vol.30 2012 Mar. vol.30 2012 Mar. 比地大滝 まえがき 特別研究員寄稿 大澤 正治 平和へ向かう 大澤 正治 東日本大震災に際して、改めて「稲むらの火」 武田 泉 日本の北辺・稚内と難破船の救援の地・猿払を訪ねて 宇根 悦子 グアムの旅 宮良 安彦 13.ビッチン山の話 14.十五夜の由来 熊谷 フサ子 手縫糸・撚糸工場見学-神奈川県半原・田代を訪ねて 寄稿 仲田 清喜 振り出しに戻る-「ジャーナリズム論」講義を終えて 慶田城 健仁 臆するな、前に出よ -土曜教養講座終了 比嘉 光龍 「琉球諸語の復興を目指して」シンポジウム その2 沖縄大学エイサーサークル新風一同 福島遠征報告書 高大GP 移動市民大学in奄美大島 奄美~沖縄交流フォーラム「UIターンによる地域活性化」 戦略GP はいさい!ボーサイ! 沖縄大学まちづくり実習・実践演習のフィールドワークより まちづくリスト認定 土曜教養講座 【報告】第491回 第492回 沖縄からアイヌを考える ~文化・教育の交流のすすめ~ 刊行案内 『慶良間諸島の鳥類相について』 所内雑記 まえがき 地域研フォーラムも30号を迎えました。スタートは2年半前になります。沖縄大 学が創立50周年を迎え「地域共創・未来共創」を掲げました。地域に根ざした大学 として更に飛躍を図ろうという意気に燃えていました。地域研の外部の特別研究員 も100人近くいましたが、お互いの交流がゼロ。研究員同士でも、そもそも誰がい るのか、何をやっているか、何をしようとしているのか不明。そこで交流を諮るた めにフォーラムを創設しました。沖縄からの情報発信のための基礎づくり、これか らの研究や活動をご披露頂き、共同研究班結成や土曜教養講座などでの発表、さら に紀要や叢書につなげようと考えました。これまでご寄稿頂いた皆様に感謝申し上 げます。内容はその他に土曜教養講座の予告、事後報告、大学間連携GP・高大G Pの展開、地域研究所の月々の動き、スタッフのつぶやき(編集後記)も設けまし た。一番大変な事務局は、編集・仲宗根礼子さん、連絡・山代基乃さん。 これからも素敵なマガジンとなるよう努力しますので、よろしくお願い申し上げ ます。 さて私は今年度も疾風怒涛の中の小舟のように激しく動き・揺らされ続けました。 印象に残ったのは8月のフランス・スペインのサンチャゴ巡礼路取材、9月のスリラ ンカ・コロンボでの国際会議(おぼつかない英語で議長、発表、ディスカッション!?)、 11月の中国広州・中山大学と民族・宗教研究院での講演、1月のドバイ・イスタン ブール取材。国内ではブータン国王夫妻来日歓迎会、それに県立博物館と沖縄大学 で開催された中華飲食基金研討会の講演・シンポジウムです。内外から約50人近い 研究者が集い、3日間にわたって開催された素晴らしい会議でしたが、マスメディ アには一切報道されませんでした。 フォーラム1月号に又吉先生が寄稿していますので是非ご覧ください。 http://www.okidai-chiken.org/forum/forum_28.html 私も会議中、元民族学博物館館長の石毛直道氏といろいろとお話し、また最後の 挨拶をさせて頂きました。以下はそのメモです。 民族博物館石毛直道元館長の話。「675年天武天皇が肉食を禁じた。それまでは 鹿・猪を食べていた。太陰暦の4月1日~9月30日、稲作の期間は牛、馬、犬、鶏、 猿の殺傷禁止。最初は豚?牛?をいけにえにして豊作を祈っていた。が、かえって 稲作がダメになった。神道では「動物を殺して神に捧げる」という考えはない。穢 れとされる。」母親は明治生まれでした。牛肉や豚肉はほとんど食べませんでした。 十数世紀に及ぶ肉食禁止の影響だった、と納得。 私の挨拶には「身土不二」や「マクロビオティックス」という言葉が入るので、 あらかじめ日・英・中の通訳ブースに告げました。万事承知という感じで男女二人 の通訳がにこやかに笑ってうなづいてくれました。沖縄の現状を少し喋りました。 以下メモで恐縮です。 「40年前来た時は、全てウィスキーであった。今は泡盛。沖縄の文化生産力は高い。 民謡の新曲が毎週出る。日本本土では床の間に日本刀が飾られるが、沖縄では三線。 最近、移民5000人が集まりウチナーンチュ大会を開いた。沖縄は世界中に3~40万 人の移民を輩出している。移民先でのエイサーの継続などは文化遺伝子という人も いる。唐の世からアメリカ世、アメリカ世からヤマト世の世替わりを経験した。最 近は沖縄の言葉もだんだん復興している。ハワイ語、カタロニア語は一世代(約30 年)で復活した。人気ドラマ「琉神まぶやー」はまったく琉球語で通している。沖 縄の肥満率は、全世代で最悪の危機にある。身土不二という言葉は、韓国で浸透し ている。マクロビオティックスは、1907年食養会から始まった。その土地、その季 節の食物がいい、という考え。最近では日本でも「地産地消」、「医食同源」が注 目されている。沖縄では、命薬(ぬちぐすい)という言葉がある。しかし実情は、 正しい食事をしていない。メタボリック症候群が多い。昔、やんばるの奥の部落の 祭りに参加した時、(ごちそうのつもりで)缶詰が出て驚いた。・・人間が、食事 をする、ということは「命を奪って生きている」と心得た方が良いのではないか。」 英語・中国語の通訳が素晴らしかったらしく、フランス人研究者から「エレガン ト」と誉められました。後で通訳の方と話す機会がありました。なんと二人とも上 海の名門大学「復旦大学」の教授でした。 来年度から地域研は新しいステージに踏み出します。どうぞご協力お願い申し上 げます。 2012年3月 沖縄大学地域研究所 所長 緒方 修 特別研究員寄稿 vol.30 平和へ向かう 大澤 正治 愛知大学経済学部 沖縄大学地域研究所特別研究員 再生可能エネルギーという言葉はだいぶ普及している。この言葉はRenewable En ergyの訳として定義しているところである。 ところが、Renewableを「なくならない」と解釈している場合が多い。ここまで は間違いはないと言ってもよいが「なくならない」状態とはどのようなことか尋ね ると、誤解している人々が多いことに気づく。「なくならない」とは「たくさんあ る」ということだと理解するとしたら、間違いとは言えないかも知れないが、微妙 な解釈だということになる。そして、「たくさんある」から「いつでも使える」と 解釈すると、ここでアウトとなる。自然環境の豊富さとは、「たくさんある」こと が「人間の都合がよいようにいつでもすきなだけ使えること」にイコールではない のである。水力エネルギー、風力エネルギーそして太陽エネルギー、なかなか、人 間にとっての「適度」ということが自然環境には理解してもらえないようである。 人間が五感で知りえる範囲の中で井の中の蛙状態になっていることを自然環境は十 分にごぞんじのようである。 さらに、Renewable Energyに関するもう一つの誤解は、「たくさんある」といっ ても、常に、新しさが維持されることを見過ごしてしまうことである。エネルギー に関しては、使えば使うほど質が乱れるエントロピーの法則というのがあるが、自 然界の恵みは常に新しいのである。「常に新しい」とは、新しさの次に、また、だ れも手をつけない新しさがやってくるのである。 「常に新しい」状態を維持することは、けして簡単な努力では達成できない大変 なことである。 環境の分野でやはり、かなり普及している言葉に「Sustainable」つまり「持続 可能な」という言葉がある。実は、Sustainableとはどのような状態を指すのか、 明らかにされないため、ゴールが見当たらず、地球環境問題は一向に解決されない。 かつて、Sustainable Developmentに代わって、Sound Developmentという言葉が 注目されたことがある。Soundは心地よい音楽が聞こえてくるように、いたずらな 刺激を与えないように、おだやかな状態の前進を確実にすることであり、環境と経 済の関係の重要性を説明する言葉である。ただ、立ちどまって時間の経過を待つの ではなく、時間の経過という風をまともに受けながら、無理のない程度に、しかし ながら、確実に歩を前へ進めながら継続することがSoundに求められる。 ようやく、本日の言いたいこと、「利払いも考えながらの前進」、ただ、継続す るのではなく、あなたが利用したい引き継ぐものを手に入れるために、元来、元手 のないあなたはまわりの人々、社会の人々から融資をえたと考え、を利子を返済す る、あるいは、引き継いだものの稀少価値は時間の経過とともに増して行く、その 特別研究員寄稿 vol.30 増分に等しい利子を支払うべきとの考えまで辿りついた。社会の変化に対応しない 化石状態の継続はありえないと言ってもよい。 発展途上国では成長こそ持続の牽引車という考え方が当たり前であるが、わが国 でははるか昔の考え方となってしまっている。 しかしながら、今の日本でもまだ利払いの持続性が重要となる場面は少なくない。 東日本大震災の復興は、けして、元に戻せばそれでよいということではない。 そして、普遍的な世界平和を希望する寺島尚彦の名曲「さとうきび畑」の歌碑が 4月1日に読谷村に建立されるニュースを聞いて、平和の利払いは多分野に及び、平 和と経済、平和と人道、平和と社会、平和と自然環境、様々な利払いが要求され、 積極性がなければ平和は継続されることはないと思った。平和は発展途上国にも先 進国にも平等に与えられた権利であり、その権利を自ら獲得しなければならない。 歌碑建立地となる読谷村のサトウキビ畑 サトウキビの花・読谷村にて 撮影:大塚勝久 撮影:大塚勝久 特別研究員寄稿 vol.30 東日本大震災に際して、改めて「稲むらの火」 大澤 正治 愛知大学経済学部 沖縄大学地域研究所特別研究員 災害という緊急事態にあたっての情報流通と避難を促す指示コミュニケーション は、連携をとることが有効性を引き出すことになると考えられるが、元々、その概 念は混同すべきではないことを改めて東日本大震災から学んだ。 東日本大震災の津波襲来に際して、茨城県大洗町の避難を求める命令調アナウン スが注目されている。様々な要因が重なったと思われるが、大洗町では死者は一人 もでなかった。命令調アナウンスもその原因の一つと考えられる。 また、気象庁の有識者会議では、2012年1月31日、津波の予想高について数字を 使う従来方式ではなく、「巨大」「高い」などの大ざっぱでわかりやすい表現を用 いる方式の方が避難を促す効果が高いと提言した。 情報を受信する場合、その情報を受けとるかどうか、あるいはどのように受けと るか受信者には自由があり、その自由は発信者の発信にあたっての言論の自由と表 裏一体の関係にある。ソーシャルメディアによる情報は何らかの形で口コミによる 確認行動をともなうケースが多いが、このようなフォローはソーシャルメディアに よる情報の信頼性の低さをカバーする知恵と考えることができる。 一方、指示のメッセージは、村八分にされた人々にも、しかも、即刻に伝えなけ ればならない(そのような場合は火事等大災害と葬儀と言われている)。そのため に多すぎない、土地不案内なストレンジャーにもわかる単純なシグナルが必要とな る。そのシグナルは必ずしも文字情報でなくとも、音、形、色、臭いが放つ情報も ありうる。戦時中の空襲警報はもっとも効果を発揮したシグナルと考えることがで きる。 沖縄大学地域研フォーラムVol.23,2011.8月号でも述べたが、「稲むらの火」物 語では、村人は「稲むらの火」のシグナルにより助かり、助かってから津波の襲来 を知ったのではないかと推察する。 ラフカディオ・ハーンが著した「稲むらの火」には実話がある。安政南海地震津 波による被害を受けた、紀伊水道に面した広村、現在の和歌山県有田郡広川町での 浜口儀兵衛の活躍である。実は、この実話によれば、津波に溺れた村人に安全な場 所を知らせるために松明の火をシグナルにしたそうである。後に村人が津波を知っ たというのは、ラフカディオ・ハーンによるフィクションであった。しかしながら、 避難を促すシグナルの効果を訴えていることには違いはない。 現在、広川町には、博物館「稲むらの火の館」があり、防災が広川町の町づくり の基本概念になっている。 この2月に広川町を訪れたが、先ず、町中の道が狭く入り組んでいたことにびっ 特別研究員寄稿 vol.30 くりしたが、ほとんどの家の外壁に「避難の道」のサインが掲示されていた。 どこの都市でも、広域避難場所を表示する看板はあるが、その設置場所は少なく、 しかも、一枚の看板には情報がたくさん押し込められている。緊急時には、その看 板がどこに立っていたか思い出す冷静さがはたしてあるだろうか。もし、上手く思 い出して、その看板のところまで辿りついても、そこに書いてある情報すべてを冷 静に頭に入れることができるだろうか。疑問は当然のように残る。 それに比べて、広川町の「避難道」のサインは極めてシンプルで数多く、しかも 目立つ看板である。広川町に初めて足を踏み入れた旅人もこの「避難道」のサイン に誘導されて難を逃れる可能性は大であると予想できた。たとえ、入り組んだ道の 改修計画を町議会で議論しなくとも、広川町は立派な防災の町といえると思った。 東日本大震災に関する東日本放送/サーベイリサーチセンターの調査によると、 明治、昭和の三陸地震津波の経験は東日本大震災の経験に必ずしも活かされていな かったとのことであるが、「稲むらの火」の実話以来の歴史が現代に教えることの 偉大さを改めて知った。 