PDFファイル - 愛媛大学教育学部

平成24. 2. 1発行
同 窓 会 報
愛媛大学教育学部
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第 113 号
とが自覚され、それを防ぐ工夫が成
治に容易に転化する危険性を持つこ
代ギリシャ以来、民主主義は衆愚政
義のもろさを露見させています。古
い。欧州の政府債務危機は、民主主
題について私見を述べさせてくださ
が、その根幹に関わると思われる問
化してしまいます。少子高齢化とい
込んでしまえば、彼らの学びは形骸
いう名のもとに各人の思いを押さえ
ます。かといって、クラスの秩序と
ラスで受け容れられない場合があり
し、それをなまの形で表現するとク
ぞ れ の 物 語 を 生 き て い ま す。 し か
別 少
・ 集 団・ 全 体 と い う 学 び の 形 態
で す。 そ れ ぞ れ の 児 童 生 徒 は そ れ
直面している課題は様々でしょう
されてきました。「 個 ・ 私」と「全
追い込んでしまうと学びそのものが
う状況の中で国際競争力を保つため
成立しなくなりかねません。そのこ
体・公」とが直接対峙しない仕組み
に、 全 体 公
・ の 暴 走 を 招 来 し な い。
個が相互にその我欲を調整しつつ自
とを多くの先生方はまさに皮膚感覚
に、 高 度 な 能 力 の 獲 得 を 要 求 さ れ、
分の声をみんなに届くように練り上
です。公の不在が直ちに、個の放恣
げていくと同時に、公も直接的に個
に至らない。また、個の放恣がすぐ
に多くの教育現場で、多様な形で子
た だ で さ え、 孤 立 感 見
・捨てられ感
の中であえいでいる彼らをこれ以上
どもたちと触れあうことによって大
として感じ取っていらっしゃるので
︿共﹀の創成としての︿学び﹀の創造に向けて
愛媛大学
教育学部長
に働くことで個の創意性を挫かない
した。ところが、平成二十三年三月
全国的にもかなり低い水準にありま
職 率 は、 数 年 来 四 〇 % 台 を 低 迷 し、
ずお伝えします。教育学部の教員就
育学部の大変喜ばしいニュースをま
こんにちは。卒業生の皆様、お元
気でお過ごしでしょうか。今回は教
ベーションを高めています。それが
合 わ せ る こ と で、 教 員 に な る モ チ
先輩方の姿に明日の自分の姿を重ね
接間接に触れることになり、その諸
教育現場で活躍しておられる姿に直
たちは教育学部の多くの諸先輩方が
能となりました。その過程で、学生
生の教育実践力を育成することが可
性を回避するには、私たち一人一人
むことになります。このような危険
だという選択をする危険性を抱え込
ブレーキのきかない政治の方がまし
うして私たちは、動かぬ政治よりは
滞感といらだちを生じさせます。こ
しかし、共の領域の形成には時間
がかかり、スピード感の欠如は、停
」の領域の重要な役割で
common
す。
間」の形成に貢献できるのではない
し あ う 新 た な「 公 共 空 間 = 政 治 空
ことで、教育は私の声が美しく交響
なりません。この作業を積み重ねる
独自の「共」を創り上げる営みに他
放恣と全体性の横暴とを共に牽制し
と高めていく。これは、一人一人の
声を小集団で相互に練り上げ、さら
学での学びを具体化し、更にそれを
はないでしょうか。だからこそ、一
卒業生の教員就職率は、六〇%を超
今回の結果につながったと考えてい
壽
卓三
ように媒介を介在させる。それが「公
えることが判明しました。この飛躍
ます。この場を借りて、ご多忙の中、
でしょうか。
人一人が自分の心の奥の声に耳を傾
大学に持ち帰って意味づけしていく
的増加の原因としては、愛媛県の教
のポリスのあり方への関与、すなわ
このような学びの創造に向け
て、教育学部の教職員は力を合わ
」を繋ぐ「共
private
員採用数が増加しつつあること、こ
学生たちの学びを様々な形で支援し
ち政治意識の成熟が必要となりま
」と「私
public
れに反して経済不況で一般の就職先
ていただいた諸先輩方に改めて感謝
す。教育の重要な課題の一つは、ま
という理論と実践の往還を通して学
が縮小されたことなどが挙げられる
の意を伝えたいと思います。本当に
学びを多様な形で教育現場での実体
関係者のご理解によって、大学での
教育委員会を始めとして多くの教育
しては、愛媛県教育委員会や松山市
実を考えれば、教員養成のあり方も
教育が様々な困難に直面している現
さて、教員養成のあり方をめぐる
議論はまだまだ不透明です。しかし、
ありがとうございます。
だけ具体的な事例を挙げますと、個
夫されていると考えています。一つ
学校空間での学びは、様々な形で
実はこのような課題に対応すべく工
いでしょうか。
さにこの成熟に貢献することではな
願いいたします。
す。今後ともご指導方よろしくお
る諸先輩のお力添えを得ながらな
せて、様々な場で活躍しておられ
に全体で議論して「私たちの声」へ
けてそれを明確な声にし、それらの
でしょう。しかし、決定的な要因と
験と結びつける機会が持てるように
大きく変わるべきでしょう。教育が
お一層精進していく所存でありま
なったことだと考えています。本当
文明
峯本亜希子
三輪田米山開催中
ルイジアナ大学モンロー校の
シバクマラン博士が教育学部を訪問
ルイジアナ大学モンロー校
)訪問
( ULM
教育学部卒業生木村志穂さんが
「かがやき松山大賞」を受賞
愛媛大学ミュージアムにて
学内最近のニュース…………
「教師のよろこび」
大洲・喜多小教諭 河野 覚志
「あせらず、ゆっくり、じっくりと」
鬼北・近永小教諭 濱田 浩子
「小学校の英語活動に学ぶ」
八幡浜・松柏中教諭 宇
都宮正子
「私の選んだ道」
愛媛銀行宇和島支店 船田祐美子
久万高原・美川小教諭
「子どもたちの歌声」
職場だより……………………
久保美智代
表紙作品「
」について… …
contrast
石井 沙知
「魅力的な世界遺産」………
…
「研究室訪問~日野克博先生今日は~」
「愛媛県教委と連携した教育学部
学生による大震災サポート」
「震災忘れないため伝える」
学部の今………………………
越智
心響……………………………
〈学び〉の創造に向けて」 愛媛大学教育学部長 壽
卓三
」 石井 沙知
「 contrast
題字
元愛媛大学教育学部教授
菊
川 國夫
「〈共〉の創成としての
表紙
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「自省」
愛大附属小主幹教諭
(2)
(3)
(13)(12)(7)
(18)
(1)
同 窓 会 報
高度経済成長期はとうに終わ
り、バブルが崩壊してからもすで
延しているようだ。
安や悲観的な見方、暗い気分が蔓
日本には、現在と将来に対する不
間で倍増している。どうやら今の
ンタルヘルス不調者は、この十年
れ。」、部活動でいい結果が出るよ
う。勉強ができるように「がんば
ん ば れ。」 と 言 っ て き た こ と だ ろ
い ど れ だ け、 子 ど も た ち に「 が
思い起こせば、二十六年前に念
願 の 教 師 に な っ た 私 は、 い っ た
事実だと思うのである。
る原因になっていることも、また
けを意識させ、精神的負担を強い
GNPには含まれない。詩の美し
教育の質の高さ、遊びの楽しさは
う 続 け る。
「 子 ど も た ち の 健 康、
……。」 さ ら に、 ケ ネ デ ィ は、 こ
に暴力を礼賛するテレビ番組も
子どもたちにおもちゃを売るため
の 装 甲 車 も ラ イ フ ル も ナ イ フ も、
切が含まれている。戦争で使われ
や環境汚染や環境破壊にかかる一
タバコや酒や薬、交通事故や犯罪
自 省
に久しい。しかし、今なお、経済
うに「がんばれ。」、がんばれば後
さも、市民の知恵も、勇気も、誠
(昭六〇卒)
るナパーム弾も、核弾頭も、警察
至上主義は日本社会の形成にかか
で必ずいいことがあるから「がん
愛大 附 属 小 主 幹 教 諭
私たち教師は、なんのために子
どもたちの教育を行っているのだ
わる所に深く根を下ろし、GNP
ばれ。」、苦しいときほど「がんば
越智 文明
ろう……。
標として、今も変わらず重要視さ
( 国 民 総 生 産 ) は、 国 力 を 測 る 指
昨年、十一月、ブータン国王と
王妃が来日された。その際、話題
実さも、
慈悲深さも……。」
そして、
こ う 結 論 づ け る。
「要するにこう
れ。」、「 が ん ば れ。」「 が ん ば れ。」
……。果たして、その一つひとつ
いうことだ。国の富を測るGNP
れている。国際社会を勝ち抜くた
民総幸福)がある。ブータンとい
は、本当に励ましとして子どもた
になったことの一つに、
GNH
(国
う国では、実に九十七%もの国民
からは、私たちの生きがいのすべ
私たち教師は、なんのために子
どもたちの教育を行っているのだ
ちに伝わっていたのだろうか。い
ちを幸せへと導く励ましだったの
ろう……。教育基本法に示された
が「 幸 せ 」 と 感 じ て い る ら し い。
だろうか。考えてみれば、私が子
てがすっぽり抜け落ちている。
」
れるほど、私には見識があるわけ
どもたちにもっとがんばってほし
や、それ以前に、本当に子どもた
ではない。ただ単純に、そんな指
その内実がどうなのかを詳しく語
標があったのか、そんな国もある
教育の目的や目標を実現するた
の目的や目標を実現するため。学
いと願っていただけのことであっ
習指導要領の理念である「生きる
のかと、ある種の驚きと戸惑いを
的ニーズに応じて発した言葉では
力」を育むため……。差し障りの
め。学校教育法に示された各学校
な か っ た か も し れ な い。 時 に は、
な い 答 え は い ろ い ろ で き そ う だ。
て、常に子ども一人ひとりの教育
が ん ば ら な け れ ば 承 知 し な い ぞ、
でも、教師生活が残り十年余りに
感じたのだ。
め と 理 由 づ け ら れ た 競 争 原 理 は、
結果を出さなければ承知しない
松
山市東野四丁目
岡山新支部発足!
放送大学入学生募集
デイが開催されました …
第二回愛媛大ホームカミング
※お詫びと訂正………………………
教育現場等から同窓会へ
支援要請依頼について……………
…
敬 弔…………………………
原稿募集………………………
「登校拒否児たちが語る学校への
『歴史的悲願像』」 重見 法樹
同窓会への寄付者・
会報送料送金者名
寄贈図書………………………
「附属小学校の思い出」㈡ 栗田 瑞夫
「祝 池川敏幸さん」
山上 亘子
「隋身像奉祝除幕式」
武田 恵子
「厚生労働大臣表彰を受けて」峯本 高義
「お詫びいたします」
叙勲・受賞……………………
会員の声………………………
「米寿の会あれこれ」 金子 六女
「東京駅から日帰りの旅
昭王会東京支部の集いから」
伊藤
始
同期会…………………………
支部だより……………………
「明治・大正の頃の教育事情」㈣
上甲
修
「卒業して五十八年あれこれ」
小野植元幸
今、教育に思うこと…………
林傳次先生遺稿集
「把翠」を繙く㈣
先輩を偲ぶ……………………
俳句「俳句甲子園」 奥村 幸二
短歌「今日の空」 井上真佐子
川柳「おーいお茶」 森貞 和雄
水墨画 集中の心地よさ」
「
西島 節子
文 芸…………………………
シニア国際ボランティア
JICA
前愛媛大学教授 杉山 允宏
グアテマラ通信………………
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(21) (20)
(24) (23)
(27)(26)
(29)
(23)
(32)
ある文献によると、MTVネッ
トワークスが、世界十四か国、計
五二〇〇名の子どもと若者を対象
ぞ、というような脅迫めいた言葉
なった今、もう一度、それら一つ
経済界ばかりでなく、教育の現場
だったかもしれない。……反省す
一つを丁寧に読み直し、社会や子
のいたる所にまで、以前にも増し
て 影 響 し て い る よ う に さ え 思 う。
ることしきりである。
に 行 っ た 調 査( 二 〇 〇 六 年 公 表 )
の問いで、日本は飛び抜けて最下
もちろん競争のすべてを否定する
の中の、
「今の状況は幸せですか」
位だった。二〇〇六年、イギリス
この問いの答えをじっくりと考え
てみたい。
(〠 二四)
ど も 一 人 ひ と り を 見 つ め な が ら、
一九六八年、アメリカの大統領
候補指名のための遊説中、ロバー
ト・ケネディは、GNPと、それ
つもりはないし、子どもたちの成
違いないと思う。しかし、
絆や和、
によって測られる「豊かさ」につ
長の原動力の一つであることは間
どのデータを分析して行った「G
強調や協働の大切さを説く一方に
い て、 次 の よ う に 言 及 し て い る。
のレスター大学のエードリアン・
N H ラ ン キ ン グ 」 で も、 日 本 は
ある、教育の現場における過度の
乙二二二
790–
0903
(28)
(32)
(15)(32)
(33)
ホワイト氏がユネスコやWHOな
一七八か国中九十位だった。自殺
「アメリカは世界一のGNPを
誇 っ て い る。 で も、 そ の 中 に は、
競争は、時として子どもたちに矛
盾を感じさせ、必要以上に勝ち負
者 は 十 数 年 連 続 で 三 万 人 を 超 え、
病院を訪れた鬱病を中心とするメ
-
同 窓 会 報
(2)
(3)
同 窓 会 報
体育科研究室
日野 克博先生 今日は
は、子どもの体力向上や運動部活
動の充実といった学校体育の重要
性が多くの委員から述べられてい
ます。近年、子どもの体力低下が
問題になっていましたが、ここ数
年、 わ ず か で す が 向 上 傾 向 に 変
わってきました。それは、子ども
の体力が危機的状況にあった現状
から体力向上に関する様々な取組
が行われ、その成果がやっとみえ
てきたからだといえます。
ただ、向上傾向になったからと
いって安心できるものではありま
せん。昔と比べると子どもの体力
は 極 め て 低 い 値 に な っ て い ま す。
さらに、運動する子としない子の
差が顕著で、とくに運動習慣のな
い子どもが増えています。
改めて、
学校体育を充実させていく必要が
あるでしょう。
新しい学習指導要領では、小・
中学校の体育の授業時数は九○時
間 か ら 一 ○ 五 時 間 に 増 え ま し た。
しかし、体育の授業だけで体力が
﹁スポーツ基本法﹂からみた体育科教育の今
昨 年( 平 成 二 十 三 年 )
、スポー
ツ界の新憲法といえる「スポーツ
基本法」が制定されました。これ
までは昭和三十六年に制定された
「スポーツ振興法」に基づいてい
ろいろな施策が展開されてきまし
た。新しい基本法では、
前文で
「ス
ポーツは、世界共通の人類の文化
である」と明記され、全ての国民
がスポーツに親しみ、スポーツを
楽しみ、そして、スポーツを支え
る活動に参画できる権利を持つこ
とが示されています。昨年、なで
しこジャパンがワールドカップで
優勝し、国民に元気を与えてくれ
ました。スポーツにはそうした力
があるということです。この法律
に基づいて、スポーツを推進する
ための基本計画が作成されている
のですが、私もその委員の一人に
任命され、とくに体育科教育の立
場から意見を述べさせて頂いてい
ます。
その基本計画の議論のなかで
向 上 す る と は 言 え ま せ ん。「 業 間
体育」や「全校体育」など、学校
の 教 育 活 動 全 体 を 通 じ て、 ま た、
地 域 や 保 護 者 と 連 携 を 密 に し て、
子どもの体力を高める活動を行っ
ていく必要があります。
私は、体力を高めることは、い
ろいろな効果をもたらすと考えて
い ま す。「 体 力 」 と は「 体 の 力 」
と 書 き ま す が、 そ れ だ け で な く、
様々な「たい力」が考えられます。
例 え ば、 耐 え る 力 の「 耐 力 」、 み
ん な で 一 体 と な る「 帯 力 」、 集 団
で 行 動 す る「 隊 力 」、 何 事 も じ っ
と待つ「待力」などです。体力を
高めることを通して、実は様々な
「たい力」が身についているので
す。単に体力が低いという数値的
なものではなく、体力を高めるこ
とで波及的に身についていたもの
がなくなっていることは問題で
す。その意味でも体力を身につけ
ることは大切だと言えます。
関連した話ですが、教育の目標
「 徳 育 」、「 体 育 」
として 知
「育 、
」
があげられます。実は、教育目標
の中で教科名がついているのは
「体育」だけです。だから「体育」
は大切だと言う人もいます。しか
し、私は、教育目標としての「体育」
と教科としての「体育」を混同し
て「体育 体
=育科」と捉えない方
がいいと考えています。教科とし
ての体育科の中心は「体育」です
が、体育科の中には「知育」もあり、
「徳育」
もあります。
「知育」「徳育」
「体育」をトータルで教えるもの
が「体育科」です。運動に関する
知的な学習や徳育的な学習、そし
て、体を育む運動学習を行うのが
教 科 と し て の 体 育 で す。 だ か ら、
「体育 体
=育科」ではなく、運動
を媒介にして知育、徳育、体育を
総合的に学習するのが体育科であ
り、教育的な価値が高いと言えま
す。そのことをもっとアピールし
ていきたいと思っています。
ところで、今の子どもは昔の子
どもと変わっているのかと言え
ば、基本的には変わっていないと
思 い ま す。 何 が 違 う か と 言 え ば、
生活の中で動く機会が少なくなっ
ていることでしょう。登下校や放
課後の遊びを含めて、運動する機
会が少なくなっています。ある時、
大学生を連れて幼稚園を訪問した
のですが、幼児は大学生に甘えて
遊んでいました。その後、幼児と
小学生との交流がありました。小
学生が来ると、幼児は小学生の言
うことを「はい、はい」とよく聞
いて行動していました。子どもの
中には子どもの世界があって、同
世代の子どもの言うことはきちん
と聞かなければいけないという規
範があるのだと感じました。
最近、
子どもが群れて遊ぶ機会が少なく
なりました。そのため、子どもの
世界で身につけていたことが今は
少なくなってます。改めて、運動
遊びは子どもの世界をつくる大切
なものだと再認識し、運動の持つ
教育的価値を見直す必要があると
感じました。
~保健体育教師への提言~
「好きこそものの上手なれ」と
いう言葉があります。私はそれを
逆 に と ら え て い ま す。
「好きこそ
ものの上手なれ」ではなく「上手
になるから好きになる」です。子
どもたちは、上手になるから運動
を好きになるのであり、教師の役
割は「上手にしてあげる」ことだ
と言えます。体育の授業で、ゲー
ム や 練 習、 話 し 合 い な ど の「 場 」
を教師は設定します。しかし、そ
れだけでは子どもは上手くなれま
せん。上手くなるためには教師の
指導や支援が不可欠です。その子
なりでいいので「できた」
「わかっ
た」という経験が持てれば、運動
を好きになるでしょう。子どもが
楽しんでいる姿の背後には、教師
の意図的、計画的な指導や支援が
必要だということを忘れてはいけ
ません。
また、新学習指導要領では、知
識や技能の習得とともに、言語を
通じて「表現する」ことも重視さ
れています。それは体育科でも同
様です。子どもの表現力を高める
には、表現する源となる経験や知
