特集1 誌上講演 TOPICS 誌 上 講 演 人を育てる、 人に育てられる -柔道を通じて学んだこれからの生き方- 山下 泰裕 ご紹介いただきました柔道の山下でございます。 永遠なる友情を約束するものであ きょうは各省庁のリーダーになられる皆さんの前で、私の る」。 体験や経験をお話しできる場をいただき、大変光栄に思って いかに悪かったか、周りに迷惑か おります。 けてきたか、想像がつくでしょう。 この研修はリーダーシップ研修ですけれども、私自身は、 こんな私が柔道と出会って、それか リーダーはどうあるべきか、そんな話をする気持ちはござい ら変わっていきました。我が家で柔 ません。その資格も自分にあるとは思っておりません。きょ 道経験者は一人もいないのですけれ うは私のこれまでの生きざま、あるいは現在の活動、こういっ ども、近所に警察を定年でやめられ たお話をさせていただき、その後一緒にリーダーとはどうあ て柔道道場を開かれた方がいました。そこの指導は厳しいと るべきか、考えていければと思っております。 いう評判がありました。私が小学校 3 年か 4 年に上がる前に、 若干皆さんより人生の先輩ですけれども、皆さんと違って、 何と私のクラスメートは、私がいるから怖くて学校に行けな どちらかというと鍛えてきたのは体のほうです。ですから、 いと登校拒否を起こしました。両親にも心配をかけて、周り 逆にきょうのこの研修の中で私も大いに刺激を受けて、いろ に迷惑をかけていました。後から両親より聞いたのですが、 いろ学んで帰りたいと思っておりますので、質疑のところで このままいったらうちの息子は将来人様から後ろ指さされる はどんどん厳しい質問をぶつけていただければありがたいと ような人間になってしまうんじゃないか、と心配して考えつ こう思っております。少しわかりやすいようにきょうは写真 いたのが柔道をやらせようということでした。 を幾つか持ってきておりますので、それを使いながら話を進 結果的に柔道との出会い、そしてもう一つ、素晴らしい指 めていきたいと思っております。 【編集注:小誌では写真は 導者との出会いが私を変えていきます。後ほどお話しします 掲載しておりません。】 が、私は、神奈川県体育協会の会長として、いじめ撲滅運動 これは私が幼稚園生のときの、同い年の同級生と一緒にバ に2006年から取り組んでおります。また、全日本柔道連盟が スの前で撮った写真です。真ん中の頭一つ抜けているのが私 世間を騒がせて大変なご迷惑をおかけしましたけれども、去 です。私だけ一段高いところに上っているわけではありませ 年 3 月、よかったら私を柔道界における暴力根絶プロジェク ん。小さいころから体が大きくて、物すごく元気がありまし トのリーダーにしませんかと、みずから手を挙げました。柔 た。そして負けず嫌いでした。これがみんな悪いほう悪いほ 道の大変素晴らしい恩師との出会い、この原体験が私の今の うに行って、実は幼稚園・小学校時代、私は大変な問題児で、 活動の一つの土台になっている、と思っております。 周りに迷惑ばかりかけておりました。 柔道を始めたのは小学校 4 年生のときです。ということは、 これは今から30年前のロサンゼルスオリンピックで優勝し 最初から人づくりという指導を受けていれば、同級生から表 て、郷里熊本に帰ったとき、小学校時代の同級生が私にくれ 彰状をもらうことはなかったでしょう。最初の道場の先生は、 た表彰状です。ちょっと読んでみます。「あなたは、小学校 素晴らしかったけれども、人間教育という視点はなかった。 時代、その比類稀なる体を持て余し、けんかをして相手を泣 我々スポーツ関係者は、よくスポーツは人づくり、人間教育 かせたり教室で暴れたりして、我々同級生に多大な迷惑をか だと言いますけれども、そこには指導者の果たす役割という けました。しかし、先のロサアンゼルスオリンピックに於い のが非常に大きいと思っております。 ては、我々同級生の期待を裏切るまいと持前の闘魂を発揮し、 実はこの表彰状というのは私にとって特別なものです。 不慮の怪我にもかかわらず、堂々と金メダルに輝かれました。 ちょっと意外に思われるかもしれませんけれども、私は過去 この事は小学校時代の数々の悪行を清算して余りあるどころ を振り返る、過去を大事にすることをよしとしません。です か、我々同級生の誇りとする処であります。よってここに表 から、私の過去の栄光を物語るものは、私の目につくところ 彰し、偉大なるやっちゃんに対し、最大の敬意を払うと共に、 には一切飾っていません。たった一つの例外がこれです。こ れを見ると、阿蘇山の下のほうの生まれ故郷のイメージが浮 りました。その先生が勝ち負けだけの話ではなく、柔道をや かんでくるんですね。小学校同級生の姿が浮かんできて、やっ る人間としての生き方、あり方、心構え、こんな話を繰り返 ちゃん頑張れよ、俺らも頑張るからなと励まされるような気 しされた。それが頭のてっぺんから体にしみわたるように がするし、迷惑ばかりかけたけれども、童心に戻れるような 入っていって、そこから変わっていきました。 気がします。ですから、この表彰状だけ我が家で私の小さな 一つだけ中学時代の白石先生の教えの話をしたいと思いま 書斎に飾っております。 す。先生は、 2 ~30名の柔道部員に対して、こんな話をされ 時々、色紙を頼まれますと、書くのはずっと15年、20年近 ました。「みんなの中から、将来、日本チャンピオンが生ま く同じで、 「挑戦」という言葉を書きます。夢への挑戦、可 れるといいな。日本チャンピオンとして日の丸を胸に世界の 能性への挑戦という意味です。実は、50歳までは、限界への 舞台で戦えるような選手がいたら最高だな。いいか、夢を大 挑戦ということを意識していましたが、50歳になってちょっ きく持てよ。大きな夢を、目標を持て。それを目指して頑張っ と考えを変えました。もうこの年になってあまり頑張り過ぎ ていけよ」。そういう話をされながら、途中から話が変わっ るのはよくないし、また限界と言えるまで本当に自分を追い てくる。「しかしな、どんなに柔道で強くなっても、チャン 込むまでの無理はもうしなくてもいいんじゃないか。ですか ピオンになっても、頑張れるのは30歳ぐらいまでだよ。どん ら今は夢への挑戦、可能性への挑戦、という思いで「挑戦」 なに強くなっても、柔道着を脱いだ後の人生のほうが大事だ という言葉を書いております。 ぞ。みんなが今、柔道を大事にしている。自分の目標に向かっ 去年の 1 月、ある新聞を見ていまして、こんなことが書か て誰よりも努力する。失敗しても、投げられても立ち上がっ れていました。過去に何をなしたかよりも、今何をなしてい て向かっていく。ルールを守る。あるいは仲間と力を合わせ るかのほうがはるかに重要である。しかし、それ以上に重要 る。我慢する。戦った相手に対して尊敬の気持ちを持つ。こ なのはこれから何をなそうとしているかである。その記事を ういったものというのは教室では学べないけれども、みんな 見て思わずそのとおりだと思いました。過去を振り返るん が社会に出ていくときに大事なことなんだ。いいか。柔道で じゃない、今と未来、これからに生きる。そんな自分であり 学んでいることは全て普段の生活、日常生活に生かせるんだ たいと思っております。 よ。みんながいつも俺の話を真剣に聞いている。俺の話を聞 くのと同じような気持ちでお父さん、お母さんの話、ほかの 恩師との出会いから学んだこと 先生の話も聞くんだよ。きちっと仲間や先生に挨拶できる。 当たり前だけれども、それが家に帰って、あるいは教室で初 次の写真は、 私を変えた素晴らしい柔道の恩師です。向かっ めて価値があるんだぞ。ぜひ柔道で大事にしていることを、 て左側が私の中学・高校時代の柔道の恩師の白石礼介先生、 日常生活や学業で、人生で大事にしてほしい。目指すのは人 右側が大学以降の私の恩師の佐藤宣践先生です。私が入った、 生のチャンピオン。たとえ柔道でチャンピオンになれなくて 熊本市内の熊本市立藤園中学校は、物すごく柔道が強い学校 も、みんなが柔道を通して学んだこと、大切にしてきたこと でした。私が入ったときには、公式戦 9 年間無敗の記録を持っ を日常生活で生かしていけば、ここにいるみんなが人生の ていました。ちょうど私が中学 1 年生のときに全国中学生柔 チャンピオンにはなれる。だから勉強頑張らねばいかんぞ」 。 道大会が始まって、私が 1 年生のときから全国 3 連覇しまし 大好きな柔道の指導者の影響というのは大きいですね。純 た。私も 1 年生のときは補欠でしたが、 2 年、 3 年生のとき 粋な中学 1 年生です。何の疑いもなく、これがすっと入って は正選手として出場しました。 いくんですね。親の話や担任の先生の話は、小学校時代は横 右側の佐藤先生は、私が出場したロサンゼルスオリンピッ 柄で聞きませんでした。中学校では、席替えがあったらいつ クのときの日本代表チームの監督でした。柔道の指導におい も最前列の真ん中でした。その中学での教え、習慣というの ては超一流の指導者にご指導いただきました。 2 人に共通し は50歳まで続きました。鈍いものですから、50歳になってはっ ていたのは、ただ単に柔道の指導をするだけではなく、教育 と気がつきました。いろんな勉強会、交流会で私が最前列の 者でした。柔道のチャンピオンをつくるだけではなくて、目 真ん中にいつも座っていると、入ってこられた講師の方が非 指すのは人生の勝者であり、勝ち負けだけの柔道ではなく、 常に緊張される、時には動揺されます。今では、大体前から 人生に生きる、人生に生かせる、そんな柔道を掲げておられ 3 分の 1 ぐらいのところの、一番右か一番左の端のところに ました。 座って、できるだけ講師の先生がプレッシャーを受けないよ 私は暴れん坊でしたが、柔道大好きでした。特に白石先生 うな、そういうところで聞くようにしていますけれども、こ の教えを素直に聞いていけば強くなれる、そういう思いがあ の中学時代の教えというのは今でも私の中で生きています。 特集1 誌上講演 TOPICS 時々、講演のときに使う私の演題が「人生の金メダルを目 立する状況にありまして、先生は対外文化協会等をつくって、 指して」です。中学時代の恩師の白石先生の教えです。オリ ソ連を中心とした東側の国とのパイプ役を果たして、政府が ンピックでは金メダルを取れました。でもこれからの私の生 なかなか伝えられないメッセージ等もソ連に伝えたりされて き方が人生の金メダルをもらえるかどうかを決めると思って いました。 います。白石先生の教えを大事にしていきたいです。 実は、このオリンピックの最中に、松前先生は、当時、ソ 大学以降の私の恩師の佐藤先生について話します。