撮影:大澤正治 特別研究員寄稿 vol.30 「日本の北辺・稚内と難破船の救援の地・猿払を訪ねて」 武田 泉 北海道教育大学札幌校 沖縄大学地域研究所特別研究員 一. 昨2011年8月末、北海道(本島)の最北の稚内市で、樺太・サハリン史を巡る日 ロ共同国際シンポジウム「海峡をまたぐ歴史」が、北星学園稚内大学で開催された ので、参加した。サブタイトルは「跨境」。稚内はまだ短い夏が終わらずに、暑い くらいの陽気であった。初日は稚内駅からレンタサイクルを借り、近年建設された メガソーラー発電所の他に、その近くの稚内空港や大沼を来訪後、会場へと向かっ た。 シンポジウム会場風景 まず1日目は、樺太からの引揚回想を皮切りに、日ロ双方からのモネロン島(海 馬島)の歴史研究やペレストロイカと地域史研究等が報告された。1930年代の海馬 島で、日本樺太庁によって観光開発として遊歩道が整備され、今日でもその残骸が 現存するが、今も昔も「遠隔地で交通が不便過ぎる」とのことで、サハリン州も手 を拱いているとのことであった。 2日目は、尼港事件や北サハリンの社会構造、1925年日本皇太子の樺太行啓、戦 前の郵便・電信、戦前樺太と道北の地域経済との関連性、他の報告があった。特に 最終報告で、1920年代以降の道内の鉄道路線網や対樺太稚泊航路が発展する一方で、 稚内の道内鉄道貨物中の占有率は伸び悩み、樺太からの大量の移出物は、稚内では なく小樽や直接道外の消費地へと向かった。その背景には、稚内への鉄道が低規格 なため(入線可能な(蒸気)機関車も限定)、輸送能力が低かったとの見解も出さ れた。こうした稚内港の荷役能力不足等にみられる稚内の交通未整備は、戦争終結 時の“三船遭難”の原因にもなった。稚内港が満杯として更なる南下を余儀なくさ れた結果、国籍不明艦からの襲撃を招いた原因ともなった点も、改めて実感するも のであった。同様に、戦時中沖縄へ向かっていた対馬丸が米軍艦に沈められたこと を、思い浮かべる。 特別研究員寄稿 vol.30 シンポジウム両日の夜、筆者は一行からは別れ、南稚内駅からJR普通列車に乗っ て市内最南端部の勇知へと向かい、無人駅近くの農家民宿「ゆうゆうファーム」に 宿泊した。無人のJR勇知駅の近くなので、列車からも大きなガラスの正面が見付け られる。この施設は、観光農園と農家民宿を運営していて、それほどPRされている わけではなく、五右衛門風呂とロシアンサウナ等が存在する、ほのぼのとした情景 に建っていた。 二. 2日間のシンポジウムの翌日には、バスでエクスカージョンが行われた。一行は、 まず稚内市街裏側の高台で資料館のある稚内公園へ向かった。 稚内公園からは、通常天気が良ければ北東の方向に、サハリン(樺太)本島が望 める。ところが今回ではないが過去に一度だけ、それとは明らかに別の北の方向に、 小さな島影を確認したことがある。大韓航空機撃墜事件現場付近の、シンポジウム でも登場したモネロン島(海馬島)であろう。なかなか稀有な体験であった。 その後、稚内市内から通って、宗谷岬方面へと進んだ。シンポの最終報告内容と 関係する初代稚内駅跡はなぜか通過となったが、宗谷護国寺跡へ向かい、その後最 北端の宗谷岬を通って宗谷管内のオホーツク海側に入って、帆立のまち・猿払村へ と向かった。同村内の浜鬼志別には、オホーツク海に面して走る国道沿いに、難破 船インディキルカ号の慰霊碑が建立されている。 今シーズン冬の道内は、度重なる低気圧発達と寒波の襲来で、暴風・吹雪模様に よる交通途絶も多発し、全国ニュースに取り上げられるほどである。年末には、宗 谷海峡でロシア船が遭難し、はたまたこの2月には、宗谷管内浜頓別町の浅瀬にロ シア船が座礁し、難破船から逃れてきたロシア人船員が近くの民家に駆け込む等の、 後述するインディキルカ号遭難時さながらの光景も見られた。大韓航空機撃墜事件 の際にも、同海岸に遺体や漂流物が漂着したという。 まず慰霊碑にロシア側参加者と共に献花した後、道の駅さるふつ管理棟2階の日 ロ記念館を参観したのだが、雑然とインディギルカ号遭難事件関連の写真やロシア 側から提供された答礼物品が雑然と陳列されているだけで、「物置」の様相であっ た。当地には、ロシア語の解する関係者が居ないのであろう。 インディキルカ号慰霊碑 インディキルカ号慰霊碑(遠景) 特別研究員寄稿 vol.30 道の駅の内陸側は現在村営牧野となっているが、戦時中は旧陸軍浅茅野第二飛行 場の跡地であることを、筆者はこの時初めて知った。国鉄旧天北線に存在した「飛 行場前」乗降場が最寄の第一飛行場跡では近年、強制労働で命を落とした朝鮮人の 遺骨発掘も日韓共同で行われている。 その後、バスは午後に村役場の講堂に到着し、今回のシンポジウムの参加者で 「インディギルカ号の悲劇」著者の原暉之北大名誉教授による遭難事件の講演会が 催された。 この遭難事件は、戦前の1939年12月12日に、カムチャツカ近海で1100余名の漁夫 と家族を乗せたソ連の貨客船インディギルカ号が、ウラジオストクへの帰路、宗谷 海峡で暴風雨に遭遇し、樺太最南端の西能登呂(クリリオン)岬と宗谷岬の中間に ある岩礁二丈岩を、宗谷岬の航路標識と見間違えて進んだため、嵐の中流されて北 海道オホーツク側の猿払村浜鬼志別の、沖合約800mのトド岩付近の浅瀬に乗り上げ て座礁・転覆し、720名余りが溺死したもので、タイタニック号を上回る歴史的大 惨事となったである。この難破船に対して、開戦前の対ソ感情が険悪な中、村民総 出で決死の救助活動にあたった。生存者は介抱された後小樽へと運ばれ、ソ連側に 引き渡されたが、その後も浜辺には遺体が何体も打ち上げられたという。 原氏の講演では、まず執筆時の時代背 景として社会主義体制の崩壊、北海道赴 任によって北方への関心の高まって、関 連文献を収集していく中で、この遭難事 件を知り、著書の副題にある「1930年代 のロシア極東」の内実をあらわにしたい と、執筆したとのことである。この「イ ンディギルカ号」が囚人船だったことは、 原氏が初めて発表したものである。同船 は、表向きはカムチャッカの漁業コルホー ズ労働者のウラジオストックへの輸送船 原北大名誉教授の講演 だが、その多くはスターリン時代の圧政 当時に、極東のオホーツク海岸のナガイフ港奥地の、コリマ金鉱山での強制労働の 囚人輸送船というのである。囚人は船倉に詰め込まれ、ハッチは外からロックされ、 護送兵から監視されていた。遭難時に脱出を試みる囚人たちに、護送兵が容赦なく 発砲したため、凄惨な状況と化した。そのただならぬ状況は、救助に当たった日本 側の目にも、少なからずとまった。暗黒のスターリン時代における抑圧者数は、一 説で2500万人で、その半数以上が銃殺もしくは収容所送りとなって、死亡している。 こうした状況は、各国にとっては遠隔の地にあるため、近代史上は日本側のタコ労 働等も含め、各国が「環オホーツク海」地域を、「囚人労働の地」にしていたこと になる、と原氏は指摘するのである。 こうした原氏の考察は、司馬遼太郎の目に留まり、司馬「街道を行く-オホーツ ク街道」の中の、「旅の終わり」の章で触れられている。まず「インディギルカ」 号と乗船者の来歴について触れた後で、司馬は「原氏の著書によって、スターリン 特別研究員寄稿 vol.30 時代のソ連の実態が、解剖図をみるようにあきらかになっている。」との評を残し ているのである。また、今回は時間の関係で見れなかったが、同じ浜猿払地区に 「電話通信ゆかりの碑」も存在するという。1934年に北海道の同地区と樺太女麗 (サハリン・プリゴロドノエ)間約163kmに海底ケーブルが敷設された。戦争終結 時の1945年8月22日、ソ連軍の侵攻下の真岡郵便局の9人の女性電話交換手による 「みなさんさようなら、これが最後です」との集団自決の際の最後の交信を、ここ 猿払電話中継所では海底ケーブル経由で直接聞いたというのである。 時は経て、戦争終結後の1971年10月には慰霊碑が完成したが、ソ連漁民のカンパ によって、前述の日ソ友好記念館が建設された。この辺の事情は、元同村助役前田 保仁氏による「冬の海に消えた700人 インディギルカ号遭難の悲劇」に詳しい。同 村では、「いきいき北方圏交流の郷土(さと)」づくりを提唱し、サハリン州オジョー ルスキィ村と姉妹都市提携をし、以来毎年村内中学生のロシア訪問等の、相互訪問 が、1993年の猿払村国際交流協会によって継続されているという。海に引かれた無 言の国境線も、同じく海で外国と繋がっている状況を、改めて確認しながら、エク スカージョンの帰途は、オホーツク海を臨みながら国道を戻る。宗谷岬近くの宗谷 丘陵の周氷河地形(北海道遺産)を通過しながら無事終了し、稚内空港を経て、稚 内駅に帰着した。 日ソ友好記念館内展示 三. 最後に、帰りの交通手段について、国内北端の辺地との関連で触れておきたい。 まず稚内駅であるが、最近改築されたため、高架化した旭川駅と同様に小奇麗に 改装され、今後は併設される道の駅との合築の、複合駅舎になるとのことである。 しかし、かつては大勢の利用客で賑わった駅は利用者の減少で、今回JR駅部分は発 着線も1線のみと棒線化され、待合室他も必要最小限のスペースとなった。キオス クと駅蕎麦屋、さらには以前駅弁を購入した食堂も既に閉店し、駅弁購入方法の貼 り紙は一切無い。以前営業していた、札幌方面への途中駅・名寄の駅弁販売も、跡 継ぎが無く終了している。実は以前駅弁を購入の際、同食堂は仮店舗に移転しても、 そこへ行けば駅弁を入手できることを、筆者は事前に知っていたのだが、必要最小 限への機能集約は、鉄道の旅を無機質なものに変えてしまっている。考えようによっ ては、接続した複合施設のバスターミナル隣にあるコンビニエンスストアのセイコー 特別研究員寄稿 vol.30 マートがあるので、それで十分なので、個人的 に我慢すれば事足りるということであろうか。 実は今回の帰りの移動は、定価運賃が高いJR 特急列車ではなく、都市間バスを利用して帰途 に着いたのである。稚内市内の数カ所に停車し、 地元の利用者と思われる乗客を乗せ、市街地を 出ると、国道の規格が一段と向上し、仮に戦車 も通れそうな立派な道路となっていた。道内の 新装なったが手狭になったJR稚内駅 国道は、沖縄と同様の旧開発庁の流れを汲む北 海道開発局によって、全て国の直轄事業として 整備されており、稚内~幌延間も、自動車専用の高規格道と現国道40号の改築拡幅・ 高規格化がなされていて、実に円滑かつスムーズな走行であった。ということは、 細道のままで名寄以北は85km/時しか出せない鉄道とは、お金の掛け方が大きく異 なっているのである。 実際、帰路に乗車した都市間バスと、稚内を夕方数分違いで出発する札幌行特急 列車を比較すると、都市間バスは稚内駅前を6分前に出発、深川JTC時点で特急列車 (所定ダイヤ)よりも5分程度先行、都市間バスが道央自動車道・砂川SAでの休憩 中に列車が追い抜き札幌先着、バスは22時10分過ぎに(札幌駅一つ手前の)苗穂駅 前到着となっていた。時間的にもこれほど遜色無い所要時間で、料金が3500円以上 違うとなれば、鉄道側にとっては脅威であろう。日本の地方・辺地の交通事情や行 政の制度は、どこに行っても没個性化すると同時に、異文化との接触も固定化して しまっているのであろうか?かつて「鉄のカーテン」が開かれても、異文化の接触 はいまだ限られたままだとするのは、考えすぎであろうか。 文献: 前田保仁(1986)「冬の海に消えた七〇〇人 インディギルカ号遭難の悲劇」北海道新聞社 司馬遼太郎(1992)「街道を行く38-オホーツク街道」(朝日文庫版;2009) 原暉之(1993)「インディギルカ号の悲劇――1930年代のロシア極東」筑摩書房 インディギルカ号遭難者の慰霊碑を建てる会(2006)「秘められた惨事 期」非売品 インディギルカ号の最 特別研究員寄稿 vol.30 グアムの旅 宇根 悦子 沖縄大学地域研究所特別研究員 沖縄の海兵隊がグアムへ行くという。米軍再編合意以来、グアムはたびたびメディ アで取り上げられてきた。そのグアムがどんなところなのか自分の目で確かめたかっ た。幸い昨年9月から沖縄グアム間に直行便が就航した。さらにグアムは日本の自 動車運転免許証が使用できるので、レンタカーで回ることができる。12月初旬、私 はグアムへ行った。 グアム行きの便は深夜1時半に沖縄を出発、現地時間の5時半に到着した。時差は 1時間。グアムの方が早い。早朝の到着だったので、すぐには行動できず、少し休 んでから行動開始した。 グアムの観光客はほとんどがショッピングとリゾートが目的。私のように戦跡と 基地を回りたいと考えるのは稀であろう。グアムの中心街にはショッピングモール が点在し、その間をショッピングバスが数十分間隔で走っている。それを利用すれ ば、交通の便はかなりいいと言える。鉄道はない。田舎に行くにはバス、タクシー、 レンタカーということになる。バスは本数が少なく、タクシーは割高。それで私は、 レンタカーを利用することにした。 初日は島の様子を探るため、ショッピングバスを利用して近場を回った。スペイ ン広場、ラテストーン、チャモロビレッジ、恋人岬など観光地を中心に回った。グ アムは1521年マゼランによって発見されて以来、300年間スペインの統治下にあっ た。その名残りとしてスペイン広場がある。広場の脇には聖母マリア大聖堂があり、 その日は日曜日で、ちょうどミサが行われていた。島のカトリック教徒が大勢ミサ に参加していた。私も中に入り、にわかにクリスチャンになった。大聖堂から500 メートルほどのところにチャモロビレッジがあった。チャモロとはグアム先住民の こと。そこは、明らかに観光客向けに作られた施設で、ショップが立ち並んでいた。 