薬理遺伝学 Nuffield 生命倫理委員会 2003

薬理遺伝学 Nuffield 生命倫理委員会
(Pharmacogenetics
2003
Ethical Issues; Nuffield Council on Bioethics
北海道医療大学
2003)
松田一郎訳
まとめと提言
1、
個々人は同じ医薬品に対して多様に反応する。誰にでも有効であるような医薬
品は数少ない;全ての医薬品は副作用を持ち、ときには死を招く。医薬品に対
する様々な反応の中には個々人の遺伝的背景に由来するものが含まれる。医薬
品は何故、時に危険性をもつのか、もしくは有効でないのか、それについては
様々な理由が考えられる。例えば処方の誤り、患者の不十分なコンプライアン
ス、処方した医薬品と他の物質、例えば他の医薬品との間の相互作用、などが
ある。幸い、遺伝医学の進歩は個々人間の違いを説明するのに適切な知識を提
供するようになった。薬理遺伝学は医薬品に対する個々人の遺伝的多様性
(genetic variation)について研究することである。そこには安全性、有効性を高
める重要な情報が潜在している。医薬品の副作用は対人的に、また経済的に、
かなりのコストを必要とする。さらには、処方された医薬品がある患者で効果
がなければ、資源の無駄にもつながる。
2、
医薬品の効果予測に遺伝情報を利用する選択は、やがては“患者に対して適切
な医薬品を適切量処方する”という 個体差医療、もしくは正しい医療の展開を
もたらすであろう、というある種の楽観的主張をもたらした。しかし、こうし
た主張には慎重なアセスメントが必要である。確かに、薬理遺伝学は患者のケ
アに関して質の向上をもたらす潜在性を秘めている。ただ、この技術がいかに
早く、また効果的に、そうした展開をもたらすか、それについてはまだ明らか
でない。薬理遺伝学応用に関するデータはまだ十分とはいえないし、実際の医
療の場でどこまで応用されるかについても、まだよくわかっていない。多様な
因子に影響を受ける特定の患者層、とりわけ医薬品に対する反応の複雑さ故に
問題を抱えてきた患者は、薬理遺伝学から恩恵を受けることは間違いない。
3、
新しい技術が普通そうであるように、薬理遺伝学もまた便益だけでなく、予想
外のマイナス効果をもたらすかもしれない。例えば、薬理遺伝学の導入は医薬
品のマーケットの層別化(stratification)をもたらし、僅かな患者にしか効果
が見出せず、製薬会社の開発意欲を削ぐことになるかもしれない。薬理遺伝学
の適用を図れば、臨床医の時間をかなり割くことになり、医療提供の妨げにな
るかもしれない。医療提供での不公平さを増悪させることになるかもしれない。
薬理遺伝学に関連した幅広いプログラムが関与して、遺伝情報収集を広げるこ
とで、もしかしたら守秘義務やプライバシーなどの法的対応を侵害し、不公正
1
な差別をもたらすかもしれない。
4、
この報告では、薬理遺伝学の発展によりもたらされた倫理的、法的、規制的な
問題を考慮し、遺伝薬理学が最大効果をもたすようにいくつかの提言を行なっ
た、その一方で、患者と社会の利益を保護するように考慮した。ここに報告の
結論を提言としてとめた。
薬理遺伝学情報の本質(The nature of pharmacogenetic information)
5、
遺伝学的検査の含意(implication)に関して、様々な問題点が指摘されてきた。
この検査は DNA を扱わない一般的な臨床検査とは異なったカテゴリーにはい
るので、別の倫理問題を生むという示唆がなされた。このような見解は遺伝子
例外主義(genetic exceptionalism)と呼ばれている。われわれの見解では、薬理
遺伝学情報も含めて、遺伝情報は質的に他の医療情報と異なっているという考
えに理由を見出せない。臨床検査で得られる情報の性質は、それが遺伝データ
を含むと否とに関わらず、その含意を問う鍵となる。遺伝学的検査は情報に富
み、その意味で特別の位置に存在ることは認める。しかし、同じことが他の医
療情報でもいえることを理解することが重要である。
序論
新薬の開発(Development of new medicine)
6、
新医学発展での薬理遺伝学の適用には、基礎研究と治験の計画及びそれらの実
施方法、さらにそれに要するコストが含まれる。薬理遺伝学的分析を適用する
ことで、時には、治験に参加した患者の中に、薬効果の低い人や治験後半に副
作用が出現する人を特定できる可能性がある。そこで、こうした患者は治験か
ら除外されよう、またこれは治験参加者の保護にもつながることになる。治験
参加者の中で遺伝的に均質な小集団を選出することは、最終的にその医薬品が
処方される患者群にとっての、より確かで有効な科学的所見につながるので、
