記憶の蜃気樓 - 松山大学司書・司書教諭課程サイト

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記憶の蜃気樓
司書課程担当
郡 司 良 夫
ある日のこと、司書課程年報の編集を担当されている早瀬先生から、一種の回想録を書
くようにという話があった。さて、なにを書いたものか。迷った挙げ句(というよりも、
これといって格別な事柄を経験してきたわけではないので)
、ささやかな記憶を綴ってみよ
うと思う。
図書館業務をコンピュータ処理するようになって以後
日本の図書館で日常業務の処理にコンピュータを利用するようになってほぼ 40 年が経
過した。国立国会図書館は別として、国立大学の図書館が最初にコンピュータの導入を行
い、それに続いて大規模の私立大学、やがて公立図書館でコンピュータによる業務処理を
行うようになって、今日に至っている。最初は、試行錯誤しながら各館独自の図書館シス
テムを開発していたが、それもやがてパッケージ型の図書館システムを各メーカーが提供
するようになった。こうして、現在では図書館業務処理にコンピュータは欠かせないもの
となっている。
こうした図書館へのコンピュータ導入期のごく初期に、図書館情報大学が筑波研究学園
都市に誕生した(現在のつくば市)
。1979 年秋に創設され、第 1 期生の学生を受け入れたの
は 1980 年 4 月、図書館職員が配置されたのも同時期であった。筆者はこの大学の実質的な
創設期に図書館に配属され、偶然とはいえ、否応なく図書館業務システムの開発に狩り出
された。それというのも、当時、わが国の図書館界はコンピュータ導入の揺籃期であった
ため、データベースを利用して図書館業務全体をコンピュータ処理するシステムの開発が
図書館情報大学創設時の至上命令とされていた。今では考えられないような状況のなかで
の話である。コンピュータシステムはメインフレームの時代であり、まともなDBMSは
なく、書誌データベースのJAPAN-MARCテスト版はまだできてなかった。データ
入力に関していえば、現在当たり前のカナ漢字変換はできなかったし、ましてやウィンド
ウズのような便利な機能などなかった。そのため、カナ漢字変換の方式を模索し、データ
取り込みのためにディスプレイの画面を上下に分割して検索画面と入力画面を用意した。
これは検索画面に表示された検索結果から入力画面へのデータを取り込むためであった。
そして何よりも現在と違っていたのは、各業務処理を個別に行うシステムであった。つま
り、貸出・返却処理、図書受入処理、目録作成処理等々である。この時期にはまだ業務間
でのデータ共有はできていなかった。というわけで、この時は図書館業務に携わっている
図書館職員、教員およびメーカーのSEの三者がそれぞれの知識と技術を出し合って新し
い図書館業務システムの開発にあたった。
また、この時期はまだコンピュータネットワーク技術も初期の段階で、OSの異なるコ
ンピュータ同士の接続もテスト段階であった。学術情報センター(現国立情報学研究所)
と遠隔接続してデータのやりとりが実際にできるかどうかのテストにも立ち会った。その
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後、各大学の図書館が順次学術情報センターと接続して、コピーカタロギングが実現し、
今日に至っている。
それからおよそ 30 年、図書館における日常業務の形態は大きく変わった。大学図書館を
中心とした総合目録のデータベース形成による業務処理のスピードアップ、データの信頼
性の向上、検索機能の向上、図書館間協力の強化など、さまざまな面で業務処理の改善が
行われてきた。その一方で、図書館職員として求められる能力の一部が確実に失われつつ
あるように思われる。それは、初期のシステム開発に携わった頃に頭をよぎった危惧の念
である。そのいくつかについて、思いつくままに述べてみたい。
まず、目録業務担当者の行動が明らかに変化した。コンピュータによる目録作成業務を
始めた頃は、コンピュータに向かう前にデスクワークとして分類記号の付与、著者名のヨ
ミの確認、洋書の場合は未知の単語を辞書で確認するといったような事前処理をしてから
コンピュータに向かってデータ入力をするのを当然のこととしていた。当時はまだ総合目
録データベースはなく、JAPAN-MARCおよびLC-MARCを検索してヒットし
たレコードを手元の資料と照合した上でそのデータを取り込み、図書館情報大学の目録デ
ータベースを形成した。やがて、学術情報センターに総合目録データベースが形成される
