カスタマー・エクイティの発想

第
1章
カスタマー・エクイティの発想
□ブランド・エクイティからカスタマー・エクイティへ
アルゼンチン人のマルコスは、アメリカでは有名なある商品をアルゼンチンで売り
出す仕事を始めた。その商品はアメリカ、ヨーロッパなどの主要国ではすでにトップ
ブランドとして知られ、マーケット・シェアもナンバーワンを占めていた。そのブラ
ンドはまた、世界的にも知名度が高く、まだ販売されていない地域でも知られていた。
したがってどの基準をとっても、しっかりしたブランド・エクイティを確立していた
と言えよう。
そうした強いブランド力をもったこの商品が、まずアルゼンチンで、次いで残りの
ラテンアメリカ諸国でそう時間をかけずに市場の有力商品となることは、だれもが確
信していた。
しかしいざ売り出されてみると、強力なプロモーションにもかかわらず、この商品
は市場に足場を固めることができなかった。競合する国内商品は実際、その商品に比
べて品質も値段も大差なかったのだが、しっかりしたブランド力をもっていると思わ
れたこのアメリカの商品は一定のマーケット・シェアすら確保することができず、国
内商品の後塵を拝する結果となった。優れたブランド・エクイティを誇っていたにも
かかわらず、なぜこのようなことが起きたのだろうか。
よく考えてみれば、原因ははっきりしている。このアメリカの商品は優れたブラン
ド・エクイティを有してはいたが、国内商品のほうが顧客をつかんでいたということ
だ。市場で勝ちを収めるにはブランド・エクイティだけでは不十分だったのだ。市場
での成功のカギはブランド・エクイティではなく、カスタマー・エクイティにあった
のである。
S カスタマー・エクイティとは何か
企業の有する長期的価値の大部分は、その企業と顧客との関係が有する価値によっ
て決まる。その全体的価値をわれわれはカスタマー・エクイティと呼んでいる。この
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言葉は、最初ロバート・ブラットバーグとジョン・デートン(1)によって使われたが、
われわれの定義とはいくぶん異なる。
われわれはカスタマー・エクイティを次のように定義している。
企業の「カスタマー・エクイティ」とは、その企業のすべての顧客の(物価上
昇分を割り引いた)生涯価値の合計である。
言い換えれば、顧客の価値は、現時点での利益だけではなく、長期にわたって顧客
が企業に与えるであろう純貢献高を含んだものだということである。これらを総計し
たすべての顧客の企業にとっての全体的価値が、われわれの言うカスタマー・エクイ
ティである。
【カスタマー・エクイティの計算例】
たとえば、ある企業が A さんと B さんという2人の顧客をもっていたとす
る。A さんは企業利益に対して年 100 ドルの貢献をする。また彼は 10 年間、
顧客であり続けると予想できる。B さんの場合、今年度 200 ドルの貢献が期
待できるが、次年度以降は顧客としては残らないと見られている。
現在の割引率を適用した場合、A さんの生涯価値は 650 ドルである(この
計算は 10 年間で予想される物価上昇分を割り引いているので、100 ドル×
10 にはならない)。一方Bさんの生涯価値は今年度貢献分の 200 ドルのみで
ある。したがって、この企業のカスタマー・エクイティの総計は$650 +
$200 =$850 である。
大部分の企業にとって、カスタマー・エクイティがその企業の有する諸価値のうち
最も重要な構成要素であることは明らかである。もちろん企業の顧客価値はその企業
の価値全体ではない。物的資産、企業コンピタンス、知的資産なども価値を生み出す。
しかし、企業が現在有している顧客グループこそが、最も確実で信頼できる将来収益
の資源なのである。したがって、このカスタマー・エクイティをどのように活用する
かが、企業の意思決定の中心課題となる。そしてこの課題を一貫性をもって実行する
ことが、企業に強力な競争優位をもたらすのである。
第 1 章 カスタマー・エクイティの発想
3
S カスタマー・エクイティへのフォーカス移動は不可避
現在、経済先進国では、いくつかのトレンドが広く相互に関連しあいながら、経済
の姿を変化させつつある。したがって企業経営においてもブランド・エクイティから
カスタマー・エクイティへとフォーカス移動させることが不可避となっている。そし
てその中心をなすのが製品(プロダクト)から顧客(カスタマー)へのフォーカス転
換である。
[モノ製品からサービスへ]これらのすべてのトレンドの基底となっているのは、経
済先進国におけるモノ製品からサービスへの長期的な移転である(図 1 ― 1 参照)。た
とえば、1900 年にアメリカのサービス部門で働く労働者は約 30 %であったが 70 年に
は 64 %(2)に上昇し、95 年には約 77 %(3)になっている。他の経済先進国はアメリカ
