日本キリスト教団出版局 NTJ ホームページ掲載見本原稿─ガラテヤ書 2 浅野淳博(2013.6.28 公開) 1:1–5 NTJ ホームページ掲載 見本原稿 ガラテヤ書注解 浅野淳博 注解(1:3) c. 1 章 3 節 3 節にはガラテヤ信徒たちへの挨拶の具体的な内容が記されている。それ はガラテヤ信徒たちへ恵みと平安があるようにとの祈りである。この挨拶、 「私たちの父なる神と主イエス・キリストからあなたがたに恵みと平安があ りますように(χάρις ὑμῖν καὶ εἰρήνη ἀπὸ θεοῦ πατρὸς ἡμῶν καὶ κυρίου Ἰησοῦ Χριστοῦ)」 はパウロの、あるいは少なくともパウロが設立に関わった教会における祈 りの定型文であり、他のパウロ書簡にもまったく同形で登場する(ロマ 1:7; I コリ 1:3; II コリ 1:2; フィリ 1:2; コロ 1:2; II テサ 1:2。エフェ 1:2 をも参照) 。この 恵みと平安には「私たちの父なる神と主イエス・キリスト」という前置詞 I. 導入(1:1–9) 「アポ= ἀπό」+属格の修飾句が付加され、恵みと平安の出処あるいは源泉 が明らかとされている。 i. 神が「父(πατρός)」であるという理解は、ヘレニズム・ローマ文化にお A. キリストの使者からの挨拶(1:1–5) いても見られる。ホメロスにとってゼウスはすべての神的存在と人類の普遍 的父である。セラピス、ミトラ、ヘリオス等の密儀においても、神は入信者 との霊的家族という文脈において父と子の関係を築く。プラトンはその宇宙 観に父という概念を持ち込み、神が「創始者であり父である」とする。ス トア派哲学においても、世界創造にゼウスとヘラの婚礼という奥義が関わ る。したがって神は、とくに善良なる人類の父である。すなわち、ガラテヤ 諸教会の異邦人信徒にとっても、「父」という表現は神に対する修飾語とし * 1 章 2 節までの見本原稿は、すでに公開済みです。 て違和感のないものである。旧約聖書においては、 「父(アーブ= ba' /パテー ル= πατήρ) 」という表現が頻繁に用いられるわけではない。これはおそらく、 密儀を連想させることを回避したり、親子関係よりも契約関係という理性的 根拠を重視したりする傾向(申 32:9, 18–19; 詩 89:27) があったためであろう (Schrenk 1967:V.945–1014)。もっとも旧約聖書には愛の源泉としての父という 概念も登場し(詩 103:13; 箴 3:12)、この父との民族的あるいは個人的な繋が りも見られる(詩 27:10; 68:6)。 このユダヤ伝統に則りながらも、イエスが─とくに祈りにおいて(マタ 6:9) ─神を非常に親しく父と呼び、弟子たちにも同様の言語を用いさせ ようとした様子は目をみはる現象であり、おそらくこれは同時代のユダヤ 教における霊性には例を見ない(Jeremias 1967:61–67; Dunn 1975:38)。パウロ 11 日本キリスト教団出版局 NTJ ホームページ掲載見本原稿─ガラテヤ書 2 1:1–5 浅野淳博(2013.6.28 公開) 注解(1:3) 1:1–5 注解(1:3) が記す神への呼びかけ「アッバー」(ガラ 4:6; ロマ 8:15)は、このイエスによ 歌において、復活・高揚後のイエスに関して「すべての舌が、『イエス・キ る祈りの姿勢を継承していよう。したがってパウロが神と父を結びつける際、 リストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(フィリ それはやはり祈りや懇願の文脈においてである(I テサ 1:2–3; 3:11)。子が父 2:11) と結んでいる。 「イエス・キリストは主である」という告白は、ユダ をしたい求めるという比喩の重要性ゆえに、 「父」という修飾語が祈りの文 ヤ教の伝統に則して考えるならば目を見はる内容である。「主(キュリオス= 脈において神に付せられるのであろう。 κύριος)」という語は本来的に所有と管理に関わり、家長や王に対して用いら 新約聖書が神に対して「父」という比喩表現を用いることは周知のとおり れ、また神々に対しても適用されるようになった。そして最初に神を表す語 であるが、旧約聖書以来、神を「父」としてのみ表現することの限界は認め として「主」が用いられたのは七十人訳聖書である。