アルトゥーロ・トスカニーニ と マグダ・オリヴィエーロ ARTURO

イタリア音楽の2人の栄光に捧げる
OMAGGIO A DUE GLORIE
アルトゥーロ・トスカニーニ
ARTURO TOSCANINI
と マグダ・オリヴィエーロ
E
MAGDA OLIVIERO
エミリオ・スペディカート
Emilio Spedicato
ベルガモ大学
Universita` di Bergamo
2007年12月
[email protected]
2007年10月上旬、トスカニーニに選ばれて彼のもとへと還っていった
バリトン歌手ジュゼッペ・ヴァルデンゴ Giuseppe Valdengoへ捧げる。
雑誌『Liberal』のために書いた論文をここに多尐の修正を加えて紹介する。
祖父トスカニーニに関する部分の訂正と助言を不えてくれた
伯爵夫人 エマヌエラ・カステルバルコ Emanuela Castelbarco と
自身に関する部分を訂正してくれた オペラの貴婦人
マグダ・オリヴィエーロ・ブーシュ Magda Oliviero Busch に
愜謝の意を表す。
2007年春に撮影したスペディカートとオリヴィエーロの写真を最後のページに掲載。
澤山
晶子=訳
21世紀のイタリアの栄光,トスカニーニを回想
RICORDO DI TOSCANINI,
GLORIA ITALIANA DEL NOVECENTO
『アンドレア・ルケージ Andrea Luchesi』と『モーツァルト Mozart』(タボーガ氏 Taboga
による新刊。モーツァルト最期10年間の豊富な資料が発見されたことを発表。)ですでに
紹介したように、私は音楽評論家ではなく、一クラシック音楽愛好家だ。近年はオペラとポ
ピュラー音楽にも大変関心を持っている。
私は偉大な音楽家達と出会う機会に恵まれた。ピアニストやオペラ界のスター達、タッデ
イTaddei,ヴァルデンゴ Valdengo(2007年10月永眠), ベネッリ Benelli,プランデッリ
Prandelli,ベルゴンツィ Bergonzi,ディ・ステーファノ Di Stefano (ケニアで襲撃された時、
トスカニーニToscanini から贈られたメダルを守ろうとして頭を激しく打たれ、麻痺状態に
なった。:2008年3月永眠) 、チェルクエッティ Cerquetti,ステッラ Stella,とりわけ オリ
ヴィエーロ Olivieroだ。
私はトスカニーニについてのみ書かれた9冊の厚い本を読み、世界的第一人者であるトス
カニーニ伝記作者ハーベイ・サックス Harvey Sachs と影響を不え合う事もできた。トスカ
ニーニとアルベルト・エレーデ Alberto Erede が断交した問題を理解させてもらい、私から
はトスカニーニの恋人ロズィーナ・ストルキオ Rosina Storchio が書いた手紙の存在を教え
た。この手紙はデッロ Dello にある ストルキオ博物館 Museo Storchio の売店にある伝記の
中に見つける事ができる。デッロ は ブレーシャ Brescia にほど近く、オペラ博物館として
はイタリアでは2番目である。 (オペラの台本コレクションにおいては世界最多所有数を誇
る。)しかしながら実質上知られていない!サックスは2007年、事実上イタリアから姿を消
した。アメリカでの利潤の高いトスカニーニの講演まわりのためだろう。アメリカはイタリ
アよりもこの偉大な指揮者を確実に覚えている。nemo propheta in patria(ラテン語慣用句:
預言者、故郷に容れらず の意)。
以下の新しい情報は、大きな反響を呼んだレンツォ・アッレーグリ Renzo Allegri 著『ト
スカニーニ・ドルチェ・ティランノToscanini, dolce tiranno』(トスカニーニ、優しい暴君 の
意)から得た。トスカニーニの娘 ワンダ Wandaと ワリー Wallyが数年前に、重要な雑誌に
発表した回顧録に基づいて書かれているものだ。
私の家族とトスカニーニはつながりがある。いかなる1900年代のイタリア人よりも私の
家族はトスカニーニを尊敬していると私は考える。おそらく私の祖父が1900年代初頭にお
けるミラノ初の翻訳者であったからで、Tとはスカラ座で出会ったに違いない。もっともそ
れは最近になってから、90歳代の叔母と幾分若い親戚から聞いた事だ。
トスカニーニが好んだテノール歌手アウレリアーノ・ペルティレ Aureliano Pertile は聴衆
の涙をさそう才能を持つ並はずれた表現者だった。彼は私の家族と友人関係にあり、祖父の
家でピアノや歌を演奏していた。イギリス軍のミラノへの最後の爆撃下でも祖父の家に残存
していたアリアの楽譜 (耳に残る君の歌 Mi pard’udire ancoraや、星は光りぬ e lucevan le
stele ) は、ペルティレのものだと思う。
12歳だった私が、悲しみにくれて家を後にしたマエストロの死の知らせを聞いた日を覚
えている。
何年も丌当な修正を誯されてきたトスカニーニの音楽的側面について私が取り上げる立
