中国における農村幼児教育の発展と変革1

中国における農村幼児教育の発展と変革1)
劉 郷 英 訳
唐 淑 著
訳出にあたって
南京師範大学の唐淑教授は長年中国の農村幼児教育の実践と研究の第一線で活躍している学者である。本論文は、唐淑教授
が2004年10月9日に日本福祉大学で行われた21世紀COEプログラム2004年度シンポジウム―「変化する東アジアにおける保
育・幼児教育の動向と子育て支援―中国・韓国における保育と子育て支援について―」の報告を加筆したものである。この論
文は、中国の農村幼児教育の歴史的変遷、農村幼児教育の改革に関する政策および今日の現状と問題点について検討したもの
であり、この分野の情報としては日本で最初のものと思われる。
この論文の対訳は、政策科学を専攻している学生たちの中国語文献講読および中国事情の学習の一助となることが期待される。
一、
農村における幼児教育の沿革
(一)中国の農村幼児教育事業の開拓者と創始者―陶行知
(二)新中国における農村の幼児教育事業
二、 中国における農村幼児教育の現状
(一)教育事業の発展
1、幼児園の曲折に満ちた発展
2、幼児のための就学前クラスの迅速な発展
3、多種多様な形式の幼児園の出現
(二)カリキュラム改革
(三)システムを構築する
三、
得られた示唆と考察
(一)事業の低下現象に対する調整対策
(二)小学校化、都市化の現象に対する改善対策
中国は農業大国であり、農村の人口は80%を占めている。従って、中国の教育事業の主要な部分は農村にあり、幼児
教育も例外ではない。
一、
農村における幼児教育の沿革
(一)中国の農村幼児教育事業の開拓者と創始者―陶行知
陶行知2)(とうこうち、1891−1946)はアメリカに留学し、デューイ3)(1859−1952)に師事している。彼は、1917年
に帰国して南京高等師範学校教授に就任し、平民教育に熱心であった。陶氏は、「中国は農業国であり、大方は田舎に
住んでいる。それゆえ、平民教育とは・・・・・・つまり農村へ行く運動に他ならない」と次第に認識するようになり、「百
万の同志を集め、百万の学校を創設し、百万の農村を改造しよう」と呼びかけた。実地での調査をふまえて、陶氏は、
当時の幼稚園が罹っていた「三大病」―外国病、浪費病、金持病―を鋭く指摘し、こうした傾向に対して、真っ向から
中国的で、節約的な平民のための幼稚園を作ろうと提起していた。調査によって、彼は、「工場」と「農村」こそが幼
稚園にとっての新大陸であることを見出した。1927年の春、陶行知は南京郊外で暁荘実験農村師範学校を創設した。そ
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政策科学 12−2,Jan. 2005
の年の秋、彼は学生を率いて中国最初の農村幼稚園―南京燕子磯幼稚園を創設した。その後また、邁皐橋、暁荘、和平
門などの五つの中心となる幼稚園と上海にある工場の労働者幼児団を創設した。
陶行知が暁荘師範に在任していた間に、初歩的に彼の「生活教育―生活即教育、社会即学校、教え・学び・為すこと
の合一(教学作合一)」という理論体系が形成された。生活教育理論の指導のもとで、彼の幼稚園は幼稚園の生活化に
成功したのである。彼の幼稚園は、幼児に、健康な心身、労働の技量、科学の頭脳、芸術の趣味、社会を改造する精神
を備えさせ、将来新時代の創造者になるためにしっかりと基礎作りをすることを教育の根本目標にしていた。また、そ
の園は、社会生活や、自然現象、郷土の特産品および風土と人情などの全てのものを教材として使い、季節、気候、動
物、植物、農事、子どもの遊びなどの8項目で園児の一年間の生活暦を編制し、郷土の美味しいお菓子、上等な廃物材
料、可愛らしい自然物、郷土の歌謡や遊戯などがすべて課題に含まれている。「教え・学び・為すことを合一」という
指導法を取り入れながら、陳鶴琴4)(ちんかくきん、1892−1982)の単元教学法も参考にして教育活動を展開していた。