に数年遅れたものの、同じくこのサービス経済へのトレンドにのって、同様のパーセ
ンテージに達している(4)。
[1回ごとの取引からリレーションシップへ]まず「旧来の」モノ経済を取り上げて
みよう。たとえば、典型的な日用品である朝食用のシリアルの場合、消費者はまずケ
ロッグのコーンフレークを購入するかもしれない。そして次の機会には他の商品を買
い、またその次にはまた違った商品に変えるかもしれない。モノ経済はどちらかと言
えば1回ごとの取引(トランザクション)志向である。経営者の関心は、自ずと顧客
を維持することよりも顧客を引きつけるための恒常的な戦いに向かっている。そして
それはブランド・エクイティが支配する戦場である。
次に「新しい」 サービス経済を考えてみよう。市場ではサービスはモノとは異な
■図 1 ー 1
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長期のトレンド
オールド・エコノミー
ニュー・エコノミー
モノ製品
サービス
1回ごとの取引
リレーションシップ
顧客の誘引
顧客の維持
プロダクト・フォーカス
カスタマー・フォーカス
ブランド・エクイティ
カスタマー・エクイティ
った働きをする。典型的なサービスである銀行の小口金融の場合、銀行の顧客は口座
を開き、一定期間銀行からサービスを受け続ける。銀行との取引で嫌な経験をしたこ
とのある顧客は、他行との取引を考えたりもするが、たいていは取引のたびごとに新
たに銀行を選んだりはしない。
[顧客を引きつけることから顧客の維持へ]顧客を維持し続けることは銀行の成功に
とって非常に重要な課題である。したがって顧客とリレーションシップを築くことは
最重要事項であって、銀行のあり方の中心をなすものだ。だが一方で銀行は、新規顧
客の開拓にも頭を悩まし、顧客維持やクロスセリング(関連販売)と同じくらい経営
者の関心を引いている。とはいうものの、この分野では、カスタマー・エクイティの
ほうが優勢で、ブランド・エクイティの役割は小さい。
[プロダクト・フォーカスからカスタマー・フォーカスへ]一般に、顧客への関心と
リレーションシップ・マネジメントへの関心を強めることは、製品を重視する姿勢を
弱めることになる。しかしこのことは、製品の重要性が失われたということではない。
それは、顧客を満足させるという点で二次的になってきたというにすぎない。見方を
変えれば、この技術的環境が急速に発達する世界にあって、新しい製品は次々と生ま
れ去っていくが、顧客は残る、ということだ。どんな製品が取り上げられ、またいか
に製品へのニーズが変わろうとも、成功の秘訣は顧客との間に有益なリレーションシ
ップを保つことにある。ちょうどクルマに対する顧客のニーズや好みが徐々に変化し
て、プリマスからクライスラーへ、そしてベンツへと変わっていくように、顧客の商
品に対する好みは長期的には変化していく。現代の企業に求められているのは、たと
え個人顧客の特定商品へのブランド・ロイヤルティが変化しても、顧客とのリレーシ
ョンシップを維持することである。
[ブランド・エクイティからカスタマー・エクイティへ]このように、サービス経済
へ向かう絶えざる変化は、否応なくブランド・エクイティからカスタマー・エクイテ
ィへの移動を導く。しかし、ブランド・エクイティのようにビジネス界の人々や研究
者たちによって十分に研究された概念と異なり、現時点ではカスタマー・エクイティ
を理解する努力はほとんどなされていない。本書の目的は、そうしたカスタマー・エ
クイティを理解するためのフレームワークを提供し、有益な顧客関係の醸成を通じて、
長期的な利益率を最大限にする資源にいかにフォーカスしたらよいかを示そうとする
第 1 章 カスタマー・エクイティの発想
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ものである。
S 利益はどこからもたらされるか
ほとんどのビジネスでは、製品ごとの利益が詳しく計上されている。詳細な会計報
告が出され、各製品に関連する費用対効果および企業の純益への各製品の貢献が記さ
れている。その結果、利益を生む製品の生産は継続されるか関連製品に拡大されるが、
利益の見込めない商品は切り捨てられることになる。こうした発想の前提には、製品
こそが利益を生み出すという理解があり、それはほとんど疑問視されることはない。
だがそれは、はたして真実なのだろうか。
ここに、当座預金を開設しようとしている人がいるとする。小口金融を主とする銀
行では、当座預金は費用がかかり儲けの薄い商品として知られている。そこで銀行は、
その当座預金口座は利益の見込めない商品として位置づける。しかしもしこの顧客が、
この銀行と一定の取引を続けることを決め、普通預金口座を開いたり、自動車ローン
