第4回 デジタルカメラの新たな覇権を目指して (2009/11)

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連載
IT新時代と
パラダイム・シフト
第4回
デジタルカメラの新たな覇権を目指して
日本大学商学部
根本忠明
はじめに
日本製のデジタルカメラ(以後,デジカメ)は,現在,世界でトップシェアを確保し,デジタ
ル家電をリードしてきている数少ない製品である。2003 年には「新 3 種の神器」として IT 産業
の牽引役として期待されたほどであった。
このデジカメも,現在,大きな転機を迎えている。それは,国内のデジカメ市場が成熟期に突
入し,販売台数の伸びは期待できないことに加え,昨年のリーマンショックによる世界経済の低
迷が追い打ちをかけているからである。さらに,鳩山新政権誕生による 90 円を超える円高が始ま
り,デジカメの輸出は厳しい時代を迎えている。
国内では,ここ数年,シェア競争の激化によりデジカメの価格破壊が強まり,メーカーの間で
は,デジカメ事業からの撤退や再編の動きが進んでいる。カメラ付き携帯の高機能化も,低価格
帯のデジカメにとって脅威となっている。
この中で,デジカメの新機能が次々と提案され,頭打ちの市場になかで,売れ行きを伸ばして
いるデジカメも登場してきている。高速連写,高倍率ズーム,小型プロジェクター,3D などの新
機能が,相次いで発売されている。
また,高級カメラといわれるデジタル一眼レフカメラの市場が,大きく飛躍し始めている。低
価格化,小型化,高機能化といった技術革新が女性や熟年といった新しい顧客層を開拓し始めて
いる。
今回は,デジタル一眼レフを中心にデジカメ市場の新しい動きを紹介すると,これまでのデジ
カメ発展の歴史を振り返りながら,今後のデジカメの発展の課題について検討してみることにし
たい。
女性にブームのデジタル一眼レフ
2008 年夏,デジタル一眼レフカメラの売れ行きがすこぶる好調であった。このため,年末には
フィルムカメラ時代の一眼レフカメラの最高記録(1980 年の 128 万台)を更新するのは確実と,業
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界筋は見ていた。
結果的には,2008 年度の出荷台数は 125 万台と,わずか 3 万台及ばなかった。この年の 9 月に
発生したリーマンショックに端を発する百年に一度といわれる世界的な金融危機が,この記録更
新を妨げたといってよい。
この金融危機の影響もあり,デジカメ市場全体(コンパクト・カメラも含めた)における 2009
年上期の世界出荷台数では,前年同期比で 25.5%減と大幅な減少となり,初めて前年割れとなっ
た。
前年割れとなったもう一つ大きな理由は,先進国でのコンパクトデジカメ市場が,飽和状態に
来たことがある。これまで右肩上がりで来たデジカメ市場は,一つの転機を迎えている。
今後大きな成長の望みにくいコンパクトデジカメと違い,毎年 2 割以上の伸びを続けてきたの
が,デジタル一眼レフカメラである。ただ,2009 年上期には落ち込み,5 月以降持ち直したもの
の,この 9 月期の販売台数は,前年同月比で 3.8%減になっている(BCN 調べ)
。
ここ数年の若い女性の間でカメラブームが,
好調な市場を支えて来ている。
フイルム時代には,
一眼レフカメラは,プロや愛好家向けの高級カメラであり,重くて操作が難しく,しかも高価で
あった。普通の女性が関心を示すような代物ではなかった。
それが,ネットや新聞紙面で,
「カメラ女子」現象がしばしば紹介されるようになった。カメラ
教室に通う女性の増加,女性向けカメラ雑誌の創刊,高校写真部等での女子部員の増加など,女
性のカメラに関する話題は様々である。
最近の新聞紙面でも,
「デジタル一眼,こだわる女性に人気 メーカーも照準」(朝日新聞,2009
年 8 月 6 日付け),
「カメラ女子 街をズーム 安価一眼レフやブログが後押し」(日経本紙,2009
年 10 月 5 日付け)などと報じている。
若い女性を中心とした「カメラ女子」ブームは,デジタル一眼レフカメラの小型軽量化,簡単
操作化,低価格化といったカメラ側の技術進化と,若い女性の間でブログが流行し,ブログに張
る綺麗な写真が欲しい等の利用者側のニーズが,結び付いた結果といってよい。
メーカー側からみて,デジタル一眼レフカメラ・ブームを引き起こす転機となったのは,2006
年である。これ以前は,キヤノンとニコンの老舗カメラメーカーがこの市場を独占しており,2
社で 9 割を超すシェアを確保していた。
