第 41 回 東京鶴翔同窓会に寄せて 菅 徹 同窓会は文化です 石黒 慶一 故郷 田中 芳昭 思い出の「響き」 榎本 政規 ふるさと鶴岡の今 栗本 浩 ふるさとの縁 小鷹 光雄 昨年の同窓会 尾形 昌夫 忘れえぬ人 三浦安信さん 皆川 健行 学業よりも勤労が多かった四年間 鎌田 喜子 ふるさとの調べは庄内弁 平田 宏 もっと外に縦パスを 御橋 廣眞 親にケイタイを贈り、子の笑顔を送る 渡部 洋 桜井文子さんの早すぎる死を悼みます 阿部 博行 草創期の荘内中学校 小杉 善宏 感慨 小野寺光弥 白球 坂田 敬一 マル 1 か? 1 マルか? 斎藤 晋 高校時代の思い出 田辺 礼士 我が心の鶴岡 藤原 絹子 庄内の自然と人に癒されて 鈴木 良清 ますます青春を謳歌しようではないか 斎藤 匠 月の光を見て 薬袋 綾 心のふるさと 題字/初代会長 故・田倉八郎氏 鶴翔 第41号 平成 23 年 4月28日発行 発行 東京鶴翔同窓会 発行人 栗本 浩(41年73回卒) 編集人 荒田盈一(41年73回卒) 写真/赤川河川敷より望む早春の月山 佐藤拓哉(鶴岡南高校写真部・平成 23年 3月卒) 東京には空がない、ふるさとの本当の空が見たいと言 たのは高村智恵子。 ふるさとを後にして首都圏と呼ばれるところで生計を 求めた鶴翔同窓の朋友がふと一息つくときに見たいと思 う本当のふるさとの空の色は蒼く澄み切った高い空か、 はたまた冬の地吹雪が吹き荒び天地が一体となってしま う空なのか。どちらも本当のふるさとの空である。そし 第41回 東京鶴翔同窓会のご案内 ●日時: 13:30∼16:00(受付開始12:30) ●場所:海運クラブ(昨年と同じ) 2 階大広間 千代田区平河町 2 - 6 - 4 海運ビル ☎03 - 3264 -1825 ●交通:有楽町線、半蔵門線、南北線 永田町駅 1分 銀座線、丸ノ内線 赤坂見附駅 5 分 てそこには微かな景色のしらべを覚える自分を見つける。 景色のしらべは空の色だけではない。校歌にも謳われ ている鳳嶺・月峰を霞める雲にもさらには日本海を渡る 潮騒にもしらべはある。想い描いたら切りが無いくらい のふるさと庄内の景色に包まれたしらべを心に響かせる ことができるとき鶴翔同窓の朋友であることの幸せを感 じ同時に誇りに思いながら今をそしてふるさとで過ごし た青春の日々を語ることも心の洗濯になるであろう。 嘗て遠きに在りておもうものだったふるさとが今では 空の便を使えば一時間で直に目にすることができるよう になった。でも鶴翔同窓の朋友が集う場はもっと近い。 (副実行委員長・ 嶋勝平記) [1] ●会費:一般会員………………………………8,000 円 高齢会員(昭和 24 年卒以前) ………4,000 円 大学、専門学校会員…………………4,000 円 他に東京鶴翔同窓会年会費、一口 1,000 円ですが、 何卒、二口以上のご協力を賜りたくお願い申し上げます。 ★出欠の返事:5 月31日(月)までに同封のハガキ、 または東京鶴翔同窓会ホームページにてお願いします。 東京鶴翔同窓会 会長 同窓会は文化です 年 回卒︶ 人々をつなぐ糸が寸断されつつ ある今日、同窓会はまことに貴重 な要素として再評価されていい、 いわば無形文化財です。首都圏に、 が逝去され 、 大 変 な 衝 撃 で あ り 大 の隆盛に導 か れ た 桜 井 文 子 元 会 長 その半年 後 、 わ が 同 窓 会 を 今 日 長より引き 継 ぎ ま し た 。 昨年の総 会 を も っ て 、 渡 部 前 会 輩が一堂に会して郷里を懐かしみ、 孤族では存在しえず、友は多いほ かつて同窓会といえば、先輩後 た実態は深刻な状況です。 関心に放置された大勢の人々がい 家族間や地域社会に生死さえ無 分があります。 日本社会が崩壊するかのような気 惧種にしてはいけません。人間は 豊かな﹁つなぎ﹂として、絶滅危 これはもはや一大文化であり、 四千人近い同窓生がいるのです。 理の味を記憶し、母校を共にする 語は江戸弁です︶を解し、郷土料 ︵昭和 きな悲しみ で あ り ま す 。 改 め ま し 庄内弁という非日本語︵現代日本 て多大なご 功 績 に 感 謝 し ご 冥 福 を まさに今総会のテーマ﹁心の響 うがより楽しく、豊かな気分にな き、ふるさとのしらべ﹂を皆で、 楽しい一時を過ごす、という良き 族﹂など歓 迎 さ れ ざ る 言 葉 が 溢 れ 、 そ れ は 今 で も 変 わ り ま せ ん が 、 太い糸で紡ぎましょう。 お祈りいた し ま す 。 更に大きな意義を持つ時代になっ れるのです。 てきたと思います。 の皆様には遠くからだけではなく、 人々を個々 に 切 り 離 す 社 会 病 理 が 故 郷 是非鶴岡にも足を運ばれ本部同窓 中心に﹁心の響き、ふるさとのし 回卒業同窓生を 第 回 東 京 鶴 翔 同 窓 会 総 会 が 、 郷の土地と血が通っているのだと と思います。それは、皆様には故 る時、きっと想いだすのは故郷だ 難や悲哀に直面しその対応に窮す 敬意を表するものです。皆様は困 いと思います。 いることをこの機会に語りあいた 同窓会に限らず社会も必要として てしまいます。今こそ若い活力を 新しい力が加わらなければ衰退し 戦しなければなりません。組織は ぶと共に、新たな時代の変革に挑 鶴翔同窓会 会長 会にも喝をいれて頂ければ幸いで らべ 語ろう青春と庄内 ﹂ のテ 思います。鶴岡も今は大きな変貌 これからの母校の発展のために 回卒︶ ーマの元 で 盛 大 に 開 催 さ れ ま す こ をとげ、昔の面影は少なくなって も、東京鶴翔同窓生の皆様には今 年 とに心よ り お 慶 び 申 し あ げ ま す 。 来ておりますが、母校や故郷に感 ︵昭和 また、菅 会 長 を 始 め 皆 様 か ら の 鶴 謝を込めて集うことは誠に意義深 後ともよろしくご指導、ご鞭撻を 石黒 慶一 翔同窓会 へ の 日 頃 の ご 理 解 と ご 支 いことと思います。 す。鶴翔同窓会は歴史と伝統を尊 援に心か ら の 敬 意 と 感 謝 を 申 し 上 ﹁故郷は遠くにありて想うもの﹂ 賜りますようにお願いしてお祝い 本年は 、 、 げます。 の言葉とします。 皆様が 故 郷 を 離 れ 、 新 た な 地 で 67 という言葉がありますが、同窓生 35 強調され、 穏 や か に 結 束 し て き た 時代がありました。 菅 徹 69 さて今日本には﹁無縁社会﹂ ﹁孤 37 ご活躍さ れ て い る こ と に 心 よ り の 41 73 83 93 [2] 思い出の﹁響き﹂ 鶴岡南高等学校校長 年 回卒︶ 使っている楽器は、﹃ べにばな国 吹奏楽研究 会 の 楽 器 の 音 色 … 高校時代 の 夏 の 合 宿 。 昼 寝 の 時 のかけ声、 音 楽 部 の ハ ー モ ニ ー 、 てくる。教 室 で の 笑 い 声 、 野 球 部 いると、い ろ い ろ な 音 が ﹁ 響 い ﹂ 放課後、 校 内 を ぶ ら ぶ ら 歩 い て その吹奏楽研究会も︵音楽部は 心したものだった。 部より体育会系 ﹂などと妙に感 している姿を見て﹁オーッ、運動 丸いすを並べて太鼓代わりに練習 教室棟から体育館への渡り廊下に と呼ぶ︶両方とも東北大会常連、 吹奏楽部︵鶴南はなぜか﹁研究会﹂ 一学年五学級規模で、音楽部と だりしてくる。 なくなったものだった。朝は朝で、 上かかっている。楽器が代われば、 たのだろう?﹂と気になって眠れ 全国大会出場をうかがう学校はそ ︵昭和 間、中庭で 練 習 す る ト ラ ン ペ ッ ト 言うに及ばないが︶東北大会で初 田中 芳昭 の音に、最 初 の 内 は ﹁ う る さ い う多くはない。これも﹁音楽のま 体﹄のために平成三年に誂えたも 眠れない ﹂ と 言 い な が ら も 、 い の金賞受賞、次年度の全国大会出 一方、空路では、これまで羽田 きました。 0人が観光で鶴岡においでいただ 演奏も一皮むけるのだが ﹂と顧 … 問の教師はさりげなく校長におね の。修理代だけで年間二百万円以 つの間にか 、 ト ラ ン ペ ッ ト の 音 が ? ち 鶴岡﹂の伝統ゆえか … 鶴岡市長 は、日頃 よ り 、 ふ る さ と 鶴 岡 へ の 東京鶴 翔 同 窓 会 の 会 員 の 皆 様 に める不断の努力が必要と痛感した めをかけるには、地域の魅力を高 改めて、定住人口の減少に歯止 なりました。 