1 資産としての 顧客のマネジメント

第
1
章
資産としての
顧客のマネジメント
カスタマー・エクイティの基本命題は単純である。すなわち、他の資産と同様
に、顧客もまた企業や組織がその価値を測定し管理し、そして最大化すべき財務
的資産であるという主張である。カスタマー・エクイティをマネジメントするた
めには、統合的でダイナミックなマーケティングの仕組みが必要である。その際、
企業は、新規顧客の獲得や顧客の維持、そして既存顧客に対する追加売上を最適
化するために、財務的な評価法や顧客データを活用する。その結果、顧客との良
好な関係を維持することにより、顧客の生涯価値を最大化することができる。カ
スタマー・エクイティ管理の基礎となる多くの考え(たとえば、顧客維持マーケ
ティングや顧客の生涯価値測定など)は目新しいものではない。しかし、カスタ
マー・エクイティというアプローチを採用することで、それらの概念が統合され
新しい手法として進化することになる。
過去20年において、企業経営の潮流は、その時代と状況によって、コスト管理
か収益増加のいずれかに焦点を絞る傾向があった。カスタマー・エクイティ管理
は、この2つをうまくバランスさせる方法である。一方で、マーケティングに対
する投資収益率(ROI)と収益性を慎重に評価しながら、他方では、市場の成長
性を創造することを追求する。
カスタマー・エクイティの管理は、顧客との関係性(カスタマー・リレーション
シップ)を資産的価値として計算する手法以上のものである。カスタマー・エク
イティは、マーケティングを統合的に管理する仕組みであるから、同時に統合的
3
な事業戦略を必要とする。すなわち、企業には顧客のライフサイクルを通して、製
品と顧客を同時に管理する戦略を開発することが求められる。また、そうして開
発された戦略を企業が採用することが、カスタマー・エクイティに影響をおよぼ
す場合には、当該企業のブランド戦略や製品戦略を再構築することが要求される。
さらに言えば、カスタマー・エクイティの枠組みは、経営資源やマーケティン
グ努力の配分方法を変えてしまうことさえある。今日、ほとんどのマーケティン
グ機能は、製品ラインごとに割り当てられている。ところが、顧客の視点で考え
るならば、マネジャーは経営資源の配分を顧客ライフサイクルから決定すること
ができる。第9章で述べるが、カスタマー・エクイティ管理を採用した企業では、
顧客資産価値を最大化するために、企業組織、マネジメント・プロセス、業績測
定法を同時に再構築する必要がある。
チャールズ・シュワブ社が、絶好の事例を提供している。創業まだ間もない頃、
シュワブは、新規顧客の獲得に傾注していた。顧客一人ひとりのニーズやウォン
ツを理解するために投資することがほとんどなく、もっぱらフルサービスの証券
会社として価格訴求型の金融商品を独立独行の投資家たちに提供していた。
チャールズ・シュワブは、顧客ベースをより理解するという重要な約束を
主張していたにもかかわらず、顧客に関する知識への評価は低いものであっ
た。
「フィデリティは常にシュワブよりもシュワブの顧客についてよく知っ
ていた」と1996年に1人の内部者が発言したのである。
「彼らが構築してき
たものは、業務処理のシステムであった。本当に彼らが必要としていたのは
(注1)
顧客情報である。
」
その後、競合から圧力を受けたために、シュワブはカスタマー・エクイティの
2つの異なる手段で顧客への対応を始めた。すなわち、追加販売(既存顧客にさ
らに販売すること)と維持(既存顧客の維持)による顧客対応である。シュワブ
は、同社に長くとどまってくれる顧客と多面的な関係性を発展させるために、提
供できる商品とサービスを拡大することにした。シュワブの「OneSource」投資
信託市場は、証券会社や投資顧問会社が提供している単一ブランドごとの投資信
託よりも、さらに多くの投資家にアピールできる複数ブランドを包摂したサービ
スを提供した。ある専門家によれば、シュワブは複数の供給者のファンドに公平
にアクセスすることができる「最高品質の市場」を創出することによって、競合
4
第1部 新しいマーケティング・システム
(注2)
他社を出し抜いたのである。そして、同社は投資資産部門で高い顧客シェアを獲
得し、顧客の維持率を上昇させた。
カスタマー・エクイティのベネフィット
マーケティング・システムとしてカスタマー・エクイティを採用する企業は、
以下のようなベネフィットを得ることができる。
* 顧客獲得、顧客維持、そして追加販売への投資決定のために顧客の資産価値
を計算すること。
* 時間とともに変化していく顧客との関係性に合わせて、マーケティングへの
投資水準を調整すること。
* 顧客ごとにライフサイクル上での収益性を最大化するために、顧客獲得、顧
客維持、そして追加販売に関するマネジメント・プロセスや組織構造を統合