望ましいといえよう。薬理遺伝学的解析を治験に組み込むことは、正規の法的
対応として求められることになるだろう、しかしそうした解析は常に実行可能
というわけではないし、またそうした対応が有用な薬理遺伝学的根拠を得るた
めに常に有効というわけでもない。われわれは、治験に於いて、薬理遺伝学的
解析を適切に推進することを提言する。治験でのサンプルの収集と保存を推進
するように法規を制定するべきである。そうすれば治験中も、またその後も、
薬理遺伝学的解析が可能となる。
薬 理 遺 伝 学 を 利 用 し た 既 存 薬 の 利 用 改 善 (Using pharmacogenetics to improve
existing medicine)
2
7、
薬理遺伝学は既存薬についても、処方の改善を通じて副作用頻度を減少させる、
もしくは処方を差し控えるなど、患者に益をもたらす可能がある。例へば統合
失調症での clozapine や、血栓症の予防に使う warfarin がある。しかし研究に
より、常に臨床的に有用な検査基盤となる遺伝的変異の同定が可能になるとは
限らない。検査の臨床的有用性を規定する因子には、経験したマイナス効果ス
ケール(scale of negative effect)、患者集団のサイズ、薬理遺伝学的検査の臨床
的有用性、他の代替治療などがある。とはいうものの、場合によっては、薬理
遺伝学的検査は既存薬の処方に大きく貢献することもある。特許によって保護
されていない医薬品について、民間企業が薬理遺伝学的検査を実施する気にな
るかどうかわからない。そこで、既存の医薬品について、薬理遺伝学的検査を
実施することを提言したい、そうすれば有効性と安全性を有意に改善すること
が可能になるであろう。基金と支援については公的団体と民間企業(public
sector and private sector)が共同で負担することが望まれる。われわれは、今後
3 年間に£4 million の資金がつぎ込まれるであろう、とする最近の保健省
(Department of Health)の発表を支持する。
研究により得られた薬理遺伝学情報の利用(The use of pharmacogenetic information
collected in research)
8、
臨床研究に関して、これまで数々の実施要綱やガイダンスが提示されてきた。
一般的に、研究参加者から生体組織や DNA サンプルなどを収集したり、また
banking したりするためには、特に遺伝情報と他の医療情報を組み合わせて利
用する場合には、コンセントが必須である。多くの場合、参加者にはコンセン
ト取得前に、印刷した説明文を手渡すこと、また参加承諾者からは、サイン入
りのコンセントを取得することが要求されている。他の研究と同様に、薬理遺
伝学の研究でも、コンセント取得の標準的なプロセスとして、提示された情報
及びその情報が患者にもたらす意味について、参加予定者に提示しなければな
らない。関連する重要な 2 点は自由意志によるコンセント、及び取得され保存
される情報のプライバシーに関することである。
薬理遺伝学(Pharmacogenetics)
自由意志によるコンセント(Voluntary consent)
9、
治験もしくは臨床診療の場で、薬理遺伝学的検査につて、コンセントを真に自
由意志で取得しているか否かは重要な問題である。もし研究者が研究の一環と
して遺伝子型検索(genotyping)を要求したとき、特にそのことで個人的な便益が
取得できると判断したなら、患者はそれを拒否しようとは思わないであろう。
事実、あるケースでは、特定の医薬品を入手するのには治験に参加するのが唯
3
一の手段ということもある。このように、ある一部の患者では、選択の余地が
なくなるという事態は新医薬品開発の際の治験でも見られるが、一般大衆が持
つ認識や思惑からすれば、DNA サンプルの収集が加わることを特に懸念する向
きもでるかもしれない。
プライバシーと守秘義務(Privacy and confidentiality)
10、 研究に患者の DNA サンプルを使うことの意味は、そのサンプルから患者を追
跡することが可能か、また研究がもたらす情報が個々人の臨床的有用性
(personal clinical relevance)に寄与するかどうかによる。薬理遺伝学研究の場
合、われわれは治験で患者の遺伝情報と薬効情報を取得し、その後、サンプル
を匿名化することは一般的に可能とみている。そうすれば、患者に連結するコ
ードを破棄できる。多くの場合、副作用が認められれば、研究成果を明確にす
るための市販後調査として、その副作用のあった患者から、また対照者から新
