13.「おヨネとコハル」 - So-net

13.「おヨネとコハル」の感想文(その1)
著者:ヴェセスラウ・デ・モラエス(1854.5.30-1929.7.1)、1923 年発行
訳者:岡本多希子、彩流社、1989 年発行、2004 年増補改訂版
(1)前書き
最近、私(筆者の林久治)はイエス・キリストとポルトガル人・モラエスを少々
研究している。なぜなら、この二人は謎の多い人物であるからである。イエスに関
しては、本感想文の第1-5回で取り上げた。モラエスに関しては、第8回で新
田・藤原著の「孤愁」(以後、本Ⅰと書く)、第9回で佃實夫著の「わがモラエス
伝」(以後、本Ⅱと書く)、第 10 回で岡村多希子著の「モラエスの旅:ポルトガル
文人外交官の生涯」(以後、本Ⅲと書く)、および第 11 回でモラエス著の「徳島の
盆踊り」(以後、本Ⅳと書く)を取り上げた。第 12 回で、私はモラエスの神戸にお
ける足跡を巡って、「神戸時代のモラエス」(以後、記事Ⅴと書く)を執筆した。
なお、本感想文では、私の注釈や意見を青文字で記載する。
私は第8回から 12 回までの感想文でモラエスの人生を、次のように紹介してきた。
➀モラエスは鬱病体質の家系に生まれ、自尊心と精神的苦悩の葛藤に一生苦しんだ。
彼は青年時代、近所(生家と同じ建物の階下)に住む8才年上の美しい人妻と熱烈
な恋愛をして、子供が一人生まれた(死産であった)。その結果、彼は心に大きな
傷を受けると共に、カトリック教徒として姦淫罪の意識に苛まれた。
➁モラエスはポルトガルの海軍士官に任官し、1876 年から 1898 年まで、ポルトガ
ル植民地のモザンビークやマカオに勤務した。彼の勤務成績は優秀であったが、姦
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淫が原因で精神と肉体の不調に悩み続けた。彼は 1889 年に初めて来日し、日本の魅
力(風土、文化、女性など)にとりつかれた。1893 年からは、彼は公務で毎年日本
に来るようになった。
➂モラエスは日本を研究し、その内容を母国に紹介することに、心のやすらぎを感
じるようになった。丁度この頃は日本が日清戦争や日露戦争に勝利して国際舞台に
登場した時期にあたり、彼の日本紹介は母国で大評判となった。その結果、彼は文
筆家としての確固たる地位を母国で築いた。
➃モラエスは 1898 年から 1913 年まで、ポルトガルの神戸領事を勤めた。この間、
彼は徳島市出身の芸者・福本ヨネ(1875-1912.8.20)を身受けして同棲していた。
ヨネは日本的な美人で、彼は彼女をこよなく愛し、彼の人生で最も幸せな時期を過
ごした。それ故、彼は公務と文筆活動に嬉々として精励することができた。私
(林)は神戸時代の彼の足跡を実地に調査して、第 12 回の感想文を書いた。その内
容は次のサイトをご覧下さい。http://www015.upp.so-net.ne.jp/h-hayashi/D-12.pdf
➄1910 年に、モラエスの母国ポルトガルで革命が起こり、王政から共和制になった。
体制変革に伴う混乱により、給与不払いなどの本国との行き違いが多くなり、彼の
精神は不安定になった。ヨネは体が弱く(長年、心臓脚気を患っていた、と言われ
ている。)、1912 年8月 20 日に病死した。彼は彼女の姉の斉藤ユキに 500 円の大
金を渡して徳島市内に彼女の墓を立てることを依頼した。
➅モラエスはヨネが病床にあった間、斉藤ユキの長女のコハル(1894-1916.10.2)
を神戸の自宅に女中として3年間雇って、ヨネの看病をさせた。母国の混乱に加え
て最愛のヨネが亡くなったことにより、彼は極度の神経衰弱に陥り、「自分の死期
が近いのではないか」と悩むようになった。
写真 13.1
徳島時代のモラエス(左)、福本ヨネ(中)、および斉藤コハル(右)。
➆モラエスは本Ⅳ(Ⅳのp.193-194)において、「私は自分自身に問うた。物憂い
私の無為と私の衰えた体を休ませに行くにはどこが一番よいであろうか」と書いて
いる。長いこと考えた結果、彼は「生活費はこれまでに貯めた原稿料の利息で賄え
る。ヨネの墓がある徳島に行こう」と決心した。彼は「それに徳島には慣れ親しん
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だ斉藤家の人たちがいる。コハルが自分の身のまわりの世話をしてくれて、死水を
取ってくれれば有難い」とも考えた。
➇貧しい斉藤家の人たちはモラエス(59 才)の依頼を受け入れた。彼は海軍中佐と
神戸総領事の要職を辞任して、1913 年7月4日に徳島市伊賀町三丁目にある新築の
四軒長屋に隠棲して、コハル(19 才)と同棲をはじめた。彼は公職から解放され、
日本研究やヨネの墓参を自由に行うことができた。彼は徳島県庁に出頭して「徳島
到着後は、気候がうまく作用して、日増しに体調がよくなった」と報告している。
➈モラエスは、徳島隠棲後には執筆活動を止めるつもりであった。しかし、母国の
友人に勧められて、徳島暮しの印象記を 68 編の記事にして、1914 年3月5日から