すること。
* 広範囲の製品やサービスを当該企業から購入したり、使用したりしてくれる
「顧客の全体像」を明確にすること。
* 顧客との関係性を修復したり、新規顧客を獲得したりするために、顧客との
相互作用を利用すること。
顧客を資産として管理するということは、以下の3つの理由から、これまで以
上に企業の成功を決定的なものにする。第1に、顧客を資産として考えるマーケ
ターは、製品やブランド、あるいは取引ベースの視点に自らを限定してしまうマ
ーケターより良い決定を下すことができる。第2に、今日のコンピュータ技術に
よって、顧客資産の管理がより正確にできるようになった。カスタマー・エクイ
ティを理解するために必要な情報を、企業が効率よく入手したり処理したりする
ことができるようになったのである。
最後に、情報システムやコミュニケーション、さらには製造技術の進歩によっ
てもたらされた市場の変化は、企業が個々の顧客価値を理解し管理することを促
すことにより、最終的にはマス・マーケターたちに取って代わることになると考
えられる。
第1章 資産としての顧客のマネジメント
5
より良い決定を行う
資産としての顧客の価値を最大化するという考えは、一見して当たり前のよう
に思われる。しかし、ほとんどの企業は顧客を資産とみなして行動してはいない。
むしろ、彼らは製品ラインあるいは取引単位で利益を最大化している。製品ライ
ンごとに利益を最大化する人たちは、管理ツールとして伝統的な会計測定法や製
品管理技法を用いている。資産として顧客を管理することを忘れて、製品別ない
しは取引単位で収益性を算出すると、短期的な利益を増加させることはできるが、
その代償に長期的な繁栄を失ってしまうことになる。
1970年代後半のゼネラル・モーターズ(GM)の戦略を見れば、その違いが理
解できるだろう。当時のGMの経営目標は、短期的利益の極大化と株主配当の増
加であった。財務分析によると、小型車では相対的に利益を上げることができな
いという指摘があった。GMは利益が上げられる大型車の生産に製造ラインを振
(注3)
り向け、小型車は軽視した。驚くなかれ、その戦略は奏功し、GMの利益は即座
に改善した。日本の自動車メーカーはGM車より小型・高品質の低価格車を投入
していたが、その同じときに、GMは小型車の製造ラインを中止することを決定
していたのである。
(注4)
小型車は、若年の初回購入者を獲得する仕組みとしての役割を担っていた。そ
の同じ顧客が大型車を購入しはじめたとき(すなわち、彼らが顧客ライフサイク
(注5)
ルを通して進化するにつれて)
、彼らは引き続き日本車を購入したのである。不
注意にも、GMは、日本車かドイツ車を購入しながら成長していく米国人消費者
の若者世代をつくってしまったのである。
GMはカスタマー・エクイティ管理を実践できなかった。たとえ利益は小さく
ても、低価格・高品質車の販売は、長期的に顧客ベースを維持するために重要で
あった。アルフレッド・スローンの輝かしい「製品―梯子戦略」
(品質と価格の
両面で、下から上に順番に上がっていく車種系列をつくったこと)の継承者たち
が、自動車ビジネスにおける顧客獲得と顧客維持との関係とその重要性を見失っ
てしまったのは皮肉なことである。製品マネジメント戦略によって、GMの市場
シェアは20年間で約15%(およそ45%から30%へ)減少してしまった。
顧客を資産として見ることは、ブランド・エクイティを主要なマーケティング
資産として扱うこととは立場が大きく異なっている。2つの立場は相反するもの
6
第1部 新しいマーケティング・システム
ではないが、目的が違っている。ブランドを中心に考えることは、マーケティン
グ活動に明確な目標を与える。すなわち、ブランドごとの総収入を最大化し、ブ
ランドへの投資から最大限のリターンを引き出してくることである。対照的に、
顧客を資産としてみなす立場を採用することは、ブランドやサービスに関して企
業全体の将来的な総所得の流れに焦点を当てることである。それは、ブランドと
いう狭い隙間を通して顧客を見ることではない。
表1−1に示されるように、顧客を資産とするアプローチを採用している企業で
は、ブランド・エクイティを基盤とする企業と対応の仕方が異なっている。ブラ
ンド志向の企業は、ブランドに対する知覚価値を構築する手段として、製品の品
質と顧客サービスに焦点を当てている。彼らはブランドのポジショニングを広告
し、プロモーションがブランドの価値を希薄化させることを懸念している。ブラ
ンド志向の企業では、既存ブランド名を用いて新しい分野に乗り出すライン拡張
を通して製品開発が行われることが多い。こうした企業は、多段階流通システム
の中で、どうすれば自社ブランドが競合企業に対抗して十分に強いブランド力を
行使できるかどうかに注意を払っている。