実は、 連の対日政策をほとんど決定する立場にあったコワレンコさ 私は私 1 人特別待遇でした。言い方を変えると私はエリート んという方と面会されます。モスクワには私のほかに私の恩 部員でした。東海大柔道部には立派な寮があり、その隣に佐 師の佐藤先生、あるいは東京オリンピック金メダルの猪熊先 藤先生が住んでおられた。私だけ寮に入らないで、先生の家 生、いろんな方が来ましたけれども、コワレンコさんと松前 に住まわせてもらいました。先生のご指導を得て、私は世界 先生との会議に私も連れていかれました。23歳の私が「行く 選手権、オリンピック、あるいは全日本でチャンピオンにな ぞ」と言われ、「はい」と答えて、みんな行くのかと思って り、特に全日本選手権で 9 連覇をなし遂げましたが、やはり いたら、こちら側は、松前先生と秘書と通訳と私だけです。 振り返ってみますと、先生から受けた教えは、技術的な指導 何で俺はここにいるんだろうと、その意味が全くわかりませ よりも、先生の生きる姿から学んだことのほうがはるかに大 んでした。 きかったと思っております。 終わってから秘書の方が、「山下君、あなたが何故ここに 同じ家の中に住んでいますから、道場や教室での先生だけ 同席したかわかる」と聞かれました。「いえ、わかりません」 ではなくて、先生のありのままの姿が見えるんですね。柔道 と答えたら、「先生はね、将来あなたにそういう役割を担え に対する姿勢、学生に対する姿勢、家族に対する姿勢、人生 るような人物になってほしいと思って、少しでも経験を積ま に対する姿勢―そこから受けたものが今の私の血や肉になっ せたい、そう思われて、この機会にあなたを呼ばれたのよ。 ていると思っています。 これからもそういうことがあった時には、先生があなたに対 私も教育者の一人です。まだまだ発展途上ですが、いつか してどういう期待を持っているのか、そういうことも考えな 自分の働く姿で、生きる姿勢で若い人たちに何かを伝える、 がらその場に臨みなさいね」と言われました。 そんな人間を目指していきたい、と思っております。 23歳の私にとって、オリンピックを目指すだけの私にとっ 大学 2 年生で、当時史上最年少で全日本チャンピオンに ては、正直言って訳のわからない話でした。しかし、 そういっ なったときの写真です。向かって左側が私の祖父です。私が た場やいろんな経験を積ませていただく中で、私は若いなり 初孫でした。私を全面的に応援してくれました。右側が東海 に人生いかにあるべきか、このことを真剣に考えるように 大学の創設者であり、私の人生の師である、松前重義先生で なっていきました。 ございます。先生も同じ熊本のご出身でした。そして若いこ 松前先生から柔道の指導を受けたことはございません。で ろ柔道をやっていました。柔道を通して心身を鍛え、そして も亡くなられた後、多分、先生は柔道の山下は俺がつくった 仲間との友情を育まれました。その後、先生は科学技術者に んだ、俺が育てたんだ、そんな思いでおられたと思います。 なられ、 政界にも進まれるのですけれども、東海大学でスポー 今も後ろのほうから私を見守っていただいていると思ってい ツを奨励しているのはそういった先生の原体験によるところ ます。 が大きいと思います。 晩年、亡くなられる前に先生は私を呼ばれて、こんな話を 松前重義先生と私の祖父は同い年でした。私が30代半ばの されました。「山下君、僕は君を一生懸命応援してきた。僕 ときに先生は亡くなられたのですけれども、亡くなられた後 が何で君をこうやって応援してきたかわかるか。試合で勝っ に何人かの方々からは、 「山下君、先生は君のことを本当の てほしい。もちろんそれだけじゃないよ。君には日本で生ま 孫のように思っていたんだよ」、そんな話をお聞きしました。 れ育った柔道を通して世界の若者と友好親善を深めてほし 非常にかわいがってくれました。非常に応援していただきま い。それだけじゃない。君は将来、スポーツを通して世界平 した。いろんな経験を積ませてくれました。 和に貢献できる、そんな人間になってほしい。だから僕は君 1 つだけ話をします。1980年、旧ソ連のモスクワオリンピッ を応援してきたんだよ。わかってくれるか」。こんな話をさ ク、日本はこれボイコットして不参加でしたけれども、当時、 れました。 松前先生は国際柔道連盟の会長でした。そしてソ連に行かれ ソ連と何で交流しているかという話もされました。 「僕は ました。私も次のオリンピックのために参考になるだろうと この日本というのを限りなく愛している」。先生は、社会党 いうことで同行しました。当時、ソ連と日本は冷戦下で、対 の国会議員でしたけれども、東海大学附属高校、東海大学な どの全ての学園の武道館には日の丸が掲げられております。 です。モスクワのオリンピックの柔道では、私を含めて 7 人 そして天皇家ともかなり深いおつき合いがございました。 「僕 の幻のオリンピック選手がいましたが、実は 7 人全員がオリ は、共産主義は相入れない。しかし今の日本は政治も経済も ンピック初出場でした。そして私以外の 6 人は、モスクワ以 全てがアメリカのほうを向いている。しかし、日本海という 降のオリンピック代表になることなく全員引退されました。 狭い海を隔てた向こうにはソ連というとてつもない大きな国 ほかの選手にとっては、一生に一回のチャンスでした。オリ が控えている。たとえ学術、芸術、文化、スポーツ、そういっ ンピックは、冬季、夏季、交互に 2 年ごとに来ます。夏季の た分野だけであろうとも、細くてもこのパイプをつくってお オリンピックは 4 年ごとに来ます。でも多くの選手にとって くことが何らかの形で国益になる。僕はそんな思いでソ連、 は、本当にピークで迎えるというのは一生に一回です。私に あるいは旧ソ連圏との交流を進めてきたんだ」。こんな話も とってもやはり一番勢いがあったのは、1980年のモスクワオ されました。 リンピックではなかったかと思います。 スポーツを通した世界平和と言っても、30代半ばの、ちょ ロスのオリンピックは、最後のチャンスですから、やるべ うど全日本の柔道の監督としてスタートしたばかりの頃です きことをやり尽くして、やり残しなく臨んだはずだったので から、何ができるかさっぱりわかりませんでした。でも人生 すけれども、情けないことに 2 回戦でけがしました。足を引 というのは不思議なものです。さまざまなご縁をいただいて、 きずっての苦しい戦いになりました。何とか苦しみながらも 外務省のほうからも、あるいは国際交流基金からも、いろん 準決勝まで上がり、準決勝でフランスのデルコロンボ選手と な民間企業からもご支援いただいて、2006年からNPO法人 対戦しました。それまで 3 回試合して全部私が一本で勝って 「柔道教育ソリダリティ」を立ち上げました。松前総長の思 いる相手でした。柔道は、対人競技だから相性があり、デル いの100分の 1 ぐらいかもしれませんけれども、国際交流活 コロンボ選手は、私にとって非常に相性がいい相手だったの 動も展開しております。 ですが、この試合では、開始早々、私が投げられてしまいま した。相手の選手が技をかけてきたのはよくわかりました。 オリンピック、頂点を目指した戦い あれぐらいのレベルになりますと、どんなスポーツでも、頭 でわかった瞬間に体が反応します。今だと思ったときには、 ちょうど30年前のロサンゼルスオリンピックの時、ご存じ そのチャンスを生かせるように体が動いています。来たなと の方もおられるかもしれませんが、私は 2 回戦で軸足のふく 思うと、それに対してそれを防げるように体が反応していま らはぎをけがして肉離れになりました。今でも比較的多くの す。 方が私のことを知っていたり、あるいは30年前のロスオリン さらにレベルが高くなると、頭で何も考えないで、とっさ ピックが終わった後に生まれた年代の人からも、あれ山下 に無意識に体が動くということもあります。来たなとわかっ じゃないのと言われるのは、足をけがして勝ったからです。 たら、100回やったら100回、私の体は反応するはずだったの もしも足をけがしなかったら、もっと簡単に勝ったと思いま ですが、けがして足が動かなかったので、棒立ちで受けてし す。みんなは、 「ああ、やっぱり山下は強かった」と言って、 まった。一本にはならなかったけれども私が投げられたので、 でも次の日には別の選手のほうに注目が行って、私は誰の記 会場はどよめきました。多分、多くの人が山下はここで敗れ 憶にも残らなかったと思います。ですから、私にとっては、 ると思ったはずです。実は私もそう思いました。 勝つまでは、けがが最大の災いでしたが、けがの功名なのか もともとちょっとぼーっとしているのですけれども、それ もしれません。 がさらに上気した上に、もう目の前にかすみがかかっている ちょっとオリンピックの話をしたいと思います。私にとっ みたいになり、他人事のように、ああ俺はここで負けてしま て 3 度目のチャンスでした。 1 回目が1976年のカナダのモン うのかなと思いました。その瞬間に物すごく厳しい激しい声 トリオール。全日本選手権で私が初めてチャンピオンになっ が私の内側から聞こえてきたのです。「何だお前は。お前は たのは翌年なので、 1 年の差があり、わずかな差で敗れ補欠 一生懸命頑張ります、頑張ります、頑張りますと言った頑張 で終わりました。 4 年後の1980年は代表になりました。しか りは、この程度のものか。お前はこのオリンピックで足をけ し日本はモスクワオリンピックをボイコットした。代表にな がして、こんなぶざまな試合をするために来たのか」 。こん りながらもオリンピックに出場できない選手のことを、マス な声が聞こえてきました。この声を聞いて、私は立ち上がっ コミの方々は「幻のオリンピック選手」と呼びました。 て向かっていくとき、思わず心の中で、「いや違う。俺が今 私にとっては、ロスのオリンピックが 3 度目のチャンスで、 まで一生懸命頑張ってきたのは、オリンピックに来て足をけ 再び代表になりました。そして初めて出場したオリンピック がして、こんなぶざまな試合をするためじゃない。こんなけ 特集1 誌上講演 TOPICS がで、この程度のけがで負けてたまるものか」と叫びました。 て相手の技をかわした。練習でも試合でも一回もやったこと 多分、鬼みたいな顔をして、すさまじい形相で相手に向かっ のない動きができた。結果として相手の選手の技は空を切っ ていったと思います。 て、勝手に倒れてしまったのです。 ここで相手が、それまでの攻めの柔道から守りの柔道に変 我々もいろんな場で非常に厳しい決断・判断をしなきゃい わりました。