華厳の滝を訪ねて

華厳の滝を訪ねて
秋本
勝
今 秋 、日 光 ( 栃 木 ) を 訪 ね る 機 会 が あ り 、徒 然 に 思 う と こ ろ を 書 い て み た い と
思います。
日光は、明治以降、欧米人の避暑地として栄えたところで、湯葉が名物、
地酒もおいしい。
それはさておき、日光といえば、東照宮が有名ですが、ここでは華厳の滝
にことよせます。
こ の 滝 は 周 知 の 通 り 、 那 智 の 滝 (和 歌 山 )、 袋 田 の 滝 ( 茨 城 ) と 並 び 、 日 本
三 大 瀑 布 の 一 つ で す 。中 禅 寺 湖 の 近 く に 泊 ま り 、雨 の 中 を 朝 か ら 訪 ね ま し た 。
茶店近くからも見えますが、エレベータで百㍍ほど下って見る滝は確かに絶
景でした。
滝 は 奈 良 時 代 の 勝 道 上 人 が 発 見 し 、『 華 厳 経 』 か ら 名 付 け た よ う で す 。
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ふじむら
この滝にまつわるエピソードとして、やはり 藤村
みさお
操 に触れないわけには
いきません。
彼 は 当 時 十 八 歳 の 旧 制 一 高 (東 大 の 前 身 )の 学 生 で し た が 、 ミ ズ ナ ラ の 木 に
が ん と う
「 巌頭
の
か
ん
之 感 」 (左 記 )を 書 き 残 し て 投 身 自 殺 し ま し た 。 以 来 、 自 殺 の 名 所 に
もなっています。
か な
「悠々たる 哉
て ん
天
じょう
し ょ う く
襄 (=天 地 )、 遼 々 た る 哉 古 今 、 五 尺 の 小 躯 (小 身 体 )を 以
つ い
て此大をはからむとす。ホレーショの哲学 竟 に何等のオーソリチィーに価
つ く
す る も の ぞ 、 万 有 の 真 相 は 唯 一 言 に し て 悉 す 、 曰 く 「 不 可 解 」。
我この恨
を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等
の 不 安 あ る な し 、 始 め て 知 る 、 大 い な る 悲 観 は 大 い な る 楽 観 に 一 致 す る を 。」
(ホレーショは『ハムレット』に出る人名だが、藤村の誤解があるらしい。
ま た 、 夏 目 漱 石 と 関 わ る 話 も あ る が 、 こ こ で は 省 略 す る 。)
要するに、宇宙の真相は不可解だとして自殺するのです。
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人生は不可解だから生きる意味などないと判断して自ら命を絶ったのだと
したら、それは傲慢以外のなにものでもないと思われます。
当時、一高生であった彼はたしかにエリートであったのかもしれません。
今の一般的な学生のそれに比べればはるかに高い知識と教養がおそらくはあ
ったのでしょう。誇り高き人と言うべきなのでしょうか。しかし、たかだか
十八歳の青年に人生の何がわかるというのでしょうか。ここに傲慢さを見取
るとしても、それほど間違いではないと思います。
ただし、これは誰でも青年時代には起こりうることかもしれません。自分
の学生時代を思い出してみても、そのような傲慢さのかけら、つまり無知な
のに自分は結構ものごとを良く知っている、良くわかっているといった思い
込みがあったと思います。恥ずかしながらそれは認めざるをえません。しか
しそれは年とともに徐々に崩れていったことも確かですが。
藤村にとって、自らの知識と教養は絶対であったのでしょう。人生はそれ
によっても理解できないと絶望した時、生きていること自体を認めるわけに
はいかなかった。言いかえれば、自らの知の絶対性を信じるがゆえに、その
絶対性が少しでもゆらぐと絶望し、人生そのものを否定してしまったのでは
ないかと思うのです。
現時点での知は不完全なはずだという考えがあれば、その後の行動は変わ
っていたかもしれません。自らの不完全な知をこそむしろ否定して、人生の
意味、命の意味を考えるべきであった。
ところで、不完全なはずの知を否定するということは、不完全性をそのま
ま受け入れるということだと思います。それは傲慢に陥ったものには特に難
しい。なぜなら、ある種の自己否定だからです。しかし、この自己否定を通
してしか、真実には近づけないのです。自分勝手な思いに拘泥しているうち
は、真実に気づくことはないのです。
したがって、自己の知の不完全性を認める、言いかえれば、不完全な自分
に 正 直 に な る と い う こ と を 、私 は こ の 出 来 事 か ら 学 び 取 り た い と 思 う の で す 。
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ここで思い出すのは、釈尊が若かりし日の絶望的思いを語るくだりです。
覚りの域に達したあとの釈尊が弟子たちに述懐したという内容です。
「比丘たちよ。周知の通り、私は恵まれ大事にされ育まれたが、その私に
次のような思いが生じたのだ。
『無 知 な 凡 夫 は 自 身 老 い る も の で あ り 老 い を 逃
れられないものでありながら、自分のことだけはさしおいて、他人の老いぼ
れた姿を見て困惑し、恥ずかしく思い、嫌悪する。自分も老いを逃れられな
いにもかかわらず、その自分が他人の老いを見てそう思うのは、同じく老い
る自分に相応しくはない』と。このような思いに及んだ時、若さの真只中に
あ り な が ら 、 若 さ を 誇 る 思 い は 全 く 消 え 失 せ て し ま っ た 。」(『 増 支 部 』 3 . 3 8
から)
こ こ は「 老 」を 主 題 に し て 語 ら れ て い ま す が 、こ の あ と さ ら に 、
「 病 」と「 死 」
についても同様のくだりがあります。
そして、このあと釈尊はこれまでの誇り、ないし傲慢さを捨てて、出家し
ます。つまり、不完全な知、不完全な思い込み、不完全な自己というものを
一旦否定したあとで、そのありようをそのまま受け入れたということでしょ
う。さらに、そこから、そのありようから、脱け出す道を求めて歩まれたの
だと思います。
以上のようなことを日光詣で考えました。ずいぶん自分勝手な思い込みが
あるかもしれません。しかし、仏教に出会えたことをつくづく幸せに感じる
こともまた確かなことなのです。
『 芬 陀 利 華 』 2010 年 12 月 号 よ り