ヘブル語動詞の瞑想 詩篇の礼拝用語

ヘブル語動詞の瞑想
詩篇の礼拝用語
(1~150 篇)
―日毎の詩篇の中から、一つの礼拝用語を取り出し、それについて瞑想します。ー
空知太栄光キリスト教会牧師
0
銘形秀則
目
詩篇
節
新改訳
1
2
3
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
24
25
26
27
28
29
30
2
口ずさむ
12
身を避ける
5
身を横たえる
5
眠る
1, 3
呼ぶ
7
ひれ伏す
5
ほめたたえる
17
ほめ歌う
1,8
なんと
1
語り告げる
1, 13 なぜ
7
仰ぎ見る
1
(形容詞) 聖徒
6
歌う
7
喜ぶ
1
住む
1
宿る
7
ほめたたえる
15
満ち足りる
1
慕う
12
悟る
7
誇る
7
信頼する
22
賛美する
6
住まう
6
求める
6
慕い求める
3, 5
待ち望む
1, 3
歩む
13
信じる
2
上げる
1
帰す
1
あがめる
原 語
‫הָ גָה‬
‫חָ סַ ה‬
‫ָשׁכַב‬
‫י ֵָשׁן‬
‫ָק ַרא‬
‫חָ וָ ה‬
‫י ַָדה‬
‫זָ מַ ר‬
‫מָ ה‬
‫סָ פַ ר‬
‫לָמָ ה‬
‫חָ זָ ה‬
‫חָ ִסיד‬
‫ִשׁיר‬
‫ָשׂמַ ח‬
‫ָשׁכַן‬
‫גּוּר‬
‫בָּ ַרךּ‬
‫ָשׂבַ ע‬
‫ָרחַ ם‬
‫בִּ ין‬
‫זָ כַר‬
‫בָּ טַ ח‬
‫הָ לַל‬
‫י ַָשׁב‬
‫ָד ַרשׁ‬
‫בָּ ַקשׁ‬
‫ָקוָ ה‬
‫הָ לַךּ‬
‫אָמַ ן‬
‫נ ָָשׂא‬
‫יָהַ ב‬
‫רוּם‬
次
読み
読み
口語訳
新共同訳
hagah
ハーガー
思う
思う
chasah
ハーサー
避け所とする
寄り頼む
shakhav
シャーハヴ
伏す
身を横たえる
yashen
ヤーシェン
眠る
眠る
qara’
カーラー
呼び求める
呼ばわる
chawah
ハーヴァー
ひれ伏す
伏し拝む
yadah
ヤーダー
ほめたたえる
感謝する
zamar
ザーマル
ほめ歌う
ほめ歌う
mach
マー
いかに
いかに
saphar
サーファル
宣べ伝える
語り伝える
lamah
ラーマー
なにゆえ
なぜ
chazah
ハーザー
仰ぎ見る
chasid
ハーシッド
神を敬う人
信仰のある人
shir
シール
歌う
歌う
samach
サーマフ
楽しむ
喜び祝う
shakhan
シャーハン
住む
住む
gul
グール
宿る
宿る
barak
バーラク
ほめまつる
たたえる
sava`
サーヴァー
満ち足りる
満ち足りる
racham
ラーハム
愛する
慕う
biyn
ビーン
知る
熟慮する
zakhar
ザーハル
誇る
唱える
batach
バータフ
寄り頼む
拠り頼む
halal
ハーラル
ほめたたえる
賛美する
yashab
ヤーシャヴ
住む
とどまる
darash
ダーラシュ
慕う
求める
baqash
バーカシュ
求める
尋ね求める
qawah
カーヴァー
待ち望む
望みをおく
halak
ハーラク
歩む
歩き続ける
`aman
アーマン
信じる
信る
nasa’
ナーサー
上げる
上げる
yahav
1
ヤーハヴ
帰す
帰す
rum
ルーム
あがめる
あがめる
31
32
33
34
34
35
36
37
37
38
39
40
41
42
42
43
44
45
46
47
48
49
49
50
51
51
52
54
55
55
5
ゆだねる
6
祈る
8
恐れる
8
味わう
8
見る
9
楽しむ
8
心ゆくまで飲む
7
待つ
9, 11 受け継ぐ
18
言い表わす
2, 9
沈黙を守る
9
告げる
11
わかる
1
慕いあえぐ
2
渇く
5
待ち望む
17
~しない
1
わき立つ
10
やめる
1
叫ぶ
9
思い巡らす
1
聞く
1
耳を傾ける
14
ささげる
14
高らかに歌う
15
告げます
8
拠り頼む
6
進んでささげる
17
うめく
22
ゆだねる
(誓いを)
56
13
57
59
60
61
62
7
ゆるがない
9
見守る
12
働く
4
いつまでも
5
黙って待ち望む
果たす
‫פָּ ַקד‬
‫פָּ לַל‬
‫י ֵָרא‬
‫טָ עַ ם‬
‫ָראָה‬
‫שׂוּשׂ‬
‫ָרוָ ה‬
‫חוּל‬
‫י ַָרשׁ‬
‫ָנגַד‬
‫אָלַם‬
‫בָּ ַשׂר‬
‫י ַָדע‬
‫עָ ַרג‬
‫צָ מֵ א‬
‫יָחַ ל‬
‫א‬
‫ָרחַ שׁ‬
‫ָרפָ ה‬
ַ‫רוּע‬
‫ָדּמָ ה‬
‫ָשׁמַ ע‬
‫אָזַ ן‬
‫זָ בַ ח‬
‫ָרנַן‬
‫ָנגַד‬
‫בָּ טַ ח‬
‫נ ַָדב‬
ַ‫שׂיח‬
‫ָשׁלַךּ‬
paqad
パーカド
ゆだねる
ゆだねる
palal
パーラル
祈る
祈る
yare`
ヤーレー
恐れかしこむ
畏れます
ta`am
ターアム
味わい
味わう見る
ra’ah
ラーアー
知る
見る
sus
スース
楽しむ
楽しむ
rawah
ラーヴァー
飽き足りる
潤う
chul
フール
待ち望む
待ち焦がれる
yarash
ヤーラシュ
継ぐ
継ぐ
nagad
ナーガド
言いあらわす
言い表す
’alam
アーラム
黙する
沈黙する
basar
バーサル
告げ示す
伝える
yada`
ヤーダー
知る
知る
`arag
アーラグ
慕いあえぐ
求める
tsame’
ツァーメー
かわく
渇く
yachal
ヤーハル
待ち望む
待ち望む
lo’
ロー
rachash
ラーハシュ
あふれる
湧き出る
raphah
ラーファー
静まる
力を捨てる
rua`
ルーア
叫ぶ
叫びを上げる
damah
ダーマー
思います
思い描く
shama`
シャーマー
聞く
聞く
’azan
アーザン
耳を傾ける
耳を傾ける
zavach
ザーヴァフ
ささげる
ささげる
ranan
ラーナン
歌う
喜び歌いう
nagad
ナーガド
あらわす
歌う
batach
バータフ
頼む
依り頼む
nadav
ナダーヴ
喜んで
自ら進んで
siach
シアーフ
うめく
呻く
shalak
シャーラク
ゆだねる
ゆだねる
‫ָשׁלֵם‬
shalem
シャーレム
立てた誓いを
誓ったとおり
果たす
ささげる
‫כּוּן‬
‫ָשׁמַ ר‬
‫עָ ָשׂה‬
‫ע ֹולָם‬
‫ָדּמַ ם‬
kun
クーン
定まる
確かにする
shamar
シャーマル
ほめ歌う
見張って待つ
`asah
アーサー
働きます
力を振う
`olam
オーラーム
とこしえに
とこしえに
damam
ダーマン
もだして待つ
沈黙して向う
2
‫ָשׁחַ ר‬
‫ָדּבַ ק‬
‫ָשׂכַ ל‬
‫ָרנַן‬
63
63
64
65
1
切に求める
8
すがる
9
悟ります
8
高らかに歌う
65
13
喜び叫ぶ
ַ‫רוּע‬
66
66
4
伏し拝む
4
伏し拝む
2
3
7
知る
23
ともにいます
25
望む
21
ほめたたえる
11
誓いを立てる
1
声を上げて叫ぶ
2
手を差し伸ばす
3
思い起こす
3
思いを潜める
5
思い返す
12
思い巡らす
7
守る
13
とこしえまで
3
そうすれば
‫ָשׁחָ ה‬
‫חָ וָ ה‬
‫י ַָדע‬
‫י ַָדה‬
‫י ֵָרא‬
‫עִ מ‬
‫חָ פֵ ץ‬
‫הָ לַל‬
‫נ ַָדר‬
‫צָ עַ ק‬
‫ָנגַר‬
‫זָ כַר‬
ַ‫ִשׂיח‬
‫חָ ַשׁב‬
‫הָ גַה‬
‫נָצַ ר‬
‫ע ֹולָם‬
ְ‫ו‬
‫ָרחַ ב‬
‫כָּסַ ף‬
‫ָכּלָה‬
‫ָשׁמַ ע‬
‫כּי‬
‫ָשׁוַ ע‬
‫י ַָדע‬
‫לין‬
‫הָ גַד‬
‫ָשׁ ַקט‬
‫ָק ַדם‬
‫בָּ ַרך‬
‫ִחיל‬
67
73
73
74
76
77
77
77
77
77
77
78
79
80
81
84
84
85
86
88
89
91
92
94
95
95
96
10
ほめたたえる
恐れる
口を大きく開ける
2
恋い慕う
2
絶え入るばかり
8
聞く
5
まことに
13
叫びます
1
知らせる
1
宿る
2
言い表わす
13
平安を賜る
2
進み行く
6
ひざまずく
9
おののく
shachar
シャーハル
尋ね求める
捜し求める
davaq
ダーヴァク
すがりつく
付き従う
sakhal
サーハル
考える
目覚める
ranan
ラーナン
喜び歌う
喜び歌う
rua`
ルーア
喜び呼ばわる
shachah
シャーハー
拝む
ひれ伏す
chawah
ハーヴァー
拝む
ひれ伏す
yada`
yadah
yare’
ヤーダー
知る
知る
ヤーダー
ほめたたえる
感謝をささげる
ヤーレー
恐れる
畏れ敬う
`im
イム
ともにあり
とどまる
chaphets
ハーペツ
慕う
愛する
halal
ハーラル
ほめたたえる
賛美する
nadar
ナーダル
誓いを立てる
誓いを立てる
ts`aq
ツァーアク
叫ぶ
叫ぶ
nagar
ナーガル
手を伸べる
手を差し出す
zakhar
ザーハル
思う
思い続ける
siach
シーアッハ
深く思う
悩む
chashav
ハーシャヴ
思う
思います
hagah
ハーガー
思う
口ずさむ
natsar
ナーツァル
守らせる
守る
`olam
オーラーム
とこしえに
とこしえに
we
ヴェ
そうすれば
―
rachav
ラーハヴ
広くあける
広く開ける
kasaph
カーサフ
慕う
慕う
kalah
カーラー
絶え入る
絶え入る
shama`
シャーマー
聞く
聞く
ki
キー
―
―
shawa`
シャーワー
呼ばわります
叫びます
yada`
ヤーダー
告げ知らせる
告げ知らせる
lin
リーン
やどる
宿る
hagad
ハーガド
あらわす
述べ伝える
shaqat
シャーカト
qadam
カーダム
御前に行く
(御前に)進む
barak
バーラク
ひざまずく
ひざまずく
chil
ヒール
おののく
おののく
3
喜びの叫びを
上げる
静かに待つ
97
97
98
99
100
101
102
1
こおどりする
1
喜ぶ
8
手を打ち鳴らす
7
守る
2, 4
行く(入る)
2
心を留める
T
注ぎ出す
103
2
忘れない
104
105
105
107
108
109
111
112
27
待ち望む
45
守る
45
守る
13
叫ぶ
2
呼び覚ます
31
貧しい
1
感謝する
1
(主を)恐れる
116
16
117
118
118
119
1
ほめ歌う
24
楽しむ
24
喜ぶ
11
たくわえる
②
32
走る
③
52
思い出す
④
59
(~に)向ける
⑤
70
喜ぶ
⑥
71
学ぶ
⑦
81
慕って絶え入る
⑧
97
愛する
⑨
103
甘い
⑩
131
あえぐ
⑪
173
選ぶ
131
133
133
134
2
(魂を)和らげる
1
共に
1
住む
1
ほめたたえる
(救いの杯を)
かかげる
‫גִּ יל‬
‫ָשׂמַ ח‬
‫מָ חַ א‬
‫ָשׁמַ ר‬
‫בּוֹא‬
‫ָשׂכַ ל‬
‫ָשׁפך‬
-‫אַל‬
‫ָשׁ ַכח‬
‫ָשׂבַ ר‬
‫ָשׁמַ ר‬
‫נָצַ ר‬
‫זָ עַ ק‬
‫עוּר‬
‫אֶ בְ יוֹן‬
‫י ַָדה‬
‫י ֵָרא‬
gil
ギール
楽しむ
喜び躍る
samach
サーマフ
喜ぶ
喜び祝う
macha’
マーハー
手を打つ
手を打ち鳴らす
shamar
シャーマル
守る
守る
bo’
ボー
行く
進み出る
sakhal
サーハル
心をとめる
解き明かす
shapak
シャーパク
注ぎ出す
注ぎ出す
’alshakhach
アル
心にとめる
忘れない
sabar
サーバル
期待する
望みをおき待つ
shamar
シャーマル
守る
守る
natsar
ナーツァル
行う
従う
zaa`k
ザーアク
呼ばわる
叫ぶ
`ur
ウール
呼びさます
呼び覚ます
’evyon
エヴィヨン
貧しい
乏しい
yadah
ヤーダー
感謝する
感謝をささげる
yare’
ヤーレー
おそれる
畏れる
‫נ ָָשׂא‬
nasa’
ナーサー
あげる
上げる
‫ָשׁבַּ ח‬
‫גִ יל‬
‫ָשׂמַ ח‬
‫צָ פַ ן‬
‫רוּץ‬
‫זָ כַר‬
‫שׁוּב‬
‫ָשׁעַ ע‬
‫לָמַ ד‬
‫ָכּלָה‬
‫אָהַ ב‬
‫מָ לַץ‬
‫יָאַב‬
‫בָּ חַ ר‬
‫ָשׁוָ ה‬
‫יָחַ ד‬
‫י ַַשׁב‬
‫בָּ ַרך‬
shabach
シャーバフ
たたえまつる
ほめたたえる
gil
ギール
喜ぶ
喜び祝う
samach
サーマフ
楽しむ
喜び躍る
tsaphen
ツァーファン
たくわえる
心に納める
ruts
ルーツ
走る
走る
zakhar
ザーハル
思い出す
思い起こす
shuv
シューヴ
向ける
立ち返って
sha`a
シャーアー
喜ぶ
楽しむ
lamad
ラーマド
学ぶ
学ぶ
kalah
カーラー
慕って絶え入る
絶え入る
‘ahav
アーハヴ
愛する
愛する
malats
マーラツ
甘い
甘い
ya’av
ヤーアヴ
あえぎ求める
渇望する
bachar
バーハル
選ぶ
選び取った
shawah
シャーワー
静める
沈黙させる
yachad
ヤーハド
和合して共に
共に
yashav
ヤシャーヴ
住む
座る
barak
バーラク
ほめる
たたえる
4
シャーハフ
135
136
137
141
142
143
3
まことに
1
感謝する
4
たたえる
8
身を避ける
5
言う
9
身を隠す
‫כִּ י‬
‫י ָָדה‬
‫עָ לָה‬
‫חָ סָ ה‬
‫אָמַ ר‬
‫כָּסָ ה‬
kiy
キー
―
―
yadah
ヤーダー
感謝する
感謝する
`alah
アーラー
~とする
~とする
chasah
ハーサー
寄り頼む
避け所とする
’amar
アーマル
言う
申す
kasah
カーサー
避け所を得る
隠れる
ヘブル語は動詞中心の言語
◆ヘブル語は動詞が中心となっている言語です。ヘブル語の動詞は三つの文字(子音)から
なる語根からなっており、語根はそれぞれ基本的な意味を持っています。それは漢字の形
そのものが意味を伝えるのと同様です。ヘブル語ではひとつの単語を形成するために、語
幹のまわりを補う文字が他の語を構成するため、さまざまな形に変化します。しかし、基
本的な意味は、何らかの形で必ずすべての単語の中に残ります。
◆たとえば、ヘブル語のあいさつ用語であるシャローム(
‫ל‬
ラメド( )・メム(
‫)ם‬からなり、英語の表記では
‫)שׁלום‬の語根は、シェン(‫・)שׁ‬
Sh-L-M となりますが、その基本概念は、
「健全さ」
「完全さ」
「繁栄」「平和」の意味です。この語幹から多くのことばが組み立て
られます。シャーレム
‫( ָשׁלֵמ‬shalem)という動詞は、終る、完成する、繁栄する、ささ
げる、誓いや義務を果たす、支払う、償う、といった意味があります。これがさまざまに
変形します。セレム
‫( ֶשׁלֶם‬shelem)という、神との壊れた関係の修復を表わす名詞として
の「交わり」(fellowship)「和解のいけにえ」(fellowship offer)としての意味。メルキゼデ
‫( ָשׁלֵמ‬shalem)・・・というふうに。
◆他にも、「真理」(アーメン‫)אָמֵ ן‬は、動詞のアーマン‫אָמַ ן‬から派生した語であり、「王」
(メレク‫)מֶ לֶך‬や「王国」(マムラーカー‫)מַ ְמלָכָ ה‬も、
「支配する」という動詞マーラク‫מָ לַך‬
クのいた地名としてのサレム
から派生した語です。このように、ヘブル語ではほとんどの語は動詞から派生しています。
◆ヘブル語の単語数は、英語に比べると、その約 1/10 ほどしかないと言われますが、以
上のように、ヘブル語は語幹の 3 文字の読みを変化させ、前後にいろいろなもの付け足す
ことで、動詞を変化させ、分詞や派生語をつくったりする動詞中心の言語です。
5
詩篇の礼拝用語の瞑想のプロセス
1. 私が日常的に使用している聖書は「新改訳聖書-第三版」(日本聖書刊行会)です。
聖書の詩篇から、その日に瞑想しようとする「礼拝用語」(人が神に対する礼拝行為、
動作、態度、意志など表わす動詞)を一つ(場合によっては二つ)選択します。
2. その「礼拝用語」の原語(ヘブライ語)が何かを知るために、私はミルトス・ヘブライ
rd
文化研究所編の「ヘブライ語聖書対訳シリーズ(詩篇)」、「J-ばいぶる Hebrew(3 )」
(日本コンピューター聖書研究会)を使用します。Hebrew-Greek KEY WORD STUDY
BIBLE (New International Version, AMG publishers)も便利です。
3. 原語が分かれば、選択した用語(動詞)が旧約聖書でどのように用いられているか、
どのように訳されているかをコンコルダンスで調べることができます。私の場合は、
“The Hebrew-English Concordance To The Old Testament” by John R.
Kohlenberger Ⅲ (Zondervan)を使用しています。このコンコルダンスを入手して
から調べることが容易になりました。ただし、このコンコルダンスの聖書は
New International Version(NIV)です。原語の意味を知るには、“Theological
Wordbook of the Old Testamet” (R.L.Haris, G..L.Archer, Jr., B.K.Waltke/ Moodey
Publishers) が役立ちます。
4.
それから、日本語で出版されている聖書によってどのようなことばで訳されているか
をチェックします。私が使っている聖書は以下の訳です。
(1) 口語訳
(2) 新共同訳
(6) 岩波書店訳(松田伊作訳)
(3) フランシスコ会訳 (4) 関根正雄訳
(7) 現代訳(尾山令二訳)
(5) 文語訳
(8) リビングバイブル(LB 訳)
(9) カトリック典礼委員会詩篇小委員会の詩篇現代訳(あかし書房)
(10)バルバロ訳
―これらはすべて現在入手できます。なお、英語のさまざまな訳も調べるならば、
原語のもっている意味合いがより明確にイメージすることができます。
5.
選択したある礼拝用語のイメージを描くことができたならば、そのことばを、その
詩篇全体から、あるいは聖書全体から瞑想し、味わいます。このようにして、ヘブラ
イ語の礼拝用語の一つからでも、神とのかかわりのすばらしさを味わうだけでなく、
神の民の一人として旧約の人々と共感する楽しみができます。そして、それを日々の
信仰生活の中でどのように生活化するかによって霊性が形成されていきます。
6.
詩篇瞑想の目的はあくまでも神と自分とかかわりを豊かにするためのものです。
絃学的になることを自ら戒めつつ、礼拝者としての在り方を学ぶことを目指します。
6
詩 1 篇 「口ずさむ」
(カテゴリー: 祈り・瞑想)
ハーガー
‫הָ גָה‬
2 節「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」
Keyword;「口ずさむ」「思い巡らす」 1:2/35:28/63:6/77:12/143:5/ meditate,
◆「口ずさむ」(あるいは「思い巡らす」新改訳/新共同訳/岩波訳)、
「思う」(口語訳)、
meditate と訳されているハーガー‫(הָ גָה‬hagah)は、旧約で 25 回、詩篇では 10 回使われ
ています。その意味は、
「うめく」
「つぶやく」
「声を出す」
「ささやく」
「親しく語る」
「考
える」「思う」です。旧約の詩人にとって、神とそのみことば、あるいは御業は口を用い
て言い表すことに直結されていたようです。口語訳では「思う」と訳されていたハーガー
‫(הָ גָה‬hagah)が、新改訳、新共同訳で「口ずさむ」と訳されているのは、原意に近づけた
ものと思われます。ちなみにバルバロ訳では「瞑想し」
、典礼訳では「心に留める」と訳
されています。
◆「主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」者こそ、幸いなことだとする
この詩篇第 1 篇は、詩篇全体を読み解く大切な鍵とも言える詩篇だと言えます。というの
も、詩篇はもともと神の御前での瞑想によって生まれたものであり、それが書き記され編
纂された目的は神の民が瞑想に用いることができるためでした。それゆえ、詩篇は今日に
至るまで瞑想の祈りの源泉となっています。
◆イスラエルの歴史において、神の民が「昼も夜もそのおしえを口ずさむ」ようになった
のはバビロン捕囚の経験を通してです。この辛い悲しむべき経験を通して、神の民ははじ
めて神を深く思い巡らし、神を知るようになったようです。その結晶は、神と親しくかか
わる者にとって、いついかなる時代においても、共感し得るものとなっています。
◆「口ずさむ」
「思い巡らす」と訳されたハーガー
‫(הָ גָה‬hagah)は、祈りにおける「瞑想」
の用語です(瞑想の他に、黙想、観想という祈りもあります)。瞑想とは、神を全人格的に
愛し、神が私たちに望まれる生き方をするために、いわば、神のことばを知性によって熟
考することを意味します。瞑想の祈りとは神のことばを手掛かりとした神とのコミュニケ
ーションです。それゆえ、瞑想は思考を停止することではなく、むしろ心の目を開いて神
の心を知ること、神のわざを見ること、しかも個別に見て数えること、それをよく考える
こと、その上で思ったことを語り出すこと、歌い出すこと、そのすべてを含んでいます。
◆瞑想用語であるガー
‫(הָ גָה‬hagah)の類義語としては以下のものがあります。
‫(זָ כַ ר‬zakhar/ザーカル) 「思い出す」「思い起こす」「思い続ける」、remember
―
あのとき
このときの恵みを一つ一つ思い起こしてその重みを確かめる 77:3, 5/106:7/109:16
‫(חָ ַשׁב‬chashav/ハーシャヴ)「思い返す」「思う」原意は「計算する」。77:5/119:59
― ַ‫שׂיח‬
ִ (siach/シーアハ)「思いを潜める」「(自分の心と)語り合う」「静かに考える」
―
「思い巡らす」
「深く思う」 77:3/119:15,23/145:5/143:5
7
詩 2 篇 「身を避ける」
(カテゴリー: 信頼)
ハーサー
‫חָ סַ ה‬
12 節「幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」
Keyword; 「身を避ける、寄り頼む」
2:12/5:11/7:1/11:1/16:1/17:7/18:2,30/25:20/31:1,19/34:8,22/36:7/37:40/
57:1, 1/61:4/64:10/71:1/91:4/118:8, 9/141:8/144:2
「いかいに幸いなことか。主を避け所とする人はすべて。」(新共同訳)
「すべて主に寄り頼む者は幸いである。」(口語訳)
「すべて彼に依り頼む者に幸あれ。」(関根訳)
「幸いだ。かれのもとに逃れる者たちはみな」(岩波訳)
「しかし、主に信頼する者は、なんと幸いでしょう。
」(L.B 訳)
put trust in Him / take refuse in Him / seek refuge in Him / find their refuge in Him /
◆以上のようにさまざまな表現で訳されていますが、大切な点は「身を避ける」ことが単
なる逃避ではなく、最も頼りになる方を求めて得ること、あるいは、その方の保護を見出
すということです。旧約 37 回、そのうち詩篇が 25 回と最も多く、信頼を表わす詩篇特
愛の動詞と言えます。
◆「身を避ける」と訳されたハーサー
‫(חָ סַ ה‬chasah)は、他に、「声を上げない」、「静まる」
「沈黙する」
「無言」、といったことばでも訳されています。この詩 2 篇は、まさに神に対
する勢力が「騒ぎ立ち」
「空しくつぶやき」
「立ち構える」状況に対して、神がご自身の御
子によって、彼らを打ち破るという神の救いの計画の全貌が預言的に語られている詩篇で
す。そうした文脈の中での「身を避ける」とは、いかなる環境や状況に置かれることがあ
っても、主の信頼によるゆるぐことのない平安、落ち着き、沈黙が与えられることです。
◆イエスの弟子たちが舟で向こう岸に渡ろうとしたときに、突然襲った突風で、今にも舟
が沈みそうな恐れの中で弟子たちは、主イエスに「なんとも思わないのですか」とその恐
れをぶちまけています。しかしそのときイエスはなんと眠っておられました。これは御子
イエスが御父に「身を避けて」おられたからです。
◆神の子とされた私たちのこの世の務めは、何よりも主を信頼することです。イエスが「わ
たしを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ 15 章 5 節)と言われた
ように、
「主に身を避ける」ことを学ぶことなしに、私たちがなし得るものは何一つない
ことを心に深く刻みつけたいと思います。
◆ちなみに、詩 1 篇 2 節の「喜ぶ」と詩 2 篇 12 節の「身を避ける」ことが、詩 5 篇 11
節においては、
「あなたに身を避ける者がみな喜び」と密接に結び合わされています。
8
詩 3 篇 「身を横たえて、眠る」
(カテゴリー: 信頼)
シャーハヴ
ヤーシェン
‫ָשׁ כַ ב‬
‫ָי ֵשׁן‬
5 節「私は身を横たえて‫שׁכַב‬
ָ 、眠る‫。י ֵָשׁן‬私はまた目をさます。」(新改訳)
「わたしはふして眠り、また目をさます。
」(口語訳)
「それで、安心して横になり、ぐっすり眠りました。
」(L.B)
I lie(lied) down and sleep(slept)
Keyword; ①‫שׁכַב‬
ָ 「身を横たえる」「伏す」 3:5/4:8/41:8/57:4/68:13
②‫ָשׁן‬
ֵ ‫「י‬眠る」 3:5/4:8/13:3/44:23/121:4
◆5 節の「身を横たえて、眠る」には二つのヘブル語が使われています。ひとつは「身を
横たえる」のシャーハヴ
‫( ָשׁכַ ב‬shakhav)。憩う、座す、住む、とどまる、泊まる、眠る、
寝る、伏す、休む、横になる、といった意味があります。もうひとつは「眠る」のヤーシ
ェン
‫(י ֵָשׁן‬yashen),
sleep です。前者は旧約で 207 回、うち詩篇は 5 回。後者は旧約で 18
回、うち詩篇では 5 回です。
◆ちなみに、詩 121 篇 4 節では「イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠るこ
ともない」とあります。私たちを守る方は「まどろむことなく、眠ることなく」私たちを
支え守っていて下さるので、私たちは安心して「眠る」ことができるのです。
◆この詩 3 篇では、表題にもあるように、ダビデが有能な息子の一人アブシャロムによる
謀反によって都落ちした状況が背景にあります。あらゆる危険がダビデを取り囲んでいる
にもかかわらず、ダビデは安らかに眠ることができました。そして再び、朝の陽の光を見
ることができたのです。これは神の守りに支えられているという明らかな証拠です。この
眠りは、決して、怠け者の怠惰な眠りではありません。神の懐にとどまり、そこに匿われ
ていることの確信が安眠をもたらします。この祝福は、御子イエスにも、そして使徒ペテ
ロにも見られました(参照、マタイ 8 章 23~27 節。使徒 12 章 6 節)。
◆安眠の祝福は、次篇の詩 4 篇の主題でもあります。その 8 節には、「平安のうちに、私
は身を横たえ、すぐ眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせて下さ
います。
」とあります。安心して眠ることかできる幸いが、告白されています。箴言 3 章
24 節「あなたが横たわるとき、あなたに恐れはない。休むとき、眠りは心地よい。にわ
かに起こる恐怖におびえるな。悪者どもが襲いかかってもおびえるな。主があなたの足が
わなにかからないように、守ってくださるからだ。」
‫(סֶ לָה‬selah)ということばがこの詩篇で初めて登場していることに
◆ちなみに、
「セラー」
も留意しておきたいところです。
「セラー」は「休息、安息」を意味する音楽用語と言わ
れています。主にある「セラー」の祝福を日々過ごせる者となりたいものです。
◆また、主にある親しい同労者同士で、セラー・トーヴ
挨拶して別れるのも良いかもしれません。
9
(‫טוב‬
‫「)סֶ לָה‬良い休息を」と
詩 4 篇 「呼ぶ、呼ばわる」
(カテゴリー: 祈り)
カーラー
‫ָק ָרא‬
1 節「私が呼ぶとき、答えてください。」 3 節「・私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。」
Keyword; 「呼びます」
「呼ばわります」
「叫び求めます」call, cry, cry out, call for help,
3:4/4:1, 3/17:6/18:3, 6/20:9/22:2, 7/28:1/30:8/31:17/34:6/50:15/55:16/56:9/57:2/61:2/
66:17/69:3/80:18/81:7/86:3, 5, 7/88:9/89:26/91:15/99:6/102:2/119:145,146/120:1/141:1
◆カーラー
‫( ָק ָרא‬qara’)は「呼ぶ」「呼び求める」、呼びかけるだけでなく「訴える、叫ぶ、
会う、向き合う、告げる、出会う、出迎える、となえる、名づける、招く、召す、召し集
める、召し寄せる・・」などの意味があります。誰に向って訴えるのか、誰に向って叫ぶ
のか、誰に向って呼び求めるのか、そこが重要なポイントです。
「私が呼ぶとき、主は聞
いてくださる」
・・この「主」との呼応関係こそ、永遠のいのちと言われるものです。
‫( ָק ָרא‬qara')は、旧約で 733 回、そのうち詩篇では 57 回使われています。
このカーラー
◆4 節には「恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ」とあ
ります。ここでの「罪」とは、文脈から見るならば、
「だれかわれわれに良い目を見せて
「だれでもいいから」という
くれないものか」(6 節)と多くの者たちが言っているように、
その場限りの呼びかけです。つまり、自分に良い目をみせてくれるならだれであってもい
いという心こそが、神に対する大きな罪です。こうした罪が聖徒とされた者(神の子ども
とされた者)にも潜んでいるかもしれません。4 節は、そうした心が自分のうちにないかど
うか、点検する必要が訴えられています(4 節)。
◆御子イエスはしばしば一人になり御父に向って呼ばわりました。そしてそれに答えて御
父はみこころを示されました。このみこころに御子イエスは従われたのです。この関係こ
そ神の子とされた者の在るべきかかわりです。御父は御子に対してそうであられたように、
ご自身の子どもである私たちに対しても、いつも良いものを与えてくださり、いつも良い
目を見させてくださる方です。ですから、このことを詩 4 篇では「知れ。主は、ご自分の
聖徒を特別に扱われるのだ」(詩 4 篇 3 節)と表現しているのです。
◆詩人の八木重吉は、赤子が泣くのは必死に神を呼んでいるのだ言いました。私たちも赤
子が母親を呼び求めて泣くように、神を呼び求めたいと思います。御父は呼び求める私た
ちの声にーそれがどんなに弱々しい声であったとしてもー必ず、耳を傾けて聞いてくださ
る方です。そして、そのことを信じることが最も大切なことです。
◆カーラー
‫( ָק ָרא‬qara’)の類義語としては、シャーワー‫( ָשׁוַ ע‬shawa`)があります。新改訳
では「叫び求めます」、口語訳では「呼ばわります」、新共同訳では「求め叫びます」と訳
されます。詩篇 28:2/72:12/88:13/119:147 参照。大きな声を出して助けを叫び求めること
を意味します。主は、私たちのなりふりかまわない叫びを、体裁を繕わない心の叫びを聞
いて下さる方です。
10
詩 5 篇 「ひれ伏す、伏し拝む」
(カテゴリー: 従順)
ハーヴァー
‫ָח ָוה‬
7 節「あなたの聖なる宮に向ってひれ伏します。」 I will worship / I bow down
Keyword;
「ひれ伏す」
「伏し拝む」
worship, bow down,
5:7/22:27, 29/29:2/45:11/66:4/72:11/81:9/86:9/95:6/96:9/97:7/99:5, 9/106:19/132:2/
138:2
◆「ひれ伏す」と訳されたハーヴァー
‫(חָ וָ ה‬chawah)は「かがむ、拝む、敬意を表する、
拝する、ひざまずく、ひれ伏す、伏し拝む、伏す、身をかがめる、礼拝する」といった意
味があります。旧約では170回、詩篇では17回使われています。
◆神に対する最高のささげものは礼拝です。その礼拝の態度は王の前に身をかがめている
家来のそれであり、その根本的な思想は、伏し拝み、屈伏することです。
◆英語で礼拝することを worship と言います。元々はアングロサクソン語の worthscipe
ということばで、「ある対象に価値を帰する」という意味のようです。礼拝とは礼拝して
いる方に価値を帰することだと言えます。
◆ヨハネの黙示録にも礼拝の風景が描かれています。
4:10 二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を
拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
4:11 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あ
なたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのです
から。」
◆ここに真の礼拝があります。順序が大切です。まず最初に彼らは「ひれ伏して」いま
す。ハーヴァー
‫(חָ וָ ה‬chawah)「ひれ伏す」とは礼拝している方に対する服従です。そし
てそのあとに、彼らは自分の冠を御座の前に投げ出しています。
◆ヨハネの黙示録が書かれた時代には、王がローマの軍隊に征服されると、彼は皇帝の
巨大な像の前にひれ伏し、自分の冠をその足下に投げ出すことが要求されました。これ
が、彼の皇帝に対する完全な服従と自分の王位の放棄の行為でした。そのように、礼拝
における二つの行為、一つは「ひれ伏す」こと、もう一つは礼拝する方の足下に冠を投
げ出すことです。この冠を投げ出すことの要求は、キリストの、そしてキリストだけの
栄光のために生きようと願うことです。換言すれば、真の礼拝のために欠くことのでき
ない第一の条件は「完全な服従」、第二の条件は「キリストにのみ栄光が帰されること」
です。黙示録4章11節では、礼拝者たちが御座に着いておられる方に「あなたはそれが
ふさわしい」と言って価値を帰している姿を見ることができます。最もふさわしい方に
「価値を帰する」(worth-ship)こと、これが礼拝なのです。
11
詩 6 篇 「ほめたたえる、感謝する」
(カテゴリー: 賛美)
ヤーダー
‫ָי ַדה‬
5節「よみにあっては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう。」
Keyword; 「ほめたたえる、感謝をささげる」 praise, give thanks,
6:5/7:17/9:1/18:49/28:7/30:4, 9, 12/32:5/33:2/35:18/42:5, 11/43:4, 5/44:8/45:17/49:18/
52:9/54:6/57:9/67:3, 5/71:22/75:1/76:10/79:13/86:12/88:10/89:5/92:1/97:12/99:3/
100:4/105:1/106:1, 47/107:1, 8, 15, 21, 31/108:3/109:30/111:1/118:1, 19, 21, 28, 29/
119:7, 62/122:4/136:1, 2, 3, 26/138:1, 2, 4/139:14/140:13/142:7/145:10/
‫(י ַָדה‬yadah)というヘブル語は、本来「投げる」とい
◆詩篇ではじめて登場するヤーダー
う意味があり、そこから、神に視線を向け、神に向って投げるものは、賛美であり、感謝、
そして信仰告白ということになります。ヤーダー
‫(י ַָדה‬yadah)は「ほめたたえる、感謝す
る、告白する、あかしする、言い表す、称賛する、たたえる、等」と訳されています。
旧約では111回、そのうちの67回が詩篇で用いられています。まさにこの動詞は詩篇特愛
‫י ַָדה‬の名詞はトーダー‫(תּו ַֹדח‬todah) です。
◆類義語としては、‫(חָ לַל‬ハーラル) ‫(בָּ ַרך‬バーラク)、‫(רוּם‬ルーム) ‫( זָ מַ ר‬ザーマル)、
‫(שׁיר‬シール)がありますが、ヤーダー‫( י ַָדה‬yadah,)の特徴は手を神に投げ出すように高く
のものと言えます。ヤーダー
上げて感謝するという意味合いの強い用語です。
◆ルカの福音書1章に御使いガブリエルが祭司ザカリヤのもとを訪れ、「あなたの妻エリザベ
ツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみ
となり、・主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、・・イスラエルの多くの子らを、彼
らの神である主に立ち返らせます。」と言いました。しかし、ザカリヤはガブリエルの言った
ことを信じることができず、その不信仰のゆえに、おしになってしまいました。やがてエリザ
ベツが子を生んだとき、ザカリヤはこの子の名を御使いガブリエルの言う通りに「ヨハネ」と
名づけたとき、たちどころに口が開け、舌は解け、ものが言えるようになり、神をほめたたえ
ました。それが「ザカリヤの歌」です。
◆神をほめたたえることは、神への信仰なしには口から出てくることはありません。神へ
の賛美、神への感謝は、信仰の大いなる神のみわざの証と言えます。
◆詩6篇の作者が、「よみにあっては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう。」(5節)
と言いましたが、私たちはまさによみから、泥沼から救い出された者です。神をほめたた
えることなど無縁の世界にいた者が、今や、キリストにあって救い出され、口が開かれ、
舌は解かされて神をほめたたえる者とされたのです。詩40篇3節に「 主は、私の口に、新
しい歌、われらの神への賛美を授けられた。」とあるように、賛美は神が私に授けられた
ものです。それゆえ、私たちは手を高く上げて神に感謝し、ほめたたえるべきなのです。
12
詩 7 篇 「ほめ歌う」
(カテゴリー: 賛美)
ザーマル
‫זָ ַמר‬
17 節「・・主を、私はほめたたえよう。いと高き方、主の御名をほめ歌おう。」
‫(י ַָדה‬ヤーダー)
‫(זָ מַ ר‬ザーマル)
Keyword; 「ほめ歌う」 sing praise, make music,
7:17/9:2, 11/18:49/21:13/27:6/30:4, 12/33:2/47:6(4回), 7/57:7, 9/59:17/
61:8/66:2, 4/68:4, 32/71:22, 23/75:9/92:1/98:4, 5/101:1/104:33/105:2/
108:1, 3/135:3/138:1/144:9/146:2/147:1, 7/149:3
◆ほとんどの聖書がザーマル
‫(זָ מַ ר‬zamar)を「ほめ歌おう、ほめ歌います、ほめ歌を歌い
ます」と訳しています。英語では、I will sing praises to / singing praises と訳しています。
◆ザーマル
‫(זָ מַ ר‬zamar)は、旧約では45回、詩篇では42回ですから、ほとんど詩篇特愛の
動詞だということが分かります。特に、このことばは、様々な楽器をもって主に歌い、賛
美するという意味です。楽器を伴った音楽は、しばしば戦いのために、あるいは戦勝の祝
い(凱旋)のために用いられましたが、ダビデの時代になってからは、神を礼拝するために
さまざまな楽器を用いて賛美するようになりました。
◆イスラエルの歴史の中で賛美を全盛期に至らしめたのはダビデ王です。ダビデは主を賛
美するための楽器を自らも奏でることができましたし、やがてダビデは神殿において昼も
夜も24時間の賛美をささげるヴィションをもっていました。そこでは祭司たち、および四
千のレビ人たちが「ダビデが賛美するために作った楽器を手にして、主を賛美する者」と
して登用されました。(但し、実際にそれをしたのはソロモン王でした。)
◆神殿で仕えるレビ人は20歳以上でしたが、音楽に携わるレビ人は30歳以上でなければな
りませんでした。それだけ霊的にも技術的にも高度なものが要求されたと考えられます。
なかでも、特別に歌の訓練を受けた288人の賛美奉仕者(音楽の達人)がいたようです。Ⅰ歴
代誌25章7節参照。しかも彼らは各12人ずつ24組に分けて順番に奉仕に当たったようです。
ラッパを吹く祭司たちも24組に分けて奉仕しています。
◆Ⅰ歴代誌15章17~28節をみるならば、さまざまな楽器と熟練した器たちによる賛美があ
ったことを知ることができます。
◆詩篇150篇には、角笛、十弦の琴、立琴、緒琴、笛、シンバルの楽器で神をほめたたえ
るべきことが命じられています。これは現代の楽器でいえば、金管楽器、弦楽器、木管楽
器、打楽器に相当します。長い間、プロテスタント教会は宗教改革時代からオルガンだけ
が神を賛美するための楽器であると考えてきました。しかし、ダビデの時代にはフル・オ
ーケストラで神を賛美していたのです。現代の教会はもっと多くの賛美を担う器たちが起
こされるように祈らなければなりません。ダビデがしたように、神をほめ歌う音楽をサタ
ンの手から「奪還」しなければなりません。
13
詩 8 篇 「なんと」「いかに」
(カテゴリー: その他)
マ ー
‫מָ ה‬
1&8 節「私たちの主。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」
Keyword; 「なんと」(驚きを表わす感嘆詞) how
「なんと力強いことでしょう。」(新改訳、新共同訳)
「いかに尊いことでしょう」(口語訳、関根訳) 「なんと偉大なことか」(岩波訳)
How excellent,
how glorious,
how majestic,
◆詩篇ではじめて登場する感嘆詞の「なんと」という語は、詩篇の中では神のみわざ、神
の属性に対する驚きの反応です。信仰者にとって、このような神への驚きは、その信仰の
きずなを深めるうえで重要な要素だと信じます。
◆この詩8篇では、二つの<驚き>が記されています。ひとつは、主の力強さが、
「幼子や
乳飲み子たち」に代表されるこの世で最も弱い存在―これは弟子たちを表わしています。
マタイ11章25節参照-によって打ち建てられるという驚きであり、もうひとつは、天体と
比較するときわめて小さな存在である人の子に、主が顧みられる、心を留められるという
ことの驚きです。双方とも、常識ではありえないことだからです。
◆このような驚きに、私たちひとりひとりが共感できるかどうかが詩篇瞑想の醍醐味の一
つです。私たちのすべての営みは、何らかの感動によって動機づけられ、行為を誘発させ
られます。ですから、神に対する無感動は神への無気力を産みます。神への感動なくして
神を深く知っていくことはできません。驚きなくして、何も伝えるものはありません。驚
き、感動は「いのち」そのものです。学問の世界においても、事実に対する驚きがあり、
疑問が起こって探究がはじまり、真理を発見します。ただ、信仰の世界の驚きが学問の世
界の驚きと異なる点は、
「上から」、つまり聖霊によって賦与されるものだということです。
◆マルタとマリアの二人の違いはここにあります。マルタは主をもてなすために、あれこ
れと心配して心を騒がせましたが、マリアは主の足下に座り、主の語ることばに耳を傾け
ました。この姿勢から霊的な「驚き」と「感動」が生まれるものと信じます。
◆詩篇におけるこうした驚きをみることができます。
「あなたのいつくしみはなんと大きいことでしょう。
」(詩31篇19節)
「神よ。あなたの恵みはなんと尊いことでしょう。」(詩36篇7節)
「万軍の主よ、あなたのお住まいはなんと慕わしいことでしょう。
」(詩84篇1節)
「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人・シオンへの大路のある人は」(詩84篇4,5節)
「あなたのみことばは、私の上あごになんと甘いことでしょう。」(詩119篇103節)
「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんという幸せ、なんという楽しさであろう。
」
(詩133篇1節)
他にも、84:5,12/92:5/94:12/104:24/119:138/139:4,17 参照。
14
詩 9 篇 「語り告げる」
(カテゴリー: 宣教)
サーファル
‫ָס פַ ר‬
1 節「私は・・・あなたの奇しいわざを余すところなく語り告げます。」(新改訳)
「わたしは・・あなたのくすしきみわざをことごとく宣べ伝えます。」(口語訳)
Keyword; 「語り告げる」「告げる」 tell, talk,
proclaim,
declare
speak, count
2:7/9:1, 14/19:1/22:22/26:7/40:5/48:12/6616/71:15/73:28/75:1/78:4/79:13/119:13/145:6
‫(סָ פַ ר‬saphar)の本来の意味は「数える、数を調べる、記す、の意味。そのピ
◆サーファル
エル動詞が、言い表す、語り伝える、語る、告白する、告げる、伝える、宣べ伝える、物
語る」です。同じ語幹を持つ名詞ソフェル
‫(סֹפֵ ר‬sopher)
は学者、書記官を意味します。
したがってニュアンスとしては、学者が事実を調べて、それを正確に把握し、整理して伝
えるということの意味合いが強い言葉です。だれが、だれに、なにを、どのように、語り
告げるのかに注目する必要があります。
◆類義語としてはナーガド
表わす」
、口語訳では
‫(נָגד‬nagad)
があります。新改訳では「告げ知らせる」「言い
‫( ָםפֵ ר‬sapher)と同様「宣べ伝える」、新共同訳では「語り伝える」と
訳されています。英語では、tell, show, proclaim, declare です。情報を伝える、説明する、
報告するといったニュアンスです。9:11/19:1/22:31/64:9/71:17/145:4
(saphar)が使われているところにナーガド‫( ָנגַד‬nagad)も置か