柔道の戦い方が守りになったのではなくて、気 けない、あるいは思いもよらないような事態が起きることが 持ちが守りに逃げたのです。そのすきを突いて逆転で私が勝 あります。でも、そういうときにやはり上に立つ者が動揺し つことができました。私の柔道人生の中で、外国の選手に相 たり慌てふためいたりすると、状況が正しく見えなくなる。 手の技で投げられるというのはこれが最初で最後でした。 今のこの時代において、命をとられるなんてことはほとん スポーツに限らずいろんな場面では、攻め一辺倒でいきま どないと思います。何故覚悟を決めることが大事なのか。覚 せん。守らなければならないときもある。頑張って踏ん張ら 悟を決める、腹をくくると事態というものが冷静に見えてく なければならないときもある。でもスポーツにおいて一般の る。何をなすべきなのか、どこに問題があるかということが 人たちは、気持ちまで守ってしまう、気持ちまで逃げてしま 見えてくる。ですからもう現役やめて29年ですけれども、 「開 うのですね。 そうしたら流れがまったく変わってしまいます。 き直り」は、最近は立場がだんだん重くなってきまして、選 守るときほどより強い気持ちが必要です。戦い方は「守り」 手時代より今のほうが自分にとっては大事なのかなとも思い でいくけれども、 気持ちは絶対「守り」になっては駄目です。 ます。 「来るなら来い、一歩も引くもんか」、そういう強い気持ちが しかし、何かうっかりしたときに、リーダーの人が慌てふ なかったら守り切れなくて、流れが変わってしまうと思いま ためくことがあります。そうすると周りにも影響が起きます。 す。 やはり中学時代の恩師の白石先生が言われたように、畳の上 何とかこの試合に勝って決勝に臨みました。決勝に上がる と人生はつながっている、と改めて実感しております。最近 前、佐藤先生が私にこう言われました。「山下、投げられろ。 の私のよく使う言葉に、 「今の私にとっては、これが柔道だ、 投げられてもいいぞ。一本にならなかったら試合は終わらな ここが道場だ」があります。そんな思いでおります。 いんだ。わざと投げさせて、しがみついて寝技に持っていく 実は、中学 2 年生のときに「将来の夢」という作文を書か 手もあるぞ」 。当時、私は体重が127、 8 キロありました。普 されました。私はこんなことを書いていました。「僕は柔道 通に立っていると、けがした足のほうにも63、 4 キロの体重 が大好きだ。一生懸命柔道の稽古に励んで、柔道の強い高校、 がかかりますが、寝技になって膝をつくとふくらはぎに負担 強い大学へ行きたい。僕の夢は柔道の選手としてオリンピッ がかかりません。 クに出場する。オリンピックに出場してメインポールに日の もう一つ、 「泰裕、この試合で俺とお前の師弟の関係は最 丸を仰ぎ見ながら、君が代を聞いたら最高だろうな。また現 後にしよう」 、それが私を送り出す最後の言葉でした。「人生 役終わった後は、柔道のすばらしさを世界の人々に広げるよ 最後の勝負に持っていけ」 、多分、先生はそういうふうに言 うな、そんな仕事がしたい」。こんな作文を書いていました。 いたかったのだと思います。 夢が現実になりました。 私の現役時代の得意技の一つは開き直りです。肝を据えて、 過去は全部忘れた方がいい、そう思っていますけれども、 腹をくくって、です。何故今ここでこういう話をしているか オリンピックで勝ったこの瞬間だけは一生忘れないと思いま というと、これは現役時代だけではなくて、今の私にとって す。「ああ、俺は世界で一番幸せな男なんじゃないかな」 、そ も物すごく大事なことになっているからです。私はその場で んな思いでいっぱいでした。苦しんで苦しんで苦しみ抜いた 思いました。どう考えても自分に勝てる試合展開が浮かばな 中にあったのです。しかし、オリンピックの金メダルは、自 い。しかし一回もチャンスがなくて試合が終わるということ 分だけの力で取れるものじゃない。自分だけの努力でどうな はあり得ない。 1 回ぐらい必ずチャンスは来る。どこで来る るもんでもない。すばらしい恩師、たくさんの稽古仲間、い かわからない。しかし、そのチャンスを呼び込むためにも、 ろんな方々の支え、そんなものが一つになって自分の夢が現 今まで以上に激しい気持ちで前を向いて、相手を見据えて向 実になった。そういう思いでいっぱいでした。 かっていこう。こうやって開き直っていきました。 中学 2 年生が日の丸、君が代と言うと、ちょっと不思議に 相手のエジプトのラシュワン選手はやる気満々でした。力 思われる方がおられるかもしれません。普通だったら同じよ みがありました。気負いがありました。開始早々、思い切り うなことを作文で書くとしたら、大半の人はオリンピックに 技を仕掛けてきます。今度は反応できました。それまで一度 出場して金メダルをとりたいと書くと思います。何故これが もやったことのない体の動きができました。すっと足を引い 私にとっては、日の丸であり君が代だったのか。これは、実 は、私が小学校 1 年生のときに、1964年、東京オリンピック を聞いて夢を持つことの大切さがよくわかった。どうしたら がありました。ふだんは学校が終わって帰ってくると、かば 夢を持てるでしょう」。こういう質問を受けることもありま んを放り出して日が暮れるまで遊んだ私が、国を挙げてこの した。 オリンピックを成功させようと盛り上がっていたときに、こ 夢を持たないのは若者や子供たちのせいでしょうか。 私は、 のオリンピックの期間中はテレビの前に座ってずっと日本選 我々大人の責任のほうが大きいと思っております。 我々の姿、 手の活躍を応援していました。 今の世の中の価値観というものを映し出しているのが今の子 日本の選手が活躍して、揚がる日の丸、流れる君が代、選 供たちの姿ではないでしょうか。ちょっと極端かもしれませ 手の喜ぶ姿、興奮するアナウンサーの声。小学校 1 年生なが んが、私が小学生や中学生だった昭和40年代の前半、当時の ら、それを見てこめかみがじーんとくる。その記憶が残って 我々の暮らしぶりを今もしVTRで見ますと、まさに発展途 いるのですね。 あの東京オリンピックの体験が、金メダルじゃ 上国の暮らしと同じだと思います。でも我々には、夢があり なくて日の丸、君が代という言葉を書かせたのではないかな ました。瞳が輝いていました。明るい笑顔がありました。私 と思います。 は、もしかしたら子供たちを取り巻く環境としては、今より 昨年 9 月、ブエノスアイレスのIOC総会で2020年のオリン 昔のほうがずっと子供にとってはより望ましい環境なのかな ピック・パラリンピック招致が決まりました。多くの人たち と度々思うことがあります。物質的には今のほうがはるかに に夢や感動を与え、そしてこのオリンピックを成功させ、ス 恵まれているでしょう。しかし、何か大切なものを我々が失っ ポーツがより多くの人たちにとって身近なものになり、そし てしまっているのではないでしょうか。 てまた世界から多くのスポーツ関係者だけじゃなくて、一般 子供たちが瞳を輝かせて、明るい笑顔で、夢を持って人生 の方が、たくさんの方が来られる。こういう方々にオリンピッ を生きていって、多少の失敗に折れない。我々大人は、そう クを通して日本というものを、日本人というものを、この日 いう世の中をつくることに対して努力をする責務があるので 本国家をより多くの方に感じてもらい、知ってもらいたい。 はないかと思っています。 私も少なからず役割を担ってこの2020年に向けて努力してい 私はスポーツの力を信じています。勝ち負けだけがスポー きたい、こういうふうに思っています。 ツではありません。ルールを守り、仲間と力を合わせて、そ して戦った相手を尊重し、失敗しても失敗しても立ち上がっ 夢の力、スポーツの力を信じる て向かっていくことが大事です。目先の結果ばかり求めるこ とには私は非常に大きな弊害があると思っております。 私は、 今から14、 5 年前、日本で最初の女性宇宙飛行士、向井千 勝ち負けだけのスポーツではなくて、スポーツを通してフェ 秋さんが自分の母校の高校に帰られて講演された講演録を読 アプレーの精神、スポーツマンシップ、ルールの遵守、相手 んだことがあります。こんなことが書かれていました。「私 への尊敬、我慢する力、そういうことを伝えていきたい。 はいろんな人から質問される。 『向井さん、あなたはどうし 幸い、昨年の 6 月から日本オリンピック委員会の理事にな て宇宙に行けたのか。あなたが宇宙飛行士になる一番大きな りました。日本オリンピック委員会の理事となって、私に一 理由は何か』 。大半がこんな質問である。私が宇宙に行けた 番求められているのは、まず2016年、あるいは2020年で柔道 のは、宇宙飛行士になるには、いろんな理由がある。いろん がたくさんの金メダルをとること。そして2020年においては な出会いがあって、いろんな幸運が重なる。しかし、 1 つだ 柔道だけじゃなく、多くのスポーツがたくさんのメダルをと けその理由を挙げろと言われたら、私は迷わず次のことを挙 る。その成果を上げることに対して汗をかくことが私に求め げたい。それは皆さんと同じ高校生時代、私は宇宙飛行士に られていると思います。しかし、私の役割はそれだけじゃな なりたいという夢を持った。その夢を持ち続けてきた。これ い。日本オリンピック委員会、日本体育協会の役割はそれだ こそが私が宇宙飛行士になれた一番大きな理由である」。そ けじゃない。スポーツという限られた切り口だけではありま んなことが書かれていました。そのとおりだと私は思いまし せん。子供たちが瞳を輝かして生きていく、そのことに触れ た。 て同じような志を持つ多くの人と手をつないで、心を一つに 夢の力。私は、これは非常に大きいものであると思ってい して活動していきたいと思っています。これはこれからの私 ます。しかし、現実に今の若者、少年少女、子供たち、どれ のライフワークの一つだろうと思っています。 ぐらいの人たちが夢を持っていますか。いろんな機会を利用 私の好きな言葉の一つに、昭和の思想家、安岡正篤先生の して、私は夢を持つことの大切さを、日本国内だけじゃなく 「一燈照隅、万燈照国」という言葉があります。一燈という て海外へ出ても伝えています。なかには、 「いやあ先生の話 のは 1 本の明かりです。 1 本の明かりがあれば照隅、即ち、 特集1 誌上講演 TOPICS 隅を照らす、自分の足元だけでも照らすことができる。万燈 迷惑だよ、やめてほしいものだ」と思っていました。ただ口 とは、足元を照らせる人が万人集まると万の明かりになり、 に出して言わなくても思いというのは伝わるものです。