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旧韓国における女性教育の一考察 ―キリスト教系学校を中心に―

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旧韓国における女性教育の一考察 ―キリスト教系学校を中心に―
キーワード:旧韓国、女性教育、キリスト教系学校、私立学校統制政策、教育救国運動
発達・社会システム専攻
黄 明娟
はじめに
育課程からは外れていたのである。
韓国での近代式の教育は宣教師らにより設立されたキ
リスト教系学校から始まり、韓国人による学校設立が軌
第 2 節 宣教師らによる女子教育への着手
道に乗り始めるのは、1895 年の甲午改革以後のことであ
朝鮮にキリスト教が本格的に伝来したのは、1882 年 5
る。それも男性のための教育機関が中心に設立され、女
月に米国を始め諸外国と修好条約を結んでからである。
性の教育に対する一般人の世論は積極的ではなかった。
当時日本で宣教していた監理教の宣教師マックレイ(R.
しかし、キリスト教系学校の教育は、男女学校がほぼ同
Maclay)
が 1884 年 7 月 3 日外務大臣金玉均を通して高宗
時期に始まり、学校数で見ても決して女子学校が男子学
から教育と医療事業の許可を得たことにより、米国の北
校に比べて劣勢ではなかった。
長老教と北監理教の宣教部は、朝鮮の実情に合わせ、ま
しかし、韓国近代における女性教育を論じた先行研究
ず医師 3 人と牧師 2 人を宣教師として朝鮮に派遣した。
の中には、キリスト教系女学校による教育が女性開化に
宣教師らの医療と教育事業を通じて、多くの朝鮮人は
果たした役割を否定する傾向がある。それには、キリス
キリスト教徒になり、また西洋文化に触れることで近代
ト教系女学校は宣教の目的で設立され、捨てられた女児
教育の原理は勿論、女権伸張及び新式生活方式を受容す
に衣食住を与えながら教えていたので、近代化への意欲
ることになるのである。特に、女性宣教師により朝鮮に
や主体意識が欠けているとしている。また、日本統監政
近代式の女学校が設立されると同時に女性教育が普及さ
治期に入ると、全国に爆発的に設立された私立学校で盛
れることとなる。
んに行なわれた教育救国運動に対する研究も、民間人系
1886 年、スクラントン(M.F. Scranton)夫人により
私立学校を対象にしたものが多く、キリスト教系学校で
設立された梨花学堂は、最初の女学校である点で大きな
の教育救国運動に対する研究は男子校に限るものである。
意義を持っている。スクラントン夫人が朝鮮に入ったの
それで筆者は、
本論文を通してキリスト教系女学校が、
は、1885 年 6 月 20 日であった。当時の朝鮮の状況は、
旧韓末という歴史的な転換期に女性教育を定着させ、ま
政府による天主教の迫害が続き、キリスト教に対する敵
た、民族教育機関としてその基盤を構築していく過程を
対心ないし恐怖心が韓国人に深く根をおろしていた。
明らかにしたいと思う。
そのなかでもスクラントン夫人は、1885 年 10 月に学
校を建てるための土地を購入し、冬の間に校舎を建て学
第1章 キリスト教系女学校の設立
生を得ようと努力した。スクラントン夫人が始めて生徒
第1節 伝統的な女性観
を得たのは来韓してから一年後のことで、家もない乞食
韓国で 500 年も続いた朝鮮時代には儒教の教えが強く
であった。それから 1887 年学生数が 7 名に増えた時、ス
根をおろしていて、女性の教育は考えられない時代であ
クラントン夫人の苦労を知った明成皇后は「梨花学堂」
った。女性は男性の隷属物になる教育と、より良い労働
という校名と自ら書いた扁額を、当時の外署督辧である
の資源になるような家庭訓練があるだけで、女性の人権
金允植を通して賜った。その後、スクラントン堂長の身
は無視されていた。彼女らの最大の任務は子孫、特に男
辺安全のため皇室から「旗手」が送られた。このような