757人、約4%減少する結果と ンセットのオープンなど、さらに 念館の開館や庄内映画村のオープ 行の期間になります。藤沢周平記 は、いわば通年5便化に向けた試 て5便となりました。この3ケ月 5月 日、そして と庄内、往復4便であったものが、 ご支援と ご 協 力 を い た だ き 心 か ら ところです。また、観光で人と人 魅力が増したふるさと鶴岡。ぜひ 年 回卒︶ 感謝申し 上 げ ま す 。 がつながり、交流人口を増やすこ 東京鶴翔同窓会の皆様からも通年 ︵昭和 勢調査︵ 速 報 ︶ に よ り ま す と 、 庄 とも重要と考えております。幸い 5便化に向け、ご協力とご支援を 榎本 政規 内の人口は5年前の前回調査︵平 昨年度は鶴岡信用金庫の働きかけ お願い申し上げて、ふるさと鶴岡 日∼ 成 年︶に比べて5,322人、5 さて、 昨 年 万4,171人と により、秋には埼玉縣信用金庫、 27 月は1便増え 1 0 の近況報告といたします。 31 期間限定ながら今年の3月 %近く減 少 し この冬には同じ埼玉県の飯能信用 月に実施された国 万2,384人いた人 75 近況報告 ﹁ふるさと鶴岡の今﹂ 場を目標に練習に励んでいる。﹁今 78 聞こえない と 逆 に ﹁ 今 日 は ど う し 46 43 なりまし た 。 一 方 、 鶴 岡 市 も 、 平 10 29 万6,627人となり、5, 金庫のお客様、あわせて7,00 [3] 成 年に 口は 14 17 17 13 ふるさとの縁 回東京鶴翔同窓会 実行委員長 話した。 それから約十年後、今の職場で 新規入居の会社に挨拶に訪問した と こ ろ、 そ こ の 総 務 部 長が 庄 内 三度目の 地 方 勤 務 で 広 島 に 単 身 三雪橋、大督寺、龍覚寺など実在 ﹁ふるさとの縁﹂に感謝し、これ しくなった。 どを紹介した。海坂と庄内、内川、 話すうち、すっかり意気投合し親 の記念碑が出来て間もないことな からも大事にしていきたい。 第 回卒︶ 赴任したの は 十 五 年 前 。 庄 内 弁 同 の地名と小説の場面にも触れた。 第四十一回東京鶴翔同窓会総会 年 様、語尾に﹁のう﹂がつく広島弁に 柏戸については、私の父の友人 へ向けて、時空を超えた﹁心の響 ︵昭和 も大分慣れ た 頃 、 広 島 ロ ー タ リ ー が入門の世話をしたこと、三段目 栗本 浩 倶楽部でス ピ ー チ を 頼 ま れ た 。 自 時代の大山での稽古、親方になっ ﹁藤沢﹂は奥さんの出身地に因ん 彼の人柄を偲ばせるエピソードを げて一緒に写真に納まったりなど、 す。多数の方の参加をお待ちして したり、幼かった私の娘を抱き上 平と柏戸を 偲 ん で 一 時 間 程 話 し た 。 軽 に 会 っ て く れ て 弟 子 の 調 子 を 話 に実行委員一同頑張ってまいりま 奏で合う楽しい場を創り出すため 抽選会があったりと、ふるさとを 業者さんから提供頂いた物産品の おります。 だ名前であ る こ と 、 妻 の 甥 が 勤 務 回東京鶴翔同窓会 実行委員長 た来年会おうね ありがとう 第 思い起こさせる企画が盛りだくさ の言葉があちこちから聞こえてい 年 回卒︶ なりました。イベントでは、湯田 ︵昭和 川温泉神楽保存会のみなさんによ んで、皆様から、楽しかった ま 昨年参 加 さ れ な か っ た 方 々 の た 名の参加者が集まり、夜遅くま めに、昨 年 の 同 窓 会 の 様 子 を ご 紹 昨年は 、 湯田川神 楽 を 見 た い 、 だ だ ち ゃ 豆 わらず素 晴 ら し い 天 気 に 恵 ま れ 、 れました 。 当 日 は 梅 雨 時 に も か か つまみに、 庄内の銘酒を酌み交わ だちゃ豆 と 玉こんにゃく を り、 JA鶴岡から提供頂いた だ 場内を回りお酌のもてなしをした た。また、編み笠姿の化け物が会 内でおひねりが飛び交うほどでし からみあいが見事なもので、会場 しみにしています。 達と再会し、語りあえることを楽 のことなので、多くの先輩、仲間 今年は 語ろう青春と庄内 と えなくなった寂しさがあります。 行委員会で集まった仲間と毎月会 総会を終えた感想としては、実 で話が尽きませんでした。 6 月 日に 今 年 と 同 じ 会 場 で 開 催 さ なに ありがとう をテーマに が食べた い 、 化 け 物 に 会 い た い 人 したり、 銀座アンテナショップ出店 91 介します 。 ました。総会終了後の二次会にも 72 る 湯 「 田川神楽 が 」 演じられ、滑稽 な仕草の ひょっとこ と獅子の 40 周年という節目に当 小鷹 光雄 昨年の同窓会 していた湯 田 川 小 学 校 に 藤 沢 周 平 で最上川キャンプをしたことなど 分が生まれ 育 っ た ふ る さ と に 関 係 ︵余目︶出身だった。中学のクラブ のあること を と 思 い 、 そ の 頃 亡 く き、ふるさとのしらべ﹂を感じあい、 73 てからも国技館に訪ねて行くと気 41 なった庄内 出 身 者 お 二 人 、 藤 沢 周 41 40 たる年で 、 母校、ふるさと、みん 40 たち26 5 名 が 集 ま り 盛 大 な 会 と 19 [4] 忘れえぬ人 三浦安信さん 尾形 昌夫 ︵昭和 年 回卒︶ 高校︵旧制 ︶ の 学 生 で あ っ た 三 浦 部合宿で背 泳 コ ー チ が 当 時 、 山 形 なった。同 年 夏 、 鼠 ヶ 関 で の 水 泳 だっ た の で 、 背 泳 を や る こ と に 名 の 新 部 員の 自 由 形 競 争 で ビ リ と同時に水 泳 部 に 入 っ た 私 は 、 数 年4月、鶴 岡 中 学 ︵現南高校︶ 入学 太平洋戦 争 が 始 ま っ た 1 9 4 1 女﹂と呼ばれる詩人、茨木のり子 三浦安信夫人は、﹁ 現代詩の長 た。 た私にとって、忘れえぬ人となっ さしく、水泳部の落ちこぼれだっ 可愛いい弟に兄が教えるようにや してくれた。三浦さんの指導は 、 言って、何回かご自分で模範を示 三浦安信・茨木のり子夫妻は、 ンツ姿の安信さんを偲んだ。 を読んで私は、鼠ヶ関での水泳パ 至難のわざでありましょうに … ︵ ︿パンツ一枚で﹀より︶ 相棒にそう思わせるのは 暮らしを共にした果てに 品のあるひとはいるもので、 うろうろしたって パンツ一枚で ﹃歳月﹄の一編 安信さんであった。三浦さんは、 ︵2006年に 歳で死去︶さんで 53 であった。 ジ ク ︵ 能 ︶ が な い 私 に がっちりし た 体 躯 で 物 静 か な 先 輩 んの想いを綴った茨木のり子詩集 歳で他界された最愛の夫、安信さ ある。肝臓ガンで1975年、 菩提寺、浄禅寺で眠っておられる。 海を眺望する高台にある三浦家の 私の実家︵加茂︶ のすぐ上の、日本 ﹁ 昌夫君、 も う い っ ぺ ん の えがあった。特に屋外運動場は瓦 礫の山で、それをグランド化する ために絶えず、モッコ担ぎに駆り 出された。十九年七月には、五年 には、真珠湾攻撃に始まる太平洋 ったと記憶するが、十六年十二月 徒動員になり、当時最新鋭戦闘機 町にあった中島飛行機製作所に学 生といっしょに群馬県新田郡太田 私共は、 昭 和 二 十 年 三 月 の 卒 業 学業よりも勤労が 多かった四年間 皆川 健行 ︵昭和 年 だから、既 に 六 十 六 年 も 経 過 し た 先日、東 京 は 原 宿 で 、 ク ラ ス の とと思いま す 。 学年も遭遇 は な く 、 体 験 も な い こ 正に奇異の 連 続 で 、 同 窓 生 の ど の 百名を割っていたのではと思いま りして、卒業式に参加出来たのは 学校や諸々の軍事学校に入学した になると海軍将校を育てる海軍兵 幹部訓練所に入隊したり、四年生 も数名入学したし、世のため人の させられた学年だったが、東大に る間もなく、終業試験もなく卒業 このように労働の連続で学習す 飯を主食として頑張った。 しかも米よりも芋や野菜の多い御 里も離れた宝泉寮から徒歩で通い、 会の﹁ばん け 東 京 会 ﹂ を 行 い 、 出 ために大活躍の人物も多く輩出し た。 す。入学した年の二年前には、学 は校舎は未完成で、絶えず教室替 席は八名だ っ た が 、 卒 業 式 に 出 席 業までの四 年 間 を 想 い 浮 か べ る と 、 幼 年 学 校 に 入 学 し た り 、 予 科 練 や 戦争が勃発し、同級生の中からは、 と云われた飛行機の製作に、約一 56 ことになる 。 