中間報告書 第3部

中間報告書
第3部
−調 査 報 告−
岩手県遠野市
[Ⅰ]遠野市産業振興部商工観光課
観光係長
小笠原
晋氏
[Ⅱ]由布院観光総合事務所
事務局長
米田
誠司氏
[Ⅲ]由布院温泉「遊輪」
オーナー
吉井
好子氏
大分県湯布院町
[Ⅳ]由布院温泉「亀の井別荘」
主人
中谷健太郎氏
埼玉県川越市
[Ⅴ]川越市「川越一番街町づくり」「カニヤ本店」
可児
一男氏
堀切
正明氏
東京都谷中商店街
[Ⅵ]谷中銀座商店街振興組合理事長「はつねや」
愛媛県内子町
[Ⅶ]内子町役場・地域振興課
大野千代美氏
[Ⅷ]内子町「からり」運営協議会・会計幹事・広報委員
大森
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昭生氏
[Ⅰ]遠野市産業振興部商工観光課観光係長
小笠原晋氏
〒028-0592 岩手県遠野市東館町 8 番 12 号 tel 0198-62-2111(代表)
2003 年 6 月 13 日(金)午後 4 時から 5 時まで、元遠野市立博物館学芸員で産業振興部商工観
光課観光係長である小笠原氏に、遠野市のこれまでの取り組みについての説明を受けた。
遠野は明治 43 年に出版された『遠野物語』と「語り部」で全国的に知られる。昭和 52 年(1977
年)に博物公園都市構想「遠野ピアプラン」という市の総合計画がはじまった。そのなかでは「大
自然に息吹く永遠の田園都市」、「健康文化都市」、「博物公園都市」といったスローガンが唱
えられた。
(1)『遠野物語』と遠野
明治 43 年『遠野物語』が 350 部出版されたが、2∼3 冊遠野に送られただけであった。当初、
遠野では読まれることはなく、謄写版に印刷され昭和 8 年に朗読会がもたれただけであった。地
元では『遠野物語』は家に付属するごく「当たり前の話」でしかなかったが、外からは注目され
た。
大正 15 年から昭和 8 年ごろにかけて、遠野が注目された。昭和 8 年に『遠野物語』の朗読会が
遠野町の有志によって開催された。昭和 38 年(1963 年)には、加藤秀俊・米山俊直著『北上の文
化』(社会思想社)の出版や、NHK「郷土の拝見」が放映され、遠野に注目が集まった。また昭
和 43 年に岩手国体が開催されることが決定したが、遠野には北上山地と渓流や高原観光しかなか
った。国体では、遠野がサッカー会場になった。それを機会に、郷土を正しく理解する運動が始
まり『遠野物語』に目が向けられることになった。遠野の観光とゆかりの土地を強調することに
なった。
その昭和 43 年頃から「民話のふるさと遠野」というキャッチフレーズが唱えられ、昭和 46 年
に『遠野物語』の碑が建立された。昭和 46 年から市民センター構想や博物公園都市構想のもとで、
中央公民館、市民会館、市民体育館などが整備され、昭和 55 年の図書館と博物館の整備で市民セ
ンター構想が完成した。
昭和 62 年に明治大学の後藤総一郎先生が「常民大学」を開講し、その成果が『注釈遠野物語』
になった。自発的な活動で市が場所を提供した。いままでは市外の人間が『遠野物語』について
発信してきたが、自分たちで遠野物語を読み解き発信しようとするものであった。
『遠野物語』を観光の町づくりのシンボルとして施策を進めてきた遠野市が、遠野常民大学を
はじめいくつかの研究団体と協調して、市の委託事業として「遠野物語研究所」が平成 7 年(1995
年)に設立され、遠野の歴史民俗と日本の「常民」の民俗文化を調査研究している。
(2)博物館を中心にした文化的な活動
3 年間の計画で、岩手大学と協働で「エコ・ミュージアム」構想の研究を進めている。グリー
ンツーリズムやエコ・ツアーを進めているNPO法人や団体の企画を、「遠野ツーリズム」のな
かに集約できないかと考えている。それを体験型ツーリズムや環境を考えるツーリズムとして新
たに展開しようとしている。
昭和 55 年から市内全小学校の 5 年生向けに「博物館教室」を実施している。博物館から学校へ
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出前もし、資料を貸し出し、講師を派遣し、先生方への使用案内を配布し、佐々木喜善、柳田国
男、そして『遠野物語』を知ってもらうのに役立てている。社会人を対象にして「民俗学講座」
を開催し、それが「遠野民俗の会」の発足につながっている。博物館には学芸員が 3 人だけしか
いないが、それぞれの活動を企画展に発展させ、企画展にすべてを網羅するようにしているとい
う。
「イメージの観光」として遠野にまつわるものや遠野のバックボーンを整備し、しっかり見せ
る。そして他の貴重なものも見せる。「伝承園」やふるさと村、町作りの企画などは、博物館が
直接関わらない分野であるが、遠野では『遠野物語』との関わりから博物館が参画することが多
い。
博物館は地域の人々の誇りの場所である。博物館を市民のものとするために、地域展を開催し、
遠野市民の郷土学習のために無料招待券を、毎年企画展を開くたびに配っている。昭和 43 年当時
に戻って、地域を見直そうとしている。遠野の環境がしっかりしているから「物語観光」が成立
するのだと小笠原氏は考えている。
(3)環境保全の問題点
−災害復旧事業と環境保全−
環境保全に関しては、工事計画が動くときには自然に人が集まってきて、この工事ではどうす
るかなどとの話し合いがはじまる。しかし、自然災害の時は歩調を合わすことができない。補助
事業だから画一的な工事が行われることになる。川にしても、市の事業では環境を考えられるが、
災害復旧では画一的になり環境を十分に考慮することができなくなるという問題がある。たとえ
ば、「ふるさと村」の曲り家集落で国の補助事業導入を考えたら、水路を回し、石を組んでそれ
らしくしないと受けられない。昭和 55 年と 56 年に台風で大災害をうけて川があふれた。国から
の災害復興事業が行われたが、地元の環境を考えた事業にはならなかった。
(4)全体的視点の必要性
NPO法人や市役所が協働でグリーンツーリズム開発などを計画している。雑多な集団が関わ
って、農家のかやぶき屋根の修復、民宿事業などを行っている。しかし環境に関してはまだ弱く、
関連する団体や機関が共同するしかない。NPO法人などの立ち上げ段階では市が世話をして、
支援を受けられる制度などを紹介している。
「ふるさと公社」は市と商工会そしてJAが関わって、「伝承園」、「風の丘」、「物産セン
ター」などの商品開発や施設管理、運営をしている。産直販売や地元の食材を使った食堂が「風
の丘」にあるが、岩手ナンバーの車が沢山買いにきて地元が利益を得ている。「風の丘」は情報
センターでもあり、そして「道の駅」にも認定されている。
しかし様々な施設はあるものの、全体的な統合性が欠如している。それはまた個々の差別化の
必要性を示してもいると小笠原氏は指摘する。遠野の車の入り口は「風の丘」で、電車での入り
口は「遠野駅」になっているが、トータルな計画を立てていたわけではなかった。似たような施
設があり、テーマがかぶっているところがある。「遠野ふるさと村」、「伝承園」、「曲がり家」、
「とおの昔話村」、「市立博物館」、「遠野城下町資料館」などがあるが、相互の差別化と全体
的な統合が必要である。そして「新たな物語の創造」が必要だという。
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遠野市は人口 2 万 8 千人で、観光客は年に 160 万人である。博物館には 4 万人ほどが来ている
(過去最高で年間 12 万人)。(参照までに.宇治市歴史資料館には年に 2 万人、源氏物語ミュー
ジアムには 10 万人の来場者がある。)遠野市の人が住んでいていいなと思える場所にすることが
必要である。観光はトータルな売り物であり、文化、物産、景色を売り物にするが、それを創る
のが観光であると考えている。ふるさとのイメージとしては山里生活の体験を提供し、そして遠
野が「ふるさと」になる。
施設の維持は大変である。茅葺き屋根の曲がり家をみせている「南部曲り家千葉家」の屋根に
は草が生えて屋根の葺き替えが必要になっている。千葉家では個人で家を見せており、国からの
文化財指定を断ってきた。自己資金でかやぶき屋根の葺き替えをするので、4 千万円の個人負担
が必要になっている。
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[Ⅱ]「由布院観光総合事務所」事務局長
米田誠司氏
〒879-5102 大分県由布市湯布院町川上 2863
tel 0977-85-4464
[email protected]
2003 年 11 月 9 日由布院観光総合事務所でお話をうかがった。米田氏は 5 年半前(1998 年 4 月)
に由布院観光総合事務所の全国公募に応募して、採用された。この事務所は「町づくり情報セン
ター」(仮)も兼ねようとしているが、まだ正式には立ち上がっていないという。
まず「モモのお話」を中心にすえた『湯布院の時間 −クアオルトの町へ』(企画・製作大分県大
分郡湯布院町、製作協力 TOS エンタープライズ、販売価格 3000 円
1997 年制作)のビデオテー
プを拝見した。
(注「由布院」と「湯布院」:由布院観光総合事務所、由布院温泉、由布院駅:湯布院町)
(1)『湯布院の時間 −クアオルトの町へ』から。
湯布院町には 1 万 2 千人、3700 世帯が住む。1 年に 400 万人の観光客を迎えている。農村、高
原の保養地で、盗まれていた「心の時間」を取り戻すことができる場所である。
「音楽なのよ。時間は」と太古の時間に誘う。宇奈岐日女神社、1584m の由布岳、1000 年の大
杉(大杵社)と自然を崇拝する。きりしま神社にはイザナギ、イザナミを祭る。由布院神楽、コ
ウゾ、木綿、ユフ(幣帛)そして「ゆふ」、「ゆふの院」が紹介され、16 世紀のキリシタン墓碑
へと導かれる。
「水と大地の時間」では、金鱗湖、温泉、大分川が紹介される。湯量は日本で 3 位、胃腸病に
効く湯平温泉は種田山頭火とゆかりがある。小田池、山下湖、塚原高原のヨーロッパ的田園風景、
塚原温泉の共同浴場などが、湯の嶽祭り、湯平温泉祭り(素人っぽい祭り)とともに紹介された。
「心の時間」では、歓楽街ではなく、アート(個人美術館)や創作の時間を提供し、イヴェント
