井上隆晶牧師イザヤ40章1~8節

2016 年 12 月 4 日(日)主日礼拝説教
『荒れ野で呼びかける声』 井上隆晶牧師
イザヤ 40 章 1~8 節、マタイ 11 章 2~19 節
❶【来るべき方はあなたでしょうか】
アドヴェントの第二週目は洗礼者ヨハネについてお話をします。洗礼者ヨハネは、
ガリラヤの領主ヘロデの罪を指摘したため捕えられ牢に入れられました。その場
所はマケルスの要塞といわれています。彼はその牢獄の中でイエス様のお働きの
噂話を聞きました。そして弟子を送り、イエス様に尋ねました。
「来るべき方はあ
なたでしょうか。それとも、他の方を待たなければならないのでしょうか。
」
(11:
3)獄中生活に疲れたヨハネは、焦りと疑いの思いが湧いてきたのです。
「イエス
様がメシアならなぜ私をこのまま牢に閉じ込めておくのか。なぜ私を救ってくれ
ないのか。メシアなら力を顕し、なぜ悪人をすぐにでも滅ぼさないのか。
」このヨ
ハネの問いは、私たちがたえず繰り返す問いです。なぜキリストが復活し悪魔が
倒れたのに、この世に神の国が来ないのか。なぜいまだに悪がはびこっているの
か。本当にこの方はメシアなのか。
●先日、榎本牧師の本の中にこんな言葉がありました。
「確かに社会の問題、人の
ことも大事である。しかしそれが神よりも大きく見えてくることは不信仰だと思
う。…この世界が非常に大きく見えてくると、神は小さく頼りなく思えてくるの
である。
」
(旧約聖書一日一章 P.594)
なるほどと思いました。偶像というのは、単に神以外の像を立てる、神以外の像
に頼るという事だけではありません。神よりもこの世のものが大きく見えたら偶
像を造っていることになるのです。キリストよりもこの世の者の方が頼もしく見
えたら偶像を造っていることになるのです。キリストがどんどん大きく見えてく
る。キリストの言葉がどんどん自分の中に大きくなってくる。キリストが絶対大
丈夫に見えてくる。それが信仰だと思います。今のキリスト教徒の弱さは、2000
年前のキリストがなされた十字架と復活の業が何とも頼りなく小さくなっており、
今の時代に何の影響も与えないかのように生きているということです。そしてあ
あどうしよう、このままだったら自分の将来は真っ暗だと思っていることです。
あなたにとってキリストの十字架と復活とは何だったのですか。キリストは今こ
こにいます。姿は見えませんがここにいます。この聖堂の中に歩いておられます。
キリストが歩かれる所はエデンの園です。彼は既に勝ったのです。あなたの罪を
負い、死を滅ぼしました。悪魔は彼に勝てなかったのです。悪魔はキリストのも
のであるあなたに手を出すことは出来ません。他人の花嫁に手を出すことをキリ
ストが赦されるはずがありません。悪魔は手が出せないので、遠くからあなたに
囁くしかないのです。その声をあなたが信じてくれるのを待っているのです。す
なわち「キリストはあなたを愛していないよ。あなたは罪を犯したのだ、あなた
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は汚れている。それでキリストはあなたから去ったのだ。キリストの愛は変わっ
てしまったのだよ。彼は信じられないよ。
」という声です。悪魔は嘘の言葉を囁き
ますが、不信仰はあなたが始めるのです。詩編の中にこのような祈りが載ってい
ます。
「神は憐れみを忘れ、怒って同情を閉ざされたのであろうか。…いと高き神
の右の御手は変わり、私は弱くされてしまった。
」
(詩編 77:10)物事がうまくい
かないと、私たちはこのように考えてしまいます。神の私に対する態度は変わっ
てしまったのではないか。神は私のことを怒っているのではないか。私を助けら
れる神の御手は変わり、その手はもう引っ込められたのではないか。このように
不安になるのです。まるで被害妄想者のようです。精神疾患をもつ人たちは、結
構このように考える傾向が強いのです。
そんな時、どうすればいいのでしょうか。イエス様はヨハネの使いにこう言われ
ました。
「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見
え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえ
ない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私に
つまずかない人は幸いである。
」
(マタイ 11:4~6)イエス様はヨハネの質問に答
えていません。
「私がメシアだ。他の者を待たなくてよい。
」と言われません。そ
の代わりにイエス様はただイザヤ書の言葉をいったのです。
・
「その時、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。その時、歩けなか
った人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。