カスタマー・エクイティ志向の企業では、同じマーケティング要素でもその機
能が大いに異なっている。品質やサービスは、顧客維持の手段として機能する。
広告メッセージは、顧客と企業の間で親近感を形成する役割を担っている。戦略
表1-1|ブランド・エクイティ・アプローチとカスタマー・エクイティ・アプローチの特徴
マーケティング活動
ブランド・エクイティ
カスタマー・エクイティ
製品とサービス・
クオリティ
強い顧客選好の創造
高い顧客維持率の創造
広告
ブランド・イメージとポジシ
ョニングの創造
顧客からの親近感の創出
プロモーション
ブランド・エクイティの枯渇
再購買の創造と生涯価値の増大
製品開発
側面攻撃ブランドや関連製品
をつくるためのブランド・ネ
ームの使用
既存顧客に販売することを目的
とした製品の獲得
セグメンテーション
顧客特性と製品ベネフィット
によるセグメンテーション
顧客データベースによる行動面
からのセグメンテーション
流通チャネル
多段階流通システム
顧客への直接流通
顧客サービス
ブランド・イメージの強化
顧客からの親近感の創出
第1章 資産としての顧客のマネジメント
7
イベントとしてのプロモーション活動は、再購買や顧客との関係性構築によって
もたらされる生涯価値を増加させるようにデザインされる。また、新製品は既存
顧客へ関連販売(クロス・セリング)する機会を提供している。企業が顧客に直
接販売するにせよ、中間流通システムを利用するにせよ、一人ひとりの顧客から
情報を獲得したり、彼らの購買行動について直接的な知識を得たりすることはき
わめて大切である。
なぜカスタマー・エクイティなのか?
企業がカスタマー・エクイティ・アプローチを採用する動きを見せているのに
は、2つの基本的な理由がある。第1に、いくつかの重要な新技術が結びつけら
れたことで、顧客資産ベースのマネジメントが実現可能となったからである。第
2に、今日の厳しいビジネス環境の中では、市場機能の変化を含めた技術力の向
上が、企業の資産としての顧客価値を最大化するように、マーケティングを管理
するよう求めているからである。
カスタマー・エクイティのマネジメントが可能になった理由
以下の4つの分野が、その領域を超えて同時並行的に発展したことで、カスタ
マー・エクイティの管理が実現可能になった。すなわち、情報技術の利用可能性、
コミュニケーション手段の低コスト化、洗練された統計モデルの開発、そして柔
軟な実行システムの登場である。カスタマー・エクイティの管理がうまくできる
かどうかは、顧客の購買履歴データベースを構築し、そのデータベースを技術的
に活用できるかどうかに依存している。コンピュータによる計算コストが低下し
つづけているおかげで、80年代の数百分の1のコストで、小さな企業が大規模な
データベースを管理できるようになった。大規模で複雑なデータベースを扱う能
力は、大きく向上しつつある。顧客との関係性を管理するために必要とされるソ
フトウェアが登場し、今でもその能力は伸長している。
ターゲット設定が可能なコミュニケーション媒体として、インターネットが急
速に成長を遂げたことで、旧来型の技術を用いたときと比べ数百分の1以下の費
用で、企業は顧客に接触してコミュニケーションをとることができるようになっ
8
第1部 新しいマーケティング・システム
た。郵便を用いたダイレクト・マーケティングを採用した場合、1000通当たりに
ほぼ400ドルから1000ドルの費用がかかる。ところが、インターネットを通して
顧客のeメールアドレスとコミュニケーションすれば、事実上無料である。伝達
スピードが速いので、顧客はほとんど瞬時に企業が送信した情報を取り出すこと
ができる。初期のダイレクト・マーケターたちが夢にも思わなかったような低い
コストで、企業は好みの顧客に接触できるのである。また、受取人ごとに別々の
メッセージを出したり、見込み客を選んで電子クーポンを発行したりもできる。
さらには、人工知能を使って、特定の質問に反応した顧客とだけ、自動的に双方
向コミュニケーションをとることが可能なソフトウェアが開発されつつある。
さらには、クッキーの読み取り技術が進歩したおかげで、顧客の購入行動が追
跡できるようになってきている。現在、企業は最も予測可能性の高い指標、すな
わち直近の行動記録を用いて消費者の将来の行動を予測できる。フォーカス・グ
ループ・インタビューを実施するとか、顧客に何が欲しいのか(あるいは欲しい
と考えているもの)をアンケート調査で尋ねる代わりに、企業は実際の購買履歴
を調べることができるというわけである。オンライン顧客に対して、彼らの期待
に応えるのと引き換えに、個人データを使用することを許可してもらえれば、行
動データをさらに有効に活用する流れが加速するだろう。
企業は、単なるデータをマーケティング上の知見(インサイト)に変換するた