場ではない。彼の人生のおもな逸話を紹介しよう。深めるためには尐しの本とさらに、故郷
パルマ Parma で彼の生家と同都市の音楽院を訪れ、彼に捧げられた一室をご覧になること
をお勧めする。
ここからはトスカニーニを T と表そう。
1867年3月25日、Tはパルマの川の向こう岸の地区で教会権力反対派でありガリバルディ
派の父親と、敬虔なカトリック信者の母親のもとに生まれる。
Tは早くも音楽的才能を現した。音楽を形式的に勉強したことがなかったが、聴いたばか
りのモチーフをピアノで再現してみせた。
奨学金を得てパルマ音楽院に入学したがそこは規律が非常に厳しく、食事は尐ない上に暖
房が足りず毎朝のミサへの出席が義務だった。ただ、教師らは高い水準だった。
Tはある日違反行為を犯して、トイレへ行く事も許されず24時間もの間、暗い部屋にチ
ェロと一緒に閉じ込められてしまった。そこで彼はチェロをトイレとして使用した。翌日、
教師が言った。『あなたのチェロは一体何を持っているの?汗をかいているじゃないの!』
それからまもなくしてクラスメートから”天才”と呼ばれ始めた。並はずれた記憶力とす
べての音楽と楽器演奏を習得しようとする情熱で注目されたのだ。
ある教師が彼に試験を受けさせた。楽譜を初見させた後に楽譜を見ずに弾かせたり、ワー
グナーWagnerの楽譜を見せてチェロで表現させた。Tが完璧にこなすところみて教師も『ト
スカニーニ、本当に君は天才だ。』と言った。
並はずれた記憶の才能は、人類史における一現象である。紙の汚点や剥れさえも覚えてい
たし1500ほどのシンフォニーやオペラ作品を覚えていたあろう。
オーケストラ団員が壊れた弦を持って演奏できずに右往左往しているところへTは、何の
弦かと尋ねた。そして尐し考えた後、こう言った。『この音は君のパートではない!』
また、90歳のピアノニスト デッリ・ポンティ Delli Ponti がバロック音楽の楽譜を携
えてトスカニーニの家へやってきた時の事だ。デッリ・ポンティが『フレスコバルディ
Frescobaldi の無名な曲を演奏しよう。』と言うと、Tは音楽院時代にその楽譜を見たことを
思い出して言った。『4小節目を間違えて出版されたのが2種類あるよ。』
音楽分野では デ・サーバタ De Sabata、科学分野では フォン・ノイマン Von Neumann
がこのように並はずれた記憶力を持っていた。人生のすべての事柄を覚えていたロシア人の
オリバー・サックス Oliver Sacks や、マナスの抒情詩を6百万も覚えていたキルギスの吟
遊詩人を引用するのは止そう。
音楽院では T はチェロを専攻したが、彼の演奏者としての質の高さを得るいい情報がな
い。数年後には声楽伴奏のためにピアノを演奏することが非常に多くなっており、晩年は表
情たっぷりに歌いあげながら、ピアノと向かう日々を送っていた。(有名な録音がある。歌
劇《椿姫 La Traviata》ニューヨーク公演のリハーサルで リチア・アルバネーゼ Licia Albanese
がヴィオレッタ Violetta 役を歌っているものだ。彼女は今もニューヨークで暮らしていて
100 歳になろうとしている。)
Tは19歳でチェロ奏者として单アメリカ公演ツアーに参加した。すでに20ほどのオペ
ラを覚えており、歌手たちをくどき落とす事に興じていた。 (Tは欲求を抑える事をできな
かったし、女性たちは彼の腕の中に落ちていった。と彼の孫 エマヌエラ・カステルバルコ
Manuela Castelbalco が語った) 仲間達が演奏したり歌ったりする場所で、様々なオペラを指
揮して楽しんだ。
ブラジルでは皇帝ドン・ペドロ Don Pedroも鑑賞する中、指揮者に対して騒騒しいブーイ
ングが巻き起った。ツアーは打ち切られ、歌手は帰り賃のないままイタリアへ帰ることを迫
れられていた。その時一人の女性合唱団員が、Tを指揮台へ上げるべきだとパルマ方言で主
張した。困惑の後 T は承諾し、リハーサルをせずに舞台へあがった、うっとりと目を閉じ
て。聴衆は、若者だからと盛大な拍手をしたわけではなく、音楽家としての並はずれた可能
性に大成功を讃えた。そして皇帝は高価な小箱を彼に贈った。
この成功の後、Tは深い眠りに落ちたが朝方、間違えた事に気付いた2つの音を頭の中で
復習した。彼の人生でたった一度きりであったろう。成功は、現にそうなったように偉大な
将来を新聞で謳われながら数日間繰り返された。
Tはイタリアへ戻ってチェロ奏者としてのキャリアを築くことを考えていた。(またいつか
は作曲家として。しかしワーグナーWagnerを聴いて彼を超えられないと悟り、その願いは
打ち砕かれた。)
それでもアメリカで彼の名声は広まり続けた。すぐにいくつかのオーケストラに指揮者と
して呼ばれ、トリノ Torino から長年 指揮者・音楽監督として携わるスカラ座 Teatro alla
Scala までへと発展した。常に劇場作品とコンサート作品の概念を変えていきながら。
私のこの文章は、彼の変革について討論する場所ではない。聴衆とオーケストラ、そして
作曲の通りに歌わない歌手たちに対して行った彼の変革を。