その他に、教師と師範生が自ら働いて草ぶきの屋根と土塀付きのあずまや式の園舎を建てた。この園舎は、実用的で美
しく、玄関前の草地にはブランコや滑り台が設置されており、玄関の両側には陶行知の肉筆の対聯―「ここが学校では
ないと言う人がいたら、学校ではないと言わせておきなさい。何よりも乳幼児のためにこの園を作り、乳幼児に与えた
ものだ。」―が掛かっていた。室外には小さな農場と小さな花壇があった。当時アメリカの教育家であるキルパトリッ
ク5)(W.H.Kilpatrick、1871−1965)が幼稚園を見学した際に、「おお、これは他の国ではまだ見たことがない。実にす
ばらしいやり方だ。」と称賛したという。
農村幼稚園の教員養成に関して、陶行知は幼稚園を中心に古い幼稚師範教育を改善すると同時に、「芸友制」のやり
方で多くの幼稚園教師を養成すると主張した。すなわち、師匠の友人になって師匠について見習う方式で、幼稚園で学
びながら教師として働くというやり方である。彼は、また農村幼児教育に関する研究活動もたいへん重視していた。
1929年に暁荘幼稚教育研究会が創立され、農村の子どもの心理、衛生、教育、教員養成などの問題について検討した。
これを基礎にして、陶行知の学生たちは『暁荘幼稚教育』
、『農村幼児団』
、『農村幼稚教育経験談』などの専門書を出版
した。これらの専門書は現在全て『陶行知幼児教育の理論と実践』という書物に収録されている。
以上をまとめてみると、陶行知と彼の学生が1920年代に中国の農村幼児教育の道を切り開いたことがわかる。南京郊
外で創られた数ヶ所の農村幼稚園は暁荘学校とともに政府当局によって閉鎖され解散されてしまったが、農村幼児教育
は決して全滅したわけではなかった。1930年代の初期になって、北平幼稚師範学校校長の張雪門6)(1891−1973)が北
京郊外で「農村教育実験区」を開設し、区内には農村幼稚園が設置されていた。40年代の末頃には、上海国立幼稚師範
専門学校校長の陳鶴琴が教員と学生を率いて上海市郊外と江蘇省の金壇などで農村幼稚園を創った。しかし、これらは
ただ一時的断片的なものに過ぎなかったのである。陶行知が灯した中国の農村幼児教育の小さな火花が、新中国の成立
後にようやく広がって「野原を焼き尽くす(星火燎原)」ことができるようになったのである。
(二)新中国における農村の幼児教育事業
20世紀の50年代初期には、新中国の教育事業の方針として、教育は国家建設のために奉仕しなければならないこと;
学校は労働者と農民に門戸を開かなければならないこと;今後かなり長い時期にわたって、教育の普及を主要な課題と
し、教育の重点は労働者と農民に奉仕することに置かなければならないことが定められた。幼児教育の発展の重点は、
先ず工業地域の企業部門、その次は国家機関、公共事業団体、学校および近郊の農村に置くこと(先ず経験を積んだ上
で農村の幼稚園を発展させること)であるとされ、働く労農女性の育児問題を解決することが主要な目的であった。農
村では、土地改革と農業互助組7)の必要に応じて、臨時託児所が誕生し、親戚や隣近所で助け合ったり、交代で子ども
の面倒をみたり、個別に預ったりするなどさまざまな形式で子どもの預り問題を解決していた。
西省の1952年の統
計によると、全省では、農業互助組によって創られた農繁期託児所は220所で、預かりグループの「
娃組」8)は8,827
組で、入所幼児は43,971名だったという。
1956年2月に、教育部、衛生部、内務部によって『託児所と幼児園の諸問題に関する共同通知』が公布された。『通
知』では、託児所と幼児園の発展方針として次のように指示している。「合理的に企画し、指導を強化する」方針と
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中国における農村幼児教育の発展と変革(劉・唐)
「多く、速く、しっかりと、むだなく」という方針に従うと同時に、必要性と可能性に応じて積極的に発展させるこ
