2013 10 昨 2013 年はポーランドの生んだ秀でた作曲家 ヴィトルト・ルトスワフスキの生誕 100 周年でした。 これを記念して、ポーランド広報文化センターの 支援を受け、ルトスワフスキ研究の第一人者でワ ルシャワ大学教授のズヴィグニェフ・スコヴロン氏 を迎えて講演と演奏の集いを企画しました。 ルトスワフスキはポーランド国内だけでなく、世 界的にも戦後の現代音楽を代表する素晴らしい 作曲家ですが、札幌では認知度はあまり高くあり ません。お客様が集まるのかと不安でしたが、幸 いスコヴロン教授は、2012 年に日本で翻訳が出 版された『ショパン全書簡 1816−1831 年』(岩波 書店)の編集にも関わられたショパン研究者でも あり、2012 年には東京でその書簡集について講 演を行い、大変素晴らしい内容だったと聞きまし た。そこで前半はショパン書簡集をめぐるスコヴロ ン教授と当協会会員の三浦洋氏の対談=写真 1=、 後半はスコヴロン先生にルトスワフスキについて の講演をお願いしました。 また当協会の会員の中には素晴らしい音楽家 が多数いらっしゃいますので、前半にショパン、 後半にルトスワフスキ作品の演奏を加えて=写真 2 =「ポーランド楽派を聴く」と銘打ったレクチャーコ ンサートとしました。 会場は札幌大谷学園百周年記念館同窓会ホ ールをお借りしました。当協会で使うのは初めて でしたが、二階天井まで吹き抜けで音響が素晴 らしく、お客様との距離も近く、とても親密な雰囲 気で、講演と演奏には打ってつけでした。 当日は、前後半ともに筆者がポーランド語から通 訳をしました。当日まではとても緊張しましたが、ス コヴロン先生に実際にお会いすると、非常に深み のある内容を平易なことばで情熱を持って語られ、 まるで音楽についての優れた書物の朗読を聴い ているようで、非常に理解し易く、ホッとしました。 8 15 写真 1 (対談)三浦氏(左)とスコヴロン氏(右) 前半はポーランド、日本を代表するショパン研 究者の対談とあって、とても刺激的でした。スコヴ ロン先生は、ショパンの書簡の原本は紛失したも のが多く非常に苦労していること、編集には現在 フランスで刊行中のジョルジュ・サンド書簡集の編 集方針を参考にしていることなどを語られました。 三浦氏からの、書簡集の編集によりスコヴロン先 生のショパン像は変わったかという質問に対して、 先生は、ショパン像に変化はないが、当時の歴 史・社会背景を知ることでショパンに対する理解が 深まったこと、特にショパンは作曲家としては歴史 上初めて近代的教育制度の恩恵を受け、大学で 文学や哲学などの一般教養を学んだことの重要 性を強調されました。 この書簡集は全 3 巻で、出版されたのはまだ 1 巻目のみですが、現在編集中の 2 巻目は次のショ パンコンクールが行われる 2015 年、3 巻目はその 次のショパンコンクールがある 2020 年に出版を目 指しているそうです。 つづいて当協会会員の松井亜樹さんのソプラノ と、高橋健一郎さんのピアノ伴奏で、ショパンの歌 曲「いとしい人」ほか、坂田朋優さんのピアノで「バ ラード第 3 番」が演奏されました。スコヴロン先生 は、札幌で聴くショパン作品を堪能された様子で、 イベント後に「演奏のレベルの高さに非常に感銘 を受けた」とおっしゃっていました。 後半はルトスワフスキについての講演です。今 回の日本講演旅行では、札幌以外はすべて英語 原稿で、札幌のために英語からポーランド語に訳 し直されたそうです。事前にいただいた原稿は、 通訳なしでも 90 分はかかる力作でしたが、後半は 通訳、演奏を入れて 50 分で、話されたかったこと の半分もお話しいただけず、全体の構成、時間配 分など、企画には多くの反省点が残りました。 講演では、スコヴロン先生は、ルトスワフスキ作 品の抜粋を CD で紹介しながら、彼の創作活動の 発展について解説されました。調性音楽に代わる 音楽言語を探求したこと、1956 年のハンガリーに おける反共産主義運動の影響で、この時期はポ ーランドでも文化政策が緩和化し、それがルトスワ フスキをはじめペンデレツキやグレツキなど(「ポ ーランド楽派」と呼ばれる)優れた音楽家を生んだ こと、当時流行していた「偶然性の音楽」という理 念から、ルトスワフスキは「管理された偶然性」とい う独自の作曲技法を生み出し、それは決められた 時間の範囲内で、決められた音の高さを保ちなが ら、自由なリズムで演奏するという手法であったこ となどを、非常に印象深く話されました。 ルトスワフスキ作品の演奏では、前半に引き続 き松井亜樹さんと高橋健一郎さんがユリアン・トゥ ヴィムの詩による歌曲を 2 曲演奏しました。 また当協会会員、昭和音楽大学教授でピアニ ストの川染雅嗣氏が東京から駆けつけ「ポーランド の民謡風メロディ」の演奏を聞かせてくださいまし た。川染先生はポーランド留学中にルトスワフスキ 自身の演奏を聴かれたことがあるそうです。本場 で研鑚を積まれた先生の、ポーランド音楽やルト スワフスキに対する深い理解に基づいた演奏に、 会場全体が魅了されました。 最後に会場の札幌大谷大学のピアノ科主任教 授で、当協会会員のピアニスト谷本聡子氏とクラリ ネットの菊地秀夫氏により「舞踏前奏曲」が演奏さ れました。複雑なリズムの難曲を、曲の魅力を最 大限に伝えながら見事に演奏しきる熱演でした。 講演の最後にスコヴロン先生は、ルトスワフスキ を含め現代音楽を私たちが理解する方法につい て、非常に印象深いことを述べられました。現代 音楽は外国語の学習のようなもので、最初は何の 意味も持たない音声の流れにしか聞こえないが、 文法や語彙を習得するにつれ、徐々に意味が理 解できるというのです。現代音楽も、その作曲技法、 構成などの知識を得て接すると、はじめて理解に 達すると強調されました。音楽の聴き手の側にも それを受け容れるための準備が必要であるという 考えには、非常に共感できました。 ルトスワフスキというなじみの薄い作曲家に関す るイベントにもかかわらず、当日は約 80 名もの方 が会場に足を運んでくださいました。ご来場いた だいたお客様、スコヴロン先生、三浦先生、演奏 者の皆さま、そして当日お手伝いいただいたスタ ッフのみなさんに、感謝の念でいっぱいです。本 当にありがとうございました。 佐光 伸一(「W.ルトスワフスキ生誕 100 周年 記念講演&演奏会」 実行委員) ※当日配布資料をご希望の方は事務局(1ページ目 左上参照)にお問い合わせくだい。 100 写真 2 演奏者(左から)川染雅嗣 高橋健一郎 菊地秀夫 坂田朋優 谷本聡子 札幌大谷学園百周年記念館同窓会ホールにて 松井亜樹の各氏 9 100 2013 10 15 19 18 00 30 16 9 1816 1831 F. 74−3 74−12 3 47 W. ─ 2 ─ 本日はお忙しいなか、「ヴィトルト・ルトスワフスキ生誕 100 周年記念講演&演奏会」 《ポーランド楽派を聴く~ショパンとルトスワフスキ~》にお越しいただき、まことにありがと うございます。 今年は、現代音楽の巨匠として二十世紀後半の音楽界に大きな影響を与えた、ポー ランドばかりでなく、現代ヨーロッパを代表する作曲家である W.ルトスワフスキの生誕 100 周年にあたり、記念コンサートなどが世界各地で催されています。 