1 中世キリスト教指導者層による 騎士理念の構築と称揚 林 亮 1. はじめに 研究の概要 M・ブロック 1) が示し,J・ル・ゴフを代表とするフランス中世史家達 2) が描き出したように, 騎士理念(militia, knightfoot, chevalerie)とは,ヨーロッパ中世の長い期間を経て,一定の 共通価値観を持つ一体的な貴族身分指標として確立されるものである。この概念は,共に中 世初期から徐々に組み立てられていった,ゲルマン従士制度を基底とした封建的社会身分秩 序と,キリスト教的社会身分秩序とが合わさり構築されてゆく。そして,中世中期以降の西 欧世界の根底を成す要素のひとつとして必要不可欠なものとなった。それゆえ,この理念の 形成と発展の過程を追うことは,ヨーロッパ中世社会を理解するうえで重要な作業と考えら れる。こうした目的意識から,本論では,1100 年前後のキリスト教指導者層の史料を用いて, 彼らによる騎士身分(を含む世俗領主層)への働きかけを分析する。 なお,本論で取り上げる騎士身分とは,フランスの研究者 G・デュビィ 3)や J・フロリ 4) が述べるように,中世後期以降には貴族身分が普遍的に帯びる指標(タイトル)としての「騎 士」 (miles)の原型となる,騎馬戦士として主君への軍務奉仕を行う者たちを中心とした社 会階層のことである。デュビィが構築した図式に従えば,この,miles という呼び名で史料 に現れる騎馬戦士は,そのラテン語の原義的に奉仕者,従属者としてのニュアンスが濃く, 中世初期段階においては貴族,すなわち支配者層には用いられることなく,彼らとは区別さ れる存在であった。むしろそうした世俗戦士層は,フランクの崩壊以後は特に,野盗の類と 同一視され,社会的混乱と無秩序を引き起こす者としてキリスト教指導者達からは糾弾され る存在であった(聖職者のそうした意思は「神の平和」運動に現れる) 。しかし,封建的主 従関係の構築の進展など様々な要因による複雑なプロセスを経て,理念的な騎士身分の存在 が重視され,社会秩序に組み込まれていくようになる 5)。ひとつの重要な要因として,十字 軍運動 6)が挙げられる。この点については,十字軍史家でもあるフロリがその研究の一環 として指摘している 7)。 この十字軍の発端である第一回十字軍遠征において,教皇庁はフランス諸侯(とその兵士 2 中世キリスト教指導者層による騎士理念の構築と称揚 である騎士層)をその軍団として期待していた。つまり本来は戦争という,暴力を否定し社 会的無秩序を助長する世俗戦士層を非難する立場であるはずのキリスト教指導者は,彼ら世 俗の戦士達に神の尖兵として中東の異教徒に対する巡礼者の盾という役割を与えていくので ある。これは,中世ヨーロッパ社会全体の社会秩序と理念形成を司るキリスト教指導者達に よる,画期的な思想の転換であり,そこに騎士身分理念の形成が重視され,またその称揚が 必要となる要因が生まれるのである。 本論では,デュビィやフロリの先行研究に対する検証と批判を進める上で,当時のキリス ト教指導者による論説を幾つか取り上げて検討する。具体的な対象としては,十字軍とそれ にかかわりの深い修道騎士に関わるテキストを用いる。検討のための中心的素材としてはク レルヴォーのベルナールの著作,De Laude Novae Militiae: Ad Milites Templi を用いる 8)。こ れは,当時のキリスト教会で多大な影響力を持っていたクレルヴォー修道院長ベルナールが テンプル騎士団の創設者ユーグ・ド・パイヤンの要請を受けて作った,騎士団の会則の基礎 的文書であり,そこには当時のキリスト教聖職者による騎士像の理想形が描かれている。こ れに加えて教皇ウルバヌス 2 世の第 1 回十字軍遠征の呼びかけや,その他当時の思想家達に よる騎士層への評価の史料からイメージを補強する 9)。 騎士理念の形成と十字軍運動との関連性自体については,フロリや D・バルテルミが指摘 しており 10),構図そのものは既に定説と言ってよいものであるが,その意味付けにおいて は幾つか問題があると考えられる。バルテルミにおいては十字軍や聖戦理念と騎士理念との 関連性の把握についての不明瞭さが指摘できる。一方で,フロリは 12 世紀においてイング ランド(ノルマンディ地方を含む)の優位性を強調し,フランス王国内における騎士理念の 後進性を指摘している。しかし,例えば第一回十字軍が特にフランスの諸侯・騎士達による 軍団を中心としていたことを考えてみても,そうした単純な図式化が当てはまらないことは 明らかである 11)。 本論においては,カトリック教会指導層による騎士称揚の対象である騎士達が,まさにフ ランスの騎士であったというその点において,フランス独自の騎士理念形成の道筋を指摘し たい。 《 miles 》指標と騎士理念 騎士身分という身分集団の形成においては,《miles》= 騎馬戦士として主君への軍務奉仕 を行う者たちの職務や権利の側面の展開過程と,イメージ上の騎士理念の側面が形作られる 過程とが必ずしも一致せず,それぞれが別個に発展していく状況が見られる。つまり,一方 で《miles》として認識される社会集団がおり,他方で彼らそのものとは別に騎士の理念が イメージされていたのである。 12 世紀以前段階のフランス王国では一般的にみて,この騎馬戦士 =《miles》層は,国王 を頂点とする世俗貴族の諸階層の末端に位置する中小領主,城付き騎士層を指し示した。彼 中世キリスト教指導者層による騎士理念の構築と称揚 3 らは「非城主家系」 「騎士家系」,或いは「平騎士層」として分類される。この点から見て, 彼ら自身は貴族と見なされていない。彼らが《miles》の指標でもって示された一方で,明 らかな貴族は, 《nobilis》や《dominus》の呼称を用いた。miles はあくまで《nobilis》に従 属する者として区別されていたのである 12)。 miles 層が仕えたのは,城を中心として周辺地域を実効的に支配する伯や城主といった高 位の貴族であった。主君の城主支配権を確固たるものとするために権力を行使する兵士であ る一方で,彼ら自身もまた己の実力を示し,一国一城の主たらんとして周辺の同輩者と勢力 を競う領主であった。そうした競争は当然暴力を伴い,弱者である農民や教会人に甚大な被 害をもたらしていたのである。彼ら自身はその暴力の行使を当然の権利として高らかに謳い あげ自由に振舞ったが,カトリック教会から大きな反発を生むこととなり,それは「神の平 和」運動に結びつくのである 13)。 