入 学 か ら 繰 り 上 げ 卒 回卒︶ ﹂と ― 79 53 出来たのは 、 た っ た の 一 人 だ っ た 。 校 が 火 災 に 見 舞 わ れ 、 入 学 し た 頃 入学した時 の 同 級 生 は 一 五 〇 名 だ [5] 20 20 ャーノ﹂や美容室﹁ジョナメール﹂ 山形県アンテナショップ﹁サンダ とっては、 ふ る さ と 庄 内 そ の も の り、話しこ と ば の 抑 揚 が 殊 に 私 に を知り、表 記 す る と 味 わ い が 異 な 懐かしんで い る 自 分 が い る 。 語 源 方の文にい つ も う な づ き 、 納 得 し 連載を興味 深 く 読 ん で い る 。 お 二 一氏の筆に よ る 庄 内 弁 に つ い て の 荘内日報 に 樋 渡 浩 さ ん や 中 里 欣 これ程適切な表現はなく、標準語 に﹁やばち ﹂と叫ぶ。感覚的に 走る。雪どけの屋根から落ちる雫 ごぐろだごと﹂TVに向かって口 れ、除雪作業の映像に思わず﹁おゝ 今年の冬、鶴岡は豪雪に見舞わ われる。 まならないのではないかとさえ思 い。今の中高生はヒアリングもま 卒の誇れる同期生でした。もう会 ご尽力頂いた桜井文子さんは 女性会長として東京鶴翔同窓会に 私達 回の卒業者は、今年で卒 しらべで語りに行きましょう。 クラブに青春と庄内をふるさとの 6月 ょうか。 ふるさとの調べは庄内弁 鎌田 喜子 ︵昭和 年 回卒︶ である。 に訳しようのない庄内弁ではなか 人が又一人減った。さびしいこと ンデロ﹂などはいかがに響くで し 幼い頃、 聞 い て い た 祖 母 達 の 話 ろうか。 日︵土︶にいつもの海運 ことば、城 下 町 鶴 岡 な ら で は の 士 この上ない思いである。 もっと外に縦パスを 平田 宏 ︵昭和 年 回卒︶ 人気のレストラン﹁アルケッチ 63 族ことばが 聞 か れ な く な っ て 久 し 31 25 回 業 年の節目にあたります。初の 63 に架かる橋︵日本の援助で完成︶ を す。メコン川の支流、 トンレサップ の悪夢から 立 ち 上 が ろ う と 懸 命 で した。カン ボ ジ ア は 今 、 ポ ル ポ ト ルで、テレ ビ を 見 な が ら 興 奮 し ま 、韓 国 戦 は カ ン ボ ジ ア の プ に李 … ノンペンで 、 豪 州 戦 は シ ン ガ ポ ー インぎりぎ り に 縦 パ ス 、 敵 の 背 後 がサイドを 駆 け 上 が る 、 遠 藤 が ラ 晴らしい戦いでした。決勝戦、 長友 サッカー・アジア・カップは、素 鶴岡人がいました。また地雷原を く如松会のSさんなど、頼もしい ノイで三千人の会社を経営する鶴 同郷の方々も頑張っています。ハ ンスの資料を検索していました。 ルの巨木の陰に避けて日本やフラ 学生が三十四度の暑さをガジュマ した船が上り下りしてゆきます。 タの大学にも進学しました﹂とか 年は、北京、ハーバード、ジャカル には勝ち残れないでしょう。﹁今 や縦パスだけでは、激動の決勝戦 の良いゾーンで安全第一の横パス な人材を求めている中で、居心地 出来た﹁人材育成センター﹂では、 すが、世界中に市場が広がり多様 プノンペン大学やJICA支援で た﹂とか言うような元気な話を聞 ながらプノンペンで海外援助に働 ﹁バンコク鶴翔同窓会が誕生しまし 翔同窓会のOさん、六十歳を超え きたいものだと、天邪鬼的老ドン ﹂ など ○○名入学し、大手企業に … と偏差値的進路情報を毎年伺いま 朝暗いうち か ら ホ ン ダ の バ イ ク が キホーテは妄想しています。 ﹁ 国公立大学、 有名私立大学に り巻く空気はどうでしょうか? も逢いました。翻って、母校を取 存に活躍する多くの若い日本人に えなくなって、青春と庄内を語る 63 55 綿や黒胡椒の畑に変えたり遺跡保 63 我先にと渡 り 、 建 設 資 材 を 山 積 み 31 [6] て、初回のメールには、必ずあな たの笑顔をアップにして添付して いただきたいのです。個人情報に 眼が痛い。 石 の 上 に も 三 年 の 故 事 の東京の青 空 は 、 や け に ま ぶ し く でバッグに 押 し 込 ん だ 。 久 し ぶ り イレに駆け 込 み シ ャ ツ を 一 枚 脱 い で汗ばむほ ど の 暖 か さ 。 近 く の ト たターミ ナ ル を 歩 い て い る だ け 空港から飛 ん だ 羽 田 、 改 装 の 終 わ と積もった 雪 を 払 っ て か ら 、 庄 内 夜半に車 の フ ロ ン ト に う っ す ら ぜひあなたからケイタイを一台プ ていらっしゃらなかったら、是非 親御さんが、もしケイタイを使っ なかで郷里に住んでいるご自分の いことがある。それは、皆さんの 皆さんにご提案させていただきた いわれるだろうけど、東京鶴翔の 農家にケイタイは不要だろう﹂と である。﹁それがどうした? 専業 はケイタイが普及していないこと ついたことが一つある。ご近所に のとき年取った親の笑顔など見た 手元に届くに違いありません。そ 色を背景にした笑顔があなたのお きたいのです。そうすれば、雪景 ラの使い方も丁寧に教えていただ し相当のご高齢なら、メールカメ 法則になっています。しかも、も う。特に庄内なら、これは人間の たくないという親はいないでしょ く離れているわが子の笑顔など見 気なもの言いになりますが︶、 遠 などとはおっしゃら 干渉するな … ないでいただきたいのです。︵生意 に倣ったわ け で は な い が 、 赤 川 を 親にケイタイを贈り、 子の笑顔を送る 御橋 廣眞 ︵昭和 年 回卒︶ 越えて羽黒 町 の 柿 畑 に 囲 ま れ 住 宅 立されました。顧問となられてか 準備に当たる現在のスタイルを確 くないなどとおっしゃいますか? 東京鶴翔同窓会 前会長 参加され 、 最 後 ま で 同 窓 会 を 思 い 持ちなが ら 同 窓 会 活 動 に 早 く か ら 桜井さ ん は 母 校 へ の 熱 い 思 い を ぎるお別 れ で し た 。 た。享年 七 十 五 歳 。 余 り に も 早 す 臓癌のた め お 亡 く な り に な り ま し 文子さん が 昨 年 十 二 月 二 十 四 日 膵 第七代 東 京 鶴 翔 同 窓 会 長 桜 井 主催で開催することに改め、以後 に総会実行委員会の引継会を会長 う失態は殆ど解消しました。さら 告協賛金や会費等の二重請求とい 体制に改めました。この結果、広 会・事務局内に取り込み自主運営 窓に依存していた会計事務を役員 特に荘内銀行東京支店勤務の同 発展に尽力されました。 も顧問として東京同窓会と母校の をいつまでも惜しんでおりました。 さんが参列し、桜井さんとの別れ とも大勢の同窓やふるさと会の皆 行われたお葬式には通夜と告別式 た。それを象徴するように、歳末に はいつも笑い声が絶えませんでし さは特に後輩に慕われ、その周り 桜井さんの明るさと面倒見の良 ら楽しんでおられました。 束が強まる実行委員会の姿を心か 言され、本番が近づくにつれて結 らも実行委員会に毎回出席して助 愛し続け た 一 生 で し た 。 毎月の定例委員会には役員・事務 ︵昭和 平成十 年 六 月 二 十 日 の 二 十 九 回 心からご冥福をお祈りします。 渡部 洋 総会で女 性 初 の 会 長 に 選 出 さ れ 、 局も出席し実行委員会と連携して 年 回卒︶ 桜井文子さんの 早すぎる死を悼みます レゼントしていただきたい。そし 63 団地の一角 に 三 年 住 ん で み て 気 が 31 68 以来四期 八 年 会 長 と し て 、 そ の 後 [7] 36 たことが、漱石日記に載っている。 第十二回卒に、首席を通した無 母校の前 身 で あ る 荘 内 私 立 中 学 感謝しきれぬ気持ちであると述懐 日本第一の教育を受けたことに、 稿を求められ、この最高の中学で 判で戦犯になり、対照的な人生を 戦時中迫害を受け、大川は東京裁 思想家・大川周明がいる。黒崎は 草創期の荘内中学校 阿部 博行 ︵昭和 年 回卒︶ 校が、近代 教 育 を 嫌 う 旧 藩 勢 力 の たどった。陸軍中将・石原莞爾は 教会の聖書学者・黒崎幸吉と右翼 妨害をはね の け 開 校 し た の は 、 一 第十五回生である。 の気持ちを、﹁檻から解放されたる している。 と改称され た 。 