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日独共同シンポジウム「遺伝子工学の時代における法と倫理」 2002 September 13-15 at Ryukoku University
ヒト遺伝子研究に関する仏教からの視座:縁起のバイオエシックス
鍋島直樹(龍谷大学法学部助教授・仏教の思想)
A Buddhist Perspective on Research of Human Genome: Bioethics of Interdependence
Naoki Nabeshima
Buddhism
Associate Professor
Faculty of Law
Ryukoku University
キーワード <縁起><科学と仏教><無常><慈悲><個のかけがえのなさ><遺伝子研究の目的>
概要
縁起のバイオエシックスは、私たち人類が、あらゆる存在と一つであるという感覚(万物一体観)を養うこと
をも求める。人類の幸福だけを追求する功利主義的なバイオエシックスは、あらゆるものが相互に支えあっ
て生きているという縁起のバイオエシックスに方向を転じていくべきであると考える。科学と仏教との間には
深刻な対立はない。仏教と科学は相互の知見を分かち合い、人類と地球に恵みをもたらすように導くことが
願われる。ただ科学に極端に依存しすぎてはならない。なぜなら科学技術の応用には光と影があるからであ
る。その意味で、科学の進歩にある程度の規制を加えるシステムをもつことが必要である。先端科学技術に
対する仏教の態度は、近代科学の弊害のみを指摘して、科学を否認し、自然に回帰せよという態度をとらな
い。世界のさまざまな宗教者と科学者は協調しあい、相互に依存しながら、生きとし生けるものに恵みをもた
らす方向を探求していく必要がある。この論では、はじめに日本におけるヒトゲノム研究に関する基本原則を
紹介したい。次に仏教の生命観、特に縁起思想を通して、遺伝子研究のあり方に関して提言を行いたいと思
う。
注意しなければならない点は、遺伝子研究の目的が明確であるということである。遺伝子研究は、人の生
命のしくみを生物学的に解明することと、疾病の予防と治療などの医療に限って用いられるべきである。たと
えばヒトゲノムを改変して、あらかじめ特定の遺伝的形質をもったヒトを誕生させてはならない。遺伝子操作
の悪用によって、生命の多様性を減少させたり、未来の世代にわたる生命の健康と安全性を侵したり、特定
の人間の欲望のみを満たしたりすることに用いられてはならない。動機が悪いと知りつつ科学技術を応用す
ることは、知らないで行った行為よりも、さらに自他ともに不幸におとしめる結果を未来に生じることになる。
自己だけでなく他者にとっても、現在だけでなく未来においても、身心の安らぎをもたらすように行為すべき
であるというのが、仏教徒の願いである。最も重要なことは、遺伝的な疾患を抱えていたとしても、それはか
けがえのない一つの個性であるということである。さらに遺伝子や受精によってのみ個人の独自性が決定す
るのではない。むしろ、その人の生き方を通して、個人のかけがえのなさは培われる。仏教は生まれによる
差別を決してしない。なぜなら人はさまざまな縁と努力によって、かけがえのない人に成長できるからである。
いかなる遺伝子を有していても、人は環境によってユニークで自由な人生を切り開くことができる。したがっ
てヒトゲノム研究がどれだけ進んでも、人間の間には何の違いもなく、私たちは同じ仲間であるという共感と
尊敬を育んでいかなければならない。
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はじめに バイオテクノロジーと仏教の関係
1 日本におけるヒトゲノム研究に関する基本方針
2 仏教における縁起的生命観
3 親鸞における縁起的生命観
4 仏教からのヒトゲノム研究への願い
まとめ 有用性よりもかけがえのなさを
1
はじめに
バイオテクノロジーと仏教の関係
バイオテクノロジー(生命工学)は人間の生み出した知恵である。科学技術それ自体は善でも
悪でもない。科学技術およびその一つであるバイオテクノロジーの応用は、自由選択であって、
究極的な目標ではない。とはいうものの、私たち人間の欲望は強く際限なく、常に過ちをおかす
ことを自覚しておくべきである。テクノロジーの自己中心的な利用は、他の生命体の尊厳を一方
的に傷つけ、ひるがえってそのテクノロジーによる改変が、人類をもまた傷つけうる。
縁起の生命倫理(Bioethics of interdependence)は、私たちが他の生命体の視点から世界を見
る力を培うことが求められる1。縁起のバイオエシックスは、私たち人類が、あらゆる存在と一
つであるという感覚(万物一体観)を養うことをも求める。人類の幸福だけを追求する功利主義
的なバイオエシックスは、あらゆるものが相互に支えあって生きているという縁起のバイオエシ
ックスに方向を転じていくべきであると考える。まず、私たちは人類の多くの問題が人間の優越
感に根ざしていることを認識しなければならない。あわせて、自分を支えるすべての生命と存在
に感謝し、自己とあらゆる存在との調和と一体感を育んでいく必要がある。この自他一如の生命
観、あらゆる生命の共生という姿勢を持つことによって、私たちは、バイオテクノロジーの知恵
をよりよい形で応用する道を見いだせるだろう。
科学と仏教の間には深刻な対立はない。仏教と科学は相互の知見を分かち合い、人類と地球に
恵みをもたらすように導くことが願われる。ただ科学に極端に依存しすぎてはならない。なぜな
ら科学の応用には光と影とがあるからである。その意味で、科学の進歩にある程度の規制を加え
る倫理システムをもつことが必要である2。
仏教と科学がよりよい関係を創造していくためには、次の四つの姿勢が大切である3。
第一に、自己中心の視野から宇宙的規模の視点への転換である。宇宙のあらゆるものが相互に
