提出論文 - 富山大学 人文学部

平成 16 年度
卒業研究論文
国際文化交流と外交関係の相互影響関係に関する考察
∼日韓の地域レベル交流を手がかりに∼
富山大学 人文学部 国際文化学科
比較社会論コース 4 年
学籍番号
高島
0110020251
あゆみ
<
目次
>
はじめに ...............................................................................................................................2
序論 ...................................................................................................................................... 3
第1章
国際文化交流とは .................................................................................................. 4
第2章
外交関係が国際文化交流に及ぼす影響 .................................................................. 5
第1節
国際文化交流が進んだ時期、進まなかった時期 ................................................ 5
第2節
一時的に国際文化交流が停滞した原因............................................................... 7
第3章
外交関係が悪化しても国際文化交流が持続した例:
清水市と城南市のサッカー交流 ................................ 12
第1節
清水市と城南市の概要...................................................................................... 12
第2節
清水市と城南市のサッカー交流の概要............................................................. 13
第3節
外交関係が悪化しても持続したサッカー交流.................................................. 14
第4節
サッカー交流に参加した市民の声.................................................................... 16
小括
国際文化交流が外交関係に影響を与えるための第 1 条件 ................................... 17
第4章
持続的な国際文化交流を実現するための条件 ..................................................... 19
第1節
お互いの集団にとってメリットがある............................................................. 19
第2節
参加する個人が
第3節
相手に対する関心が拡大、維持する ................................................................ 21
第5章
楽しい”と感じられる ........................................................... 20
国家レベルの国際文化交流が外交関係に及ぼす影響........................................... 23
第1節
国家レベルの国際文化交流を持続させるために有効な条件 ............................ 23
第2節
国家レベルの国際文化交流が市民の関心に影響を与える過程......................... 24
第3節
外交関係においての市民の関心 ....................................................................... 26
結論 .................................................................................................................................... 29
おわりに ............................................................................................................................. 31
参考文献・資料一覧 ........................................................................................................... 32
資料集................................................................................................................................. 33
1
はじめに
筆者は大学入学前から 国を超えた文化の交流(国際文化交流) について大変興味を持
っていた。筆者は中学 3 年時に、筆者の地元である福井県鯖江市の日中友好交流団の一員
として中国の北京に一週間滞在したことがある。その北京での一週間は筆者にとって忘れ
られない貴重な体験となった。というのも、たった一週間ではあったが万里の長城や太極
拳、ホームステイなど、中国の人達と共に現地の文化や人々に直接に触れることで、最後
の別れで涙するほどの関係が築けたからである。互いに言葉がほとんど通じない状態でも
このような関係を築くことができた、というこの体験から筆者は 国を超えた文化の交流
について漠然とではあるが考えるようになった。そして高校で国際科に所属し、大学では
比較社会論コースで国際関係論を学びながら、筆者自身も外国人の教師や友達との関わり
を通して、様々な交流を行ってきた。
このような過程で大学では特に、韓国や韓国人と接触する機会に恵まれた。また筆者も
これまで大学在学中に 3 回、韓国に足を運んだ。韓国人と一緒に食事をしたり、お祭りに
足を運んだり・・・と様々な交流を重ね、また実際に韓国に行くなどしていくうちに筆者の韓
国への関心は高まった。そこで卒業論文では、韓国を研究対象に、以前から関心のあった
国を超えた文化の交流
について考えようと決めた。
筆者は外交関係において、市民同士の交流が重要であると考えている。市民が直接関わ
り合うことでお互いに相手の新しい面が見えたり、発見したりできる。そして、それによ
って市民が相手国に対して、何らかの関心を持つようになる。このことが大切であると考
える。
これは筆者が大学生活で学び、体験し、考えた結果である。今回このことを本論文を通
して、読者に少しでも伝えたい。また読者が本論文をきっかけに今後、国際文化交流を意
識するようになってくれれば幸いである。
2
序論
筆者は外交関係と国際文化交流には相互関係があるのではないかと考えた。外交関係が
国際文化交流に影響を及ぼしている状況は多く見られるが、筆者はその逆の影響関係は存
在しないのかと考えた。つまり
国際文化交流が外交関係に影響を与える
場合もあるの
ではないか、ということである。
本論では、国際文化交流が外交関係に影響を及ぼす国際文化交流を、地域レベルの国際
文化交流から考察し、国際文化交流と外交関係の間に存在すると考えられた相互影響関係
をみていく。
まず、第 1 章では「国際文化交流」の言葉の定義を述べる。第 2 章では 外交関係が国
際文化交流に影響を与える
ということを近年の日韓の流れからみていく。第 3 章では、
国際文化交流は必ずしも外交関係の影響を受けるのではないことを、静岡県清水市と韓
国・城南市との間で行われているサッカー交流の事例から明らかにする。第 4 章では地方
レベルの国際文化交流が外交関係にプラスに影響する交流を考える上での最低条件を
持
続すること とし、持続的な交流を行なうための条件を、第 3 章の事例を参考に専門家の
言及から分析する。そして第 5 章では、第 4 章で考えられた条件を国家レベルの国際文化
交流に適用できるかを分析する。そして国家レベルの国際文化交流にも適用した条件に影
響を与える過程を述べる。最後に、民主化が進む世界の外交関係においての市民の関心の
重要性を述べて、結論としたい。
なお、今回静岡県の事例を調査するにあたって静岡市役所・サッカーのまち推進室の膳
亀さんには大変お世話になりました。この場でお礼申し上げます。
3
第1章
国際文化交流とは
国家間における「文化」の交流 というと、
「国際交流」や「文化交流」という言葉が
よく使用される。しかし、それらの言葉の厳密な意味を区別なしに筆者自身、使用してい
た。そのため、筆者が導き出そうとする
国家間における「文化」の交流
とは「国際交
流」とも言え、
「文化交流」とも言える。現在早稲田大学政治経済学教授で国際関係論、国
際文化論、近代東アジア国際関係史が専門である平野健一郎氏は、著書『国際文化交流の
政治経済学』の中で「国際交流」
・
「文化交流」、そして「国際文化交流」という3つの言葉