当 初 は 中 途 退 学 者 る歓喜の情﹂が心底に湧き上がっ と同期の小倉金之助︵数学者︶は、 野獣の幸福を感じ﹂﹁溌刺新鮮な 内の哲学三羽烏と称された。伊藤 たと回想している。多くの若者が 宮本和吉︵第九回卒︶ ・阿部次郎 が多く、第 三 回 ま で の 卒 業 生 は 一 化学の授業には失望したが、英語 封建的な家制度の重圧と闘い、郷 八八八年七 月 一 日 で あ る 。 九 年 後 桁である。 はよい教師がそろっていたと回顧 に旧七ツ倉 跡 の 現 在 地 に 移 転 し 、 庄内一円 か ら 俊 秀 が 集 ま り 、 有 している。校長が東京帝大の夏目 大川は﹃荘内風土記﹄ ﹁序﹂で、 為な人材を 輩 出 し た 。 第 六 回 卒 の 関を出たのである。 中学を卒業し、熊本に遊学した時 三淵忠彦︵ 初 代 最 高 裁 判 所 長 官 ︶ 金之助に英語教師の推薦を依頼し そのタイトルも含めて強く惹かれ ました。もちろんその主張すると 同窓会 は 県 人 会 と は 違 う 懐 か し とになり ま し た 。 にも誘わ れ そ し て 寄 稿 を と い う こ と旧交を 温 め 、 昨 年 の 四 〇 回 総 会 今総会の 実 行 委 員 長 で あ る 栗 本 君 イア後時 間 の 余 裕 が 出 来 た た め 、 新潟市 に 住 ん で お り ま す が リ タ と言われている﹁我々はどこから きました。ゴーギャンの最高傑作 美術館でのゴーギャン展を見に行 一昨年、たまたま東京国立近代 形を得て過ごした仲間意識です。 分探しの時代を、ともに共通の手 は何を求めているのか﹂という自 か・自分は何をしたいのか・自分 校における同窓会は﹁自分とは何 時間を持てることを喜び堪能した このようなあらたな自分探しの た思いが募ってきます。 ともにすることで、当時とは違っ を過ごした仲間とふたたび時間を りませんでしたが、今、同じ時代 えたりふり返ったりする余裕はあ 現役時代には日常に追われ、考 私の心には強烈に響きました。 いうことでしょうが、その当時の 年 回卒︶ さがあり ま す 、 県 人 会 に お け る そ 来たのか・我々は何者か・我々は ︵昭和 れは、祖 父 母 や 父 や 母 、 兄 弟 な ど いと思ってます。 感 慨 小杉 善宏 との、家 庭 も 含 ん で の ふ る さ と の どこへ行くのか﹂という作品に、 ころは、根源的ないのちの叫びと 懐かしさ で あ る と 思 い ま す が 、 高 73 は、後日母 校 か ら ﹁ 思 い 出 ﹂ の 寄 回卒︶は各帝大の教授を勤め、庄 73 ・伊藤吉之助︵第十一 一九〇〇年 四 月 、 県 立 荘 内 中 学 校 ︵ 第 十 回 生 ︶ 41 41 [8] ついでましたのー﹂と。この一言 が全てを物語っていた。 いよいよ運命の一戦、敵は部員 セラーにな っ て い る 。 私 に は ド ラ 題材にした ﹁ も し ド ラ ﹂ が ベ ス ト 高校野球 の 女 子 マ ネ ー ジ ャ ー を 勝、東北大会初戦も突破し、実力 的な強さで勝ち進み、県大会で優 野球部は誰もが予想し得ない圧倒 であった。常に三回戦ボーイの我 り甲子園への道は拓かれない時代 東北勢はこの大会で優勝しない限 硬式球には、百八の縫い目が刻 まである。 も我が校には、そっぽを向いたま 以来、勝利の女神は四十六年間 しドラ﹂は終わった。 なしく二対五で敗れた。私の﹁も すがの女神もサジを投げ、善戦む 総勢十三名の特攻隊、これにはさ 年 回卒︶ ッカーならぬ、野球ドラマの﹁も を遥かに超えた快進撃が続いた。 まれている。長い年月を経て色褪 ︵昭和 しドラ﹂がある。﹁もしあの時勝 これはきっと、先人達の流した汗 白 球 小野寺光弥 っていたな ら ﹂ … あの時と は 、 昭 和 三 十 九 年 秋 、 と涙に、勝利の女神がくれた御褒 百名を擁する実力部隊、一方は、 1の秋田高 73 ﹁全国高校 野 球 東 北 大 会 ﹂ 準 決 勝 41 抜出場枠は、北海道・東北で3校、 は?﹂と聞かれた小池監督は、口 への夢は大 き く 膨 ら む 。 当 時 、 選 校。もしこ の 試 合 に 勝 て ば 甲 子 園 戦の時。相 手 は 実 力 ジオの優勝インタビューで﹁勝因 美であろう。いみじくもNHKラ 叫んでいる。 ﹁早く甲子園に連れて行って ﹂と 断 ち 切れず、 私の部屋の片隅 で せた記念の白球は、未だに煩悩を が飛び交う東京鶴翔同窓会に参加 するようになり、 年が過ぎよう としています。初めて海運会館に 来た時は先輩方の元気な姿に圧倒 み説明を続 け て い ま し た 。 当 然 ② コマである 。 私 は ① を 1 マ ル と 読 都立高校 に お け る 職 員 会 議 の 1 のか?それとも偶然なのか考えま です。何かこれには地域性がある 山形大学で教壇に立っていたそう 方をする人がいました。聞くと、 ださい。そして、来年のために、 同期生は勇気をもって集まってく は 期が担当になります。是非、 増え楽しくなってきました。来年 ごとに先輩方だけでなく、後輩も されたものでしたが、会を重ねる は2マルで す 。 会 議 が 終 了 し た と 今年の会に足を運んで、﹁語ろう マル1か? 1マルか? 坂田 敬一 ︵昭和 年 回卒︶ 10 何かつながるものを感じました。 74 ころで、 先 生 が 飛 ん で き ま し た 。 し た が 結 論 は 出 ま せ ん 。 し か し 、 42 内2校は常 に 北 海 道 勢 の 指 定 席 で 、 に 手 を 当 て な が ら ﹁ ん で す の ー 、 No. 先生は生 徒 達 か ら 厳 し く 指 摘 さ ﹁先生も1 マ ル だ よ ね 。 やっぱり鶴 響きは実に心地よいものです。今 山形、庄内、鶴岡という言葉の 去・現在・ 未来について語り ま せ 青春と庄内﹂のテーマのもと、 過 74 岡だ!﹂﹁ハァ∼?﹂ これまでに Y れた経験があったのでした。恥ず 籍があっただけで毎年この時期に、 素晴らしい響きを放ってくると確 とのしらべ﹂です。鶴岡南高校に 年のテーマが﹁心の響き、ふるさ つれて、心の、気持ちの鎧が溶け、 んか。絶対、青春と庄内を語るに 信しています。 かしながら 、 私はそこで明確に﹁マ 庄内弁で昔なつかしい共通の話題 ル1﹂と認 識 し ま し た 。 先 生 は Y 鶴南の後輩 で す 。 昨 年 、 同 じ 読 み [9] Y 高校時代の思い出 斎藤 晋 ︵昭和 年 回卒︶ の政治と統治体制、さらには、マ スメディアの役割にも大きな影響 りますこと か ら 、 母 校 で の 物 理 授 すが、物理 学 教 育 ・ 研 究 の 場 に お 余裕もなく 日 々 を 過 ご し て お り ま ております 。 ま だ 過 去 を 振 り 返 る 認識し、月 日 の 流 れ の 早 さ に 驚 い たこと、本 寄 稿 に あ た り ま し て 再 私の高校卒業間際に起きた社会 と思っております。 ので多少、気がかりですが、杞憂 の点での母校の現状を知りません 少が取りざたされております。そ 物理履修者の減少と物理教員の減 考えております。昨今、高校での きな影響を与えていただいた、と ことは、その後の私の進路にも大 割も変化する時代にありまして、 かも知れません。教育と知識の役 内の立場も大きく変化しうる時代 れておりますので、鶴岡および庄 明治維新以来の変革の時とも言わ 的認識が重要課題に思われます。 が国にとりまして、近・現代の史 終結に未だに対応できずにいる我 れてなりません。 検証が終わっていないように思わ を与えてきたと考えますが、まだ 業のこと、 や は り 思 い 出 す こ と が 母校の益々の発展を祈念し筆を置 母校を卒 業 し て 年 も 経 ち ま し あります。 村 田 先 生 に よ る 物 理 の 的な出来事として、ロッキード事 かせていただきます。 年前の冷戦の 授業で、数 学 で 学 ぶ よ り も 早 く 微 件も思い出します。この事件は、 先生達にも強く生きていたのです。 高校を卒業して 有余年が過ぎ、 います。 1 日 の 練 習 が 終 わ り 、 顧 1年生の 合 宿 が 特 に 記 憶 に 残 っ て い文を寄 せ さ せ て い た だ き ま す 。 制的な依 頼 に 屈 し て 、 清 水 か ら 拙 んでいま す 。 