依存しあい、関係しあっていることにめざめるには、自己中心的な我執を離れ、広い視野をもつ
べきである。
第二に、近代科学の価値観を重んじて、あらゆるものを物質や数式に還元してとらえるのでは
なく、あらゆるものがそのままで独自の存在意義を持っていることに気づくということである。
第三に、無常の知見を生かすことである。無常の道理が私たちに与える知見は、あらゆるもの
は因と縁によって生じ、移ろい変化して滅するということと、他面、あらゆるものは、時代とと
もに、変貌して成長を遂げていくということである。したがって一つは、科学が進展しても、命
あるものはいつか死に帰すという自然な姿をありのままに受け容れる必要がある。もう一つは、
新しい科学技術とその応用を罪悪視するのではなく、科学の進展が無常の一つの姿であると受け
とめていくことが望まれる。私たちの生活は電気、ガス、水など衣食住からコンピューターや医
療にいたるまで、科学技術の恩恵によっている。科学技術をすべて罪悪視して否定し、自然の摂
理に回帰するべきであるという主張は、本当の意味で科学技術の知見を理解したことにはならな
い。無常の知見をもって、死すべきいのちの道理を受けとめつつ、新しい科学技術をよりよい方
向に主導していくことが望まれる。
第四には、議論を重ねるだけでなく、生きとし生けるものと地球環境を保護するために具体的
な倫理的指針を示し、行動を起こすということである。
科学と宗教とのあるべき関係について、1989年10月10日、ダライラマ14世がノーベ
ル平和賞受賞スピーチでこう語っている。
On December 10 1989, 14th Dalai Lama of Tibet stated his idea of the relationship
between science and religion, when he accepted the Nobel Prize at Oslo, Norway.
As a Buddhist monk, my concern extends to all members of the human family and,
indeed, to all the sentient beings who suffer. I believe all suffering is caused by ignorance.
People inflict pain on others in the selfish pursuit of their happiness or satisfaction.
Yet true happiness comes from a sense of peace and contentment, which in turn must be
achieved through the cultivation of altruism, of love and compassion, and elimination of
ignorance, selfishness, and greed.
2
The problems we face today, violent conflicts, destruction of nature, poverty, hunger,
and so on, are human created problems which can be resolved through human effort,
understanding, and a development of a sense of brotherhood and sisterhood. We need to
cultivate a universal responsibility for one another and the planet we share. Although I have
found my own Buddhist religion helpful in generating love and compassion, even for those we
consider our enemies, I am convinced that everyone can develop a good heart and a sense
of universal responsibility with or without religion.
With the ever-growing impact of science in our lives, religion and spirituality have a
greater role to play reminding us of our humanity. There is no contradiction between the two.
Each gives us valuable insights into each other. Both science and the teaching of the Buddha
tell us of the fundamental unity of all things. This understanding is crucial if we are to take
positive and decisive action on the pressing global concern with the environment.
I believe all religions pursue the same goals, that of cultivating human goodness and
bringing happiness to all human beings. Though the means may appear different, the ends
are the same.
