが,それではいくぶん片手落ちである。 31 付 録A A.1 補遺と問題 用語の説明 系 英語では System である。互いに影響し合っているモノのひとまとまりのことで ある。原理的にいえば,宇宙のすべてのものは互いになんらかの影響を及ぼ しあっているはずだから,宇宙そのそのものが一つで系であるわけだが,それ では考えようがないので,便宜的に「ある特定の物質からなるまとまり」,例 えば,一人の人の体,地球,生態系(この「系」は,まさに生物同士が影響し 合っているまとまりを指している),あるいは試験管の中,室内などといった ものを,系とみなす。系は,外部にある他の系と物質やエネルギーをやり取り していたり,熱や光のエネルギーだけをやり取りしていたり,なにもやり取り しないでいたりと,大雑把に3つに分類でき,それぞれを「開放系」, 「閉鎖 系」, 「孤立系」と呼ぶ。孤立系の中では,エントロピーは 必ず 極大に達する まで増えていき,閉鎖系の中で,内部エネルギーの高い状態があれば,エネル ギーは外に向かって放出されていく。 熱 熱は,エネルギーの最終的な形態,つまり乱雑になりきってしまった分子運動の エネルギーである。熱からエネルギーを取り出すには,温度差がなければなら ない。 温度 温度は,ミクロに見れば,分子運動の激しさの尺度である。物理的な意味が はっきりしている絶対温度では,あらゆる分子運動が完全に止まっているよう な(仮想的な)状態を温度がゼロと決めてある。 2 つのモノの間に温度の差があった場合,熱は必ず高温の側から低温の側へと 流れる。これに反する流れは,自発的には決して起き得ない。だから,クー ラーや冷蔵庫のように,低い温度のところから熱をさらに奪って,温度の高い ほうで熱を放出するような仕組みは,何らかのエネルギーを外部から与えてや らないと実現できないのである。 絶対温度,摂氏温度 我々が通常使っている摂氏温度 (Cersius degree) は,水の凝固 32 付 録A 補遺と問題 点と沸点を基準として決められた1 。誰でも知っているように,摂氏温度の単 位には˚C が用いられる。しかし,温度の本質からすると,分子運動との関連 で温度を定義するのが自然であることから,絶対温度が決められた。絶対温度 は通常 T で表し,単位は K (kelvin) である。絶対温度 T と摂氏温度 t の関 係は, T = t + 273.15 つまり,絶対零度= –273.15 ˚C である。これより低い温度は存在しない。 自発的な変化 ある系を放置したときに,それが「勝手に」引き起こすような変化。 例えば,火事が勝手に燃えていったり,山が水や空気で侵食されたり,煙が空 気中に広がっていったり,ある物質が海水に限りなく薄まって広がっていく 等々の変化は,すべて自発的である。「自発的な変化の向きはどうなるか?」 というのが,本書の一つの大きなテーマである。 1 他の多くの単位と同様に,最初に定義されたときには測定手段や基礎理論が未熟だったりしたため に,後になってこの定義は変更されている。 A.2. レポート問題 A.2 33 レポート問題 次の問題に答えなさい。必要なら図解して説明しても構わない。文章は手書きと し,A4 レポート用紙を左上で綴じて提出のこと。締切は 1 月 31 日とする。 1. 次の各問に答えなさい。それぞれについて 200 字程度以上で答えること。 (a) やかんにお湯を入れて放置すると,湯の温度は室温まで下がる。この理 由をエントロピーの考えで説明しなさい。 (b) インクを水に垂らすと,徐々に拡散して均一な溶液になる。この変化を, 小波ウェブサイトの「粒子の拡散のシミュレーション」をみて,その様 子と関連付けて説明しなさい。 (c) 気体は,体積の大きな容器に移されれば,いくらでも膨張するが,液体 はそうではない。気体がなぜ膨張するのかを上のシミュレーションと関 連付けて説明しなさい。 (d) また液体が気体と違ってなぜ膨張していかないかを,分子の間に働く力 の大きさを気体と液体で比較することによって説明しなさい。 2. 太陽で発生したエネルギーは,地球の生態系や大気,水陸圏の中をどのような 働きを伴なって移動していき,最後に宇宙に放たれるか,そのエネルギーの流 れを,エネルギーがどのような形態を取るかも含めて,なるべく詳しく図解し て記述しなさい。また各部の概略の温度にもついても書いておくこと。 3. 昼休みの学食で学生が食事を終えるために要する時間について,どこが律速段 階になっているのかを根拠とともに示し,またその段階を改善したら,次には どういうことが起きるかを予想して論じなさい。
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