( 107 ) 肥料科学,第33号,107∼139(2011) ドクチャーエフの思想がわが国の土壌学に及ぼした影響 永塚 鎭男* 目 次 はじめに 1. ドクチャーエフの思想の概念 2. ドクチャーエフの対外的プロパガンダ活動 3. 生成論的土壌学の集大成 4. 国際土壌学会成立までの経緯(1909∼1924) 5. 国際土壌学会創立以後(1927∼ ) 6. 本格的ペドロジー(生成論的土壌学)研究の開始 7. 第二次世界大戦以後 8. 戦後の土壌調査 9. 土壌情報システム化の時代 あとがき 引用文献 付表 わが国のペドロジー発達史年表 * 元筑波大学教授 Shizuo NAGATSUKA : The Effect of DOKUCHAEF s Thought to Japanese Pedology. ( 108 ) ドクチャーエフの思想がわが国の土壌学に及ぼした影響 はじめに 今日,V. V. ドクチャーエフ(18461903)は世界中で「現代土壌学の父」 と み な さ れ て い る(Demolon, 1949 ; Buol et al., 1980 ; Fitzpatrick, 1980 ; Müller, 1980 ; Krupenikov, 1992) 。彼 以前にも,土壌の生成を考慮し,ペ ドロジーという用語を創始したドイ ツの C. シュプレンゲル(1787-1858) や土壌を単独な生成物として岩石か ら区別した A. ファロウ(1794-1877) , ポドゾルの漂白層や集積層を入念に 研 究 し た デ ン マ ー ク の P. E. ミ ュ ラ V. V. ドクチャーエフ(1846-1903) ー(1840-1926) ,土壌生成過程において気候が果たす役割の重要性を指摘し, また表土(surface soil) ,心土(sub soil) ,底土(under subsoil)といった 用語を創始したアメリカ合衆国の E. W. ヒルガード(1883-1916)など,多 くの先駆者たちがいたことも事実である。それにもかかわらず,ドクチャー エフが「現代土壌学の父」とみなされる理由は,以下に述べるように,ドク チャーエフが土壌に関する新たなパラダイムを展開し,研究・教育・普及・ 実践の分野でそれを積極的に進めたことにあると言えよう。 ドクチャーエフは,土壌の起源および性質・機能などについて,それまで 多くの先駆者たちによって個別的に述べられてきた諸法則を一つの総合的見 解にまとめ, 「自然体としての新しい土壌概念」を提起するとともに,世界 最初の生成論的土壌学講座を創設して土壌学を特殊な研究方法,新たな法則, 新たな概念を必要とする学問として独立させ,最初の成因的土壌分類体系を 発表した。また野外調査を通じて彼の思想の最良の伝道者となるべき多くの 有能な弟子たちを育成し,万国博覧会の展示を通じて彼と弟子たちの研究成 1 ドクチャーエフの思想の概念 ( 109 ) 果を世界にアピールする一方,公立博物館を創設して一般大衆とくに農民に 対する土壌知識の普及活動に努めた。さらには新しい土壌観に基づいた自然 の保護と自然の合理的な開発計画を提案している。 ここでは,ドクチャーエフとその弟子たちによって発展させられた生成論 的土壌学がわが国にどのようにして導入され,日本の土壌学とくにペドロジ ーにどのような影響を及ぼしてきたかについて考察することにする。 1. ド ク チ ャ ー エ フ の 思 想 の 概 念 J. ブレーヌ(2011)は,ドクチャーエフの思想の主要な概念を 1)変化す る独立した自然体としての土壌観,2)自然現象の相互依存性の認識,3)土 壌の成帯性概念の3つに要約している。 1) 変 化 す る 独 立 し た 自 然 体 と し て の 土 壌 観 ドクチャーエフの先駆者たちが,土壌は「岩石表層の細かく砕かれた部 分」であると考えていたのに対して,ドクチャーエフは1833年に出版された 彼の博士論文『ロシアのチェルノーゼム』において,「土壌とは,地殻の表 層において岩石・気候・生物・地形ならびに土地の年代といった土壌生成因 子の総合的な相互作用によって生成する岩石圏の変化生成物であり,多少と も腐植・水・空気・生きている生物を含み,かつ肥沃度をもった独立の有 機 - 無機自然体である」という全く新しい土壌の定義を与えることによって, 土壌が,リンネ以来の植物界・動物界・鉱物界に加えるべき第4の自然界で あることを明らかにした(,1952)。 2) 自 然 現 象 の 相 互 依 存 性 の 認 識 ドクチャーエフは1892年に『わがステップの今昔』を書き,この本の中で, ステップ地帯の自然の保護と自然の合理的開発の計画を提案している(ドク チャエフ,1994)。この計画は,防風垣,池,侵食に対する峡谷の保護,輪 作,作物栽培・草地・林地の交互利用を伴った,世界で知られている最初の 生態学的平衡の計画化である。このような点から,ドクチャーエフは生態学 の基礎を築いた一人ともみなされている(オダム,1974,p. 11) 。 ( 110 ) ドクチャーエフの思想がわが国の土壌学に及ぼした影響 3) 土 壌 の 成 帯 性 概 念 土壌の成帯性という概念がドクチャーエフ土壌学の本質であるという見解 が広く流布しているが,実際は,彼が晩年になってからの著作『自然帯論』 (1899)および『土壌の自然帯,農業地帯,コーカサスの土壌』(1900)の中 で展開されたものである。独立した自然体とみなされる土壌は他の自然の要 素と結びついているために,気候・植生など成帯性をなす要因と土壌生成が 結びついているために,土壌自身が必然的に成帯性をもつようになるのであ って,1) ,2)の概念から必然的に導かれるものと考えられている(ブレー ヌ,2011,p. 163) 。 2. ド ク チ ャ ー エ フ の 対 外 的 プ ロ パ ガ ン ダ 活 動 1889年のパリ万国博覧会において,ドクチャーエフは土壌標本・土壌図・ 説明書の形で彼と弟子たちの研究成果を展示した。パリ国立博物館の教授で あった S. ムーニエはその様子について語ったが,この展示がもつ創造的な 面を実感することはなかったといわれている(ブレーヌ,2011,p. 208)。 この展示は1893年のシカゴ万国博覧会でも展示されたが,この時には,当 時アメリカ合衆国で研修中の学生であった V. R. ウィリアムスがドクチャー エフ・コレクションの展示説明者の役を務めている。