ところが、3分の2が閉まっており、私以外の観光客は見当たらなかった。チャモ ロビレッジの前からショッピングバスに乗って、ショッピングモールへ向かう。ショッ ピングモールはどこも盛況だった。いたるところで日本人観光客に遭遇した。年間 100万人を超える観光客の9割を日本人が占める。そのために、日本の観光業者も存 在し、日本語が通じる場所もめずらしくない。 2日目は戦跡を回った。出発前、インターネットで日本人の現地ガイドに案内を 依頼してあった。客は私一人という贅沢な待遇だった。 米国とスペインの間で勃発した米西戦争(1898年)で、米国が勝利し、グアムは米 国領となった。1941年12月10日、日本軍約5200名がグアムに上陸、米軍は700名程 度の守備隊しか配置されておらず、あっさりと降伏、戦闘は1日で終結した。 特別研究員寄稿 vol.30 1944年7月21日、島中央の西海岸から米軍が上陸、激しい戦いとなった。圧倒的 物量をほこる米軍の前に日本軍はなすすべもなかった。敗戦後も多くの日本兵がジャ ングルに潜伏した。中でも有名なのが28年間ジャングルで暮らし生還した横井庄一 さんだ。ガイドは横井さんの話に多くの時間を割いた。 戦時中日本軍は、現地住民がスパイを働くのではないかと警戒し、一か所に集め 監視し、しまいには虐殺した。その慰霊碑にも案内していただいた。いまだにその 遺骨は拾われていないとのことだった。住民の被害は未解明の部分が多く、語り継 ぐ者も少ないようだった。陣地跡やトーチカ、高射砲などはあちこちに点在してい た。 3日目はレンタカーで横井ケーブまで行った。そこは観光地になっていた。ゆる やかな滝が流れ、滝に続く川の畔に横井ケーブはあった。小さな資料館もあり、横 井さんの穴居生活の一部が再現されていた。その暮らしぶりに思いをめぐらせた。 ジャングルでの一人暮らしはさぞ孤独でつらいものであったに違いないと考えた。 ところが帰国後、図書館で借りて読んだ横井さんの自叙伝『明日への道 全報告グ アム島孤独の28年』によると、狩りをしたり、食事の支度をしたり、服や器具など の生活用品を作ったりと忙しく、孤独にひたっている暇はあまりなかったようで、 意外だった。 4日目は基地を中心に回った。グアムの島の1/3を米軍基地が占めている。北部に あるアンダーセン基地は嘉手納基地よりも広い。沖縄の基地のように道路沿いや高 台から基地が眺められないかと思ったが、ほとんど隠れて見えなかった。私がその ポイントを見つけきれないだけだったかもしれない。広大な米軍基地がある割には 町であまり米兵の姿をみかけなかった。沖縄の米軍基地同様、ショッピングセンター はじめ、基地の中にはなんでもそろっているからだ。基地巡りに関しては情報不足 に終わり物足りない結果になった。 近年、沖縄とグアムの交流が盛んになっている。グアムのチャモロ人の中にも基 地に反対し、行動する人々がいる。グアムと沖縄から米軍を締め出し、本国に返す ことができればと思う。それこそが真の平和につながるのだから。 アンダーセン基地ゲート 特別研究員寄稿 13.ビッチン山の話 vol.30 ―海の神の宿りなさる霊石の話― 宮良 安彦 沖縄大学地域研究所特別研究員 昔 石垣村の 目差家の 先祖の 筑登之(ちくどぅん)が 村番所に 勤めて おられた 時 隣家の 娘が 前の浜で 晒して いる 貢納布を 見に 行った そうです。 そうしたら 珍しい 石が 波の上から 浮いて 流れて 来るのを 見て 驚き、この ことを 筑登之に 申し上げたそうです。 筑登之も 珍しい ことだと 思い、急いで 海へ 行ったところ、娘が 言っ た とおりで あったので、この 石は 海の 神様の 宿り なさる 石で あ りなさるはずだ と思い、その 娘とで 七個の 石を 持ち上げて 、家へ 持っ て 行ったそうです。 そして 海から 歩いて 来て、すこし 休んで 今の ビッチン御嶽の 所に 来たところ、その 石は 急に 重くなり、持てなく なったので、これは 確か に 神様の おられる 所であるはずだと わかり、囲いを 作り、御嶽に した そうです。 この 御嶽の 建てられた 年代は 目差家の 竹田信貴さんの 七代前 、明 和の 大津波の すぐ 後の あたりだと 言われているから、二百年ほど 前の ことだと 思われます。 御嶽の 名前は どうして ビッチンと 言うのか そのわけは はっきりは わからないが、それは 海から 上げた 石が そこに 座り、動かなくなったと 言う 意味で つけられ、また ビッチリという 語とも 関係が あると、おも われます。 (宮良安彦『石垣村の民話集』) 特別研究員寄稿 vol.30 解 説 この民話は牧野清著『八重山のお嶽』では神話として収録されている。 Cказки Народов Афики・アフリカ民族の民話(1976年)によ ると編者のА.А.ЖуковとЕ.С.Котлярはアフリカの民話は民話の 後に神話が発生したと考えているようである。 八重山石垣島のこの民話は八重山で神話を受け入れる要素が成立した後にこの神 話が受容され、その後にこの神話が民話として受容されたものと考えられる。 平凡社『世界大百科事典』によると、中国のびんずる信仰は470年頃に、日本本 土のびんずる信仰は日本の上代の法隆寺の時代に受容されたもののようである。 沖縄の仏教の受容は日本本土を通じておこなわれたものが多いが、沖縄でのこの びんずる信仰でのご神体の霊石は漂着石によるものがそのほとんどである(注・1)。 石垣島のこのびんずる信仰もその例外ではない。 この沖縄でのびじゅる信仰は南中国あたりからの漂着霊石信仰によるものかと思 われる。 (注・1)平敷令治「ビジュル信仰」(『沖縄大百科事典』)。 『八重山のお嶽』牧野清著 特別研究員寄稿 14.十五夜の由来 vol.30 ―十五夜のお供え餅の由来― 十五夜の 由来を 話しますから、聞いて ください。 昔 むつましい 三人の 男友達が いたそうです。 ある 月の 夜に、月が 美しいので、一緒に 遊んで いたそうです。 彼ら 三人が 道から 歩く 時、二人の 影は 映っているが、一人の 影は 映らないので、珍しいなあ、どうして 私の 影は 映らないのか、たいそ う これは 不思議な ものと 思って、物知りの 家に 三世相の 家に 行っ たところ、 「貴方は 近い 内に 命を 取られる 人だから、一番 愛しい ものを 殺して しまわなければ、貴方の 命は 助からない。」 と 言われたので、 「私は 一番 愛しいのは 馬で あるが、もし それより もっと 愛しい ものが ある。」 と 言ったので、 「私は カジネーが もう 一番 愛しいが、妻を 殺す ことは できない。」 と 言ったところ、 「そうでなければ、貴方の もう、貴方の 命は あの世に 行っている。」 と 言ったところ もう、 「これは どう したら よいかなあ。」 と たいそう 心配して、前垣の 下から のぞいて 家を 見たところ、カイ、 長持ちを、八重山方言では カイと 言う、カイの 中に 間男を 隠して おい て、カイの 中に 入れて、その 前に 座って いたところ、夫は 外で 見て、 珍しいなあと 言って、イーリ(弓)で 射たところ、その 妻を 射て みよと 言って、イーリで 射たところ、その 妻を 射、また カイの 中まで 射て、 あの 間男まで 殺してしまって、その 妻は 私は 助かったと 言って、 「はあ 間男が こう いると 言うのは 自分は 全然 わからなくて いて、 私は やがて 命を 取られる つもりで あったのだなあ。これは 本当に 月 様に 尊(とうと)、尊と 言わなければ、ならない。」 と 言って、フカンギー(餅)を 作って、フカンギーと 言って、唐黍(とうきび)、 で フカンギー を作って、これを 月神へ、十五夜には お上げ して、男の 健康、命を 助けて 下さった お礼を こう 願って きて、それから,十五夜 は 男の 健康を 手摩る ために 十五夜の 月神様を 拝む ことに なって いるとの 話です。 (宮良安彦『石垣村の民話集』) 特別研究員寄稿 vol.30 解 説 この民話は、年中行事としての十五夜の月に関するものである。 年中行事としての旧暦の十五夜の月を拝むことは、沖縄全体としては、あまり行 なわれてはいない。きわめて新しく日本本土から移入されたもののようである。 日本本土の民間伝承では、十五夜には、月見だんご、いも、えだまめ、あわなど を盛り、神酒を供え、すすき、秋草の花を盛って、月を祭ったという。 石垣島では月の神にフカンギ(別名、コーシャー・ムッチィ)という餅を供える。 この民話の主題を図示すると、次のとおりである。 ○3人の男友達→1人の影がない→三世相→最愛のものを殺せ→妻→間男 →弓で射殺す→お供え餅→男の健康祈願 特別研究員寄稿 vol.30 手縫糸・撚糸工場見学―神奈川県半原・田代を訪ねて 熊谷 フサ子 沖縄大学地域研究所特別研究員 1月号・フォーラムで触れた「正倉院の衣服類の縫い糸の撚りは全てZ撚りであっ た」の「Z撚り」の疑問の解決を見い出すべく、「縫い糸工場見学」となった。 2月8日、針供養祭を終えて3:45上京、翌日、目的地の神奈川県愛甲郡愛川町田 代・半原にある「カナガワ株式会社」を訪れた。 同社は、JR新宿から小田急線本厚木駅下車、半原行きの バスに乗り継いで田代下車(所要時間40分程)。晴天の中、 心地よい期待が膨らむバスの旅となった。 カナガワ(株)は、日頃使っている手縫い糸「オリヅルマーク」を生産している ことから同社を選択して見学を申し入れ、快い歓迎を受けた。案内及び解説には、 同社の製造部技術課・課長の佐野好男氏、取締役営業部長笹嶋義行氏、関連会社か ら、オリヅル工業株式会社の取締役顧問の大貫邦重氏、大貫繊維株式会社シルク部 副部長・木戸康雄氏が詳細に解説された。以下、工場見学、談話等を交えて知り得 たことを記す。 撚糸工場の地理的条件 大貫邦重氏は、「半原は、昭和40年頃までは、 通りの左を見ても右を見ても撚糸工場があったほ どで、特に縫い糸の生産は全国の大半を占めてい た、中津川の上流に位置し、水と湿気があり、撚 糸するのに最適の環境であった。」と話された。 文化4年(1807年)、群馬県(日本で初めて製 糸工場ができた場所)から八丁式撚糸機を導入し たのが始まりで、水車を動力として生産が盛んに なった。 1:小島撚糸工場 縫糸生産は分業式 縫糸は、完成までに三段階の分業であった。 1,撚糸工場で原糸を撚糸する工程。 2,撚糸した糸に染色して安定した縫糸に完成させる工程 3,販売等製品として一定の長さ、マーク等の印刷・シール貼り、包装の工程。 特別研究員寄稿 vol.30 撚糸工場 撚糸工場は、田代から小高い丘を越えた静かな場所・半原 に在する「小島義孝撚糸工場」、代表の小島義孝氏(昭和25 年生)に説明を受けた。小島氏は祖母が撚糸工場を始め、母 (大正9年生)の家業を継承してきた。ここ、半原は桑畑があ り、農林水産省の許可を得て養蚕が盛んであった。現在では 撚糸の原糸・生糸は日本での生産は皆無と言っていいほど、 全て中国からの輸入に頼っている。(写真3:工場玄関に飾られた 2:縫糸の原糸 真綿の造花) 工場内は大型撚糸機が数台並び、作業工程のメモが壁に書 き込まれ、最盛期の様子がうかがえた。(撚糸機は須賀式と のこと)壁のメモ書は、用途により糸撚りが異なり、興味が 3:真綿の花 湧き、記した。 例:21/3×3 600(下撚)×500(上撚)(9本3)2,000回 21/3×2 880(下撚)×800(上撚)(#100)3,700回 21/4×3 680(下撚)×600(上撚)(ひも用12本)2,000回 下100×2 21/4×3 720(下撚)×620(上撚) 12本 ミシン 4,650回 下100 21/4×2 720(下撚)× 620(下撚)(仕上げ) 5,000回 21/3×3×3 720(下撚)×620(下撚) 2,300回 41/1×3 550(下撚)×450(上撚)水につけない 4:原糸の巻取り 5:糸に張力をあたえ、回転により 糸に撚りを掛けられる *数字は糸の構成、撚数等を表示 *水につけない―撚糸は湿気を与えることにより、安定する。以前は水に浸した 時期があった。現在では一日蒸気を与えている(木戸氏コメント)。 (写真4、5は撚糸機) 特別研究員寄稿 vol.30 撚糸について 木綿や化学繊維のできる以前は、縫糸は絹か天然繊 維の麻などであった。蚕から吐き出される細糸を数本 束ねて撚りを掛けることにより、丈夫な糸になる。通 常の縫糸は二本の糸(二子糸)の撚り合わせ。 原糸の撚り(下糸)が右方向・時計の針と同一方向 の回転か、左方向・時計の針と反対方向の回転で上糸 の撚りが決まる。 (右撚が図6のようにS字型になることから、S撚、左 撚は同様にZ字型になるからZ撚と呼称) 6:S撚・Z撚の相違 現在、中国から「輸入糸の原料・生糸は全てZ撚り」 とのこと。従って、手縫い糸はS撚りの製品となる。 撚りには、片撚糸、諸撚、3本諸撚糸(三子糸)等がある。 大貫邦重氏の談「蚕は、卵から繭になるまでに4回変身する・四身と言われる。 三身の時期の繭の中からも柔らかい感触の糸がとれる」と話された。 熟蚕は、全身が黄金色(地域により緑色などがある)になり、頭を振りながら繭 をつくり始める、という(シルク・ウエーブ)。 染色・加工工程 田代の大貫繊維株式会社では、撚糸された糸に着色・染色の工程を見学させてい ただいた。ご案内には、同社のシルク部・副部長の木戸康雄氏。