仏教僧として私は、すべての人間の苦しみに対してだけでなく、すべての生きとし生ける
ものの苦しみに対しても関心をはらっています。あらゆる苦しみは、無明によって引き起こ
されます。人は、幸福や満足を自己中心的に追求して、他人に苦痛を与えています。けれど
も真の幸福は、心の平安と足ることを知る心によってもたらせるのです。そしてこの心は、
利他の精神、愛、慈悲の心を育み、無明と利己主義と欲望を克服することによって勝ちとる
ことができるものなのです。
今日私たちが直面する暴力、自然破壊、貧困、飢えなどの諸問題は、人間が自ら作り出し
た問題です。ですから、努力や相互理解、また人類愛を育むことによって解決が可能です。
私たちは、お互いに対しても、また一緒に暮らすこの惑星に対しても、宇宙的な責任感を養
う必要があります。仏教では、敵すらも愛し、慈悲の心をもてと教えておりますが、信仰の
有無にかかわらず、誰でも温かい心と宇宙的な責任感を育てることはできます。
止まるところを知らぬ科学の進歩が、私たちの生活に大きな影響を与えている今日この世
界において、私たちの人間性を呼びもどすためにも、宗教と精神性が果たす役割は次第に大
きくなっています。科学と宗教は互いに矛盾するどころか、それぞれに対する優れた洞察を
秘めています。科学と仏陀の教えは両方とも、すべての存在が基本的には一つの有機的な統
一体であることを説いています。私たちが地球規模の環境問題について積極的に行動するた
めには、この原理を理解することがどうしても不可欠です。
すべての宗教の目的は一つしかありません。人間の善なるものを育み、あらゆる人間に幸
福をもたらすことです。手段は異なるように見えても、その目的は同じです。
このように、近代科学の弊害のみを取り上げて、科学技術を否認し、自然に回帰せよという方向
をめざすのではなく、世界の諸宗教者と科学者が協力して、相互に依存しながら、地球環境と人
間に幸せをもたらすような方向を創出していくべきだろう。
この論では、はじめに日本におけるヒトゲノム研究に関する基本的な方針を紹介したい。次に
大乗仏教の生命観、特に縁起思想を通じて、遺伝子医療のあり方について4つの提言を行いたい。
1
日本におけるヒトゲノム研究に関する基本方針
ヒトはすべて一個の受精卵から始まり、成人では約60兆の細胞から成っている。そのヒトの
細胞には、核と呼ばれる部分があり、その中の24種類の染色体に遺伝情報が蓄えられている。
この遺伝情報を担っているのは、DNA(デオキシリボ核酸)で、ヒトゲノムの実体である。
「ヒ
トゲノム」とは、ヒトを完全な状態に保つために必要な遺伝情報の1セットをいい、「生命の設
計図」にたとえられる。DNAの構成要素は、アデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン
(T)の4種類の塩基があり、普通の細胞では約60億対の塩基が連なっている。そしてDNAの4
種類の塩基配列が、ヒトの設計図そのものといわれる。DNAの中で、身体に必要なタンパク質
3
の合成のための情報を担っている部分を「遺伝子」と呼び、ヒトの場合、合成されるタンパク質
の種類、すなわち、ゲノムDNAの中で直接働いている遺伝子の数は約3万から4万個あると推
定されている4。ヒトゲノムは約30億個の文字から成っている。遺伝子情報にしたがって、必
要な時に、必要な場所で、必要な性質のタンパク質が、必要な量だけ作られていれば、人間の健
康は維持できる。しかし生活環境の内的要因と外的要因によって、タンパク質の性質や量が異常
になると、それによって身体の生命維持機能がバランスを失い、結果として病気を引き起こすこ
とになる。
ヒトゲノム解析計画はヒトの全DNA配列(30億文字)を読み取り、その働きを明らかにす
ることである5。ヒトゲノムの研究が進むと、遺伝性疾患のみならず、痴呆、糖尿病、高血圧、
喘息などの病気に関連する遺伝子が明らかになると考えられている。これにより、個人の遺伝素
因(ヒトゲノムの塩基配列)に応じたオーダーメイド医療が可能になる。すなわち、個々人に最
適な治療法や健康管理方法を選択し、副作用を避けて、最も効果的な薬剤の選択やより良い投与
法を選択できると期待されている。
2000(平成12)年6月14日、日本における科学技術会議生命倫理委員会は、ヒトゲノ
ム研究に関する基本原則を発表した6。その内容を抜粋すると次の通りである。
基本的考え方
1.科学は、真理の探究を目的とする人間の知的営みであり、人類社会の将来の発展の礎で
ある。その基盤となる科学研究の自由は基本的人権の中核の一つである思想の自由を構
成する。しかし、科学はそれ自体で社会から独立し完結した存在ではなく、あくまでも
人間社会の中での活動である。それゆえ科学研究は、人の尊厳を前提とし、社会の中の
さまざまな要因と相互作用をもち、また時には衝突があることを、十分理解しながら行
われなければならない。
2.生命科学は、生物の生命現象を解明すること、とりわけヒトを生物学的に理解すること
を目指している。・・・とくにこの基本原則が取り扱うヒトゲノム研究については、1
997年にユネスコ(国連教育科学文化機関)総会で採択された「ヒトゲノムと人権に
関する世界宣言」が、ヒトゲノム研究におけるはじめての普遍的倫理原則として、国際
連合総会でも支持され、諸国で受け入れられている。
3.ヒトゲノムの研究は、1990年から本格化した「ヒトゲノム計画」によって、急速に進展
することとなった。この研究は、人のゲノムの構造と機能を解析して、人間の生物機能