ようになったが、その頃になると目録担当者はすでにデスクワークとしての事前処理を全
くやめて、いきなりコンピュータに向かうようになった。メインフレームの時代であった
から(この当時は端末機が高価であり、業務用端末はすべて共用であった)
、端末機操作の
途中で辞書を引いたり、分類表で該当する分類番号を調べたりする時間は、コンピュータ
が遊んでいる状態にあるけれども、担当者はそのことを意に介していないようであった。
当時盛んに言われていたVDT作業従事者の健康管理の上から、端末機に向かう時間をな
るべく少なくするように指導していたが、そのためには端末機に向かう前にデスクワーク
として事前処理しておくのが最善と思われる。しかし、そのことはほとんど省みられるこ
とはなかった。コピーカタロギングが日常業務となった今日では、既に、事前処理という
ことが念頭から消えているように思われる。しかし、メインフレームの時代は過去のもの
となり、職員ひとりひとりがPC端末機で仕事する現在、この事前処理に当たる作業は全
く無意味になってしまったのだろうか。
次に、コピーカタロギングが一般化してきた今日、図書館員は考え、判断することを放
棄してしまったかに見える。このような言い方は大袈裟すぎると非難されるかも知れない。
目録担当者は、コピーカタロギングを行う場合でも、取り込むデータと手元の資料の照合
は必須であろう。しかし、時折、その作業を抜きにしているのではないか、と思われるこ
とがある。さらに言えば、受け入れた図書の検索を行い、ヒットしたデータの取り込みを
してその図書館の管理データを付与すれば一件終了、という。この段階で、その図書につ
いて知ろうとする行動は姿を消す。その結果、自館で所蔵する資料について、利用者から
聞かれても
「ちょっと待って下さい」と言って、端末をたたく姿が一般化している。現場の図書館員
である(あるいは、図書館員になろうという)人は、図書館で扱う資料との対話が必要な
のではないか。つまり、コピーカタロギングであっても、そのコピー元は人間が作ったデ
ータであるから、間違いが潜むということを肝に銘じておかなければならない。他人の作
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成した目録データの適否は人間の眼で行わなければならない。そのためには手元の図書と
もう少し親身につきあう必要があるのではないか。
もう 50 年も前に、唐木順三が「書物との対話」という短文を書いている。
(昭和 36 年 10
月 30 日『河北新聞』
)そこには、こう書かれている。
私は読書とは書物との対話だと思っている。問答のない読書はつまらない。語りかけ、問いかけ、考
え込ませてしまうような本がよい本なのである。本からの語りかけによって、私のうちにある想念に火が
点ぜられ、この想念は胸の中で燃えあがる。私はさきを読むことをやめ、本をとじて、ぶらりと散歩にで
かける。歩きながら、さきの問答をくりかえし、ときに私の想念はおもいもよらぬところまでひろがる。
私はまた机にもどって本をひらいてさきを読む。読むうちにまた会話がはじまる。
この唐木順三の言葉を、図書館で働こうと思っている人は一度しっかり検討してほしい
と思う。物との対話を重視したい、と思うのはやはり時代遅れなのかも知れないが。
放浪の時代
30 年前のことを長々と書いてしまったので、その 10 年後、つまり今から 20 年ほど前の
記憶を探ってみよう。
20 年前、もう少し正確に言えば、さらにその数年前の話になる。これは少しも自慢にな
る話ではないが、また、公に口外すべきことではないことかも知れないが、もはや時効に
なった事柄に属するものと考え、記憶の輪廓をなぞってみたい。
その頃、というのはまだ公務員生活を送っていた時期であるが、上記のシステム開発に関
わっていた終わりの頃、筆者は新に配属されてきた上司(直属の)とかなり険悪な関係に
なっていた。原因は?要するに肌が合わなかった、ということだが、その状況から救出し
てくれたのはその上の上司(つまり、上司の上司)であった。どうゆう駆け引きがあった
のかは知るところではないが、ある日「暫く頭を冷やしに出かけてみないか」とその上司
が声をかけてきた。話を聞いてみると、
「在外研究員ということで、アメリカの図書館を調
べてこい」というものであった。これは若手育成の制度であり、筆者は既に若手といえる
時期を越していた。それでも、その頃まで折にふれて聞かされていたアメリカ合衆国の図
書館の現場を見たいと思っていたので、その話に乗ることにした。期間は半年未満。
最初に訪れたのはシアトルにあるワシントン大学の東アジア図書館。そこには久間さん