とその定義を述べている。そこで、平野氏の言葉を用いて
流
国家間における「文化」の交
とは定義上、どういうことを指しているのか、ということをこの章で述べる。
平野氏は「⑴「国際交流」は人々による国境を越えた交流の総称であって、いわゆるヒ
ト・モノ・カネ・情報の国際移動のすべてを含む。⑵「文化交流」には、交流によって文
化が移動したり、交換されたりする現象を指す意味と、異なる文化間の交流を指す2つの
意味がある。どちらの意味であっても「文化交流」は国内でも起こりうることであって、
国際的な現象だけを指すとは限らないことになる。したがって、定義上は、国際的な「文
化交流」だけを⑶「国際文化交流」と呼ぶのが厳密であろう1」と述べている。
この定義に従って考えると、筆者は本論文で日韓においての「文化」の側面を研究する
ので、本論での
国家間における「文化」の交流
という言葉が適切である。以下、本論では
の意味としては、⑶「国際文化交流」
国家間における「文化」の交流
を平野氏の
定義に従って「国際文化交流」という言葉を使用する。
<図1>
国際交流、文化交流、国際文化交流の違い
国際文化交流
国際交流
文化交流
(<図 1>は平野健一郎編『国際文化交流の政治経済学』より筆者作成。)
1
平野健一郎「国際関係の変化のなかの国際文化交流」平野健一郎編『国際文化交流の政
治経済学』勁草書房、1999 年、5∼7 ページ。
4
第2章
外交関係が国際文化交流に及ぼす影響
第 2 章では、1998 年から現在までの日韓の流れをみながら、外交関係が国際文化交流
に影響を与える影響関係を立証する。
第1節
国際文化交流が進んだ時期、進まなかった時期
まず第 1 節では 1998 年から現在までの日韓の流れを概観し、国際文化交流が進んだ時
期とそうではない時期に分ける。
1998 年 10 月 8 日に、日本の小渕恵三内閣総理大臣(当時)と韓国の金大中大統領(当
時)との間で『日韓共同宣言∼21 世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ∼』が約束さ
れた。これは、1965 年の国交正常化以来築かれてきた両国間の緊密な友好関係をより高い
次元に発展させ、21 世紀に向けた新たな日韓パートナーシップを構築するとの共通の決意
2である。これにより、両国はこれまでの日韓の歴史にひとまずピリオドを打った。小渕総
理大臣は過去の日本の植民地支配に対して、その歴史的事実を受け入れ深く謝罪した。金
大統領はこれを受けて、両国が歴史問題を乗り越えて未来志向的な関係に発展させるため
には、両国の努力することが時代の要請である、とした。そしてこれにより、政治・安全
保障・経済・人的および文化的交流など幅広い分野において均衡のとれた、より高次元の
両国の協力関係を築いていくことで意見を一致した。また、このような協力関係のために
は政府間交流だけでなく、両国国民の相互理解と多様な交流が基礎であるという認識のも
と両国間の人的・文化的交流を拡大していくこととした。
以後 1998 年 10 月 20 日を皮切りに、韓国において日本大衆文化の段階的開放が始まっ
た。日本の大衆文化の流入を初めて公的に認められたのがこの日である。実は公的に認め
られるまでに、日本の大衆文化は韓国国民の間で浸透はしていた。2003 年から 2004 年ま
で、富山大学に留学していたキム・ヒスンさんは「キャンディキャンディは韓国のアニメ
だと思っていた。」という。それくらい身近に感じるくらい浸透していたのだろう。しかし
事実上韓国では、日本の植民地支配を受けた歴史的背景から、日本からの文化面での影響
を防ぐため3、日本大衆文化は 1998 年まで禁止とされていた。日本大衆文化流入への対応
は「原則禁止、実態放任」4であった。日本大衆文化の開放は 2004 年現在までに 4 度行な
われている。そして 2006 年をもって全面開放される予定である。
2
3
4
外務省『外交青書』1999 年、37∼39 ページ。
小針進『韓国と韓国人』平凡社新書、1999 年、146∼147 ページ。
小針前掲書、149 ページ。
5
<表1>
第一次開放
1998 年 10 月 20 日
第二次開放
1999 年
9 月 10 日
第三次開放
2000 年
6 月 27 日
第四次開放
2004 年
1月1日
(表1は筆者作成。なお、詳細については巻末の<資料 2>参照。)
大衆文化交流以外にも、両国は交流の幅を広げている。2002 年は史上初の日韓共催ワー
ルドカップ5に向けて日本各地で韓国との草の根交流事業が広がった。また 2002 年を『日
韓国民交流年』とし、日韓合作の映画やドラマが両国で放送されたり、日本の大学入試セ
ンター試験に韓国語が導入されるなど、日韓の交流は一層拡大した6。2003 年には『日韓
共同未来プロジェクト』がスタートし、青少年・スポーツ・草の根交流において年間 1 万
人超の交流を目標とし、両国政府による取り組みが行なわれた。さらに 2005 年は国交正
常化 40 周年の年にあたり『日韓友情年』として各種交流が予定されている。
1998 年から現在まで日韓間ではさまざまなイベントが催され、全体として交流は非常に
拡大したといえる。
しかし、この期間に一時的ではあるが日韓間の交流が相次いで中止や延期になった時期
があった。以下はこの時期に中止や延期になってしまった交流の一例である。
<表 2>
中止、延期または変更になった日韓の国際文化交流
北海道
苫小牧市の中学校が韓国・仁川市の中学校との交流を中止。訪韓は実施。
宮城県
田尻町の中学校が韓国・堤川市との交流を延期。教科書問題が解決したら、
冬休みに実施予定。
埼玉県
所沢市と韓国・安養市の高校生の相互交流事業が中止。
千葉県
成田市の社会人小学生のサッカーチームが、韓国・仁川市訪問を中止。
石川県
柳田村の 7 小学校が韓国・安東市の初等学校の訪問を中止。
岐阜県
下呂町の中高生の韓国・大田市への訪問を延期。
愛知県
豊橋市と韓国・普州市との児童交流事業が中止。
京都府
城陽市から韓国・慶山市への中学生派遣事業を中止。
岡山県
県立高校が修学旅行先のソウル市の高校との交流会を中止。観光地巡りに計
画変更。
香川県
高瀬町の中学生が韓国・陝川郡の訪問を延期。
福岡県
3 高校が韓国・麗水市である「麗水国際青少年の祝祭」への参加を中止。
5
6
2002 年 5 月 31 日から 6 月 30 日まで開催された。
詳しくは巻末の<資料 3>を参照。
6
長崎県
対馬・上対馬町の高校の韓国・釜山市の「釜山管楽祭」への出演を禁止。
鹿児島県
串良市町の小学生宅への韓国・全州市の初等学校児童のホームステイが延期。
(表 2 は『朝日新聞』2001 年 7 月 21 日付朝刊、第 14 版、第 30 面をもとに筆者作成。)
以上はほんの一例に過ぎない。また<表1>を見ても第三次開放(00 年 6 月 27 日)か
ら第四次開放(04 年 1 月 1 日)が行なわれる時期に大きく開きがあることがわかる。それ
まで拡大していた交流がどうしてこの時期には停滞してしまったのだろうか。
第2節
一時的に国際文化交流が停滞した原因
はじめに交流が停滞してしまった、この時期の韓国人の対日感情はどうだったのかを見
てみる。日本の朝日新聞と韓国の東亜日報が、不定期ではあるが何年かごとに共同で行な
っている世論調査がある。以下の表やグラフは、それをもとに筆者が作成したものである。
<表 3>は韓国人に対して「日本人が好きか嫌いか」を調査したものであり、<図 2>は
それを図化したものである。
<表 3>
韓国:日本人が好きか嫌いか
好き
嫌い
どちらでもない
84 年
23%
39%
34%
88 年
14%
51%
26%
90 年
5%
66%
24%
95 年
6%
69%
22%
96 年
6%
65%
27%
99 年
10%
43%
48%
00 年
17%
42%
41%
01 年
12%
57%
31%
7
<図 2>
韓国:日本人が好きか嫌いか
韓国:日本人が好きか嫌いか
80%
70%
60%
50%
好き
嫌い
どちらでもない
40%
30%
20%
10%
0%
84年
88年
90年
95年
96年
99年
00年
01年
(表 3・図 2 は朝日新聞と東亜日報の世論調査を参考に筆者作成。)
<表2>を見てみると、84 年の最初の調査から 95 年までは「好き」が減少し続けてお
り「嫌い」は増加し続けていた。しかし、96 年からは「好き」が 96 年(6%)
・99 年(10%)
・
00 年(17%)と増えており「嫌い」は 96 年(65%)
・99 年(43%)
・01 年(42%)と減っ
ている。96 年 5 月に 02 年のサッカーワールドカップの共催が決定し、共同開催によって
日韓関係が今より良い方向に進むと期待する両国国民が増えたこと7、さらに 98 年に『日
韓共同宣言』によって日本大衆文化の開放や各種交流が増大したからであろう8。
しかし 01 年の調査では、
「好き」が 12%と 00 年から比べると 5%減少しており、
「嫌い」
は 57%と 00 年から 15%と大幅に増加している。さらに 01 年調査の中で日韓関係につい
て「うまくいっている」と答えた人は日本 38%、韓国 14%で、「そうは思わない」と答え
た人は日本 46%、韓国では 86%であった9。01 年の調査は 11 月に実施されていたもので
あり、ちょうど教科書問題や靖国神社問題が起こった直後に行なわれた調査である。歴史
教科書問題や首相の靖国神社参拝などで悪化した両国関係が重く響いているようだ10。
以上をみると、どうやら 2001 年に起こった歴史教科書問題や首相の靖国神社参拝問題