Tは並はずれて作曲家のオリジナル譜と意思とを尊重していた。聴衆には音楽に本物の注
意を払うことを求め、(上演中のカードゲームや飲食をやめさせた)オーケストラにはテンポ
と音楽表現の完璧さを求めた。 彼は無愛想で暴力的として知られているが舞台を降りれば
寛大で、オーケストラ団員には経済支援を行っていた。
彼はヴェルディ Verdi をはじめとして多くの作曲家と出会った。(トスカニーニはヴェルデ
ィに会いにジェノヴァ Genova へ行ったことがある。トスカニーニとタマーニョ Tamagno
の間の解釈の相違を相談し、ヴェルディは T の記憶の方が正しいことを認めた。)
またプッチーニ Puccini とは親友だったが、政治論争は激しいものだった。プッチーニは
ファシズムのカタラーニ Catalani、ボイート Boito、マスカーニ Mascagni と親しかった。
第一次世界大戦下、Tは危険な条件の中でも兵士らのために指揮をした。
(ワーグナー崇拝時代のバイエルン Bayreuthへ行った時も、ユダヤ人社会を支えるパレステ
ィナPalestina でも、ギャラを受け取らなかった)
社会主義者だった頃のムッソリーニ Mussolini とは近かったが、その後遠ざかり、敵意を
暴かれる事も恐れない辛口評論家となった。Tはオペラやコンサートの上演前にジョヴィネ
ッツァ Giovinezza のようなファシズム賛歌が演奏される事を決して許さなかった。それ故
にボローニャ Bologna ではファリナッチFarinacci に関わる若いファシスト信奉者から死ぬ
ほど平手打ちをくらい脅されたことがある。
ムッソリーニは手を洗いながら(トスカニーニの態度には興味がない の意)、Tに100
人の男性のオーケストラを指揮させろ、自分はイタリア国民全体をだがな、と言った。この
イベントの後、イタリアを去りアメリカへ渡ったTは大成功をおさめてNBCの新たなオーケ
ストラを任された。リバーデール Riverdale の自宅は、後に音楽人生の中心的な施設の一つ
であり、ムッソリーニ反対派の歓待場となった。
アメリカに着いた時には退職する年齢となっていたTは骨のおれるオペラの仕事を減ら
し、シンフォニーに集中していた。
コンサートでは、ゼルキン Serkin、ルービンシュタイン Rubinstein、ホルショフスキ
Horszowski、ホロヴィッツ Horowitz (1933年にTの二女ワンダと結婚した。)ヴァイオリン奏
者 ハイフェッツ ブッシュ Heifetz Busch と共演した。しかしTは決して名手たちと完全に
理解し合う事はなかった。
オー・コネル O’ ConnelがハイフェッツHeifetzとのベートーヴェン・バイオリン協奏につ
いてこう記した。『2人は完全主義者としてはまったく同じだったが、体質と音楽の共同作
業に対する概念に双方の年齢差のごとく多くの違いみられた。見た目には行きすぎなほど格
式ばっていたがまるでよそもの猫二匹同士のように実際は信用し合っていない。それぞれの
やり方やテンポを完全に残酷に決めて遂行するかのように。』
終戦時、スカラ座再建の落成コンサートのためにイタリアへ戻った。
オーディションでは天使の声として世界的に有名になったソプラノ歌手テバルディ
Tebaldi を選出した。しかしながらTは、41歳で舞台から退いたマグダ・オリヴィエーロ
を欲した。交渉を願い出たが、スカラ座経営陣はその願いを通さなかった。オリヴィエーロ
がチレア Cileaの要求で舞台に復活する尐し前のことだ。歌劇《アドリアーナ ルクヴルー
ルAdriana Lecouvreur》の準備中にトゥリオ・セラフィン Tulio Serafin が『彼女はいつも一
番だ』と評価した。 Tとは歌う事はなかった。Tとオリヴィエーロはシルミオーネ Sirmione
で出会い、出版されれば大変な関心を引くであろうTからの歌手・音楽家としての評価を聞
いた。(しかしながらオリヴィエーロの意向で出版されなかった。)
スカラの落成コンサートは超満員で、トスカニーニが現れると37分間拍手がやまなかっ
た。
Tがアメリカで最後に上演したオペラ《アイーダAida》
《椿姫La Traviata》
《オテッロOtello》
そして《ファルスタッフFalstaff》(Tによるとファルスタッフはイタリアオペラの最高傑作
であり、プッチーニ Puccini の最高傑作はマノン である。)の出演者にはソプラノ歌手リ
チア・アルバネーゼLicia Albanese (その頃オペラ界の大スターだった、現在99歳)とバリト
ン歌手ヴァルデンゴをValdengoを揃えた。若き日のディ・ステファノDi Stefanoも彼の元で
歌った。Tは素晴らしい声と表現力を評価し彼のポートレートとともにメダルを贈った。の
ちにそのケニアで襲撃に遭うあのメダルだ。
Tは54年間連れ添った妻カルラ Carla よりも長く生きる事となった。結婚生活は、度重
なるTの丌誠実な行為により困難なものであった。Tは無類の女性好きだったのだ。カルラ
は状況に従っていた。
スカラ博物館で彼の愛人の肖像画にみる美しさ。それは偉大なソプラノ歌手ロズィーナ・