」
(イザヤ 35:5~6)
・
「私を遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために」
(イザヤ 61:1)
イエス様は、ヨハネに聖書の言葉を思い出させようとしているのです。み言葉に
は何と書いてあるのかを思い出しなさいというのです。現実から神を判断しては
いけません。それは偶像を造ることになります。み言葉から神を知り、御言葉を
信じるのです。それが希望を持つ唯一の方法です。
「ヨハネよ、聖書をよく読みなさい。現実と自分の理想が違うからといって絶望
してはいけない。何と書かれているかを見て信仰を揺るぎないものとしなさい。
自分の理想という牢獄の中にとらわれているヨハネよ、あなたの今の状況は牢獄
かもしれない。八方塞がりで無力さを感じているかもしれない。しかし、あなた
の体が牢獄の中にあっても、あなたの魂は牢獄の中にあってはならない。あなた
の魂はのびのびとメシアを賛美しなさい。あなたの周囲が闇のようであったとし
ても、あなたの魂は天国にありなさい。十字架の盗賊を見なさい。彼は肉体に於
いては地獄であったが、その魂は私と共に楽園にあったではないか。
」メシアが来
てくださったのです。聖書の約束通り来て下さったのです。
❷【天の国は力ずくで入るところである】
ヨハネの弟子たちが帰ると、今度は、イエス様は群衆に向かってヨハネのことを
教えられます。
「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。…預言者か。そう
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だ。預言者以上の者である。
『見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの
前に道を準備させる』と書いてあるのは、この人のことだ。
」
(マタイ 11:7~10)
ヨハネは預言者の中で最大の預言者であり、最後の預言者でした。いろいろな預
言者が今まで来ましたが、ヨハネは預言をされて生まれてきた唯一の預言者でし
た。
「呼びかける声がある。主のために荒野に道を備え、私たちの神のために荒地
に広い道を通せ。
」
(イザヤ 40:3)
「見よ、私は使者を送る。彼はわが前に道を備
える。
」
(マラキ 3:1)と預言されていたのはヨハネのことでした。
さらにイエス様は言われます。
「女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大
な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
」
なぜ天国で最も小さい者が、ヨハネより偉大なのでしょう。
「すべての預言者と律
法が預言したのは、ヨハネのときまでである。
」
(13 節)とあります。
「預言者と
律法」とは「旧約聖書」のことです。旧約の時代はヨハネで終わります。彼を最
後にしてイエス様によって新約の時代が始まりました。この旧約時代の中でヨハ
ネは最も偉大な人でした。つまり最も正しい人であり、神に近い人だったのです。
でも新しい時代が始まったのです。自分の正しさで、自分の力で神の国に入る時
代は終わり、イエス様と一体になって入る時代に変わったのです。イエス様の正
しさは最高です。この方と一体になるのだから、ヨハネの正しさより偉大な正し
さを持つことになります。だからこそ「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉
大である」といわれるのです。
では「彼が活動し始めた時から今にいたるまで、天の国は力ずくで襲われており、
激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。
」
(11~12 節)というのはどのよう
な意味なのでしょう。
「律法と預言者はヨハネの時までである。それ以来、神の国
の福音が告げ知らされ、誰もが力ずくでそこに入ろうとしている。
」
(ルカ 16:16)
とも書かれています。今までは律法学者やファリサイ人たちが、天国の前に立ち
はだかって「お前は天国には入れない」といって、罪人たちを天国に入れません
でした。そして自分も入ろうとしないのです。しかし神様はすべての人を天国に
入れてくれます。善人も悪人も招きます。時々、信仰を天国に入るための条件に
しているクリスチャンもいます。しかし神様は無条件に入れてくれます。神の純
粋な愛は、いかなる交換条件もつけません。正しかったら入れてやる、信じたら
入れてやる、というなら条件付きです。子が親を信じてくれない時、親は悲しく
なります。だからといって子を見捨てるでしょうか。放蕩息子の父親は、息子が
父親を信じなくても、息子を信じて帰るのを待っていたのではないのですか。信