識が必要です。話したいことや伝
えたいことがあるからこそ、子ど
もたちは言葉にだして表現するの
です。そうした経験や知識を提供
同 窓 会 報
(4)
するのも教師の役目です。
教師は、
子どもが夢中になれる「場」を設
定するとともに、上手くなるため
の手立てを準備する必要があるで
しょう。そのためには、教師の経
験 や 知 識 も 重 要 に な っ て き ま す。
知識がないと、
ただ単に「頑張れ、
頑張れ」
「 い い よ、 い い よ 」 と し
か言えないのです。自分が経験し
て、
自分なりの「コツ」や「カン」
を持ったり、研修や他の教員から
指導ポイントを教わることが大切
です。そういう実践知、経験知が
ないと動きや技を指導するのは難
しいです。
一方、小学校では、体育が必ず
しも専門でなく、体育にマイナス
のイメージをもっている教師もい
ます。体育の苦手な教師をサポー
トすることは、よりよい体育授業
を改善していく上で大きな課題で
す。そうしたサポートの一つとし
て、 体 育 専 科 や 小 学 校 体 育 活 動
コーディネーター等が推奨されて
います。私は、小学校の場合、専
科というよりもコーディネーター
と し て の 役 割 を 期 待 し て い ま す。
体育は学級経営とも深く関係して
います。そのため、担任の先生の
補助的な立場でTTとして指導し
たり、体育が苦手な子どもへの個
別指導、また、学校全体の体育活
動をデザインすることをサポート
できる教員が必要だと考えていま
す。とくに、体育は教科書がない
ため、低学年、中学年、高学年で
何を身につけさせるかを明確に
し、 全 体 を 見 通 せ る 立 場 で の サ
ポートがこれからはより大切に
なってくると思います。
また、中学校では、とくに女子
生徒の運動習慣の確立が課題に
なっています。文部科学省の調査
では、一週間に六十分も運動しな
い子が三〇%を超えています。中
学校では運動部活動が重視されて
います。しかし、運動習慣のない
子の多くが、運動部活動に入って
いません。運動部活動も競技志向
だけでなく、多様なニーズの生徒
に対応できるように再編するな
ど、さまざまな検討が必要でしょ
う。
これらのことは、最終的には教
師 の 指 導 力 に か か わ っ て き ま す。
中学校の運動部活動では保健体育
の 免 許 を 持 っ た 教 師 だ け で な く、
他の教科の教師も指導にあたりま
す。 教 員 免 許 法 で は「 体 育 二 単
位」が全ての校種の免許で必修に
なっています。これらは、一般に
大学の共通教育の中で指導してい
ます。私たちは、他学部の学生も
含めて保健体育の免許を取らない
教師志望の学生に対しても、体育
的な知識や技能を身につけさせる
ための授業改善を図っているとこ
ろです。
~学生の地域連携活動を通して~
愛媛大学では総合型地域スポー
ツクラブを運営しています。その
活動の一つとして、県内の小学校
に学生をスポーツ指導者として派
遣しています。また、私自身もよ
く県内の学校に指導に行きます
が、その時は学生にも声をかけ一
緒に参加します。学生が直接指導
したり、私の指導を補助してくれ
ます。学生にとっては実際の子ど
もを指導する貴重な経験の場に
なっています。
ま た、 学 生 が 学 校 訪 問 す る と、
子どもたちはニコニコと元気にな
ります。若い学生と一緒にいると、
子どもたちはいつも以上に張り切
ります。学生は「現場の先生は凄
いですね」と子ども相手でへとへ
とになりながら、生きた現場を直
接肌で感じているようです。そう
したことから、学生には、学校現
場との「距離感」が重要だと伝え
ています。大学に入るまでは、現
場に最も近いところにいて、身近
に教師と接し、教師になりたい気
持ちで大学に入学してきます。そ
の後、大学に入学して学校現場と
の「距離感」が遠くなる学生は教
師への志望がだんだんと薄れてい
きます。逆に、地域連携実習など
を活用して、学校現場との「距離
感」を保っている学生は、教師に
なりたい気持ちを持ち続けていま
す。私も大学時代は、積極的に学
校現場に足を運びました。学校現
場から学ぶことは少なくありませ
ん。現場でみたできごとを大学で
話すとき、もう既に現場では次の
新 し い で き ご と が 起 き て い ま す。
ある意味、学校は教育の最先端で
す。学生も、ぜひ学校現場から学
ぶ意識を持ち続けてほしいと思っ
ています。
一方、入学当初は教師への憧れ
があったはずなのに、教員採用の
厳しい現実を知り、進路に迷いを
持つ学生も少なくありません。学
生 の ニ ー ズ は 多 様 化 し て い ま す。
教育学部で学んだことを一つの
キャリアとして生かしていける職
業を選ぶ学生にも様々な支援して
いかなければなりません。そうし
た学生も含めて、私たちの役目は、
学生を「本気にさせる」ことだと
思っています。学生は本気になれ
ば、 一 生 懸 命 努 力 し ま す。 近 年、
学校現場で「キャリア教育」が行
われていますが、本当に必要なの
は 大 学 に お け る「 キ ャ リ ア 教 育 」
だと思います。一人の教員では多
様化している学生のニーズに対応
するのは難しく、大学の組織とし
て、また、教員間や後援会、卒業
生とも連携を取りながら、より一
層学生指導を充実させていく必要
があるでしょう。
~卒業生・同窓生への呼びかけ~
ここ十年位、特に教員養成系大
学では全国的に教育改革が進みま
した。従来から教育実習等はあっ
た の で す が、
「教育は人なり」と
いうように、どんな教員をどのよ
うに養成するかという視点で、教
員養成のカリキュラム全体が改善
さ れ て き ま し た。 今 の 教 育 学 部
は、おそらく以前のイメージとは
随分違うものになっていると思い
ます。大学側も情報発信しなけれ
ばいけないのですが、カリキュラ
ム改革をする時点では、愛媛大学
は他大学よりも少し遅れていると
言 わ れ て い た の で す が、 今 で は、
他大学にも負けない教員養成カリ
キュラムを構築できていると思い
ます。おそらく、以前では経験で
きなかったことを、今の大学生は
主体的に動けば様々な経験ができ
る環境にあります。これから教員
になる学生には、大学で経験した
ことを実際の学校現場で活用して
ほしいと思います。それを基に大
学と学校現場が、大学と卒業生が
上手くつながり、お互いが双方向
性の絆を強めたいものです。
私の周りでは、学校現場と大学
との垣根は随分下がってきている
印象です。ですので、遠慮なく大
学 を 活 用 し て ほ し い と 思 い ま す。
声をかけていただくと、私たちは
現場を知るチャンスでもあるの
で、喜んで参加させて頂きます。
最 後 に、 最 初 に 述 べ た「 体 力 」
のように「教育」もある言葉に置
き 換 え て 考 え る こ と が で き ま す。
例 え ば、 郷 土 の「 郷 」 を と つ て
「郷育」です。これは「故郷で育
む」という意味です。愛媛で育て
た学生が、愛媛の教育を支えてほ
しいものです。また、仲間と共に
高め合ったり、助け合いながら育
む意味で「共育」や「協育」とい
う 言 葉 も 考 え ら れ ま す。 さ ら に、
心に響かせて育てることから「響
育」という言葉もあります。今の
大学生に講義していて感じるの
は、最終的には大学生の心に響か
なければ何も入っていかないとい
う こ と で す。 心 に 響 か な け れ ば、
人には伝わらないし、人は変わっ
ていきません。教育は「教えて育
む」ものではなく「心に響かせて
育む」ものだと思っています。お
そらく、スポーツの名監督は、ス
ポーツのスキルよりも、心に響か
せる人間的な魅力を持った人だと
言えます。だから、その人を信頼
して、本気になり一生懸命努力す
るのでしょう。なかなかその域に
は達していないのですが、これか
らも学生の心に響く教育を意識し
て、よい体育教師を育てていきた
いです。
る、頑張れ」という思いに支えら
来を構想し夢を実現させてくれ
生徒たちのことを考え「学習が将
受験勉強
そんな状況下での学習はどちら
かと言うと成果主義的な学習
した。
中 心 で し た。 た だ し、
一生懸命つくりだそうとしていま
ました。
できる復興支援ではないかと考え
ランティア構想こそ、教育学部の
学生を中心とした”学習支援のボ
近い大学生の力を借りながら、“大
このような災害はあってはなら
ないことですが、子どもと距離の
ると感じました。
学生の力を大いに伸長させてくれ
人々、観光客の人たち、たくさん
宮城県では、子どもたちや先生
方、ボランティアの方々、宮城の
う熱い気持ちに溢れていました。
の「 子 ど も た ち の た め に。
」とい
れでしょう。その学校は、先生方
もたちにとって安心してものごと
でいました。これは、学校が子ど
に打ち込める場所であることの表
尚、教育学部からは別に、教員
一名が帯同し、全体として大きな
れたものでした。生徒たちも、い
愛媛県教委と連携した
教育学部は、平成十五年に愛媛
県教育委員会と独自に連携協力の
成果を上げた。
教育学部学生による大震災サポート
覚書を結び、多様に連携事業を展
教育学部学生九名を三班に分けて
本事業は、被災地宮城県坂元町
に、愛媛県教員十五名、愛媛大学
連携実施した。
大震災児童生徒サポート事業」を
休みも学校に来て、遅れている学
で学習できる環境にないため、夏
は机がなかったり本がなかったり
方々も同様でした。そして、家で
生徒たちだけではなく、教職員の
していました。このような状況は
しかし聞いてみると、家がなく
なり仮設住宅や親類の家から登校
び校外を走っていました。
て全校生徒が懸命にグラウンド及
みな元気でした。駅伝大会に向け
吉村 直道(教育学部准教授)
震災から五ヶ月経っていたから
でしょうか、出会った生徒たちは
◎参加者の感想
とってくれていたことです。この
と関わりコミュニケーションを
時間にこそ大学生たちは生徒たち
学習支援の時間だけでなく、休憩
て い ま し た。 特 に 印 象 的 な の は、
に相談を受けながら学習を支援し
入って、生徒たちの声を聞き、時
する現場教員と生徒たちの間に
あついメッセージをもって指導を
が、本学の教育学部生たちでした。
そんな学習だからこそ貴重な存
在であり大いに活躍してくれたの
見えました。
ろいろな思いを隠しながら、それ
は、ごくわずかだそうです。しか
勉強できる環境が整っている子
五カ月がたっても、家で安心して
の先生のお話によると、震災から
様々な状況の子がいました。現地
子、 仮 設 住 宅 か ら 通 っ て い る 子、
感じました。家族や家をなくした
その中で、子どもたちにとって
の学校という場の重要性を改めて
した。
支援、被災地の見学などを行いま
間の中で、現地の中学生への学習
機会を得ました。一週間の滞在期
動で被災地である宮城県を訪れる
縄田 志保(教育学部四回生)
私は、今年の夏、東日本大震災
児童生徒サポートチームという活
スタートにできたらと思います。
ではなく、自分自身これを新たな
を一度きりの活動で終わらせるの
ます。今回の中学校とのつながり
たいと感じたことがたくさんあり
の支援の重要性など、誰かに伝え
つながり、命の重み、学校や教師
た一週間の間で、
人々の支え合い、
ん。しかし、私にも現地で過ごし
を自分自身がうまく消化できてお
正直なところ、まだ現地での体験
伝 え ら れ る だ ろ う と 考 え ま し た。
災地外の愛媛の子どもたちに何が
て)
、 被 災 し た 子 ど も た ち に、 被
任 の 立 場 だ っ た ら( 一 教 師 と し
の人の笑顔と、前へと進もうと努
派遣し、子どもたちの夏の学習・
習を何とか取り戻そうと努力する
ような活動ができる本学の学生を
し、
私が出会った子どもたちは皆、
います。少しつらく悲しい学習に
らず、明確にその答えは出せませ
その姿を見て、もし自分が学級担
力 さ れ て い る 姿 が 見 ら れ ま し た。
生活支援を行おうというものであ
毎日でした。日常を、大人と子ど
頼もしく思うと同時に、このよう
を受け入れ学習していたように思
る。
も そ し て ボ ラ ン テ ィ ア の 方 々 と、
勉強や部活に一生懸命に取り組ん
ろ い ろ な 思 い を 知 り( 感 じ )、 い
|
な活動に積極的に取り組むことが
開しているが、本年八月「東日本
|
いろいろな人たちが関わりながら
サポート活動の様子
(5)
同 窓 会 報
同 窓 会 報
(6)
内閣府による地域雇用創造・イ
ンターンシップ事業が大船渡市大
船渡町の㈱東海新報社(鈴木英彦
社長)で八月二十二日から九月三
日まで実施された。この事業の第
四期生である愛媛大の越智優さん
(二十一)
、徳島大の河端愛さん
(二十)
、広島市立大の安田華子さ
ん(二十一)は、記者として研修
に臨み、新聞作成のノウハウや地
域紙の使命について学んだ。三人
が記事を書くにあたって掲げた共
通テーマは「震災のことを忘れな
いために伝える」
。震災の被害が
風化することを懸念し、人が生き
抜くためには被災地や被災者の事
実 を 伝 え て い く べ き だ と 考 え た。
三人は、今回被災した方に震災当
時のこと、気仙地域の将来等につ
いて取材を通し、それぞれの思い
を総括した。
震 災 忘 れ な い た め 伝 え る 被災地の企業に研修
新聞作成、地域紙の使命学ぶ
優
二年
愛媛大学
越智
地元を愛する熱いビジョンを持っ
た人がたくさんいる。地域主体の
見守る支援
校長の願い
に 減 少 し て き て い る。 こ
文化を継承しようと漁業・農業に
る。そして何より、地域の伝統と
防災・自然エネルギー都市とし
て、新しい地域構想がうまれてい
る人々。
がら大津波警報が解除されるのを
子を励まし、背中をさすり合いな
いている子や、教員にしがみつく
たちと共にグラウンドに避難。泣
時十三分には同校に戻り、子ども
猪 川 小 学 校( 児 童 三 百 十 八 人 )
の鈴木一司校長(五十五)は、大
の 震 災 は、 や が て 風 化 し、
復活を懸ける人もいる。震災に負
待った。
猪川小・鈴木校長
ひとごとのようになって
けず、乗り越えようとする気持ち
い く の で は な い か。 同 じ
が人々を支えている。気仙地域は、
現在は子どもたちに支援物資を
通して送り主の想いを考えるよう
まちづくりと産業の復興を目指し
日 本 人 と し て 悲 し い。 震
二 十、三 十 年 後、 日 本 の 地 域 構 想
に指導。支援していただいた人た
らに語ってくれる人もい
取 材 を 通 し、 さ ま ざ ま
な 人 に 出 会 え た。 涙 な が
地にやってきた。
る。 将 来、 地 元 で 教 師 に な っ て、
ない。これは、自分への使命であ
れ」と記者さんの言葉が忘れられ
「 地 元 に 戻 っ た ら、 こ こ で 感 じ
たありのままのことを伝えてく
ラーの設置など心のケアの必要性
り か ね な い。 ス ク ー ル カ ウ ン セ
は、子どもにとってトラウマにな
直接震災について学習すること
ことができると考える。現段階で
は震災のことを間接的に振り返る
て、千年先まで町の未来を構想す
災 を 忘 れ な い た め に、 被
のモデルになる。これまでとは違
た。生き延びた人も、誰かしら大
こ こ で 感 じ た こ と や 学 ん だ こ と、
を訴えた。
船渡警察署で会議中被災。午後三
災した方の想いや被災地
う、新しい町が形成されるだろう。
切な人を失っている。携帯の電話
何より人々の想いを後世に伝えた
前のことになってないか。これは、
今でも、毎日行方不明者が発見
される。人々の感覚の中で当たり
ないか。
ながり、町の未来について地元の
これからの社会を担う子どもた
ちに災害や命の大切さ、人とのつ
もたちには必要。支援は気持だけ
通常の学校生活を送ることが子ど
は 子 ど も た ち に と っ て よ く な い。
物 資 支 援 に は 感 謝 し て い る が、
「物がタダで貰える状態が続くの
今回の震災を受けて「命の大切
さ、助け合いのすばらしさを全国
ことのように考えてほしい。そう
一員として、自覚を持つことにつ
思いやりがあって、力強く人生を
尋常なことではない。慣れからか、
ながる。
歩んでいける人になってほしい」
に留め、
見守ってほしい」と語る。
ている。
被災地の状況、復興はひとごと
ではない。これからも東北のこと
することで地域の特色を再確認
津波は、人も町もすべて流して
しまった。町はゼロからのスター
だけでなく、伝えていくことが自
と願う。
る。地域文化や歴史は人々の心に
(注 東海新報より)
の人に伝えたい。
子どもたちには、
は生きつづけている。自らも被災
分のミッションである。
トとなるが、この町には希望があ
者でありながら、よりよい町へと、
し、よりよい地域社会を形成する
ちに感謝することで、子どもたち
帳には何人残っているだろう。心
い。
震 災 か ら 六 ヵ 月。 震 災
関 連 の 全 国 報 道 は、 徐 々
の事実を伝えたくてこの
愛媛県今治市出身
(21)
身ともに無傷な人はいないのでは
伝える責任、岩手から愛媛へ
命に関する感覚はマヒしてしまっ
震災への思いを取材する研修生ら=猪川小
(7)
同 窓 会 報
登場し、
新人アナウンサーらしい、
また、笑福亭鶴瓶司会の「らく
ごのご」に出演。マイクを忘れて
として自己紹介し、笑いを誘う。
の中で
「保内町初のアナウンサー」
ビュー。久米キャスターとの対話
テーション』の桜中継で全国にデ
愛 媛 朝 日 テ レ ビ に 入 社 直 後、
久 米 宏 の 報 道 番 組『 ニ ュ ー ス ス
自己紹介
イドブック等をご覧になると思い
皆さんは、旅に出るとき何を参
考にされますか。TV、写真、ガ
にしています。
カ所。今年は三百カ所達成を目標
さて、これまで私が訪れた世界
遺産は、四十八カ国、二百九十三
変驚きました。
き、時代の流れも感じました。
一番古い先生になっていると聞
いらっしゃった三浦先生が今では
しています。当時若手新人として
クル活動など多くのことを思い出
スに入って、友人や先生方、サー
ました。久しぶりにこのキャンパ
校高等学校の教員を目指しており
中学校教員養成課程で国語の中学
年ほど前までは、この教育学部の
レビ業界に就職しましたが、十数
の で す。 皆 の 前 で お 喋 り し た り、
してくださり、校内放送を始めた
の先生です。私を放送委員に任命
して下さったのは、その時の担任
た。しかし、私の明るさを引き出
て渋々解答するといった状態でし
ることが出来ず、先生に指名され
は、答えが分かっていても挙手す
と い え ば 静 か な 性 格 で、 授 業 中
で し た。 そ れ ま で は、 ど ち ら か
私がアナウンサーになりたいと
思ったきっかけは小学五年生の時
た。(笑)
で、その通りに育ててもらいまし
どうです、完璧でしょう!お陰様
知 恵 が あ り、 そ れ が 永 遠 で あ る 」
つ に 意 味 が あ る こ と。「 美 し く、
す。漢字の良いところは、一つ一
」「 代 is forever
」と
is wisdom
いうように、意味を説明するので
ん。そこで、「美
てもなかなか覚えてもらえませ
”と
に、“ My name is Michiyo.