を探り、人間の生命のしくみを解明し、それによって人の生命や健康の保持そして疾病
の治療と予防に大きく貢献しようとしている。とくに塩基配列の解読が急速に進んで行
く中で、遺伝子多型7の研究が進み、個人の遺伝情報を利用して、疾病原因を特定したり
新しい予防、診断や治療の方法、医薬品を開発し、また利用することができるようにな
りつつある。
4.しかし、ヒトゲノム研究やその成果が、一方で人間の「生命」を操作することにつなが
り、他方で個人の遺伝的特徴に基づいて尊厳や人権が著しく損なわれる危険性を生むな
ど、大きな倫理的・法的・社会的問題を引き起こすことがある。そのため、ヒトゲノム
研究とその成果の応用は、こうしたさまざまな問題に注意を払いながら、社会の理解の
もとに進めていかねばならない。
5.「基本原則」は、ヒトゲノム研究が人の尊厳と人権を損なうことのないよう、適切な形
で行われることを目指して作成された。
ヒトゲノムとその研究のあり方
Ⅰ ヒトゲノムの意義
1.ヒトゲノムは、人類の遺産である。
2.ヒトゲノムは、人の生命の設計図であり、人が人として存在することの基礎であって、
また人が独自性と多様性をもっていることの根拠となるものである。
3.人は遺伝子のみによって存在が決定されるものではない。
4
4.ヒトゲノムは、両親から子へ、子から孫へ、人の生命の基本的な情報を受け継いで、人
としての基本的構造および機能を形作るが、同時にその発現は環境によってさまざまに
影響を受ける。
Ⅱゲノムの多様性と個人の尊厳と人権
各個人のゲノムはそれぞれに異なっており、各々の遺伝的特徴が個人の独自性と唯一性を
示すと共に、人類全体が多様であることを表すものである。それゆえに、何人もまたいずれ
の集団も、遺伝的特徴の如何を問わず、その尊厳と人権が尊重されなければならず、互いに
平等であって、またいかなる差別の対象ともされてはならない。
Ⅲ倫理的・法的・社会的問題への配慮
ヒトゲノム研究およびその成果の応用は、人間の生命や生活についての考え方を大きく変
化させることが考えられ、社会に極めて大きな影響をあたえる可能性があることから、倫理
的法的社会的問題に配慮しつつ行わなければならない。
Ⅳ提供者等への配慮
ヒトゲノム研究は、人から研究試料の提供を受けることが不可欠な研究であり、それゆえ、
研究試料の提供者(以下、
「提供者」という)
、その血縁者および家族の尊厳と人権を尊重し
ながら、行わなければならない。
2002(平成13)年3月29日に、先の基本原則を承けて、文部科学省・厚生労働省・経
済産業省より「ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する倫理指針」が発表された8。その概要は次
の通りである。
○インフォームド・コンセントを基本とすること
●文書による事前の十分な説明と自由意志による同意(インフォームド・コンセント)
●本人の意思を尊重して遺伝情報の開示、非開示の決定
●既に提供された試料等についての慎重な取扱い
○個人情報の保護を徹底すること
●試料等の原則匿名化による研究の実施
●個人情報管理者による保護の徹底
●守秘義務の徹底
●本人の意思を尊重した試料等の保存と匿名化した上での廃棄
○倫理審査委員会が適切に構成され運営されること
●研究機関の長の諮問機関として設置し、その意見を尊重
●公正、中立な審査のため、専門家・一般の立場の人(外部委員を含む)から成る適切な構
成
●委員、議事内容の公開など透明性の確保
○研究の適正性を確保すること
●倫理審査委員会による研究計画の事前審査
●研究機関の長による研究計画の許可
●研究計画に従った研究の適正な実施
○研究の透明性を確保すること
●外部の有識者による実地調査
●研究結果の公表
●苦情窓口の設置
5
○遺伝性疾患に配慮すること
●遺伝性疾患の場合の遺伝カウンセリングの実施
●遺伝性疾患の場合の本人の利益保護のための配慮
以上のような日本の指針を、私は一仏教徒として基本的に支持したい。
2
仏教における縁起的生命観
ゴータマ・ブッダ(463~383B.C.)は、縁起の真理にめざめた。ブッダは「すべての存在が、
互いに結びつき、支え合っていること」をさとった。縁起とは、「因縁生起」とも表現され、他
との関係が縁となって生起することを原意とする。縁起の言語である複合語 pra īitya-samutpāda
(プラティーティヤ・サムツゥパーダ)は、二つの言葉から成っている。プラティーティャとは、
「〜に依存する」ことを語義とし、サムツゥパーダは、
「共に生じる、つながりの中で生起する」
ことを語義とする。あらゆる存在の因果性、相関性、相互依存性について、ブッダは次のように
説いている9。
これあれば、かれあり。これ生ずるがゆえに、かれ生ず。
これ無ければ、かれなし。これ滅するがゆえに、かれ滅す。
このように縁起は本来、およそ次の三つの意味をもっている。
(1) あらゆるものは因(原因)と縁(機会)によって生じ滅して、移ろい変化する。
(2) あらゆるものは孤立して存在しているのではなく、相互に依存し、関係しあって存在し
ている。
(3) 無条件にそれ自体として他に依らずに存在しているものはない。固定不変の個体はない。
これらの意味によりながら、生命に対する仏教の視座を三つ紹介したい。
第一に、一つの生命は、あらゆる生命と物質を維持している相互関係の壮大なネットワークの
中で生存している。あらゆるものは異なっている。しかしあらゆるものは一つである。なぜなら