このような騎馬戦士たちに,今日で言うような 騎士道 的な規範,理念,イデオロギー はなく,その行動理念から伺えるのはゲルマン部族時代からのエリート戦士としてのアイデ ンティティーであっただろう。彼らはカロリング期から続く高位貴族層と血縁的に結合して いく一方で,伯や城主といったフランク王国に由来する公権力を分有する勢力の末端とし てその権力を行使して一体化してゆく。この過程,つまり封建的主従関係が様々な側面か ら構築されて行き,貴族層と騎士層との社会的な一体化が進むうちに,貴族 =nobilis と騎士 =miles の指標も融合していったと考えられる 14)。更には次章以降に見るように miles の語の 持つ意味自体が,カトリック教会の意図によって正当化,高貴化し,またそこに付随するイ メージとしての騎士像,すなわち騎士理念が形成され,両者が一体となってキリスト教封建 社会たる西ヨーロッパ社会の秩序の一端として組み込まれてゆく。ここに,《miles》の語に 一定の価値基準のおかれたひとつのイメージ,すなわち騎士理念が生まれるのである。 この両者の融合の過程については,デュビィや E. ブルナゼルを始めとして,フランスの 多くの地域研究によって大部分が明らかになっており,ある程度の定説となっているといっ て良いだろう 15)。そうした理解に従えば,大雑把にフランス全体を通してみた場合,地域的 に見て,主に中南部から南部では貴族層と騎馬戦士層との融合が比較的早く起こり 16),そ こから中部 17),北部 18) へと同様の状況が順次見られていく。 研究の範囲とフロリのノルマンディ研究 上記で触れたように,騎士身分は中世の長い期間を経て,幾つもの段階を踏んで社会層と して形成されてゆくものであり,その形成過程は複雑で地域的差異も大きく,西欧全体を一 律に語ることは実態に即しているとは言えない。英仏独はもちろん,地中海沿岸地域なども 独自の発展を遂げるものであり上述のようにフランス王国内ですらその時期には格差が見ら れる。それらを網羅するのは本論の範疇を大きく逸脱しているので,ここでは基本的に考察 をフランス王国の,特にカペー家王領地を中心とした北仏中部域と,比較対象として英領ノ 4 中世キリスト教指導者層による騎士理念の構築と称揚 ルマンディ地方について扱うこととする。 そして,フロリはこの騎士理念の 12 世紀頃における先進発展地域として,ノルマン王朝 領内(イングランド及びノルマンディ)を挙げて,そこでの理念形成について,主にオルデ リック・ヴィタール 19) の著作『教会史』を元に以下のように分析している。 まずフロリはノルマンディにおいてヴィタールが,騎士を二種類に分類していることに注 目する。ヴィタールは,騎士を「悪い騎士」と「良い騎士」とに分類し,カトリック教会に 危害を加える者たちは悪い騎士であり,修道院への寄進を積極的に行い,生涯の終わりに自 ら修道院に入るような者は良い騎士なのだとする 20)。 次いで,ノルマン王朝領内の用兵上の特徴を分析する。 フロリによると,ノルマン・コンクェ スト以降,11 世紀から 12 世紀にかけてノルマン朝イングランド王たちは,フランスやノル マンディのモデルに従って,イングランド地方に封建制の導入を進めていった。しかし,イ ングランドに移植された封建関係による騎士たちにより構成される封建軍は十分ではなかっ たため,それを補うために傭兵の招集が行なわれた。そこには騎馬戦士層も含まれており, 封土を持たないような平騎士たちにとっても絶好の活躍の場であり, 彼らは 自らの剣によっ て 生きることができた(封建領主としての騎士たちもやはり, 封建契約による軍役奉仕(ost) の枠外として戦争に参加する場合は同様に傭兵として雇われた) 。12 世紀の初め頃には,イ ングランドやノルマンディ地方では,傭兵騎士を雇うことが普及していた。彼らの役割は, 12 世紀を通じて,着実に増加した。 こうした現金による雇用により,アングロ = ノルマン諸侯は傭兵騎士の軍を形成すること が可能となり,彼ら傭兵騎士たちによる奉仕は次第に恒常的かつ長期的になり,信頼の置け るものとなっていった。実際,傭兵騎士は,今後はその他の傭兵たちと並んで存在すること になる。したがって,歩兵を卑しむ上級戦士としての騎士的概念が成立する。つまり,歩兵 というのは下層の出身で,卑怯な戦い方をし,弓を持って遠くから攻撃を仕掛け 21),卑怯 にも騎士的な一騎打ちの作法に敬意を払うことがない。更には,馬上から落ちた騎士が地上 では鎧によって身動きの取れない歩兵にすぎなくなるので,ナイフでもって騎士を殺してし まうのである。 こうして,傭兵たちは 2 種類に明確に分類することができるようになる。一方は,恥ずべ き方法で戦い,禁じられた武器で戦う者たちである。他方は,飛び道具を放棄し,新しく生 まれた戦法を活用する,高貴な戦争の専門家となった。後者,つまり騎士は馬上で戦い,槍 と剣を持ち,楯を腕に構え,立派な紋章を描いた。打ち破った相手を殺すことはなく,何よ りこのことは勝敗が逆転した場合に彼の未来を保障することとなった。これは収入を得る方 法にもなった。なぜなら,敗者は身代金と交換されるか財産を譲らなければならなかったた めである。こうした,今日でいう騎士道的な戦場における規範を形成していったのは傭兵騎 士たちであり,この傭兵軍が発展したのはノルマン朝イングランドの地域である。それゆえ フロリは,騎士的理念が発展したのはまさにこの地域においてであった,としたのである。 中世キリスト教指導者層による騎士理念の構築と称揚 5 このように,騎馬戦士の職務を行う者たちのうち,まず当時のイデオロギー形成の指導者 である教会に認められ(キリスト教にかなう職業倫理的規範を持つ),それによって公権力 の保持者の守護者性(弱者の保護者たる立場)を持ち,その担い手が継続して傭兵として現 金で雇用されることで生まれる職業専門家的な集団が,すなわち「良い騎士」として認めら れ,騎士理念を持つ対象となるのである 22)。 フロリが描くような,こうしたカトリック教会の聖職者たちによる騎士理念の形成が,具 体的にどのような理論的発展の結果として作り上げられたのかを, 次章にて明らかにしたい。 2. 戦争或いは《miles》層に対する教会の対応の変遷 古代から中世前期に到るまでの経過 非常に一般的な理解として,キリスト教の原則は一種の「非戦論」にある 23)。