工程等については 写真を掲載(写真7~9) 7:媒染剤等 8:染料の数々 9:染色・色止・蒸・乾燥{絹糸は自然乾燥}・化繊用大型乾燥機(右端) 大貫氏談「今のように自動的に染色する以前は、見本の色になるように色あわせに 苦労があった、糸を袋に入れて染液の中でふる、もちろん手作業で」 特別研究員寄稿 vol.30 縫糸・仕上げ工程 仕上げの工程はカナガワ株式会社、ご案内・解説して下さったのは、製造部・技 術課・課長の佐野好男氏、以下、写真左上からその工程を掲載した。 絹ミシン糸、馴染みの絹カード巻糸がライン上で収縮フィルム・パック、製品と して仕上る。 10:完成した糸を一定の長さで包装・写真は、上段:ミシン糸、下段:手縫いカード巻 一般市販縫い糸について 普段使っている糸・手縫絹糸、絹しつけ糸(ぞべ)、綿しつけ糸の仕様について カナガワ(株式会社)の佐野好男氏に詳細に教えていただいた。以下、参考資料と した。 11:カード巻手縫糸 1,カード巻・手縫い絹糸(写真11:ほぼ実寸大) カードに記載された表示の説明から 9号:絹縫糸の品種を示すもので、 JIS L 2310(絹縫糸)の付表1を末頁に添付 構成:付表の原糸繊度と合糸数を見ると、 9号の場合21中/9×2と記載されているが、 付表1の備考に記載されている内容をもとに、 弊社では27中/7×2を使用 撚数:設定撚数は 上撚 620T/m S, 下撚 660T/m Z 「家庭用品品質表示法」に基づき、 「氏名又は名称」及び「住所または電話番号」を表示. (例えば、カナガワ株式会社 TEL.03-3861-2231) 絹100%:家庭用品品質表示法に基づいた繊維の組成 表示 特別研究員寄稿 vol.30 2,絹しつけ糸(別名:ぞべ) 和服など、縫いきせがくずれないための飾り用の糸、しつけ糸の掛かった服は、 未使用のサイン。しつけ糸を掛けたまま着用しない。 絹しつけ:ぞべ糸(#90)の仕様 構成:21中/4×2 撚数:上撚 620 T/m Z (T/mは1メートル間の撚り回数) 下撚 720 T/m S *T:テックス 12:右から綿しつけ糸・化繊縫い糸・新製品 3,綿しつけ糸(写真12:右端の糸) 縫製作業上、仮の縫い・仮しつけなどに使用。和服地などのように綿密な繊維の 布地に適している。 構成:40/2(S)40の数字は、糸の太さ番手、数字が多いほど細くなる。 4,化繊地縫い糸 化学繊維用の縫い糸 構成:150D 1×2(S) 下撚りがZ、上撚りがS 5,試作の糸 カナガワ(株)で、現在試作中の絹の手縫い糸を見せていただいた。色が一色染 めではなく、濃淡になっている。小紋や色使いの多い布地の縫い糸には縫い目が目 立たず・最適の糸。「ヒットするかもしれません」とも。構成は1,のカード巻手 縫い糸に同じ。 佐野好男氏は、「絹糸の21中について、21というのは21デニール(D)の意味、現 在では国際単位系(SI)に移行され正式にはデシテックス(dtex)が用いられている。 (21D≒23dtex)。 以前は長繊維であればデニール、短繊維(紡績糸)であれば英式綿番手で表してい たが、先に述べたとおりSIに移行されデシテックスで統一された。 しかし、綿手縫糸などは“30/3”などといった昔ながらの表現が正式なものとさ れているものもある。(ここで言う正式とはJISに定められていること)また、業界 内ではデニールや英式綿番手を用いた昔ながらの表現の方がより頻繁に使われてい る。」と解説された。 特別研究員寄稿 vol.30 終わりに 衣の全般を支える繊維・糸。繊維の中の一端が手縫い糸。糸の開発は未知数であ ることを痛感。最近の軽くて暖かい衣服もそのひとつ。 上代の衣服類の縫糸が全てZ撚りだったことは、生糸の下撚が全てS撚りであっ た故、何故S撚りか。往時の紡ぎ手が右利きであったか、時、既に中国から輸入で あったか、又は、神事ごとのように宗教性によるか、遣隋使等のいにしえに遡って 疑問が解けるのだろうか。 カナガワ株式会社の皆様と 唯、「衣の縫い技法」で、大凡の時代区分ができるように、「縫糸の撚り方向」 でも時代の推測は可能になるであろう。 撚糸工場の小島氏は62才、「祖父と父は、宮大工であった、娘が一人いるが医療 関係の仕事、工場を継ぐことはないでしょう、ぼくの代で工場もおわるよ」と苦笑 された。 手縫いの道具は「針と糸」、糸を絶やさぬよう に作り続けて欲しい、と願う。 この度の撚糸工場見学は、webで検索して得る ことのできない大きな収穫を得た思い。天気にめ ぐまれ、カナガワ株式会社関係の皆様に恵まれた。 深く感謝申し上げたい。 春三月、復帰子の長女の為に我が家に備えられ た雛壇飾り、「桃家千年春処々鶯」。 特別研究員寄稿 vol.30 寄稿 振り出しに戻る vol.30 「ジャーナリズム論」講義を終えて 仲田 清喜 元琉球新報記者 新聞は日々の歴史を刻んでいる。その意味において新聞記者に職務の「完了」は ありえない。それゆえ定年退職の時を迎えても何かやり残した感が抜け切らない。 そんなこともあって、同期の慶田城健仁の誘いで、同じく同期の高里宏志と私の 3人で、記者生活の経験をいくらかなりとも還元しようと企画したのが講義「ジャー ナリズム論」であった。その締めくくりは、1月7日に開催された第490回沖縄大学 土曜教養講座「原発とメディア、そして自由報道協会」へと収斂された。収斂され た、と表現するものの、その場でまた新たなジャーナリズムの芽生えがあり、いや はや、何かやり残した感をさらに上塗りする羽目になってしまった。 ともあれ、若い学生達を前に3人3様の記者経験を語り継いだ経験は貴重であった。 私は、1971年の外務省機密漏えい事件をテキストに、知る権利について講義した。 当時、ちょうど大学生で、この事件をリアルタイムで学習していた。あれから40年 余、今日の学生にとってもリアルタイムのニュースとなっていることに愕然とする。 元毎日新聞記者の西山太吉氏は、この事件で筆を折られ、長い沈黙を強いられた。 再び国家の嘘を糾弾しようと奮い立ったのは、公開された米国の公文書で彼の報道 の正確さが証明されたからである。 講義を始めるにあたって、まず、学生に公文書の意義を知ってもらいたかった。 そこで、講義開始前のバスツアーで沖縄県公文書館を訪問した。ここには、琉球政 府文書はもちろん、米国民政府文書(USCAR文書)が所蔵されている。文書には、 当時の沖縄統治の舞台裏が記されており、沖縄の政治家や復帰運動のリーダーたち の発言や外交に関する本国と駐日大使館、そして現地沖縄の高等弁務官とのやり取 りが手に取るように分かる。今でも時おり新しい発見が新聞記事になっているよう に、これまで知られてなかった「真実」が保存されている。さて、この文書は誰の ものか。当然ながら主権者である国民(この場合は米国民であろう)に還元される べきものである。統治された側の我々はこれらの文書をコピーで手に入れた。ステー ジは違うが、外務省機密漏えい事件は30年後に公開された文書によってその真実が 明らかになったのである。 この事件は、学生達にとっては生まれる前の出来事である。講義を進めながら、 これはむしろ私達の世代が責任を負うべきではないかということを痛感するに至っ た。当時と今では、メディア環境は大きく変わった。座して情報を得ることもでき る。しかし、メディア環境の進化が即ジャーナリズムの進化とならないことも明白 である。手軽に入手できる情報は結局ジャーナリズムの進化には寄与しない。その ことを私自身も再認識して振り出しに戻った次第である。 以上 寄稿 vol.30 「臆するな、前に出よ」―土曜教養講座終了 慶田城 健仁 (元琉球新報記者) 沖縄大学で昨年10月から同年の琉球新報定年退職組の3人が「地域と母校への恩 返しに」と、ジャーナリズム論の講義をリレーで担当した。仲田清喜と高里宏志そ して私。もっとも、仲田は琉球大学出身だが、退職記念にと私が無理に引っ張り込 んだのである。 その締めくくりにと企画したのがこの講座「原発とメディア、そして自由報道協会」 である。当日は学生市民の聴講者79人が出席した。硬いテーマなので、よく集まっ たな、というのが率直なところである。 そもそも、この市民講座で私たちは何をしたかったのか、言いたかったのか、少し ふれておきたい。3人は20世紀後半の約30年を地方紙の記者、カメラマンとして報 道に携わり21世紀の初頭に卒業したが、濃淡はあるものの「本当にこれでよかった のか」との思いがある。読者、国民の「知る権利」にこたえきれたのか、と問われ れば私自身言葉に詰まってしまう。それは、世話になった新聞社には申し訳ないが 企業組織に安住しジャーナリズムの本旨に忠実であろうという姿勢が弱かった、と の反省に行きあたる。 3.11は、奇しくも社内の退職説明会で3人が同じ場所にいた。そして、のち に原発事故では現場からいち早く避難した大手メディアがあった、との事実を知っ て愕然とした。既成メディア出身としては、最後にもう一度立ち止まり、メディア のあるべき姿を自分なりに問うてみる、また、読者の前に身をさらし忌憚のない意 見を聞いてみたい、というのがボランティア講座の動機であり、そのまま市民講座 開催企画につながった。最後の署名記事、署名入り写真みたいなもので、もとより、 各々の過去の実績を吹聴したり出身メディアを宣揚する気はなかったのである。 さらに、復帰後40年も動かない沖縄の基地問題も「メディアの在り方」を切り口 に読み解き検証する機会にしたい、との目論見もあった。したがって、県内2紙を 含む国内マスコミも俎上にのせて議論しようというものであった。 基調講演とシンポジストは、霞が関の記者会見オープンに奮闘中のフリーランス 記者で自由報道協会理事の畠山理仁氏を招き、また地元在住でジャーナリストの岡 留安則氏、琉球新報編集局長玻名城泰山氏にも発言していただいた。 今、所期の目的が達せられたか否かは正直、自信がない。日本の新聞が年間100万 部も部数を減らす時代にあって、玻名城局長の発言に対する聴講者の反応が特に気 になった。彼は3.11報道で「弱者住民に寄り添う」視点など基調を述べ、前沖 縄防衛局長不適切発言スクープでは「発言内容そのもの、人間の尊厳を傷つける言 動」を重視した、と発言した。直後、退席する局長に聴講者から大きな拍手が飛ん だ。彼がどう受け止めたか確かめていないが、私には「地元メディアよ 臆するな、 寄稿 vol.30 前に出よ」との、なお熱く強い期待に思えた。 自由報道協会はメディアではない。それは、決して世界標準とはいえない日本独 特の「記者クラブ」のアンチテーゼとして誕生した。会場でも触れたが、沖縄側も 積極的に活用したらよい。一度、沖縄県知事と全市町村長が参加する記者会見開催 を持ち掛けてみるのも悪くない。そのまま沖縄県民大会の縮図であり基地問題の〝 最終兵器〟になるかもしれない。 最後に、話して教えることの苦手な元記者3人の挑戦を快く受け入れていただい た沖縄大学、土曜教養講座を主催したのみならずシンポジスト招聘交渉から運営全 般まで全面的に支えていただいた緒方修所長以下スタッフの皆様、なにより拙い講 座に半年おつきあいいただいた学生諸君に心から感謝したい。 寄稿 vol.30 「琉球諸語の復興を目指して」シンポジウム その2 比嘉 光龍 ウェルカルチャースクール うちなーぐち講座講師 第2回目は「アイヌ語の未来と伝承」 「琉球諸語の復興をめざして」シンポジウムは全部で3回行ったのだが、最初と 来月報告する3回目の最終回は私自身が直接立案し関わり、調整もしてきた。だが、 この第2回目は出演をしただけで、出演者への依頼や、宣伝、また企画等に関して は全く関わっていなかった。それでも出演を依頼して頂いた沖縄大学の須藤義人教 授には感謝を申し上げたい。 その内容だが、「ピリカ・シムカ」というアイヌのグループが北海道から参加し、 その方々と私、そして高良勉さんも加わったパネルディスカッションから始まり、 次にアイヌ音楽の演奏と私の演奏、締めはアイヌの「リムセ」というアイヌ語で 「輪になって踊る」という意味のダンスを踊るというものだった。最初のパネルディ スカッションでは、「うちなーぐち(おきなわ語)」で全てやってみようと私が高 良勉さんに提案したら、「しー見(んー)だ(やってみよう)」と快く応じて頂き、 実際にやってみた。その後にアイヌの方がたの話を聞き、私も少し質問をしたりし て和やかにパネルディスカッションは終了した。 次に、アイヌの演奏に移ったのだが、唄や踊りと、何もかもが琉球のものと違っ ていたのでとても興味深く見させていただいた。皆が緊張していたようなので、私 は空気を変える為に少し外の空気を吸いにいき、その勢いで演奏に臨んだ。私の演 奏直前まで、ディスカッションやアイヌの演奏などはおとなしく慎ましい雰囲気で 行っていたのに、いきなり私が「とーさい、気(ち)張(ば)てぃ行ちゃびら!(さあ、 頑張っていきましょう!)」と声をはりあげると、会場はびっくりした様子だった。 そのままの調子で私は最後に「アイヌのリムセという輪になって踊るダンスを皆 で踊っていただけませんか?」と会場に問うと、聴衆はみんな心の優しい方ばかり で、ほぼ全員参加してくれ、会場を輪になって踊り回る姿はとても微笑ましかった。 パネルディスカッショ ンの様子 ピリカ・シムカのメ ンバーがアイヌの踊 りを踊っている様子 寄稿 vol.30 アイヌ語の未来と琉球諸語の復興 今回のシンポジウムの反省点を少し述べると、肝心のアイヌ語の伝承と琉球諸語 の復興についての建設的な意見交換があまりできなかったのが少し寂しかった。そ れは、「琉球諸語の復興」という題を掲げていたにも関わらず、琉球諸語の話者は 私と高良勉さんの二人で、しかも二人とも「うちなーぐち」の話者であり、残りの 奄美語、国頭語、宮古語、八重山語、与那国語に関してはほとんど触れることがで きなかった。