たに採血することになろう。時には、例えば治験がかなり長期にわたる場合に
は、研究のゴールを決めずに匿名化を続けていくのは難しくなるかもしれない
し、治験を長期にわたり実施する事態を考えれば、サンプルの匿名化はできな
いとする治験統括者(regulator)からの監査請求(auditing requirements)がで
る可能性もある。だが、われわれは治験における参加者のプライバシーを守る
ために、研究目的を十分に達成すると同時に、サンプルについては厳重な匿名
化を実施すべきであると考えている。治験実施者は参加者予定者に、サンプル
は参加者のために集積されることの意味を説明するべきである。
11、 サンプルを匿名化する、しないに関係なく、参加者が寄与する(contribute)こ
とを望まない類の研究もあるのだから、そのサンプルの使用については、ある
制約が存在するという考えもでてくる。そこで、
“広いコンセント”と“狭いコ
ンセント”(brad and narrow consent)の違いが論議される。後者では、サンプ
ルはある一定の枠内で使用することが許される、恐らく1つの研究に限るか、
1つの特定の医薬品、もしくは病態に限っての使用許可になろう。広いコンセ
ントでは、参加者はコンセントを与えた時点では不明であるが、将来行われる
他の研究にも、そのサンプルを使用することに同意したことになる。この他の
研究とは、例外はあるが、一般には最初の研究と同列の、より範囲を広げた研
究である場合が多い。例えば、薬理遺伝学の研究目的に採取したサンプルを病
因遺伝子の検査に使用する場合である。実際にはこの“狭い”と“広い”の間
に境界線があるわけではない。提示された研究の範囲は一般的な生物医学研究
から特定の研究まで幅広く考えていいだろう。
12、 ヘルスケアの知識を獲得するという意味では、この広いコンセントは研究者及
び社会にといって、もかなり有意義なことである。
“広いコンセント”が許され
4
るのは匿名化された、もしくは匿名化した(anonymous or anonymised)状態で
使用される場合に限って許されると考えている。特別な研究目的のために集め
られたサンプルはコード化した状態、または識別可能な状況下に置かれるが、
将来の研究のために広いコンセントを取得することも可能である、しかし新た
な研究については、新たに別にコンセントを取得する必要がある。このコンセ
ントは最初のサンプル採取の際に取得してもいいし、または別の日に取得して
もかまわない。一般に、もし将来の研究が最初の研究とかなり離れた研究にな
る可能性があるなら尚のこと、
“広いコンセント”については、別に取得してお
くべきである。想定される適応状況や研究の特性、及び個々人にもたらす意味
などについて出来るだけ詳しく説明しなければならない。
13、 将来の問題は、データ保護法は薬理遺伝学的サンプルの匿名化と、特に血縁者
への情報開示の義務(obligation)と両立し得るかどうかである。薬理遺伝情報の
場合、検査結果が家族に直接的に有用である可能性は他の遺伝情報、例えば単
一遺伝子病に比べて低い。遺伝情報の血縁者への開示に関して、医療専門家が
データ保護法(Data Protection Act:DPA)に従う義務があるか否かについては異
論もある。われわれは、更なる法規がなくても、PDA では血縁者に健康情報を
知らせることが要求されると解釈することのないように、情報コミッショナー
(Information Commissioner)によって明確に伝えられるように勧告する。
14、 ある場合は、研究者は個々の患者に情報をフィードバックさせることもある。
また、情報を求める患者に対して個々の検査結果を知らせる場合もある。UK に
はこの件に関して明確なガイダンスはない。われわれは研究結果の全体像
(overall results)のフィードバック推進を唱える人類遺伝委員会(Human
Genetics Commission)の見解を支持する。個々人の結果について、それが治
療に有用で有効な情報なら、患者に知らされるべきという考えは支持できるが、
薬理遺伝学的研究では有用で、有効な情報はごく僅かに限られている。例外的
に、治験参加者に、臨床的に確実に有用な情報を提供できる場合もあるが、そ
の場合は、全ての参加者に、その機会が与えられることをコンセント取得の段
階で伝えておくように勧める。可能な限り、取得できる情報の性質と解釈を参
加者に伝えなければならない。研究過程で得られたデータが臨床的に有用であ
るか否か、また何時になったら結果の評価が可能になるか、それは複雑である。
従って、研究者は情報を参加者に如何にフィードバックするか、その対応につ