七十人訳聖書は 6000 られていたようであり、神に対して母性的な表現も用いられている。この視 回にわたって、「ヤハウェ」という語に対して「主」という語をあてている 点はパウロの神学にも影響を与えているようである。パウロ神学における母 (Foerester 1968: κύριος )。創造神として人と宇宙を支配し、解放神としてイ 性に関しては、とくにガラテヤ書 3 章 28 節と 4 章 19 節の注解において触れ スラエルを導くヤハウェは、すべての主権を有する者として「主」なのであ ることとする。 る。じつにこれは「あらゆる名にまさる名」(フィリ 2:9)であり、イエスは ii.「主イエス・キリスト(κυρίου Ἰησοῦ Χριστοῦ)」という表現は新約聖書中に 復活をとおして─神の子としての立場を保ちながら─神と対等の地位を 24 回見られ、原始教会の告白文としてより整った「われわれの主イエス・ 有するこの称号を頂いたのである。主権者としてのイエスと神との関係につ キリスト」という句は新約聖書において 250 回(パウロ書簡においては 130 回) いて、パウロはさらに「すべてが御子に服従するとき、御子自身もすべてを ほど用いられている。 「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は (I コリ 15:28)と述べており、 ご自分に服従させて下さった方に服従されます」 主とし、またメシア(クリストス= Χριστός)となさったのです」(使 2:36。3:20、 このようにして復活信仰に裏打ちされるパウロのキリスト論はのちの教会に ヨハ 20:31 をも参照) という表現が教会発生時に信徒のあいだで共有された よって三位一体論の証拠として用いられることになる。 認識であったとするならば、そして「メシア/キリスト」が単独のタイトル 「主」はまた、「救済者(ソーテール= σωτήρ)」とともに政治的支配者であ としてあまり用いられていない(20 回)ことを考慮に入れるならば、初代教 るカエサルに対して用いられるタイトルである(「主」と「救済者」が並列 会においていかに急速に「イエス・キリスト」が固有名詞化し、 「われわれ される記事に関しては、ルカ 2:11; フィリ 3:20; II ペト 1:11; 2:20; 3:2, 18 を参照) 。 の主」と結びついて明白な告白文として確立したかをうかがい知ることがで ローマ属州ガラテヤにおける被征服民であるガラテヤ人にとって、これらの きる。 称号をカエサルに対して用いることが軍事的に強要された。したがって、ガ 上述の「エゲイロー」(1 節)を含む復活定型文は、この「主」という語と ラテヤ社会に生まれたばかりの諸教会に対してパウロが「主イエス・キリス 深く結びついている。なぜなら、ローマ書 10 章 9 節でパウロは、 「口でイ ト」と記す場合、ここには抵抗のレトリックが示唆されている。すなわちパ エスを主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させ ウロはガラテヤ信徒たちに対して、「カエサルの主権の下に服するのか、あ た(エーゲーレン= ἤγειρεν)と信じるなら、あなたは救われるからです」と るいはイエス・キリストの主権の下に服するのか」と問うている(Wright いうバプテスマ定型文を紹介しているからである。復活をとおしてこの主 2005:59–79) 。イエスが主であれば、カエサルは主ではありえない。誰も二人 権がすべての人に及ぶことに関して、パウロは同書において「キリストが死 の主人に仕えることはできないのである(ルカ 16:13 /マタ 6:24)。 に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためで iii. 既述のとおり、祈りの内容は「あなたがたに恵みと平安がありますよ す」(ロマ 14:9) と説明している。またパウロはフィリピ書のケノーシス賛 うに(χάρις ὑμῖν καὶ εἰρήνη)」である。