と;都市部では、工場や鉱山、企業、機関、団体、一般大衆で運営することを奨励し、農村部では、農業生産協同組合
で運営することを奨励すること;一方、可能であれば、教育行政部門で幾つかの幼児園を創設し、模範を示す役割をさ
せること、などである。こうした「2本足で歩く」9)方針の指導のもとで、社会の各方面からの力を動員することがで
き、幼児園の数は年々少しずつ増加してきた。
1956年には1952年よりも幼児園の数は4倍に増加し、入園幼児は3.5倍に増加した。そのうち民営幼児園(主として
「農村の生産協同組合」が運営していた幼児園である)は8倍に増加し、入園幼児は約6倍に増加した。
1958年−1960年は、全国の各業種が「大躍進」10)の時代で、幼児園も急増し、このため混乱状態に陥ってしまった。
1960年には1956年と比べて幼児園は42.4倍に増え、入園幼児は28.1倍に増加した。そのうち民営幼児園は42.8倍に増え、
入園幼児は28.9倍に増加した。一方、高校の教員と学生が次次と農村へ行って学校創設を行ったおかげで、農村幼児園
教材や、農村幼児園教員養成教材および農村幼児園の運営経験集などのような書籍も編集され出版された。
ところで、1961年の1月から、中国では「調整、強化、充実、向上」の方針が実行され、幼児教育の面では、運営条
件の整っている幼児園は整頓して残され、運営条件の整っていない幼児園は閉鎖されることとなった。整頓によって幼
児園はようやく正常な発展を遂げることができた。1965年になって、全国の幼児園数と入園児の数は基本的に1956年の
規模にもどった。50年代末頃に雨後の筍のように生れた幼児園はこのとき呆気なく消え去ったのである。
以上をまとめてみると、新中国における農村幼児教育事業は一歩一歩発展する段階から、大拡大と大縮小の段階を経
て、原状に復して発展する段階に至るという道程を歩んできたことがわかる。中国の農村幼児教育はとうとうゼロの突
破を実現し、全国で初歩的な農村幼児教育の基礎を固めたのである。(表1を参照)
表1 新中国における各種類の幼児園の発展統計表
年
1949年
1952年
1956年
1958年
1960年
1965年
幼児園数(万ヶ所)
合計
教育部門運営 他の部門運営
0.13
0.08
0.65
0.45
0.03
1.85
0.45
0.25
69.53
0.45
0.48
78.5
1.1
28.2
1.92
0.44
0.63
民営
0.05
0.17
1.15
68.6
49.2
0.85
入園児数(万人)
合計
教育部門運営 他の部門運営
13.0
9.3
42.4
28.7
2.7
108.1
39.2
18.5
2950.1
44.9
36.9
2933.1
81.1
1445.9
171.3
51.6
63.4
民営
3.7
11.0
50.4
2868.3
1406.1
56.3
二、 中国における農村幼児教育の現状
20世紀の70年代末頃から、中国は改革開放の新時代に入り、農業大国としての中国では、大規模な農村経済システム
改革が開始されるようになった。すなわち、伝統農業から現代農業へ、自然経済から商品経済と市場経済へ移行する時
期に入ったのである。農村の幼児教育は農民の生活と意識の変化につれて質的な変化が起こった。教育事業は盛んに発
展しただけでなく、カリキュラム改革の面でも実質的な進展が見られた。
(一)教育事業の発展
80年代の初期に、教育部は『農村幼児教育に関する幾つかの意見』を印刷して配布した。本『意見』では次のことが
強調された。農村幼児教育の発展は、小学校教育の普及と質の向上、農業生産の発展、人口の「計画出産」という国の
基本政策の実行のいずれのためにもなることであり、大勢の農民大衆の切実な要望でもある。従って、農村における経
済システム改革の新情勢に基づいて、積極的に有利な条件を創りだして、計画的に幼児教育を発展させ、就学前一年間
の教育を優先的に発展させると同時に、次第に条件を整えて3−5歳の幼児を入園(クラス)させることである。
