寺子屋とその師匠

阿波学会紀要
第51号(pp.125-128)
2005.2
寺子屋とその師匠
―――――――――――――――――― 史学班(徳島史学会)――――――――――――――――――
稲飯
*
幸生
校の開設は坂州尋常小学校が明治29年、沢谷尋常小
1.はじめに
学校が明治30年の開設である。
木沢村の寺子屋については『日本教育史資料』
このほか寺子屋の師匠をしていた坂口兵吉は地域
とうやま
(明治25年・文部省蔵版・冨山房刊行)に当山村の
の人の要望を受け、明治33年に私設の学校を開設し
さんよう
西谷久次郎の寺子屋が記載されているのみである
「三要学校」と名付けている(後述)。
が、そのほかに沢谷地区に坂口兵吉の寺子屋があっ
たことが『木沢村誌』に記載されている。地域の古
2.寺子屋の師匠
老にたずねても、その記憶のなかにこの二人以外の
○西谷久次郎
もり な
寺子屋師匠はない。
ろ
住所
木沢村大字当山字森奈路18
木沢村は明治22年(1889)の町村制実施に際して
生年
文化3年(1806)10月3日
坂州木頭村・沢谷村の2か村になったが、それ以前
没年
明治25年(1892)8月24日
は坂州木頭地域に6か村、沢谷地域に15か村あっ
た。
この人について『日本教育史資料』には次のよう
に記載されている。
2か村になってからは旧各村は大字となり、例え
学
科
読書・算術・習字
ば沢谷村大字岩倉村のように称せられた。大字から
旧管轄
徳島領
「村」が除かれるのは大正4年(1915)1月からで
所在地
当山村
開
業
安政6年
廃
業
明治5年
ある(『木沢村誌』)。
この村は山林面積が広く、谷の流域ごとに集落が
あり集落間の往来には峠を越える困難さがあった。
男女教師
男1名
そのうえ多忙な山林作業のなかで、親たちは子供に
男女生徒
男20名
文字に親しむ機会をあたえるがことが難しい環境に
調査年代
明治5年
あったようである。この状態の中でも寺子屋が開設
身
平民
され、文字、珠算・習字などを習う子供達があった
習字師氏名
のである。
分
西谷久次郎
当山地域は那賀川の支流の坂州木頭川のさらにそ
明治5年の学制頒布により小学校が開設されるこ
の支流の大美谷川の流域である。山に囲まれた土地
とになったが、村の事情により開設は遅れた。この
であるが、川の傍らには小規模ながら水田が作られ
ような事情は県下各市町村では珍しいことではなか
ていたようである。寺子屋のあった宅地はその時代
った。木沢村では小学校が開設されるまで、明治12
のものであるが、家は慶応2年(1866)に火災に遭
年ごろから巡回授業所を造って対応した。尋常小学
い寺子屋関係の資料は残っていない。
*
神山町下分
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寺子屋とその師匠/史学班
古老の話によると、門人は当時坂州地区はもとよ
妻ツ子の墓
はい ぎゅう
久次郎の墓のすぐ傍らに 妻のツ子の墓がある。
り隣村の拝 宮 地域(上那賀町)からも峠を越えて
通っていたといわれる。
西谷久次郎の墓
○墓碑の正面
善覚智徳大姉
○墓碑の左側
貞蔵養母
西谷久次郎妻
西谷家の近所に墓地があり、そこに門弟の建てた
ツ子こと
墓碑がある。
憲法理覚居士
○墓碑の左側
西谷久次郎
行年(刻文字なし)
○墓碑の正面
なお、ツ子の生没年は次の通りである。
生年
文化8年(1811)8月23日
没年
明治29年(1896)10月17日
行年八十七歳
明治十三年三月廿一日建
この墓碑の紀年と久次郎夫妻の没年をみると、久
世話人
拝宮村
浅岡
文平
次郎の没する前に墓碑が建てられたのか。妻ツ子の
坂州村
岡田亀太郎
死亡年齢が刻まれていないのも気になるところであ
出羽村
有月浅太郎
る。
木頭村
湯浅高太郎
○坂口兵吉
いずりは
住所
木沢村大字沢谷字中西7
夢の世やう川ヽかゆ免の
生年
天保12年(1841)4月19日
うき世奈利
没年
大正5年(1916)10月8日
○墓碑の右側
辞
世
たかほこ
この人は勝浦郡高鉾村(現上勝町)正木に生まれ、
のり乃道丹楚
ゆらく魂の緒
慶応2年(1866)に沢谷村に来ている。
まさ き
けやき じ
兵吉の生家は現在も上勝町正 木 字 槻 地 にある
○台石の左側
(現当主・坂口治)。成人して木沢村の沢谷に来て、
発起大世話人
阿津江村
木頭名村
清家
岡崎家に寄留していたが同家のミツと結婚し、寺子
岸野傳太郎
屋を開いた。開設当初の寺子屋のあった場所は、現
岡
在の坂口家の屋敷の近所の空屋が利用された。
村上
佐戸次
坂口
理平
兵吉に関する史料というべきものは生家の上勝町
森本
永倉
にも岡崎家にも残っていないが、屋敷からすこし離
れたところに墓地があり兵吉夫妻の墓がある。大勢
○墓碑の裏側
西谷貞蔵養父
明治廿五年七月四日
の弟子達の名が刻まれていて、寺子屋の盛況ぶりが
想像される。
坂口兵吉の墓
○墓碑の正面
天真院篤教全翁居士
○墓碑の左側
坂口九平父
兵吉事
享年78才
○墓碑の右側花立
発起人
斉城松吉
清井宇一郎
写真1
西谷久次郎と妻ツ子の墓
弟子達の建てたもので門弟中の文字が刻まれている。