として音楽祭(チェンバロ、チェロの演奏会)や映画祭(日本映画にこだわる)、そして竹細工、文
化的人間の営み(人間に対する信頼)に焦点が当たる。
「暮らしの時間」では、癒しの里として「クアオルト(ヨーロッパ型の自然・伝統・文化を大
切にした保養温泉地)」を紹介し、「住みよい街こそ、優れた観光地」であると訴える。自然と
農業を、クアオルト農業と観光を結び、農産品を土産や旅館の料理に活用する。地ビール、パン、
地鶏、土地の牛の品質の良さを訴える。野焼きをして大地の生命を復活させ、そこで由布院牛を
育て、畜産業で牛一頭運動を繰り広げ、「牛喰い絶叫大会」などのイヴェントを地元向けに開催し
ている。健康温泉館や湯掻き丸太、花のハウス栽培など「農・商・観光・自然環境」の連携をは
かって湯布院の良さを訴えていこうとしている。
「行政と住民」が、この 1000 年を越える「保養温泉地」を運営しようとしている。
(2)概要(米田誠司氏より)
「観光総合事務所」は観光協会と旅館組合の両者が設立し、「町づくり情報センター」(仮)
も兼ねようとしている。旅館は 100 軒あるが、1 つ 1 つは 10 部屋あるかどうかで、規模が小さく、
団体客を受け入れられない規模である。宿泊客でグループの割合は 10%で、おもに 2 人∼4 人で
やってくる個人型の客である。それゆえ団体客を迎える別府温泉と同じ商い方法ができない。し
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かし、この小ささが重要である。
インタビューの 9 日後、2003 年 11 月 18 日の「プロジェクトX」(NHK)で湯布院が放送される
という。
①湯布院の現状
−全体的な取組に向けて−
現在では年間に 400 万人の入り込み客がある。男性が 3 割、女性が7割で、女性客が多い。泊
まり客の 65%がリピーターで、2 回から 3 回、中には 10 回の客もいる。自動車のナンバーは九州
内が多く、品川や多摩の遠距離ナンバーも見かける。続けて泊まる連泊が増える傾向にある。そ
れにはメリットとデメリットがある。宿泊が増えることは望ましく実質的な収入増加になる。し
かしデメリット、というよりも課題としては、夜同じメニューを出せなくなるので、工夫と改革
が求められる。
湯布院全体での取組が始まっている。亀の井別荘(中谷健太郎)の敷地は 1 万坪で、100 人以
上の従業員を抱えている。由布院を今日までにした功労者の一人である中谷氏は、旅館の敷地内
に宿泊客を抱え込まないように、宿泊客がパブリックな町中を歩くような工夫を考えている。100
軒の旅館は、100 人の中小企業の社長の集合体であると米田氏は言う。様々な宿泊施設があって
始めて湯布院になる。ペンション、旅館、ホテルと幅広い業態が多様性を演出し、「シナジー効
果」が発揮される。1 泊 2 食で 6 千円から 4 万円と料金も幅広い。
旅館の 4 分の 1 が料理研究会に参加し、旅館ごとのレシピを公開しようとの動きがある。料理
の質を向上させ、由布院温泉での滞在の満足度を全体として上げようという取組である。またこ
の連携が進めば、2 泊目の夕食を別の宿でとることも可能性になり、由布院温泉全体で客をもて
なすという方向性を明確に打ち出すことができるようにもなるという。
さらに湯布院町全体の取組には役場も参加している。田んぼの中に刈り取った藁が積まれて、
風情を出している。この「藁こ積み」に観光協会と旅館組合、役場が補助金を出している。畑の風
景、紅葉、蛍、桜なども湯布院の売りものにしようと考えている。干し柿の技術なども継承し、
取れたものを地場で「地産地消」し、地場産業の育成を考慮している。
地元産物では安定した供給が難しい。また旅行代理店の安いツアーの場合には、安価に料理を
提供するように要求される場合が多く、割高の地元の産物が使えないという問題も出てくる。し
かし由布院では観光で得た収入を地元に帰すことを心がけているため、多少コストが高くても、
観光の現場で使うようにしているという。
②「ゆふいん観光新聞」からの話題
(i)「交通社会実験」 平成 14 年 11 月 23 日・24 日実施 (「ゆふいん観光新聞」No.33.p.7)
「歩いて楽しい町を目指して」交通社会実験が実施された。町内外から約 600 人、延
べ 1400 名以上のヴォランティアスタッフが参加協力した交通実験は、全国随一という
評価を受けた。3 万 5 千人が 2 日間に由布院を訪れた。湯布院町総合交通計画委員会の
委員長は九州大学名誉教授樗木(チシャキ)武氏であった。
観光客からは 9 割の支持を得、地元からも 6 割以上の支持を得た。実験に協力した観光客に
渡されたカンバッチは、Pに温泉マークをつけたもので、どんな協力をしたかによって色分けを
した。バッチを付けることでその時に居合わせた人々には、交通実験を強制されたのではなく、
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それに参加したのだとの意識を持ってもらうことができた。
(ii)「市町村合併問題」(「ゆふいん観光新聞」No.32 p.2)
三町法定合併協議会設置の延期要望書を提出した。挾間・庄内・湯布院合併協議会設
置延期の要望書を観光協会・旅館組合から町長・町議会に提出した。
(iii)「手荷物配送サービス(有料)開始! 7 月 1 日」(「ゆふいん観光新聞」No.32 p.4)
旅館から駅前に、駅前から旅館に手荷物を配達し、公共交通利用者の利便を図るサー
ヴィスが 1 個 500 円、2 個 800 円、3 個 1000 円で受けられる。
(iv)「由布院での理事の若返り」(「ゆふいん観光新聞」No.33 p.3)
由布院温泉観光協会 8 人、由布院温泉旅館組合 1 人の 9 人の新任理事が誕生した。「ゆ
ふいん観光行動会議事業委員会」に 6 名の委員長が選ばれた。
(3)米田氏の 「由布院観光総合事務所」事務局長への任用
米田氏は 5 年半前に由布院観光総合事務所の公開公募を受けた。その採用試験では、昼だけで
なく、夜の付き合いまでが審査の対象になったと聞く。由布院では企画を「この指とまれ方式」で
「やりたいときにやる」。また「人脈観光地で、知恵を持っている人に聞く」という。(そこで彼
の知恵を採用したことになる。)
米田さんは、「上の人」である中谷さんに「浮きませんか」と聞いたことがあり、中谷さんは「浮
いている」と答えた。自分がそれだけ浮いていると、その代わり若い連中が自由に発案できるとい
う。その話の中で、遠野の菊池新一さんの話が出た。(またCATVの菊池栄作さんには会いま
したかと聞かれたが、われわれは残念ながら会っていなかった。)
由布院観光総合事務所の責任者は志手淑子(「ゆふいん観光新聞」の発行人)である。若手の
担い手は湯布院を出て大分、別府の高校に行く。大学は外で、それから U ターンをして帰ってく
る。その人たちが由布院をになう若手である。(参考:1977 年「町に子供は残るか?」というシ
ンポジウムをした。雑誌『地域開発』地域活性化計画)
外の人、外を見てきた人々が湯布院に帰ってきて活躍し、活性化させている。またここの人は
外の人間を使うのがうまく、外の「感度のよい人」の協力を得ることに長けていると米田氏は語
る。
(4)外来者の問題点
−「湯の坪街道」−
短期の利益を求めて入り込んでくるよそ者・外来者が問題になっている。「短期の人」(外の
資本)が入ってきて始めたお土産物屋などには問題がある。彼らは「わかりやすい言葉」で売って
いる。外部の業者が進出して、どこにでもあるような店を出している。いかにも時代を経たよう
な木材の色調を作り出し、昔のような店の雰囲気を出しているが、品物は安く、外から持ち込ん
だどこにでもあるものである。これは由布院温泉のイメージを悪化させることにつながると考え
ている。
(5)「リピーター」の獲得
リピーターの人は湯布院の誰かに会いに来ることになると言える。湯布院の散髪屋にいくのを
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楽しみにやってくる人がいる。「人がまちの顔」で、湯布院では「人を紹介する」という。「人に出
会う機会」が多い。この町では「人がすれていない」。人に会い、「何もしないために、リピータ
ーはやってくる」と言う。
いまそのようなリピーターや連泊者のための「サロン」作りを考えている。「梁山泊」(宋代、
宋江・林沖が集まった場所)のような、人が集まれる場所作りを考えている。他の地域と連携し
ながら「サロン」になるような候補をさがしている。他地域では「木魂館」、「小国町」「内子
町(岡田)」、別府では「竹瓦クラブ」があり、由布院温泉では「玉の湯のバー」や「榎屋」など
ではじめている。旅館の中に居酒屋やバーをつくり、自分が滞在する旅館から出て集える場所が
「サロン」になる。
(6)「こども音楽祭」
「こども音楽祭」は町内外で開かれている。音楽大学出身の母親たち 4 人がコアとなって、お
金を払って音楽を聞くこととともに音楽祭を運営することを子供たちに教えようとはじまった。
こどもスタッフとして 29 人が働いている。できる人ができることをして運営している。
(7)他地域との連携
①「別府温泉、竹瓦温泉」
別府のサロン「竹瓦クラブ」のリーダーは野上本館の主人で、温泉泊覧館「オンパク」
を開設したり、地域通貨「湯路(ユーロ)」を発行したりしている。竹瓦温泉は別府の
商店街にあり、戦争で焼けなかった。別府では「別府法度(トラスト)」を作ったり、「街
歩き」の楽しみを工夫し、「チャレンジショップ」を展開したり、「夜の散策」で 2 人の流し
が演奏したり、ストリップ小屋の復活などが見られている。
②「グリーンツーリズム勉強会」
「日田の自由の森大学」は原田さんが中心になって「九州ツーリズム」、「グリーンツ
ーリズム研究会」を開催している。フィールドワークが行われ、地元の人が入っている。
③「番頭の会」
ふらりと地域にやってきた人々が、湯布院、水俣、阿蘇など各地域にいる。雑誌の元
編集長だった人とか特殊な技能を持った人や一般人だった様々な人が、「地域の番頭」
を自称して集まる会がある。仲間たちは自分たちが縁あって住むことになったそれぞれ
の地域のことを常に考えているので、この集まりが何かの手がかりになることを期待し