という年配の(少なくとも筆者よりは年上の)方が勤務していた。3 ヶ月そこでお世話にな
った。東アジア図書館の館長は中国人の方で、彼の話す英語(というか米語)を聞き取る
のに苦労した。そこで、これではいけないという殊勝な気持になって、大学が英語を母国
語としない外国人のために開校しているESL(English as a Second Language)という
のに急遽通うことにした。10 週間月曜日から金曜日まで毎日ふたつのクラス(Listening
と Reading)に出席した。同じクラスには日本、台湾、韓国、中国などさまざまな出身地の
若者がいた。この時期の日課は、ESLに出る時以外は朝から東アジア図書館に出かけ、
一応調べ物をした。アメリカにおける東アジア図書館の成立と展開を知ろうと思った。こ
の図書館の書庫の一角にある研究者用のひとつを確保してもらったので、書庫内の資料を
自由に利用できた。そこには日本人の移民に関する資料が相当多量にあった。この図書館
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の閲覧室で、大正大学で移民の研究をしているという人に会った。彼も在外研究員で二度
目のシアトル訪問であった。この図書館の閲覧室にはレファレンスブックの他に一般図書
といえるものは少なかった。基本的に出納式の図書館であった。
シアトル滞在中は大学近くのアパートを借り、毎日のように周辺の町を歩きまわった。
アパートの近くには古書店が数軒あり、ダウンタウンには大きな古書店が何軒かあった。
ダウンタウンにはバスで行くが、そこには日本品を売る店があった。Uwajimaya で、日本酒、
文庫本、タバコ、スリッパ、ヘチマなど懐かしいものを並べていたが、どれもこれも高い
と思ったのは日本での価格を知っていたからだろう。ここではすべてが「輸入品」だった。
例えば、新潮文庫の 300 円位のものは 10 ドル(1 ドル=\125 だった)といった具合。
ESLに通った効果があったようで(Listening 担当の日系二世の女性は、listening は
耳で聞くだけでなく頭で聞くものだ、と言ったのが思い出される)、シアトルを離れる頃は
かなり聞き取れるようになった。この間、毎日のように書店や古書店に通った。
7 月から東へ向かうひとり旅が始まった。最初はシカゴ大学の図書館を訪ねた。次いで、
イリノイ大学へ。シカゴからアーバナ・シャンペインまではグレイハウンドバスで行った。
西部開拓時代を彷彿させる延々と続くハイウェイ。ハイウェイの左右にはトウモロコシの
畑が地平線まで続く風景のなかをバスが行く。人家はほとんど目に入らない。西部開拓時
代は人々がこの平野を幌馬車でのんびり行ったのだろう。夕方になってイリノイ大学近く
のバスターミナルに着いた。翌日、イリノイ大学の図書館を訪れた。ここにはアメリカ図
書館協会関係の資料がたくさんあった。また、図書館間の相互協力が始まったところでも
ある。
次に訪れたのはミシガン大学の図書館。シカゴのオヘア空港へ一度戻りそこからデトロ
イト行きの飛行機に乗り換えた。アーバナ・シャンペインからシカゴまでは、イリノイ大
学の構内にある飛行場(航空学部?)から飛行機(33 人乗り、プロペラ機)に乗った。
デトロイト空港からミシガン大学まではリムジンバスを利用。ミシガン大学で思い出す
のは北のキャンパスにある Ford Library である。ここにはG.フォードが大統領(第 38
代)であった時の文書約 800 万ページにのぼる Archives が収められている。大統領執務室
を模した部屋があった。そこで機密解除になった文書を見せてもらった。1970 年代の日本
の選挙に関するもので、田中角栄陣営の動きに関する報告文書であった。Declassified の
印が押されていた。
ミシガン大学の図書館の次にオハイオ州立大学の図書館を訪れた。ここでは大学の図書
館の他に OCLC の見学もした。OCLC は元々オハイオ州立大学のコンピュータセンターであっ
たが後に独立し、この時期には既に書誌情報ユーティリティーとなっていた。
オハイオ州立大学の次にピッツバーグへ。ピッツバーグ大学でこれまでと同様にアジア
図書館を訪れた。この街はカーネギーで有名。筆者はカーネギーよりも「金髪のジェニー」
や「おおスザンナ」などの作曲家フォスターにかかわりのある街として記憶していた。ま
た、大学近くの公園にあるカーネギー・コンプレクション(図書館・博物館・コンサート
ホール等の複合施設)にも興味を持っていた。この公園一角にはバンジョーを抱えるフォ