の子を産み育てることであり、最大の美徳は、舅と姑と
皇室からの信任と激励を受けたことが、学堂と社会の関
夫に仕えその命令に服従することであった。また、その
係を和らげるよい機会となり、学堂には学生の出入りが
生活は東洋伝来の「内外法」という厳しい道徳律により
激しい面もあったが、年々学生数は増えることになる。
外部の世界から閉ざされていた。
初期の宣教師らにより設立された女学校の様子は、梨
だから、女性教育というのも、男性とは違って、男性
花学堂の場合と変わらず、集まった生徒はほとんど孤児
に服従する教育、制約ある生活に満足する教育、家事を
や家庭的に不幸な児童らで、自ら進んで入学したという
こなす教育など家庭内の教育に留まっていて、正規の教
よりは、
衣食住を解決するための方便的な入学であった。
1
しかし、1890 年代からは、開化志士の子女や夫人が少数
第2章 キリスト教系女学校での女子教育の展開過程
ではありながら学堂で学び始めた。
第 1 節 初期の教育活動
このように女性宣教師らによる女性教育の礎が築かれ
開化初期の女学校の状況は、名前だけの学校で、実際
る頃、1893 年の第 1 回宣教師公議会で、女性の開化や伝
には学校としての規模や設備、そして資格をもつ教師な
道に重点を置く宣教方針が決められた。
これにより、
1897
どもなく、教育の内容や方法に関しても如何なる考慮も
年宣教部の地方学校設置に関する政策が決定されるや、
議論もなかった。教師不足も深刻な問題で、初期には派
全国主要都市にはミッション女学校が設立されることと
遣される教師によって新たな科目が加えられる状況であ
なる。
った。
初期の教授用語は、梨花学堂のスクラントン堂長が初
第3節 キリスト教系女学校の建学精神及び教育方針
めての学生に英語で賛美歌を教えたという記録があり、
梨花学堂を設立したスクラントン夫人は、次のように
主に英語で教育が行なわれたと推測できる。このような
教育観を明かしている。
「我らの目標は、
この女児達をわ
言語の不通などの問題を解決するために学堂では、宣教
れわれ外国人の生活、衣服及び環境に合うように変える
師の他に韓国人の女教師を雇用するケースが多かった。
ことではない。我らは単に韓国人をより良い韓国人にす
このように採用された女教師は、新式教育に対する不信
ることで満足だ。… 韓国人が韓国的なことに対して誇
感を抱いている一般の婦女子に学堂内を紹介し、学堂と
りを持つようになってほしい。延いてはキリストと彼の
社会の壁を崩す重要な役割をした。初期に雇用された教
教訓を通じて完全無欠な韓国人を作ろうと望むのだ」
。
師は、女性に限られていて、これは当時の韓国の風習を
このような考え方は、当時女学校を経営していた多く
重視した行為であった。初期の韓国人女教師は近代式教
の宣教師の共通な教育理念であった。外国女性に育てる
育を受けた者ではなく、開化人士の夫人もしくは牧師の
のではなく、韓国女性に育てるというのは当然なことで
夫人、両班階級で寡婦となった夫人などであった。
あるが、当時の女性宣教師たちは、終始これを意識的に
珍しいことではあるが、女学校でも男子教師が採用さ
強調することで、韓国人の誤解がないよう格別に気をつ
れることがあった。その場合には、学生と教師の間に屏
かっていたようである。確かに「韓国人」を作ろうとす
風を立てるか、教師が後ろ向きに座り学生の質問に答え
ると言っているが、もう一つの目標志向は「基督教人」
、
る程度の授業であった。
延いては「教役者」を作り出すことに置いていた。
初期の学生は、ほとんど寄宿舎で生活していた。これ
ここで注目すべきことは、伝統的な韓国女性とキリス
は貧乏な家庭の子女が多かったからでもあるが、「内外
ト教的な女性の両立性の問題である。伝統的な韓国女性
法」で女性が町を歩いて学校に通うことができなかった
なら、社会活動を蔑視し、夫と舅、姑を最高の権威者と
からだと見る方が妥当であろう。初期の学堂は無償で、
して従い、祖先を大事に祭らないといけないのである。