相互に関係しあっているからである。したがってもし人間が他者の独自な存在の意義を認め、尊
重することを忘れるならば、それはひるがえって自己の存在の意義を否定することにつながるだ
ろう。個人が自分の都合のみを優先し、相互に依存していることを否定して、他者をあたかも我
が物のように操ったり、暴力によって殺し合ったりしてはならないということを、縁起の世界観
は示している。
第二に、一つの生命は、あらゆるものと相依相関し、愛するものに願われて、かけがえのないもの
になる。すべてが始めの因において結果まで定まっているという宿命論のような見方を仏教はとらない。
もしも、すべての存在価値が運命によって定まっているならば、この世において善い行いをするのも、悪
い行いをするのも、運命であり、幸・不幸も生まれながらに運命によって決まっていて、運命の他に何も
のをも存在しないことになる。運命論は、人々にこれはしなければならないとか、これはしてはならないと
いう願いも努力もなくなり、世の中の協調や進歩や反省もなくなることになる10。縁起の真理は、すべての
ものは因と縁とによってたえず変化していく思想であり、人間の願いと努力によって、自他ともに苦しみか
ら安らぎに導くことをめざす。縁起にもとづく生き方は、人間一人ひとりの自由と精励を尊重し、あらゆるも
のに対する慈悲や感謝の自覚を育むのである11。
ブッダは生まれによって人間を種々の階層に分けて差別することを否定し、あらゆるものの平等を説
いた。
生まれによって 賎しい人となるのではない。生まれによって 聖なる人となるのでもない。
行為(kamma)12によって 賎しい人ともなり、 行為によって 聖なる人ともなる。
(Sn.136.142.65013.)
6
血統を誇り、財産を誇り、また氏姓を誇っていて、しかも己が親戚を軽蔑する人がいる、――これは
破滅への門である。(Sn.10414)
ブッダは宿命論や因果関係を無視する無因無縁論などを批判するために、業、すなわち、人間の営み
の大切さを説いた。人それぞれが、生まれによってではなく、業、つまり日々の日常生活、個々の生き方
によって成長していくから、ブッダは、人が精励に生きることを重んじたのである15。
第三に、縁起の信念は、閉じられた我愛を破って、宇宙的に広がる慈悲心をうむ。慈悲とは、相手の
中に自己を発見し、相手と一つになって共感する心である。ブッダはあらゆるいのちをわけへだてなく思
いやる慈愛について、次のように説いている。
他の識者の非難を受けるような下劣な行為を、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、
幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなもの
でも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、
目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれた
ものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
何人も他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒
りの想いをいだいて、互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対
しても、無量の(慈しみ)のこころを起こすべし。
こころ
また全世界に対して無量の慈しみの意 を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意
なき(慈しみを行うべし)。(Sn.145~15016)
こうして仏教徒は あらゆる生命を、生まれ、形態、場所、世代によって差別せずに、一切の幸せを願っ
てきた。あらゆる生命と物質とが相互に依存しながら世界が成立し、人が数多くの生命を食べ、さまざま
なものに支えられてあることを知ったときに、縁起の真理は、心の底からわきあがる慈悲の心や、他の存
在に対する感謝の気持ちとなり、他の存在を護ろうとする責任感を生みださせるのである17。
3
親鸞における縁起的生命観
日本における仏教は、この縁起の知見を継承して、すべての存在を差別することなく尊重し、
さまざまな縁による成長を尊重する。浄土真宗は親鸞(1173~1262)によって鎌倉時代に開かれた
一つの大乗仏教である。たとえば、親鸞は『歎異抄』第五章に次のように表現している。
一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり18。
(現代語訳)「命あるものはすべてみな、これまで何度となく生まれ変わり死に変わりして
きた中で、父母であり兄弟・姉妹であったのである。19」
ここに親鸞は時空を越えて、彼自身と全ての存在とを同一視している。彼の世界観は、縁起の普
遍的真実に明かされた、心の温かさと思いやりの本来の姿を強調している。このように縁起は、
私たちが相互に世界に対してとるべき責任と、慈悲と感謝の心を結晶させている。親鸞がそうで
あったように、網のようにつながる生命の結びつきの中で、人間だけが特権的な地位を独占して
はならないということに私たちも気づくときには、感謝や謙虚さが自然に私たちの心に生まれて
くるだろう。
他の生命に対する感謝と謙虚さについての親鸞の見方は、大乗仏教の「一子地」の思想に基づ