そこに,大手電機メーカーが相次いで,この市場に参入してきたのである。2006 年 7 月に,ソ
ニーは「α100」で,パナソニックは「LUMIX DMC-L1」で参入した。ソニーはコニカミノルタの「α
マウントシステム」を搭載し,初心者向けの入門機という位置付けで,初心者やコンパクトカメ
ラ客の買換え需要を狙っている。
パナソニックは,独ライカカメラと共同開発したレンズを搭載し,フィルム一眼レフカメラか
らの買換えやデジタル一眼レフの入門機からの買換えを狙い,ハイアマチュア層の開拓を狙って
いる。
なぜ,この時期に,各社はこの寡占市場に参入したのであろうか。
それは,コンパクトのデジカメ市場が飽和に近付いていたためと,一眼レフカメラは高付加価
値商品であり利益率が非常に高いからである。
たとえば,
2006 年のデジカメ市場における一眼レフのシェアは,
台数では 4.4%に過ぎないが,
販売金額では 15%もあるのである。
ソニーやパナソニックなどの大手電機メーカーの新規参入は,既存の一眼レフの老舗カメラメ
ーカーを強く刺激した。この結果,入門者向けに小型軽量で低価格モデルが相次ぎ,従来の製品
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ラインを大きく広げ,品揃えが充実することになった。
特に,新しい顧客層として女性向けを意識した製品の充実が目立ったのである。入門機では,4
万円から 8 万円といった低価格なモデルも用意されている。また,マイクロフォーサイズという
小型軽量の新規格を採用した機種も発売されている。
たとえば,パナソニックの「LUMIX DMC-G1」が 2008 年 10 月に,オリンパスの「E-P1」が 2009
年 7 月にそれぞれ発売され,新規格のデジタル一眼全体でのシェアは,16%に拡大している(2009
年 9 月時点)
。
デジカメの歴史を振り返る
日本がデジタル製品の中で,世界を大きくリードしているのが,デジタルカメラ(以後,デジカ
メ)である。メイドインジャパンのデジタル製品の多くが世界競争の中で後塵を拝するなかで,我
が国のデジカメの強さは,際だっているといってよい。ちなみに,デジカメは三洋電機の登録商
標であり,平成元年(1989)3 月 27 日に商標登録されている。
日本のデジカメの強さの秘密は,デジカメを積極的に受け入れた消費者,多くの技術革新を導
入してきた電機メーカー,そして老舗のカメラメーカー大手の復権の 3 点に要約される。
ここでは,これまでの我が国を中心としたデジカメの歴史を振り返ってみることにしたい。第
一期を電子スチルカメラの時代,第二期をコンパクトカメラ普及の時代,第三期をデジカメ開花
の時代,第四期を一眼レフ注目の時代と 4 期に区分してみて,我が国のデジカメの軌跡を再確認
してみることにしたい。
第一期の電子スチルカメラの時代は,
今日のデジタルカメラの前史ともいえる時代であり,
1981
年に,ソニーが「マビカ」を発表したことに始まるといってよい。この「マビカ」は,各社の電
子スチルカメラの開発や発売を促した。
この電子スチルカメラ(電子スチルビデオカメラ)は,現在のデジカメとは異なり,アナログの
磁気記録方式を採用している。C-MOS や CCD 等の撮像素子を利用して撮影画像(静止画)を電気
信号に変換しアナログ記録する方式である。
記録媒体に 2HD フロッピーディスクを採用しており,
解像度は 640×480 ドットであった。
ソニーは 1981 年 8 月に,磁気記録方式の電子スチルビデオカメラを発表した。これはあくまで
も試作品であったが,この仕様は公開されており,同業他社の参入を促すことになった。
さて,一般向けに市販された電子スチルカメラは,1986 年,キヤノンの「RC-701」が最初であ
る。しかし,一式 500 万円を超える超高額商品であり,業務用に開発されたものであった。
この「RC-701」は,1984 年のロスアンゼルス・オリンピック大会の実験と経験をもとに開発さ
れた。このロスアンゼルス大会では,朝日新聞社はソニー製,読売新聞はキヤノン製の電子スチ
ルカメラ・システムを利用して競技写真の電送実験が行われた。
ちなみに,ソニーのマビカが家庭用として市販されたのは,1988 年の「MVC-C1」であり,
「テ
レビ時代の電子スチルカメラ」として発売された。この謳い文句に象徴されるように,当時はパ
ソコンが普及する以前の時代であり,家庭用としてはテレビで再生して楽しむしか選択肢がなか
ったのである。