〈形態/構造/背景〉で述べたとおり、 12 13 日本キリスト教団出版局 NTJ ホームページ掲載見本原稿─ガラテヤ書 2 1:1–5 浅野淳博(2013.6.28 公開) 注解(1:3) ヘレニズム文化圏における挨拶には「カイレイン」が用いられ(使 23:26、 1:1–5 注解(1:3, 4) し殺戮し強奪することを、偽りの名で支配と呼び、無人の野をつくると平和 『オクシュリンコス・パピルス』292、299 を参照)、パウロの手紙群では慣用的 と呼ぶ」(タキトゥス『アグリコラ』30:5:4–5)。キリスト者の福音信仰は、ロー にその名詞形「恵み(カリス= χάρις)」が使用されている(ロマ 1:7; I コリ 1:3; マの「平和」であれ現代的な中東の「民主化」であれ、強者の政治的欺瞞を II コリ 1:2; フィリ 1:2; コロ 1:2; II テサ 1:2)。 「カイレイン/カリス」がヘレニ 見つめつつその影で喘ぐ周縁者を慮る原動力となるのであろう。 ズム的な挨拶であれば、 「平安(エイレーネー= εἰρήνη)」はユダヤ的な挨拶 (シャーローム= mAlv')である(サム下 18:28; 七十人訳の王下 5:22; II マカ 1:1; ル d. 1 章 4 節 カ 24:36 を参照) 。これらの語句から、ガラテヤ信徒たちの救済(ガラ 1:4)に 前節では神とキリストの恵みと平安について言及されたが、そのキリスト おいて神とキリストが一致して関わっていることが読み取れる。救いは「キ を同格(分詞)節によって修飾しながら、4 節では黙示的戦いの様子が明ら リストの恵み」(ガラ 1:6)でありながら「神の恵み」(ガラ 2:21)であり、救 かになる。すなわち、「この方は、神そして私たちの父の御心にしたがって、 いの結果としてもたらされるのは「神の平安」(フィリ 4:7) でありながら 今日の邪悪な世から私たちを救出する目的で、私たちの罪のために御自身を 「キリストの平安」(コロ 3:15)だからである。 ヘレニズム・ローマ社会にあって「平安」は本来的に戦争のない状態を お与えになりました」。タキトゥスが記す「偽りの名」の平和支配に代表さ れるこの世の在り方が、じつは「邪悪な世」であると暴露され、そこからの 意味する(Liddell & Scott 1996: εἰρήνη )。 「シャーローム」が有するユダヤ的 救出劇が明らかにされる。1 章 1 節の復活定型文(「死者の内から甦らされた」) なニュアンスとしては、身体や関係性の健全さ、幸福、安寧が挙げられる とともに、本節に見られる原始教会の信仰告白文はパウロの提示する福音を (Holladay 1988:423) 。したがってガラテヤ信徒たちは、外的な安寧という本来 要約している。パウロは 1 章 1 節と 4 節において同様の同格節を用いて神と 的な意味に加えて、パウロあるいはガラテヤ地方のユダヤ人会堂をとおして キリストを修飾し、自らが確信する福音の要約を完成させている。 内的安寧という意味を知ることとなった。もっともパウロはここで、救済論 i. 4 節はこの十字架における贖罪死に関する原始教会の信仰告白と思われ 的に二重の意味で「平安」を用いていることであろう。1 章 4 節で明らかに る表現、すなわち「この方は……私たちの罪のために御自身をお与えになり なるとおり、パウロはガラテヤ信徒たちの救済を黙示的戦いの展開という文 ました(τοῦ δόντος ἑαυτὸν ὑπὲρ τῶν ἁμαρτιῶν ἡμῶν)」によって始まる。分詞「ド 脈の内において語っている。戦いの勝利が外的安寧をもたらし、結果として ントス= δόντος」の原形「ディドーミ= δίδωμι」には「己をある目的や大義 神との平和という内的安寧が提供されるのである(ロマ 15:13)。この平和に のために捧げる、犠牲にする」という意味がある(BAGD 2000: δίδωμι )。キ 関する言及は、それが圧倒的な軍事力によってもたらされた「ローマの平和 リストが自分自身を捧げた動機はわれわれの贖罪である。もっともパウロは (パックス・ロマーナ)」と本質的に異なることを、被征服民であるガラテヤ その書簡群において、複合動詞の「パラディドーミ= παραδίδωμι」を用いる 信徒たちに意識させずにはいられまい。ブリタニア総督でありタキトゥスの 場合が多い(ガラ 2:20; ロマ 4:25; 8:32。エフェ 5:2, 25 をも参照)。