そしてアイヌ語に関しては、「ピリカ・シムカ」のメンバーは代表者 を除くと皆とても若く、アイヌ語をあまり話せない様子だった。 やはり伝承という名を掲げるからには、自ら話せる事も大切だと思うし、人に伝 える際には説得力に欠けるのではないのだろうかと少し心配になった。ただ、世界 中の「少数言語」や「危機言語」を復興、伝承する際に、その言語を流暢に話せる 事が必須条件なのかと問われると、それは受け継ごうとする人たちにとっては酷な 要求かもしれない。 そもそも「少数言語」や「危機言語」というものは、その言語を使いこなせる人 がたくさんいれば「少数言語」や「危機言語」などとは呼ばれないはずである。そ れなのに完璧にその言語を操り、その文化を体現する人こそ、その「少数言語」や 「危機言語」の継承者であるという考え方はどうだろうか。その辺がアンビバレン ト的ではあるのだが、我が琉球の6つの言語、つまり琉球諸語やアイヌ語は、日本 のなかの「少数言語」なので、その名の通り話者は極端に少ない。だから「危機言 語」とユネスコなどの国際機関が認定し、何らかの策を講じないと消滅するかもし れないと警告を発している。それなのにも関わらず、なぜか当事者の「琉球人」や 「アイヌ人」たちはお互い危機感がない様にも感じる。また、それは、そういう風 に「少数」、「危機」に追いやった侵略者である倭人たちも、自分達が作り上げた 国家、日本のなかの「少数言語」、「危機言語」に関しては同じように危機感はな いだろう。それでも「琉球人」や「アイヌ人」、また「日本人」の中にも継承、伝 承に力を尽くしている方はいるのだが、それは本当に少なく、一握りだと思う。そ れでは誰が日本のなかの「少数言語」、「危機言語」を救うのか?結論を述べるな らば、救いたい人が救えば良いのだ、という答えしか、今の私には見いだせない。 投げやりに思うかもしれないが、実際問題、過去10年ほど、うちなーぐち復興活動 に携わってきて思うのだが、関心がある人しか本当に復興はできない、と私は思う。 ピリカ・シムカのメンバーがアイヌの 楽器を演奏している様子 筆者がカチャー シーを演奏し 聴衆が踊っている様子 寄稿 vol.30 福島遠征報告書 沖縄大学エイサーサークル新風一同 以下の通り福島遠征の報告を致します。 1.遠征者 教職員 西尾 敦史 1名 学 生 4年次 1名 3年次 3名 2年次 6名 1年次 1名 学生計11名 那覇市社会福祉協議会 2名 個人ボランティア 2名 合計15名 2.日程 9月24日(土)~9月28日(水) 4泊5日 3.訪問場所 ・被災地視察(1日目午後) ・グループホーム「我が家」(2日目午前) ・富岡町民仮設住宅(2日目午後) ・中央台仮設住宅(3日目午前) ・楢葉町民仮設住宅(3日目午後) ・被災地視察(4日目午前) ・内郷町雇用促進住宅(4日目午後) 4.遠征目的 私達は東日本大震災で被災された方たちに、エイサーの演舞を通して元気を与え たいと思い今回の遠征を考えました。 5.所見 沖縄から遠く離れた地で起きた災害に対して、私達自身そこまで実感できずに参 加する人が多かったと思います。しかし、今回の遠征を通して実際に福島へ出向い たことで、被災者の方たちとの対話や直接被災地を見たことにより今回の災害の大 寄稿 vol.30 きさを肌で感じ、私達の災害に対する意識の低さを痛感しました。 被害が大きいにもかかわらず、いわき市の方たちは温かい笑顔で私達を出迎えて くれ、元気づけようとして行った私達が反対に元気づけられてしまいました。 今回、福島遠征を行ったことにより新風としても“ミニデイ”という新しいジャ ンルへの挑戦があり、この活動を通して得たものはこれからの私達の活動に繋げて いきたいと思います。また、被災者の方から聴いた話や私達の見てきたものを様々 な発表の機会を通して伝えていきたいと思います。 美ら島南西諸島高大連携プログラム 3月 移動市民大学in奄美大島 奄美~沖縄交流フォーラム「UIターンによる地域活性化」 2月25日、奄美大島にて移動市民大学が開催されました。奄美の地域活性化を テーマとし、奄美の魅力を伝えるだけでなく島の抱える問題、若者がいかに奄 美に定着できるか。また奄美の将来の地域活性化には如何にして取り組むべき か。奄美、沖大関係者だけでなく、宮古、石垣、沖縄本島からも参加者を呼び、 活発な講演や議論が展開されました。 今回の移動市民大学は5部構成で行われました。第1部は沖大学生による奄美 テレビインターンシップの報告。報告後、奄美の高校生7名と沖大生によるディ スカッションが行われました。奄美の高校生からは、高校卒業後、進学や就職 のため奄美を離れざるを得ないが将来は奄美に戻り貢献したいという声が多く 聞かれました。若者の奄美に対して強い愛着、誇りを持っている事を強く感じ ます。第2部は石垣、宮古、沖縄、奄美の各ケーブルテレビによるレポート。奄 美の抱えている諸問題は実は沖縄、また宮古、石垣にも共通し離島という地域 が直面する普遍的なテーマを改めて考えさせられます。第3部は石垣市商工会事 務局長、平田睦氏の講演「石垣島ブランディングプロジェクト」についての講 演。第4部は藤木勇人氏の談義と続きました。藤木氏はご両親が奄美出身との事 もあり、限られた時間ではありましたが軽快なお話で会場を沸かせていました。 奄美は沖縄以上に手つかずな自然が豊かに広がる場所で、開発より郷土の自 然を守っていくという意識が高い地域です。沖縄も奄美に見習う点は多くある と思います。しかし沖縄同様、経済問題や雇用など奄美に定着するには数多く の課題があるのも現実です。こうした課題を解決するにはどうすればよいか。 今回の移動市民大学では奄美を含め、琉球弧の「島」の在り方、未来について 一石を投じたといえます。また今後も奄美で移動市民大学が行われる事を願っ ています。 小野里 敬裕〈高大GP担当〉 高大GP 1203_2 沖縄大学移動市民大学in奄美 奄美~沖縄 交流フォーラム ~UIターンによる地域活性化~ ■日時:2月25日(土)14:00~18:00 ■場所:タイブハウスASIVI ■プログラム: 第1部 沖縄大学学生による奄美テレビインターンシップ体験報告 奄美の高校生と沖縄大学学生のディスカッション テーマ「将来地元に残りたいか、外に出たいか、またその理由と課題、 そ の課題の解決法について」 第2部 各ケーブルテレビによるレポート(石垣、宮古、沖縄、奄美) テーマ「地元のUIターンの実情について」 第3部 講演会 石垣市商工会事務局長 平田 睦氏 テーマ「石垣島ブランディングプロジェクトについて」 第4部 談義 うちなー噺家 藤木 勇人氏 テーマ「奄美と沖縄の絆を考える~文化・芸能・歴史~」 第5部 大懇親会 ■共催:(財)南西地域産業活性化センター・奄美実行委員会 ■後援:南海日日新聞社、奄美新聞社、奄美テレビ放送、 あまみエフエム ディ!ウェイブ、奄美群島広域事務組合 会場アンケートより Q1.あなたのプロフィールを教えてください。 性 別:男性17人/女性8人/記載なし1人 年 齢:10代1人/20代3人/30代5人/40代5人/50代6人/60代5人/70代1人 ご職業:学生1人/会社員5人/公務員5人/自営業6人/主婦4人/その他6人 Q2.今日のフォーラムに参加したきっかけは何ですか?(複数回答有) 新聞10人/ラジオ10人/テレビ2人/インターネット3人/知人5人/その他3 人 高大GP 1203_3 Q3.今日のフォーラム参加前に興味を持ったプログラムはどれですか?(複数回 答有) 第1部 第2部 第3部 第4部 第5部 15人 6人 13人 10人 3人 Q4.実際にフォーラムに参加された後の印象はどうですか? (複数回答有) 第1部 第2部 第3部 第4部 第5部 1番良かった 1番良かった 1番良かった 1番良かった 1番良かった 11人/1番印象が薄かった 2人/参加しなかった 4人 3人/1番印象が薄かった 3人/参加しなかった 3人 11人/1番印象が薄かった 0人/参加しなかった 1人 11人/1番印象が薄かった 1人/参加しなかった 3人 1人/1番印象が薄かった 1人/参加しなかった 6人 Q5.今日のフォーラム全体の満足度はどうでしたか? 大変満足14人/まあまあ9人/記載なし3人 【大変満足理由】 ・沖縄の中の離島の話が聞けて良かった。戦略的な部分に感銘を受けた。 ・石垣商工会の話はとても参考になった ・震災からのバブル的な沖縄の話が面白かった ・京都から来たかいがありました ・奄美の活性化について沖縄の離島の人たちと議論できたところ ・奄美にご協力いただけるというお話 ・沖縄にたくさん学べた。元気をもらった。 ・南西地域活性化センターと奄美群島観光物産協会との共催で「共同見本市」 を仕掛けてほしい ・沖縄大学では「復帰40、奄美復帰60」で、米軍??「シンポ」を。 ・デザインを大学で勉強しているのでとても考えされられました ・高校生の素直な意見を聞くことができた ・なかなか聞けない若者の意見が聞けた ・奄美の人たちのあたたかさが実感できた ・地域活性化に関心があります ・藤木さんのお話が大変楽しく、沖縄の風景、島の姿が出ていてよかった ・切り口が異なる話が聞けた、石垣・宮古の話がよかった 【まあまあの理由】 ・沖縄と奄美の違いが少しわかった気がする ・現状把握はできたが、だからどうすればいいのか?というヒントが少な かった ・地元高校生とのディスカッションをもう少し充実してほしかった(内容・ 時間) ・島に対する思いを1人1人発言できていたかと思います。 ・自然が好きな子供なので、「定年まで」というのは親として少し意外で した。 【記載なし理由】 ・高校生のインタビューや発表を聞いて、みんな真剣に素直に考えを話して いたので考えさせられました。島を離れたことがないので、もう一度確認 できてよかった。 ・都会に出てもう一度島を見つめてくれたらいいと思う ・いつでも帰ってこれる島であってほしい 【裏面感想】 ・大変面白かったです。もっとこのようなイベントが増えていただけるとあ りがたいです。 ・このようなフォーラムで高校生の意見が聞けることは新鮮でした ・藤木隼人氏の話がよかったです。 2012年2月26日 奄美新聞 2012年2月26日 南海日日新聞 全国の地域で活躍できるまちづくリスト育成プログラム 3月 ハイサイ!ぼーさい 阪神淡路大震災が起こった1月17日は「防災とボランティアの日」、15~21 日は「防災とボランティア週間」。一昨年から毎年この時期に、沖縄大学まち づくり実習・実践演習のフィールドワークとして「ハイサイ!ぼーさい」を行っ ている。3回目の今年は那覇市中央公民館の青年講座との共同企画で「身近な ものでまもろう」として行った。中学生から一般市民まで30人が新都心銘苅の 那覇市消防本部に集まり、「暮らしの中で楽しみながら防災を学ぶ」をテーマ に、一般の防災訓練では見られないユニークな実践を行なった。目標は、災害 時あるいは災害後、身の回りにあるものを工夫して極限生活を乗り切るサバイ バル術を身につけること。 この日はセンター試験で全学一斉休校となったため、まちづくり実践演習受 講生は自由参加の形式で行った。毎年参加している学生もおり、地域の防災リー ダーも担える「まちづくリスト」として育っている。また、今回の実践を通じ て真和志高校生には「沖大でまちづくりや福祉を学びたい」という学生もいた。 *講義「ハイサイ!ぼーさい」 今年は、那覇市消防本部の講堂で私の講義からスタートした。阪神淡路大震 災以降、各地で起きている大災害の事例を見ながら、災害時や災害後の暮らし の状況を知る。被災と復興を文化ととらえ、前向きに生きている各被災地の人々 の姿を学んだ。また、沖縄で同様の大災害が起こった時の状況についてデータ をもとにイメージし、防災を難しく困難なものではなく日常のコミュニティづ くりや暮らしの延長にあるものとしてとらえた。特に、阪神淡路大震災で明確 になった「自助・共助・公助=7:2:1」の法則で、自助と共助を生活の知 恵から高めるすべを考えた。 *実践(消防本部の広場に各ブースを設け、実施) ・車イスでの避難体験 真和志高校介護福祉科の生徒たちのガイド による、車イスでの避難体験。消防本部のま わりを車イスでまわりながら、段差や坂道で の車イス移動の困難さを知る。 ・のこぎり実践 生活でのこぎりを使うことが少なくなった今、 いざという時に存在を思いつかなかったりうま く引けなかったりすることを防ぐ。公民館が用 意した材木をのこぎりで切り落としていった。 力の入れ具合や、引きと押しの使い分けなど学 真和志高校生たちによる、災害時の 車イス避難支援の実践 んだ。 戦略GP 1203_2 ・バール、ジャッキ、ロープを使った救助実践 消防本部が用意してくれたがれきをバール でこじ開け、自動車の付属品のジャックを入 れて空間を作り、下敷きになっている人を救 出する練習。 ロープを倒壊している木材にくくりつけ、 みんなで引っ張って除ける練習も。木材を引 く時に使うロープの結び方、つなぎ方を学ぶ。 がれきの下敷きになった人を助ける想 ・バケツ&スーパーレジ袋消火 定で行なったジャッキアップの練習 バケツで水をかけることも最近の暮らしで はあまりないため、まずバケツの水を火にぶっかける練習。慣れていないと実 際にはうまくできない。また、貴重な水がほとんど火にあたらず無駄になるこ ともある。消火に関心を持つ、子どもも楽しみながら実践できる方法として、 スーパーのレジ袋に水を入れて火に投げつける方法を実践。