ているという。
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[Ⅲ]ホテル「遊輪」オーナー
吉井好子氏
〒879-5103 大分県由布市湯布院町川南 1251-1
tel 0977-85-3660
2003 年 11 月 10 日午前 9:30 から 1 時間ほど、ホテルのギャラリーでお話をうかがった。湯布院
発展の基礎を「亀の井別荘」の中谷健太郎氏、「玉ノ湯」の溝口薫平氏、そして「山のホテル夢
想園」の故志手康二氏が築いた。その志手氏の妹が「遊輪」社長の吉井好子氏である。昔、木造
3 階建ての「夢想園」旅館があった場所で、現在「遊輪」を経営する。
(1)画家(油絵)
高知県中村市の医師に嫁ぎ、40 年前そこで絵画を独学ではじめた。チャーチル会で絵画陶芸を
教えていたので、油絵でも始めるかと中学の校長から教わる。描いて応募するたびに、市の展覧
会で特選、県の展覧会推薦を受け、1980 年に二科展に入選したり、優秀賞を獲得した。その後ド
イツ、フランス、チリなどに出展し、優秀賞を獲得したという。
1999 年、2000 年にニューヨークで個展を開いた。2001 年の 9 月開催予定の個展に気乗りがせず
「来年 2002 年に開く」といっていたら、9 月 11 日にテロが発生した。2003 年にはフランスのパ
リの画廊で個展を開く。同時にオーストラリアで Aids に関する展覧会があり、パースの市長から
招待された。前に、広島の県医師会賞を取っており、その関係でパースに招かれた。Aids の絵に
は太陽と寂しそうな鳥を描き、「一人一人、愛をもって」という文章を添えて訴えたという。
深夜 12 時過ぎから描きはじめ、3 時間しか眠らない。子供が小さい頃は、背中に負ぶって描い
ていた。アテネ・オリンピックで“ART Olympic”が復活し、それにもルーブルにも自然に目を
向けた作品を出した。二科展には女性の美を描き、美しいものに仕上げたいと思ったという。
ニューヨークでは、モダンアートに挑戦した。日本の心を入れた掛け軸は、布を使い、軸先を
焼き物にした。評判がよく、フランスでもやってほしいということになった。“Salon d'Automne”
の 100 年祭にはアクリルで能の舞い姿と太陽を描いた F50 号のものを出展し、3 千人の中から選
ばれた。7 月にはルーブル美術館で 2 作品が展示された。9 月にはトルコのトプカピ宮殿で展覧会
があり、洋画は彼女一人で「オスマントルコ芸術勲章」をもらった。
また、彼女の妹は以前京都の島津製作所で働き、戻ってきて湯布院で土の人形を焼いている(数
体が「遊輪」のギャラリーに飾られている)。ここには彼女の絵のファンも来る。将来は画家と
して生きようと思っているそうである。「どこにもないホテル」を絵でいっぱいにし、ミュージ
アムを今の駐車場のところに建てて、妹の人形と一緒に飾りたいという希望をもっている。
(2)ホテルについて
彼女の一番上の兄は NHK に、次兄は旅館業を継いだ。次兄は「山のホテル夢想園」の社長であ
った。この兄が、岩男町長や中谷健太郎氏、溝口薫平氏とともに町おこしに活躍した志手康二氏
である。木造 3 階建ての「夢想園」旅館を、今の遊輪の場所で経営していた。父親が病気で亡く
なり、母親だけで経営していた。兄は現「遊輪」の上の土地を手に入れて大きくしたかったが、
30 年前は売ってくれず、下の方の土地を手に入れて、今の「夢想園」を建てた。「遊輪」の地は、
母親が目の黒いうちに彼女が買おうと手に入れた。老朽化していたので木造 3 階建てを壊したと
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いう。
①ホテル経営
高知県中村市で医院を開いていた夫が病気になり、ホテルにはしばらく手がつけられなかった。
夫は 3 年間闘病したが、治療をせず、入院もせず、10 年前に死んだ。2 人の息子は一人が学者で、
一人が医者になった。医者の息子は専門的な勉強をしたがっていたが、中村に帰ってきて病院を
継いだ。娘は医者に嫁いでいる。夫の死後、本格的に「遊輪」の仕事を始めた。当初は 6 部屋で
はじめた。そのとき上に住んでいた人が土地を買ってくれというので、別荘タイプの部屋を作り
始めた。現在、娘が跡を継ぐことになった。
②「どこにもないホテル」を目指す
天井も、建て具合が悪かったので、自分で絵を描いた。観光ホテルでは食事は似たようなもの
が出ているが、「遊輪」では料理を創作し、山菜のサラダなどもドレッシングからすべてを工夫
している。「料理は心よ」、「心がなければ絵も描けない」と心がけ、「自分が感動するものを
出す」ようにしている。「オリジナリティを遊輪で」と配慮し、従業員が書いた「手書きの挨拶
状」を各部屋に置いている。そして布団を敷いた後の枕元に「お休みなさい」と印刷されたしお
りを置いていた。しかし社長の吉井さんが忙しく海外を飛び回っているうちに、しおりが置かれ
なくなっていた。帰ってきてまたやらせた。「遊輪」では朝食と夕食を出すが、昼食は出さず、
風呂も一般に解放していない。
外国などのホテルで触発されることも多くある。知識では分かっていても、体験して初めて訴
えることができるという。実績しか認めてもらえないのがホテル業である。
③ 露天風呂
露天風呂に内側から鍵をかけようと、一番最初に思いついた。家族風呂を中から施錠して他人
と一緒に入らないようにした。他人と一緒だと、遠慮をしたり、入りにくい。そこで貸し切りに
できるようにした。「癒し、命の洗濯」ができる場所にする。それを徹底し、ポイントポイント
を押さえて行っている。6 つの部屋には、部屋付きの露天風呂がある。テント風呂を建てたとき
は、足場を作って壁に直にペンキを塗り、別館の食事所にも、由布岳と雀の絵を吉井さんが描い
た。
④「湯布院はアートの町か」
湯布院をアートの町と言うが、本物はほとんどないという。例外的に「アルテジオ」(村田さ
んのホテル)では藤田嗣次、マチス(切り絵)、カンジンスキーの本物の作品を置いている。「遊
輪」では、音楽と絵のコラボレーションを企画し、音響も考えた建物にしている。ここではイベ
ントをやるつもりだった。年一回イベントをやろうと考えている。
⑤由布院温泉
湯布院の自然の中で育ったが、外へ出て生活し帰ってくると、つくづくとここの自然が癒して
くれることが分かる。由布岳は、父を想像させ、どしっとしていて父性を感じさせるという。当
遊輪には源泉が三カ所ある。お湯の質はよく、肌をすべすべにさせる。
お客はリピーターが多い。旅行エージェントを介してくる団体客よりも、個人客が多い。団体
は 11 月に多いが、30 人までの小団体でやってくる。冬、2 月がいままでオフだったが、雪の露天
風呂を楽しみに来る客も多い。交通がストップしない限り開いている。現在は雨の多い 6 月がオ
10
フ・シーズンになっている。
⑥「遊輪」従業員
従業員 15 名のうち湯布院出身者は少ない。みなあか抜けしている。従業員を自分の子供だと思
えば、みなかわいい。寮に住んでおり、支配人は大分出身である。別府から来る人もいる。この
ホテルでは、方言が聞かれない。彼女の母は、東京の女学校の先生で、兄も、標準語で話してい
た。彼女は、むしろ早く結婚したので、嫁ぎ先の中村市の方言の方が出てくるという。男性の従
業員を採用したが、「かわいい子達ですね」という。そして女の子も「男らしい」と笑う。制服
を着用し、エプロンは彼女が縫って、胸に手書きの絵を入れている。
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[Ⅳ]「亀の井別荘」主人
中谷健太郎氏
〒879-5102 大分県由布市湯布院町川上 2633-1
tel 0977-84-3166
「亀の井別荘」に 2003 年 11 月 10 日午前 11 時から 2 時間あまりおじゃました。由布院温泉の
活性化を希って、いまも現役で活躍している中谷さんに最近の活動と心構えを聞いた。「由布院観
光総合事務所」の米田事務局長が一緒だったこともあって、由布院では「腕っこきの軍師雇いま
す」という活性化にかける意気込みから話しが始まった。
観光ビデオ『湯布院の時間』制作の企画会議では、M.エンデの世界的な名作『モモ』の物語
を使おうと中谷さんが言い出した。著作権について岩波書店と話をつけ、映像に関しては大分の
テレビ局に協力してもらって、何とか乗り切った。土や水に関する視点や、湯平温泉も入れて、
トータルに湯布院を考える観光ビデオが出来上がった。
(1)夏の「湯布院映画祭」
28 年経って、実行委員が力をつけてきている。制作者やシナリオライターを迎えて一歩も退か
ない。飛び交う質問も深まっている。しかし、「深まっていくことは、狭まっていくことでもあ
り」、「特定の方々とは仲良しになっていく」が、「一般化はせずに各個に分散していく」と感
じていると中谷さんはいう。「何とかしなくては・・・・」
そこで「春の文化・記録映画祭」をはじめた。今年で7年目になる。「夏の劇場映画祭」は狭
まっているが、春の方は社会的に展開している。前回は、『周防猿回しの記録』(姫田)や『す
ばる望遠鏡』(今泉文子・作品)を上映した。『すばる望遠鏡』のコメンテーターとして池内了
名古屋大学宇宙物理学教授(当時)を招いたが、池内先生は『猿回し』のコメントをしたいと仰
る。独立法人化に反対する中心に池内先生はおられたのだ。「人間が猿に教えるとはどういうこ
とだろうか」。猿回しにはびしびし鍛えて、猿をぎゃふんと言わせ、人間が猿にかみついてから、
信頼関係を作る方法がある。ジローを鍛えた村崎さんはその手法である。それとは反対に強制的
な教育を批判する人がいる。日田の猿回し芸人で、強制した場合には変化に対応できないという。
両者の違いは、とくに目指した芸ができないときにビビッドに現れる。日田では言葉で教育する。
手間がかかり、不安定だが、20 代の青年がそのように仕込んでいる。
一方、『すばる望遠鏡』のコメントは、作家の池澤夏樹さんが受け持ってくださった。物理学
に興味を持っておられたからだ。文化記録映画祭は変幻自在だ。「劇場映画祭は、作品の中を掘
ってゆくモノ」、「文化記録映画祭はそこから社会に広げてゆくモノ」だと中谷さんはいう。「文
化記録映画祭」では作家中心ではなく、とんでもない人からコメントをもらえるのが面白い。石
