講演要旨 - 国際仏教学大学院大学

則天武后の七宝
―仏教転輪王の図像・記号及びその政治的意味―
孫
英剛 (中国・復旦大学文史研究院准教授)
I. 序論
アジア大陸における仏教の興起と伝播は、宗教信仰の受容と展開の歴史のみならず、更
には地域によって異なる政治的イデオロギーと衝突しながら融合していく過程でもある。
世俗の王権に関して独自の概念と見方をもつ仏教は、中国に伝来後、中国固有の「天子」
という観念に加え、世俗の統治者にその統治を神聖化・合理化するための斬新な理論的根
拠を提供し、中世中国の政治史に深い影響を及ぼしたのである。天人感応・陰陽五行の思
想を根拠とし、統治者は必ず「順乎天而応乎人(天に従いながら民に応え)
」なければな
らないと強調される中国固有の君主の概念と較べ、仏教は、未来世の理想郷を描く時も、
理想的な世俗の君主を規定する時も、いずれもその独特の信仰的・思想的背景に基づいて
いる。中国の歴史では、仏教的な王権(Buddhist Monarchy)伝統が長期的・主導的影響
を形成するまでには至らなかったものの、大乗仏教が唱える、救世主としての弥勒
(Maitreya)や理想的君主である転輪王(Cakravartin)の概念は、魏晋南北朝から唐にか
けて数百年の間、当時の中国政治理論の構築と実践との両方に重要な影響を与えている。
その影響は、政治術語、国家儀式、君主呼称、儀礼改革、建築空間等の諸方面に顕れてい
た。近年、当該課題に関する研究の深化に伴い、中世における政治的イデオロギーとして
の仏教に対する認識もより明確になりつつある。従来の研究の問題点は、文献学・歴史学
の研究者は文字文献の整理と分析に長けるが、図像資料への注意は比較的少ない。一方、
美術史の専門家は図像・記号を研究する際に、中世の政治との関連性まで明らかにするこ
とは難しい。その結果、中世中国の政治史・仏教史に関する総体的理解にはなかなか至ら
ないでいるのが現状である。
そこで、筆者は、現状打開のため、仏教転輪王の身分標識と権力の象徴としての「七宝」
(saptaratna)をめぐり、それと関わる図像・記号を考察することを通して、「七宝」な
ど仏教由来の概念がいかに中世中国の政治世界に浸透していったのかを解明したい。また、
仏教転輪王の概念が中世中国の政治思想に与えた影響という課題を、より広い歴史的文脈
と構図の中で捉えることによって、中国及びその周辺の国家や地域の政治と文化の伝統に
対する意義を併せて明らかにしていきたい。従って、本稿は則天武后の七宝をめぐって展
開するものではあるが、実際の目的は、政治的イデオロギーとしての仏教の一面を明らか
にすることにある。この仏教独特の政治的イデオロギーは、かつてのアジアでは、多数の
文明体によって受け入れられ、実践されていた、「共有されたイデオロギー」(shared
ideology)とも言うべきものである。この観点から、則天武后が仏教を利用してその統治
の正当性を宣揚しようとした手法は、中国中世の歴史的展開において見ても、とりわけ独
創的な発想とも言えないし、むしろ、当時仏教が盛行した地域では普遍的に見られる、転
輪王の概念を用いて世俗の王権を解釈しようとする潮流の一環に過ぎなかったのではな
かろうか。
一、則天武后の七宝―転輪王の身分標識としての「七宝」
二、仏教経典に説かれている転輪王の「七宝」およびその政治的意味
三、仏教の歴史文脈における転輪王の「七宝」
四、余論
中世中国の心臓部であった長安や鄴城から北西辺境の敦煌に至るまで、各地に散在する
転輪王「七宝」の図像は、千年以上の長い歳月の厳しい洗礼を経て、今もなお揺るぎのな
い確実な証拠として、転輪王の観念が中世中国の政治、社会、思想に及ぼした影響を物語
っている。これらの図像資料は、文字資料としての文献と併せて、当時の歴史的景観に関
する我々の理解を広げ、宗教信仰そしてイデオロギーとしての仏教が有する中国中世史研
究にとっての意義をより全面的に示しているのである。
方法論の観点から、アジアにおける仏教の興起と伝播が、人類文明の発展史における重
要な展開であったと言えるならば、中国がその「仏教世界」における重要な一環であった
ことも認められよう。仏教は、各地の伝統文化と衝突しながら融合していく過程で、種々
多様な形態を生み出した一方で、多くの観念や要素は、互いに近似し相通ずる普遍性も示
している。それぞれの独自性と共通性を総合的理解する努力は、我々自身の国と文化に対
する理解をきっと深めてくれるに違いあるまい。