仰は条件ではありません。囚われや怖れから自由になるための手段です。神は誰
も裁きません。信じようとしない本人が自分と回りを裁いているだけです。でも
そうやって自分の正しさで天国に入ろうとしている律法学者やファリサイ人たち
は入れず、今まで絶対に天国には入れないと言われてきた、盗賊、罪人、徴税人、
遊女、病気の人、体の不自由な人たちが、イエス様を信じて彼らに先立ってわれ
先に、天国の門に入っていったのです。こうやって彼らによって天国は力ずくで
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奪われているのです。
●トルストイの民話があります。ある男が罪を重ねて 70 年生きてきました。病気
になっても悔い改めず、死がせまった時、最後に彼は泣いて「十字架の強盗を御
赦しになったように私を赦して下さい」といって死にました。彼は天国の門の前
に立ちました。彼は戸をたたいて、
「天国に入れて下さい」といいました。中から
ペトロがいいました。
「罪人は天国に入ることは出来ない。立ち去れ」すると彼は
いいました。
「あなたはキリストの側で教えを聞いたのに、キリストを見捨てたで
はありませんか。私も同じなのです。
」すると扉の陰の声は静まりました。次に中
からダビデがいいました。
「罪人は天国に入ることは出来ない。立ち去れ」すると
彼はいいました。
「あなたはすべてを持っていたのに、貧しい男から妻を奪い、そ
の男を殺したではありませんか。私も同じことをしたのです。
」すると扉の陰の声
は静まりました。最後にヨハネがいいました。
「罪人は天国に入ることは出来ない。
立ち去れ」すると彼はいいました。
「あなたは神を愛であると書いたのはあなたで
はありませんか。どうして私を追い出せるのですか。
」すると、天国の門が空き、
彼らが悔い改めた罪人をだいて、天国に入れてくれました。
天国は奪うものです。既に門は開いています。どんな者でも入れるのです。さあ
キリストの愛を信じて、あなたも入りなさい。
「私も天国に入れるでしょうか」と
どうして私に聞くのですか。
「入れるでしょうか」と聞いている時、あなたは「自
分の正しさと清さ」を勘定しているのです。
「ああこれでは入れない」と自分の清
さを図っています。長血を患う女を見なさい。彼女はどうしても癒されたいと思
ってキリストの衣にしがみつき癒しを手に入れました。盲人バルテイマイを見な
さい。彼はキリストが立ち止まるまで叫び続けました。外国人である女を見なさ
い。どんなに馬鹿にされてもパンを貰うまで食卓から離れようとしませんでした。
徴税人ザアカイを見なさい。彼はキリストをどうしても見たかったので走って行
って木に登り、彼の家にキリストを迎え入れました。罪があっても、病気であっ
ても、天国に入るのに何の問題もありません。天国を奪いなさい。キリストはそ
れを待っているのです。天国を、祝福を、永遠の命を奪いなさい。
❸【必ず来る方】
「アドヴェント」は日本語で「待降節」と訳されています。
「降誕を待つ期節」と
いう意味です。ですから今は「待つ時」だと思いやすいのですが、実は「アドヴ
ェント」は「来る」という意味です。この「待つ」ではなくて「来る」であるこ
とに、とても大切な意味があるのです。私たちが忙しくて、神様のことを忘れて
いても、神様は必ずやってくるという意味だからです。来ることはもう決まって
いるのです。私たちが熱心に信仰をするから来て下さるのではないのです。人間
は変わりやすい生き物です。調子のいい時には「神様、神様」といいますが、す
ぐに信じられなくなり、疑ってしまいます。
昔の修道士はこういいました。
「あなたがいくら熱心に祈ったからといって、太陽
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が早く昇るわけではない。大切なのは太陽が昇った時に、あなたが寝ていないこ
とである。
」キリストの再臨をいくら早めようとしても、神様には計画があります。
私たちの思い通りにはなりません。時は神様が決めておられるのです。自分中心
に物事を考えてはなりません。大事なのは、神様が必ず来て下さるのだから、安
心して待ちなさいということなのです。もう勝ちは決まっているのです。勝つか
負けるかわからないような戦いをしているのではないということです。もう勝っ
たのですから、喜びなさい。キリストは必ず来て下さり、世界を再建し、あなた
に栄光を与えて下さるのですから、のんびり、出来る限りをやればいいのです。
負けてもいいのです。負けではありませんから。決して失ってはならないものは
喜びです。確信です。キリストを信じる心です。牢獄にいるヨハネのように、私
たちの周りの時代も暗く、不自由かもしれませんが、魂は天国にあって賛美する
のです。信仰の自由さを味わいましょう。ああ、楽しい。
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