後にアメリカ合衆国土 壌調査局長になった M. ホイットニーは,これらの展示された地図・本文・ 標本が持つ科学的重要性に強烈な印象を受け,ドクチャーエフに著作を送っ てくれるように依頼したといわれているが(ブレーヌ,2011,p. 160),その 後彼がドクチャーエフの新しい土壌概念を紹介した形跡は無い。 1900年のパリ万国博覧会では,245点の収集品(地図32,写真,研究報告 81巻,土壌断面193,調査用具 5)が展示された。ドクチャーエフの弟子で 当時ルシャトリエの下で研修中であったヴェルナドスキー(後に地球化学の 創始者となる)が展示の監督を行った(ブレーヌ,2011,p. 210)。この時ヴ ォロネジから送られてきた8立方メートルのチェルノーゼムの土塊が会場に 展示されたが,それがパリの国立農学研究所(INA)に保存されている(ブ 3 生成論的土壌学の最初の集大成 ( 111 ) レーヌ,2011,p. 160) 。 3. 生 成 論 的 土 壌 学 の 最 初 の 集 大 成 1) ド ク チ ャ ー エ フ の 思 想 の 体 系 化 ドクチャーエフの新しい土壌概念に基づいた研究成果を最初に集大成し たのは,世界最初の生成論的土壌学講座の教授となった N. M. シビルツェフ (1860-1900)であった。彼は,土壌学講座の課程を次のように設定している (Krupenikov, 1992, p. 187); ①土壌生成(土壌生成因子とそれらの相互関係) ; ②土壌の形態(多様な土壌型) ; ③化学的,物理的,生物学的研究対象としての土壌; ④土壌学の方法; ⑤土壌の統計と地理; ⑥土壌学と農林業の関係; これをみると,今日の土壌学教科書の構成とほとんど同じになっているこ とが分かる。1900年に出版されたシビルツェフの遺作『Pochvovedenie 土壌 学』は最初の生成論的土壌学概論である。 シビルツェフは1897年にサンクトペテルブルクで開かれた第7回国際地質 学会議で生成論的土壌学について講演した。この会議には,わが国から恒藤 規隆氏が出席しているが,残念ながら情報は伝わらなかった。ドクチャーエ フの『ロシアのチェルノーゼム』が出版された1883年は,ちょうどわが国で, フェスカの指導の下に農業地質学的な土性調査が始まった年にあたり,恒藤 規隆氏はフェスカの直弟子で,後に土性調査の知見を総括して『日本土壌 論』 (1904)を著しているが,その中でもロシア学派についてはふれられて いない。 2) ドクチャーエフの思 想 は グ リ ン カ の 著 作 を 通 し て 世 界 に 広 ま っ た ドクチャーエフの死後1903年から1927年までロシアのペドロジーの指導者 となったのは K. D. グリンカであった。彼は1906年に始まった,300万人の ( 112 ) ドクチャーエフの思想がわが国の土壌学に及ぼした影響 ロシアの農民をシベリアに定住させる ストルイピン計画のための土壌図作成 の仕事を指導した。グリンカの大著 『土壌学学習指針』(1914)の土壌型と その地理的分布に関する部分はシュト レンメによって『世界の大土壌群とそ の生成』としてドイツ語に翻訳されて (Glinka, 1914),中部ヨーロッパに広 まった。さらにアメリカ合衆国ではマ ーバットがこのドイツ語版を英語に翻 訳している(Glinka, 1927)。こうして K. D. グリンカ(1862-1927) グリンカの労作はドクチャーエフ土壌 学の科学的思想を全世界に普及する上 で非常に大きな役割を果たした。 ドクチャーエフとその後継者たちの創始した,独立した科学としての生成 論的土壌学が,当時ヨーロッパ諸国で優勢だった農業地質学派との論争を通 じて融合・調整され,さらには農芸化学や農学とその関連領域で研究をして きた土壌物理,土壌化学,土壌微生物学などの重要性が認識され,国際土壌 学会の設立といった形で現代土壌学が確立されるまでの過程については,久 馬一剛氏が本誌第32号(久馬,2010)で詳細に述べておられるので,読者は それを参照していただきたい。ここでは,若干重複する点もあるが,ドクチ ャーエフと彼の弟子たちによって発展したロシアの生成論的土壌学とわが国 の土壌研究者との関係という観点に限って考察することにする。 4. 国 際 土 壌 学 会 成 立 ま で の 経 緯(1909∼1924) 1) ド ク チ ャ ー エ フ 土 壌 学 と 最 初 に 接 触 し た 日 本 の 土 壌 学 者 1909年,ハンガリーの P. トライツとティムコの発議に基づいて,第1回 国際農業地質学会議(国際土壌学協議会ともいう)がブダペストで開催され 4 国際土壌学会成立までの経緯(1909∼1924) ( 113 ) た。 翌年の1910年に第11回国際地質学会がスェーデンのストックホルムで開催 された折に第2回国際農業地質学会議が開催された。この会議では,土壌図 作成法をめぐって,土壌の成因に基づくべきと主張するグリンカと農業地質 学的方法を主張するヴァーンシャッフェとの間に激論が戦わされ,ラマンが 調停者の役を果したといわれている(麻生,1937,p. 14;ブレーヌ,2011, p. 171)。この会議には,地質調査所長の井上禧之助氏が日本代表として参加 したほかに,当時ドイツに留学していた麻生慶次郎,鈴木重禮の両氏が参加 しているが,二人はエクスカーションに参加してグリンカ,ヒッシンク,ジ グモンド,トライツ等十数名とともにスウェーデン各地における氷河作用に よって生成された土壌及び森林土壌,泥炭土等を視察している(麻生,1937, p. 14)。日本の土壌研究者がロシアの生成論的土壌学と直接的に接したのは, おそらくこの時が最初であったと思われる。 第2回国際農業地質学会議(1910)に参加した鈴木重禮氏は,帰国後,東 北帝国大学農科大学(後の北海道帝国大学農学部)教授となったが,1913年 に37歳の若さで亡くなった。その遺著 『土壌生成論』 (鈴木,1917)の中で, 土層を A,B,C,層にわける土壌断 面の概念を導入するとともに, 「…… 気候帯には雨雪量,蒸発,温度及植物 の影響により各特殊の土壌の形成せら るゝものにして且同一気候帯内にあり ては地質及岩石の相違に関せず常に同 一型の土壌の分布するを見るべし。