1915 年 10 月3日まで「ポルト商報」に連載した。これらの記事は好評で、本に纏
められて「徳島の盆踊り」(本Ⅳである)という題名で 1916 年に発行された。モラ
エスは本Ⅳ(Ⅳのp.188-189)で、「私には全半生にわたって幸運の女神の愛情に
はほとんど恵まれなかったが、今日では運命に満足し、自分が図った精神的自殺
(徳島隠棲のこと)に喜びを感じている。」と書いている。
➉健康が売り物であったコハルには、実は若い恋人がいた。彼女は恋人の子供を二
人続けて産んだことにより(長男は死産)、体力を消耗して肺結核に罹り、1916 年
10 月 2 日に 23 才の若さで死亡した。モラエスは、同年の 10 月 21 日から「コハ
ル」という題で短編を書きはじめた。彼は、福本ヨネと斉藤コハルを現地妻にして
いたことを、母国の読者には内緒にしていた。本Ⅳでは、コハルは「我が家の女
中」として登場していたに過ぎなかった。
「コハル」の執筆以来、モラエスはヨネとコハルへの追憶を主題とした 18 編の短
編を書いた。それらを纏めた本が「おヨネとコハル」(1923 年発行)である。本書
を翻訳した岡本教授は「本書は、モラエスの内面を表現した作品として、彼の作品
中、文学的に最も高く評価すべきものである」と書いている。(本書のp.195)今
回は、「おヨネとコハル」(以後、本書と記載する)の内容を紹介しよう。
(2)本書の構成
本書は、次の 18 編の短編より構成されている。括弧の中に執筆時期を示す。
1.コハル(1916 年 11 月)。2.おヨネだろうか、コハルだろうか(1918 年6
月)。3.正午の号砲:またもやコハル(1918 年 12 月)。4.祭日のごちそう
(1919 年4月)。5.日本の三人心中(1919 年2月)。6.日本の異国情緒(1919
年6月)。7.潮音寺の墓地のごみため(1919 年6月)。8.着物?それともお
金?(1919 年7月)。9.久松は家にいません(1919 年9月)。10.無臭(1919 年
9月)。11、半分のバナナ(1919 年 10 月)。12.ある散歩での感想(1919 年 11
月)。13.風景を最後にひと目(1919 年 11 月)。14.夢をみて(1919 年 12 月)。15.
敦盛の墓(1919 年 12 月)。16.笑ったり泣いたり(1919 年 12 月)。17.私の追慕の
園で(1920 年1月)。18.ある日本の諺(1920 年1月)。
(3)本書の感想文
今回は、本書の前半に掲載されている短編に対する簡単な紹介と私の感想を書い
てみよう。後半は次回(第 14 回)に書く予定である。なお、「敦盛の墓」は福本ヨ
ネを追憶した名作であるが、私は前回に(第 12 回:神戸時代のモラエス)この作品
を紹介した。興味のある方は、次のサイトの p.9-11 をご覧下さい。
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http://www015.upp.so-net.ne.jp/h-hayashi/D-12.pdf
1.コハル(執筆完了:1916 年 11 月)
モラエスはコハルの病死(1916 年 10 月 2 日)の直後(10 月 21 日)から、本編を書き始
めた。それまで、彼は母国の読者には日本妻(ヨネとコハル)の存在を隠していた。しか
し、ここに至り、彼は彼女らに対する追慕の情を吐露することを抑えきれなくなったので
あろう。彼は短期間で、本編を一気に書き上げた。
モラエスによれば「コハルは美人とはいえなかったが、健康を売っているかのよ
うな、背の高い、小麦色の、陽気な、生き生きとした娘であった。」ところが、
1916 年6月の終わりのある日、彼女は体のあちこちに痛みを訴えはじめた。そして、
数週間後、左肺結核の肋膜炎を併発して、寝床に倒れ込んだ。
コハルの父母は貧乏で無教養であったので、彼女の発病に気づくのが遅れた。し
かし、当時の結核は不治の病であったので、モラエスは「あわれなおてんば娘は、
無情な風にあおられた花のように、若い盛りにそのように凋んでしまった」と不憫
に思った。「徳島の盆踊り」の初日(8月 12 日)、コハルは彼女の特別な希望によ
り、家(彼女はモラエスの家で療養していた)から古川病院(徳島駅前にあった)まで、
踊る人々で混雑する町の通りを担架で運ばれた。
古川病院は徳島では最良の病院の一つであった。モラエスは彼女の治療費を全額
負担した。西洋においては、病院は居心地のよい治療の場所であった。彼が目撃し
た古川病院は、奇妙な、驚くべき、荒漠とした光景であった。彼は「日本のおおか
たの病院がいかなるものであるかについて、かなり真実に近い印象をつかむ機会を
得た。」と書いている。そこはひどく狭い病室が長々と並んでおり、苦痛を訴える
患者の間を走りまわる看護婦たち、あちこちで自炊している看病の家族たち、彼ら
に商品を販売する出入りの商人たちで喧騒としていて、さながら細菌に感染してい
る不潔な村のような所であった。(私は、「当時の病院は、現在の難民キャンプのよう
な所であったのだろう」と考えている。)
写真 13.2
