ヘブライ書注解 - 日本キリスト教団出版局

NTJ ホームページ掲載
見本原稿
ヘブライ書注解
中野
実
序文(1:1–4)
1
日本キリスト教団出版局
NTJ ホームページ掲載見本原稿─ヘブライ書
中野実(2014.3.24 公開)
1:1–4 翻訳、形態/構造/背景
1:1–4 形態/構造/背景
ルの歴史(「昔」)から現在(「これらの終りの日々には」)に至るまで変わるこ
序文(1:1–4)
となく語り続けてこられた神に注目し(1:1–2a)、そのうえで創造から終末
に至るまでの神の子イエス・キリストの存在と働きについて手際良くまとめ
る(1:2b–4)。これだけの内容をわずか一文で見事に表現するのである。
さらに著者は、1:1 において冒頭の文字において韻をふむ手法(alliteration)
を導入している。すなわち、ギリシア文字π(ピー)で始まる語を 1 節に五
1. 翻訳
1
つも用いて(polumerw/j〔多くの機会に〕、polutro,pwj〔多くの仕方で〕、pa,lai〔か
神は昔、多くの機会に、多くの仕方で、預言者たちによって父祖たちに
語られたが、 これらの終わりの日々には、子によって私たちに語られた。
2a
2b
3a
つて〕、patra,sin〔父祖たちに〕
、profh,taij〔預言者たちに〕
)韻をふみ、心地よ
さという修辞的効果を作り出そうとしている。
神は子を万物の相続者として立て、また彼を通して世界を創られた。 子
以上のように、入念に仕上げられた 1:1–4 は、古代ギリシア・ローマ時
は神の栄光の反映、神の本質の刻印であり、 その力ある言葉によって万物
代の修辞学の視点から見ると、Exordium あるいはプロオイミオンと呼ばれ
を担いつつ、 もろもろの罪のきよめを行った後、 高い所におられる主権
る「序論」にあたる。クインティリアヌス(紀元 35 年頃 –100 年頃) による
(者)の右に座られた。 彼の相続している名が天使たちの名にまさってい
と、序論の目的は、「後に続く部分で聴衆が自分の側に好意的になるように
るのとちょうど同じほどに、彼は天使たちより一層優れたものとなられた。
前もって聴衆の心をつかんでおくこと」(『弁論家の教育』4:1)である(クイ
3b
3c
3d
4
ンティリアヌス『弁論家の教育 2』森谷他訳、京都大学学術出版会、2009 年、124
2. 形態/構造/背景
最近の注解者の多くは、1:1–4 をヘブライ書の序文と見なしている(例え
頁以下参照)
。では、「好感を与え、関心を引きつけ、話を受け入れやすく
する」ために、著者は序論において何をしようとしているのか?
ヘブラ
イ書でこれから展開される教説と勧告には、ある種の近寄りにくさがある。
ば、Attridge 1989:36、Grässer 1990:47–8 を参照)
。序文は、ヘブライ書におい
5:11–14 におけるイメージを用いれば、ヘブライ書は「固い食べ物」なので
てこれから展開される多くの教説や勧告へ聴衆(読者)を導くための重要な
ある。しかしそのような教説と勧告に、著者はどのように聴衆(読者)を導
入り口である。その入り口を整えるために、ヘブライ書の著者は文学的修
き入れようとしているのか?