いている20。親鸞の『顕浄土真実教行証文類』の行巻には、
二つには念ずべし。慈眼をもつて衆生を視そなはすこと、平等にして一子のごとし21。
7
と記され、また親鸞は『浄土和讃』に次のように書かれている。
十方の如来は衆生を一子のごとく憐念す22
仏の慈悲があらゆる存在に満ち満ち、あらゆる存在の尊厳が仏に連なっていると親鸞は理解する
のである。親鸞にとって、仏とは目覚めることそれ自体である。この縁起の見方は、あらゆる生
命を敬愛する心を育て、自己中心的に差別しようとする習性をなくすように私たちを導くであろ
う。
現実世界をふりかえると、人は他の命を食べてしか生き得ない。さらには医療や科学的な実験のため
に数多くの動物が人間の犠牲になっている。だからこそ私たち人間は、際限のない貪りをふりかえり、犠
牲になった生きものたちに感謝して、慎み深く、精励に生きていかなければならない23。
4
仏教からのヒトゲノム研究への願い
(1)縁起の生命倫理(Bioethics of interdependence)は、私たちが単に役に立つかどうかとい
う有用性の判断だけで、生命操作を行うことを決定してはならないことを意味する。新しいバイ
オテクノロジーが、宗教的な信仰や倫理と協調できるように、個人だけでなく世界全体において
も恩恵があるように、現代だけでなく未来の世代にわたっても幸せをもたらせるものになるよう
に応用されていかなければならない。すなわち、遺伝子医療を活用することが、同時に、人類と
他の生命体とが相互に支え合って生きているという優しさと共感(慈悲: True kindness and
Compassion)を育てていけるようになることが願われる。自己を支えるあらゆる生命への感謝
の気持ちがわき起こるとき、私たちは個人的な願望や人類中心的な欲望に目を覚まし、より謙虚
に生きていくことができるだろう。
注意しなければならない点は、遺伝子研究の目的が明確であるということである。遺伝子研究
は、どこまでも人間の生命のしくみを生物学的に解析することと、疾病の予防と治療に限って行
われるべきである。たとえば難病治療以外の目的で、ヒトゲノムを改変して、あらかじめ特定の
遺伝的形質をもったヒトを誕生させてはならない。特定の人間の欲望を満たすために遺伝子操作
を悪用し、生命の多様性(bio-diversity)を減少させたり、未来の世代にわたる生命の健康や安全性
を侵してはならない。動機が悪いと知りつつ科学技術を応用することは、知らないで行った行為
よりも、さらに自他ともに不幸におとしめる結果を未来に生じることになる。自己だけでなく他
者にとっても、現在だけでなく未来においても、身心の安らぎをもたらすように行為すべきであ
るというのが、仏教徒の願いである。
(2)縁起のバイオエシックスは、人間個人の利益よりもむしろ、あらゆるいのち全体の関係性
とその調和的な共生を重視する。あらゆるいのちの関係性を重視するとは、自己と他者との相互
に恩恵(benefits)があるということである。
ふりかえってみれば、ヒトの遺伝子だけを特別に神聖視する見方は仏教には見当たらない。人
も動物も同じ仲間であると仏教は説いている。仏教の究極的な目標は、動物、自然をも含む、自
己と他者の救いである。ヒトゲノムの構造は、あらゆる生命の共通性と多様性を示している。バ
イオテクノロジーが人類の利益のためだけに応用されるのでなく、あらゆる生命を治療し、保護
するためにも活用されることが望まれる。具体的には、まず欧米や日本のような医療先進国だけ
でなく、世界の国々の難病を治療するために、この新しい遺伝子医療が応用されることが望まれ
る。しかも遺伝子医療への応用は利益優先に陥ることなく、苦境におかれている患者を救済する
という目的のみをめざすべきである。さらに動物や植物の病気を治療し、希少動物や植物の生存
を保護するために、遺伝子技術が治療として応用されるならば、人類の知恵は、人類のためだけ
でなく、あらゆる生命の保護に寄与できるであろう。
(3)縁起のバイオエシックスは、あらゆるいのちをかけがえのないいのちとして尊重する。智
慧(wisdom)は、自己中心的な執着から自由になった平等な心である。慈悲(compassion)の心
は、あらゆる存在を、あたかも貴重な一子のように思いやる心である。生物学的にヒトのゲノム
8
の構造と機能を解析できたとしても、それは人を理解したことにならない。ヒトの遺伝子という
極小部分を見て、悩みや喜びを抱いている個人や家族全体を見ていないからである。智慧と慈悲
を通じた人間相互の理解こそ、一個人の存在意義を深く見出すことになる。最も重要なことは、
遺伝的な疾患を抱えていたとしても、それはかけがえのない一つの個性であるということである。
さらに遺伝子や受精によってのみ個人の独自性が決定するのではない。因となるヒトゲノムの塩
基配列にすべての結果があるという見方は、一人ひとりの意思や努力する意味を失わせる。むし
ろ、その人の精励な生き方を通して、個人のかけがえのなさは培われる。仏教は生まれによる差
別を決してしない。なぜなら人はさまざまな出遇いの縁と努力によって、かけがえのない人に成
長していくことができるからである。他に願われ、すべては関係しあい、支えあっていると実感する
から、一つのいのちはかけがえのないものとなる。いかなる遺伝情報を有していても、人は縁によっ
てユニークで自由な人生を切り開くことができる。したがってヒトゲノム研究がどれだけ進んで
も、人間の間には何の違いもなく、同じ仲間であるという平等心と共感と尊敬を育んでいかなけ