れているようです。他に、ダーバル‫( ָדּבַ ר‬dabar)2:5/49:3/85:8/115:11/145:11,21、ハーガー
‫(הָ גָה‬hagah)35:28/37:30/71:24 があります。
◆どうやらサーファル
‫סָ פַ ר‬
◆ルカも福音書を書くときに、次のように述べています。
「私たちの間ですでに確信されている出来事については、多くの人が記事にまとめて書き上げよう
と、すでに試みておりますので、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私
たちに伝えたそのとおりを、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなた
のために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによ
って、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと
存じます。」(ルカ 1章1~4節)
◆確かな神の事実を、驚くべき事実を、ことごとく、余すところなく、すべて、きちんと
整理し、順序立てて「語り告げる」ことが、神の祝福にあずかった私たちの責任です。
なぜなら、神は私たちを通してご自身をあかしするために選ばれたからです。ルカが初代
教会において神が主イエス・キリストを通してなされた驚くべき御業を書き記したように、
私たちは自分の歴史において、あるいは教会において、ことごとく語り告げることを神に
約束する必要があります。こうした約束(誓約)があるところに、神の御業はよりはっきり
と見えるようになると信じます。
15
詩 10 篇 「なぜ、なにゆえ、どうして」
(カテゴリー: その他)
ラーマー
‫לָמָ ה‬
1 節「主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのとき、なぜ、身を
隠されるのですか。
」「なぜ、悪者は、神を侮るのでしょうか」(13 節)
Keyword;
-信仰を深化させる問いとしての「なぜ」「なにゆえ」「どうして」why,
2:1/10:1(2度),13/22:1/44:24,25/74:1,11
‫(לָמָ ה‬lamah)という理由を神に問うこと
◆詩10篇には3度(1節、13節)も「なぜ」ラーマー
ばがあります。しかも、作者は神の不在を感じています。その発端は悪者の道が「いつも
栄え」(5節)、成功しているように見えるからでした。勝手気ままにしながら栄えている
現実に、神は沈黙し、遠くにおられるように作者には思えたのです。
◆詩2篇においても、「天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけら
れる。」(1節)という天的現実があるにもかかわらず、「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむ
なしくつぶやくのか。」との地的現実があります。沈黙を続ける神に向って、耐え切れぬ
叫びが「どうして」「なぜ」「なにゆえ」という理由を問う言葉となって投げかけられま
す。この叫びは、嘆きの詩篇の特長ですが、その叫びの根底には信頼があります。もし、
信頼がなければ理由を問うことすらしないはずだからです。
◆ダビデは若くして、預言者サムエルを通してイスラエルの王となるべく任職の油を注が
れました。しかし、それからダビデの苦悩は始まりました。自分の罪のゆえではなく、サ
ウル王の嫉妬による執拗な殺意によってダビデは10余年の間、放浪を余儀なくされました。
「どうして」「なぜ」「なにゆえ」という昼も夜も重くのしかかる問い、それは、長引く
苦難の中で、神が遠くに感じられるような日々の中で、いかなる状況の中においても神を
信頼するかどうかのテストでした。
◆ダビデの思いとは裏腹に、神の沈黙、神の不在の経験を通して、ダビデはいつしか「貧
しい者」「みなしご」「しいたげられた者」と連帯していきます。ダビデが荒野の放浪を
余儀なくされたとき、当時の社会では生きられなくなった者たちがダビデのもとに集まっ
てきました(Ⅰサムエル22章2節)。ダビデは彼らと寝食を共にしながら、不条理と思える逃
亡生活を10年余り続けました。ところが、やがてダビデがイスラエルの王として立てられ
たとき、彼らはダビデの身辺を守る命知らずの親衛隊となったのです。だれがこんなこと
を考えることができたでしょうか。信頼の絆は私たちの思いを越えたところで培われてい
きます。神の不在経験を多く通ることで、私たちの信仰の幻想は打ち砕かれて、より確か
な神の臨在を感じるようになるのです。これこそ神の不在経験の隠された意義です。つま
り、神の不在経験は神とのかかわりをより深化させるための神の配剤なのです。
16
詩 11 篇 「仰ぎ見る、目を注ぐ」
(カテゴリー: 渇望)
ハーザー
‫חָ זָ ה‬
7節「直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。」
Keyword; 「仰ぎ見る」 see, look upon, behold, gaze 11:7/17:15/27:4/63:2
‫(חָ זָ ה‬chazah)は「見る、目を注ぐ、注視する、預言す
◆「仰ぎ見る」と訳されたハーザー
る、仰ぎ見る」という意味です。11篇7節、17篇15節では「御顔」を、27篇4節では「主
の麗しさ」を、63篇2節では「あなた」を仰ぎ見るとあります。
◆動詞のハーザー
‫(חָ זָ ה‬chazah)が名詞になると、ハーゾーン‫(חָ זוֹן‬chazon)「幻、黙示、
預言」となります。箴言29章18節「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」にある「幻」
‫(חָ זוֹן‬chazon)
がハーゾーン
―口語訳では「預言」と訳されていますー。この言葉は、こ
のままでは本当の意味は伝わりません。なぜなら、ここで「幻」と訳されている言葉の原
語の意味は、日本語とは異なっているからです。
「幻」という言葉は、例えば広辞苑では
「実在しないのに、その姿が実在するように見えるもの。」と説明されています。それゆ
え、この訳語のままであれば、
「本来は実在しないものだが、実在するように見えるもの
がなかったら、民は堕落する」という奇妙な意味になってしまいます。この箴言29章18
節の意味は、
「神の国という確固たる実在を見つめていない民は滅びる」、ということです。
◆この「幻」と訳された原語ハーゾーンは、ハーザー(見る)という動詞から作られた言葉
ですが、実際に霊的な目で見たことを意味します。しかし、本当は存在するが大多数の人
たちには隠されているのです。特別に神に引き上げられた人はそれを見ることを得させて
いただくのです。英語訳では、この言葉は多くが
vision(見ること)と訳しているのもそ
のような意味を原語が持っているからです。預言者を指す呼称の一つ「先見者」ホーゼー
‫חֹזֶ ה‬
(Ⅰサム24:11)とも関連のある語です。
◆神に選ばれた人が、神によって特別に霊的なものを見せられたことを言うのであって、
単に神秘的なことを見るだけでなく、霊的に引き上げられて与えられた神の言葉をも指す
言葉なのです。
◆前方に見つめるものを持たないとき、人間は混乱し、精神に確固たる秩序を失い、荒廃
するということです。この世がまさにその通りです。神の国を見つめることをせず、金や
快楽、地位、名声などを見つめていくときには、人間は手綱を失った馬のようにめいめい
が勝手な方向にいき、互いに争い、憎んだり、戦ったりするようになります。そして、そ
のあげくには滅びということになるのです。
‫(חָ זָ ה‬chazah)の類義語としては以下のものがあります。
ナーサー‫שא‬
ָֹ ‫( ָנ‬nasa’)25:1/86:4/143:8「仰いでいます」(新改訳)、
「仰ぎ望みます」(口語訳)、
ナーバト‫( נָבַ ט‬nabat) 34:5「仰ぎ見る」
。
◆ハーザー
17
詩 12 篇 「聖徒、神を敬う人」
(カテゴリー: その他)
ハーシード
‫חָ ִסיד‬
1節 「主よ。お救いください。聖徒はあとを絶ち、誠実な人は人の子らの中から
消え去りました。」
Keyword;
「聖徒」(新改訳) 「神を敬う人」(口語訳) 「信仰深い者」(尾山訳)
「主の慈しみに生きる人」(新共同訳)
the godly man(NKJV)
4:3/12:1/16:10/30:4/31:23/32:6/50:5/52:9
◆詩12篇にはめずらしく礼拝用語なるものが一つもありません。しかし、礼拝者に関する
‫(חָ ִסיד‬chasid)、複
重要なことばがあります。それは「聖徒」と訳されているハーシード
数形はハシディーム
‫(חָ ִסידים‬chasidim)、口語訳では「神を敬う人」、新共同訳では「主
の慈しみに生きる人」と訳されています。旧約では32回、詩篇は26回、まさに詩篇特有の
語彙と言えます。詩12篇の作者は、こうした人が消え失せてしまった、絶えてしまったと
いう深刻な事態を主に訴えています。
‫(חָ ִסיד‬chasid)は「敬虔な」という意味ですが、ハシディーム
◆ヘブル語のハーシード
‫חָ ִסידים‬
(chasidim)の形で「聖徒たち」と訳され、主として詩篇に用いられています。
またこの語は「恵み深い者」(詩18:25)とも訳されることばで、神のあわれみ(ヘセド‫)חֵ סֵ ד‬
の概念に基づく敬虔に強調点があるようです。すなわち、それは人格の優秀さにではなく、
神の選びと恵みを賜わった者という点に強調がおかれているようです。
◆神はいつの時代にも、霊とまことをもって神を礼拝する者たちを求めておられます。し
かし今や、真の礼拝者たちが消え去り、見当たらなくなったというのです。こうした事態
に、神は「今、わたしは立ち上がる」(12:5)という答えがこの詩篇の鍵のことばとなって
います。
‫(חָ ִסיד‬chasid)、‫(חָ ִסידים‬chasidim)は、18世紀に東ヨーロッパで勃興した
◆ところで、
ハシディズム運動があります。この運動はユダヤ教の信仰復興運動として注目すべき出来
事です。そもそも、この運動は正統派ユダヤ教の知的偏重主義に対する反発として始まり
ました。この運動の創始者パールシェム・トーブ、通称、ベシュトはカリスマ的魅力をも
っており、大勢の信奉者を集めました。その教えの強調点は、生き生きとした信仰、情熱
的な礼拝、同胞意識の喚起、共同体生活の重視などにあります。ハシディズムのユダヤ教
とは「教えの体系」というよりも、「生きる道」を重視し、歌や踊りを取り入れながら、
神と人との親しい交わりを追求しました。また、この運動を通して多くの新しいメロディ
ーが生まれ、それは後のイスラエルのフォークソングとなりました。
◆詩4篇3節には「知れ。主は、ご自分の聖徒(
‫)חָ ִסיד‬を特別に扱われるのだ。」とありま
す。聖徒があとを絶ち、・・人の子らの中から消え去ることを、神が決して良しとはされ
ないということを知ることができます。
18
詩 13 篇 「歌う」
(カテゴリー: 賛美)
シ ー ル
‫ִשׁיר‬
6 節「私は主に歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」
Keyword; 「歌います」sing 21:13/27:6/33:3/57:7/59:16//65:13/68:4,32/96:2/98:1/149:1
◆シール
‫( ִשׁיר‬shir)は、主に向かって賛美や感謝の歌を「歌う」こと、これこそ神の民の
特異な面です。ダビデの時代の以前において、神の民が主に対して歌った「新しい歌」が
あります。その歌の記述は出エジプトの出来事の後です。モーセとイスラエル人は以下の
ような勝利の歌を歌いました。
「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収めら
れ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。
」(出エジプト 15 章 1 節)
◆モーセの姉ミリアムもダンバリンを手に取り、女たちの踊りの先頭に立ちながら、同じ
く「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込
まれた。
」(同、21 節)と歌いました。この時代の歌はリズム楽器によって伴奏されたよう
です。以後、神の偉大な御業を経験した民たちは神の御業のストーリーを語り、歌をもっ
て主に賛美することとなるのです。
◆士師記5章のデボラも同様、勝利の歌を歌いました。
「その日、デボラとアビノアムの子バラクはこう歌った。『「イスラエルで髪の毛を乱す
とき、民が進んで身をささげるとき、主をほめたたえよ。聞け、王たちよ。耳を傾けよ、
君主たちよ。私は主に向かって歌う。イスラエルの神、主にほめ歌を歌う。・・・キショ
ン川は彼らを押し流した。』」(1~3節、21節)
‫( ִשׁיר‬shir)の類義語としては、「賛美します」「ほめたたえます」の‫(חָ לַל‬halal)
‫(י ַָדה‬yadah) ‫( ֵשׁבַ ח‬shebach) ‫(בָ ַרך‬barak) ‫(רום‬rum) ‫(זָ מַ ר‬zamar) があります。
⇒ハーラル‫(חָ לַל‬halal)はもともと、
「輝く」、
「誇る」という意味で、派手に、にぎやかに、
◆シール
主を賛美し、ほめたたえるという意味があります。
‫( ֵשׁבַ ח‬shebach)もどちらかというと、大きな声を上げて、叫ぶように賛美す
⇒シェヴァフ
る言葉です。
⇒バーラク
‫(בָ ַרך‬barak)は神の前にひざまずき、静まって賛美する意味合いのことばです。
‫(חָ לַל‬halal)や‫( ֵשׁבַ ח‬shebach)とは異なり、声を出さないということが特長です。
⇒ヤーダー‫(י ַָדה‬yadah)は、感謝をこめて、手を高くかかげて賛美するという意味の言葉
です。手を挙げるという行為は、神から来るものを受け取るという信仰の告白的行為
であり、神への降伏、あるいは神にささげるという意味合いがあります。
「主が私を豊かにあしらわれたゆえ」
◆詩13篇の作者が「主に歌う」(I will sing)のは、
としています。
「豊かにあしらわれた」というガーマル
結ぶ、熟す、報いを与える」という意味で、treat,
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‫(גָמַ ל‬gamal)は「乳離れする、実を
receive, reward と訳されます。
詩 14 篇 「喜ぶ」、「喜び楽しむ」
(カテゴリー: 賛美)
サーマフ
‫ָשׂמַ ח‬
7節「主が、とりこになった御民を返されるとき、ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。」
Keyword; 「喜ぶ」 rejoice,
be glad
5:11/9:2/14:7/16:9/21:1/31:7/33:21/34:2/38:16/53:6/63:11/64:10/66:6/67:4/69:32/70:4/
96:11/97:1, 8, 12/104:15, 31, 34/105:3, 38/106:5/107:42/109:28/118:24/ 119:74/122:1/
149:2
◆「喜ぶ」と訳されたサーマフ
‫ָשׂמַ ח‬
(samach)いう動詞は旧約で 154 回、そのうち詩篇
「喜ぶ」ということは、自発的な心であり、何者によ
が 52 回と最も多く使われています。
っても強制されたりするものではありません。それゆえ、新共同訳は「愛する」と訳して
います。「愛」とは自発的なものであり、自分の内側からの促しであり、決して曲げるこ
とのできない信念、志、生きがいであり、自分のすべての行動を根底から支えているとこ
ろのものです。それゆえ、「喜び」とは単なる感情的なものではなく、存在論的、人格的
交わりによるものといえます。つまり、愛に支えられた喜びです。イエス・キリストは常
にこの「喜び」をもっており、弟子たちにも分かち与えようとされました。ヨハネの福音
書 15 章 11 節「わたしがこれらのことを話したのは、
『わたしの喜びがあなたがたのうち
にあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。』
」とあるとおりです。
◆「喜び」サーマフ
‫( ָשׂמַ ח‬samach)と「楽しみ」ギール‫(גִ יל‬gil)
は、しばしば 14:7 のよ
うにワンセットとして用いられ、
「喜び楽しみます」となります。31:7/32:11/118:24。
‫ָשׂמַ ח‬
(samach) 9:2/14:7/16:9/21:1/31:7/33:21/34:2/53:6/63:11/64:10/67:4/70:4/104:34
祝う、輝く、喜び楽しむ、喜びを得る、喜び踊る、楽しむ、喜び迎える
‫(גִ יל‬gil) 21:1/35:9/89:16
喜ぶ、楽しむ、喜び楽しむ、喜びをもつ。joyful
‫( ָרנַן‬ranan) 5:11/20:5/33:1/63:7/67:4/81:1/90:14/92:4/95:1
「喜び歌う」「喜び楽しむ」、の他に、ハーペツ‫(חָ פֵ ץ‬chaphets)があります。ハーペツ
‫(חָ פֵ ץ‬chaphets) は「愛する」「動かす」「おのずから」「気に入る」「好む」「慕う」「楽し
◆類義語としては、ラーナン
む」
「良しとする」といった意味合いがあります。主の愛に促された自発性の意味合いの
強い言葉です。他に、スース
‫(שׂוּש‬sus)
あるいはシス
‫( ִשׂישׂ‬sis)がありますが、「喜び楽し
む」(35:9)の意味です。
◆「幸いなことよ。
・・・まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえ
を口ずさむ。」(詩 1 篇 2 節新改訳)の「喜び」は、ヘペツ
‫(חֵ פֵ ץ‬chephets)という名詞が使
われています。作り笑いはできても、
「喜び」はパフォーマンスすることのできない存在
論的源泉です。自分が神から愛されているという自覚がなければ、あり得ない喜びです。
御子にとっての喜びは、御父の「わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という永遠
の愛のかかわりにあったことを忘れてはならないと思います。
20
詩 15 篇 「住む」、「住まう」
(カテゴリー: 信頼)
シャーハン
グール
‫ָשׁ ַכן‬
‫גּוּר‬
1 節 「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿る(‫)גּוּר‬のでしょうか。
だれが、あなたの聖なる山に住む(‫שׁכַן‬
ָ )のでしょうか。」
Keyword; 「住む」 37:3,27,29/65:4/69:36/102:28/104:12/120:5,6/139:9
‫( ָשׁכַן‬shakhan)は、「ある」「います」「宿営する」「住まう」「住む」「とどま
◆シャーハン
る」「安きを得る」「宿る」・・といった意味があります。このことばは、神と人との交わ
りにおいてとても重要なことばです。なぜなら、聖書の神はインマヌエルの神であり、神
が人ともにおられるということを、最も良しとされる神だからです。
◆本来、幕屋建造の目的は「彼らが、わたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中
に住む」(出エジプト 25 章 8 節)とあるように、神がご自身の民の中に住まうことでした。
幕屋も、神殿も、その目的は神と人とが共に住むというかかわりの場です。そのかかわり
は、単に同居という意味ではなく、より親しいいのちに満ちた交わりを表現しています。
共に住むとは、すべてを共有することなのです。
◆シオンの聖所が破壊され、バビロン捕囚となった神の民に、神は回復のメッセージを告
げました。
「シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に
住む。-主の御告げーその日、多くの国々が主につき、彼らはわたしの民となり、わたし
はあなたのただ中に住む。
」(ゼカリヤ 2 章 10 節) この預言はイスラエルの捕囚からの回
復とキリスト再臨によってもたらされる祝福が語られていますが、いずれにしても、神が
ご自身の民のただ中に「住む」ということが強調されています。
◆イザヤ書 57 章 15 節にも「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住む、その名を聖と
となえられる方が、こう仰せられる。
『わたしは高く聖なる所に住み、心砕かれて、へり
くだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためで
ある。』
」とあります。ここにも「ともに住む」という言葉が強調されています。
◆新約聖書では神と人が共に「住む」ことを、
「とどまる」ということばで表わされます。
主イエスは弟子たちに「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまり
ます。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は
多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからで
す。
」(ヨハネの福音書 15 章 4, 5 節)と語られました。御子イエスが、御父の中に、御父の
ことばの中に、御父の愛の中にとどまっておられたという事実を、私たちは決して忘れて
はならないと思います。
◆類義語は同節にあるグール
‫(גּוּר‬gur)「移住する、寄留する、住まう、滞在する、とどま
る、宿る」を意味します。
21
詩 16 篇 「ほめたたえる」、「ほめまつる」
(カテゴリー: 賛美)
バーラク
‫בָּ ַרךּ‬
7 節 「私は助言を下さった主をほめたたえる。
まことに、夜になると、私の心が私に教える。」
Keyword; 「ほめたたえる」 praise,
I will bless,
16:7/18:46/26:12/28:6/31:21/34:1/41:13/63:4/66:8/68:19, 26, 35/72:18, 19/89:52/96:2/
100:4/103:1, 2, 20, 21, 22/104:1, 35/106:48/115:18/118:26/124:6/134:1, 2/135:19, 20,
21/144:1/145:1, 2, 10, 21/
◆バーラク
‫(בָּ ַרךּ‬barak)は、旧約で 327 回、詩篇では 74 回。「あがめる、かがめる、祝福
する、ひざまずく、賛美する、ほめたたえる、ほめまつる、たたえます」という意味があ
ります。賛美を表す用語ですが、バーラクの特長は、声を出さずに、静まって、ひざまず
いて主を礼拝し、賛美するという意味合いの強い言葉のようです。詩 95 篇 6 節「来たれ。
私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。」の
‫「。בָּ ַרךּ‬伏し拝む」ハーヴァー‫(חָ וָ ה‬chawah)、「ひれ伏す」カ
ーラー‫( כָּ ַרע‬kara`)もみな類義語と言えます。
「ひざまずく」バーラク‫(בּ ַָרךּ‬barak)の名詞
は‫כ ה‬
ָ ‫(בְּ ָר‬ベラカー)です。
「ひざまずく」はバーラク
◆詩 16 篇の作者がなぜ主をほめたたえているのかを瞑想すること、これがこの詩 16 篇
の鍵です。
「私の心が私に教える」とは不思議な表現です。
「助言を下さる主」と「夜」と
「私の心が私に教える」とがどのように結びつくのでしょうか。新共同訳では次のように
訳しています。
「主は、私を励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
」と。
◆新約では「助言者なる主」を「助け主」と表現しています。聖霊のことです。新約時代
においては、この「助け主」はキリストを信じるすべての者に例外なく与えられますが、
旧約時代にはごく限られた人たちにだけ与えられました。この詩篇の作者(ダビデ)もその
一人です。聖霊の働きの大切な役割は、私たちが人から言われたことばを思い起こすので
はなく、御子イエスの語ったことを思い起こさせて下さることです。ダビデはしばしば
「夜」-孤独のとき、ひとりになるとき、静けさの中にあるとき、あるいは、人生の特別
な夜、つまり行き詰まりのとき、思案投げ首のときを意味しますーに聖霊の語りかけを聞
き、自分の心が諭され、いのちの道を教えられたようです。
◆この「助言者なる方」をダビデがいつも自分の前に置いたとき(新共同訳「相対したと
き」)、
「ゆるがされる」ことがなく、
「私のたましは楽しみ、私の身もまた安らかに住ま
う」ことができたのです。私たちも御霊の静かな小さな声を、「夜」に聞くべきです。神
と人とのかかわりのすべての領域において、私たちの「助け主」となってくださる「聖霊
を悲しませてはならない」(エペソ 4 章 30 節)のです。主の前に「ひさまずく」ことと、
「助
言者」の声に聞き従うこととは、密接な関係があるようです。
22
詩 17 篇 「満ち足りる」
(カテゴリー: 賛美・感謝)
サーヴァー
‫ָשׂ ַבע‬
15 節「しかし、私は・・・目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。」
「しかし、私はそのようなこと(=神に敵対する者たちが地上の宝を大事にし、
すべてがうまくいっていること)に関心はなく、あなたを仰ぎ見ることで心は満足
します。
」(尾山訳)
Keyword; 「満ち足りる」 17:14/22:26/37:19/59:15/63:5/65:4/78:29 satisfy,
◆神の御姿に「満ち足りる」(新改訳、口語訳、新共同訳)と訳されたサーヴァー
‫( ָשׂבַ ע‬sava`)
は、詩篇ではこの箇所だけです。多くは、食べることで満ち足りるという意味で使われて
います。91 篇 16 節、107 篇 9 節では、主が「満ち足らせる」方として使われています。
主がすべてのことにおいて満ち足らせて下さる方であるゆえに、
「私は、満ち足りる」こ
とができるのです。
◆バプテスマのヨハネがイエスについてこう言いました。「花嫁を迎える者は花婿です。
そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びま
す。それで、私もその喜びで満たされているのです。
」(ヨハネの福音書 3 章 29 節)と。
◆イエス・キリストが最後の晩餐の時に、弟子たちに語った言葉(訣別説教)の中で、
「わた
しに、わたしのことばに、わたしの愛の中にとどまりなさい」と語られました。それは「わ
たしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」(ヨハ
ネ15章11節)と。イエスの喜びとは御父に愛されていることでした。その同じ喜びが満た
される秘訣を弟子たちに語られました。弟子たちに待ち受けていることは、自分たちの師
であるイエスが捕えられることで、イエスを裏切り、イエス自身も十字架につけられてし
まうという事態が待ちうけていました。しかし、イエス「まことに、まことに、あなたが
たに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむ
が、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」(同、16章20節)と言われました。
◆使徒パウロも「満ち足りる」ことを学んだと述べています。ピリピ4章11節の「学んだ」
ということは、さまざまな苦しみの環境の中で、なにものにも代えがたい主から来る喜び、
平安、また、必要なものはすべて神が備えて下さるという経験をしたという意味です。そ
れゆえ、愛弟子テモテに対しても「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道
です。」(テモテ第一、6章6節)と書き送ることができたのだと思います。
◆私たちにとっても「満ち足りる」ことを学ぶ必要があります。もう一度、主イエスのこ
とばを思い起こすべきです。「わたしにとどまりなさい。」日毎に、そうするならば、
詩17篇の作者と同じように、「私が・・目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょ
う」と言える者になると信じます。
23
詩 18 篇 「慕う」、「愛する」
(カテゴリー: 渇望)
ラーハム
‫ָרחַ ם‬
1 節「主、わが力、私は、あなたを慕います。」 口語訳「わたしはあなたを愛します。」
Keyword;
「慕います」
「愛します」
「愛しむ」 love,
have compassion,
mercy
◆1 節のラーハム‫( ָרחַ ם‬racham)は、新改訳、新共同訳では「慕います」と訳されていま
すが、口語訳では「愛します」
、文語訳では「愛(いつく)しむ」と訳されています。詩篇の
中で「慕います」と訳されたラーハム
‫( ָרחַ ם‬racham)は決して多くありません。「慕います」
と訳されているのはこの詩篇のみ。
◆このことばは、本来、父が子を、あるいは、神が人に対して「かわいそうに思う」と
か、
「深くあわれむ」という親愛を意味する言葉です。名詞はラハミーム
‫ ַרחֲ ִמים‬で、腸
が痛むほどにかわいそうに思う、愛しむ、あわれみを意味することばです。この名詞は
旧約では 39 回、詩篇では 11 回使われています。25:6/40:11/51:1/69:16/77:9/79:8/103:4/
106:46/119:77,156/145:9 参照。本来、神が人に対して用いられることばであり、人が神
に対して用いることばとしては異例です。
◆それほどにダビデは、神に対して深い親愛の情をもっていたことを伺わせます。それは
過去の様々な危険から救い出し、守ってくださった主の恵み(あわれみ)に基づくものです。
ダビデの主に対する愛は、19 節の「主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主
が私を喜びとされたから。」
、50 節の「主は・・油注がれた者、ダビデとそのすえに、と
こしえに恵みを施されます。(文語訳では「世々かぎりなくあわれみをたれたまふ」)」と
あるように、神のダビデに注ぐ深い愛によって育まれたものといえます。
◆ラーハム
‫( ָרחַ ם‬racham)は、ギリシア語では「かわいそうに思う」というスプランクニ
ゾマイに近いことばです。これは、神が人にしても心の最も深い所からわき起こってくる
親愛の情であり、必ずなんらかの行為を伴います。
◆I will praise/I will sing/ I will worship/ I will seek ・・といった表現はあっても、I will
love という表現は滅多にありません。なぜなら、love は will を当然ながら含んでいるか
らです。Jesus loves me / I love Jesus の love は自発的、主体的なかかわりを表わす表現
‫( ָרחַ ם‬racham)が単
ですが、にもかかわらず、I will love You(NKJV)とあるのは、ラーハム
なる love では表せない内容をもっているからだと思います。
◆使徒ヨハネは「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得
させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。私たちが愛したのでは
なく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされ
ました。ここに愛があるのです。
」と(ヨハネの手紙第一 4 章 9~10 節)
◆類義語としてはバーカシュ
‫、בָּ ַקש‬ターアヴ‫、 ָתּאַב‬アーラグ‫、עָ ַרג‬ハーシャク‫חָ ַשׁק‬
があります。
24
詩 19 篇 「悟る」、「知る」
(カテゴリー: 従順)
ビーン
‫בִּ ין‬
12 節「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。」(新改訳)
「だれが自分のあやまちを知ることができましょうか。
」(口語訳)
Keyword;「悟る」「知る」「知恵を得る」
◆「悟る」と訳されたビーン
‫(בִּ ין‬bin)は、「知る、明らかにす、発見する、わきまえる、
心に留める、熟練する、知恵を得る、理解する、説き明かす、解く、調べる、考える」と
いった意味合いがあります。英語では understand です。名詞の「悟り」ビナー
‫(בִּ ינָה‬binah)
は、
「知恵、知識、理解、意味、賢者」とも訳され、主に知恵文学(ヨブ記、箴言、詩篇)
に顕著に見られます。
◆あるもの(事柄)を見る(look)ことと、そこになんらかの意味や知恵を見出す(find)ことと
は全く別のことです。詩 119 篇 30 節に「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきま
えのない者に悟りを与えます。
」とあるように、みことばの戸がうち開かれるとき、
「わき
まえのない者」(新改訳)、
「無学な者」(口語訳)、
「無知な者」(新共同訳)、
「愚かなるもの」
(文語訳)、
「単純な者」(尾山訳)に「悟り」が与えられます。このことは実に驚くべきこと
です。みことばが開示されることーこれを「啓示」といいますがーと、「悟り」が与えら
れることとは密接な関係があるようです。
「悟りがなれば、滅び失せる獣に等しい」(詩 49
篇 20 節)というのが聖書の立場です。
◆類義語としてはヤーダー
‫(י ַָדע‬yada`)があります。詩 1:6/9:10/20:6/36:10/46:10/73:11,16/
82:5/90:11 これらはいわば事柄を知るというよりも、人格的に「知る」という意味で「神
が人を知る」こと、
「人が神を知る」ことの双方に用いられます。
◆「悟りの与えられた者」のイメージは初代教会の使徒たちに見ることができます。彼ら
は当時においては無学のただ人と言われた者たちでしたが、天下を揺るがすほどの人物に
変えられている姿をみることができます。特にペテロとヨハネがユダヤ当局の脅しにひる
むことなく、
「この方以外に救いはありません」と断言するその大胆な姿に、彼ら(ユダヤ
当局)は驚いたと記されています。
◆私たちにとって、イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事がなんであったかを悟
ることがいのちを得ることです。もしそれを悟ることができなければ、永遠の滅びに定め
られているのです。自分の罪、あやまち、無知を知り、神の愛と救いを「助け主」なる聖
霊によって悟りを与えられることが大切です。自分の力では悟り得ないからです。
いみじくも、使徒パウロは「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、
神の知恵によるのです。」(コリント第一、1 章 21 節)と述べているのはそのためです。
25
詩 20 篇 「誇る」
(カテゴリー: 信頼)
ザーハル
‫זָ כַ ר‬
7 節「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。
しかし、私たちは私たちの神を誇ろう。」※
※(前半の二つの「誇る」と後半の「誇る」とは異なる動詞が使われています。今回扱うのは
後半の「誇る」です。)
Keyword;「誇る」(新改訳、口語訳) 「唱える」(新共同訳、文語訳)
remember, boast, prevail, invoke,
◆ザーハル
‫(זָ כַר‬zakhar)が「誇る」と訳されているのは詩篇 20 篇 7 節のみです。ザーハ
‫(זָ כַ ר‬zakhar)は、本来、瞑想用語の一つであり、「思い起す」「思い出す」「心に覚える」
ル
「記念する」というように、これまで神がなされたことを静かに思い起こすといった意味
合いのことばです。
◆この詩 20 篇は「油注がれた王」のためのとりなしです。苦難の中にある王のために、
神が助けてくださるようにとのとりなしです。ここにはリーダーシップとフォロアーシッ
プの麗しい関係が見られます。民のとりなしに答えて、王が自ら宣言しているのが 6~8
節のことばです。
「今こそ、私は知る」とは、今はじめて知ったということではなく、今、
あらためて思い起こしたということではないかと考えます。
◆ダビデはかつて王になる前に、ペリシテ人の巨人―3m 近い身長を持ち、60 キロの鎧を
つけた巨人―ゴリアテと戦いました。その戦いでダビデはゴリアテにこう言いました。
「おまえは剣と槍と投げ槍をもって私に向って来るが、私はおまえがなぶったイスラエル
の戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを
私の手に渡される。
・・・すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。
」
と宣言し、ダビデは投石袋の中に石を一つ入れて、それを放ち、ペリシテ人の額を打ちま
した。石はゴリアテの額に食い込み、彼はうつぶせに倒れました。イスラエルに勝利がも
たらされたのです。まさに、この戦いはダビデが主の御名を唱えて勝利した象徴的な出来
事でした。
◆ダビデの治世はイスラエルを強国にしましたが、後継者のソロモンはさらにその領土を
拡大した結果、それを防御するために、次第に、主の御名ではなく、人間的な画策に頼る
ようになります。主によって禁じられている戦車を持つようになり、さらには、隣国との
平和を保つために、700 人の妻と 300 人のそばめを持ちました。それらは政略のための結
婚です。こうしたことを考えると、
「しかし、私たちは私たちの神を誇ろう。
」との告白は、
いかにイスラエルが隣国とは異なる「聖なる国民」であるという強い自己認識に立ってい
るかを思い知らされます。
26
詩 21 篇 「信頼する」「拠り頼む」
(カテゴリー: 信頼)
バータフ
‫בָּ טַ ח‬
7節 「まことに、王は主に信頼し・・」
Keyword;「信頼します」「拠り頼む」trust in
4:5/9:10/13:5/21:7/22:4, 5, 9/25:2/26:1/
27:3/28:7/31:6, 14/32:10/33:21/37:3, 5/40:3/41:9/44:6/49:6/52:7, 8/55:23/56:3, 4, 11/
62:8, 10/78:22/84:12/86:2/91:2/112:7/115:8, 9, 10, 11/118:8, 9/119:42/125:1/135:18/
143:8/146:3
◆バータフ
‫(בָּ טַ ח‬batach)の多くは「信頼する」と訳されています。旧約で 119 回、詩篇
、口
では 47 回使われており、詩篇では重要な礼拝用語です。新改訳では「拠り頼みます」
語訳では「寄り頼む」
、新共同訳では「依り頼みます」と訳されています。何に拠り頼む
のかが大切です。詩 13 篇 5 節では「あなたの恵みに」、詩 28 篇 7 節では「主に」、詩 55
篇 23 節では「あなたに」となっています。しかし、他の書簡―たとえば、イザヤ書、エ
ゼキエル書-では拠り頼む対象が「悪巧み」
「軍隊」「彫像(偶像)」
「自分の悪」
「自分の美
しさ」「自分の正しさ」
「自分の剣」とあり、神から叱責されています。
◆ユダ王国のアサ王がクシュ人(エジプト)との戦いを余儀なくされたとき、彼が神に祈った言葉が
あります。「主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わり
はありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名に
よってこの大軍に当たります。主よ。あなたは私たちの神です。人間にすぎない者に、あなたに並
ぶようなことはできないようにしてください。」(Ⅱ歴代誌14章11節) がそうです。この祈りを神
は聞かれ、主はクシュ人を打ち破られたので、クシュ人は逃げ去りました。
‫בָּ טַ ח‬
◆「信頼します」「拠り頼む」というヘブル語のバータフ
(batach)は「安心する、
安全である、思い煩わない、信頼する、信用する、頼みとする、安んじる」といった意味
合いがあります。私が学んだ神学校の教授は、このバータフを「大地の上に、大の字にな
って身を横たえるイメージ」だと教えてくれました。これは完全な依存、完全な信頼を意
味します。そのような模範者は神の御子イエスです。御子は御父に対して完全に拠り頼ん
で生存と防衛の保障を得ていたばかりか、偉大な使命を成し遂げるすべての力と知恵、導
きの中に身を置かれました。御子は「拠り頼む」ことによってもたらされる平安の中に常
におられました。その主が私たちを招いておられます。「すべて、疲れた人、重荷を負っ
ている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わた
しは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしか
ら学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11章29節)
私たちが神
に「拠り頼む」祝福を身につけるためには、「わたしのくびきを負って」とあるように、
御子のうちにとどまり、御子から学ぶ必要があるようです。
◆名詞のベタフ
‫(בֶּ טַ ח‬betach)は「安らか、安全」safety, secure, safely (Ps 4:8/16:9/78:53)。
27
詩 22 篇 「賛美する」 「ほめたたえる」
(カテゴリー: 賛美)
ハーラル
‫הָ לַל‬
22 節「私は、・・・・会衆の中で、あなたを賛美しましょう。」(新改訳)
Keyword;「賛美する」(新改訳、新共同訳)、「ほめたたえる」(口語訳) 10:3/18:3
22:22, 23, 26/35:18/56:4, 10/63:5, 6/69:30, 34/74:21/84:4/102:18/104:35/105:45/
106:1, 48/107:32/109:30/111:1/112:1/113:1, 9/115:17,18/116:1,2/117:1,2/119:164,175/
135:1,3/145:2/146:1,2,10/147:1,12,20/148:1, 2, 3, 4, 5, 7, 13, 14/149:1, 3, 9/150:
◆「賛美する、ほめたたえる」と訳されるハーラル
‫(הָ לַל‬halal)のもともとの意味は「輝
く、光を放つ」です。いわば「爆発的な喜びをもって、感謝をもって、声を張り上げて、
叫ぶようにして神をたたえる」という意味合いをもつことばです。聖書の中には、バーラ
‫(בָּ ַרך‬barak)のように、声を出さずに静かに神と交わる中で賛美する形態もあれば、ハ
ーラル‫(הָ לַל‬halal)のように、自分のことも忘れて、なりふり構わず、アクティブに、し
かも、会衆とともに神を賛美する形態がこのハーラル‫(הָ לַל‬halal)です。その雰囲気は喜
ク
びと楽しみにあふれています。楽器も歌も、そして踊りも加わります。神の民が神の救い
を楽しみ、勝利にあふれています。神からの新しい力で満たされ、恐れや不安の霊は消え
去ります。そして、賛美の後には礼拝者の顔が輝いている、そのようなイメージです。
◆ハーラル
‫(הָ לַל‬halal)の名詞形「賛美」はテヒッラー‫( ְתּ ִהלָּה‬tehillah)。詩篇のヘブル語
名称はテヒラーの複数形「テヒリーム」と呼ばれます。旧約では神を表わす用語として五
‫אֵ ל‬
‫③ אֱ הים‬アドナイ‫④ אַ ֹדנַי‬ヤーウェ‫יהוה‬
(ただしユダヤ人はこれをアドナイと読む) ⑤ヤー‫יהוה(יהּ‬の省略形) 「ハレル・ヤ」‫יהּ‬
‫הַ לְ לו‬は、ハーラル‫הָ לַל‬とヤー‫יהּ‬を合わせて「主をほめたたえよ」と訳されます。
◆ハーラル‫(הָ לַל‬halal)が使われている詩 22 篇 22 節は、詩 22 篇においてきわめて重要な
つあります。①エル
②エロヒーム
箇所で、<嘆き>が<賛美>に変わる転換点となる箇所です。この詩篇は<メシア詩篇>
とも呼ばれ、キリストの十字架の苦しみと復活の喜びを預言している詩篇でもあります。
「私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、
ヘブル人への手紙 2 章 12 節には詩 22 篇 22 節の
会衆の中で、あなたを賛美しましょう。」が引用されています。兄弟たちに語り告げるべ
「まことに、主は悩む者の悩みをさげ
き御名とは、詩 22 篇 24 節に記されているように、
すむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求
めたとき、聞いてくださった」御名です。このことを大会衆の中でたたえる
‫(הָ לַל‬halal)
というのです。イエス・キリストの来臨の目的は、まさに、この御名を告げ知らせること
でした。
◆聖書で「ハレルヤ」とあるのは旧約で 24 回(すべて詩篇)、新約ではヨハネの黙示録の
19 章の 4 回です。その箇所は「小羊の婚宴」といわれる場面です。
「婚宴」の基調は喜び
です。まさに「ハレル・ヤ」
‫הַ לְ לו יהּ‬は神の大いなる婚宴にふさわしいことばです。
28
詩 23 篇 「住う」
(カテゴリー: 誓約)
ヤーシャヴ
‫יָ ַשׁב‬
6 節「私は、いつでも、主の家に住まいましょう。」
Keyword;「住む」「とどまる」dwell
27:4/65:8/84:4/91:1/98:7/132:14/140:13
‫(י ַָשׁב‬yashab)は旧約全体で 1,084 回、詩篇では 61 回。その原意は「座る」
◆ヤーシャヴ
で、それから多くの意味が派生します。「暮らす、こもっている、住まう、住む、とどま
る、休む、御座に座す」といったふうにです。
‫(שָׁכַן‬shakhan)、「宿る」グール‫(גּוּר‬gur)は、類
義語として考えることができますが、詩 23 篇のヤーシャヴ‫ָשׁב‬
ַ ‫(י‬yashab)は、主との親密
◆詩 15 篇 1 節にある「住む」シャーカン
度がよりいっそう深いように思われます。
「いのち
◆ダビデが「一つのことを主に願った」(詩 27 篇 6 節)というその「一つ」とは、