次の第二期のコンパクトカメラの時代は,1995 年 3 月にカシオが「QV-10」を発売したことに
始まる。この年はデジカメ普及元年といってよく,一般の人たちの間で,小型のデジカメが急速
に普及する時代である。
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今日のデジカメとしての最初は,1988 年,富士フイルム「FUJIX DS-1P」であるが,デジカメ
の普及にはつながらなかった。
このデジタルカメラは,メモリーカードにデータを記録する形式としては世界で初めての製品
で,2 メガバイト SRAM の IC カードに 5~10 枚の写真の記録が可能であった。
1995 年 3 月にカシオから発売された「QV-10」は,6 万 5,000 円という個人向け銀塩のコンパク
トカメラ並みの破格価格で発売された。
この製品は,1995 年 1 月ラスベガスにて行われた世界最大の電気製品見本市 CES(Consumer
Elecronics Show)で大反響を呼んだ。
1995 年は Windows95 が発売によりマルチメディアを標榜するパソコンの時代を迎え,このデジ
カメは,パソコンに画像を入力し再生加工できるパソコン周辺機器として大ヒットとなったので
ある。
次の第 3 期は,2003 年にスタートする。この年は,新 3 種の神器という言葉が流行し,デジタ
ル家電製品が注目を集めた年である。
特に,デジタルカメラは,DVD レコーダーと薄型テレビと共に,デジタル家電の牽引役として
期待されたのである。
また,2002 年のカメラ出荷実績(カメラ映像機器工業会による)で,国内外を合わせた出荷台数
は,デジタルカメラがフィルムカメラ(銀塩カメラ)を逆転したのである。この時期以後,カメラ
といえばデジタルカメラという時代を迎えることになった。
さらに,この 2003 年は,デジタル一眼レフカメラも,プロ用高級カメラから一般向けカメラへ
の転換点となった年となった。2003 年 9 月に発売されたキヤノンの EOS Kiss Digital がこの火
付け役であった。このカメラは 12 万円(ホディ単体)という低価格で発売され,大ヒット商品とな
った。一眼レフカメラは 10 万円時代を迎え,大衆化の時代を迎えたのである。
第 4 期は,コンパクトカメラが市場飽和する時期を迎え,デジタル一眼レフカメラの販売が広
がり大衆化する時期である。2005 年は,老舗カメラメーカーの苦境が報じられ,デジカメ市場の
再編が話題になり始めた。
このような状況のなかで,デジタル一眼レフ市場に新たな動きが登場したのである。2006 年に,
大手電機メーカーの新規参入が相次ぎ,カメラ老舗メーカーとの激しい競争がスタートしたので
ある。
この結果,10 万円を切る低価格の一眼レフが,市場に積極的に投入されるようになった。一眼
レフの平均価格(店頭)は,2006 年 6 月には 13 万台後半だったものが,2007 年 5 月には,10 万円
ほどに落ちてきたのである(「BCN ランキング」)。
同 BCN の調査によれば,2009 年上期において,10 万円以下の販売台数の比率が,デジカメ一眼
レフ全体の 7~8 割に達したという。
最初の章で詳しく紹介したように,この初心者向け機種での低価格化と小型軽量機のデジタル
一眼レフカメラの登場が,熟年層と女性層の開拓に成功したのである。
また,定年退職を迎えた順年カメラマンが三脚を携えて,生き物,風景,歴史遺産を撮影し,
ブログに公開するようになったのである。
他方,コンパクトカメラ市場の方は,出荷台数の前年割れが続く時代を迎えたが,ユニークな
新機能を搭載したものが相次いで発売されている。 たとえば,高速連射機能,高倍率ズーム機
能,完全防水機能,プロジェクター機能,立体映像機能などなど。この中には,好調な販売をし
ているものもある。
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高速連射機能を売り物にしたカシオの「HIGH SPEED EXILIM シリーズ」は,60 枚/秒~30 枚/
秒,光学 3 倍~20 倍を売り物にしている小型軽量薄型のコンパクトカメラである。運動会,スポ
ーツ競技会,遊園地・テーマパークといったシーンで,威力を発している。実際,カシオのデジ
カメは,2009 年度は好調な販売を続けている。
プロジェクター機能を搭載したニコンの「COOLPIX S1000」は,予想以上の大きな反響があり,
当初,今年 9 月の発売を 10 月末の発売に延期しているという。26 センチから 2 メートルくらい