自己紹介します。でも普通に言っ
いるという意思表示なのです。次
は、相手の文化を理解しよとして
の国の言葉で挨拶するということ
います。言葉は文化ですから、そ
ざっと十五カ国語の挨拶を覚えて
チ ャ オ、 ニ ー ハ オ …… な ど 私 は
私が入社した四月一日、その日
が愛媛朝日テレビの開局日で、記
学生活を充実させて行きました。
で、愛大放送研究会に入って、大
が賢い選択だと思いました。そこ
がら手堅く学校の先生も目指すの
ので、国語科で日本語を勉強しな
ナウンサーになるのは凄い倍率な
の先生の教科は国語です。更にア
る!と思いました。ちなみに、そ
先生のおっしゃることにも一理あ
に な れ る か な ど 分 か ら な い 私 は、
が、当時、
どうすればアナウンサー
勧 め る な ん て …… と 思 い ま し た
よって、私が最も嫌いな国語科を
とおっしゃったのです。よりにも
う。 国 語 科 の 道 に 進 み な さ い。
」
な日本語が喋れないとだめでしょ
ウンサーになるのだったら、綺麗
の 担 任 の 先 生 が、「 久 保 さ ん ア ナ
なぜ愛媛大学教育学部に入学し
たのかといいますと、高校三年生
た。
緑さんを何度も真似していまし
颯爽とニュースを読んでいる宮崎
見ながら、格好いい身だしなみで
に受け、家でNHKのニュースを
とおっしゃられのです。それを真
アナウンサー〉さんのようだね。
」
るでNHKの宮崎緑〈当時有名な
に向いているのではないかね。ま
中学時代、教頭先生にお会いす
る度に、「久保さんはアナウンサー
痛感いたしました。
きな影響をあたえるものだなあと
第一印象が大事。パット見が明る
で す。 ア ナ ウ ン サ ー と い う の は、
ます。
」と言いますと、
「何やって
トスーツを着ていこうと思ってい
わ れ ま し た。「 今 度 も、 リ ク ル ー
は何を着て行っているの?」と言
化粧、髪型、それに服装。お洋服
しょうか?」と。先輩は「先ずお
すればアナウンサーになれるので
に 相 談 し た の で す。
「どのように
していらっしゃる合田みゆきさん
先輩で南海放送のアナウンサーを
ありますからね。そんな時、私の
サー試験というのは独特なものが
な く し て い き ま し た。 ア ナ ウ ン
うまくいかず、少しずつ、自信を
ら始まります。最初は、なかなか
り、東京や大阪などの大きい局か
北海道から南は沖縄まで全国であ
就職試験は本当に厳しいもので
した。アナウンサー募集は、北は
採用されたのは、男性二人、女性
です。その内アナウンサーとして
査だけでも三千人以上あったそう
ところで、テレビの開局と言う
と競争倍率は非常に高く、書類審
り、とても喜ばれました。(笑)
保内町長にお目にかかる機会があ
な発言が出たのでしょう。のちに、
町初のアナウンサー」という大胆
分 か っ て い な か っ た の で、「 保 内
ところでしょうが、先輩がいない
いきなりの抜擢で本来は驚くべき
現地の人と仲良くなるためにま
ず実行しているのは、現地の言葉
ういういしい一面も見せる。
ま す。 で も、 旅 の 一 番 の 面 白 さ
動作をしたりすることが、だんだ
念すべき第一期生。そして、私の
﹁ 愛媛大学教育学部サポーター制度﹂より
その後、念願のニュースキャス
ターを目指し、清水の舞台から飛
は、それらのどこにも書いていな
ん楽しくなってきて、もう中学生
講師
旅する世界遺産研究家
久保美智代氏
(平七年卒)
又、キャンパスも、私が学生生
活していた時よりもすっかりきれ
三人でした。
ス テ ー シ ョ ン 』 の 桜 中 継 で し た。
全 国 中 継 デ ビ ユ ー が、『 ニ ュ ー ス
後ももっと話してみたいと思う気
くて印象がいい方でしたら、その
」
「智
is Beautiful
決めていました。多感な時代に役
るの!」と言われ、ピント来たの
割を与えられることは、人生に大
になってくるのです。
です。それが行った人自身の宝物
いになり、設備が充実していて大
局でしたし、新人で事の重大さを
び 降 り た 気 持 ち で、 東 京 へ。 フ
いこと―そこに住んでいる人たち
の頃にはアナウンサーになろうと
皆さん、私の十年前はこのよう
な様子でした。あこがれだったテ
で 挨 拶 す る こ と。 ボ ン ジ ュ ー ル、
リ ー ア ナ ウ ン サ ー と し て 活 躍 し、
とどれだけコミュニケーションを
﹂
フジテレビの報道番組『スーパー
取れるか―と言う自分だけの経験
﹁魅力的な世界遺産を学ぶ旅講座
ニュース』にも出演を果たす。
(一)
同 窓 会 報
(8)
のですが)オレンジ色のスーツを
し、お洋服は(これがポイントな
たパーマをおとしてストレートに
いて、凄い雰囲気でした。
を履いたモデルさんのような方も
ルカラー等、中にはミニスカート
でしたね。ピンク、黄色、パステ
ツを着ている人は一人もいません
試験会場に行くとリクルートスー
サ ー の 場 合 は そ れ が 強 い の で す。
うだと思いますが、特にアナウン
という存在―他の面接試験でもそ
希望者の中から又後で思い返せる
持ちになりませんか。たくさんの
フリーになった時でした。
媛朝日テレビを退社して、東京で
たのは、実は、就職試験よりも愛
自分の思いをいかにうまく伝え
るか。その大事さを痛感させられ
すがね。
」
(笑)
娘と言われる程の歳ではないので
れ る よ う に な り ま し た。
「 今 や、
度、
「 お い、 ミ カ ン 娘!」 と 呼 ば
入社後、カメラの向こうで審査
されていた偉い人とお会いする
うちからですよ。
たら合格したのですよ。三千人の
の服を!」と訴えました。そうし
りたいです。見てください。今日
ミカンのようなアナウンサーにな
ばしたくなる親しみやすさ、私は
オブジェのような岩が立ち並んで
る風景がどこまでも続き、そこに
アメリカ大地は行けども行けど
も地平線。右も左も赤土の荒涼た
した。
辺りまで十二日間かけて縦断しま
を借りてカナダとアメリカの国境
す。テキサス州からレンターカー
と 考 え、 行 っ た の が ア メ リ カ で
が出来るので、それを利用したら
も、自分サイドである程度の調整
はスケジュールが入ったとして
れた生活をしていたのですが、今
以前はスケジュールに追いかけら
こ で 思 い つ い た の が「 旅 」 で す。
悶々とした生活が続きました。そ
はじめは意気揚々と出て行った
のですが、思い通りにいかなくて、
跡の中を華やかだった奈良時代を
平城宮跡のすぐ近くに家を借り
まして、だだっ広いのっぱらの遺
引っ越したのが奈良の都です。
思 う よ う に な り ま し た。 そ し て、
産のあるところに住んでみたいと
なくなってしまい、今度は世界遺
それだけではありません。世界
遺産を観光するだけでは飽き足ら
す。
二百九十三カ所も行っているので
う に な り、 今 振 り 返 っ て み る と
を作っては一ヵ所ずつ訪れるよ
いがありました。それ以降、時間
これは凄いものを見つけたとの思
味を引かれるものがあり、いやー
ンミッシェルなど色々と面白く興
マチュピチュ、フランスのモンサ
います。世界遺産のおかげで、興
て、現在は、日本百名城も回って
いました。これをきっかけに日本
ことがこんなにも幸せなのかと思
庭、いやー毎日世界遺産に接する
るのですよ。まさに天守閣は私の
からの眺めはモノクロの景色にな
降ったと言えば直ちにカメラを
い降らない地域なのですが、雪が
だったのは雪の日です。滅多にな
の雲の上に聳えたつ姫路城、最高
雲に煙る姫路城、そして、春は桜
き出る姫路城、雨模様でぼーっと
ました。真っ青な空にくっきり浮
建てマンシヨンの八階に引っ越し
前に姫路城の天守閣が見える九階
テ ス ト の 際、
「私は生まれも育ち
を買ったのです。そして、カメラ
い、オレンジ=ミカン色のスーツ
出 身 を 強 調 し な け れ ば!」 と 思
テレビは愛媛県にあるので、地元
ければならない。特に、愛媛朝日
ある。そこをもっとアピールしな
で、すくすくと成長してきて今が
かな瀬戸内海に囲まれた小さな町
内町というミカンの段々畑と穏や
め ま し た。 そ の 結 果、
「愛媛県保
するときに、初めて自分を突き詰
きるものは何かなと、就職活動を
たら自分にとって一番アピールで
い人はいないはずですから。だっ
どいくら言ってもダメ。頑張らな
いかなければ、この世界では生き
かない武器は何か、それを培って
かり。就職試験以上に、自分にし
就職試験よりももっと厳しいの
ですよ。周りは実力のあるプロば
ければ出来ないのです。
事もオーディションで勝ち取らな
司会、コマーシャルなどどんな仕
持 っ て く る だ け。 ナ レ ー シ ョ ン、
ですが、オーディションの仕事を
は、マネージャーがついているの
仕事が決まらないのです。ここで
すことにしました。しかし、全然
レント事務所に所属して仕事を探
て、フリーとして東京に行き、タ
も、もっと広い世界を見てみたく
り、本当に忙しい毎日でした。で
のリポーターなど次々と仕事が入
ピラミッドはもちろん、ペルーの
行って調べてみると、エジプトの
されていなかったので、図書館に
だろう。その時はまだ詳しく報道
ました。いったい世界遺産とは何
て、それが世界遺産であると知り
ンドキャニオンが放映されてい
つ け て み た 時、 ア メ リ カ の グ ラ
本に帰ってきて、たまたまTVを
東京であがいているのだろう。日
本という国のさらにもっと小さな
があるのに、何でこんな小さな日
だろう。もっともっと大きな世界
大きな世界に気がつかなかったの
なあと思いましたよ。何でこんな
ありましたよ。アメリカは広大だ
セルを踏む―そりゃあー開放感が
そこでサングラスをかけて、ラ
ジオのボリュームを上げて、アク
そこで、ガラッと窓を開くと目の
に 住 ん で み た い と 思 い ま せ ん か。
たら、毎日世界遺産が見られる所
そして、つい昨年まで住んでい
たのが姫路です。折角住むのでし
一つでした。
奈良公園を散歩するのも楽しみの
りまして、鹿を見ながらのんびり
きますと、東大寺や春日大社があ
け抜けるんです。二十分くらい行
想像しながら真っ赤な自転車で駆
欲しいということ。時々、小中高
私の願いは、若い世代の皆さん
にもっともっと世界に目を向けて
上行っています。
がくるようになり、年間三十回以
しました。それからどんどん依頼
われ、初めて学生さんを前に講演
で話してみてくれないかい」と言
明海大学の名誉教授に「久保さん
好きで旅をしていたら、
ある時、
仕事でお世話になった埼玉にある
いたわけではありません。
までの講演回数は二百回を超えま
にも思っていませんでした。これ
そして今、愛媛大学に帰って皆
さんにこの様なお話をするとは夢
白いところです。
味がどんどん広がっていくもの面
の城郭建築にも興味が生まれてき
持って駆けつけると、三の丸広場
買いました。
テ レ ビ 局 勤 務 の 時 は、 天 気 予
報、ニュース、バンジージャンプ
も愛媛県です。故郷で一番有名な
ていけないのです。
私の場合、清楚で元気なイメー
ジにしたいと考え、当時かけてい
さ あ、 次 は 自 己 P R。
「この会
社 が 好 き で す。 頑 張 り ま す。
」な
います。
のはミカン。私はミカンが大好き
の趣味は面白いね。今度、大学祭
したが、最初から狙って旅をして
です。ミカンと言うとつい手をの
(9)
同 窓 会 報
今は自分の好きな世界遺産を旅し
ナ ウ ン サ ー と い う 職 業 に つ い て、
時代に教育学部で勉強をして、ア
今改めて振り返ってみると、大学
そ れ か ら も う 六 年 続 い て い ま す。
ら え な い か と 売 り 込 ん だ の で す。
事務所で事業として取り入れても
ユネスコアジア文化センター奈良
文を書いてもらい、それを持って
させてもらって、生徒さんに感想
した。世界史の時間に模擬授業を
業をさせてくださいとお願いしま
を運んで、ボランティアとして授
てもらおうと、最寄りの高校に足
た。まずは、実績を作って信用し
むのは難しく、時間がかかりまし
います。でも、教育機関に入り込
へ出向いて世界遺産の授業をして
興味がある方は挙手してくださ
さて、ここからは世界遺産につ
いての話になります。世界遺産に
すね。
こへ行くのかなと楽しみになりま
でしょう。私の人生これからもど
ますし、人生を豊かにしてくれる
の後の皆さんの武器になると思い
なくても、続けていくことが、そ
い。たとえそれが他人に理解され
ですし、趣味でもスポーツでもい
んすることです。今の勉強もそう
た。何でも突き抜けるまでとこと
ん世の中の評価が変わってきまし
です。そうこうするうち、だんだ
いろんなことを知りたかったの
た か っ た。 い ろ ん な も の を 見 て、
金を全部遣ってでも世界遺産を見
れていたのです。それでも私はお
た。旅行は単なる道楽―そう思わ
い。
」と嫌と言うほど言われまし
う点について、詳しくお話してい
か、何を学び取れるのか、そう言
では、私が人生をかけて語る世
界遺産のどこが面白く魅力的なの
の世界遺産です。
い場所、見たい場所がその人の旬
けますが、その時、自分が行きた
いですか?」という質問もよく受
も の な の で す。「 い つ 行 く の が 良
と同じ旅人の目線でもって撮った
出かけます。私の写真は、皆さん
のままに決め、自ら計画を立てて
見たいものはすべて自分の好奇心
ますが……。ですから、行き先や
りあわなかったという現実もあり
今までそういう美味しい仕事に巡
な の で す が、 全 部 自 費 な の で す。
ので、仕事で行ったと思われがち
実際、アナウンサーという職業な
と。子供たちは現実的ですね(笑)。
うしているのですか?」というこ
ず 出 る 質 問 の 一 つ は、「 お 金 は ど
ころで、この半島の付け根を分厚
来ました。中世の町並みを残すと
にょきと張り出した半島に町が出
と 美 し い ん で す。 そ こ に に ょ き
あ り ま せ ん よ( 笑 )。 実 物 は も っ
い青、私が色を塗っているんじゃ
こ の 海 の 色 を 見 て く だ さ い。
真っ青でしょう。輝くばかりの深
た。
た。そこを踏まえて現代の歴史を
まま廃墟のようになっていまし
ロープウェイの駅は、破壊された
戦争の記憶もそこだけを見ると
無くなっていますが、山頂にある
す。
の佇まいそっくりに修復したので
ら、バラバラになった破片を海か
人の誇りはこの美しい町でしたか
が全半壊したのです。でも、町の
弾が打ち込まれ、七割近くの建物
した。なんとこの地に二千発の爆
いました。しかし、現実は違いま
い町に爆弾をおとすまいと思って
で、住民たちはまさかこんな美し
海の真珠」として知られていたの
に な っ て い ま し た し、「 ア ド リ ア
いう町は、一九七九年に世界遺産
た。ただ、このドゥブロヴニクと
の国の各地で戦争が起こりまし
ている
画のよう。その美しさから「アド
色の屋根で統一された町並みが絵
ない物語が隠されているのです。
歴史を生き抜いてきた、目に見え
つ ま り、 世 界 遺 産 と い う の は、
見た目の美しさだけでなく、長い
重ね合わせて見たとき、この「ア
ら拾い集めてそして美しかった元
と全然、繋がりがないような気が
い。では、日本には何カ所あると
た。スライドショーにして見ても
リア海の真珠」と呼ばれていま
これを自分自身で発見したと
き、感動は何倍にも増します。
ドリア海の真珠」がより一層輝い
。その一つ一つを見る
しますが、こうして教壇に立つ経
―
験は教育実習で学びましたし、人
い壁で区切ってしまったら天然の
らいたいと思います。
す。この高台からこの町を見ると
さ て、 こ こ で 質 問 で す。 今 日
現 在 で、 世 界 遺 産 は 何 カ 所 あ る
て見えました。
も あ り ま せ ん が ……。 そ こ で 今、
動しているのは、町の美しさだけ
の で し ょ う。 ① 四 百 九 十、 ②
要塞です。昔は海が玄関で、自由
四国八十八カ所を世界遺産にしよ
〈スライドショー上映〉
ではないのです。完璧に中世の面
六百九十、③八百九十どれでしょ
貿易で栄えました。真っ青なアド
うと頑張っている人たちが大勢い
いかがでしたか?
世 界 遺 産 に は、 建 物、 島、 山、
モニュメント、自然などいろいろ
影を残す町に見えるのですが、ク
う。
きます。
ます。
な分野がありますが、この写真は、
ロアチアという国は、一九九一年
思いますか。そうです、二〇一〇
験してきた総てのことが積み重
私が今までに行った世界遺
産 は、 日 本 の 十 四 カ 所 を 含 め
私が行った中で、一番印象に残る
にユーゴスラビアから独立を宣言
正解は……八百九十です。数だ
けからみると、大変多いと思われ
を引き付ける話し方はアナウン
なって、今があるのだなあと強く
二百九十三カ所、すべての場所で
しました。しかし、それに反対し
ますが、国連に加盟している国や
まずは私の撮った写真の中から
特に好きな五十ヵ所を選びまし
感じます。
写真とビデオを撮り続けていま
街の世界遺産です。
た連邦政府軍がクロアチアを攻撃
年七月現在、日本には十四カ所あ
見、無駄に見えることも巡り巡っ
す。毎回ノートを作って旅の記憶
クロアチアのドゥブロヴニクで
す。ここはイタリアの東側でアド
して内戦状態になったのです。こ
ります。残念ながら四国には一つ
て将来の役に立つかもしれないの
を克明に記入しています。これに
リ ア 海 を 挟 ん だ 対 岸 に あ り ま す。
サーの技術、話している内容は大
です。それが、人生の凄く面白い
よって、旅を思い出し、何度も何
以前はユーゴスラビアの一部でし
好きな世界遺産です。これまで経
ところ。無駄がない人間の方がつ
度も楽しむことができます。学校
リア海を背景に、白壁とオレンジ
まらないですね。
へ出向いたとき、子供たちから必
美しくて美しくてでも、私が感
私の世界遺産の旅もそうでし
た。母からは「そんなに旅行ばか
常 に 言 え る の は、
「人生には無
駄がない」ということですね。一
りしないで結婚資金でも貯めなさ
同 窓 会 報
(10)
続いて、世界遺産の基礎知識で
す。その種類は三つに区分されて
すが、
行く価値は十分にあります。
れます。飛行機代が一番高い時で
ちょうど日本のお盆の時期に開か
す。ですから、
たった三日間だけ、
を採って丁寧に並べて作るので
はい、正解です。お花です。し
かも、すべて生花、花の部分だけ
ればならないということで、複合
方を調和しながら守っていかなけ
とが素晴らしいと強調し、その両
しかし、世界遺産条約では、自
然の中に人の営み、文化があるこ
なかったのです。
中で考えていくという発想になら
がります。だから、同じ枠組みの
る意味、自然を壊すことにもつな
い。文化を発展させることは、あ
れは神殿でもあり、マヤのカレン
と三百六十五。そうなんです、こ
4
= 。そして一番上に共通して
一段ありますから、それを加える
それが四面にありますから、
最上段で儀式をするのです。しか
が あ る、 つ ま り、 登 っ て い っ て、
すが、マヤのピラミットには階段
で登るものではないということで
トのピラミッドには階段が無いの
×
も、
一面にある段の数は九十一段。
います。
遺産があるわけです。
華麗で重厚なこと
りを取り囲んでいる建物がなんと
豪華な広場」と言われていて、周
る グ ラ ン プ ラ ス で す。
「 世 界 一、
この写真を見てください。これ
また、
私が一押しの世界遺産です。
ということだと思っています。
いほどの貴重な文化や自然がある
と世界にはとても数では区切れな
らしいものばかり。それを考える
ています。どれも日本が誇る素晴
遺産に登録したいと名乗りを上げ
泉、小笠原諸島などまだまだ世界
長崎の教会群、富岡製糸工場、平
日本は今、十四カ所の世界遺産
が あ り ま す が、 四 国 八 十 八 カ 所、
で千九百カ所になります。
所ずつあったとしたら、それだけ
す。もし、各国に世界遺産が十ヵ
約の締約国の数はそれに匹敵しま
地域は約百九十あり、世界遺産条
て、自然だけを完璧に護ろうとし
律 で 保 護 さ れ て い ま し た。 だ っ
は、文化と自然は別々の条約や法
ころ。世界遺産条約ができるまで
は、これが世界遺産の画期的なと
るもので複合遺産があります。実
そして、もう一つ、文化遺産と
自然遺産の両方の価値をもってい
している保護区などもそうです。
のトカゲ、コモドドラゴンが生息
モトさんも行っていた、世界最大
す。タレントの珍獣ハンター、イ
珊瑚礁です。それから、生態系で
本の国土と同じ位の面積をもった
アのグレートバリアリーフは、日
また、美しい景色のオーストラリ
が 出 来 る 過 程 を 実 証 し て い ま す。
浸食した深い峡谷で、まさに地球
ロラド川がえぐり取るようにして
のグランドキャニオン。大地をコ
それに対して、自然遺産。地球
の歴史を示す自然と言えば、米国
物としての姫路城等々。
ンドのタージマハール、優れた建
一つは、文化遺産。例えば、人
類が創り出した傑作と言えば、イ
くて急な階段があります。エジプ
そう、階段があることなんです。
四角錐の四面すべての真ん中に長
しょうか。
ところがあります。それはどこで
ください。見た目で決定的に違う
ジプトのピラミッドと比べてみて
イッツァ」のピラミッドです。エ
メキシコのマヤ文明「チチェン・
エジプトのピラミッドは誰でも
知っていると思いますが、これは、
しょう。
これからは、ちょっと変わった
世界遺産を次々と紹介していきま
で、総延長は三百キロメートルに
年間も掘り続けられました。それ
すが、ここは十三世紀から約七百
ぜい五百年くらいが寿命だそうで
いるのが塩。通常の岩塩坑はせい
います。岩壁から白く噴き出して
ある「ヴィエリチカ岩塩坑」と言
られているんです。ポーランドに
実はこれ、地下百㍍の世界につく
教 会 か な と 思 う か も し れ ま せ ん。
ら下がり、綺麗なダンスホールか、
次の写真をご覧ください。正面
に祭壇があってシャンデリアがぶ
の文化です。
を祈ったのでしょう。これがマヤ
のジャングルですから、雨の到来
ヤ 語 で「 雨 の 神 様 」、 周 り は 密 林
ました。チャンクモールとは、マ
た人間の心臓を置いて儀式を行い
ですが、お腹の平らな部分に生き
ンジャーです。顔は可愛らしいの
モールという石像。神へのメッセ
きます。中にいるのは、チャック
ピラミットの中にも入ることがで
こうやつて農耕に携わる日を
知ったのですね。ちなみに、この
てください。真ん中は四角で周り
す。それぞれの建物の形に注目し
茶畑や段々畑が続く山村にありま
す が、 周 り は 全 く 山 に 囲 ま れ て、
えばサントリーの烏龍茶が有名で
「福建の土楼」です。福建省と言
続いて、これは何でしょう。昨
年撮った写真です。これは中国の
います。
世界遺産を「産業遺産」と呼んで
う。こうして、人の営みに関する
ここで結婚式を挙げる人もいるそ
下がる豪華なシャンデリアは塩の
ています。そして、天井からぶら
ちが彫った「最後の晩餐」も残っ
を見てください。名も無き坑夫た
れたのがこの礼拝堂なのです。壁
すから、祈りを捧げるための作ら
そして、ここでの作業は命がけで
あったり、
療養所も作られました。
ら、博物館があったり、体育館が
にこもって掘り続けた訳ですか
あります。人も馬もずーっと地下
ダーでもあるのです。
このグランプラスが最も華やか
に輝くときが二年に一回あるので
たら、早い話、そこに住んでいる
結晶でできているんです。最近は
す。広場に一面に敷き詰められた
人をすべて追い出してしまえばい
ベルギーの首都ブリュッセルにあ
絨毯、これは何でできていると思
91
いますか?