の日の限り主の家に住むこと。主の麗しさを仰ぎその宮で思いにふける」ことでした。詩
84 篇 4 節にも「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつ
も、あなたをほめたたえています。」とあります。詩 91 篇 1 節では「いと高き方の隠れ場
に住む者は、全能者の陰に宿る」とあり、神とのかかわりのゆるぎなさが表されています。
「まこ
◆詩 23 篇 6 節では、この詩篇における二つの結論が記されています。ひとつは、
とに、私の日の限り、いつくしみと、恵とが、私を追ってくる」という、主の私に対する
かかわりの結論。もうひとつは、
「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」という、
私の主に対するかかわりの結論です。この二つの結論の順序が重要です。なぜなら、神の
豊かな祝福が惜しみなく自分の生涯に注がれていることに気づかされた者だけが、真の意
味で、「私は、いつまでも(とこしえに)、主の家に住まいましょう。
」と誓うことができる
からです。この誓いこそ、ダビデをしてその生涯を動かした情熱といえます。
◆「主の家に住む」とは、神を親しく知り、神のいつくしみと恵みがいつも追いかけてく
るようなかかわりを持つことです。主の家とは「あなたはわたしの愛する子、わたしはあ
なたを喜ぶ」
(わたしの心に適う者)」という天の父の声をいつも心の中に聞くことのでき
る家です。この天の父の声こそ、闇のただ中にあっても、光の中にとどまりづけることが
でき、自由に生きることを可能にしてくれる声です。それは途切れることのない永遠の愛
の声であり、その声を聞く者にいのちを与え続けてくれる声です。この愛の声を聞くこと
のできる者は、なにも恐れることはないことをダビデは知ったのです。
◆このダビデの誓い(23:6)はイエスのライフスタイルを指し示しています。
「どうしてわた
しをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることをご存じなかったの
ですか。
」(ルカ 2 章 49 節)という言葉はイエスが 12 歳の時にエルサレムで両親に向って
言った言葉ですが、イエスが常に御父の家に住んでおられたということを教えています。
29
詩 24 篇 「求める、慕い求める」
(カテゴリー: 渇望)
バーカシュ
ダーラシュ
‫בָּ ַקשׁ‬
‫ָד ַרשׁ‬
6節「神を求める(‫) ָד ַרשׁ‬者の一族、あなたの御顔を慕い求める(‫)בָּ ַקשׁ‬人々、」
Keyword;「求める」、「慕い求めます」 seek,
‫(בָּ ַקשׁ‬baqash)
24:6/27:4,8/40:14,16/70:4/84:16/105:3,4/122:9
9:10/14:2/34:4,10/53:2/22:26/69:32/77:2/119:2,10,45,94,155
ׁ ‫( ָד ַרשׁ‬darash)
◆詩24篇6節には「神を求める(‫) ָד ַרשׁ‬者の一族、あなたの御顔を慕い求める(‫קשׁ‬
ַ ָ‫)בּ‬
人々」という二つの渇望用語が使われています。前半の「求める」と訳された原語は、
ダーラシュ
‫( ָד ַרשׁ‬darash)。「捜し求める、捜す、探り出す、探る、慕う、調べる、問う、
問い尋ねる、尋ね求める」といった意味があります。後半の「慕い求める」「尋ね求め
る」(口語訳)と訳されるバーカシュ
‫( בָּ ַקשׁ‬baqash)
ׁ
は、ダーラシュ‫( ָד ַרשׁ‬darash)が理性的
意味合いが強いのに対して、「慕い求める」は感情的・心情的な意味合いが強いように
思います。
‫( ָד ַרשׁ‬darash)とは、苦しみや不在経験を通りながらも、私たちが
◆「求める」ダーラシュ
心と思い(精神)を尽くして神を求めることを意味します。その祝福は、
①決して見捨てられることがなく、必ず主が答えて下さること
②良いものに何一つ欠けることがないこと
③ひろやかに(自由に、柔軟に)歩くことができること・・などです。
‫ָשׁהַ ר‬
(shachar)があります。
「私はあなたを切に求めます。あなたを慕って・・」(63:1)
◆類義語としては、シャーハル
「…彼らは、神を尋ね求め、立ち返って、神を切に求めた。」(78:34)
◆イエスがサマリヤの女との会話の中で礼拝についての話題に触れたとき(ヨハネ4章)、
父は霊とまことをもって礼拝する者たちを求めておられると話されました。神はいつの時
代でも真の礼拝者たちを求めておられるのです。旧約時代では、その神の求めに応える者
たちこそヤコブの一族でした。しかし今や、その枠-民族や場所―を超えて、神を求め、
神を慕い求める真の礼拝者たちが備えられています。
◆また、聖書は「神の国とその義とを、まず第一に求めなさい。」(マタイ6章33節)、
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたき
なさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7章7節)、また、「上にあるものを求めなさい。」
(コロサイ3章1節)とも記しています。なぜなら、天の父は与えることにおいて、ご自身を
表わされるからです。しかも、最上の良いものを求める者たちに与えたいと常に願ってお
られるからです。与えることこそ父の本分、父なる神の本質だからです。
30
詩 25 篇 「待ち望む」
(カテゴリー: 渇望)
カーヴァー
‫ָק ָוה‬
3節 「まことに、あなたを待ち望む者はだれも恥を見ません。」
5節 「・・・あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。」
21節「・・・・・私はあなたを待ち望んでいます。」
Keyword;「待ち望む」 wait,
trust in,
put my hope,
look eagerly(熱望する)
25:3/27:14/37:9, 34/39:7/40:1/69:6/130:5
◆詩25篇で初めて登場するカーヴァー
‫( ָקוָ ה‬qawah)「待ち望む」を取り上げます。旧約で
は47回、詩篇では17回使われています。詩25篇では三度このことばが使われています(3, 5,
21節)。また、この詩25篇には「恥」ということばが三度登場します。「恥をみないよう
にしてください。」「恥をみません」「恥を見ます」という表現ですが、「恥を見る」と
は、ずっと期待し、信頼してきたことが崩れて失望落胆することを意味します。たとえば、
ルカの福音書24章に出てくるエマオの途上にある二人の弟子は、ナザレ人イエスがイスラ
エルを贖ってくれるものと期待していました。しかしイエスが十字架に架けられて死んだ
ことで失望落胆していました。そこにイエスが現われて、聖書にはメシアが「苦しみを通
って栄光に入られること」が記されていることを説明しました。
◆詩25篇3節の「まことに、あなたを待ち望む者はだれも恥を見ません。」とはすばらし
い告白です。なぜなら、主を待ち望む者はだれも例外なく失望することはないからです。
‫( ָקוָ ה‬qawah)、「信頼する」
詩25篇では「恥を見ない」ということばが、主を「待ち望む」
‫(בָ טַ ה‬batah)、「仰ぐ」‫( ָנ ָֹשא‬nasa’)ということばと密接な関連をもっています。カーヴァ
ー‫קוָ ה‬
ָ (qawah)は、信頼しながら、期待しながら、主を仰ぎ望みながら、沈黙の中で待ち
望むという意味です。詩篇 25:3/27:14/37:9, 34/40:1/69:6/130:5 を参照。
◆「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力
を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
というイザヤ書の有名なみことば(40:30~31)にも、このカーワー
‫( ָקוָ ה‬qawah)が使われ
ています。鷲が風によって高く舞うように、人生における様々な向かい風(逆風)を、むし
ろ揚力として高く空に駆け上がる力とするのは、主を待ち望む者に約束された恵みです。
◆詩篇で「待ち望む」と訳されていることばは他にもあります。類義語としては、
①ヤーハル
‫(יָחַ ל‬yachal)
期待する、望みを抱く、望む、待ち望む、待ちわびる、待つ、
27:14/31:24/33:18, 22/38:15/42:5/69:3/71:14/119:43, 49, 147/130:5, 7/147:11
‫(חָ כָ ה‬chakhah) 待ち望む、望む、待つ 33:20 イザヤ30:18
③サーヴァル‫שׂבַ ר‬
ָ (savar) 期待する、望む、待ち望む 104:27/119:165/145:15
④ツァーファー‫(צָ פָ ה‬tsaphah) 仰ぎ見る、うかがう、望み見る、待ち構える、見張る 5:3
⑤フゥール‫(חוּל‬chul) 忍耐しながら、耐え忍びながら、待ち焦がれながら主を待つ 37:7
②ハーカー
31
詩 26 篇 「歩む」
(カテゴリー: 信頼)
ハーラク
‫הָ לַךּ‬
1 節 「弁護して下さい。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく(完全に)、主に信頼
したことを)・・」‫(הָ לַךּ‬halak)〔新共同訳では「誠実」を「完全な道」と訳している。〕
3 節 「私はあなたの真理のうちを歩み続けました。」‫(הָ לַךּ‬halak)
11 節 「しかし、私は、誠実に歩みます。」‫( ָילַך‬yalak)・・‫(הָ לַךּ‬halak)の未完了
Keyword;「歩む」
walk, live,
‫הָ לַךּ‬
(‫ָילַךּ‬
1:1/15:2/26:1,3/56:13/81:13/84:11/86:11/89:15/101:2,6/119:1,3,45/128:1
23:4/26:11/78:10/89:30/138:7/143:8)
◆1節の「歩み」は完了形でずっと「歩んできた」という意味です。3節の「歩み続けまし
た」とは完了形のヒッパエル態で、繰り返し、自発的に「歩んできた」という意味。そし
て11節は未完了形が使われており、「歩みます」という作者の強い意志を表しています。
◆「歩む」とは、生き方や神と人とに対する心の態度を指し示す言葉です。それは、神が
アブラハムに語ったように「あなたはわたしの前に全き者であれ」(創17:1)と言われたよ
うに、神にのみ信頼する生き方、および態度です。しかも、自らの意思でそれを選択して
生きることです。それゆえ、英語ではしばしば I will walk と訳されています。
◆詩篇の作者たちは、どのような歩みをしたのでしょうか。上に掲載した聖書箇所を見て
みると、次のような人生の姿勢が見えてきます「悪者のはかりごとに歩まず」(1:3)「正し
く」(15:2/84:11)「真理のうちを」「誠実に」(26:1, 11)「神の御前を」(15:2)「神の道を」
(81:11)「御顔の光の中を」(89:15)「自分の家の中を」(101:2)「全き道を」(101:6/119:1)
「主の道を」(119:3/128:1) 「神の教えに従って」(78:10)「行くべき道を」(143:8)歩み、
「たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、恐れず」(23:4)「広やかに」(119:45)歩み、
「苦しみの中を歩いても、あなたは私を生かしてくださる」(138:7)と告白されています。
◆新約聖書では、使徒パウロがエペソ人への手紙の中で次のように勧めています。
「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」(4:1)
「愛されている子どもらしく・・・愛のうちに歩みなさい。」(5:1, 2)
「光の子どもらしく歩みなさい。」(5:8)
「賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し」(5:15)なさい。
と語って、キリスト者生活の実践的指針を勧めています。ここには、神が私たちのために
なして下さった恵みに対して、それに釣り合うほどの歩みが期待されているのです。
◆また「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16)、「キリストに会って歩みなさい」(コ
ロサイ2:6)という勧めも、究極的には、このような歩みができるのは私たちを召して下さ
った神ご自身以外にないことを教えています。「人の歩みは、主によって確かにされる」
(詩篇37:23)とあるとおりです。そのような人を主は喜ばれ、主が支えて下さいます。
32
詩 27 篇 「信じる」
(カテゴリー: 信頼)
アーマン
‫אָמַ ן‬
13節「わたしは信じます。命あるものの地で主の恵みを見ることを。」(新共同訳)
「ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。
―」(新改訳)
Keyword;「信じる」
believe,
27:13/78:22,32/106:12,24/116:10/119:66
‫`(אָמַ ן‬aman)は聖書においてはとても重要なことばで
す。しかし詩篇にはこのことばはそれほど多くはありません。アーマン‫`(אָמַ ן‬aman)が聖
◆「信じます」と訳されたアーマン
書で最初に出てくるのは創世記15章6節です。「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の
義と認められた。」という箇所です。アブラムは「主には約束されたことを成就する力が
あることを信じたのです。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」(ローマ4章
21~22節)。ここは救いにおける信仰義認の教理を教えている大切な箇所です。
◆神は「信じること」を喜ばれます。また、「信じること」と「愛すること」には自発性
が伴います。それゆえ、I will believe とか I will love という言い方はしません。I believe,
I love という表現が一般的です。
◆詩篇27篇15節は、口語訳も、新共同訳も、共に「わたしは信じます」と訳していますが、
新改訳では反語的に訳されています。また、「わたしは信じる」ゆえに16節の「主を待ち
望む」ことが成立します。
◆アーマン
‫`(אָמַ ן‬aman)の類義語としては、「信頼します」のバータフ‫(בָ טַ ה‬batach)があ
ります。前者は「何を」信じるのか、その信じる内容が問題であるのに対し、後者は「誰
を」信頼するのかが問われます。ちなみに、詩篇27篇13節では「命あるものの地で主の恵
みを見ることを」信じる内容としています。それゆえ自分に「主を待ち望め」と呼びかけ
ているのです。
◆お祈りのあとに「アーメン」(ヘブル語では
‫、אָמֵ ן‬ギリシア語ではαμην)といいますが、
その語源が「確固とした、しっかりした、信頼できる」という意味を持ったアーマン
‫`(אָמַ ן‬aman)です。「忠実、真実」という意味のエムナー‫「、אֱ מוּנָה‬まこと」という意
味のエメス‫אֱ מֶ ת‬もみな同じ語根です。
◆キリストが「まことに(アーメン)、あなたがたに告げます。」(マタイ19:9, 23)
「まことに,まことに(アーメン,アーメン)あなたに告げます。」(ヨハネ3:3,5,11)と
言う時、これは主のみの独自な表現であり、イエス・キリストの語ったことばに対して、
明らかにメシア的権威を与えていることばです。私たちが信じると言っても、その信仰を
支えているのは主イエス・キリストの真実です。でなければ、私たちの信仰は信心となん
ら変わりません。主の確かな真実によって与えられ、支えられている信仰であるゆえに、
主に心からの賛美と感謝をささげます。
33
詩 28 篇 「上げる」
(カテゴリー: 信頼)
ナーサー
‫נ ָָשׂא‬
2節「私の願いの声を聞いてください。私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき。」
Keyword; 「上げる」
lift up 28:2/63:4/134:2―「手を上げる」
121:1/123:1―「目を上げる」 24:7-「頭を上げる」
◆ナーサー
‫(נ ָָשׂא‬nasa)は「仰ぎ見る、仰ぐ、上げる、抱く、思い浮かべる」など、実に多
くの意味を持つ言葉です。
「目を上げる」「手を上げる」
「声を上げる」
「心を上げる」「頭
を上げる」-すべて連動しています。これらはみな意識的な信仰行為を表しています。
「心を上げる」とは
「頭(こうべ)を上げる」とは、心を開いて主を迎え入れることです。
祈りをささげることを意味します。旧約聖書では、
「祈る」ということを「呼ばわります」
「呼びます」「目を上げます」「心やこうべを上げます」と表現します。これは赤子が母
親を求めてなりふりかまわずに、泣き叫でいるようなものです。赤子は「祈りという務
め」をしているのではなく、助けが必要なときに、泣いて母親を「呼んでいる」のです。
これが旧約の祈りと言えます。
◆類義語にハーザー
‫(חָ זָ ה‬chazah)があります。主の麗しさを仰ぎ見る、目を注ぐ、注視
するという意味で、より深い隠された霊的な事柄を継続的に探るというようなイメージ
があります。しかし、ナーサー
‫(נ ָָשׂא‬nasa)は人生において助けを必要とする様々な局面に
おいて、あるいは八塞りの状況の中で、意識的に思いを「上に向ける」というようなイメ
ージです。英語で lift up と訳されているのはそうした意識的行為の強い言葉のようです。
◆「私は山に向って目を上げる。私の助けはどこから来るのか。
」(詩121篇1節)
「あなたに向って私は目を上げます。
・・わたしをあわれんでください。
」(詩123篇1節)
主である神にむかって、そのとき必要な助けを求めているのです。
◆ナーサー
‫(נ ָָשׂא‬nasa)が最初に聖書に出てくるのは、アブラハムとロトの間に争いが絶
えないのを知ったアブラハムが、互いに別れて住もうと提案した後です。アブラハムは選
択の先取権をロトに与えました。かつての失敗の経験を通して、神によって自分の進むべ
き場所を選んでもらうという思いがあったのかもしれません。案の定、ロトは自分のこれ
からの歩みを決めるために「目を上げて」見ました。すると良く潤った低地があり、彼は
その地を選びました。一方のアブラハムは一見、貧乏くじを引いたように思いましたが、
ロトと別れた後で、主がアブラハムに仰せられました。
「さあ、目を上げて、あなたがい
るところから来たと南、東と西とを見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの
地全部を永久にあなたとあなたの子孫に与えよう」と(創世記13章)。私たちも、神の導き
と助けを期待して、信仰をもって「目や手や心やこうべを上げて」祈ることが大切です。
私たちには必ず答えて下さる方がおられるからです。
34
詩 29 篇 「(栄光を主に)帰す、ささげる」
(カテゴリー: 賛美)
ハヴ
‫הַ ב‬
1節「力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力とを主に帰せよ。
御名の栄光を、主に帰せよ。」
Keyword; 「(栄光を主に) 帰す」 give, ascribe
◆「帰せよ」と訳されたハヴ
29:1, 2/60:11/96:7, 8/108:12
‫(ָהַ ב‬hav)は「与える、ささげる、帰する、起因する」と言う
意味で、ここでは主に栄光を「帰する」こと、つまり、すべてのことが主に起因するとい
うこと、すべては主のおかげだとするという意味ですが、用法としては命令形だけでもち
いられます。類義語としては、ナータン
‫(נָתַ ן‬nathan)がありますが、詩115篇1節にのみ使
われています。
◆ハヴ
‫(הַ ב‬hav)は、旧約で33回、詩篇では8回使われています。内容的にはきわめて重要
な礼拝用語だと考えます。
◆使徒の働き12章20~23節には次のようなことが記されています。
「ヘロデはツロとシドンの人々に対して強い敵意を抱いていた。そこで彼らはみなでそろ
って彼をたずね、王の侍従ブラストに取り入って和解を求めた。その地方は王の国から食
糧を得ていたからである。定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに
向かって演説を始めた。そこで民衆は、『神の声だ。人間の声ではない。』と叫び続けた。
するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからであ
る。彼は虫にかまれて息が絶えた。」―この記事は神に栄光を帰さなかったヘロデが御使
いによって死んだことが記されています。
◆イエスが弟子たちに教え、かつ自らも祈っていた「主の祈り」の最初の部分は、
「御名
をあがめさせたまえ」でした。この祈りは、本来、人間にとって最も難しい祈りです。な
ぜなら、私たち人間は自分に対する人からの称賛を求め、自分に栄光を帰そうとする傾向
の強い存在だからです。
◆日本の挨拶のことばの中に、
「お元気ですか。」
「はい、おかげさまで。」というのがあり
ます。仏教から来た教えのようですが、残念ながら、今日の若者の間では死語の一つと
なっている感があります。しかし、この「おかげさまで」ということばは、自分という
存在が、自分だけで存在できるのではなく、様々な人たちの支えによってはじめて存在
できるという意味です。必ずしも、直接的に、「あなたのおかげで」を意味しません。
◆海は森によって生かされています。それゆえ、海で働く漁師たちが山や森に木を植え
る時代です。今日、地球の温暖化によって自然の大災害―台風、大雨洪水、干ばつ、異常
気象―が猛威をふるっています。その要因は、人間が「おかげさま」という有機的なかか
わりを無視した結果であるとも言えます。
◆すべてのかかわりの源泉は主ご自身です。それゆえ、栄光は主に「帰す」べきです。
35
詩 30 篇 「あがめる」
(カテゴリー: 賛美)
ルーム
‫רוּם‬
1節「主よ。私はあなたをあがめます。」
Keyword; 「あがめる」 exalt, extol, praise,
21:13/30:1/34:3/40:10/57:5,11/66:17/99:5,9/107:32/10851/118:28/145:1
◆詩30篇1節は、新改訳、口語訳、新共同訳、関根訳、岩波訳、こぞって「あなたをあが
‫(רוּם‬rum)は、本来、「高く
めます」と訳しています。
「あがめます」と訳されたルーム
上げる、高くする、ほめたたえる、引き上げる、称賛する、称揚する」といった意味が
あります。
「主をあがめる」理由としては、30:1では「主が私を引き上げて下さった」か
らであり、99:5, 9では、「主が聖である」ゆえに、145:1では、
「主が大いなる方、賛美さ
れるべき方、情け深く、あわれみ深い」ゆえにとあります。このように神の本性と属性の
ゆえにあがめられています。
◆ちなみに、「あがめる」と訳されているギリシア語は二つあります。
ひとつはハギアゾーαγιάζω(hagiazo) もうひとつはドクサゾーδοξαζω(doxazo)です。
前者は、
「聖なるものとする、区別する」という意味であり、後者は「栄光を主に帰す」
という意味です。
◆「主をあがめます」(I will exalt, I will extol)という告白は、神が世界(宇宙)のすべての
中心におられるということを認めることです。北極星(ポラリス)は、星の中で最も肉眼で
確認しやすい星です。私たちがどこにいても変わらない位置方向にある星です。それゆ
え、船が航行するときも、砂獏を旅するときにも、人々は北極星を「道しるべ」として
きました。このように、私たちの人生における「道しるべ」として、すべての中心に神
がおられることを認めていく姿勢こそ、「主をあがめる」という意味です。「主をあがめ
る」生き方をするならば、私たちが道を失うことは決してありません。
◆この詩30篇にあるように、人生は山もあれば谷もあります。人によってその波長が大き
いか、小さいかの違いはあっても、必ず、山と谷があります。ところが、私たちの心は山
にいるときは傲慢になり、
「私は決してゆるがされない。大丈夫だ」と思ってしまいます。
また谷底にいるときは「私は神から見離されてしまったしまった。どうしよう」とおじま
どいます。この繰り返しの中で生きているのが私たち信仰者の現実です。山にいる時も、
谷底にいる時も、神の恩寵は注がれ続けています。主をあがめるとは、自分の信仰の基準
を越えた神の支配を受け入れ、恐れることであると信じます。私たちの弱さのゆえに、揺
るぎながらもらせん階段的に成長して、神をより深く知る者とさせられるのだと思います。
‫(רוּם‬rum)の類義語としては、ガーダル‫( גּ ַָדל‬gadal) magnify(大きくする、あが
める)34:3/69:30。カーヴェド‫(כָּבֵ ד‬kaved)15:4/22:23/50:15, 23/86:9,12/91:15。アーラー
‫'(עָ לָה‬alah) 47:10/97:9 があります。
◆ルーム
36
詩 31 篇 「ゆだねる」
(カテゴリー: 信頼)
パーカド
‫פָּ ַקד‬
5節「私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。」
Keyword;「ゆだねる」 commit
31:5
‫(פָּ ַקד‬paqad)は、本
◆新改訳、口語訳、新共同訳も共に「ゆだねます」と訳したパーカド
来、神が人に対する動詞で、
「罰するpurnish」
「数えるmunber, count」
「顧みる、訪れるcare
for」「育てるwatch over」「問いただすexamine」といった意味ですが、詩31篇5節のそれ
は、人が神に対して、自分に与えられた権限を明け渡してしまう、預けてしまうという意
味での「ゆだねる」です。ちなみに、この詩31篇では自分のたましい(新共同訳では「霊」)
をゆだねて、明け渡しています。
◆パーカド
‫(פָּ ַקד‬paqad)は、俗なことばでいうならば、「まな板の上の鯉」のように、窮
地に立たされても慌てることなく、自分の身を相手のなすがままにさせて、泰然として
いる状態です。イエス・キリストの十字架上での七つのことばがありますが、一番最後
のことばはこうでした。「イエスは大声で叫んで言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだ
ねます。
』 こう言って、息を引き取られた。
」(ルカ福音書23章46節)のでした。
◆パーカド
‫(פָּ ַקד‬paqad)が「ゆだねる
commit」と訳されている箇所は詩31篇5節のみで
すが、礼拝者にとっては重要なことばです。詩篇では「ゆだねる」という訳されたこと
ばが、他にも四つほどあります。
●第一は、アーザヴ
‫`(עָ זַ ב‬azav)です。「見捨てる、置き去りにする、後に残す、立ち去る、
離れる、かまわずに放っておく、成り行きに任せる」という意味です。詩篇10:14/37:33
参照。神がご自身の民を敵に渡されるときに使われます。
●第二は、シャーラク
‫( ָשׁלַךּ‬shalak)です。22:10。特に、55:22では「あなたの重荷を主に
ゆだねよ。
」とありますが、
「放り投げる、投げ与える、渡す、あずける」といった意味で、
自分の問題を神の御手に任せることです。
●第三は、ガーラル
‫( ָגּלַל‬galal)です。37:5 では「あなたの道を主にゆだねよ。」とありま
す。本来は「石などを転がす」という意味で、どのように転がっていくのか全く予想のつ
かない状況で身を任せるという意味です。
●第四は、ナータン
‫(נָתַ ן‬nathan)です。詩篇にはないことばですが、ポティファルがヨセ
フに自分の財産の管理を一切任せたというところに使われていることばです。創世記39:8。
◆神は私たちを信頼して多くのものをゆだねられました。同時に、私たちも神とその支配
にゆだねることを学ぶことはきわめて重要です。御父と御子はそれぞれゆだね合っていま
した。御父は御子にすべてのさばきの権能をゆだねましたし、御子は十字架においてご自
身の霊を御父におゆだねになりました。「ゆだねる」ということは、相手に対する最も深
い信頼を意味します。
37
詩 32 篇 「祈る」
(カテゴリー: 祈り)
パーラル
‫פָּ לַ ל‬
6節「それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。」
Keyword;「祈る」 pray 5:2/32:6
‫(פָּ לַל‬palal)
◆「祈ります」と訳されたパーラル
祈りの名詞はテヒラー
は一般的な「祈る」という動詞ですが、
‫( ְתּפִ לָּה‬tephillah)です。詩篇でのパーラル‫(פָּ לַל‬palal)の使用数は決
して多くはありませんが、アブラハム、モーセ、アロン、ハンナ、サムエル、エズラたち
が主に祈った祈りの動詞はこのパーラル
‫(פָּ לַל‬palal)が使われています。主の名を「呼ぶ、
尋ね求める、叫ぶ、申し上げる、心を注ぎだす」とも訳されます。また、とりなしをする
(仲裁する)と言う意味もあります。
◆聖書には歴史を動かした多くのすばらしい祈りがあります。その中でも、
「ハンナの祈
り」は歴史を変えた祈りのひとつです。その祈りは、エルカナという人の家庭内で起こっ
た一つのトラブルがもたらした、いわば、
「追い込まれた祈り」でした。エルカナの第一
夫人ハンナは子どもがありませんでしたが、夫に愛されていました。子どものいる第二夫
人のベニンナはそのことを妬み、ハンナをひどく苦しめました。ハンナはこの苦しみをた
だ主に訴え、心を注ぎ出して祈りました。
「心を注ぎ出す」とは、
「自分の苦しみのすべて
を注ぎ出す」という意味で、それを受け止めてくれる方の前でしかできないことです。
どこにも向けることのできなかったハンナの心の苦しみは、ハンナをして主の前に向かわ
せました。その結果として、ハンナの祈りは預言者サムエルを産み出したのです。このハ
ンナの祈りがなければ、サムエルは生まれなかったと言っても過言ではありません。
◆このような祈りに追い込んだのは、他ならぬ神ご自身です。追い込まれた祈りの中でハ
ンナは一つの誓願を立てました。その誓願とは「もし、子を与えて下さるなら、その子の
生涯を、主に明け渡します。」というものでした。その誓願は、単に、ベニンナへの対抗
意識を越えて、祈りに答えて下さるなら、神に自分の最も大切とするものを神にささげた
いとする意志でした。母親にとって自分の子は宝のような存在です。しかしそれを神に明
け渡すことによって、彼女は、結果的に、歴史を動かす人物をこの世に送るという使命を
果たしました。ちなみに、
「サムエル」とは「神は聞きたもう」という意味です。
◆追い込まれて祈った祈りでしたが、そこに至るまでのすべての上に、神の隠された不思
議な計画と導きがあったことを聖書は記しています。私たちもある種の行き詰まり、苦し
みや悩み、トラブル、思うように行かないこと・・などを経験することがあります。それ
は神が私たちをして、祈るようにと導いておられる神のサインなのかもしれません。
◆類義語としては、シャーアル
‫( ָשׁאַל‬sha’al)があります。これは詩122篇6節「エルサレム
の平和のために祈れ」というところに使われています。
「請い求める、願う、求める、尋
ねる、欲する、要求する」という意味です。
38
詩 33 篇 「恐れる」
(カテゴリー: 服従)
ヤーレー
‫י ֵָרא‬
8節「全地よ。主を恐れよ。世界に住む者よ。みな、主の前におののけ」(新改訳)
「全地は主を畏れ、世界に住むものは皆、主におののく。
」(新共同訳)
Keyword; 「恐れる」 fear,
worship,
2:11/3:6/23:4/27:1, 3/33:8/34:9/40:3/46:2/49:5, 16/52:6/56:3,4,11/64:9/65:8/67:7
91:5/111:9/112:1/119:63,120
◆「恐れる」と訳されたヤーレー
‫(י ֵָרא‬yare’)は「恐れかしこむ、拝む、畏れ敬う、重んじ
る、おそれおおい、おそれおののく」といった意味であり、旧約の人々は「主を信じる」
ことと「主を恐れる」ことは同義と考えていたようです。新共同訳では「畏れる」という
文字を使っています。
◆「恐れる」は、敵や死、危険や失敗、あるいは秘密の発覚を心配してこわがるという面
があると同時に、
「畏れる」という面を合わせ持っています。
「畏れる」(畏敬、畏怖)とは、
かしこむ、恐縮する、おそれおおい、自然やいのちの神秘に触れたときの驚きの感覚です。
◆「旧約聖書ヘブル語大辞典」を編集した名尾耕作氏は、「主を恐れる」というヤーレー
‫(י ֵָרא‬yare’)を次のように説明しています(「旧約聖書名言集」講談社学術文庫、244頁)。
「主を恐れるということは、たんに主を畏敬する意味ではありません。神を恐れた人物と
して、ヨブとアブラハムが聖書にしるされています。
・・創世記(22:12)によりますと、ア
ブラハムが、神の命令に従って愛する子イサクをモリヤの山でささげたことを主の使いは、
アブラハムが神を恐れていたからだと言っています。アブラハムのこの行為を新約聖書の
ヘブル書(11:17~19)では、
『神には人を死者の中からよみがえらせることもできる』とい
う信仰によって、アブラハムはイサクを神にささげたのだと言っています。ですから、神
を恐れるということは、・・・人にはまったく不条理に思える真理を信じるということで
す。すなわち、神への全幅的信仰であります。これが人生の知識、知恵の初めであり、基
本であるのです。」
◆箴言に「主を恐れることは知識の初めである」(1:7、詩111篇10節)、
「主を恐れること
「主を恐れる」ということは神と人と正しいかかわ
はいのちの泉」(14:27)とあるように、
りを表現することばのようです。
◆「主の御名は聖であり、おそれおおい」(詩篇111:9)ことを知ることが、神との良いかか
わりを築かせます。しかし逆に、主に対する狎れ、神の恵みに狎れることは、神からのさ
ばきを招きます。たとえば、祭司エリの二人の息子たち(ホフニとピネハス)がその例とい
えます。サムエル記第一2章参照。愚かな子とは、主を恐れる知恵のない子です。
39
詩 34 篇 「味わう 知る」
(カテゴリー: 賛美・感謝)
ターァム
ラーアー
‫טָ עַ ם‬
‫ָראָה‬
8 節「主のすばらしさを味わい(‫、)טָ עַ ם‬これを見つめ(‫) ָראָה‬よ。」(新改訳)
「主の恵み深きことを味わい知れ」(口語訳)
Keyword; 「味わう」 taste
34:8
‫(טָ עַ ם‬ta`am)は、詩篇では34篇8節のみに出てくること
ばです。しかも、この箇所では「見つめよ」
「知れ」と訳されているラーアー‫( ָראָה‬ra’ah)
とセットです。ターアム‫(טָ עַ ם‬ta`am)は「味わう、口にする、なめる」という意味です。
◆「味わう」と訳されたターアム
また、ラーアー‫( ָראָה‬ra’ah)は、
「拝見する、見極める、見定める、見つめる、認める、見
る、目をとめる、考える、悟る、楽しむ、選ぶ、顧みる、思う」と多くの訳語があります。
◆ターアム
‫(טָ עַ ם‬ta`am)とラーアー‫( ָראָה‬ra’ah)を合わせて考えると、自分のこととして
体験的に味わうことを意味します。TEV訳の find out yourself はまさに、あなた自身が
自分でそれを見出し、体感せよ、との意味です。どんなにすばらしいことであっても、自
分自身のこととして体感できなければなんら意味がありません。
◆「味わう」べき事柄(内容)は、ここでは「主のすばらしさ」です。原語ではトーヴ・ア
ドナイ
‫「 טוֹּב יהוֹה‬主は善い方です」という意味です。このことを深く味わい、見
極めることこそ信仰者の幸いにつながります。主は善い(良い)方であり、善いことしかで
きない方であることを見極めることができるならば、私たちが経験するさまざまな出来事
も、意味あるものとして受け取ることができるはずです。そうでなければ、主は私に意地
悪をしているように思い-たとえ自分では意識していなくてもー、主を赦すことができな
くなります。その結果、不信仰になり、神とのかかわりや祝福を失ってしまいます。
◆神の善トーヴ
‫(טוֹּב‬tob) goodnessは、自然界においては、一羽の雀さえも顧みて下さり、
一輪の花にも着飾って下さる方として現わされます。また人に対しては、恵み(気前の良
さ)、忍耐、赦しとして表わされます。この地上の父でさえ、自分の子どもに良いものを
与えるとすれば、天の父はご自分の子に対してはなおさらのことです。たとえ今、喜ばし
いこととは思えないことであっても、後で、平安の義の実を結ばせて下さるのです。ヘブ
ル12章参照。
◆神を善い(良い)方として味わうためには、主にとどまることが必要です。多くの働きを
通して、その中でそのことを味わおうとすれば、やがて失望する運命にあります。自分の
心の底から、主は善い方であり、善いことしかおできにならない方なのだという信仰の種
を根づかせる必要があると信じます。そこから詩34篇の作者のように、賛美への誓い、賛
美への勧め、主を恐れることの勧めが力を持つこととなるのです。
40
詩 35 篇 「楽しむ」
(カテゴリー: 賛美・感謝)
ス ー ス
シ
‫שׂוּשׂ‬
ス
‫שׂישׂ‬
9 節「こうして、私のたましいは主にあって喜び(‫)גִ יל‬
御救いの中にあって楽しむ(‫)שׂישׂ‬ことでしょう。
」
Keyword; 「楽しむ」 35:9/40:16/68:3/70:4
◆シス
‫(שׂישׂ‬sis)、スース‫(שׂוּשׂ‬sus)
いずれも「喜び」
「楽しみ」を表わすことばです。
神の救いの基調は、
「喜び」と「楽しみ」です。
joyful, rejoice,
◆「救いを喜び、楽しむ」ということはどういうことでしょうか。
「喜ぶ」とは神に愛さ
れていることの存在論的喜びであるとすれば、「楽しむ」とは、それを実際的に、現実的
に味わうということかもしれません。それはある意味で「遊び」の世界です。
◆神の国の祝福は、神の大庭の中で「遊ぶ」ことができるということです。様々な規律に
縛られ、拘束されているところには「遊び」はなく、喜びや楽しみといった解放感や自由
さが見られません。
◆詩篇の中には「喜びと楽しみ」ということばがあふれています。たとえば、
「私は、いつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」
(詩篇16:9)
「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、
あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」
(詩篇16:11)
「あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。」(詩篇31:7)
「正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。」(詩篇32:11)
「私のたましいは、主にあって喜び、御救いの中にあって楽しむことでしょう。」(詩篇35:9)
「あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。」(詩篇40:16 /70:4)
◆「喜びと楽しみ」の極めつけは小羊と教会との婚姻です。「私たちは喜び楽しみ、神をほめ
たたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」(黙示録19:7)
◆与えられた時間、与えられた賜物、与えられたチャンス、与えられた立場などを「楽し
む」ということは一つの能力ではないかと思います。礼拝や、賛美、主に仕えること、人
に仕えることの中に「聖なる遊び」が必要です。生きた礼拝や賛美にもそれが必要です。
「聖なる遊び」の中で、より創造的なものが生み出されてくるからです。
◆新約時代の「聖霊に満たされた人」という表現は、神の大庭で遊ぶ「遊び人」と言い換
えても過言ではありません。神との親しいかかわりに支えられながら、そのかかわりを楽
しむことができる人です。さまざまな既存の枠にとらわれることなく、いのちに満ち溢れ
た発想をすることができる人だと信じます。
41
◆ところで、詩 35 篇には「喜びを表す動詞」―歓喜用語が数多くみられます。
9 節「・私のたましいは、主にあって喜び(‫、)גִ יל‬御救いの中にあって喜ぶ(‫)שׂוּשׂ‬こと
でしょう。
」
18 節「私は大きな会衆の中であなたに感謝し(‫、)י ָָדה‬強い人々の間であなたを賛美しま
す(
‫」。)חָ לַל‬
27 節「私の義を喜びとする(‫)חָ פֵ ץ‬者は、喜びの声を上げ(‫、) ָרנַן‬楽しむ(‫שׂמַ ח‬
ָ )ようにし
てください。彼らに言わせてください。
『ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる(
‫)חָ פֵ ץ‬
主は、大いなるかな』
」
28 節「私の舌は、あなたの義とあなたの誉れを、日夜、口ずさむ(‫)הָ גָה‬ことでしょう。」
‫גִ יל‬
①「ギール」
(gil)
しばしばサーマフ
Joyful
‫( ָשׂמַ ח‬samach)とセットで用いられ、「喜び楽しむ」という意味。
21:1/35:9/89:16
‫שׂוּשׂ‬
②「スース」
(sus)
「喜び」
「楽しみ」を表わすことばです。シス
③「ヤーダー」
‫(שׂישׂ‬sis)も同義。
‫(י ָָדה‬yadah)
本来「投げる」という意味があり、そこから、神に視線を向け、神に向って投げるも
のは、賛美であり、感謝、そして信仰告白ということになります。「ほめたたえる、
感謝する、告白する、あかしする、言い表す、称賛する、たたえる」と訳されます。
④「ハーラル」
‫(חָ לַל‬halal)
もとの意味は「輝く、光を放つ」です。いわば爆発的な喜びをもって、感謝をもって、
声を張り上げて、叫ぶようにして神をたたえるという意味合いをもつことばです。
⑤「ハーペツ」
‫(חָ פֵ ץ‬chaphets)
おのずから、愛する、きにいる、慕う、楽しむ、良しとするという意味があります。
主の愛に促された自発性の意味合いの強い言葉。
⑥「ラーナン」
‫( ָרנַן‬ranan)
声高らかに歌う、喜び歌う、声高く歌う、喜びの歌を高く上げる、喜びの声を上げる
など、「喜び」が基調にある歌を意味します。
⑦「サーマフ」
‫( ָשׂמַ ח‬samach)
単なる感情的な「喜び」ではなく、神に愛されているという存在論的、人格的交わり
による喜びを意味します。
⑧「ハーガー」
‫(הָ גָה‬hagah)
本来の意味は、「うめく」「つぶやく」「声を出す」「ささやく」「親しく語る」「考える」
「思う」です。旧約の詩人にとって、神とそのみことば、あるいは、御業は口を用いて
言い表すことに直結されていたようです。
42
詩 36 篇 「満ち足りる」
(カテゴリー: 賛美・感謝)
ラーヴァー
‫ָר ָוה‬
8 節「彼らは、あなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。」(新改訳)
「あなたの家に滴る恵みに潤い、
」(新共同訳)
「あなたの家の豊かなのによって飽き足りる」(口語訳)
「彼は満喫する、あなたの家の脂を」(岩波訳)
「彼はあなたの家の豊かさに飽き足り」(関根訳)
Keyword; 「満ち足りる、飽き足りる」satisfy, feast,
◆「心ゆくまで飲む」と訳されたラーヴァー
36:8のみ
‫( ָרוָ ה‬rawah)は「飽き足りる、満足する、満
ち足りる、豊かに潤す、尽くす、酔う、祝宴でごちそうになる」といった意味です。心ゆ
くまで何を飲むのかといえば、それは、主の家の豊かさ、主の家に滴る恵みです。ちなみ
に、ラーヴァー
‫( ָרוָ ה‬rawah)は旧約で14回使われていますが、詩篇の礼拝用語としては36:8
のみです。
◆多くの人々が自分の人生に何らかの不平や不満を持って生きています。「・・であれば
いいのに」
「・・こうなればいいのに」
「なぜ思うようにならないのか。」と言っています。
しかし、詩篇23篇の作者が「私は乏しいことがない」(1節)と告白しているように、詩篇
34篇でも「主を恐れる者には乏しいことはない。若い獅子もとぼしくなって飢える。しか
し、主を尋ね求める者には良いものに何一つ欠けることはない。
」(9~10節)と告白してい
ます。
◆使徒パウロは、「私は、どんな境遇にあっても、満ち足りることを学んだ」(ピリピ4章
11節)と述べています。このパウロの告白は「私は乏しいことがありません」との新約版
と言えます。そして愛弟子のテモテに対して「満ち足りる心を伴う敬虔こそ大きな利益を
「満ち足りる心」は自分の環
受ける道です。
」(テモテ第一、6章6節)とも勧告しています。
境や状況に左右されません。「どんな境遇にあっても満ち足りる」充足感です。それは自
分の内にある充足感です。それを与えてくれるのが主イエス・キリストであることをパウ
ロはあかししています。
「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、
あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4章19節)と。
◆このような恵みを経験した者が、さらに、
「注いでください。あなたの恵みを。あなた
を知る者に。」(詩36篇10節)と祈っていることに感動します。
◆類義語としては、サーヴァー
‫( ָשׂבַ ע‬saba`)
あるいは、サーヴェア
‫( ָשׂבֵ ע‬sabea`)
があり
ます。飽き足りる、満ち足りる、という意味です。17:14/22:26/37:19/59:15/63:5/65:4/78:29
「私の魂が脂肪と髄に満ち足りるかのように、・・・喜びにあふれて賛美します。」(63:5)
「幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。
私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。」(65:4)
43
詩 37 篇(1) 「(耐え忍んで)待つ」
(カテゴリー: 渇望・待望)
フール
‫חוּל‬
7節「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。」 (新改訳)