この 照国、即ち、国を照らすことができる。 学生はいつも私を避けるようにしていました。 もう一つ私の好きな言葉に、「 1 人では何もできない。し あるとき一本の電話が私のところにかかってきました。岡 かし、その 1 人が動かなかったら何もできない」という言葉 山県の白血病のお子さんを持つお母さんからの電話でした。 があります。多くの人が力を合わせて、子供たちが生き生き 神奈川県伊勢原市にある東海大附属病院が白血病の治療で非 と生きていく、そんな社会づくりにこれから活動を進めてい 常に成果を上げていて、ここで診てもらえるということで、 きたい、こう思っております。 ご両親とお子さんで岡山県から出てこられたそうです。担当 のドクターは、ご両親に対して、この治療を本格的に始める 指導者としての経験から学んだこと には献血者を多数確保しなければならないので、まず献血者 を確保して、それができたら早速治療に入りましょうと言わ ロスオリンピックの翌年に私は現役を引退しました。そし れたそうです。何のつてもない、知り合いのいない神奈川県 て指導者としての道を歩き始めました。どうもあのころから 伊勢原市で、ご両親が市役所とか高校とか一生懸命頭を下げ 過去は振り返らないという考え方を持っていたみたいです。 て回られたそうです。しかしどこからもいい返事がない。 現役をやめたときにこういうふうな目標を掲げました。「も がっくりうなだれて肩を落としたときに、私のことが頭に う全てが終わった。もう選手山下は存在しない。全てまたゼ 浮かんだそうです。「ああそうだ、東海大学って柔道の山下 ロからのスタート。もう選手山下みたいな華やかな人生は出 さんがいるじゃないか。山下さんのところにはいっぱい学生 てこないだろう。しかし、少なくとも選手山下の努力、創意 さんがいる」。わらをもすがるような思いで私に電話をして 工夫、熱意、これには負けたくない。それ以上の熱意・情熱 きたのです。 を持って、指導者としての第 2 の人生を進んでいきたい」。 早速担当のドクターと話をしました。そこでわかったこと そんな思いで、やる気満々で指導者の道を歩き始めました。 は、必要な血液型はA型で、もし協力してくれるのであれば、 しかし、自分がやることと、ほかの人を育み育てるという 緊急の場合、24時間以内に最低 1 人、できれば 2 人駆けつけ のは違うのですね。正直言って自信がありました。俺は誰に る体勢をとってほしい、ということでした。うちの100名い もできないような努力をして、誰よりも工夫して考えて、だ る柔道部員にこの話をしました。みんなが、先生やりましょ から必ず選手を伸ばせる、選手のいいものを引き出せると う、協力しましょうと言ってくれました。間近に試合を控え 思っていました。けれども、熱意があるものの、自分だけの ていないA型の学生、約20名がこれに協力することになりま わずかな体験・経験だけで自信を持ってやるから、当時の学 した。その中に、例の 4 年生も入っていたのです。最終的に 生たちは非常に大変だったと思います。いっぱい失敗しまし は、そのお子さんは、お父さんの骨髄が合って、元気に退院 た。いろんな試行錯誤を繰り返しながら、人を育み育てると して帰りました。退院する前にお母さんが私のところに来ら いうことを私自身が少しずつ理解していけるようになったよ れて、涙を流しながらお礼を述べられました。 うな気がします。 そこで私が知ったのは、その 4 年生が何度も何度もそのお きょうは一つ、私が問題児と思っていた柔道部の部員が実 子さんを励ましに行っていたことです。電車とバスを乗り継 は素晴らしい心を持っていて、彼から私が教えられた、気づ いで約 1 時間かかります。教育実習等で行けないときには激 かされた、そして今の私の生き方に非常に影響を与えている、 励の手紙までよこしていた。そのことを私はお母さんから知 という話をしたいと思います。 りました。そこで、稽古の最初にみんなを集めて、 「みんな 私が東海大柔道部の監督になって 3 年目のことです。当時 の協力のおかげで誰々君、無事退院が決まったそうだ、 よかっ も今も東海大柔道部というのは日本で 1 、 2 を争う強豪チー たな、本当にありがとう。特に 4 年生の誰々はこんな素晴ら ムです。世界選手権やオリンピック等にも多数の有力選手を しいことをした。前に出てこいよ。みんな拍手しよう」と呼 輩出しています。柔道部で非常に 1 人ひっかかる 4 年生がい びかけました。そして私はその 4 年生の手を両手で握り締め ました。あまりやる気が見えないのです。モチベーションが て、「おまえがやったことは素晴らしいことだよ。この気持 低い。そして私から見ると、悪いほうへ悪いほうへ、楽なほ ちをこれからも大事にしていけよ」と語りかけました。 うへ同僚や後輩を引っ張っているように見えました。口に出 後々振り返ってみますと、もしかしたら最も認めてもらい しては言いませんけれども、心の中で、 「そんなにやる気が たい柔道部の監督である私に、初めて彼が認められた瞬間で なかったらうちの柔道部にいる必要ないじゃないか、お前は はなかったかなと思います。彼は高校時代、兵庫県のチャン ピオンでした。高校のときは毎週のように試合があって、い 教育に携わる立場でわかるべき基本中の基本のことです。そ つもエースとして大活躍をした。日本一柔道の強い東海大学 れさえ私には身についていませんでした。 柔道部に入って、頑張ってレギュラーとして活躍したい、そ 我々は人を評価するとき、人を見るとき、一面だけから見 う思っていたのは間違いない。もしかしたら難しいけれども、 て決めつけてはいけない。できるだけ多面的にさまざまな面 胸に日の丸をつけて国際大会で戦いたいと思っていたかもし から、できるだけ全体的に見ていかなきゃいけない。そのこ れません。しかし、入ってみたらレベルはえらく高い。 1 年 とを私に気づかせてくれました。 生のときは全く試合のチャンスがない。でも 1 年生は自分が 褒めること、認めることが大切です。そんなことはわかっ 一番下だと思っていますから、試合のチャンスがなくとも頑 ています。いろんな成功者の本を読んでいますから。しかし 張れる。 気がついたのは、頭には入っているけれども、全く自分の行 2 年生になって、 1 年間一生懸命頑張ったけれども、下か 動につながっていないということです。 ら入ってきた優秀な選手に抜かれる。また 1 年頑張って 3 年 もう一つ気がつきました。私そのものは人一倍人から認め になる。また下から入ってきた選手に抜かれる。だんだん先 られたいタイプ。そして評価されると尽きることのないエネ が見えてきます。「ああ、どんなに頑張ったって、俺が頑張っ ルギーが内側からあふれ出るタイプであると。こういうこと たことを発表する試合は回ってこないんじゃないか」。そう を通して、それ以降、少しずつですけれども、私の学生に対 思ったときにモチベーションが下がり、目標を見失うことは、 する接し方が変わっていきました。 当たり前のことかもしれません。 もちろん、それ以前も学生のことは思っていました。でも しかし、私はそんな経験をしたことがないのです。ずっと 自分の立場から、自分の学生に伝えたいことをそのままスト 日の当たるところばかり歩いてきました。ずっと回り道をし レートにぶつけていました。それ以降、私が何を言いたいか ないできたので、そういった立場の人間のことを思いやる心 よりも、私が伝えたいことはどうやったら相手に伝わるかを が欠けていました。彼の思いが理解できませんでした。そう 考えるようになりました。もちろん相手は学生です。ですか いう学生を見て、表情を見て、声をかける、肩をたたきなが らまだまだ未熟だと思います。しかし、さまざまな違った体 ら、肩や頭をなでながら、「どうしたんか、元気ないじゃな 験・経験をしてきています。どうやったら彼らの腑に落ちる いか、何かあったのか、飯でも食いに行くぞ」とか、「俺の のか、伝わるのかといったら、中心は私じゃなくて相手です。 研究室に来いよ」と言って、話でも聞いていればまだいいの どういうタイミング、どういう言い方をするか。そのころか ですけれども、そんなことしたことがない。私が忙しいのな ら少しずつ学生との関係がよくなっていったような気がしま ら 4 年生とか、あるいはOBに、 「あいつ元気がない、何か困っ す。 ているかもしれん、ちょっと話でも聞いてやってくれるか、 私は思いますけれども、我々には誰にだって素晴らしいと 一緒に飯でも食ってくれよ」とでも言えばいいのに、そんな ころがある。誰だって不得手や苦手なところがある。そして こともしたことがない。大変恥ずかしながら、私が食事に誘 自分の得意なところに光が当たると、その人がその人らしく うのはいつも当時レギュラーの選手ばかりでした。 生き生きと輝く。教育は、英語ではeducationで、その動詞 私は、そういった学生に対して容赦がありませんでした。 educateのもともとの言葉の意味は、何かを引き出すという 道場で一生懸命頑張らない学生を見かけると、 「おい、貴様 意味であると聞いたことがあります。 やる気あるのか、なかったらこの道場から出ていけ」と私は そのとき私は思いました。教育って何か。単に何かを教え そんな言葉をかけてきました。 て、あるいは相手の間違いを指摘することだけを言うのでは たった一回私から褒められて、彼の柔道に打ち込む姿勢が ない。一人一人のもっといいところを引き出してやる、いい 変わるのですね。お母さんの話を聞いた瞬間から、私の中の ところに光を当ててやる。そうすると十人十色、万人万色の 彼のイメージが変わりました。そして彼が一生懸命頑張るよ 輝きを増していく。それも含めて教育ではないか。私はそう うになった。かける言葉も全く正反対になってくる。それま いうふうに考えるようになりました。 で私の前でおどおどした彼がほかの学生と同じように振る舞 問題児と思っていた学生から更に教えられたこと、気づか い、全く回転が逆になってきました。 されたことがあります。私は、体育学部で今から 5 年前、体 彼は 4 年間を通して試合に出場することはありませんでし 育学部長になりました。学部の仕事をほとんどせず、学科の た。でも最後、胸を張って大学を卒業していきました。そし 主任もやっていなければ、入試も教務も何もわかっていない て今もさまざまな柔道部関係の行事等には顔を出してくれて 私がいきなり学部長になりました。私が学部長のときに、私 います。彼が私に気づかせてくれたことは、人を育む立場、 が学生時代に学んだ先生も数人おられました。 