いて、倫理委員会にあらかじめ説明しておくべきである。
薬理遺伝学的検査の規制(Regulation of pharmacogenetics tests)
15、 UK では医薬品の安全性と有効性は医薬品及び健康用品規正機関(Medicine and
Healthcare Products Regulation Agency:
5
MHRA)によって管理されている。
MRHA は新薬の使用認可と、健康用品についての情報及び警告の提供を管理し
ている。遺伝学的検査の質の規制もまた MRHA の権限(responsibility)である。
新医薬品開発に関して製薬会社から MRHA に提出された証拠に従って、関係機
関は使用許可に関連する問題の1つとして薬理遺伝学的検査の実施を要求する
ことになる。処方前検査の必要性に関する通知(notification)は処方者が利用す
る医薬品情報の中に含まれることになろう。この過程は、患者での治療判定の
ために、または医薬品の反応をモニターするために行なう非遺伝学的検査の場
合と同様である。新薬に対する反応が遺伝的変異に依存することを見出した製
薬会社はその情報を申請書に記載し、またそのことは認可に含むことを支持す
るだろう。
16、 薬理遺伝学検査は質の高い、また問題となる遺伝的変化を的確に見出せること
が最も重要である。ヨーロッパ医薬品評価機構(EME:European Medicines
Evaluation Agency ) 及 び 食 品 医 薬 品 管 理 機 構 (Food and Drug
Administration:FDA)は薬理遺伝学検査を医薬品承認に織り込む方向でのガイ
ダンス作成を目指している。有用な項目としては、検査の実用性、提供する情
報のレベル、副作用もしくは低い薬物効果につて推定される回数と程度があが
る。
医薬品の撤去(Withdrawn medicines)
17、 認可後に、医薬品がマーケットから撤去される理由のほとんどは、市販認可の
時点では予期できなかった、もしくは市販認可時の適応(grant of marketing)で
予想したより以上に高頻度に、深刻な副作用がみられた場合である。
(こうした
事態は極めて稀で、1998 年から 2002 年まで MCA は 200 件の新薬の認可をし
ているが、その内 12 件が取り消された)少なくともある副作用が遺伝的変異で
説明できるならば、あらかじめ副作用のリスクを推定できるので、薬理遺伝学
的解析は承認の取り消しの対象になった医薬品の再承認に役立つことになろう。
同様に開発段階で否定された医薬品が遺伝的に特化されたグループの治療薬と
して再考されることもありえる。
18、 しかし、一度撤去された医薬品の再度認可は困難であり、その理由には種々考
えられる。仮に薬理遺伝学的研究が行われ、有用な検査法が開発されたとして
も、 副作用の認められた医薬品を再度認可することはまずないだろう。例外は、
それ以外に治療薬がない場合である。他のグループ患者には無効であっても、
あるグループに有効性が認められる可能性があるのに、薬理遺伝学的解析が再
認可にそれほど利用されていない事態は不幸としか言いようがない。
資源の配分
(The allocation of resource)
19、 公的なヘルスケアも、私的なヘルスケアも限られた資金によって運営されてい
6
る。新規に承認された医薬品については、これまでの伝統的に要求されてきた
品質、効果、安全性に加えて、公共政策は医薬品についての費用/効果に関する
評価を要求する国が多くなってきた。つまり、医薬品はそれを投与したときの
効果や安全性だけでなく、医薬品のコストが期待通りの効果や健康増進に見合
うか否か、それが問われることになる。
20、 特定の医薬品の使用認可に関与する機関がとりえるアプローチには、いろいろ
ある。その1つは費用/効果に特化したものであろう:全体として、実際の支払
額に対して集団の便益を最大化することである。しかし、しばしば指摘される
ように、こうしたアプローチは正義、公平の思惟を無視する危険性を伴う。こ
の考えでは、重要な保健の総合的増進でなく、集団メンバー内での便益のフェ
アな配分を目指している。しかし、正義、公平の考えを費用/効果と平行して導
入しなければ、稀な疾患に罹患している患者は、一般的疾患の患者に比べて小
数なので、資産分配(allocation of resources)の際に見逃される可能性がでてく
る。自由で、民主的な国では正義については様々な考えがある、そこでは人は
全て、仮にマイノリティーグループに所属しても、最低限の共通権利(minimum
entitlement)をもっている。この権利には、罹患患者が適切なヘルスサービスを