辞学的手腕を十分に発揮する。それに関してまず注目したいのは、1:1–4 が
者と聴衆の間にすでに据えられている信仰の共通基盤の確認である。たとえ
入念に組み立てられた一つの(73 語から成る)長い文章となっている点であ
ば、神による万物の創造と支配、同じ神が「子」を通して成し遂げられた新
る。この文章は、アリストテレスが『弁論術』で述べている「周期的な文」
しい啓示と救い、
「子」の十字架における死と高挙(復活)についての信仰は、
(periodic sentence)と言えるであろう(ルカ 1:1–4 も同様な例。BDF 1961,§464
そこでまず著者がしようとしているのは、著
すでに著者と聴衆が共有していた信仰内容だと言える。
参照)。
「周期的な文」とはただ多くの節やフレーズが連結されて一つの長い
この関連で 1:3 に注目したい。そこにおいて著者は、すでに自らの信仰
文章を構成しているというだけではなく、
「それ自体の中に始まりと終りを
共同体で知られていた「キリスト賛歌」を資料として用いている、と推測
持ち、しかも容易に全体を見渡せる長さの表現のことである。この種の表現
する学者たちがいる(Bormkamm 1963:188–203; Deichgräber 1967:137–140 を参
は快く、理解が容易である」(アリストテレス『弁論術』3:9。邦訳は戸塚七郎訳、
照)
。たしかにフィリピ 2:6、コロサイ 1:15、Ⅰテモテ 3:16 における「キリ
岩波文庫、339 頁参照)
。著者はこの序文において、まず旧約時代のイスラエ
スト賛歌」の始まり方と同様に、1:3 はホース(o[j)という関係代名詞で始
2
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1:1–4 形態/構造/背景
1:1–4 形態/構造/背景
まっており、それによって 1:3 において主語が「神」から「子」へと変化す
橋渡しとなっている。同じ 1:4 にあらわれる「より優れた」という意味の比
る。また内容的にもフィリピ 2 章やコロサイ 1 章の「キリスト賛歌」と似
較級の形容詞(krei,ttwn あるいは krei,sswn) も、これから後の教説において
ている点が以下のように指摘できる。
重要な役割を果たす語となっていく(6:9; 7:7, 19, 22; 8:6; 9:23; 10:34; 11:16, 35,
40; 12:24 を参照)。
「子」の先在:フィリピ 2:6、コロサイ 1:15 =ヘブライ 1:3a
以上見てきたように、著者は文学的修辞学的手腕を十分に発揮しながら序
「子」による万物の保持:コロサイ 1:17 =ヘブライ 1:3b
文を仕上げている。その結果、ヘブライ書の序文は新約文書の中でも最も優
「子」の肉における歩み(とくに十字架の死):
れたものとなっている。しかしこの序文には一つの謎が存在する。本書は
フィリピ 2:7–8、コロサイ 1:19 =ヘブライ 1:3c
「子」の高挙:フィリピ 2:9 =ヘブライ 1:3d
「ヘブライ人へ(Proj `Ebraiouj)」という表題の故に(この表題については本注
解の「緒論」を参照)、また本書が手紙らしい結びの言葉(13:22–25。それが著
者本来のものかどうかについては「緒論」を参照) で閉じられている故に、長
もしこのような想定が正しいとすれば、著者はよく知られていた「キリスト
い間「手紙」として見なされて来た。しかし不思議なことに、序文には発信
賛歌」をここで資料として用いながら、著者と聴衆が共に立つべき信仰の共
者、受信者、挨拶、感謝などから成る、通常の手紙の書き出しが欠けている。
通基盤を確認しようとしているのであろう。
すでに確認したように、序文は著者によって入念に準備された個所であるか
しかし同時に、聴衆がそのような信仰的共通基盤をただ学び直すだけでは
なく、これから展開されるより深い教えと勧告を通してより成熟した信仰へ
ら、それを著者の不手際に帰するわけにはいかない。それでは、著者のどの
ような意図に基づくのであろうか?