札幌でも、ワルシャワ大学のズビグニェフ・スコヴロン教授をお迎えし、北海道ポーラン ド文化協会会員有志を中心とした演奏者が協力して、記念の講演と演奏の集いを催す ことになりました。 スコヴロン教授はルトスワフスキをはじめとする現代音楽についての専門家であるだけ でなく、新しいショパン書簡集の編集にも携わっておられますので、今宵はショパンとルト スワフスキについての講演と演奏という贅沢な企画となりました。限られた時間ですが、 お楽しみいただければ幸いです。 なお、この催しの実現にあたりまして、スコヴロン教授の招聘にご支援をいただきまし たポーランド広報文化センター、会場をご提供いただきました札幌大谷大学・札幌大谷 大学短期大学部をはじめ、ご後援をいただきました諸団体、関係のみなさまから多大な ご助力を賜りました。ここに記して厚く御礼申し上げます。 2013年10月15日 「ヴィトルト・ルトスワフスキ生誕 100 周年記念講演&演奏会」実行委員会 委員長 三浦 洋 ─ 3 ─ ヴィトルト・ルトスワフスキは、ショパン、シマノフ 作品における偶然性を管理することにより、彼 スキに続くポーランド最大の作曲家であり、調性 音楽という 19 世紀の音楽の伝統を受け継ぎつつ は西側の作曲家たちにみられた「極端さ」を免れ た。「ヴェネツィアの遊び」に続く「交響曲第 2 番」 再解釈し、新しい独自の音楽言語を探求した。 (1965-67)も含め、この時期の作品には「アド・リ ジョン・ケージなど 20 世紀の新しい音楽の流れ ブ」(自由な即興演奏)の利用が特徴的である。 を取り入れながらも、ひとつの流派に偏ることなく、 20 世紀のさまざまな音楽スタイルのイディオムを さらに、彼の作曲技法の大きな特徴のひとつが 十二音技法の利用である。この手法を 1957 年の 取り入れ、独創的な音楽を創造しようとした。 「カジミェラ・イワコヴィチの詩に寄せる五つの歌」 彼はリムスキー=コルサコフの弟子ヴィトルト・ から用い、メロディという水平的次元と、和音という マリシェフスキに作曲を師事し、師を通してフラン ス象徴派の音楽(ドビュッシーら)に親しんだ。ま 垂直的次元の両方で活用した。この特徴が最も 顕著なのが 1958 年の「葬送音楽」である。 た新古典派、特にアルベール・ルーセルの作品 もうひとつの彼の作品の特徴は「二分割形式」 に熱中し、その結果生まれたのが「交響曲第 1 番」 の手法である。まったく異なる 2 つの形式を作品 (1941-47)である。この作品はまだ伝統的な構成 に基づいている。 の中で並存させ、それに解決を与えるという独自 の技法を用いた傑作が「交響曲第 3 番」である。 戦後、ポーランドでは作曲家にも社会主義リア 音程の生み出す緊張感、音の高まり、クライマック リズムの原理が押しつけられ、彼も子供や若者向 スで現れる十二音技法、エピローグに不意に現 けの役に立つ音楽の創作を行う。この時期の傑 れる長い变情的旋律など、ルトスワフスキの芸術 作のひとつが「管弦楽のための協奏曲」(1950-54) 性がいかんなく発揮された傑作である。 である。当時作曲家に課された「民衆音楽」の流 ルトスワフスキは聴衆の知覚、音楽を受け入れ れに与するものであるが、同時にここでは「二分 る際の心理にも大きな関心を寄せた。調性音楽 割形式」に代表されるルトスワフスキ独自のスタイ ルがすでに確立されている。 の伝統からは解放されているが、同時にアリストテ レスの「カタルシス」の法則に倣い、類似とコントラ 1956 年にハンガリーで起きた反社会主義運動 スト、緊張と弛緩という音楽の流れにより、聴衆に の影響でポーランドでも芸術政策の方向転換が 訴えかけるドラマトゥルギーを生み出そうとした。そ 行われ、比較的自由に創作活動ができるようにな の良い例が「チェロ協奏曲」である。 り、ペンデレツキ、グレツキなど革新的スタイルを 彼は音の高さとリズムを厳密に制限することに もった新しい世代の作曲家が現れた。ルトスワフ より、ドビュッシーやラヴェルのような音色の美しさ スキ自身もこの時代に作風を大きく変え、「偶然性 を目指した。フランスの詩人の作品をもとにした声 の音楽」の概念を作品に導入した。しかしダルム シュタットで始まった「偶然性の音楽」(ジョン・ケ 楽曲の多くにその特徴がみられる。 彼が目指したのは、音響や技術の斬新さで聴 ージら)とは異なり、彼は偶然性の介入をリズムの 衆を驚かせることではなく、多くのニュアンスに溢 領域だけに限定し、音の高さは厳密に管理する れた豊かな表現で音楽を満たし、聴衆と深い絆を 「管理された偶然性」というスタイルを作り上げる。 その時代の代表作が「ヴェネツィアの遊び」 築くことであった。 こうしてヴィトルト・ルトスワフスキは 20 世紀音楽 (1960-61)である。 の古典となりえたのである。 ─ 4 ─ チ詩)は 1837 年ごろの作品。マズルカのリズ ショパンは生涯に歌曲を 20 曲残し ている。そのすべてが出版を前提と ムに乗せて、軽快に愛を歌う。この「いとしい 人」とは、ショパンが一時婚約していたマリア・ はせず、私的に書かれたもので、そ ヴォジンスカのこととされている。 れゆえに作曲家のその時々の気持ち 3 が音に素朴に託されているようである。 47 ショパンのバラード全 4 曲のうちの第 3 曲。1840 74−3(S.ヴィトフィツキ詩) 〜41 年に作曲された。序奏付きロンドとでもいうべ は 1831 年ごろの作品。戦争で七人の娘を失っ き形式をもち、全体に優雅で洗練された軽やかな た母親の流す涙が「濁った川」となって流れて 曲想が特徴的である。途中、主題は穏やかさを失 くる情景を描いており、異国の地でワルシャワ 陥落の知らせを聞いたショパンの深い絶望が い、うごめく低音部に支えられながら疾走し、目ま ぐるしく転調を繰り返すが、冒頭の旋律が輝かしく 表れているとされる。 再現されると、最後は華やかなパッセージに彩ら 74−12(A.ミツキェーヴィ れながら曲が閉じられる。 (高橋健一郎) 遊びに溢れた作風となっている。(佐光伸一) ルトスワフスキは戦後 10 年 間に 44 曲もの「子供のための 歌曲」を集中的に作曲した。 この作品は 12 の小曲で構成される組曲で、そ 本人はそれらを「音楽を聴く れぞれに題名が付され、それがイメージの喚起に 子供のための曲」と「歌を歌う 一役買っている。全 12 曲のうち最後の 3 曲を除い 子供のための曲」の 2 グルー プに分けている。単純なメロディ て、残り 9 曲は三拍子系で書かれている。素朴な ー、明快なピアノ伴奏の背後に、独創的なリズム、 相次ぐ転調など高度な芸術的手法を巧みに織り 込み、子供の音楽性の育成を志向している。 ともに 1947 年作。ポーランドの大戦間 期の著名な詩人ユリアン・トゥヴィムの詩による。 「歌を歌う子供のための曲」に分類される。 は、歌詞もメロディーも半 ば冗談、半ばシリアスな曲想で、疑似ロンド 風、五音音階の引用など、ルトスワフスキの 個性をいかんなく発揮している。 は、子供の ための詩を得意としたトゥヴィムらしい、言葉 旋律に彼らしい和声が施された優れた作品だが、 他の管弦楽曲や 2 台ピアノのための作品などとは やや趣を異にする。作曲は 1945 年。 (川染雅嗣) 1954 年作曲。