今 回 は 同 級 生 の 半 強 が、私は 現 在 、 静 岡 市 の 清 水 に 住 東京鶴 翔 同 窓 会 の 会 報 な の で す たまらなく不安な気持ちで﹁早く まま生きて湯野浜に着けるのか、 頭をぶつけ、前後に転がり、この た。毎年、夏合宿がありましたが、 加茂坂では横になった体制のまま 高校時 代 は 、 3 年 間 水 泳 部 で し 着け、早く着け。 ﹂と、祈っていま れられました。急なカーブが続く 2人で狭い真っ暗なトランクに入 言い渡し、私と小柄な同級生は、 トランクさ乗れ。 ﹂ と、 躊躇なく ないほど輝いていた真っ白な雪。 ると、太陽の反射で目が開けられ 雲もない真っ青な空。公園地に入 の天気になった静かな朝。一点の 日も雪が降り続いた後、久しぶり 通って通学していました。冬、何 城跡の内堀とテニスコートの間を 南高には、毎朝公園地の南から、 人乗り。そこで先生は﹁1年生は、 岡の風景があります。 を合わせて7人。しかし、車は5 今でも忘れられない鶴岡の風景で 年 回卒︶ 世界や日本の色々な風景を見てき 問の物理 の 先 生 が 部 員 を 湯 野 浜 温 ましたが、冬になると思い出す鶴 泉に車で 連 れ て 行 く こ と に な り ま した。当時、﹁質実剛健﹂の校風は、 す。 我が心の鶴岡 田辺 礼士 ︵昭和 20 30 した。行 く こ と に な っ た の は 先 生 83 その後、現代に至るまで、我が国 83 51 積分が用い ら れ 、 ま た 、 特 殊 相 対 51 論の一端ま で 講 義 し て い た だ い た 35 [10] ここにはすべてがあった 庄内の自然と人に癒されて 藤原 絹子 ︵昭和 年 回卒︶ の山奥で3 を越す雪の中、子犬 しいです。 2年前に厚労省を辞めて、鶴岡 に戻り、ゆらハートリトリートと 称して様々な活動を展開していま すが、基本は﹁庄内の自然に遊ぶ﹂ 内の地元 の 自 然 の 中 で 、 森のツアー も又良しです。 のように皆で遊び転げました。雪 ます。 を置くだけで、すべてが充たされ ことです。時間を作って自然に身 や水辺で の カ ヌ ー 、 海 で の 夜 光 虫 頃に、私は持てませんでした。車 こういう時間、実は から北米、南米、世界中 カ国以上 仕事柄、アジア、欧州、アフリカ 観察など を や っ て き ま し た 。 四 季 渡ってい る と き 、 こ れ 以 上 の 幸 せ を見なが ら 静 か な 湖 面 を カ ヌ ー で ている音 が し ま す 。 雪 の 残 る 月 山 当てると ゴ ォ ∼ ッ と 水 を 吸 い 上 げ れる各地 の ブ ナ 原 生 林 。 木 に 耳 を 自然体験とともに、酵素玄米& そういう意味では今が最高です 素晴らしい土地と人がいます。私 んとうにどこにも負けないくらい 晴らしい人がいますが、庄内もほ 行けなかったからかもしれません。 どこも素晴らしい土地があって素 もなかったし、行きたいところに の恵みに感謝しながらここで遊ば ていますが、庄内の食材の豊富さ、 たちの誇りです。これからも自然 菜食の料理教室や食事会も実施し せていただきたいと思っています。 旅し、国内もほとんど回りました。 があるだ ろ う か と 思 い ま す 。 海 に おいしさには目を見張るばかり。 中とはいえないのだ。 総会に出席している同窓生の皆 さんは、今まさにこの﹁青春時代﹂ を過ごしている方々ばかりとお見 まり、その 内 容 に 感 銘 し 大 い に 勇 し大切にし て い た 。 戦 後 国 内 に 広 が偶然この 詩 と 出 会 い 自 身 で 翻 訳 創作した。 山 形 大 学 工 学 部 の 先 生 〇年頃に﹁ 青 春 ﹂ と い う 題 の 詩 を サミュエ ル ・ ウ ル マ ン が 一 九 二 何事に対しても関心を持ち、積 を青春と言うのだ。﹄ 振り捨てる冒険心、こう言う様相 熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を た創造力、逞しき意志、炎ゆる情 はなく心の様相を言うのだ。優れ きるかもしれない。 支援、新しい仲間を得ることがで 紹介し合おうではないか。助言や ジしようとしていることなども、 んでいること、これからチャレン 勇猛心、冒険心﹂を持って取り組 いながら、 ﹁創造力、意志、情熱、 十代のいわゆる青春時代を語り合 受けする。何十年も前の︵ 失礼 ︶ 気づけられ た 人 は 少 な く な か っ た 。 極 的 で あ り 、 挑 戦 的 で あ る 精 神 を その冒頭部分を紹介する。﹃ 青 いと聞く。 を座右の銘 と す る 企 業 ト ッ プ が 多 動・無関心であれば、青春真っ只 あっても、何事にも無気力・無感 る限り青春を謳歌できる。十代で なっても、この気持ちを持ち続け ける限り、人の若さは失われない﹄ 勇気と壮大そして偉力と霊感を受 地より、神より、人より美と喜悦、 ウルマンはこう締めくくる。﹃大 きょうだ 松下幸之助 氏 を 始 め と し 、 こ の 詩 ﹁ 青 春 ﹂ と 呼 ぶ の で あ る 。 何 歳 に ますます青春を 謳歌しようではないか 鈴木 良清 ︵昭和 年 回卒︶ 新鮮なものがとても安くて、おい 20 沈む夕陽 。 飽 く こ と な く 見 続 け て 10 しまいま す 。 今 年 の 大 雪 も 、 温 海 40 代・ 代の 折々に素 晴 ら し い 表 情 を 見 せ て く 201 0 年 春 か ら 毎 月 毎 月 、 庄 83 84 春とは人生 の 或 る 期 間 を 言 う の で [11] 51 m 52 月の光を見て 斎藤 匠 ︵昭和 年 回卒︶ 93 をしています。このご縁で東京鶴 翔同窓会に入会させていただくこ ととなりました。 の詩に、な ぜ か 惹 か れ 、 改 め て 読 挙頭望山 月 低 頭 思 故 郷 牀前看月 光 疑 是 地 上 霜 ら﹁静夜思 ﹂ を 目 に し ま し た 。 らしている 際 に 、 ふ と し た こ と か 高校を卒 業 し 、 鶴 岡 を 離 れ て 暮 習っただけ で し た 。 にも留めず に 、 漢 詩 の 一 つ と し て を聞きまし た 。 当 時 は そ れ ほ ど 気 る鶴岡市の出先機関としての業務 事務所勤務となり、首都圏におけ 昨年の4月に異動で鶴岡市東京 えています。 世界が表されているところだと考 こそ見られるものだと感じ、詩の ては、自然の豊富なところだから 星、月夜に照らされる山などを見 窓越しに見る月の明るさ、煌く い出すときがあるのです。 明るい月夜の際に良くこの詩を思 お願い申し上げます。 どうぞお力添えくださいますよう そうの輝きを放つように、皆様 皆さんのふるさと鶴岡市が、い 考えます。 は改めてふるさとの良さについて 東京で、そして鶴岡で月を見て のだと思います。 さまざまな点で注目をあびている じています。自然、文化、食など したが、鶴岡の認知度が高いと感 けたあたりで庄内モードになりま す。 日々の生活に追われていると、 いな景色 が 紹 介 さ れ 、 評 価 さ れ て す。庄内 の 美 味 し い 食 べ 物 、 き れ 取り上げ ら れ る こ と も し ば し ば で し、新聞 ・ 雑 誌 で 鶴 岡 の グ ル メ が ドラマの 舞 台 に な っ た り も し ま す コマーシ ャ ル を よ く 目 に し ま す 。 テレビで 鶴 岡 、 酒 田 の 旅 行 番 組 や から、空港内の通路を歩き、階段 言に変わります。飛行機を降りて なぜか空港に降り立つと自然に方 庄内を離れて、普段の会話も標 よろこんでいただけます。 かぶ﹂を、お土産に差し上げると に、お菓子の﹁古鏡﹂や﹁あつみ に住み、十五年が経ちました。最近、 なにか縁を感じます。そういう方 母が庄内出身だという人が多く、 が大きくなる頃も、ほっとする場 と言ってたくさん食べます。息子 くらいしか庄内弁を話さないのに、 風に変わり、魚や野菜をおいしい 準語になり、両親に電話するとき 所であり続けてもらいたいと思う 帰省して1日経つと発音が庄内弁 4歳の息子も庄内が大好きで、 なのかなあと最近思います。 ふるさとというのは、こんな感覚 ほっとするものを感じます。心の すが、それでも帰省すると、何か しく思い出す機会も少なくなりま 年 回卒︶ み直したの で し た 。 