364
(11)
同 窓 会 報
ここで暮らしているのです。これ
本当ですよ。つまり、同じ一族が
名字が同じ(驚きの声)なのです。
なんとここに住んでいる人は全部
つが部屋になっています。
そして、
中はどうなっているかと言え
ば、たとえば、このように一つ一
あります。
トハウスに報告したという逸話も
の発射基地だと誤認して、ホワイ
米国の偵察衛星がまるでミサイル
わ っ た 形 な の で、 一 九 六 〇 年 代、
ると言われています。あまりに変
建省には大小の土楼が約二万基あ
所で七百人が住んでいました。福
む集合住宅なのです。一番大きな
すか。そう家です。大勢の人が住
すが、何をする場所だと思われま
らは土を押し固めて作ったもので
の花」とも呼ばれています。これ
スタジアムのよう。
この形から
「梅
は円形。これは楕円形をしていて
風 景 を 文 化 的 景 観 と い い ま し て、
と人間の営みが一つになっている
が広がっています。こういう自然
こう側にうっすらとアルプス山脈
地区の葡萄畑」と言って、湖の向
部 ブ ド ウ 畑 な の で す。
「ラヴォー
像するかも知れませんが、これ全
こういう場所も世界遺産ですね
え。スイスと言えば山ばかりと想
分かってきますよ。
も泊まりました。土楼での生活が
部屋は民宿になっていまして、私
考えられます。因みに空いている
めるために世界遺産になったとも
少しているのです。それを食い止
に住んでいる人の数はどんどん減
の人口流入等がありまして、ここ
子政策、そして、農村から都市へ
す。しかし、今の中国では一人っ
んどん大きな土楼を作ったので
山子供が生まれ、出世すると、ど
まれるとの考え方でしたので、沢
昔は「多子多福」と言って、沢
山子供が生まれるほど、幸せが生
ます。
るぐらいの小さな窓が作られてい
せん。三階以上には見張りが出来
すが、一階、二階には窓がありま
写真と比較すれば分かると思いま
うな家を築きました。だからこの
家族みんなを守るために、砦のよ
わ れ る か も し れ ま せ ん。 そ こ で、
いるかも知れません。山賊にも襲
です。しかし、山の中なので獣が
ここに家を建てるまでになったの
追いやられて、ついには福建省の
に襲われて、どんどん南へ南へと
綺麗なところばかり紹介しまし
たが、これも世界遺産の一つです。
ナミック
展開していくのです。なんとダイ
り、アルプス山脈が直ぐ目の前に
ているようなパノラマ風景が広が
のように車窓からは3D映画を見
するような鉄道を造りました。こ
た鉄を使わず、あえて手間のかか
をたくさん作り、当時流行してい
ように、山の起伏に沿ってカーブ
を目指して、自然景観を壊さない
のはイタリア。海のあるイタリア
した。この向こうに広がっている
の山を越えることが大きな試練で
れが障害になっていますので、こ
いえばアルプス山脈が連なり、そ
これも世界遺産、スイスの「レー
ティッシュ鉄道」です。スイスと
た。
い。次の世界遺産かなと思いまし
市のミカン畑も捨てたものではな
と思うと同時に、私の故郷八幡浜
ら い だ そ う で す が ……。 そ し て、
も今や携帯電話の性能に負けるぐ
に発展し、すべての機械を集めて
いたのです。でも通信技術は急速
これを使ってメッセージを送って
使 し て、 巨 大 な 発 電 機 を 発 明 し、
れたのです。当時の最新技術を駆
ステムが欲しいということで作ら
ジを送りたい。そのための通信シ
いった仲間に何とか早くメッセー
こ と に な り ま す。 だ か ら、 そ う
を含め、近しい誰かが行っている
した。四人に一人と言えば、親戚
四人に一人が北米に移住していま
年 代 初 頭 は 非 常 に 貧 し い 時 代 で、
スェーデンという国は、一九〇〇
と お 思 い に な る か も し れ ま せ ん。
たら世界各地にあるようなものだ
のでしょう。このような鉄塔でし
の知れないものが世界遺産になる
なのです。なんでこのような得体
ンの
「ヴァールベリの無線通信所」
立っています。これはスウェーデ
(笑)
。ここに六基の巨大な鉄塔が
れ。牛が世界遺産ではないですよ
ピカルな花が咲き、雨が多く、湿
す。沖縄のように赤や黄色のトロ
るので、麓は密林のジャングルで
です。ボルネオ島は赤道直下にあ
とがないのにこの山に挑戦したの
ですが、その富士山にも登ったこ
ります。当然、富士山より高いの
アで一番高い「キナバル山」があ
オ島に、標高四〇九五㍍東南アジ
しています。マレーシアのボルネ
次 は、 自 然 遺 産 の 例 を 挙 げ ま
しょう。私は、常に体を張って旅
遺産にしたのです。
つまり、人々の熱意がここを世界
実 際 に 動 か し て 見 せ て く れ ま す。
こ れ ら の シ ス テ ム は 今 も 現 役 で、
を し な が ら、 守 っ て い る の で す。
を組んで、私たち観光客にガイド
ここで働いていた人たちがチーム
いたのです。それでもって、以前
所を保存して欲しいと言う声が届
勢の人たちから、何とかこの通信
とは、最後の放送を聞いていた大
ます。ここで一番私が感動したこ
一九九五年この通信所は閉鎖され
広い牧場に草を食む牛の群
気でムシムシしています。これは
を作ったのは漢民族です。黄河流
本当に伸びやかな綺麗な景観だな
る石の橋を造って、景観にマッチ
域に住んでいましたが、北方民族
同 窓 会 報
(12)
ロープを伝って登ります。この辺
の ま ま 残 っ て い ま す。 こ こ か ら
れは氷河期に氷河が削った痕がそ
岩肌に注目してみてください。こ
え隠れするくらい。
眼下には雲海。
岩の割れ目から赤い高山植物が見
標高四千㍍付近を見てくださ
い、 草 や 木 は 全 然 あ り ま せ ん ね。
成長します。
そ
す。この植物はその養分を吸って
り、じわじわ分解されていくので
が足を滑らせて陥った途端に浸か
濃 い 酸 性 の 液 が 入 っ て い て、 虫
食虫植物のウツボカズラ。中には
ら守っていけばいいなあと思いま
す。日本もそのような事をしなが
帰るように決められているそうで
は下りるときにゴミを一つ持って
保護することもできます。ガイド
し、登山者の安全を守り、自然を
地元の人たちの雇用にもなります
ガ イ ド を つ け な け れ ば な ら な い。
し、ここに登るには、必ず地元の
日百二十名と限定されています
すけれど、キナバル山の場合は一
然遺産になっていないのです。で
ません。以上のような理由から自
形自体が珍しいという訳でもあり
な ら ず 世 界 各 地 に あ り ま す か ら、
デ型と言いますが、日本各地のみ
かります。
谷。ものすごい場所にあるのが分
に囲まれ、U字型に深く削られた
いのですが、三百六十度をこの山
写真なので一方向だけしか撮れな
き の 都 市 は ほ ん の こ こ だ け で す。
り囲む厳ついアンデス山脈。さっ
んな風になっています。周りを取
か登れません。山頂から撮るとこ
岩登り。ここは一日限定四百人し
と思ったのです。殆ど垂直に近い
に登ったら全体が見渡せるのでは
山の頂上にも登ったのです。ここ
体を張っていますので、向かいの
をよく見る定番の写真です。私は
らスペインに続く、キリスト教の
詣 道 」。 も う 一 つ は、 フ ラ ン ス か
にまたがる「紀伊山地の霊場と参
その一つは、奈良、和歌山、三重
で「 道 」 の 遺 産 は 二 例 あ り ま す。
れているのですが、世界遺産の中
最後に、四国でも、八十八カ所
を世界遺産にしようと努力がなさ
今でも鳥肌が立ちます。
あ の 神 秘 的 な 瞬 間 を 思 い 出 す と、
空 の 城 ラ ピ ュ タ 」 の よ う で し た。
れたのです。まるで、アニメ「天
き、あの定番の景色が目の前に現
が天に導かれるように上がってい
た。そして、最後に残った雲の塊 ているんだろうと思いました。で
にきつくて、何でこんなことをし
いで岩陰に隠れました。想像以上
い。突然、雨まで降ってきて、急
です。それに、ふきっさらしの山
の繰り返しでなかなか進まないん
んで「ハァハァ」息をする
りません。ですから、謎の空中都
こんな所に都市があるなんて分か
から見上げても見上げても、全く
あるインカ帝国の都市。ここは下
「マチュピチュ」です。ペルーに
世界遺産はと聞かれます。
それは、
これは、私が一番好きな世界遺
産です。よく、貴方の一番好きな
す。
未だに謎のままです。それともう
材を運んだのか、文字もないので、
ンカ人がどうやってあれだけの石
れる道で、車輪をもたなかったイ
です。でも、人ひとりがやっと通
山を横切るこの細い線がインカ道
す。 イ ン カ 時 代 の 道 は と い う と、
バスで上がることが出来る道路で
一九〇〇年代にできた、私たちが
と 思 っ て い ま し た が、
「道」は現
うと、昔の人が作った歴史ばかり
によく似ています。世界遺産とい
到達します。まさに、八十八カ所
後スペイン北西部にある大聖堂に
ら、ひたすら灼熱の道を歩いて最
て、教会や大聖堂に立ち寄りなが
クパックの人たちが一ヶ月かけ
ロメートルあり、このようなバッ
テーラの巡礼路」です。約九百キ
が登るため登山道以外も踏み荒ら
隊の演習場があり、年間大勢の人
知られていますが、裾野には自衛
ん。ゴミが多いということはよく
山。でも、自然遺産ではありませ
日 本 の シ ン ボ ル と 言 え ば、 富 士
お札にも描かれているこの山
は マ レ ー シ ア の シ ン ボ ル で す が、
ございます。
た わ け で す。
(拍手)ありがとう
にマチュピチュに立ちこめていた
陽光が現れたのです。それと同時
脈を越えて霧の中からぼーっと太
と耐えて待っているとアンデス山
何も見えません。寒い中、ジーっ
くと、朝霧が深く立ち込め、全く
ました。朝六時ぐらいに高台に行
したのですが、思い切って泊まり
ても朝日を見たくて、一泊五万円
に高級ホテルがあります。どうし
一つ。マチュピチュの入口、ここ
話します。
講義の後半は、世界遺産条約が
できたきっかけや意義についてお
です。
中。いつかここを歩くのが夢なの
になりたいと、スペイン語を勉強
作り続けています。私もその一人
在進行形で、今もここを歩く人が
道「サンティアゴ・デ・コンポス
も、ここから見た黄金色に輝く朝
市とも呼ばれています。この写真
―
りは酸素が希薄ですから、三歩進
ここに谷底から遺跡に通じ
る 九 十 九 折 の 道 が あ り ま す ね。
日は美しくて……登った人の中で
され、生態系が残ってないそうで
朝霧がスーッと消えていきまし
頂ですから、日本の真冬並みに寒
は一番最後に四〇九五㍍に登頂し
す。均衡のとれたあの形はコニー
一九八八年 大阪府生まれ
二〇〇八年 大阪府立港南造形高等学校
卒業
第三十七回日彫展初入選
二〇一〇年 第四十回日彫展新人賞受賞
二〇一一年 愛媛大学教育学部芸術文化
課程 造形芸術コース卒業
兵庫教育大学大学院文化表
現系コース(美術)入学
第四十一回日彫展無鑑査出
品・会友推挙
第四十三回日展第三科初入
選(本作品: contrast
)
略 歴
彫刻を始めた頃の目標は気付
きや想いをモデルのポーズに託し
て実直に表すことでした。愛媛大
学に入学後は、学びたい事柄が三
つに焦点化されました。それは塊
として捉えること、全体でみるこ
と、意図した形を模索し表すこと
です。考えが定まってからはモデ
ルから感じたものを大胆にデフォ
ルメすることにも興味を持ち、制
作に取り組むようになりました。
卒業後の現在は彫刻とは何か考
えながらデフォルメと実直な表
現、二つの異なる内容のぶつかり
合いから生まれる何かを塊の組み
立てを通して探っていきたいと考
えています。
〉はその
今 回 の 作 品〈 contrast
試みの一つです。今後も作品制作
を通してより深みのある研究が出
来ればと思います。これからも考
えは淘汰洗練されていくと思いま
す。
(平二二卒)
石井 沙知
作者
表紙作品について
子どもたちの歌声
久万高原町
美川小教諭
峯本亜希子
(平一〇卒)
美川小の子どもたちは歌を歌う
のが大好きです。ある音楽の時間
してくれていました。
どもたちは音楽の授業を楽しみに
いっぱいのスタートでしたが、子
本格的に音楽について勉強した
ことはなかった私にとって、不安
な歌声でした。
驚いたのは、子どもたちのきれい
にも出てくる大川嶺の頂上で、美
川嶺』へ遠足に行きました。校歌
ていました。今年は、校区の『大
込んで、合唱の練習をしたりもし
で、バスに鍵盤ハーモニカを持ち
楽発表会の練習の真っ最中なの
秋の遠足の頃は、ちょうど郡の音
ち も 一 緒 に な っ て 歌 い 始 め ま す。
い始めると、他の学年の子どもた
で音楽会で歌ってきた曲などを歌
学年の女の子たちを中心に、今ま
も、自然と歌声が広がります。高
きにも、バスに乗っているときに
きれいな歌声を聞いて真似しよう
えてあげたり、低学年も高学年の
とで、六年生が低学年に優しく教
一年生から六年生が一緒に歌うこ
毎年試行錯誤しています。しかし、
いのか、どう指導すればいいのか、
私にとって、どのように歌えばい
に音楽について学んだことのない
生までが一緒に歌うため、本格的
をしてきました。一年生から六年
十月半ばからは、毎朝全校で練習
年も、
九月から各学級で歌い始め、
音楽発表会に参加しています。今
す。そして、子どもたちの明るい
ていける教師になりたいと思いま
楽)の楽しさを子どもたちに伝え
元気をもらうだけでなく、歌(音
だ力不足ですが、子どもたちから
元気の源かもしれません。まだま
私にとって、子どもたちの歌声は
飛 び、 自 然 と 元 気 が 出 て き ま す。
いていると、溜まった疲れも吹っ
し、子どもたちの明るい歌声を聞
タ の 毎 日 を 送 っ て い ま す。 し か
に追われ、校務に追われ、バタバ
四年目になりました。正直、行事
もんでお茶を作っています。おう
年、茶つみをし、自分たちで手で
毎 年 参 加 し て い る こ と も あ っ て、
ての体験でしたが、美川中学校が
た。子どもたちも私自身も、初め
K合唱コンクールに参加しまし
久
万高原町菅生
二―七六四―一)
(〠
歌声が響き渡る学校にしていきた
ちのお手伝いでも、茶つみをして
子どもたちは張り切って練習をし
いなと思います。
小さい頃に少しピアノを習ってい
いる子もいます。そのため、子ど
ていました。結果は銀賞でしたが、
としたりしながら、少しずつ曲が
ましたが、音楽の授業でピアノの
もたちは、自分たちの茶つみの歌
歌の大好きな子どもたちにとって
仕上がってきています。二年前に
弾き語りをしないといけなかった
を作って、
歌いたかったようです。
は と て も い い 経 験 に な り ま し た。
に「茶つみ」の学習をしていると、
ときには、
なかなかうまく弾けず、
「茶つみ」の歌詞を美川バージョ
今年は、「歌いつごう 日本の歌」
開催事業で、声楽家の方に来てい
私が愛媛大学を卒業して、早く
も 十 年 以 上 た ち ま す。 大 学 時 代、
何日も練習室に通って、必死で練
ンに少しアレンジをして、みんな
川小に向かって、全校みんなで校
ただき、きれいな歌声を聞かせて
は、合唱をされていた先生の提案
習 し た の を 今 で も 覚 え て い ま す。
でその歌を歌いながら、茶つみ・
歌を歌いました。見晴らしのいい
いただきました。また、発声の仕
ある子が「美川バージョンを作り
そ ん な 私 が、 美 川 小 学 校 に 来 て、
茶 も み を 行 い ま し た。 三・四 年 生
大川嶺の頂上で校歌を歌って、子
た い。
」 と 言 い 出 し ま し た。 美 川
初めて音楽主任をすることになり
が歌っていると、自然と他の学年
どもたちはとても心に残ったよう
方や歌い方などについても教えて
いろいろな授業の中でも、音楽の
ました。
の子どもたちも歌い出し、青空の
でした。
授業に苦戦したのを覚えていま
二〇〇八年四月。初めての小規
模での勤務に、ドキドキしながら
下に子どもたちの歌声が響きまし
の歌声に、とても感動したようで
で、三年生以上の児童全員でNH
美川小へ向かいました。入学式準
た。とても楽しそうに歌う子ども
は お 茶 の 産 地 で、 美 川 小 で も 毎
備で、初めて美川小の子どもたち
たちの笑顔が、とても印象的でし
す。私自身、
音楽は好きな教科で、
に会ったとき、
初めて会った私に、
私の美川小での勤務も、早くも
いただき、子どもたちはプロの方
元気よくあいさつをしてくれ、気
した。
年、 全 校 児 童 で 合 唱 に 取 り 組 み、
この原稿を書いている今は、郡
の音楽発表会に向けて、練習して
遠足のときには、歩いていると
いる最中です。美川小学校では毎
た。
軽に話しかけてくれる子どもた
ち。そんな子どもたちに、何より
791–
1205
(13)
同 窓 会 報
の平均点で競おうということにな
学期のまとめの漢字五十問テスト
行 っ た の は、 漢 字 ク ラ ス マ ッ チ。
たのがクラスマッチです。最初に
な い か。
」 と、 軽 い 気 持 ち で 始 め
子どもたちもやる気が増すんじゃ
ルールでしたから、跳び箱に苦手
なるにつれ得点が低くなるという
一番高い跳び箱が高得点、小さく
マッチは得点制で行い、もちろん
ちも大勢いました。跳び箱クラス
が、不安そうな顔をした子どもた
うな顔をした子どももいました
てもなかなか上達しない子どもも
わけではありません。授業を進め
かった子が急に跳べるようになる
し か し、 い く ら 強 い 気 持 ち を
も っ て い て も、 こ れ ま で 跳 べ な
した。
一番高い跳び箱を跳んでしまいま
う間にクラスの約半分の子どもが
だことは言うまでもありません。
べた時、みんなが拍手喝采で喜ん
た。その子が一番高い跳び箱を跳
援します。最後には、泣きながら
で跳べなかった子を、みんなが応
ました。クラスマッチそっちのけ
教師のよろこび
りました。その漢字テストの結果
意識をもっている児童からすれ
私 が 現 在 勤 務 し て い る 学 校 は、
一学年が、百名を超えて三から四
大きいのは間違いありません。
は、
「集団の力」によるところが
童がこのような成果を残せたの
得意がある中で、六年生全ての児
メートルの跳び箱を跳ぶことがで
も、 そ の 次 に 高 い 百 二 十 セ ン チ
び箱が跳べなかった九名の児童
跳んだ児童の数です。一番高い跳
百三十センチメートルの跳び箱を
び 箱 の 授 業 で、 本 校 で 一 番 高 い
の数は、昨年度行った六年生の跳
百名中、九十一名。これは何を
あらわした数だと思いますか。こ
跳び箱でクラスマッチをすると
子どもたちに伝えた時、うれしそ
マッチです。
ク ラ ス マ ッ チ が、 跳 び 箱 ク ラ ス
とになり、三学期に行った最後の
て、昨年度も六年生を受け持つこ
スマッチを行ってきました。そし
水泳やマラソンなど、様々なクラ
ました。これは面白いと、
その後、
学年平均点で大きな伸びが見られ
時間目の授業。もちろん授業の中
聞こえてきます。そして迎えた二
べ る か も し れ ん。」 と い っ た 声 が
つが跳べたんやったら、ぼくも跳
は跳べたらしいよ。」とか、「あい
の は 隣 の ク ラ ス の 様 子。「 ○ ○ 君
た。まず、子どもたちが気になる
し た が、 そ れ も い ら ぬ 心 配 で し
らの指導について心配にもなりま
る よ う に な る か な ぁ。」 と こ れ か
し た。「 さ ぁ、 ど う や っ た ら 跳 べ
の跳び箱が跳べない子どももいま
いましたし、一番小さい低学年用
べ ん。」 と 諦 め モ ー ド の 子 ど も も
一 時 間 目 の 跳 び 箱 の 授 業 で は、
一 番 高 い 跳 び 箱 を 見 て、「 絶 対 跳
とだったかもしれません。
ば、不安になるのも仕方のないこ
ば、 跳 べ な く て 〇 点 に な る よ り、
そして、クラスマッチ当日。ク
ラスマッチの勝ち負けにこだわれ
きな喜びでした。
子どもたちの姿は、私にとって大
ことのように喜ぶ子。それぞれの
子。友達が跳べたのを見て自分の
れを見ながらアドバイスを送る
び箱を跳べるように頑張る子。そ
なっていました。一つでも高い跳
跳べたら大きな歓声が沸くように
チなど関係なく、違うクラスでも
たち。ここまで来ると、クラスマッ
番高い跳び箱をクリアした子ども
のスタートです。教えるのは、一
ちが言い始めました。放課後特訓
跳び箱の練習がしたいと子どもた
で残り数日となった頃、放課後に
いました。そしてクラスマッチま
力し続け、成長していける教師で
ないよう、自分自身も一生懸命努
がいを改めて感じました。一生懸
感できる、教師という仕事のやり
この原稿を書かせていただきな
がら、子どもたちの成長を日々実
るのか、
楽しみで仕方ありません。
六年生はどんな成長を見せてくれ
な魅力だと感じています。今年の
れるのは、教師という仕事の大き
んな子どもたちの姿を見とどけら
姿だったと思います。そして、そ
てこそ生まれる思いが作り上げた
いう、
学級・学年のまとまりがあっ
分も頑張れる、できる気がすると
姿。それは、みんながいるから自
子を励ましながら共に伸びていく
クラスになる大きな学校です。一