つまり, 剣 をとる者はみな, (己の)剣で滅びる 24) という立場なのである。しかし,当然のこととし て,理論的なレベルでも,現実的・政治的なレベルにおいても,キリスト教が戦争というも のを完全に否定できず,ともすれば積極的に肯定する局面すら生じているのは歴史における 明確な事実であろう。こうしたキリスト教の理論・現実両面における戦争との関係性を理解 することは,戦争を指導し遂行する実体である,中世ヨーロッパの封建貴族層・騎馬戦士層 の理解とも深く関わるものであり,本論における重要な柱の一つともなる。したがって,12 世紀頃までにおける,キリスト教,特に戦争に対してローマ・カトリックの取ったスタンス を整理し把握することは必要不可欠なこととなる。同時に,特に中世以降における,戦争の 遂行者である世俗戦士層に対する教会の理解,対応についても確認してゆく。 まず,キリスト教が誕生した古代ローマ時代において,2 世紀頃までの初期キリスト教は 原則論に忠実であった。それゆえ,「戦い」という行為と「信仰」とは,明確に対置され, 戦争に参加することは否定された。これが一般的な理解であり,それゆえにキリスト教徒の ローマ軍団兵士の軍務拒否やそのための殉教といった逸話を生んだとされる。ただ,これは 木寺廉太など古代キリスト教史家によれば後世の印象による幻想的な側面が強く,実体とし てはその性質は異なるものであったと言われる 25)。まず,2 世紀半ばまではキリスト教徒の 兵士自体の存在が殆ど確認できず,従ってキリスト教の教義のための軍務拒否や殉教もあり えなかった。その後,2 世紀前後から徐々に史料に確認されるようになり,兵役忌避の例が 出てくるが,これも東方では兵役容認の傾向が強かったようである 26)。そして,3 世紀に入 ると,211 年のテルトゥリアヌス『兵士の冠について』の例にみられるように 27),兵役忌避 がキリスト教の教義として推奨されるようになる。これは別の面から見れば実際にキリスト 教徒の兵士が多かったことを示すものとも捉えられる。その後,ローマ軍団兵におけるキリ スト教徒はかなりの割合になっていったと見られる。ただし,そもそもここでいう「軍務拒 否」 「兵役忌避」は,キリスト教の「非戦論」のためというより,単純に軍団が行う宗教的 儀礼行為(皇帝礼拝など)への参加拒否という意味合いが強い。つまり,キリスト教徒が兵 6 中世キリスト教指導者層による騎士理念の構築と称揚 士として戦争に参加することを拒否したのではなく,キリスト教の神以外の者,ローマ皇帝 を礼拝することを拒否したことが,軍務拒否として処罰対象になり,結果的に刑死し,それ が殉教と捉えられたというのが実際のところのようなのである 28)。 しかし,その性質がどうあれ,ともかくキリスト教徒であることが戦争への参加の否定に 繋がるという事実には変わりはなく,またそうした事実から「非戦論」という立場自体が作 られていったという側面もあり,3 世紀までのキリスト教は基本的に戦争に否定的であると 見ることは可能であろう。それが,大きく方針転換を行うのが,ローマ帝国によるキリスト 教の国教化である。以降,神の国としてのローマのための戦いは肯定されるものであり,必 要悪としての 正しい戦い (聖アウグスティヌス)という概念が組み上げられていく。314 年のアルル教会会議(ミラノ勅令による公認の翌年)で,軍務放棄が教会側から禁止され, 教会が戦争を限定的にせよその内部に取り込んだことが明確になる。416 年には,東ローマ 皇帝テオドシウス 2 世がキリスト教徒のみを軍隊に受入れるようになる。こうして, 正し い戦争 =「正戦」はキリスト教徒によって行われるものとなった 29)。 その後西ローマ帝国は滅び,5 世紀以降,西ヨーロッパではフランク王国がカトリックを 受け入れることで,古代においてローマ帝国が神の国として遂行していた「正戦」を,中世 ではフランク王国が担うことになった。キリスト教会は,かつてローマ皇帝に与えていたキ リスト教の守護者としての役割を,フランク王たちに期待するようになる。そしてこの時代 は,西ヨーロッパが異教徒の侵入を周囲から何度も受けた時代でもあった。ここに,西方カ トリック教会が異教徒相手の積極的な戦争を推奨し, その指導者である君主(クローヴィス, シャルルマーニュ,オットー 1 世など)をキリスト教の守護者とする構造が成立する。そし て,教会は国王戴冠の聖別や専用の典礼の整備といった制度面でも,ゲルマン人君主の権威 付けを推し進める。 中世前期の段階においては,教会の立場はローマ時代の国教化以後のものから質的には変 化していない。ところが,フランク王国が解体すると,「正戦」を体現する神の国 = ローマ / フランク王国と,その主権者であるローマ皇帝 / フランク王という存在が無くなってしま う。時代としても 10 世紀は西ヨーロッパへの周辺異民族の侵入が最も激化した時期であり, カトリック教会は周囲を敵に囲まれ,常に戦争と向き合わねばならない状態にあった。そし て政治的,社会的混乱は社会不安を生み,ヨーロッパ内部においても紛争が絶えなくなり, 地域の権力者同士の戦いが常態と化していた。このように,ヨーロッパ社会では封建化が進 み,侵入者の撃退治や治安維持の役割を果たしていた君主が無力化したため,その職務が在 地の有力者としての諸侯や城主層へ降りてきた。このようなヨーロッパにおける封建化の進 展と公権力の分散は,そのままその公権力に付随するキリスト教の守護者としての役割も在 地の有力者たちに委ねられることを意味した。こうした状態を表すのが教会守護職の任命で ある。更には,教会自身が降りかかる火の粉を払うために,直接武器を取る例も見られた。 中世キリスト教指導者層による騎士理念の構築と称揚 7 神の平和運動 このように 10 世紀から 11 世紀にかけての段階においては,教会は「正戦」概念をかなり 発展させており,そしてその運用を一個の帝国,一人の主権者のみに委ねるのではなく,極 論としてそれぞれの地域の教会毎に行使することをも認め,かなり柔軟に運用していたとい える。 ただし,この局面で戦うことを正当化されたのはあくまでフランク王に根拠を持つ公権 力の分有者たる伯らの有力貴族であり,そのような根拠を持たない騎士の戦いは私戦に過ぎ ず,教会にとっては異教徒の侵略者と同じく教会の弱者を攻撃する悪であった。