3 分の 1 は私 特集1 誌上講演 TOPICS より先輩の、年上の先生たちでした。そんな中で私が各学科 ピック後から 8 年間やりましたけれども、実は私がこの 8 年 の主任と議論して、そして教授会にかけて、卒業生満足度日 間、全日本の監督をしていたころ、日本の柔道界に、いろん 本一の大学をつくろうという目標を掲げることにしました。 な問題が出てきます。柔道人のマナーやモラルが非常に低下 教育には時間がかかります。今の成果だけを求めると、も していきました。 しかすると何かを押しつけたり、あるいは学生に迎合するか 一つわかりやすい例ですけれども、柔道の大会を行うと、 もしれない。社会に出て、 5 年10年たって、その教えに気づ 体育館や武道館、具体的にいいますと日本武道館や東京体育 くこともある。社会に出て、あの東海大学体育学部での学び 館といったところの使い方が非常に悪くなりました。イン が生きてくる。あそこでの先生との出会い、友人との出会い ターハイとか国体とかの全国周回大会で、全国を回っていき が今の自分をつくっている。うれしいとき、あるいは苦しい ますと、いろんな県で、そこの県の柔道やスポーツに関係な とき、辛いとき、いつでも自分には戻れる場所がある。そん い人もかかわって、みんなで大会を成功させる努力をします な体育学部を学生みんなでつくっていこう、そういう目標を が、そういった方々から、もう柔道は引き受けたくない、柔 掲げて取り組んできました。 道はひどいと言われるようになりました。選手、監督、役員 そのために私が学部長としてまずなすべきことは何なの などの柔道関係者が平気で決まりを破る、ごみの山が出る、 か。学部の60名いる先生方がいかに生き生きと、生きがいを そういう苦情が聞こえるようになってきました。 もって、やりがいをもって研究活動、教育活動に取り組んで この写真の右側のポスターのご老人が柔道創始者であっ いってくれるか。そのための環境をいかにつくっていくか。 て、大日本体育協会、今の日本体育協会をつくられた、嘉納 これこそが学部長としての私の役割だろうと考えました。教 治五郎師範です。アジアで初めての国際オリンピック委員会 員としての教育活動と研究活動を通して、自己実現をし、人 の委員でもあり、今から102年前に初めてオリンピックに日 間的に成長する、生きがい、やりがいを持つ。そのための環 本から選手を派遣したときの団長でもあります。 境をつくることに全力を傾けてきました。 この嘉納治五郎師範が目指した人づくりや人間教育、ある 先生方が時間がたつのを忘れてその活動に没頭できるよう いは私が恩師から教わってきた柔道からかなり逸脱して、柔 な環境をつくる。先生方には苦笑いされましたけれども、 1 道界が勝つことばかりにとらわれて、勝たなきゃ意味がない、 つ実現できました。それは先生方の明るい笑顔です。鼻歌を 勝った者だけがものを言える、そんな柔道界へと変わって 歌いながら、そこで仕事するのが楽しくて仕方がない、そん いっている感じがしました。 な雰囲気をつくりました。 私は日本の柔道界で最も結果を求められる立場にありなが もう一つあります。これは、難しいことはわかっています。 ら、そういった柔道界が許せませんでした。柔道界の偉い先 東海大学メインキャンパスは小田急線東海大学前駅でおりて 生方に食ってかかるようになりました。「いいんですか、こ 15分ぐらい上り坂を上っていくのですが、駅をおりた若い先 んなマナーやモラルが低下して。こんな公共心も道徳心も欠 生がスキップをしながら大学に行きたくなってくる、そんな 落した柔道界で、これが嘉納治五郎師範が目指した柔道界で 学部をつくったら東海大学はどういう時代が来たって不滅で すか。嘉納師範が目指したのは人づくり、人間関係の柔道界 あろう。多分ここにも問題児と思った教え子から気付かされ じゃないですか。こんな柔道界でいいんですか」。上の人に たことが生きていると思っております。 訴え始めました。 去年の 8 月から全日本柔道連盟副会長という役割が回って 私が全日本の監督をしていたとき、我々全日本チームが目 きました。学部長時代と同じような姿勢で、多くの一緒に働 指すのは明確でした。我々が目指すものは最強の選手づくり く人たちが生き生きと目を輝かせながら仕事をする、そのこ じゃない。我々はただ強いだけの選手をつくるんじゃない。 とが自分の自己実現にもつながり、人間的な成長にもつなが 我々が目指すものは最高の、世界で最も本当の柔道家と言わ る、そんな連盟を作るべく心がけています。そして、そのこ れるような、そんな選手をつくっていく。そんな思いで取り とで多くの人の心に火をともしていきたい、と思っておりま 組んできました。 す。 2001年、全日本監督をやめた翌年に新しい役割が回ってき ました。日本の柔道界は全日本柔道連盟と講道館が協力して 柔道の精神を継承する 柔道ルネッサンスという活動を立ち上げました。もう一回、 柔道創始者である嘉納師範の理想の原点に立ち返って、柔道 2000年のシドニーオリンピックが終わって、私は全日本柔 を通した人間教育を進めていこうということで、責任者に私 道の男子監督の役割を終えました。92年のバルセロナオリン が任命されました。ぜひともやりたい職でした。我々が最初 につくったのがこの 2 つのポスターです。左側は子供たちや だけでいいのかという私の主張に対して、私より結果を残し 選手用、右側が指導者用です。小さい字ですけれども、「み た人はいませんので、それに対して反論できない。そして 4 んなで考えよう柔道の心」と書かれています。シドニーオリ 年、 5 年したところ、見回してみましたら、日本武道館、東 ンピックが終わった直後でしたから、シドニーオリンピック 京体育館は変わりました。 「柔道が一番きれいです。トイレ で活躍した、谷(旧姓 田村)、篠原、井上、阿武の写真を のスリッパもよく揃っています」。こんな声が聞こえるよう 使わせてもらいました。我々が目指すものとして、 「夢、友情、 になりました。 敬愛、挑戦」という言葉を使いました。 しかし、この活動は失敗しました。多くの仲間と力を合わ もう一枚のポスターは嘉納治五郎師範の写真を使わせてい せて、燃えに燃えてやっていったのですけれども、頑張れば ただきました。嘉納師範が著した柔道の理念である 4 文字熟 頑張るほど私ばかりに光が当たったのです。それが上のほう 語 2 つが書かれています。柔道有段者といいながらこの 4 文 のごく一部の人のひがみ、やっかみを生みました。「もう柔 字熟語を知らなかったらもぐりだと思ってください。柔道を 道界、かなりマナーもモラルもよくなってきたんだ。いつま やっている人はみんな知っているべき言葉です。 「精力善用」、 でもこのプロジェクトを進めるのはおかしい。特別委員会で 即ち、自分のエネルギーや活力をよりよいことに、最有効に 続けるべきじゃない」。そういう声が、ごく一部ですけれども、 活用していこう。もう一つは「自他共栄」、即ち、我々が目 柔道界の一番中心の方から公然と出るようになりました。 指すことは柔道を通して自分も他人もともに栄える、そんな もちろんみんなボランティアで、熱い思いで取り組んでき 世の中である。 ましたけれども、私も多少なりとも組織というものを学んで 嘉納治五郎師範は東大の文学部を出られた後、講道館を設 きております。組織の長が望まないものは、どんなに正しい 立されました。柔道の修行を通して心身を磨き高める、それ ことであっても、やっても労が多くて成果が少ない。一生懸 を社会活動に生かし、世を高揚する、よりよい社会をつくっ 命やっても、いろんな困難にぶつかるばかりで成果は上がっ ていく、それこそが柔道の目的である、としっかり書かれて ていかない。その長の人と話をして、2010年をもってこの活 います。そして、いろんな柔術を集められ、それを「柔道」 動を閉じることにしました。やり方、進め方に問題があった と名づけたのです。当時は「道」がつくものはなかったそう と思っております。 です。剣道は「撃剣」と呼ばれていたそうです。嘉納先生は そして、これが終わった途端に柔道界でまたさまざまな問 柔道と名づけて、それからしばらくして撃剣が剣道になって、 題、オリンピック金メダリストの内柴選手の暴行事件から、 合気道、空手道、相撲道、華道、茶道、いろんなものに道が ナショナルチームの女子選手の告発、セクハラ等、ほかにい つくようになりました。 ろんな問題が出てきたわけでございます。もう一回、人づく 大事なのは、柔道を通して学んだことを日常生活で生かす り、人間教育の柔道界を目指していきたいと思っています。 ことです。私たちには戻る場所があり、それは、嘉納治五郎 大変ご多忙の中で会長を引き受けていただきました宗岡さ 師範が目指したものは人間教育です。ここからスタートして ん、新日鐵住金のCEOでございます。合併してまだ 1 年半 いきます。 ぐらいしかたっていません。学生時代、東大の柔道部のキャ 私の大好きな言葉の一つに、「伝統とは形を継承すること プテンを務められました。あえて火中のクリを拾っていただ を言わず、伝統とは、その魂を、その精神を継承することを きました。宗岡さんは、「変えるべきものを変え、残すべき 言う」という言葉があります。全日本監督時代、我々柔道人 ものを残していこう。そして残すべきものは嘉納治五郎師範 は本当に創始者の柔道の精神を受け継いできたのだろうか、 の精神である。柔道を通した、人づくり、人間教育、これこ 目先の勝ち負けの結果だけ、美しい技だけ追い求めてきて、 そが今後の、柔道界がいつになっても残すべきものである」 。 一番大事な精神を見失ったのではないか。そういう思いがあ そういうふうにはっきりと発言されています。 りました。しかし、このルネッサンスの展開を通じて、柔道 そして私には、「山下君、一緒になって品格のある柔道界 界は大きく変わっていきます。 をつくっていこう」、そういうふうに言われています。外か それまでは、 勝って何ぼ、そんな雰囲気がありました。勝っ らは見えませんけれども、私から見ますと柔道界というのは ているチームとか、そこの指導者が肩をいからせて歩くよう 大きく変わってきています。柔道専門家ばかりではとてもこ な感じでした。しかし現実には、結果は残せなくても、人づ んな改革はできなかったと思っております。専務理事には同 くり、 人間教育を大事にした指導者の方がいっぱいおられた。 じ東大の柔道部出身の近石さん、愛知県警、大阪府警の本部 私は、柔道ルネッサンスを通じて、人づくり、人間教育を柔 長を務められた方になっていただいています。世間から見て、 道界がしっかりとやっていく必要があると考えました。