現在の古川病院
古川(こかわ)病院は徳島駅前に
あり、設立は明治 28 年で、内科・
消化器内科・小児科の病院であ
る。古川病院は現在でも戦前の場
所の近くに健在である。私の母は
2012 年にこの病院で 93 才で亡くな
った。現在の古川病院は、建物は
かなり古いものの、割りあい居心
地の良い環境である。
モラエスは「その原因は、日本古来の文明が西洋文明に劣っているからではなく、
全く異なる文明であるからである。今、日本は西洋文明を取り入れている最中であ
る。病院に関して言えば、祖先崇拝を報じる日本人は、病人を自宅で介護してきた。
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日本の病院は、貧乏人を引きつけるために安い入院費を旨とし、必要な施設や居心
地の良さが嘆かわしいほど欠如した金儲け目当ての場所となっている」と書いて、
古川病院の様子を詳細かつ具体的に記載している。
モラエスは、40 才年下のコハルとしゃべる時にはいつも「コハルちゃん」と呼ん
でいた。さて、コハルちゃんは何をしているのか。三等の 19 号室で、生きて苦しん
でいる。彼女は自分が全快することにいささかの疑いも抱いていない。「23 才で誰
が死ぬだろうか。」医者も、病人の回復を信じているふりをする。モラエスは、そ
のようなことを信じない。もちろん彼は、病人を励ます。時として彼も錯覚して
「コハルちゃんが治るのではないか」と思ったりするが、事実を冷静に判断すると
「この非情な病気は、バラ色の希望、微笑、恋を夢みていた人たちの大きな悲しみ、
涙をかえりみることなく、若者たちの生命をとくに好むのだ!」と確信する。
モラエスは、毎日、数時間、コハルを見舞った。親戚や知人は滅多に来なかった。
父親すら、母親すら、ほとんど姿を見せない。彼は西洋人の感性として、最初は
「両親というものは、すべてのものを犠牲にしても、病気で苦しんでいる子供を救
いにかけつけるもの」と考えていた。しかし、彼は「少なくとも日本の貧しい階層
に関する限り、思い違いであった。そして、恐らく、日本だけではなく、どこの国、
どの民族も同じであろう」と気づいた。
古川病院に入院したとき、コハルはひどい食欲不振に悩んでいた。その後、わず
かながら食欲が戻ったが、間もなく食欲不振がふたたび彼女を苦しめるようになっ
た。モラエスがある夕方に行ってみると、彼女は涙ぐみ、ひどく弱っていた。「朝
から晩まで一人きりで、しかもずっと熱に苦しめられどうしなので、朝食も、昼食
も、夕食もとらなかった」と言った。配膳係りは、食事を運んできたまま行ってし
まったのである。
モラエスは怒り狂わんばかりになって「あわれなコハル!両親や親類たちが病弱
な雛を構ってやらない以上、金銭づくの愛情に頼ることにしよう」と決心して、派
出看護婦を雇った。派出看護婦のシゲノさんは、最後の瞬間まで熱心で、よく働き、
やさしい気持ちの溢れた心暖かい女性だった。(それから十数年後、モラエス自身が衰
弱した時、彼はシゲノさんに看護に来てもらおうと思った。しかし理由は不明であるが彼
女は来られなかったので、彼は孤独死を遂げることになった。)
9月の終わりころ、コハルの肉体の衰弱は極限に達した。顔はまだ元の表情をほ
ぼ留めているが、腕の丸み、胸や臀部の膨らみなどの女性の美しい肉体が消滅して、
皮膚につつまれた骸骨だけが残っていた。ひどく激しい痛みに苛まれる骨の上に、
モラエスが手を置いてさすってやると、苦痛が和らいだ。
その時、モラエスはある不思議な発見をした。男性は人生の途中で出会ったある
一人の女性にたいして愛を感じる。彼は、毎日コハルを見舞いに行って、彼女につ
いて、それとは別種の気持ちを経験した。それは明らかに愛でも、友情でも尊敬で
もなかった。情熱的な感情の絶頂までいった憐憫の情、単なる憐憫の情でないとし
たら、彼には何であるかよくわからないものだった。(彼は西洋人らしく、この感情
を長々と分析している。詳細は、本書を直にご覧下さい。)
モラエスは「お立ち、コハル。お前は治った!両親のもとに帰るのだ。私がお前
の代わりをして、ここで死ぬのだから!」と叫びたかったが、自然の法則はそのよ
うな交代を許さなかった。数日連続して、体温がひどく高く(39 度、それから 40
度)なり、病人は極端な苦痛にうちのめされた。9月 30 日の土曜日に、体温は
36.8 度に下がった。彼女はこの突然の変化に驚き、喜んだ。彼女は楽しみたいと思
い、夕飯に仕出しを、近くの有名な料理店にごちそうを注文した。
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それはおいしいただのスープ(吸い物)にすぎなかった。そこで、三人分のスー
プが来ることになった。モラエスと看護婦がその祝宴に招待されたからだ。ところ
が、コハルはスープを飲まなかったし、食事も食べなかった。熱がぶりかえしたの
でなく、まだ経験したことがない奇妙な苦しみが、彼女の食欲をなくした。
その夜、コハルは西瓜が食べたいと言い出した。そこに居合わせた人々は「西瓜
は市場には売っていない」と言った。しかし、彼女は「あるわ!」と言い切った。