で跳べるようにするための指導は
ありたいと思います。
でも何度も挑戦する子もいまし
喜多小教諭
は、 こ れ ま で の テ ス ト と 比 べ て、
昨年度、六年生を担任した時、当
確実に跳べる跳び箱で点数を稼い
(平十六卒)
大洲市
河野 覚志
跳び箱クラスマッチで見られ
た、子どもたちが団結し、苦手な
時 の 学 年 部 の 先 生 方 と、
「どうす
しましたが、それ以前に子どもた
だ方が賢いのかもしれません。し
大
洲市新谷乙
-
きました。体育に対して得意・不
れば子どもたちがより意欲的に
ち の 眼 の 色 が 違 う の で す。「 絶 対
(〠
五五六
三)
命頑張る子どもたちに恥ずかしく
様々なことに取り組むようになる
かし、子ども達の目標は「一番高
い跳び箱を跳ぶ」ことになってい
跳ぶんだ」という気持ちをもって
取り組む子が多くなり、あっとい
だ ろ う。
」 と 考 え ま し た。 話 し 合
う中で、
「三クラスで競い合えば、
795–
0051
同 窓 会 報
(14)
私は大学卒業後、生まれ育った
愛媛を離れ、三年間、大阪の小学
になりました。
れと同時に私の教員生活も七年目
う七年が経とうとしています。そ
が付くと大学を卒業してから、も
ついこの間まで、愛媛大学に通
っていたような気がしますが、気
事 に 就 い た の か。
」と思うほどの
で も あ り ま し た。 ま た、
「違う仕
にとって、新鮮でもあり、戸惑い
代から大規模校の経験しかない私
型に並ぶほどの職員数。小学生時
いう児童数。職員室の机がコの字
惑いの連続でした。全学年単級と
ません。特に一学期は、驚きと戸
とって試練の年だったのかもしれ
愛媛での教員生活一年目は、私に
ん で し た。 今 振 り 返 っ て み る と、
し か し、 そ う 甘 く は あ り ま せ
る。
」と思っていました。
「きっと最高に楽しい一年にな
で、 仕 事 に 専 念 す る こ と が で き、
できるという恵まれた環境の中
ったです。さらに、実家から通勤
事ができることが本当にうれしか
られ、私は教員という仕事をます
子どもたちや同僚の先生方に支え
で す が、 本 当 に 充 実 し て い ま す。
たり、笑ったりして、忙しい日々
たり、遊んだり、怒ったり、泣い
く過ごしています。一緒に勉強し
かわいい子どもたちと、毎日楽し
そ し て 今、 私 は、 三 十 七 人 の
ったのを今でも覚えています。
していた気持ちがすっと消えてい
失 礼 や。」 そ う 思 う と、 も や も や
ら、今担任している子どもたちに
て来るんやなかったなんて言った
忘 れ て い た の で す。「 愛 媛 に 帰 っ
目の前にいる子どもたちのことを
た。私はその時、はっとしました。
に 失 礼 や な い の。」 と 言 わ れ ま し
大阪で出会った子どもや先生たち
っ た ら よ か っ た な ん て 言 っ た ら、
たいです。
っくり、じっくりと楽しんでいき
です。自分なりに、あせらず、ゆ
緒に、前を向いて歩いていきたい
どんなときでも、子どもたちと一
る こ と も あ る と 思 い ま す。 で も、
たくさん悩んだり、くじけたりす
だ ひ よ こ。 き っ と、 こ れ か ら も、
す。そう考えると、私は、まだま
するまで、あと三十一年もありま
この仕事が大好きです。定年退職
成長を見守っていくことのできる
た く さ ん の 子 ど も た ち と 出 会 い、
子 ど も た ち と い る と 楽 し い で す。
や っ ぱ り 私 は、 学 校 が 好 き で す。
ま で こ の 仕 事 を 続 け る こ と で す。
い。
うな内容で、同窓会へご連絡下さ
教育現場等で、同窓会へ支援の
ご要望がありましたら、左記のよ
教育現場等から同窓会へ
支援要請依頼について
校で教員として働きました。大阪
仕事内容の違い。自分の中で当た
ます好きになっています。学校で
近永小教諭
濱田 浩子
(平十七卒)
二
一
お送り下さい。
要請連絡は、左記の所にメール
して頂くか、FAX又はお手紙を
1.支援要請のねらい
2.どのような事を
3.何時頃
4.何処で
5.誰が、どのような組織が
6.どのような方法で実施する
その為、同窓会からの支援を要
請したい。
での三年間は、本当に楽しく充実
り前だったことが、当たり前では
あせらず、ゆっくり、
じっくりと
したものでした。もちろん大変な
楽しいことやうれしいことがある
-
鬼北町
こともありましたが、しんどいと
なかったのです。大阪での経験も
たびに、愛媛での一年目のことを、
理などの仕事を目の前にして、何
き っ と 大 阪 で の 三 年 間 も、 愛
ちしています。
ご 利 用 く だ さ い。 お 待
先変更などの諸連絡に
お 問 い 合 わ せ、 会 報
へ の 寄 稿、 住 所、 勤 務
dosokai@ed.ehime-u.ac.jp
宇
和島市長堀
感じたことは一度もありませんで
無駄なことにしか思えませんでし
よ く 思 い 出 し ま す。 そ し て、「 あ
仕事が楽しくなるにつれ、
「い
も か も が 嫌 に な り、
「愛媛に帰っ
媛での一年目に悩んだことも、す
(〠
した。友達にも「定年退職するま
た。
つかは生まれ育った愛媛で働きた
てくるんやなかった。
」
「大阪に行
べて意味があり、これからの教員
今、 私 の 夢 は、 定 年 退 職 す る
一)
で、 ず っ と こ の 仕 事 が し た い 」
い。
」という気持ちが強くなりま
くんやなかった。
」
「もうやめよう
生活につながっていくのだと確信
の 時、 や め な く て よ か っ た な。」
した。
か。
」 な ど、 今 思 え ば バ カ な こ と
しています。
そ し て 一 学 期 末 に は、 成 績 処
そ し て、 夢 が 叶 っ て、 四 年 前、
ば か り 考 え て い ま し た。 そ ん な
とよく話していました。
愛媛での教員生活がスタートしま
時、ある先生に「大阪に行かんか
と心から思います。
した。大好きな場所で大好きな仕
-
798–
0082
(15)
同 窓 会 報
きませんでした。
ぐにリアクションを返すことがで
か分からずびっくりして、私はす
かけてきました。一瞬何のことだ
「ズドラートビーチャ」ある朝、
私のクラスの女の子が元気に話し
宇都宮正子
松柏中教諭
て、自分のやっていることが救わ
遊んでいる子どもたちの様子を見
のロシア語を吸収し、早速使って
そんな時、自分のお気に入りの
あいさつの言葉として、覚えたて
た。
の授業にも自信が持てずにいまし
探り状態で始めたばかりで、日々
入される英語活動についても、手
満足な授業しかできず、新しく導
ました。自分にとって不慣れで不
い分野に飛び込んだ感じがしてい
の経験はゼロに等しく、全く新し
不安でいっぱいでした。小学校で
の小学校経験だったので、最初は
会った言葉は、新鮮な響きを持っ
好奇心おう盛な小学生にとっ
て、英語活動で耳にして新しく出
もたちの姿に感激しました。
で楽しく生かそうとしている子ど
ち。学んだことを自分の生活の中
けんをするようになった子どもた
るときに、英語や韓国語でじゃん
うとする子どもたち。決め事をす
りのワン・ツー・スリーで数えよ
ち。数を数える時に、学んだばか
さつで楽しそうに遊ぶ子どもた
まずは、小学生の柔軟な「発想
力」に驚きました。外国語のあい
た。
とって「新しい発見」がありまし
に学びます。日本語と英語の文構
と単語の語順が大切なことを初め
つ習得していき、英語では、単語
ます。身の回りの単語から少しず
中学校英語では、簡単な表現か
ら積み上げ式に英語を教えていき
ツを自然に覚えていきました。
いくと、ほとんどの児童がチャン
リズムに合わせて口慣らしをして
スチャーを交えながら、繰り返し
に慣れ親しませていきます。ジェ
歌)を用いて、使われる英語表現
チャンツ(リズムにのせた英語の
小学校の英語活動では、授業の
始めに男の子が歌っていたような
昼休みに口ずさんでいたのです。
トユーアートゥー。」と何気なく、
授業時数が週四時間となり、一時
切です。来年度からは、英語科の
喜び」を味わわすことがとても大
語で何かを表現し、伝わった時の
中学校では、
「読むこと」「書く
こ と 」 の 学 習 も 加 わ り ま す。
「英
改善に生かしたいと思いました。
すが、双方の良い面を考え、授業
した。異なる言語学習の迫り方で
その表現に慣れ親しませていきま
う こ と が 言 え る ん だ と 気 づ か せ、
「 自 分 が ○ ○ へ 行 き た い。
」とい
○ ○ の 所 に 場 所 を 入 れ て い け ば、
をたくさん行います。
その過程で、
イワントゥーゴートゥー○○」の
することが目標とするならば、「ア
て、その後、彼女やその友達数人
りました。なんだかうれしくなっ
私の気持ちは驚きから感激に変わ
だったのによく覚えていたなぁ。
」
た。このエネルギーは新しく言語
てくるのではないかと思いまし
が子どもたちの中から自然とわい
葉 を 使 っ て み た い。」 と い う 欲 求
ま せ ん。「 ど こ か で、 ま た こ の 言
まインプットして、繰り返し発声
で聞こえてきたかたまりをそのま
し か し、
「聞くこと」から入る
小学校の英語活動では、音の連結
に身につけていきます。
法の知識も基礎的なものから順番
造上の違いを明確にしながら、文
います。
うな授業を目指していきたいと思
授業で生き生きと英語が使えるよ
験したことを生かして、子どもが
ができる時間の確保につながると
キット作成のような自己表現活動
間 多 く な り ま す。 ス ピ ー チ や ス
といっしょになり、ロシア語、英
を学ぶ時の大事な原動力になると
することを通して、英語表現を吸
(平四卒)
語、フランス語、中国語などのあ
思いました。
収 し て い き ま し た。「 単 語 を 並 べ
かたまりを使うチャンツやゲーム
「 ズ ド ラ ー ス ト ヴ ィ チ ェ? あ っ
そうか、昨日英語活動でやったロ
れた気持ちになりました。小学校
た魅力的なものであるに違いあり
小学校の英語活動に学ぶ
シア語の『こんにちは』を使いた
での勤務を二年間経験して、私に
八幡浜市
かったんだなかなか難しい言葉
いさつを返し合って、しばらく遊
そして、小学生の「吸収力」に
も驚きました。ある日、クラスの
て一つの意味のある文を成立させ
ハ ゥ ア ー ユ ー。 ア イ ム フ ァ イ ン、
例えば、自分の行きたい所を表現
る。
」というとらえ方はしません。
(〠
思います。小学校の英語活動で経
びました。
男の子が「ハロー、ハロー、ハロー、
ました。愛媛大学の付属小学校で
アイムファイン、アイホープザッ
二年前、私は小学校勤務を命ぜ
られ、五年生の学級担任をしてい
教育実習をさせていただいて以来
一二六三)
八
幡浜市合田
796–
8041
同 窓 会 報
(16)
(17)
同 窓 会 報
います。
の責任の重さを身をもって感じて
を左右するという、社会人として
た、自分の言動が会社のイメージ
しつぶされそうになりました。ま
切なお金を扱う仕事の重大さに押
行して間もない頃は、お客様の大
責任の大きさも感じています。入
元で働くことに誇りを持つ一方で
ますが、愛媛銀行に入行して、地
す。社会人になって約半年が経ち
務を教わりながら仕事をしていま
して、日々、上司や先輩に銀行業
私は現在、愛媛銀行宇和島支店
に勤務しています。今は預金係と
いという思いもあり、いろいろな
のですが、自分の可能性を試した
らに行動するのもどうかと思った
りました。的を絞らず、がむしゃ
卒業後の進路については迷いがあ
という思いはあったものの、まだ
大学三回生の十月から始めた就
職活動では、教職の道に進みたい
りました。
いろいろと貴重なアドバイスを賜
卒論を始め、将来の進路について
でも指導教官である佐野先生には
の人柄に惹かれて選びました。中
だったのですが研究内容と先生方
法 を 研 究 し ま し た。 地 学 は 苦 手
し、地学研究室で鉛同位体比分析
活健康課程生活環境コースに在籍
在学中は、今の総合人間形成課
程生活環境コースの前身である生
たと思います。
の中ではとても大きな決め手だっ
し、母の出身大学ということも私
出る気持ちはありませんでした
路を決めました。地元の愛媛から
教育実習にいったものの、幼い
ころから笑顔が素敵で憧れていた
した。
ンズの大切さを学ぶことができま
ないというヒューマンリレーショ
から進んで心を開かなければなら
したが、人と向き合うときは自分
た。三週間という短い実習期間で
のお言葉やアドバイスを賜りまし
め、たくさんの先生方から励まし
そんな私に、指導教官の先生を始
ち が 伝 わ る よ う な 気 が し ま し た。
ると生徒たちにもその不安な気持
続でした。自分が不安に思ってい
きるのか、実習中は日々奮闘の連
く自分の気持ちを伝えることがで
に接するたびに、どうすればうま
い生徒など……。いろいろな生徒
けている生徒、全く関心を示さな
てくれている生徒や反対に私を避
一番苦労しました。私に気を遣っ
真っ只中の彼らと向き合うことが
生 徒 と の 関 わ り 方 で す。 思 春 期
実 習 を 通 し て 一 番 悩 ん だ こ と は、
校に教育実習に行きました。教育
やり残したことがないくらい思い
と 思 い ま す。 後 輩 の 皆 さ ん に は、
大学での四年間は他人と向き合
いながら自分自身ともじっくりと
後悔しています。
験したかったことがたくさんあり
今になって思います。まだまだ経
し か し、「 大 学 生 の と き、 あ れ
もこれもしたかったなあ……」と
しました。
をはじめとする様々な職場を経験
人材派遣会社に登録しサービス業
われる自分になりたい」と考えて、
す が、「 も っ と 他 者 と 積 極 的 に 関
の良さを感じるタイプだったので
案で、限られた人間関係に居心地
た。どちらかというと引っ込み思
様々なことにチャレンジしまし
とをしようと思い、大学生活では
なることや自分の成長に繋がるこ
す。この言葉を胸に、自分の為に
つも胸にあったのはこの言葉で
「 後 悔 先 に 立 た ず ……」 大 学 時
代、自分の将来を考えるとき、い
決めました。
日々精進していく決意です。
らえるような銀行員を目指して
客様から信頼され、可愛がっても
す。職場の上司や先輩、そしてお
客様に誠実に接していきたいで
う」の言葉を一回でも多くいただ
思います。お客様から「ありがと
いつけるよう頑張っていきたいと
を取って、一日でも早く先輩に追
勢で臨み、できるだけ多くの資格
ています。検定試験には万全の態
だからこそ、自分が今できるこ
とに一生懸命取り組もうと決意し
ことを幸せに思っています。
でたくさんの貴重な経験が積めた
ことはあります。でも、愛媛大学
「また何か違ったのかな」と思う
学以外の大学に進学していたら
ることに感謝しています。愛媛大
宇和島支店
船田祐美子
(平二三卒)
す。
けるよう、笑顔で一人ひとりのお
今では、自分を育んでくれたこ
の愛媛の地で、誇りをもって働け
大学進学を考えていた頃、小学
校の教師として生き生きと働いて
ジャンルの企業にエントリーしま
「銀行の窓口のお姉さん」の夢が
きり自分からいろいろなことに挑
私の選んだ道
いる母の姿を見て育った私の中
し た。
「自分のやりたいことをし
次 第 に 大 き く な っ て い き ま し た。
戦してもらいたいと願っていま
愛媛銀行
に、いつか自分も母のように教職
なさい」という母の言葉も支えに
教職の道にも興味はあったのです
が、最終的には、銀行への就職を
向き合うことのできる貴重な時だ
の道に進みたいという思いが生ま
なっていました。
大学四回生の六月に母校の中学
れていました。そこで母の後を追
うように愛媛大学の教育学部に進
同 窓 会 報
(18)
平成23年7月4日(月)の午前、
アメリカ合衆国ルイジアナ州にあるルイジアナ大学モンロー
校のシバクマラン博士が、教育学部を訪問し、寿学部長と面談をされました。話題は主として、
両校の交流協定の締結についてでした。
愛媛大学教育学部の担当者である富田英司先生がリードされ、協定の具体的な内容につい
て、深く議論を交わしました。学生交流については「教育文化視察」と「交換留学」の2種類
を設け、2週間程度の短期型の相互訪問から1年までの留学まで対応できるよう、また、教育
学部に新たに設けられた愛媛大学短期交流学生の制度を積極的に利用できるよう考慮されて
います。また、教育学部らしい活動として、海外での教育実習経験を積めるよう議論を進めて
ゆくことになっています。午後からは、教育学部学生がシバクマラン博士と交流する機会を持
ちました。
手続きがうまく運べば、平成24年度から交流が開始される予定で、教育学部で久しく求めら
れていた欧米圏の交流協定校が誕生することになります。
訪問風景1
学内最近のニュース
ルイジアナ大学モンロー校のシバクマラン博士が
教育学部を訪問
訪問風景2
555555555555555555555
ルイジアナ大学モンロー校(ULM)訪問
平成23年9月に、富田英司先生と白松賢先生が、
アメリカ合衆国ルイジアナ大学モンロー校(ULM)を訪問しました。
今回の訪問では、ULMのニック・ブルーノ学長やパニ副学長をはじめとした大学首脳陣との面会、ULMの教育人間
発達学部のリモイン学部長と各学科長との面会、教育人間発達学部の中でも特に教員養成に携わる課程教授学科の教
授陣の前での愛媛大学教育学部の紹介、教育人間発達学部のシバクマラン副学部長とキム博士との交流プログラムの
具体的な打合せ、教育人間発達学部でおこなわれている授業の視察、ULM周辺学校の視察、モンロー市の教育長ハリ
ス博士との面会、などをおこないました。今回の訪問で、ULMがモンロー市とその周辺地域の教員養成とプロフェッ
ショナル・ディベロップメントのセンターとして機能し、優秀な教員を輩出して高い信頼を得ていること、本学部の
学生が安全かつ快適に暮らせる環境を持っていること、教育人間発達学部が I-space をはじめとした留学生のための
施設整備に力を入れていることなどが明らかになりました。
ブルーノ学長と握手する白松先生。
記念にULMグッズを頂きました 学長邸宅にて。左からリモイン学部長、ブルーノ学長、
富田先生、白松先生、シバクマラン先生、キム先生
同 窓 会 報
(19)
教育学部卒業生 木村志穂さんが「かがやき松山大賞」を受賞
平成23年6月24日(金)
、松山市役所において, スポーツ
や芸術の分野で活躍する個人や団体をたたえる「かがやき
松山大賞」の贈呈式が行われ、教育学部卒業生の木村志穂
さん(平成17年卒業)が受賞しました。
木村さんは、愛媛大学テコンドー部でキャプテンを務め、
全日本テコンドー選手権大会で組手部門5回、型部門3回
の優勝経験が有り、世界テコンドー選手権大会の型部門で
の銀、銅メダルも有する「日本女子テコンドー界のパイオ
ニア」の一人です。今回の受賞は、今年2月の全日本テコ
ンドー選手権大会優勝が評価されたもので、4度目となり
ます。
木村さんは、現在東京在住で東京府中道場所属選手とし
て男子選手を練習相手に日々研鑽しながら、副師範として
も女子選手の育成に当たっておられます。次なる目標は2
年後の世界選手権大会での悲願の組手世界一です。故郷・
松山の為、そして、母校・愛媛大学と名門・テコンドー部
授賞式(前列左:木村志穂さん、右:野志松山市長 後列左:松山市テコンドー協会副会長、右:同会長)
の後輩達の為、木村さんの大いなる挑戦は続きます。
555555555555555555555
第2回三輪田米山展を開催中
愛媛大学ミュージアムでは、定例事業として、図書館が所蔵する三輪田米山(みわだべいざん)の書や日記などの
貴重資料を展示し、平成23年9月7日(水)から平成24年3月31日(土)までの間、
「三輪田米山展」を開催します。
この三輪田米山展は、平成22年度から平成25年度までの毎年9月から3月まで、4年間で計4回実施します。第2
回となる今回は、
「米山仮名の美」と銘打ち、かの良寛に劣らない、美しい仮名作品を数多く展示していますので、是
非、ご覧下さい。
また、図書館2階西エリアにおいても米山コーナーを常設し、米山日記のレプリカや関連図書を展示・閲覧出来る
ようになっていますので、併せてご覧下さい。
開催場所
愛媛大学ミュージアム(松山市文京町3番)
開催期間
平成23年9月7日(水)〜平成24年3月31日(土)
入館料
無 料
開館時間
午前10時〜午後4時30分(入館は午後4時まで)
休館日
⑴ 火曜日
⑵ 年末年始(12月28日〜1月4日)
メンテナンス休館(2月1日〜15日)など
屏 風
(20)
同 窓 会 報
グアテマラ通信 (2010/12/ 1)
メールアドレス vividsugiyama@live. jp JICA シニア国際ボランティア:杉山 允宏 新住所 Dr. Masahiro SUGIYAMA
#807 Edificio Santorini las Américas 1ª Avenida 6-24 Zona 14 Guatemala 01014 GUATEMALA C.A.