スターの小ぶりな銅像が建っている。
ピッツバーグの次はボストンを訪れた。ホテルはボストン公共図書館と通りをはさんだ
向かい側だった。ここでは名のみ聞いていた書物 The Quest for Corvo をコピーすること
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ができた。また、ボストンに到着した日は雷雨の襲来があり、雷雨が去った後に Boylston
通りの両側のビルを結びつけるように虹が架かった。それも二重に。虹を見るのは日本を
出て以來初めてのことではなかったか。ボストンではハーヴァード大学の燕京図書館を訪
ねた。ここでは漢籍分類に特別な分類表を用いていたので、その大枠を筆写した。
ボストンには三日滞在し、その後は東海岸を南下してイェール大学の図書館を訪ねた。
ここで記憶に残っているのは、猛烈な蒸し暑さだった。この時の暑さは、ここ何年かの松
山の夏といい勝負だと思う。暑くて眠れず、夜中に何度もシャワーを浴びたのだが、水を
期待しても出てくるのは風呂の湯のようなものであった。大学の博物館で写楽の絵をたく
さん見た。ほかに北齋と廣重もあった。
イェール大学のある New Haven から New York までは列車(AMTRAK)で移動した。コロン
ビア大学のアジア図書館を訪ねた。これまで訪ねた大学と違うところは校門があり、門衛
がいたことだ。
(門衛は腰に拳銃を差していた。)ここのアジア図書館は昔ドナルド・キー
ンがよく利用していたところだという。ここではニューヨーク公共図書館に顔を出した。
この公共図書館は貸出をしない。利用者は書庫から資料を出してもらって、広い閲覧室で
読む。筆者が訪れた頃は一種の日本ブームとかで、日本料理、下駄、空手といったものに
関する図書がよく利用されるといっていた。出納式であるにもかかわらず、人気のある図
書は時折不明になるとも。メトロポリタン美術館に行ったら、ゴッホのひまわりの絵に出
会った。ここで『ゴッホ書簡集』
(英訳)をつい買ってしまった。
ニューヨークでは日本風ラーメンを久しぶりに口にする。店の名前は「大学」だった。
また、
「土井たか子が参議院で首相に選ばれたの、知ってる?」とアジア図書館の日本人か
ら聞かれた。8 月 10 日のことだった。結果的には自民党の海部総裁が臨時国会で首相に選
出されたが、驚きではあった。
ニューヨークからプリンストン大学へ向かった。地下鉄に乗り、途中で下車して地上に
出て、小さな電車に乗り換えて行った。ここは大学の街であった。B&B という日本でいえば
民宿のような所に泊まった。プリンストン大学の図書館では貴重書閲覧室で多くの揺籃期
本を見ることができた。
(因みに、ここでは約 1000 点の incunabula を所蔵しているそうで
ある。
)なかでも『ニュルンベルク年代記』は素晴らしいと思った。ほかにはコロンブスの
航海日誌、1500 年代の終わり頃のシャー・ナーメの写本、アルメニアの古い聖書等も。
ここのアジア図書館(Gest Library)には四日ほど通った。そんなある日、狩野派の絵
の研究論文に取りかかっているという大学院生(?)から、竹生島で見た絵と画家につい
て訊ねられ、狩野探幽のものであろうと推測しながらも確認する資料がそこになかったの
で困惑したのが思い出される。大学近くの古書店で James Billington の The Icon and the
Axe に出会う。これまで随分古書店で探したが見つからなかったものだが、この時手にした
のは元版のハードカヴァーであった。
(James Billington は米国議会図書館の第 13 代館長
である。
)
プリンストンを後にして、ワシントン DC まで行った。ここのタクシー運転手は日本の白
タクみたいなもので、客がひとりでは儲からないというのか、同じ方向へ行く客を探して
同乗させた。これまでの街とはどうも様子が違うと思った。
ワシントンでは当然のこと、米国議会図書館を見学した。そのために二日費やした。今
でも記憶に残っているものは、敗戦直前の和雑誌である。その量たるや大変なもので、筆
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者が案内してもらった頃はまだ未整理の状態だった。案内して下さった職員の説明によれ
ば、ここに集められた雑誌は連合軍が日本上陸した時、空襲を受けて避難していった人達
がうち捨てていったものだそうで、日本各地で雨ざらしになっていたものを上陸した兵士
達が回収したものだと言っていた。案内の人も言っていたが、恐らく 3 万冊以上あるだろ