当初クラリネットとピアノのために 作曲されたが、55 年に作曲家自身がピアノパート をハープ、ピアノ、打楽器、ヴァイオリンに書き換 えたオーケストラ伴奏版も存在する。ポーランドの 民衆音楽をモチーフとした作風から、実験的な作 風にいたる過渡的時代の作品。5 楽章からなり、 民衆歌謡、民衆音楽のリズムなどの要素がみられ る。作曲家自身は「ピアノのための民謡風メロディ ー」と同ジャンルの作品としている。 ─ 5 ─ (佐光伸一) Smutna rzeka Rzeko z cudzoziemców strony, Czemu nurt twój tak zmącony? Czy się gdzie zapadły brzegi, Czy stopniały stare, stare śniegi? 異国から流れ来る川よ どうしてお前の流れは濁っているのか。 どこかで岸辺が崩れたのかい。 古い、古い雪が溶けてしまったのかい。 Leżą w górach stare śniegi, Kwiatem kwitną moje brzegi, Ale tam, przy źródle moim, Płacze matka nad mym zdrojem. 山々には古い雪が残っていますが 私の岸辺には花が咲き誇っています。 でも向こうの、私の源では 泉のそばで母さんが泣いているのです。 Siedem córek piastowała, Siedem córek zakopała, Siedem córek śród ogrodu, Głowami przeciwko wschodu, wschodu. 七人の娘を育て 七人の娘を葬り 庭の中では七人の娘が 頭を東に向け眠っています。 Teraz się z duchami wita, O wygody dziatki pyta I mogiły ich polewa, I żałośne pieśni śpiewa. 今では彼女たちの霊と挨拶を交わし 母はわが子にあの世の暮らし向きを尋ね 彼女たちのお墓に涙を注ぎ 悲しい歌を口ずさんでいます。 Moja pieszczotka Moja pieszczotka, gdy w wesołej chwili Pocznie szczebiotać i kwilić, i gruchać, Tak mile grucha, szczebioce i kwili, Że nie chcąc słówka żadnego postradać Nie śmiem przerywać, nie śmiem, nie śmiem odpowiadać I tylko chciałbym słuchać! いとしい人は、陽気なときには おしゃべりし、さえずり、ささやき始める。 あまりにも甘くささやき、おしゃべりしさえずるので 話はひとことだって聞き逃したくないから さえぎったり、答えたりはしない。 そして望むのはただ、聞くことのみ。 Lecz mowy żywość gdy oczki zapali I pocznie mocniej jagody różować, Perłowe ząbki błysną śród korali; Ach! wtenczas, wtenczas śmielej woczęta, woczęta poglądam, Usta pomykam i słuchać nie żądam, Tylko całować, całować, całować! 話しに力が入ると、目が輝き 頬は苺のようにバラ色になり 真珠のような歯が珊瑚の口に輝く。 ああ、そのとき僕は大胆にもその瞳を覗き込み 口をつぐみ、もう話など聞きたくはない。 望むのはただ、口づけのみ。 ─ 6 ─ Spóźniony słowik Płacze pani słowikowa w gniazdku na akacji, Bo pan słowik przed dziewiątą miał być na kolacji. Tak się godzin wyznaczonych pilnie zawsze trzyma, A tu już po jedenastej − i słowika nie ma! アカシアの樹の巣の中でウグイスの奥さまが鳴いています。 ご主人ウグイスが九時前には夕食に帰って来るはずですから。 ご主人は決められた時間はいつもきちんと守ります。 でも今はもう十一時過ぎなのに、ご主人ウグイスの姿が 見当たりません。 Wszystko stygnie: zupka z muszek na wieczornej rosie, Sześć komarów nadziewanych w konwaliowym sosie, Motyl z rożna, przyprawiony gęstym cieniem z lasku, A na deser − tort z wietrzyka w księżycowym blasku. 何もかも冷たくなっています。夕暮れのしずくにハエを入 れたスープも スズランのソースに浸した六匹の蚊も 森の濃い影で味付けした蝶々も デザートの、月の明かりの中のそよ風のタルトも。 Może mu się co zdarzyło? Może go napadli? Szare piórka oskubali, srebrny głosik skradli? To przez zazdrość! To skowronek z bandą skowroniątek! Piórka − głupstwo, bo odrosną, ale głos − majątek! 彼に何が起こったのかしら。もしかして襲われたのかし ら。 灰色の羽根をむしり取られ、素晴らしい歌声を盗まれた の? きっと、嫉妬心のせいね。ヒバリ親子の一味の仕業ね。 羽根なんてどうでもいいの、また生えてくるから、でも声 はひと財産よ。 Nagle zjawia się pan słowik, poświstuje, skacze... „Gdzieś ty latał? Gdzieś ty fruwał? Przecież ja tu płaczę!” 突然、ウグイスのご主人が姿を見せます。口笛を吹きな がら跳ねています。 いったいどこを飛んでいたの? どこを飛び回っていた の? 私はここで泣いていたというのに。 A pan słowik słodko ćwierka: „wybacz, moje złoto, Ale wieczór taki piękny, że szedłem piechotą!” ウグイスのご主人は甘くさえずります。「愛しい人、許しておく れ。 でも夕べがこんなに美しいから、歩いて帰って来たのさ」 ─ 7 ─ O panu Tralalińskim W Śpiewowicach, pięknym mieście, Na ulicy Wesolińskiej Mieszka sobie słynny śpiewak, Pan Tralislaw Tralaliński. シピェヴォヴィツィ区の美しい街 ヴェソリンスカ通りに 高名な歌手の トラリスワフ・トララリンスキ氏が住んでいました。 