むしろ,教 会にとって日常的に対面しなければいけない暴力(= 戦争)は在地の有力者同士の抗争であ り,その兵隊である騎馬戦士たちであった。従って,11 世紀以降,教会は積極的にヨーロッ パ内部における抗争の沈静化と秩序の構築を試みるようになった。この局面に対しては従来 の「正戦」概念では対応し切れず,カトリック教会は政治的に現実的な方策によって対処し ていった。それが神の平和運動( 「神の休戦」運動)である。 教会側から行われた働きかけを幾つか挙げると次のような事例が確認される。 ・ 何人であれ聖なる教会に侵入したり,教会から何かを強奪したりする者は…破門され るべし ・ 何人であれ農民やその他の貧者から家畜を略奪したりする者は…破門されるべし ・ 何人であれ武器を携帯せずに歩いていたり家の中にいる聖職者を襲ったり,捕らえた り,傷つけたりする者は,…教会から追放されるべし (シャルー司教区会議の決議(989 年)より)30) ・ 私は…教会の穀物貯蔵庫に押し入らないつもりです…また仮に(正当な理由があっ て)入ることがあっても,何物もその中から故意に奪ったりしないつもりです。 ・ 私は,世俗の武器を携帯していない聖職者或いは修道士も,槍と盾を持たない彼らの 同行者達も襲うことはないし,また彼らの馬を強奪することもしないつもりです。 ・ 私は,農奴や商人を捕らえることも,彼らの金銭を奪うことも,彼らに身代金を強要 することもしないつもりです。 ・ 私は,高慢から家に火を放つことも,それを破壊することもしないつもりです。 ・ 私は,故意に公共の敵として告発された盗賊と結託することも,そのような盗賊や彼 の一味を指揮することもしないつもりです。 ・ 私は,夫を同伴していない貴婦人並びに彼女らの同行者達を…襲わないつもりです。 ・ 四旬節の初日から復活祭の終日まで,私は,世俗の武器を携帯していない騎士を襲う ことも,彼が自分の指揮の下に運送していた食料も強奪しないつもりです。 31) (ボーヴェ司教ゲランが国王ロベールの裁決に委ねた神の平和の誓約(1023 年)より) 8 中世キリスト教指導者層による騎士理念の構築と称揚 以上の史料の主旨は,私戦に関する制限条項を設けたことなのだが,その内容をその対象 毎にまとめると,次のように言えるだろう。まず,人間として非戦闘員(聖職者,商人,農民, 女性,etc)への攻撃を禁止した。これは戦闘行為を戦士同士に限定したものである。次いで, 場所については聖域(教会や墓地など)での交戦を禁止し,安全地帯を構築しようとした。 そして,時間を限定するため,キリスト教の祝祭日の交戦を禁止(土曜,日曜を含む)した。 フロリのいう 戦争屋の領主達 が,教会の働きかけにより,史料にあるように様々な事 柄を 行わない ことを宣誓したわけだが,これは逆に考えれば繰り返し誓わせ,制限しな ければならないほどそうした事柄が横行していた社会の実体が伺える。 更に,オルデリック・ヴィタールの『教会史』に,とあるエピソードが登場する。これは 12 世紀中ごろの史料ではあるが,世俗の騎士に対する端的な描写が垣間見える。その中で は,例えば 彼(Bellême の Robert II)は修道士の圧制者であり,聖職者と非武装者の迫害 者である。加えて,ケチで残忍,神の教会と貧者の圧制者… 32) といった描写や,彼(Albert de Cravent の息子 Ralph)は,武装を受け取るとすぐに修道士を攻撃した。このため彼の父 は大いに嘆き,騎士の奉仕ではなく狂気の奉仕をしていると非難した。 33) といった描写が 現れる。やはり,騎馬戦士層が社会騒乱の原因として教会から重大な注意を払われているこ とが伺える。 11 世紀頃まで,militia(戦争 = 戦士の生業)は malitia(罪業)であると教会は認識していた。 本来は戦争という暴力を否定するべき教会は「正しい」戦争を許すようになり,その執行者 にして教会の守護者として公権力(王,諸侯)の存在を認めたが,その戦いにおける内向き の相手(私的な権力行使 = 暴力)こそが騎馬戦士層であった。この時代においては, カトリッ ク教会はまだ騎士理念の存在を許していないということが確認できる。 3. 十字軍活動に伴うカトリック教会の変化 「聖戦」理論の構築 前章では,対外戦争に対するカトリック = キリスト教会の姿勢を消極的・限定的肯定とし ての「正戦」概念として説明した。これは確かに中世前期までの段階では通用したが,その 後の混乱に対しては対応し切れず,またカトリック教会自体の体制変化や異教徒側の変化に 伴い,更なる戦争肯定の理論の構築が必要となっていた。それがつまり「聖戦」概念であり, 十字軍運動として体系化されるカトリック教会にとって積極的に行われるべき戦争である。 十字軍自体は 1095 年のウルバヌス 2 世演説に端を発するわけだが,そこに到るまでに,約 1 世紀かけてその準備が行われたと言ってよい。それらは,例えば 9 世紀,レオ 4 世がキリ スト教徒守護のために戦死したものへの天国での褒賞を約束したものであり,1064 年,ア レクサンデル 2 世がスペインでの戦闘(レコンキスタ)に参加する戦士への免償を与えたこ となどが挙げられる。そして更に, グレゴリウス 7 世はレコンキスタの指揮官を自ら任命し, 南イタリアのノルマン人との抗争においては教皇庁に仕える騎士の戦死者を殉教者として扱 中世キリスト教指導者層による騎士理念の構築と称揚 9 うことさえした 34)。こうして,教会は個別の戦闘,個人に対してではあるが,教会のため に戦う個人を容認する動きを見せ始めていた。 これは,前章で見たような「正戦」概念における,教会を守護する神の国たるローマ帝国 或いはフランク王国が 必要悪 として行う,ローマ皇帝やフランク王にのみ許された公権 力の発動としての戦争とは根本的に異なる性質のものであることに注意せねばならない。10 世紀までの「正戦」が神の国を守るための防衛戦争のみに許されたのに対し,11 世紀のカ トリック教会は,南仏モワサック修道院の偽書 35) の例にも現れるように,積極的な戦争の 呼びかけと殉教の約束を行うまでになっていた。 そして,これらの理論的な準備と実際的な行動の積み重ねのひとつの結論として,ウルバ ヌス 2 世の演説 36) が行われた。本論においてこの演説で語られたとされる内容のうちで重 要なのは,次の二つの部分である。 A. この救援に参加し,陸上であれ海上であれ,その途上で倒れる者すべてに,そして異 教徒との戦いで落命する者すべてに罪が赦免されるであろう。