うが未整理なので実数は分からないそうだ。ということは、メリーランド大学のプランゲ
文庫に所蔵されている雑誌類とは異なるものであろう。
ワシントンについて四日目は Smithsonian Institution の見学を予定していたが、これ
までの一ヶ月半に及ぶ一人旅で相当くたびれてしまい、見学は中止した。エノラ・ゲイを
見たところで仕方なかろう、と。その代わり、ホテルに近い Folger Library に行った。こ
こには世界中(?)のシェイクスピア関係文献が集められていると聞いていた。議会図書
館の丁度裏手にあって、比較的こじんまりしていたが、確かにいろいろなものが陳列され
ていた。川上音次郎一座が上演した「オセロ」のポスターがあったのには驚く。場所が駿
河台下となっていたり、登場人物の名が日本人名になっていたり・・・・当時の観客に馴染み
やすいように翻案したものであろうが。
(後日、ここを舞台としたスパイ小説を読んだ。)
アメリカ東海岸の図書館見学はこの議会図書館が最後であった。ここから一旦シアトル
へ戻ることにしていた。今度は飛行機で一気にシアトルへ、と予定していたのであるが、
途中ミルウォーキーで約 1 時間止められた。飛行機は窮屈だった。何しろ、前の座席にと
ても幅の広い人が座り、おまけにこちらは一番後の座席だったので、圧迫感が大きかった。
それに、四つのタイムゾーンを一気に移動すると、このような経験の無い筆者の体内時計
は適応が追いつかないらしく、シアトルに戻った日の夜はなかなか眠れなかった。
米国の懐かしかった。ここで暫く休養しながら、約 1 ヶ月半の旅のまとめをした。あまり
多くの大学図書館、しかも大規模な大学の図書館を見過ぎたせいか、さまざまな想念が去
来する代わりにまとめるのに苦労した。
最後の一人旅は UC Berkeley と UCLA の図書館訪問だった。この時は King Dome 駅から
AMTRC でひたすら南下した。朝 10 時に出発し翌日の夜明けをバークリーに到着する前に砂
漠のほとりで迎えた。真夜中に Denver に到着したとき乗客のほとんどは眠っていたが、何
人かが列車を降りていった。窓の外に拡がる闇には星が大きくきらめいていた。全長約 15
00 マイルの列車の旅は丸一日かかったわけだ。飛行機なら数時間というところだろうが、
折角アメリカまで来たのだから(そして、再びアメリカに来ることはないだろうから)西
海岸を縦断する列車の旅をしておきたかった。
UC は九つの大学で構成されており、北と南にそれぞれ大規模の共同保存図書館を置いて
各大学の狭隘化した書庫を救おうとしていた。このシステムは日本でも、特に、当時の国
立大学が本気で共同保存を考えるなら有効なものではないかと思ったものである。帰国後、
この話を幾つかの場所で持ち出してみたが、いずれも賛同は得られなかった。
さて、6 ヶ月におよぶこの放浪の旅で目にし、考え、感じたことをまとめてみよう。と
言っても、既に 20 年という時の流れを隔てているし、単なる思い出にしかならないかも知
れない。
アメリカの大学図書館でこれまでわれわれに紹介されてこなかった(あるいは、筆者の
目にとまらなかった)ことのいくつかを述べよう。
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まず、アメリカの大学図書館は非常に充実しているのに反し、日本の大学図書館は貧弱
で役に立たないという研究者の声を嫌になるほど聞かされてきた。事実であると思う。し
かし、これは大学が図書館に投入する経費の問題であろう。米国の幾つかの大学図書館で
聞いたところでは、大学予算の相当大きな部分を図書館の資料収集に当て、研究者へ割り
当てられる研究費は大変少ない。だから、研究者は外部資金獲得に懸命になる、と。一方、
図書館の方では学内の研究者の研究動向を踏まえながら資料収集にあたる。図書館にない
資料を研究者から要求された場合、図書館はその資料入手を優先する。という、一種の伝
統が根底にあるように思われる。逆に、日本の大学では図書館が選択購入できるのはせい
ぜい学生用図書ぐらいで、学内の研究者に関わる資料の選択収集は研究者に任せている、
というよりも大学全体として資料購入に投入する経費の大部分を「研究費」として学内の
研究者に配分した残りを学生用図書費としていると言うのが実情ではないか。少なくとも、
20 年前の状況はこのようなものであったと理解している。その後、この状況が大きく変貌
しているのであれば喜ばしい。
次に、米国の図書館員養成はスペシャリスト(例えば、カタロガーやレファレンサー)