Jego żona − Tralalona, Jego córka − Tralalurka, Jego synek − Tralalinek, Jego piesek − Tralalesek. No a kotek? Jest i kotek, Kotek zwie się Tralalotek, Oprócz tego jest Papużka, Bardzo śmieszna Tralaluzka. 彼の妻は、トララロナ 彼の娘は、トララルルカ 彼の息子は、トララリネク 彼の飼い犬は、トララレセク では飼い猫は? 猫もいますよ トララロテクと申します。 さらにオウムもおりまして とても滑稽なトララルスカと申します。 Co dzień rano, po śniadaniu, Zbiera się to zacne grono, By powtórzyć na cześć mistrza Jego piosnkę ulubiona. 毎朝、朝食のあと 名手に敬意を表して 彼のお気に入りの歌を繰り返すため 高潔な仲間たちが集まります。 Gdy podniesie pan Tralislaw, Swą pałeczkę − tralaleczkę, Wszyscy milkną, a po chwili Śpiewa cały chór piosneczkę: トラリスラフ氏が自分の指揮棒 トララレチカをふり上げると 皆が静まり、しばらくして コーラス隊全体が歌い始めます── „Trala trala tralalala, Tralalala trala trala!” Jak to Pana Tralislawa Jego świetny chór wychwala. 「トララ、トララ、トララララ トラララ、トララ、トララ!」 彼の素晴らしいコーラス隊は トラリスラフ氏をほめそやします。 Wyśpiewują, tralalują, A sam mistrz batute ujął I sam w śpiewie się zapala: „Trala trala tralalala!” 皆は歌い、トラララと声を上げ 名手ご本人は指揮棒を手に取り 自ら歌に夢中です── 「トララ、トララ、トララララ!」 I już z kuchni, i z garażu Słychać pieśń o gospodarzu, Już śpiewają domownicy I przechodnie na ulicy: もうキッチンやガレージから 家事の歌が聞こえます。 使用人や、通りの通行人が もう歌い始めています── Jego szofer – Tralalofer, I kucharka − Tralalarka, Pokojówka – Tralalowka, I gazeciarz − Tralaleciarz, I sklepikarz − Tralalikarz, 彼の運転手は、トララロフェル そしてコックは、トラララルカ ルームメイドは、トララロフカ そして新聞売りは、トララレチアシュ 店の売り子は、トララリカシュ ─ 8 ─ I policjant − Tralalicjant, I adwokat − Tralalokat, I pan doktor − Tralaloktor, 警官は、トララリチアント 弁護士は、トララロカト お医者さまは、トララロクトル Nawet mała myszka, Stara Tralaliszka, Choć się boi kotka, Kotka Tralalotka, Siadła sobie w kątku, W ciemnym tralalatku, I piszczy cichuteńko: „Trala − trala − tralalenko…” さらに小さなネズミの トララリシュカ婆さんまでおりまして でも雌猫は怖くてたまらず 雌猫のトララロトカは 暗いトラララテクの 隅に身を潜め 小さな声で泣いています── 「トララ、トララ、トララレンコ……」 日本語訳 佐光 伸一 1979 年にゾフィア・リッサ教 授の指導のもとワルシャワ大 学音楽学学科を卒業。同大 学で文献学も専攻し、ワルシ ャワ音楽院(現フリデリク・ショ パン音楽大学)で音楽理論も 学ぶ。86 年、博士号取得(ワ ルシャワ大学)。 84 年パレルモ大学に留学、87−88 年フィラデル フィアのペンシルベニア大学のレナード・B・メイヤ ーのもとでアメリカ現代音楽の研究を行う。93−98 年パリ高等師範学校(ENS)や、ロンドンのロイヤ ル・ホロウェイ(RHUL)でポーランドとアメリカの現 代音楽に関する講義を行い、94 年に教授資格取 得、99 年よりワルシャワ大学音楽学研究所教授。 専門は現代音楽思想史、二十世紀音楽の理論 と美学。主な研究対象はルトスワフスキの作品と音 楽思想で、2003 年バーゼルでルトスワフスキの音 楽論集と創作ノートの出版に向けた調査を行う。 ショパン関連の研究も行い、ショパン書簡集の全 面的な新訂版(Korespondencja Fryderyka Chopina, T. 1, 1816−1831、ワルシャワ大学出版会、2009。 邦訳『ショパン全書簡 1816−1831 年:ポーランド時 代』岩波書店、2012)の編者の一人でもある。 北海道大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、北海道 情報大学教授。日本ショパン協会北海道支部理事。北海道ポーランド文化協会運 営委員。北海道大学非常勤講師(「PMF の響き」「札響と音楽文化」担当)。ショパン の生涯についての論文多数。北海道新聞などにクラシック音楽時評を執筆。 ─ 9 ─ 北海道教育大学札幌校芸術 文化課程卒業、同大学院修士 課程修了。サンクトペテルブル グ音楽院マスタークラス修了。 札幌市民芸術祭主催新人音 楽会、第 249 回札幌市民ロビー コンサート、東京二期会ロシア 歌曲研究会の定期演奏会、あら かわバイロイトオペラ『神々の黄昏』、日本演奏連 盟のリサイタルシリーズなどに出演。東京国際声楽 コンクール、万里の長城杯国際音楽コンクール入 賞。ルーマニア国際音楽コンクール声楽部門最高 位、サントリーホールにおける受賞者披露演奏会 に出演。札幌市民劇場「松井亜樹ソプラノリサイタ ル」スラブ音楽の夕べ~ロシア・チェコ・ポーランド の作曲家より~で札幌市民芸術祭奨励賞を受賞。 これまでに三部安紀子、雨貝尚子の各氏に師事。 東京二期会ロシア歌曲研究会、北海道二期会、札 幌音楽家協議会、北海道ポーランド文化協会、日 本アレンスキー協会、ハイメス各会員。札幌大谷大 学短期大学部保育科専任講師。 1972 年札幌市生まれ。東京大学教養学部卒業、 同大学院総合文化研究科博士課程修了(学術博 士)。1998−2000 年ロシア人文大学に留学。ピアノ を黒澤節子、故・林靖子、川染雅嗣の各氏に師事。 北海道ショパン学生ピアノコンクール中学の部 銅賞、高校の部最高位。PTNA ピアノコンペティシ ョン・グランミューズ(A1)全国第 2 位、併せてロイズ 賞受賞。ルーマニア国際音楽コンクールピアノ部 門奨励賞。著書に『アレンスキ ー:忘れられた天才作曲家』 (東洋書店、 2011)がある。 現在、札幌大学地域共創学 群教授、日本アレンスキー協 会副会長、北海道ポーランド 文化協会運営委員、全日本ロ ーゼンブラット協会正会員。 