モラエスが外に出てみると、季節外れの西瓜が店頭に並んでいるのを発見した。彼
女は黙って、だが彼の熱意に満足して微笑いながら、西瓜を食べた。
10 月1日、日曜の朝、コハルは西瓜をほんの少し食べた。間もなく、ひどく息苦
しそうな発作を起こして咳きこんだ。それから落ちつくと、モラエスをじっと見て、
拝むように両手を上げて「ありがとう、ありがとう!あまり、せこい。もう、でき
ません。今晩、帰ります」と低音で言った。「帰ります」は来た場所、天、仏陀の
もとに帰るということなのだ。彼女の予想は数時間ずれたにすぎなかった。
日曜から月曜にかけての夜、コハルは指にはめている金の指輪を父親に渡し、
「母親にもっていってくれ」とたのんだ。モラエスは「あの指輪には悲劇的な歴史
がある。20 年前に大阪の貴金属店で、私が買ってもう一人の女(福本ヨネのこと)の
指にはまっていた。死体のこわばった指から四年前に指輪を抜いて、私の愛する死
者の体をやさしく世話をしてくれたコハルに私はそれを贈った。そして、今、瀕死
のコハルは彼女が所有している唯一の宝石を母親に贈ろうとしている。悲劇的な指
輪物語、そうではあるまいか」と書いている。
10 月2日、月曜日の朝、コハルはなお西瓜の切れ端と日本のスープを数滴、口に
運んだ。麻酔の注射をしてくれと言った。苦痛の恐怖をできるかぎりかわすためで
あった。その後、彼女は口を利くことができないので、紙に数行書いて「自分の家
を一度是非見たい」と言った。さらにまた、別の紙に「咳の発作を抑えるためにそ
ばにある薬を飲みたい」と言った。昼の 12 時 30 分にコハルは死んだ。
モラエスは「日々が過ぎて行き、日々が駆けて行く。この世でコハルであったと
ころのものについて言えば、逝ってから四十幾日かになる。近所の石工に墓づくり
を任せた。彼は、昨日、11 月 14 日に仕事を終わり、町のある墓地に墓石を立てに
行った。コハルの母親は故人の遺骨を墓に納めた。その昨日の夕刻、私はその墓を
訪れた。線香が燃えていて、墓石の上に菓子が置いてあった。そして今、儀式がす
んで、コハルは忘れられはじめる。この世は生者のためのものであって、死者のた
めのものではないのだから」と書いている。
モラエスは最後に次のように書いている。「忘却は、ここ、日本国では、死者の
まつりによって心やさしく緩和される。コハルは天にいる、ホトケサンである、仏
陀である、聖なる存在である、聖女である。コハルの霊は墓と家の祭壇で祀られて
いる。祭壇に彼女の戒名が祖先の戒名と並んで記された。毎日、お茶とご飯が供え
られるであろう。年に一度(お盆のことを意味する)、コハルの霊は天から地上に降
り、家庭に入り、両親や弟妹のもとに幾時間か留まるであろう。」(モラエスは「幾
時間か留まる」と書いているが、正しくは「幾日か留まる」である。)
2.おヨネだろうか、コハルだろうか(執筆完了:1918 年6月)
モラエスは彼の費用で斉藤コハルの墓を福本ヨネの墓の隣に立てた。彼は「コハルに死
に水を取ってもらおう」と、徳島に隠棲したが、彼女の方が先に逝ってしまった。彼女の
亡き後、彼は自炊生活をしていた。週に数回、コハルの母親・ユキに家事を頼んでいた。
彼は公職から解放されて、自由を満喫していた。日本研究、執筆活動、ヨネとコハルの墓
参をかねた散歩などをして元気に暮らしていた。
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写真 13.3
左:福本ヨネの墓。右:斉藤コハルの墓。(徳島市潮音寺)
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本編の最初で、モラエスは「この世でもあの世でも、どんな恩恵も好意によって
得られ、どんな小っぽけな幸せであれ金銭か後援者の後盾があってはじめてつかめ
るのであれば、死者と仲よくしているのは大事、動物と仲よくしているのは大事と
いうことになる」と諧謔的に書いている。彼によれば、この世については誰も疑念
をはさむことはないが、あの世については信ずるにたる証言がないそうである。
モラエスが死者と動物を同列に扱うのは、日本の仏教が深く関係している。輪廻
思想では、同じ人間が何度も死んではそのたびごとにこの世を訪れる。ただし、別
の存在、四足獣とか鳥とか虫とかに変身して。日本人は「あの鶯を殺してはいけな
い。お前のお父さんの霊を宿しているかもしれないから。あの蝶を殺してはいけな
い。お前のお母さんの霊を宿しているかもしれないから。」と言う。
モラエスは告白する。「冒頭の一説を完全に証明しようとするならば、生者に幻
滅し、長いこと彼らに期待していた慰安の得られないことを知って、今や私の感性
は死者と動物たちに向けられている。私は死者と動物たちを愛し、彼らの愛情を当
てにし、彼らの保護に頼っている。それは仏教なのか。そうではない。私をとりま
いている宗教的、神秘的環境が私の感じ方に影響を与えている。」
モラエスは「6月の最近のある夜、9時ごろのこと。ひどく生あたたかく息苦し
い、霧につつまれた、暗くてじめじめした夜であった。アフリカの炎熱のような厳