此 事実は夙にドクチャーエフ氏により露 国の土壌につきて認められたる処にし て其後シビルチェフ氏及グリンカ氏等 は之を以て土壌分類の基礎となしたり 鈴木重禮(1875-1913) ( 114 ) ドクチャーエフの思想がわが国の土壌学に及ぼした影響 (原文のまま) 」 (58頁)と述べて「土壌の成帯性の概念」を紹介しているが, 一方, 「……然れども惟ふに本邦は露国に比すれば地積甚狭小なるのみなら ず到る処山岳重畳して平地に乏しく且一般に降雨多く消磨作用著しく行はれ シビルチェフ氏の所謂無帯地(或は不完帯地)に属する土壌(礫質土,岩屑 土及沖積層土壌)多きを以て気候帯によりて土壌を分類するの法は直ちに本 邦に適用すること能はざるべし(原文のまま) 」(59頁)とも述べ,わが国に 土壌の成帯性の概念を適用することに疑問を抱いている。 他方,1918(大正7)年,菅野新八氏はグリンカの土壌分類体系を紹介し, 「本州は Waldboden の中の Podsol に属し,九州に黄色土,台湾に赤色土の 存在が想像され,東北地方の北部及び北海道に於いて泥炭土,樺太にはポド ソル的土壌が存在するであろう」と述べている(菅野,1918a, b, c)。その 内容はともかくとして,この研究がわが国を土壌帯的に考察した最初の論文 ではないかと考えられている(佐々木,1987,p. 39) 。 1914年に予定されていた第3回国際農業地質会議は第一次世界大戦の勃発 で妨げられ,1922年になってプラハで開かれた。1924年ローマで第四回国際 農業地質会議が開催され,オランダのヒッシンクの提案により国際土壌学会 の設立が決定された。 5. 国 際 土 壌 学 会 創 設 以 後(1927∼) 1) 生 成 論 的 土 壌 学 の 内 容 の 紹 介 と 検 討 の 時 代 第1回国際土壌学会議は,1927年にアメリカのワシントンで開催され,こ の年創設されたドクチャーエフ研究所の初代所長となったグリンカを団長と するロシア代表団がロシアの生成論的土壌学を紹介した。この会議には,わ が国から板野新夫,今関常次郎,渋谷紀三郎,三須英雄ら4氏が出席した。 第2回国際土壌学会議は,1930年にモスクワ及びレニングラードで開催さ れ,わが国から麻生慶次郎,木田芳三郎,小西亀太郎,川島禄郎,突永一枝, 大政正隆ら6氏が出席した。突永,大政両氏は見学団に加わってソ連国内を 巡歴しロシア学派の土壌調査を実際に体験した。 5 国際土壌学会創設以後(1927∼) ( 115 ) 第3回国際土壌学会議は1935年にイギリスのオックスフォードで開催され, 大杉 繁,日野 巌,塩入松三郎の3氏が出席した。 1926(大正15)年から1940(昭和15)年すなわち第二次世界大戦前の時期 における,わが国における主な土壌学研究の一つは,火山灰土壌の風化とコ ロイド組成に関する研究であった。関豊太郎氏はケイバン比と色素率(酸性 フクシンとメチレンブルーの重量比)に基づいて火山灰を粘土質,準粘土 質,酸性準粘土質,準礬土質,礬土質の5類型に区分した(Seki, 1926:関, 1934) 。この研究と併行して,川村一水と船引真吾の両氏は土壌膠質物の研 究に着手している(川村・船引,1934) 。さらに,林 常孟氏はワックスマ ンのα - 及びβ - fraction を含む腐植の化学組成を初めて紹介し,わが国の 種々な土壌の腐植の特徴を明らかにした(林,1938,1939,1941,1942)。 一方,関豊太郎氏はロシア式土壌断面調査法を紹介し,土層の形態的観察 の重要性を述べているが,未熟土や耕地土壌を対象とすることの多いわが国 では,その適用には限界があると考えている(関,1929) 。また同氏は1931 (昭和6)年に,わが国における最初の本格的土壌生成学・分類学の本とい われる『土壌の生成及び類型』(関,1931)を書いたが,そこでは土壌の生 成論的分類としてシビルツェフ(1898)の分類(成帯土壌,帯間土壌,不 成帯土壌) ,グリンカ(1914)の分類(外動的土壌と内動的土壌) ,ラマン (1918)の分類,などを並列的に紹介し,Marbut(1927)の分類はラマンと グリンカの分類を折衷したものとみなしている。この著作では主としてラマ ンの分類にもとづいて世界の主要な土壌型が説明されている。そして「土壌 型は主として断面的形態と化学的性状とにより定むべきであってそれを土台 としてその気候的及び植物的関係を追跡するのが正当な順序である」と主張 している(p. 108)。このような点からみると,ドクチャーエフの思想の要点 の一つである「土壌生成因子の総合的な相互作用」についての理解は必ずし も十分ではなかったのではないかと考えられる。 川村一水氏は1934(昭和9)年に『土壌学講話』を著し,現代土壌学を広 くわが国に紹介した最初の人とされるが,その中で,土壌断面の調査にあ ( 116 ) ドクチャーエフの思想がわが国の土壌学に及ぼした影響 たって, 「運積によりて生じたる層理(bed)と,土層の成熟・分化により て生じたる層位(horizon)との区別をして観察しなければならぬ」と述べ, わが国で初めて「層位」の概念をとりいれ,また溶脱層(eluvial horizon) および集積層(illuvial horizon)なども紹介しているが,ここではまだ風 化作用と土壌生成作用が区別されていない。この頃には,ロシアからユー ゴスラビアに亡命した Stebutt. A. I. の『動的システムとしての一般土壌学 概論』 (Stebutt, 1930)が出版され,関の『土壌の生成及び類型』や川村の 『土壌学講話』にも大きく影響を及ぼしたようである。 2) 生 成 論 的 土 壌 研 究 の 開 始(1925∼) 一方,脇水鉄五郎氏は,当時日本の領土であった樺太(現サハリン)南部 に真のポドゾルを見出し(Wakimizu, 1925) ,三宅康次と田町以信男の両氏 も樺太と北海道北部の土壌型はポドゾルに属し,北海道中部と北海道南部の 土壌型はそれぞれポドゾル性土,弱ポドゾル性土に属すことを示した。同様 に,本州東北部と漸移帯の土壌は弱ポドゾル性土ないし酸性褐色土に属する としている(三宅・田町,1934)。こうしてわが国の土壌の成帯性に関する 具体的な研究が始まった。 