そして私はこの赦免 を,私が神から保有している権威によって,この徒行に参加する者たちに授与する。 37) (フーシェ・ド・シャルトル, 『エルサレムへの巡礼者の物語』より,1 巻 1 節) B. 今日まで(キリスト教)信者に多大の損害を与え,不正な私戦に明け暮れていた者た ちは異教徒との戦いに参加せよ。これまでは強盗でしかなかった者たちは,これから はキリストの戦士[milites Christi]となる。兄弟や親戚と戦っていた者たちも,今度 は正当な権利として,野蛮人と戦う。端金で傭兵になっていた者たちがこれから手に するものは永遠の報酬である。 (同上)38) この演説は,対異教徒戦争において教皇庁が取った戦士への対応の集大成と言える。まず, 引用 A の部分で分かるのは,「教会のための戦死 = 殉教者」という約束が明確にされたこと である。そして,引用 B の部分は世俗の騎士を否定しつつ,キリストのための騎士という 存在を容認したと取ることができ,そこから騎士身分への関心が伺える。ヨーロッパ内部に あって公権力に反対する騒乱者,悪としての存在であった騎士層が,ヨーロッパから出て, 異教徒と戦うならその存在は正当化され得るものとなったのである。 修道騎士の誕生 十字軍の開始により,十字軍に参加する限りはその存在が肯定された騎士という存在は, 聖ベルナールによって更なる昇華を遂げる。このベルナールは,クレルヴォーのベルナール (1090 - 1153)のことであり,彼はブルゴーニュ地方の騎士家系出身であり,シトー派の有 力者,第二回十字軍の勧説などで有名である。12 世紀前半の西欧カトリック・キリスト教 会における最重要人物のひとりで,1174 年に列聖された。 10 中世キリスト教指導者層による騎士理念の構築と称揚 ベルナールは,1128 年から 31 年の間に書かれたとされるその著作『新騎士頌』で,騎士 という存在を見事にキリスト教の内部に取り込んだ 39)。彼により,騎士のあるべき姿を体現 した存在としてテンプル騎士団が称揚されるのである。ベルナールの主張をその内容に従っ て整理すると,幾つかの方向性が見られる。 まず,先だってのウルバヌス 2 世の理論の 2 点目である世俗の戦いの否定と「キリストの 戦士」の理念を継承し,世俗の騎士とテンプル騎士との違いを比較して脱俗して修道士の身 分になる意義を強調している。ベルナールによれば,世俗の騎士は「殺人者」で「大罪を犯 す者」として断罪される(引用Ⅰ)。その一方で,テンプル騎士は「罪とは無縁」の者とし て全肯定される(引用Ⅱ) 。 Ⅰ. 生とか死は重要ではない。なぜなら,勝者であれ敗者であれ,その者は殺人者であ りつづけるので。…彼(世俗の騎士)が殺人を犯すとき,彼は大罪を犯している。彼 が殺されるとき,彼は永遠の死によって滅びる。…したがって,ああ,騎士たちよ。 かくも多くの費用とかくも大きな苦しみを伴って,死や罪のみを得るために戦争をす ることの,この唖然とさせる過ちは何と言うものか。また,この耐えがたき怒りは何 と言うものか。 (クレルヴォーのベルナール『新騎士頌』より,3 - 3)40) Ⅱ.キリストの騎士は主のために戦うとき,彼らは完全に守られているため,敵を殺す ことによって罪を犯したのではと心配する必要も無く,自らが殺されても滅びるので はと心配する必要も無い。…この死は罪と無関係である。それは非常に栄光に満ちた ものである。(同上,3 - 4)41) 次いで,殺人という行為を肯定し,戦士という役割の持つキリストの教えとの本質的な矛 盾を回避する。ただし,これには一定の留保が為され,あくまで次善の策であるという姿勢 を保っている(引用Ⅲ,Ⅳ) 。 Ⅲ.事実,キリストはキリストの仇を討つ目的で敵を殺すことを許しておられる。 (『新 騎士頌』3 - 4)42) Ⅳ.しかし,異教徒を殺すことは,彼らがキリスト教徒を苦しめたり虐げるのを,他の 手段で阻止できる場合,正しくない。 (同上,3 - 5)43) また,戦いのうちに死ぬことを名誉あるものとして賞賛する姿勢を見せている。つまり, 戦死する事は生き延びるより価値が高い(栄光に満ちている)のであり,その理念を突き詰 めて行き「戦死 = 殉教」という図式を明確に示し,ここでも 11 世紀以来の教皇庁の方針を 進展させている(引用Ⅴ,Ⅵ) 。 中世キリスト教指導者層による騎士理念の構築と称揚 11 Ⅴ.戦いの勝利者として帰還する者は何と栄光に満ちあふれることか。戦闘で殉死する 者は何と幸いなことか。…もしあなたたち(テンプル騎士)が生き延び,そして主に おいて勝利者となるならば,より一層喜び誇るがよい。なぜなら,あなたの生命は実 り多く,そしてあなたの勝利は栄光に満ちているので。しかし死はより多くの魅力が ある。死はより実り豊かで,より栄光に満ちている。なぜなら,主において死す者が 幸せであるならば,主のために死す者はより遥かに幸せであるので。(『新騎士頌』 44) 3 - 2) Ⅵ.寝床で死のうが戦闘で倒れようが, 「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」 ことは明らかである。しかし戦闘中であれば,死は確かにそれがより栄光に満ちてい ると思われるので,それだけ一層価値があることに間違いはない。 (同上,3 - 2)45) 更に,従来はカトリック教会が暴力の行使を容認し,教会の守護者として位置付けたのは あくまで「神の国」を体現する公権力に対してのみであったが,その概念を騎士個人に与え ている。これにより,従来より公権力の保持者であった伯や城主などの高位貴族と平騎士層 に至るまでとが,その高貴な職務としての公権力の行使という側面において同質化したと言 える。(引用Ⅶ) Ⅶ. (キリストの)騎士が剣を帯びることには理由がある。…騎士は神のご意思の実行 者であるので。…彼はキリストの防衛者である。 ( 『新騎士頌』,3 - 4)46) そして前述のように,「害悪」である世俗の騎士ではなく修道士となり,教会の守護者と して暴力を行使する存在である理想の十字軍士たるテンプル騎士は,キリストの戦士の理想 像として描写される。これは,当時のカトリック教会が行い得る最大限の称揚と言える。こ こに,騎士理念が生まれるのである。 (引用Ⅷ,Ⅸ) Ⅷ.少し前…新しい型の騎士が現れたことが知られていた。…それは倦むことなく二重 の戦い,すなわち肉と血に対する戦いと,俗界に広まった悪の精神に対する戦いとを 行う騎士のことである。