「主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。」(口語訳)
「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれる。」(新共同訳)
Keyword; 「待ちます」 wait patiently,
◆「待て」(待つ)と訳されたことばフール
37:7のみ
‫(חוּל‬chul)は、旧約では10回、詩篇では37:7の1
回にしか使われていない動詞です。「荒れ狂う、いたく苦しむ、痛みを覚える、産みの苦
しみ、苦しみもだえる、もだえ苦しむ、傷を負う、待つ、待ち望む」を意味する言葉です。
ワクワク、ドキドキしながら待っているというのではなく、じっと耐え忍びつつ、苦しみ
もだえつつ、主を待つことを意味しているようです。いつ出口があるのか分からない、う
めきながらの苦しみとも言えます。そのような待ち望みがフール
‫(חוּל‬chul)の意味すると
ころです。
◆37篇7節にあるように、「おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に
対して、腹を立てず」に、沈黙して、主を待つということは痛みと苦しみを覚えるはずで
す。悪人の繁栄が大きく、成功が魅力的なものとして目に映るとき、「腹を立てたり、ね
たみを引き起こしたりする誘惑にかられます。詩篇73篇の作者も霊的な指導者でありなが
ら、同じような誘惑にかられ、
「足がたわみそうで、私の歩みはすべるばかりであった」
(2節)と正直に告白しています。
◆新約に生きる私たちにも、そのようなうめきをもたらすような待ち望みがあることをパ
ウロはローマ書の中で以下のように述べています。
「19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであっ
て、望みがあるからです。21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの
栄光の自由の中に入れられます。22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめき
ともに産みの苦しみをしていることを知っています。23 そればかりでなく、御霊の初穂を
いただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、
私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。24 私たちは、この望みによって救わ
れているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、
どうしてさらに望むでしょう。25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、
忍耐をもって熱心に待ちます。」(ローマ8章19~25節)
◆類義語としては詩篇25篇を参照。ちなみに、37篇9節、34節で使われている「待ち望む」
‫( ָקוָ ה‬qawah)です。
は、カーワー
44
詩 37 篇(2) 「受け継ぐ」
(カテゴリー: 感謝・賛美)
ヤーラシュ
‫יָ ַרשׁ‬
9節「しかし、主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。」
Keyword; 「受け継ぐ」 inherit, possess,
25:13/37:9, 11, 22, 29, 34/44:2, 3/69:35/83:12/105:44
「継ぐ」(口語訳、新共同訳)と訳されたヤーラシュ
◆「受け継ぐ」(新改訳)、
‫(י ַָרשׁ‬yarash)
は「受け継ぐ、自分のものとする、所有する、征服する、占領する、保つ、継ぐ、取る、
守る、領有する」といった意味です。旧約では231回、詩篇では11回と多くはありません
が、旧約聖書ではきわめて重要な神の祝福の概念の一つです。
◆神の民イスラエルにとって「地を受け継ぐ」とは、約束された地カナンを意味し、それ
が彼らの永遠の相続地として与えられます。カナンの地で相続地を与えられなかったレビ
人たちには神が彼らの相続財産でした。詩16篇の作者は「主は、私のゆずりの地所、また
私の(祝福の)杯です。私の受ける分を堅く保っていてくださる。」と告白しています。
◆ユダヤ人にとっての「ゆずりの地」(相続地、相続財産、分け前、賜物)は、実際的には、
約束されたカナンの地です。やがて彼らは、キリスト再臨後に、その地において、全世界
の支配国となることが約束されています。
◆ユダヤ人にとってはそうした約束の地を相続地として受け継ぐだけでなく、キリストに
ある者たちは「天に備えられている資産を受け継ぐ」ことが約束されています。それは天
にある宝です。資産、宝と言ってもそれは不動産のことではありません。ヨハネはそれを
「永遠のいのち」と言っています。ペテロは「生ける望み」とも、
「終わりのときに現わ
されるように用意されているたましいの救い」とも言っています。
◆イエス・キリストが「天にあなたがたの宝を積みなさい」と言われましたが、このこと
ばは善行をして天に宝を積み上げるということではなく、「宝」のあるところに心がある
わけですから、あなたがたの心がいつも賜物として天に備えられている、朽ちることも、
汚れることも、消えることもない資産(宝)に心を留めながら、そこに望みを積み上げなが
ら生きなさいという意味です。
「主を待ち望む者」
「貧しい人」
「主に祝福された者」
「正しい者(主に従う
◆詩37篇では、
者)」は「地を受け継ぐ」ということが、たたみかけるように約束されています。
◆類義語としては、ナーハル
‫(נָהַ ל‬nachal) 63:36
があります。新約聖書では、神と神の国
を相続することを最大の祝福としています。ギリシア語はクレーロノミアです。
◆私たちは「祝福を受け継ぐために召されました。ですから、悪を持って悪に報いず、か
えって祝福を与えなければなりません。」(ペテロ第一、3章9節)
45
詩 38 篇 「言い表わす」
(カテゴリー: 祈り)
ナーガド
‫נָ גַ ד‬
18節「私は自分の咎を言い表わし、私の罪で私は不安になっています。」(新改訳)
Keyword; 「言い表す」「告白する」
tell,
sperk,
declare,
proclaim,
confess
9:11/19:1/22:31/30:9/ 38:18/40:5/50:6/51:15/52:T/64:9/71:17, 18/75:9/92:2, 15/97:6/
111:6/142:2/145:4/147:19/
‫( ָנגַד‬nagad)は「明かす、明らかにする、表わす、言い
◆「言い表す」と訳されたナーガド
表す、言う、打ち明ける、語り告げる、語り伝える、語る、語り告げる、説明する、情報
「言い表す」
を伝える」という意味です。旧約では370回。詩篇では20回使われています。
ことの反対は、
「沈黙する」ことです。
◆詩38篇の作者は敵のさまざまな脅しの声には一切反応せずに沈黙していますが、神に対
しては、自分の心の鬱積した感情を訴えています。そして、18節では「自分の咎を言い表
し」ています。自分の心の鬱積した感情を吐き出すことのできる存在がいるということは
すばらしいことです。しかし人にそれが期待されるとき、必ずしもそれが受け止められる
とは限りません。むしろそのことでかえって傷つくことがあるかもしれないからです。だ
れにも言えない苦しみ、孤独の苦悩、そして自分の咎・・・これらを受け止めてくれる存
在が神であることを述べているのが、9節の「主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあ
り、私の嘆きはあなたから隠されてはいません。
」です。
◆自分の罪を言い表すということは決してたやすいことではありませんが、
「もし、私た
ちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪
から私たちをきよめてくださいます。
」(ヨハネの手紙第一、1章9節)との約束があります。
言い表すことによって、赦しの確信が与えられ、罪に支配されずに生きる道を神は与えて
「私は、自分の罪を、あなたに知
くださいます。詩32篇でもダビデはこう言っています。
らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。
『私のそむきの罪を主に告白しよう。
』
「私が黙っていたとき
すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(5節) しかし、
には、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
」とも言っています。
◆神と私たちのかかわりを健全にし強固なものにするためには、自分の罪を言い表し、告
白することがとても重要です。自ら妨げとなっているものを取り除くことを神は喜ばれま
す。しかも、どんな罪をも赦していただくことができるのです。神は「東が西から遠く離
れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される」(詩103篇12節)方です。
◆類義語としては、ヤーダー
‫(י ַָדה‬yadah)があります。ヤーダー‫י ַָדה‬は、本来、神に感謝
する、神をほめたたえる、という意味ですが、自分の犯した罪を告白するという意味もあ
ります。詩篇32:5 にこのことばが使われています。レビ5:5/1621/26:40、民5:7も参照。
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詩 39 篇 「沈黙を守る、黙する」
(カテゴリー: 祈り)
アーラム
‫אָלַם‬
2節「私はひたすら沈黙を守った。」 I became dumb
9節「私は黙し、口を開きません。あなたがそうなさったからです。」I was dumb
Keyword; 「沈黙する」「黙する」
silenct, be silenced
31:18/39:2, 9
◆詩 39 篇 2, 9 節には、神、あるいは人の前で沈黙すること、黙すること、口をつぐんで
物言わないという動詞アーラム
‫'(אָלַם‬alam)
が使われています。旧約では 8 回、詩篇で
は 3 回使われています。
◆英語の alarm(アーラム)は驚かせて目覚めさせることばですが、ヘブル語のアーラム
‫'(אָלַם‬alam)は、静かに沈黙することです。また、「沈黙は金、雄弁は銀」という格言が
あります。それは沈黙の方が雄弁よりも「説得力」があるという意味ですが、ここではそ
うした意味で使われてはいません。
◆詩 39 篇の作者は、自分が舌で罪を犯さないように、口に口輪をはめようと決心しまし
た。つまり、不平不満、つぶやき、思い煩い、神への不信を口から出さないようにと決心
したのです。特に、神にさからう者たちの前では、恰好の非難の種を与えないためにそう
しました。しかし、作者はその沈黙に耐えることができなかったようです。作者をして沈
黙に耐えさせなかったものはいったい何なのか、それがこの詩篇のテーマです。それは一
言でいうならば「虚無感」です。それを表わす「はかない」(4 節)「むなしい、むなしく」
(5, 6, 11 節)という言葉が目につきます。
◆自分の存在が束の間の存在、無に等しい存在、自分のしてきたことが空しく感じられる
時、人は虚無というブラックホールに引き込まれます。神を信頼している者であっても例
外ではありません。神を信頼しながらも襲ってくる虚無感、焦燥感の中に不安と怒りの感
情が現われることがあります。心と頭が同時進行できない現実感が、空しさにさらなる拍
車をかけます。そうした中にある告白―「主よ、今、私は何を待ち望みましょう。私の望
み、それはあなたです。」―深い虚無感との戦いの中で告白されたこのことばは数段の重
みがあります。
◆人生における虚無を経験しながらも、より深められていく神への信頼の旅―それが「私
はあなたとともにいる旅人、寄留の者」(12 節)という告白です。
‫(חָ ָשׁה‬chashah)39:2「よいことにさえ、黙っていた。」で使
◆類義語としてはハーシャー
われています。穏やかになる、黙る、黙す、声を出さない、じっとしている、沈黙を守る、
といった意味があります。もうひとつ(詩篇には使われていませんが)ハーサー
‫הָ סַ ה‬
(hasah)があります。「声を出さない、静まる、沈黙する、無言、泣くことをやめる」とい
う意味です。ハバクク 2:4 、ゼパニヤ 1:7 参照。
47
詩 40 篇 「告げる」
(カテゴリー: 宣教)
バーサル
‫בָּ ַשׂר‬
9節「私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げました。」
Keyword; 「告げる」「告知する」「語り告げる」speak , preach, proclaim, declare, say
◆詩40篇のキーワードは、神の喜ばしいおとずれを「告げる」ということです。この詩篇
には四つの節に「語る」ことに関連することばが五つあります。
① 5 節 「・・私が告げ
‫( ָםפַ ר‬saphar)
‫( ָדּבַ ר‬dabar)ても、また語っ‫( ָנגַד‬nagad)ても、それは多くて述べ
尽くせません。」
② 9 節「私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げ
‫(בּ ַָשׂר‬basar)ました。
ご覧ください。私は私のくちびるを押さえません。」
③10 節「私は、あなたの義を心の中に隠しませんでした。あなたの真実とあなたの救い
を告げ
‫`(אָמַ ר‬amar)ました。私は・・・大いなる会衆に隠しませんでした。」
④16 節「あなたの救いを愛する人たちが、『主をあがめよう。』と、
いつも言います
‫`(אָמַ ר‬amar)ように。」
◆英語で言うならば、speak, preach, declare, proclaim, say は、口で語ることに関する
語彙ですが、そのニュアンスは微妙に異なります。たとえば、speak ということばは、
話すという意味ですが、preach は、ことばを話すにしても説教のようにある程度、整理
して順序立てて語る用語です。declareと proclaimは、はっきりと宣言する。告白する、
告知する、公言するという言葉で、教会では賛美の中で神がどのような方であり、なにを
なされたかをはっきりと告白するといったニュアンスです。
◆いずれにしても、この詩篇は神がなしてくださったすばらしい救いを語ること、語り告
げることを強調しています。この詩篇をワンセンテンスで言い表すならば、
(A) 滅びの穴から救い出された者、あるいは、主から新しい歌を授けられた者は
(B) いつも
(Who)
(When)
(C) 会衆に、会う人ごとに (Whom)
(D) 救いについての良い知らせ、喜ばしいおとずれを
(What)
(E) 喜んで(自発的に) (How)
(F) 語り告げる―という責任があります。自分の心の中に隠してはならいのです。
◆礼拝における賛美というかたちで、説教というかたちで、あるいは日常的なかかわりの
場でなされるあかし(話し)というかたちで・・とその形式は様々ですが、神の驚くべき救
いの御業は、どんなに語り告げても、語り尽くすということはないことを詩40篇の作者は
告白しています。もう一度、主にある一人ひとりが、救いの原点に立ち返って、神の驚く
べき救いの事実を語る(あかしする)ことの重要性を認識しなければならないと思います。
たとえ「数え切れないほどのわざわいが私を取り囲」(12節)んだとしてもです。
48
詩 41 篇 「知る、分かる」
(カテゴリー: 信頼)
ヤーダー
‫יָ ַדע‬
11節「このことによって、あなたは私を喜んでおられるのが、わかります。」(新改訳)
「そしてわたしは知るでしょう。わたしはあなたの御旨にかなうのだと」(新共同訳)
Keyword; 「知る」
know,
4:3/9:10/20:6/36:10/51:3/56:9/59:13/73:16/83:18/87:4/89:15/91:14/100:3/109:27
119:75, 79, 125, 152/135:5/139:14/140:12
◆「知る」と訳されるヤーダー
‫(י ַָדע‬yada`)は、神とのかかわりにおいて、きわめて重要な
礼拝用語です。旧約では 947 回、詩篇では 92 回使われています。神がどのようなお方で
あるかということを知るということは、単なる知的理解にとどまることではなく、人格
的・体験的な愛の交わりを意味するからです。「知り、知られる」という関係をしるした
詩 139 篇はその意味ではすばらしい傑作です。また、創世記 4 章 1 節の「人はその妻を
知った」は、霊的、精神的、肉体的なものすべてを含んだ交わりを意味します。
、神に
◆詩 41 篇 11 節のように、自分の存在が神によって喜ばれていることが「わかる」
受け入れられていることを「知る」ことは、生きる力を生み出し、存在の輝きを放ちます。
御子イエスも御父から「わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と言われました。
この御父の内なる愛の声こそ、すべての子どもたちが日々聞く必要があります。
◆かつて NHK でマザーテレサの働きを紹介するドキュメンタリーが放映されました。
その中で、孤児を抱くマザーテレサの姿がありました。顔に輝きを失った幼児が、マザー
に抱かれ、頬ずりされ、語りかけられているうちに、孤児の顔は次第に輝きはじめました。
「これが人間と言う存在なのだ」と思いました。。自分の存在が認められ、受け入れられ、
理解され、大切にされてはじめて輝くかかわり、これこそ人格的な交わりです。
◆ちなみに、ヨハネの福音書における大切なキーワードは「信じる」(πιστενειν)ですが、
「知る」(γνωσκειν)という動詞もそれと密接な関係にあります。
◆詩 41 篇は詩篇第一巻の最後の詩篇です。A・バイザーという人は、第一巻の主要テー
マは「悟り」だとしています。つまり、何が「幸いなことか」を悟ること、最も大切なこ
とは何かを悟ること、しかし、その悟りは知識によって得ることはできません。神と共に
歩む経験を通して開かれる悟りです。人間の知恵によってもたらされるものではありませ
ん。神の知恵に基づく「気づき」といえます。
◆預言者ホセアは、「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光
のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨理ように、地を潤
される。
」(ホセア 6 章 3 節)と、主を知ることの大切さとその祝福を語りました。神を知
ることを、神ご自身がなによりも喜ばれるからです。
49
詩 42 篇 「渇く」
(カテゴリー: 渇望)
アーラグ
ツァーメー
‫ָע ַרג‬
‫צָ מֵ א‬
1 節「鹿が谷川の流れを慕いあえぐ‫עָ ַרג‬ように、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」
2 節「私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。‫」צָ מֵ א‬
Keyword;
‫ )עָ ַרג‬42:1,
「慕いあえぐ」(
‫ )צָ מֵ א‬42:2/63:1
「渇く」(
pant,
thirsty,
thirst,
◆詩 42 篇には多くの礼拝用語が登場していますが、その中でも渇望を表わす動詞「慕い
あえぐ」
「渇く」という二つのことばが詩篇ではじめて登場します。
「慕いあえぐ」と訳さ
れたアーラグ
‫`(עָ ַרג‬arag)も、「渇く」と訳されたツァーメー‫(צָ מֵ א‬tsame’)も、単に喉が渇
くだけでなく、たましいの強烈な渇き、切羽詰まった渇きを意味することばです。前者は
旧約で 3 回、そのうち 2 回が詩篇。後者は旧約で 10 回、詩篇では 2 回用いられています。
◆喉の「渇き」(名詞はツァーマー
‫(צָ מָ א‬tsama’) 69:21/104:11)もさることながら、たまし
「渇
い(ネフェシュ)の渇きは、人間のニーズの中でも最も根源的なものであり、切実です。
き」はどうしても満たされなければなりません。すべての人はこの「渇き」を満たすべく
生きていると言っても過言ではありません。
◆詩 42 篇の作者には、かつてエルサレムで経験した生ける神との一体感への希求があり
ます。その一体感を再び味わいたいとの強い希求があります。しかし、現実にはそれがか
なわぬことで、なおいっそう、その渇きが増幅されているのです。
◆イエスは「大いなる祭りー仮庵の祭りーの終わりの日に、立って、大声で言われました。
『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来なさい。わたしを信じる者は、聖書が言っ
ているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』」(ヨハネ
の福音書 7:38)。このイエスの叫びは、どんな大きな祭りに参加したとしても、なお満た
されない心があることを見抜いた上での招きでした。
◆イエス・キリストは「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
」
(マタイ 5:6) 「義」とは神とのかかわりを意味する関係概念です。神のすべての祝福の原
則は、義、すなわち神との親しいかかわりに飢え渇いている者にのみ注がれるということ
です。ヨハネの福音書でも「渇き」は大切なキーワードです。真実の愛に渇いていたサマ
リヤの女はその良い例です。彼女は自分の心の渇きに気づかずに、男性を求めていた女性
でした。しかし、イエスとの出会いによって自分の渇きに気づかされ、渇くことのないい
のちの水を与えてくださる方に出会ったのです。私たちもこの方とかかわることなしには、
たましいの渇きをいやすことはできません。
‫(צָ מֵ א‬tsame’)の類義語としては、シャーカク‫( ָשׁ ַקק‬shaqaq)があります。
「飢
◆ツァーメー
える、渇きがとまらない、渇く、飢え渇く」を意味します。107:9:/143:6 参照。
50
詩 43 篇 「待ち望む」
(カテゴリー: 待望・渇望)
ヤーハル
‫יָ ַחל‬
5 節「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」
Keyword; 「待ち望む」
hope, put hope, give hope
31:24/33:18, 22/38:15/39:742:5, 11/69:3/71:14/119:43, 49, 147/130:5/147:11
◆詩 42 篇と詩 43 篇は、同じリフレイン(反復句)を持つために、もともと一つの詩篇だと
言われています。そのリフレインとは以下の句です。
「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。
なぜ、私の前で(岩波訳では「私のことで」) (※) 思い乱れているのか。
神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。」
(※新改訳第二版では「なぜ、御前で思い乱れているのか」と訳されていますが、第三版では
「私の前で」と改訳されています。アル‫עַ ל‬は、upon, on, above, over, beside, near, before,
towards, against, within, from, because, by・・など、前置詞のすべてを含んでいるような意。)
◆リフレインでは、詩篇の作者がもう一人の自分―「うなだれ」
「思い乱れている」自分
―に向って呼びかけています。
「うなだれ」とは cast down 頭を垂れ、意気消沈している、
失望落胆している状態を表し、
「思い乱れている」とは woam うめき、嘆いている状態で
す。そんなたましいに対して、
「神を待ち望め。私はなおも主をほめたたえる。
」と告白し
‫(י ַָדה‬yadah)は、賛美する、感謝する、
公に告白するという意味です。しかも「なおも」オド‫`(עוֹד‬od)とは、現実の事態に反して
ています。
「ほめたたえる」と訳された原語ヤーダー
も神がすべてのことにおいて「いつくしみ深い方」だと信じ続けていく決意の表現です。
◆詩篇瞑想の目的のひとつは、自分が自分に向って励ましと希望を与えることです。私た
ちは、表と裏、信と不信、興奮している自分と醒めている自分、温かな面と冷ややかな面、
熱心さと虚しさ・・などを合わせ持っている存在です。それゆえ、私たちはしばしば自分
のたましいに向って、自分を励ますために語りかける必要があるのです。
◆「待ち望む」と訳される類義語は多くありますが(例: 詩 25 篇参照)、詩 43 篇 5 節の
ヤーハル
‫יָחַ ל‬
(yachal)は、将来になされる神の善を信じて、今日を生き抜く力をもたら
す「待ち望み」を意味することばのように思えます。作者は、過去の良かったことを「思
い起こし」ては、自分を励まそうとするのですが、過去と現実のギャップを知ることで、
より辛くなっていく自分に気づきはじめているように思います。
「待ち望み」のプロセス
としてそこはだれもが通るところかもしれませんが、どんなに良かりし過去を顧みたとて、
今、生きる原動力とはなりません。人は将来に希望を持つことによってはじめて今の時を
意味あることとして、創造的に生きることのできる存在です。つまり、明日を信じて生き
ることのできる人は、今日を生き抜くことができるということです。「神を待ち望め。私
はなおも神をほめたたえる。」との告白は、生きることに新しい喜びと力を与えるます。
51
詩 44 篇 「~しない」
(カテゴリー: 誓約)
ロ ー
‫א‬
17 節「これらのことすべてが私たちを襲いました。しかし私たちはあなたを忘れません
でした。またあなたの契約を無にしませんでした。」
Keyword; 「~しない、 ~せず」 not (動詞ではなく、動詞を否定する副詞)
◆消極的表現を用いることで、より積極的な意志を表すことは、詩篇の常道です。第 1 篇
の冒頭にも、「幸いなことよ。悪者のはかりごとに<歩まず>、罪人の道に<立たず>、
あざける者の座に<着かなかった>、その人。」(詩 1 篇 1 節)という消極的表現が登場し
ます。それは次に来る「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ」という積極
的表現を、より強く引き立たせるためです。
◆詩 44 篇 17~18 節にも、
「忘れない」
「無にしない」「たじろがない」
「それない」との
消極的表現が見られます。これまで、詩篇の礼拝用語として、むしろ、積極的な表現をピ
ックアップしてきました。詩篇の中では、積極的な礼拝用語に比べるならば、その消極的
表現は決して多くはありません。しかしながら、消極的表現を使いながら神との強いかか
わりの絆を結ぼうとする意志を感じさせられます。そのことを心に留めたいと思います。
◆詩篇における礼拝用語の消極的表現を探してみましょう。
「ゆるぎません」(16:8/57:7/108:1)
「ゆるがされません」(30:6/62:2,6)
「たじろぎません」(44:18)
「恐れません」―わざわいをー(23:4/27:3/46:2/56:4)
「動じません」(27:3)
「よろけません」(17:5)
「忘れません」(44:17/119:61,93,109,141,153,176)
「無にしません」-契約をー(44:17)
「裏切りません」-神をー(80:18)
「捨てません」-主の戒めをー(119:87)
「離れません」-主の教えからー(119:102,157)
「それません」―主の道から、みおしえからー(44:18/119:51)
「恥じることがありません」-主の仰せをー(119:6)
◆もし、上記のような消極的表現を裏に返すならば、
「ゆらぐ」「ゆるがされる」
「たじろ
ぐ」
「恐れる」
「動じる」「よろける」「忘れる」
「無にする」
「裏切る」
「捨てる」「離れる」
「それる」
「恥じる」となり、神との関係はきわめて罪深いものとなります。しかし、多
くの詩篇の作者たちは、それらをはっきりと否定することによって、神とのゆるぎない関
係を築こうとしたのです。
52
詩 45 篇 「わき立つ」
(カテゴリー: 感謝・賛美)
ラーハシュ
‫ָר ַחשׁ‬
1節「私の心はすばらしいことばでわき立っている。」(新改訳)
「わたしの心はうるわしい言葉であふれる。
」(口語訳)
「心に湧き出る美しい言葉」(新共同訳)
「私の心は、美しいことを思って、燃え立っている。
」
My heart is overflowing with a good theme. (NKJV)
Keyword; 「わき立つ」「あふれる」 be stirred by 旧約聖書では詩篇45:1のみ
‫( ָרחַ שׁ‬rachash)は「わき立つ、あふれ出る、わき出る、燃え立つ、動きが止
◆ラーハシュ
まらない、沸騰している」という意味です。旧約では詩篇45:1節のみの動詞にもかかわら
ず、神を礼拝する者にとってきわめて重要な動詞だと信じます。というのも、私たちの心
にあるものが口から必ず出でくるからです。この詩篇の作者の心は、神とのかかわりにお
いて、すばらしい言葉で、あるいは、美しい麗しいことで燃え立っています。その心から
あふれ出たものがこの詩篇です。そして、この詩篇の「すばらしい、美しいこと」とは、
王であり、かつ、神であられる方とその花嫁となる王妃との婚姻の喜びです。それを作者
は預言的に語っているのです。
◆「あなた」という人称代名詞で表わされるのは、王であり、神である方です。この方は
御子キリストであることが、この詩篇を引用しているヘブル書 1 章で明らかにしています。
◆注目したいことは、
「すばらしいことば」が原文では
‫( ָדּבָ ר טוב‬ダーバール、トーヴ)
となっていて、
「良い」(トーヴ)と「ことば、出来事、事柄」(ダーバール)とが結びついて
います。
NKJV 訳では with a good theme、NIV 訳では by a noble theme と訳しています。
つまり、心にわき立つことばが「一つの良い主題をもって、気品ある主題をもって」語ら
れるということです。もし作者が、ある思いを、あふれ出る思いやことばを脈絡なく混沌
としたまま口から出すならば、だれも理解することができません。他者にも理解でき、他
者の徳を高めるためには、知性によって整理し、ことばを選択することが必要です。その
ためには訓練が必要です。即興的に詩を作ったり、曲を演奏したり、作ったりすることが
できるその陰には、常日頃からの多くの備えがあると言われます。そうした備えがあって
はじめて、その場限りの即興的なものであっても、すばらしい統一をもった独創的な作品
を、直観的に、インスピレーションを与えられて造ることができるのです。
◆このことはキリスト者である私たちにも学ぶべきところが多いと信じます。私たちが神
の前に祈る祈りや賛美、あるいは告白、説教が、ある一つの主題を持って美しく語られる
とき、それは自分だけでなく、それを聞く者の徳を高めます。互いに徳を高め合うために、
私たちは「キリストのことば」を心のうちに、いつも豊かに宿るようにしていなければな
りません。それは日々の「みことばの瞑想」によってもたらされると信じます。
53
詩 46 篇 「やめる、 静まる」
(カテゴリー: 信頼)
ラーファー
‫ָר פָ ה‬
10 節「やめよ。私が神であることを知れ。」(新改訳)
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(口語訳)
「力を捨てよ、知れ。わたしは神。」(新共同訳)
「心を静めて・・知れ。」(関根訳)
Be still, and know that I am God (NKJV)
"Stop fighting," he says, "and know that I am God, (TEV)
Keyword; 「やめる、静まる」
be still, stop, 37:8/46:10/138:8
◆詩 46 篇には二つの命令があります。この命令は神の招きと言っても良いかもしれませ
ん。いつの時代においても、神の子どもに対する重要な神の招きです。一つは 8 節の「来
て、見よ。」、もう一つは 10 節の「やめよ。知れ」です。この二つは密接なつながりを持
‫(חָ זָ ה‬chazah)という言葉で
っています。まず、「来て」「見る」こと。「見る」はハーザー
す。多くの人々には隠されていることを霊の目で見ることを意味します。そのための内実
‫( ָרפָ ה‬raphah)、
‫(י ַָדע‬yada`)こと」です。
◆「やめよ」と訳されたラーファー‫( ָרפָ ה‬raphah)は「失う、消え失せる、なえる、弱くす
は、
「静まって
神を知る
る、静まる、捨てる、手を引く、手放す、猶予を与える、降伏する、抵抗するのをやめる」
といった意味があります。忙しく、落ち着きがなく、止まることを知らない、活動に満ち
た現代社会においては、「静まる」ことは決して容易ではありません。ひとたび「忙しさ
というブラックホール」の中に吸い込まれるならば、そこから脱出することは容易ではあ
りません。
◆神を信じる者にとって、
「静まる」ことは、決して消極的なことではなく、むしろ神と
より親密なかかわり、より深いかかわりを持つこと積極的信頼を意味します。ゆっくりと
した時間の中で過ごす沈黙は、私たちのたましいの刃を研ぎ澄ませ、神から来るかすかな
合図に対しても敏感にしてくれます。
◆「ゆっくり・ゆったり、ゆたかに」という「三 ゆ 」の心の構えが必要です。それは、神
の召しを実現させる心の構えです。しかもそれは訓練なしには育ちません。
「静まること」
「沈黙すること」「止まること」
「頑張ることをやめること」「力を捨てること」によって
神とのより深い交わりが保証されます。その意味で「静まり」は「深まり」と同義です。
◆預言者イザヤは警告しています。「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せら
れる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あな
たがたは力を得る。
』しかし、あなたがたは、これを望まなかった。」(30 章 15 節)と。そ
れゆえ、自らの生活をシンプルなものとし、
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」
(口語訳)という神の招き(命令)を新たな思いで見直したいものです
54
詩 47 篇 「叫ぶ」
(カテゴリー: 感謝・賛美)
ルーア
ַ‫רוּע‬
1 節「すべての国々の民よ・・・・喜びの声をあげて神に叫べ。」(新改訳)
「すべての民よ・・・神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。」(新共同訳)
Keyword; 「叫ぶ、喜び叫ぶ」shout, shout of joy,
shout joyfully, call together,
rejoice
41:11/47:1/ 60:8/66:1/81:1/95:2/98:4, 6/100:1/108:9
◆詩46篇では、神の前に静まることが強調されましたが、詩47篇では一変して「喜びの声
をあげて叫べ」と呼びかけています。この「叫び」は嘆きの叫びでなく、勝利の叫びです。
◆喜びの声を上げて、神に「叫べ」と訳されたルーア
ַ‫(רוּע‬rua`)は、旧約では45回、詩篇
では12回使われています。「喜び」あるいは「喜びの声」を意味する名詞のリンナー
‫( ִרנָּה‬rinnah)を伴って「大声を上げる、ときの声を上げる、喜びの叫びを上げる、喜び叫
ぶ」という意味があります。勝利の喜びの叫びです。しかも、神の民が共に叫ぶところに
特徴があります。
◆ちなみに、名詞のリンナー
‫( ִרנָּה‬rinnah)は詩篇の17:1/30:5/42:4/47:1/61:1/88:2/105:43/
106:44/107:22/118:15/119:169/126:2, 5, 6/142:6でも使われています。
◆詩47篇は、終末における主の再臨による勝利(千年王国の到来)を預言的に歌っています。
この時には、イスラエルは全世界の支配国となり(3節)、神から約束されたカナンの地を完
全に受け継ぎます。しかも、神によって立てられた世界中の「地の盾」と言われる国々の
指導者たちが、アブラハムの神の民として神を礼拝するためにエルサレムに集められます。
まことに、いと高き主は、全地の王となるのです。
◆ここ近年、1990年代以降、聖霊の導きによってこうした「預言的賛美」が教会の中で多
く作られ歌われるようになりました。それゆえ、私たちは正しい理解をもって、スケール
の大きな「預言的賛美」を歌う必要があります。でなければ、神に向ってのすべてのシャ
ウトの内実は蛻(もぬけ)のからです。
◆旧約聖書における喜びの叫び(シャウト)ルーア
ַ‫(רוּע‬rua`)は歴史の終末におけるキリス
トの再臨による主の勝利と深く結び付いていることを知ることは有益です。
「天よ。喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから。地のどん底よ。喜び叫べ。山々よ。
喜びの歌声をあげよ。林とそのすべての木も。主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、
その栄光を現わされるからだ。」(イザヤ44:23)
「シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。
エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。」(ゼパニヤ3:14)
「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたの
ところに来られる。この方は正しい方で救いを賜わり、柔和でろばに乗られる。それも、
雌ろばの子の子ろばに。」(ゼカリヤ9:9)
55
詩 48 篇 「思い巡らす」
(カテゴリー: 祈り・瞑想)
ダーマー
‫ָדּמָ ה‬
9 節「あなたの恵みを思い巡らしました。」(新改訳)
「あなたの慈しみを思い描く」(新共同訳)
Keyword; 「思う、思い巡らす」 think
◆「思い巡らす、思う」と訳されたダーマー
‫( ָדּמָ ה‬damah)は「考える、比べる、なぞら
える。たとえを語る」といった意味をもつ言葉です。新共同訳の「思い描く」という訳は、
このことばの本意を突いているように思います。
◆「味を描く」という表現を聞いたことがあります。ある味とある味とを合わせると、こ
ういう味になるということを、あらかじめ頭の中で想像する能力のようです。音楽の世界
でも偉大音楽家はみな「音を描ける」人たちであったと考えられます。彼らは楽器と楽器
との組み合わせるとこんな響き、こんな感じなるという能力―つまり、音を描くことがで
きたのです。
◆詩 48 篇の作者は、神の恵み、神の慈しみーloving-kindness/ steadfast love/ constant love
―を「思い描く」能力を持っていたようです。この能力とはどんな能力なのでしょうか。
主イエス・キリストこそ、神の恵み、神の確かな愛、変わることのない愛を思い描き、多
くのたとえで語りました。使徒パウロも、神の愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」を描くこ
とのできた人です。そのパウロが「神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、
私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働
きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(コリント第一、15章
10節)と述べています。
◆神の恵みがいかなるものかということだけでなく、それがあらゆる領域にどのような形
で現わされるかを描くことのできた人です。そしていつも人々に神の恵みを説くことので
きた人です。神の恵みこそ人を変える力があることを、彼自身が経験したからです。熱心
に律法を学び、律法に厳格に生きてきた彼は、律法には人を新しくする力がないことを知
らされたのです。
(1) 一人の例外もなく、すべての人を救う神の恵み
(2) 高価な神の恵み、しかも、無代価
(3) あふれ出す神の恵みー惜しみなく施す
(4) 人々の間に愛のかかわりをもたらす神の恵み
―そんな神の恵み、いつくしみを、作者のように思い描ける者とされたいものです。
◆瞑想用語の類義語としては、‫(בִּ ין‬bin) 50:22/ ‫(הָ גָה‬hagah)1:2, /63:5,6 /77:12/
77:3, 6, 12/106:7/109:16/
‫(זָ כַר‬zakar)
‫(חָ ַשׁב‬chashab)21:11/41:7/73:16/77:/119:59 ַ‫( ִשׂיח‬siach)77:3, 6,
12/119:15, 23/143:5/145:5 があります。特に、詩77篇は瞑想用語の宝庫です。
56
詩 49 篇 「聞く」
(カテゴリー: 従順)
シャーマー
アーザン
‫ָשׁ ַמע‬
‫אָזַ ן‬
1 節「すべての国々の民よ。これを聞け。世界に住むすべての者よ。耳を傾けよ。」
‫( ָשׁמַ ע‬shama`)
‫’(אָזַ ן‬azan)
Keyword; 「聞く、耳を傾ける」 heard, attended, listen
‫ָשׁמַ ע‬
‫אָזַ ן‬
34:2, 11/ 48:8/50:7/66:16//81:8/85:8/95:7/103:20/
5:1/17:1, 6/31:2/39:12/45:10/40:1/49:4/54:2/71:2/80:1/84:8/88:2/102:2/116:2
◆詩 49 篇 1 節は、最初の行で述べられたことが、次の行では他のことばで繰り返される
「同義的並行法(パラレリズム)」です。従って、「聞く」シャーマー
を傾ける」アーザン
‫( ָשׁמַ ע‬shama`)と「耳
‫’(אָזַ ן‬azan)とは同義語です。
◆聖書において、
「聞く」ことは「信じる」こと、
「従う」ことでもあります。
「聞き従う」
こと、これがシャーマー
‫( ָשׁמַ ע‬shama`)です。アーザン‫’(אָזַ ן‬azan)は、「注意深く聞く」、
「傾聴する」
「吟味する」という意味です。ちなみに、預言者サムエルという名前は、
「聞
‫שָמַ ע‬
ׁ ということばと、神を表す「エル」 ‫אֵ ל‬ということばの合成語がサムエル
‫ ְשׁמוּאֵ ל‬です。つまり、サムエルとは「神が聞かれた」という意味になります。
く」
◆私たちが神の御声を聞く場合も、また、神が私たちの祈りの声を聞かれる場に合も、同
じくシャーマー
‫( ָשׁמַ ע‬shama`)が使われます。詩篇の中では後者の方が多いようです。
「耳を傾けよ」と呼びかけているのは、知恵を語
◆この詩 49 篇において、作者が「聞け」
り、英知を告げ、格言(たとえ)に耳を傾け、謎を解き明かそうとしているからです。それ
は人間の普遍的問題である「死」という現実に対するものです。作者はその現実に対して、
いわば、「悟りを得よ」と呼びかけているのです。そして、その悟るべき内実とは、私た
ちは「よみ」(死者が終末のさばきを待つ場所)に行くことが定められていること。よみか
らたましいを買い戻すことは不可能であること、しかし、神だけがたましいをよみから買
い戻して下さる唯一の方であるということです(15 節)。それゆえ、神の知恵に耳を傾け、
聞いて悟りを得なければ、人がたとえ栄華の中にあっても、滅び失せる獣に等しいのです。
◆私たちが、常日頃、何を聞くべきか、何に注意を向けているべきか問われます。イエス・
キリストは神の国の真理をたとえ話で語りましたが、そのとき、「耳のある者は聞きなさ
い。」と言われました。ヨハネ黙示録でも、七つの教会に対してそれぞれ「耳のある者は
御霊が言われることを聞きなさい。」と記しています。いずれも、
「聞く」とは、よく注意
して、真理を悟ることを意味しています。
◆神が私たちの声に耳を傾けて、聞いて下さいます。と同時に、私たちも神の知恵、神の
英知、格言と謎に、注意深く耳を傾け、吟味する必要があるのはないかと思います。
57
詩 50 篇 「ささげる」
(カテゴリー: 賛美・感謝)
ザーヴァフ
‫ָז ַבח‬
14 節「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。」
23 節「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。」
Keyword; 「ささげる」 offer,
sacrifice,
◆「ささげる」と訳されたザーヴァフ
4:5/27:6/50:14, 23/54:6/107:22/116:17
‫(זָ בַ ח‬zabach)は、神へのささげものとして「奉納す
る、供える」ことを意味します。旧約においては、神へのいけにえをささげることなしに
神に近づくことはできませんでした。そのために、神は礼拝における五つのいけにえの規
定を定められました。
◆モーセの幕屋においては、強制的ないけにえとして、
「罪過のいけにえ」、
「罪のいけに
え」をささげることで神に近づくことができます。他に、自発的なささげものとして、
「和
解のいけにえ」、
「穀物のささげもの」、
「全焼のいけにえ」があります。
◆ダビデの幕屋では、動物のいけにえに代わって、「義のいけにえ」、「喜びのいけにえ」
「感謝のいけにえ」
「従順のいけにえ」
「砕かれた悔いた心のいけにえ」という精神的・霊
的ないけにえが重視されたました。詩篇では後者のいけにえが目立ちます。
◆詩 50 篇では、神がご自分の民を全地から呼び寄せ、天の法廷で訴えています。それは
「感謝のいけにえを神にささげよ」というものです。詩篇においては、しばしば「感謝と
賛美を携え、主の御前に来たれ」と呼びかけていますが、神の尽きることのない恵み、変
わることのない神の愛に対して、私たちが最初にしなければならないことは感謝すること
です。礼拝することも、賛美することも、献金することも、神と人とに奉仕することも、
さまざまな訓練を受けることも、すべては「感謝のわざの現われ」と言えるからです。
◆私たちは往々にして「のど元過ぎれば熱さ忘れる」で、苦しい時に神の助けを受けた恩
も、楽になれば忘れてしまうのが常です。なんと身勝手かと思ってしまいます。イエス・