までの離れた壁やスクリーンに投影できるもので,1 時間の連続投影できる。筆者は,このカメ
ラを販売展示場で手にしたのであるが,面白い機種だという印象であった。
若者に受けたカメラ付き携帯
デジカメの普及について,もうひとつ重要な点は,もう一つのデジカメともいうべきカメラ付
き携帯の普及である。当初は,携帯電話の付属機能というべきものであったが,デジカメ機能の
向上に伴い,低価格帯のデジカメと競合するまでに成長してきている。
日本は,他国に比べていち早くこの市場が開け,急速に普及したことが,日本メーカーの競争
優位に大きく貢献したといってよい。日本のデジカメの部品やモジュールを提供する電機メーカ
ーにとって,重要な意味を持っていた。
米ストラテジー・アナリスティクス社発表(2003 年 10 月)によれば,2003 年上半期に,世界の
カメラ付き携帯の出荷台数は 2,500 万台で,デジカメの 2,000 万台を上回ったのである。世界の
携帯電話の 13%がカメラ付きであり,この中で,日本の普及率は格別に高かった。
米 A.T.カーニー(2004 年 7 月発表)によれば,世界の携帯電話ユーザー(14 ヶ国でのアンケート
調査)は,21%がカメラ付きを利用しており,国別では日本(64%),独(34%),韓国(32%)の順番
になっており,日本でのカメラ付き携帯の普及率の高さが際立っていることがわかる。
一方,米ガートナー社調べによれば,2005 年には,2 億 9,585 万台に達したのである(米ガート
ナー社調べ)。携帯電話の 38%がカメラ付きとなり,前年の 14%から大きく上昇したと報じてい
る。日本では 92%,西欧で 55%,北米で 47%に達すると同社は報じている。
では,日本でのカメラ付き携帯が世界に先駆けて普及した理由は,なんであろうか。それは,
ケータイ・メールによる友達との写真の交換が手軽にできることが,若者に受けたからである。
カメラ付きの携帯が普及する先駆となったのは,2000 年 10 月に発売された J-フォン(現在の
ソフトバンク)向けのシャープ製携帯電話「J-SH04」
」による。これは,11 万画素の 256 色表示
の玩具的なデジカメではあったが,メールで簡単に撮影した画像が即座に送れたのである。
J-フォンは,このサービス機能を写メールという名称で 2001 年夏からキャンペーンをはり,こ
のカメラ付き携帯は,大ヒットとなった。これによって,J-フォンとシャープ製携帯は,市場シ
ェアを大きく拡大したのであった。他の携帯電話サービスの会社や携帯電話機器メーカーも,同
様のメール・サービスと機種を相次いで提供することになったのである。
さらに,日本の写メールの成功を受けて,欧米ではボーダフォンが"Picture Messaging"キャン
ペーンを行うなどの動きにつながり,欧米でもカメラ付き携帯が普及するようになった。
ちなみに,世界初のカメラ付き携帯は,1999 年 9 月に DDI ポケット(現ウィルコム)から発売
された京セラの VP-210(PHS)である。カメラ部には 11 万画素の CMOS イメージセンサが使われて
いた。
さて,携帯電話の利用における当時の日本と欧米との違いは,日本では携帯電話でメールをす
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るのに対して,欧米ではメールはメール専用機を利用する点にあった。この違いは,日本の携帯
電話を仲間とのコミニケーションに利用する高校生が,メール利用をリードしたことによる。ビ
ジネスマンより女子高校生が主導したのである。
日本の女子高校生は,最初はポケベルでのメッセージ交換から携帯電話や PHS へと進んできた
ために,携帯電話でメール交換することが当たり前であった。この携帯電話で文字メールするの
を,写真メールに進化させたのが,カメラ付き携帯であり「写メール」であった。
カメラ付き携帯のカメラ性能は,その後次第に高性能化の道をたどり始め,低価格帯のコンパ
クトデジカメとの性能差を縮めてきた。2000 年に発売されたシャープの「J-SH04」
」が 11 万画素
数であったまに,2002 年には 30 万画素,2003 年春には 100 万画素(メガピクセル) のカメラ付き
携帯が相次いだ。
この時は,カメラ付き携帯にもメガピクセルの時代到来とマスコミは騒いだが,同年 12 月には
200 万画素の携帯電話が発売された。
高画素化の流れはその後も続き,2009 年 5 月には,1,000 万画素のカメラ付き携帯が発売され