東京芸術大学音楽学部器 楽科卒業、同大学院音楽研究 科修士課程修了。ポーランド 国立ワルシャワ・ショパン音楽 アカデミー研究科修了。 第 9 回北海道ショパン学生ピ アノコンクールで第 1 回遠藤賞。 2003年外山雄三指揮、大阪フィ ルハーモニー交響楽団と共演。04 年ポーランド・M. マギン記念ショパンコンクール第 1 位。05 年日本ショ パン協会主催ショパンピアノコンクール第 2 位。06 年 スペイン・カプデペラ国際ピアノコンクール第 1 位。 チェコ・マリエンバート・ショパン国際ピアノコンクー ルで名誉ディプロマ受賞。ジェラゾヴァ・ヴォラをはじ めポーランド各地で演奏。08 年帰国記念リサイタル。 現在はソロや声楽・合唱等の伴奏などの活動を行っ ている。 これまでに水口奈緒美、橋本真知、菊池葉子、石 田真理、小林仁、K.ギェルジョド、M.ザグルスキの各 氏に師事。札幌大谷大学非常勤講師。日本ショパン 協会北海道支部、札幌音楽家協議会、日本アレン スキー協会、北海道ポーランド文化協会各会員。 1954 年北海道北見市生まれ。78 年東京藝術大学 音楽学部器楽科ピアノ専攻卒業。在学中第 24 回文 化放送音楽賞ピアノ部門で「音楽賞」を受賞。80 年 ポーランド国立ワルシャワ・ショパン音楽院修了。 帰国後は各地で演奏活動を行う。99 年より「あじ がさわミュージックフェスティバル」のプロデューサー として室内楽の普及に力を入れ、その功績により 2006 年、鰺ヶ沢町文化章を授与される。著書に「明 解ピアノ上達法」(ショパン、2003)がある。 研究分野は帝政末期ロシアの音楽で、09 年日本 アレンスキー協会(本部・札幌)を設立した。 現在、昭和音楽大学音楽 学部教授、日本アレンスキー 協会会長、北海道ポーランド 文化協会会員、(社) 全日本ピ アノ指導者協会正会員、イカ ール国際室内楽アカデミー・ ディレクター。 ─ 10 ─ 1980 年カナダ・モントリオール大学で C.Sava に 師事。87 年ハンガリー・リスト音楽芸術大学卒業、 日本人初のソリストディプロマを取得。P.Solymos, F.Rados, S.Devich などに師事。ドイツ・フライブルク 音楽大学大学院修了。 ブダペストの春音楽祭、ルガーノ音楽祭などに 出演。ダルムシュタット・アンサンブルの一員として 日本全国コンサートツアー。92 年ボストンでボスト ン交響楽団のメンバーと共演。欧米各地、ロシアな どで演奏活動。91 年、札幌教文コンサートでのリサ イタル以来、ベルリン八重奏団、ケラー弦楽四重奏 団、新ブダペスト弦楽四重奏団、ザルツブルグゾリ ステンや、チェロの M.Perenyi など多数の内外ソリスト、ブダ ペストシティオーケストラ、札幌 交響楽団、日本フィルハーモ ニー交響楽団などと共演。 2001 年より PMF ピアニスト を務める。13 年にわたりラジオ のレギュラー番組をもち、クラ シック音楽の普及にも努める。 97 年、札幌市民芸術祭大賞、札幌市民文化奨 励賞受賞。現在、札幌大谷大学芸術学部音楽学 科ピアノコース主任教授。 桐朊学園大学卒業。クラリネ ットを二宮和子氏に師事。 1993年、日本現代音楽協会主 催コンクール「競楽Ⅱ」にて第 2位。94年、東京文化会館新 進音楽家デビューオーディシ ョンに合格。96年ダルムシュタ ット音楽祭にて奨学生賞受賞。2003年アンサンブ ル・ノマドの一員としてサントリー音楽財団第2回佐 治敬三賞を受賞し、ヨーロッパ・南米・アジアの海 外音楽祭に招待参加。スタジオでのレコーディング 活動も行い、ドラマや映画の音楽を担当。他ジャン ルのアーティストとのコラボレーションも多い。08年 より札幌大谷大学芸術学部専任講師。 Witold Lutosławski 1913 1 25 〜1994 2 1913 年、ポーランド・ワルシャワ生まれ。音楽へ の興味は幼い頃から大変強く、ピアノを 6 才で本格 的に習い始め、初めて譜面に曲を書いたのが 9 才 の時だった。子供時代はワルシャワではなく家族が 所有する土地で育った。1939 年にドイツ軍とソ連 軍によるポーランド侵攻が始まり、家族にとっても 激動の時代となった。ピアノ演奏に長けていた父 親はルトスワフスキ氏が 5 才の時、ポーランド解放 のため軍隊の組織化に参加したことを理由に処刑 された。医師の母親は、残された三人の子ども達 の生活を支え懸命に働いたが、二人の兄のうちの 一人は後に、第二次世界大戦中、ソ連軍によりシベ リアに連行され、収 容所で亡くなった。 戦後、1950 年代 半ばからポーラン ドでは政治上の引 7 締めが徐々に緩和された。国際情勢の変化を境に 氏の作品は海外でも広く知られ始め、1960 年代に 入ると、国際的な活動も増えた。晩年は主にソリスト とオーケストラのための作曲と音響言語の研究に 力を注いだ。 東欧民族音楽の知見をもとに偶然性も取り入れ た無調音楽の新しい可能性を切り拓いた作曲家。 《葬送音楽》や《交響曲二番》などの代表作を通じ、 新しい無調性音楽の手法と、独自の「偶然性」の手 法を導入するなど、現代的な音楽表現の手法を開 発することによって、20 世紀音楽の巨匠として、第 二次大戦後の音楽界に大きな影響を与えた現代ヨ ーロッパを代表する作曲家である。 第 9 回(1993)京都賞 精神科学・表現芸術部門 受賞者 (京都賞 eMuseum より) ─ 11 ─ 主催: 「W.ルトスワフスキ生誕 100 周年記念講演&演奏会」実行委員会 後援: 北海道ポーランド文化協会、ポーランド広報文化センター、札幌大谷大学・札幌大谷大学短期大 学部、札幌市・札幌市教育委員会、日本アレンスキー協会、日本ショパン協会北海道支部、北海道 作曲家協会、札幌音楽家協議会 1 《講演》ズビグニェフ・スコヴロン ヴィトルト・ルトスワフスキの音楽における芸術性 20 世紀の音楽は、それまでみられなかった多くの 個性的なスタイルをもたらしました。それは作曲家が それぞれ独自の道を探求した結果でもあり、また調性 に基づいた 19 世紀の伝統を再評価した結果でもあり ました。フレデリック・ショパンやカロル・シマノフスキの 後のポーランド最大の作曲家ヴィトルト・ルトスワフス キ(1913-94)の個性は、まさにこの伝統と、独自の道 の探求という 2 つの観点にあると言えます。この特徴 によって、彼はドビュッシーや彼が崇拝していたバル トークなどの作曲家と肩を並べることができるのです。 彼らは作品の中で、伝統に対し創造的なアプローチ を取るとともに、調性音楽と同じ役割を果たすような独 自の音楽的言語を探求したのです。伝統、つまり過 去の作品というすでに閉じてしまった音楽の領域と関 わり、それと同時に新しい音楽を創造し、20 世紀のす べての作曲家に共通の問題を取り上げたのでした。 その問題とは、調性音楽の崩壊と同時に過去の遺物 となった音楽原理にとって代わる独自の音楽言語と、 それを支配する規則を作り上げるということでした。 ルトスワフスキと現代性、つまり新しい音楽の誕生と 発展とがどのような関係にあるかと言いますと、一方 では、例えばジョン・ケージのような、時代的に比較的、 自分に近く、インスピレーションを与えてくれるものに 対して、創造的に自分自身をオープンにし、またもう 一方では、自分自身の音楽言語と音の調和を探求し ないではいられないような、自分自身に対するある種 の命令の感覚だったのです。 