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○左側花立
大正9年9月建設
○正面水鉢
門弟中
○墓碑の右側
弟子名
拠出金
35円
11名
1人、
8円4人
阿波学会紀要
○左側
弟子名
拠出金
24名
俗名ミツ
11円11人、6円13人
四十人の弟子の名と、拠出した金額が
第51号(pp.125-128)
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九平母
坂口家系図
岡崎喜三郎
ミツ
武一
刻まれている。
○手洗
門弟中
九平
定一
また、墓碑には次のように兵吉の事績が刻まれ、
坂口兵吉
その遺徳が顕彰されている。
エイ
坂口兵吉先生ハ天保十二年一月一日ヲ以テ
勝浦郡高鉾村正木ニ生レ、資性実ニシテ学識
3.三要学校
人格共ニ高ク、慶應二年六月ヨリ当村沢谷村
この学校は上述の坂口兵吉が寺子屋を止めた後、
ニ於テ私塾ヲ開キ明治九年十二月迄専ラ育英
近辺の人の要望により開設したものである。校名の
ノ事ニ従ヒ、其後村ノ公務勤メ、更ニ明治三
「三要」とは「読み」・「書き」・「算盤」をあらわ
十三年七月、私立三要学校ヲ設立シ、時ノ文
すといわれた。
かみ
えのき
部大臣樺山資紀閣下ヨリ、同校教員タルコト
場所は木沢村大字掛盤の 上 榎 神社境内の農村舞
ヲ認可セラレ、終始村民ヲ教育薫陶セラレタ
台を利用した。開設年は明治33年で、明治42年に村
ル等其功績多大ナリ。茲ニ門人一同相謀リ、
立沢谷小学校が創立されるまで約10年間、近辺の子
敢テ先生ノ徳業ヲシテ永久記念スベク、此ノ
供達の教育にあたった。
碑ヲ建設スルモノ也。
(句読点筆者)
大正九年七月
門人
従七位勲七等
齋城松吉謹誌
写真3
三要学校
三要学校のあった農村舞台で、ここは現在でも使用されている。
このような学校が開設された背景には、次のよう
な事情があった。明治5年に学制が頒布され、寺子
屋が廃止され小学校が開設されることになったが、
県下の各町村の例によればそれぞれに事情により、
ただちに小学校建設が行われたわけではなかった。
写真2
明治維新直後の政治的混乱や財政の窮乏により、小
坂口兵吉の墓
学校建設は遅れ寺子屋は学制以後も継続した例が多
妻ミツの墓
生年
弘化元年(1844)11月18日
没年
明治41年(1908)3月6日
いのである。沢谷村でもこの例に漏れず学校建設が
遅れた。
このような理由から学制の頒布以後も寺子屋が存
春岸智格信女
明治41年(1908)旧2月4日没
続している例が多いが、木沢村では「公立巡回授業
65才
所」を次のように開設した。坂州村(明治12年開設)、
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寺子屋とその師匠/史学班
木頭名村(明治12年開設)、沢谷村(明治16年ごろ
年(1866)に沢谷村に来て寺子屋を開くが、この寺
開設)、川成村、岩倉村(ともに明治30年ごろから
子屋は明治9年(1876)に閉鎖している。兵吉の寺
一年交代で開設)。授業所としてはおもに地域の神
子屋は10年継続したのである。
社境内の農村舞台を利用していたが、民家を借用し
その後、村立沢谷巡回指導所ができたのが明治16
て行った地域もあったという。授業所の管理は村の
年(1883)で、沢谷小学校が開設されたのは明治30
学務委員会が行った。
年である。
学制頒布以後、小学校開設までの期間の教育につ
地域に村立小学校が開校した後、明治33年に兵吉
いて、県内各町村ではそれぞれ地域の実情に応じた
が中心になって三要学校が開校している。このとき
工夫がなされている。次に二例を挙げた。
兵吉は60歳を過ぎた年齢であり、村立の小学校がで
○昼間村(三好町)の例
きた直後に私立の三要学校を創り、さらに文部大臣
明治6年に村の篤志家が集まり寺院(願成寺)を
の樺山資紀より私立の同校の教員であることを認可
借り受け「勧善小学校」を開設した。徳島市より教
されている。このあたり何か複雑な事情があったの
師一名を招いたほか、村内の医師が指導にあたった。
であろう。
この学校は1年あまりで小学校ができたので廃止さ
文
れた。
献
上勝町誌編集委員会(昭和54年):上勝町誌。
○日野谷村(相生町)の例
「人民共立学校」が明治7年に村の篤志家によっ
て開かれたが、明治14年には横石村ほか五か村連合
ほお の
木沢村誌編纂委員会(昭和51年):木沢村誌。
三好町史編集委員会(平成9年):三好町史。
森江勝久(平成7年):日野谷村の歴史。
の公立巡回授業所が、大久保・横石・朴野・花瀬の
四カ所置かれた。いずれも神社境内の農村舞台を利
資料提供
用している。
井内海俊(木沢村阿津江)
4.おわりに
寺子屋から小学校への転換は複雑である。それだ
井上
公(木沢村掛盤)
坂口一郎(木沢村沢谷)
坂口
治(上勝町正木)
け変革が急速で地域ではそれに対する施策が及ばな
西谷友重(木沢村当山)
かったのであろうが、疑問点も多い。坂口兵吉の例
木沢村教育委員会
によってその変遷をみてみた。
兵吉は天保12年(1841)に正木村に生れ、慶応2
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