めに、最先端の分析ツールを用いなければならない。協調フィルタリングのよう
な分析技術を用いることで、顧客購入パターンを追跡したり、顧客が欲しがる書
籍や映画、あるいは製品の種類について推奨することができる。マーケティング
の効率を高めるためには、顧客の価格感度やマーケティング活動への反応を測定
することが必須である。そのためのモデリング手法が利用可能になっただけでな
く、より洗練されたデータマイニングの技法が開発されている。
カスタマー・エクイティのマネジメントに取り組むべき理由
図1−1では、カスタマー・エクイティのマネジメントを必要とするようになっ
た、マーケティングの世界における破壊的な変化を明確にするとともに、そうし
た変化を促している基本的なトレンドを示している。
* 前節で示した理由から、情報に基づくターゲット・マーケティングは、総括
第1章 資産としての顧客のマネジメント
9
図1-1|破壊的な変化と、その基盤となるトレンド
トレンド
破壊的な変化
効率的なデータベース
ワン・トゥ・ワン
インターネット・
コミュニケーション
ターゲット・マーケティング
における自由度の増大
製品1個からの製造
内部補 の廃止
行動データの
爆発的増加
チャネルの急増
軋轢のない市場
完璧に近い
オンライン情報
「階級内最高」の市場
データの洪水
柔軟な提携
ネットワーク
顧客ロイヤリティ
の争い
垂直の連鎖から
無限の選択へ
中間業者の排除
10
第1部 新しいマーケティング・システム
的なマス・マーケティングよりも、ますます効率的でかつ効果的になりつつ
ある。
* 利益をもたらしている顧客を犠牲にしながら、収益性が低い顧客に必要以上
のサービスをすることで目標利益を達成しようとするマス・マーケティング
戦略は、結果として、より魅力的な顧客を競合のターゲット獲得努力により
奪われてしまう。
* 顧客が選択すべきブランドや商品に対して、ほぼ完璧な情報を得ることがで
きるようになったので、スイッチング障壁は劇的に低くなった(この点に関
しては、第4章で議論する)
。
* 利用可能になった大量のデータを、顧客獲得や顧客維持、さらには既存顧客
への関連販売を効率的に行うために利用している企業は、そうでない企業よ
りも、マーケティング上の知見を得るための作業に、費用データをより効率
的に関連づけることができる。
* 企業は顧客の購買行動をコントロールするため、もはや通常の垂直的チャネ
ル・システムに頼らなくてもよい。
これら5つの要因で特徴づけられた世界において、一人ひとりの顧客の資産と
しての価値を理解し、そこから最高の資産価値を獲得し維持するために、顧客に
合わせてマーケティング努力(およびコスト)を組み立てる企業は、焦点を明確
にさせないマス・マーケティングを打ち負かすことになるだろう。
測定:カスタマー・エクイティの中心
顧客を資産として管理するためには、顧客の価値を測定し、管理し、そして資
産価値を最大にすることが必要である。TQM(トータル・クオリティ・マネジ
メント)の概念は、製造とオペレーションのマネジャーに対して、工程管理のた
めには測定が必要であることを教えた。マーケティングは常に測定に関する脆弱
さを内包している。マーケティング・リサーチは最も周到なマーケターが通常用
いる測定法である。しかしながら、マーケティング・リサーチの手法を用いても、
実際の売上や利益を容易に測定することはできない。第8章で述べるカスタマ
ー・エクイティ・フロー計算書などを用いることで、カスタマー・エクイティで
第1章 資産としての顧客のマネジメント
11
はもっと直接的に価値を測定する方法を提示する。
対象が測定可能であれば、マネジメントは容易になる、なぜならば、意思決定
が意見に基づくのではなく、事実に基づいて行われるようになるからである。第
7章で議論するように、特定の事柄について情報をもっているマネジャーは、新
規顧客、休眠顧客、あるいは長期にわたってコア顧客であった顧客ごとに、顧客
のライフサイクルを通してマーケティング・ミックスを最適化することができる。
カスタマー・エクイティ・アプローチは財務主導的なので、企業は資産としての
顧客価値を最大化するのである。
本書の新しさ
本書では新しい考えをいくつか提供しつつ、多くの既存のマーケティング・ア
プローチを統合しようとする。図1−2には、カスタマー・エクイティ・モデルの
主要な要素が示されている。
カスタマー・エクイティ管理は、多くの企業が実務で実行している「マーケテ
ィング」とは異なっている。もし納得がいかない場合には、BOX1−1の中の基準
に照らしてみて、あなたが用いているマーケティング・アプローチをテストして
図1-2|カスタマー・エクイティのモデル
報酬
新規顧客獲得
追加販売
投資
12
第1部 新しいマーケティング・システム
顧客維持
顧客
ライフサイクル