ま た 台 湾 に お け る ア ル カ リ 土 と 赤 色 土 の 研 究( 渋 谷,1913 ; Shibuya, 1922) ,満州(中国東北部)およびモンゴルにおける石灰質土と草原土壌の 研究(Tsukinaga, 1932)などが行われた。そして,わが国におけるこれら の土壌研究の成果を出版するために,1927(昭和2)年に日本土壌肥料学会 が創立され,同時に土壌肥料学雑誌が刊行された。 鈴木重禮氏の『土壌生成論』によって最初に紹介され,其の後,シュトレ ムメによってロシア語からドイツ語に翻訳されたグリンカの著作などを通し てわが国に知られるようになったドクチャーエフの新しい土壌概念のうち, 自然体としての土壌の形態の表現である,A,B,C 層位による土壌断面の 観察の重要性は広く理解されるようになったが,土壌生成因子とその相互 作用についての理解はまだ十分ではなく,土壌の成帯性の概念は直接「気候 帯」との関連として捉えられ,その結果, 「非成帯土壌の多いわが国の自然 6 本格的ペドロジー(生成論的土壌学)研究の開始 ( 117 ) 条件下では気候帯によって土壌を分類すことはできない」といった否定的考 え方が支配的であったといえよう。また風化作用と土壌生成作用が区別され ておらず,土壌生成を土壌生成諸因子の総合的な相互作用として把握するこ とも不完全であったと云えよう。その結果,フェスカ以来の農業地質学的な 土性調査が途中から農学会法によってドイツ式からアメリカ方式に修正され たものの,終戦後まで引き続いて行われていた。 また,この時期には,土壌コロイド,土壌粘土鉱物,腐植などに関する実 験室的研究も開始されたが,これら実験室における土壌物質の研究者たちと, 野外における土壌調査者たちとの結びつきが弱かった。 6. 本 格 的 ペ ド ロ ジ ー(生 成 論 的 土 壌 学)研 究 の 開 始 わが国においてペドロジー(生成論的土壌学)の本格的研究が開始された のは1935(昭和10)年前後とみなすことができる。 1) 鴨 下 氏 に よ る 農 耕 地 の 土 壌 型 調 査 1934(昭和9)年,グリンカの『世界の大土壌群とその生成』をロシア語 からドイツ語に翻訳したダンチヒのシュトレムメのもとに約3ヶ月滞在した 鴨下 寛氏は,改めて土壌断面の観察が土壌調査の重要なる根底を為すこと を確認し(鴨下,1961,p. 18),帰国後,1935(昭和10)年より,農耕地の 土壌型調査を開始している。その最初の成果は津軽平野の土壌型として発 表された(鴨下,1936) 。津軽平野の土壌型は,泥炭土,黒泥土,低湿地土, 灰色低地土,褐色低地土の5種の地下水土壌型と鉄銹色森林土,褐色森林土 の2種が気候的土壌型と認められた。 「この調査は沖積地に対する我国に於け る始めての本格的な調査分類であり,又同時にフェスカ以来の新たな我国に 於ける西欧式土壌図法による調査の嚆矢でもあった」 (佐々木,1987,p. 83) 。 2) 大 政 氏 の ブ ナ 林 土 壌 の 研 究 一方,1930年の第2回国際土壌学会議(モスクワ,レニングラード)に参 加して以来,「ドクチャーエフの見解に基く研究が森林土壌の立地学的研究 に最も適切且つ必要である」という考えを抱いていた大政正隆氏は,1937 ( 118 ) ドクチャーエフの思想がわが国の土壌学に及ぼした影響 (昭和12)年より東北地方のブナ林土壌の研究を開始し,本邦のブナ林地帯 の森林土壌を BA,BB,BC,BD,BE,BF,PDⅠ,PDⅡ,PDⅢ,PWⅠ,PWⅡ,PG, G,の13の基準土壌型に分類した(大政,1951) 。この分類方式は基本的に はドクチャーエフの土壌生成論的立場に立つ形態学的手法を受け継いだもの で,図示単位の基本となる土壌型の分類は,地形に基づく水分環境の違いに よる土壌断面形態の違いによってなされている。 こうして,ようやく始まったわが国における生成論的土壌学にもとづいた 土壌調査・研究も,1937(昭和12)年以後の日中戦争・太平洋戦争と続く戦 時体制に巻き込まれ,南洋・中国の華北および東北部・朝鮮での土壌型の調 査・研究が行われたものの,十分な発達をみることができなかった。しかし, こうした困難な情勢にもかかわらず,宮崎 榊氏の森林植生と土壌形態の関 係に関する研究(宮崎,1942)が行われていた。他方,塩入松三郎氏らによ る水田土壌化学,とくに水田における脱窒現象の発見と全層施肥技術の確立 は,戦中・戦後の化学肥料入手困難な状況下における水田稲作の維持のため に大きく貢献した(塩入,1943)。 7. 第 二 次 世 界 大 戦 以 後 1) 戦 後 の 調 査・研 究 の 再 開 と 若 手 研 究 者 の 活 躍 終戦直後に行われた連合軍最高司令部天然資源局による,わが国全土の 予察土壌調査(NRS, GHQ, SCAP, 1948-1951)は,航空写真を利用し,ジー プに調査用具を載せて走り回る機動性とスピードで日本の土壌調査者の目 を見張らせるとともに(鴨下,1961,p. 147) ,アメリカの新しい土壌分類 体系(Baldwin, Kellogg and Thorp, 1938)が日本に紹介された。そのほか に Robinson(1949) , Kubiena(1953)などを通じて,戦時中途絶えていた ヨーロッパやアメリカにおける生成論的土壌研究の情報が入手できるように なった。なかでもリトワニア出身でアメリカのラトガース大学教授となっ た Joffe の『Pedology』 (Joffe, 1949)によって,ドクチャーエフとその弟子 たちによって体系づけられたペドロジーのその後の発展の詳細が伝えられた。 7 第二次世界大戦以後 ( 119 ) この本は農業技術研究所土性部を始め当時の若手研究者たちによってよく読 まれたようである(松井,1979,p. 14)。また菅野一郎氏によって書かれた 『土壌調査法』 (菅野,1953)はペドロジー普及の大きな一里塚となった。こ うしてペドロジーに関心を抱くようになった研究所・大学・農業試験場の若 手研究者を中心として,1957年に「ペドロジスト懇談会」(現在の日本ペド ロジー学会の前身)が結成され,同時に年2回発行の雑誌『ペドロジスト』 が創刊された。こうして,1950年代から1960年代にかけての時期は,実験室 的研究と野外研究を結合して,個々の土壌型の生成論的研究が開始された時 代と言うことができよう。 