ればならない。
(4)縁起のバイオエシックスは、あらゆるものは無常である(all beings and things are
impermanent.)ことを示している。人もまたさまざまな因と縁によって生まれて消えていくとい
う自然の真理を、人類は尊重する必要がある。どれほどバイオテクノロジーによって生命操作し
ても、生命そのものの自然な力(natural and fundamental life-force)が働いて、はじめて一つの生
命はこの世界に誕生し、成長して、やがて死に至るからである。生命誌(biohistory)から見れば、
ヒトの遺伝子には地球において生命が誕生してからの三十八億年の歴史と経験が刻まれている24。
その意味で、人間が完全に生命を操作できるという驕りを捨てて、生命そのものの不可思議な働
きに感謝し、謙虚に生きることが求められるだろう。人は誰でも過ちをおかす。しかし過ちを反省し
てくり返さないことができる。謙虚さとは、科学研究と応用における過ちを覆い隠さずに公表する勇気で
あり、暗黒性を秘めた技術を用いない智慧である。
まとめ
有用性よりもかけがえのなさを
一つの生命の尊厳とかけがえのなさは、あらゆるものが支え合って生きているという相依相関
性の中で育まれる。逆に言えば、一個人や組織がその都合や有効性のみを優先し、相互に依存し
ていることを軽視して、他をあたかも我が物のように操ってはならない。人間は、ヒトゲノムの
塩基配列に基づいて同じ人類を分け隔てするのをやめて、あたかも自分の独り子を命をかけて護
るように、人間を含めた生きとし生けるものを同じ仲間として慈しむことが願われる。
最後に、私の恩師であるロナルド仲宗根の言葉を引用して、縁起に基づく生き方をまとめてお
きたい。
I
We live in an interdependent world. All beings and all things are mutually dependent.
Interdependence provides Buddhists with a vision of identity and responsibility to all beings.
Interdependence also quickens a sense of gratitude for all things and beings25.
(日本語訳)私たちは縁起の世界に生きている。あらゆる生命と存在は互いに依存している。
縁起は、仏教徒に、あらゆる存在に対する共感(自他一如感)と責任とを与える。縁起はす
べての存在に対する感謝の気持ちを思い起こさせるのである。
1
拙稿「縁起のバイオエシックス――人クローンに関する浄土真宗からの一考察」 真宗学103号。2001年1月。
中村桂子『生命科学』59頁。講談社学術文庫。講談社学術文庫。1996年。
3
松長有慶『仏教と科学』207〜210頁。岩波書店。1997年。徳永道雄「宗教とヒューマニズム」35頁。宗教と倫
理1号
4
<主な生物の遺伝子数> ヒト 3万−4万。マウス ヒトと同程度。フグ ヒトと同程度。ショウジョウバエ 1万40
00。シロイヌナズナ 2万5000。線虫 1万9000。大腸菌 4300。
5
東京大学ヒトゲノム解析センターに紹介されている。http://www.hgc.ims.u-tokyo.ac.jp/japanese/index-j.html
2
9
6
文部科学省研究振興局生命倫理・安全部会のウェブサイトに「ヒトゲノム研究に関する基本原則について」が発
表されている。http://www.mext.go.jp/a_menu/shinkou/seimei/gensokuj.pdf
7
遺伝的多型とは、次のような意味である。生物は、種としてほぼ同じ遺伝情報をもっており、99%以上は共通なD
NAの塩基配列を有するが、個体ごとに少しずつ異なっている部分がある。このことを遺伝的多型(polymorphism)
といい、これにより、同じヒトという種でありながらも多様な遺伝的特徴をもった個々人が存在している。(「ヒトゲノム
研究に関する基本原則」の用語解説参照。33頁)
8
文部科学省研究振興局生命倫理・安全部会のウェブサイトにヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する倫理指針」が公
表されている。http://www2.ncc.go.jp/elsi/html/rinri_shishin.htm
9
相応部経典12 南伝第13巻40頁。中阿含経典47 大正蔵1巻723中。
10
内藤昭文は、因宿命造説の問題について次のように論じている。「現在(結果)が過去によって決定されていると
いう場合、その決定は絶対的なものを意味する。したがってその決定を私は受け入れるしかない。二度と過去に戻
ることができないからである。一方、未来に対する現在の努力の全面否定にはならないと反論するかもしれない。し
かし、その現在の努力の有無は過去において決定されていることになり、これを覆す論理は生まれない。やはり、
釈尊はこの思想を人間の現在の行為・努力を否定するものとして批判している。現在の行為・努力に関して「あきら
め」の論理となって釈尊の意図したものと異なったものになる。つまり、人間の行為と努力(精進)を否定しないか否
定するかという点で、仏教的理解と非仏教的理解があるのである。」「仏教における業の意義」43頁。教学研究所
紀要第5号。1997年。
11