しい猛暑に先立つ6月と7月のはじめ、日本の昼夜は、3-4週間ずっと、こんな
ふうである。日本人はこの時期をニュウバイと呼んでいる。」と書いている。彼は
外出し、同じ墓地にある二つの親しい人の墓(福本ヨネと斉藤コハルの墓)に参り、
店で多少の買物をした。
モラエスは今、家に帰るところだった。彼は疲労し、いらいらし、不機嫌であっ
た。それは確かに無情な天気のせいであったろう。だが、左手にぶらさげた3キロ
ほどのジャガイモの入った包みと、ポケットにいっぱいに詰め込まれた無数の小さ
な包みのせいでもあった。彼は徳島のにぎやかな通りをめぐってから、彼の家に近
い、村といってもよいような静かな街区に入る。
モラエスは、少年たちが「ホタルコ、タネムシコイ!アンドノナカカラ、カクレ
テコイ!」と俗謡を歌っているのを聴く。彼は「蛍の季節の真っ最中なのだ。それ
は、とにかく日本では大変な出来事なのだ」と思う。(ここで、彼は蛍に関する中国
の逸話や日本の蛍名所の紹介を少し書いている。私も、子供の頃に郷里の徳島で、亡父が
蛍狩りに連れて行ってくれた記憶を懐かしく思い出している。)
すぐに、闇と静寂に沈んだひどくさみしい、モラエスの家のある通りになる。さ
て、彼は玄関に着く。泥棒の訪問から彼を守ってくれる南京錠の鍵をポケットに手
を入れて探す。鍵が見つかる。だが、南京錠の鍵穴が暗くてよく見えず、身にせま
る侘しさと濡れそぼる小雨で不機嫌な彼は、数分間、鍵を開けることができなかっ
た。彼には長い時間に思われ、ほとんど絶望的になっていた。
その時であった。一匹の蛍の青味がかった光が現れ、モラエスのまわりを回りは
じめた。彼は難なく鍵をうまく使って、家の中に入ることができた。彼は「親切に
も窮地を救ってくれたありがたい虫よ!私に親切にしようという意図があったと言
ったら、ばかげているかもしれない。それにしても、あの虫は…。死者が、生前の
いとしい思い出を保ちながら、他の肉体、たとえば鳥や虫に姿を変えてこの世に戻
り得る、と信じるのは日本人ではないか…。」と自分自身に問いかけた。
この問いかけののち、モラエスは何だかよくわからない苦悩が重くのしかかるの
を感じ、不意に心臓の鼓動が止まった。ほんの一瞬であった。すぐに落ちつくと、
彼は思わず次の言葉を口にした。「おヨネだろうか…、コハルだろうか…。」
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3.正午の号砲:またもやコハル(執筆完了:1918 年 12 月)
徳島市の城山では、1916 年に午砲が弓櫓跡に設置されたが、1943 年ごろに戦時供出され
た。現在は、午砲跡として台座のみ残っている。(ウィキペディアより)
またもやコハル。だが、モラエスはこうせずにはいられない。その全存在が希望、
空想、幻想で躍っていた人生の花ざかり-23 才のとき-にこの世から身罷ったあわ
れなコハル、あわれな徳島の女!悲しい運命のめぐりあわせによって、彼は四年前
に徳島のもう一人の女であるおヨネの苦悶と死に立ち会ったように、コハルの苦悶
と死に立ち会うことになった。
モラエスは「起伏の多い人生航路のそれぞれ別の時期に、私は彼女たち二人にた
またま出会い、長いあいだ二人といっしょに暮らした。私が、悩みくるしみむとき、
やさしい仕種、慰めのことば、共感や情愛のこもった気持ちを期待することができ
る唯一の人たちであった。なのに、両人とも逝ってしまった。彼女たちのものは何
ひとつ残っていない。無となった。残っているのは思い出だけだ」と書いている。
生前はつまらない、無意味ともいえるようなこれらの二人の女の思い出は、モラ
エスの心の中で圧倒的な重みをもってきた。過誤や欠点は浄化され(コハルはモラエ
スと同棲中に、若い恋人の子供を二人も産んだ。)、味わった苦痛の光輪によって高め
られ、享受している非存在という状態が与える善と美によって善良で美しくなった
おヨネとコハルが、彼の頭の中に棲みつくこととなった。
日本では、中心的都市では、大砲の号砲によって、正午を毎日報じる習慣が普及
しつつある。五年以上前から彼が住んでいる徳島、人口の多さでは都会であるが落
ち着いた怠惰な伝統的習慣では村落ともいえる徳島では、1916 年の夏にやっと始ま
った。モラエスは「あのコハルの痛ましい最期を思い出すとき、とりわけ私の心を
疼かせるのは、正午の号砲があのとき偶然にも鳴ったということであった。という
のは、大砲の轟音が刺激となって、心の痛みを彼女がすでに味わっている痛みに加
えることになった、と私は信じる」と述べている。
図 13.4 昭和初期の徳島
市の鳥瞰図(一部分)
➀
➂
➃
戦前の徳島では、正午の
号砲が城山の山頂(➀)
で鳴らされた。城山の標
高は 61.6mしかなく、徳
島駅(➁)は城山の麓に
ある。従って、徳島駅前
の寺島本町にあった古川
病院(➂)では、正午の
号砲の音は非常に大きか
った。本編には「不意に
ドーンと正午の号砲が鳴
り、病院のガラスと建物
全体をふるわせた」と書
かれている。➃は徳島の
中心である新町橋、➄は
通町にあった林の生家。
➁
➄
9