学費はもちろん学用品、衣服、生活用品すべてが提供さ
しかし、
キリスト教は神を中心にすべての人間は平等で、
れていた。
祖先に対する祭祀は偶像崇拝に当たるものである。この
初期は修業年限もなかったので、
卒業もなく 7∼8 年の
ように両者の中心思想が対立しているので、二つの概念
間学堂で勉強し、結婚と同時に卒業となったケースが多
の完全な調和は期待できない。従って、より良い韓国女
かった。結婚相手も結婚式も学堂で周旋したという記録
性という表現は、韓国側の反発を防ぐため、意識的に強
が、各学校史に多数見られる。結婚相手は、近代式教育
調していたもので、伝統的な良妻賢母を指向していたと
を受けたキリスト教信者であったことはいうまでもない。
は考えられない。
このように数年間教育を受けた学生を開化志士と結婚さ
キリスト教系女学校では、
「キリスト教的な韓国女性」
せることにより、模範的なキリスト教家庭を築き、布教
を教育の目標とし、良妻賢母を理想とした韓国女性に育
はもちろん女性の社会進出を容易にしようとするねらい
てることを建て前として、実際には女性の社会参加を促
があったと思われる。
し、社会でのキリスト教の伝道者、延いては奉仕する「指
導者」を育てることに教育の重点を置いていた。女性指
第 2 節 中等教育課程への展開
導者というのは、当時の社会実情では考えられなかった
宣教師らによる女学校が設立され女性教育が普及して
が、抑圧されていた存在から社会の指導者という位置ま
いく頃、1894 年には韓国政府による甲午改革が行なわれ
で育てようとしたのである。
た。教育部門でも、学校制度の近代化が行なわれ、1899
年には最初の官立中学校である漢城中学校が設立され、
2
1906 年の学制改編により 4 年制の官立漢城高等学校とな
直接社会活動に参加し、このうち教育に 17 名、宗教に6
る。続いて 1908 年 4 月 2 日には勅令第 22 号の「高等女
名、医療に3名が進出したとされている。教育に従事し
学校令」によって、最初の官立女学校である漢城高等女
た者の中には梨花学堂の教師となった者もいるが、殆ど
学校が設立されることになる。
が梨花学堂の傘下の小学校を開拓したという。
キリスト教系女学校の中等教育機関への昇格もしくは
崇義女学校の場合も、1908 年第 1 回卒業生の 5 人全員
中等科の設置時期を調べてみると、梨花、貞信、培花、
が、教師として奉職したといわれている。このようにキ
崇義など女学校は 1903、4 年から中等教育を実施し、学
リスト教系女学校の出身者は、1900 年代以降急速に増え
部の学制の改編後に正式な認可を得ている。キリスト教
る民間人の手による私立学校の形勢に、女教師として一
系女学校では 1908 年の高等女学校令が発布される前に、
翼を担っていた。
女学校出身者により設立された学校は、
すでに中等教育課程の教育が始まっていたのである。
ソウルおよび地方の教会を中心に形成され、主に初等教
キリスト教系女学校の教科課程は、官立高等女学校や
育を行なっていた。故に宣教師による女学校は中等教育
民間人系高等女学校のそれより細部的で水準も高いし、
機関に昇格し、傘下の小学校から推薦されてきた生徒を
教師として派遣されてくる宣教師の教育程度も高かった。
収容していたのである。前述のように、1910 年には梨花
初期の教科書不足の問題も、徐々に翻訳書の普及と在職
学堂で大学教育まで行なわれるようになり、キリスト教
教師の著書を用いることにより教科書編纂にも先駆けの
系女学校は初等・中等・大学の一貫した体制が整えられ
役割をした。
るのである。
1890 年代に入ってからは、徐々に自ら勉学を求める学
生が集まり、入学生の資格も厳密化された。また、設立
第3章 日本統監政治下の教育情勢
初期には下流階級の貧乏な学生が殆どであったため、教
第 1 節 学部と統監府による私立学校弾圧政策
育も無償で行なわれていたが、1900 年代に入ると、上流