2) 火 山 灰 年 代 学,土 壌 地 理 学,土 壌 型 の 研 究 山田 忍氏は20年の歳月をかけて北海道の火山噴出物を類別し,各噴出 物の分布区域を調査し,さらにその噴出源を探求して,これを土台に火山 性地を分類するという新たな火山性地土性調査法を提案(山田,1951)する とともに,沖積世における北海道の火山活動の歴史を明らかにした(山田, 1958) 。この研究は世界的にみても,テフロクロノロジー(火山灰年代学) の先駆的研究の一つになっている。 先に述べた鴨下 寛氏の土壌型調査は1946(昭和21)年に農耕地の土壌型 調査として予算化され,同氏はその結果を総括して縮尺80万分の1の日本土 壌図とその説明書を出版した(Kamoshita, 1958)。そこでは,成帯土壌とし て植物被土壌型の灰白土・鉄銹色森林土・褐色森林土・灰褐色森林土・赤色 土・赤褐色土が類別され,褐色森林土の亜型として草原様褐色森林土が示 されている。亜成帯土壌としては地形土壌型の淡色崩積土・暗色崩積土・山 岳土の3つが類別され,間帯土壌として地下水土壌型の泥炭土・黒泥土・低 湿地土・灰色低地土・褐色低地土並びに岩石土壌型のテラロッサと新期火山 灰土が類別されている。これには,気候・生物(人為を含む)・地形・母岩 (母材) ・時間といった土壌生成因子のうち植物・地形・母岩(母材)を重視 したシュトレンメの分類様式の影響が明らかに認められる。 これに対して菅野一郎氏は,火山灰に由来する排水良好地の土壌中にはア ( 120 ) ドクチャーエフの思想がわが国の土壌学に及ぼした影響 ロフェンが比較的多量に存在することから,草原様褐色森林土は成帯土壌 ではなく成帯内性(間帯)土壌に属するとみなし, 「腐植質アロフェン土」 と呼ぶことを提案した(菅野,1961a)。また,赤色土と赤褐色土の間には成 因的にも理化学的性質においても差異がみとめられず,したがって「赤黄 色土」という一つの成帯土壌型にまとめることを提案した(菅野,1961b)。 一方,加藤芳朗氏は東海地方や近畿地方の更新世段丘上に非火山灰起源の黒 ボク土が局所的に分布することを明らかにした(加藤,1970) 。 他方,大政正隆氏らは,湿潤冷温帯気候に属する新潟県下の丘陵上に古赤 色土が存在することを最初に見出した(大政ほか,1957) 。引き続いて松井 健・加藤芳朗両氏は西南日本に分布する赤色土の生成時期・生成環境を研究 し(松井・加藤,1962) ,それに基づいて松井氏は,西南日本に分布する赤 色土のいわゆる「成帯性」に疑義を唱え,西南日本の現在の成帯性土壌型 として「黄褐色森林土」を提案した(松井,1964a)。その後,永塚は古赤色 土,暖温帯の黄褐色森林土,冷温帯の褐色森林土の成因的差異を明らかにし, 東海地方の赤色土と黄褐色森林土の形成過程を第四紀地史の中に位置づけた (永塚,1975) 。 この時期には,土壌の生成・分類学的研究の他に土壌地理学的研究も行わ れるようになった。佐々木清一氏は北海道の土壌の生成論的研究を行い,北 海道の気候的土壌帯図を作成し,各土壌帯の諸性質を明確にし,これら土壌 の農業立地的性質を明らかにした(佐々木,1960) 。また,松井 健氏は土 壌地理学的研究によって下北半島の土壌地域区分を行うと同時に,当地域の 台地上の凝灰質泥を母材とする土壌に対して,わが国で初めて停滞水グライ 土,疑似グライ土の概念を導入した(松井,1964b) 。その後,北海道にお いても,従来「重粘土」とよばれてきた土壌の大部分が疑似グライ土に属す ることが明らかにされた(重粘地グループ,1967)。とりわけ,菅野一郎・ 原田竹治両氏ほかのペドロジストたちによって翻訳出版された『土壌地理学 の基礎』 (ゲラーシモフおよびグラーゾフスカヤ,1964)によって, 「土壌生 成因子―土壌生成過程―土壌の特性」といったドクチャーエフの定式の論理 8 戦後の土壌調査 ( 121 ) 的発展として旧ソ連において発達した「基礎的土壌生成過程」の概念が紹介 され,わが国のペドロジストに大きな影響を与えた。 3) 水 田 土 壌 の 生 成 的 研 究 の 発 展 内山修男氏は,水田土壌の生成過程における灌漑水の影響を認め,湛水期 の還元溶脱,湛水中および落水期の酸化集積の過程を「水田土壌生成作用」 と呼び,浸透性の強弱によって下層土の発達に差異が生じる点に注目し,無 機質水田土壌を褐色酸化型,灰褐中間型,灰色溶脱型,青色還元型の4つの 基本的類型に区分した(内山,1949) 。菅野一郎氏,山崎 伝氏,松井 健 氏らも,水田土壌の独自的生成作用を作土還元による鉄,マンガンの可動 化と,浸透に伴う下降,酸化的下層土での沈積の作用にあるとし,その形 態的発現を重視した分類体系を提案した(Kanno, 1956;山崎,1960;松井 ら,1961) 。さらに三土正則氏は,水稲耕作下の低地土壌全体を泥炭土・黒 泥土・グライ土・灰色低地土・褐色低地土からなる地下水系列と,グライ 土・灰色低地土・褐色低地土が水田土壌生成作用を受け,透水性の違いによ って生じる褐色低地水田土壌,灰色低地水田土壌,停滞水型低地水田土壌か らなる透水性系列の両者によって統一的に理解する分類体系を提案した(三 土,1974) 。 一方,鉄・マンガンの溶脱・集積の化学的反応過程が多くの研究者たちに よって具体的に明らかにされた(塩入・横井,1950,塩入・吉田,1951;川 口・松尾,1958;音羽・小山,1962;和田ら,1970,1971)。さらに浜崎忠 雄氏は,斑鉄の下限が地下水位の変化と最も密接に関係することなど,水田 土壌の形態的特徴と水分環境との関係を定量的,体系的に明らかにした(浜 崎,1976) 。 8. 戦 後 の 土 壌 調 査 1) 農 耕 地 土 壌 調 査 第二次世界大戦後,緊急の食糧増産に対応するため,GHQ によって,初 めて国際的な分類基準で表現された全国の土壌予察図が作られた(http :// ( 122 ) ドクチャーエフの思想がわが国の土壌学に及ぼした影響 ssv199.niaes2.affrc.go.jp) 。ひきつづいて,食糧増産を目的とした低位生産地 調査(昭和22∼25年) ,水田を対象とした施肥改善事業土壌調査(昭和28∼ 36年) ,畑地の生産性の向上を目指した地力保全基本調査事業土壌調査(昭 和34∼53年)が行われた。また桑園施肥改善合理化事業の桑園土壌調査(昭 和30∼38年)および施肥標準試験が実施された(伊東・森,1966) 。 