が対日感情に大きく影響を与えていたようである。歴史教科書問題は 1982 年に浮上して
96 年の朝日・東亜による世論調査で「共同開催で今後日韓関係はより良い方向に進むと
思うか」という質問に、両国とも 4 割以上の人が「よい方向に進む」と答えた。
8 99 年の朝日・東亜による世論調査で「日韓の文化交流が一年前より活発になった」と答
えた韓国人は 54%、日本人は 43%で韓国では日本大衆文化解放の実感が強い様子がうかが
える。
9 日本人に対する世論調査の結果は、巻末の<資料 4>を参照。
10 『朝日新聞』2002 年 1 月 1 日付朝刊、第 14 版、第 2 面。
7
8
から、2001 年に再び大きく浮上した。首相の靖国神社参拝問題は毎年 8 月 15 日が近づく
とその度に問題視されるが、同時期に歴史教科書問題もあったので、2001 年の首相の参拝
について韓国をはじめ近隣諸国では例年より厳しい見方であった。この 2 つの問題が原因
となって日韓間の各種交流は停滞したのではなかろうか。以下はこの 2 点の問題について
詳しく記述したものである。
(1)2001 年歴史教科書問題
2001 年に起こった歴史教科書問題とは、同年 4 月 3 日に「新しい歴史教科書をつくる
会(以下、
「つくる会」)が作成した『新しい歴史教科書』
(扶桑社出版)が教科書検定に合
格したことがきっかけとして始まった。この教科書が、日本の歴史を美化しようとする意
図が見られたこと、アジア諸国との歴史関係を自国中心的に描いていること、そして事実
関係やその解釈の記述において多くの誤りがあることに対して、様々な立場から批判の声
が上げられた11。そしてこの「つくる会」の教科書が 2002 年から使用される教科書に採択
されるかどうかに関心が集まった。アジア諸国との歴史関係の部分に関して、近隣諸国の
中で特に中国と韓国は「事実と違う」
「歴史のわい曲」などと反発した。そして中国政府と
韓国政府は、この「つくる会」の教科書を修正することを日本政府に要求した。しかし日
本政府はこれを拒否したことから、教科書問題は中国や韓国を交えて国際的な問題にまで
発展した。中国や韓国では対日感情が悪化した。さらに韓国では、1998 年からそれまで 3
度に渡り行なってきた日本大衆文化の段階的開放(98 年・99 年・00 年に実施)を中断し
た12。本当ならば、2002 年のワールドカップまでに第四次開放を行ない、それをもって全
面開放となる予定だった。この後、結局 2004 年まで第四次開放は行われず、2006 年をも
ってやっと全面開放となる見通しである。また、地方や自治体による交流なども中止や延
期のニュースが相次いだ。
2002 年度から使用する歴史教科書の採択は、2001 年 8 月 16 日に終了した。結局「つ
くる会」の教科書は 0.1 パーセントにも満たない採択率であった。韓国、中国などとの関
係が悪化することへの配慮も働いたためであろうが、何よりも「つくる会」教科書が学校
で使用される教科書として最低の基準をも満たしていないことが広く明らかとなったから
13であった。
(2)小泉首相の靖国神社参拝
2001 年 8 月 13 日、小泉首相は靖国神社を参拝した。8 月 15 日は、日本にとっては終
戦記念日である。一方韓国にとっては、日本の植民地支配から解放された日(光復節)で
11
原田敬一・水野直樹編『歴史教科書の可能性∼「つくる会」史観を超えて∼』
青木書店、2002 年、3 ページ。
12 『朝日新聞』2001 年 7 月 13 日付朝刊、第 14 版、第 1 面。
13 原田・水野前掲書、4∼5ページ。
9
あり、朝鮮民族にとって最大の祝日である。その 8 月 15 日に日本の首相が靖国神社を参
拝するか否が問題になる。
なぜ首相が靖国神社を参拝することが問題になるのか。それは、靖国神社が宗教施設で
あること、東条英機元首相ら東京裁判でA級戦犯と決められた 14 人が祀られているからで
ある。宗教施設への閣僚の参拝については、憲法 20 条の政教分離の原則から「大臣の資
格で参拝することは違憲の疑いを否定できない」との見解をとっている。玉ぐし料を公費
で出すことも憲法 89 条で、宗教組織の使宜・維持のための支出を禁じている。靖国神社
を参拝してきた歴代首相は、その点において十分に配慮を配ってきた。例えば 1975 年に
三木武夫氏は、公用車を使わない・玉ぐし料を私費で払う・記帳に肩書きをつけない、な
ど 私的 を強調したうえで参拝した。1978 年には、福田赳夫氏も玉ぐし料を私費で払っ
た。しかし 1978 年 10 月に、靖国神社にA級戦犯が合祀されてからは、
「戦争犯罪人を祀
った施設への参拝は、日本が戦争を反省していないから」だと近隣諸国が反発していた。
1984 年 8 月、中曽根康弘氏は藤波孝生氏のもとに私的懇談会を設置し、1985 年に正式な
参拝方法でなければ問題はないという報告書をまとめ、A級戦犯の合祀は靖国神社の自由
とした。これを受けて、中曽根氏は公式参拝をした。首相の公式参拝はこれが戦後唯一で
あるが、中国や韓国などでは抗議運動が起こり、翌年から見送られた。1996 年 7 月に、
橋本龍太郎氏が公私を明確にしないまま参拝し、中国・韓国の両国から批判を受け、翌年
の参拝は見送った14。以上のように、靖国神社の首相参拝については過去においても問題
になっていた。毎年 8 月 15 日が近づくと、日本国内だけでなく中国や韓国をはじめ近隣
諸国が関心を示す問題である。
2001 年は前述したように、歴史教科書問題の影響ですでに中国・韓国では反日感情が高
まっていた。そんな中、小泉首相が靖国神社を参拝することを表明したことで中国・韓国
とも反感の意を示していた。小泉首相は当初、8 月 15 日に靖国神社を参拝する考えを明言
していたが、中国や韓国などが反発し、政府・与党内でも自重を求める声が広がったこと
から、日程を前倒しした15。そして小泉首相は 8 月 13 日に靖国神社を参拝した。15 日を
避けた参拝に、中国は一定の理解をしめしたものの強い憤慨の意を示し、韓国は遺憾の意
を示した。そして 8 月 15 日になると、中国や韓国では首相の参拝に対して強い抗議運動
が起こった。中国では、紙で作られた日の丸が燃やされた。韓国では、済州島にある 2002
年サッカーワールドカップのオフィシャルショップで国際サッカー連盟の公式スポンサー
になっている日本企業のロゴがはがされ、韓国国旗にはりかえられた16。
以上から時期的に考えて、2001 年の歴史教科書問題と首相の靖国神社参拝問題が原因と
なって、大衆文化の開放など、ほとんどの日韓の各種交流は延期や中止になったことがわ
14
15
16
『朝日新聞』2001 年 8 月 3 日付朝刊、第 14 版、第 3 面。
『朝日新聞』2001 年 8 月 14 日付朝刊、第 14 版、第 1 面。
『朝日新聞』2001 年 8 月 16 日付朝刊、第 14 版、第 3 面。
10
かった。このように日韓の外交関係が悪化したことによって、日韓の国際文化交流は足並
みを揃えたように停滞してしまう。外交関係は国際文化交流に影響を与える、といえる。
11
第3章
外交関係が悪化しても国際文化交流が持続した例:
清水市と城南市のサッカー交流
2001 年に歴史教科書問題や小泉首相の靖国参拝問題を巡って日韓の外交関係は悪化し
た。そしてそれが原因となって、日韓の国際文化交流は相次いで停滞しまった。このこと
から、外交関係は国際文化交流に影響を及ぼすことが明らかとなった。
しかし本当に全ての国際文化交流が外交関係の影響を受けるのだろうか。第 3 章では、
必ずしもそうではないことを静岡県清水市17と韓国城南【ソンナム】市の交流を事例に明
らかにする。
後で詳しく述べるが、清水市と城南市は今から約 30 年も前からサッカー交流を行なっ
ている。約 30 年前の韓国は民主化されておらず18、まだ戒厳令が布かれており、そんな時
代の中で交流がスタートした。
第1節
清水市と城南市の概要
まず、清水市と城南市の概要について簡単に述べる。
<清水市>
清水市は 2004 年 4 月から旧静岡市と合併し、現在は「静岡市」の一部となった。現静
岡市は 2005 年から政令指定都市となる。
合併前の清水市は、北は山梨県に隣接していた。2000 年現在の清水市の面積は、227.66
平方キロメートルで、人口は 236,818 人規模の市であった19。
清水市の国際交流の状況として、アメリカ・ストックトン市(1959 年 10 月 16 日締結)
と姉妹都市締結していた。現静岡市でも、ひき続きストックトン市とも交流を行なってい
る20。
<城南市>
城南市は韓国京畿道【キョンギド】の一部に属している。京畿道は城南市を合わせ、水
原市【スウォンシ】
・議政府市【ウィジョンブシ】
・安養市【アニャンシ】
・富川市【プチョ
ンシ】・光明市【クウァンミョンシ】の 6 つの市から成る。また、城南市は寿井区【スギ
ョング】
・中院区【チュンウォング】
・盆唐区【プンダング】の 3 つの区で構成されている。
清水市は 04 年 4 月に旧静岡市と合併して、現在は「静岡市」となった。しかし本論で
は「清水市」と表記する。また現在の静岡市については「現静岡市」と表記する。
18 韓国の民主化宣言は 1987 年。
19 総理府統計局『静岡県の人口』2000 年、64 ページ。
20 静岡市役所ウェブサイト「静岡市市政情報」
http://www.city.shizuoka.shizuoka.jp/(2004 年 12 月 20 日確認)
旧静岡市はアメリカ・オマハ市、フランス・カンヌ市と姉妹都市であった。現静岡市で
は、両市とストックトン市の 3 都市と姉妹都市である。
17
12