ルトスワフスキが受け容れ、彼のインスピレーション の元になった作曲家の名前を挙げるなら、それはドビ ュッシー、ラヴェル、ルーセル、ストラヴィンスキー、ヴ ァレーズ、カロル・シマノフスキなどです。その一方で、 アルノルト・シェーンベルクとその一派に対しては、距 離を取っていた訳ではないにしても、冷淡な態度を 示していました。このことは、ルトスワフスキがセリエル 音楽の創造の可能性に夢中になっていたわけではな いことを証明しています。従って、新しい音楽に関す る彼のヴィジョンは、過去の調性音楽の遺産を受け継 いでいると同時に、20 世紀の音楽のさまざまな音楽 のイディオム(慣用句)を融合したとは言えないまでも、 当時のさまざまなスタイルの多様性を背景にした独創 的で個性的な音楽言語であったとは言えます。 ルトスワフスキ自身「思索ノート」の中で次のように 書いています。「新しさとは、芸術分野においては、も っとも早く廃れる特質である。音楽言語の領域におけ る私の探求は、新しさそのものを目指しているのでは ない。私が探しているのは、何度も利用することがで き、新しいレパートリーの中にも残るような手法であり、 表現手段である。つまり私が求めているのはすぐには 廃れてしまわない、持続性のある価値観である。芸術 における個性とは、技術的な独創性にあるのではな い。効果音的な響き、つまり技術的なトリックは、音楽 の個性においてはあまりにも表面的なものである。音 楽言語の効果に依存した個性よりも、一見すると伝統 的にみえるが、実はその背後に隠されている、簡単 には捉える事のできない個性に、私は引かれる」。 ルトスワフスキの創作に関して言うなら、彼の作曲 の先生はヴィトルト・マリシェフスキでした。マリシェフ スキはリムスキー=コルサコフの弟子でした。従って、 ルトスワフスキは、創作活動の当初はフランスの象徴 派の流れに与していました。そのことを最もはっきりと 物語るのは、若いころの作品である 1934 年の「ピアノ ソナタ」です。その一方で、彼は同じようにフランスに 起源をもつ新古典派の流れも汲んでおり、彼がアル ベール・ルーセルの作品に夢中になっていたことが そのことを物語っています。特に彼は、1930 年に作 曲されたルーセルの交響曲第 3 番ト短調作品 42 を 評価していました。ルトスワフスキのルーセルへの熱 中から第 2 次世界大戦の時期に生まれたのが交響曲 第 1 番であり、この作品は 1948 年に、カトヴィツェでグ ジェゴシュ・フィテルベルグの指揮で初演されました。 この作品は形式の芸術性に優れているという特徴を もち、「アレグロ・ジュスト」「ポコ・アダージョ」「アレグレ ット・ミステリオーソ」「アレグロ・ヴィヴァーチェ」といっ た伝統的なコンポジションをまだ元にしています。そ の芸術性は、第 1 楽章の 2 つのテーマによるコンポジ ションとオーケストレーションにみられます。その 2 つ のテーマは、ダイナミックなつなぎの部分によりそれ ぞれ隔てられていて、それはベートーヴェンの作品の モチーフを思い起こさせます。 【交響曲第 1 番第 1 楽章】 戦争が勃発したため、ワルシャワ音楽院の卒業生 であったルトスワフスキは、パリでナディア・ブーランジ ェのもとで作曲の勉強を続けるという計画を実現する ことができなくなりました。その後、戦争終結後の 10 年間、共産主義体制下のポーランドでは、国の文化 政策により、社会主義リアリズムの原則が作曲家に押 しつけられました。ルトスワフスキは子供や若者向け の、役に立つ音楽の創作に自分を限定せざるをえな くなりました。さらに「ダーヴィッド(Derwid)」という偽名 で歌謡曲の作曲も行いました。このような重要ではな い創作活動に携わっている時期に「管弦楽のための 協奏曲」が現れました。この作品は、1940 年代から 50 年代への変り目に、ポーランドの作曲家たちに押しつ けられた民衆音楽(フォークロア音楽)の流れを汲む ものですが、そこには多くのルトスワフスキ独自のスタ イルが隠されています。それは例えば、後の作品で 発展する「二分割形式」です。それは彼が、オーケス トラの音楽表現の可能性を芸術的レベルで引き出し たことを物語っています。 2 ポーランドでは、ハンガリーで起きた反共産主義運 動と並行して、1956 年 10 月に政治や文化政策にお ける方向転換が起こりました。そしてそれがポーランド の作曲家に新しい創作活動の道を開くことになった のです。作曲家の新しい世代がステージに現れまし た。それはペンデレツキ、グレツキ、セロツキ、キラル などです。彼らの音楽は、それまで誰もみたことのな いような革新的なレベルで、音楽の響きと形式のアイ ディアが火山の噴火のように噴き出たものでした。 【ヴェネツィアの遊び】 1950 年代と 60 年代の変り目には、ルトスワフスキの 音楽にも方向転換が起こりました。彼は、作曲の際に 「偶然性の音楽」の理論を利用することになったので す。それは作品「ヴェネツィアの遊び」から始まります。 ルトスワフスキは、偶然性の介入をリズムの領域だけ に限定し、音の高さに対しては完全に自分自身が管 理していました。「ヴェネツィアの遊び」において「管 理された偶然性」と呼ばれたこの技術は、一見すると、 ルトスワフスキは前衛活動の中心にいるように思わせ るものですが、そのアイディアは、本質的には、ダル ムシュタット派の「偶然性の音楽」とは異なるものでし た。「管理された偶然性」とは、「偶然性」によって作 品の道筋(音楽の流れ)や形式を作り出すというラデ ィカルなアイディアに対する、ルトスワフスキからの答 えでした。そのアイディアの源となったのは、ジョン・ケ ージでした。ルトスワフスキはラジオで彼の「ピアノ協 奏曲」を聴き、ケージは彼にとって創作の刺激となり、 それはルトスワフスキが「ヴェネツィアの遊び」を室内 楽に編曲するきっかけとなりました。その編曲は 1961 年に完成しました。この作品は、アド・リブのパートか ら成り立っています。つまりそれぞれのブロックの中で、 演奏者は、正確に決められた時間の範囲内で、音の 高さを忠実に保ちながら、自由なリズムで音の流れを 演奏して行きます。この手法で、ルトスワフスキはリズ ムの揺らぎという特殊効果を手に入れることができま した。それは楽譜では記録できないものです。それと 同時に、音の高さ、そしてその音の組合せから生まれ る共鳴は厳密にコントロールすることができたのです。 「ヴェネツィアの遊び」の第 1 部は「アド・リビトゥム」(即 興演奏)と「ア・バットゥータ」(拍子を正確に合わせて) のパートが交互に入れ替わります。そこでそのお互い のパートの移り変わりを知らせるのが、激しい打楽器 の音です。ルトスワフスキはこの手法により作品の流 れを定めただけでなく、それを受け入れる聴衆の知 覚の流れ定めたのです 【交響曲第2番】 「アド・リビトゥム」のパートの利用は、「ヴェネツィア の遊び」から始まりましたが、それはルトスワフスキ作 品において頻繁に、そしてより発展した形で繰り返さ れることになります。それは、音楽の流れを指定する と同時に、表現、そして音響の点できわめて細分化さ れた特徴を帯びることになります。