レ 点 な ど の ふ みない 心のふるさと 薬袋 綾 ︵平成 いること を 地 元 出 身 者 と し て い つ 今日このごろです。 高校時代やそれまでのことを懐か も大変誇 ら し く 思 っ て い ま す 。 ま の下で、おせんべいのかごを見つ 高校卒 業 後 、 庄 内 を 離 れ て 東 京 た、東京 で も 周 り に 、 両 親 や 祖 父 103 り方などは と う に 忘 れ て い ま し た 高校の授業で、李白の﹁静夜思﹂ が、就職し、鶴岡に帰ってからも、 こちらで生活し1年が経過しま 61 8 [12] 第40回東京鶴翔同窓会総会・懇親会収支決算書 (平成22年1月1日∼12月31日) 三井照代先生と 『校歌舞』 を踊ろう 母校で教鞭をとられた三井照代(旧姓・吉 続)先生と一緒に『校歌舞』を踊りましょう。 今は幻になった踊りをこの際、完全マスター しておけば、何かの役に立つかも? 校歌も 一緒に歌いましょう。 ち こ 門脇千子 懐かしの歌 (1)一 般 会 計 (単位:円) 収 入 の 部 科 目 支 出 の 部 金 額 金 額 535,285 総会費支出 2,653,374 総会費収入 1,836,000 事 務 費 1,394,015 年会費収入 1,093,000 (印刷費) 684,080 広告費収入 1,370,000 (通信運搬費) 539,365 雑収入等 319,013 (旅費交通費) 20,000 (祝い金) 190,000 (振込料金・手数料) 55,615 (役員会臨時会費等) 129,000 (雑 費) 94,955 13 会 議 費 599,490 0 広 告 費 21,000 前期より繰越 (預金利息) 特別会計繰入収入 幹事年 83 回(51 年卒)の門脇千子さんは ジャズシンガーの大御所・マーサ三宅に師事 してはや?年。 趣味の域を超えた歌唱力を 生バンドの演奏とともにご堪能あれ。 曲目 は、当日のお楽しみ 科 目 ホームページ管理費 50,000 その他祝い金 130,960 特別会計繰入支出 0 次期繰越金 合 計 5,153,298 304,459 合 計 5,153,298 一般会計 次期繰越金内訳 現 金 高山文夫先生の写真展示 秘かなブームです。 だだちゃ豆フリーズドライ 評判が評判を呼んでます。 この風味がたまりません。 一石二鳥のおいしさです。 こどもから大人まで、お手軽おつまみ。 ※食べ足りないものや漬け物、その他は産直コーナーでお求めく ださい。冷凍のだだちゃ豆は、『解凍レシピ』を差し上げます。 第41回 東京鶴翔同窓会 銀鱗波間に煌めき躍り 白鷗雲間に羽ばたく所 楽しく学び 愉快に遊ぶ 千嘉子 章子 逸郎 智 末彦 新太朗(73回生) 昭和 51 年卒… 江部信夫 (卓) 、渡邊春信 (写) 、 佐藤雄喜 (山) 、奥山宏子 (庭) 、 中西 庸 (放) 、門脇千子 (放) [13] 4,256 仮払金(次年度実行委員会前渡金) 160,000 合 計 304,459 (2)特 別 会 計 (単位:円) 支 出 の 部 収 入 の 部 前期より繰越 だだちゃ豆焼酎 113,562 普通預金・三井住友銀行 科 目 食べ始めたら、とまらない。 ふるさとに想いを馳せながら 召し上がって下さい。 8,912 普通預金・荘内銀行 母校で教鞭をとられた高山文夫先生 (昭 38∼46 年)の写真を展示します。 ダイナミックでしかも繊細な自然を感 じて下さい。写真集の即売も致します。 冷凍だだちゃ豆 17,729 郵便振替(口座残高) 金 額 科 目 2,269,845 預金利息 0 一般会計繰入 0 金 額 一般会計繰入支出 0 次期繰越金 2,269,845 (普通預金) 0 (定期預金・荘内銀行) 2,269,845 (預金利息) 合 計 2,269,845 合 計 2,269,845 本会の収支決算について、厳正に監査を実施したところ、その執行は適正であると 認められます。 平成23年4月1日 会計監事 村田 敏 年会費(維持会費)納入は郵便局の 機械振込(ATM)で 手数料は40円違います 印 第40回 東京鶴翔同窓会総会 出席者一覧 昭15 年 宮 富哉 渡會 春雄 18 年 中村 信雄 渡部 士郎 19 年 土岐 良次 上野 識 20 年 皆川 健行 五十嵐文夫 尾形 昌夫 21年 佐藤 四良 佐藤 良三 富樫 泰教 23年 伊東 良次 柴田 卓爾 24 年 菊池 安行 植木 清哉 25 年 岡本英一郎 加藤 五郎 丸谷 錦吾 鈴木 雄三 26 年 窪田 騰 早川 恒子 増田 幸子 板垣 清 匹田 誠 本間 章介 27 年 海瀬 久靖 桑原 貫次 佐藤 成生 斎藤 優三 石井 忍 石橋 幹雄 池田 輝之 渡部 啓三 28 年 加藤 誠 小杉 信 杉本 欽也 稲船 幸純 32 年 宮本 慶子 菅 徹 茂木 勲 29 年 権藤 泰浩 小花 吉彦 菅井 誠一 兼子 久 犬塚 恒士 五十嵐直範 生田 俊一 菅原 健 五十嵐豊雄 難波 茂丸 青木 祐二 高橋 恵子 佐藤 正吾 友澤萬里子 陶山 哲夫 佐久間照正 佐藤 正造 33 年 阿部 文治 本間 俊英 佐藤 奎一 山中 昊吉 佐藤 安行 林 広弥 三浦 信次 小田 里子 小松原隆治 38 年 伊藤 進康 山口 久 寒河江孝允 山口 弘士 大澤 弘之 渡部 明 池田 ふみ 本間 義信 五十嵐房夫 酒井 忠久 池田 初子 澤井 俊弥 後藤 広喜 秋庭 督 30 年 磯野 国夫 齋藤 正幸 佐藤 高志 小鷹 光雄 34 年 安野 正紀 細野 美保 小林 典子 奥山 綏 奥田 文夫 足達 哲郎 小林 啓二 小林 文行 上野 藤吉 五十嵐隆二 大川 政紀 菅原 司 太田 司郎 瀬尾 邦彦 工藤 司朗 中嶋 茂 板垣 正明 太田 良弘 成田 仙一 高橋 進 35 年 佐藤 幹生 地主 忠夫 斉藤 輝峰 高橋 徹 中西 一角 石崎 庄子 佐藤 新市 富樫 秀 三浦 五八 36 年 冠木 敦子 長江 和子 大沼 悌三 小鷹 悌二 今間 洋一 尾形 文子 渡会 偵祐 小田 政昭 佐藤清四郎 福原 正和 渡部 政喜 大川 重一 荘司 保治 芳賀 俊郎 半沢 健雄 齋藤 淑人 冨樫 富雄 大川 諭 竹屋 勲 木根淵光夫 庄司 誠 渡部 洋 飯塚 進 39 年 阿部 良一 木根淵直子 陶山 宏 富樫 薫 金子 勝男 木村勇次郎 冨樫 惇 鈴木 清 齋藤 豊三 本間 敬士 金内 彰 31 年 榎本 堯 岡田 恒祐 櫻井 孝子 五十嵐耕三 岡野 順子 上林 正己 41 年 齋藤 偕也 鎌田 喜子 平山 端 桜井 文子 37 年 犬塚 吉士 菅原 克己 伊藤加奈子 工藤 雅子 前島 京子 伊藤恵美子 諏訪 浩 大滝 恒雄 工藤 良作 相馬 省記 栗本 浩 中山 千史 高橋トヨセ 黒田 俊男 五十嵐 丕 佐藤 征洋 40 年 阿部 正浩 荒田 盈一 富樫 稔 佐藤 和敏 安達 昌夫 小杉 善宏 平田 宏 本間 克彦 斎藤 英士 伊達由美子 渡部 逸郎 土田 利彦 永井 憲雄 橋本 暁 成澤 正幸 平山 静夫 古野 章三 嶋 勝平 42 年 佐藤 秀子 坂田 敬一 木戸美記子 43 年 海藤由紀夫 阿部 正 岡部 次樹 丸田 孝明 五十嵐清助 佐藤 英一 坂本 妙子 菅野 京子 石黒 義昭 中島 恵子 梅津 千里 44 年 小林 保博 45 年 伊藤 豊 今野 千保 佐藤 幹夫 佐藤久仁子 三浦 一郎 杉山 恵子 菅原 誠二 村田 敏 坪井 真理 梅津 準士 46 年 奥村 智子 笹浪真智子 小林 桂子 47 年 酒井比呂子 49 年 加藤 悟 佐々木晶子 小野田眞子 登坂 恵理 50 年 今野 りつ 佐藤 研 斎藤 宏之 若木 保 大瀧 陽悦 渡部 尚登 野崎 嘉子 林 みき 52 年 鈴木 良清 53 年 伊藤 秀夫 秋葉 守 大泉 正 福原南津子 中込真知子 55 年 飯野 眞也 小池 一史 石川 透 相沢 政男 56 年 山村 文夫 小池 宏忠 57 年 岡本 あい 関口 太郎 小泉 智和 渡部 英一 60 年 小野寺 修 中島 浩子 61 年 齋藤 匠 63 年 迎田 洋 平10 年 中村 正樹 ………以上254 名 『鶴友会ゴルフ』 鶴翔会会員がゴルフを通じて親睦を深めるための会で、 創立は昭和 47年(1972年)。現在、登録 74 名 。会長は菅 徹 会長 (第 6 代 、69回 ) 。初代 会長 は 阿宋保次郎氏(43回)。 年間 2 回開催され、 春は鶴翔単独 。