左の参照箇所 岳父であるアグリコラが記したカレドニア諸部族の指導者カルガクスの言葉 においては、キリストの犠牲に関する表現は様々である。ある場合はキリス は、そのままガラテヤ信徒たちの体験でもあったであろうからである。カル トに主導権があり、「私のために身を捧げられた神の子」(ガラ 2:20)、「ご自 ガクス曰く、「世界の略奪者(たるローマ人)たちは、すべてを荒らし回って 分を……いけにえとしてわたしたちのために神に捧げて下さった」(エフェ 陸地を見捨てた後に、いまは海を探し求めている。彼らは、敵が裕福ならば 5:2) 、 「教会のためにご自分をお与えになった」(エフェ 5:25) と記され、あ 貪欲となり、貧乏ならば野心を抱く。東方も西方も彼らを満足させなかった。 る場合は神に主導権があり、「イエスは、私たちの罪のために死に渡され」 すべてのものの中で彼らだけが、富と困窮とを同じ情熱で欲している。略奪 14 (ロマ 4:25) 、「(神が) その御子をさえ惜しまずに死に渡された」(ロマ 8:32) 15 日本キリスト教団出版局 NTJ ホームページ掲載見本原稿─ガラテヤ書 2 1:1–5 浅野淳博(2013.6.28 公開) 注解(1:4) 1:1–5 注解(1:4) と記されている。いずれにしても、これらの類似表現の背景には、 「キリス る来るべき世である。朽ちる世を満たす「被造物は年老いて、力強い青年 トが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだ」(I コリ 15:3)と 期を過ぎてしまったかのよう」(IV エズ 5:55)である。この邪悪な今の世は、 いう福音の伝承(I コリ 15:1, 3)に起因する原始教会のキリスト理解がある。 人の罪のゆえに暗くなっている(IV エズ 14:20)。そこで御使いはエズラに問 イエスの贖罪死に関する伝承としては、 「これは、あなたがたのために与え い促す、 「この世という道は……邪悪なものとなった。……あなたがたは来 られるわたしの体である」(ルカ 22:19) という聖餐伝承があり、 「人の子は るべきことに思い至らずに、現在のことを考えるのか」(IV エズ 7:12–16)と。 ……多くの人の身代金(リュトロン= λύτρον) として自分の命を捧げるため パウロは「差し迫っている、現存している」を意味する「エニステーミ= に来たのである」(マコ 10:45)という受難告知伝承がある。この「リュトロ ἐνίστημι」の完了形分詞(「エネストートス= ἐνεστῶτος」) を用いて、この世が ン」という語に贖罪の意味が含まれるかに関しては議論があるが(クロッサ これまでのあいだ存在し続けてきた状況に読者の目を向け、その状況を「邪 ン&ボーグ 2008:164–67 を参照)、イザヤ書 53 章 11 節に見られる受難と贖罪 悪(ポネーロス= πονηρός)」と断言している。この「邪悪」という語は道徳 思想のみならず、第二神殿期ユダヤ教の伝承においても、義人の殉教が他 的また社会的な悪を指し示す(BAGD 2000, πονηρός )。まさに人の罪ゆえに、 者の罪を贖うという思想が見られることは看過できない(II マカ 7:33, 37–38; この世が光を失い暗くなっている状態を表す。パウロはこの邪悪な世から来 IV マカ 6:27–29; 17:21–22)。ここでパウロに特徴的な「罪の支配力」を示す単 るべき世への救出が、イエスの死の目的であると述べている。 数の「罪(ハマルティアー= ἁμαρτία)」ではなく、よりユダヤ的な「諸罪過」 ちなみに、ヘレニズム的世界観によれば、この世は「黄金期」から堕落の を示す複数の「罪(ハマルティオーン= ἁμαρτιῶν)」が用いられている点から、 道を辿り、次第に光を失い、朽ち続けて今に至っているのである(ヘシオド 本節の表現がパウロ以前の原始教会に属する贖罪論に依拠する信仰告白であ ス『労働と日々』105–99) 。上述の「ポネーロス」にはじつに「老朽」という ることを示しているとも考えられる。 意味も含まれる(マタ 7:17; マタ 6:23 /ルカ 11:34 を参照)。ヘレニズム・ロー ii. イエスの死には「今日の邪悪な世から私たちを救出するため(ὅπως マ社会にあって帝国の被征服民であるガラテヤ人にとって、属州支配という ἐξέληται ἡμᾶς ἐκ τοῦ αἰῶνος τοῦ ἐνεστῶτος πονηροῦ) 」という目的がある。