死にかけている人間はどんなことを考えるものか、確とはわからない。しかし、
救い出された人が語ることによれば、これまでの一生の完全、簡潔な目録-幼年時
代、思春期、青年時代、希望、幻想、幻滅、仕事、喜び、失敗-の列挙。モラエス
は「コハルは生命が消え去るのを素早く感じて、自分が送った短い一生のドラマを
考えていたであろう。悲惨ともいえる幼年時代、自分のおもちゃ、遊び仲間、思春
期の不安、新しい着物をはじめて着る喜び、恋、夢など!正午の号砲が鳴り、それ
をきっかけに、はっきりと悟ったにちがいない。もう二度とその号砲を聞くことは
ないだろうと。最期の瞬間が来たことを、永遠を単位にしてしか時間が計られるこ
とのない、正午の存在しない、恐ろしく広大な神秘の中に身も心もすっかりのみこ
まれようとしていることを」と推測している。
4.祭日のごちそう(執筆完了:1919 年4月)
モラエスは母国の読者に次のように書いている。「この 1919 年1月1日は、日本
中、徳島でも祭日である。日本の多くの地方都市-徳島もそうであるが-では、陰
暦が忘れられないので、毎年、2回、元旦を祝う。さて、祭日である。私はひとり
きりで家にいる。こんなことはしょっちゅうだ。」
モラエスの世話をしている手伝い女(斉藤ユキのこと)は、休むための口実を何と
か探す。今回は、頭やお腹が痛くて逃げ出した。彼女は、ケトージン(ひげもじゃ
の野蛮人)といっしょにいるよりも、家族と新年を祝いたい。祭日には、彼は家を
掃ききよめ、動物たちに餌をやったり、ほかのこまごました用事をすませて、炭を
割り、火をおこして、祭日のごちそうの仕度にとりかかる。
モラエスは「拙稿を読む何人かの人たちは、驚きや憐れみの情を抱くかもしれな
い。かつて社会的地位の高い紳士であった私が、人生の晩年において、自分の食事
をつくらなければならないまでに立ち至っている私の運命の気まぐれを評し、私を
憐れんで!」と述べている。
モラエスは「友人諸君よ、それはまったくの思いちがいだ」と主張する。彼がや
っているこの骨が折れるしごとは、もっとも愉快なひまつぶし、彼がまだ楽しむこ
とのできる数少ないひまつぶしの一つである。彼は「君たちの身分が、私がしてい
るようなつまらない仕事を楽しむことから、君たちを遠ざけているならば、私を羨
むがいい」と書いている。
モラエスは言う。「鋸やのみを握って手仕事を一度もしたことなしに、あるいは
鍬を手にして堅い土を掘り返し、畑に種を蒔いて穂や実を収穫したことなしに、あ
るいは、それができないまでも、ほこりを払い自分の家を掃き、炭を割って火をお
こし自分の食物を料理することなしに、この世を去る人、とくに知的な人、その人
は人生のもっとも興味深い一章を嘆かわしくも知らずに終わってしまうことになろ
う。」
モラエスは、人間は自然を意のままに支配するものだと、驕りたかぶってはいな
い。「万物の王」はあらゆるものと協力して、普遍的調和を生み出している。彼は、
身のまわりにあるものを眺めたり触ったりすると、それらが発散する「事物の魂」
を感じる。彼は「諸君の魂を事物の魂と深く交流しなさい。とりわけ不快に悩んで
いると感じるなら、事物を愛したまえ。諸君が目にとめるあらゆるものが、充分な
やすらぎを与えてくれるであろう」と述べている。
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モラエスが事物の魂と最も強烈な印象を受けたのは、老朽した砲艦「テージョ」
号を指揮して、マカオからリスボンに移送した時であった。彼はその時の体験を詳
しく書いている。彼は「人は指揮すべき船を必ずしも持っていないのだから、炭を
割ったり、火をおこしたりすれば、事物の魂が私たちを魅了することに気づく」と
述べている。
モラエスは、祭日のごちそうのことをまた考える。炭を割り、火をおこし、日本
のパンであるご飯を炊き、お茶をいれる。最近、ポルトガルの妹から野菜スープの
調理法を書き送ってきた。そこで、その日、彼ははじめて野菜スープを作った。そ
れに鰯をそえた。日に干した、蝗ほどの大きさの、ここで売っている奴である。そ
れを水で煮て、日本式に砂糖で調味した。それだけである。
その祭日はいつもよりもっと身近に、遠くにいる妹の思い出と、死んだ女性たち
の思い出がモラエスと共にいた。遠くから来て彼に向けられていると思われる微笑
-彼が鰯を食べるときの妹の軽く揶揄するような微笑、彼が野菜スープを飲むとき
の死んだ女性たち、おヨネとコハルの軽く揶揄するような微笑-に応えて、ふっと
彼は笑いさえしたのであった。
私(林)は「当時の徳島人から『西洋こじき』と軽蔑されていたモラエスは、元旦に自
炊して貧しい食事を一人で食べていても、徳島人には想像もできない哲学的境地で生活し
ていたのだ!」と唯々感嘆するばかりである。彼は 1929 年に徳島で死亡した。私は 1942
年に徳島で生まれた。その間、13 年しか経っていない。
5.日本の三人心中(執筆完了:1919 年2月)
本編で、モラエスは「物も人も活気のある日本で、ヨーロッパより自殺が多い」
ことを話題にしている。彼は「花や風景のような魅力的な無数のちょっとしたもの