導かれることをも著者は願っている(この関連で 5:11–6:3 を参照)。著者はそ
手紙の書き出しの欠如、とくに著者の匿名性に関して、それを著者の謙
のような意図をもって、これから展開しようとする重要な主題のいくつか
遜さの表現として理解する解釈が古くから見られる(エウセビオス『教会
を、前もって序論において(なお暗示的ではあるが)示す。例えば、1:1 にお
史』6:14 参照。 エウセビオス『教会史』下、秦剛平訳、講談社学術文庫、2010 年、
いて著者は「多くの機会に、また多くの仕方で」すでに語ってこられた神の
42–44 頁。Koester 2001:21, 81 をも参照)。しかし現代の注解者はむしろ、それ
業について述べる。これは、著者がこれからヘブライ書全体を通して頻繁
が神学的動機に基づくものだと考える。それによると、ヘブライ書の著者が
に(Theobald 1997:754–55 の数え方によれば 33 回!) 旧約聖書(七十人訳聖書
本書の冒頭において何よりも強調したいのは、「語られる神」についてであ
に基づく)を直接引用することへの道備えとなっている。1:2a では「これら
り、あえて発信者について匿名にすることで本書の「語り」の主体は人間で
の終わりの日々においては神が子である一人の方(定冠詞なしの ui`o,j の単数
はなく、神御自身であることを示そうとしている、というのである(Backhaus
形)を通して語られた」と述べられているが、これはこれからしばしば強調
2009:81, Karrer 2002:109)。
される「子」による救いの業の唯一性と関連しているのかもしれない(7:27;
9:12, 26–28; 10:10 を参照)。また 1:3 では「もろもろの罪のきよめ」について
語られるが、これはこれから詳しく展開される「子」の大祭司的な役割(メ
3. 注解
ルキゼデクのような大祭司)についての議論(2:17 以下しばしば現れる主題)を
《1:1–2a》
先取りしていると言える。さらに 1:4 では「子」が天使よりもはるかに優れ
〈構成について〉
た方であることが語られるが、これは明らかに直後(1:5 以下)の議論への
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1 節 –2 節 a における主語は「神」である。ここでまず取り上げられる主
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1:1–4 注解(1:1)
1:1–4 注解(1:1)
題は「神」であり、しかも「語られる神」である。
「語る」という意味の動
である。これら二つの表現は、細かいニュアンスの違いはあるけれども似た
詞 lale,w が、従属文の 1 節ではアオリスト分詞の形で、主文である 2 節 a
表現であり、ヘブライ書の著者はここでそれらをほぼ同義語と見なしている
4
4
4
ではアオリスト直説法で用いられている。同じ神が旧約聖書の時代(「昔」)
のかもしれない。もしそうなら、このような同義語の繰り返しは神の「語
からヘブライ書が語りかけている今(「これらの終りの日々において」)に至る
り」の多様性を力強く示すための文体なのであろう。しかし、ニュアンスの
まで一貫して語ってこられた。そのような神の「語り」の連続性をまずここ
違いをあえて考慮するとすれば、前者(「多くの機会に」)は、神の啓示が命
に読み取ることができる。しかし同時に、1 節と 2 節 a を比較すると、以下
令、約束、慰め、裁きの言葉など様々な部分から成っていることを示してお
のような二つの異なる時代の対比を読み取ることも可能である。
り、後者(「多くの仕方で」)は、神の啓示には直接の語りもあれば、天使、幻、
夢などを通しての啓示もあることを示しているのであろう(Grässer 1990:51)。
1節
2節a
では、ヘブライ書の著者は、この神の「語り」の多様性をどのように評
価しているのか?
「多くの機会に、多くの仕方で」
神
肯定的か、それとも否定的か?
例えば、旧約ホセア
書 12:11 には、
「わたし〔=神〕は預言者たちに言葉を伝え、多くの幻を示し、
「昔」
「これらの終りの日々には」
預言者たちによってたとえを示した」(新共同訳) とある。これは内容的に
「父祖たちに」
「私たちに」
ヘブライ 1:1 に近い。また旧約外典『ソロモンの知恵』7:22 では、神の力の
「預言者たちによって」
「子によって」
息吹であり、神の栄光の輝きである「知恵」の霊的な性格は、単一でありつ
つ同時に多様であると語られる。そこでは神の働きの多様性は決して否定的
以上のような対比に注目すると、すでに旧約の預言者たちを通して父祖たち
に見なされていない。さらに、ヨセフスも『ユダヤ古代誌』10:8:3 において
に語られた神が、この終りの時代にはこれまでと全く異なる仕方で、すな
神の歴史への働きかけの多様性をむしろ評価している。すなわち、「わたし