城南市の面積は、2003 年現在の時点で 141.85 平方キロメートル、人口は 329,107 人であ
る。
城南市の国際交流の状況として、ブラジル・ビラシカバ(1986 年 5 月 28 日締結)、ア
メリカ・オーロラ(1992 年 7 月 27 日締結)、中国・沈陽(1998 年 8 月 31 日締結)の3
国と姉妹都市締結しており、友好都市として日本・清水市がある21。城南市では清水市を
友好都市として位置づけているが、実際には友好都市の調印はしてはいない。しかしその
ような文書がなくとも 30 年来の交流の実績で得た信頼から、清水市は友好都市という位
置づけになっているようである。
(清水市、城南市の位置については巻末の<資料 5、6>を参照。)
第2節
清水市と城南市のサッカー交流の概要
清水市と城南市との交流が始まったのは、現在から 30 年前にあたる 1974 年である。当
時清水市で行なわれていた『全国少年サッカー大会』を視察していた韓国サッカー協会が、
清水のサッカーレベルの高さに驚き、韓国に招待した。そして韓国サッカー協会の招待で
清水市のサッカーチームであった全清水(現在は清水FC)が 1974 年に韓国に遠征したの
が始まりである。それからしばらく清水市は仁川【インチョン】市とサッカー交流を行っ
ていたが、当時の市規模の違いから交流先が 1984 年から、仁川市から市規模がほぼ同様
であった城南市に変わり、現在まで交流が続いている22。
清水市と城南市のサッカー交流は、市が主導の交流ではなくサッカー協会主導で行なわ
れている交流である。清水サッカー協会と城南市サッカー協会23の主導により 20 年間行わ
れている。この交流の出場チームは、毎年清水市で行なわれている『全国少年サッカー大
会』の小・中・高校生部門で優勝したチームである。各世代1チームずつ出場し、城南市
のチームと試合を行なう。
2004 年の交流は、現静岡市が清水サッカー協会とフォッサ・サッカーのまち市民協議会
に協力を仰ぎ、実行委員会を立ち上げての交流となった。なぜ 2004 年の大会はこのよう
な組織を立ち上げて行なったのか。それは、2002 年のワールドカップの共催を契機に、国
レベルで『日韓共同未来プロジェクト』を進めており、その一環として文部科学省が地方
公共団体に『日韓スポーツ交流事業』として委嘱しているからである。そこで 2004 年大
会は、これまで続いていた清水市と城南市のサッカー交流を原型とし、文部科学省からの
21
22
城南市ウェブサイト
http://www.cans21.net/etc/country/j-home/
(2004 年 11 月 18 日確認)
1975 年現在の清水市の人口 243.049 人、面積 227.75 平方キロメートル。
(総理府統計局『静岡県の人口』 1975 年、44 ページ。)
城南市サッカー協会は近年ようやく組織化された。城南市の私立、豊生中学・高校が実
際の主導者である。
23
13
委嘱事業というかたちで実施された。2004 年の交流では、すべての選手たちが相手選手の
家庭にホームステイをして韓国に滞在した24。
第3節
外交関係が悪化しても持続したサッカー交流
30 年も続いている交流であるが、交流が始まってから今まで、過去に日韓の外交関係が
悪化した時期もある25。2001 年に日韓の外交関係が悪化したことにより、各地で日韓の各
種交流が停滞したことは第 2 章で述べた。この時期、清水と城南の交流はどうだったのだ
ろうか。以下の<表 3>は、清水市と城南市のこれまでの交流の流れである。
<表 3>
清水市と城南市の交流の流れ
年
実施期間
交流市
1979 年
ソウル市
(昭和 49 年)
仁川市
参加チーム
備考
韓国サッカー協
全清水
会から招待。
光州市
1984 年
3 月 21 日~24 日
城南市
清水体育協会、
(昭和 59 年)
東海一高
婦人バレーが仁
清水 FC 中
川市と交流。そ
清水 FC 小
の後城南市と交
流開始。
1985 年
3 月 26 日~29 日
清水 FC 中
城南市
(昭和 60 年)
1986 年
清水 FC 小
3 月 24 日~26 日
城南市
清水商業
(昭和 61 年)
清水 FC 中
清水 FC 小
1987 年
3 月 24 日~26 日
城南市
清水東高
(昭和 62 年)
清水 FC 中
清水 FC 小
1988 年
3 月 24 日~26 日
清水 FC 中
城南市
(昭和 63 年)
1989 年
清水 FC 小
3 月 23 日~25 日
城南市
(平成元年)
清水工業
サッカー協会、
清水 FC 中
友好締結
清水 FC 小
24
これまでの交流でもホームステイは行なわれていたが、選手全員がホームステイをした
のは 2004 年が初めてである。
25 1982 年には歴史教科書問題があった。
14
1990 年
3 月 21 日~23 日
城南市
東海工業
(平成 2 年)
清水 FC 中
清水 FC 小
1991 年
3 月 21 日~23 日
城南市
(平成 3 年)
静岡北高
旧静岡市が城南
清水 FC 中
交流に参加。
清水 FC 小
1992 年
3 月 24 日~26 日
城南市
庵原高
(平成 4 年)
清水 FC 中
清水 FC 小
1993 年
3 月 23 日~26 日
城南市
庵原高
(平成 5 年)
清水 FC 中
清水 FC 小
1994 年
3 月 22 日~25 日
城南市
清水選抜高
(平成 6 年)
清水 FC 中
清水 FC 小
1995 年
1996 年
3 月 22 日~25 日
城南市
(平成 8 年)
庵原高
1997~2001 年
清水 FC 中
『全国少年少女
清水 FC 小
草サッカー大
会』褒賞として
韓国と交流。
1997 年
1998 年
3 月 21 日~24 日
城南市
東海一高
(平成 10 年)
清水 FC 中
清水 FC 小
1999 年
2000 年
3 月 24 日~27 日
城南市
清水選抜高
(平成 12 年)
清水 FC 中
清水 FC 小
2001 年
2002 年
3 月 21 日~24 日
城南市
清水トレセン
(平成 14 年)
清水選抜高
清水 FC 中
清水 FC 小
2003 年
2004 年
3 月 21 日~24 日
城南市
東海大翔洋高
15
(平成 16 年)
清水トレセン
清水 FC 小
(静岡市役所の方からいただいた資料をもとに筆者作成。
)
1984 年から 1994 年までは 1 年に 2 回交流を行なっていた。つまり、1 年間のうちに清
水の選手が城南へ行き、また城南市の選手も清水に来てサッカー交流を行なっていた。し
かし 1 年で 2 回の交流をすることはサッカー協会にとって経済的負担が大きかったので、
1994 年からは隔年で行き来するかたちで行なわれることになった。上記の<表 3>の、
1995 年・1997 年・1999 年・2001 年・2003 年は城南市の選手たちが清水に来た年である。
2001 年に外交関係が悪化しても、通年通りに交流は行なわれている。
その背景として、城南市はこの交流にかなりの補助金を出しており、この交流に対して
積極的な姿勢を示していることがあげられる。スポーツ交流を通して、日本の都市と経済
など他の交流にも発展させていきたい意向があるようだ。城南市にとっては、多額の補助
金を出してでも日本との交流は必要不可欠なものであるのだ。城南市の将来の発展のため
には、過去の問題は切り離して考えているからであろう。
現在の静岡市役所・サッカーのまち推進室の膳亀さんのお話によると、
「この交流はスポ
ーツ(サッカー)の交流であり、これまでに歴史的背景などは問題になったことはない。
2001 年の教科書問題についても、交流を中断する理由にはならなかった。」と、あくまで
スポーツ交流であるとおっしゃっていた。また第 3 章の最初に少し触れたが、2004 年 4
月から清水市は旧静岡市と合併した。合併してもなお、城南市との交流が続いている。30
年来の交流によって築かれた、清水と城南の絆が深く強いものであり、もはや外交関係の
悪化、さらに合併問題などは交流と全く関係がないようだ。2005 年の交流もすでに 1 月
に予定されており、今度は城南市の選手たちが清水市に来ることになっている。
先ほど少し述べたが、城南市は清水市を正式な提携なくとも友好都市として位置付けて
いるのは以上のような理由からであろう。これほどの関係が築かれているのは、明らかに
長年に渡って続いた交流がもたらした結果である。
第4節
サッカー交流に参加した市民の声
両市のサッカー協会が主導となって、30 年間続いている清水市と城南市のサッカー交流
であるが、実際に交流に参加した市民は、この交流を終えてどういう感想を持ったのだろ
うか。以下は 2004 年のサッカー交流に、選手として参加した市民の声である26。
・ 韓国の人たちは韓国語がわからないと、片言の日本語で一生懸命話しかけてくれまし
26
選手たちの感想は、静岡市役所・膳亀さんからいただいた資料(『日韓親善交歓サッカ
ー大会報告書』)から抜粋。
16
た。お互いにいいところを見せ合えたと思います。試合では、韓国のチームは声を出
して盛り上げていました。僕も試合ではもっと声を出して楽しくやりたいなと思いま
した。(小学生)
・ 3 試合目は、韓国チームは声がすごく出ていてスピードもあり強かったです。試合中
のコミュニケーションの大切さがわかりました。自分たちも韓国のチームを見習って
チーム全体で声を出したいです。(小学生)
・ この遠征はホームステイだったので、受け入れ先の人とうまくやっていけるかが不安
でしたが、とてもよくしてもらいました。
・・・言葉は通じなかったけど心が通じ合え
たと思います。機会があったら、また韓国へ行きたいです。(中学生)