受ける権利も含まれる。従って、仮にこうした資産(resources)が生産性に寄
与することが少なくても、稀な疾患の罹患患者の治療にこの資産を使うことは
正しいことと判断されるだろう。われわれは、個々の問題について National
Institute of Clinical Excellence(NICE)がアプローチする場合には一定限界
(threshold)を設定することなく、公平と効果の双方を視野に入れることを支持
する。
層別化と新医薬品の開発(Stratification and the development of new medicine)
21、 医薬品の選択について遺伝は様々な面で影響を及ぼす可能性がある。医薬品の
吸収、代謝、排泄に関与する酵素について様々な遺伝的変異が存在することが
知られている。それらは生まれながらの特性である。それらは遺伝病の罹患性
とは関係なく、投与された医薬品の代謝過程に関与している。特定の遺伝子型
をもつ人はある医薬品には効果がないとか、また代謝の遅速に依存してより多
くの、またはより少量の医薬品を必要とする。医薬品の代謝にはかなりの、し
かし有限の過程が関与している。このような理解が深まるにつれて、どの医薬
品を処方するか、また投与量をどうするかなどの決定に遺伝学的検査が利用さ
れるようになるであろう。
22、 ある疾患、とくにがんでは、細胞内の遺伝子発現状況が変容している、従って
がん病理組織の遺伝的メイクアップは患者が本来持っている遺伝子と最早同じ
ではない。病理組織で発現している特定遺伝子は適切な治療展開に極めて重要
7
な役を演じることになる。そのためにがん細胞の遺伝的メイクアップを同定す
ることが必要になる:がん発症前に患者を検査する意味はない、何故なら遺伝
学的変化は正常の患者組織には存在せず、癌細胞にしか認められないからであ
る。
23、 疾患感受性の遺伝的変異に関する膨大な資料についての研究が進めば、生活習
慣病のより新しく、正確な分類が可能になる(疾患の分子分類学:molecular
taxonomy of disease という)。勿論まだ初期段階であるが、ある場合には、一
般的症状で構成され、現在は同一疾患と考えられている疾患でも、生化学的に
は様々に異なる状況が同一の症状を導いているに過ぎず、実際は不均一な疾患
であることが判明するだろう。このような場合、あるケースでは、治療の質と
効果(nature and efficiency)は、結局は疾患形態が何であるかに従って明らかに
なるだろう。表現上同一疾患と考えて患者に投与された医薬品が実は異なった
効果を示す実態の裏にはこの不均一性が隠れているかもしれない。
24、 この遺伝情報を基にした患者グループの層別化は患者及び新薬開発への参加者
の双方に関係する。それはプラスにもまたマイナスにも働くことになろう。潜
在的には効力を持つ新薬であっても、遺伝的層別化の結果、もしもそれで便益
を受ける患者数が少ないとなれば、開発にまで至らないであろう。しかし、層
別化は、これを実施することで極めて有効なサブグループの分別を可能にする
ので、これがなければ不可能であったような医薬品の開発には役に立つことに
なろう。こうした流れの内いずれが主流(prevail)になるのかはわからない。
従って、新薬の承認に関与する関係機関(agency)は、層別化のマイナス効果にも
注 意 を 払 う よ う に 勧 告 す る 。 も し 薬 理 遺 伝 額 的 層 別 化 (pharmacogenetic
stratification)が新薬開発にとって、経済的に阻害要因(economic disincentive)
になるなら、現存しているオーファンドラッグ開発規定(orphan medicine
legislation)、またはそれと同等の働きを持つ規定を促進材料として活用するこ
とを考えるべきである。さらに、もしオーファンドラッグ開発規定を適用する
なら、グローバルアプローチとしての ICH(International Conference on
Harmonization)に配慮することを勧告する。特に、患者と疾患、その双方の
遺伝的層別化の含意(implication)に関連して、オーファンドラッグの定義を再
考すべきである。
薬理遺伝学と人種集団(Pharmacogenetics and racial groups)
25、 患者集団の層別化の特異なケースは人種もしくは民族を基本とした層別化であ
る。人種や民族は、正確な意味で、生物学的な、もしくは遺伝的な層別化には
何ら関与しない。人種や民族のなかでも、生まれた場所、自己認識、またその
他の問題に関連して、かなりの遺伝的変異が存在している。とは言うものの、
8