バケツよりも遠く まで水を飛ばすことができること、少量の水を的確に当てられること、燃えて いるものに当たった時の衝撃で消火につながることを学んだ。火が水の量だけ ではなく、水圧が重要なことに気づく。阪神淡路大震災で、断水でまったく消 火活動ができず、海から2~3キロの距離でホースをつなぎながら海水を取水し たものの、水圧が弱く消火につながらなかったという話を交えた。 水は、断水時を想定して給水車からポリタンクで各自運んだ。段ボール箱と カートを組み合わせて手軽に運ぶ方法を学んだ。 ・断水時の炊き出しと食器の扱い 断水時にできるだけ水を少なく使いながら、被災者が前向きになる食事をつ くる方法を実践。同時に、ラップを使って食器を洗わずに清潔を維持する知恵 も学んだ。今回は豚汁と沖縄の「防災食」ヒラヤーチーづくりを実践した。 ・足湯ボランティア 昨年5月に岩手県大槌町の避難所で「よりそい」活動を行ったメンバーが、被 水で洗わずに清潔な食器を 維持する方法を学ぶ 体とともに心の緊張をほぐす足湯 戦略GP 1203_3 災住民とコミュニケーションを深めた「足湯」も再現した。適温のお湯に足を ひたしてもらいながら肩をもんだり話しかけたりして、体と心をほぐしてもら う取り組み。 実践では、消防本部横の広場で「自助・共助」を学んだ。のこぎりやバール、 ジャッキ、ロープなどの使い方を身につける練習や、バケツとスーパーのレジ 袋を使った 消火体験を行なった。真和志高校生が、災害時の車イス利用者の避難支援を指 導した。沖大生たちが岩手県大槌町の避難所で行った足湯ボランティアも再現 した。西原町の20代女性は、「講演会と聞いて固いイメージがあったが、参加 してみて楽しみながら防災を学べた」と、足湯につかりながら学生らと会話や マッサージを受け、体や心の緊張がほぐれた様子だった。 限られた水と身近な食材で作る炊き出しが行われ、豚汁とヒラヤーチーを調 理した。その際、使った食器はラップで包むなど、断水時に水を使わないで料 理を行なう工夫を学んだ。豚汁とヒラヤーチーが有効なのは、以下の理由によ る。 ①毎日おにぎりや菓子パンの配給の中で、暖かい料理は被災者を元気付ける。 ②避難所で決定的に不足する緑黄色野菜の摂取を可能にし、健康維持になる。 ③湯気とともに炊き出しをする人の被災者への声かけが、被災者の大きな勇気 や希望になる。 ④食べなれた郷土料理は、特に高齢者を元気にする。 被災地の避難所では、しばらくは幸運にも配食活動のあるところでも当分は おにぎりや菓子パンの配色が続く。緑黄色野菜や果物の摂取ができず、ビタミ ンやミネラルが欠乏する。またトイレに行くことが極めて大変なことから、高 齢者や女性は水分摂取を控えるようになる。このことが避難所生活での体調悪 化につながる。 配食のおにぎりや幕の内弁当の米は、寒いところに置かれているとでんぷん 質が劣化して消化しにくくなり、高齢者は下痢をするようになる。避難所での ストレスや睡眠不足に加え食生活の乱れは高血圧や免疫力低下につながり、そ れらが引き金になって脳梗塞や心筋梗塞になる高齢者が続出した。阪神淡路大 震災では、発生3カ月で淡路島津名郡で脳梗塞など脳卒中で58人、心筋梗塞など 心臓疾患45人の計103人が死亡。前年同期は62人。死亡者は避難所生活者に多く、 60歳以上が大半を占めた。主な要因は避難所生活の不自由さや将来への不安か らくるストレス。睡眠不足や食生活の乱れなどで生じる高血圧だったという(1 10427毎日新聞)。医師によると「高血圧の防止には塩分の摂取を減らし、カリ ウムの多い緑黄色野菜や果物、海藻類を取ること。何より大事なのはよく眠る こと」とのことだ(110619毎日新聞)。 全国で自然災害リスクが高まっている。沖縄も例外ではない。むしろ、近年 戦略GP 1203_4 は大きな災害に見舞われていないだけで、風水害も自然の脅威は大きい。楽し みながら「生き延びる」体験をしながら、被災後のリスクに関する知識も頭に 入れていくことは、来るべき災害に知識の備えとして確実に役に立つ。 稲垣 暁〈戦略GP担当〉 まちづくリスト認定! 2月27日(月)に連携校で判定会議をもち、1級13名、2級27名、計40名のまち づくリストが認定されました(法政、札幌学院、高知工科および沖縄大学認定)。 本学からは3名(法経、国際コム、福祉文化学科より各1名)が、副専攻「地 域共創学」学位と、まちづくリスト2級を取得して沖縄大学を卒業します。 おめでとうございます。 寺井 敦子〈戦略GP担当〉 土曜教養講座 第491回 第491回沖縄大学土曜教養講座 琉球の島々の唄者たち ~琉球諸語の復興を目指して~「最終回(全3回)」 【日時】2012年2月18日(土)13:00~15:30 【場所】沖縄大学1号館601教室 【出演者】照屋 寛徳氏(うるま市出身) 宮良 康正氏(与那国村出身) 大工 哲弘氏(石垣市出身) 天久 勝善氏(宮古島市出身) 【司会】比嘉 光龍氏 【主催】沖縄大学地域研究所 要旨 本講座は、琉球の島々の言葉は方言ではなく言語である、ということを知らしめ るために企画されたもので、最終回となる今回は、これまでの学術的なアプローチ とは趣向を変えて、四人の唄者をお招きして、実際に地域によってどれだけ言葉に 違いがあるかを参加者に体感していただくこととした。沖縄島から照屋寛徳、宮古 から天久勝義、八重山から大工哲弘、与那国から宮良康正が登場し、生まれ島の言 葉による語りと民謡を披露した。司会進行は比嘉光龍が務めた。比嘉は唄者の登壇 を前に、奄美と国頭からの唄者の参加がかなわなかったことに断りを入れ、「どれ ぐらいわからないものなのか感じていただいて、わからないことに酔いしれてもら いたい。わからないから楽しい。違いを味わってほしい」と話した。 まずは比嘉と宮良が沖縄言葉によるかけあいで、宮良のプロフィールや祝儀の場 所で歌われる民謡などについて語ったあとに、祝いの場で最初に唄われる、沖縄島 の幕開きの唄「かぎやで風」を披露した。その後、天久が「とうがにあやぐ」、大 工が「赤馬節」、最後に宮良が山本愛の返しで「トゥグル嶽」と「旅果報節」と、 それぞれの地域の幕開きの唄を披露した。各人の軽妙な語りに、時に会場のあちら こちらで笑いが起こったが、沖縄島の言葉とまるで異なる島々の言葉は、大方の参 加者にとって理解できないものであったようだ。 その後、照屋寛徳は「ナークニー」、天久勝義は「多良間シュンカニ」、大工哲 弘は「とぅばらーま」、宮良康正は「どぅなんすんかに」と、それぞれの地域を代 表する唄を披露した。唄によっては会場からの返しが入り、座は一層盛り上がった。 唄の合間に、比嘉の語りがあり、「だからよー」や「おじい」「おばあ」など、 最近全国放送でも耳にするこれらの言葉は「うちなーやまとぐち」であって、本来 のうちなーぐちではないことを指摘。また、四人の唄者に揃ってご登壇いただき、 「ありがとうございます」「山羊の肉はおいしい」をそれぞれの地域の言葉で表現 土曜教養講座 第491回 してもらうなどの試みもあった。さらに、比嘉は作詞・作曲者不明の唄が「民謡」 で、「汗水節」や「ハイサイおじさん」など作詞、作曲者が明確にわかる唄を「新 民謡」とし、「花」や「涙そうそう」など、ワンフレーズのみぐらいしか琉球諸語 が使われていない唄などを「現代民謡」と分ける必要があることにも触れた。また、 言語、文化には力があること。自分たちの言語を学校教育で取り上げることの重要 性などを説いたうえで、琉球の言葉を残そうではありませんか、と会場に呼びかけ た。 休憩を挟み、唄者たちはそれぞれの地域のお開きの曲を披露。与那国民謡から 「与那国ぬまやー節」を、八重山民謡から「弥勒節」「やらよう節」を、宮古民謡 から「くいちゃー」を、うちなー民謡から「唐船どーい」が唄われた。最後の「唐 船どーい」は照屋の唄・三線に大工と宮良も加わって三丁の三線が奏でられた。さ らに山本愛のサンバに、会場からの返しや手拍子、踊りも加わって、にぎやかな幕 引きとなった。 土曜教養講座 第491回 配布資料より 第三回~琉球諸語の復興を目指して~琉球の島々の唄者たち~ 2012年2月18日(土)沖縄大学にて午後1時~3時半 主旨 琉球諸語(注1)の復興を目指してというテーマで2011年10月に第一回を行った。 その際にはハワイと、スペインのカタルーニャ語の復興について研究者を招き、発 表していただいた。ハワイ語やカタルーニャ語のような少数言語、いわゆる国家の 中の主流ではない言葉が、いかに教育や行政の現場に取り入れられていき復興して いったか、それを我が琉球の6つの言語(注2)のためにも学びたいという主旨で行っ た。海外の事例が中心だったので、第三回目の最終回、今回は観点を少し変え、琉 球諸島の唄と言語についての実演を中心にすすめていきたい。というのも、そもそ も琉球諸島に住んでいる我々には、琉球諸語という概念や、また、それらが危機に 瀕しているのかさえも知る機会がないというのが実状であろう。だが、いきなり琉 球諸語の復興を目指してといわれても実感がわかないようだと、前回のアンケート や周囲の話を総合して感じた。したがって、世間一般に琉球諸島には6つの言語が あり、それらはお互いに通じないほど差異があり、またその言語や唄を紡ぎだして きた個々の文化も差異は著しいということを理解してもらえれば、琉球諸語につい ての関心を持つきっかけになると思う。琉球の民謡はそのためには最適であろう。 (注1) 琉球大学宮良信詳教授が提唱する語で、琉球語と書くと「宮古語?八重山 語?」などと、どの語を指すか分からないので、琉球諸語という語を現在では言語 学者は用いつつある。 (注2) 奄美語、国頭語、おきなわ語、宮古語、八重山語、与那国語で、2009年2 月にユネスコが発表した危機言語調査に基づく。琉球諸語の言語地図を参照。 内容 まず、うちなーからは照屋寛徳さん、宮古は天久勝義さん、八重山は大工哲弘さ ん、与那国は宮良康正さんをお招きし、それぞれの島の民謡を唄ってもらい、それ ぞれの言語で語ってもらう。そして、唄における文化の違いをテーマに、光龍司会 で、それぞれの島で唄われる祝宴などの幕開き唄と、お開きの唄の2曲も唄ってい ただく。大御所からそれぞれの島の唄や言葉を紹介していただくので、大変貴重な 催しになることだろう。 出演者(司会:比嘉光龍) ・うちなー:照屋寛徳さん 15分独演(かじゃでぃ風)後、ナークニー、唐船どーい ・宮古:天久勝義さん 15分独演(とうがにあやぐ)後、多良間ションガネー、くいちゃー 土曜教養講座 第491回 ・八重山:大工哲弘さん 15分独演(赤馬節)後、とぅばらーま、弥勒節・やらよう節 ・与那国:宮良康正さん 15分独演(旅果報節)後、どぅなんすんかに、与那国ぬまやー節 琉球諸島の言語地図。北から奄美語、国頭語、おきなわ語、宮古語、八重山語、与 那国語の6つの言語が琉球諸島には存在し、それらは互いにあまり通じ合わないほ ど差異は著しい。これら6つの言語を総称した言葉を琉球語ではなく、現在では 「琉球諸語」と呼んでいる。 土曜教養講座 第491回 琉球諸島の民謡について 民謡の定義 「民謡」という言葉が人口に膾炙しているが、そもそも里謡(りよう)というの が本来の呼び方で、民謡と言う言葉は明治39年頃より普及し始めたと広辞苑にある。 便宜上、民謡という言葉を使うが、民謡とは、田植えや、草取りなどの際に唄う 労作唄、婚礼や新築などの際に唄う祝い唄、舞踊などの踊唄など、人間が暮らして いくなかで唄われ、受けつがれている唄だといえるだろう。 琉球には6つの民謡が存在する 琉球諸島の6つの言語を総称し「琉球諸語」というが、琉球の民謡も大きくわけ て、6つの言語区分と同じように、6つの琉球民謡が存在すると考えることは可能で あろう。そもそも民謡とは唄の事である。唄を唄う際には言語を伴うのが当然で、 琉球諸島の6つの地域ではそれぞれ言語が異なるように、民謡も異なったものがあ り、それら6つの地域では、それぞれの言語で唄われる民謡が現在でも数多く残っ ている。したがって「琉球民謡」と言えば6つの地域の民謡を総称するのだと理解 して頂きたい。しかし、言語と同じく、今まで琉球諸島の民謡をどう呼ぶかという 事についての議論はあまり活発ではなかったように思われる。「琉球語」という言 葉一つ取って見ても、一般の人は「うちなーぐち(おきなわ語)」のみを指すと勘 違いしているようである(前掲の注1を参照)。それと同じく「琉球民謡」という 時には、うちなー地域の民謡のみを指すことだと一般に考えられており、そういっ た誤解を招かないように「琉球諸民謡」と定義した方が良いかもしれない。今後、 こういう議論が活発になることを願いたい。さて、琉球の民謡は大きく分けて、 「琉球民謡」と、「琉球新民謡」、「琉球現代民謡」の3つに分類できるだろう。 その定義をまずは明らかにしたい。 民謡、新民謡、現代民謡について 1 琉球民謡 原則として、作詞、作曲者不明の唄が民謡と呼ばれている。一部、琉球の6つの 地域で伝わる代表的な民謡を以下に記す。 奄美民謡・朝花(あさばな)節、黒(くる)だんど節、行きゅんにゃ加那(かな) 節、など。 国頭民謡・喜界島民謡、浅潮満(あさすみ)っちゃがり、雨(あみ)降い浜、など。 沖永良部民謡、サイサイ節、石んちじ、など。 与論民謡、イキントウ、バイチクテン、など。 うちなー北部民謡、ヨーテー節、汀間(てぃーまー)とぅなど。 うちなー民謡・ナークニー、谷茶前、加那ヨー、など。 宮古民謡・なりやまアヤグ、クイチャー、伊良部トーガニー、など。 