や住宅ローンを利用し始めたらどうだろう。こうした取引が当座預金を通じて行われ
るのであれば、当座預金もそんなに悪い商品ではないことになる。ここで注意すべき
ことは、特定の商品(口座)に限定して経理内容を見ている限り、長期的な見方は生
まれてこない、ということである。
では、この銀行の利益はどこから発生するのだろうか。利益は、明らかに、長期的
な顧客との関係から生み出される。個々の商品の利益は商品ごとではなく、むしろ利
益の見込めるカスタマー・リレーションシップを生み出すというシナジー効果によっ
てもたらされるのである。
この例は、利益は顧客ごとに分析されるべきだ、ということを示している。商品ご
との会計処理が必要ないというわけではないが、あくまで二次的な役割にとどめるべ
きだ。重要なのは、利益と企業の長期的価値の実体を把握するための、顧客ごとの詳
細な会計情報なのだ。
□カスタマー・エクイティのドライバー
カスタマー・エクイティの重要性を理解することはそれほど難しいことではない。
難しいのは、企業のカスタマー・エクイティをいかに増大していくかを決定すること
だ。いったい、最良の投資利益を生むために、企業が動かすことのできるレバー(た
とえば、広告、品質、価格、顧客維持プログラム、等)はどれなのだろう。そして企
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業はどこにフォーカスすべきなのだろうか。
S バリュー・エクイティ
顧客が製品を選ぶときは、主に品質、価格、利便性という3つの価値に左右される。
これら3つの要素は、どちらかと言えば、客観的・合理的なものである(たとえば、
製品の価格やその客観的属性については、通常あまり議論する余地はない)。われわ
れは、こうした顧客の価値認識から生まれるカスタマー・エクイティを、その企業の
バリュー・エクイティと呼ぶ。
S ブランド・エクイティ
顧客は、商品について、その企業の客観的属性では説明できない部分についても一
定の認識をもっている(このブランド・エクイティの見方は、ワグナー・カマクラと
ゲイリー・ラッセルのブランドに関する先駆的な研究(5)における定義と同じもので
ある)。たとえば、あるクルマはセクシーで刺激的だ、またはクラシックだと見られ
る。こうした評価はどちらかと言えば、感情的ないし主観的なもので合理的とは言え
ない。このように、その商品についての主観的な評価によって得られるカスタマー・
エクイティを、われわれはその企業のブランド・エクイティと呼ぶ。
S リテンション・エクイティ
カスタマー・エクイティは、顧客がその企業を選択してビジネスを行うことからも
生まれる。企業のビジネスは、つい最近その企業を選んだ人が続けて次回も選択した
り、あるいは、前回はその企業を選択しなかった、またはまったくその市場を利用し
たことのない人が今回選択したりすることによって生じる。リピート顧客にとっては、
企業の顧客維持プログラムやリレーションシップ構築の活動は有効に働き、顧客がそ
の企業を引き続いて選択するという確率(オッズ)を高める。われわれは、このよう
な顧客維持プログラムやリレーションシップ構築から生まれるカスタマー・エクイテ
ィを、その企業のリテンション・エクイティと呼ぶ。
S どこにフォーカスするか
カスタマー・エクイティはこのように、リテンション・エクイティ、バリュー・エ
クイティ、ブランド・エクイティの3つの構成要素に分かれる(図 1 ― 2 参照)。これ
らの構成要素のうち、どれがその企業や産業に最も強い影響をもつかを決定すること
第 1 章 カスタマー・エクイティの発想
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■図 1 ー 2
カスタマー・エクイティのドライバー
バリュー・
エクイティ
カスタマー・
エクイティ
ブランド・
エクイティ
リテンション・
エクイティ
によって、最もインパクトの大きいカスタマー・エクイティのドライバーまたは駆動
要因(中心的に機能する要因、以下「ドライバー」とする)を見つけだすことができる。
□経営戦略のカギとなるカスタマー・エクイティ
カスタマー・エクイティとそのドライバーを分析することによって、企業は効果的
な戦略を立てるための見取図を入手することができる。それは、あらゆるビジネスに
おいて第一の関心事である、顧客をベースとした長期的な収益可能性に最も効果的な
戦略的イニシアティブを明確にしてくれるだろう。
本書は以下において、効果的な戦略の基礎としてのカスタマー・エクイティとその
ドライバーをいかに使いこなすかについて詳細な検討を行っていく。また現実の顧客
データを利用して、5つの産業に属する企業を実例として挙げながら具体的に分析す
る。しかし、その前に、経営者がこれらのコンセプトを使って、どのように意思決定
に至るのかという全体像を示してみたい。そこでまず、比較的わかりやすい例で説明