牟礼道子、村田喜代子、藤原新也、赤瀬川源平など「九州アイランド」の人がいて、関わりが広
がってゆく可能性がある。「日本劇場映画祭の 30 年を越えて、さらに拡散する文化・記録映画祭
を」と念じているという。
(2)「湯布院での運動」
湯布院は人口1万 2 千人だから、映画祭の実行委員の数もそれほどいない。大分、別府、福岡、
東京辺りからいろいろの人が、それぞれの度合いで参加してくださる。ゲストや半ゲストや応援
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者もいて、それぞれの度合いに応じて運動を支えてくれている。
地元は宿の手配とオカネ集めをするのが主な仕事である。実行委員会はことあるごとに会合を
重ねているから行動がまとまるけれど、観客はその日出会いのバラバラグループである。その方々
の苦情を中谷さんは聴くように心がけている。すると苦情が行き交い始めて、緊張感が溶けてゆ
く。このような活動で、各自の考えが確認できるのは 10 人以内であるという。その輪をそれぞれ
がつないでいく。輪と輪がつながって広がる。その輪の先の輪がどうなっているかは知らないぐ
らいがちょうど良いという。無理にまとめると「対応力」落ちる、とも...。
<乙丸集落が行う映画祭>
中谷さんの話はこうだ。「文化・記録映画祭」は 50 人単位くらいの実験でやってみたい。「湯
布院をあげて」というのは虚像である。「文化・記録映画祭」は、駅前の千人ほどの乙丸集落で、
地区公民館が対象にした範囲で行っている。湯布院町レベルになると広すぎて、もはや顔見知り
とは言えない。
「商店街の再組織化」を乙丸地区ではじめてみたい。3 年目には町の青年のなかの「のぼせも
ん」たちが運動を継続させているそうだ。
はじめは中谷さんが動いた。「私、中谷健太郎がお金集めをはじめている。あなたもよいこと
に手を貸して」と、手書きで「泣きの手紙」を送った。これが究極の口説きになり、遠くからも
お金を送ってくれた。中谷さんはこれを「申し訳の赤い糸」に結ばれた人間関係という。自分の
責任で頭を下げる。一口千円だが、1万円、10 万円と応援してくれた。ある銀行の支店長は、支
店の中で個人として集めてくれた。飛び火して、もと支店にいた友人たちも大分や中津から応じ
てくれた。
組織を個人にまで解体して、社会関係・友だち関係を追いかけてくれたのだ。寄付に応じてく
れた人々の名簿を、乙丸の青年達が受け継いだ。2 年目 3 年目からは自分たちで駆け回るように
なった。千円、2 千円と領収書を書いたが、それだけではご厚意が誰にも知られることがない。
それで、昔の芝居で旦那衆が下さった「花代」のように、「幕内より、花の御礼を申し上げます」
と、くださった人の名前を舞台で読み上げることにした。これでご寄付にはずみがついた。
(3)「湯布院町おこし」への取り組み
40 年前ここは寒村だった。時代は大衆ツーリズムで別府や熱海では、5 階建てのホテルにバス
で乗りつけて、夜に宴会をやり、翌朝にはサッサと帰って行った。さらに昔、大正時代、北九州
が鉄や石炭でにぎわい、昭和初めには湯布院に別荘が建った。また江戸時代の湯布院は隠れキリ
シタンの里だった。そのため江戸期の財の蓄積が少なく、明治以降の発展を送らせていた。
大正 13 年「由布院温泉発展策」が本田博士によって提案された。日本最初の林学博士で、全国
にドイツ式の国立公園をつくり、明治神宮の庭や、日比谷公園を造った人である。大分から由布
院に列車がたどり着いたのが大正 14 年だが、その前年に本田博士は「ドイツ国バーデンバーデン
に倣って、公園の中に町を造れ、散策の道はヨゴヨゴゆるめよ。アヒルを飼え、老人ホームを開
放せよ」「温泉保養所を作れ」と説いていた。
40 年前、旅館は、「ダンスホールはありますか、エレベーターありますか」と問われた時代で
ある。由布院にはそれらはない。中谷さんたちは「町おこし」を考え、本田博士の「由布院温泉
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策」を読んだが、「温泉保養所」がどのようなものか見当さえつかなかった。ドイツに行ってみ
る他はなかった。国内に事例はなかった。
中谷さんたちはクエーカー教徒の「サーバス・インターナショナル」に入った。そこは難民を
受け入れるボランティア・クラブで、普通の家庭がそれぞれにできるサービスをしていた。「寝
るだけなら」「話すだけなら」「朝食だけなら」と村の人たちが手を挙げて、その結果村全体で
"welcome stay"が可能になるシステムであった。中谷さんたちの「観光のイメージ」は一撃でぶち
こわされた。
ドイツのバーデンヴァイラーは滞在型の保養村で、広大な温泉施設と公園があり、年に 300 も
の催し物をやっていた。毎日、州がどこかで催し物を提供している。子供が遊ぶ場所に老人も加
われるようになっており、公共的な基盤設備が保養客に開放されていた。老人ホームを開放して
いる。何を犠牲にしても「開放」することを選択したそうである。一般の町は住民が中心である
が、温泉場は保養客が大きな存在になる。「開放」については反対もあり、混乱したそうである。
バーデンヴァイラーは深夜まで、ショーウィンドーの電気がついている。保養地ではあるが、
社会保険一辺倒に頼ってはいない。パリのショウウィンドー・デザイナーと契約をして、きれい
な商店街を演出している。緑の中に町を埋め込ませて、中に入ったら「自由だよ」と言っている
ようであった。地域全体の料金が少し高めであるが、ターゲットを高くして、世界各地から保養
客を招いている。差別化をしっかりして、小さな単位での、コスモポリタンを創っていた。
昭和 45 年帰国して運動を始めると「かぶれ頭巾」と言われた。「ドイツかぶれ」である。昭和
51 年、地震で町が壊滅的な情報被害にさらされた。何でもいいから町を広告宣伝したいと思った
が、お金がなかった。そこで辻馬車を走らせた。音楽祭を立ち上げた。映画祭を開幕した。牛喰
い絶叫大会を始めた。ドイツの保養地で学んだモノが大きかった。広告費はなしで、「事業費」
だけを計上した。事業にはメディアも企画段階から参入してもらった。新聞記者たちが、湯布院
でゴロゴロできる部屋を造って、泊まってもらった。
<移入者への対応>
今、町は市町村合併で揺れている。新しく入ってくる人たちと集落の人たちのしがらみがマイ
ナスに働くこともあるが、自分たちで町のあり方を考え、行動する若者や移入者が増えてきてい
ることも事実であるという。湯布院にはいろいろな人がやってくる。なけなしのお金をもって経
済活動を始める人、嫁いで入ってくる人、地元の血をとどめながら生き抜いた"Yufineese"と、新
しい移入者との間では相違や混乱が生じている。しかし、それはエネルギーの源でもあると中谷
さんは言う。移入者にとっても"Native"な感性が大切であることに変わりはない。地元のバーなど
に浴衣族がくると確かに白ける。しかし彼らがいないと村が成り立たない。このような問題に対
して向き合い、ひるまず交流の旗を立て続けているという。
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[Ⅴ] 「川越一番街町づくり」
可児(かに)一男氏
〒350-0062 川越市元町 1-15-8
tel 049-222-0151 fax 049-226-6001
2004 年 6 月 7 日午後 1 時から 2 時間あまりお話をうかがった。可児氏によれば、川越市には「平
成から明治まで」があるという。駅前の「クレアモール」には現在のヤングが集まる。「新富町」
は町並み整備をせず今あるがままの姿を見せ、そして「大正浪漫夢通り」が続く。さらに進むと
可児氏の住む「蔵の町並み」に明治時代の蔵を残した川越一番街がある。駅に近づくほど近代化
していく街になっている。市場は月曜などが休みで、商店街は水曜日が休みのところが多い。
「カニヤ本店」は明治 10 年に創業の時計屋である。西南の役から祖先が戻ってきて、輸入品の
「日巻きの柱時計」を扱った。服部時計店が時計を作りはじめたのが明治 12 年だった。店は、は
じめは角から 9 軒目だったが、大火後、角に移った。昔は幸町あたりのここしか商店街はなかっ
た。馬車が発達しており、秩父から大宮へ、そして東京へ行く街道の宿場でもあった。
(1)川越一番街の歴史的背景
①江戸時代
東関東の米の価格を決める市場が展開していた。浅草まで船で半日の距離で、浅草のはやりが
すぐに川越に持ち込まれていた。現在の一番街は、お城の膝元の商店街として発達し、それ以外
の場所(今の駅前など)は茶畑だった。武蔵野は八王子から武蔵野台地が続き、その先端が川越
である。穀物を運搬するときには、夜川越を出て、朝浅草に着いた。
② 明治 26 年 3 月 17 日の大火の後、蔵造りに
大火で 3 分の1の 1300 戸が焼けた。その時焼け残ったのは土蔵造りの大沢家だけだった。防火
の意味で土蔵造りの建物が建てられるようになった。店舗としての土蔵造りで、1階が商店で、2
階が倉庫になっている。蔵造りは日本橋三越のものをまねた。川越からは「穀物を持って行って、
江戸の文化を持ってきた」という。神田囃子や神田の流れをひく山車、そして人形のせり上がり
など、川を通じて江戸から文化が運ばれて、神田の祭りも移入された。
土蔵造りに比べて、レンガ造り(横浜など)は地震に弱いと聞き、使われなかったという。町
家造りの家もあって、日本の建築様式の変化がここで見られる。現在は車道のほかに歩行者が 2
人並んで楽に歩ける歩道があるが、元は堀があったと思われる。蔵造りの建物のオーナーは時に
変わっている。もと呉服屋だった店に、いまは新しい店が入っている。
③戦後
昭和 11 年生まれの可児氏は、戦時中疎開をしたが、2 日 3 日で帰ってきていた。そのころは馬
車屋や蹄鉄の店もあった。ここには軍事施設がなかったので、熊谷のような空襲を受けず、戦災
を逃れた。戦後は東京のベッドタウンとなり、商業の中心地が駅に近いところに移動した。
昭和の市町村大合併で、8 か村が集まった。昭和 30 年代、市街地には 5∼6 万人が集まり、人
口が 33 万人になった。その後、蔵造りの建築を見た専門家が保存するように主張しはじめた。専