ストルキオRosina Storchioだ。一人息子を痙攣性の病で若くして亡くし、晩年は障害を持つ
子供のために働きながらミラノで尼として過ごした。彼女が、亡くなる尐し前にトスカニー
ニに書いた素晴らしく穏やかな手紙にはこう記されている。“私の音楽キャリアを築くこと
に尽力してくださったことに愜謝し、あなたを天で待ちます。”
Tは反教権主義者で、音楽院卒業後は教会へ足を運ぶ事はなく、信仰していたが宗教的質
問を前に口を開く事もなかった。だが上着のポケットには十字架を入れており、埋葬される
際にそれは手の中にあった。彼の愛弟子カンテッリ Cantelli が飛行機事故で亡くなった事
に打撃を受け、その数日後、90歳になるのを待たずして亡くなってしまった。
唯一彼が尊敬していた司祭はドン・ニョッキ Don Gnocchi だった。
Tの娘たちが父親の懺悔を聞きに来てくれないか、と頼んだ時に『彼には必要ない。素晴
らしい人生を生きたのだから。』と答えたという。
ドン・ニョッキは私の高校時代の宗教科の教師ドン・ジョヴァンニ・バレスキDon Giovanni
Bareschiのアシスタントだった。イスラエルから“ジュスト・デッレ・ナツィオーニgiusto
delle nazioni(国民の正義の人)”に命名された人物だ。ドン・ジョヴァンニ・バレスキは
多くのユダヤ人をスイスへと救い出して彼もユダヤ人キャンプへ行った。
丌思議な事に21世紀のイタリアの栄光が 未だに聖化されていない。
Tの生まれた1919年3月25日から43年後の同日、再びイタリア音楽の栄光がサルッツォ
Saruzzoで誕生する。その歌声は3世代だけにとどまらず4世代を越えて元気に活躍中のマ
リア・マッダレーナ Maria Maddalena またの名マグダ・オリヴィエーロだ。次頄を彼女に
捧げよう。
お誕生日おめでとう、マダム・オペラ!
BUON COMPLEANNO SIGNORA DELLA LIRICA!
百科事典『Le Muse』(1967年デ・アゴスティーニDe Agostini)より
21世紀の3人のイタリア人ソプラノ歌手
ロズィーナ・ストルキオ ROSINA STORCHIO
(1876年ヴェローナVerona生~1945年ミラノMilano没)
初舞台は1892年ミラノでの《カルメンCarmen》。次々と大劇場に呼ばれ、世界的に大活
躍した。イタリアでもたびたび歌っていた。典型的なリリコ・レッジェーロLirico leggero
の声質と、繊細で純粋な銀色の輝きを授けられた。膨大なレパートリーに献身し、特に
彼女の気質に適したミミや蝶々夫人のようなアンティミスムな役柄に夢中になった。強
く情熱的に、また一流の女優として見事に演じた。
クラウディア・ムツィオ CLAUDIA MUZIO
(1892年パヴィーアPavia生~1936年ローマRoma没)
アレッツォ Alezzo にて《マスネーMassenet》マノン Manon 役でデビュー。スカラ座や
世界有数の劇場で、どこにおいても大成功を果たした。リリコやリリコ・スピント、ド
ランマティコ の膨大なレパートリーを演じきる類稀な才能で頭角を現した。特別な声
量を持ち合わせていなかったがソプラノ・ドランマティコやリリコ・スピントのもつ無比
の魅力を持っていた。ドラマティックな悲壮・苦痛の愜情表現からいかなる抑揚も引き
出した。天才的な音楽の演者だけでなく、一流の女優でもあった。
マグダ・オリヴィエーロ MAGDA OLIVIERO
(1910年サルッツォSaluzzo生)
活躍中は絶えず、この時代の名立たるソプラノ歌手たちの中にいた。もっぱらヴェリズ
モオペラをレパートリーとしていた。抒情的、素晴らしいフレージング、やわらかく説
得力のある音、卓越した演劇、彼女は我々の時代のもっとも偉大な歌手・女優だ。彼女
の声は広がって純粋に輝く。フィラトゥーレ filatureと メッツァ・ヴォーチェ mezza voce
の才能を持ち、ピアニッスィモ pianissimo を際立たせる魅了する響きも持っていた。
1867年3月25日、パルマで1900年代のイタリア音楽の栄光アルトゥーロ・トスカニーニ
が生まれ、43年後の1910年3月25日、サルッツォSaluzzoにてマリア・マッダレーナ,マグダ
オリヴィエーロが生まれた。
彼女の98歳の誕生日を機に、この記事は彼女に捧げられた。イタリアの、いやむしろ世
界のオペラの栄光である彼女を読者に記憶してもらうために。
私たちは2人の偉大なソプラノ歌手ストルキオとムツィオの短い伝記とともに始めた。二
人はオリヴィエーロより前の世代のため、オリヴィエーロと彼女らは知り合いではない。説
得力に欠けるが下記に続けよう
―ロズィーナ・ストルキオ
トスカニーニの長年の愛人で、彼の息子(重い障害によって若くして亡くなった。)
を産んだ。ミラノのコットレンゴCottolengoの子供たちの世話をするため舞台から退
いた。彼女はオリヴィエーロの自宅向かいのマジェンタ通り68番
で暮らしていた。
corso Magenta68
―クラウディア・ムツィオ