・ ・・・新しい体験ばかりで戸惑うこともあったけど、本当に楽しかった。また機会が
あれば、今度は別の国の文化や生活、スポーツを学びたい。(中学生)
・ 今回の遠征は自分の人生の中で非常にためになるものでした。初めて異国のチームと
試合をし、自分たちの弱点や強みがわかりました。
・・・また、ホームステイを体験し
て向こうの家族には本当にお世話になりました。韓国にもう一つの家ができたような
感じでした。韓国のお母さんは帰り際に「いつでも帰ってきなさい。ここはあなたの
家。」と日本語で言ってくれて目に熱いものを感じました。
(高校生)
・ この韓国遠征では、言葉が違ってもコミュニケーションがとることができました。日
本語や韓国語が全く通じません。しかしお互いに何とか伝えようとボティーランゲー
ジや片言の日本語や韓国語でいつのまにか笑い合うことまでできました。(高校生)
小括
国際文化交流が外交関係に影響を与えるための第 1 条件
本論文の目的は、国際文化交流と外交関係の相互の影響関係をみることである。そこで
第 2 章では、2001 年の歴史教科書問題、靖国神社参拝問題によって国際文化交流が停滞
してしまったことから
外交関係は国際文化交流に影響を与える
という影響関係がある
ことを明らかにした。しかし、清水市と城南市のサッカー交流のように、外交関係が悪化
しても持続した国際文化交流もあることをこの第 3 章で述べた。そして、国際文化交流は
必ずしも外交関係の影響を受けるのではないことが明らかになった。
第 2 章第 1 節の中の<表 2>のように外交関係悪化の影響によって停滞してしまった国
際文化交流と、清水市と城南市のような外交関係悪化に関わらず持続する国際文化交流の
違いは、交流が一時的であることと長期的であることである。清水市と城南市のような長
年に渡って持続している交流は、一時的な交流に比べ、何回も交流を重ねているのでそれ
だけ強い絆でつながっており、外交関係悪化の影響はもはや関係しなくなっていた。この
ことから
国際文化交流が外交関係に影響を与える
ためには、交流が
持続すること
が第 1 条件として重要であると考えられる。
そこで次の第 4 章では、国際文化交流が外交関係に影響を与える影響関係を考える上で
17
持続すること
が最低条件であるとし、清水市と城南市のように地域レベルで行われて
いる国際文化交流が持続するために必要な条件を考察する。
18
第4章
持続的な国際文化交流を実現するための条件
30 年もの長い年月に渡って続いている清水市と城南市のサッカー交流であるが、実際に
交流した市民にとってこの交流はどのような位置付けになっているのだろうか。第 3 章第
4 節の交流に参加した選手たちのコメントをみると「楽しかった」など前向きなコメント
が多い。この交流は実際に参加する市民にとってマイナスではない、ということがわかる。
単に長く続いている交流ではないようである。
第 4 章では、どうすれば清水市と城南市のような持続する交流になるのか、という観点
から、国際文化交流が外交関係にプラスの影響を与える交流の最低条件を 持続すること
とし、持続的な国際文化交流を実現するために必要な条件を考える。
本論において、国際文化交流が外交関係にプラスの影響を与える交流の最低条件を
続すること
持
と設定したのは、持続する交流は一時的な交流に比べ相手と接触する機会が
多い。接触する機会が多いと、相手を知る機会も必然的に増えるからである。そして本当
の相手を知ることは、清水市と城南市の事例からもいえるように、長期的に見れば友好関
係の形成にもつながると考えられたからである。友好関係が形成されれば、清水市と城南
市のように、外交関係が悪化してもその影響は関係がなくなるのではないかと考えたから
である。第 4 章でも第 3 章に引き続き、清水市と城南市のサッカー交流を参考にしながら、
持続的な交流に必要な条件を考える。
なお、国際文化交流が外交関係に与える影響を考える場合、プラス面だけではなくマイ
ナス面もあると考えられる。しかし筆者は、外交関係においての国際文化交流の有効性を
明らかにするという立場で本論を書いており、外交関係にプラスになるのは必然と考える。
そこで今回はプラス面においてのみ考えることとする。
第1節
お互いの集団にとってメリットがある
清水市の選手たちは、城南市チームと試合をしたことで、自分たちのサッカーを振り返
ることができたようである。城南市のチームと対戦し特に、試合中に声をかけ合ってコミ
ュニケーションをとることの大切さを感じたようだ。清水市の選手のコメントの中にも「試
合中のコミュニケーションの大切さがわかりました。自分たちも韓国の選手に見習ってチ
ーム全体で声を出したい。」とある。城南市の選手たちは声をかけ合ってプレーしていたの
が印象的で、城南市の選手たちから自分たちが見習うべき点だと感じたようだ。また、パ
スワークなど自分たちのチームのよい所も再発見できたようだ。2004 年の試合は結果的に、
清水市チームが優勝した。城南市チームは負けてしまったが、そのぶん清水市チームから
見習うべき点もあったと考えられる。両市の選手個人において、自分たちのサッカーを再
確認出来たことは、今後のサッカー技術の向上につながる。また、サッカーチームという
集団全体の技術向上にもつながる。
19
このようにお互いの集団にとって、何らかのメリットがある交流は、交流が持続する一
要因になるのではないだろうか。
財団法人笹川平和財団プログラム・ディレクターである、長尾眞文氏は「むやみやたら
に事業を展開するのではなく、地域特性や規模、地域課題を考えながら進めていく必要が
あると思うのです。個人レベルでの「国際」の実現はそれぞれの興味・関心で取り組めば
いいでしょうが、グループになるとそうはいきません。ある程度、共通の関心を持たなけ
れば、そして問題意識を同一にしなければ発展していきません。27」と述べている。
前述した第 3 章第 3 節の中で、清水市と城南市の交流が外交関係悪化の影響を受けずに
続いた理由として、城南市は日本の都市との交流を行ない幅広い部分で協力関係を築きた
いと、交流に対して大変積極的な姿勢をとっていることを述べた。また清水市もサッカー
交流以外の交流の拡大を望んでおり、現在新しく静岡市になっても韓国の都市との交流を
深めたいとの意向がある。静岡市役所の膳亀さんのお話によると、現在韓国の都市との交
流を要請中だそうである。両市とも
交流の拡大
という共通の目的がある。交流するこ
とは、 交流の拡大 のための基盤形成にも役立つ。例えば、現静岡市が城南市以外の韓国
の都市と交流したい場合に、城南市との交流の前例があれば市の宣伝になる。以上からも、
交流すること自体にメリットがあるといえる。
このように国際文化交流を行う個人を含む自治体同士にとって、何らかのメリットがあ
る交流は持続する要因として考えられる。
第2節
参加する個人が
楽しい
と感じられる
第 3 章第 4 節の参加した選手たちの感想からもわかるように、サッカーやホームステイ
など交流全体を通して、日本語が通じないという言葉の壁を感じる場面が多かったようで
ある。しかし、それでも結果的に
楽しい
と感じる交流になったのは、彼らが言葉の壁
を越えた交流が出来たからではないだろうか。
彼らは言葉が通じないからコミュニケーションをとるのをやめてしまうのではなく、自
分たちの国の言葉を教え合うなど、違いをコミュニケーション手段の 1 つにした。また共
通に理解できる第 3 の言語(英語)を使ったり、ボディーランゲージで伝えたいことを表
現するなど、それぞれに工夫してコミュニケーションをとり合った。
現在龍谷大学経済学部教授である、田中宏氏28は「相手の言語がしゃべれるからといっ
てコミュニケーションができるとは限らない。言葉が通じないと、日本語をわかりやすく
かみ砕いたり、文章を短くするなど、相手に伝わっているかどうかを気にしながらしゃべ
らざるを得ません。そのときの気配りや注意がかえってコミュニケーション成立のために
27
長尾眞文「国際交流活動の意義・目的」国際交流基金、財団法人大阪国際交流センター
編『実践 国際交流』財団法人大阪国際交流センター、1997 年、70∼71 ページ。
田中氏は、日本アジア関係史、在日外国人問題を専門としている。
28
20
大切なんです。例えば、英語ができるだけでは、言葉に溺れて、本質的なコミュニケーシ
ョンをおろそかにしてしまうことも危惧すべきでしょう。29」と述べている。
選手たちの感想の中に「心が通じ合えた」
「韓国にもう 1 つの家ができたような感じ」
「い
つのまにか笑い合うことができた」とある。田中氏が述べる本質的なコミュニケーション
とは、このように心と心が通じ合うことを指すのであろう。
筆者の師である、林夏生氏は沢知恵30氏との対談の中で「交流にかかわる個人が楽しい
思えることは、交流を実りあるものにする条件31」と言っている。心から「楽しい」と感
じられる交流は、自然と「また交流したい」という気持ちにさせる。
第3節
相手に対する関心が拡大、維持する
第 3 章第 4 節をみると、交流を終えた選手たちの中で「楽しかった。また韓国に行きた
い。」との声が出ている。さらに韓国のみならず、異文化そのものに関心を持った選手もい
る。新しく関心を持ち、それを広げるきっかけが出来たことは、個人の今後において何ら
かの影響を与えるのではないだろうか。
こう考えるのは実際に筆者もそうであったからである。筆者も中学校 3 年のときに地元
福井県鯖江市の日中友好交流団の一員として、中国の北京で一週間、文化交流やホームス
テイを体験したことがある。そのとき初めて、異文化を体験した。ホースステイでは中国
人の生活や家族を知った。中国人と一緒に万里の長城に登ったり、太極拳をするなど中国