学部による植民地教育体制づくりが進展する中、最も
階級の学堂志願生が増え、自費生も増えるようになり、
妨げとなるのが、1905 年の保護条約を前後して爆発的に
学堂の自立経営の可能性も出てきた。
増えた私立学校の存在であった。当時の私立学校では、
国権回復、自主独立及び人権伸張を基礎とした教育を行
第3節 高等教育課程への拡大
ない、民衆の支持のもとでその組織を広げていたのであ
韓国の女性が国内で大学教育を受け始めるのは、1910
る。故に、爆発的に設立された私立学校を統制するため
年梨花学堂で大学科が設けられてからのことである。
に、統監府による私立学校への弾圧が始まるのである。
韓国での女性の大学教育機関は、近代式教育の開始時期
1908 年 8 月 26 日に公布された「私立学校令」は、学
から数えると、他の国と比べて非常に短期間で設けられ
校の目的・名称及び位置、学則、校地校舎の平面図、1
ていた。それは 4 代目の堂長であるフライ堂長の信念に
箇年の収支予算、維持方法、設立者・学校長及び職員の
よるものであった。当時の大学科設置に関しては、一般
履歴書、教科用図書名の7つの項目において学部大臣の
大衆は勿論のこと、校内の宣教師のなかにも反対の声が
認可を受けることになった。これにより学部は、私立学
高く、普通科・高等科にも通う機会がない女性が多いの
校の設立状況に関するデータを掌握することになり、私
に、大学科の設置は無理だというのが通念であった。
立学校は、学部に拘束され教師の人事から教科の学習分
しかし、
フライ堂長は、
韓国女性を悟らせるためには、
野まで規制を受けることとなった。
まず韓国女性から指導者が出るべきで、高等教育を受け
また、
「私立学校令」と同時に「教科用図書検定規程」
た女性が多いほど、まだ教育の手が届いてない女性らに
も出され、当時私立学校で自由に使われていた教科用図
勉学の機会をより早く与えることになると確信したので
書を、学部大臣の検定を受けないものは使用できないよ
ある。このように設けられた大学科は、1912 年、朝鮮総
うにしたのである。その結果、今まで使われてきた民族
督府令の大学科設置認可を得ている。
主義的傾向が強い教科書や図書は、すべて使用禁止処分
を受けることとなるのである。
第 4 節 卒業生の教育活動
学部のキリスト教系学校に対する考え方は、治外法権
新教育を受けたキリスト教系女学校出身の女性たちは、
の理由で強制的ではなかったが、指導級の立場にある宣
教育部門のみならず医療、実業、宗教の部門まで活動の
教師らの親日傾向により、認可を受けることにしたので
範囲を広げていた。梨花学堂の記録によると、1886 年か
ある。これは日本による韓国の植民地化が進展する中、
ら 1907 年の間、初期卒業生 50 人のうち3分の1以上が
日本の協力なしには韓国での宣教が不利になることを恐
3
れたからである。
海外独立運動組織に資金を送付していた。会員は手芸
次いで、
1909 年 2 月 27 日の
「寄付金品募集取締規則」
、
品・刺繍などを作って資金を作る一方、国産品奨励運動
1909 年 4 月 1 日の「地方費法」
、1910 年 4 月 23 日の「郷
などを行ない、国民啓蒙運動も活発に行なった。
校財産管理規程」なども公布され、私立学校の財源にな
全国的にその組織が広がったのは、キリスト教系学校
るものに統制を行ない、財政面での打撃を与え、廃校に
の特徴をよく利用していたからである。地方のキリスト
追い込むのである。
教系学校で初等教育を受けた生徒が、中等教育機関であ
このような私立学校統制法令により直接的な打撃を受
るミッションスクールに推薦され教育を受ける。確固た
けたのは、民間人により設立された私立学校と、韓国人
る民族意識を身につけて卒業した生徒は、自分の地元あ
牧師や信徒の手により運営されていたキリスト教系諸学
るいは他地方のキリスト教系諸学校に赴任し教育活動を
校であった。韓国人により運営されていたキリスト教系
行なうこととなるので、自然に全国に拡散されたのであ