…これこそがすべての危険から完璧に守られた,恐れを知ら ぬ騎士である。彼の身体は鉄の鎧に包まれている。彼の魂は信仰の鎧に包まれている。 このように守られた彼は,人間も悪魔も恐れはしない。そして,死を熱望するこの騎 士がどうして死を恐れるであろうか。 (『新騎士頌』,3 - 1)47) Ⅸ.私は彼らを修道士と呼んでよいのか迷うほど,彼らがあるときは子羊のように温和 な態度を示す一方で,獅子のように猛々しい態度をみせるのに驚かされる。そして修 道士の穏やかさと騎士の勇敢さを兼ね備えている彼らに,これら二つの名称を同時に 与えること以上に,彼らを指す言葉があるだろうか。 (同上,4 - 2)48) 12 中世キリスト教指導者層による騎士理念の構築と称揚 このように戦士としての職務と,修道士としてキリスト教の教えを尊ぶ生き方とを両立さ せるという,前例の無い生き方に彼ら自身が戸惑うのに対し,クレルヴォーのベルナールが 彼らのあり方を肯定し,あるべき姿を示した。この新しい騎士の様式が,ローマ・カトリッ ク指導者が理想とする, 信仰の思想と世俗社会の支配体制との融合の体現であったといえる。 同時に,社会的集団としての世俗の騎士という存在にとってみれば,これが騎士理念の形 成の契機であった。彼らは事実として既に存在してはいても社会的には厄介者として扱われ ていた。世俗貴族は,社会階層としては一部で彼らと重複し始めてはいても,理念上は別の 存在として自らと騎士層とを区別しようとしていた。 そのような騎士のイメージが,カトリッ ク教会によって肯定されることで,理念と実体とが融合し始め,それが更なる騎士層と高位 貴族層との一体化を促進していくのである。 4. おわりに 聖職者から見た騎士への視点の変化というのはつまり,カトリック教会のイデオロギーへ の騎士身分の取り込みの過程と言い換えることが出来る。 第一回十字軍が一応の成功を収め聖地を確保した後,巡礼者の安全を保証するために,テ ンプル騎士団やホスピタル騎士団といった騎士修道会が組織されるが,彼らこそがローマ・ カトリック指導者が理想とする信仰の思想と世俗社会の支配体制との融合の体現であったの である。彼ら修道騎士によって,キリスト教に認められ社会的重要性を確保し 高貴である 世俗支配者層が受け入れるに足る概念としての騎士理念がその形を現すのである。 加えて,十字軍活動に関わる聖職者層の与える影響により,フランス国内の世俗戦士層に 対する反応もまた変化しつつあることは,フランス国王ルイ 6 世の顧問官であり,当時のフ ランス王国内のキリスト教会の中心であったサン・ドニ修道院長シュジェールによる騎士描 写からも伺えることである 49)。また,聖ベルナールやシュジェールといった騎士理念形成 に影響力を持ったカトリック高位聖職者たちの出自が有力貴族家系というより下層の平騎士 層の家系であることも興味深い一致である 50)。 一方でこの段階での限界として,世俗の騎士として生きること自体は肯定されないのであ る。ウルバヌス 2 世は戦死 = 殉教して初めて彼の戦士としての罪が許されるとしたし,聖ベ ルナールも世俗の身分を捨てて修道士としての騎士になることにのみ価値を見出したに過ぎ ない。騎士という存在,そのイメージそのものが受け入れられたわけではないのである。 また,これらの動きはあくまで西方のローマ・カトリック教会,特に改革派教皇の一派の 論説を中心にしたものに限定されるので,そもそも西欧全体でそのまま受け入れられた概念 ではない。例えばイングランドのジョン・オヴ・ソールズベリはこの時点で既に職業倫理を 持ちつつある世俗の騎士を集団として認識し始めているし 51),イベリア半島では聖戦とし てのレコンキスタを限定的に捉える説 52) があり,ウルバヌス 2 世やベルナールなどの論説 の前提が現地ではそもそもなりたたない場合もあり得る。とはいえ,中世盛期全体を通して 中世キリスト教指導者層による騎士理念の構築と称揚 13 見てみれば,確実にその存在が認められる第一歩であったといえる。 こうした限界性を踏まえつつも明らかになった騎士理念の形成であるが,これをフロリは 基本的に教会における「聖戦」概念の発展の一段階として捉え,西欧世界の世俗戦士層に対 する取り込み策の一環と位置づけているものの,個別の影響関係については考慮していな い 53)。にもかかわらず,フロリが騎士理念の先進地域とするノルマンディ地方でのヴィター ルの『教会史』における評価についても,これが書かれたのがベルナールの『新騎士頌』の 後であり,その影響下にあったであろうことは充分指摘し得るだろう。そして,前述のよう にベルナールの称える十字軍士というのは,第一回十字軍で活躍しフランス国王大官となる ガルランドのアンソー 54) やテンプル騎士団長ユーグといった人々を始めとしたフランス人 が中心なのであり,ベルナールがそうした人々にイメージを仮託してこの騎士理念の理想を 描いたとも言えるのである。 フロリは 11 世紀ノルマンディ及びイングランドにおいてのみ,世俗騎士層を包括的に統 合する騎士理念が形成されていたとし,その影響下において,フランス地域にも騎士理念が 波及していく,という構図を描いている。しかし,今まで見てきたように,フランス地域に おいては十字軍を契機とした聖界指導者層による「キリストの戦士」像の称揚を受けた,独 自の理念形成が想起される。そしてそれはノルマン・イングランドとは別個に,並行して進 むものであり,必ずしも一方的なノルマンディの優位性を想定するのは妥当とは言えない。 こうしたことを踏まえてみると,やはりフロリが切り捨てたようなフランス騎士の「害悪」 一辺倒の姿ではなく,北仏の王領地の騎士たちには,確かに騎士理念の萌芽が見られると考 えるべきであろう。 注 1) M. ブロック,堀米庸三監訳,『封建社会』,岩波書店,1995 2) J. ル・ゴフ,桐村泰次訳,『中世西欧文明』,論創社,2007 3) G. Duby, La Société Chevaleresque: Hommes et Structures au Moyen Age I, Paris, 1988 4) J. Flori, Chevaliers et Chevalerie au Moyen Âge, Paris, 1998 5) G. Duby, op. cit., pp. 226 - 227 6) 「十字軍」とは,現代においては非常に重層的で多義的な単語となっており,一括りに用いる のが難しいが,本論においては単純に伝統的な狭義の十字軍,特にビザンツのアレクシオス 帝の要請を受けてカトリック教皇ウルバヌス 2 世がクレルモン会議において行った演説(1095 年)に端を発する,所謂第一回十字軍(1096~1099 年)とその後の十字軍国家体制を考察対象 とする。 