鴨下の体系は農耕地の土壌型調査において本格的な適用の場を見出し,水 田を対象とした施肥改善事業土壌調査に継承発展され,11群51類型へと整備 拡張された。 其の後,小山(1962)は施肥改善事業土壌調査の蓄積を基盤とし,各分類 群の定義の厳密化をはかるため,アメリカの第7次試案(Soil Survey Staff, 1960)の思想を導入して特徴土層と土性の組み合わせにより,水田土壌を7 大群43ファミリーに分類した。これより水田土壌統の拡充が図られ,松坂 (1969)の体系では16大群113土壌統になっている。 この土壌統を基本とする分類体系は,畑地の生産性の向上を目指した地力 保全基本調査事業土壌調査にも適用され,これらの成果は地力保全基本調査 成績書並びに5万分の1の水田および畑地の土壌生産性分級図及び地力保全 対策図に取りまとめられている。 しかし,これらの体系には依然として水田土壌の生成的特徴が反映され ていなかった。こうした欠点は1995年になって,農耕地土壌分類の中に「低 地水田土」が加えられたことによって改善された(農耕地土壌分類委員会, 1955) 。 2) 林 野 土 壌 調 査 第二次世界大戦中及び戦後復興のための過剰伐採によってわが国の山林は 著しく荒廃し,木材資源が枯渇するとともに,下流域においては洪水などの 被害が頻発するようになった。そのため国土保全および木材資源の再生を目 的とした造林の必要性が高まったが,林野土壌についてはほとんど不明の状 態であった。そのために林野庁によるわが国の森林土壌についての総合的な 調査が企画され,林業試験場が担当して昭和22年(1947年)に国有林林野土 8 戦後の土壌調査 ( 123 ) 壌調査事業が開始された。同調査事業は昭和52年(1977年)に終了し,最終 的には縮尺2万分の1土壌図によって国有林の79%がカバーされている。一 方,民有林を対象とした適地適木調査事業も昭和29年(1959年)に開始さ れ,土壌図,適地適木表および適地適木調査説明書が作成された。当初は縮 尺5千分の1の土壌図が作成されたが,昭和44年から調査のスピードアップ を図るため,縮尺5万分の1土壌図に変更された。この調査事業は昭和57年 (1982年)に終了し,最終的な民有林カバー率は平均56%であった。したが って,わが国の森林土壌調査のカバー率は,平均63%である(「日本の森林 土壌」編集委員会,1983) 。 これらの林野土壌調査は,前に述べた大政氏の分類方式によって進めら れたが,その間に進んだ,津軽半島,下北半島のヒバ林地帯における森林 植生と土壌の関係の研究(山谷,1962)や小笠原・沖縄諸島の祖国復帰前後 に行われた亜熱帯林土壌の研究(黒鳥・小島,1969)などの成果を踏まえて, 「林野土壌の分類(1975) 」が作成された(土じょう部,1976)。この分類の 最大の特色は土壌群と土壌型の間に土壌亜群を設けたことであり,褐色森林 土群を暗色系褐色森林土・表層グライ系褐色森林土・褐色森林土(標準) ・ 黄色系褐色森林土・赤色系褐色森林土の5土壌亜群に区分したのをはじめ, 他の主要な土壌群についてもそれぞれ2ないし3の亜群区分をおこなってい る。 3) 国 土 調 査 の 土 壌 調 査 一方, 「国土の開発及び保全並びにその利用の高度化に資するとともに, あわせて地籍の明確化を図るため,国土の実態を科学的且つ総合的に調査す る」(国土調査法第1条)ことを目的に,昭和26年(1951年)以来,国土調 査法に基づいて土地分類基本調査の土壌調査が開始された。この土壌調査は 林業試験場(現森林総合研究所) ,農業技術研究所(現農業環境技術研究所) , 都道府県林業および農業試験研究機関,大学などの土壌調査専門家を総動員 して行われ,平成18年度までに全国土の約80%が縮尺5万分の1土壌図でカ バーされている。従来の農耕地土壌図や林野土壌図は,一つの図幅内で農耕 ( 124 ) ドクチャーエフの思想がわが国の土壌学に及ぼした影響 表1 わが国における戦後の土壌調査 年次 農耕地土壌調査 林野土壌調査 国土調査の土壌調査 低位生産地一般調査(1947- 国有林林野土壌調査事業開始 1947(昭和22)年 1950). (1947-1977) . 1948(昭和23)年 土性調査終了(全国55図幅, 北海道を除く). 大 政 正 隆『 ブ ナ 林 土 壌 の 研 国土調査法制定.土地分類基 究』. 本調査開始. 1951(昭和26)年 1952(昭和27)年 耕土培養法の制定 1953(昭和28)年 施肥改善事業土壌調査(水田 対象,1953-1961). 民有林適地適木調査事業開始 1/5万土地分類基本調査開始. (1954-1982) . 1954(昭和29)年 1955(昭和30)年 桑園施肥改善事業土壌調査 (1955-1963) 1959(昭和34)年 地力保全基本調査事業土壌調 査(1959-1974). 1961(昭和36)年 農業基本法の制定. 1962(昭和37)年 小山正忠,アメリカの第 試案の思想を導入. 次 1964(昭和39)年 土地分類細部調査開始. 1/50万 土 地 分 類 基 本 調 査 (1967-1969) .1/20万 土 地 分 類基本調査 (1967-1978) . 1967(昭和42)年 1975(昭和50)年 地力実態調査(1975-1978). 1979(昭和54)年 土 壌 環 境 基 礎 調 査(19791999). 1995(平成 農耕地土壌分類(第 次案) に「低地水田土」が入る. )年 土じょう部『林野土壌の分類 (1975) 』 . 地土壌だけ,あるいは森林土壌だけしか表示されていないので,図幅内全体 の土壌についての情報が必要な場合には極めて不便であったが,この土壌調 査によって,初めて,1つの図幅内の林地・農耕地を含む全ての土壌が図示 された土壌図が作成されるようになった。しかし,上述のように,農耕地土 壌と林野土壌では分類システムが異なり,分類単位も分類基準も異なってい るため,土地分類基本調査における土壌図の凡例は両者の折衷的なものとな っており,一貫した1つの分類体系で示されていないという大きな欠点をも っている。 