まさにその例となる のが、金属製の打楽器による「アド・リビトゥム」のパー トにより始まる「交響曲第 2 番」です。この作品は 1967 年に完成されました。 【交響曲第 3 番】 1983 年の「交響曲第 3 番」の最初の部分は、「ヴェ ネツィアの遊び」から時代は経過していますが、「ヴェ ネツィアの遊び」の最初の部分と類似したものである ことは間違いありません。それは木製の打楽器による 「アド・リビトゥム」のパートが、知覚上の独自のシグナ ルとなっています。 シグナルの役目を果たすモチーフは、導入部にと って特徴的です。E の音が 4 回繰り返され、それは 「交響曲第 3 番」の主要な各パートを仕切る役割を果 たし、また全体を構成する役割も果たしています。 作品を理性的に管理された全体としてイメージする ことにより、ルトスワフスキは、西側の多くの作曲家の 作品にみられるような極端さを避けることができたの でした。「偶然性の音楽」の新しさを何も失うことなし に、ルトスワフスキは自分自身の音楽の形式と表現を 完全にコントロールすることができました。 彼の作品に独特の音響の特徴を与えたのは、12 音技法です。それは「カジミェラ・イワコヴィチの詩に 寄せる 5 つの歌」という作品から始まります。この技法 はメロディという曲の水平の次元と、和音という縦の次 元の両方で利用されました。そのシステムを豊かな組 み合わせで表現し、利用したことにより、彼の音楽は 音響の点できわめて独創的なオーラを帯びました。 そしてその後の創作活動においてこの手法は彼の特 徴的スタイルの一つとなったのです。 この 12 音技法をルトスワフスキが初めて利用したの は 1957 年作曲の「カジミェラ・イワコヴィチの詩に寄せ る 5 つの歌」からでしたが、それが見えるような形で効 果的な形で表現されたのは、1958 年に完成した「葬 送音楽」です。12 音技法は第 3 楽章において、和音 という縦のラインで現れ、それは「クライマックス」という 名がつけられた曲の頂点の役割を果たしています。 【葬送音楽】 12 音技法は、ルトスワフスキ作品の中心的な音響 表現であると同時に、調性音楽に代わるものとして彼 が提示したものでもあります。この技法を操る彼の芸 術性は、音響の豊かなスケールの大きさ、そして音響 の質にあります。ハーモニーの構成(つまり和音の構 成)において音程を選び抜くことによって、音の質は、 激しい響きから穏やかな(心地よい)響きまで拡がりを みせるのです。かつて「チェロ協奏曲」や「管弦楽の ための書物」という作品においてルトスワフスキは、音 の高さの範囲をミクロの音程のレベルで広げたのでし た。ルトスワフスキの 12 音技法は、調性音楽のシステ ムでは不可能なレベルで、音響の繊細な表現を作り 出していることが分かります。そのよい例となるのが、 3 フランスの詩人ロベール・デスノスの詩に基づき、バリ トンとオーケストラのために作曲した声楽曲「太陽の 空間」からの作品の一つです。夢のようなこの詩の雰 囲気は、冒頭部分ですでに、12 音技法によるスタティ ックで穏やかな響きによく合っています。 【太陽の空間】 ルトスワフスキの特徴的な形式上の革新的な解決 となったのが、「ヴァイオリン四重奏」と「交響曲第2番」 で利用された 2 部形式です。「交響曲第2番」の楽章 の 1 つに付けられた「ためらいと大胆さ」という標題は、 お互いかけ離れた 2 つの形式を示しています。その 第 1 部は自由で、準備段階的で、どこにも方向づけら れておらず、音楽の基礎となる素材を提供します。そ して第 2 部は、その完全な発展形です。この形式上 のアイディアは、「プレリュードとフーガ」そして「ミ・パ ルティ」で利用されています。1968 年作の「管弦楽の ための書物」のエピソードとリフレーンいくつかのパー トは、後の 1978〜79 年にかけて作曲された「ノヴェレ ッタ」の中にわずかに姿を表します。交響曲の中で、 この流れを汲むのが「交響曲第 3 番」であり、それは、 これはルトスワフスキの作曲活動の成果を大きなスケ ールで統合したもので、ベートーヴェンの系譜に属す る伝統的なソナタ形式に対するある種のオマージュと なっています。「交響曲第 3 番」に特徴的な、曲が発 展しそして変化を遂げるエネルギーは 2 部構成の中 では出口が与えられず、ルトスワフスキはエピローグ とコーダの部分を付け加えています。 【交響曲第 3 番】 ここで少しこの「交響曲第 3 番」に立ち止まってみ たいと思います。というのは、この作品において特に ルトスワフスキの芸術性がいかんなく発揮されている からです。他の交響曲の作品と同じように、この「交響 曲第 3 番」においても、素晴らしいクライマックスが用 意されています。それは第 1 に音程が生み出す緊張 感であり、第 2 に音の流れの高まりであり、そして第 3 にこの曲のダイナミズムのおかげです。このクライマッ クスの頂点で現れるのが 12 音技法の発展であり、そ の終結部分(音楽が弱まる部分)では、ルトスワフスキ に特徴的な、グリッサンドにより下降していくラメントの モチーフが現れます。 「交響曲第 3 番」のエピローグには、不意にヴァイ オリンによる長い叙情的旋律が現れます。これはルト スワフスキが後期の作品においてメロディに回帰した ことを物語っています。メロディの追及は、「鎖Ⅱ」「ピ アノ協奏曲」「交響曲第 4 番」において行われました。 「交響曲第 3 番」の素晴らしい構成のコーダ(終止 部分)はルトスワフスキが形式に対しいかに芸術的な アプローチをとったかを物語っています。そこでは、ス クリャーピンの交響曲の一部を利用した、もう一つ別 のクライマックスが現れます。さらにそこでルトスワフス キは、シグナルという中心的なモチーフによりコーダ を閉じることによって緊張感を生み出しています。 ルトスワフスキは、伝統とのつながり、そして伝統を 創造的に理解したことによって、形式の一体性という 感覚を手に入れることができました。しかしそれと同 時に、彼はウィーン楽派(とりわけハイドン)から次のよ うな考えを受け継いでいました。作品における形式は、 知覚の領域におけるポジティヴに共鳴しなければな らない。形式は聴衆の注意力に方向性を与えねばな らない。アリストテレスの提唱するカタルシスの理論の ように、クライマックスの緊張感とその解放というプロセ スへと、聴衆を導かねばならないという原則です。 古典派やロマン派の音楽における形式や音の流 れの解決方法に対し開かれた態度をとり、それと同時 に聴衆のリアクションのことを考慮し、その古典派やロ マン派の音楽の現代版を生み出す能力があったこと、 これが疑いもなくルトスワフスキの音楽のスタイルの最 も重要な特徴の一つなのです。調性音楽の伝統から は自由で、それと同時に、類似とコントラスト、緊張と 弛緩という音楽の流れの原型を目指し、総合的で緊 密に発展し、聴衆の知覚の習慣へと訴えかけるような ドラマトゥルギーを生み出そうというルトスワフスキの試 みは、管弦楽という大きな形式の中に現れました。そ のドラマトゥルギーのよい例となるのが、衝突と対話と いう原型に基づき作曲された「チェロ協奏曲」です。 