愛媛大学を定年退職し8ヶ月が経過しました。4月からあっと言う間に6ヶ月の訓練が終わり、グアテマラに着い
て1ヶ月のスペイン語研修も終え、
やっと仕事場のあるグアテマラシティに来ました。市内のホテルで2週間伝達事項、
日本人学校運動会や歓迎会などがあり、主にアパート探しを行い、JICA推奨の住居が決まり、1週間が経過したとこ
ろです。私はVoluntario Especialista Judoとしてボランティア活動を行う[Centro Deportivo Parque la Democracia]
Ministerio de Cultura y Deportesで初日から、様子を伺いながら指導しています。アパートメントが決まるまでの2
週間は柔道着の入っている荷物が開けられず、子供達におまえは柔道をしないのかと言われながら過ごしましたが、
今はバシッと決めて私のスペイン語学習と同様Poco a poco ゆっくりとゆっくりと教えています。タクシーの呼び出し
も出来ます。
Ciudad de Guatemalaグアテマラ市は1775年に現在のAntigua市から標高1,500mの高原地帯に首都として移り、100
万人のカピタルまたはグアテと呼ばれています。1944年10月20日の革命記念日以来、一言では言い表せませんが、政治・
経済の中心である首都の機能と発展は著しいけれども、貧困や犯罪などの社会問題は極めて不安定で、特に最近は犯
罪率が高くなっており、昨日関係者の被害連絡が入り注意しています。通貨単位はケッツアレスQsで1ドルが8Qsで
すので1Qsは約10円と考えています。市内のバス賃は普通1Qsです。が犯罪が多いので市内バスには乗車しないよう
に言われています。長距離バスは利用出来そうです。市内の交通機関は安全のため指定された黄色のアマリージョタ
クシーのみです。1区間25Qsです。私の職場は遠いので専属タクシーで片道50Qsで予約していますので、毎日100Qs
かかり、生活費の1/3位かかるので大変です。普通の人の1ヶ月の給料は2,000~2,500Qsです。ビール350ccは10Qs
です。ガソリンは1ガロン(3.6リットル)が27Qs。ジュースは6Qs。
柔道指導:10月~12月20日まで学校は休みで、所属している運動公園ではスポーツ・文化プログラムが開講されて
おり、柔道クラスは5つあります。その内、2つは柔道クラブのような感じでまだ様子が分かりません。とにかく、
3歳~30歳までが短パンとTシャツでするのですから、日本では発育発達とか、技能水準とか、経験年数とか必ず考
慮しますが、ごっちゃまぜでやっているので毎日ハラハラしながら見ていますが。小さな子に関節技を教えたりする
ものですから、しびれを切らして忠告しました。Poco a pocoで柔道はどういう運動・スポーツかを教えていく必要性
があります。柔道クラブの青少年達は見込みがある子供もいるので今からじっくり柔道の神髄を伝達します。今は、
礼法と受身を強調する毎日です。
アパ-トから市内が一望出来ます。Oberiscoにある中央のGallo雄鳥のクリスマスツリーが18時に点灯します。運動公園事務所後部にPacaya火山
水の澄むやうな別れをたつた今
体育の日のアテネまで続く空
炭火吹き再び太宰読む駅舎
短
歌
五 回 日 本 イ ベ ン ト 大 賞 を 受 賞 し、
松山俳句甲子園をご存じだろう
か。あの東京マラソンを抑え、第
俳句計画」である。俳句は古いよ
の師が使命としているのが「百年
魅力には驚嘆するものがある。そ
はもちろんのこと、師の人間的な
つきの本意がある。俳句の指導力
しい」の質を上げることに夏井い
言葉はしばしば誤解を招くが「楽
き組」のポリシーは「楽しくなけ
夏井いつき率いる俳句集団「いつ
そして師である夏井いつきに出
会 っ た こ と が 何 よ り 大 き か っ た。
俳句をやってみようと思った。
衝撃であった。その時から自分も
なれる。
ないが、よい句に出会うと幸せに
である。まだまだ句をつくる力は
する。そこが俳句の面白いところ
なったり、大きなものになったり
や 経 験 に よ っ て、 小 さ な も の に
―*――*―
俳句は十七音で構成される宇宙
である。その宇宙が読み手の感性
削除キーそつと叩いて卒業す
ほんたうの福は入らぬ福袋
討ち入りの日やユニクロの旅鞄
罪状は冬三日月を見てたこと
碑へ一礼したる男の息白し
止まってしまうことがある。
見上げたとき、その美しさに立ち
(昭六二卒
井上真佐子
今日の空
私が俳句を始めるきっかけとなっ
うで実はまだ歴史が浅い。俳句の
来年の松山俳句甲子園は八月
十八・十九日に行われる予定であ
空色の夢を見たがる湯婆かな
たイベントである。
未来を考えたとき、今何をやるべ
る。一日目は真夏の大街道を舞台
奥村 幸二
(昭五六卒)
今
治市桜井
特音)
てするさよならのあいさつなんだ
「夕焼けは、お日様が山に向かっ
おじいさんがこう答える。
美しいの」
というハイジの問いに、
「アルプスの少女ハイジ」の中
で、「 夕 焼 け は ど う し て こ ん な に
す
何に告ぐる別れぞ今日の夕映
えは噴き上ぐるごと朱を輝か
る、新米の自分の姿が思い浮かぶ。
とで空を見ながら立ち尽くしてい
が、放課後、生徒達が下校したあ
日であったのかは覚えていない
これは、もう二〇年以上前、新
採の頃に作った歌だ。どういう一
言葉多く浴びし一日は夕映え
の無言にしばし浸されてゐよ
れど、何かのきっかけでふと空を
慌ただしい毎日の中で、意識し
て空を見上げることは少ない。け
空がある
飛び込むならここへ飛び込め
といふやうに雲の切れ間に青
附属特別支援学校教諭
正直言って俳句には興味がな
かったというより分からなかっ
きか、それを実践しようというの
に激戦が繰り広げられる。全国か
俳 句
た。
しかし俳句甲子園に出会って、
が「百年俳句計画」である。俳句
ら集まった高校生たちが、俳句と
俳句甲子園
高 校 生 が つ く り だ す 句 の 新 鮮 さ、
甲子園もその思いから生まれた。
れば俳句じゃない」である。この
発想に興味をもった。そして第四
是非見てやってほしいと思う。
(〠 二
-
いうフィールドで本気で戦う姿を
回俳句甲子園で最優秀賞になった
―*――*―
睡蓮の閉ぢる数式書いてみよ
朝顔の光のやうに弾くカノン
四
六)
別れを告げるときが一番美し
い、というその言葉を、夕焼けに
出会うたびに思い出す。
夕映えが夜空に変はるひとと
ころ水のやうにもあをすきと
ほる
空を掃く箒あやつる手は見え
ず掃き目うつくしく雲はとと
のふ
身に帯びる何一つ無き冬の樹
の枝の向かふの空の明るさ
季節により、天候により、空は
そ の 表 情 を さ ま ざ ま に 変 え る が、
見上げる私たちのその時の状況や
心情によっても、そこに見えるも
のはさまざまであるように思う。
夏空に鳩らいつせいに飛び立
ちて安住といふ語のふと遠し
あるときは空の深さを測るべ
くクレーンは長き腕伸ばしゆ
く
とはいえ、青空を見ればそれだ
けで元気になり、夕焼けに出会っ
て 穏 や か な 気 持 を 取 り 戻 す の も、
また、たしかなことだ。
私たちの小さな思惑を超えたと
ころで、空はただ、静かに広がっ
ている。
松
山市萱町
一〇
一八)
雲ひとつなき青空を見しこと
を賜物として今日は眠らな
(〠
五
-
神野紗希さんの「カンバスの余白
に感動した。同じく「起立礼着席
秋澄むや句点を打つに値ふ空
799–
1522
上段夏オリオン
青葉風過ぎた」の句を読んだ瞬間
問題は桔梗のやうな妻のこと
よ。だからこんなに美しいのさ」
-
9号車5
に、自分が教壇に立つ映像、窓の
だしぬけに流るる星の覚悟かな
790–
0813
八月十五日」に出会い、その深さ
外の緑の光景、
そして風を感じた。
-
A
(21)
同 窓 会 報
同 窓 会 報
(22)
川 柳
おーいお茶
親の背が子の生き様を映してる
松
山市南梅本町
二)
一度でも言ってみたいよ「おーい
お茶」
(〠 八八七
-
図
どの子にも輝く物がひとつある
子育ての責任持たぬ親が増え
あの顔でまことしやかな嘘をつく
一杯の酒でうっかり出た本音
ヨイショされうっかり乗った口車
それはそれこれはこれじゃと譲ら
国と国信じることに在る平和
水墨画
定年退職を機に習い始めた俳
(昭三四卒)
西島 節子
集中の心地良さ
句、かな習字、水墨画。どれもや
ればやるほど奥深く、手習いの域
を出ない。
すのが大変に難しい。また気持を
込めて自分なりの絵にする筆使い
も。これで可とする絵にはならな
いが、描いている間、集中できる
その心地良さは、好きである。
一二
松
山市吉藤
二
三一)
手足が動き、より永く元気で頑
張りたいと思っている。
(〠
791–
8011
森貞 和雄
ない
そんなこと嘘よと鏡拭いてみる
水墨画は白黒の世界なのに千差
万別の色がある。その墨の色を出
-
(昭二五青師)
言う勇気じっと我慢をする勇気
無言でもその目が物を言っている
-
若竹のように育てよ日本の子
そこまでは言うでないぞと目で合
791–
0245
林傳次先生遺稿集
﹁把翠﹂を繙く(四)
又他方には自分の意見を率直に
述べることをなさず、又他人の意
見をもそのまゝには了解しようと
しない人がある。奥歯に物のはさ
まつた様なにえきらぬ言ひまはし
でねちねちやる人がそれである。
もっと朗かな心持でざつくしば
らんに物もいふし、素直な心持で
他人の話もきく。さういふ風にな
り得たならば我々の社会に瀰漫
( びまん)してゐるじめじめした不
快な空気は一掃されるだろう。
お互に無邪気な無垢な子供を相
手にしてゐる身だ。もっと明るい
朗かな、素直な心持になることが
大 切 で は あ る ま い か。( 大 正 十 三
年三月号)
【パーカスト女史を迎ふ】
ダルトン実験室案の創始者、ミ
ス・パーカスト女史は本月上旬来
朝、東都で第一回の講演をされて
多数の聴衆に大なる感激を与えら
れ た。 爾 来( じ ら い) 東 北 に 北 陸
に巡回公演中であるが、我が松山
に同女史を迎へて、親しく同案の
精神について教を受け得る日も旬
日の後に迫ってきた。
従来の方法による教育に行詰り
を感じ、何等か新しき方法により
て新時代に適応する教育を行はん
とする悩みは、真面目に教育の事
を考ふる人士なら誰しも有する所
のものである。かくて幾多の教育
方法が創案され実施されたが、こ
のダルトン実験室案こそはその中
の最も出色のものであり、又最も
大胆なる改造教育の歩を踏み出し
たものといふべきであろう。児童
の自由を尊重する教育、児童の個
性を尊重する教育、徒( いたずら)
にその声のみ高くしてその実の之
つけられた芽はいつたいどうした
に伴はざる憾ある我国現時の教育
のだろう。国難来と叫ばれ、国民
界にかゝる大胆なる改造教育の創
試練の秋と呼ばれたあの声はどこ
始者を迎へ得たる事は、大きな歓
にどんな反響を及ぼしてゐるのだ
喜である。きく所によれば松山に
ろう。
浮華軽佻の風が除かれたか。
おける同女史の講演聴講の申込は
剛健質実の美風が起つたか。
す で に 一 千 名 を 超 過 し た と い ふ。
「 熱 し 易 く、 冷 め 易 い 国 民 」 我
その日会場に集つたこれらの多数
国民性の一欠陥として今まで屡々
の人々が熱情と力との籠つた同女
聞かされた言葉はこれだ。だが光
史の講演をきいて、いかばかり心
輝ある二千五百年の歴史を作つて
を躍らすことであろうか。
きた我が国民だ。もつと力強い粘
諺に「感心上手の行い下手」と
り強いあるものを持つてゐる筈で
いうのがある。その日集つた諸君
はないか。
が単に一時の感激と興奮とに終ら
自然の災禍に続いて、
人事亦非、
ず、沈思潜心、同女史の精神……
太平洋上波瀾狂奔し、内には不景
敢 て 方 法 と い は ず に 精 神 と い ふ。
気の風が蕭条( しょうじょう)と吹
……を日常の教育に生かして行か
く。震災一周年の各種の催し、そ
れんことこそ切望に堪へない。(平
れも結構である。がもつと国民各
成十三年五月)
自が静に思いを潜めて、深く考ふ
【大震火災一周年】
べ き で は な い か。( 平 成 十 三 年 九
大正十二年九月一日、この日突
月号)
如として起つた大震と、それから
三昼夜に亘って炎々天を焦がした
劫 火( ご う か) と に よ つ て、 十 万
の生霊と、百億の富と、長い年月
を 費 や し て 漸( よ う や) く 築 き 上 祝・叙 勲
げた文化とをまたゝくうちに失つ
(平成二十三年十一月三日)
てしまつた。日々に伝はる報道が
如何ばかり国民を愕然たらしめ竦 ☆瑞宝小綬章
然( しょうぜん)たらしめたことか。
教
育功労 八木 壮平 殿
あれから満一年の日が流れ去っ
今治市杣田甲三七三 二
た。 其 の 間 に 何 が 復 興 さ れ た か。
昭三十九年卒
すつきりしたバラツク街の軒並に
輝く光に、夏の夜の銀座のそぞろ ☆瑞宝双光章
歩きは、震災前よりも却つて快く
教
育功労 高野 莞爾 殿
なったといふ。それだけか。浅草
宇和島市三間町中野中一八四
に群る興業物は前よりも一層の絢
昭三十九年卒
爛( け ん ら ん) さ で 人 を 惹 き つ け
てゐるといふ。それだけか。日本
教
育功労 長野シゲミ 殿
橋区あたりは空地もない位に家が
今治市神宮田一三八
建つたといふ。それだけか。
昭三十九年卒
あの時、国民の心の底深く植ゑ
~﹃愛媛教育﹄誌より~
―
大正十三年の年頭に立つて、希
望に輝く前途を望像して、衷心欣
喜に堪へないと同時に、今までに
ない心の緊張を覚える。摯実な誠
実な純一な心で、新しき日々を送
つ て ゆ き た い も の で あ る。
(大正
十三年一月号)
〈 ※ 大 正 十 二 年・
西暦一九二三年〉
【明るく朗かに】
余りに、一つ一つの言語に拘泥
し す ぎ る。 も っ と 素 直 な 心 持 で、
一つの意見、一つの議論の醸し出
す雰囲気の中から、其の人の眞情
を汲み取る様になれないものか
研究発表会や批評会を終えて
帰る時、いつもかう考えられる。
今の我々の社会は凡ての事をあ
まりに表面的に、またあまりに理
智的に解釈しようとする傾向が濃
厚すぎはしないだろうか。それこ
そ口角泡を飛ばして議論をしてゐ
るのを仔細に聞いてゐると、同じ
意見を異なる言語で述べてゐるに
過ぎぬと思はれることが屡々( し
ば し ば) あ る。 只 い ひ 表 し 方 が 同
一でないといふ単なる理由のため
に、目に角たてゝ言ひ争つてゐる
としか思はれぬ場合が少からずあ
る。
-
﹁巻頭言﹂集
【生活の更新】
新生のよろこび、かの惨虐類な
き大正十二年を送って復興の力に
燃ゆる大正十三年を迎へる時、心
か ら な る 新 生 の よ ろ こ び を 感 じ、
新しき力の湧き出づるのを禁じ得
ない。
吾々の生活は期せずして革新の
好機に際会してゐる。旧い因襲の
敝 衣( へ い い) を 焼 却 し て、 生 ま
れたまゝの姿で新しき生活に入
ら ね ば な ら な い 時 機 に 際 会 し た。
日々新聞紙は都人士が浮華軽佻虚
飾( ふかけいちょうきょしょく)の生
活から質実、醇厚の生活に急転し
つゝあることを報じてゐるではな
いか。
凡そ人生に於て倦怠気分ほど恐
ろしいものはない。近時の爛熟し
飽満した文化は、
国民の大部分に、
こ の 恐 る べ き 倦 怠 気 分 を 与 へ た。
而してこの咀ふべき倦怠気分は異
常なる刺激によらなければ到底一
掃し得ないほど、強く深く濃いも
のであった。
突如として起つた大震災、それ
がこの倦怠気分を一掃して国民を
覚醒せしめる一大刺激となったこ
とは、
思へば大きな幸福であった。
(23)
同 窓 会 報
明治・大正の頃の教育事情㈣
は第二表の通り。
かかわらない学校をつくる、と
の身分別の学校を廃し、身分に
民教育ノ基礎並ビニ其ノ生活ニ
発達ニ留意シテ道徳教育及ビ国
さ れ た。「 小 学 校 ハ 児 童 身 体 ノ
しかし、明治三十三年小学校令
の改正により授業料徴収が廃止さ
いう明治政府の国民皆学の表れ
れた結果、就学率が著しく向上し、
必須ナル普通ノ知識技能ヲ授ク
ルヲ以テ本旨トス」
であった。
明治五年に学制が発布された
○ 小 学 校 の 授 業 料 は、 地 方 財
○
明治四十年、西中島村では九十四
名の学齢児童全員が入学してい
が、政府の統制と指導のもとに
る。
政が窮乏化するにつれ高くなっ
津和地はともかく他の学校の就
小学校教育が始まるまでは、読
たが、しかし明治二十九年から
み書きソロバンが教育の主流で
国庫補助が出るようになり授業
明治四年に文部省が創設さ
同年、県内全般の就学率は、男
九八・九八%・女九六・六六%に達
あった。
の状態である。ちなみに当時の県
しており、国民皆学の理想にほぼ
いえ
学率は、わずか二十パーセント台
内就学率は、四四・四パーセント
近づいたのである。
上甲
修
(男五九・六二%・女二九・一七%)
明治の小学校令と就学率等
(昭二九卒)
小学校の授業料と就学状況
であり、明治五年の学制の理想と
○
むら
子 八 十 八 万 人、 女 子 三 十 万 人 で
年の六十一パーセントから明治
義 務 教 育 費( 授 業 料 ) は、
三十八年には九十六パーセント
○
就学率は男子四十パーセント・
になった。
明治十九年、最初に出された
明治三十三年(一九〇〇年)か
○ 高 等 小 学 校 は、 二 年 制・ 三
小学校令では一学級の児童数を
校で六十人以下と規定。町村役
年 制・ 四 年 制 が あ っ た が 明 治
ら無償となる。
場などを利用した小学校簡易科
三十三年の改訂小学校令で、二
されるようになって以後、○○
なお戦時中の昭和十六年から
(完)
民学校という名称になった。
数年間は、尋常高等小学校が国
年制が尋常小学校に併置を奨励
常小学校の修業年限を四年に統
尋常高等小学校が急増するよう
最低三ヵ年とされていた尋
一したのは、明治十九年の小学
になる。
校令から。さらに条文で、この
学校令に初めてその目的が明記
○ 明治二十三年に公布された小
期間を初めて義務教育年限とし
○
た。
の設置も認めた。
尋常小学校で八十人、高等小学
○
女子十五パーセントであった。
料も安定、就学率は明治二十八
明治二十五年、愛媛県では尋常
した「邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学
れ、 翌 明 治 五 年 八 月 に 新 し い
明治六年、小学生の数は、男
小学校の授業料を一ヵ月三銭から
ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」
には、
『学制』が発布された。かつて
第2表 神和地区簡易小学校の就学状況(明治20年)
二十銭を基準として市町村長が確
まだほど遠い状態であった。
第1表 東中島諸村学事取調(明治19年11月)
○
定するよう指示した。しかし貧困
児童に対しては三銭以下でもよ
く、また授業料免除をも認めてい
松 山 市 の 旧 中 島 町 は、 明 治
た。
二十二年までは十七の村からなっ
ていた。昭和四十三年に刊行され
た『中島町誌』には、明治十九年
(一八七六年)大浦村ほか四ヵ村
の「学事取調」の資料が載ってい
る。それによると就学見込人員と
38 80 118
62 109 171
46 53 99
38 80 118
41.0%
20.8%
24.4%
26.2%
64 18 82
40 5 45
32 0 32
35 7 42
200
216
131
160
男 女 計
津和地
元怒和
上怒和
二神
男 女 計
就学率
不就学生
学齢総数
就学生
校名
授業料等を納め得る者の状況は第
一 表 の よ う で あ る。 明 治 二 十 年、
じん わ
神 和地区簡易小学校の就学状況
大浦村
小浜村
長師村
宮野村
神浦村
236人
188 100 74 212 10銭以上の 5銭以上の
授業料納入
就学見込
授業料を納 授業料を納
不能の者
人員
め得る者 め得る者
22人
53人
38人
113人
20 29 20 69 13 23 6 42 15 15 7 37 10 33 36 79 学齢人員
村名
同 窓 会 報
(24)
卒業して
五十八年あれこれ
小野植元幸
したものである。テストは、講義
の 中 か ら 出 題 さ れ る こ と が 多 く、
欠課した者は、ノートを借りて対
応していたように思う。
まさ
当 時、 洋 画 の 大 家 藤 谷 庸 夫 先
生、憲法の大野盛直、文学の蒲池
文雄、
体育の中村章
(大洲市出身)、
藤 原 元 時( 越 智 郡 出 身 )
、倫理学
の 小 池 平 八 郎、 家 庭 の 越 智 信 子、
書 の 大 家 浅 海 蘇 山、
「日本画の南
放と呼ばれた石井南放、地理学の
村上節太郎(旧五十崎町平岡、旧
庄屋出身)先生等、すばらしい先
生方ばかりで、愛媛教育に貢献さ
れていた。
特に、村上節太郎先生は、同郷
で親しみを感じた。このほど内子
分庁ロビーにて、村上節太郎先生
のモノクロ写真展「旧大洲町、旧
五十崎町、旧内子町」の昭和二十
年頃の町角の風景のため来庁され
た 人 々 は「 珍 し い。
」と見ておら
れた。戦時中の浜、島の人々、農
家の人々の生活等が沢山残されて
おり学生の頃の講義を懐かしく思
い出した。禿頭で、熱弁をふるい
汗をふきふき、踏査した写真・統
計・ 図 表 等 を 示 し て 語 ら れ 楽 し
かった。
土 曜・ 日 曜 日・ 祝 日 等 は 常 に、
カメラ片手に、リュックサックを
背 に、 海 に 山、 県 下 す み ず み に、
生活の姿、伝統行事、風習の撮影
にかけまわり、後世のために残さ
れた功績に感動、敬服するもので
ある。その上にみかんの研究「村
上の柑橘研究」は第一人者といわ
れた。地方に尽力され「みかん愛
媛」の礎を築かれたともいえる。
平成二年一月十五日発行「内山
地歴談話会十五年のあみ会」の会
長として、内子の産業和紙、櫨と
ろう
蠟、養蚕、交通、地質、仏閣、街道、
自然の研究など多岐に渡り会員の
調査、踏査に指導助言されている。
「旧五十崎町誌の篇算委員会顧
問に任命されたが、一度も出席せ
ず発行され、私は、天神村、御祓
村の古い景観的写真等載せてもら
えず残念。愛媛県史四十巻編纂中
で 忙 し か っ た せ い も あ っ た。」 と
談話誌に述べられている。先生の
資料は多数保管されているとい
う。
「海と島に生きる」愛媛県歴史
博物館発行(平成十八年十二月)。
昭和十年、十二年、十三年、戦後
二十一年頃の写真約百八十枚「忽
那諸島。芸予諸島の姿。港町のに
ぎわい。海辺の情景。なりわいの
海。さまざまの船。はたらく女性。
海の子どもたち。海と祭り)貴重
な遺産である。
著書「愛媛県史四巻(四十巻)「私
たちの郷土」「愛媛県新誌」「柑橘
の研究」「論文」等。他多数。
先生の略歴
大洲中学校卒業。東京高等師範