ある遺伝的変異は、他に比べて、ある人種、民族に共通して存在している。こ
のことは治験に、また医薬品や薬理遺伝学的検査の開発計画に利用されている。
ある集団で得た証拠に基づいて、他の国で薬理効果確認のための治験(trial)を行
なっても、遺伝的に異なった他のグループでは、その有効性を証明できないか
もしれないし、ある遺伝的変異を有する特別な患者集団についてのみ有効であ
るかもしれない。われわれは、薬理遺伝学的検査の臨床利用を認可する機関は、
その検査が有用なグループを特定したり、また他のグループでは検査が薬理効
果判定に有用でない証拠について警告したりすることを申請者に要求するよう
に勧告する。
26、 医学研究を計画する場合、集団中の遺伝的変異に配慮するという認識は、集団
を人種カテゴリーに直結する遺伝情報に従って明確に区分化できる、という意
味ではない。特に、医薬品が一般大衆向けに直接販売される国では、ある特定
の人種集団(racial group)が市場になり、そこでは全ての人に有効であるかのよ
うに、または他の未検証医薬品よりも有効性が高いかのように誤って伝えられ
る危険性がある。より一般的には、こうした展開は人種を生物学的分類に従っ
た事象(biologically defined phenomenon)とする見方を強めることになる。
われわれは、薬理遺伝学的研究や新医薬品の開発には固定観念に起因する誤解
や人種偏見が潜在するので、慎重に対応すべきであると勧告する。さらには、
監視機構(regulatory bodies)は薬理遺伝学的検査や医薬品のマーケティング
に際して、人種的特性(racial specificity)を主張する場合は慎重に精密調査を実
施することを勧告する。
27、 遺伝的プローフィールの代わりとして人種を取り上げて治療無効の決定を下す
のは、グループの全員が問題となる遺伝的変異を保有しているわけではないの
で問題である。だが、もしより正確な薬理遺伝学的検査が利用できないなら、
医療専門家は遺伝的プローフィールの代わり(proxy)として人種を治療決定に利
用することがあるかもしれない。だが人種とか民族間に明確な区別をつけるこ
とは極めて困難なので、その検査対象の遺伝的変異がある特定グループで高頻
度、もしくは低頻度であることが判明している場合でも、特定の人種のメンバ
ーを薬理遺伝学的検査の代替対象(proxy)にするべきではない。
28、 今後、層別化が進めば、同一疾患に罹患したある民族集団(ethnic group)では使
用可能な医薬品が、他の民族集団では使用できないという問題が起きてくる。
もしその治療薬にアクセスできない集団がすでに社会的、医学的に不利な状況
にある場合には特に問題になる。まだ発展段階にある現在、この問題が持つ重
大性を押し測ることは難しい。われわれは、国の健康サービス(National Health
Services:
NHS)の一環として、異なった民族集団との相対アクセス(relative
access)を実施する責任機関は、薬理遺伝学の発展と応用に伴って生じてくる問
9
題をどう評価するか、その手法を確立するように勧告する。
臨床的判断と患者の選択(Clinical judgment and patient choice)
情報、訓練、教育(Information, training and education)
29、 薬理遺伝学的検査と医薬品がさらに普及すれば、一般医(general practitioners)
や薬剤師を含めた医療専門家に対して、発見された新事実や開発された新検査
法についての教育が必須になる。有益で、容易にアクセスできる医療情報は医
療専門家と患者の双方に大事である。患者がより多くの医療情報にアクセスす
るにはインターネットは良い方法であるが、同時に誤った情報を伝播するとい
う逆のリスクも伴っている。例えば薬理遺伝学のような、新しい医学への導入
を必要としているのは特に緊急、且つ、有用な情報である。遺伝に関する最近
の白書は NHS 機関を通じて、遺伝知識の集積やヘルスケアへの応用など様々な
提案を試みている,
例えば一般医を含んだ医療専門家をトレーニングする
NHS 遺 伝 教 育 発 展 セ ン タ ー (NHS Genetic Education and Development
Center)、遺伝に関わる臨床決定に必要な最新の遺伝情報を蓄積した国立健康電
子図書館(National Electronic Library for Health)の設立、NHS Direct による
最新の遺伝情報を患者が逐次取得するための維持努力などである。われわれは
薬理遺伝学的検査と医薬品に関する独立した公正な情報を患者と一般医と薬剤