7) J. Flori, La Guerre Sainte: la Formation de l'Idée de Croisade dans l'Occident Chrétien, Paris, 2001 8) Bernard de Clairvaux (traduction par Pierre-Yves Emery), Éloge de la Nouvelle Chevalerie-Vie de saint Malachie, Paris, 1990。『新騎士頌』,或いは単純に『新しき騎士たちを称えて―テンプル 14 中世キリスト教指導者層による騎士理念の構築と称揚 騎士修道会について』という程度の意味か。 9) Foucher of Chartres (edited by Rosalind Hill), The deeds of the Franks and the other pilgrims to Jerusalem, Oxford, 1962,丑田弘忍訳, 『フランク人の事績 : 第 1 回十字軍年代記』,鳥影社, 2008 年 ; M. Chibnall, The Ecclesiastical history of Orderic Vitalis, Oxford, 1968-1980; H. Waquet, Vie De Louis VI Le Gros/Suger, Paris, 1964 10) J. Flori, L'essor de la Chevalerie: XIe-XIIe Siecles, Geneve, 1986; D. Barthélemy, La Chevalerie Carolingienne; Prélude au XIe Siècle, R. Le Jan, La Royauté et les Élites dans l'Europe Carolinginne, Lille, 1998, pp.159−175 11) 別の観点から同様にフロリの定説を批判したのが,拙稿「中世盛期フランス王領地における 騎士身分の形成―国王役人編成の検討を中心に―」, 『史叢』78 号,2008 年 3 月,である。 12) 前掲論文 p.24 13) 詳細は次章 14) 渡辺節夫,「西欧中世における封建制の展開と騎士身分の形成―フランスの事例を中心に」, 『青山学院大学院総合研究所人文系研究叢書 5』 ,1995 年 15) G. Duby, op. cit.; D. Barthélemy, op. cit.; J. F. Lemarignier, La France Médévale, Paris, 1970; J. P. Poly/E. Bournazel, translated by C. Higgitt, The Feudal Transformation 900-1200, New York, 1991 等の研究より 16)《miles》の語は 971 年に証書に初出,1032 年に他の類義語との交代が完了し,1075 年以降個人 名に密着した称号として貴族層全般で用いられるようになり,11 世紀最末期には農民層 rusticiとの対照として用いられるようになった。そして,以降《miles》は世俗貴族層の総体として, 富や権力の差を越えた一体的なものとして用いられるようになる。 17) イル・ド・フランス地方では,10 世紀段階では,《miles》の語は城付き騎士に限定される。11 世紀に起源を持つ,Senlis 家や Garlande 家など都市に基盤を持つ下層貴族には,11 世紀初期段 階で《miles》の語が用いられる。彼らは城主層とは明確な断層が見られるがそれは経済基盤 の量的な差異である。11 世紀中頃には,領主層全般に用いられる。シャルトル地方(中部)で は, 《miles》の史料登場数は,1050 年以前で 5 個,1051−1100 年で 23 個,1101−1150 年で 52 個, 1151 − 1200年で38個。基本的に,11世紀半頃では,領主は制限された《miles》の語を好まなかっ たように見える。この言葉は城付き騎士《milites Castri》に限定して現れる。12 世紀初頭の Saint-Pere 修道院の馬を持つ従者 22 名の内,一人のみが《miles》と呼ばれた。彼らの一部は 明らかに都市の駐屯部隊の一員である。ポワトゥ地方では,10 世紀の史料は《nobiles》を《superiores》 《inferiores》に分けている。 《miles》と《nobilis》の間に完全な相関関係は見られない。 《miles》でない貴族もいれば,貴族でない騎士《miles》もいた。C. B. Bouchard, Strong of Body, Brave and Noble: Chivalry and Society in Medieval France, New York, 1998 18) ドイツに隣接する北部諸地方においては,ナミュールの 12 世紀の史料は《nobilis》と《miles》 を明確に分けている。もしその《miles》が自由人であれば,注意深く指摘されている。逆に 言えば,多くの場合,《miles》はミニステリアーレスを含む《familia》の階級であった。ブラ バントでも同様の厳密な二分法があり,そこでは《miles》が貴族に使われるのは,12 世紀半 ばを過ぎてからであり(しかもそれはまれなこと) ,その時期はミニステリアーレンが重要に なり始めた頃であった。ピカルディーでは,9世紀末期以降,戦士を《nobiliores》と《inferiores》 (貴族)のうち, に分けている。後にも, 《proceres》と《milites》を分けている。この《proceres》 中世キリスト教指導者層による騎士理念の構築と称揚 15 下級の領主はバン権力も役職 (office) も持っていない。12 世紀が終わる以前に,騎士が貴族と 称したり,貴族が騎士と称することはなかった。最初の例は,1194 年の Ponthieu である。 19) 1075-1141/43. ノルマンディ地方の修道士。