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1、幼児園の曲折に満ちた発展
80年代から90年代の半ば頃にかけて、全国の幼児園は年々増加し、着実に発展してきた。幼児園数は17万−18万を維
持していた。農村幼児園の増加も比較的速かった。例えば、1982年の9.18万ヶ所から1992年の11.10万ヶ所になった。
増加率は20.9%であった。
農村幼児園は全国の各種類の幼児園の中で大多数を占めていた。例えば、1980年には、農村幼児園の数は全国の幼児
園数の84%(その他の都市および県レベルの小都市幼児園はわずかに16%)を占め、1990年には69%、2000年には53%
を占め、低下傾向を示しているにもかかわらず、全国総数の半分以上を占めていた。
ところが、農村幼児園の発展はまだ安定していない。例えば、70年代半ば頃にもう一度発展のピ−クが現れた。1976
年には農村幼児園の数は41.95万に達していた(当時、中国では「農業は大寨に学べ」11)の農業生産拡大運動が行われ、
人口の「計画出産」が始まるほど乳幼児の人口が増えていたため)。以上は70年代の末頃になってようやく次第に正常
に復した。90年代からは、農村幼児園は年々減少していく現象が見られるにもかかわらず、入園児の数は年々増加して
いる。これは、幼児園の運営規模の必要に応じて、各村に分散していた幼児クラスを結集させた結果であり、発展と進
歩の正常な現象である。しかし、90年代末頃からは、全国の幼児園数と入園児数が減少し始め、とりわけ農村幼児園の
減少幅が最も大きい。例えば、2002年の4.91万という数字は1995年の10.67万に比べてほぼ半分ぐらい減少しているこ
とを示している。ここから、農村幼児園の発展は、時には繁栄し時には停滞し、時には速く時には遅く、時には増加し
時には減少する、というようにまだ安定していないことがわかる。(表2を参照)
表2 新時期における各種類の幼児園の発展統計表
年
1973
1976
1980
1985
1990
1995
2000
2001
2002
合計
4.55
44.26
17.04
17.23
17.23
18.04
17.58
11.17
11.18
幼児園数(万ヶ所)
都市
農村小都市
0.73
0.38
1.51
0.80
1.83
0.87
2.63
2.40
3.00
2.29
3.72
3.65
3.69
4.54
2.78
3.09
2.93
3.33
農村
3.44
41.95
14.34
12.19
11.94
10.67
9.35
5.30
4.91
合計
245.03
1395.51
1150.77
1479.69
1972.23
2711.23
2244.18
1398.22
1373.62
入園児数(万人)
都市
農村小都市
78.09
44.78
129.5
68.31
174.64
97.13
332.94
222.77
447.08
307.87
536.44
549.88
503.06
578.23
237.38
323.64
241.55
333.38
農村
122.16
1197.70
879.00
923.98
1217.28
1624.89
1162.87
837.20
798.69
2、幼児のための就学前クラスの迅速な発展
1986年6月に、教育部門(当時は国家教育委員会)が『幼児のための就学前クラスの改善に関する意見』を印刷して
配布した。この文書では現段階では就学前クラスを創ることは農村の幼児教育を発展させるための重要な手段であると
指示していた。就学前クラスは主として小学校に入学する一年前の幼児を受け入れ対象とするもので、そのほとんどが
全日制であり、一部に半日制のもある。都市部にも農村部にも就学前クラスが存在しているが、農村部の方が数が多く
発展も速かった。就学前クラスには単独設置のものもあるが、ほとんどの場合は小学校の中に付設されている。1987年