師を含んだ医療専門家に提供するべく指導力を強化することを勧告する。
30、 しかし現在、正確な情報を直ちに利用するには十分な状況にない:患者はその
情報とそれの意味することを理解する必要がある。薬理遺伝学的検査がもたら
す情報は確率的情報であり、そこでは、治療の場でのインフォーム論議
(informed discussion)に参加する患者及び医師の理解力が問題になる。これ
まで治療薬設定(medical setting)に関する情報伝達上のリスクについて様々な
研究がなされてきた。われわれは患者に薬理遺伝学情報を如何に伝達するか、
その手法について研究すること、また医療専門家には適切なトレーニングの機
会が与えられることを勧告する。
31、 われわれは医学的検査上の重要点は遺伝そのものに関するものより、むしろそ
れがもつ情報内容についてであると主張してきた。大事なことは、薬理遺伝学
的検査では、遺伝子例外主義の罠に捕らわれることなく、それでいて非遺伝的
検査より高い基準のコンセントを求めることである。非遺伝学的検査の中には
例えば高血圧検査のように、単に治療対象としての情報でなく、将来起こり得
る病態像(likelihood of future ill health)を推定させるような、薬理遺伝学的検
査と同様のリスク情報を含んでいるものもある。だが、遺伝データの重要な点
は問題としている疾患と関係のない情報、もしくは一切疾患とは関連性のない
情報、またサンプルを採取した時点では全く知られていない情報などを内在し
10
ていることである。これが検査に際してインフォームドコンセント取得を難し
くしている。コンセントの倫理的意義は完全性ではなく、真実性である、完全
なインフォームドコンセントを取得するのは困難だからである。その時点では
不明な最終結果を患者へのコンセントフォームの中に明示することは出来ない。
しかし、コンセントはある場合には必要である。2例挙げてみよう:
(ⅰ)もし
かしたら、サンプルまたは検査結果が当初の目的とは異なって使われる可能性
がある、もしくは問題にしている疾患に関係ない患者情報が提示される可能性
がある;
(ⅱ)もしかしたら、検査結果が患者の健康やライフスタイルに深刻な
衝撃をあたえる可能性がある。だが、この 2 例は非遺伝学的検査でも同様でこ
とを認識すべきである。
32、 実地臨床の場で、薬理遺伝学的検査に際してサイン入りコンセントの必要性を
問題にする場合、各検査それぞれが持つ情報の性質(nature of information)
に従って判断すべきである。もしも医薬品、または疾患に関係ない情報を得よ
うとするなら、またもし検査結果が患者の健康問題やライフスタイルに強いイ
ンパクトを与えるようなら、サイン入りのコンセントが適切であろう。だが多
くの場合、われわれはサイン入りのコンセントは不要と考えている。しかし、
情報は、それが特に複雑で、推定内容を含んだものなら、患者には印刷物とし
て与えられるべきである。そのような情報を資料化する場合は、遺伝情報と同
様 に 複 雑 な 性 質 を も つ 非 遺 伝 情 報 に つ い て も 適 切 な 機 関 ( relevant
organization)を考慮すべきである。
検査と治療のための責務(Responsibility for test and treatment)
33、 薬理遺伝学的検査の中には、店頭で、もしくは処方なしで購入可能な医薬品に
ついて、既に明確で利用可能な情報を提供できるものもある。もしもそうした
検 査 が 医 薬 品 及 び 健 康 用 品 規 正 機 関 (Medicine and Healthcare Products
Regulation Agency: MHRA)によって保障されるなら、われわれはそれを直接消
費者に提供することに問題はないと考える。しかし、薬理遺伝学的検査の多く
は複雑で、不明確な予測( less certain prediction)を提供するに止まっている。
このような場合、専門家による検査前及び検査後のアドバイスが必要になる、
従って、検査を消費者向けに直接提供するのは適切でない。NHRA は検査の臨
床的有効性と品質の評価に責任を持つことになろう。われわれは、英国遺伝学
的検査ネットワークは薬理遺伝学的検査の患者への直接販売に対する責任を担
うべきであり、それぞれ case by case で対応すべきであると勧告している。わ
れわれは患者に直接販売しない薬理遺伝学的検査については、その広告は行な
うべきではないと考えている。
34、 患者が薬理学的検査を受けずに治療することを希望するとき問題が起きる。安
11
全で、効果的な治療が受けられる可能性が高いのにも関わらず、患者が薬理学