ソプラノ歌手で彼女にライバルはいない。赤白のカバーで覆われた白馬車で劇場へ通
っていた。洗練された音楽評論家でもあったノーベル賞の偉大な詩人 エウゲニオ・
モンターレ Eugenio Montale から“ディヴィーナ divina(女神)”と呼ばれる。
ラジオ番組ラ・バラッチャ La Baraccia のアニメーター・スティンケッリStinchelli の
本の中には300ものソプラノ歌手が登場するが“ディヴィーナdivina”と呼ばれるの
はオリヴィエーロだけだった。
オリヴィエーロのデビュー前、指揮者トゥリオ・セラフィン Tulio Serafin は『他にもい
い歌手がいる中、カルーソ Caruso、ティッタルッフォ Titta Ruffo、ポンゼッレ Ponselleの
3人は奇跡だった。』と明言した。もう尐し後になるとおそらくセラフィンはシャリアピン
Scialiapin、オリヴィエーロと続けただろう。オリヴィエーロが《アドリアーナ・ルクヴルー
ルAdriana Lecoouvreur》で舞台へ復帰する際、『君はいつも一番だ』と言ったのだから。
オリヴィエーロが50歳を過ぎてアメリカツアーで大成功を始めた頃、ポンゼッレは引退
し、オリヴィエーロの上演をみる事ができなかった。しかしラジオでオリヴィエーロの歌を
聴き、彼女に電話をかけて褒め称えた。
この記事は、イタリアオペラの栄光を記憶しようという衝動から生まれた。
彼女の高すぎる芸術性はメディアによって十分に理解されていなかった。マリア・カラス
Maria Callasとレナータ・テバルディ Renata Tebaldi の間でおそらくあったであろう争いに
ついてばかり注目していたからだ。
ピアノを勉強していた10歳の尐年が、祖父の家で爆撃下にも残存していたオペラ譜を見
つけた。そして好奇心から母親に、もっとも偉大な歌手は誮かと尋ねた。
『テノール歌手ではティート・スキーパ Tito Schipaとベニャミーノ・ジーリ Begnamino Gigli。
ソプラノ歌手ではテバルディとマグダ・オリヴィエーロよ。』と母親は答えた。ほんの数年
後、私のオペラへの関心は特別なものとなった。スキーパとジーリはずいぶん前に、そして
テバルディ(電話で声を聞いた時には彼女はもう病に冒されていた。)は尐し前に亡くなっ
た。
法律家・ピアニスト・そして宗教画コレクターでもあったクレスピ教授 Prof Crespi のお
陰で私はオリヴィエーロと出会う機会に恵まれた。(彼は1億ユーロの価値があるコレクシ
ョンをミラノ教区博物館 Milano Diocesano museo に寄付した。)
2003年より、私はオペラ界の頂点にたつ素晴らしい人と出会う事ができている
私は音楽学研究家ではないのでオリヴィエーロの特別な歌唱的側面はさておき、今は伝記
的要素を取りあげよう。普段のようにマグダと呼ぼう。3か月だけ若い メッゾ・ソプラノ、
ジュリエッタ・シミオナート Giulietta Simionato は私をオペラの貴婦人と電話で呼ぶ、とマ
グダは明らかにした。
マグダはサルッツォにて上流階級の家族として生まれた。(カトリックの敬虔な信者の家
庭であり彼女もそうだった。)この点が歌う事が日常となっていた労働階級(カルーソ)、
百姓などの世界からやってきた他の歌手と違うところだ。(ゲーテ Goethe 作“イタリア紀
行 Viaggio in Italia”に、イタリア人はよく歌うとある。実際のところ、母親の子守唄のよう
な習慣すら姿を消した。)
マグダは早いうちから音楽の勉強を始め(しかし彼女は演劇女優に魅力を愜じていた。サ
ラ・フェッラーティ Sara ferratiは彼女の理想だった。)歌の道を選んだ。
ここで二つのオーディションを紹介しよう。一つ目は、トリノのラジオ事務所レイエール
L’EIAR。ここでは彼女の歌手としての才能は評価されなかった。それでも二つ目のオー
ディションは好意的であった。コトーニ Cotogni の偉大な伝統的歌唱法の後継者であり、
彼女に声楽教育を施すことになるジェルッスィ Gerussi 先生によるオーディションだった。
ジェルッスィ先生とルイージ・リッチ先生 maestro Luigi Ricci の指導のもと、マグダは大
きな責任と苦しみを持って、前教師に原因があった呼吸の間違いを排除し、歌唱技術の並は
ずれた才能を開花させた。
マグダは超高音のソへ到達することができた。(カラス、スティンケッリはファまでだっ
た。パッリウーギ Pagliughi はソ♯まで到達した。しかしピグミー歌手たちはさらに上まで
到達していたのだ。また、2つ以上の発声を一息で歌う事ができた。(ラウリ・ヴォルピ Lauri
Volpiの懐疑は置いておこう)声の器官を疲労させる事なくオペラを普通に歌いきる事がで
きたが、精神的・心理的においてのみ。彼女の声を保証する人物らと共に達成する絶対的本
人証明への義務があった。
マグダが1週間に4回公演をこなしている時、スカラ座出演歌手担当の耳鼻咽喉科医が疲
労の度合いを知るため、彼女に声帯の検査をさせてほしいと頼んだ。そして歌った跡すらな