しかも,縮尺2,500∼10,000分の1程度の大縮尺の土壌図と説明書の作成 を目的とする土地分類細部調査の土壌調査は昭和39年度から開始されたが, 9 土壌情報システム化の時代 ( 125 ) 遅々として進まず,今日までに151市町村で実施されたにすぎないという状 況である。とくに,平成16年の小泉内閣の「三位一体改革」による国から地 方への税源移譲によって土地分類調査補助金が平成17年度から廃止された結 果,その後,土地分類細部調査を実施した市町村は1つもないというのが現 状である(永塚,2008) 。お隣の韓国では,すでに1/5千の大縮尺土壌図で全 国がカバーされているのに比べて,わが国の土地分類細部調査はきわめて遅 れていると言わざるを得ない状況にあり,速やかに促進されることが望まれ る次第である。 4) わ が 国 の 統 一 的 土 壌 分 類 体 系 の 必 要 性 これまでに述べてきたことから明らかなように,わが国の土壌調査は農耕 地土壌と林野土壌がそれぞれ異なった機関により,異なった分類方式に基づ いて実施されてきたために,全国土が一貫した1つの分類体系によって示さ れていないという大きな欠点をもっている。こうした難点を克服するために, ペドロジスト懇談会は長年にわたる検討の結果,日本の統一的土壌分類体系 (第一次案)(ペドロジスト懇談会土壌分類・命名委員会,1986)を提案し, これに基づいた日本土壌図(1:1,000,000) (ペドロジスト懇談会土壌分類・ 命名委員会,1990)を作成し,第14回国際土壌学会議(1990年,京都)の会 場に展示した。さらに2002年には第二次案が発表された(日本ペドロジー学 会第四次土壌分類・命名委員会,2003)。しかし,全国的な土壌調査は未だ に統一された土壌分類方式で行われていないのが現状である。 9. 土 壌 情 報 シ ス テ ム 化 の 時 代 1) 紙 土 壌 図 か ら 土 壌 地 理 情 報 - デ ー タ ベ ー ス へ 土壌調査の成果を公開・提供することは,専門家や行政当局の政策立案に とって必要であるばかりでなく,一般大衆との知識のギャップを埋め,自分 が住んでいる土地の土壌についての知識を深め,土壌保全の大切さを理解し てもらうためにもきわめて重要である。そのため,土壌情報をインターネッ ト上で容易に得られるシステムの構築が世界各国で進められており,EU で ( 126 ) ドクチャーエフの思想がわが国の土壌学に及ぼした影響 図1 EU レベルの土壌研究組織(永塚・八木,2007) は,2006年に土壌保護法が制定され,それに基づいて欧州土壌局ネットワー クが作られ,各国の土壌情報がインターネット上で公開されている(図1) 。 わが国の状況はどうかといえば,農耕地土壌については,①農林水産省の 事業として,地力保全基本調査の成果である5万分の1農耕地土壌図と代表 土壌断面データをデジタル化し CD-ROM に収録したものが「地力保全土壌 図データ CD-ROM」として財団法人日本土壌協会から市販されており,ま た②農業環境技術研究所が全国の農耕地土壌の分布と土壌分類の解説を示し た GIS(http ://agrimesh.dc.affrc.go.jp/soil_db/)を公開しているが,林野 土壌については,まだ研究段階で,一般に利用できるようなかたちでは公表 されていない。また国土調査の縮尺5万分の1土地分類基本調査の土壌図並 びに説明書が,平成14年末から国土交通省国土調査課によって,インターネ ット上に公開されているが,これには土壌の理化学的性質などのデータベー スは含まれていない(http ://tochi.mlit.go.jp/tockok/) 。 図2 「全国土壌情報システム」構築プロジェクト(案) (永塚,2003) 9 土壌情報システム化の時代 ( 127 ) ( 128 ) ドクチャーエフの思想がわが国の土壌学に及ぼした影響 2) 土 壌 情 報 の 一 元 的 管 理 の 必 要 性 世界に先駆けて全国的土壌調査を開始したわが国が,土壌情報システム 化の点で EU よりも20年近く遅れてしまった原因は一体どこにあるのだろう か? その主な原因は,地形調査が国土地理院,地質調査が地質調査所(現 産業総合科学研究所)といった単一の機関によって行われているのと違って, 土壌調査が林野土壌と農耕地土壌とでは異なる機関によって,異なる方法で 行われてきたことにあり,その結果,林野と農耕地を合わせた土壌図データ ベースは国土交通省に,分析データベースは農林水産省(林野庁)および各 都道府県で分散して管理されてきた点にあると考えられる。 この重要な問題については,日本学術会議(第18期)土壌・肥料・植物栄 養学研究連絡委員会が平成15年6月に,国家として土壌情報を一元的に収 集・管理し,国民に提供するための「土壌資源情報センター」の緊急な設置 を提案している(日本学術会議(第18期)土壌・肥料・植物栄養学研究連絡 委員会,2004)。 3) 「全 国 土 壌 情 報 シ ス テ ム ネ ッ ト ワ ー ク」の 提 案 「土壌資源センター」の設立は誰しも切望するところであるが,その実現 のためには更なる努力と時間が必要である。それと並行して,図2に示し たような, 「全国土壌情報システム」の構築が提案されている(永塚,2003) 。 これは,国土調査の土地分類基本調査をスタートさせた時と同じように,国 土交通省の国土調査課が音頭をとって,関係各省庁および都道府県に働きか け,それぞれの合意が得られれば直ぐに実行できることであり,新たな財源 を必要とせず,法的には国土調査法の運用ですむことと考えられる。必要な のは,関係各省庁のモチベーションと,それを促す政治家のリーダーシップ であり,それに働きかける土壌研究者の統一的な努力であると考えられる。 4) ペ ド ロ ジ ス ト に 課 せ ら れ た 課 題 今日,土壌学は多くの専門分野に分かれ,それぞれの分野では高度に発達 した先端的な技術を駆使して精密な分析データが速やかに得られるようにな り,個々の研究者はこうして得られた多量のデータをコンピューターによっ あとがき ( 129 ) て迅速に解析できるようになってきた。しかし,土壌学の場合,ペドロジ ー・土壌微生物・土壌物理・土壌化学などの専門家が,同一の土壌断面につ いて共同して調査し,その結果を総合的にまとめるといった,いわゆる団体 的研究が極めて少ないのが現状ではないだろうか? これでは,土壌劣化・ 土壌侵食・圧密化・塩類化・排水不良・土壌炭素貯留問題・土壌生物多様性 など,現実の土壌で起こっている多くの山積した問題を解決するにはきわめ て不十分である。