パウロが 「世」は、今の過ぎゆくべき邪悪な時代の象徴なのである。パウロが説く黙 「エクサイレオー= ἐξαιρέω(エクセレータイ= ἐξέληται の原形)」を用いるのは 示的メッセージは、ローマ帝国の圧政に苦しむガラテヤ信徒に対して大いな この 1 箇所のみである。 「救出する」を意味する「エクサイレオー」という 語は七十人訳に頻出し(140 回)、とくに旧約聖書の「救う、救出する(ナー る慰めを与えたことであろう。 新たな世へ向かっての救済は、イエスの死と復活によって決定的となった。 ツァル= lc;n")」の訳語として登場するが(士 18:28; サム上 12:21) 、その中で しかしこれは、今の世の終わりを意味しない。すなわち、「今の邪悪な世」 も「 (敵)の手から救い出す」という慣用表現が目立つ(士 9:17; サム上 7:3; は完了形分詞の「エネストートス」が示すとおり現在も継続する体験である。 10:18; 12:11; サム下 19:10; 22:1; 詩 144:7, 11; エレ 20:13; 21:12; ダニ 3:15) 。新約聖 その意味において、パウロは「開始された終末論」(inaugurated eschatology) 書においては使徒行伝にこの語が頻出するが、その意味はやはり敵からの救 を想定していると言えよう。今の邪悪な世は確実に存在するが、「この世の 助・救出である(使 7:10, 34; 12:11; 23:27)。 有り様は過ぎ去りつつあるからです」(I コリ 7:31)。信者の復活体験は将来 われわれが救出されるべき対象は「今日の邪悪な世」である(エフェ 5:16 のことであるが、霊的な意味においてはすでに来るべき時代を生きているの をも参照。「今は悪い時代なのです」) 。この世界観はユダヤ教の黙示思想を反 であり、この意味においてガラテヤ信徒たちはこの邪悪な世から救出され 映するものである。IV エズラ 7 章 50 節によると、 「至高者はひとつではな ているのである。この開始された終末期において、信徒たちは心を一新して く、二つの世を作られたのである」 。それらは、朽ちるべき世と神の支配す 新たな神の世に相応しい生き方をするように求められるのである(ロマ 12:2。 16 17 日本キリスト教団出版局 NTJ ホームページ掲載見本原稿─ガラテヤ書 2 1:1–5 浅野淳博(2013.6.28 公開) 注解(1:4, 5) 6:4 をも参照)。 「復活の命を生きる」とは屈折した勝利主義とは異なり、む しろ世俗的価値観の再評価を生き様において体現することであろう。この終 末観をとおして、パウロは本手紙の重要な目的である律法遵守と救いの関係 1:1–5 解説 4. 解説 ガラテヤ書の挨拶部は、通常どおり発信者と受信者を紹介して(1–2 節)、 について示唆を与えている。パウロはその特徴的に否定的な律法描写の中で、 挨拶祈祷を記すが(3 節)、そののち慣例から逸脱して感謝部を省いている。 律法を「この世の諸霊」(ガラ 4:3)と同視している。したがって、律法は今 そして、受信者である「ガラテヤの諸教会」には、この教会が神とキリスト の邪悪な世に属するものであり、信仰をとおしてイエスの死と復活の影響下 に属するという通常の権威づけに関わる修飾語が欠如している(2 節)。この にある者は、すでにこの律法の影響から救出されているのである。 ようなパウロの慣例からの逸脱は、発信者であるパウロと受信者であるガ iii. パウロはこの節を「神そして私たちの父の御心にしたがって(κατὰ τὸ ラテヤ信徒たちとの関係を反映していると考えられる。ガラテヤ信徒たちが、 θέλημα τοῦ θεοῦ καὶ πατρὸς ἡμῶν) 」という句によって結んでいる。神はイエスの ユダヤ人教会に帰属する宣教者であるパウロの反対者たちの教えに対して心 復活に関わり、イエスの高揚において至高の名を授け、イエスの死をとおし を向け、パウロが宣教時に教え示した福音から逸れてしまったという報告を た人類の救済計画においても主導権を持っているのである。この神が「私た 受けたパウロは、ガラテヤ信徒たちに対して憤りを抱くこととなった。