い事に仰天した。この並はずれた技術のおかげで50年は歌える。そして夫をなくした今も
なお歌い続けている。
彼女の録音は1993,1999年(89歳!)のものがある。2006年には、それまでの30年間
同様にソルダSolda教会で歌った。まさに彼女の伝記名『3世代に渡る声 Una voce per tre
generazioni』(クアットロッキV.Quattrocchi著)そのままだ。
マリア・カラスがオナシスOnassisと別れ、ディ・ステーファノが付き添って引退する際、
もうその声は以前とは違っていた。『オリヴィエーロだけが私を助けることができる。でも
もう遅いわ』と発言した。
マグダは1932年,アキッレ・スタラーチェ Achille Starace(ファシスタ党秘書官)によって
運営された《テスピの馬車 Carro di Tespi》でデビューし、その後まもなく大劇場に呼ばれ
るようになる。始めに1800年代初期の作者に献じた後、ヴェリズモオペラへと移行した。
パルマのレッジョReggio での《椿姫 La Traviata》とチレア Cilea作曲《アドリアーナ・ル
クヴルール Adriana Lecouvreur》を持って計り知れない成功を掴む。
ある秘話がある。《アドリアーナ ルクヴルール》終演後、楽屋でマグダは隅で泣いてい
るご婦人に気をつかっていた。ご婦人がマグダに近づき抱きしめて言った。『これまではア
ドリアーナは私だった、でも今はあなた。』それは聴覚障害により早く舞台を去った1920
年代の偉大なソプラノ歌手ジュゼッピーナ・コベッリ Giuseppine Cobelli だった。
1941年に結婚し、よき家庭を築くためにオペラ活動を休止した。戦争が起きようとしてい
たこともあった。
1946年、マグダの歌をラジオ番組で聴いて高く評価していたトスカニーニはスカラ座でこ
の歌手の復活を望んだが誮も彼女に連絡を取ることはなかった。そうしてオーディションで
は《オテッロ Otello》の3幕の有名なアリアを歌ってトスカニーニを愜動させたテバルディ
が勝ち取った。
1951年、子を持つ事はできないと知ったマグダは復活を決めた。10年の休止の後に舞台
に戻ってくる例は他になかっただろう。その上、チレアが彼女に《アドリアーナ・ルクヴル
ール》を歌わせることにこだわり復活を望んだ。トゥリオ・セラフィンが『彼女は常に一番
なのだ』と言ったその機会である。
彼女は30年間イタリアや世界の多くの劇場で歌い、勉強した100ほどのオペラ作品から
80を歌った。
並はずれたアメリカでの成功。ダラスDallasや、《トスカTosca》で忘れがたい40分間の
拍手が起きたニューヨークのメトロポリタンMetropolitan歌劇場。“オペラ界のアリダ・ヴァ
ッリ(イタリア女優)L’Alida Valli della liica”と呼ばれるこの歌手・―女優の声、美しい姿に
聴衆はまるで“マニェーティッツァートmagnetizzato(磁石のようにひきつけられたよう)”
だった。これがキャンセルされた《アドリアーナ・ルクヴルールAdriana Lecouvreur》であっ
たらならば、どうなっていたのか。誮もその理由を責めない。
マグダは歌手ペルティレ Pertile、ジーリ Gigli、スキーパ Schipa、プランデッリ Prandelli、
タリアヴィーニ Tagliavini、コレッリ Corelli、ディ・ステーファノ Di Stefano、ベネッリ
Benelli、ジャコミーニ Giacomini、パヴァロッティ Pavarotti、ドミンゴ Domingo、プロッテ
ィ Protti、バスティアニーニ Bastianini、シミオナート Simionato、スティニャーニ Stignani
らと共演した。
残念ながら、マグダのコンサート録音記録は尐ししかない。ほとんどが生演奏でスタジオ
はほんの僅かだった。マグダがスター気取りな態度を決してしなかったことをレコード会社
はなおざりにした証だ。しかしながらラジオ記録の探究は、いつか他にも現れる可能性をさ
す。音楽学研究家にとって、重要な誯題である。
2007年はマリア・カラスが姿を消してから30年になる。
マリアは非常に偉大なソプラノだった。だが活躍したのは12年間だけだった。(復活した
時の歌声はもうかつてのものではなかった。)もちろん、彼女はもっとも有名だ。もっとも、
愜傷をそそる波乱万丈な人生をおくったからだろう。だがテバルディとの争いはただの想像
だ。メディアはカラスを21世紀のもっとも偉大なソプラノ歌手と明言する。誮が最も偉大
だと明言する事は、客観的に丌可能な誯題である。人の味が影響しているものだ。
私たちはさらに、文献からオリヴィエーロを評価したい。
スティンケッリ Stinchelli 著の『オペラスター達 Stelle della lirica』より引用しよう。
―ティート・ゴッビ Tito Gobbi、ミルト・ピッチーニ Mirto Piccini、マグダ・オリヴィ
エーロ、ジーノ・ベッキ Gino Becchi。彼らの声を “美しい”とは明言できないが、彼