キリストがある村で、ツァラートで悩む 10 人の者に出会ったとき、彼らは声を張り上げ
て「イエスさま、どうぞあわれんでください」と嘆願しました(ルカの福音書 17 章 11~
19 節)。 彼らは祭司に自分を見せるように言われて、そこに行く途中で全員癒されまし
た。ところが、自分がいやされたことが分かって、引き返してイエスの足もとにひれ伏し
て感謝した人はなんとたった一人でした。しかもその人はサマリヤ人。このことを考えて
も、感謝することが決して容易ではないことが分かります。それは人事ではなく、自分自
身にも言い聞かせなければならないことです。
◆それゆえに 23 節の「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう」という勧
告はとても重要です。イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」の中で最初に来る嘆願
は「御名をあがめさせたまえ」ですが、その嘆願の内実は神に感謝をささげることです。
58
詩 51 篇 「高らかに歌う」「誉れを告げる」
(カテゴリー: 賛美・感謝)
ラーナン
ナーガド
‫ָר ַנן‬
‫נָ גַ ד‬
14 節「そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌う‫( ָרנַן‬ranan)でしょう。」
15 節「そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げる‫( ָנגַד‬nagad)でしょう。」
Keyword; 「高らかに歌う、喜び歌う」 sing, praise, acclaim, exult,
5:11/20:5/
32:11/33:1/35:27/59:16/63:7/67:4/71:23/81:1/84:2/89:12/90:14/92:4/95:1/96:12/132:16/
◆詩 51 篇の 14, 15 節は嘆願と結びついた「賛美の誓い」のことばです。その特徴は、
「~
してください。そうすれば、~します(I will)。
」という構文です。この「賛美の誓い」は
詩篇の中で多く見られます。ちなみに、詩 51 篇の 14 節、15 節では、
「神よ。救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。
そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。」(14 節)
「主よ。わたしのくちびるを開いてください。
そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。
」(15 節)
◆ダビデは自分の罪が赦されるならば、声高らかに主の義(救い)を歌いますと誓っていま
す。ダビデの賛美は彼が歌うことが好きだったから、賛美しているのではありません。賛
美の誓い(決意)をしたゆえに、どんなときにも主を賛美する者となったのです。この点が
重要です。歌の好きな人は多くいます。しかし、ダビデのように自分の生き方と抵触した
歌―つまり、自分の歌がそのまま自分の生き方とかかわるような歌―を歌う者は多くいま
せん。ダビデのように、舌は主にささげられ、口を開けば主の誉れを告げる者となること
こそ、主が喜ばれることです。
◆14 節の「歌う」と訳されたラーナン
‫( ָר ַנן‬ranan)は「声高らかに歌う、喜び歌う、声高
く歌う、喜びの歌を高く上げる、喜びの声を上げる」など、
「喜び」が基調にある歌を意
「喜び」(名詞)サーソン
味します。8 節と 12 節では、
‫( ָשׂשׂוֹן‬sason)で満たし、救いの「喜
び」(同)を返して下さいとも祈っています。
◆「歌う」という動詞の類義語は多くあります。①一般的な「歌う」という意味のシール
‫( ִשׁיר‬shir)、②派手に、にぎやかな、なりふりかまわぬハーラル‫(הָ לַל‬halal)、③静まっ
て賛美するバーラク ‫(בָ רך‬barak)、④大きな声を上げて歌うシェヴァフ‫שׁבַ ח‬
ֵ (shabach)、
⑤楽器を伴うザーマル‫(זָ מַ ר‬zamar)、⑥感謝をこめて手を上げて賛美するヤーダー
‫(י ַָדה‬yadah)、⑦主の名を高く上げ、称賛しあがめるルーム‫(רוּם‬rum)などがあります。
⑧ナーガド‫( ָנגַד‬nagad)はすでに詩篇 38 篇 18 節で取り上げました。そこでは自分の咎を
「言い表す」という意味で使われていましたが、詩 51 篇では神の誉れを「告げる」とい
う意味で使われています。目が開かれることも、耳が開かれることも、くちびるが開かれ
ることも、心が開かれることも、すべては神のみわざです。詩 40 篇の作者は「主は、私
の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。
」(3 節)と告白しています。
59
詩 52 篇 「拠り頼む」
(カテゴリー: 信頼)
バータフ
‫בָּ טַ ח‬
7 節「・・神を力とせず、おのれの豊かな富にたより、・・・
8 節「しかし、この私は、・・世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。」
Keyword;
「拠り頼む」
trust
◆すでに詩 21 篇において、
「信頼します」ということばでバータフ
‫( בָּ טַ ח‬batach)を取り
上げましたが、詩 52 篇でも取り上げたいと思います。ここでは、
「神を力とせず、おの
れの豊かな富に拠り頼む者」と「神の恵みに拠り頼む者」とが対象的に記されています。
人には何を頼みとして生きているのか、それが明白になるときが必ず来ます。
◆ヘブル語には神の愛を表す言葉(名詞)としてヘセド
‫(חֶ סֶ ד‬chesed)とアハヴァー ‫אַהֲ בָ ה‬
(’ahabah)があります。ヘセドはイスラエルへの神の契約の愛を意味し、アハヴァーはイス
ラエルへの神の選びの愛を表します。前者のヘセド
‫(חֶ סֶ ד‬chesed)は、詩篇では「恵み」(新
「慈しみ」(新共同訳)、
「慈しみ」(口語訳)と訳され、英語では loving-kindness, mercy,
改訳)、
steadfast love, constans love とも訳されます。それは、神の確かな愛であり、不動、堅固、
不変、執拗さを含んだ愛です。ちなみに、一方のアハヴァー
‫’(אַהֲ בָ ה‬ahabah)は、神のイ
スラエルに対する無条件的な愛を意味しています。
◆この詩 52 篇はダビデの生涯において最も孤独と弱さを感じた時ではないかと思います。
アヒメレクに対しても自分の生存と保障のために「嘘」を言わなければならないほど、自
分のみじめな姿をさらけ出しています。だれも共感する者もなく、人生の落ち目にあるダ
ビデ。しかし、そうした状況の中でダビデが「神の恵みはいつもあるのだ」(1 節後半)、
「私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む」(8 節後半)と告白した姿に感動を覚えます。
◆興味深いことに、1 節「なぜ、おまえは悪を誇るのか。勇士よ。神の恵みはいつもある
のだ」を、関根訳では「強き者よ。何故君は悪を誇るのか。神の聖徒に向かって、何故い
つも」と訳されています。「神の恵み」が「神の聖徒」となっていますが、「聖徒」とは、
ハーシード
‫(חָ ִסיד‬chasid)、つまり神の恵みに生きる敬虔な者という意味です。なぜか、
神の恵みに生きる聖徒たちの周りには、彼らを脅かす者たちが存在するのが世の常のよう
です。そのような中で徹底した神の「恵み」であるヘセド
‫(חֶ סֶ ד‬chesed)―loving-kindness
それは神が goodness であるがゆえに注がれる神の不変の愛―に、
「いつも」(all the day)、
「たえず」(continually)、「どんなときにも」(all the time)、注がれていることを信じて、
‫(בָ טַ ח‬batach)ことはすばらしいことです。また、「神の恵みに拠り頼
それに「拠り頼む」
「神の家にとどまる」(新共同訳 10 節)ことと同義です。
む」(新改訳 8 節)ことは、
◆人を変えていく力は神の恵み
‫(חֶ סֶ ד‬chesed)です。律法やがんばりの世界ではなく、変
わることのない神の一方的な愛に基づく守りと祝福である「恵み」を、信じ、感謝して、
そのことを人に語り、あかしして行きたいと思わされます。
60
詩 54 篇 「進んでささげる」
(カテゴリー: 感謝)
ナーダヴ
‫ָנ ַדב‬
6 節「私は進んでささげる‫נ ַָדב‬ささげ物をもって、あなたにいけにえをささげます。‫」זָ בַ ח‬
(口語訳「喜んで」、新共同訳「自ら進んで」)
Keyword;「自ら進んでささげる、喜んでささげる」 freely sacrifice, a free-will offering
◆「進んでささげ物をする」と訳されたナーダヴ
‫( נ ַָדב‬nadav)は「喜んでする、惜しげな
くささげる、真心よりの供え物をささげる、自ら進んでささげる、喜んでささげる」とい
った自由意志を表す動詞です。つまり、一切の義務や強制からではなく、あくまでも自発
性が重んじられた自由な意思に基づく行為を表すことばです。
◆詩 54 篇ではダビデがそうした自発的なささげものをする理由について記しています。
7 節がそうです。「神は、すべての苦難から私を救い出し、私の目が私の敵をながめるよ
うにしてくださったからです。
」・・・
「私の目が敵をながめるようにしてくださった」と
は、理不尽な敵、不条理な敵さえも、自分の成長にとって愛すべき敵となった意味です。
ダビデは王となるべきサムエルから聞かされた時から、彼の王となるべく資質を整えるた
めの神の訓練が始まりした。タビデは 10 余年の荒野での逃亡生活の中で、恩を仇で返さ
れたり、裏切られたりといった経験を何度もしましたが、それは神が「いつくしみ」をも
って彼を成長させるためでした。そうした訓練はそのときには決して喜ばしいものではな
く、かえって悲しく思われるものですが、後になると平安の義の実を結ばせてくれます。
◆特に、神との信頼の絆を強めることになります。
“The Power of Your Love”
’という賛
美があります。その歌には「わが心、造り変えたまえ、わがうちにおられる主よ。わが弱
さ、取り去りたまえ・・・」とありますが、
「わが弱さ」とは神をどこまでも信頼するこ
とのできない弱さを意味しています。神に信頼し切れない自分の「弱さ」を取り去って、
どこまでも神を信頼する心に造り変えて下さいという祈りの歌です。ダビデに対する荒野
の放浪経験は神への信頼の絆を強めると共に、自分と運命を共にする同胞たちとの信頼関
係を築くためのものでした。そのために神は敵さえも用いられることをダビデは知るよう
になりました。それが、
「私の目が敵をながめるようにしてくださった」という意味です。
◆ダビデは主がどういうお方かを知りました。それは「いつくしみ深い」ということです。
トーヴ
‫(טוֹב‬tov)な方、良い方、good な方。良いことしかできない方、私にとって良いこ
としかなさらない方だという告白です。このことを知ってダビデはますます自ら進んで神
によいものをささげる者となったのです。これは全面的信頼を表すささげものなのです。
◆ちなみに、大祭司アロンの長子の名は「ナーダヴ
‫(נ ַָדב‬nadav)」です。アロンはその子
を心から喜んで神に感謝してささげたに違いありません。しかし、彼は弟のアビブと共に
規定とは異なる火をささげたことにより、神の怒りにふれて死にました。
61
詩 55 篇(1) 「うめく」
(カテゴリー: 渇望)
シアッハ
ַ‫שׂיח‬
17 節「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。」
Keyword;
「呻く」
in distress, mock, muse, 他に、
meditate,
consider
55:17/69:12/77:3, 6, 12/105:2/119:15, 23, 27, 48, 78, 148/143:5/145:5
◆「うめく(呻く)」と訳されたシアッハ ַ‫(שׂיח‬siach)は、ザーハル‫(זָ כַ ר‬zakar)、ハーシャヴ
‫(חָ שׁב‬chashab)、ハーガー‫(הָ גָה‬hagah)などと共に詩篇における瞑想用語の一つです。
シアツハ ַ‫(שׂיח‬siach)は本来、「歌う」という意味ですが、
「思いを潜めて、自分と語り合
い、静かに考える、神を深く思う」の他に、
「問う、嘆きうめく」という意味もあります。
◆「うめき」は祈りの中でも、
「最も雄弁な祈り」として神に届き、神を動かす祈りです。
たとえば、預言者サムエルを産んだ母ハンナがそうです。彼女は心の苦悩を主の前に注ぎ
出しました。その悩みは余りにも切実で、言葉にならず、うめきでした。しかしこのハン
ナのうめきの祈りが預言者サムエルを生み出したのです。サムエル第一、1 章参照。
◆詩 55 篇の作者(ダビデ)は、
「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく」と言っています。
「夕、
朝、真昼」とは一日中という意味です。押しつぶされるような状況の中で(おそらく、ア
ブシャロムのクーデターによる都落ちの出来事)、ダビデは嘆き、うめくことしかできま
せんでした。あまりの辛さに、
「ああ、私に鳩の翼があったなら、そうしたら飛び去って
休むものを、ああ、私は遠くの方へのがれ去り、荒野の中に宿りたい。あらしとはやてを
避けて、私の逃れ場に急ぎたい。
」(6~8 節)との現実逃避の希求もみられるほどです。
◆私たちもしばしば、あまりの辛さに、神を賛美することも、神に祈ることもできない。
いっそ、神からも離れてしまいたいと思うような時があります。しかし、この詩篇に教訓
(マスキール)があるとすれば、それは「たとえ、呻くことしかできなくても、神はその呻
きを聞いて下さる方だということ」です。
◆ローマ人への手紙 8 章で使徒パウロは次のようなことを書いています。
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったら
よいのかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちの
ためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知って
おられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださ
るからです。
」(26~27 節)と述べています。
◆使徒パウロはかつて厳格なパリサイ人であり、すばらしい祈りをすることのできる人でした。
また、日々怠ることなく祈っていた人です。そのパウロが「私たちは、どのように祈ったらよ
いのかわからないのです」と言っているのです。しかし、御霊のとりなしにより、結果として、
「神がすべてのことを働かせて益として下さること」を経験したのです。私たちの内におられ
る御霊自身がうめきをもって私たちのために祈っておられることを感謝したいと思います。
62
詩 55 篇(2) 「ゆだねる」
(カテゴリー: 信頼)
シャーラク
‫ָשׁלַךּ‬
22 節「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたのことを心配してくださる。」(新改訳)
「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えて下さる。」(新共同訳)
Keyword; 「ゆだねます」 cast, commit, unload
‫(פָּ ַקד‬paqad)が
使われていました。しかし、詩 54 篇 22 節の「ゆだねる」はシャーラク‫שׁלַךּ‬
ָ (shalak)が
◆詩 31 篇 5 節でも「ゆだねる」を取り上げましたが、そこではパーカド
使われています。
‫( ָשׁלַךּ‬shalak)は「投げる、投げ与える、渡す、見離す、あずける」と言った
◆シャーラク
意味合いがあります。受動態では「渡される、あずけられる、ゆだねられる」という表現
となります。詩 22 篇 9, 10 節では「あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に
拠り頼ませた方。生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。
」とあります。つ
まり、神に依存するようにされたという意味です。
◆自分自身を神に「投げ与える、明け渡す、自分に見切りをつけて、神に自分の身をあず
けて、任せる」ーこれがシャーラク
‫( ָשׁלַךּ‬shalak)「ゆだねる」ということばの意味です。
◆神の御子イエス・キリストは御父に自分の一切をゆだねておられました。
「ののしられ
ても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任
せになりました。」(ペテロ第一、2 章 23 節)とあるとおりです。
◆私たちも、主イエスと同様に、神にゆだねること、神に任せることを学ばなければなら
ないと思います。自分の重荷をー使命、働き、責任、思い煩いなどーすべて主にゆだねな
ければなりません。主イエス・キリストは言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負
っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わ
たしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたし
から学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、
わたしの荷は軽いからです。」(マタイの福音書 11 章 28~30 節)
このイエスの招きの背
景には神の御国の福音を宣べ伝えたとしても、聞く者は少ないという現実があります。実
は、その現実の中で疲れ切ってしまう働き人に対する招きのことばなのです。
◆信頼がなければ、自分自身を明け渡すことなどできません。ある老婦人
くびきを負う牛
が将来の不安を抱えていましたが、浪費癖があり、自分では金銭の管理
ができずに、いつも年金の振り込まれる二週間前にはお金がなくなって
しまいました。しかし、あることを契機に、その管理をゆだねるように
なりました。そのことにより、お金がなくなる心配がなくなり、その婦人
は「以前よりも、安心して暮らすことができるようになった。
」と言うようになりました。
「ゆだねる」というのは、このように安心につながるのです。
63
詩 56 篇 「(誓いを)果たす」
(カテゴリー: 誓約)
シャーレム
‫ָשׁ לֵ ם‬
12 節「神よ。あなたへの誓いは、私の上にあります。」(新改訳)
「神よ。わたしがあなたに立てた誓いは果たさなければなりません。」(口語訳)
「神よ、あなたに誓ったとおり、感謝の献げ物をささげます。」(新共同訳)
「神よわれなんぢにたてし誓いはわれをまとへり、」(文語訳)
「神様。私が立てた誓いは果たします。」(尾山訳)
Keyword;「果たす」 complete, perfect, fulfill,
perform a vow,
◆この 12 節の訳を見ると実に多様です。その原因は 12 節の前半の原文は、「私の上に、
神よ、あなたへの誓い」となっていて動詞がありません。後半にシャーレム
‫( ָשׁלֵם‬shalem)
という一つの動詞があるだけです。ヘブル詩の特徴はパラレリズムですから、この場合で
は、前半の部分を後の部分で説明する形を取っています。「(感謝のささげ物を)ささげる」
と訳されたシャーレム
‫( ָשׁלֵם‬shalem)は、「終る、完成する、平安を得る、ささげる、果た
す、満たす」という意味です。
「誓いが私の上に」(新改訳)「誓いはわれをまとい」(文語
訳)と訳されていますが、口語訳、尾山訳では、前節の「誓い」を「終る、完成する、果
たす」という意味で、
「神様、私が立てた誓いは果たします。
」と訳しています。
◆いずれにしても、誓いを果たすということは神に対する礼拝者としての大切な資質の一
つです。なぜなら、誓いは自発的なものだからです。結婚式を挙げる新郎新婦は、公の場
において、神と人との前で誓い合いますが、その誓いはお二人の生涯をとおして、健やか
なる時も、病める時も、果たしていくという強い意志が伴わなければなりません。
◆詩 56 篇の作者は、絶えず自分を踏みつける者が多くいたとしても、自分がかつて神に
立てた誓いーその内実は「感謝のいけにえをささげるという誓い」―を必ず果たすべきこ
とを忘れることはありませんでした。その誓いがいつも彼の上にあり、彼をおおっていた
と言えます。
◆詩篇の中には、他にも「誓いを果たすこと」を重んじる箇所がいくつかあります。
詩 15 篇 4 節「・・損になっても立てた誓いは変えない。」
詩 132 篇 2 節「彼(ダビデ)主に誓い
‫( ָשׁבַ ע‬shaba`)、ヤコブの全能者に誓いを立てまし
た。
・・全能者のために御住まいを見いだすまでは。」
詩 50 篇 14 節「あなたの誓いをいと高き方に果たせ
‫」。 ָשׁלֵם‬22:25/65:1
詩 61 篇 8 節 「こうして、
・・私の誓いを日ごとに果たしましょう。
」
詩 66 篇 13 節 「私は全焼のいけにえを携えて、・・行き、私の誓いを果たしましょう。
」
詩 76 篇 11 節「あなた方の神、主に、誓いを立て、それを果たせ。
」
詩 114 篇 14, 18 節「私は自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいるところで。」
64
詩 57 篇 「ゆるがない、定まる」
(カテゴリー:誓約)
クーン
‫כּוּן‬
7 節「神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い。ほめ歌をうたい
ましょう。
」(新改訳)
「神よ。私の心は定まりました。
・・私は歌い、かつほめたたえます。」(口語訳)
「神よ。わたしは心を確かにして、あなたに賛美の歌を歌います。
」(新共同訳)
Keyword;
「確かにする」
steadfast, establish, ready,
‫(כּוּן‬kun)は「堅くする、堅く定める、堅く
◆新改訳で「ゆるぎません」と訳されたクーン
立つ、定める、準備する、備わる、確かにする、ゆるがない、確保する、強くする、整え
る」といった意味があります。堅実、確固な態度を取るといったイメージです。
「私の心は定まりました。」
「確かにして、ゆるぎません」と二度も繰
◆詩 57 篇 7 節では、
り返して誓約しています。その具体的な内容は、
「私は神に歌い(
‫、) ִשׂיר‬ほめ歌を歌う
(‫)זָ מַ ר‬という誓約です。」―I will sing and touch the strings― また、「主よ。私は国々の
中にあって、あなたに感謝し(‫、)י ַָדה‬
・・あなたにほめ歌を歌いましょう(‫。)זָ מַ ר‬
」(9 節)
とあるように、賛美への誓いのゆるぎなさを告白するものです。しかもその賛美は作者が
「暁を呼び覚ましたい」ほど、つまり、夜を徹するほどでした。
◆ダビデは、神殿礼拝において、文字通り 24 時間、絶えることのない賛美を神にささげ
ようとした人でした。そのためにレビ人による聖歌隊や祭司たちの演奏する楽器を準備し
ました。神の国であるイスラエルにおいて、国をあげて、賛美をもって神を礼拝し、神の
臨在を呼び覚ますことが彼のヴィジョンでした。
◆ちなみに、詩 57 篇 17~22 節はそのまま詩 108 篇 1~5 節にもそのまま使われていま
す。ということは、この一連のフレーズが模範的な「賛美の誓い」であったと言えます。
ダビデと同じく、私もこうした誓いをしたいと思わせられます。
―神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。
私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。
主よ。私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を
歌いましょう。あなたの恵みは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶから
です。神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。
◆信仰によって「堅く立つこと」の大切さは使徒パウロも語っています。
「神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与
えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることな
く、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでな
いことを知っているのですから。」(Ⅰコリント、15 章 57~58 節)
65
詩 59 篇 「見守る」
(カテゴリー: 待望)
シャーマル
‫ָשׁ ַמר‬
9 節「私の力、あなたを私は見守ります。神は私のとりでです。」(新改訳)
Keyword; 「見守る、見張って待つ」 wait, watch,
‫( ָשׁמַ ר‬shamar)は「愛する、うかがう、警戒する、守る、見張る、目を注ぐ、
◆シャーマル
目をつける、目をとめる、気づく、心を留める、用心する、注意する、心を寄せる」とい
った多様な意味を持つことばのようです。
‫( ָשׁמַ ר‬shamar)は、本来、神が人を見守る、守るという防衛用語であり恩寵
◆シャーマル
「見よ。
用語です。聖書では神が人を守る(守られる)ということが圧倒的です。たとえば、
イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
」というみことばのある
詩篇 121 篇に登場する「守る」(7 回)ということばは、すべて神が人を守るという意味の
シャーマル
‫( ָשׁמַ ר‬shamar)です。人が神を守るということはあり得ないことで、守るとす
れば、その対象は神のみことば、神の道、神の律法です。
◆詩 59 篇 9 節ではシャーマル
‫ ָשׁמַ ר‬を、人が神を「見守ります」(新改訳)と訳しています。
新共同訳では「見張って待ちます」、関根訳では「待ち望む」
、岩波訳では「待ち焦がれる」
とも訳されています。特別な注意を払って見張っていることをイメージさせます。ところ
が、口語訳ではこのことばが、不思議なことに「ほめ歌います」と訳しています。LB 訳
でも神を「賛美します」となっています。ちなみに、59 篇 16 節では「この私は、あなた
の力を歌います
‫( ִשׂיר‬shir)。」となっており、17 節でも「私の力、あなたに、私はほめ歌
‫(זָ מַ ר‬zamar)。」とあり、9 節で「ほめ歌います」と訳された思想が強調されてい
ると解釈しているのかもしれません。英語訳を見ると‫שׁמַ ר‬
ָ を I will wait, I will watch,
います
と訳すものと、I make melody,
I will sing praises と訳すものとに分かれています。
◆この二つをどのように受けとめるべきでしょうか。詩篇 58 篇と 59 篇には共通したテ
ーマがあります。そのテーマとは悪の問題に対して、やがて必ず神の正義と公正によって
正しいさばきがなされるということです。たとい、人間の悪がどのように暴虐に満ちたも
のであろうとも、神のさばきがだれの目にも明らかになる時が必ず来るーその確信に基づ
いて、作者は「私の力、あなたを私は、見守ります。(あなたを見張って待ちます、待ち
焦がれる)」と告白していると言えますし、その注視の積極的に行為として神の勝利を信
じて神を賛美することは十分に妥当なことであろうと考えます。
◆悪の問題に対して、自分から復讐したりすることなく、正しくさばかれる神にゆだね、
敵の敗北を見せてくださる神を見守り、神を賛美することによって、神に逆らう者たちは
自滅し、神の勝利がもたらされるということを、この詩篇の作者は私たちに訴えています。
‫( ָשׁמַ ר‬shamar)の類義語として、ハーザー‫(חָ זָ ה‬chazah) (詩 11 篇の「仰ぎ見
ます」を参照)、他にもナーサー‫ָשׂא‬
ָ ‫(נ‬nasa’)、ナーヴァト‫(נָבַ ט‬navat)があります。
◆シャーマル
66
詩 60 篇 「働きをする」
(カテゴリー: 誓約)
アーサー
‫עָ ָשׂה‬
12 節「神によって、私たちは力ある働きをします。」(新改訳)
「神と共に我らは力を振います。
」(新共同訳)
「神様によって、私たちは勝利を得ます。」(尾山訳―現代訳)
「われらは神によりて勇しくはたらかん」(文語訳)
Keyword;
「~をする」 do,
perform,
make, exercise, labor, work, gain
◆「働きをします」(新改訳)、
「力を振います」(新共同訳)、
「勝利を得ます」(尾山訳)と訳
‫חַ יִ ל‬を、行なう do ‫」עָ ָשׂה‬という二つのヘブル語から成
っています。原文はナアセー・ハイール‫־חיל‬
ֶָ ‫ ֽ ַנע ֲֶשׂה‬We shall do great thing ちなみに、
詩 108 篇 13 節にも同様の表現があります。
「行なう(‫שׂה‬
ָ ָ‫」)ע‬という動詞の後に来る名詞
された動詞は、
「力 great thing
によってさまざまな訳になるようです。「勝利する」という訳もあります。
◆しかし、真の勝利は神によって「力を行使する」場合に限ってのみ、「力ある働き」が
できるのであり、その結果「勝利を得る」ことができることを告白しています。決して、
人間的な力に拠り頼んでいるわけではありません。この点がとても大切です。
◆事実、この詩 60 篇はダビデがエドムとの戦いにおいてかなりの苦戦を強いられていた
という背景があります。1 節には「神よ。あなたは私たちを拒み、私たちを破り、怒って、
私たちから顔をそむけられました。」とあり、
「あなたは、御民に苦難をなめさせられまし
た。
」(3 節)「・・もはや私たちの軍勢とともに、出陣なさらないのですか。
」(10 節)とも
訴えています。ダビデというと、連戦連勝のイメージがありますが、決してそうではなか
ったことを伺わせます。
◆私たちも信仰の戦いにおいて、ダビデのように神がもはや自分たちを見捨ててしまった
のではないかという状況に出くわすことがあります。しかし、そうした信仰のゆらぎを経
験することがあっても、神の約束に立って、再び信仰によって戦いに挑もうとするダビデ
の姿勢は常に私たちのモデルです。「まことに、人の救いはむなしいものです。神によっ
て、私たちは力ある働きをします。(なぜなら)、神こそ私たちの敵を踏みつけられる方(だ
から)です。」(11, 12 節) 私たちは「敵を踏みつけられる方」と共にあることによって、力
を振い、勝利を得ることができます。
◆使徒パウロはエペソ人への手紙の中で、「私は、神の力の働きにより、自分に与えられ
た神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました」(3章7節)と神の力をたた
えています。そして、「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた
力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように」
(1章19節)とも祈っています。また、「主にあって、その大能の力によって、強くあれ」
と (6章10節)とも命じています。主にある力よって、力ある働きをしたいものです。
67
詩 61 篇 「いつまでも」
(カテゴリー: 誓約)
オーラーム
‫ע ֹולָם‬
4節「私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み」(新改訳)
「わたしをとこしえにあなたの幕屋に住まわせ」(口語訳)
「あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り」(新共同訳)
Keyword; 「永遠に」 forever, eternity,
◆詩61篇にはダビデの「永遠の誓い」が表明されています。「いつまでも」「とこしえに」
‫ע ֹולָם(ע ֹולָמים‬の複数形)、7節の「いつまでも」は
と訳されたことばは、オーラミーム
オーラーム
‫`(ע ֹולָם‬olam)の語が使われています。他にも、永遠を表わす語彙が他にも使
われています。6節の「代々」(新改訳)「よろずよに」(新改訳)「よろずよに」(口語訳)「代々
‫לְ דֹר וָ דֹר‬
(ledor wador)、それに、8節の「とこしえ」(新改訳「永遠」
)
(新共同訳)と訳されたアド‫`(עַ ד‬ad)
に」(新共同訳)「いつまでも」(尾山訳)と訳された定型句、レドール・ヴァドール
が、一つの詩篇の中にあります。いずれも動詞ではなく名詞です。
◆「永遠の誓い」とは結婚式だけのものではありません。ダビデが神に対する永遠の誓い
をするに至ったそのプロセスとその生涯の検証が重要です。ダビデは「地の果てから」神
に呼び求め(
‫) ָק ָרא‬ています。「地の果て」とは、単なる地理的なことだけではなく、自
分の力では到底回復することが及ばない状況を表しているかもしれません。詩130篇1節で
も「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。」とありますが、その「深い淵」も
「地の果て」と同じような意味合いを持っていると考えます。自分の力では生きることも、
立つことも、ましてや輝くこともできない状況―それはまさに「心が衰え果てるとき」(新
改訳)、「心のくずれおるとき」(口語訳)、「心が挫けるとき」(新共同訳)ーの中で、ダビ
デは「もしこの状況から自分を救い出してくださり、及びがたいほどの高い岩の上に導い
てくださるなら、永遠の誓いをいたします。」と神に誓ったのであろうと信じます。
◆ダビデのその「永遠の誓い」の内訳は三つあります。
①神の幕屋に住むこと I will abide in your tabanacle forever.
I will trust in the shelter of your wings.
③主を賛美すること I will always sing praises to you.
②御翼の陰に身を避けること
◆「住む」とは「とどまる」こと、「身を避ける」とは「信頼する」ことと同義です。
ダビデの永遠の誓いー主にとどまり、主を信頼し、主を賛美することーは、みな連動して
おり、神との親しい関係を表明するものです。それらは決して強制や義務ではなく、あく
までも自発的(I will)であるという点において価値があります。しかも、ダビデはそれを「い
つも」「日ごとに」に実行したのでした。それゆえ(結果として)ダビデは神にあって力あ
る働きをすることが出来たのです。最後に、ダビデの永遠の誓いが「どん底経験」におい
てなされたことも注目すべき点です。永遠の誓いの背後に神の導きが隠されているのです。
68
詩 62 篇 「黙って待ち望む」
(カテゴリー: 待望)
ダーマム
ドゥミッヤー
‫ָדּמַ ם‬
‫דּוּמיָּה‬
ִ
5節「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ」(新改訳)
「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。」(新共同訳)
Finds rest O my soul, in God alone; (The New International Version)
4:4/30:12/31:17/35:15/37:7/62:5/131:2
Keyword; 「沈黙して待つ」 silent,
◆「黙って、待ち望む」と訳されたダーマム
‫( ָדּמַ ם‬damam)。原文は自分の魂に向って「沈
黙せよ」という命令形になっています。to be silent,
keep quiet, be still, be motionless,
ちなみに、1節でも同じように訳されていますが、そこでは動詞ではなく、名詞ドミッヤ
ー
‫דּוּמיָּה‬
ִ (dumiyyah)が使われています。「静まり」「沈黙」「期待」「待望」とも訳さ
れることばで、詩篇にのみ4回―silent(22:2),
still(39:2), rest(62:1),
awaits(65:1※)―
使われている語彙です。※「期待して待つこと」
ちなみに、62篇1節の原文は「ただ、向かって、神に、沈黙、私の魂は」となっています。
◆沈黙するとは、単に、何も言わず黙していることだけでなく、My soul finds rest in God
alone.とあるように、信仰によって、ただ神の内にのみ「休息(安息)を見出す」という積
極的な意味合いがあります。休息(安息)を見出すことは、神への信頼のあかしと言えます。
どんな状況においても、あわてることなく、神にすべてをゆだねて、神を信頼し、神を待
ち望んでいます。なぜなら、私の救いーすべての必要、守り、助け、導きなどーは、すべ
て神から来ると信じているからです。
◆私たちの現実は黙っていることなど到底できない状況がいくらでも襲ってきます。恐れ
と不安、焦りと自己不信の中にある神の民に、預言者エレミヤは呼びかけました。
「主はいつくしみ深い。・・主の救いを黙って待つのは良い。人が、若い時に、くびきを
負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。・・口をちり
につけよ。・・主は、人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」(哀
歌 3章25~29節)と。「主がいくつしみ深い(良い方)」であることを知ることと沈黙する
こと、そして希望を持つこと、それらはみな密接な関係にあります。
◆沈黙と静まりこそ、御父のみこころに従う御子イエスの内なる自由が培われた場でした。
私たちも、神に愛された者として生きるためには、活動的な働きから退く「静まりの時」
が必要です。なぜなら、その静まりの時こそ神との信頼の絆が深められる時だからです。
換言するならば、静まりは臨在を回復する営みと言えます。神が私に語りかけておられる
という感覚が研ぎ澄まされ、敏感になりながらも、たましいは、神にゆだねる心で休息し
ている。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」―その模範はイエス・キリストで
す。沈黙と静まりを通して、私たち自身が神に向けられるようになります。そして、開か
れた神のことばの理解がより深められる経験をするのです。
69
詩 63 篇(1) 「切に求める」
(カテゴリー: 渇望)
シャーハル
‫ָשׁ ַחר‬
1節「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。」(新改訳)
Keyword; 「切に求める」 earnestly seek, search for, long for, look for, seek
◆詩63篇は礼拝用語の宝庫です。全11節に16(17)個の礼拝用語を見つけることができます。
‫( ָשׁחַ ר‬shachar) 63:1/78:34
② 1節「渇きます」
‫(צָ מֵ א‬tsama’ ) 42:2/63:1
③ 1節「慕います」
‫(כָּמַ הּ‬kamah) 63:1 (この箇所のみ)
④ 2節「見ています」
‫( ָראָה‬ra’ah) 34:8
⑤ 2節「仰ぎ見ます」
‫(חָ זָ ה‬chazah) 11:7/17:15/27:4
⑥ 3節「賛美します」
‫( ָשׁבַ ח‬shabach) 63:3/106/47/145:4/147:12
⑦ 4節「ほめたたえます」
‫(בָּ ַרךּ‬barak) 5:12/10:3/16:7/26:12/28:6, 9/31:21
⑧ 4節「(手を)上げて(祈ります)」‫ָשׂא‬
ָ ‫(נ‬nasa’) 28:2//134:2
⑨ 5節「満ち足ります」
‫( ָשׂבַ ע‬sava`) 17:14/22:26/37:9/59:15/65:4/78:29
⑩ 5節「賛美します」
‫(הָ לַל‬halal) 22:22, 23, 26/35:18/56:4, 10/69:30, 34
⑪ 6節「思い出します」
‫(זָ כַ ר‬zakhar) 9:12/20:3/22:27/25:6, 7/42:4, 6/77:3,6,11
⑫ 6節「思います」
‫(הָ גָה‬hagah) 1:2/77:12/143:5
⑬ 7節「喜び歌います」
‫( ָרנַן‬ranan)5:11/20:5/32:11/33:1/35:27/51:14/59:16
⑭ 8節「すがります」
‫( ָדּבַ ק‬davaq) (神との直接的なかかわりとしてはここのみ)
⑮11節「喜びます」
‫( ָשׂמַ ח‬samach)5:11/9:2/14:7/16:9/21:1/31:7/32:11/
⑯11節「誓います」
‫( ָשׁבַ ע‬shava`) 15:4/119:106/132:2―‫( ָשׂבַ ע‬saba`)との違い
⑰11節「誇ります」
‫(הָ לַל‬halal) 64:10/97:7/105:3/106:5/
① 1節「切に求めます」
◆これらの多くはすでに詩篇第一巻(1~41篇)で取り上げたものばかりです。そこになか
った新しい礼拝用語は三つです。まずは「切に求めます」と訳されたシャーハル
‫( ָשׁחַ ר‬shachar)、次に「慕います」のカーマーּ‫(כָּמַ ה‬kamah)、そして「すがります」のダ
ーヴァク‫( ָדּבַ ק‬davaq)です。今回は「切に求めます」と訳されたシャーハル‫שׁחַ ר‬
ָ (shachar)
にのみ注目したいと思います。
‫( ָשׁחַ ר‬shachar)は「真面目に、熱心に、本気で神を求める(捜し求める)こと」
◆シャーハル
を意味します。旧約聖書では13回使われていますが、そのうち、2回が詩篇にあります。
詩63篇1節と、そしてもう一回は詩78篇34節です。箴言8章17節には「わたしを愛する者
を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す(
‫) ָשׁחַ ר‬者は、わたしを見つける。」とありま
す。心を尽くし、精神を尽くして、切に主を求めること、それは命がけでもあります。神
も失われた羊を捜し出して、これの世話をされる方です(エゼキエル34:11)。それはまさ
に神の命がけのサーチでした。そのサーチによって私たちは神に見出されたのです。
70
詩 63 篇(2) 「すがる」
(カテゴリー: 信頼)
ダーヴァク
‫ָדּ בַ ק‬
8節 「私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私をささえてくださいます。」
Keyword; 「すがる、すがりつく」
cling, hold fast,
22:15/44:25/63:8/101:3/102:5/119:25, 31/137:6
◆「すがる」「すがりつく」と訳されているダーヴァク
‫( ָדּבַ ק‬davaq)という動詞は、普通、
あまり良い意味で使われません。というのも、「くっついて離れない、執着する、固執す
る」というイメージがあるからかもしれません。しかし、神に「すがる」ということは神
を喜ばせます。なぜなら、どんな状況に陥っても神を決して離すまいとする心、あるいは、
決して望みを捨てないという心だからです。LB訳では「すがる」ことを「神様のふとこ
ろに飛び込む」と意訳しています。なかなか味わい深い表現です。
◆神にすがる者、すがりつく者は、新約的に言うならば「貧しい者」のことです。イエス
は「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたの者です。」(ルカ6章20節)と約束されま
した。主の弟子とは「貧しい者」のことであり、「小さき者」「弱き者」と同義なのです。
つまり、神なしには生きられないことを知っている者たちであり、神の愛と支えと導きな
しには輝く望みなどないと知っている者たちなのです。
◆旧約聖書の中に「すがりつく」恵みを体験したひとりの女性がいます。その女性の名は
ダビデの曾祖母ルツです。ルツは異邦人(モアブ人)でしたが、姑ナオミにすがりつきまし
た(ルツ記1章14節参照)。ルツは姑のナオミにすがりつくことで、ナオミの信じている神
にすがりついたのです。神は、このルツをしっかりと支えられました。そして、はからず
も、ボアズと出会い、結婚し、ダビデにつながる子孫をもたらしました。そしてやがては
その子孫からメシアが生まれるという神のご計画に預かったのでした。
◆ダビデも荒野経験において神にすがりついています。ダビデの系譜はまさに「神にすが
りつく系譜」と言えます。ダビデにとって、荒野での予期せぬ出来事は、神への思いを募
らせ、そのかかわりを深める契機ともなりましたが、その強烈さに圧倒されます。ここに、
ダビデがいかに模範的な礼拝者であったかを伺わせます。
◆ダビデは、8節で「私のたましいは、あなたにすがり」ということばで、その前にある
すべての<礼拝用語>を統括し、それに対して「あなたの右の手は、私をささえてくださ
います。」というたったひとつの<恩寵用語>によってその祝福の確信を要約しています。
「あなたの右の手は、私をささえてくださる」を、尾山訳では「あなたは私をしっかり抱
きしめてくださいます」と訳しています。まさにこの「抱っこ法」は神の養育方法です。
◆このように、神とのかかわりにおいてダーヴァク
‫( ָדּבַ ק‬davaq)が用いられているのは、
詩篇ではここ詩63篇8節のみです。とても価値のある、重要な動詞と言えます。
71
詩 64 篇 「悟る」
(カテゴリー: 信頼)
サーハル
‫ָשׂכַ ל‬
9 節「こうして、すべての人は恐れ、神の・・なさったことを悟ります。」(新改訳)
「人は皆、恐れて、神の・・御業に目覚めるでしょう。」(新共同訳)
「その時すべての人は恐れ、神の・・なされた事を考えるでしょう。」(口語訳)
Keyword; 「熟考する、思案する」
ponder,
meditate,
understand,
careful
2:10/14:2/32:8/36:3/41:1/53:2/94:8/101:2 / etc.