土曜教養講座 第491回 八重山民謡・とぅばらーま、安里屋ユンタ、デンサー節、など。 与那国民謡・どぅなんスンカニ、与那国ぬまやー小節、ちでぃん口説、など。 2 琉球新民謡 琉球新民謡というのは作詞、作曲者がきちんと分かる民謡である。分類する際に 次の2点を踏まえておく必要がある。まず一つ目は楽器として三線が入っているこ と。その場合ギターやドラム、ヴァイオリンなどが加わっていてもよしとする。そ してもう一つが琉球諸語のみで唄われていること。日本語のみで唄ったり、日本語 をたくさんまぜた唄は、琉球新民謡とはいえず、それらは琉球現代民謡と呼ぶべき である。 汗水節 二見情話 ハイサイおじさん うんじゅが情どぅ頼まりる ファムレウタ 作詞 仲本稔 作曲 宮良長包 作詞・作曲 照屋朝敏 作詞・作曲 喜納昌吉 作詞・作曲 知名定男 作詞 新良幸人 作曲 上地正昭 ◆琉球現代民謡 作詞、作曲者が明確、かつ、琉球諸語はワンフレーズのみぐらいしか使われず、 さらに三線も使っていたり使われなかったり、また、琉球音楽的な要素を残してい る曲など、それらすべてを琉球現代民謡と分類する。 新安里屋ユンタ 花 島唄 涙そうそう 黄金の花 作詞 星克 編曲 宮良長包(日本語のみの歌詞) 作詞・作曲 喜納昌吉 〃 作詞・作曲 宮沢和史 〃 作詞 森山良子 作曲 Begin 〃 作詞・岡本おさみ 作曲 知名定男 〃 ◆琉球の島々の幕開きとお開き曲 琉球の島々を言語と同じく6つの地域に分け、祝の座席、式典など色々な催しで 慣例的に唄われている幕開きの曲とお開きの曲を下記に紹介する。 奄美 幕開き 朝花 国頭(名護市のみ調査) 幕開き かじゃでぃ風 うちなー 幕開き かじゃでぃ風 宮古 八重山 与那国 幕開き とうがにあやぐ 幕開き 赤馬節 幕開き 旅果報節 お開き 六調 お開き 唐舟どーい お開き 唐舟どーい お開き くいちゃー お開き 弥勒節・やらよう節 お開き 与那国ぬまやー小 土曜教養講座 第491回 感想(会場アンケートより) ●各離島の言語でお話ししていただく時は、少しずつ区切って、共通語で説明して もらうバイリンガルの方が聴き手に理解してもらえると思います。せっかくの言語 ですから理解はしたいので。琉球諸語に関わるシンポは今まで何回か拝聴しました。 言語を残す運動をされている方達はボランティアが多い気がします。プロとして言 語を活かす仕事のあり方を話し合う具体的な諸策の為のシンポを企画していただき たい。私は今、観光現場で働いていますが、接客や販売の場ですら、最近のウチナー ンチュはウチナー口を使用する人が少ないもので・・・。私は、勿論意識して話しま す。あと、光龍さんのおっしゃる教育のあり方も大切だと思うので、いつか教育現 場の方を交えたシンポがあればと思います。色々な職種の色々な意見を交換する機 会が欲しいと思います。今日は素晴らし機会をありがとうございました。(40代女 性) ●琉球諸語の違いについて学ぶと共に琉球民謡をあらためて聴くと諸語の意味は理 解出来ずとも、歌に込められた島々の切ない想い、自然と共に暮らす日々を愛でる 豊かな感情などが聴く者に感動を与える。琉球諸語の奥深さ、唄者達の心のこもっ た歌声に思わず涙が出て来ました。歌は世界を繋ぎ、歌に国境はない通り、言葉の 意味は理解出来ずとも心を揺さぶられました。今回の諸語に出会えて、島々の歌に 触れて、最高の学習でした。うちなー文化の高さに脱帽 !!『残そううちなーぐち』 をモットーに頑張りましょう。にふぇーでーびたん。(50代女性) ●「琉球諸語の復活」というと大それたテーマ(課題)ですが、まずは島々の歌に親 しむことから考えてみようという主旨の企画が素晴らしいです。他所島の言葉(唄) も聞きたい、楽しみたい、親しみたいという気持ちがあれば話すことはともかく何 とか理解できるようにはなると思われます。大人にもこどもたちにも、様々な態様 のいろいろな機会を仕掛けていく必要があると思います。これからもこのような企 画が続々生まれることを願っています。ありがとうございました。宮良康正さんの 艶のあるお声、久しぶりに聴けました。相変わらずですね。感激しました。 ●天久先生の島ぞうりに名前が書いているのが可愛かった。本島も宮古も八重山も 同じくらい理解できたけど、与那国は全くわからなかった。韓国かモンゴルの言葉・ 長唄に似ている気がした。八重山のメロディーは気持ちよすぎて、宮古は土地のパ ワーを感じて元気になれた。歌は与那国と八重山は似ていた。うちなーぐちを話せ るようになりたいです。家に帰ったら三線を久しぶりに弾こうと思います。素晴ら しい講座ありがとうございました!(30代女性) ●三線八重山古典、横笛琉球古典を少し学んでいます。琉球語は、沖縄の宝である ことを確認できました。どうか、このような講座、活動が今後も続くことを切に祈 ります。また機会があれば参加させていただきます。(40代男性) 土曜教養講座 第491回 ●ありがとうございました。やはり、琉球の島々の言語は魅力的で楽しい。宮良先 生が言われた言葉で島言葉を忘れることは、生まれ島を忘れ、親も忘れる事と同様 であると言われました。自分自身を見つめた時、その言葉通りになりそうな気がし ています。これから生まれ島の言葉を誇り、意識的に島言葉を話したいと思いまし た。講座に参加できたこと幸いに思っています。感謝。先生方の民謡の歌声に言葉 は宝です。(60代女性) ●初めてでしたが、とてもよかったです。特に司会のバイロンさんのあっけない顔 の表情が面白かった。久しぶりに涙が出るまで笑い、健康にもよかったです。出演 者の皆様もそれぞれで、特に八重山、与那国は近いのに日本語諸語の区別がわかり ました。とても勉強になりました。涙あり、笑いありでよかった。バイロンさんこ れからも頑張って下さい。(60代女性) ●島々の言葉と民謡ショー。大変ユニークな企画で楽しませてもらいました。宮古、 八重山、与那国の各言語は全く理解不可でしたが、豊かな言語(多言語)が存在し、 各講師が誇りを持っていることを実感しました。那覇市文化協会では、去年6月う ちなーぐち部会を発足させ、実践的な講座を毎月1回開講しています。現在はうち なーぐちだけですが、各島々のことばをそれぞれの地域の人達が継承していくよう になればと考えています。(60代男性) ●三線を習い始めたばかりの身なので、そうそうたる唄者たちの名に惹かれてやっ てきました。期待以上の演奏は素晴らしく。本当に来て良かったです。唄を通じて 琉球諸語の現状がわかり、とても参考になりました。内地から来て、まだ5年。う ちなーぐちはまだまだわかりませんが、これを機会に少しずつ学び、地域の人と共 に仲良く歩んでいきたいと思います。ありがとうございました。(50代男性) ●四つの地域の言語・歌が聴けたのは大変良かったと思う。個人的には、与那国語 がなかなか耳にする事がなかったので聴くことができてよかった。あまりにも他 の地域の言語とは違うのでびっくりした。照屋寛徳先生、天久勝義先生、大工哲弘 先生、宮良康正先生、比嘉光龍先生に改めて感謝。にふぇーでーびる!たんでぃがー たんでぃ、みーふぁいゆー、ふっがらさーゆー (40代男性) ●うちなーくとぅば(4地域)を直に聞く機会をいただき感謝しています。沖縄の中 で、このように言葉が異なるものかと思った。地域地域で通ずる言葉。隣接した地 域でも言語によりコミュニケーションが出来なかった時代があった事を知りました。 その地域でしか通じない言葉、後世に残して行けるように私自身も努力したい。 (50代男性) ●わらべ唄や出演者によるうちなー芝居をやりながら、動作・言葉を表現していた だきたい。本日のような機会を多く作って下さるようお願いいたします。(男性) 土曜教養講座 第491回 ●琉球諸語、こんなにも違う物ですね。目からウロコです。沖縄本島から南へ300 km(宮古)、400km(八重山)、八重山からさらに110kmの与那国の島々。まるで 外国語です。しかし、三線という楽器で歌い出すと、歌詞はわからずとも心に何か ジーンと伝わってくるものがあります。(50代男性) ●琉球の島々の言語の違いを各島の大御所の方々が話して唄って下さるという、非 常に貴重な機会に参加できて感激しています !!今回はこの3回目しか参加できなかっ たのでぜひまたこのような講座(続編)を期待しています。言語と唄の両方を研究さ れている光龍さんだからこそできる素晴らしい企画ですね。これからも頑張って琉 球の言語を未来へ繋げて下さい。(40代女性) ●琉球諸語を初めて音楽を通して聴くことが出来とても感激しています。現役の大 先生方の歌を聴きながら、言葉の意味は、はっきりとは知らないがメロディーとそ の雰囲気である程度理解できたことは嬉しく、この期を開始して下さった大学側、 バイロン先生、参加下さった大先生方の寛大なる人間性に触れることが出来感謝し ています。学生気分にひたって満足しています。言語を通して音楽によって各地域 の文化に触れること出来ありがとうございました。(70代女性) ●4人の素晴らしい歌声に聞き惚れてしまいました。琉球諸語の大切さは、本当に その通りだと思いました。私は首里生まれ首里育ちで聞くことは出来ますが、なか なか話すのはところどころです。私自身もこれからは話すことに努力したいと思い ます。今日は素敵な時間を提供して下さりありがとうございます。また、この機会 があることを楽しみにしています。光龍さんありがとうございました。(50代女性) ●琉球諸語という言葉。おきなわ語、国頭語など新しい言葉に自分の認識不足を感 じました。英語教育に熱心な教育委員会の方々、教員の皆様にも聞いていただき たいと思いました。宮古語と八重山語は少しわかりましたが、初めて聞いた与那国 語はよくわかりませんでした。小さな沖縄にこんなたくさんの言葉があることは誇 るべき事だと思いました。(60代女性) ●昔は、琉球王国だったことに想いをはせ、方言ではなく沖縄は6つの諸語がある んだと教えていただいた事、それぞれの先生方の素晴らしい歌を聴かせていただい て本当に良い日になりました。今後も琉球人としての誇りをもって文化を勉強して いきたいと思いました。バイロンさん、先生方、ありがとうございました。(30代 男性) ●沖縄文化は本当に素晴らしい。世界に誇れる文化だと思います。言語は文化と言 われています。沖縄文化を下支えしているものが言葉。即ち、独立言語としての琉 球諸語ではないかと思います。子々孫々に至るまで大切に守り、語り継いでいかな ければならないと考えています。(60代男性) 土曜教養講座 第491回 ●琉球の言葉の多様性を体感しました。昨年4月から沖縄で生活する者ですが、言 葉は話せなくとも理解はできるようになりたいと思っています。そのために、人や 文化、芸能とじかに接することを大切にしたいものです。言葉と文化の独自性を主 張することの意味と孤立の可能性についても考えてみようと思います。(60代男性) ●宇井純教授の第一回講座から100回受けた席で、今日の491回の講座を受けていて 講座のうつろい、世のうつろいをいろいろ感じております。琉球大学宮良信詳教授 の「琉球諸語」という語の説を知り勉強になりました。ありがとうございました。 武蔵野女子学院大の宮良当壮博士の土曜講座(50年前に受けた)で「組踊り」のこと を知り、感激した頃のことなど、あらためて思い出しております。(70代) ●琉球諸語での先生方のお話もよくわからないけれど面白かったです。沖縄は昔か ら独自の文化や言語があり素晴らしいですね。ぜひ残してほしいと思います。先生 方の唄、素晴らしかったです。素敵な企画に参加できて嬉しいです。ありがとうご ざいます。(40代女性) ●ウチナーグチの奥深さを知ることができたと同時に今後この言葉を残していくた めの課題と若者達の認識が大事だということがわかりました。(20代男性) ●新鮮な衝撃!豪華なゲストの競演!琉球の豊かな言語体系!素晴らしかった!そ れぞれの地域のまとまったコメントが意味はともかく、楽しかったです!素晴らし い企画でした!「!」の連続でした!(70代男性) ●大学の教養講座でこんなにも楽しく盛り上がる講座は初めてです。とにかく楽し かった。司会の光龍さんが講座を盛り上げた。素晴らしい。ありがとうございま す。今回の講座は、言語の復興だけでなく、人材育成、観光資源として活用できる と考える。(50代女性) ●素晴らしい講座でした。笑いあり、涙あり(笑いすぎて)の楽しい時間を過ごすこ とが出来ました。特に宮古民謡は印象に残りました。名も無き農民の中から生まれ た民謡のようですね。人頭税で苦しんだ長い歴史の中を少しのぞいたようでした。 沖縄県民としてこのような唄がある事を知りませんでした。天久さん頑張って下さ い。応援しています。言語を残そう、守ろう !!(60代女性) ●素晴らしいシンポでした。特に与那国の唄を初めて聴くことができたので感動し ました。あやさんの声も素敵でした。各言語はそれぞれ何とも言えない味わいがあっ て心に響くものがありました。本当にこのような生きた言語をそのまま無くしては いけません。皆で頑張りましょう。(40代女性) ●言葉の大切さをあらためて噛みしめました。(50代女性) 土曜教養講座 第491回 ●琉球諸語は6つの地域があるということですが、今後是非6つの言語の唄者を招い ての開催をお願いします。おきなわ語は理解できたが、それ以外の言語はまったく わかりませんでした。最高でした。ありがとうございました。(50代男性) ●「琉球諸語」について改めて考えることが出来て良かったです。素晴らしい催し に感謝です。友人知人に伝えたいのでインターネット配信を暫くしてもらえたら嬉 しい。