るに至った。低価格帯のデジカメと競合する時代を迎えたといってよい。
新興国のボリュームゾーンを目指して
さて,新 3 種の神器と騒がれ成長してきたデジカメも,歴史のところで紹介したように,2006
年以降成熟期を迎え,淘汰される企業も出てきた。
デジカメの価格競争の激化などを受け,2005 年にはカメラ老舗 3 社の苦境や京セラの撤退が伝
えられるようになり,2006 年 1 月にはコニカミノルタが,デジカメ市場から撤退した。
国内市場は成熟期を迎えたが,海外市場はこれから普及期を迎えるところは少なくない。日本
のデジタルカメラが世界で生き残っていくためには,海外市場,特に新興国の巨大な大衆市場で
のシェア拡大が,不可避になってくるといってよい。
しかし,ここに大きな壁が存在する。日本市場は海外市場とは大きく異なり,我が国の市場は
ガラパゴス化しているとマスコミに指摘されるほどである。日本のデジカメが世界で今後とも大
きく飛躍するには,これまでとは大きく異なる戦略展開が求められることになる。
その最大の鍵は,新興国のボリュームゾーンと呼ばれる大衆層でのデジカメの販売である。こ
の販売で勝つためには,
「良い品を安く」
というかつての日本メーカーが得意とした薄利多売戦略
を回帰することが求められている。
1985 年に始まった円高時代に,日本の輸出主導メーカーは高付加価値戦略を志向するようにな
り,その傾向はリーマンショックの時まで続いた。この金融危機により,日本の大手電機メーカ
ーは,軒並み赤字転落を余儀なくされ,戦略転換を図らざるをえなくなった。
それまで日本が輸出に力をいれてきた欧米市場での先行きが非常に厳しくなってきたために,
金融ショック後も比較的経済が順調な新興国に,輸出先を大きく転換せざるをえなくなった。こ
れが,輸出企業に,円高時代から続いた高付加価値戦略の転換を迫ったのである。
現在,日本製デジカメの世界市場でのシェアは,徐々にではあるが下がってきている。2003 年
には 90.5%,2006 年には 75.6%と下がってきている。逆に,台湾や韓国メーカーがシェアを伸
ばしてきている。テクノ・システム・リサーチ(TSR)
の調査によれば,2007 年度の韓国の
Samsung Techwin 社は,世界 3 位(9.1%)を獲得している。ちなみに,一位はキヤノン(19.2%),
2 位はソニー(17.5%),4 位がオリンパス(9.0%)となっている。
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この中で,新興国のボリュームゾーンで頑張り,注目されている日本企業がある。フィルムメ
ーカー老舗の富士フイルム(旧富士写真フィルム)である。
2009 年 8 月 14 日,富士フイルムは,新興国でのデジタルカメラの販売が好調なため,売上高
の目標を当初の 1,000 億円から 1,200 億円に上昇修正すると発表した。
それは,2009 年 8 月に海外市場で発売した「Fujifilm A170」が,発売直後から好調な売れ行
きを見せているという。この製品は,
「富士フイルムはカメラ事業から撤退する」という噂を完全
に打ち消すヒット商品になっている。
このデジカメは,新興国市場向けで採算がとれる製品化を目指したもので,最初からトップダ
ウンで開発をすすめたという。1,020 万画素,光学 3 倍ズーム,手ぶれ防止,顔認識機能などデ
ジカメとしての標準的な機能は維持しながら,販売価格は 89.95 ドル(米アマゾン・ドットコム
の最安値)と低価格に抑えている。
この開発では,販売価格だけでなく,リードタイムの半減と製造原価の 2 割削減を目標に掲げ
ていた。その結果,このカメラの原価は,推定で 40 ドルといわれ,十分採算がとれているのであ
る。
この低価格化の実現には,設計と製造のほとんどを台湾の受託メーカー(EMS/ODM) ,華晶
(Altek Corp.)にまかせていることが大きい(日経エレクトロニクス,2009 年 9 月 21 日号)
。台
湾の華晶は,世界の EMS/ODM のトップメーカーであり,内製分を含めた製産台数で,世界 3 位に
つける大手企業なのである。
日本メーカーが,新興国を中心とした世界市場で成長戦略を維持していくためには,些細な部
分への拘りを高付加価値と言い換えるような悪しき日本的な慣習を捨て,新興国市場でも十分通
用する低価格で高機能な製品を,新しい発想でチャレンジしていくことが,必要であろう。
(TadaakiNEMOTO)
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