わち「子」である方(=神の子イエス・キリスト)を通して私たちに語られた、
がしばしば語って来たこのような事件は、神が時と場合に応じたさまざまな
というメッセージを読み取れるであろう。この場合は、1節における旧約
仕方で歴史に働きかけ、……神の性質を十分に明らかにし、そのような連中
時代の神のもろもろの啓示と、2 節 a における一人の「子」を通してなされ
の無知と不信仰とを暴露するものである」とヨセフスは言う(『ユダヤ古代誌
た最終的究極的啓示との間の非連続性が強調される事になる。いずれにせよ、
3』秦剛平訳、ちくま学芸文庫、1999 年、270 頁参照)。ヘブライ書の著者もま
2 節 a で明らかになった「子」という主題は、つづく 2 節 b–4 節にそのまま
た神の働きの多様性を高く評価している事実は、旧約聖書からの直接引用を
引き継がれていく。
しばしば行っていることから明らかである。かつて旧約の時代になされた神
の多様な「語り」は、この終わりの時代に御子を通して成し遂げられた神の
〈1 節〉
「多くの機会に、また多くの仕方で」
ギリシア語の原文ではこの表現が1節の冒頭にくる。
「多くの機会に」と
一回的究極的啓示と救いを指し示す重要な証しとなっている。
それにもかかわらず、1:1 の神の「語り」の多様性は同時にその不十分さ
を示しているとも考えられる。多様な神の「語り」、つまり多くの部分から
訳している語は polumerw/j という副詞で、直訳すると「多くの(polu-)部分
成る神の業において、その一つ一つはなお断片的だとも言えるからである。
(meroj) において」となる。
「多くの仕方で」と訳している語は polutro,pwj
ヘブライ 7:23–24 によると、レビの系統の祭司たちが多く任命されるけれど
という副詞であり、
「多くの(polu-)」と「方法」
「仕方」(tropoj)の結合語
も死にゆく存在であるが故に、永遠に生きておられる唯一の大祭司イエスの
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1:1–4 注解(1:1)
1:1–4 注解(1:2)
ように完全な働きを成し遂げることはできない。これらの多くの祭司たちは、
である。ここでは、神の「語り」の道具として預言者たちを用いる、という
どこまでも天にあるものの写しであり影であるものに仕えているにすぎない
意味合いをもつ。
のである(8:5)。
以上のことをまとめてみよう。ヘブライ書の著者は、多くの旧約引用から
明らかなように、預言者たちを通してなされた神の多様な「語り」に重要な
〈2 節 a〉
「これらの終わりの日々には」
意味を見出している。しかし同時に、神の「語り」が唯一の「子」において
1:1 の「 昔 」 と の 対 比 に お い て、1:2a で は「 こ れ ら の 終 わ り の 日 々 に
完成したこと、その「子」における神の「語り」の完全さをむしろ強調しよ
は」と語られる。この表現をできるだけ直訳すると、
「これらの日々の(tw/n
うとしている、と言えるであろう。
h``merw/n tou,twn、複数)終わりにおいて(evp v evsca,tou、単数)」となり、意味は
必ずしも明瞭ではない。これに近い表現が七十人訳聖書に見つかるが、全く
「神は昔……父祖たちに預言者たちによって語られたが」
ここで語られている「父祖たち」とは一体誰のことであろうか? 3:9 に
同じではない。最も近い例として、民数記 24:14、エレミヤ書 23:20、25:18
(マソラ・テクストでは 49:39)、ダニエル書 10:14 が挙げられる。これらはみ
は「あなたがたの父祖たち」(詩 95:9 からの引用)、また 8:9 にも「彼らの父
なヘブライ語表現「ベ・アハリート
祖たち」(エレ 31:32 からの引用) という表現が見られる。いずれの場合も、
あり、来るべき将来を意味する表現である(「終わりの日に」「後の日に」など)。
イスラエルの先祖たちを指している。それ故、ここでも預言者たちが神の言
終末論的な意味合いで用いられている場合も多い。しかしヘブライ書の場
葉を語ったイスラエルの先祖たちを意味すると考えるのが妥当と思われる。
合、七十人訳的なこの表現に「これらの」という指示代名詞が付いている点
しかし、そこからヘブライ書が想定する読者がみなユダヤ人(キリスト者)
が特徴的で、これによって独特なニュアンスが加わる。すなわち、神の子イ
である結論づけるのは性急である。イスラエルの父祖たちは、異邦人キリス
エスの到来によって終末的事態(「終わりの日々」)が今すでに開始されてお
ト者にとっても信仰の父祖であるからである。その関連で、例えば、ヘブラ
り、ヘブライ書の著者(語り手)と読者(聴き手)はそのような終わりの日々
イ書 11 章を参照(さらにⅠコリント 10:1 も参照)。
を歩んでいるという自覚がここに読み取れる。
「預言者たち」とは一体誰のことか?