の文化にも触れた。そのとき筆者も清水の選手たちと同じように、言葉の壁を感じた。そ
してそれを打開するために身振り手振りのボディーランゲージやわずかな英語を使ってコ
ミュニケーションを図った。何とかコミュニケーションはとれたものの、言葉が通じない
歯がゆさを覚えた。
しかしこの体験がきっかけとなって、英語と異文化に興味を持ち、高校はそれらの勉強
ができるチャンスの多い国際科を選んだ。高校では英語を通して、貧困・環境・紛争など
世界の諸問題を学んだ。そして漠然とではあるが、文化で世界を平和にすることはできな
いのだろうか、と考えていた。そして大学ではそれを学ぶために比較社会論コースに所属
し今に至る。中学生の時のたった 1 週間の体験がきっかけとなって、筆者の関心はここま
で広がった。きっと中学生のときに異文化を体験していなければ筆者の関心はもっと狭い
ものになっていただろうし、もしかしたらなかったかもしれない。
29
田中宏「隣に住む外国人との共生環境」国際交流基金・財団法人大阪国際交流センター
編『実践 国際交流』財団法人大阪国際交流センター、1997 年、85 ページ。
30 沢知恵【さわ ともえ】氏は、日本人の父と韓国人の母を持つ歌手である。1991 年に
歌手デビューし、1996 年にはソウルで初めて日本国籍を持つ歌手としてライブ公演を行
なった。
31 林夏生・沢知恵「けんかができる交流こそ本物になれる」
(対談)
『アジアセンターニュ
ース』国際交流基金アジアセンター、2001 年、2 ページ。
21
筆者の経験からもいえるように、国際文化交流によって様々な関心が持てることは、個
人の可能性を伸ばすきっかけになる場合もある。
「はじめに」でも少し述べたが、筆者は国際文化交流で重要なことは、相手に対して何
らかの関心を持つことだと考えている。関心には、良い意味のものもあれば悪い意味のも
のもある。林氏は前述した、沢氏との対談の中で「僕はある国がある国のことを、それは
人に置き換えてもいいんですけど、好きと思う気持ちと嫌いと思う気持ちってプラス・マ
イナスで打ち消し合うようなものじゃなく、嫌いなところと好きなところが同時にあって
当然だと思うんです。だから交流して「好きにならなきゃいけません。嫌いになってはい
けません。さあ、どうぞ。」と言われても、そんなの最初から無理な話です。まずは相手の
ことをどんどん知って、好きなところも嫌いなところも増やしていく32」と言っている。
筆者は良い意味の関心と悪い意味の関心どちらにせよ、全くの無関心よりも何らかの関心
がある方がいいのではないかと考える。
国家レベルの国際文化交流において市民の「関心」はどう影響しうるのだろうか。この
ことを以下の第 5 章で見ていく。
32
林・沢対談、前掲書、5 ページ。
22
第5章
国家レベルの国際文化交流が外交関係に及ぼす影響
第 4 章では、地域レベルにおいての国際文化交流が持続するために必要な条件を 3 点あ
げた。第 5 章では、第 4 章をもとに国家レベルの国際文化交流について考える。
地方レベルの国際文化交流は、自治体同士が行っているので市民が直接的に国際文化交
流を行うことが多い。しかし、限られたコストとその国際文化交流に参加する条件(例え
ば、市民の立場や地理的条件)を満たした一部の市民しか参加することはできない。国家
レベルの国際文化交流の場合、市民は大衆文化や国際イベントなどを通した間接的な国際
文化交流であるので、その国際文化交流に参加する市民の数や条件などの制限はない。
このように地域レベルの国際文化交流と国家レベルの国際文化交流の大きな違いは、交
流の形が直接的か間接的かという点である。これを念頭に、第 5 章を進める。
第1節
国家レベルの国際文化交流を持続させるために有効な条件
第 5 章第 1 節では、第 4 章で得られた地域レベルの国際文化交流が持続するために必要
と考えられた 3 つの条件をそれぞれ分析し、それらが国家レベルの国際文化交流にも有効
かどうかをみていく。
(1) お互いの集団にとってメリットがある
地方レベルの国際文化交流において、お互いにとってメリットがあることは必須である。
お互いメリットを生じさせるために交流するといってもよい。それは、お互いが目指す目
的が共通であるから、可能なことである。地方レベルの国際文化交流の場合、たいてい、
同規模の市町村では共通の悩みや課題を持っている33ので、共通の目的を持ち易い。しか
し、国家レベルの国際文化交流は外交手段の一つでもあり、極めて複雑な利害関係が絡ん
でくる。両国とも自国のメリット(利益)になるように行動する。それゆえ、共通の目的
は持ちにくく、例え持ったとしてもメリットだけではなくデメリットも生じる。お互いが
メリットを得ることは難しい。国家レベルの国際文化交流において(1)の条件は可能性
が低く、必ずしも適応できるものではない。
(2) 参加する個人が
楽しい
と感じられる
(2)は市民が直接的に交流を行なった結果、得られる感覚である。得られた感覚の上
でこの条件は成立する。
前述した第 4 章第 2 節の中で 楽しい と感じる交流になったのは、交流を行なった市
民が、心と心が通じ合う本質的なコミュニケーションが取れたからである、と述べた。こ
のような本質的なコミュニケーションは、市民が直接交流することでしか取ることはでき
33
長尾、前掲書、72 ページ。
23
ない。地方レベルにおいては、市民の立場や地理的範囲などの条件が付くので、参加する
市民は制限される。直接的に国際文化交流を行い易い状況にある。よって、この条件が当
てはまりやすい。しかし国家レベルでは、間接的な国際文化交流であり参加する市民に制
限がないので、全ての市民が直接的な国際文化交流を行うことは難しい。国家レベルの国
際文化交流においては適応しにくい条件である。
(3) 相手に対しての関心が拡大、維持する
(3)は、市民同士が直接に交流を行なっても得られ、また行なわなくても得られる条
件である。例えば、韓国ドラマを見た人が韓国に関心を持つというような、直接的に市民
同士が接触しなくてもこの条件は得られる。
CD・テレビ・映画などの大衆文化やサッカーワールドカップ・オリンピックのような国
際イベントなどは国家レベルの国際文化交流であり、それらはまた間接的なものである。
しかしそれらの国家レベルの国際文化交流がきっかけで、韓国に関心を持った市民が現れ、
後に韓国人と接してみたいと思い、直接に国際文化交流を行なうことになるかもしれない。
日韓の大衆文化交流を専門とする林氏も「確かに大衆文化交流は、相手国に親しみや憧
れをもたせ、実際に観光客などの形でヒトの移動をさせる上での重要なきっかけとなる場
合が多い。そして中には、例えば『冬ソナ34』に惹かれて韓国語を学び、ロケ地ツアーに
参加した観光客が、韓国に行ってみてはじめて韓国の食文化や生活文化に関心を持つよう
になり、やがて韓国の人たちから直接キムチ作りを教えてもらう・・・というように、最初の
入り口からは想像もつかないほど文化交流の幅や広がりを拡大させていくケースも、これ
からは増えていくかもしれない。35」と述べている。
このように市民の行なう国際文化交流が、間接的なものから直接的なものに発展する可
能性を考えると、その原動力となるのは、市民の親しみや憧れなどといった相手国に対す
る関心である。市民が
相手に対して関心を持つこと
が国家レベルの国際文化交流にお
いても有効な条件といえる。
以上の分析から、国家レベルの国際文化交流においても有効な条件は(3)である。次
の第 2 節では、国家レベルの国際文化交流が市民の関心に与える影響力について述べる。
第2節
国家レベルの国際文化交流が市民の関心に影響を与える過程
第 5 章第1節では、第 4 章で得られた条件の中で、国家レベルの国際文化交流において
も適用する条件を分析した結果、条件(3)が当てはまることがわかった。この節では、
34
35
韓国ドラマ『冬のソナタ』の略称。
林夏生「日韓大衆文化の最前線」『日本国際文化学会ニューズレター』
日本国際文化学会理事局、2004 年、2 ページ。
24
国家レベルの国際文化交流が市民の関心に影響を与える過程を考える。
第 5 章第 1 節の中で、国家レベルの国際文化交流を行っていた市民が、後に直接的な国
際文化交流にも参加するようになった場合、その原動力となるのは市民の関心であると述
べた。この流れを図化したものが以下の<図 3>である。
<図 3>
国際文化交流の段階図
国家レベル=
間接的な国際文化交流
ステップ①
↓
条件(3)相手に関心が持てる
↓
地域レベル=
直接的な国際文化交流
ステップ②
↓
条件
(1)お互いにとってメリット
(2)
楽しい
と感じられる
(3)相手に関心が持てる
↓
持続的な交流
(相手を知る機会が増える)
↓
さらに関心が持てる(=関心の拡大)
(<図 3>筆者作成。)
<図 3>において、国家レベルの国際文化交流は交流の段階としては、ステップ①であ
る。このステップ①は、大衆文化や国際イベントなどを通して誰もが間接的に行なうこと
が出来る国際文化交流のことである。このステップ①がステップ②に発展するにあたって
条件(3)が適応する。つまり市民の関心はステップ①からステップ②に発展するための原動
力である。ここまでの流れは第 5 章第 1 節の中で述べたことである。
では、ステップ②に発展するとどうなるのか。ステップ②とは、直接的な国際文化交流
であり、本論においては地域レベルの国際文化交流を指す。そして地域レベルの国際文化
交流を行なった場合、条件(1)(2)が適応する可能性が出てくる。条件(1)(2)が適応し、さら
に条件(3)も適応した場合、交流は持続する可能性がある。持続的な交流を行なうことは、
つまり相手を知る機会が増えることでもある。相手を知ることによって、市民はさらに関