勝つ 開かれた、風通しのいい、柔道の経験の有無を問わず、柔道 特集1 誌上講演 TOPICS の発展のために、誰でも集まってこられる柔道界にしたいと ありました。先ほど話した嘉納治五郎師範は、日本体育の父 思います。公益財団法人として、柔道界、柔道人のためだけ として、学校教育の中に、柔道に限らず、体操、陸上、バレー じゃなくて、柔道が社会に対してどういった役割を果たし得 など多くのスポーツを導入し、それを通した人づくり、人間 るのか。それを真剣に考えて行動できる、そんな柔道界を目 教育を熱心に働きかけられました。 指して今改革の真っただ中におります。 どんなスポーツも、我々が最も大事にしている精神という あと半年、 1 年すると少し中の改革が目に見えてくると思 ものの一つは、フェアプレーであり、スポーツマンシップで います。いろいろご迷惑をおかけして、我々は信頼を失墜し す。このフェアプレーの精神は、何もスポーツをやっている たわけですけれども、しかし厳しい視線で柔道界を見守って 方だけのものではありません。これを発揮するのは、校庭、 いただければと思っております。 グラウンド、道場、体育館だけではなくて、スポーツで我々 一日も早く子供たちや現場で指導する指導者の人たちが、 が大事にしているフェアプレーの精神というのを発揮する場 どこに行っても、誰の前でも胸を張って、 「私は柔道をやっ 所は日常生活ではないか、と考えます。 ています」と言える、そんな柔道界を早くつくっていきたい スポーツで大切なことは、ルールを守ることとフェアプ と思っております。私の柔道界における夢は、子供たちが肩 レーの精神です。いじめは、フェアプレーの精神に反するひ に柔道着を担いで道場に行くことに憧れるようにすることで きょうなことです。神奈川県の中学校で約 6 割の子供たちが す。柔道をやったことのないお母さんたちが、そういった姿 部活動を中心にしてスポーツをやっています。高校で 4 割ほ を見ながら、 「私は柔道ってよくわからないけれども、野球 どの子供たちが同様にスポーツをやっています。そういった とかサッカーほど面白くないけれども、柔道ってどこか違う 子供たちがフェアプレーやスポーツパーソンシップを日常生 よね、柔道って人づくりよね、人間教育よね」と言うように 活で発揮していけば、いじめ防止・撲滅につなげることがで なればと思います。我々が声高に叫ぶのではなくて、柔道人 きると考えて、私は各加盟団体の代表者に集まっていただき の後ろ姿を見て、一般の方々にそういうふうに見ていただけ ました。 る、そんな柔道界にすることが私ども柔道界におけるこれか 神奈川県体育協会の会長自体は、何の力もありませんが、 らの人生の大きなミッションであろうと思っています。 加盟団体はすごくて、野球、柔道、陸上、水泳、バレー、バ スケ、サッカー、体操など、ほとんど全ての競技団体が県体 スポーツを通じた人づくりへの取り組み 協に加盟しています。また、横浜市、厚木市、大磯町など全 ての市町村に体育協会があります。スポーツ少年団、 中体連、 2006年から神奈川県体育協会の会長になりました。実は私 高体連も加盟しています。大半が私より人生の先輩である代 の前任者は全て知事でした。2005年の秋に当時の松沢知事が 表者に集まっていただいて、もう一つの社会貢献、いじめ防 大学の私の研究室に 2 回訪ねて来られて、自分に代わって県 止についての緊急集会を開かせていただきました。 体協の会長を引き受けてほしい、と口説かれました。松沢知 そこで、 「もし皆様方の賛同が得られたら、一緒になって、 事が知事になったときに充て職で263の肩書がついてきて、 我々が最も大事にしているフェアプレーの精神を日常生活に そのうちの一つが県体協の会長だったそうです。 発揮して、少なくともまず神奈川県内からこのいじめ、この 松沢知事も大学時代にラグビーをやっていました。松沢知 悲惨なものをなくしていきましょう。我々に力がなくても、 事から、 「私もスポーツの価値はよく理解しているけれども、 加盟団体が一つになればこれが大きな力になるのではない 私ではとても県体協の会長は務まらない、ぜひ自分に代わっ か」と提案いたしました。みんなが賛同してくれました。 「や て引き受けてほしい」と口説かれて、大変ご熱心でした。う ろうよ会長、やろう」と言ってくれました。そしてこの活動 ちの松前達郎総長のところまで行かれて、最後は松前総長か がスタートしました。 ら、「知事がわざわざ俺のところにも来た。君が忙しいのは この左側が 1 枚目のポスターでございます。この私が写っ わかっている。しかし、神奈川県にメインキャンパスのある ているポスターだけは失敗でございました。私がイメージし 東海大学として、君がそういった活動を展開することによっ たものは全く違いました。あくまでもターゲットは小学生、 て少しでも地元神奈川県に恩返しができればありがたい。 中学生、あるいは高校生であり、彼らが憧れるような、欲し 我々も手伝うから受けてくれんか」と言われて、これを引き がるようなポスターでないといけないのに、私が写ったポス 受けることにしました。 ターでは子供は誰も来ません。ポスターを剥がして、持って そして真っ先に取り組んだのはいじめ防止です。当時、い 帰って自分の机の前に貼りたくなるようなポスターをつくら じめで小学生の子供たちが何人も自ら命を絶つという状況が なきゃいけないと強く常々訴えました。けれども、会長って 力がなくて、 1 枚目は、言い出しっぺの会長がやらないと、 います。 みんながまとまらないと言われてしまいました。 私は役回りが大きくなりましたので、県体協の会長は今年 でも 2 枚目からは違います。神奈川にゆかりのある人で、 の 3 月でやめさせていただきます。しかし、県体協でやって みんなが憧れるような人たちが協力してくださいました。中 きたこの取り組みは、今度は神奈川から日本で、日本体育協 村俊輔さんは、 南アフリカのワールドカップの前年でしたが、 会、あるいは日本オリンピック委員会を動かして、こういっ 私の友人である岡田武史氏を通じて協力してもらいました。 た活動を展開していきたいと思っています。 次は、巨人軍の原監督でした。彼は、東海大相模高校、東海 大学で私の 1 つ後輩であり、協力してくださいました。私か 柔の心、日本の心を世界に伝える ら始まって男、男、男できたものですから、 4 枚目はテニス の杉山愛さんにお願いしました。ちょうど現役を引退した年 この写真は、外務省の「草の根文化無償資金」を生かして、 でした。ロンドンオリンピック前年には、当時、最も金メダ 中国青島につくった日中友好青島柔道館の前に立ったときの ルに近いと言われた体操の内村航平選手にお願いしました。 ものです。先ほど言いましたNPO法人「柔道教育ソリダリ 実際に金メダルを取りました。内村選手の恩師である具志堅 ティー」のパンフレットです。2006年にこのNPOを立ち上 幸司さんは、ロスオリンピック体操の金メダリストであり、 げました。外務省の方の前でちょっと言いにくいんですけれ 私の友人でもありますので、そのつてからお願いしました。 ども、そもそもこんなものを立ち上げる予定はございません そして一昨年はなでしこジャパンの川澄選手でした。これら でした。後でもお話ししますけれども、ロシアのプーチン大 のポスターを学校だけではなくて、交番、公民館、図書館、 統領は柔道家で柔道が大好きな方です。そういった縁で、私 いろんな公の場、そして私鉄やJRにも協力していただき、 が日本とロシアを結ぶスポーツ外交で少し役割を果たしてき 貼らせてもらいました。 ました。それが思った以上に成果を上げたということで、日 しかし、これはやはり子供たちに教育するよりも、指導者 本とロシアの賢人が集まる日露賢人会議のメンバーに何とこ の意識を変えていくことが一番大切だと思います。子供たち の私が選ばれました。ロシア側は座長のルシコフ・モスクワ が一番認めてもらいたいのは、それぞれのスポーツの指導者 市長ほか 5 名であり、日本側は座長の森喜朗元首相ほか 5 名 であり、その指導者に勝ち負けだけではなくて、勝つことも でした。私が日露賢人会議に行くと言うと、私の友人達は怪 大事だけれども、スポーツを通しての人間教育をいかに認識 訝な顔をして、 「おまえ、熊本県人だろう」と言ったものです。 してもらうかがポイントだと思います。なかなか指導者の意 誰も私が賢いとは思ってないのですね。 識を変えるというのは簡単ではないけれども、粘り強くこれ 当時の経団連会長の奥田碩さんもメンバーに入っておりま に取り組んでいく必要があろうと思っています。 した。奥田さんも一橋大学の柔道部出身です。賢人会議の合 スポーツを通したいじめ防止の標語もつくりました。「光 間に、私が柔道の日露交流をしているというお話をしました る汗、一緒に流せば、ほら仲間」、これが最優秀賞です。神 ら、奥田さんから、「山下さんの活動は面白いね、帰ったら 奈川県内でこの標語を募集して、表彰式をやりました。この 一回会おうよ、そして本を出そうよ」と言われまして、 2 人 ときに私に一つのアイデアが浮かびましたが、まだ実現でき で角川書店から『武士道とともに生きる』という本を出しま ていません。私のアイデアとは、「光る汗、一緒に流せば、 した。当時、私は、2003年から国際柔道連盟の教育コーチの ほら仲間」という標語を文字通りの活動につなげていくこと 理事をしていまして、世界に柔道を普及し、柔道の心を伝え です。まだまだ学校に行けない子、笑顔を忘れた子、自信を ていくという役回りでしたので、外務省、国際交流基金、全 なくした子、心を閉ざした子、友達がいない子、そういう子 日本柔道連盟、民間企業からお金をご協力いただいては、そ 供たちも一緒に汗を流して、運動すれば仲間なんです。そう ういった活動をやっていました。 いった子供たちに、スポーツをやっている子供たちが手を差 奥田さんから、「なかなかいい活動をしているけれども、 し伸べる。例えばバスケットをやっている子が、ねえ誰々さ どうもいろいろ聞いていると、あなたは限られた時間で柔道 ん、一緒にバスケットやらないと誘う、陸上の子は、一緒に を世界に広めて、柔道の心を伝えていくという本来の活動よ 走ろうよと誘う。テニスをやっている子は、一緒にテニスや りも、あなたの限られた時間をそのためのお金集めに使って ろうよと誘う。スポーツやっている子供たちがそういう子供 いるみたいだ。よかったら、小さくても組織をつくったらど に思いをいたす、言葉をかける。そういうふうになっていけ うか。広く浅く多くの人に協力を得ていけば、あなたの限ら ば何かが変わっていくのではないかと思っています。