ハイッヤーミーム」のギリシア語訳で
4
4
4
4
4
ヘブライ書では、たしかに多くの
預言者たちの言葉が引用されている。例えば、ナタン(1:5)、イザヤ(2:13)、
エレミヤ(8:8–12; 10:16–17)、ハバクク(10:37–38)、ハガイ(12:26)。しかし、
「子によって私たちに語られた」
「語る」という意味の動詞 lale,w が、従属文の 1:1(「語られたが」)に続い
1:1 の「預言者たち」という表現は、狭い意味の預言者のみならず、モーセ
て、主文にあたる 1:2a(「語られた」)でも用いられている。これらの「語り」
やダビデなども含む広い意味で用いられていると理解すべきである。例えば、
の主体はどちらも神であり、この動詞の繰り返しによって、同じ神がかつ
モーセを通しての神の啓示については、3:2、8:5、10:28、12:21 を参照(預
ても今も変わることなく語り続けておられる事実が示されている。しかし、
言者としてのモーセについて、申 18:15, 18; 行伝 3:22 をも参照)
。さらに重要な
「昔」と「今」の連続性にもかかわらず、神の預言者たちによる多様な(そ
のは、ダビデを通しての神の啓示であり(4:7)、ヘブライ書では、ダビデに
れ故に一つ一つは断片的な)啓示とは決定的に異なる、神の唯一の「子」によ
帰されている詩編からの引用が多く見られる。この関連で、ダビデを預言者
る啓示について 1:2a は語る。
「子によって」と訳した部分は、evn ui`w/| である。
と見なしつつ、詩編を引用する使徒行伝 2:30–31 をも参照。
「預言者たちによって」の「によって」に当る部分は、前置詞「エン(evn)」
8
「によって」と訳した evn は、1:1 の「預言者たちによって」と同様、道具と
して用いるという意味合いであり、神が「子」を用いて語られた事を表現し
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1:1–4 注解(1:2)
1:1–4 注解(1:2)
ている。しかし、ここで独特なニュアンスを持っているのは「子に(ui`w/|)」
2004:173 および Backhaus 2009:83 を参照)。
の部分である。これは ui`oj の単数の与格であるが、ここには定冠詞が付い
ていない。しかし、
「多くの子たちのうちの一人によって」という意味では
〈1:2b〉
ない。むしろ「子である方」と意訳した方がよいかもしれない。「神(qeo,j)」
「神は子を万物の相続者として立て」
「主(ku,rioj)」というようなユニークな存在を指し、ほとんど固有名詞に近
「子」のアイデンティティに関する第一のポイントは、
「子」が万物の相続
くなっている名詞の場合、定冠詞を欠くことがある。もしここがそのような
者として立てられ、万物を統治する方となっている、という点にある。この
4
4
4
ケースだとすると、かつての多くの預言者たちによる啓示との対比において、
4
4
4
唯一の「子」である方による啓示という意味で、この新しい啓示の単一性、
独自性の表現だと考えられる(Ellingworth 1993:93–94 および BDF§254 を参照)。
「相続」という主題は 1:4 にも現れ、1:2b–4 の枠を形成していることにも注
目したい。
神によって約束された「相続」という主題は旧約聖書の中に多く見られる。
例えば、創世記によれば、神はアブラムにカナンの地を継がせるとの約束
《1:2b–4》
を与えた(創 12:7; 15:7)。また申命記によれば、すでに先祖たちに約束され
〈文脈と構成について〉
た嗣業の土地を継がせるとの約束を神は再びモーセに与える(申 1:8, 21, 38)。
すでに確認したように、1:2a において「子」を通して神がユニークな仕
さらにヘブライ書において重要な役割を果たす詩編 2 編(ヘブ 1:5; 5:5)の 8
方で「私たち」に語られた事実が示された。続く 1:2b–4 において取り上げ
節にも「相続」の主題は現れ、諸国民を治める神がダビデの系統の王(=神
られるテーマは、そのユニークな神の啓示の行為主体である「子」とは一体