心が持てるようになる可能性は高い。
25
このようにステップ①からステップ②に発展した後も、市民の関心は次に国際文化交流
を行なう上での原動力になる。国際文化交流を行なうことによって、市民の関心は高まり、
また次の国際文化交流につながる・・・。このような場合、国家レベルの国際文化交流が
市民の関心に与える影響は多大であるといえ、また市民の関心は好循環を作り出す要素に
なっていることがわかる。
では、このような流れの中で相手国に関心を持った市民は外交関係にどのように影響し
てくるのだろうか。次の第 5 章第 3 節で、これを考える。
第3節
外交関係においての市民の関心
間接的・直接的な国際文化交流によって相手国に対して関心を持った市民の存在は外交
関係においてどのような影響力を持つのだろうか。第 5 章第 3 節では、そのような市民の
存在と外交関係の関係性を述べ、民主化が進む世界の外交関係36における市民の関心の重
要性を述べる。
民主化が進む世界の外交関係において、市民の存在や声は大変貴重である。政治家を選
ぶ際にしても、有権者は市民の声を政治に反映してくれるような政治家を選挙によって選
んでいる。そして市民の意を反映した政治家が、国の政治をつかさどっている。この過程
からも民主化が進む世界の外交関係において、市民が与える影響力は大きいといえる。
例えば、毎年 8 月 15 日になると靖国神社参拝をめぐり近隣諸国では、市民による抗議
運動やデモが起こる。小泉首相が 2001 年に靖国神社参拝の日程を 8 月 15 日から 13 日に
前倒しして行なったのも、近隣諸国で抗議運動やデモが激しく行われていたからである。
抗議運動やデモは、政府に対して世論を反映する 1 つの表現方法であり、手段でもある。
そして政治家は世論を反映するように行動する。
このように外交関係においても、市民の持つ影響力は大きい。市民が外交において影響
力を持つためには、まず市民が相手国に対して何らかの関心を持つことが必要である。し
かしはじめから政治や経済のことに関心が持てる人は、ごく限られている。その証拠に、
近年市民の政治離れがある。しかし、国際文化交流は例えばテレビや CD、旅行など市民
の身近なところにある。これらは誰もが気軽に楽しく接触できるので、市民が関心を持つ
きっかけとしては有効である。
第 5 章第 2 節では、このような間接的な国際文化交流をきっかけをとして、相手国に関
心を持った一部の市民が直接的な国際文化交流をするようになれば、さらに市民の関心は
高まる、と述べた。そして、市民の関心が原動力となって国際文化交流は持続していくと
述べた。以下の<図 4>は第 5 章第 2 節を踏まえて、国際文化交流が持続する過程を示し
36
2002 年 5 月 20 日には東ティーモール民主共和国が誕生した。また、中国は社会主義
国であるが、選挙を行うなど民主主義の要素を取り入れている。
26
たものである。
<図 4>
国際文化交流が持続する過程
ステップ①
ステップ②
関心 1
間接的な国際文化交流
直接的な国際文化交流
(=国家レベル)
(=地域レベル)
行動
行動
関心 2
ステップ③
相手に対する関心の拡大・維持
(<図 4>筆者作成。)
ステップ①②が発展すると国際文化交流は持続することを、前の<図 3>で示した。こ
の<図 4>は国際文化交流が持続していく過程を示すものである。市民の関心が原動力と
なって、国際文化交流が持続すると相手に対する関心が拡大し、それが維持していく。こ
れがステップ③である。そしてステップ③によって、国際文化交流はさらに持続する。な
お<図 3>には「行動」と書いてあるが、これは相手に対する関心が拡大・維持していく
ことで、次にまた新たな国際文化交流につながる何らかの行動を起こすという意味の矢印
である。
ステップ③の相手に対する関心の拡大とは、市民の関心が国際文化交流のみならず、相
手との政治や経済など外交関係の分野に幅が広がることである。その関心が維持されるこ
とによって、国際文化交流はさらに持続する。
ステップ①、ステップ②を経てステップ③の段階まで発展し、同時に相手のことを本当
に知り、正しい知識が持てる市民が増加すれば、民主化が進む世界の外交関係においてそ
のような市民の声が外交関係に反映され、良い影響を与える可能性がある。このような場
合、国際文化交流が外交関係に影響を与える可能性は高い。よって国際文化交流と外交関
係の間には、相互関係が成り立つ可能性も高いといえる。以下の<図 5>はこのような可
能性があった場合の過程を示したものである。
27
<図 5>
国際文化交流が外交関係に影響を与える過程
影響関係
国際文化交流
影響関係
(市民の関心の拡大・維持)
外交関係
(<図 5>筆者作成。)
このように国際文化交流が外交関係に影響を与えるためには、市民の関心の拡大と維持
が不可欠な媒体となる。この媒体があれば、国際文化交流が外交関係に影響を与え、国際
文化交流と外交関係に相互影響関係が成り立つ。国際文化交流を持続的に行なうことで最
終的に市民の関心が拡大・維持していき、外交関係に影響する媒体となれば、国際文化交
流が外交関係に影響を与える可能性はより高いものになる。
28
結論
1998 年に金大中大統領(当時)と小渕恵三内閣総理大臣(当時)との間で、日韓の悲惨
な過去を清算し、未来に向けて新しくパートナーとしての関係を築いていこうという歴史
的な動きがあった。そして、その年の 10 月に韓国では、長年に渡り政府によって規制さ
れてきた日本大衆文化が開放されることとなった。1998 年、1999 年、2000 年と順調に日
本大衆文化は開放されてきた。またそれに伴い、韓国人の対日感情もだんだんと良くなっ
てきていた。しかし 2001 年に日本で、歴史教科書問題と靖国神社参拝問題が起こったこ
とによって、徐々に緩和されてきていた対日感情は悪化し、それまで順調であった日本大
衆文化の開放も停滞してしまうなど、日韓の外交関係は悪化した。この外交関係悪化の影
響は、日韓の市民同士が行なう国際文化交流にまで及んだ。この時期、日本全国で日韓の
地域レベルの交流は相次いで中止や延期になってしまった。このことから外交関係は国際
文化交流に影響を及ぼすことが明らかになった。
しかし、国際文化交流は必ずしも外交関係によって制約を受けてしまうばかりではない
ことが、静岡県清水市と韓国城南市のサッカー交流の事例から明らかになった。この両市
の交流は約 30 年間も続いており、2001 年に外交関係が悪化し、多くの日韓の交流が中止
や延期になる中でも通年通りに交流が行なわれていた。その理由は、両市が交流に対して
積極的であること、30 年来の長きに渡る交流で築いてきた深い友好関係があるからであっ
た。友好関係がしっかりと根付いている両市の交流には外交関係の影響は関係がなく、純
粋に市民同士が交流を楽しめる基盤が出来ていた。
このことを踏まえ、第 4 章では国際文化交流が外交関係にプラスの影響を与えるような
交流について考えた。本論では
持続していること
を、国際文化交流を行うにおいての
最低条件として、清水市と城南市の事例から持続的な国際文化交流を行なうために必要な
条件を考えてみた。その結果(1)お互いにとってメリットがある(2)楽しいと感じられる(3)
相手に対して関心が持てる、という 3 つの条件が考えられた。地域レベルの国際文化交流
から得られたこの 3 つの条件が国家レベルの国際文化交流にも当てはまるかを分析した。
第 5 章第 1 節でこれを分析した結果、(3)の条件は国家レベルの国際文化交流においても
有効な条件であることがわかった。間接的な国家レベルの国際文化交流であっても、市民
がそれによって相手国に関心を持てば、地域レベルの国際文化交流のように直接的なもの
にも発展する可能性があることを述べた。
市民の関心は国際文化交流の発展を促すための原動力であることがわかった。そして間
接的・直接的な国際文化交流によって相手国に対して関心を持つ市民の増加と、そのよう
な市民の関心が政治、経済など幅広い分野に広がれば、市民の声が反映されやすい民主化
する世界おいては外交関係にも影響力を及ぼす可能性が高いことを述べた。
国際文化交流が外交関係に影響を与えるためには、市民の関心が拡大、維持することが
不可欠な媒体となる。持続的な国際文化交流によって、市民の関心が拡大・維持し、外交
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関係に影響を与える媒体となれば、国際文化交流が外交関係に影響を与える。
結論として、民主化する世界の外交関係においては、国際文化交流がきっかけとなって
市民の関心の拡大と維持が最終的に外交関係に影響を及ぼす媒体となる。そうなれば、国
際文化交流が外交関係に影響を与える関係ができ、国際文化交流と外交関係の間に相互関
係が成立する可能性も高いことがいえる。
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おわりに
本論の目的は、日韓の対象に国際文化交流と外交関係の間の相互影響関係をみていくこ
とであった。今回それを清水市と城南市の事例をあげ、地方レベルの国際文化交流から探
っていった。その結果、国際文化交流が外交関係に影響する可能を見ることができ、また
国際文化交流と外交関係における相互影響関係の可能性についても検討することが出来た。
今はまだ、可能性でしかないが、同じ民主主義体制をとっている日韓においてはそれを現
実にすることはそう難しくはないのではないかと思う。
昨年(2004 年)は、日本で韓国ドラマ『冬のソナタ』が大ブレイクし、それがきっかけ
となって、韓流ブームが起こった。韓国の俳優や歌手(韓流スター)たちが来日すると、