門家からは「残しなさい」といわれたが、当時はぴんとこなかった。
④ 昭和 58 年「蔵の会」発足
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昭和 56 年に川越市の広報がつくったビデオが賞を取った。それを機会に青年会議所(JC)や
学校の先生など、建築家や蔵を持つ人 5∼6 人が中心になって「蔵の会」を結成した。商店街以外
の人も入会している。
そば屋の 2 階で月 1 回の集まりを持ち、お酒を飲んでいろいろな話をした。伝建(伝統的建造
物群保存地区)の話が出たときは、「釘を打てなくなるのでは。看板をおけなくなる」など、商
業活動を「凍結」する意味合いが強くなりそうなので、商店街は「伝建」に反対した。
蔵の会は当初 30 人ほどで、40 代の人たちが中心であった。初代の会長が可児氏で、現在は4
代目である。2003 年に NPO 法人化した。現在 200 人以上のメンバーがいて、お茶の会(「ジー
パンでお茶を!」)などを催している。お寺で年に一回、野点などをしている。商店街発展のた
めの 19 項目を作成したり、勉強会を開き、視察先として会津、松本、栃木、佐原、成田、足利、
桐生、などに行っている。
① 駐車場、② 暗い、③ 不足業種があるなどの問題があがっていた。
(2)「コミュニティマート構想」昭和 60 年度
昭和 60 年度に指定され、通産省の補助金を受けた。「小江戸、川越、歴史と文化のメッセージ
を伝える街づくり」というタイトルで、蔵造りの町並みを活用した老舗専門店(横浜・神戸の元
町のような)にしようとの企画である。専門家としては、東洋大学内田雄造助教授、早稲田大学
鎌田薫教授、千葉大学福川裕一助教授、コンサルタント西郷真理子さんなどが参加している。
まず①街並み委員が、ルール・規範を作り、②それに合わせて、店を直す。③人寄せのための
全体的な共同施設を作ることなどが提案された。
(3)『川越一番街
町作り規範』町並み委員会
昭和 61 年「町並み委員会」が発足した。67 項目からなる『町づくり規範』を昭和 62 年に策定
した。家の正面を直すときは 200 万円の補助金がでる。それに長期で有利な融資を受けられると
いう制度で行政も協力した。『町作り規範』作成に関して、「否定文はやめてください」と作成
者に注文したという。
(4)景観形成地区(10 町会)
「町並み委員会」委員長は今西定雄さんで、都市計画審議会や建築指導課などと連携している。
商店街が委員会の一部を担当した。「町並み委員会」を毎月1回開催し、文化財保護課などとも
連携した。街並み保存の成果として、人が町に戻ってきた。
平成 4 年には電線の地中化計画が持ち上がり、トランスを道路上に残しておくのではなく、私
有地に置けるように説得をした。おかげで路上には障害物がなくなった。電線の地中化について
は、下水道の見直しを市がやるときに、電線の地中化も行い、商店街の負担はなかった。しかし、
トランスを置く場所を探すのに 6 ヶ月かかった。片側 5 カ所におくことになったが、みなここし
かないと依頼した。大沢家の裏や、歯医者の横などにある。
整備後の観光客の入り込みは、平成 4 年で 150 万人、NHK で「春日の局」が放映された年は 400
万人が訪問した。10 ヶ町会は勉強会を行い、景観形成地区を申し合わせた。
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(5)「伝建」の取得
−「町並み委員会」の仕事−
マンションの建設に反対するために「伝建」を考えた。以前パチンコ店やキャバレーなどがあ
った。それが空き地になり、マンション建設の話しが出てきた。今西と商店街は反対運動をした
が、その最中にバブルがはじけた。高さに対する規制や建坪率などを考慮し、マンション建設計
画に対抗するには、制約の厳しい「伝建」を採るのが一番だときまった。
平成 10 年に「伝建」を申請し、平成 11 年に国の指定を受けた。全市的な見地から、商店街の
「町並み委員会」には「蔵の会」から 3 人ほどが入り、文化財保護課も入っている。「もち亀屋」
(西ー 8)復元に町並み委員会は伝統的なものにしてほしいと要求した。
また洋風建築でも、窓を長くしてもらうとかと工夫のしようがある。りそな銀行の看板では、
一番目立たない色にしてもらうように要求した。平成 15 年 9 月 28 日にオープンした「祭り会館」
は大きすぎて、人を拒絶しているような雰囲気がある。そこで玄関前に人を立たせたりしている。
大きいものはダメで、各施設は人を気持ちよく立ち寄らせるために木造で造りたいと思っている。
平成 15 年 10 月1日「F ギャラリー」は有名な設計家により建てられたもので、コンクリート
の打ちっ放しで、異質だが面白い。通りとの連続性を考えたり、棟を分ける感じにしてもらった。
木造の家は防災のためには難しい。消火栓を 40 カ所設置するなどの防災計画を実施中である。
理想的な店は、観光客におもねらない、地元民に愛される専門店である。おせんべい屋さんな
どどこにもあるものではなく、地元の人のための商品を並べる店が必要である。「町並み委員会」
は商店街から独立して展開していくことを考えている。NPO になると業種の選定まで可能になる
であろう。
(6)今後の課題、問題点
①不足な業種
ここは昔は繊維・織物の街だった。業種の問題点としては、靴屋がなく、洋服屋がない、ファ
ッションがない。そして八百屋、肉屋、魚屋などの地元の人のための店がない点が問題である。
人が住んでいるから、この町は毎日の掃除が行きわたってきれいである。それに比べ、駅近くの
クレアモールは、みなテナントで、街が汚い。2 階にある蔵にのぼって中を見られる店は(やま
わ、栄泉亀屋、うどん屋、ギャラリーなど)いくつかある。
②観光客対策
観光客は年に 400 万人が来るが、年齢層は比較的高い。駐車場は、市営などのものがあるが、
土日が渋滞している。地元の馴染み客相手の「自然食品の店」ではトイレを借りに来るだけの客
に怒って「観光客お断り」の看板を出していた。
③屋根
屋根の鬼瓦は、(会津では雪のため鬼瓦の大きさが制限されていたが、)大きくて立派である。
蔵造りは同じものはなく、屋根の角度や壁面がそろっている。
④構成員の変化
「蔵の会」の構成員は、都内に勤めに出て戻ってくる人たちもいる。「氷川神社の氏子」は、
近所のつながりがもともと強かった。お祭りの山車を持っている。氏子は 10 ヶ町よりなり、お囃
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子と踊り手は近在の村から来ていた。最近向こう側(農村側)でお囃子ができなくなったので、
街の人々が習いお囃子を演奏している。
⑤その他
道が四つ角になっているのは「札の辻」だけで、横丁のつき当たりはお寺になっている。浅草
の「女将さん会」からは、「夜がないね!」と言われた。路地がない川越。春祭りと夏祭りがあ
る。子供会や老人会とのつながりは祭りで一体となる。観光客が多く来てにぎやかなことはよい
ことだ。
「創作門松」を正月に出した。芋の門松、竹でアーチ、街をギャラリーに。
⑥可児一男さん
可児さんは昭和 11 年生まれで、商店街連合会の会長にもなった。連合会には 38 商店街が所属
し、全市的な売り出しもした。「小江戸小判」地域通貨を出したりしている。個人としての趣味
は、絵、油絵を描いている。
参考文献
1990『川越一番街町作り 一分間ストーリー』川越 RC にて
非売品
1988 年『川越一番街 町作り規範 町並み委員会』
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89∼90 可児一男
[Ⅵ]谷中銀座商店街振興組合理事長
堀切正明氏
「はつねや」(衣料品と寝具店)〒110-0001 台東区谷中 3-13-5
2004 年 6 月 8 日午前 10:30 より振興組合事務室にてお話をうかがった。堀切さんは 68 歳で、理
事長をやって 17 年目になり、あと 2 年任期があるが、組合員からの支持を得るのは年々大変にな
っているという。谷中銀座商店街は寺町で、店舗数は 64 店舗、全長 170 メートル、幅 5∼6m の
道を挟んでいる。振興組合の年間総経費は 1200 万円で、年間 300 万人ほどが訪れるそうである。
全国的に成功している商店街として知られている。
「想定授業」を千葉大学の建築学科の授業としてやっている。空き地にどんな建物を作るかな
ど、若い人の目で商店街を考えている。昨年も実施し、千葉大学の 90 人の学生に講義をし、実際
に設計・デザイン化したとのことで、対外的にも活躍されている。
(1)組合の3度の危機
谷中銀座商店街振興組合は 3 度の危機を迎えた。この商店街は戦後自然発生的にでき、昭和 39
年振興組合が発足した。最初の危機は、①昭和 43 年に地下鉄千駄木駅ができた時で、人の流れが
半減した。ここは文京区、荒川区の人の流れが重なるところで、客の流れが分散してしまったそ
うである。次に、② 昭和 52 年に「サミットストアー」(食品スーパー)ができ、そして③ 昭和
60 年以降にコンビニができた時に、商店街に足を運ぶお客の数が減少した。
現在でも厳しく、スタンプ事業の収入が半減しているそうである。1 日に 6 千人から 8 千人の
通行があるが、商店街としては厳しい。各店は「俺が俺が主義」でやっているので、商店街全体
としての同意を得るのが難しく、活性化を達成するのは大変である。各店舗は、専門店化を目指
すよりも「よろずや的」にやる必要があるとの展望を持っている。写真屋にエスニック商品を置
くなど、業種の転換よりも、業態を柔軟に運用することが必要で、商店街内での競合を図り、商
店街全体の活性化に結びつけるように努力しているという。
(2)振興組合としての主な事業
3 日に 1 回、販売促進イベントを中心に行っている。計算すると 2.7日に 1 回の割合で何かを
していることになるという。「スタンプ 500」事業が、商店街のイベント費用を稼いでいる。そ
の余剰金でイベントの際の助成金(200∼300 万円ほど)や、オリジナル商品作りに取り組む「チ
ャレンジショップ」などへの補助金を出している。組合には専従者もプロもいないが、堀切さん
はチラシ作成などすべて自分で、手作りで 20 年以上やってきた。