を、他のどの国民より暮らしの中で見出すことのできる人たちが、同時に、実にと
るに足りない口実でこの世を去る人たちである」ことにパラドックスに陥る。
モラエスは母国の人々に「日本の封建時代には、武士の切腹がしばしば行われた。
過失による処罰として、しばしば上司に強要された。武士は戦場では捕虜になるよ
り自ら命を絶った。最近の日清、日露の戦争でも、その例は少なくない。武士や戦
争のことは脇におくとしても、自殺で終わる家庭内の小さなトラブルの断片を、毎
日の新聞を読むだけで豊富に集めることができる」と解説している。
モラエスは、日本における自殺の実情や原因を詳しく説明している。感動的な自
殺の例として、彼は畠山勇子、大阪の商家の小僧さん、および乃木大将夫妻の自殺
を紹介している。小僧さんの場合は、10 才か 12 才ほどで、大阪で商人の幼い息子
の世話をしていた。幼い主人が病死したので、小僧さんは心やさしくも、あの世で
その幼い主人のもとで同じつとめを果たし続けるために、間もなく自殺した。
林の注釈:畠山勇子と乃木大将夫妻の自殺は有名なので、本感想文では省略する。詳細
はネットに記載されている。モラエスは 1907 年に勇子の墓がある京都の末慶寺を訪れて勇
子の墓に参り、和田住職からハーンが勇子に抱いていた気持ちを聞き、その後たびたび同
住職と文を交わすようになった。また、リスボンで発行されていた「セロンイス」と いう
雑誌に勇子のことを寄稿すると共に、後にこの雑誌の原稿を一冊の本に纏めた「日本夜
話」でこの経緯を 紹介している。
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モラエスは日本の「心中」についても、その実情や原因を詳細に説明している。
彼は数日前に、神戸の英文新聞で、三人での心中の記事を読んで驚いている。彼は
「福岡県のある小学校の若い教員が、同じ学校の教員である二人の婦人と、1918 年
12 月 10 日にある旅館で心中した。三角関係と結婚できないことが原因であった。
このような組み合わせは日本でも珍しい」と書いている。
モラエスは「ひょっとして、諸君は、私が挙げた例を道徳的見地から異常なもの
とみなすのではないか。しかし、いわゆる文明社会において個人の行為を支配して
いる因習的道徳は、必ずしも、良心と愛情の道徳というわけではない。私たちが
『精神的自我』とも呼び得るものは、未知なるもので野生の原始林にたとえられる。
文明社会を支配している因襲的市民道徳を讃えよう。人類の維持と発展に必要な秩
序と規律を保つからである。しかし、孤立し独立した存在としての私たちのあわれ
な個をゆさぶる旋風のような衝動をこの道徳によって抑制することはやめようでは
ないか」と述べている。
本感想文の読者の中には、上記のモラエスの考えを不審に思われる方々がおられるので
はなかろうか。私(林)もそう思う。「モラエスは自殺を認めているのではないか」と。
キリスト教では自殺は重罪である。自殺をした人は必ず地獄に落ちる。モラエスは本編で
「仏教では自殺を禁じている」と書いている。しかし、私の理解では、仏教では自殺をし
た人が必ず地獄に落ちるとは言っていない。日本人は、この世で添い遂げられなくても、
あの世で添い遂げられると、心中には同情的である。モラエスの真意は「人間の自我には
理屈では説明できない未知の闇がある」と言いたいのではないかと、私は考えている。
モラエスもまた、彼の人生の晩年にあたって、彼のロマンスを持っている。彼の
ロマンスにも三人の主人公、彼と二人の女が登場する。二人とももう死んでしまっ
ている、一人は2年ほど前に、もう一人は6年ほど前に。しかしながら、彼の思い
出の絵の黒い背景には、彼女たちのふたつの激しい苦悩のつき刺すような情景がは
っきりと、今なお際立っている。
6.日本の異国情緒(執筆完了:1919 年6月)
モラエスは「異国情緒を愛する人たちと言うとき、私が指すのは、ほんの一握り
の人たち、異国情緒のためにすべてを投げ出す人たち、どうしようもなく見知らぬ
ものに魅きつけられ、できれば、自分が生まれ幼少時代を送った社会ときっぱりと
縁を切って、新しい環境に可能なかぎり一体化しようとする、そういう人たちなの
だ」と述べている。
モラエスによれば、異国情緒の愛好者はたいてい、審美家、従って神秘家、形態
や色彩や香りや音や美と芸術である一切のものの熟愛家でもある。現代ヨーロッパ
は純粋で素朴な美の信仰にとって最も不向きな環境にある。貧困と放縦の茅屋、煙
突、工場、大建築物、映画館、風景は鉄道線に、青空は電線によって断ち切られて
いる。女性たちさえもみにくい。口うるさい。
とはいえ、美と芸術はなお存在している。広大なアフリカ、スルタンの帝国、広
大なインド、広大なシナ、日本、オセアニアの島々には、今日なお侵入者を寄せ付
けない秘境がある。モラエスが四分の一世紀ちかく日本に暮らしてきたのは、日本
がすぐれて異国情緒の国、審美家を魅了する国であったからである。日本は洗練さ
れた古い文明を持ち、女性の魅力はまばゆいばかりである。