の統計では、全国では就学前クラスの数が幼児園の全クラス数の42.5%を占めており、1988年には44.6%(そのうち農
村部では56.3%を占めている)に上がっていた。90年代には、就学前クラスは減少傾向を示した。例えば、1997年には
全クラス数の19%、1998年には18%で、10年前と比べると、明らかにそれぞれ約23%と26%減少したのである。
3、多種多様な形式の幼児園の出現
90年代の初めに、国務院は『九十年代における中国の子どもの発達に関する計画要綱』(1992年)を公布した。この
うち子どもの生存・保護および発達に関する方針と施策のなかで、積極的に就学前教育を発展させるには、「社会の力
−106−
中国における農村幼児教育の発展と変革(劉・唐)
を動員して、さまざまなルートで、さまざまな形式で幼児教育を発展させる」という方針を堅持しなければならないこ
とを強調している。また、経済発展の遅れている農村地域や人口の居住が分散し交通が不便な山岳地域および遊牧地域
ではさまざまな形式を利用して就学前教育を行うよう指示している。そこで、例えば、季節性の幼児クラスや、時間制
の幼児クラス、プレイ(活動)グループ、遊具・玩具を運ぶ巡回トラック、指導センター、親子幼児園などのような、
時間も場所も教師も子どもも固定しないノンフォーマルの預り形式が次次と現れるようになったのである。
(二)カリキュラム改革
中国の幼児教育の主体を占めている農村幼児教育の質を向上させ、広範な農村幼児の生存と学習条件を改善させるた
めに、中国の幼児教育界は農村の幼児教育に対して一貫して大きな関心を寄せてきた。ところで、農村幼児教育の質を
向上させるには、農村幼児園のカリキュラム改革が何より重要なことである。80年代の半ば頃より、南京師範大学の教
員と学生が農村幼児園の教育や教授活動などの情況に関する調査を実施し始め、次のような問題が見出された。
農村幼児園の教育や活動には小学校化、都市化の傾向が普遍的に存在している。例えば、読み書き算を重視したり、
小学校一年の教科書を繰り上げて学習したり、実際の情況を無視して、都市の幼児園の教材をやみくもに当てはめたり
すること;教師の場合、人によって科目を分けて教えたり、小学校の教師に兼任してもらったりすること;幼児は小学
生と同じく授業を受けるのみで、遊びなどの活動はまったくないこと、などであった。このような情況に対して、80年
代の後半から、私たちは農村幼児園に入り込み、幼児教育らしく、農村地域に相応しい幼児園カリキュラムを構築しよ
うと志したのである。
カリキュラムの編制では、就学前一年を重点に置き、総合教育の思想を指導方針として、分科を改めて総合化のやり
方を取り入れた。具体的には、一年の四季と幾つかの大きな祝祭日と活動をめぐる主要課題を考案した。幼児の実生活
に近づき、農村の特色がよく反映し、農村の自然と社会の資源を充分に利用した、幼児が自分の意思にもとづいてたっ
ぷりと周りの環境に触れることができるような教育内容の編制をめざし、私たちは、例えば「金色の秋」
「愛しい故郷」
「美しい春」「もうすぐ小学生」などのテーマを考案したのである。私たちは、『農村における就学前一年総合教育カリ
キュラム編制』を出版したが、本書には、理論的根拠、教育の目標、課題の編制および活動の展開などのような内容が
含まれており、応用が効くので、農村幼児園の教師に広く受け入れられている。農村幼児園のために専門的に編制した
このカリキュラムは、中国では最初のものである。90年代の末頃になるまで、私たちはまた研究を深めて『農村幼児園
総合教育』を編制し、農村幼児園のカリキュラムを一年制のものから三年制のものに発展させたのである。約20年間の
研究と普及を経て、農村幼児園のカリキュラムの実施は大いに進展しているが、小学校化、都市化の傾向は依然として
存在している。
(三)システムを構築する
中国中央教育科学研究所が組織し河北と貴州の両省と共同で行った『農村幼児教育システム研究』は、農村幼児教育