諸学校は、宣教初期から独立経営方針で営まれてきた地
る。
方自治教会を中心に成り立っていたので、信徒の献金や
以上から、宣教師らが救国運動をし、キリスト教系学
寄付に依存していた。また、私立学校令以後、親日的な
校と教会が救国運動の主軸であったことは認められる。
傾向を示す宣教師とは反対に、地方教会学校は民族系学
しかし、このような活動の目的が救国運動自体にあった
校とともに民族主義教育や反日教育の温床として注目さ
というよりは、
宣教の付属的な活動であったとみるのが、
れていたので、統監府ではその民族主義教育を阻止しよ
妥当であろう。重ねていうと、宣教の課題と民族の課題
うと財政面への打撃を与えたのである。
をひとつとして受容し宣教を進めていたのが、結果的に
教会事業が復興する基盤になったと考えられる。
第 2 節 キリスト教系女学校における教育救国運動
1905 年の第 2 次日韓協約(乙巳保護条約)の締結後、
おわりに
キリスト教の信徒数は年々増加し、キリスト教は大復興
本論文では、キリスト教系女学校が旧韓末という急変
期をむかえることとなる。これは、韓国の統治体制が日
する歴史的な転換期に、初等から高等教育課程まで一貫
本の手によって左右される暗黒の歴史的現実からのはけ
した教育体系を築き、日本による植民地教育体制づくり
口として、韓国の民族志士らが大挙してキリスト教に入
の進展のなか、民族教育機関として救国運動の一翼を担
信したからである。また、入信した多くの民族指導者た
っていく様子を考察してきた。
ちが、韓国人教師としてキリスト教系学校に集まり、主
本論文を通じて、キリスト教系女学校を経営していた
に漢文、韓国歴史、韓国地誌などを担当し、民族主義教
宣教師らは、女学校設立着手時から女性の社会参加を促
育を生徒らに施した。女学校の場合にも例外なく、韓国
し、社会の指導者としての位置まで育てていたことを明
人教師による民族主義教育が行なわれた。宣教師らも教
らかにした。このようなことが韓国の場合、非常に短期
科目にハングル、韓国歴史、地誌などを積極的に取り入
間に成し遂げられたが、日本による植民地化の進展がそ
れることにより、民族思想鼓吹教育に同調していた。前
れを促したと思われる。また、本論文では、日本による
節で宣教師らの親日的な傾向について述べたが、それは
植民地教育政策が進められるなか、キリスト教系女学校
一部指導層の宣教師の場合であり、説教・教育・文書活
内の様子に着目し、
その救国運動の内容を明らかにした。
動などを通して排日的な姿勢を取っていた宣教師も多か
このような動きは日韓併合になると、キリスト教系女学
った。彼らは韓国人に愛国心を鼓吹させることを布教の
校にまで及ぶ総督府の弾圧政策とそれに対応する教師・
手段としていたようである。
生徒の秘密組織の活動はその深度を増していて、1919年
次に、キリスト教系女学校で課外活動として行なわれ
の3・1独立運動への女性参加を促す中心勢力として登
た討論会、祈り会などのサークルも、時代の変化により
場するのである。それに関しては、本論文では論及でき
救国運動の温床となるのである。当初には勉強会、信仰
ず、今後の課題として残しておきたい。
訓練、宣教活動などを行なうための集まりであったが、
参考文献
日韓併合という国家の悲運とともに、会員のうち愛国心
・阿部洋「併合前後の朝鮮におけるキリスト教主義学校」
に徹した者を中心に秘密結社が組織されるに至る。
『日本の教育史学』第 16 巻 1973 年
韓国最初の女性秘密結社である「松竹会」は、1913 年
・丁堯燮『韓国女性運動史』一潮閣 1971 年
崇義女学校を中心に結成され、朝鮮のみならず海外まで
・李炫熙『韓国近代女性開化史』二友出版社 1980 年
その組織を広げ、
日本の警察組織に摘発されることなく、
・孫仁銖『韓国女性教育史』延世大学校出版部 1977 年
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