の養成に力を入れてきたのに対して、日本ではジェネラリストの養成を目指してきた。筆
者が訪れた大学図書館では決まって「専門はなにか」ときかれた。ここでいう「専門」は
図書館業務における専門で、目録作成、レファレンスといったものを指しているが、筆者
が図書館で行われる各種業務を一通りやってきたと応えると、彼らは目を丸くしていたも
のだ。その上、彼らの世界には日本のように学内での人事異動という制度はない(ように
見受けられた)
、つまり配置換えという慣行はなく、欠員が生じればその業務担当者として
募集し、職員の配置換えで対応することはない。どちらの方法がいいのか。即断はできな
いが、結果として、日本の図書館ではその図書館を背負っていく柱となる人材が育たない。
謂わば研究者(教員)と事務職員の中間的存在としての図書館員がほとんど存在しなくな
っているということである。利用者から見たとき、その図書館のことを尋ねても十分な説
明(所蔵の有無、排架場所、関連主題の図書など)が得られないことが多い原因だろう。
最近ではこの傾向に拍車がかかっていると思う。
この一人旅で感じたことは、要するに、日本は箱庭文化の国ではないか、ということだ
った。外観だけは一応整っているけれども、中身までは踏み込んでいない。そのいい例は、
戦後すぐに作られた学校図書館法で司書教諭の配置を定めながら、当時の社会状況から「当
分の間」司書教諭を置かなくてもよいことを認めた付則である。この付則が改正されたの
は学校図書館法が公布されてから 40 年後のことであり、学校教育に必須の施設といわれな
がら学校図書館が学校図書館らしい活動をすることもなく、形ばかりの図書室を設けてお
茶を濁してきた。この付則が改正されて既に 10 年、それでも国内の小中高等学校等の半数
は司書教諭を置いてない状況が続いている。
司書資格取得を目指す学生へ
さて、曖昧になりつつある記憶を長々と書いてきたが、最近感じていることを少し述べ
て、この文を終わりにしよう。
この 10 年近く、図書館で働きたいと考えている若い人達に少しでも図書館について理解
してもらおうと、柄にもなく学生を教える立場に身を置いてきた。その間、感じたことは、
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端的に言って、自分を取り巻くものについて目を配るという傾向が大変稀薄になってきて
いるように思われる。自分の国土の地理に関して尋ねても、ほとんどの学生は「はあ?」
という顔つきをする。国際紛争があったり、大災害が発生したときに、それがどのあたり
で起きているのか、地図上でいえばどのあたりのことなのか、その周辺にはどんな国があ
りどんな人々が生活しているのかといったことを尋ねても、ちゃんと答えが返ってくるこ
とはまず無くなった。グローバルな人材の養成というようなことが盛んに言われる中で、
自分の一がつかめていないというのは何とも心許ない。
同様のことが歴史についても言える。自分の国の歴史、その周辺の歴史、あるいはヨー
ロッパの歴史と東洋の歴史など、なにを尋ねても曖昧な表情を浮かべる学生が多くなって
きた。興味の無いことには注意を向けないということかも知れないが、図書館というとこ
ろで仕事をしたいというのであれば、自分を取り巻いている世界にもっと注意を払ってほ
しいものである。
このような状況の中で、情報資源の分類を理解してもらおうと、繰り返し説明してもな
かなか理解してもらえないのは大変空しいのである。司書になろうとする人だけでなく、
もっと自分の置かれている世界(人間界、自然界を含めて)に注意を払う人がひとりでも
多くなることを願うしかないのだろうか。
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標題とした「記憶の蜃気楼」というのは、半世紀も昔のこと、高名な仏文学者鈴木信太
郎の随筆集の標題である。それを使用することにかなりのためらいを感じたのであるが、
この『司書課程年報』の編集者から、Once upon a time を書くように言われた時、ほかに
適当な標題が浮かばなかった。筆者はなるべく過去を語らないようにしようと思い、特に
図書館のことについては、近頃の変化についてゆけないのを日々感じている立場から記憶
の封印をしようとしていた時であった。
こんなわけで、ここに並べた文字は筆者の記憶の一部であり、しかも思い出される事柄
は蜃気楼の如く、どこか歪んでいるだろう。寄る年波には勝てないということでお許しを
請う次第である。
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