ちょっ れた時間を本来の活動のために使えるだろう。私の名前だっ と時間はかかっても、この活動を展開していきたいと考えて たらいくら使ってもいいよ」 、と言われました。一回組織を 特集1 誌上講演 TOPICS 立ち上げたら、いろんな人に協力してもらうことになるので、 やめるわけにいきません。本当にやり抜く覚悟があるのか、 中国との交流 自信があるのかと自分の中で半年ぐらい問うていました。結 局、やはりこう言っていただけるのは何かの縁だなと思って これは、中国につくりました 2 つ目の日中友好柔道館であ NPOを立ち上げました。 る日中友好南京柔道館の落成式の写真であります。私も行き 2 人で出した本ですけれども、奥田さんに、「この本の印 ました。中国も隣国です。大国です。今、非常に関係が難し 税は一切要らんから、そういった活動に使いなさい」と言わ い。実は、これも外務省のほうから話がありまして、「山下 れ、 2 人の印税をNPOの基金にしました。また、角川書店 さんは、いろんな国と交流しています。ぜひ外務省と組んで とトヨタ自動車が出版記念パーティーを開いてくれて、「ご 中国ともやりましょうよ。草の根文化無償支援のスキームを 祝儀は全部使いなさい」と言われたので、その金も合わせて 使って、地道にお互いが交流できる。そんなことが柔道でで 2006年にNPOをスタートしました。 きませんかね」と言われました。それがきっかけで、まず青 いろんな活動を展開しています。一つは、リサイクル柔道 島日中柔道館が2007年にできたわけです。 着の発展途上国への送付です。世界で今200の国が国際柔道 このことを南京の柔道関係者が知りまして、私のところに 連盟に加盟していますけれども、 3 分の 2 ぐらいの国は貧し 訪ねて来られて、「山下先生、ぜひ 2 つ目は南京でお願いし くて、そういった国の子供たちは柔道をやりたくても柔道着 たい」と頼まれました。今考えると、私の対応というのは極 がない、あるいは 1 着の柔道着を回して着ている、といった めて冷たいものでした。「気持ちはわからんじゃないけれど 状況があります。ですから、高校の授業で柔道をやっていた も、そんな簡単なものじゃないんです。これは日本国民の税 が、もう柔道をやらなくなった人たちの柔道着をきれいに 金を使ってやるんだから、これが本当に日本と中国の草の根 洗って学校単位で集めて、我々のNPOにいただいています。 の交流につながるかどうか、その確信が持てて初めて 2 つ目 また、海外への指導者や学生ボランティアの派遣活動、そ について外務省に相談ができるわけです。そんな簡単なもの ういったものを展開しておりますし、海外からの指導者の受 じゃないんですよ」と、私は、けんもほろろの対応をしてし け入れもしております。実は、パレスチナ、イスラエルから まいました。外務省の方からは、「山下さん、必ず成果はあ の指導者の受け入れもありまして、一昨年、11月から12月に らわれるから、南京でやりましょうよ」と言われました。で かけての 1 カ月間、両国の指導者を一緒に受け入れたことが、 すから向こうからお願いされて、これはできたんです。 朝日新聞で大きく取り上げられました。「我々は母国に帰れ 箱物をつくるのは日本政府の仕事かもしれませんが、そこ ば両国で一緒に活動するという、そういった機会を見つける に魂を入れていくのは我々の仕事であろうと思います。です ことはまず無理だろう。しかし我々の子供たちが大きくなっ から、建物ができる前から青島と南京の 2 つの柔道館の指導 たときには、そういう環境ができ上がって、両国の柔道家が 者を半年間、我々NPOが受け入れて、日本式の正しい柔道、 一緒に柔道行事で汗をかける、そんな時代が来ることを願い 日本の精神、柔道の精神、日本の文化、日本語、いろいろこ たい」、というのが両国の指導者の言葉です。 とを勉強してもらいました。そして日本のことをよく理解し こういった活動は、表面的に見ますと発展途上国への支援 て帰っていただきました。 活動ですが、 メーンの活動はその裏にあって、柔道を通して、 2 つの柔道館が軸となって、青島ではこの青島柔道館が軸 柔の心だけではなくて、和の心、日本の心を世界に伝えてい となって、青島の小学校、中学校において、少しずつですけ きます。私は海外で柔道の指導を頼まれると、必ずこう考え れども学校の授業の中に柔道が導入されていきました。南京 ます。向こうが欲しているのは技術指導であっても、こちら でも子供たちから大人たちまで、数百人の方々が南京柔道館 はさまざまな活動を通して柔の心というものを伝えていかな で柔道を習っています。これからも「魂を入れる」、 そういっ かったら、我々の目的が達せられない。地道な活動を繰り返 た活動を続けていきたいと思っています。昨年は、東日本大 しながら、多くの国の人たちに柔道という限られた切り口で 震災復興の為に福島で行われた高校生の柔道大会に南京と青 あっても、日本に対する興味、関心、理解を持っていただき 島のチームも参加してくれました。 たい。そんな思いで活動をしております。 ロシアとの交流 日露の交流についてお話しします。これは、2005年にプー チン大統領が来られたときの写真でございます。何でこんな に柔道が好きかというぐらいに、本当に柔道が好きな方です。 通した国際交流を通して、これからももっともっと積極的に、 一昨年、大統領に決まった翌日、真っ先に朝早くから飛行 柔道だけでなくて、日本というもの、日本の心というもの、 機に乗って、ロンドンオリンピックを目指しているロシアの 日本の文化というものを世界の人たちに理解していただく、 柔道のナショナルチームの選手を激励に行ったそうです。ロ そんな活動を展開していきたいと思っています。 ンドンオリンピックにも来ました。ロンドンオリンピックの 皆さんの顔を見たら力が入り過ぎました。長々とまとまり 前にキャメロン首相と会談して、会場に一緒になって来まし のない話を最後まで熱心にお聞きいただいたことに心からお た。試合が終わるまで柔道会場にいて、終わったらそのまま 礼を申し上げて、私の話を終わりたいと思います。 モスクワへ帰りました。オリンピックに来て 1 つだけの競技 どうもご清聴ありがとうございました。 を見て、ほかには誰も激励もしないで帰るなんて、よほど柔 道が好きだということだと思います。 ○研修員 2005年の日ロ首脳会談の際に、私は、大統領にお会いして 柔道界では、大変な暴力問題がありましたが、現場で今指 私の宝物をプレゼントしました。嘉納治五郎師範直筆の書、 導者の立場にある方の中には、自身が柔道を習っているとき 「自他共栄」です。「日本とロシアがともに協力しながら発展 には、そういった部分も含めて教育を受けてきたという方も することを願って、大統領にプレゼントします」と申し上げ いらっしゃると思います。実は、役所でも同じような問題が たら、びっくりされました大統領から出てきた言葉は意外な あって、昔から非常に体育会的な体質の部分があります。罵 もので、 「これは本物ですか、コピーですか」と尋ねられた 倒して育てられて、今は上に立つ側の人間になって、 そういっ ので、ちょっと胸を張って「本物です」と答えました。帰ら た形で部下を指導していくという人もいます。ただ時代が変 れてすぐに招待状が来ました。 「山下さん、ロシアに来てほ わってきて、部下の中には耐え切れなくなって、精神を病ん しい。ロシアで一緒に柔道着を着て子供たちに柔道を指導し でしまうということが問題になっています。 ているところを収録したい。それをロシアでの柔道普及につ そうしたことが駄目だということは、多分、柔道界の指導 なげたい。できれば来てくれませんか。あなたも私も少し年 者の方も役所の人間も頭ではわかっていると思いますが、ど をとってきた。できれば若い選手も連れてきてくれたらあり うやって教えればいいのかという方法論がわからないという がたい」と書かれていましたので、私の教え子で、今、全日 方も結構いるのではないかと思います。そういうことについ 本の柔道男子監督の井上康生を一緒に連れていきました。 て具体的に柔道界としてどのような取り組みをされているの 柔道教室の後、一緒に食事会に行きました。 6 、 7 人の食 かなど教えていただければと思います。 事でした。そこで最初にプーチン大統領が赤ワインを持って 一言しゃべりました。「山下さん、日本とロシアの間には前々 ○山下講師 から難しい問題がありますね」。私は、こんなところでそん 今、 1 つ取り組んでいることは、資格制度の確立です。私 な難しい話をするのかと思いました。そうしたら、 「しかし、 の体験・経験から申しまして、自己啓発に熱心な指導者の人 これ以外に問題は存在しません。これ以外に問題をつくる気 で暴力を振るう、あるいは罵倒するケースというのは極めて 持ちもありません。だから何も心配しないでください。安心 少ないです。逆に、非常に熱心で情熱があっても、そういう してください」 。そしてグラスを一回置いて、「この難しい問 行為に走る方の中には、経験主義・体験主義に基づいた指導 題もロシアと日本が知恵を絞っていけば必ず解決できる。こ をされる方が多いです。 の問題が解決できれば、日ロの間に問題は存在しなくなる。 なぜ指導者が暴力を振るうか。これは幾つか理由がありま それを願って、それが一日も早くなることを願って乾杯しま すが、その一つは指導力が未熟であることが挙げられます。 しょう」で始まりました。隣に座ったのは、当時ロシアの第 そのため、目先の成果、誤った勝利至上主義と言いますか、 一副首相、次の大統領になったメドベージェフさんでした。 目先の成果だけを求めることになります。そのほうが特に若 私の横に来て、にこにこ笑顔で一言もしゃべらずに食事され い人たちや子供たちには効果があります。痛い思いしたくな ていました。乾杯と言ったときに、そのグラスの向こうで私 い、怒られたくないと思うと必死になってやります。 そうやっ の人生の師、松前重義先生がほほえんでいる姿が浮かんでき てやれば目先の成果は確かに上がります。しかし教育におい ました。 て非常に大事なこと、スポーツにおいても大事なこと、 即ち、 自分で考えることができなくなる。これは人間が成長してい 私は、今、全日本柔道連盟の中心になる立場になりました。 く上で致命的なことだと思っています。自立した人間になれ 柔道は、ごくごく限られたものでありますけれども、柔道を なくなると思います。 特集1 誌上講演 TOPICS それからもう一つ、私の場合もそうですけれども、やはり らわせないものが非常に軽視されてきていると感じていま いくら指導法を勉強しているといっても過去の経験・体験が す。