しよう。
機械部品メーカーである XYZ 社の場合を見てみよう。この企業は最初、機械部品
業界において、カスタマー・エクイティのどのドライバーが最も大きな差別化要因と
なるかを検討した(図 1 ― 3 参照)。ここで注意してほしいのは、差別化要因は産業ご
とに異なるという点である。たとえば、電話サービス業などではバリュー・エクイテ
ィがキー・ドライバーであり、化粧品などのパッケージ商品の業界では1回ごとの取
引が大切なので、ブランド・エクイティが最も重要となる。また、銀行のようにリレ
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■図 1 ー 3
特定の産業におけるドライバーの相対的重要性
ド
ラ
イ
バ
ー
の
効
果
︵
産
業
平
均
︶
バリュー・
エクイティ
ブランド・
エクイティ
リテンション・
エクイティ
カスタマー・エクイティのドライバー
ーションシップ志向が強い産業では、リテンション・エクイティが主要な要素となる。
図 1 ― 3 から、機械部品業界では一般に、リテンション・エクイティがカスタマ
ー・エクイティのドライバーとしては最も重要性が低く、バリュー・エクイティが最
も重要性が高いことがわかる。このことは、XYZ 社にとって非常に有益な情報を提
供している。この企業はバリュー・エクイティに重点を置く一方、顧客維持について
はあまり配慮する必要のないことが読み取れるからである。
こうした知識を得たうえで、XYZ 社はこの業界のトップ企業のカスタマー・エク
イティとマーケット・シェアとを比較検討して、自社の位置付けを明確にしていく。
次の図 1 ―4では、XYZ 社がこの業界のトップ企業に比較して、マーケット・シェア
では 80 %、カスタマー・エクイティでは 60 %であることが示されている。このこと
は、重大な赤信号が点灯していることを示している。つまり、現在のマーケット・シ
ェアが示しているほど、XYZ 社の長期的な業績が潜在的な力を保持していないこと
を表しているからである。XYZ 社では明らかに、市場での事業推進力が低下する前
にカスタマー・エクイティを補強する必要がある。
図1―4は、XYZ 社がどの分野にフォーカスすべきかをはっきりと示している。こ
の企業のリテンション・エクイティは業界第1位である。しかし、リテンション・エ
クイティは(図 1 ― 3 が示しているように)機械部品産業では重要性が低い。この産
第 1 章 カスタマー・エクイティの発想
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■図 1 ー 4
特定企業のその産業における相対的な状況
100%
100%
80%
70%
60%
と業
比界
較ト
しッ
たプ
状企
況業
0%
50%
マーケット・ カスタマー・ バリュー・
シェア
エクイティ エクイティ
ブランド・ リテンション・
エクイティ エクイティ
カスタマー・エクイティの測定値
■図 1 ー 5
バリュー・エクイティのドライバー(例示)
ド
ラ
イ
バ
ー
・
イ
ン
パ
ク
ト
品 質
価 格
バリュー・エクイティのドライバー
10
利便性
業においてカギとなるカスタマー・エクイティのドライバーはバリュー・エクイティ
なのである。また、XYZ 社のバリュー・エクイティに関する実績は競争水準を下回
っている。こうした情報によって、XYZ 社はバリュー・エクイティにその能力を集
中すべきだということを知ることができる。
XYZ 社はしたがって、バリュー・エクイティのドライバーをより強化するであろ
う。図 1 ― 5 を見ると、バリュー・エクイティの主要なドライバーが品質であること
がわかる。したがって XYZ 社は、競合他社の実績を注意深く比較して、品質の向上
に向けて工夫しなければならない。もし現実に、自社製品の品質評価が競合他社より
も低いとすれば、次に品質向上に必要なドライバーとそれを構成するサブ・ドライバ
ー(下位要素)を掘り下げて検討し、必要な対策を講じる必要がある。
こうした分析は、戦略的で的を射た意思決定を可能にする。経営者は最も効果的な
長期的インパクトを生み出すような、カスタマー・エクイティのドライバーに企業の
資源を配分することが可能となるからだ。
カスタマー・エクイティは戦略的経営に必要な幅広いフレームワークを提供し、経
営者はそれによって、効果的な変革を引き起こすことができる。カスタマー・エクイ
ティはすべての企業の長期的な収益性のカギであり、カスタマー・エクイティのドラ
イバーの分析は、戦略的な資源配分に効果的に集中するための全体的なフレームワー
クを提供してくれる。
第 1 章 カスタマー・エクイティの発想
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