秋は城畔会(鶴工OB 会) と合同(別称=鶴栄会、鶴岡に関係あれば、誰でも参加で きる会 )。この春の開催で 76 回目。豪華賞品も盛りだく さん。新メンバー大歓迎 【問】090-3816-3367 事務局 = 大泉正(85 回)まで。 『庄内うたう会』 12 年の歴史をほこ る同好会。 皆が歌い たいものを10 曲以上 バンバン歌っている 気 楽なうたう会 。歌 曲、歌謡曲、民謡、童 謡、 ポップス、ジャズ、 シャンソンとなんで もあり。鶴岡を中心 に音楽活動をされて いる田中 宏さん (95 回生)が毎回鶴岡から指導にきてくれるという贅 沢さ。BGM、茶菓子つき休憩時間も最高の癒しの時間。毎月一回土曜 日開催。若手、大歓迎 【問】03-3488-6435(宮本) 『鶴翔塾』 1997 年 3 月に創設。生涯学 習と相互交流を目的とし、そ の会報は『South Wing 南翔』 。 鶴翔塾開催の模様をお知らせ するとともに、自由投稿の場 として、ジャンルを超えた同 人雑誌を目指す。講演内容は 第 1 回の「能とシェークスピ ア」宗方邦義(6 0 回)氏から第19 回の「日本の食文化を酒から語る」佐 藤一良 (85 回)氏まで。知的所有権、数学、マンガ、がん、算数、外国 人問題、現象学、宇宙天気予報、映画、陶芸、書道、写真等など…。 講師の方も 51回生から 86 回生、哲学者、政治家と多肢多彩。次回が 20 回記念講演。 【問】090-3816-3367 事務局 = 大泉正(85 回) まで。 3月の東日本大震災におきまして、 被災されました方々には、 心より お見舞い申しあげます。一日も早く復興され、 お元気になられます よう、 お祈りしております。 第41回東京鶴翔同窓会・実行委員会一同 (代表・栗本浩/73回生) [14] 22年度 年会費納入者名簿 (卒業年次別) 4 修 川島幸之輔 旧 職 員 蟹谷 栄一 昭10 年 鈴木 保三 川村 徳男 11 年 広瀬 忠三 14 年 高木 正雄 15 年 宮 富哉 田中武次郎 渡會 春雄 阿部 玄 17 年 西海 哲雄 桑島 栄輔 菅原 藤夫 18 年 渡部 士郎 古谷 文夫 土田 茂 19 年 上野 識 黒谷 正敏 野尻佐太右エ門 佐藤 昭一 佐藤 隆 菅原 隆輔 土岐 良次 大屋 恭士 五十嵐正隆 20 年 尾形 昌夫 旅河 伸介 皆川 健行 深野 耕作 五十嵐文夫 西田 昭治 助川 孝吉 日向 豊雄 五十嵐藤一 寒河江辰巳 佐藤 久治 21 年 斎藤 伸 佐藤 四良 斎藤 茂三 富樫 泰教 佐藤 良三 長谷川久一 菅原 三郎 中里 欣一 吉田 晃二 23 年 飛塚 忍 竹内 伸吉 伊東 良次 柴田 卓爾 24 年 菊池 安行 伊関 孝 渡部 昇一 村井 正治 阿部 善之 半田 一郎 25 年 舩岡 末利 丸谷 錦吾 伊藤茂登二 岡本英一郎 稲津 淳 門野 卓 佐々木睦雄 斎藤 正 細井 地久 鈴木 雄三 加藤 五郎 26 年 伊藤 幸也 皆川 英明 風間 蓉子 奥田 隆男 窪田 騰 阿部 純二 田部井恭子 川島 協 佐藤 俊彦 増田 幸子 長濱 自明 廣瀬 信行 長谷川 実 斉藤 祐輔 [15] 渡部 瑞夫 板垣 省吾 杉本 皓一 匹田 誠 早川 恒子 山口 鶴子 横山 隆治 地主 幸右 野村 善吉 本間 章介 藤盛 郁子 斉藤 健三 板垣 清 梅津 迪子 27 年 石田 晋 西 秀 橋本 信子 斎藤 信次 山越 廉 増田 浩子 松本 直明 佐藤本次郎 佐藤 瑛子 佐藤 成生 佐藤美喜子 丸山 智子 桑原 貫次 渡部 啓三 富樫 近一 長谷川勝一 犬塚 庸子 竹内 達夫 斎藤 優三 池田 輝之 海瀬 久靖 石橋 幹雄 大滝 哲郎 石井 忍 鈴木 浩 佐藤 邦夫 斎藤 祥子 山口 富 工藤 泰久 28 年 小杉 信 杉本 欽也 藤滝 俊 加藤 誠 村上 文昭 阿部 正 茂木 勲 佐藤 純子 鈴木 二郎 佐久間美津雄 長南芙美子 清原 一太 29 年 川島 譲 田中 力 福井 博 権藤 泰浩 犬塚 陽一 大倉 弥生 江川美津子 三浦 郁也 佐藤 千枝 坂本 玲子 上原 圭子 長濱 良子 中村 姚 大澤 弘之 笹原 謹二 菊池 晴 村上 宮子 村井三千代 小田 里子 船岡 栄子 石川 宇女 池田 ふみ 金野 敏子 弘中 郁子 宮口 米子 五十嵐直範 長谷川きみ子 山中 昊吉 池田 初子 五十嵐豊雄 相馬 和彦 佐藤 啓輔 南 かね江 石川 悌二 渡辺美枝子 佐藤 四郎 30 年 奥田 文夫 高橋 徹 石田 和子 萩原 力 菅原 敬子 山口 武 河野シゲ子 大川 重一 五十嵐隆二 鈴木 清 瀬尾 恒雄 田澤 政一 佐藤 玲子 飯塚 進 佐藤 俊祐 磯野 国夫 佐藤 新市 富樫 薫 三浦 五八 高橋 進 佐藤 雅博 竹屋 勲 若林 庸夫 廣瀬木ノ芽 池田 惇二 武田 友樹 岸田 光祐 大谷 樹溢 小鷹 悌二 愛川 正一 石井 勉 奥山 綏 工藤 司郎 小田 政昭 31 年 榎本 堯 鎌田 喜子 桜井 文子 中山 千史 重山 貞夫 櫻井喜久恵 古野 八郎 本間 克彦 岡田 恒祐 畑田 治範 大滝 恒雄 富樫 稔 大瀧 幸克 板垣 善博 五十嵐憲治 中村 俊夫 五十嵐 信 渡部 真一 平石 玲 本間 光二 礒見 明子 中村 君子 志賀 道武 御橋 廣眞 外池 連子 32 年 友澤萬里子 岡部鉄太郎 鑓水 宣子 大井 浩司 真島 知夫 榎本 克弘 中村 愃 新井 健一 河野 景子 渡部 賢 永澤萬里野 小谷野範子 真嶋 美弥 鈴木 忠昭 鈴木 啓五 鈴木あさ子 斎藤 弘 佐藤 忠夫 佐藤 隆三 生田 俊一 難波 茂丸 宮本 慶子 小花 吉彦 伊藤 隆義 33 年 小松原隆治 後藤 武 佐藤 安行 松田 義幸 渡部 明 齋藤 俊輔 阿部 文治 齋藤 正幸 板倉 利 本間 義信 宮崎 忠 高橋 進一 佐藤 隆 34 年 水口 武二 安野 正紀 足達 哲郎 鈴木 一 村田 良 佐藤 武雄 橋本 健二 佐藤千久郎 大川 政紀 渡部 和夫 佐藤 捷実 三矢 正士 鷲田 誠治 中嶋 茂 渡部 宗助 百瀬 義広 板垣 正明 粕谷 英樹 笹原 龍三 35 年 富樫 秀 近藤 進 猊倉 祐子 阿部 昭雄 坂本 紀夫 富樫 喜孝 池田 晃 粕谷 淳二 佐藤 幹生 岡田 宏 阿部 茂弘 寺嶋 成晃 稲垣美恵子 長谷川正晴 36 年 冨樫 淳 陶山 宏 大川 諭 荘司 保治 菅原 実 佐藤清四郎 赤松 景正 櫻井 孝子 小野寺芳彦 冠木 敦子 真島 浩子 高島 由美 本間 敬士 本間 正士 佐藤 久喜 黒坂 惇 徳永 功 渡部 洋 荘司 幸夫 多田 章子 渡部 栄雄 栗田 一洋 今間 洋一 相田 進 平山 端 神保 勝彦 37 年 斎藤 英士 高橋トヨセ 菅井 誠一 菅 徹 林 広弥 林 茂一 堀 正俊 遠藤 裕光 犬塚 吉士 黒羽根恒子 高宮 守男 石川 二郎 古村 一枝 工藤 雅子 佐藤 征洋 佐藤 和敏 菅原 健 青木 祐二 陶山 哲夫 岡田 睦 今野 彦雄 木村 清彦 三浦 勝 梅崎満洲夫 38 年 芳賀 俊郎 尾形 文子 太田 良弘 中西 一角 地主 忠夫 福原 正和 庄司 誠 富樫 次男 志賀 嘉美 佐藤 高志 矢吹 静子 太田 司郎 長江 和子 上林 治 五十嵐房夫 大橋 貴恵 寒河江孝允 小林 啓二 中野不二男 伊藤 進康 土岐 寛 菅原 司 土井征一郎 後藤 広喜 林 節子 木村 輝子 佐藤 洋 39 年 上林 正己 金内 彰 五十嵐耕三 菅原 克己 相馬 省記 前島 京子 阿部 良一 佐藤 祐一 山田 悟 金子 勝男 五十嵐 功 砂田 茂宏 板垣 勝男 小松 茂樹 40 年 渡会 偵祐 成田 仙一 小鷹 光雄 兼子 久 土岐 紀子 岩城 清一 犬塚 恒士 小林 敬己 齋藤 豊三 斉藤 輝峰 三浦 信次 上野 藤吉 伊達由美子 稲船 幸純 佐藤 奎一 大館 敬一 佐久間照正 渡部 政喜 河西 美鈴 山口 弘士 冨樫 富雄 小林 典子 山口 久 高橋 恵子 小林 文行 木根淵光夫 木根淵直子 鈴木 斉 安達 昌夫 阿部 正浩 岡野 順子 半沢 健雄 橋本 久 石崎 庄子 木村勇次郎 秋庭 督 大沼 悌三 瀬尾 邦彦 41 年 平山 静夫 渡部 逸郎 荒田 盈一 渡辺 勉 栗本 浩 齋藤 偕也 伊藤加奈子 伊藤恵美子 五十嵐 丕 成澤 正幸 古野 章三 髙嶋 勝平 新村 紀子 田畑伊都子 高田 京子 富樫 繁明 丸山 治 吉川 治雄 渡部 紘規 中村 正彦 橋本 暁 土田 利彦 永井 憲雄 42 年 木戸美記子 今村まさ子 舌津 一良 佐藤 秀子 佐藤 潔 坂本 誠 