1135 年頃に『教会史』Historia ecclesiastica を著す。 20) J. Flori, L'essor de la Chevalerie: XIe-XIIe Siecles, Genéve, 1986, p. 272 21) これはあくまでオルデリック・ヴィタールの史料に基づいたフロリの解釈である。騎士によ る弓の使用については近年再検討が行われている。 22) J. Flori, op. cit., pp. 270-274 23) 高尾利数「キリスト教における戦争観の変遷 - イエスから中世まで」『社会労働研究』31,教文館,1988 年 1/2,1985 年,J. ヘルジランド他,小阪康治訳,『古代のキリスト教徒と軍隊』 24) マタイによる福音書 26:52。括弧内は引用者補足(以下,史料の引用については同様)。 25) 木寺廉太,『古代キリスト教と平和主義』 ,立教大学出版会,2004 年 26) 同書 p.24 27) 同書 pp.131-140 28) 同書 pp.26-27 29) 同書 pp.28-30 30) Ch.-M. de La Roncière, R. Delort et M. Rouche, L Europe au moyen age: documents expliqués, t.II: pp.IX-XIII, Paris, 1969; 久保正幡先生還歴記念出版準備会編,『西洋法制史料選Ⅱ』 (中世)創文 社,1978,p.23(巻末史料原文) 31) Pfister,Ch., Études sur le régne de Robert le Pieux (996-1031), 1974 (1885), Genéve, pp.LX-LXI ; Gesta episcoporum cameracensium, liber III, MGH SS, VII, p.474 32) M. Chibnall, op. cit. p.121 33) Ibid., p.160 34) これらの事例で共通するのは彼らに一種の「贖宥」が与えられ,死後の安寧を約束している点 である。ル・ゴフなど西欧中世社会史家たちが指摘するように,中世人は現世での罪への恐 れとその許し,その結果としての死後の安寧を非常に重視していた。従って,本来であれば キリスト教の禁忌である暴力と殺人の場である戦争への参加をして,逆に確固たる贖宥の授 与とすることは,カトリック教会のために戦う戦士たちにとって大変重要であったのである。 35) 1009 年のエジプトのファーティマ朝カリフ,アル = ハーキムによる聖墳墓教会の破壊やキリ スト教徒迫害を受けて,11 世紀終盤に,教皇セルギウス 4 世(1004-12)の回勅という触れ込み で作られた偽文書。とはいえ当時の聖職者によって作成されたことには違いなく,聖界側に おける一種の世論を反映していると見ることは可能であろう。 36) ウルバヌス 2 世の演説は直接の史料が現存していないので,演説を聴いた人物による記録に 頼らざるを得ない。そのうち,演説を書き留めたもののなかでも信憑性が高いといわれるの が,フーシェ・ド・シャルトル(1059-1128)による伝記に残る文書である。なお,彼はクレ ルモン公会議に出席した後,十字軍にも参加。エルサレム占領以後も中東エデッサに残った。 37) Foucher of Chartres, op. cit. p.88 38) Ibid., p.89 39) この文書が書かれた背景には次のような事情があったとされる。テンプル騎士は,当時の十 字軍士のなかでもとりわけ敬虔であった。そんな彼らだからこそ,熱心な信仰の表れとして 聖墳墓教会に集ったのである。しかし,彼らは敬虔であるがゆえに,信仰と戦士としての職 16 中世キリスト教指導者層による騎士理念の構築と称揚 務との間の矛盾に苦しんでいた。この修道騎士というスタイルは当時としても類を見ない画 期的な存在であったのである。彼らの不安を取り除き,教会側のお墨付き(教皇の許可状は 既に得ていた)を得るという意味でも,ベルナールが騎士団の理念を保障するこの文書は非 常に重要なものであった。 40) Bernard de Clairvaux, Éloge de la Nouvelle Chevalerie, pp.60-62 41) Ibid., p.62 42) Ibid., p.62 43) Ibid., p.66 44) Ibid., p.60 45) Ibid., p.60 46) Ibid., p.64 47) Ibid., p.58 48) Ibid., p.70 49) シュジェール著作の『ルイ 6 世伝』 (Vie De Louis VI Le Gros)における騎士層の描写を幾つか 取り上げると,「彼(ロシュフォール伯ギィ)は経験豊富な人で,功労ある騎士であり(8 章)」 「彼(ガルランドのギヨーム)は,捕われのセネシャル(ガルランドのアンソー)の兄弟で,優 雅な騎士で武器に長けていたが(15 章) 」「卓越した騎士でありもっとも力あるバロンでもあ るモンフォールのアモーリィ(18 章)」 「さらに王は…王の権威によってそうである以上に, 王のではなく,騎士の職務に相応しい騎士として,一騎又一騎と戦った。(21 章)」などといっ た表現が見られ,王や王に従う近侍の騎士たちを高貴な存在として描いていることが確認で きる。 50) シュジェールの出身階層に関する議論については,森洋訳・編, 『サン ・ ドニ修道院シュジェー ル―ルイ六世伝,ルイ七世伝,定め書,献堂記,統治記』,中央公論美術出版,2002 年, pp.28 - 29 参照。 51) J. Flori, Chevaliers et Chevalerie au Moyen Âge, Paris, 1998, pp.141 - 144 52) D.W. ローマックス著,林邦夫訳,『レコンキスタ』,刀水書房,1996 年 , pp. 199 - 202 53) J. Flori, L’essor de la Chevalerie, pp.63 - 64 54) Anseau de Garlande。十字軍から帰還後,12 世紀初頭から 1118 年頃までの間,一時の中断を 経つつも国王大官のひとつ,家令職(Sénéchal)にあり,フランス国王ルイ 6 世の宮廷で大き な権力を示した。
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