◆この詩64篇のテーマは、神を恐れず、神に敵対する者がたどる「自滅の原則」です。
詩64篇だけでなく、詩7篇14~16節、詩27篇2節、詩63篇9~10節にも同じ原則が述べら
れています。だれも見破られないように、どんなに周到で陰険な計画がなされていたとし
ても、高慢な者の悪事はやがていつしかしっぽを掴まれて、その悪が明るみに出されてし
まいます。それゆえ、今日においても巷をにぎわす悪事のニュースのネタは事欠かないほ
どです。
‫( ָשׂ ַכל‬sakhal)は、この詩篇のコンテキストでは悪や悪
◆「悟ります」と訳されたサーハル
事は必ず自滅するという原則があることを、恐れをもって「悟る」ことを意味します。
NIV訳では ponder what he has done.と訳されており、神がなされることをあらゆる角度
からじっくりと考えて、悟るようにとの意味です。
◆サーハル
‫( ָשׂכַ ל‬sakhal)は、ひとつの問題(事柄)を「熟考する」こと、「沈思黙考する」
こと、「心に留める」こと、「(一考に値することに)気づかされる」ことを意味する動詞
です。知性的な面だけでなく、直観的な面も含めての「悟り、思慮深さ」と言えます。そ
れゆえに、この
‫( ָשׂכַל‬sakhal)は詩篇だけでなく、知恵文学の箴言にも多く使われています。
◆主イエス・キリストは「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、
聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」(マタイの福音書13章14節)
と述べて、「四つの地に落ちた種のたとえ話」をされました。そして、種が良い地に蒔か
れるとは「みことばを聞いて、それを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あ
るものは三十倍倍、あるものは六十倍、あるものは百倍の実を結びます。」と約束されま
した。そして「耳のある者は聞きなさい」と呼びかけました。「聞いて、悟る」というこ
との大切さは、今にはじまったことではなく、昔からある神の呼びかけなのです。
◆10節に「正しい者は主にあって喜び
‫( ָשׂמַ ח‬samach)、主に身を避けます‫(חָ סָ ה‬chasah)。
‫(הָ לַל‬halal)ことができましょう。」とありますが、ここにあ
るサーマフ‫שׂמַ ח‬
ָ , ハーサー‫חָ סָ ה‬, ハーラル‫ הָ לַל‬の三つの動詞は、9節の「主のなさっ
たことを悟るサーハル‫שׂכַ ל‬
ָ (sakhal)」ことと非常に密接な関係があると信じます。すべて
心の直ぐな人はみな、誇る
が神とのかかわりの親しさ、深さを表わしている礼拝用語と言えます。
72
詩 65 篇 「高らかに歌う」
(カテゴリー: 賛美)
ラーナン
‫ָר נַ ן‬
8節b「あなたは、朝と夕べの起こる所を高らかに歌うようにされます。」(新改訳)
「・・喜びの歌が響きます。」(新共同訳) 「喜び歌います。」(口語訳)
Keyword; 「高らかに歌う、喜び歌う」
sing for joy, shout for joy, sing, rejoice,
5:11/20:5/32:11/33:1/35:27/51:14/59:16/63:7/65:8/67:4/71:23/81:1/84:2/89:12/90:14/
92:4/95:1/96:12/98:4, 8/132:9, 16/145:7/149:5
‫( ָרנַן‬ranan)は詩篇の中で 25 回使われています。礼拝用語における重要な動詞
です。51 篇でも取り上げましたが、再度、取り上げたいと思います。ラーナン‫( ָרנַן‬ranan)
は「声高らかに」、
「喜びをもって歌う」ことを意味します。名詞はレナナー ‫( ְר ָננָה‬renanah)
◆ラーナン
で、詩篇では 63:5 と 100:2 で使われています。ちなみに、詩 100 篇 2 節では、主を礼拝
する者に対して「喜び歌いつつ」御前に来たれと呼びかけています。しかも「感謝をもっ
て」
「賛美をもって」とあります。これらはイスラエルの神を礼拝する大切な心得です。
◆神と人とのかかわりにおけるきわめて大切な特長は、爆発的な「喜び」があるというこ
とです。人が神を「喜び歌う」だけでなく、神も人を喜びとしてくださっています。それ
‫( ִרנָּה‬rinnah-名詞)がある」(詩
ゆえ、「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫び
「喜ばし
篇 30:5/47:1)のです。「喜び」と複合する語彙は実に多くあります。たとえば、
き声を上げる」
「喜び叫ぶ」
「喜び祝う」
「喜び歌う」
「喜び踊る」
「喜び楽しむ」
「喜び集う」
「喜び走る」「喜び誇る」「喜び迎える」
「喜び呼ばわる」
「喜び受ける」
・・・等です。
◆ルカの福音書 10 章 17~20 節に、イエスの弟子たち 70 人が伝道の働きから帰って来て、
喜んで報告した話があります。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たち
に服従します。」と。しかしイエスは「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、
喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
と言われました。
「天に名が書き記されている」とは、
「あなたがたの存在そのものが神に
喜ばれている存在である」ということです。そのことを「喜びなさい」とイエスは言われ
ました。働き、奉仕、業績がたたえられるところでの喜びは、その成果が得られなければ
あり得ません。イエスは弟子たちに、働き(Doing)ではなく存在(Being)そのものが神に受
け入れられ、大切にされ、喜びの対象となっていることを「喜びなさい」と言ったのです。
◆ちなみに、
「ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。
『天
地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある
者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです。これがみこころにかなっ
たことでした。』
」(ルカ 10 章 21 節)とあります。
「これらのこと」とは「あなたがたの名
が天に書き記されていること」です。御父とのこの上ない喜びの交わり、このことを「幼
子たち」
、すなわち「弟子たち」に現わしてくださったことをほめたたえているのです。
73
詩 65 篇 「喜び叫ぶ」
(カテゴリー: 賛美)
ルーア
ַ‫רוּע‬
13 節 b「人々は喜び叫んでいます。」(新改訳)
「彼らは喜び呼ばわって」(口語訳) 「喜びの叫びをあげています。」(新共同訳)
Keyword; 「喜び叫ぶ、喜び叫ぶ」shout,
shout in triumph
shout aloud,
shout for joy,
47:1/60:8/65:13/66:1/81:1/95:1, 2/98:4, 6/100:1
‫( ָרנַן‬ranan)は「声高らかに、喜びをもって歌う」ことに強調点があるの
に対し、13 節後半のルーア ַ‫(רוּע‬rua`)は「喜びを伴った叫び(shout)、大声で叫ぶ」ことに
◆8 節のラーナン
強調点があります。66 篇 1 節の「全地よ。神に向って喜び叫べ」という呼びかけは、ル
ーア
ַ‫(רוּע‬rua`)です。
◆81 篇 1 節では「われらの力であられる神に喜び歌え‫( ָרנַן‬ranan)。ヤコブの神に喜び叫
べ ַ‫(רוּע‬rua`)。」とあり、‫( ָרנַן‬ranan)と ַ‫(רוּע‬rua`)とが同義的な語彙であることがわかりま
す。このように、ラーナン‫( ָרנַן‬ranan)とルーア‫(רוּע‬rua`)が、ワンセットで使われている
例としては、他に 95:1、98:4, 6 と 100:1 があります。
‫( ָרנַן‬ranan)。
われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう ַ‫(רוּע‬rua`)。」(詩95篇1節)
「さあ、主に向かって、喜び歌おう
◆このように二つの同義的な語彙を重ねることによって、「喜び」が重要視されているの
です。私たちは主を賛美することにおいて、この「喜び」が前面に来なければなりません。
◆主に愛されている喜び、天に名が書き記されていることの喜び、主の御翼の陰に守られ
ていることの喜び、主とともに苦しみを共有できる喜び、主が十字架の死と復活を通して
私を救ってくださった喜び、そして今も主が私のうちに、私とともに、私のために働いて
いてくださる喜びーその喜びを「歌い」、そして「叫ぶ」よう呼びかけられているのです。
◆いかにしてそれを実現し得るでしょうか。それを実現に至らせた唯一のモデルはダビデ
です。ダビデの賛美への意欲をもっともっと学びたいものです。
◆また、ダビデが経験したように「良いものーthe riches―で満ち足りる」喜びを味わい
たいものです。ちなみに、11節ではその「良いもの」が「あぶらがしたたる」と表現され
ています。「あぶら」とは、最良のものを意味します。食べ物にしても脂身の部分は最も
美味しい部分です。「あなたの通られた跡には、あぶらがしたたり、・(それゆえ)もろも
ろの丘も喜びをまとっています。・・人々は喜び叫んでいます。」とあります(11~13節)。
◆新約にも良いもので満ち足りる喜びを経験した人がいます。使徒パウロがその人です。
彼は「喜びの手紙」と呼ばれるピリピ人への手紙の中で、「私は、どんな境遇にもあって
も満ち足りることを学びました。」と言っています。どんな環境の中にも、どんな境遇に
おいても、そこでしか得ることのできない、神が備えられた良いものがあることを信じ、
彼は満ち足りることを学び喜ぶことができた人です。この「喜び」が奪われませんように。
74
詩 66 篇 「伏し拝む」
(カテゴリー: 従順)
シャーハー
ハーヴァー
‫ָשׁחָ ה‬
‫ָח ָוה‬
4 節「全地はあなたを伏し拝み、あなたにほめ歌を歌います。」(新改訳)
「全地はあなたを拝み」(口語訳) 「全地はあなたに向ってひれ伏し」(新共同訳)
Keyword; 「伏し拝む、ひれ伏す」
bow down,
worship,
22:27, 29/29:2/45:11/66:4/72:11/81:9/86:9/95:6/96:9/97:7/99:5, 9/106:19/132:7/138:2
◆「伏し拝み」と訳された原語はイシュタハヴー
‫(יִ ְשׁ ַתּחֲ וַ וּ‬三人称男性複数形、未完了形、
ヒツパエル形)となっています。ヒツパエル形とは、相互に及ぼし合う行為を表わしたり、
自分からより主体的な行為として表わしたりする動詞の語態のようです。三人称男性複数
‫יִ ְ ַת○○○וּ‬がつきます。しかし、シャ
‫שׁ‬で始まる動詞のヒツパエル形では、‫שׁ‬と‫ת‬が入れ替わって
形、未完了形、ヒツパエル形では、動詞の前後に
‫ ָשׁחָ ה‬のように
‫יִ ְשׁ ַתּחֲ וַ ו‬となるようです。このへんは少々やや難解なヘブル語文法です。
ーハー
(片山徹著「旧約聖書ヘブライ語入門」p.92-93 参照)
◆口語訳聖書のコンコルダンス(教文館)の原語索引では、原語は
‫( ָשׁחָ ה‬shachah)となって
いますが、
New International Version の The Hebrew-English コンコルダンス(Zondervan)
では、原語(三人称男性単数完了形)がハーワー
‫(חָ וַ ה‬chawah)となっています。果たして‫שׁ‬
はいったいどこに消えてしまったのか、はじめてぶつかった疑問だらけの動詞です。ここ
‫ ָשׁחָ ה‬で一本化したいと思います。
◆シャーハー‫שׁחָ ה‬
ָ (shachah)は、本来「かがむ」「おじぎをする」という挨拶用語です。
では、
それがヒツパエル形の語態では、
「拝む、敬意を表わす、拝する、ひざまずく、ひれ伏す、
伏し拝む、伏す、身をかがめる、礼拝する」という意味になります。しかも、詩篇では公
的な意味で使われています。
‫(כּ ַָרע‬kara`)があります。ひざをつくという意味から「ひれ伏
す」と訳されます。もう一つはバーラク‫(בָּ ַרך‬barak)で「ひざまずく」と訳されています(詩
篇では 1 回限り)。このバーラク‫(בָּ ַרך‬barak)は賛美・祝福を意味する動詞とは同音異語で
◆類義語としてはカーラー
「来
す。旧約の礼拝観を教えている詩篇 95 篇には、この三つの語彙がすべて登場します。
‫、 ָשׁחָ ה‬ひれ伏そう‫。כָּ ַרע‬私たちを造られた主の御前に、ひざま
たれ。私たちは伏し拝み
ずこう
‫」。בָּ ַרך‬と。
◆イスラム教の人々がするように、「ひれ伏して」神を礼拝する行為はキリスト教の礼拝
ではあまり見られません。しかし、旧約時代の人々は主の前に「ひれ伏して」伏し拝んだ
ようです。主に対する真の敬意がなければとてもできない行為です。旧約の人々は神を礼
拝するときに、手を上げ、手をたたき、声を上げ、踊り、ひざまずいたりしながら、神へ
の信仰を表したようです。彼らにとってそれはきわめて自然のことであり、特別なことで
はなかったのです。敬意を伴った礼拝の行為とは密接な関係にあるのかもしれません。
75
‫י‬
詩 67 篇 「 」 で始まる礼拝用語
(カテゴリー: その他)
ヤーダー
ヤーダー
ヤーレー
‫ָי ַדה‬
‫יָ ַדע‬
‫יָ ֵרא‬
◆詩 67 篇には、神の祝福の目的、あるいはその祝福の結果が記されています。
‫י ַָדע‬ため (2 節)
‫י ַָדה‬ようになるため
①神の救いがすべての国々の間に知られる
②国々の民がこぞって神をほめたたえる
(3 節)
③国民が喜びも、また、喜び歌うようになるため (4 節)
‫י ֵָרא‬ようになるため (7 節)
◆これらの目的のうち、①②④の三つは、‫( י‬ヨード)で始まる三つの動詞(礼拝用語)が使
われています。いずれも、‫(י‬ヨード)で始まる動詞の中でも代表的な礼拝用語です。ヤー
ダー‫(י ַָדע‬956 回)、ヤーダー‫(י ַָדה‬111 回)、ヤーレー‫(י ֵָרא‬539 回)。
◆‫(י‬ヨード)はヘブル語の最も小さい文字です。主イエスが「まことに、あなたがたに告
④地の果てが神を恐れる
げます。天地が滅びない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。
全部が成就されます。」(マタイ 5 章 18 節)と断言していますが、その中の「一点」とは、
この
‫(י‬ヨード)のことです。
◆ヘブル語の礼拝用語を覚えるのに、このように最初の文字を同じくする動詞をグルーピ
ングしてみるのも面白いかもしれません。ちなみに、同じく
‫(י‬ヨード)で始まる礼拝用語
としては、これまで取り上げたものとして以下の動詞があります(いずれも詩篇第一巻) 。
‫(יָהַ ב‬yahav, 33 回)
「(神に栄光を) 帰す」ことを意味するヤーハヴ
‫(י ַָשׁב‬yashav, 1088 回)
「受け継ぐ、所有する」ことを意味するヤーラシュ‫(י ַָרשׁ‬yarash, 232 回)
「住む」ことを意味するヤーシャヴ
◆さて、この詩 67 篇には、「すべての国々」
「国々の民がこぞって」
「地の国民」
「ことご
とく」というすべてを網羅する語彙が目立ちます。これは神の末広がりの祝福のダイナミ
ズムです。ちなみに、聖書の中で最初に神に祝福されたのは信仰の父アブラハムでした。
神は彼に対して「わたしはあなたを祝福する」と約束されました。その祝福の内容は、子
孫繁栄、国土獲得、万民祝福でした。神のアブラハムに対する約束は、彼個人のものだけ
でなく、人々が「あなたによって祝福される」ということでした。このように、一人の者
が受けた祝福は他の人々にそれが分かち与えられ、巡り巡って何倍にもなって最初の所に
戻ってきます。帰ってきた祝福は、さらに勢いを増して流れ出します。個人からグルーバ
ルに拡大していくーこれが神の祝福の循環です。それゆえ、私たちは神に、あのヤベツの
祈り(Ⅰ歴代誌 4 章 9~10 節)のように、大胆に、「私を大いに祝福し、私の地境を広げて
下さい。
」と祈るべきです。なぜなら、私たちは「祝福を受け継ぐために召されたのだか
ら」(Ⅰペテロ 3 章 9 節)です。
76
詩 68 篇 「こおどりする」
(カテゴリー: 賛美)
アーラツ
アーラズ
‫ָע לַ ץ‬
‫ָע לַ ז‬
3節「・正しい者たちは喜び、神の御前で、こおどりせよ‫。עָ לַץ‬喜びをもって楽しめ。」
4節「・・その御前で、こおどりして喜べ‫」。עָ לַז‬
Keyword; 「こおどりする」 rejoice,
5:11/9:2/25:2/68:3
◆詩 68 篇 3 節と 4 節―この 2 つの節に「喜び」を表す四つのヘブル語動詞があります。
‫( ָשׂמַ ח‬samach)、神の御前で、こおどりせよ‫`(עָ לַץ‬alats)。
喜び‫שׂמַ ח‬
ָ (samach)をもって、楽しめ‫(שׂישׂ‬sis)。」(3 節)
「・・・その御前で、こおどりして喜べ‫`(עָ לַז‬alaz)。
」(4 節)
つまり、①サーマフ‫שׂמַ ח‬
ָ (samach) ②アーラツ‫`(עָ לַץ‬alats) ③シス‫(שׂישׂ‬sis)
④アーラズ‫`(עָ לַז‬alaz)の四つです。
◆「こおどりする」と訳された ‫`(עָ לַץ‬alats)、
「こおどりして喜べ」と訳された‫`(עָ לַז‬alaz)、
「正しい者たちは喜び
いずれも、
「勝ち誇ったような喜び」ーtriumph, jubilant, rejoice, leaps for joy―を意
味します。前者は詩篇では 4 回、後者は詩篇では 7 回使われています。
(28:7/60:6/68:4/94:3/96:12/108:7/149:5)
◆詩篇においては「喜び」を表す複合動詞―「喜び歌え」「喜び祝え」「喜び踊れ」「喜び
叫べ」
「喜び呼ばわれ」
「喜び迎えよ」
「喜び楽しめ」
「喜び走れ」
「喜び集え」
「こおどりし
て喜べ」など多く見られます。
◆新共同訳では、3 節の「喜び」サーマフ
‫( ָשׂמַ ח‬samach)と「こおどりせよ」アーラズ
‫`(עָ לַץ‬alats)を合わせて、「誇らかに喜び祝え」と訳していますが、口語訳ではそれを「喜
び踊らせ」と訳しています。
◆「こおどりする」のを「すずめおどりをする」と考える人もいます。確かに、そのよう
な喜びの動作をする人もいるでしょうが・・・。
◆イスラエル系の賛美は、この勝ち誇った喜びをかきたてるものが多いように思います。
しかも、その喜びはマイナー調で歌われます。
◆詩篇の主題は「嘆きからたたえ(賛美)」です。しかもその賛美の基調は「喜び」です。
イエスはヨハネの福音書 15 章で弟子たちに「あなたがたはわたしにとどまりなさい」
「わ
たしのことばにとどまりなさい」
「わたしの愛の中にとどまりなさい」と言われましたが、
その目的は多くの実が結ばれるためですが、その実として「わたしの喜びがあなたがたの
うちに満たされるため」だと言われました。イエス・キリストの喜びとは何なのかーその
喜びのすべては、詩篇とともにあると言っても過言ではありません。詩篇の中には、信仰
の喜びー神との親しい交わりの喜び、愛されている喜び、みことばに対する喜び、神の大
いなるみわざにあずかった喜び、敵に対する勝利の喜び、将来の確かな救いの完成に対す
る希望などーが満ち溢れています。その喜びは、まさに「いのちのしるし」なのです。
77
詩 69 篇 「あがめる」
(カテゴリー: 賛美)
ガーダル
‫ָגּ ַדל‬
30 節「私は神の御名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。」
I will praise the name of God with a song, and will magnify him with thanksgiving.
Then I will praise God’s name in song and glorify him with thanksgiving. (NEB)
great,
exalt, magnify
Keyword; 「あがめます」 glorify,
34:3/35:26, 27/38:16/40:16/69:30/70:4
◆「あがめます」と訳されたガーダル
‫(גּ ַָדל‬gadal)は、本来、「大きくする」という意味で
す。神の御名を大きくすることが、すなわち、
「あがめる」ということになります。
「私は
神の御名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。
」(新改訳)という誓約(告
白)を英語訳では I will praise /I will magnify(glorify)で表わしています。こうした賛美の
誓いは詩篇においてはきわめて重要な要素です。賛美の誓いの前には、必ずと言っていい
「・・私は悩み、痛んでい
ほど、嘆願があります。この詩 69 篇 29 節では、いみじくも、
ます。神よ。御救いが私を高くあげてくださるように。
」とあります。自らの現状を訴え、
そして「私を高く上げてくだるように」と嘆願しているのです。この「高く上げる」と訳
されているサーガヴ
‫( ָשׂגַב‬sagav)は、引き上げる、救いを得させる、高い所に置く、守る、
といった恩寵用語です。と同時に、あがめる、という意味もあります。つまり、29 節で
作者は神が私を引き上げ、私を高い所に置いて下さい。そうしてくださるなら、そのとき、
「私も神の御名を大きくします、つまり、あがめます」と誓っているのです(30 節)。
◆次篇の 70 篇 4 節にも「あなたを慕い求める人々がみな、あなたにあって楽しみ、喜び
ますように。あなたの救いを愛する人たちが、『神をあがめよう
‫(גּ ַָדל‬gadal)』と、いつも
言いますように。」とあります。(40:16 にも同じフレーズがあります。) あなたを慕い求
める者が、あなたの救いを愛する人たちが、
「みな」
「いつも」、
「神をあがめよう」と言っ
ています。その背景には、神が私たちを引き上げ、高い所に置いて下さったからです。
◆事実、私たちはキリストとともに、天にある神の右の座に(そこは最も高い、最高権威
のある場所です)に着かせられました(エペソ人への手紙 2 章 6 節)。そこは勝利の場所、
すべての力の源泉の場所です。神との親しい交わりの場所(シークレット・プレイス)です。
そこから私たちが離れるとき、私たちは何もすることができません。それゆえ、私たちが
‫(גּ ַָדל‬gadal)』と言うことなのです。これ
いつも心に留めるべきことは、
『神をあがめよう
は、どんないけにえにも勝って、神を喜ばせることなのです(31 節)。
◆ガーダル
‫(גּ ַָדל‬gadal)の類義語としては次のものがあります。①ルーム‫(רוּם‬rum)―詩篇
では 21:13/30:1/34:3/40:10/57:5, 11/66:17/99:5, 9/107:32/108:28/145:1 で使われています。
NIV 訳では exalt と訳されています。②カーヴェド‫כּבֵ ד‬
ָ (kaved)―詩篇では 22:23/50:15,
23/86:9, 12 で使われています。NIV 訳では honor と訳されています。
78
詩 70 篇 「愛する」
(カテゴリー: 信頼)
アーハヴ
‫אָהַ ב‬
4 節 b「あなたの救いを愛する人たちが、
『神をあがめよう。』と、いつも言いますように。」
Keyword; 「愛します」 love,
5:11/26:8/31:23/40:16/69:31/97:10/116:1/119:47, 48, 97, 113, 119, 127, 132, 140,
159, 163, 165, 167/145:20/
‫(חֶ סֶ ד‬chesed)-
◆旧約では「愛」を意味する二つの名詞があります。一つは、ヘセド
英語では mercy, loving-kindness, unfailing love, great love, kindness, 日本語では「恵み」
(新改訳)、「いつくしみ」(口語訳)、「慈しみ」(新共同訳)と訳されますー。契約に基づく
愛です。イスラエルの神の契約の愛に適用されます。本来、このヘセド
‫(חֶ סֶ ד‬chesed)は、
熱心、着実、誠実、あわれみ、いつくしみを意味しますが、すべては契約の範囲において
のみ理解されるべきものです。
‫’(אַהֲ בָ ה‬ahavah)―英語では love, friendship,日本語
◆もう一つの愛の名詞は、アハヴァー
では、いずれも「愛」と訳されますー。それは選びの愛、無条件の愛です。その動詞はア
ーハヴ
‫’(אָהַ ב‬ahav)。旧約聖書では 215 回使われています。それはいかなる契約の条件に
よっても制限されることなく、ただひとり愛する者の意志ないし本質に起因するものです。
実際には、父が子に、神がイスラエルに対して注がれる愛に用いられますが、神とイスラ
エルの間に契約が存在することの基盤そのもの、また唯一の原因です。
◆このように、アハヴァー
‫’(אַהֲ בָ ה‬ahavah)は契約の原因であり、ヘセド‫(חֶ סֶ ד‬chesed)
はそれを存続させる熱心さです。(このことについては、N・H・スネイス著『旧約聖書の
特質』日本基督出版社のすぐれた本を参照のこと) 詩 70 篇 4 節にある「愛する」という
ことばはアーハヴ
‫’(אָהַ ב‬ahav)です。本来は、神が人に示される愛ですが、それを神が人
に求められる時、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しな
(申命記 6 章 5 節)となります。これは神のアーハヴ
さい。」
‫’(אָהַ ב‬ahav)の反映と言えます。
愛されて愛する、選ばれて選ぶという主体的、自立的な愛です。
◆ユダヤ人の哲学者マルチン・ブーバーは、自著『対話的原理』の中で、この世界には二
つの関係しか存在しないとしました。ひとつは「我―汝」のかかわり、もう一つは「我―
それ」のかかわりです。すべてのかかわりをこのような二つの関係で見る見方は、アイン
シュタインの相対性原理にも匹敵する 20 世紀の偉業だと言われています。
◆契約の愛(結婚の愛)は、相手に対する責任と誠実さが求められます。もしその責任が果
たされなければ契約は破棄されても致し方ありません。しかしその契約が破棄されたとき、
別なサイトの愛が存在します。それがアブラハム契約であり、選びの愛です。神の一方的
‫’(אָהַ ב‬ahav)をもって、神は新しいかかわ
な、変わることも失われることもない永遠の愛
りを創造し、回復させてくださったのです。
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詩 71 篇(1) 「依りすがる」
(カテゴリー: 信頼)
サーマク
‫סָ מָ ך‬
6節 「私は生まれたときから、あなたにいだかれています。」(新改訳)
「わたしは生れるときからあなたに寄り頼みました。」(口語訳)
「母の胎にあるときから、あなたに依りすがって来ました。」(新共同訳)
Keyword; 「依りすがる」 rely,
sustain,
uphold,
support,
3:5/37:17, 24/51:12/54:4/71:6/112:8/119:116/145:14
◆新改訳で「いたがれています」と訳されたサーマク
‫(סָ מָ ך‬samakh)は、本来、「ささえ
る、助ける、守る」といった恩寵用語ですが、その受動態では「身を寄せる、よりかかる、
寄り頼む、頼る」となります。主がしっかりとささえてくださっている(sustain)がゆえに、
はじめて、依りすがる、寄り頼むことができるのです。そのかかわりを、新改訳では「い
だかれている」と訳しています。しかも、そのような人は「倒れてもまっさかさまに倒さ
れはしない」(詩 37 篇 24 節)のです。なぜなら、主が私のいのちをささえる方だからです
(詩 54 篇 4 節)。それゆえ、この詩篇の作者は「私は多くの人にとっては奇蹟と思われま
した。」(71:7)と述べています。つまり、人の目には、あり得ない、驚異の的とされたとい
うこと意味です。
‫(סָ מָ ך‬samakh)の類義語として、
身を避けると訳されるハーサー‫(חָ סָ ה‬chasah,71:1,71:7 節には名詞「避け所」の‫חסֶ ה‬
ְ ַ‫)מ‬
があります。ちなみに、
「避け所」のマフセー‫חסֶ ה‬
ְ ַ‫(מ‬macheseh)は、14:6/46:1/61:3/62:7,
◆神の支えを拠り所として絶対の信頼を置くサーマク
8/71:7/73:28/91:2, 9/94:22/104:18/142:5 ―NIV では、すべて refuge と訳されます。他に、
‫(בָ טַ ח‬batach)があります。
信頼を表すものとしては、バータフ
◆御子イエス・キリストの生涯の特徴は、御父に完全に依り頼んだことでした。語ること
も、なすことも、すべては御父の語ること、なすことをなされました。御父の支えに依り
頼んだ御子イエスのライフスタイルは、神の子どもとされた者たちの「ひな型」です。
「ひ
な型」といっても、それは簡単にコピーして真似ることはできません。いのちのかかわり
はある意味で修練(訓練・試練)が必要です。この修練は、必ずしも喜ばしいことではあり
ませんが、後になると、「平安の義―神とのかかわりにおける関係概念―の実」を結ばせ
ます。それゆえ、信仰の創始者であり、完成者である御子イエスから目を離してはならな
いのです。
◆詩 71 篇は信頼を表わす告白で満ちています。
「あなたこそ私の巌、私のとりで」(3 節)、
「あなたは、私の若いころからの私の望み」
「私の信頼の的」(5 節)、
「私の力強い避け所」
(7 節)。こうした神への信頼が、人々をして、驚きを与えたのです。
80
詩 71 篇(2)
「心に留める」
(カテゴリー: 祈り・瞑想)
ザーハル
‫זָ כַ ר‬
16 節「― 私は・・・あなたの義を、ただあなただけを心に留めましょう。」
Keyword; 「心に留める、思い起こす」remember, mention,
20: 7/22:27/42:4, 6/
63:6/71:16//77:3, 6, 11/78:35, 42//103: 18/105:5/119: 52, 55//137:1, 6/143:5
◆「心に留める」、
「思い起こす」と訳されるザーハル
‫(זָ כַ ר‬zakhar)は、神と人とに双方に
使われますが、詩篇を見る限りおいては、私たちが神のことに心に留めるよりも、神が私
たちのことを心に留めてくださることのほうが圧倒的に多いのです。
‫(זָ כַ ר‬zakhar)を取り上げましたが、そこでは「私
たちは、私たちの神、主の御名を誇ろう」と訳されていました。本来、ザーハル‫זָ כַ ר‬は瞑
◆すでに、詩 20 篇 7 節でこのザーハル
想用語であり、思い起こす、思い出す、心に覚える、記念するという意味です。さらに、
神がなされたこと、神ご自身を心に思い起こすことだけでなく、それを口に出すことをも
含んでいます。ちなみに、この詩 71 篇には賛美に関する語彙―6, 8, 14 節の「賛美/praise」
‫( ְתּ ִהלָּה‬tehillah)、22 節の「ほめたたえる」ヤーダー‫(י ָָדה‬yadah)、「ほめ歌を
歌う」ザーマル‫(זָ מַ ר‬zamar)、23 節の「高らかに歌う」ラーナン‫( ָרנַן‬ranan)の動詞、およ
び、
「宣教」に関する語彙、15 節の「語り告げます」サーファル‫(סָ פַ ר‬saphar)、17, 18 節
の「告げ知らせます」ナーガド‫( ָנגַד‬nagad)、24 節の「言い表します」ハーガー‫(הָ גָה‬hagah)
テヒッラー
といった動詞があふれています。すべて心に満ちているものが口から出てくるのです。
◆この詩 71 篇では、自分の誕生の時から神にいだかれてきたことを思い起こし(6 節)、年
老いて自分の力が衰え果てたときにも、私を見放さないでくださいと祈っています(9 節)。
そして今も、常に自分のいのちをつけねらう者たちがいる状況の中で、作者は「ただあな
ただけを心に留めましょう」と瞑想の重要性を告白しています。現代の教会において、再
び、瞑想の重要性を回復する必要があります。忙しく働き、生産性が常に求められる状況
の中では、ゆっくり、ゆったり、ゆたかな神との交わりを持つことは、ある意味で生活ス
タイルの変革が求められます。
◆ウォッチマン・ニーはエペソ書のメッセージを「座す」
「歩む」
「立つ」という三つのキ
ーワードで表わしました。この三つは密接な関係にありますが、中でも最も大切なことは、
最初の「座す」ということです。キリストにおいて私たちの置かれている立場に座すこと
なしに、それにふさわしく「歩む」ことも、敵に対して「立ち」向かうこともできないか
らです。詩 71 篇の作者は、まず、心の中で静かに神を「思い起こす」ことによって、そ
こに満ちることが、やがて賛美となって口から出て、語り告げ(言い表す)ようになります。
◆いのちを喪失した中世の教会において、修道院は毎日、詩篇を瞑想することによって、
霊性を回復し教育、医療、福祉の分野において良い働きを生み出したことを覚えます。
今一度、自分の生活を整理して、神のみことばを心に留める歩みを深めたいと思います。
81
詩 72 篇 「仕える」
(カテゴリー: 服従・従順)
アーヴァド
‫עָ ַבד‬
11 節「こうして、・・・すべての国々が彼に仕えましょう。」
Keyword; 「仕える」 serve 2:11/18:43/22:30/72:11
◆「仕えます」と訳されたアーヴァド
worship 97:7/100:2/102:22/106:36
‫`(עָ בַ ד‬avad)は、旧約聖書ではきわめて重要な動詞
(290 回ほど)ですが、詩篇ではどういうわけか少なく、わずか 8 回のみです。その名詞「し
もべ、奴隷」(servant, slave, officer) エヴェド
‫`(עֶ בֶ ד‬eved)は 800 回も使われています。
◆私たちが神に救われた目的は、神に仕える(礼拝する)者となるためです。このことをわ
すれたクリスチャンの生涯は喜びがありません。
「仕える喜び」ーこれが神の子どもとさ
れた者の喜びです。本当の自由は、自ら、主体的に神に仕えるところにあります。罪の奴
隷から解放されて、神の奴隷となること、それは特権と光栄と自由に満ちた生き方です。
◆「神のしもべ」とは、イスラエルにおいては最高の称号であり、肩書です。神にそのよ
うに呼ばれたのは、旧約ではモーセ、ダビデ、そしてダニエルの三人だけです。神に仕え
る人こそ最もすばらしい理想像的な人でした。そして今、新約時代に生きる私たちの理想
像もこれー神のしもべーです。ですから、主イエスは「あなたがたの間で偉くなりたいと
思う者は、みなに仕える者になりなさい。」とも(マタイ20章26節)、「あなたがたのうち
の一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」(マタイ23章11節)
とも言われました。
◆イエスは自分のことを「人の子」と呼ばれ、「人の子が来たのも、仕えられるためでは
なく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分の
いのちを与えるためなのです。」(マルコ10章45節)と言われました。私たちも、主にあっ
て、「生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許され」
(ルカ1章75節)ているのです。「主の御前で仕える」とは、愛の奴隷となることです。出
エジプト記21章には不思議な奴隷の話があります。神の民の一人が、もし破産して、借金
を返すことができない場合、自分の身を売って奴隷になります。その場合、6年間は主人
のもとで働かねばなりませんが、7年目には無代価で開放しなさいという神の律法があり
ます。ところが、7年目の時に、そのしもべが「私は去りたくありません。いつまでもこ
の主人のもとで仕えたいのです。」と言ったとしたら、そのしもべと主人との間に新しい
かかわりが生まれます。その場合、主人は彼を連れて祭司のところに行き、キリでその奴
隷の耳たぶを柱のとこに刺し通します。この手続きを行ったならば、その奴隷はもはや終
身その主人の仕える者となるのです。
◆余程、すばらしい主人でなければ、終身、主人の奴隷になることを選ぶ者はいません。
ところがそんな奴隷がいました。使徒パウロがそうです。彼は自分のことをいつも「キリ
スト・イエスのしもべパウロ」と紹介しました。すばらしい主人に出会ったからです。
82
詩 73 篇 (1) 「ともにいる」
(カテゴリー: 信頼)
インマーク
‫עִ מָּ ך‬
23 節「しかし私は絶えずあなたとともにいました。
あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。
」(新改訳)
「あなたがわたしの右の手をとってくださるので、
常にわたしは御もとにとどまることができる。」(新共同訳)
Keyword; 「ともにいます」 with,
before,
beside
‫`(עִ מָּ ך‬immak)は動詞ではありません。前置詞のイム‫`(עִ ם‬im)に、人称代名
‫ך‬- (あなたの)がついたものです。前置詞 ‫`(עִ ם‬im)は、
「~とともに」with, 「~
◆インマーク
詞の二人称
の前に」before, 「~のそばに、傍らに」beside, などを意味します。ここでは接尾語に「あ
なた」がついていることが重要な点です。
‫`(עִ מָּ ך‬immak)があります(22, 23, 25 節)。さらに、もう一つ 5 節に
‫`(עִ ם‬im)が見られます。この詩篇で重要なのは前の三つの‫עִ מָּ ך‬です。
◆詩 73 篇には三つの
本来の前置詞
22 節「私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。」
23 節「しかし私は絶えずあなたとともにいました。」
25 節(原文直訳)「あなたが傍にいてくれるので、地では(あなたの他に)慕うものがない。」
◆旧約聖書の中で神はご自身を「インマヌルの神」として啓示されましたが(イザヤ 7:14,
8:8)、インマヌエル ‫`(עִ מָּ נוּ אֵ ל‬immanu-el)とは「神ともにいます」の意味です。
◆詩 73 篇では、神の指導的立場にある者が、神に背を向けている者たちが富を増し、繁
栄している姿を目にし、なんら苦しむことなく安らかに生きているのを見て、ねたみを持
ち、そのことで自責の念に苦しんでいる姿をみることができます(1~16 節参照)。もし、
そんな真相を若い者たちが知ったならば、つまずくに違いないとさえ思いました。そんな
自分を「あなた(神)の前に獣のようでした」(22 節)と述懐しています。
◆ところが、不思議なことに、そんな自分にもかかわらず、
「私は絶えずあなたとともに
いました。
」とも言っているのです。自分の肉の弱さにもかかわらず、絶えず神とともに
いる自分―それは、神が、私の右の手をしっかりとつかまえられたからだと言っています。
「私の右の手をしっかりとつかまえられた」とは、自分が神によってしっかりと愛されて
いるという表現です。この事実が作者をして悟りを得ることになり、勝利が与えられます。
◆作者は、28 節で「私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」と告白
しています。神に愛されていること、それは神に引き寄せられて「神の近くにある」こと
を意味します。これが作者にとって、しあわせなこと(「良いこと」トーヴ
‫)טוֹב‬
でした。
◆「近い」とは関係概念です。神の愛による引き寄せによって、はじめて、私たちは神と
の近しい(親しい)かかわりを持つことができるのです。
「あなたの前に、あなたとともに、
あなたのそばに」いることこそ、神に近くあることーそれが幸いなことなのです。
83
詩 73 篇 (2) 「望む」
(カテゴリー: 渇仰)
ハーペツ
‫חָ פֵ ץ‬
25 節「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。
地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
」 (新改訳)
「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。
地にはあなたのほかに慕うものはない。」(口語訳)
Keyword; 「望む、慕う、愛する、欲する、気に入る、喜ぶ」delight, desire, please,
◆25 節は「私はあなただけを望みとし、あなただけを慕う」という強い意志を反語的に
表現しています。「あなただけを望む」の「望む」という動詞はハーペツ
が使われています。ハーペツ
‫(חָ פֵ ץ‬chaphets)
‫חָ פֵ ץ‬は旧約では 74 回、詩篇では 17 回ですが、そのうち神
の恩寵として用いられているのは 8 回(18:19/22:8/37:23/41:11/51:6, 19/115:3/135:6)で、
3
回(73:25/112:1/119:35)が礼拝用語として用いられています。詩篇においては、
「主が私を
喜びとされた」(18:19)という恩寵の方が、私が主を喜びとし慕うことよりも圧倒的です。
◆作者が聖所に入ることによって、つまり静かに神を瞑想することによって、神の愛に再
び気づかされ、天においても地においても、主のほかに慕うべきお方はいないことをさと
ったのです。そもそも作者が見るべきお方から目を離して、周囲を見たことから霊的逸脱
が起こってしまいました。なにを見たのかと言えば、それは 3 節にあるように、悪者の栄
えている姿でした。羽振りのよさ、すややかな顔、でっぷりした体、深刻な悩みもなく見
える人々を見て、作者の心の中に「嫉み」が生まれました。そうなったとき、神の臨在感
は希薄となり、むなしく感じられたのです。
◆しかし、
「聖所に入る」ことによって、霊的にものごとを見えるようになりました。現
代は、目に見える情報、耳から入る情報など、いろいろなところから私たちに否応なく飛
び込んできます。現代のような高度刺激社会の中で、目にするもの、耳にするものによっ
て翻弄させられます。そうしたものから私たちの心をまもるためには、詩 73 篇の作者の
ように、自らの意志で「聖所に入る」決意が必要です。つまり、目には見えない方を信じ
続けていく信仰の歩みにおいては、「静まる力」が必要なのだと信じます。主の親密で喜
びに満ちた交わりを楽しみながら、天においても、地においても、
「私はあなたのほかに
だれをも望みません。あなだたけを慕います」と言わせるのは、まさに聖霊のなせるわざ
です。
◆神を「追い求める力」とともに、主の前に「静まる力」が必要です。それを可能とする
道は、主イエスが「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもそ
の中にいる」と約束されたように、共同体的な取り組みが求められていると信じます。こ
れは秘義です。いつの時代でも、霊的な回復をもたらした時代には、必ずや、こうした取
り組みがなされているからです。
84
詩 74 篇 「ほめたたえる」
(カテゴリー: 賛美)
ハーラル
‫הָ לַל‬
21b 節「悩む者、貧しい者が御名をほめたたえますように。」(新改訳)
21b 節「貧しい人、乏しい人が、御名を賛美することができますように。」 (新共同訳)
Keyword; 「たたえる、賛美する」 praise, (詩 22 篇参照)
◆詩 74 篇には礼拝用語はただ一つしかありません。それだけにこの一語には重みがあり
ます。それはどぶ沼に咲くハスのようです。それは 21 節の後半「悩む者、貧しい者が御
‫(הָ לַל‬halal)です。普通には、「賛
名をほめたたえますように」の「ほめたたえる」ハーラル
美する」という意味ですが、本来の意味は「輝く、光を放つ」という意味です。
◆だれが「主の御名を」輝かすのかといえば、それは「悩む者(アニー‫」)עָ נִ י‬と「貧しい者
エヴィヨン
‫’(אֶ בְ יוֹן‬aviyon)」によってです。この二つの用語は詩篇においてしばしばワ
ンセットで用いられます。特に、後者の「貧しい者」(エヴィヨン)は極貧を表わす言葉で、
すべてにおいて全く無力で、差し迫った窮乏を意味します。
◆新約聖書では「貧しい」とはギリシア語で「プトーコス」と言いますが、この言葉の背
後には二つのヘブル語〔アニー‫〕עָ נִ י‬と〔エヴィヨン
‫〕אֶ בְ יוֹן‬の流れがあります。
◆詩 74 篇では、神の民であることのしるしであったエルサレムの聖所、およびイスラエ
ルにおけて神を礼拝するすべての場が敵によって跡形もなく打ち壊されました。そうした
神の民の姿をこの詩篇は次のように述べています。
「あなたの牧場の羊」(1 節)
「昔あなたが買い取られた、あなたの会衆」(2 節 a)
「あなたがご自分のものである部族として贖われた民」(2 節 b)
「あなたの山鳩」(19 節)
「しいたげられる者」(21a 節)
「あなたの悩む者」
「貧しい者」(21b 節)・・です。
◆自己認識を表わすこれらのことばに、
「あなたの」
「あなたが」という人称代名詞がつけ
られています。羊も山鳩もみな弱い存在であり、神によって贖われた(買い取られた)存在
です。その者が下から目線で、上から目線の「あなた」
、つまり「神」とかかわっている
存在であるという自己認識を持っています。神なしには存在し得ない者としての無力な自