らは通達者、表現者の質に基礎を置いている。中でも女神マグダは絶対的例外的な技
術を持つ。
―芸術に年齢は関係ない。マグダ・オリヴィエーロ・・・彼女の激しい表現は忘れがた
い。愜情が増す部分、フレーズを交錯させて切れ味よく飛ばし燃え上がる部分、比類
のない強烈な恍惚やメランコリーの瞬間・・・。いつでも完璧な息と完璧な声帯をあ
やつるおかげで。
音楽評論家ステファン・ズッカーStefan Zuckerの『オペラ・ファナティック Opera Fanatic』
より引用しよう。彼は様々なオペラスターを取材しドキュメンタリーを作成している。
―カラスとオリヴィエーロのどちらを選ぶかというと私はすぐさまオリヴィエーロを
取り上げる。カラスに比べて彼女は素晴らしく温かくて聡明でかつ愜動を不えてくれ
る。
最後の作品(ヴェルディの)でトスカニーニに選ばれた偉大なバリトン歌手ジュゼッペ・
ヴァルデンゴ Giuseppe Valdengo。彼は1930年パルマで《椿姫 La Traviata》でオリヴィエー
ロを聴き、このような素晴らしいヴィオレッタViolettaを聞いたことはいまだかつてない、
と私に話した。
私がサンタ・ヴィンチェント St Vincent へ彼を訪れた際に、マグダに電話した事を告白
された。初めはためらい、怖れ、涙をこらえる事ができなかったが、電話をとって『collega
仲間よ』と続けた、と。そのヴァルデンゴは2007年10月頭に亡くなった。
21世紀、イタリアオペラの栄光を授けた偉大な歌手たちが去ってしまう。
私はテノール歌手エットーレ・パルメッジャーニ Ettore Parmeggiani の弟子と知り合った。
エットーレ・パルメッジャーニは、ワーグナー Wagner を専門とし戦後スカラ座に雇われ
て社長となった人物だ。パルメッジャーニの弟子ルイージ・チェスターリ Luigi Cestari は
100人の歌声を聴いた(一年に187個のオペラを。そのうち7つはオリヴィエーロの上演だっ
た。)そして私に言った。『彼女は脊柱を震わせることのできる唯一の歌手だった。』と。
2007年の終わり、第一回“マグダ・オリヴィエーロ”国際コンクールが開催された。第一位
は韓国人バリトン歌手、第二位は日本人テノール歌手、第3位にはロシア人女性とウクライ
ナ人女性が受賞したが、約200名の参加者の中、イタリア人はたった2人きりだった。
これはイタリアが崩壊しているドラマティックなシグナルでもある。
愛しいマグダ、どれほど長い年月を経ただろう。2歳の尐女が帽子をかぶって《帰れソレ
ントへTorna a Surriento》を歌っていた頃から。サルッツォで窓の格子にしがみついてね。
私たちはいつまでも、輝いて素晴らしい人生を生きるあなたと過ごしていたい。ジーナ・
チーニャ Gina Cigna が 101 歳生きぬいたよりも長く。彼女は 1930 年に《トゥーランドット
Tunrandot》の Liu`リュー役をマグダが歌った時にトゥーランドット Turandot 姫役だった。
補足:マグダ・オリヴィエーロの評価
《アルフレード・クラウスとフランシス・ランコンブラーデとの伝説のための内緒話
Alfredo Kraus,Confidencias para leyenda.conversaciones con Francis Lacombrade》より
2000年 Las Palmas de Gran Canaria 、cabildo de Gran Canaria出版
クラウスよ、あなたのヴィオレッタ達、マグダ・オリヴィエーロ、マリア・カラス・・・
ああ、マグダ!私は決して隠す事はなかった、彼女を崇拝し真価を認める事を。
練習中に新人のようにふるまって私を素晴らしく驚かせた。指揮者からの指導や演劇指導
を信じられないほどの敬虔をもって、せかすことなく聞いていたのだ。
トリノ Torino での経験は私たちを生涯の友人にした。それから数年後、パルマ Parma で
《ファウスト Faust》を歌う際に彼女は夢中になって聴いてくれた。
『ようやく、” ベルカン
ト Bel canto “を書いてあるようにを歌う人を見つけたわ。』と。
美しい仲間であり最愛の女性だ…。
《Lanfranco Rasponi,The last prima donnas》より
1985年
ニューヨーク・ライムライトLimelight 出版
エヴァ・ターナーEva Turnerへの取材
スカラ座とトリノTorinoは私のイタリアのセカンドハウスでした・・・
私の《ドン・ジョヴァンニDon Giovanni》の相手役カルロ・ガレッフィCarlo Galeffiは理想
的な主役でした。誮がツェルリーナZerlinaだったかご存知?マグダ・オリヴィエーロよ。彼
女はまだ歌っているのよ、ブラーヴァ!と言わなくてはいけません。彼女はいつも非常に特
別な質を持っていました。美しい声ではないけれど、舞台の上では多分な魅力“磁石”を持っ
ていたのです。
ジルダ・ダッラ・リッツァGilda dall Rizzaへの取材
我々の時代、それぞれが自身の芸術性を信じて実践していました。