私はどちらも大事であると思っています。 大きいです。暴力を伴う指導を受けてきた人たちは、そうい ですから、大学で指導していましても、うちでもやはりそ うものに走りやすいです。大変ショッキングな話ですが、東 ういった考えられないような行動を起こしてしまう、問題を 海大学柔道部の柔道部員、男女合わせて140名ぐらいを前に 起こしてしまう学生がおりますし、先ほどの暴力の問題でも、 して、暴力根絶についての取り組みの話を 1 時間ぐらいした 部員間の暴力よりも一般の学生間での暴力のほうがずっと多 ことがあります。最後に、みんなに目をつぶらせて、 「正直、 い。というのは、自分の感情をうまくコントロールできない ある程度暴力がないと本当の精神的なたくましさ、根性がつ からです。そういう傾向が増えてきております。 かないと思う人、手を挙げてくれんか」と言ったら、何と 3 モラルとか倫理観とか公共心、それでも世界的に見るとま 割ぐらいが手を挙げたので、ショックを受けました。 だ日本は進んでいるほうかもしれませんけれども、そういっ 多分、彼らにとっては、それは愛のむちであって、いいほ たものが欠けてきていると思います。そういう中で、公務員 うに働いたケースだと思います。でも、それで一生消えない だけはそういう問題起こさないのか。これはなかなか難しい 傷を負ったり、それがきっかけでそのスポーツから離れたり と思いますので、防止するためには、公務員になってからの したケースもあります。実は、全日本柔道連盟にはいろんな 教育が非常に大事であり、形にあらわれない部分の教育とい 苦情が来ます。昨年末、 「今から25年ぐらい前、大学で指導 うのも大事なのかなと思っております。 者から暴力を受けた。その傷が今でも癒やされていない。あ のときの指導者を処分してほしい」という訴えを受けました。 ○研修員 言えることは、暴力がいいほうに行ったケースもあるかもし 私は小学校から大学までずっと柔道をやっておりまして、 れないが、それによって未だに心の傷が癒えていない人もい 本日はお話をいただけて大変ありがたいと思っております。 るということだと思います。 私の経験から、残念ながら柔道のほうでは全日本クラスと 私、12月には参議院の文教委員会に参考人で呼ばれまして、 いうようなレベルではなかったんですけれども、先ほどのお 同じ質問を受けました。柔道界で何とか成果を一日も早く上 話の中での大勢の、全国からえりすぐりで集まった部員、そ げて、まずは現場から暴力をなくす。それに加えて、罰せら の中での競争で、やはり各学年に飛び抜けた者がいて、上級 れるからやらないのではなくて、指導者の指導力や資質を上 生になるに従ってモチベーションの維持が難しいというお話 げていくことも重要です。指導者がみずから自己研さんに励 をいただきました。これから我々もだんだん若手から中堅、 むといった環境をつくっていきたい。これを日本のスポーツ 上にとなっていく中で、組織としてのモチベーション維持と 界に広げていきたいと思っています。 いうところで非常にためになるお話をいただけたと思ってい ます。 ○研修員 実態として、昔は県のチャンピオンだった人たちが、大学 恥ずかしい話ですが、公務員でも不祥事があります。先ほ 4 年間の中で後輩に、例えば井上康生選手みたいな 1 年生が ど山下先生も柔道界でもいろいろあったとおっしゃっていま 入ってきてというところの中で、実態として皆さんどのよう したけれども、一般に高い倫理性を期待されるはずの立場の にモチベーションを保たれているのか、我々に示唆いただけ 職業の人がいろいろ悪いことをして捕まっているというのが るようなお話がいただければと思います。 最近増えていると思いますが、そういう状況を見てどういう ふうに考えていらっしゃいますか。 ○山下講師 今の東海大学柔道部は、男子のほうは、全日本選手権で 6 ○山下講師 連覇しています。その監督というのは私の教え子です。はっ 世の中全体が目先の結果ばかりを求める傾向が強くなって きり言って柔道指導者としては私よりずっと上だと思ってい きているような気がしています。また、若い人を含めて世の ます。男子で110名ぐらい柔道部員がいて、試合に出られる 中全体の価値観として、その関心が自分の関係あるところば のは20数名です。監督は、出るのはそのメンバーだけれども、 かりに狭まっていっているような気がします。 全員で戦うということ、試合の勝ち負けだけではなくて、上 私にとってもお金は大事ですし、地位も大事です。いろん 級生には上級生の役回り、いろんな役割の人の役回りがある なものが大事ですが、目に見えるものとか評価ばかりに世の ということ、そういった役回りの大切さというものをよく学 中の価値観が移っていって、目に見えないもの、数字ではあ 生たちに伝えています。 試合に出ることは、物すごく大きなモチベーションですけ ○研修員 れども、試合に出なくても自分の仕事というのは柔道部の活 2020年、東京でオリンピック・パラリンピックが開催され 動を進めていく上で、柔道部が日本一を目指していく上で大 ます。東京オリンピック、こういうオリンピックにしたいと 切な役回りだということを、監督が学生たちに理解させてい いう、先生のお考えをぜひお聞かせいただければと思います。 ると思います。 人間というのは、自分が必要とされていることが非常に大 ○山下講師 きなモチベーションになります。そういうところをうちの監 JOCという立場でいると、多分日本がたくさんのメダル、 督は非常にうまく実施しています。ですから、上級生がそう 金メダルをとって、感動的な戦いをして日本国民に、子供た いう意味ではいい意味のリーダーシップを発揮したり、逆に ちに夢や感動を与えてもらいたい。そしてすばらしい大会の マネジャーとか庶務とかやっている連中が、それを監督が大 運営をして、日本という国が格段に高い能力を持っていると 事な役割なんだと思ってくれているわけですから、生き生き いうところを見てほしいといったようなことが挙げられるか と誇りを持って働いていたりします。 もしれません。もちろんそれは私の役割でもあろうと思って それからもう一つは、将来教員になりたいとか指導者にな います。しかし、そこだけで終わっちゃいけないと思います。 りたいけれども試合にも出るチャンスがない部員の場合は、 先ほどもちょっとお話ししましたように、世界から、 スポー 中学と高校に行って現場で指導をさせるとか、海外へ学生ボ ツをやっていない人も含めて多くの方が見えるわけです。本 ランティアで出すとかして、違った目標を持たせています。 当の日本というものを知ってもらうチャンスだと思います。 そういうところは、私が監督のころよりも、教え子の今の監 東日本大震災のときの日本人の対応というのは世界に感銘を 督のほうがはるかに優れていると思っております。 与えるものがあります。日本は、中にいるといっぱい問題が あるように見えても、世界的に見るとまだまだ素晴らしい部 ○研修員 分を持っています。世界の人たちに日本というものを知って エリート教育について質問します。山下先生ご自身は柔道 もらう二度とないチャンスだと思っております。 の面でエリート教育を受けてこられたとのことですが、柔道 それからもう一つは、2020年オリンピック・パラリンピッ 以外の学力などの面でも、海外などの競争の面でエリート教 クにおいて、やはり結果だけを求めていくとスポーツでも弊 育が必要なんじゃないかという議論はあるかと思います。そ 害が出てくる。それが暴力につながっていきます。本当に頂 の点について先生はどのように捉えてらっしゃるか、聞かせ 点を目指せるのは一部ですから。今、日本では、例えば若者 ていただければと思います。 たちが自分の国に誇りを持てないでいます。日本は、先進国 の中で断トツに自国に対して誇りを感じる者の割合が低く ○山下講師 なっています。また、大人でも心の健康に不安を感じる人が 私は組織というのはリーダー次第だと思います。その課は 物すごく多い。自殺者数も先進国の中で突出しています。日 課長次第、部は部長次第、学校は学長、あるいは校長次第で 本そのものが少し病みかけていると思います。 す。やはり日本が栄えていくためには、これからどれだけそ 今、ストレスを感じる人が非常に多い。折れやすい人も多 ういった真のリーダーを育てていくか。これは非常に大事な い。自分しか見られない人も多い。そういう中で、メダルだ 部分であろうかと思います。しかしながら、日本では非常に けじゃなくて、より多くの人々が気軽にスポーツに親しめる、 リーダーが育ちにくい、育たないような仕組みになっている そういう環境を広げていきたいと思います。スポーツという という気がします。海外に出ますと日本以上に強いリーダー のは体の健康だけじゃない、心の健康にも私はいい効果があ シップを求めることが多い気がします。私は、次を担うリー ると思っています。多くのスポーツの場合、仲間と行います。 ダーをいかに育てていくか、リーダーが育つような教育環境 そうするとある人を思いやったり、心を通わせたりできます をつくっていくかというのが、これからの日本にとっても、 し、スポーツを通して少しは、多少折れにくい心になってく 組織にとっても非常に大事な部分ではなかろうか、そう思っ るのではないか、相手を思いやることもできるのではないか ております。 と思います。 ですから、私にとっても次の時代のリーダーを育てること 文部科学省の方には怒られるかもしれませんけれども、オ が大変大きな役割であると思います。私が勉強したところ、 リンピックの金メダル、メダルだけじゃなくて、この機会に やはり今の実力主義、能力主義と言われているものだけでは、 もっともっとスポーツの裾野を広げて、スポーツを通して なかなかリーダーが育ちにくいのかなと思っております。 フェアな心とか、思いやりのある心とか、折れない心だとか、 特集1 誌上講演 TOPICS そういった人間が人間として生きていくために必要な部分と してくださりました。願わくは、少しでも復興が進み、力強 いうものを、スポーツを通して伝えていくことが重要だと思 く立ち上がろうとしている、そういった東日本の人たちの姿、 います。 そういったものもぜひ感じてもらえればありがたいと、本音 もう一つは、最後になりますけれども、やはり東日本大震 のところでそういうふうに思っております。 災に対して、世界の多くの国々が心配して、いろんな支援を
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