の子)にその統治権を与えるとの約束が語られる。第二神殿時代の初期ユダ
どんな方なのか、という事である。1:2b–4 は、三つの関係代名詞(2 節 b の
ヤ教文書にも、「相続」というモチーフはいろいろな展開が加えられながら
o[n および di vou-、そして 3 節の o]j)によってその全体が 1:2a の「子によって」
現れる(例えば、エチオピア・エノク 5:7; ヨベル 17:3; 22:14, 27 を参照。Attridge
/ の部分につながっている。関係代名詞 o[n(「その者を」)および di vou(evn ui`w |)
1989:39–40)。新約聖書の諸文書にも「相続」のモチーフは現れるが、多く
(
「その者を通して」) で導入される 1:2b において、主語はなお「神」である
の場合、地上的な相続についてではなく、終末的な期待として、むしろ天
が、内容は「子」に焦点が移っていく。それに対して、関係代名詞 o]j(「その
的な現実に関わる約束として語られる。例えば、マタイ 5:5(柔和な人たち
者は」)で導入される 1:3–4 の部分においては、主語も「子」に変わる。
は地を受け継ぐ)、マタイ 25:34、Ⅰコリント 6:9–10、15:50(神の国)、マル
コ 10:17、マタイ 19:29、ルカ 10:25(永遠の命)、ローマ 8:17(キリストの栄
〈内容について〉
1:2b–4 という短い箇所において、1:2a で初めて言及された神の「子」が
光)、Ⅰペトロ 1:4(天の財産)などである。ヘブライ書において「相続」
「相
続者」という主題は比較的重要な役目が与えられている。1:2b に加え、1:4、
一体どんな方であるのか、そのアイデンティティが凝縮された形で紹介され
14、6:12、17、9:15、11:7、8、12:17 を参照。これらの箇所から明らかなよ
る。それらは七つのポイントでまとめられている。すなわち、①万物の相続
うに、他の新約の箇所と同様、ヘブライ書において「相続」という主題は終
者(1:2b)、②世界の創造の仲保者(1:2b)、③神の栄光の反映、神の本質の
末的期待として、天的な現実に関する約束と結びついている。
刻印(1:3a)、④力ある言葉による万物の保持者(1:3b)、⑤もろもろの罪の
1:2b では、「子」による「万物」(pa,nta) の相続が語られている。そこで
きよめの行使者(1:3c)、⑥高く挙げられ、神の右に座られた方(1:3d)、⑦
先ず注目すべきことは、人類全体のみならず、神によって創造されたすべて
天使にまさる名の相続者として天使よりすぐれた方(1:4)である(Bauckham
のもの、宇宙全体が視野に入れられている、という点である。さらに注目し
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1:1–4 注解(1:2)
1:1–4 注解(1:2)
たいのは、その相続が「子」としての相続であるという点である(この関連
多くの学者たちが想定してきたように、このようなキリスト論的思索の「生
で、詩 2:7–8 を参照)。天地の創造者および保持者である神の「子」として被
活の座」(Sitz im Leben)は初期キリスト教会の霊的な礼拝における讃美や信
造物全体を相続し、支配するのである(マタ 11:27; ルカ 10:22; ヨハ 3:35; 13:3;
仰告白であったと思われ、また宗教史的背景として、初期ユダヤ教文書に見
16:15; フィリ 3:21; エフェ 1:22 など参照)。普通、父から子への相続は、父の
られる、擬人化された知恵やロゴスなど、唯一の神の属性に関する思索から
死によって有効になる。しかしここでは、不思議なことに「子」自身の死
の影響を見ることができるであろう(箴 8:22–31; シラ 24:1–12: 知恵 7:21–27;
と高挙によって相続が成し遂げられた(Koester 2001:178)。1:3–4 からも明ら
8:3–6; フィロン『ケルビム』125–127 など参照)。
かなように、「子」はもろもろの罪の清めのために死なれた後、すでに天に