覚をもったアイデンティティです。ところが、驚くべきことに、これらの弱く貧しい存在
が神の御名を輝かせること、つまりハーラル
‫הָ לַל‬することができる逆転の恵みがなされ
るようにとの嘆願がなされています。
◆この詩 74 篇全体が嘆きの詩篇であるだけに、礼拝用語としてのハーラル
‫הָ לַל‬はひとき
わ輝いています。神はこのような嘆願を心待ちにしておられたのかもしれません。なぜな
ら、聖書の神は弱さと貧しさの中に働いて、自らの栄光の光を放たれる方だからです。
85
詩 76 篇 「誓いを立てる」
(カテゴリー: 誓約)
ナーダル
‫נָ ַדר‬
11 節「あなたがたの神、主に、誓いを立て、それを果たせ。」(新改訳)
Keyword; 「誓いを立てる」 make a vow,
76:11/132:2
◆神に誓いを立てることは、旧約においては全くの自由意思による自発的な行為でした。
それゆえその誓いはしばしば大きな力を持ちます。ひとたび誓ったならば、その誓いは必
ず果たさなければなりません。それゆえ、軽はずみな心で誓いをしてはなりませんでした。
‫( ָשׁלֵם‬shalem)ことについては、56 篇 13 節で取り上
◆立てた誓いを「果たす」サーレム
「・・損になっても立てた
げましたが、
「あなたの誓いをいと高き方に果たせ。」(50:14)、
誓いは変えない。」(15:4)とあるように、誓いを立てるナーダル
‫(נ ַָדר‬nadar)だけでなく、
その誓いを果たすことが重んじられています。
◆さて、旧約聖書の中には神に誓いを立てた人物がおります。
(1) ヤコブの誓い(創世記 28 章)・・「神がともにおられ、旅路を守り、生存の保障を与えて無
事に父の家に帰ることができるなら、自分の財産の 10 分の 1 をささげる」との誓い。―た
とい、この誓いがなくても、
「主はヤコブとともにあり、どこへいってもヤコブを守り、この
地に再び連れ戻す。決してあなたを見捨てない。」と主が約束しておられるにもかかわらず-
(2) ハンナの誓い(Ⅰ サムエル 1 章)・・「もし男の子を授けて下さるなら、その子の一生を主
にお渡しします」と誓願を立てたハンナ。祈りは聞かれ、男の子が与えられた。名はサムエ
ル。第一子は母親にとって最も大切な存在である。その子が乳離れした頃、彼女は主に誓っ
た通りに、主にささげた。
(3) エフタの誓い(士師記 11 章)・・「アモン人との戦いにおいて、もし、主が勝利を与えてく
ださるなら、勝利して自分が帰って迎える最初の者を主にささげる」と誓ったエフタ。
戦いに勝利して帰った彼を迎えた最初の者は、彼の一人娘であった。誓ったゆえに、その娘
は結婚することもができず、主にささげられました。この誓いは軽はずみな誓いでした。
(4) ナジル人の誓い(民数記 6 章)・主のために聖別された者の証として酒や髪を切らなかった。
◆神の誓いの例は「ザカリヤの賛歌」(ルカの福音書 1 章 73 節)の中に、
「主は、・・その
聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて・・」あるように、神はご
自身の誓いを決して忘れることなく、それを果たしてくださる方です。神の口からひとた
び出たことば(約束、誓い)は、雨が降って元に戻ることがないように、決して、変更され
ることなく、必ず、果たされます。
◆新約聖書ではヤコブの手紙に「私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさ
い。
」とあります。これはすべての誓いを禁止することではなく、自己正当化の手段とし
ての軽はずみな誓いを戒めていることばです。
86
詩 77 篇 (1) 「(助けを求めて)叫ぶ」
(カテゴリー: 祈り)
ツァーアク
‫צָ עַ ק‬
1 節「私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。」(新改訳)
「神に向ってわたしは声をあげ、助けを求めて叫びます。」(新共同訳)
Keyword; 「叫ぶ」 cry out, cry for help, shout
◆「叫ぶ」と訳されたツァーアク
34:17/77:1/88:1/107:6, 28
‫(צָ עַ ק‬ts`aq)は、大声で叫ぶ(cry out)、叫ぶ(shout)こと
を意味します。旧約では 55 回、詩篇では 5 回です。新共同訳では「助けを求めて叫ぶ」
と訳され、NIV 訳も
I cried out to God for help です。
◆ある意味で、切迫性、緊急性を伴った叫び、あるいは心の呻きを伴った叫びです。そし
て祈りが聞かれるまでは決してやめない継続的な叫びであることが特徴です。
◆この詩篇では、語るよりも前に、叫びの声が喉の奥から出でくる言葉にならない悲痛な
響きが感じられます。叫びは具体的な苦しみを通して出てきますが、誰に向って叫ぶのか
が重要です。作者は神に向い声を上げて叫んでいます。しかも、
「私が神に向かって声を
あげると、神は聞かれる」と告白しています。
◆ここではどんな内容の「叫び」なのかは記されていません。最も大切なものを喪失した
叫び、存在的・実存的叫び、悔いの叫び、孤立や死を目前にしたときの叫び、苦しみの叫
びです。このような叫びを通して、神とのかかわりはより直線的なものとなると信じます。
イエスも大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ、これは『わが神、わが神。どうしてわ
たしをお見捨てになったのですか。』という意味―」と叫ばれました。そんな叫びをもっ
た祈りがあってよいのだと気づかされます。
‫(צָ עַ ק‬ts`aq)の類義語としては以下のものがあります。
ザーアク‫(זָ עַ ק‬za`aq) cry, 22:5/107:13/107/19/142:1/142:5
ラーナン‫( ָרנַן‬ranan) cry out, sing, sing for joy, shout for joy, rejoice,
◆ツァーアク
(1)
(2)
5:11/20:5/32:11/33:1/35:27/51:14/59:16/63:7/65:8/67:4/71:23/81:1/84:2/89:12/90:14/
92:4/95:1/96:12/98:4/132:9/132:16/145:7/149:5 歌を伴う叫びで、叫びの内容が明確
であることが特徴です。
(3) カーラー‫ק ַרא‬
ָ (qara') call, cry, shout,
3:4/4:1,3/14:4/17:6/22:2/31:17/57:2/66:17/69:3/118:5/130:1/ 呼ぶ、呼び求める。
ָ (shawa`) cry for help, 18:6,
(4) シャーヴァー‫שׁוַ ע‬
41/22:24/28:2/30:2/31:22/72:12/88:13/119:147
助けを求めて主に叫び求めることが特徴です。
◆「叫ぶ」という類義語が多くありますが、大切なことは、こうした叫びを聞きいてくだ
さる神がおられるということです。自分の人生の中で、いつ、どんな叫びを上げ、神はそ
の叫びにどのように答えてくださったか、そのことを思い巡らさなければなりません。
87
詩 77 篇 (2) 「(手を)差し伸ばす」
(カテゴリー: 祈り)
ナーガル
‫נָ גַ ר‬
2 節「苦難の日に、私は主を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばした・・」
Keyword; 「手を差し伸ばす、手を伸べる、手を差し出す」 stretched out 63:10/75:8/77:2
‫( ָנגַר‬nagar)は、旧約で 10 回、そのうち
◆「手を差し伸ばす」と訳されているナーガル
3 回が詩篇で使われています。「渡される、注ぎ出す、差し伸ばす」という意味です。
特に、詩 77 篇の主に「手を差し伸ばす」ということは、神に心を注ぎ出して祈る行為を
表わします。神との強いかかわりを希求する表現のように思います。
‫( ָד ַרשׁ‬darash)
◆詩 77 篇は、神の不在経験の中で、作者はたゆむことなく主を「尋ね求め」
ながらも、なおも暗い森の中にいます。そこで作者はその森の中で、やがて祈りの核心に
触れることになります。神の臨在(顕現)は人間同士がいっしょにいるという経験とはあま
りに大きな違いがあるために、その違いゆえに私たちはしばしば神の不在と捉えがちです。
しかし、神の不在感が強く感じられるほど、神の臨在を新たな感覚で捉えることにつなが
ります。聖なる神は私たちの思いや考えをはるかに超えたとこにおられるからです。
◆神の不在と神の臨在はまさに紙一重です。詩篇にはそうした例が多く見られます。
詩 22 篇もその一つです。新共同訳で見てみましょう。
2 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
3 わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
4 だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。
5 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。
6 助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
―とあるように、ここには神の不在と嘆きの訴えとともに、神の確かな臨在がイスラエル
の歴史において常にあったことを回顧しています。神の不在は神の臨在から切り離される
ことはないのです。このことを思い起こそうとしているのが、この詩 77 篇です。
◆神の臨在の秘儀は、神の不在についての深い意識によってのみ触れられると言っても過
言ではありません。親の子に対する愛が、子が遠く離れているときにいっそう深くなるよ
うに、あるいは愛する者同士が長い間会わずにいると、より深く相手の良さを再発見でき
るように、神との親密な関係も不在であることによって、よりいっそう神との関係が深化
するのです。
◆霊的生活の基本は、期待を持ち続けながら忍耐強く待つことです。神の不在しか感じら
れないときにも、祈りのうちに神に手を差し伸べるとき、私たちのある種の幻想が砕かれ
ていき、神の確かな臨在があることに、霊の目が次第に開かれるかもしれません。
88
詩 77 篇 (3) 「思い起こす」
(カテゴリー: 祈り・瞑想)
ザーハル
‫זָ כַ ר‬
3 節「私は神を思い起こして嘆き・・・」
6 節「夜には私の歌を思い起こし、自分の心と語り合い・・・」
11 節「私は、主のみわざを思い起こそう。
まことに、昔からの、あなたの奇しいわざを思い起こそう。
」
Keyword; 「思い起こす」 思い出す、心に留める、覚える
remember,
8:4/9:12/20:3/22:27/25:6, 7, 7/42:4, 6/63:6/74:2, 18, 22/77:3, 6, 11, 11/78:35, 3, 42/
83:/87:4/88:5/89:4, 50/98:3/103:14, 18/105:5, 8, 42/106:4, 7, 45/109:14, 16/111:5/
115:12/119:49, 52, 55/132:1/136:23/137:1, 6, 7/143:5/
◆瞑想用語のひとつザーハル
‫(זָ כַר‬zakhar)は、ほんとんどの場合 remember と訳されるこ
とが多いようです。日本語訳では「思い起こす」(新改訳)「思う、深く思う」(口語訳)「思
い続ける」(新共同訳)「思い出す」(尾山訳)「心に呼び戻す」(尾崎訳)と訳されています。
◆ザーハル
‫(זָ כַר‬zakar)は、あのとき、このとき、あのこと、このことの一つ一つを思い
起こし、それを神の恵みとして感謝することの大切さを教えることばです。
「思い起こし」
をしてみるとき、一見平凡に見える私たちの生活におけるすべてのことが、神の大いなる
恵みの中で保たれていることを発見します。イエス・キリストの恵みにより罪が赦されて
いること、毎日、命が保たれ、健康が与えられていることなど、すべてが神の恵みの連続
なのです。この視点からの「思い起こし」こそ、私たちを新しくする力を与えてくれます。
◆私たちは、すでに持っているもの、与えられているものに対しては考えずに、今持って
いないもの、与えられてないものを絶えず考える傾向があります。エジプトから救い出さ
れたイスラエルの民たちもそうでした。日毎の糧として、神からマナを与えられたとき、
最初は感謝して喜びましたが、そのうちにすぐに飽きて、不平不満にとらわれはじめまし
た。平凡な生活の中に神の恵みが絶えず注がれていることにもっともっと私たちは気づく
べきです。特別な出来事に対しではなく、むしろ、日常の平凡な生活において主に感謝す
べきです。主はまことにいつくしみ深いのですから。そして、その恵みはとこしえまで変
わることがないのですから。そのような「思い起こし」を図ることこそ瞑想の祝福です。
◆かつて感謝できなかったことや、今も不満に思っているような出来事を、いつくしみ深
い神の恵みの視点から、そのことをもう一度「思い起こし」てみる必要があるかもしれま
せん。ものごとを否定的にみるならば、その人の人生は暗く、悔いと恨みの人生になるか
もしれません。しかし、物事を肯定的に見ることができるならば、その人の人生の将来は
明るく、創造的な祝福がもたらされるに違いありません。不用意に、過去を思い起こすこ
とではなく、そこに神の恵みが絶えず流れていたことを発見する「思い起こし」は、私た
ちに新しい気づきを与え、思いがけない輝ける未来へと導かれることになると信じます。
89
詩 77 篇 (4) 「思いを潜める」
(カテゴリー: 祈り・瞑想)
シアッハ
ַ‫ִשׂ יח‬
3 節「私は神を思い起こして嘆き、思いを潜めて ַ‫שׂיח‬
ִ 、私の霊は衰え果てる。」(新改訳)
6 節「私の霊は悩んで‫שׂיח‬
ִ 問いかけます」(新共同訳)
12 節「私は、・・あなたのみわざを、静かに考えよう ַ‫שׂיח‬
ִ 。」(新改訳)
Keyword; 「思いを潜める、静かに考える」muse,
consider,
tell, meditate, speak
77:3, 6, 12/105:2/119:15, 23, 27, 48, 78, 148/143:5/145:5
◆「思いを潜める」と訳されたシアッハ
ַ‫( ִשׂיח‬siach)は「じっくりと考える、黙想にふけ
る、静かに深く考える」という意味です。特に、詩篇においては、神がなさった奇しいわ
「あ
ざについて、神の戒めやみことばについて、深く考え思うことのようです。12 節では、
なたのみわざを、静かに考えよう
ַ‫( ִשׂיח‬siach)。」と訳しています。
「私
◆新改訳では 3 節に「思いを潜める」と訳されていますが、それは呻きを伴うために、
の霊は衰え果てる」と続いています。6 節では「私のたましいは問いかける」と訳されて
いますが、新共同訳「私の霊は悩んで問いかけます」と訳しています。
「悩んで」という
部分のことばがシアッハ
ַ‫( ִשׂיח‬siach)です。つまり、シアッハ ַ‫( ִשׂיח‬siach)は、悩み呻くこ
とと、思いを潜めることが結びついた意味合いをもった動詞です。
◆シアッハ
ַ‫( ִשׂיח‬siach)は名詞形(男性)と全く同じ文字です。苦痛や苦しい思い、嘆きを表
わすことばでもあります。詩篇では 55:2, 64:1, 102:T, 104:34, 142:2 で使われています。
◆3 節、6 節、12 節にある
ַ‫( ִשׂיח‬siach)を辿っていくと、そこにひとつのプロセスがある
ように思います。作者は自分に起こった叫ばざるを得ない現実の中で、神を思い起こし、
その意味(理由、原因など)を尋ね求めようとします。しかし、自分が直面する苦悩を通し
て、自分の心のひだをめくりながら、自分の心に潜心していくと、そこに巣くっている自
分の問題の根に気づきはじめます。それは決して楽しいことではなく、むしろ苦痛でさえ
あります。そのために、「私の霊は衰え果て」てしまいます。それにもかかわらず、作者
は「わたしのたましいは問いかけ」(6 節)続けます。そうするうちに、次第に冷静になっ
て「静かに考える」ことができるようになり、いつしか自分を客観的に見ることができる
ようになるのです。
◆「思いを潜める」(「深く思う」
「悩む」)とは、苦難や問題の中で、自分の心としっか
りと向き合うことであり、そのことを通して、自分の心にかかっている覆いに気づき、そ
れが取り除かれていくためのプロセスと言えます。これこそが「深く思う」ことであり、
意味のある「悩み」と言えるのではないかと思います。ある牧師は自分には「悩む力が与
えられている」と気づいたと話していました。
「思いを潜めた」結実なのかもしれません。
90
詩 77 篇 (5) 「思い返す」
(カテゴリー: 祈り・瞑想)
ハーシャヴ
‫ָח ַשׁב‬
5 節「私は、昔の日々、遠い昔の年々を思い返した。」
Keyword;
「思い返す」
think, consider, devise, plot,
10:2/21:11/32:2/35:4, 20/36:4/40:17/41:7/44:22/52:2/73:16/77:5/88:4/106:31/
119:59/140:2, 4/144:3
◆「思い返す」と訳されたハーシャヴ
‫(חָ ַשׁב‬chashav)は、旧約で 112 回、詩篇では 17 回
使われています。基本的には「考える」という動詞ですが、悪を企んだり、陰謀を図った
りという悪い面もあったり、自分の歩んできた道を顧みて、反省したりという良い面もあ
ります。
◆人が自分の過去を考えるならば、人に対して悪さを図ったり、人を陥れることを考えた
りしたことは一度や二度ではなかったと思います。自分のそうした悪い面を思い返して、
静かに反省する時を持つことは、私たちがより良い人生を歩むために必要なことです。
詩 119 篇 59 節では「私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ、足を向けまし
た。
」と述べています。詩 77 篇 5 節の「私は、昔の日々、遠い昔の年々を思い返した」と
いうのも、単に、昔の出来事を思い返すだけでなく、そこになんらかの自己反省を含んで
いると考えてよいと思います。
◆瞑想における自己反省は、私たちの生き方の転換点となり得ます。イエスが離された放
蕩息子のたとえ話で、弟息子が父から受け継いだ財産を使い果たし、今にも飢え死にする
ようなみじめな姿になり果てたとき、はじめて、彼は我に帰りました。弟息子は自分の道
を思い返して反省しました。今の自分の姿は自分がそもそも父のもとから離れたことが間
違いだったことを認め、父のもとに帰る決心します。かつては「私に財産の分け前をくだ
さい」と言った彼が、今や「あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりに
してください。
」と思うようになっていました。同じ願いでも、
「分け前をください」とい
う願いと、
「雇い人のひとりにしてください」という願いとでは雲泥の差があります。
◆瞑想の中で自分の過去の姿をしばしば思い返して静かに顧みることは、自分を高慢から
守るうえでとても大切なことだと思います。また、このハーシャヴ
‫(חָ ַשׁב‬chashab)は、自
分がかつて苦しみを通った折に、神の恵みと導きのほかに、自分のうちにそこを通過させ
た要因としてのなにかがあったかを思い返すという意味もあるかもしれません。自分のう
ちにある処し方の特徴―良い意味でのーを思い返してみるのも良いかもしれません。
‫(חָ ַשׁב‬chashav)を devise(企む), plot(悪いことを図る)と訳している聖書もあ
◆ハーシャヴ
ますが、反面、自分を神にあって建て上げていくために、健全な自己反省をもって計画す
る姿勢を表わす動詞でもあります。
91
詩 77 篇 (6) 「思い巡らす」
(カテゴリー: 祈り・瞑想)
ハーガー
‫ָה גַ ה‬
12 節「私は、あなたのなさったすべてのことに思い巡らし、・・・」
Keyword;
「思い巡らす」
meditate,
plot, think,
utter a sound
1:2/2:1/35:28/37:30/38:12/63:6/71:24/77:12/115:7/143:5
◆「思い巡らす」と訳されたハーガー
‫(הָ גַה‬hagah)は、礼拝用語としてすでに詩 1 篇で取
り上げています。この動詞は瞑想用語として重要な動詞です。詩 1 篇では「口ずさむ」と
訳されていますが、詩 77 篇では「思い巡らす」と訳されています。旧約全体では 25 回
と使用頻度は多くはありませんが、そのうちの 10 回が詩篇で使われています。このこと
ばの特徴は、すべてを継続的に思い巡らしながら、やがて、口から語り出すまでを含んで
います。たとえば、77:12、143:5 でも「神のなさったすべてのことを思い巡らす」とあ
り、
「昼も夜も」(1:2)、
「夜ふけて」(63:6)も継続的に思い巡らしています。そして、やが
てそこから神の知恵を「声をたてて」(115:7)「語り」(37:30)出すようになります。
‫(הָ גַה‬hagah)は、牛が草を何度もにれはむように、反芻している光景を思い起
こさせます。熟成という言葉がありますが、ハーガー‫(הָ גַה‬hagah)は、まさに神のことば
◆ハーガー
や神がなされたことの意味を思考の中で咀嚼し、熟成させる行為と言えます。
◆旧約聖書では食物規定があり、食べてよいものとそうでないものがはっきりとしていま
した。食べてよい動物としてあげられているのは、ひずめの別れた動物、そして反芻する
動物です。この二つを兼ね備えた動物は食べてよいが、それ以外のものは食べてはならな
いとされています。ちなみに、食べてよいのは、牛、羊、山羊といった動物でした。
◆牛の自然な行動パターンを観察した人によれば、牛は、4~5 時間かけて草を採食し、
一日、14 時間は横になって休息していると言います。その時間には反芻している時間も
含まれています。つまり、良い乳を出すためには、横になって休息しているしっかりとっ
ていることが大切なのであり、そうした時間をしっかりとっている牛こそ生産性の良い牛
だといわれています。ですから、酪農家の仕事は、牛が横になって、のんびりと反芻する
ことのできる環境を提供してあげることだと言います。
◆反芻とは「一度、噛んで飲み込んでものを、再び口の中に戻して、再咀嚼することです。」
そうした再咀嚼する反芻動物の特徴は、四つの胃を持っています。第一の胃が最も大きく
全体の 80%を占めています。草を食べて第一の胃に取り込まれた草の繊維を消毒し、分
解するのは酵素ですが、この酵素は唾液の中に含まれています。唾液の中に含まれる酵素
は胃の中にいる微生物によって作られるのだそうです。唾液は噛むことで、咀嚼すること
でより多く分泌します。牛が横になって、反芻する時間をしっかりとることによって、唾
液の分泌が活発になり、それが細菌を殺し、消化を良くし、それが良い乳や肉を作ってい
くからです。―これらのことを思うときハーガー
92
‫הָ גַה‬の重要性がより良く理解できます。
詩 78 篇 「守る」
(カテゴリー: 従順)
ナーツァル
‫נָ ַצר‬
7 節「彼らが神に信頼し、神のみわざを忘れず、その仰せを守るためである。」(新改訳)
Keyword;
「守る」
keep,
observe,
obey,
25:10/34:13/78:7/105:45/119:2, 22, 33, 34, 56, 69, 100, 115, 129, 145
◆「守る」と訳されているナーツァル
‫(נָצַ ר‬natsar)は、神が人を「守る」場合には、英語
訳の NIV では protect が当てられ、人が神のおきてを守る場合には keep が当てられてい
ます。神が人を「守る」と言う場合、防衛の保障を意味しますが、人が神との約束、ある
いは神の律法を「守る」という場合には、神とのかかわりを保つことに他ならないからで
す。特に、詩 119 篇における「守ります」という礼拝用語は、自主的・主体的なかかわり
において、
「愛します」と同義的意味合いをもっています。「おきてを守る」というのは、
何か窮屈で、自由のない束縛や義務感を想像します。しかし、詩 119 篇では「守る」とい
うことが当為であるとともに、自意を表す重要な言葉となっています。つまり、「守る」
とは、神ご自身のことばである戒め(律法)に喜んでお従いすることを意味しているのです。
◆イエス・キリストが最後の晩餐の席で弟子たちに語った「新しい戒め―あなたがたは互
いに愛し合いなさいー」があります。しかも、その相互愛には「わたしがあなたがたを愛
したように」という愛が前提となっています。イエスは、「わたしの戒めを保ち、それを
守る人は、わたしを愛する人です。」
、「だれでも、わたしを愛する人は、わたしのことば
を守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来
て、その人とともに住みます」とも語られました(ヨハネの福音書 14 章 21~23 節)。
ここでも、
「愛する」ことと「神の戒めを守る」ことが同義とされています。
「なぞ」とは、不
◆詩 78 篇では、作者が「昔からのなぞ」について語ろうとしています。
可解、神秘、私たちの理性では納得できない事柄であり、あり得ないこと、という意味で
す。その内実は、神と神によって選ばれた民との関係についてのものであり、神がなして
くださった驚くべき恵みを忘れて、繰り返し神に背き、幾度も神を無視しようとしてきた
にもかかわらず、神はその民に見切りをつけてしまうことなく、見捨てることもなく、歴
史を貫いて、忍耐とあわれみをもってかかわってくださったということ・・・これがこの
詩篇のいう「昔からのなぞ」です。この「なぞ」が語られる目的が 7 節に記されています。
それによれば、
「彼らが神に信頼し、神のみわざを忘れず、その仰せを守るためである」
としています。神の「なぞ」に目が開かれるならば、おのずと守るべきことが、愛すべき
ことにより近づけられるのだと信じます。これこそが神の恵みの業だと信じます。
‫(נָצַ ר‬natsar)の類義語にシャーマー‫( ָשׁמַ ר‬shamar)があります。ちなみに、
◆ナーツァル
詩 119 篇では 4, 5, 8, 9, 17, 34, 44, 55, 57, 60, 63, 67, 88, 101, 106, 134, 136, 146, 158,
167, 168 で使われています。
93
詩 79 篇 「とこしえまで」
(カテゴリー: 誓約)
オーラーム
‫ע ֹולָם‬
13 節「そうすれば、・・私たちは、とこしえまでも、あなたに感謝し・・ましょう。」
Keyword; 「とこしえまでも、とこしえに、永遠に、」 forever,
ever,
everlasting
5:11/30:12/52:9/61:8/75:9/79:13/86:12/89:52/119:44
◆「神は、人の心に永遠への思いを与えられた」と伝道者の書 3 章節にしるされています
が、ここでは詩 79 篇 13 節にある「ともしえまでも」と訳された
‫`(ע ֹולָם‬olam)に注目し、
ヘブル人が永遠についてどのように思惟していたかを思い巡らしてみたいと思います。
‫`(ע ֹולָם‬olam)は、旧約聖書においては 439 回使用されています。その中に
◆オーラーム
は、神ご自身の永遠性についての言及―たとえば、「まことにとこしえからとこしえまで
「あなたはとこしえまでも統べ治められる。
」(出 15 章
あなたは神です。
」(詩 90 篇 2 節)、
18 節)-もあれば、人に対する神のかかわりの永遠性―たとえば、「主の恵みはとこしえ
からとこしえまで、主を恐れる者の上にある。」(詩 103 篇 17 節)―についての言及もあり
ます。しかも、この語彙は詩篇において最も多く使われています。
◆ヘブル人の時間観念、あるいは永遠についての思惟は、天文学的な時間の客観的な持続
に関する表現ではありません。あくまでも、神と人とのかかわりの中にある限界なき時間
を意味しています。オーラーム
‫ע ֹולָם‬は、「いつまでも」「生涯」(for life)とも訳され、必
ずしも、永遠というわけではありません。
◆ルカの福音書 1 章に祭司ザカリヤの賛歌がありますが、その中に、「主は、われらを、
敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御
前に仕えることを許される。」(74, 75 節)とあります。つまり、ここの「人の全生涯にお
いて」がオーラームなのです。神とのかかわりにおいて、全生涯、終生、主に仕えること
が許されている意味でのオーラームは、神の途切れることのない、変わることのない、永
遠の愛によって支えられることなしには、あり得ないことです。
◆私たちは軽々しく「とこしえに、永遠に」と言ったり、賛美したりすることがあるます
が、このことばを口にするとき、いつも、神の永遠性に支えられた「とこしえまでも」で
あることに心を留めたいものです。
◆礼拝の最後に歌われる三位一体なる神を讃える「頌栄」があります。頌栄には、必ずと
言っていいほど、永遠性に関する表現が伴っています。そのことに留意し、また、その永
遠のいのちのかかわりの中に私たちが招かれていることを覚えたいものです。
‫(דּוֹר‬dor)があります。詩 79 篇 13 節に‫ע ֹולָם‬の同義的対句語と
◆類義語としてはドール
して
‫「(לְ דֹר וָ דֹר‬代々限りなく」from generation to generation)が置かれています。この
「代々にわたって」
ことばも詩篇に多く見られます。
「世々にわたって」(always) 10:6、
(generations)45:17 等と訳されます。⇒参照。詩 61 篇でも‫ע ֹולָם‬を取り上げています。
94
詩 80 篇 「そうすれば」
(カテゴリー: 誓約)
ヴェ
ְ‫ו‬
3, 7, 19 節「そうすれば、私たちは救われます。」
18 節
「そうすれば、私たちはあなたを裏切りません。」
Keyword; 「そうすれば、さすれば」 and
19:13/51:7, 8, 14, 15/106:5/119:6, 33, 117, 125
◆「そうすれば」と訳されたヴェ
ְ‫ו‬
は接続詞です(新共同訳では訳されていません)。英語
では and ですが、日本訳では「そうすれば」と続く神への忠誠の誓いをうまく表現するも
のとなっています。
◆命令形の後に来る接続詞の後には、神の祝福の約束が伴いますが、嘆願の後に来る接続
詞の後には、神の祝福の状態、あるいは神への誓約がきます。詩 80 篇には四回(3, 7, 18, 19
節)、
「そうすれば」ということばがありますが、いずれも、後者の意味です。
◆「そうすれば」の前にある嘆願の部分を見てみましょう。3, 7, 18 節はこの詩 80 篇のリ
フレイン(反復句)となっていて、この詩篇の最も重要な部分です。
「神よ(万軍の主よ)。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、
・・」
「もとに返し」という部分を他の聖書でみると、
「連れ帰り」(新共同訳)、
「連れ戻し」(岩
波訳)、
「元通り、みそばにおらせ」(尾山訳)、
「生き返らしめよ」(文語訳)、Restore us(NKJV)
と訳されています。つまり、神との生きたかかわりの回復(再構築)を願っているのです。
◆「御顔を照り輝かせてください」という意味は、民数記 6 章にあるアロンの祝祷を思い
起こさせますが、LB 訳は次のように訳しています。
「私たちに向けられる御顔が、喜びと
愛で輝きますように。それこそ私たちを救うのです。
」と。この場合の「救うのです」と
は、
「ほっとする」
「心が安らぐ」という意味合いだと思います。それは、子どもが、親の
顔やまなざしをうかがうのと似ています。どんなにことばで赦されたとしても、受け入れ
られたとしても、顔が怒っていたり、眼差しがきつかったりすると安心できないものです。
◆「御顔を照り輝かせてください」とは、
「あなたの喜びと愛のまなざしを注いでくださ
い」と言い換えることができます。このまなざしこそ私たちを安心させ、かかわりを新し
くさせる原動力です。もしそのようなまなざしが注がれるならば、
「私たちはあなたを裏
切りません(離れません、背を向けません)」と忠誠の誓いをすることができます。この決
意が与えられること自体が神のあわれみと言えます。
◆御父の私たちに対する「喜びと愛のまなざし」を、聖霊によって仰ぎ見ることーこれこ
そが、
「いのちの日の限り、主の家に住み、主の麗しさを仰ぎ見る」(詩 27 篇 4 節)ダビデ
の“One Thing”―ダビデの幕屋の精神であると信じます。
95
詩 81 篇 「(口を)大きく開ける」
(カテゴリー: 渇望)
ラーハヴ
‫ָרחַ ב‬
10 節「あなたの口を大きくあけよ。わたしがそれを満たそう。」(新改訳)
「あなたの口を広くあけよ。
・・」(口語訳、関根訳、文語訳)
Open wide your mouth and I will fill it. (NIV)
Keyword; 「大きくする、広げる、拡大する」 open, open wide, enlarge,
18:36/
◆「口を大きく開ける」ことは神が私たちに要求していることです。なぜなら、神は、
私たちに「最良の小麦を食べさせ、岩にできる蜜で満ち足らせ」てくださる方だからです。
◆「大きく開ける」
「広く開ける」と訳されたラーハヴ
‫( ָרחב‬rachav)は、旧約聖書では 25
回、そのうち詩篇では 6 回使われています。神の敵が「大きく口を開く」場合には、横柄
で傲慢な態度を表す意味になりますが、神の民が口を大きく開くことは、私たちが必要す
るものを主が満たしてくださる方として大きな期待をすることを意味します。あるいは、
サムエルの母ハンナが「私の口は敵に向かって大きく開きます。
」(Ⅰサムエル 2:1 )とある
ように、大胆に、勝利の宣言や告白、賛美することを意味します。
◆大きくすること、大きく広げることは「口」だけでなく、
「心を広くする」ことは、心
の自由、解放、寛容さ、ゆとりを意味しますし、
「足」の場合「あなたは私を大またで歩
かせます。―大きく踏み出すー」とあるように、自信と勇気を表す意味になります。また、
「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし・・」(イザ
ヤ 54 章 2 節)とあるように、自分の地境(テルトリー)を広げる場合にも用いられます。
◆いずれにしても、ラーハヴ
‫( ָרחב‬rachab)は、神が自分にこれからどんな良いことをして
くださるのか、ウキウキ、ワクワク、ドキドキしながら期待するようなことばです。
◆類義語としては、
‫(פָּ צַ ה‬patsah)
(1)パーツァー
旧約では 15 回。エゼキエルに対する主のことばー「人の子
よ。わたしがあなたに語ることを聞け。・・あなたの口を大きく開けて、わたしが
あなたに与えるものを食べよ。
」(エゼキエル 2 章 8 節)―これは神のことばを信仰
をもって受け取り、それによって大いに育まれるようにとの命令です。
(2)パーアル
‫(פָּ עַ ר‬pa`ar)
旧約では 4 回。詩篇では 119 篇 131 節の 1 回のみです。「私は
口を大きく開けてあえぎました。あなたの仰せを愛したからです。
」
主を愛する
ゆえの渇望を意味する表現です。
◆このように、
「口を大きく開ける」とは、心を大きく開いて待ちの状態であることです。
待ちといっても、とても期待しながら待っているというイメージです。神への依存―それ
は御子イエスの姿です。御父がすべてのすべてとなるために私たちも口を大きく開いて主
を待ち望む者でありたい思います。
96
詩 84 篇 「恋い慕う」
「絶え入るばかり」
(カテゴリー: 渇望)
カーサフ
カーラー
‫כָּ סַ ף‬
‫כָּ לָה‬
2 節「私のたましいは、主の大庭を恋い慕って‫(כָּסַ ף‬kasaph)、
絶え入るばかり ‫כּלָה‬
ָ (kalah)です。」
Keyword; ①「恋い慕う」long for, yearn, hungry, 17:12/84:2(旧約 6 回、詩篇 2 回)
②「絶え入るばかり」 long for,
◆「恋い慕って絶え入るばかりです」という表現は、旧約聖書に 4 回、しかもそのすべて
が詩篇(84:2/119:81, 82, 123)に見られます。非常に特異な表現です。
「絶え入るばかり」
と訳されたカーラー
‫ָכּלָה‬
(kalah)は、「尽き果てる、消え失せる、衰え果てる、滅ぼし尽
くす、疲れ果てる、終わる」と訳されています。
「私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。」(119:81)
「私の目は、みことばを慕って絶え入るばかりです。
」(119:82)
「私の目は、あなたの救いと、あなたの義のことばとを慕って絶え入るばかりです。」(119:123)
◆「慕っている」のは、
「主の大庭」であったり、
「あなたの救い」
「みことば」
「あなたの
義」とそれぞれであったりしますが、慕っている主語(主体)は、
「私のたましい」
「私の目」
となっています。特に、「目」は存在全体を表すユダヤ的表現です(マタイの福音書 6 章
22~23 節)。つまり、「恋い慕って絶え入るばかりです」とは、自分の全存在を通して、
神ご自身との深いかかわりを求めている渇望的表現と言えます。
◆詩 119 篇、そしてこの詩 84 篇も、現実にはシオンから遠く離れているがゆえに、より
いっそう神への憧れ、神への切望、神への思慕がみられます。非常に情感、心情、感情的
表現です。この表現に最も近いのは、ダビデが主に求めた「一つのことーOne Thing」
ではないかと思います。ダビデは「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。
私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見・・・ために。」 と詩
27 篇 4 節で告白しています。
◆使徒パウロも、
「キリストを得る」というこの一事に励んでいます。
「私は、すでに得た
のでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求して
いるのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったので
す。
・・私はすでに捕えたなどとは考えていません。ただ、この一事に励んでいます。
すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものにむかって進み、
・・一心に走って
いるのです。」(ピリピ 3 章 12~14 節) 「義―神との生きたかかわりーに飢え渇く者は幸
いです。その人は満ち足りるからです。
」(マタイ 5:6)と主は言われましたが、神のすべて
の祝福は渇く者にのみ注がれるからです。
97
詩 85 篇 「聞く」
(カテゴリー: 従順)
シャーマー
‫ָשׁ ַמע‬
8 節「私は、主であられる神のおおせを聞きたい。」(新改訳)
8 節「わたしは主なる神の語られることを聞きましょう。―主は平和を語られるからです。」
(口語訳)
9 節「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます。」(新共同訳)
Keyword; 「聞く、聞きます」 I will hear,
◆「聞く」と訳されたシャーマー
I will listen,
‫( ָשׁמַ ע‬shama`)は、すでに詩 41 篇でも取り上げました。
そこでは呼びかけとして「聞け」でしたが、詩 85 篇の「聞く」は I will hear, I will listen,
で、作者のより自発的な姿勢を鮮明にしているからです。特に、詩 85 篇の「私は聞きた
い、聞こう」という態度がこの詩篇に大きな変化を与えている重要なキーワードです。
◆8 節の「聞きたい、聞こう」としている具体的な内容は、神の声、神の言葉です。しか
しそれは律法的なことばではなく、やがてメシヤによって実現されるシャロームの宣言の
ことです。シャロームとは、「平和」を表わす言葉ですが、神の祝福を表わす総称として
の語彙でもあります。換言するなら「福音」です。それほ作者は「聞きたい」「聞こう」
としているのです。詩 85 篇 9 節以降にはやがて神の御子イエス・キリストによって実現
する神の恩寵用語(名詞)が対句で羅列されています。しかも、これらの恩寵の対句は、や
がて互いにしっかりと御子イエスによって結びあうことが預言的に語られています。
(1)「救い」(イェシャー)‫ֵשׁע‬
ַ ‫ י‬と「栄光」(カーボード)‫כָּ בוֹד‬
(2)「恵み」(ヘセド)‫ חֶ סֶ ד‬と「まこと」(エメス)‫אֱ מֶ ת‬
(3)「義」(ツェデク)‫ צֶ ֶדק‬と「平和」(シャローム)‫שׁלוֹם‬
ָ
◆これらの用語は、私たち人間に対する神の恩寵によるかかわりの用語です。人間の努力
によって実現できるものではありません。神の一方的な恩寵(好意)の祝福です。この恩寵
だけが人を新しく変えていく力なのです。
◆使徒パウロは、天からの光(啓示)を受けるまでは、キリストの福音を知りませんでした。
彼は福音の光に触れて、はじめて自分が律法の束縛のなかにあったことを悟りました。そ
の彼が「私は使徒の中では最も小さな者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。に
ぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私に
なりました。そして、私に対するこの恵みは、無駄にはならず、私はほかのすべての使徒
たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
」(Ⅰコ
リント 15 章 9~10 節)といます。また彼は愛弟子のテモテに対しても「わが子よ。キリス
ト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。
」と勧めています。
◆日ごとに神の恵みの福音を聞き、それを自分のたましいに向かって語り、また人にもそ
れを告げる者となりたいのです。だれにとっても、神の福音を聞くことがスタートです。
98
詩 86 篇 「まことに」
(カテゴリー: その他)
キー
‫כּי‬
5 節「主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、・・すべての者に恵み深くあられます。」
Keyword; 「まことに」 surely,
without doubt,
‫(כּי‬kiy)があります。口語訳、
新共同訳ではすべてカットされていますが、新改訳聖書がこの ‫(כּי‬kiy)を大切にし、「ま
◆この詩 86 篇には四つの「まことに」と訳された接続詞キー
ことに」と訳しています。この「まことに」という接続詞は以下の節で使われています。
5 節「まことに、あなたはいつくしみ深く・」 10 節「まことに、あなたは大いなる方、
・・」
17 節「まことに主よ。あなたは私を助け、私を慰めてくださいます。」
・・」と訳してい
◆13 節では、岩波訳が「まことに、あなたの恵みは私に対して大きく、
ます。関根訳では 5, 10, 13 節を「げに」(surely)と訳しています。文語訳では 13, 17 節を
「そは」(for)と訳しています。
◆接続詞
‫(כּי‬kiy)は、旧約聖書で実に 4,483 回使われています。大きく二つの意味で使わ
れています。第一は、
「まことに」(surely, without doubt―疑問の余地なく、間違いなく)
という意味と、第二は「なぜなら」(for)という意味があります。ちなみに、
「なぜなら」
(for)という意味合いの‫כּי‬は、詩 86 篇に限って言うならば、1, 2, 3, 4, 7, 13, に使われて
います。しかし、その場合には新改訳ではほとんどカットされています。
◆ちなみに、詩篇から「まことに」と訳された箇所を取り上げてみると、以下の通りです。
1:2, 6/5:12/18:31/21:7/22:24, 28/24:2/28:6/30:5/31:10/33:4, 9, 21/35:7/37:28/47:2, 7, 10/
50:6/51:3/55:12/56:13/57:1/59:16/61:3, 5/66:10/69:35/76:10/77:11/82:8/84:10, 11/86:5,
10, 17/89:6/90:4, 7, 9/91:11/94:14/96:4, 5/97:9/102:14/106:1/107:1, 9, 16/116:8, 16/118:1/
119:50/135:3, 4, 5, 14/138:6/141:8/147:1,1/ 参照。
◆口癖として、
「ほんとうに」とか、
「つまり」といった言葉を無意識で使う人がおります
が、詩篇の記述された「まことに」は、作者の悟り、あるいは、実際的体験に裏打ちされ
た表現だと思います。イエス・キリストの「まことに、まことに、あなたがたに告げます」
という常套句は、口癖ではなく、
「これから私はほんとうのこと、大切なこと、すなわち、
真理を告げます。」と言う意味で、聞く者たちに真摯な傾聴を促すことばです。
◆類義語としては接続詞のアク
‫’(אַך‬ak)があります。旧約全体で 161 回。そのうち詩篇で
「まことに」(surely, truly)、
「ただ」(also, only)、
「・・こそ」(alone)、
は 24 回使われています。
「・・だけは」(while)、
「必ず」(yea)といった意味があります。
「まことに」-23:6/37:8/39:5,