全体の改革に関する研究である。この研究は、農村の実際状況に相応しく、迅速且つ有効に農村幼児教育を推進するた
めの新しい道を探索し、より多くの農村の子どもたちにしっかりした初期教育を受けさせることを目的としていた。こ
のシステムには、幼児教育機構の設置と行政管理、教員養成、家庭教育、およびコミュニテイ教育などの領域が含まれ
ており、実験区での全体的な実験研究を通して、次のような基本的戦略が総括されていた。すなわち、事業の発展を促
進すること;教育の質を向上させること;幼児園の運営条件を改善させること;教員養成ネットワークをつくること;
管理システムを確立させること、などである。これによって、それまでの農村幼児教育の運営で見られた「待つ、頼る、
ほしがる」というような考え方が打破され、中国の農村経済と社会発展の必要性と一致するような、少ない資金投入で
大きな効果と収益をもたらすという農村幼児教育システムの実践モデルが構築されたのである。この研究は15年間続い
た。一貫してオランダのボナード・フォン・リー基金会の援助を受けていた。すでに出版された研究成果には、『農村
幼児教育システム研究』
、『農村幼児教育叢書』および英語版の『農村における乳幼児の家庭保育に関する研究報告』な
どがある。現在、この研究は中国の西部地域の各省に紹介され、押し広められつつある。
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政策科学 12−2,Jan. 2005
三、
得られた示唆と考察
約半世紀以来、中国の農村幼児教育には大変革が起こり、次のような苦難に満ちた波瀾万丈の発展過程を経験してき
た。「いままでなかったものがあるようになった段階」「あったものが消えてしまう段階」「大いに発展し大いに衰退す
る段階」「安定して発展する段階」
「次第に減少する段階」などであった。しかし、農村幼児教育は洋々たる前途を持っ
ており、きっと健全に発展していく道を歩むことができるに違いないだろう。
(一)事業の低下現象に対する調整対策
要因分析:出生率の減少;大規模な運営の簡素化;農村労働力の都市への移動;人々の認識上の過ち;法規や政策が
整っていないこと;管理上の手抜かり、などの要因が考えられる。
調整対策:人々の認識を高めること;法規や政策による保障;行政管理を強化すること;運営方式を多元化させるこ
と、である。
(二)小学校化、都市化の現象に対する改善対策
要因分析:農村幼児教育に適合するテキスト教材が乏しいこと;農村教師に対する専門的訓練が乏しいこと;教師の
指導力が欠乏していること、などが考えられる。
改善対策:全社会(とりわけ幼児教育界)に呼びかけ、農村幼児教育について関心を寄せて研究すること;農村教師
の専門的素養を高めること;都市と農村の一体化ネットワ−クをつくること;農村の特色を持った幼児園カリキュラム
を構築すること、である。
注(訳者)
1)翻訳の校正にあたり、国立教育政策研究所国際研究・協力部総括研究官の一見真理子先生のご指導をいただきました。深く感謝
の意を表します。
2)陶行知は、中国の偉大な人民教育家である。1891年安徽省に生まれ、1946年に上海で没した。青年時代、知行合一説に感銘をう
け陶知行と名乗るが、のち、行動が認識に先立ち、認識を完成させることを強調、陶行知と改名した。彼は生涯民衆の教育、民族
の解放および社会の改革に力を注いだ。彼の生涯はおよそ次のように区分される。(1)教育改造提唱期(1926年以前)、(2)郷村
教育実験期(1927∼1930年)、(3)教育普及推進期(1931∼1935年)、(4)国難教育∼戦時教育期(1936∼1938年)、(5)全面教
育期(1939∼1944年)、(6)民主教育実施期(1945∼1946年)。彼が編集した刊行物は『新教育評論』、『生活教育』などがあり、主
要な著書は、『中国教育の改造』などがある。その他、『幼稚教育論文集』の編集にも参与していた。
3)ジョン・デューイ(John Dewey)は、20世紀のアメリカを代表する哲学者、教育学思想家。進歩主義教育運動の理論的先駆者で