① チャレンジ・ショップ
通常の商店街では空き店舗対策の意味合いであるが、ここでは"Only One" の商品作りに「チャ
レンジするショップ」という企画で進めている。
②「日曜日に営業を!」
「日曜は休むな!」、すなわち「売れない日を作るな」という企画である。他の 6∼7 割の店は
開いていても、休む店が増えると商店街全体に客が来なくなる。そして土曜日も売れなくなって
くる。そのような事態への対応として「日曜日に営業を」と訴えている。
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③「スタンプ事業」:イベントと連動
スタンプに有効期間をつけるが、収集途中のスタンプでも福引きを引けるようにした。景品と
して地下鉄で 25 分のところにある帝国ホテルの食事券を出した。個性の時代ということで、好き
な人と好きなときに行けるものを提供している。スタンプを集めるといいことがあると「スタン
プ 500」でいろいろな企画を進めている。上野浅草グルメ券もある。振興組合の予算が 1 千万円
以上あると、いろいろな工夫が可能であるが、それ以下では難しい。
④「イベント」
イベント事業には継続的なもの・伝統的なものと、話題性をあげるためにマスコミを利用した
ものがある。「文化催事型」のものは、地元の文化を掘り起こしたイベントで、マスコミは飛び
ついてくる。マスコミは文化催事型(史跡巡りなど)を探している。先日は森山直太郎の番組で、
新たな観光地「谷根千」(谷中、根津、千駄木)巡りを行っていた。しかし、観光客はお金を落
とさず、鎌倉でも平均すると 1 人 500 円だといわれる。あらかじめ心構えをし、コロッケを揚げ
たりして待った。朝 9 時から午後 1 時までに 2 千人がやってきた。コロッケ1個 70 円で 1 千人分
売り、ドーナツを用意した店舗もあった。また土日に、カメラとスニーカーをもった客が通る。
そのためには業態の変換が必要である。しかし毎日か一日おきに来るお客さんが 85%で、その「リ
ピーターをまず一番大事にする」ことは、ディズニーランドと同じ考えである。
④「生鮮ビックリ市」
平成 6 年からはじめた。1日のみの企画で、生鮮店に差額補填をしている。昭和 46 年から全店
1 割引のイベントを始めた。「ビックリ市」自体は昭和 48 年から行っており、2 月、6 月、11 月
に各 2 日間ずつ、午後 3 時∼4 時の間にしていた。「継続は力なり」で、ポスターは 10 年分、20
年分くらいを一度に作り、経費を下げている。「同じ絵柄」でよく、絵を見ればどんな催しかが
すぐわかるようになっている。良いイベントを 20 年、30 年続けるのがこつであるという。谷中だ
けの試みとして、値段を下げた分組合が補填し、スタンプを 2 倍にしたりしている。
⑤「理想的な商店街」
「町作りで必要な資質」、「持たないといけない資質」は、①に発想、②に好奇心、③にセン
スで、④に実行力である。「理想的な商店街」とは、「楽、得、便」を備えているところである。
まず「楽」。楽しいことで、大道芸やライトアップをしている。ベルンでは、休みでもシャッタ
ーが開いている。次に「得」。客が得をした感じを持つことで、福引き、安価、スタンプなどの
提供がある。そして「便」。便利なことである。「オンリーワン・ショップ」や、回転が速く、
新しい商品を提供する店を目指すべきである。
⑥「さまざまな連携」
1.谷中七福神めぐり:300 名が集まり、谷中の史跡巡りオリエンテーリングや史跡
散歩、庭園巡りなどをした。
2.芸大学生の音楽会開催:「世界の下町∼トランペット・打楽器」を 8 月 23 日と
24 日に行った。(宮田琴:芸大の学生の谷中の絵を使わせてもらった。)
3.12 カ国語のウェルカム・ペナントとワールドカップの「ガンバレ日本!」の横
断幕を張り、協力した。(ペナントは裏表両面に。片面だけだと、何も描かれてい
ない片側が町を汚くする。)
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4.最上町と連携して、田舎を都会へ、都会を田舎にと相互に欠点を補い合う。
5.全日空の機関誌で紹介してもらう。
(3)マスコミ対策
若い頃出したスローガンは「谷中銀座で毎日何かが起こっている!」というもので、35 年前に
提案したが、その時は相手にされなかった。マスコミは、谷中のかつての名産「生姜はんてん」
を製作すると飛びついてきた。マスコミに取り上げられるのは、地元にとっての誇りになる。し
かし、「注意点」としては、取材された店舗以外の店への配慮が必要である。テレビや映画のロ
ケでは道路にレールを敷き、他店の前にカメラを置くこともあるので、他の店の邪魔や営業妨害
にならないことが重要である。またコマーシャル・フィルムを作成するときは、制作者が金をば
らまくことも多い。カメラの後ろを向けられた店が怒ることもある。
(4)「商店街の危機」
今は全国の商店街の 96%が停滞もしくは衰退している。
10 年前はデフレで 91.5%が危なかった。
商店街の事業費 1 千万円を業者に丸投げせずに自分たちで企画して遣っている。これまで通りス
タンプ事業やポイント事業を今後も進める以外にない。ほかに期待できるのは、行政からの補助
金である。
「商店街がさびれる」のは実際の傾向であるが、老人、病人、子供が下駄履きで買い物ができ
る街にすべきであると考えている。新規参入者は新しい空気を入れてくれるが、しかし、自分か
ら進んで商店街のための企画をすることはほとんどなく、良ければ利用しようと思う人々が多い
ことも確かである。商店街を「支える人」は、 自分の仕事をほっぽり出してやっている。若者、
若いセンス、力仕事が必要なのだが、少し前は青年部員が 3∼4 名になったことがある。最近は
14∼15 名が活動してくれる。現在 64 店舗あるが、空き店舗はないという。
地元のスーパーは集客ではプラスになっているという。「空き店舗対策」に行政が加わっても
なかなかうまくいかない。実は「対策はないのだ」という。商店街が繁盛するのは「7 割は運で、
残りの 3 割は組合員の協力」で、その 3 割の半分は組合のリーダーの資質によるという。環境は
「お客が作ってくれる」ので、店は普段からの努力が重要である。空き店舗対策用だけの「チャ
レンジ・ショップ」は成功しない。また振興組合が不足気味の業種を呼んできても、既存店とバ
ッティングしたら、どちらかが出て行くことになるので、そのような誘致はしていないし、手間
も掛かるのでできない。商店で新たな投資をできるのは、後継者がいる場合である。谷中銀座商
店街ではそのような店も増えてきているという。
商店街は「元気になれば、人が来る」ので、「土日を休まない」試みをしている。しかし「都
が売れない日を作っている」。築地は第 2、第 4 水曜を休みにしているので、「水曜は人が来な
くなる。大型店は水曜に売り出しをかけてくる」という問題を抱える。
(5)「リーダーの仕事」
「みんながついてくるまで工夫」を怠らず、「決断をすることが理事長の仕事で、表に出す以
上いい加減なことはできない」と心がけている。「率先実行。先頭に立って」行動している。な
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かなか評価されず、傍目からは物好きと言われるような仕事だが、「新しいセンスが必要」でも
ある。「良ければ続けるではだめ」で、「いかにして客を呼べるか」をいつも考えている。オー
トバイに乗っていても考えている。好奇心から、何か採用できるものはないかを探しているとい
う。
商店街のために動く者は「自己中心的な者ではだめ」である。「飲みにケーション」と思って
誘っても若者はなかなか思い通りには応じてくれない。婦人会の集まりもあり、「内助の功」と
して、10 名ほどが月 2 回集まっている。「浅草女将さん会」は事業主の集まりで、内助の功的な
役割のここの婦人会とは別物である。研修会として IT 研修会を年に 1 回か 2 回開催している。
堀切さんは大学生の卒論に 5,6 年ボランティアでつきあっている。また複数の小学校の 3 年生
が課外事業で質問に来るのにも応対している。的を得た質問もある。
(6)「店について」
①「高齢者のための店」
毎日来て、話せる店であることが必要である。一人暮らしの高齢者は一日話せない日もある。
商店街は街の顔で、商店街がつぶれるとお年寄り、病人が困る。人が住んでいる店舗が、3 分の 1
である。また 2 階に自分たちが住み、1 階を貸している店もある。3 分の 1 がテナントとして貸し
ている。
②「商店街活性化の注意点」
注意点はリピーター対策である。つねにディズニーランド的に対応を考慮することが必要であ
る。切磋琢磨して、競争し、個店の個性化を図る。「中小企業大学」に行って講義している。
「商店街をだめにした3点」は、まず昭和 30 年代のスーパー・マーケットの登場、次に家族制
度の崩壊で核家族になったこと、そして「店は一国一城の主」だとの考え方が商店街をだめにし
ているという。チラシにしても、1 回に 1 万∼1 万 5 千枚配布するが、雨が降ればその効果はなく
なる。しかしそのマイナスも商店街振興組合員として 60 分の 1 を負担するなら、なんとかしのげ
る。「一国一城の主」的な考え方ではもはや商店街の店舗はもたないし、企業的な集団が理想で
ある。
「リーダー」がチラシの文面も決断する。それは社会的な決断である。リサイクルなどを提案
しても実際の儲けにはならない。しかし社会的な意義があるとリーダーが判断したから、リサイ
クルを訴えているのである。
③「振興組合理事会の課題」
理事会の理事は 15 名である。今課題にあがっているのが、半減したスタンプ事業のてこ入れを
どうするかである。10 枚で福引きにするかどうかなどを検討している。
「スタンプをポイントカードへ変えると元気がなくなる!」という点にも注意が必要である。2
万 6 千円で「スタンプ 500」は満点になるが、協力しないスーパーもあり、脱会者が出てきてい
る。ポイントカードにして失敗しているところも多い。谷中銀座の「スタンプ 500」の負担率は
2.5%、他のスタンプ・ポイントカードは 1∼2%である。