空港は何千人ものファンたちで溢れかえった。毎日のようにメディアでも韓国特集や韓流
スターなどの話題で持ちきりであった。韓国のドラマのロケ地に行くツアーまで出てきた。
これらは韓国に対して関心を持つ市民が増加した結果であるといってよいだろう。
韓流ブームの流れに乗って韓国に関心を持った多くの市民が今後、メディアで映る韓国
の一面だけでなく、幅広い関心を持って韓国の多様な面を見ていって欲しいと思う。
そして最終的に市民の関心が、歴史的な問題や竹島問題、北朝鮮の核問題・・・日韓間に存
在するこれらの複雑な問題にも向けられるようになれば、可能性も可能性でなくなるので
はないかと思う。今はまだその段階まで達してはいないが、いつかそうなるように日々市
民が国際文化交流を意識し、少しずつでも携わっていくことが一番大事なのかもしれない。
筆者もまだ多様な韓国の姿を見れているかといったら、そうではないかもしれない。し
かし大学生活を通して、少しは多様性を見つめる視野が養われたのではないかと思う。い
よいよもうすぐ社会に出るが、大学生活で得たこと、また卒業論文で述べたことを忘れな
いでいたい。
最後に、筆者が今まで一番やりたかった勉強が大学生活を通して学ぶことができ、そし
てその結果このように卒業論文という形で残せることに筆者自身、大変嬉しく思っている
ことを書いて終わりたい。
高島
31
あゆみ
参考文献・資料一覧
総理府統計局『静岡県の人口』 1975 年、2000 年
国際交流基金、財団法人大阪国際交流センター編『実践 国際交流』
財団法人大阪国際交流センター、1997 年
外務省『外交青書』1999 年
小針進『韓国と韓国人∼隣人たちのほんとうのはなし∼』平凡社新書、1999 年
平野健一郎『国際文化交流の政治経済学』勁草書房、1999 年
平野健一郎編『国際文化論』東京大学出版会、2000 年
石坂浩一、舘野晳編『現代韓国を知るための 55 章』明石書店、2000 年
黒田勝弘『韓国人の歴史観』文春新書、2001 年
国際交流基金アジアセンター『アジアセンターニュース』
国際交流基金アジアセンター、2001 年
池明観『韓国
民主化への道』岩波新書、2001 年
初瀬龍平・定形衛・月岡太郎編『国際関係論のパラダイム』有信堂、2001 年
原田敬一・水野直樹編『歴史教科書の可能性∼「つくる会」史観を超えて∼』
青木書店、2002 年
朴順愛・土屋礼子編『日本大衆文化と日韓関係∼韓国若者の日本のイメージ∼』
三元社、2002 年
古田博司、小倉紀蔵編『韓国学のすべて』新書館、2002 年
尹載善『韓国の軍隊』中公新書、2004 年
外務省ウェブサイト http://www.moga.go.jp/mogaj/area/korea/bunka/index.html
静岡市ウェブサイト
http://www.city.shizuoka.shizuoka.jp/
城南市ウェブサイト
http://www.cans21.net/etc/country/j-home/
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資料集
<資料1>
日韓関係の主な流れ
1950∼53 年
朝鮮戦争。
1965年
日韓条約調印、国交正常化。
1973年
金大中拉致事件。
1980年
光州事件。
1982 年
教科書問題。
1983 年
中曽根首相、訪韓。
1987年
韓国、民主化宣言。
1988年
ソウルオリンピック。
1990 年
盧泰愚大統領、訪日。
1993年
細川首相、訪韓。植民地統治を謝罪。
1995 年
戦後 50 年で村山首相、談話。
1998 年
金大中大統領、訪日。 日韓パートナーシップ宣言(日韓共同宣言)。
2001年
歴史教科書問題、靖国神社参拝問題。
小泉首相、訪韓。
2002年
日韓共同開催ワールドカップ。
『日韓国民交流年』、『日中韓国民交流年』。
2003 年
盧武鉉大統領就任。 日韓共同未来プロジェクト 。
2004 年
日本で
2005 年
2006年
韓流ブーム 。
『日韓友情年 2005』。
韓国で日本大衆文化の全面開放(予定)
。
<資料 1>筆者作成。
33
<資料 2>
韓国政府による日本大衆文化開放政策
一次開放(98 年 10 月 20 日)
・映画及びビデオ
日韓共同制作作品、4 大国際映画祭(カンヌ、ベニス、ベルリン、アカデミー)受賞
作品。ビデオは劇場で公開されたもの。
・出版
日本語版出版漫画及び漫画雑誌。
第二次開放(99 年 9 月 10 日)
・映画及びビデオ
劇場用アニメを除く映画の大幅開放(70 大映画祭入賞作、「全体観覧可」に分類され
る年齢制限のない作品)
。
ビデオは劇場で公開されたもの。
・歌謡公演
2000 席以下の室内公演場での歌謡公演。(公演の実況放送、レコード・ビデオの販売
は不可)。
第三次開放(00 年 6 月 27 日)
・映画及びビデオ
「18 歳未満観覧不可」の作品以外全て(劇場用アニメ除く)。
国際映画祭で受賞した劇場用アニメ。
ビデオは劇場で公開されたもの。
・歌謡公演、レコード
歌謡公演は室内外関係なく全面開放。
レコードは、日本語による歌以外(演奏のみ、第三国語・韓国語翻訳によるもの)
・ゲームソフト
ゲーム機用テレビゲームソフト以外のゲームソフト(PC ゲーム、オンラインゲーム、
ゲームセンターのゲーム等)。
・放送
全ての放送媒体によるスポーツ、ドキュメンタリー、報道番組の放送。
映画のテレビ放送は、ケーブルテレビ、衛星放送において第二次開放の基準を満たす
劇場公開された作品。
第四次開放(04 年 1 月1日)
03 年 9 月決定
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・映画及びビデオ
映画は全て開放。
ビデオは国内で放送されたもののみ開放。
・レコード(CD、テープ等)
販売は日本語による歌を含め全て開放。
・ゲームソフト
ゲーム機用テレビゲームソフトを含め全て開放。
03 年 12 月決定
・放送
ケーブル・衛星放送
➝生活情報、教養番組、映画、劇場用アニメ(国内で公開されたもの)、日本語歌謡の
放送を全て開放。
➝ドラマは「12 歳観覧可」の番組、共同制作ドラマにつき開放。
➝その他の娯楽番組(バラエティー、トークショー等)は未開放。
・地上波放送
➝生活情報、教養番組、映画(国内で公開されたもの)の放送を全て開放。
➝日本語歌謡の放送は韓国国内で公演されたもの、韓国の番組へ出演する場合につき
開放。
➝ドラマは共同制作ドラマにつき開放。
➝劇場用アニメ、その他の娯楽番組(バラエティー、トークショー等)は未開放。
・劇場用アニメ
2006 年にすべて開放。
<資料 2>
外務省ホームページ「韓国政府による日本文化開放政策(概要)」
http://www.moga.go.jp/mogaj/area/korea/bunka/index.html(2004 年 1 月 22 日確認)
をもとに筆者作成。
35
<資料 3> 2002 年日韓国民交流年の動き
1、日韓両国首脳による新年テレビ・メッセージの交換
2、日本の大学入試センター試験に韓国語を導入(一月)
3、オープニング行事(1 月 21 日ソウル、28 日東京)
4、年間を通じて多彩な「2002 年日韓国民交流年記念事業」
(1) 展示
平山郁夫・金興洙二人展(1∼2 月東京)等
(2) 公演等
① 日韓共同 CD『The Monsters』販売記念コンサート「アジアミュージックフ
ェスティバル 2002」(2 月、東京)
② 日韓共同制作映画『ソウル』(長瀬智也、崔民秀共演)
③ 日韓宮中音楽交流演奏会(5 月、日韓両国)等
(3) その他の各種事業
① 朝鮮通信使再現事業(JAPAN-KOREA 市民交流フェスティバル 2002)(9∼
11 月、日韓両国)
② 産業文化エキスポ
➝Korea Super EXPO 2002(6 月幕張)
➝第三回 Japan Festival in Korea(10 月、光州)
以上の事業を含む 840 件以上の各種記念事業が 1 年を通して実施された。
5、その他、各方面でバラエティーに富んだ交流
① 日韓合作ドラマ『フレンズ』
(深田恭子、ウォン・ビン共演)の初の日韓放映(2 月)
② 日韓合作映画が立て続けに製作・公開
『ホタル』(1 月韓国公開、高倉健主演、韓国ロケ)、『春の日は過ぎゆく』(松竹
出資、李英愛主演)、『KT』(金大中事件題材)等等
6、クロージング行事(12 月 10 日東京及び 13 日ソウル)
2002 年日韓親善大使
日本:
藤原紀香
韓国:
金倫珍
<資料 3>外務省『外交青書』2003 年、25 ページをもとに筆者作成。
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<資料 4>
日本人の韓国人に対する世論調査
表)日本:韓国人が好きか嫌いか
好き
嫌い
どちらでも
ない
84 年
11%
19%
64%
88 年
11%
21%
63%
90 年
12%
23%
61%
95 年
11%
21%
65%
96 年
8%
17%
73%
99 年
13%
12%
72%
00 年
20%
17%
60%
01 年
21%
15%
61%
図)日本:韓国人が好きか嫌いか
日本:韓国人が好きか嫌いか
80%
70%
60%
50%
好き
嫌い
どちらでもない
40%
30%
20%
10%
0%
84年
88年
90年
95年
96年
99年
00年
01年
<資料 4>は朝日新聞と東亜日報の世論調査を参考に筆者作成。
37
<資料 5>
清水市の地図
<資料 5>総理府統計局『静岡県の人口』1975 年の巻末の地図から抜粋。
38
<資料 6>
城南市の地図
<資料 6>
39