音の高さとリズムの構造を正確に制限することは、 ルトスワフスキの音楽においては音色という側面と有 機的に結びついています。この点では、ルトスワフス キは、ドビュッシーやラヴェルの解決方法にずっと忠 実でした。ルトスワフスキはそのことをインタビューや 芸術マニフェストの中で何度も繰り返しています。音 の感覚的な美しさに対し彼が夢中になっていたことは、 フランスの詩人の作品を基にした、声楽の作曲の中 に現れています。それは、ジャン・フランソワ・シャブラ ンの詩に基づく「アンリ・ミショーの 3 つの詩」、「ことば の織物」、ロベール・デスノスの詩に基づいた「太陽の 空間」、そしてやはりデスノスの詩に基づいた、より後 の時代の作品「歌の花と歌の寓話」などです。これら の作品では、ソロの声楽パートは、楽器の伴奏の豊 かで聴覚的に魅力的なハーモニーの中へと溶け込 んでいます。しかしルトスワフスキが目指したのは、音 響や技術的効果音の万華鏡によって、聴衆を驚かせ たり、ショックを与えることではありませんでした。その 反対に、多くのニュアンスに溢れた豊かな表現で自 分の音楽を満たすことによって、聴衆と深い絆を築く ことを目指したのでした。音を伝えるという感覚的(聴 覚の印象という意味において)な役割は、ルトスワフス キにおいては、感情の投影と結びついています。そ の感情は、ドラマのシナリオのように企画された作品 の流れの中で声として表現されるのです。「パルティ ータ」や「グラーヴェ」のような室内楽の作品や、3 つ の「鎖」、オーボエとハープと室内管弦楽のための「2 重協奏曲」、「ピアノ協奏曲」そして傑作「交響曲第 4 番」などのより多くの楽器を使ったルトスワフスキの円 4 熟期の作品は、自分自身のスタイルを統合したもの であり、そこでは、メロディラインがより完成度が高いも のになり、音響の効果がより繊細になり、感情表現が より深くなり、そのことによって、ヴィトルト・ルトスワフス キは 20 世紀音楽の古典とみなすことができます。 限られた時間の中では、今述べた作品をもっと詳 しくみたり、ルトスワフスキの後の作品における新しい 解決手段を指摘することはできませんので、ここでは、 素晴らしい 2 つの例に限定したいと思います。 【鎖Ⅱ】 最初の例は 1985 年に、仲のよかったヴァイオリニス トのアンネ=ゾフィー・ムターのことを思い作曲した 「鎖Ⅱ」です。この作品は、ヴァイオリンとオーケストラ との音の対話と定義されていますが、ヴァイオリンの 技巧が素晴らしく、音色が魅力的なソロパートを備え たヴァイオリンミニ協奏曲と呼べるかもしれません。 「アド・リビトゥム」と「ア・バットゥータ」が入れ替わる 4 つの楽章から成ります。 「鎖Ⅱ」のメロディの部分は、ルトスワフスキの後期 作品に特徴的なもので、それはソロのパートが感情を 表現していて、ほとんどロマンティックといってもいい ような感情で満たされています。そして同時に哀悼の 雰囲気が漂っています。そしてそれが「lugubre(陰鬱 さ)」を示すシグナルとなっています。 【交響曲第 4 番】 二つ目の例は、1992 年に作曲された「交響曲第 4 番」の最初の部分です。そこでは、疑似的な調性音 楽風の、弱音器をつけた弦楽器とハープのスタティッ クな伴奏を背景にして、最初はクラリネット、次はフル ート、その後はトランペットというはっきりとしたメロディ ラインが現れます。 「ことばの織物」を作曲したルトスワフスキは、自身 の音楽が聴衆に与える効果をたえず視野に入れてい ました。知覚に対する彼独自のアプローチにおいて、 ルトスワフスキは、音楽を受容する心理メカニズムに 関し、本能的あるいは直観的に理解し、つまり学問研 究ではない形で知っており、またその一方では、自分 が影響を受けたハイドン、ベートーヴェン、ショパン、 ブラームスなどの過去の偉大な芸術家の解決法を直 感的に感じ取り理解していました。 【純粋芸術】 ルトスワフスキの音楽は、20 世紀の創作活動を背 景とすると、純粋芸術の類まれな例であります。音の 関係、構造、表現手段の中に彼は自分自身の世界、 独立した音楽の世界を作り上げたのです。ルトスワフ スキは、自分の創作は、古典派やロマン派の絶対音 楽と同様、自分を取り巻く現実とはどのような関係もも たず、いかなる音楽外の意味をも含んでいないと強 調しています。彼がはっきりと述べたのは、作品を作 る際に、彼にインスピレーションを与えるのは「アクショ ン」という概念です。それは演劇からの類推として理 解されますが、分かりやすいプロットや話の筋というも のではなく、「アクション」とは、緊張、クライマックスそ して弛緩に満ちた音楽の流れにおいて生じるもので す。ルトスワフスキの作品において生じるアクションは、 彼の考えでは、聴衆の注意力を引きつけ、ドラマのア クションと同じように、音のでき事へと聴衆を導くもの です。この点においても、彼の音楽は、芸術的レベル で構成されています。つまりそれは一種の感情のシ ナリオであり、例えば、「管弦楽のための書物」(1968 年)のように、音楽のアクションが特に緊張を高めるす ぐそばで、聴衆の注意力を弛緩させ、緩める瞬間もき ちんと用意されているのです。 ベートーヴェンやブラームスの遺産に基づくこの内 的ダイナミズムは、単にルトスワフスキの音楽の個人 的特徴を示しているだけではありません。それぞれの 楽器や人間の声、そして管弦楽、交響曲全体の音色 に対する秀でた感覚こそが、その内的ダイナミズムの 特徴でもあるのです。すでに述べましたように、この 点に関してルトスワフスキの手本、そしてインスピレー ションの元になったのは、ドビュッシー、ラヴェルでし た。次に、彼のフランスの印象派との芸術的親近性に ついて考慮すると、ルトスワフスキの色彩的な想像力 の形成には、モネ、ルノワール、マネなどの画家も間 接的に影響を与えていると言うことができます。 【美術】 自身の創作活動に関するルトスワフスキの多くの発 言の中には、造形芸術、特に美術との緊密な関係を 裏付けるものを見つけるのは困難です。しかし、美術 は何らかの方法で彼に近しいものであったことは否定 できません(好きな画家として、彼はフェルメール、ジ ョルジュ・ブラック、ポール・クレーの名を挙げていま す)。特に近代絵画を彼が評価していたことは、自分 の家に、ヘンリク・スタジェフスキ、イェジ・トフジェフス キ、イェジ・スタユダなどポーランドの近代絵画を所有 していたという事実が裏付けています。絵画がルトス ワフスキの作品の形成やその特徴にどの程度、そし てどのような影響を与えたかを判断するのがいかに困 難であったとしても、彼の独自の音の世界と、近代絵 画との共通点とは、抽象性であることに疑いはありま せん。ルトスワフスキの音のヴィジョンは、独自の抽象 的なものとみなすことができます。それは独自の音の 質とコンポジションの世界に閉じ込められています。 20 世紀のきわめて豊かな創作活動を背景とすると、 ルトスワフスキの作品は、単に形式や作曲技法にお ける卓越性や、表現の深さを示しただけではありませ ん。彼の音楽の芸術性は、つまり最も純粋な音により 美というものを人々に伝達するという、彼の美学上の 使命にあるのです。 (佐光伸一訳)
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