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[Ⅶ]「内子町役場・町並・地域振興課」大野千代美(Chiyomi Ohno)氏
〒791-33 愛媛県喜多郡内子町内子甲 780 内子町役場
tel 0893-44-2111
2004 年 10 月一杯まで愛媛県主催の「町並み博」が開催されており、内子町も参加していた。
2004 年 10 月 30 日の午後高橋邸にて「内子の地域振興について」大野さんからお話をうかがった。
(1)内子という土地
内子は、市街地を形成している盆地を除けば、周辺はほとんどが山で、地形の問題から道路整
備など社会資本整備にかかわる経費も多く行政効率が悪い。暮らしや人間関係は穏やかな地域で、
農村の生活をする上で不満はないが、井の中の蛙のようなところがあった。今日の内子町がある
のは「町並み保存」があったからだと考えている。「町並み保存」をきっかけに、住んでいる人
が気付かず、他と比べようともしなかった「個性」をもつ町「内子」としての認識がはじまった。
観光という新しい業も誕生した。
町並保存は、I ターンの識者の提案が契機となった。画家であり、柳宗悦などにも詳しい人が
内子の町並みに住み、そのすばらしさを評価し、行政にも働きかけた。行政もそれを真摯に受け
止め、行政施策の核に町並み保存を位置づけた。
(2)伝統的建物保存
八日市・護国の町並み保存地区は、昭和 57 年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され
た。保存地区は、江戸から明治、大正にかけて建てられた建物がほとんどで、昭和に建てられた
建物も点在している。面積は、3.5 ヘクタールである。古い建物は、指定物件になっており、建物
の改修、特に外部の景観を保存することを目的に、国・県・町で8割の補助金を出している。内
部は自由に改修できるが、その部分は補助対象にならない。昭和に建てられた新しいものは、建
物改修に 3 分の 2、限度額 500 万円の補助がある。町並みの景観を維持するため、保存地区は、
建物のデザインなどが条例で規制されている。
町並み保存に取りかかった頃(昭和 40-50 年ごろ)は、住んでいる人に町並み保存をどう理解
してもらうかが大変であったと当時の担当者から聞かされている。文化庁の選定を受けるには、
保存地区約 80 世帯の同意が必要だった。
昭和 53 年ごろ、全国誌である朝日グラフの表紙に八日市の町並みが紹介された。それが全国的
なインパクトがあった。それまで内子が全国誌に載ることがなかった。NHK朝のドラマ「おは
なはん」で有名になった大洲市に比べて、内子は寂れていた。内子の町並みが全国誌や新聞、テ
レビなどマスコミに紹介された効果は大きく、行政も町並み保存の意義について町民や議会を説
得しやすくなった。(いま、内子町は、さまざまなメディアに紹介されるまでになり、職員も驚ろか
なくなっているが、当時の自分たちは全国誌に内子が掲載されたことは感激であったという。)
当時、大野さんは公民館にいて、青年団で勉強会をしていた。教育委員の人が 38 歳で町長(旧
家出身)になり、町並み保存をまちづくりの施策に位置づけ、今日まで町長が変わらなかったこ
ともあり、政策がブレることなくやってきている。「町並み保存」に要した経費は、昭和 53 年か
ら 30 年間で 3 億 5 千万ほどである。年ごとでは、それほどは使っていない。ただし、町並保存対
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策課を発足させ、7 名の職員を配置し、行政部直属で町並み保存といえば予算がつく時代になっ
た。そのくらい行政が力を注いだということである。
一時は町並保存が教育委員会に移ったこともあったが、効果がなかった。教育委員会という特
異性からか、文化財を守るということから脱して、戦略的なプログラムを組みながら施策形成を
していくということがなかなか難しかったということである。内子町の場合は、行政の力をシフ
トして町並み保存を進めてきたというのが事実で、それが住民の中に広がっていった。
(3)「リーダーシップの問題」
当初、行政がリーダーシップをとりながら、住民の保存会も発足した。世代が変わっても町並
みを保存していくという住民の意識を持続させるということは難しい。それが今にいたるまで課
題として残っている。修理や観光公害など、住民がリーダーシップをとりながらコントロールし
ていくのが理想であるが、まだまだ住民がリーダーシップをとりきれていないのが現状である。
(町並み保存の背景には、哲学・思想の問題もあるという。)住民参加でやってきた町並み保存であ
るが、リーダーつくりが難しい。伝建地区は個人の財産の問題でもあり、それぞれの考えもある。
住民の思いをまとめていくというのは容易ではない。
1999 年(平成 12 年)「町並み保存センター」を保存地区に開設した。職員が 2 人常駐し、住
民と膝を交えて話す機会が増え、次第にその効果が現れてきた。役所にはいきたくないが、セン
ターには気楽に相談に来てくれる住民が増え、保存会活動も活発になってきている。
(4)観光の問題点
年に 54 万人の観光客がくる。観光による影響は、プライバシーを覗かれるなどの問題点と、
外から入ってくる資本の問題がある。
内子が有名になってから外部資本が保存地区内に出店し、漁夫の利として利益だけを持って帰
るのは困る。商業規制などはかけていないが、外部資本の店が最近 10 年ほどで 5 軒ほどできた。
内子の場合は、住んでいる人がいるという生活空間が、町並みの誇りであり良さなので、保存地
区がどこに行っても売られている品の並ぶ観光土産店ゾーンになって欲しくない。
(5)保存地区
住んでいる人は、自分たちがリスクを負いながら、町並みを保存している。軒を連ねる建物だ
けでなく、生活空間を訪れた人にも感じてもらえる「町並み保存」というのが自慢である。内子
の保存地区は生活空間そのもので、町並み保存を進めるまでは観光みやげ店などのなかったとこ
ろであった。「店をリース」する例が増えている。今は世代交代の時代で、孫の代はもう内子に
住んでいないので、人に店を貸そうかという話になる。家賃収入が 5 万円、10 万円入るなら貸そ
うかという気になる。外部資本が保存地区に出店し、客を呼び込んでいる。その呼び込みの声が
問題になる。住民コントロールがかかるようにと、「町並み保存センター」が努力をしている。観
光ありきの町並み保存にならないためにも、危機意識をいつも出していかないと町並みが壊れて
いく。
保存会のメンバーも高齢化している。保存地区に住む人の 40%が高齢者である。内子の高齢化
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率 30%よりも高い。
(6) 観光への依存
観光への依存率の数字は出しにくい。観光農園(果樹栽培)は、篤農家であれば 1 千万円を超
え、後継者もいる。しかし明確な数字は出てこない。巨峰を中心とした「観光ぶどう組合」は、
発足してから 20 年ちょっと経つ。
町並み保存地区を訪れる団体観光客は、通りすぎるだけで、駆け足で(1 時間で)出て行く。客
単価も低い。
道後温泉へ行く客は内子には午後の 3 時から 4 時まで滞在する。道後発で高知に行く客は朝 9
時から 10 時まで内子に滞在する。団体客が宿泊できる旅館は 3 軒くらいである。団体客よりも、
個人でゆっくり散策してもらい、内子に宿泊してもらう。そういう意味で、グリーンツリーズム
協会を発足させ、商家民泊、農家民泊を提供するようにしている。
町並み保存を進めたことで、和蝋燭や和傘などの内子の伝統産業の店や商店街にも観光客対応
の店が生まれ、経済効果が現れていることは事実である。
(7)女性たちの取り組み
①「満穂村」での取り組み
農村の暮らしや資源を再生させ、地域の振興を図ろうということで「村並み保存」を推進して
いる。自分たちの地域を自分たちで考えていこうと力を入れている。村並保存のモデル地区とな
っている満穂村は、既存の地域の役職員や組織ではなく、自立した 12 人の男性たちが「石畳を思
う会」という地域づくり団体を立ち上げた。水車小屋の再現やホタルの保存などに取り組んでい
る。地域の古民家を再生させた「石畳の宿」は、主婦グループ「エプロン会」が、自分たちで作
った食材でもてなし、都会から多くの宿泊客が訪れている。住民による地域づくりが浸透するこ
とで、それまで観光客が皆無であった農村部に国内、国外から利用者を迎えるようになり、地域
の元気おこしにつながつている。それには、女性たちの力が大きいという。「石畳の宿」は、女
性の雇用の場にもなっている。
②高橋邸
1994 年に高橋家から町に寄付された 800 坪の屋敷で内子の偉人高橋龍太郎翁の生家である。住
民参加型で始めた高橋邸の開放は、女性グループ「風雅」のボランティア活動で始まった。参加
者は口コミで1本釣りで確保した。最初は掃除や草引きなどを、ボランティアでしていたが、喫
茶のサービスをはじめ、収入が得られるようになったときに有料ボランティアにした。平成 14 年
から、1日1組みの予約で宿もはじめるようになった。宿泊を受け入れてからは、交代で朝食の
世話をしている。高橋邸の宿泊では、市街地にあるため、夕食はなく、朝食だけを出すB&Bの
システムをとっている。(「石畳の宿」の場合は、1泊2食を出している。)
③内子町所有の 4 施設
内子町が所有し、住民が運営する宿泊可能な公設民営の施設は、「石畳の宿」「大瀬の館」「い
かだや(1泊2食)」そして「高橋邸」の4施設である。内子での滞在型観光を進める上で重要
な施設である。個人経営の農家民宿や町屋民宿もあり、グリーンツリーズム運動に関わる人も増
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えてきている。泊まる人にはリピーター客も多く、都市と農村の交流が発展的に個人の領域で進
められることが強みである。
(8)「内子ブランド」
①「お土産、和ろうそく、お酒、農産物」
いくつかはあるが、売る素材は多いほうではない。地酒や伝統工芸の和ろうそく・和傘、菓子、
味噌醤油、果樹など定着した土産品もあるが、まだまだ種別的には少なく、内子ブランドを作る
努力をしている。町並み博で町並みアート 36 景を担当されている書家の赤岩先生(東京在住)に