桂嶽 みな 指田重治郎 真島 俊夫 井上 茂 青島 時子 坂田 敬一 43 年 梅津 千里 石黒 義昭 五十嵐清助 中島 恵子 塩貝 厚子 岡部 次樹 菅野 京子 坂本 妙子 佐藤 英一 奥泉 洋一 阿部 正 判 和香子 丸田 孝明 海藤由紀夫 44 年 佐藤 幹夫 佐藤 眞一 保多 由子 小林 紀雄 小林 保博 45 年 梅津 準士 杉山 恵子 坪井 真理 伊藤 豊 庄司 秀昭 村田 敏 菅原 誠二 佐藤久仁子 五十嵐 章 今野 千保 46 年 笹浪真智子 奥村 智子 小林 桂子 今野 健吾 鈴木 晴彦 47 年 山内 仁紫 酒井比呂子 48 年 阿部 勝好 布川 毅 49 年 日向 健 佐々木晶子 登坂 恵理 石川 康博 吉住 明彦 50 年 今野 りつ 板垣 隆 若木 保 荒木 陽子 林 みき 荒木 厚 野崎 嘉子 渡部 尚登 斎藤 宏之 大瀧 陽悦 佐藤 研 51 年 大須賀幸子 齋藤 和春 52 年 鈴木 良清 荒松 禎子 53 年 大泉 正 福原南津子 伊藤 秀夫 中込真知子 秋葉 守 54 年 横屋 一弥 55 年 萬年 啓一 石川 透 小池 一史 安井 明美 飯野 慎也 小松 昭 56 年 山村 文雄 小池 宏忠 57 年 岡本 あい 関口 太郎 小野寺 豊 渡部 英一 大塚 明子 小泉 智和 59 年 大作あゆみ 60 年 中島 浩子 小野寺 修 脇 裕美 61 年 齋藤 匠 63 年 迎田 洋 平 2 年 荒沢 正敏 3 年 伊達 丈浩 8 年 野尻 善之 11 年 土橋 有紀 ………以上552 名 写真/大山公園・下池から望む高館山 斎藤 潮(51年 83回) 東京鶴翔同窓会・幹事名簿 平成23年4月1日 会 長 菅 徹 (37年69回) 副会長 梅津 準士(45年77回) 〃 杉山 恵子(45年77回) 〃 大泉 正 (53年85回) 顧 問 田中 浩 (9年42回) 〃 中村 信雄(18年51回) 〃 佐藤 成生(27年59回) 〃 渡部 洋 (36年68回) 〃 太田 良弘(38年70回) 会計監事 村田 敏 (45年77回) 〃 秋場 守 (53年85回) 事務局長 小林 啓二(38年70回) 事務局次長 長江 和子(38年70回) 年度幹事 高橋 敬道(9年42回) 〃 渡會 春雄(15年48回) 〃 斎藤 弘義(17年50回) 〃 青柳 恵一(18年51回) 〃 菅原 隆輔(19年52回) 〃 成田 辰美(20年53回) 〃 佐藤 良三(21年54回) 〃 渡部 敏雄(21年54回) 〃 丸谷 錦吾(25年57回) 〃 窪田 騰 (26年58回) 〃 佐藤 成生(27年59回) 〃 茂木 勲 (28年60回) 〃 早坂 勉 (28年60回) 〃 大澤 弘之(29年61回) 〃 相馬 和彦(29年61回) 〃 菊地 晴 (29年61回) 〃 奥田 文夫(30年62回) 〃 高橋 徹 (30年62回) 〃 鎌田 喜子(31年63回) 〃 平田 宏 (31年63回) 〃 渡部 賢一(32年64回) 〃 加藤 有紘(33年65回) 〃 大川 政紀(34年66回) 〃 板垣 正明(34年66回) 〃 安野 正紀(34年66回) 〃 富樫 秀 (35年67回) 〃 加賀山忠男(35年67回) 〃 本間 敬士(36年68回) 〃 佐藤清四郎(36年68回) 〃 櫻井 孝子(36年定32) 〃 工藤 雅子(37年69回) 〃 佐藤 和敏(37年69回) 〃 尾形 文子(38年70回) 〃 芳賀 俊郎(38年70回) 〃 相馬 省記(39年71回) 〃 佐藤 祐一(39年71回) 〃 山田 悟 (39年71回) 〃 齋藤 豊三(40年72回) 〃 小鷹 光雄(40年72回) 〃 兼子 久 (40年72回) 〃 嶋 勝平(41年73回) 〃 平山 静夫(41年73回) 〃 坂田 敬一(42年74回) 〃 青島 時子(42年74回) 〃 岡部 次樹(43年75回) 〃 菅野 京子(43年75回) 〃 梅津 千里(43年75回) 第41回 東京鶴翔同窓会 実行委員会 〃 星野 茂 (44年76回) 〃 伊藤 豊 (45年77回) 〃 小林 桂子(46年78回) 〃 野間 耕治(46年78回) 〃 川畑 一郎(47年79回) 〃 井ノ口明子(48年80回) 〃 渡部 幹 (48年80回) 〃 王 金城(49年81回) 〃 石川 康博(49年81回) 〃 鈴木 亮 (49年81回) 〃 林 みき(50年82回) 〃 今野 りつ(50年82回) 〃 江部 信夫(51年83回) 〃 仁平 則行(53年85回) 〃 河野 晃 (53年85回) 〃 小池 悟 (54年86回) 〃 石川 透 (55年87回) 〃 小池 一史(55年87回) 〃 遠藤 高志(56年88回) 〃 山村 文雄(56年88回) 〃 関口 太郎(57年89回) 〃 百瀬 義徳(57年89回) 〃 岡本 あい(57年89回) 〃 渡部 英一(57年89回) 〃 大高和加子(58年90回) 〃 長沢 重喜(58年90回) 〃 村山 聡 (H1年96回) 実 行 委 員 長 栗本 浩 (41年73回) 副実行委員長 鎌田 喜子(31年63回) 副実行委員長 嶋 勝平(41年73回) 副実行委員長 江部 信夫(51年83回) アドバ イザー 諏訪 浩 (31年63回) 平田 宏 (31年63回) 会 報 部 会 部 会 長 荒田 盈一(41年73回) 中川 節子(41年73回) 田中 晶子(41年73回) 佐藤 巌 (41年73回) 伊藤恵美子(41年73回) 佐藤 雄喜(51年83回) 広 告 部 会 部 会 長 嶺田新太朗(41年73回) 戸田 幸一(41年73回) 中村 正彦(41年73回) 古野 章三(41年73回) 吉川 治雄(41年73回) 吉田 隆一(41年73回) 成澤 正幸(41年73回) 会 場 部 会 部 会 長 五十嵐 丕(41年73回) 橋本 暁 (41年73回) 土井 静枝(41年73回) 丸屋 好久(41年73回) 土田 利彦(41年73回) 永井 憲雄(41年73回) 小野寺光弥(41年73回) 渡邊 春信(51年83回) 奥山 宏子(51年83回) 中西 庸 (51年83回) 斎藤 匠 (61年93回) 興津 修 (61年93回) 事 務 局 局 長 平山 静夫(41年73回) 経 理 丸山 治 (41年73回) 被災地に穏やかな日々が一日も早く戻るようお祈りします。 このような時だからこそ、 ふるさと庄内、東北、日本の明日について語り合いましょう。 皆様のご出席を心よりお待ちしております。 実行委員会発足前、気にな る話がありました。それは、 同窓会の生き字引でもあり、 そして、会報印刷については、 無理を承知で聞いてくれた﹁佐藤成生さん﹂ が健康上の理由から、第一線を退かれたこ とです。 このため、﹁ 会報印刷は業者の選 定から﹂という難題からスタートしました。 こうなったら、声が大きく顔が広いAさ 回生の中には、プロのデ 83 んに会報部会長をお願いするしかありませ ん。ところが、 ザイナーSさんとプロのカメラマンWさん がいたのです。まさに﹁天佑﹂です。それ ばかりではありません。プロ顔負けの歌姫 Kさんもいたのです。すかさず、満場一致 でエンタティナーに、すいせんしました。 年余りを経て、再度、ご 40 他のイベントでは、母校で教鞭をとられ た、お二方に、 登壇をいただくことがかないました。写真 家の高山文夫先生と校歌舞の三井照代︵旧 姓・吉続︶先生です。懐かしい先生との再 会は、あの時の﹁心の響き ふるさとのし 回生の新村紀子様、齋藤久様、菅原一 らべ﹂をゆったりと奏でてくれるでしょう。 夫様より、お志として、ご寄付を賜りまし た。ありがとうございました。ここに、ご 報告させていただきます。 悲しいお知らせもありました。 月に、桜 井元会長さんが亡くなられたことです。役 員であると同時に今回の当番幹事でもあっ たのです。桜井さんの﹁総会はお祭り。に ぎやかに、楽しくやりましょう。﹂のお言葉 を守りつつ、ご冥福をお祈りいたします。 3月には、東日本大震災が発生しました。 東北地方には多くの同窓生・ご家族の皆さ まが在住され、ご活躍されています。被災 された方のお見舞いと同時に、お互いに無 ︵事務局長・平山静夫記︶ 事で再会できることをお祈りいたします。 12 73 [16]
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