ガラ ちの父」であることは、神の子キリストとの関係性を示すのみならず、この テヤ書はパウロのやるせない思いとガラテヤ信徒への悔い改めの要請を伝え 救済計画全体が、父の慈愛によって進められていることをも教えている。 る手紙であり、それがゆえに慣例から逸脱した挨拶部を備えている。 パウロは挨拶部の冒頭において、自らの使徒性をことさら強調している e. 1 章 5 節 この父を先行詞とする関係代名詞によって、1 章 5 節は「この神に、栄光 (1 節)。ここでは人間的権威と神的権威が印象的に対比され、パウロの使徒 職が神的裏づけによって正当化されていることを明言する。おそらくパウロ が永遠から永遠まで、アーメン(ᾧ ἡ δόξα εἰς τοὺς αἰῶνας τῶν αἰώνων, ἀμήν)」とい の反対者が、パウロの使徒性をガラテヤ信徒たちの前で否定したのであろう。 う光栄賛詞として、このペリコーペ全体を結んでいる。旧約聖書において ユダヤ地方の原始教会における使徒職理解によって自らの使徒性を正当化で 「栄光(ドクサ= δόξα)」を意味する「カーボード(dAbK')」はイスラエルの畏 きないパウロは、イエスの啓示体験に依拠する神的な権威づけによって使徒 怖と讃美の対象である神の威光である(出 33:22; 詩 26:8; 29:2)。文字どおり としての正当性をアピールし、パウロの反対者たちの批判を牽制した。そし には「永遠の永遠へ」となるべき「エイス・トゥース・アイオーナス・トー てパウロは、異邦人宣教に携わる使徒という明確な自己認識に立って、自ら ン・アイオーノーン(εἰς τοὺς αἰῶνας τῶν αἰώνων)」は、七十人訳聖書に慣用的 が創設した異邦人教会に対して厳しくしたがって切なさに溢れたメッセージ であり(「エイス・アイオーナ・アイオーノス(εἰς αἰῶνα αἰῶνος)」、詩 18:10; 20:5, を発信している。 7; 21:27; 36:27, 29; 131:14; ダニ 13:63)、永遠性を強調する表現である。パウロ パウロは、イエス・キリストの贖罪死、復活、そして黙示的救済における の書簡において頌栄が置かれる場所としては不自然であるが(書簡の末尾に 役割に関わる内容を、この短い挨拶部の中に描き出している(1, 4 節)。ここ 置かれることが慣習)、既述のようにガラテヤ書の挨拶部には感謝部が欠如し にパウロの福音が要約されている。贖罪死が「私たちの罪」のためであれば、 ており、その代替としてこの場所に記されているのであろう。 邪悪な世からの救出の対象も「私たち」である。すなわち、福音をとおして 「私たち」であるパウロとガラテヤ信徒たちは結びついているのであり、こ の「私たち」という代名詞をとおして、パウロはガラテヤ信徒を彼の福音に 今一度誘っている。この福音の要約と勧告は、手紙本論におけるガラテヤ信 18 19 日本キリスト教団出版局 NTJ ホームページ掲載見本原稿─ガラテヤ書 2 1:1–5 浅野淳博(2013.6.28 公開) 解説 徒へのメッセージに対する伏線として、この挨拶部に置かれている。上述し 次回の見本原稿は、ヨハネ福音書注解です。 たように、パウロはその福音を原始教会の伝承に依拠している部分が多いが、 公開は、7 月 25 日ごろを予定しています。 のちにパウロはキリストの福音が人的教示によらず神的啓示によることを強 調する(ガラ 1:11–12)。教会伝承と啓示の関係性に関しては、補遺 3: 「パウ ロの改宗」を参照されたし。 パウロの福音は、神学的なだけでなく政治的なメッセージをも含んでいる。 「主イエス・キリスト」(3 節)という告白は、全主権がカエサルではなくイ エス・キリストにあることを宣言している。また、 「ローマの平和」が邪悪 な世であることを暴露し(4 節)、ガラテヤ信徒が真の安寧を得ることができ るのは帝国の支配体制の内においてではなく、神とイエス・キリストの内に おいてであることが明らかとされる。ローマ属州ガラテヤにおいて被征服民 として抑圧されたガラテヤ信徒たちに、慈愛に満ちた父なる神が全権をおさ める新たな時代の到来がいまやすでに始まっていること、そしてその時代に 終わりがないことを、パウロの福音は告げ知らせている(5 節)。 20
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