現代土壌学は,ペドロジーという総合的アプローチと,メ カニズムの分析を主とする分析的アプローチを弁証法的に統一する必要性に 直面していると言われている(ブレーヌ,2011,p. 354) 。 ドクチャーエフは,個別的な研究を総合して新しい土壌のパラダイムを展 開し,独立した学問としての生成論的土壌学を建設し,それに必要な研究・ 教育組織を作るために奔走し,野外調査を通じて彼の思想の最良の伝道者と なるべき多くの有能な弟子たちを育成し,最初の公立博物館を創設して一般 大衆とくに農民に対する土壌知識の普及活動に努めた,さらには新しい土壌 観に基づいた自然の保護と自然の合理的な開発計画を提案した。こうしたド クチャーエフの思想と行動こそ,現代の土壌研究者の一人ひとりに課せられ た任務であり,課題ではなかろうか。 あとがき 本稿を書きながら改めて痛感したのは,ドクチャーエフの『ロシアのチ ェルノーゼム』の原典が未だに日本語にほん訳されていないということで ある。福士定雄氏が訳された『V. V. ドクチャエフ ロシアのチェルノジョ ーム』という私家本(福士,1995)があるが,これはドクチャーエフが1885 年に少年少女向きに要約して,大衆誌『処女地』No. 18に書いたもののほん 訳であり,この中には明確な土壌の定義は見当たらない(, 1885)。 筆者はロシア語に弱いので,未だに原典を通読できないでいるが,筆者が知 る限りでは,日本で見ることの出来る,ドクチャエフの「ロシアのチェルノ ーゼム」の原典には . . 1952. ( ( 130 ) ドクチャーエフの思想がわが国の土壌学に及ぼした影響 ) , pp. 635, , .(ドクチャエフ,B. B., 1952. ロシアのチェルノーゼ ム(第2版) ,pp. 635,国立農業文献出版所,モスクワ)がある。この本の 63∼65ページに初版(1883)の著者の序文が載っており,その中で“土壌は, 当該地域の気候,動植物,母岩の組成と組織,地形そして最後に地域の年齢 の非常に複雑な相互作用の結果として出現する”という記述が見られる。 土壌学においてドクチャーエフが占めている地位は,地質学における C. ライエルや生物学における Ch. ダーウィンのそれに比肩されるべきもの である。ライエルの『地質学原理』や ダーウィンの『種の起原』はすでに いくつかの日本語訳が出版されているにもかかわらず,ドクチャーエフの 『ロシアのチェルノーゼム』の日本語訳がないことは,きわめて奇異な感じ を禁じえない。地質学や生物学に比べて土壌学が若い学問とはいえ,すでに 100年以上経過している。このあたりで,ロシア語に堪能な若きペドロジス トたちによって,『ロシアのチェルノーゼム』の日本語版が出版されること を期待してやまない。 注) なおイスラエル科学翻訳プログラムによる『 (ロシアのチェルノーゼム) 』の英訳版(N. Kaner 訳)が1967年に出版 されているが,現在は入手困難である。 引用文献 麻生慶次郎(1937):土壌学Ⅰ,岩波全書,pp. 197,岩波書店. Baldwin, M., Kellogg, C. E. and Thorp, J.(1938): Soils & Men, Yearbook of Agriculture, 979-1001, USDA. Buol, S. W., Hole, F. 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(初代局長ホイットニー). 1898(明治31)年 恒藤規隆,地質調査所土性課長となる. 1899(明治32)年 農事試験場に農芸化学部設置. 1900(明治33)年 1904(明治37) 年 恒藤規隆『日本土壌論』,土性調査の総括. 地質調査所土性課は農事試験場に移管されて 1905(明治38)年 土性部(初代部長は鴨下松次郎)となり,土 性調査を続行. ドクチャーエフ『自然帯論』. 『Pochvovedenie』の創刊. シビルツェフの遺作『Pochvovedenie 土壌 学』 (フランス語)の出版,最初の生成論的 土壌学概論. パリ万国博覧会開催. 付 表 ( 137 ) 1907(明治40)年 麻生慶次郎・村松舜祐『土壌学』. 第 回国際農業地質学会議開催(ハンガリー, ブダペスト). 1909(明治42)年 第 回国際農業地質学会議(スェーデン,ス 第 回国際農業地質学会議開催(スェーデン, 1910(明治43) 年 トックホルム)に麻生慶次郎,鈴木重禮の両 ストックホルム). 氏が参加. 1912(明治45)年 酸性土壌調査事業(全国の公共機関圃場対 ゲドロイツ,土壌の交換容量と吸着能を定義. 象). 1913(大正 )年 渋谷紀三郎,台湾のアルカリ土の研究. 1914(大正 )年 大工原銀太郎,無機質酸性土壌の発見. 1915(大正 )年 1916(大正 )年 1917(大正 鈴木重禮の遺著『土壌生成論』出版,土壌断 )年 面の概念を導入. 1918(大正 )年 菅野新八,わが国の土壌帯を論ず. コフィー,『アメリカ合衆国の土壌の研究』 . グリンカの著作の一部が『世界の大土壌群と その生成』としてシュトレムメによりロシア 語からドイツ語に翻訳される. 『Soil Science』の創刊. 1922(大正11)年 渋谷紀三郎,中国東北部およびモンゴルにお 第 回農業地質学会議(プラハ),わが国か ける石灰質土と草原土壌の研究. らの参加者なし. 1924(大正13)年 第 回農業地質学会議に木田芳三郎,板野新 第 回農業地質学会議(ローマ), 夫の両氏が参加. 国際土壌学会(ISSS) の設立. 1925(大正14) 年 脇水鉄五郎,樺太南部にポドゾルを見出す. 1926(大正15) 年 日本農学会法の制定(ドイツ式からアメリカ 農務省方式へ転換). 1927(昭和 第 回国際土壌学会議(ワシントン). 第 回国際土壌学会議に板野新夫,今関常次 ドクチャーエフ研究所の創設(セントペテル ブルク). )年 郎,渋谷紀三郎,三須英雄の 氏が出席. 日本土壌肥料学会創立,土壌肥料学雑誌創刊.Neustruev, S. 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