的検査受診にあまり熱心でないことがある。そうした嫌悪感(aversion)は非
理性的といえよう、しかしそれは、検査情報が保険の受け取りを困難にするか
もしれない、または効果的治療を望めないという検査結果がでるかもしれない
という理論的な恐怖心(legitimate fear)に由来している可能性もある。
35、 患者の選択には様々な思惑がある。医療専門家は、医薬品使用の認可対象でな
い病態に対しても、もしそれが結果として問題解決に役立つと思うなら処方す
ることもできる。これを適応外処方(off‐label・prescribing)と呼んでいる。
薬理遺伝学的検査が医薬品使用認可条件の1つになっている場合は、検査なし
で処方するのは、特に患者に副作用の危険性をもたらす場合、また得られる便
益が極めて低いと思われる場合は、医療専門家がそうした処方をするのは不適
切である。しかし、検査が認可条件でない場合は、得られた情報は医薬品の処
方に際して考慮すべき因子の1つでしかない。薬効の期待は薄いが、他に利用
可能な治療がなく、副作用もさほどでないなら、検査なしでも処方することは
可能である。
36、 薬理遺伝学の進歩は、これまで薬理遺伝学的検査の未施行の状況下で、ある少
数のグループにとっての副作用が深刻なために不認可とされていた医薬品を認
可に導くかもしれない、そういう期待感を与える。そのようなケースで検査を
しないで処方するのは正しくない。他のケースでは、薬理遺伝学的検査は医薬
品認可条件の1つになることはないであろう。従って、医療専門家には、患者
個々人の治療に際して、認可機関(regulatory authorities)、もしくは医師会から
の指針に従って決断することが求められることになろう。このことは、現実問
題として、薬理遺伝学的検査を実施せずに、ある特定の医薬品を処方すること
はできないということを意味している。
発展途上国におけるオフラベル使用(Off-label use in developing countries)
37、 薬理遺伝学的情報に従って使用するようにデザインされている医薬品を検査な
しで購入・処方する国がでてくるかもしれない。ある特定の国での医薬品処方
を許可するか否かの問題は、その国の認可機関の責任事項である。決定は、他
に利用できる医療があるかどうかかどうか、または薬理遺伝学的検査情報の性
質など、状況の重大性の程度に従って case by case で下されることになろう。
遺 伝 薬 理 学 的 検 査 の プ ラ イ バ シ ー と 守 秘 義 務 ( Privacy and cofodentiality of
pharmacogenetic information)
家族への対応(Implication for family members)
38、 薬 理 遺 伝 学 的 デ ー タ が も つ 家 族 間 で の 関 連 性 に つ い て い え ば 、 そ の 公 算
12
(likelihood)は低い。一般に、もしも検査が臨床的適応になるなら、家族の検
査結果に関係なく、問題となるその個人について検査が行なわれる。個々の患
者に対する医療専門家の責務(obligation)が他者への責務と対立関係(conflict)に
なる場合は、患者に薬理遺伝学的情報を家族と共有するように勧める状況にな
ることも考えられる。この可能性は医療現場での医療情報の共有化の過程で扱
われることになるであろう。
保険での使用(Use of insure)
39、 薬理遺伝学的情報は様々な類の保険、個人的な医療保険、重症障害保険、収入
補償保険、長期ケア保険、生命保険などの保険加入に使われるであろう。この
情報はそれぞれ2のケースで利用されよう:加入者の保険の掛け金を見積もる
場合と加入者への保険金の支払いを決断する場合である。保険加入の検討に際
して、薬理遺伝学的情報は、私的保険の場合も、公的な健康ケアシステムと同
様にどこまで治療費をカバーするかは保険業者にとって大きな問題である。
40、 英国は遺伝学的検査結果を保険掛け金の設定に利用するのを 2006 年までモラ
トリウム(moratorium) にした(ハンチントン病の遺伝子診断結果に従って
£500,000 以上の生命保険をかける場合を除き)。もしもこの状況が変われば、
それが真実であれ、推測であれ、保険金が交付されないかもしれないという恐
怖心から、患者本人にとって重要な薬理遺伝学的検査であっても、それを拒否
するかもしれない。英国では薬理遺伝学的検査情報は保険料金決定に際しては
モラトリウムの状況にあり、保険会社は薬理遺伝学的情報を保険金設定には利
用しないと宣言している、われわれはこのモラトリウム措置が継続することを
願っている。
13