〈現東京教育大)地理、歴史専攻。
東京文理科大学理学部で人文地理
専攻し、昭和十年三月卒業。
愛媛師範男子部。愛大法文学部
地理学担当。退職後、愛媛大教養
部、聖カタリナ短大で十五年間非
常勤講師。
(〠 喜
多郡内子町五百木
一五四)
さい。
愛媛学習センターにご請求下
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て、 教 員 免 許 更 新 が 可 能 で
可能です。
○ 放送大学の科目を利用し
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4 4 4 4 4 4 4
○ 放送大学の科目を利用し
て、特別支援学校教諭免許
可能です。
○ 放送大学の大学院を利用
して、専修免許状の取得が
きます。
4 4 4
関係の免許資格取得などがで
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
職の方々は、次に掲げる教育
4 4 4 4 44
学べますが、同窓会員特に現
4 4 4 4 4 4 4
放送大学では、心理学・福
祉・文学など、幅広い分野を
通信制の大学です。
放送大学は、テレビなどの
放送を利用して自宅で学べる
放送大学では、平成二十四
年四月入学生を募集中です。
生募集のお知らせ
放送大学四月入学
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状の取得が可能です。
29
24
24
(昭二九卒)
卒業して半世紀。学園生活が走
馬灯のように蘇り懐かしく思い出
している。私の入学の頃は子供が
多く教員不足。高校卒の代用教員
で賄う時代で大量の教員不足、卒
業すると就職できた。会社・証券
会社・銀行等に就職する人が多く、
教員は「でもしか先生」と揶揄さ
れるほど希望が少なかったように
思う。でも入学試験は、合格しな
かった人もいた。
私の入学の頃は、戦後まもなく
のため、施設・設備は悪く、校舎
は「城北練兵場跡」のため、木造
二階が並びわずかに改修してい
た。
新制大学設立当初のため、学生
は愛媛師範男子部、女子部、青年
師範から編入した人もいた。当時
は教育学部、法文学部、文理学部
のみであった。今の農学部は、県
立農大、
現工学部は「新居浜工専」
といい新居浜にあった。
先生方は、師範学校より大学に
編入。物不足時代、板張りの床の
上 を、 下 駄 で 歩 く の で 音 が 立 ち、
授業中やかましかったが、各先生
あまり注意されなかった。板書中
心で、聞きもらさないように筆記
791–
3351
(25)
同 窓 会 報
同 窓 会 報
(26)
同窓会事務局と係わる過程で、「岡
山県支部」立ち上げを、同窓会事
務局から要請をいただいたことで
した。
初めての支部総会ということ
で、どういう会になるか少々心配
をしておりましたが、冨田一廣さ
んらスタッフの名進行のもと、ご
出席の皆さんに自己紹介を兼ね
て、思い出や近況を語っていただ
いたのが良かったようです。皆さ
ん思いの丈を述べられたように思
います。道後温泉でのこと、ボー
ト部で梅津寺の海岸で飲み明か
し、 講 義 に も ろ く ろ く 出 席 し な
かったこと、松山のお城への階段
を走って駆け上がった部活動、持
田の教養時代のこと等等、今、
「坂
の上の雲」で脚光を浴びている松
山の懐かしい地名や場所がふんだ
んに出て来て、皆さんの顔がだん
だん愛大の、松山の顔になって参
りました。会は盛り上がり、これ
からというとき、予定の三時間は
あっという間
支部だより
愛媛大学教育学部同窓
会、第一回岡山県支部総
会が、平成二十三年八月
二十八日㈰、JR岡山駅
前「サン・ビーチ OK
AYAMA」にて、正午
より開催されました。猛
暑の中、ご多忙の中、ご
来賓として、同窓会顧問・
愛媛大学教育学部長 壽
卓三様、同顧問・愛媛大
学教育学部名誉教授 奥
定一孝様が駆けつけてく
だ さ い ま し た。
「教育学
部」の存在の意義が問わ
れている現状や、盛大な
会になったことへの感謝と今後の
発展を祈念するという、お心の籠
もった祝辞をいただきました。あ
りがとうございました。
出席者の同窓生は二十五名。第
一回目のささやかな船出でした
が、昭和三十三年卒の方が最高齢
で、 ご 夫 婦、 親 子( 平 成 十 年 卒 )
でのご参加もあり、今後の同窓会
支部の運営・活動のあり方の指針
を与えられた、意義ある会となり
ました。
開 催 の き っ か け は、
「同窓会報
第一一一号(平成二十三年二月一
日発行)
」の最終面に紹介されて
い る、
「 愛 媛 大 学 文 化 講 演 会( 平
成二十二年十一月二十三日)
」を
開催するにあたって、私が大学や
岡山新支部発足
に過ぎ、会を
打ち切らざる
を得ませんで
した。最後は、
愛大合唱団や
特音出身の皆
さんのリード
で大学学歌を
熱唱して、再
会を誓い、散
会しました。
「 も っ と 早 く 開 く べ き だ っ た。」
「楽しい会でした。」「次回も是非。」
などなどありがたいお言葉もいた
だき、皆さん喜んでくださいまし
た。今までに、倉敷、笠岡地区な
どで同窓生の会が開かれているん
ですよね。後ほどいくつか紹介し
ますが、欠席された方々の通信欄
を 読 ん で み ま し て も、 会 の 時 期、
場所などにもっと配慮すればまだ
まだ参加者の輪は広がるかな、と
思いました。
次回も今回の発起人で会を持と
うと思います。今度はスタッフで
よく話し合って、開催時期、場所
などを検討して早めにご連絡いた
します。もちろんご返事の通信欄
のご意見なども参考にして会の出
席者が固定化しないように努力し
ていきたいと存
じます。
次は、二年後
に開催を予定し
ています。また、
名称も「県人会」
で は な く、「 岡
山県支部」に統
一します。それ
に、
「同窓会報」を手にされてい
ない方が多かったですね。これを
皆さんに漏れなくお届けしなけれ
ばなりません。これも大きな課題
です。
また、現職の方々のご出席が増
えるように、ご案内が確実に届く
ようにしなければなりません。「作
文の会」や「合唱団」などの、卒
業後の活動やご経験などが出され
ましたが、こうした教育現場の実
践や悩みなどが話し合われ、同窓
会報を通して、岡山県支部はもち
ろん、愛媛県支部そして他県の支
部 と も 交 流 で き る よ う に な れ ば、
母校がぐんと近くなり、同窓会の
意義も高まります。そのために県
支部の「名簿」も整備していくつ
もりです。
また、同窓会報への積極的な投
稿もよろしくお願いいたします。
今回ご欠席者の通信欄より、い
くつかを紹介をしておきます。
「教育出身でかつては懇親会を
開いていました。
」「笠岡にいた頃
始まった。校長十人程の愛大会が
三十九人になっていましたが現在
は……。
」「会が発展して松山で開
けるようになったら良いですね。」
「体調がすぐれず夏場・冬期等の
外出は予定が立ち
ません。
」「すばら
しい企画です。新
しいご縁が生まれ
るよう御盛会を
祈 っ て い ま す。」
「小学校の校長を
しています。光が
見 え て き ま し た。
ご連絡下さりありがとうございま
した。」「岡山県人会の発足、誠に
おめでとうございます。機会があ
れば是非お手伝いさせてくださ
い。
」
終わりになりましたが、今回の
岡山県支部総会開催に当たり、同
窓会本部事務局より、過分な「支
部支援金」、「支度金」
、
「祝金」を
いただき、十三万円ほど次回に繰
り越すことができました。この紙
面をお借りして、厚く御礼申し上
げます。
また、現同窓会長・愛媛大学教
育学部教授・理学博士 髙橋治郎
様は、当日、急な公用のため出席
できず、皆さんによろしくとのこ
とでした。
「東北大震災」という未曾有の
国 難 に 遭 遇 し、 一 方 で は、
「なで
しこジャパンの快挙」
など、「風化」
を許さぬ事件の多かった年に、こ
うして「絆」を深める会を持つこ
とができたことに、またそれに係
わってくださった多くの関係各位
に、深く感謝申し上げ、言葉足ら
ずで、不十分な内容の報告になり
ましたが、これで筆を擱きます。
平成二十三年十二月
岡山県支部長 岡田
潤
(昭和三八年卒)
三年生までは正常な授業を受け
ま し た が、 四 年 生 に な る と 昭 和
に思い出します。
ン獲得に走ったことを今でも鮮明
の前は夕食もそこそこに、オルガ
ガンの数が少なく、オルガン検閲
ガンの時代でした。練習するオル
ピアノのある学校は少なく、オル
自 習 時 間 は お し ゃ べ り 駄 目 で、
黙々と勉強したものです。当時は
ました。
五年間、人間としての教育を受け
床し、就寝する厳しい寮則に従い
たちクラスの者は多くの者が結婚
教 員 生 活 二 年 目 に 終 戦 に な り、
混迷する戦後教育界にあって、私
は五十円でした。
教育界でした。ちなみに、初任給
故の重荷を背負わされた戦時中の
に二回もしました。正教員なるが
の研究授業も、国語、理科と一年
担任以外にも高等科の音楽、体
操(薙刀)を受け持たされ、郡内
出ます。
弾いたか、今想い出しても冷汗が
ごとに頭が真白になり、何をどう
くことを命じられ、想定外の出来
きなり入学式の歌のオルガンを弾
新任の私は赴任の挨拶だけを考
えて、入学式に臨みましたが、い
次が私の席でした。
名でした。校長先生、教頭先生の
名のうち正教員四名、代用教員六
美子さんを偲ぶと共に出席した人
これを機会に、三年前に約束し
ていた「米寿の会」を開催し、恵
様へと十部寄贈されました。
( 大 学 教 授 ) か ら、 ク ラ ス 会 の 皆
れていました。一人娘の美鶴さん
ランド回廊」と題した本を出版さ
舎生活を書いたエッセイ集「ポー
持ちから、自分の学生生活、寄宿
度と戦争を起こしてほしくない気
同士や戦争を知らない若者に、二
彼女は老齢になり介護施設の病
床で、戦争の只中で青春を送った
生の奥さんです。
集を編集された、故、蒲池文雄先
教育学部に長く勤務され、子規全
になっていました。恵美子さんは、
んが他界され、再会できないまま
ましたが、今年三月蒲池恵美子さ
そ の 時、
「三年後に米寿のクラ
ス 会 を し よ う ね。
」と約束してい
た気軽なミニクラス会でした。
祈っています。
にいい人生の卒業が出来ますよう
い で。
」 頑 張 っ て 下 さ い。 お 互 い
て い る ク ラ ス の 皆 様、
「くじけな
平成二十三年六月十日現在の生
存者二十一名、苦痛に耐えて生き
きたいものと願っています。
ろり」と迷惑をかけないように行
大正、激動の昭和、平成と三世
代を生き抜いた私たちです。あち
て別れました。
気で長生きしようね。
」と誓い合っ
家 族 が 迎 え に 来 た の で 閉 会、
「元
全 員 で「 故 郷 」 を 合 唱 し た 所 で、
趣味がカラオケの中川さんに上
手な歌を聴かせてもらい、私達も
うか?
(昭一九年愛師女)
米寿を迎えた私達は、昭和十四
年当時三津浜にあった愛媛県女子
学校は全寮制で、寮は白帆行き
交う風光明媚な三津浜海岸に隣接
分かれていました。
しました。卒業生三十六名は、辞
真っ只中の昭和十九年三月に卒業
奉仕にも行きました。太平洋戦争
五 年 生 に な る と 体 操 の 時 間 は、
竹槍訓練、バケツ消火訓練、勤労
この年でした。
が、高齢化で世話をする人がいな
もいろいろ変えて開いていました
成十四年までは毎年当番制で場所
歳を迎えた平成三年からです。平
をするようになったのは、六十六
しに花が咲き、同級生っていいね
る八方美人だったと追憶、私たち
上手、ダンスも上手、何でも出来
で、独唱は宝塚みたいだし、絵も
昼食の料理を食べながら、恵美
子さんがクラスでも目立った存在
師範学校本科一部に入学しまし
し、北寮、中寮、南寮、新寮と四
令により県下の国民学校(現在の
くなり中断しました。
……話はつきません。五年間、同
私は南郡出身なので、地元の国
民学校に赴任しました。教員数十
争が激しくなり、敵国語を使って
に配本しようと川崎さんのお世話
えがありました。鐘の音と共に起
た。
はいけないと英語の授業がなくな
で急遽ミニクラス会をすることに
米寿の会あれこれ
その当時の女子師範学校は、小
学校後高等科二年生を卒業して入
退職をしました。定年退職まで勤
棟あり、部屋は二十畳程の和室で
小・中学校)にそれぞれ赴任しま
八 十 四 歳 に な っ た 平 成 二 十 年、
龍山さんの呼びかけで、途絶えて
(〠
二
二
一〇)
宇
和島市大宮町
ら に 旅 び 立 つ 時 は、
「ぴんぴんこ
学する一部生(在学年数五年、定
り薙刀が教科になりました。県立
めた人は、クラスで六名でした。
定員八名、一部生、二部生混合の
した。当時の国民学校は、男子教
いたクラス会をしました。八名集
じ釜の飯を食べた絆の強さでしょ
-
金子 六女
員四十名)と、小学校後女学校四
だ っ た 師 範 学 校 が 国 立 に 昇 格 し、
卒業後のクラス会は三回ぐらい
ありましたが、ばらばらになった
縦割で編制されていました。室長
員は兵役につくため多くの者が徴
まり元気で会えたことを喜び合っ
-
十六年十二月に始まった太平洋戦
年生を卒業して入学する二部生
愛媛師範学校女子部になったのも
なりました。
( 在 学 年 数 二 年、 定 員 八 十 名 ) に
は最上級生の中から指名されてい
兵されており、正教員は少なく代
仲間と一泊二日の楽しいクラス会
ました。
用教員で補充しておりました。
期日 平成二十三年六月十日
場所 松山駅前キスケカラオケ
集まったのは五名でした。
長幼の序はありましたが、いじ
あい あい
め な ど は な く、 和 気 藹 々 と 楽 し
老婆も学生時代に返り、想い出話
い生活でした。一年ごとに編制が
798–
0039
(27)
同 窓 会 報
同 窓 会 報
(28)
東京駅から日帰りの旅
~ 昭 王 会 東 京 支 部の集いから~
伊藤
始
(昭二〇卒)
す。厳しいアルプスを父に、優し
ぐ、 目 の 前 に 安 曇 野 が 広 が り ま
と、 犀 川 が 現 れ ま す。 そ し て す
念岳を見ながら明科駅を過ぎる
市街を眺めることができます。常
「 こ れ も 山 岳 路 線 で、 塩 尻 を 出
て し ば ら く 行 く と 松 本 市 に 入 り、
名とのことです。
の卒業生のうち、生存者は六十二
永井君、菊池君から同期生の消
息の報告がありました。一七八名
霊に黙祷をささげました。
んからの手紙を披露。そして彼の
懇親会に先だち永井君から、昨
年亡くなられた関谷弘君の、奥さ
さい かわ
い安曇野を母にした自然は、いつ
あ ずみ の
も豊かな表情を見せてくれます。
出 席 者 は、 愛 媛 か ら 池 川 啓 司、
菊池巧、関東は兼頭吉市、神野正
て散会しました。
近況報告の後、神野君の音頭で
校歌を高らかに歌い、再会を約し
なお安曇野は、日本一のワサビ
の産地です。また、小学唱歌で有
品川区立中小企業センターの
新 緑 が 鮮 や か な 昨 年 五 月、 昭 王
会 東 京 支 部 の 集 い が あ り ま し た。
名 な〝 早 春 賦 〟 は、 こ こ が 舞 台
だと言われています。
回 く り 返 し て 姨 捨 駅 に 着 き ま す。
です。別名〝八ヶ岳高原線〟とい
「東京駅から長野新幹線に乗り、
佐久平で下車。ここからは小海線
部暗記しています。名調子で情景
ました。資料も見ないで内容を全
以上、ほんの一部です。十一時
間の旅を二十分ほどで話してくれ
三千メートル級の八ヶ岳連峰に囲
憶力です。
いてなお、衰えを知らぬすごい記
光、首藤敏、永井恒男、深見清春、
伊藤始の計八名でした。
そう しゅん ふ
二十九回目です。
懇親会に先だち、研究や趣味な
ど の 発 表 の 時 間 を 設 け て い ま す。
安曇野を後に、いくつかのトン
ネルを抜け、スイッチバックを三
君の「東京駅から日帰りの旅」で
スイッチバック三回は、わが国で
今年で六人目です。本年は首藤敏
す。十コースのうちから、長野県
ここだけです。
うば すて えき
の「小海線・篠井線」の車窓から
見た光景についてのスピーチでし
います。列車は佐久平の中央を南
を リ ア ル に 描 写 し て く れ ま し た。
〝おもかげや姨一人泣く月の友〟
(芭蕉)の句碑があります」
下します。ここ佐久平は、北は浅
特に山の名前、その標高がすらす
た。その一部を紹介します。
間 山 二 五 六 〇 メ ー ト ル、 西 に は
ら出てくるのには驚きました。老
まれた、標高六九〇メートルの高
たて しな やま
蓼 科 山 二 五 三 〇 メ ー ト ル、 南 が
原です。森と沼、そして千曲川の
い。
来年は、神野正光君の「仏像彫
刻について」です。ご期待くださ
水系に囲まれた健康の里です」
(塩尻駅から篠井線に移る)
記
毎年三月三十日までと
し、二年毎に更新する。
愛媛大学教育学部同窓会
4 4 4 4
領 収 書 は、 振 替 用 紙 を も っ
て、かえさせていただきます。
送 り 先 〠七九〇︱八
­ 五七七
松山市文京町三
送金方法 郵便為替・現金書留・
郵便振替で
振替口座番号
〇一六四〇︱七︱二七五四
納付期限
られる方もあります。
の で、 何 年 間 か を、 ま と め
② 二 年 ご と の 更 新 は、 煩 さ な
す。
ず つ 収 め るよ う に な っ て い ま
4 4 4 4 4
①一年間五〇〇円で、二年間分
4 4 4 4
方お願い申し上げます。
出 費 多 端 の 折 柄 恐 縮 で す が、
未 納 の 方 は、 左 記 要 領 で 納 付
なっております。
で負担していただくことに
の 個 人 宛 発 送 は、 送 料 を 各 自
平成二十三年七月号でもお
4 4 4 4 4 4 4
知 ら せ し ま し た よ う に、 会 報
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
会報の送料納付
について
原 稿
募
集
︱次号 第一一四号︱
短 く て も 結 構 で す。 多 く の
方々のお気軽なご寄稿をお待ち
しております。
◇
◯ 「今、教育学部に思うこと」
を特集しています。ふるって
ご投稿下さい。
★ 同期会や支部同窓会などの
集会や活動について
★ 恩師・先輩・同僚の訪問や
思い出について
★ 職場の近況や所感や活動に
ついて
★ 文芸(随想・俳句・絵手紙・
川柳・俳画・短歌・詩等)に
ついて
★ 会員便り
1旅行記
4この頃思うこと
2季節便り 5
忘れ得ぬ人など
3教育雑感
※ 投稿が多数になった場合に
は、 編 集 委 員 会 で 選 ば せ て 載
きますので、ご了承ください。
◇
★ 原稿〆切 四月三十日
発行 七月一日 予定
★ 字数
依頼者以外は千二百字厳守
四〇〇字詰原稿用紙の一行
を 十 五 字に し て 書 い て 下 さ
い。
★ 写真
筆者の顔写真を添付して
く だ さ い。 顔 写 真 以 外 で 内
容に関連した写真もあれば
送ってください。
(29)
同 窓 会 報
会員の声
附属小学校の思 い 出
さて、五年生になり、受持は富
永徹先生に代った。
先生は冒頭
「こ
こに湯呑みが二つありどちらかに
毒が入っている。一度だけどちら
に入っているか言うから良く聞い
て、その後一杯を飲めと言ったら
誰でも真剣にその言葉を聞くであ
ろう。その位の熱心な気持で授業
に耳を傾けよ」といった訓示をさ
れた。実は後年先生が郷里宇和島
で亡くなられる直前、当時の同級
生十数人で訪れた際この話を申し
上げたら「良く憶えているな。そ
の話は良く使ったものだよ」と我
が意を得たりといった顔をされ嬉
しかった。
ここで当時の授業の様子を思い
出してみたい。割合にシンプルで
国語は読本を全員で朗読、その後
指名された一人が読み、文字を覚
え、語句を習うといったもの、算
数は全く教科書に沿って進められ
栗田 瑞夫
愛媛師範学校教官
栗田国彦先生のご長男
(二)
たがソロバンの練習があり、足し
算のスピードが競わされて一生懸
命 に な っ て 頑 張 っ た。 理 科 や 工
作、習字や図画については全くと
いっていい位記憶がない。元来不
器用で出来が悪かったせいであろ
う。一方音楽は多少血筋のせいか
好きでもあり得意であった。音感
教育で、高畠先生が、ドミソ ド
ファラ シレソ といった和音を
弾いて生徒に答えさせるものであ
るが、私は世の中でこんな簡単な
ものはないと思える位容易であっ
た。ところがそれが判らない級友
もいてお前はどうして易々と判る
かと不思議がられたが、私は逆に
どうしてそんな事が判別出来ない
のかその方が不思議だった。之に
関連する事柄として、当時愛媛県
出身の前田山(後年横綱)が或る
時来校、我々は天下の大関を目の
辺りにして大いに湧いた。
その折、
富永先生は「相撲取りは立派な体
格をしているが或る点不自由な体
でもある。転んでも自分で起き上
が れ な い 力 士 も あ る 」 と 言 わ れ、
その時、前記和音と併せ考え、人
はそれぞれ持って生まれたものが
あり得てあれば不得手あり要は得
手を伸すことが大切かと至極当り
前の事に思い至った。
音 楽 に つ い て 今 少 し 述 べ る と、
高畠先生は仲々進んだ教育をさ
れ、クラスから楽器の好きな者を
選 ん で 楽 団 を 編 成( ピ ア ノ ア
コーディイオン ハモニカ 太鼓
タンバリン等々)放課後居残って
合奏練習をした。私はアコーディ
オ ン を 担 当、 曲 目 は、 越 後 獅 子、
カッコウワルツなど、仲々のもの
だったらしく、ラジオ(松山放送
局)に出演(?)一寸した話題と
なった事もあった。今のレベルか
らみれば幼稚極まりないものだっ
たと思うが、高畠先生は秀れた指
導力を持っておられたものと思
う。
音楽の話が続いて恐縮である
が、戦意昂揚のため昼休み全員が
講堂にて「とき今だ 決意に燃え
よ米英の いのち根こそぎ 撃ち
てし得まん 〳〵……」等の勇壮
な歌を覚え乍ら大合唱したり、又
或る時は昼休みグラウンドで遊ぶ
生徒に聞こえる様、大スピーカー
で、敵機グラマンやボーイングの
爆音をレコードで流し耳の訓練を
させられた事も懐かしい思い出で
ある。
そういえば四大節には本校へ全
員赴き式典に合同出席した。父が
式歌のピアノを弾くと「あれは栗
田のオヤジだにやあ」と後から冷
やかされ、この時だけは何ともキ
マリが悪かったものである。本校
校長林伝次先生の壇上姿を下から
拝した記憶があるが、大変威厳に
満ちたお姿が目に焼きついてい
る。
その林校長であるが、父が松山
に赴任した時、家族全員(弟妹合
わせて五人)でお宅にご挨拶に
伺った事をどういうわけかハッキ
リ覚えている。まだ入学前五才の
時かと思うが、先生が立派な鬚を
はやしておられたので「それで
ひげはやし先生というわけか」と