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日本の官界と産業界は現在、ヨーロッパのやりかたを熱心に模倣している。しか
し、一般大衆は今なお、五十年前、百年前と同じようにきわめて日本的である。新
しいものに背を向けて、自分たちの風習を愛し、いとも誇り高く他国のよりも自国
の風俗をよしとする。(だが、林の考えでは、モラエスの時代の日本はそうであったが、
それから百年後の 21 世紀の日本は米国文明の植民地になっている。)
モラエスは近代における、日本の審美家たちを紹介している。先ず、鋭い感性と
繊細な気質のラフカディオ・ハーン(1850.6.27-1904.9.26)は不粋な米国からやっ
て来た。米国では辛い貧しい数年を過ごした。たまたま日本に来て、これを深く愛
し、夢中になった。日本女性と結婚し、家庭を作り、英国籍を日本籍に名前を小泉
八雲にとりかえた。
ハーンは日本について 14 冊の本を書いた。最後の著書の冒頭で、彼は「ぼくが日
本で愛するのは日本人、田舎の貧しく素朴な人たちです。この国は最高です。この
国にあるありのままの自然の魅力に比較し得るものはこの世にありません。今日ま
で出た書物で、これらのことについて書いたものは一冊もありません。ぼくは神々、
彼らの習慣、小鳥のさえずりのような彼らの歌の調子、彼らの家、彼らの迷信、彼
らの欠点を愛します」と書いている。
2013 年が終わる本日に、私(林)は次のように訴えたい。安倍首相はTPPに参加して、
国際化の美名(実は、「対米追従」の下心)で、日本列島に住む人たちが縄文時代から現
在までの一万年間をかけて育んで来た「日本文明」の伝統をボロ屑のように捨て去ろうと
企んでいる。安倍首相が靖国神社を強行参拝して、国粋主義を誇示したいのであれば、今
後の地球文明を正しく導くことが出来る「日本文明」を、断固として堅持しなければなら
ない。
ピエール・ロティ(1850.1.14-1923.6.10)は軍艦に乗って何度か日本を訪れてい
る。彼は日本を好きでない。日本の風景はみじめたらしく、日本人はグロテスクで
あり、芸術はこどもっぽく、神々は醜悪だと思っている。とはいえ、真の愛情と共
感にみちた、日本に関するすぐれた著作をこの卓越した印象主義者はのこしている。
(林の注:彼の代表作品である「お菊さん」の解説が次のサイトにあります。
http://www.waseda.jp/bun-france/pdfs/vol23/07%93c%92%86113-128.pdf )
エドモンド・ド・ゴンクール(1822.5.26-1896.7.16)は 真の審美家、異国情緒
の愛好家であった。パリの自分の家から一度も外に出たことはなかったが、日本の
多くの美しい事物について、見逃すことのできる幾つかの間違いの混じった多くの
素晴らしい評論をその著述に発表している。三十年ほど前、横浜在住の一人のフラ
ンス人医師がエドモンド・ド・ゴンクールに手紙を送り「自分が医師になったのは
貴方の『スール・フィロメーヌ』を読んだからであり、日本に来たのは貴方の『芸
術家の家』によります」と書いたそうである。
モラエスは「若いころ、ごく若いころ、私は異国情緒の魅力にとりつかれ、心を
奪われた。なぜか、私にはわからない。生まれたときからの病的気質のせいか、私
はどこにいても心安らかにいられず、空想にふけっては遠くに、はるか遠くへと逃
げていた」と書いている。
モラエスは日本に来た。日本を気も狂わんばかりに愛し、ネクターを飲むように
これを飲んだ。しかしながら彼は愉悦の全き感覚、勝ちほこってすべてを圧倒する
歓喜を味わったことは一度もない。彼は、日本で、他のどこでもそうであったが、
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完全な幸福を感じたことがない。きっと彼の情緒性に不充分、不調和なところがあ
るせいであろう。
日本は短い間隔をおいて、ふたつの臨終の苦悶、人生と欲望の盛りにある二人の
女性が痙攣に身をよじり苦痛のうめきを発する場面に立ち会うという痛ましい特権
をモラエスに与えた。猶予してくれと死に乞うたにもかかわらず、彼女たちは彼の
かたわらで死んでいった。
モラエスは「審美家としての私の宗教はすでに久しい以前から、すべてを支配す
る最高の掟として、事物というものには永続性がなくいずれは無に帰するのだとい
う憂鬱な考えを、様々な事実や様相から私に抱かしめた。その私の宗教は、彼女た
ちの死に際し、別の信仰-追憶の宗教に変わった。それはやはり審美的宗教ではあ
るとはいえ、かつてあったが今はもはやないものを求める懐旧的美学であり、美な
るもの、善なるもの、慰撫的なものに対する情熱につながる。日本がこの私の新た
な信仰-追慕の宗教-の祭壇となることを願っている」と書いている。
本書の紹介が長くなってしまった。読者の方々はお疲れであろう。今回は、これで切り
上げよう。本書の後半は、次回(第 14 回)で紹介する予定である。
(記載:2013 年 12 月 31 日)
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