(←配信とのことでありがとうございます)学校教育で「琉球諸語」を教えて 継承していくことの実現を心から願います。(50代女性) ●しまくとぅばに、しまぬうたに魂ゆさぶられ涙(ナダ)ぐるぐるーした。消えて欲 しくないのだが話し言葉としてはどこまで持ちこたえるか・・・70歳になった私とし ても聞くことはできても話せない。光龍さんの話気に入りました。(70代女性) ●今日は来てすごく良かったです。私は、これからも沖縄の唄・言葉をもっと勉強 して、残していけるように頑張っていきたいなと本気で思いました。文化・言語の 大切さを実感しました。にふぇーでーびる。(20代女性) ●札幌から2週間の旅行中で今回の講座を拝見させていただき、とっても感動いた しました。北海道に帰りついたら今回のことを伝えたいと思いますので頑張ってく ださいね。(60代男性) ●素晴らしい。感動です。4人の先生方さすがです!沖縄を代表する4人の先生方 のお話、民謡を聴き、琉球の原点、再発見。ありがとうございました。(60代男性) ●本当に、琉球諸語というものの面白さを感じることができました。先生方の、素 晴らしい演奏もありとっても価値のある講座でした。こうした代表する民謡歌手の 方々が協力してくださるのも沖縄の素晴らしさと思います。(60代男性) ●最高でした。バイロンさんの司会もベスト。県のトップレベルの民謡歌手を揃え る企画に感謝。郷ひろみのランチショー、ディナーショーを合わせて聴いた気分で す。(60代男性) ●500円では、安すぎる。いっぺー上等です。沖縄県民の意識はまだまだです。言 葉を残すには、光龍さんを先頭にちかいしやさ。うちなーぐち万歳。録音しぇーぐぅ とぅ親兄弟にちかすんどー。(50代男性) ●私の父は八重山出身で、とぅばらーまは父の歌声で時々聞いていました。本日は 素晴らしい大工哲弘さんの生の声で聴くことが出来て、本当に素晴らしく感動しま した。本日、言語の勉強のために来ましたが、素晴らしい講座に会えてヌチグスイ サビタン。ニフェーデービル。(50代女性) 土曜教養講座 第491回 ●「沖縄方言」で一くくりにされてきた言語が、それぞれ独立した言語として認識 されたことを初めて知りました。今回の企画とても良かった。是非、奄美語、国頭 語を含めた唄者達の企画をお願いしたい。(60代男性) ●今までは沖縄の言葉にあまり興味がなかったけど、光龍さんの綺麗なうちなーぐ ちを聞いてこれからもっと知っていきたくなりました。ありがとうございます。に ふぇーでーびる。(20代女性) ●光龍さんの司会素晴らしかった。先輩も立てつつユーモアを交え、座を和まして くれて大変良かった。(60代女性) ●楽しい講座でした。また続きが楽しみです。光龍さん頑張っていますね。ありが とうございました。しまくとぅば残しましょうね !!(60代女性) ●素晴らしく、贅沢な催しでした。次は奄美離島も入れて、もう一度やってほし い。500円では安い。得をした。(60代男性) ●与那国の言葉が全くわかりませんでした。「シマ」を「チマ」と言っているのは 分ったけど、鼻濁音の言葉が聞き取れませんでした。大御所の歌が聴けて(たった5 00円!)言葉も聴けてすごく贅沢な講座でした。方言と違って「言語」とはっきり 分る講座でとても面白かったです。音楽は全部リズムがゆったりで耳心地よかった です。いつか奄美、国頭もそろった琉球諸語の音楽が一同にきける日を楽しみにし ています。各地方出身のおじさん、おばさんの見事なはやしやクィチャーもとても 良かったです。光龍先生、にふぇーでーびる!(40代女性) ●大変よかった。今後とも沖縄の各地で開催されることを希望します。良く聞い ている唄が生で聞けて良かった。(60代女性) ●いっぺーうむさったん。いい企画やいびるくとぅまた開催してぃくぃみそーらん がやー?(笑)にふぇーでーびたん! (40代男性) ●楽しい企画でした。背景に、歌詩が(パワーポイントか何かで)表示されると各 地の言葉の違いが伝わりやすいはず。(60代男性) ●琉球諸語を各地の言語を聴いてさらに唄者の話を聞きながら島々の原風景を思い 浮かべることができました。大変よかったです。(60代男性) ●時々このような講座を開いてください。難しい言語学の講座より、このように民 謡、三線を通し自分達の言語を伝え残した方がいつまでも人々の心に残ると思いま す。(60代男性) 土曜教養講座 第491回 ●宮古、八重山、与那国の言葉を生で聞けたのは非常に良かった。大変貴重な体験 だったと思う。こういう機会をもっと増やせたらいい。ネイティブな話者が在命し ている間にぜひ、永久に残せるようにCD化、DVD化して多くの人が触れられるよう にして欲しい。大工哲弘さんの八重山語も印象的だった。ニュース23に出ている時 は大和口しか話しているのを聞いたことがなかったので。筑紫哲也さんも聞きに来 ていたに違いない!(30代男性) ●沖縄の言葉喋れるようにします!素晴らしい4人の先生方の唄に感謝!沖縄の美 しい言葉を残してくれた祖先に感謝。(50代女性) ●とても楽しく中身の濃い勉強をさせてもらいました。次も機会があればまた是非 受講したいです。ミーグァッチーしました。ありがとう。(50代女性) ●光龍しんしー、司会最高でした。こんなにも言葉の違いがあるなんて、そろって 聞くと改めてすごいなぁと思いました。絶対残していかないといけない言語だなぁ と思いました。照屋寛徳さんのファンになりました。(30代女性) ●4人の先生方の素晴らしい唄を聞かせていただき、昔のいなかの風景が思い浮か べることが出来大変良かった。この素晴らしいも催し物を企画した光龍さんに感謝 します。(60代男性) ●沖縄の方言がこんなに調合化があり、全くわからないということを再認識しまし た。自分達のアイデンティティを持ち続けるために定着した方で教育が必要ですね。 (60代女性) ●非常に有意義でした。今後の講座も期待しています。いっぺーにふぇーでーびた ん。(30代女性) ●初めて参加しました。このような催しを沢山やっていただきたいです。(20代男性) ●とても良かった。是非、うちなーぐちを大事に守っていこうと思いました。 (40代男性) ●与那国の言葉を初めて聴いてびっくりしました。(20代男性) ●バイロンさんの沖縄方言の普及拡大を支援します。(50代男性) ●方言に対する意識が凄く変わりました。(70代女性) ●今日の講座を受講してラッキーでした。(60代男性) ●沖縄は多種多様。しかし一つ。(60代男性) 土曜教養講座 第492回 土曜教養講座 第492回 第492回沖縄大学土曜教養講座 沖縄からアイヌを考える ~文化・教育の交流のすすめ~ 沖縄からアイヌを考える上で、学校教育と教科書問題について論じることも必要 であろう。副読本「アイヌ民族:歴史と現代」を沖縄の教育現場に活かす方法につ いて、沖縄の教科書問題もふくめ、方向性を模索していきたい。 そのうえで沖縄とアイヌが手を取りあって、文化・教育の面でいかに交流してい くか・・・を論じてみたい。 また、沖縄における教育現場でのアイヌ文化等に関する学習の機会を増やすため、 一般の方及び学校教育関係者を対象とした講習会も開催する。アイヌの歴史や文化 に関する知識を深める場としたい。 【日 時】2012年3月10日(土)13:00~17:00 【場 所】沖縄大学本館同窓会館 【共 催】沖縄大学地域研究所 財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構 【後 援】沖縄県教育委員会 【聴講料】無料 【プログラム】 映像上映 13:00~13:40 「フチのこころ~アイヌの女の手仕事」(暫定版) 40分 第1部 「沖縄からアイヌを考える」 13:40~14:30 司 会:須藤 義人氏(沖縄大学専任講師) 対 談:「沖縄からアイヌを考える―文化・教育の交流のすすめ―」 高良 勉氏(詩人/アイヌ・琉球の文化交流実践者) 仲地 博氏(沖縄大学副学長/沖縄自治研究者) 第2部「アイヌと学校教育」(講習会)14:30~17:00 基調講演:「アイヌの歴史と文化」14:30~15:20(50分) 阿部 一司氏(社団法人北海道アイヌ協会副理事長) 事例発表:「アイヌに関する学習を授業に取り入れた事例」15:30~16:20(50分) 佐々木 博司氏(江別市立対雁小学校教諭) 意見交換会:対談「アイヌと学校教育」16:20~17:00(40分) 阿部 一司氏 × 佐々木 博司氏 New Publications 沖縄大学地域研究所彙報 第8号 慶良間諸島の鳥類相について Avifauna in Kerama Islands, in Ryukyu Islands 沖縄大学地域研究所 琉球鳥類研究会 嵩原建二・中村和雄・比嘉邦昭 奥太志・大坪弘和・上林利寛 目 次 はじめに 調査地概要及び調査方法 1.渡嘉敷島 2.座間味島 3.阿嘉島 調査結果及び考察 1.慶良間諸島における鳥類の記録 (1)留鳥の出現状況について (2)渡り鳥の出現状況について (3)天然記念物等貴重種の出現状 況 2.慶良間諸島各島における鳥類の 出現概要 (1)渡嘉敷島 (2)座間味島 (3)阿嘉島 3.島の自然環境の保全と活用 4.調査課題 要約 引用文献 地域貢献部門 名城 菜々子 所内雑記 vol.30 地域研究部門 後藤 哲志 今年度の共同研究班の活動は、今日 で〆。多様な研究テーマに合わせて、 多様な領収書が出てきた。研究助成費 の配分は、難しい。 この数年は所長の人柄で、一律2分 の1とか3分の1とかになっても丸く収 まった。研究所の重点テーマに沿った 案件や研究成果の評価をもって傾斜配 分を、との意見もある。 研究活動がより活発化するための研 究助成費の配分方法について、所員の 先生方のご意見を伺いたい今日この頃。 先日、2月25日(土)に奄美大島に て「奄美~沖縄 交流フォーラム/沖 縄大学移動市民大学in奄美~UIター ンによる地域活性化~」と題して、移 動市民大学を開催しました。 昨年奄美テレビへインターンシップ に行った沖縄大学生が当時製作した10 分番組(主に奄美の若者が地元につい てどう考えているのかをアンケートや インタビューを通してまとめたもの) を放映し、その内容を踏まえて奄美の 高校生と「将来地元に残りたいか、外 に出たいか、その理由等」についてディ スカッションを行いました。 高校生からは「デートや遊ぶ場所が ない」「進学するには島を出ないとい けない」等の率直な意見が出て、会場 の大人たちも高校生の意見を時に真剣 に時に笑みを湛えながら興味深げに耳 を傾けていました。 またこうしたUIターンの現状を各島々 のケーブルテレビ関係者(石垣、宮古、 沖縄、奄美)がVTRを交えて報告した り、奄美で移住支援サイトを運営して いる山腰氏による奄美移住者の現状報 告などがありました。また石垣市商工 会事務局長の平田睦氏による「石垣島 ブランディングプロジェクト」につい ての講演では地域通貨「アトム通貨」 を導入することにより地域内にて経済 を循環させる取り組みを行っているこ となどの紹介があり、地元の商工会関 係者をはじめとして来場者が興味深げ に話しに聞き入っていました。 またNHKドラマ「ちゅらさん」出演 で有名なうちな~噺家藤木勇人氏によ る談義ではその軽妙な語り口の中にも 「奄美を描いた画家の田中一村の絵が どこか暗いのは単に紫外線が足りない だけ。それを天才画家が忠実に再現し たってだけ。奄美にもいろんな可能性 があるよ~」と奄美を鼓舞する内容が あり、会場が湧きました。盛りだくさ んの内容で、「高校生の本音が聞けて 良かった」「面白かった」等、反応を 得ることが出来、有意義な移動市民大 学講座を開けたのではないか、と考え ています。 来月は3月10日(土)に「沖縄から アイヌを考える~文化・教育の交流の すすめ~」が開催されます。どうぞ皆 様お誘い合わせの上、ご来場ください。 皆様のご来場を心よりお待ちしており ます。 船釣り遊漁の漁獲実態 把握調査業務担当 横山 正見 「釣りは唯一の狩りだからね」 「本能を刺激するんだろうな、楽しい んだよ」とある遊漁業者の方、面白い 話だった。 「今度一緒にカジキを釣りに行こうな」 と言われることも。 あまり釣りをしないので恐縮してしま うが、ありがたい。 「実は沖大の卒業生ですよ」とインタ ビューが終わってから伺うこともあっ た。 まったく知らない世界だったけれども、 人生模様がある。 3月はまとめの作業、忙しくなりそう だ。 事務 山城 基乃 みかんが美味しい季節です。 和歌山のポンカン、奄美のたんかん。 頂き物のみかんをほおばって風邪を予 防しております。 頂き物のみかんに、目と鼻と口が描 いてあるものがありました。可愛くて 食べるのが勿体ないので、デスクの横 にちょこんと座らせていたのですが 余計に愛着がわいて食べれなくなって しまいました。ペンで顔を描いただけ なのに、なんだか不思議ですね。 事務 仲宗根 礼子 三寒四温を繰り返して春になる、と いいますが、最近の沖縄は本当にそん な感じです。 毎年、この時期は「蠢」という字が ぴったりだと感じます。梢が気になり、 葉っぱの裏をのぞいてみたり、小さな 春を探してしまうのは私だけではない でしょう。万事、重新再開始という期 待からウキウキするのでしょうね。 英語のspringは、そんなウキウキし た気持ちから(ぴょんぴょん跳びはね るというか)「春」をあてたのかもし れませんね。
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