言って頭をコツンとやられた。ど
うもそういった癖があり、いまだ
に直らないのは我乍ら困ったもの
と顧みて恥ずかしい。
トンだ方向へ筆がそれたが、授
業の後の放課後はどう過していた
か。タンキュウと追ってくる悪童
か ら 何 と か 逃 げ て 帰 っ て か ら は、
遊んだ事と片端から好きな本を読
んだ事で大部分の時間を過したよ
うで余りいわゆる勉強した覚えは
ない。第一、宿題などまず無く授
業を良く聞いておれば大体理解出
来、それで良かった。級友の多く
も同様であったろう。
遊びはランコン(語源は何であ
ろう)といったビー玉、それに武
士の絵図が書いてあるメンコ、土
の上に釘を立て陣地を争う釘立て
など、戦争ごっこも結構楽しかっ
た。今尚覚えている方もあろうが
「ベンさん」の名で知られた名物
のオッサンがいて、我々が遊んで
いるとヒョッコリ現れ、刀や剣の
模型の如きモノを作って呉れたり
ヒョーキンの度合を過ぎた可愛い
がりをして呉れ、子供等の人気者
で あ っ た。 読 書 の 方 は、
「少年倶
楽部」の廻し読み、小説では最も
貪る様に読んだのが山中峯太郎著
敵中横断三百里 大東の鉄人 祖
国の鐘
な ど。 滅 法 面 白 く て や め ら れ な
かった。評判講談全集も楽しかっ
た。 余 り 教 育 的 な 読 み 物 で は な
か っ た か も し れ な い が、 漢 字 や、
日本語独特の言い廻しなど結果と
して大分身についたと思う。
兎も角戦時中でも窮屈な思いは
左程なかったのは幸せと申す他な
い。
とはいっても五年生となった昭
和十九年は戦火も熾烈化し、級友
の中には田舎へ転校して去る人も
ボチ〳〵出て来たが、反対に大都
会から転校して来、新たに級友に
加わる人もいた。
関連してショックを受けた事が
あった。算数の時間に東京から転
校して来たY君が挙手して富永先
生に、ある質問をした処、先生は
「Y君の質問は今の君等の殆どが
理解出来ない高いレベルもので
……」と説明され「流石に東京育
ちには凄い人もいるものだ。所詮
僕達は井の中の蛙であったか」と
思い知らされた。
といっても格別それから発憤奮
起したわけでもなかったが。
ここ迄級友との思い出は殆んど
記さなかったのは、余りもそれが
多く取捨選択出来ないゆえである
が一人だけ特別に書かせて頂く。
先年惜しくも先立った安西徹雄
君。 大 街 道 横 の 専 念 寺 の 生 れ で、
竹組であったが三年の男子組で一
緒になってから気が合ったのか親
交 を 結 び、 近 年 迄 愉 快 に 続 い た。
閃きの鋭い感性の持主で同級生で
は群を抜いて優秀だった。後年は
上智大学教授となりシェイクスピ
アの大家として知られる一方、劇
団「円」の結成に参加、演出家と
して名を馳せた、文字通り畏友で
あった。彼とは四年生の時だった
か教室でフザケ合っている内に私
が足を滑らせ机の横のランドセル
を掛ける釘に頭を打ち裂傷を負い
出血した。傍にいた教生先生が驚
いて医務室へ連れ応急手当をして
下さったが「君はエライ。泣かぬ
から大したもの」と褒めて下さっ
たが私は「こんな事位で泣いてた
まるか」という心境。たゞ傷跡は
今も頭のテッペン横に僅かなハゲ
となって残っていて、今では貴重
な 贈 物 と 思 っ て い る。 現 在 な ら、
かゝる事でも何かと面倒な事にな
る事もあるそうだが、当時は何等
気にも懸けず、その後も彼は私の
家に度々遊びにも来た。
前述した様に五年の二学期半ば
郷 里 へ 転 校 せ ざ る を 得 な く な り、
涙乍ら教壇で別れの挨拶をした。
ところでその後我々附属のクラ
スメートは、在京組は年に一度は
顔を合わせ、数年に一度は松山へ
も出掛け往時を偲び良い交流を続
けている。三年前は松山組が上京
して呉れ総勢二十人近く、師を語
り往時の失敗談を笑いまこと楽し
い一刻を過した。附属への感謝の
念は尽きないがこの辺で擱筆す
る。
結論。良い学校というものが別
に あ る わ け で は な い。 良 い 先 生、
良 い 友 の い る 学 校 が あ る だ け だ。
附属は間違いなく、
それであった。
何と幸せな事であったか。
祝 池川 敏
幸さん
山上 亘子
(昭二五卒)
四国電力株式会社発行の「ライ
ト&ライフ」八月号の中に、よん
でん文化振興財団、平成二十三年
度、顕彰者として、池川敏幸さん
の様子の記事が載っていました。
( 昭 二 五 卒 ) の 顔 写 真 と、 受 賞 式
一五)
松
山市上市二丁目
たいと思います。
(〠
四
よんでん文化振興財団
平成二十三年度顕彰者を表彰
(公財)よんでん文化振興財
団 は、 こ の ほ ど、 平 成 二 十 三
年度顕彰者の表彰式を行いま
し た。 今 年 度 は、 優 れ た 芸 術
家 に 授 与 す る「 よ ん で ん 芸 術
文 化 賞 」 を、 彫 刻 家 の 池 川 敏
幸さんにお贈りしました。
隋身像奉祝除幕式
より
恵子
(昭二五卒)
武田
(彫刻家)
池 川 さ ん は、 元 香 川 大 学 教 授、
彫刻家、二科会香川県美術会を中
-
池川敏幸さん
心に優れた作品を発表。文部科学
大臣賞を受賞。香川県美術会の実
行委員や審査員として貢献。地域
の芸術文化の振興に寄与された記
事を読んで、同期生の御活躍、受
賞をよろこび、心よりお祝い申し
上げます。
本年度の二五師会を九月三十日
(金)に東京第一ホテルで開催し
ますが、出席者全員でお祝いをし
受賞式の池川敏幸さん(右)
790–
0853
六月十七日 高松在住の同級生
池川君から便りあり。
「 …… 大 山 祇 神 社 の 隋 身 像 の こ
とが、六月十六日の愛媛新聞にあ
るように、七月六日十一時から除
幕式があり、二体の守護神が、公
開されます。一昨日、総門の中に
左 右 二 体 を 設 置 し て 頂 き ま し た。
私たち親子の木造彫刻です。見て
下さいね。……再会を楽しみに。
」
東 温 市 出 身、 元 香 川 大 学 教 授、
池川敏幸君は、二十五年卒業の同
期生で同じクラス。机を並べて学
んだ友人である。
彼はサッカー部、私はバスケッ
ト部、ろくに勉強もせず、赤土と
クローバーの城北のグランド(愛
大)でボールを抱えて、過ごした
友である。
六月十六日 愛媛新聞より
「今治市大三島町宮浦大山祇神
社の守護役となる隋身像二体の設
置が十五日神社総門であり、外構
えの門にあたる総門本来の姿が
整った。……東温市出身の彫刻家、
池川敏幸さんと、鹿児島大学教授
の、池川直さん親子が、鹿児島市
のアトリエで、約二年半かけて制
作……。」
六月二十日 昨年同期会(毎年
開催)に出席した私のクラス十二
名に連絡する。
『前略、池川敏幸さんの作品の、
七月六日十一時~今治市大三島町
大山祇神社で、奉祝除幕式が行わ
れます。~見て下さいね~再会を
楽しみに~と敏幸さんより便りが
ありました。三組の人にのみ(同
期生は六クラスあり)
連絡します。
出席されるのでしたら、七月六日
十時三十分神社大鳥居前集合
お節介屋
武智
修
武田 恵子
七月に入ると
夫の、妻の介護の為、他の会と
重なる為、身体の都合の為、等々
連絡が入る。
七月六日 曇 三時頃より小雨
西予市野村町六時出発の、赤松
豊君の車は、大洲市の飯野一之君
を乗せ、
砥部町の武智修君を乗せ、
今治市湯の浦道の駅で、私と、四
国中央市から来た平井直子さんを
乗せて、大三島へ。
七月七日 愛媛新聞より
「約七〇〇年前に焼失したとさ
れる総門の再建工事を進めていた
大山祇神社で、六日総門の左右を
飾る翼舍と神社を守る隋身像の完
成奉祝祭があり……総門の完成を
祝った……。
」
西
条市楠甲一五〇六)
池川君を囲んだ参加五人の友人
の写真は、二五師会用の私のアル
バムに収まっている。
友人の栄誉を心から喜び合え
る、仲良しクラスの一員である巡
り合わせに感謝しながらアルバム
をめくっている。
(〠
799–
1302
同 窓 会 報
(30)
で出席しました。全国から四十四
彰を受けることになり、家内同伴
者。
」 と し て、 更 生 援 護 功 労 者 表
が特に顕著であると認められる
者の更生援護に尽力し、その功績
わたり、身体障害者又は知的障害
平成二十三年十二月七日、厚労
省 二 階 の 講 堂 に お い て、
「永年に
わったささやかな活動を認めて頂
めに、施設運営や育成会活動に係
立と保護者の安らぎを実現するた
定 年 退 職 し た 平 成 四 年 か ら は、
学校教育修了後の障害者の社会自
思っております。
大臣から表彰され心から有り難く
振興功労者」として鳩山邦夫文部
部大臣から、平成三年には「教育
その間、平成元年には「特殊教
育振興功労者」として石橋一弥文
教育に専念してきました。
三十七年のうち二十九年を障害児
た、昭和三十四年からで教員生活
された特殊学級の担任者となっ
渕小学校(現宇和島市立)に新設
任した当時の北宇和郡蒋渕村立蒋
います。
に感じてくれたのではないかと思
て、今回の受賞は我がことのよう
育成会や本人部会の活動にはで
きるだけ参加してきた家内にとっ
期 待 し て お り ま す。( 写 真 は ま だ
な写真に出来上がっているものと
影しました。天候に恵まれきれい
に配偶者がそのうしろに立って撮
拝謁の後は宮殿前のお庭で記念
撮影がありました。受賞者を前列
た。
を身近に感じることができまし
と比べ今回は受賞者が少なく陛下
た。二十年前の文部大臣表彰の時
かいお心づかいには感動しまし
身をかがめてお声をかけられる細
厚生労働大臣表彰を受けて
名の同士が表彰され、その一員に
いたことになり心からうれしく
(昭三〇卒)
峯本 高義
副会長
加えて頂いたことに心より感激し
思っています。
二十一年から平成二十三年三月ま
設「 つ く し 園 」 の 施 設 長、 平 成
その間、平成四年から平成十五
年までは知的障害者通所更生施
化に努めている。
会の企画運営にあたり、会の活性
任理事、事務局長、相談役として
からは松山手をつなぐ育成会の常
に携わるとともに、昭和五十八年
『二十九年間にわたり障害児教育
成 会 相 談 役、 そ の 功 績 内 容 に は、
ねぎらい、健康に留意してこれか
られやさしいお声で受賞者の労を
に手を添えられてお立ち台に上が
のない時にもかかわらず、皇后様
きました。天皇陛下には退院後間
で皇居に向い、宮殿にて天皇、皇
さ て、 表 彰 式 は 午 前 中 で 終 り、
講堂で昼食をすませた後全員バス
謝しています。
ご支援、ご協力の賜物と心から感
それらを取り巻く多くの関係者の
今回の受賞は私の思いを支えて
下さった障害者本人やその保護者
(〠
ざいました。
と思っております。ありがとうご
ぎらうことができたのではないか
湖等を観光し永年の労を少しはね
届いておりません。)
ています。
受賞とエメラルド婚を記念して
鬼怒川温泉、日光東照宮、中善寺
では障害者支援施設「かなさんど
らも福祉の向上に尽力して下さい
当日厚労省より配布された表彰
者 名 簿 に は、 松 山 手 を つ な ぐ 育
う」の施設長として、利用者や保
とのおことばを頂き身の引きしま
-
九)
護者の福祉向上、支援員の指導育
る思いでした。
-
松山市古三津
三 一六
成 に 寄 与 し た。
』と記されていま
した。
車いすで参加されている受賞者
には一人ひとりにお近づきになり
后両陛下に拝謁し、おことばを頂
私と障害児との出会いは、昭和
三十年教育学部を卒業し最初に赴
791–
8067
(31)
同 窓 会 報
お詫びいたします
H・K
(昭一九卒)
前略、いつも同窓会報をいただ
き有難うございます。
実 は、 私 十 何 年 も 前 に 御 誌 に、
特に編集の係のお方に、大変失礼
なことをし、御迷惑をおかけした
者です。
文芸欄に投稿しましたら、その
後原稿用紙を送って下さいまし
た。有難いことと感謝しつつ三回
も投稿いたしました。
その後、係の方から寄附のお電
話をいただきました。いつもの私
でしたら、勿論、すぐに気持ちよ
く応分の送金をさせていただいた
はずでした。
所 が、 丁 度 そ の 時、 家 庭 内 で
.
一寸した事件があり、私の気持ち
がお金にこだわってしまいまし
た。
済みません。言い訳ですが、聞
いてくださいますでしょうか。
実 は、 そ の 五・六 年 前、 私 の 知
人のAさんがお金が必要となり銀
行から百万円借りました。
その時、
A さ ん の 血 縁 の 方 と、 私 の 夫 と、
二人が連帯保証人になりました。
Aさんはその後きちんと返済し
て い た の で す が、 五 年 た っ た 頃、
不幸な事が重なり、半分程が返却
できなくなりました。
保証人が信用保証協会に何度か
呼ばれ、結局、残額全部と利子等
を夫が全部振込んだことで終了し
ました。
夫はAさんを理解していて私に
は何も言いませんでした。私はも
う一人の保証人のことを思いまし
た。
丁度、その頃だったのです。同
窓会報の編集の方からのお電話を
受けたのが……同窓会報の方とは
全然関係がないのに……私の中に
お金にまつわる人物への拒絶感が
あ っ た の で し た。 私 は 係 の 方 へ
「応」と言えなかったのでした。
係の方は私の対応に驚き、意味
が通じてないのだろうと何度も繰
返しました。そうされる程に私は
頑なに拒否したのでした。
ごめんなさい。恥ずかしい。済
みませんでした。できたら許して
ほしいですが。
その後、自分の誤りに気づきま
した。すぐお電話すればよかった
のに「あやまろう。手紙を書こう」
と思ってしまったのでした。
何冊かの会報と便箋を持って
「書こう。書かなくては」と気持
ちはうろうろしていて、日がたち
ました。
家人が事故で半年も入院し、私
も五ヶ月付き添ったり、やがて老
老介護が続きました。が今は私独
りで、気がつけば歩くのも不自由
となっていました。
手 は 動 く。 何 と か 字 が 書 け る。
今お詫びしておかねばと。
かたく
自分でない自分が電話で頑なな
こ と を 言 っ て し ま っ た よ う で す。
済みませんでした。あの時の係の
人に、どうかお詫びを届けてほし
いのです。お願いします。少しで
すが、今送金いたします。同封の
お金を会報編集の一部に入れて下
さいませ。
寄贈図書
「登校拒否児たちが語る
学校への
『歴史的悲願像』」
不登校児は、戦後史の語部であった
寄贈者・著者
重見 法樹
発行者
中田 典昭
東京図書出版社
発行所
リフレ出版
売
発
B6版
敬弔
・
・7
・愛 大)
・愛師研究)
・愛 大)
・本 科)
・本科一)
西 本 マ サ エ
(昭
水 野 允 陽
(昭
井 関 勝
(昭
高 橋 博
(昭
(氏 名)
森 山 博 志
(物故会員)
(死亡年月日)
・
・1・
・
・5・
・5・
(昭
・8・
・8・ ・9・
・9・
・9・
・9・
・9・
・9・
・
・
・
・
・
・
・
濱 田 孝
・
・
23
23
23
23
23
23
23
23
23
23
23
23
23
23
12
12
12
12
11
11
11
11
11
11
11
11
11
11
11
11
11
11
11
10
12
10
4
2
30
27
26
24
24
24
22
21
12
11
11
6
2
2
1
24
・本科一)
23
高
・愛 師)
・愛 大)
・本 科)
・本科一)
・愛 大)
・愛師研究)
岡
・本 科)
・本科二)
・本 科)
・本科二)
・愛 大)
・本 科)
・青 師)
直
・本科二)
巳
・愛 大)
・本 科)
・青年教養)
・本 科)
毛 利 実
(昭
松 野 盛
(昭
村 上 輝 公
(昭
(昭
河 上 美 代 子
(昭
山 岡 カ ズ 子
(昭
近 田 昌 二
(昭
近 藤 要 太 郎
(昭
佐 伯 マ サ ヨ
(昭
中 尾 嘉 蔵
(昭
河 野 志 眞 男
(昭
松 良 隆
(昭
池 内 功
(昭
(平3・愛 大)
(昭
一 色 キ ヨ コ
(昭
池 川 邦 男
(昭
星 加 勲
(昭
清 家 桂 二
(昭
23
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
井 上 文 博
23
・
山 内 繁 浩
23
(昭
(昭
・本科二)
坂 本 一 郎
・本科一)
瀬 ユ キ エ
(昭
・愛 大)
・青 師)
・本科一)
・愛 大)
・本科二)
・愛 大)
・青 師)
・本科一)
・本科一)
・本科二)
・本科二)
・本 科)
・本科一)
・本科一)
・青 師)
・本科二)
・本科二)
・本 科)
岩 瀬 延 雄
(昭
伊 藤 武 雄
(
明 比 正 光
(昭
宮 内 静 夫
(昭
黒 川 文 江
(昭
中 井 利 明
(昭
西 田 勉
(昭
白 石 裕 邦
(昭
安 藤 道 夫
(昭
三 好 賢 祐
(昭
上 甲 智 惠 子
(昭
綿 村 源 喜 代
(昭
菊 池 豊
(昭
三 浦 守 之 助
(昭
西 村 貞 美
(昭
藤 田 俊 雄
(昭
兵 頭 通
(昭
松 本 二 郎
(昭
柳
16
16
31
20
18
26
13
29
19
型
・
・
・
・
・
・
・
23
23
12
20
25
24
11
28
24
22
29
判
2
18
・9・
・9・
・
・9・
・
3
・
5
・
9
28
14
濱 井 明 幸
29
15
・6・4
1
16
・愛 大)
1
19
(昭
11
9
HHHHHHHHHHHHHHH
15
10
・6・
16
10
・青 師)
21
10
丸 山 勀
23
10
(昭
26
10
・6・
29
10
・本 科)
23
10
白 石 正
23
10
(昭
23
23
・本科一)
23
23
(昭
23
23
米 澤 フ サ ノ
・本 科)
大 下 鎮
(昭
・愛 大)
高 橋 清 美
(昭
・愛 大)
河 野 恒 照
(昭
・本科一)
23
23
・6・
・6・
・6・
・7・
・7・
・愛 大)
那 須 孝 雄
(昭
・本科二)
東 堂 義 雄
(昭
・愛 大)
那 須 明 穂
(昭
(昭
金 崎 ハ ル ヱ
・青 師)
高 橋 安 正
(昭
23
23
月
・7・
・7・
・8・
・8・
・8・
・愛 大)
高 島 一 臣
(昭
23
23
会報送料・寄付者名
年6月~
野
山ノ内
登
金 子 六 女
須之内 勝 彦
佐 伯 幸 子
二 宮 秀 典
武 市
強
初 美
河
お詫びして訂正します。
前会報一一二号目次の
職場だより
芝
(誤)四国中央・金子小教諭
芝
まどか
(正)新居浜・金子小教諭
まどか
23
23
18
4
17
24
12
15
20
14
17
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23
23
16
24
8
34
24
23
16
23
22
16
23
23
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41
24
9
5
13
6
26
22
23
23
23
23
27
22
5
26
25
26
5
23
57
27
29
16
32
14
20
26
12
31
5
7
16
17
28
9
15
18
21
13
16
18
平成
河 合 タネ子
鴨 木 房 子
細 川 準 一
森 貞
聰
島 津 教 恵
坂 木 洋 子
平 山
昇
上 田 暁 美
八 木 光 秋
菊 池 洽 子
鈴 木 俊 子
井 川 清 子
内 田 守 彌
赤 松
豊
長 生
原
23
23
23
23
23
23
23
23
23
23
23
23
23
23
同 窓 会 報
(32)
HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH
同 窓 会 報
(33)
第2 回 愛媛大学 ホー ムカミングデ ィが 開催 され まし た
【プログラム】
平成23年11月12日(土)
■記念イベント (南加記念ホール)
14:00~ ウェルカムコンサート
演奏者:ナサニエル・ローゼン、柏原大蔵、垣生悠比子
15:30~ らくさぶろうトークショー
■記念式典 (南加記念ホール)
17:00~ 学歌斉唱
学長挨拶(大学の現状説明)
卒業生挨拶
卒業生イベント(卒業生OB)
(世界的チェリスト:ナサニエル・ローゼン氏)
■懇親会 (大学会館1階)
18:00~
cccccccccc
好天に恵まれキャンパス内の木々が紅葉する中、卒業生や在学生、元教職員
の皆様をお迎えしました。また当日は学生祭も開催されており、キャンパス内
(校友会 森本会長 挨拶)
には所せましとサークルの模擬店が並び、学生の呼び込みも賑やかでした。
記念イベントとして、南加記念ホールでは14時から国内外で活躍されているチェリスト、ナサニエル・ローゼン氏を
お迎えし、柏原大蔵さん(ヴァイオリン)と垣生悠子さん(ピアノ)らとの記念演奏がありました。素晴らしい演奏に
時間がゆっくりと流れていました。また演奏の後、総合司会の合田みゆきさん(教育学部卒、元南海放送アナウンサー)
による、演奏者の方へのインタビューでは、演奏者のウイットに富んだ答えに会場が沸き、演奏中とは違う素顔を見る
ことができました。続いて、トークショーでは、ラジオやテレビで人気のらくさぶろうさんによる巧みなトークに会場
は盛り上がりました。
記念式典は、愛媛大学合唱団(今年全国合唱コンクールで金賞を受賞されました!)による学歌斉唱で始まりました。
会場の皆さんにも歌詞をお配りし、声高らかに歌っていただきました。その後、学長による愛媛大学の現況について説
明していただきました。
卒業生の挨拶では、森本惇氏(校友会会長、㈱FAZ社長)
、一色昭造氏(校友会副会長石崎汽船会長)
、また海外か
らは蔡英春氏(校友会中国支部長、中国東北林業大学教授)をお招きし懐かしい思い出や、メッセージ、また校友会の
支援についても話していただきました。記念式典の最後は、元応援団による演舞がありました。OBの皆さんによる演
舞は迫力もあり、会場の皆さんの中には感激されていた方もおられたようです。 記念行事の後、大学会館において懇親会が開かれ、東京から来られた菊池満孝首都圏支部長の「えみかビール」によ
る乾杯で始まりました。会場には愛大オリジナルブランド「えみかビール」や「姫の酒」がおかれ、出席された皆さま
はお酒を酌み交わしながら交流を深められていました。最後は奈良からお越しの後藤幹郎近畿支部長の乾杯(ここで後
藤様から、今日一日素敵な司会で盛り上
げてくださいました合田みゆきさんに花
束の贈呈がありました。
)で楽しかった
一日の幕を閉じました。ご参加いただい
た皆様ありがとうございました。
来年11月の第2土曜日、10日に第3回
の開催を予定していますので、皆様のご
参加をお待ちしています!
(ヴァイオリン:柏原大蔵氏、ピアノ:垣生悠比子氏)
(らくさぶろう氏)
(卒業生・教職員・在校生も一緒に懇親会)
(愛媛大学合唱団による学歌斉唱)
(卒業生の元応援団による応援披露)