デザインしていただき、「内子ブランド」として販売しようかとの話も出ている。今は昔のよう
に大量の土産を買って帰る時代ではなくなり、記念になるもので良い品を観光客はこまめに買っ
ている。
②「からり」直売店(生産者協議会)
山間部の人たちが多く関わっている直売所である。昭和 62 年に高次元農業をめざし、自分た
ちの農村の暮らしを楽しむために、知的農村塾を立ち上げた。全国から先進的な取り組みをされ
ている農業経営者などさまざまな分野の人を呼び農閑期(12 月∼2 月)に開講した。夫婦の参加が
多かったのが特徴である。その農村塾をベースに「からり」が生まれた。女性や高齢者が、自作
の品物を売る販売組織を立ち上げて、実験的に内子市場を作った。消費者の思いや直売所のあり
かたを研究して、それを「からり」につなげた。「からり」は、第 3 セクターである。産業振興
課が中心となって「焦らずにやってきた」ことが、年間 5 億円の販売実績をあげるなど、今日の
成果につながってきている。直売所の中心は、生産者協議会で、内子町で生産されるものしか販
売することはできない。
(9)「企画」などの諮問
町の広告宣伝費はゼロで、取材にきたマスコミなどに内子を紹介してもらうことが宣伝になっ
ている。まちづくりの根幹にかかわる、総合計画の策定やプロジェクトなどの推進は、ケースに
応じて東京のシンクタンクに協力を依頼している。町づくりがぶれずにやってこれたのは町長が
かわらなったこともあるが、シンクタンクの地域総合研究所 CSK と連絡を取り合っていることも
大きい。「からり」のベースとなったフルーツパーク構想は、ケイプランナーズが関わっている。
(今回県が「町並み博」の企画を依頼したメディアマーケットの宮本倫明(ミチアキ)さんとの出会いは
はじめてという。県が新たに採用した人らしい。)
「町並み保存」「川づくり」「森づくり」なども、その道の人脈に支えられてやってきた。基
礎調査に予算をかけて、報告書をきちんと作り、事業実施のバイブルとするとともに、県事業へ
の説得などに使っている。そういうことには金を惜しまなかった。「急がないでやってきたこと
がよかった」という。一般財政から 1 千万円単位の基礎調査費を支出してきた。しかし、町村合
併後にトップがどうなるかで、今のような政策が継続できるかどうかが決まるという。
今回の「町並み博」は、「突然降って沸いた話」だった。愛媛県の仕掛けとして「しまなみ」
についで、南予に観光客を呼び込む計画を立てた。内子、大洲、宇和の 3 町が中心になっていた
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が、論議の中で「今まで内子がやってきた形と違う」、「これ以上観光地化することへの危惧」
が語られた。「内子の町の受け入れ可能な枠を越えた人が来ると、もてなしにも粗雑さが出て町
のイメージがダメになる」との警戒感をもった。「一過性の集客で内子がすごくなった」と住民
が勘違いをするのも怖かった。パビリオンなどは建てず、地域の資源を生かし、持続性のある南
予地方の観光振興を図る契機づくりとするという県の考え方には反対しなかったが、町並み博に
10 億円といわれる予算が使われるということで、費用対効果の点でも心配だった。大洲では観光
客が 2 倍になったが、内子への影響は、当初危惧したほどではなかった。(多くのイベントを短期
間に仕掛けて、「町並み博」以後、反動で客が見向きもしなくなるのではないかという危惧があった
という。)
(10)「内子座」
大正 5 年に創建された芝居小屋である。昭和 60 年に2ケ年をかけて復元をした。観光施設と
して公開している。年に 70 回ほどの公演があり、内子座の稼働率は 70%くらいである。有名人
の公演、講演、地域住民の芸能発表会などで使われる。8 月、9 月、10 月に野村万歳など有名な
アーティストたちが毎週のように来ているのは「町並み博」の事業である。町並み博の公演料金
が 7 千円、1 万円というのは町の人間には高すぎて、外からきた観光客向けの催し物との印象が
強いという。県の考えも、地元というよりは、旅行商品という考え方であった。
通常の内子座は、内子座文楽の公演や住民主体がプロモーションする公演などが年間何回か行
われている。
(11)公共事業
町並み博では、町並み保存地域のライトアップが行われる。明かりの使い方や、舞台の使い方
いついて、「町並み博」で観光客がどれだけ来たかというより、そのノウハウや人脈が引き継が
れるかどうかが大事であると大野さんは認識している。ソフト事業だけでなく、ハードにも整備
の金を注ぎたかった。県の予算の使い方も内子町に限って言えば、「今年 10 億よりも、3 億ずつ
3 年の方がよい」という。住民間では、旧図書館跡や映画館だった「旭館」の修理復元を町並み
博を契機にしてほしいとの希望がある。ソフトとハードを一体にして県の予算を使うべきである
と思っている。
町並み博が評価されて、南予地域が「観光空間モデル事業(国土交通省)」に選定されたので、
これからも期待できるが、もともと観光ありきでやってきたのではないので、少し心配である。
「まちづくり」という基本を忘れずにやっていくことが大事である。しかし「国が言い出すとな
ぜか、どこもかもが同じものをつくり個性がなくなり」、結局「どこもかもつぶれる」という傾
向があるという。「個性のあるものに金を出す」といいながら「どこでも同じものができてしま
う」ようになる。しっかりした住民が育つことが一番である。
町並み博の住民による自主企画イベント事業の「ちゃが丸」(バス)の運行でも、100 万円を
行政(県 50 万円、町 50 万円)がだし、商工青年部の試みを応援している。商工会には U ターン組
みが多く、新しいことにチャレンジしている。
町並み博の自主企画イベントは、「町並みギャラリー」、「ちゃが丸」バスの運行、石畳村並
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博覧会など、自主企画グループが 9 つ活躍している。「町並み博」で県は自主的なグループを南
予に 100 作ろうとしたが、産みの苦しみを味わっている。内子には、さまざまな地域づくり活動
を自主的に実施しているグループが多く、新たに組織するというのは難しく、グループの立ち上
げは少なかったほうである。多い、少ないより持続出来るかどうかのほうが重要である。
「町並み保存」を推進したことで、内子駅に特急が止まるようになったり、高速のインターが
できるなど、確実に環境はよくなっている。「からり」で、1 千万円以上を稼ぐ農家も生まれ、
グリーンツーリズムの取り組みで農家民泊も行われるようになったが、内子町全体の農家経営は
厳しい。基幹産業は農業といいつつ食べてはいけない。過疎化は変わらず、今後も「過疎対策」
が重要な問題になっている。
これからの課題としては、それぞれのプロジェクト同士の横のつながりをどう作るかが重要で
あるが、そのつながりはできそうでできない。セクト、セクトで分かれてしまうのを防ぐために、
行政も住民も「どんな町を創造していくか ―― まちづくりの筋書き」の共通認識が必要だと大
野さんは考えている。
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[Ⅷ]「からり」運営協議会・会計幹事・広報委員
大森昭生氏
愛媛県喜多郡内子町五百木6号
2004 年 10 月 31 日「からり」にて大森さん(75 歳)からお話をうかがった。
(1)「からり」の発足
「からり」は「花」(果)、「楽」、「里」である。「高次元農業の実践」方針に基づき、行
政主催の知的農村塾が開講された。農林省の「ふるさと塾」で若い青年リーダー育成の一環であ
った。この農業研修会にみんな夫婦で参加してきたのに驚いたという。個人の経営努力が大事で、
とくに女性の力が大きいと気付いた。10 年ほど前に始めて、7 年前に今の建物ができた。最初 30
軒でやったとき、雨ざらし、日ざらしであった。議会で発言してテントの屋根がついた。次に「か
らり」の建物が建てられた。「最初はほんとに小さかったが、よく大きく育った」との感慨を述
べる。今は 400 軒が参加している。人口が当時は 2 万 3 千人程度だったが、今は減少して 1 万 2
千人くらいになっている。「からり」への出店には年会費 3000 円で、手数料を 15%取られる。バ
ーコードには出荷日、出荷者、電話番号などを自分で事務所でパソコンに打ち込むことになって
いる。
(2)「品物」
以前に比べて品目が増えた。とくに加工品が増え、300 品目を超えているという。最初は農家
だけだったのが、今では商家の人たちも商品を出している。「自由競争」でやっており、値段の
つけ方、品目などほかの人の出店物をよく見て、また提供された情報を勉強したうえで、自由競
争が行われている。トレイの数は制限していないので、この後規模拡大にどう対処するかが問題
である。野菜、果樹だけでなく、花卉が充実したのは女性の力で、細やかな女性の感性のおかげ
である。スーパーとの差別化を考えている。とくに鮮度が大事で、根菜類は3,4日まで、葉菜類
はその日だけで引き上げている。パンも非常に好評を得ている。
(3)運営
町長が東京農大出身で、農業のことがよくわかっている。職員もよくやっていると、行政に対
する評価が高い。しかし今後の課題としては、市町村合併と高齢化の問題が大きい。最初は狭く
て、屋根がなく、商品が雨ざらしになって不満が多く出た。行政に要求を出して屋根を作っても
らってよくなった。行政にはいい職員がいて、よく勉強をしている。
荷物の搬入の時などには、家族経営体としての農業が残っていて、予想以上に若い人が手伝っ
ているのが印象的である。このような「道の駅」は女性が社会進出するいい機会になっている。
「下記の売り出し」で抽選会をやっているのは事務所の職員で、当たると柿を景品で出している。
ハズレだとティッシュを渡す。「いい職員がいますから」と評判がよい。
この日の晩に、タイからのお客が視察に来て、ホームステイをしてもらうことになっている。
言葉が問題だが、自分たちもタイに行って研修したという。
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