もあり,アメリカ独自の思想であるプラグマティズムの大成者としてインストルメンタリズム"概念道具主義"を主張して,アメリ
カならびに外国の哲学・教育界に大きな影響を与えた。主要な著述は、『私の教育学的信条』(1897)、『学校と社会』(1899)、『思考
の方法』(1910)、『哲学に及ぼすダーウィンの影響』(1910)、『教育における興味と努力』(1913)、『民主主義と教育』(1916)など
がある。
4)陳鶴琴は、中国における著名な児童教育家、児童心理学家である。1892年浙江省に生まれ、清
大学を卒業後、アメリカで5年
間留学した。1919年コロンビア大学で修士号を獲得して帰国した。彼は生涯児童心理学、幼児教育学、家庭教育学および師範教育
の実践と研究に従事し、「活きた教育(活教育)」を主張し、中国の幼児教育事業の発展に大きく貢献した。彼によって中国的な幼
児教育および幼児師範教育の体系が構築された。主要な著書は、『儿童心理之研究』(1925)、『家庭教育』(1925)などがある。
5)キルパトリック(W.H.Kilpatrick)は、デューイの後継者で、進歩主義教会(PEA)の組織者である。デューイの「なすことによ
って学ぶ」の学習原理を基本とし、それを具体化し、プロジェクト・メソッド(構案法)を考案した。プロジェクト・メソッドは、
問題解決学習として新教育運動の中でも特に注目され、目的設定、計画、遂行、評価という4段階の学習過程を設定した。主要な
著書は『プロジェクト・メソッド』(1918)などがある。
6)張雪門は、1891年浙江省に生まれ、生涯幼児教育に従事した。彼は、1917年に故郷で星蔭幼稚園を創設し、1929年より北平(現
在の北京)幼稚師範学校の校長を担当していた。抗日戦争の後、台湾で台北育幼院を創建し、幼児教育研究会を組織し、幼児教育
の月刊誌を発行した。主要な著書は、『幼稚園研究集』、『新幼稚教育』、『幼稚園課程編制』、『幼稚園活動課程』、『実習三年』などが
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中国における農村幼児教育の発展と変革(劉・唐)
ある。彼は、幼稚師範のために一連の教科書を編著し、多くの幼児教師を育成し、中国の北方地域と台湾の幼児教育に大きく貢献
した。
7)1950年代頃に行われた中国農業協同化の初級形式で、労働力・農具・家畜などの協同を目的とした助け合いグループのこと。
8)「われさきに子どもを預るグループ」の意味。
9)中国の国民経済を発展させるために制定された、二つの面のつり合いをうまく保たせる一連の政策(たとえば、農業と工業、重
工業と軽工業、国営企業と地方営企業のバランスをとって発展させる政策)のたとえとして用いられる表現。
10)特に1958年に毛沢東が発動した、工業・農業などの飛躍的な発展を目指す社会主義建設総路線の運動を言う。
11)1964年に毛沢東が唱えたスローガン。山西省昔陽県大寨生産大隊の農業形態を理想的モデルと称し、全国の模範としたが、1978
年以後は否定されている。
引用・参考文献(訳者)
① 日本デューイ学会編『デューイ来日五十周年記念論文集デューイ研究』1969,玉川大学出版部G.ダイキューゼン、三浦典郎・石
田理訳『ジョン・デューイの生涯と思想』1977、清水弘文堂。
② 一見真理子「民族解放の教育 陶行知」金子茂・三笠乙彦編著『教育名著の愉しみ』1991年、時事通信社。
③ 文郁「
鶴琴先生与我国儿童心理研究」『大
心理学』、1983年第1期。
④ 中国学前教育史編写組編『中国学前教育史資料選(全一冊)』1989年、人民教育出版社。
⑤ 北京商務印書館・小学館共同編集『中日辞典』1992年、小学館。
⑥ 森田尚人「学校と社会 デューイ」金子茂・三笠乙彦編著『教育名著の愉しみ』1991年、時事通信社。
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