縁起思想からうまれる生命観、人間観について、次のような説明がある。「仏教はその人間観・世界観において、
すべてが相即し、相入していることを深く洞察していた。自と他の対立は相補的なものであって、いずれか一つによ
る存立、他の否定はあり得ない(自他不二)。物(色)と心も同様で、いずれか一方による存立はあり得ない(色心不
二)。・・・仏教は、このように先見的、あるいは予見的な見解を離れ、相依相関して存続し活動する宇宙万物の実
相を正しく見抜き、自己をも他者をも、正しくその全体像のなかに位置させようとした。これが不二の思想であり、縁
起の法であった。右の見方が実践行為のなかに生かされるとき、我執は根拠を失い、人に真に自他不二的に行動
できるようになり、他者に対する偏りのない愛(慈悲)を持ちうるようになる。以後、慈悲は今日に至るまで仏教の基
本的倫理として活きつづける。」(『仏教文化事典』8〜9頁)
12
スッタニパータに見える「業(kamma)」とは人間の日常生活、生き方、行為を意味する。
13
中村元訳『ブッダのことば』35頁。136.142.650偈。
14
前掲書30頁。104偈。
15
内藤昭文は、ブッダが業を説いた意義を明快に論じている。「仏教はまず社会全体の変革を通じて、個々の人間
の変革を行うというようなイデオロギー的なものではない。個々の業を問うことが社会性を問う起点であり、個々の人
間の変革を通じて社会のあり方を問うものなのである。ここに釈尊自らがまず「業論者」であると言ったと同時に、つ
づけて「行為論者」であり「精進論者」であると言った理由があると思われる。さらに、仏教が人間の営みを否定する、
宿命論や運命論、或いは因果関係を無視する無因無縁論とは異なったものであることを明確にするためであった
と考えられる。」「仏教における業の意義」60頁。
16
中村元訳『ブッダのことば』第一章第八節慈しみ。37頁。145〜150偈。岩波文庫。
17
西義雄博士は、仏教徒の生き方についてこう論じている。「われわれの今日の生命は、仏の慧命の一貫として、
人類社会は勿論万法が縁起となり、即ち万法が相愛し相和し相信じ相助けて日々夜々に保たれておるものなので
ある。従って父母始め万人万境に感謝すると共に、われわれ個の存在も亦、万法中何等かの縁となり因となって、
他の人々、社会。民族、環境等のためになるように、日々夜々此一生の生活を尽くし、報恩感謝の業務に死の瞬
間まで努め励むべきであるということが、この大乗仏道の目的であり、仏陀の慈教の中心であるということである。」
(中央学術研究所特別論集『いのちの原点―仏教からみた生命』五八頁。)
18
『歎異抄』第五章 真聖全2の776頁。浄土真宗聖典834頁。The Collected Works of Shinran, Volume1,
p.664. この文は『心地観経』の「有情輪廻して、六道に生ずること猶し車輪の始終無きが如し。或いは父母と為り、
男女と為りて、世々生々に互いに恩あり。」(大正蔵3の30頁)による。
19
『浄土真宗聖典 歎異抄(現代語訳版)』10〜11頁。本願寺出版。1998年。
20
親鸞は『涅槃経』に基づいて、一子地の思想を重視する。『涅槃経』における「一切の衆生は、悉く仏性を有す
る」という教理を、仏があらゆる衆生を一子のごとく護り育てるという思想として、親鸞は理解するのである。ただし注
意すべきことは、親鸞は仏性を、実体として、それぞれの存在の中に認めたのではない。具体的にいえば、遺伝子
が仏性に相当するといった見方を仏教が示したのではない。親鸞において仏性とは、仏の慈悲の実現、すなわち、
あらゆる存在に仏の慈悲が遍満し、貫徹しているという見方を意味する。言い換えれば、その見方とは、森羅万象
すべてに、仏に連なる尊厳性を再発見し、すべての存在をありのままに分け隔てなく尊重する態度を示している。
21
源信『往生要集』上巻に記されているこの教説を、親鸞は行巻に引用している。真聖全2の32頁。浄土真宗聖
10
典注釈版184頁。The True Teaching, Practice, and Realization 2. Ibid., p.52.
22
『浄土和讃』114偈。真聖全二の四九九頁。浄土真宗聖典注釈版577頁。Hymns of the Pure Land, no.114.
Ibid., p.356.
23
拙稿「親鸞からみた生命の問題」195〜197頁。日本仏教学会編『仏教の生命観』。平楽寺書店
24
中村桂子『生命誌の世界』参照。NHK ライブラリー119。NHK 出版。2000 年 9 月。
25
Ronald Y. Nakasone. “Exploring the limits of Buddhist Thought: The Case of Theresa Ann Campo
Pearson,” pp.326. Bukkyo Shiso Bunkashi: Essays in Honor of Professor Takao Watanabe. Kyoto: Nagata
Bunshodo.1997.
※ 付記 文部科学省研究振興局ライフサイエンス課生命倫理・安全対策室のウェブサイトに、ヒトゲノム研究に関
する日本の指針、最近における生命倫理問題などが紹介されている。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shinkou/seimei/main.htm
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