「世界」と訳した部分は、ギリシア語 aviw,n の複数形である。1:2b 前半の
おられる神の右に座り、天使たちの名よりもすぐれた名、すなわち神の名を
「万物」(pa,nta)との関連を考慮して、「世界」とは「万物」を意味する、と
継承し、万物の支配をゆだねられた(1:4 の注解を参照)。そういう意味では、
考えるのが基本的には正しいと思われる。つまり、「子」が相続し、統治す
「子」による相続はすでに成し遂げられたとも言える。しかし同時に、天の
ることになっている万物は、「子」自身がそもそも創造において関与したも
召しにあずかっている者たち(=キリスト者、1:14; 3:1; 6:12, 17 を参照)が救
のでもある、という主張がここにみられる。しかし、aviw,n というギリシア
いを受け継ぐ終末の時まで、
「万物の相続」はなお完成を待っているとも言
語がここでは複数形で用いられている。おそらくそこに独特なニュアンス
いうる(この関連で 2:8 を参照)。
があるにちがいない。本来 aviw,n は時間的な意味合いで、「時代」「世代」な
どと訳される。そのような用法はヘブライ書にも見られる。6:5 の「来るべ
「また彼を通して世界を創られた」
き時代の力」、9:26 の「この代々の終わり(完成)において」を参照。しか
「子」に関する第二のポイントは、
「子」が(天地創造の初めからおられる)
し同時に、aviw,n は空間的な意味にも用いられる。例えば、11:3 では aviw,n が
先在者であり、神の創造の業における仲保者であるという点である。1:2b
「世界」の意味で、しかも 1:2b と同様に複数形で、創造に関連して用いられ
の前半では、「子」の死と高挙によって開始され、終末において完成する、
ている。それ以外の aviw,n の用例はみな「永遠に」という意味の決まり文句
「子」による万物の相続と統治がテーマであった。しかし 1:2b の後半では、
であり(eivj to.n aivw/na〔tou/ aivw/noj〕、eivj tou.j aivw/naj〔tw/n aivw,nwn〕など)、し
歴史を一気に終わりから初めまでさかのぼり、
「子」が先在者であったこと、
かも重要なことに、それらはみな「子」のもつ永遠性との関連において使用
そして世界の創造において仲保的役割を果たした事が述べられる。
されている(1:8; 5:6; 6:20; 7:17, 21, 24, 28; 13:8, 21)。ここでは 11:3 との関連
ヘブライ書のみならず、紀元 1 世紀の初期キリスト教全体において、世界
を考慮して、空間的な意味にとり、一応「世界」と訳した。しかし、必ず
の万物が唯一の神によって創られたという信仰は、母体である初期ユダヤ教
しも時間的意味合いを排除する必要はない。しかも永遠なる存在としての
(ほぼ第二神殿時代ユダヤ教と同じ)から継承され、共有されている。しかし
「子」との結びつき、また複数形での使用という点に鑑みると、1:2b におけ
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ここでは、そのような神の創造の業が「子」である方を通して(di vou-)成し
る aviw,n は、今の時代においても、来るべき時代においても、また見える世
遂げられた、と語られる。同じような信仰は他の新約聖書文書にも見られる。
界においても、見えない世界においても、永遠なる神の「子」がそれらの形
例えば、以下の箇所を参照。
「万物はこの方〔=ひとりの主イエス・キリスト〕
成に関わったすべてのものを意味する、と言えるのではないか。
を通して、我々も彼を通して〔成った〕」(Ⅰコリ 8:6)、
「万物は彼〔=神の子〕」
を通して、彼に向かって創造された」(コロ 1:16)、
「すべては彼〔=ロゴス・
次回、ヘブライ書注解 1:3 以下のホームページ掲載は、
キリスト〕を通して成った」
(ヨハ 1:3)
、
「世は彼を通して成った」(ヨハ 1:10)。
2014 年 4 月 25 日ごろを予定しています。
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