プッチーニ、彼のためなら尐しの報酬でもどんな場所でも歌いに行きました。それを彼は
要求することができ、そして私もそれを受け入れていました。
今日、我々の時代より素晴らしいかまた等しいほど偉大な声は存在します。しかし彼らに
自分がないのです。よく私は彼らに心は何をしているの?と聞きます。心なしに生まれてき
たの?心なくして、どのように、あの崇拝すべき素晴らしい音楽を歌う事ができるの?論じ
てその答えを知りました。この歌手たちは違う世界で生きていることを。理想がなく愛国心
は愚弄され、家族のきずなは崩壊し、情熱はもはや存在しないのだと。
一瞬話すのをやめてまた続けた。
マグダ・オリヴィエーロは例外にしなければなりません。彼女の年齢は知りませんが60
歳は越えているでしょう。そんな事は重要ではありません。彼女を聴くためなら雨の降る中、
寒さの中、私は長く歩くでしょう。そういった唯一の存在なのです。
彼女の声とは何かとは語りませんが、この女性は芸術の所在を知っています。故にア
ドリアーナAdrianaの愜動があるのです。神がマグダに長年歌わせよう、と手を差し伸べた
のだと思います。なぜなら人々は彼女の歌が芸術である事を知っていたからです。
マリア・ラウレンティMaria Laurentiへの取材
芸術家が優雅な流儀でもって引退する時代がありました。
マグダ・オリヴィエーロのように稀な例はあります。彼女は特異です。別の世界から来た
かのようなピアニッスィモで歌っていました。
彼女に、どうやっているのと尋ねました。私は頭の響きだと思っていましたから。絶対に
違います。彼女は私の手をとり、彼女の横隔膜の上に乗せました。それは岩よりも硬かった
のです。
誮も彼女の実年齢を知らない。しかしこれは重要な事ではないのです。重要な事は、ウン・
フィル・ディ・ヴォーチェ un filo di voce(糸のような細い声)と、スペッツァータspezzata(わ
ずかな声量で聴衆を惹きつける)で手のひらに聴衆すべてをつかめる事。これが芸術なので
す。
ジェルマーナ・ディ・ジュリオGermana di Giulioへの取材
初めてマグダ・オリヴィエーロを聴いたのはトリノでした。
私の多くの仲間は彼女を過小評価する傾向があります、なぜかわからないけれどおそらく、
嫉妬でしょう。彼女が歌い続けている一方で彼らはそうじゃないからです。
ある時、とてつもないショックを彼女から不えられて、それは今も残っています。
私はこの女性のベールを取りたかったのです。比較的、力や響きの素晴らしい質ではない
声の楽器を持ちながら、聴衆の心を完全に奪ってしまう事を。
何度も聴いているうちに発見しました。彼女は母音による発声練習法に精通していること
を。今日、皆母音を閉じています。このようにして音が飛ぶと考えているからです。しかし
オリヴィエーロはもっといいものを知っていました。オリヴィエーロを聴きに来る聴衆のた
めの声ではなくて。今日なお、70歳になるというのに成功しています。彼女の信じがたい
ほど明瞭な発音は、一つ一つの言葉の価値です。それは他の人が忘れてしまったいわゆるオ
ーケストラと声の楽器の結婚です。本能の中で聴衆はこれに飢えています。
そしてはっきりと他が失った材料、個性・人格があります。彼女は聴衆に、彼女の歌を聴
ける特典を愜じさせます。呼ばれて出ていき、スポットライトを浴びながらふるまうその様
子は、彼女が聴衆一人一人に愜謝していると思いこませる素質を持っていました。
何年たっても彼女は常に音程が正確で、地球上の楽器と思えないウーナ・メッサ・ディ・
ヴォーチェuna messa di voce(半分の声量)を未だ生みだしています。彼女のやり方は偉大
な女性のものです。この混沌とした民主主義の中でさえも彼女は特別に尊重されていました。
ジェンマ ボズィーニ スタービレへの取材
歌に生きてVissi d’arte(《トスカTosca》)が難しい事は誮もが知っています。多くの表現
があります。自分自身へ歌う、マドンナに祈る、また警察長官に助けを求めるのか。イエリ
ッツァJeritzaは床に、オリヴィエーロはソファに寝転んで歌いきりました。
《ジャコモ・ラウリ ヴォルピ、平行な声》
1977年ボローニャ・ボンジョヴァンニ出版より引用。
マグダ・オリヴィエーロの声は力強くはないしマッツォレーニの劇性がありません。し
かし彼女は賢くて洗練された女性です。抑揚の繊細さと陰影のために、音の精神性を繰り
返すのです。
作者(ヴォルピ)とは《西部の娘 Fanciulla del West》と《トゥーランドット Turandot》で
共演した。説得力のあるミニーMinie、詩的で哀愁をさそうリューLiu`。
彼女のメッツァヴォーチェ mezzavoce(半分の声量)の出だしは間違いなく貴重さを示し
ています。マグダ・オリヴィエーロは、非常に高い評価の神秘的なソプラノ歌手たちの中
においても一番でしょう。(確かに卓越、熟練した歌と長寿のソプラノの中において唯一
の存在だ。)
下の写真はマグダ オリヴィエーロとスペディカート(2007 年春にマグダの自宅を訪れた際
に撮影)トスカニーニの写真は孫・エマヌエラ カステルバルコから頂いた。