6, 6, 11/49:15/58:11, 11/62:1, 2, 4, 5, 6, 9/68:6, 21/73:1, 13, 18/75:8/85:9/139:11/140:13
◆類義語として副詞のアフ‫’(אַף‬aph)があります。「まことに」「まさしく」「・・もまた」
「そればかりか」「さらに」と訳されます。
「まことに」と訳されているのは-16:6, 7,18/18:48/65:13,16/89:6/93:1/96:10/119:3 参照。
99
詩 88 篇
「叫ぶ」
(カテゴリー: 祈り)
シャーワー
‫ָשׁ ַוע‬
13節「しかし、主よ。この私は、あなたに叫んでいます。」
Keyword; 「叫ぶ」 cry for help, call for help,
cry out,
18:6, 41/22:24/28:2/30:2/31:22/72:12/88:13/119:147
◆詩 88 篇は全く出口の見えない詩篇です。詩篇の中で最も暗い詩篇と言えます。6 節に
は、
「あなたは私を最も深い穴に置いておられます。そこは暗い所、深い淵です。」とあり
ます(「最も深い穴に」を、岩波訳では「常闇の中に」と訳しています)。完全に閉ざされ
た世界、孤独ではなく孤立無援の世界です。作者はそんな状況から助けを求めて叫んでい
るのです。
◆詩 88 篇には祈りの用語を表わす語彙が 6 つあります。
①1 節のツァーアク
‫(צָ עַ ק‬tsa`q)
―動詞
」
「主、私の救いの神。私は、昼は、叫び、夜はあなたの御前にいます。
②2, 13 節のテヒッラー
‫( ְתּפִ לָּה‬tephillah)
―名詞
」
「私の祈りがあなたの御前に届きますように。
③2 節のリンナー
‫( ִרנָּה‬rinnah)
―名詞 ※ちなみに、動詞は、ラーナン
‫( ָרנַן‬ranan)
「どうか、あなたの耳を私の叫びに傾けてください。
」
④9 節のカーラー
‫( ָק ָרא‬qara')
―動詞
「主よ。私は日ごとにあなたを呼び求めています。」
‫( ָשׁטָ ח‬shatach)
⑤9 節のシャータッハー
―動詞
」(別訳では「広げる、さらけ出す」)
「あなたに向かって私の両手を差し伸ばしています。
⑥13 節のシャーワー
‫( ָשׁוַ ע‬shawa`)
―動詞
」
「しかし主よ。この私は、あなたに叫んでいます。
◆「叫んでいます」と訳されたことばシャーワー
‫( ָשׁוַ ע‬shawa`)は、具体的な助けを求めて
必死に叫ぶことを意味します。他にも「叫ぶ」という動詞の類義語は多くあります。
(1) カーラー
‫( ָק ַרא‬qara’)は、大きな声を出して神を呼び求める。体裁を繕うことなく、
なりふりかまわない祈りの叫びです。
‫(זָ עַ ק‬za`aq)は、苦しみの中からの叫びであり、嘆きを訴える叫びです。
ルーア ַ‫(רוּע‬rua`)は、同じ叫びでも勝利の叫びであり、喜びを伴った叫びです。
ラーナン‫( ָרנַן‬ranan)は、喜びの叫びです。
ツァーアク‫(צָ עַ ק‬tsa`q)は、切迫性、緊急性を伴った叫び、あるいは心の呻きを伴った
(2) ザーアク
(3)
(4)
(5)
叫びです。そして、祈りが聞かれるまでは決してやめない継続的な叫びであることが
特徴です。
◆このように、同じ「叫ぶ」(cry, cry out)でも様々なニュアンスがあるようです。
100
詩 89 篇
「知らせる」
(カテゴリー: 宣教)
ヤーダー
‫יָ ַדע‬
1節「私は、主の恵みを、とこしえに歌います。
あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。」
I will sing of the loving-kindness of the Lord forever; ―I will make known Thy
faithfulness with my mouth (NKJV)
40:10/89:1/105:1
Keyword; 「知らせる」 make known,
◆「知らせる」(新改訳)「告げ知らせる」(口語、新共同訳)と訳されたヤーダー
‫( ָי ַדע‬yada`)
は「知る」という動詞です。「理性的に知る、経験を通して知る、人格的に知る」という
意味です。特に、詩 139 篇では、神とのかかわりにおいて「知る」
‫(י ַָדע‬yada`)というこ
とばが 6 回も使われています。
◆詩 89 篇では、神とのかかわりにおいて経験的に知ったことを、他者に「知らせる」
「告
げ知らせる」「告げる」という意味で使われています。40:10/89:1/105:1 参照。つまり、
大切なことは、自ら経験したことを知らせるということです。ちなみに、詩 40 篇では主
の真実と救いを、詩 89 篇では主の恵みと真実を、詩 105 篇では主の奇しいみわざをー
それぞれ伝えようとしています。
‫(חֵ סֵ ד‬ヘセド、chesed) と「真実(まこと)」‫( אֱ מוּנָה‬エムナー、’amunah)
および、「義」‫(צֶ ֶדק‬ツェデク、tsedeq)と「公正」‫שׁפָּ ט‬
ְ ‫( ִמ‬ミシュパート、mishpat)は、
◆詩 89 篇の「恵み」
契約の土台です。特に、「恵みと真実(まこと)とは、イエス・キリストによって実現」し
ます。この契約はシナイ契約とは別なサイトの契約、すなわち、アブラハム契約、ダビデ
契約の流れです。モーセを通して結んだシナイ契約は「わざの契約」で、失敗は赦されず、
責任を追及されますが、アブラハム・ダビデ契約では、人の失敗とはなんらかかわりなく、
神の一方的な好意に基づく契約です。二つの契約の良い例は、サウル王とダビデ王に対す
る神の取り扱いに見られます。サウルはシナイ契約を代表し、彼の罪によって恵みは取り
去られ、王位も剥奪されました。しかし、ダビデはアブラハム契約を代表し、彼の罪によ
っても恵みは取り去られず、ダビデの家系と王位は継続しています。前者のわざの契約で
は永遠ということはあり得ませんが、後者の恵みの契約では永遠ということばが附随して
います。この後者の恵みの契約こそ、代々限りなく知らされるべきです。
◆イスラエルの民は、後者のサイトによる契約によって保たれ、新しくされてきたのです。
私たちも主イエス・キリストを通して恵みの契約の中に生かされています。この契約は「新
しい契約」とも言われ、聖霊によって律法を心に書き記されるという神の奇しいわざがな
されます。
「律法を心に書き記される」とは、私たちが心から神を愛し、神のことばを喜
びとする者へと変えられることを意味します。恵みと真実に貫かれた「新しい契約」、私
たちはそれを告げ知らせるべき者として選ばれたのです。
101
詩 91 篇 「宿る」
(カテゴリー: 信頼)
リーン
‫לין‬
1 節「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」
Keyword; 「宿る」
spend, remain, rest 25:13/30:5/49:12/55:7/91:1
◆詩 91 篇 1 節は、神を信頼することを格言的に表現しています。前半の「いと高き方の
隠れ場に住む」こと、後半の「全能者の陰に宿る」こととは同義です。
◆前半の「住む」という動詞はヤーシャヴ
‫(י ַָשׁב‬yashav)。この動詞は、詩 23 篇 6 節の「私
は、いつまでも、主の家に住まいましょう」というダビデの誓約のことばの中にある同じ
動詞がで、主との深い親密を表わしている言葉です。それに加えて、後者の「宿る」とい
‫(לין‬lin)は前者をさらに補強するものとなっています。
◆「宿る」と訳された動詞リーン‫(לין‬lin)は、旧約で 69 回。そのうち詩篇はわずかに 5
う動詞リーン
回しか使われていません。しかし、それは主との深いかかわりを表す重要な動詞です。
◆リーン
‫(לין‬lin)は
(夜を)過ごす、泊まる、宿る、とどまる、憩う、眠りに就く・・とい
った意味ですが、原文では再帰態
‫―יִ ְתל ֹונָן‬いわば強いて自分にさせることーを用いてい
ることで、そこに作者の明確な意志が込められています。つまり、
「自らをして全能者の
陰に宿らせる」という意味です。その証拠のひとつとして、この詩 91 篇の作者は 2 節で
自ら「私は主に申し上げよう。
『わが避け所、わがとりで、私の信頼する神。
』と。
」と告
白せざるを得ませんでした。なぜなら、作者は 3 節以降で「あなた」と呼びかける第三者
に対して、神を信頼することのすばらしさを教え、あかしするためです。
◆「自らをして全能者の陰に宿らせる」という意思は、主なる神にも認められていること
が 14 節以降をみると分かります。〔ちなみに、14~16 節は、自らをして全能者の陰に宿
らせる者に対する神の祝福の宣言(約束)が記されています。〕 「彼がわたしを愛してい
るから、わたしは彼を助けだそう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く
上げよう。
」(14 節)
◆ここには、「宿る」ということが別の表現、つまり「愛する」ということばで表わされ
ています。
「愛している」の「愛する」ということばはハーシャク
‫(חָ ַשׁק‬chashaq)で、詩
篇ではここだけに使われているめずらしいことばです。口語訳は「愛して離れない」と訳
していますが、原意は、「慕う、しがみつく、恋い慕う、切に望む」といった意味です。
また、「知る」と訳されたヤーダー
ーク
‫(י ַָדע‬yada`)も、人格的交わりの動詞としてのハーシャ
‫(חָ ַשׁק‬chashaq)と同義と言えます。
「陰」
「羽」
「翼の下」
「大盾」
「とりで」(=小盾)といった「覆い」
◆詩 91 篇には「隠れ場」
をイメージする語彙が多くあります。神ご自身の覆いを持つ者がいかに幸いであるかを深
く思わせる詩篇です。まさに、御子イエスは、常に、御父の覆いの中に宿った方であられ
たゆえに、だれよりも高く引き上げられた方でした。
102
詩 94 篇 「静かに待つ」
(カテゴリー: 信頼)
カトシャー
‫ָשׁ ַקט‬
13 節「わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜るからです。」(新改訳)
「その人は、苦難の襲うときにも静かに待ちます。」(新共同訳)
You grant him relief from days of trouble (NIV)
quiet, still, grant relief, 76:8,/83:1/94:13
Keyword; 「静かに待つ」
‫( ָשׁ ַקט‬shaqat)を、新改訳では「平安を賜る」と訳され、主体が神であるの
◆シャーカト
対して、新共同訳では「静かに待つ」と訳して主体は人です。前者で考えると恩寵用語と
考えることができますが、後者で考えると礼拝用語となります。これは決して矛盾ではな
く、ひとつのかかわりの表と裏の表現です。二つを総合すると、神が「平安を賜る」ので、
その人は、たとえどんな苦難が襲ってきたとしても、「静かに待つ」ことができるという
ことです。この「静かに待つ」ことができるということこそ、私たちの霊性においてとて
も重要なことだと信じます。
◆関根訳の詩篇には各詩篇にタイトルが付記されています。ちなみに、「復讐の神、主
よ。
・・地をさばく方よ。」ではじまるこの詩 94 篇のタイトルが、なんと『神との親しさ』
となっています。この詩編の 12、13 節にその鍵がありそうです。新共同訳で見てみると、
「いかに幸いなことでしょう。主よ。あなたに諭され、あなたの律法を教えていただく人
は。その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます。神に逆らう者には、滅びの穴が掘られ
ています。
」とあります。
◆「平安を賜る」
「静かに待ちます」と訳されたシャーカト‫קט‬
ַ ‫( ָשׁ‬shaqat)は、どんな困難
や災いの日にあっても、平安が与えられて、黙って、静かに、沈黙を守る、鎮まる、とい
う意味です。旧約で 41 回、詩篇では 3 回のみ使われています。しかもそうしたことがで
きる人とは、
「主に戒められる(懲しめられる)者」であり、主の「みおしえ(律法)を教えら
れる者」だとしています。神に愛され、神に喜ばれる者、あるいは、神を愛し、神を喜ぶ
者と言い換えることができます。そうした者はどんな中にあっても主を信頼することを学
び、その結果として、平安を与えられ、静かに主を待つことができるのです。しかも、そ
うこうしているうちに、敵は墓穴を掘って自滅するという原理も付け加えられています。
私たちが敵に対して打ち勝つことができるのは、神がくださる武具を身につける時です。
特に、頭にかぶる「救いのかぶと」(エペソ 6 章 17 節)は「神との親密さ」を意味します。
恵みの信仰に裏付けられたこの神との親しさこそ、私を敵から守ってくれる神の武具です。
◆最近、2002 年に作られた賛美“You Raise Me Up”を聞きました。とても励まされる
歌です。「打ち伏し、弱り果てるとも、重荷につぶされるとも、なお今(ここで)、静かに
待ち望む、あなたのみ救いを。You raise me up 高く引き上げてくださるあなたの愛、あ
なたの支えがあれば、私は強くなれる。」(意訳―拙者)という内容の歌です。
103
詩 95 篇 「(御前に)進み行く」
(カテゴリー: 感謝)
カーダム
‫ָק ַדם‬
2 節「感謝の歌をもって、御前に進み行き、・・」(新改訳)
「御前に進み、感謝をささげ・・・」(新共同訳)
Let us come before His presence with thanksgiving (NKJV)
come before, welcomed, go before,
Keyword; 「御前に行く」
21:3/59:10/79:8/88:13/89:14/95:2
◆「御前に進みゆく、御前に行く」と訳されたカーダム
‫( ָק ַדם‬qadam)は、敵対する者と
「先頭に立つ」(68:25)、神の恵みと憐れ
「直面する」「立ち向かう」(17:13/18:5/18:18)、
みがオン前に「先立つ」、祈りが神の前に「届く」(88:13)、神が私たちを「迎える」(21:3)、
人が神の「御前に進み行く」(95:2)といった意味があります。
◆「御前に進み行く」とは「神を出迎える」という意味です。ただ、「神はダビデを迎え
て、すばらしい祝福を与え、そのかしらに純金の冠を置かれた」(21:3)とあるように、神
の歓迎があって、はじめて、人は御前に進み出ることができ、神を自らの心に出迎えるこ
とが可能となります。こうした神の歓迎ぶりをよく表しているのが詩 23 篇 5 節です。ダ
ビデは「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくだ
さいます。私の杯は、あふれています。」という表現で神の歓迎を表しています。食卓へ
の招きだけでなく、客人の頭に高価な香油を注ぐというのも最高のもてなしを意味します。
◆詩 95 篇 2 節の「感謝の歌をもって、御前に進み行き・・」とは、神の招きが前提とし
てあり、その上で、神に感謝の心と賛美をもって、御前に行こうとしています。
◆ある時、イエスが弟子たちを強いて舟に乗せ、自分よりも向こう岸へ行かせ、また群衆
も返したあとで、祈るために、ひとりで山に登られました。弟子たち一行は向かい風のた
めに悩まされていました。そして夜中の三時ころ、イエスは湖の上を歩いて彼らのところ
へ行かれました。そのとき、弟子のペテロがこう言いました。「主よ。もし、あなたでし
たら、私に、水の上をあるいてここまで来い、とお命じになってください。
」と。イエス
は「来なさい。
」と招きました。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほ
うに歩き始めました。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたのです。(マタイ 14
章 22~32 節)
◆主の「来なさい」との招きにペテロはそれまで最も安全を保障する舟から出て、水の上
を歩いてイエスの方へ歩くことができました。ただし、風を見てこわくなる時までは・・。
◆イエス・キリストは私たちを二段階に招かれます。ひとつは、
「すべて疲れた人、重荷
を負っている人は、わたしのところに来なさい。
」(マタイ 11 章 28 節)、そしてもうひと
つは、
「わたしにとどまりなさい」(ヨハネ 15 章 4 節)との招きです。イエスのこの二つの
招きが意味するところはきわめて重要です。どちらの招きも私たちの生涯の課題です。
104
詩 95 篇 「ひざまずく」
(カテゴリー: 従順)
バーラク
‫בָּ ַרך‬
6 節「(来たれ)・・私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。」(新改訳)
Come, let us bow down in worship, let us kneel before the Lord our Maker; (NIV)
Keyword; 「ひざまずく」 kneel 95:6,
◆「ひざまずこう」と訳されたバーラク
‫(בָּ ַרך‬barak)は、詩篇ではここ一回限りです。
「賛美する」、「祝福する」という
旧約全体でも他に 2 箇所しか使われていない動詞です。
意味のバーラク
‫(בָּ ַרך‬barak)とは同音異語です。
◆旧約でこの動詞が使われている例は、第一に、イサクの妻を捜すために使わされたアブ
ラハムのしもべが、ある町で夕暮れ時、女たちが水を汲みに出るころに、町の外の井戸の
‫בָּ ַרך‬が
ところにらくだを伏させました。らくだを「伏させる」というところにバーラク
使われています(創世記 24 章 11 節)。らくだが休む時は、確かに、ひざを屈して休みます。
‫(בָּ ַרך‬barak)、
◆もう一つの例は、ソロモンが神殿奉献の時に、祭壇の前で、
「ひざまずいて
両手を上げて」主に祈りました。この祈りがささげ終わったとき、火が天から下ってきて
全焼のいけにえが焼き尽くされ、主の栄光は主の宮に満ちたために、祭司たちが主の宮に
入れることができませんでした。イスラエルの人々はみな、この光景を見たとき、それま
で起立していた彼らもひざをかがめて
‫(כָּ ַרע‬kara`)、顔を敷石につけて、伏して拝んで
‫( ָשׁחַ ה‬shachah)、主をほめたたえました。(Ⅱ歴代誌 6 章 12~7 章 3 節参照)
◆面白いことに、ここ(Ⅱ歴代誌 6 章 12~7 章 3 節)には、詩 95 篇 6 節にある礼拝行為を
表わす三つの動詞、「伏し拝む」シャーハー
‫( ָשׁחַ ה‬shachah) ※ 、「ひれ伏す」カーラー
‫( ָכּ ַרע‬kara`)、「ひざまずく」バーラク‫(בָּ ַרך‬barak)のすべてがここに使われています。こ
のような礼拝行為が旧約の人々の礼拝の姿であったことを知ることができます。
◆礼拝と行為は、本来、礼拝する者の神に 対する心を表わすものでなければなりません
が、実際は、必ずしもそうではなかったことを、この詩 95 篇の後半(7 節以降)は私たちに
教えようとしています。
「・・きょう、もし御声を聞くなら、
・・・の日のように、あなた
がたの心をかたくなにしてはならない。」と。
◆最近、挨拶をすることを奨励する運動がなされています。人と人とのかかわりにおいて
も、挨拶をきちんと交わすことができない懸念からだと思います。挨拶とは、まず自ら相
手に対して「心を開く行為」と言えます。自らの心を開くことで、相手とのかかわりを築
くことが始まります。実は、礼拝の本質もここにあります。つまり、真の礼拝とは、神の
声を聞くこと、そして信じて聞き従うことです。このことと、礼拝の行為が一致するとき、
そこには礼拝者としての真の麗しさ、真の美しさがあるのではないかと思います。
※「伏し拝む」シャーハー
‫( ָשׁחַ ה‬shachah)については詩 66 篇を参照。
105
詩 96 篇 「おののく」
(カテゴリー: 従順)
ヒィール
‫ִחיל‬
9 節「全地よ。主の前におののけ。」(新改訳)「もだえよ。主の前に、全地。」(岩波訳)
Keyword;
「おののく」
tremble,
shake,
in anguish,
writhed,
29:8, 9/51:5/55:4/77:16/90:2/96:9/97:4
‫( ִחיל‬chiyl)―(‫חוּל‬と同義)は、「荒れ狂う、いたく苦
◆「おののく」と訳されたヒィール
しむ、痛みを覚える、産みの苦しみ、おののく、苦しみもだえる、震う、、生まれる、待
「お
つ」といった意味があります。旧約では 48 回使われていますが、詩篇では 10 回です。
ののく」(tremble)という意味で使われているのは 96:9, 97:4, 114:7 の三箇所のみです。
◆詩 96 篇は 1 節に「新しい歌を歌え」とあるように、神とのいのちにかかわる「新しさ」
と、全地が主の前に「おののく」ことの間には密接な関係にあるように思えます。いわば、
神による「新しいいのち」
「新しい歌」
「新しい契約」
「新しい戒め」
「新しい創造」-とい
った新しいかかわりがなさるときには産みの苦しみが伴います。そのように考えると、
「全
地よ。主の前におののけ。もだえよ」という命令は、神の新創造の前提として当然のこと
のように思えてきます。イエス・キリストの十字架の苦しみは、まさに、全被造物が罪か
ら贖われて、全く新しくされるために必要なことでした。
◆使徒パウロもローマ人への手紙の中で「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現わ
れを待ち望んでいる」(8 章 19 節)と記しています。なぜなら、
「贓物全体が今に至るまで、
ともにうめきともに産みの苦しみをしている」(同、22 節)からです。
◆ヒィール
‫( ִחיל‬chiyl)の類義語としては、以下の三つを掲げたいと思います。
(1) ‫( ָרגַז‬ragaz) 正当な怒りを表わす「おそれおののくーanger」(4:4)。王の御前で「恐れ
「震え上がる」(77:16)
おののくーtremble」(99:1) 他に、「揺れるーshake」(18:7)、
(2)
‫(חָ ַרד‬charad)の形容詞 ‫(חָ ֵרד‬chared)が以下の箇所で使われています。
「――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、
‫)חָ ֵרד‬者だ。」(イザヤ66:2)
「主のことばにおののく(‫)חָ ֵרד‬者たちよ。主のことばを聞け。・・」(イザヤ66:5)
(3) ‫(נוּע‬nua`) 民はみな、雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した。民は見て、
たじろぎ(‫、)נוּע‬遠く離れて立った。」(出20:18)
わたしのことばにおののく(
◆新約のマルコの福音書5章33~34節参照。12年間、婦人病で悩み、治療のために財産を
使い果たしてしまった一人の女が、イエスのことを耳にして、一縷の望みでイエスの衣を
触ったとき、血の源がかれて、ひどい痛みが全くなくなったのを身に感じました。長血の
女はおそれおののき、自分の身に起こったことを知り、イエスの前に出でひれ伏し、イエ
スに真実を余すところなく打ち明けました。するとイエスは彼女にこう言われました。
「娘
よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。」と。
106
詩 97 篇 「こおどりする」
(カテゴリー: 感謝)
「喜ぶ」
(カテゴリー: 感謝)
ギール
サマーフ
‫גִּ יל‬
‫ָשׂמַ ח‬
1節「主は、王だ。地は、こおどりし‫、גִּ יל‬多くの島々は喜べ‫שׂמַ ח‬
ָ 。」(新改訳)
「主こそ王。全地よ、喜び躍れ‫。גִּ יל‬多くの島々よ、喜び祝え‫שׂמַ ח‬
ָ 。」(新共同訳)
Keyword; 「喜ぶ」
‫גִּ יל‬
rejoice, glad, joy 2:11/9:14/13:4,5/14:7/16:9/
21:1/31:7/32:11/35:9/48:11/51:8/53:6/89:16/96:11/97:1, 8/118:24/149:2
‫ָשׂמַ ח‬
glad, rejoice,
5:11/9:2/14:7/16:9/19:8/21:1/30:1/31:7/32:11/33:21/34:2/35:15, 19, 24, 27/
38:16/40:16/45:8/46:4/48:11/53:6/58:10/63:11/64:10/66:6/67:4/68:3/69:32/
70:4/85:6/86:4/89:42/90:14, 15/92:4/96:11/97:1, 8.12/104:15. 31. 34/
105:3.38/106:5/107:30, 42/109:28/118:24/119:74/122:1/149:2
◆詩 97 篇も「主は王である」という一連のテーマを持つ詩篇の一つです。その王がこの
地上に目に見える形で来られるとき、王である主を信じる者たちが主を見て、喜ぶように
招かれています。詩 97 篇では喜びを表す動詞が 6 回使われています。1 節の他に、
8 節「シオンは聞いて喜び(‫שׂמַ ח‬
ָ )、ユダの娘たちもこおどりしました(‫」。)גִּ יל‬
11 節「喜び (‫שׂמַ ח‬
ָ の名詞‫) ִשׂ ְמחָ ה‬は、心の直ぐな人のために。」
12 節「正しい者たち、主にあって喜べ(‫שׂמַ ח‬
ָ )。」
◆「喜ぶ」という動詞は複合的に使われることが多いようです。例えば、
「喜び歌う」
「喜
び楽しむ」
「喜び叫ぶ」
「喜び躍る」
「喜び祝う」
「喜び迎える」
「喜びの声をあげる」など。
◆キリストが再臨されるとき、
「むなしいものを誇りとする者は、みな恥を見」(7 節)ます
が、
「シオン」
「ユダの娘たち」
「主を愛する者たち」
「聖徒たち」
「心の直ぐな者たち」
「正
しい者たち」は、主を喜びます。この喜びは、終末論的、存在論的、救済論的喜びです。
しかも、光―啓示の光、悟りの光―と同時に、喜びの種はすでに彼らの心の中に蒔かれて
います。やがてその種は芽吹き、大きな喜びの花を咲かせます。
◆キリストの初臨の時、そこに大いなる喜びがあったことをルカはその福音書で記して
います。①「イエスをあかしするバプテスマのヨハネの誕生の喜び」(1 章 14, 44 節)、
②「マリアの喜びの賛歌」(1 章 47 節)、③「羊飼いたちに伝えられた喜びの知らせ」(2
章 10 節)、④「御子の任命式における御父の喜び」(3 章 22 節)、⑤「名が天に書き記され
ていることの喜び」(10 章 20 節)、⑥「聖霊による喜び」(10 章 21 節)、⑦「失われたも
のが見つかった喜び」(15 章 6, 9, 10, 32 節)、⑧「復活のイエスの出会いと約束の喜び」
(24 章 52 節)です。そこに共通するのは、まさに神に愛される喜び、見出された喜びです。
107
詩 98 篇 「(手を)打ち鳴らす」
(カテゴリー: 賛美)
マーハー
‫מָ חַ א‬
8 節「もろもろの川よ。手を打ち鳴らせ。山々も、こぞって主の御前で喜び歌え。」
Keyword;
「打ち鳴らす」
clap, 98:8
◆「手を打ち鳴らす」と訳されたマーハー
Isa. 55:12
‫(מָ חַ א‬macha’)は、旧約の中では 3 回しか使
わていません。詩 98 篇とイザヤ書 55 章では、いずれも、人々が神に対してではなく、
自然界が神に対して擬人法的に使われています。
◆このように、自然界を擬人法的に歓呼させる例としては、他に、詩 96 篇 11 節、詩 103
篇 22 節、イザヤ書 42 章 10~11 節、44 章 23 節、49 章 13 節があります。へブル人たち
の自然界そのものも歓喜の奔流に巻き込んでいます。
◆神のイスラエルに対する「奇しいみわざ」の歴史は、しばしば自然と抱き合わせです。
エジプト脱出後の紅海渡渉、カナン入国に際してのヨルダン河の渡渉、最初の戦いであ
ったエリコの戦い、カナンの将軍ヤビンとの戦い、ミッパでの戦い・・・・これらはみな
自然によって勝利がもたらされています。へブル人たちは自分たちの存在が神と自然と密
接な関係をもっていることを知っていたようです。
‫(מָ חַ א‬macha’)の類義語にターカー‫( ָתּ ַקע‬taqa`)があります。「すべての国々の
民よ。手をたたけ ‫קע‬
ַ ‫。 ָתּ‬喜びの声をあげて神に叫べ。」(詩 47 篇 1 節)。このターカー
‫( ָתּ ַקע‬taqa`)は、手をたたくことだけではなく、祭司がラッパを吹き鳴らしたりする場合
◆マーハー
にも使われます。「われらの祭りの日に、新月と満月に、角笛を吹き鳴らせ。それは、
イスラエルのためのおきて、ヤコブの神の定めである。
」(詩 81 篇 3~4 節)
◆民数記 10 章 2~10 節で、モーセは祭司たちにイスラエルの会衆を集めたり、行軍した
りするときに銀のラッパを吹き鳴らして合図するように指示しました。ヨシュア記では
カナンでの最初の戦いーエリコの戦いーの前に、神の民を覚醒し、あるいは、敵に対して
威嚇するために、祭司たちが角笛を吹き鳴らしました(ヨシュア 6 章参照)。いずれも、使
われている動詞はターカー
‫( ָתּ ַקע‬taqa`)です。
◆手をたたいたり、手を打ち鳴らしたりすることは、合図、指示、覚醒、威嚇、勝利、
神への称賛、といった意味合いがあります。私たちが神を賛美するときに手をたたくのも、
神に対する称賛、ないしは勝利への喜びなどを表しています。私たちももっと神に対して、
イスラエルの民が角笛やラッパを吹き鳴らし、タンバリンを打ち鳴らし
‫(נָתַ ן‬natan)たよう
に喜びの表現として神への称賛の表現として手をたたくべきです。
◆手を叩いて勝利者をたたえたり、人を歓迎したりすることは、ごく当たり前のように見
えますが、新約聖書に、神とのかかわりおいて、手をたたいたり、打ち鳴らしたりする表
現がないのはとても不思議なことに思えます。
108
詩 99 篇 「守る」
(カテゴリー: 従順)
シャーマル
‫ָשׁ ַמר‬
7 節「・・彼らは、主のさとしと、彼らに賜ったおきてとを守った。」(新改訳)
They kept His testimonies and the ordinance He gave them.
Keyword; 「守る」 keep, obey, follow, observe,
(NKJV)
18:21/19:11/37:34/99:7/103:18/105:45/106:3/132:12/
119:4, 5, 8, 9, 17, 34, 44, 55, 57, 60, 63, 67, 88, 101, 106, 134, 146,167, 168
◆特に、ここでは神が人を守るのではなく、人が神から与えられた教え、さとしを守ると
いう視点で考えます。
「守る」と訳されたシャーマル
‫( ָשׁמַ ר‬shamar)は、詩篇においては
72 回、そのうちで神が人を守るという意味が圧倒的です。詩 121 篇、127 篇はその代表
的詩篇です。逆に、 詩篇 119 篇では人が神の教えを守るということで一貫しています。
‫( ָשׁמַ ר‬shamar)、日本語訳では「守る」ですが、英語では、keep―神とのか
◆シャーマル
かわりを保つー、obey―神からの教えに従うー、follow―神に喜んで従うー、など、同じ
「守る」でもそのニュアンスを変えて訳しています。
◆詩 119 篇においては、「守る」ということが、当為から自意となっていることです。こ
れは神の民がバビロン捕囚という苦しみを通して学んだことによります。捕囚経験以前に
は、彼らは「昼も夜も、そのおしえを口ずさむ」ということはありませんでした。しかし、
捕囚経験の中で、彼らは彼らに与えられた神の律法がどんなにすばらしい賜物であったか
に気づかされたのです。その意味で、
「守る」ということばも、当為から自意に変わった
のです。しかし、これもやがて人間の罪によって次第に律法主義へと変質していきます。
◆神は私たちの心のうちに神の律法を書きしるすというーつまり、私たちが自ら神の御教
えに従いたいという思いを起こさせるという意味ー神にしかできないことをなされます。
それが、聖霊による神の再創造の「恵みの御業」です。そこでは「守る」は「愛する」と
同義なのです。
◆主イエス・キリストは最後の晩餐において、弟子たちに「あなたがたは互いに愛し合い
なさい。わたしがあなたがたを愛したように。」(ヨハネの福音書 13 章 34 節) との「新し
い戒め」を与えました。この戒めを守るためには、「もうひとりの助け主」(真理の御霊)
が必要でした。その方が来られるとき、三位一体の神の愛の交わり、その愛のいのちが私
たちのうちにあるということが分かるようになると言われました。そして、
「わたしの戒
めを保ちー口語訳では「心にいだいて」、新共同訳では「受け入れ」―、それを守る人は、
わたしを愛する人です。わたしを愛する人は、わたしの父に愛され、わたしもその人を愛
し、わたし自身を彼に現わします。」(同、14 章 21~23 節)と言われました。これこそ、
聖霊による、神とのかかわりにおける再創造の恵みの御業です。この方に向かって、私た
ちはただ「ひれ伏す」のみです。
109
詩 100 篇 「行く(入る)」
(カテゴリー: 従順)
ボ ー
‫בּוֹא‬
2 節「・・・喜び歌いつつ御前に来たれ ‫(בּוֹא‬bo')。」
4 節「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ ‫(בּוֹא‬bo')。」
Keyword; 「・・に行く、・・に入る、・・に参ります」 come, enter,
5:7/40:7/43:4/45:15/65:2/66:13/71:16/73:17/86:9/95:11/96:8/
100:2, 4/102:1/118:19, 20, 26/132:7
◆詩 100 篇の「来たれ」「はいれ」は、
「行く」「入る」
「進み行く」
「参ります」と訳され
‫(בּוֹא‬bo')の命令形です。この詩篇は礼拝への招きの詩篇です。四つの命令形によ
るボー
って礼拝者を招いています。
(1)「喜びの声を上げよ」ルーア
‫(רוּע‬rua`)―これは勝利の叫びを意味します。暗闇の
支配から神の愛のご支配の中へ移された者たちの勝利の叫びを上げることです。
‫`(עָ בַ ד‬avad)―私たちが救われたのは神に仕える(礼拝する)者と
(2)「仕えよ」アーヴァド
なるためです。しかも、喜びをもって仕える者こそ神の子とされた者の証です。
‫(בּוֹא‬bo')―いつも、主の前に行くことがすべての解決の道です。
(4)「はいれ」ボー‫(בּוֹא‬bo')―聖所は贖いの血潮なしには決して入ることのできない場所
(3)「来たれ」ボー
です。私たちは、イエス・キリストの血潮によって、大胆に入ることができるのです。
◆詩篇 73 篇には、霊的指導者が、神に従わない者の繁栄ぶりを見せられて、妬みを起し
た様子が記されています。この心の状態を知ったなら多くの者たちがつまずいてしまう状
態でした。そんな彼が彼らの最後を悟り得たのは、彼が聖所に行ったからでした。
◆ここで「行く」
「入る」
「参る」という動詞は、私たちが礼拝に行くことと言ってよいで
しょう。しばしば礼拝する特権が与えられていても礼拝を休んでしまう人がいます。
いろいろな事情があるとは思いますが、説教者の立場からすると、あるいは客観的にみて
も、礼拝の時に語られたメッセージを最も聞く必要があったのは、その日に礼拝を休んだ
人であったということがよくあります。神を恐れつつ、礼拝の場に行けるように祈るべき
‫(בּוֹא‬bo')ことによって、礼拝において、
です。なぜなら、まず、その祈りが御前に届く
折にかなった私たちの霊的必要がすでに備えられているからです。
◆イザヤ書 58 章には神が預言者イザヤを通して次のように約束しておられます。
「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜
びの日』と呼び、主の聖日を『はえある日と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求め
ず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。『わたしはあなたに地の
高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。』」と。(13~14節)
◆神の子どもとされた者たちが主の家(主の住まい)に行くことを当然の喜びとして、第一
に優先されるべき事として、明確な自意を持つことを神は願っておられると信じます。
110
詩 101 篇 「心を留める」
(カテゴリー: 祈り・瞑想)
サーハル
‫ָשׂכַ ל‬
2 節「私は、全き道に心を留めます。」(新改訳)
Keyword;「心を留める、心を向ける、心を注ぐ」 wise, understand, instruct, careful,
2:10/14:2/32:8/36:3/41:1/53:2/64:9/101:2/106:7/119:99
◆「心を留めます」と訳されたサーハル
回使われています。名詞のセケル
‫( ָשׂכַ ל‬sakhal)は、旧約では
60 回、詩篇では 11
‫( ֶשׂכֶ ל‬sekel)は「悟り」「知恵を得る」という意味で、
主に、箴言に多く(6 回)出てきますが、詩篇では 111 篇 10 節の 1 回のみです。
◆サーハル‫שׂכַ ל‬
ָ (sakhal)は「心を留めます」(新改訳、口語訳)、「心を向けます」(関根訳)、
「心注ぐ」 (尾崎訳)、「心がける」(尾山訳)、「解き明かす」(新共同訳)と訳されています。
NIV 訳では、I will be careful to と訳されています。
◆二人の人物―ひとりはイエスの母マリア、もうひとりはヨセフの父ヤコブーを思い起こ
します。
①「しかしマリアはこれらのことをすべて心に納めて、思い巡らしていた。」(ルカ 2:19)
②「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」(同、2:51)
◆英語では「思い巡らす」こと、「心に留める」ことに ponder を使っています。
ponder という動詞は、ある問題をあらゆる角度からじっくりと考える、熟考するという
意味の動詞です。つまり、マリアは、ものごとを偏見によって見ることなく、断定するこ
となく、じっくりとあらゆる角度から、あらゆる面から理解しようとした人でした。これ
は私たちも見習わなければならない心の構えではないでしょうか。私たちはなんとある種
の偏見でものを見、考え、判断しやすい存在でしょうか。イエスの母マリアは、自分には
理解できないことを、心に留めて、つまずくことなく、努めてそれを理解しようとする思
慮深い人でした。私たちにも学ぶべき点が多いように思います。
③「兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心に留めていた。」(創世記 37:11)
◆ヨセフの兄達はますますヨセフを憎むようになるのですが、父ヤコブだけは困惑しなが
らも、このことに心に留めていました。つまり、父ヤコブには神の摂理の不思議さを信じ
て受けとめる心のゆとりがあったということです。
◆詩 101 篇では、ダビデが「全き道」に「心を留めて」います。かつて主は、アブラハム
に「あなたは私の前に全き者であれ」と言われました。その「全き者」とは、道徳的、倫
理的、知識的な意味での完全な者という意味ではなく、どこまでも神を信頼するという、
かかわりおける完全さを意味します。詩篇 119 篇では、
「全き道を歩む人々、主のみおし
えによって歩む人々は幸いだ」とし、
「全き道を歩む」ことと、
「主のみおしえによって歩
む」ことが同義となっています。つまり、
「全き道」とは、「信頼の道」「愛によるかかわ
りの道」
「神と共に歩む道」です。ダビデはこの道に「心を留めて」生きた人でした。
111
詩 102 篇 「注ぎ出す」
(カテゴリー: 祈り)
シャーファク
‫ָשׁ ַפך‬
T 「悩む者の祈り、
・・自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの」
Keyword;
「注ぎ出す」
pour out, 62:8/102:T/142:2
◆「注ぎ出す」と訳されたシャーファク
‫( ָשׁפַ ך‬shapak)は、水やいけにえの血を注ぐとい
う意味だけでなく、心の思いー嘆き、悲嘆、満たされない思い、苦しみーを主の御前に注
ぎ出すことを意味します。注ぎ出して心の中を空にしたあとに経験する不思議なカタルシ
ス(浄化作用)、心の思いを注ぎ出してはじめて見えてくるものがあります。
◆ある人は、「人は苦しむとき、多くの場合、たましいのうめきをことばにすることがで
きません。しかし、詩篇はそのうめきを神への祈りのことばにしてくれます。そして、詩
篇を用いて、心を注ぎ出すことができるなら、不思議に心が生き返るという癒しが生れま
す。なぜなら、神に向かって息を吐き出すことができるなら、神の息である聖霊が人の心
を満たすことができるからです。
」と述べています。
(高橋秀典著『心を生かす祈り』―「はしがき」 いのちのことば社、2007 を参照)
◆その意味では、この詩 102 篇は心の注ぎ出しを助けてくる詩篇のひとつと言えます。
この詩 102 篇における作者の心の注ぎ出しは、1 節から 11 節までに記されています。
おそらく、バビロン捕囚時において経験した嘆きと言えます。そこで作者は心も肉体も
「尽き果て」
「打たれ」
「やせ衰えて」
「しおれて」、やがて自分が消えていく存在のように
感じています。しかも、深い孤独感が全体を漂っています。それは神から突き放されたよ
うに感じているからです。
◆そうした心の嘆きを注ぎ出したことによって 12 節の「しかし」があります。自分の世
代においては、回復を望むことができないとしても、神は「窮した者、悩む者の祈りを必
ず顧みてくださり、やがて次の世代には、神がシオンを再び建て直して、栄光のうちに現
われるということを自分に言い聞かせています。
◆聖書の中で「心を注ぎ出して」祈った女性がおります。その女性の名はハンナ。自分の
夫に愛されながらも、子ができないことを悩み、また第二夫人で子を持つベニンナからも
見下げられる苦痛の中で、
彼女は主の前に心を注ぎ出して祈りました(Ⅰサムエル記 1 章)。
この祈りが、やがてイスラエルの歴史における王政のかじ取りをする預言者サムエルを産
んだのでした。ハンナの祈りは「追い込まれて祈った祈り」です。そこに至る背後に、神
の隠れた不思議な計画と導きがあったのです。つまり、子が生まれなかったことも、ベニ
ンナとのトラブルもすべては神から出たことでした。
◆ハンナは「心を注ぎ出して」祈ったことで、その祈りは、彼女の思いを越えてその祈り
は歴史的な祈りとして実現しました。まさに神の大いなる不思議なみわざといえます。
112
詩 103 篇 「忘れない」
(カテゴリー: 信頼)
シャーハフ
ア ル
‫אַל ָשׁכַ ח‬
2 節「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」。
「わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。
」(口語訳)
Keyword;
「忘れない、心にとめる」
forget not,
remember,
‫( ָשׁכַ ח‬shakhach)
◆「何一つ忘れるな」と訳された動詞は、
「忘れる」というシャーハフ
に、動詞の否定を表わす副詞アル
‫’(אַל‬al)が付いたものです。(ちなみに、同じく動詞を
‫א‬
(lo')があります)
◆さて、 口語訳ではシャーハフ‫שׁכַ ח‬
ָ (shakhach)を「心にとめる」と肯定的に意訳されて
否定する副詞として
います。聖書では意味をより強調するために、あえて消極的表現を用いることがあります。
例えば、
「恐れません」
「ゆるぎません」
「動じません」
「無にしません」といった具合です。
◆詩 103 篇の作者は、自分のたましいに向かって、「主をほめたたえよ」と呼びかけ、主
が自分に「良くしてくださったことを何一つ忘れるな」と言い聞かせています。
「何一つ」
とは「すべて」カル
‫(כָּ ל‬kal)という意味で、この詩篇ではなんと 9 回も使われています。
主への賛美と感謝への喚起がなされています。
◆そして、主が良くしてくださったこと、決して忘れてはならない項目がそのあとに列記
されています。一つ一つの項目にそって自らの人生を振り返ろうとしています。
(1)「赦された経験」・・自分の犯した過ち、不義、罪、人を傷つけた経験などを一つ一つ
思い起します。思い出したくない辛いこともあるかも知れませんが、そのひとつひと
つを主にあって赦されたこと、罪や恥を覆われたことを思い起して感謝します。
(2)「癒された経験」・・病気のいやし、心の傷が癒される経験をひとつひとつ思い起こし
て感謝します。
(3)「あがなわれた経験」・・失敗や挫折、恥かしい思いなどを思い起こし、主がそこから
自分をどのように引き上げてくださったかを思い起して感謝します。
(4)「冠をかぶせられた経験」・・自分の人生で経験した良いことを思いめぐらします。
傷つけられた自尊心が回復した経験、あるいは、神の愛や人からの思いやりに触れた
経験を思い起して感謝します。
(5)「満たされた経験」・・日々の、あるいは人生の危機における折りにかなった必要に対
して、主が満たしてくださったことを思い起して感謝します。
(6)「気持の若返りの経験」・・気持の張りが与えられて、若返ったような経験がなかった
かを思い起して感謝します。
◆この「思い起こし」によって、私たちははじめて主にあるマイ・ストーリーを綴ること
ができます。このマイ・ストーリーこそ最高の神への証であり、賛美です。使徒パウロも
「私は、神の恵みによって、私は今の私になった」(Ⅰコリント 15 章)と綴っています。
113
詩 104 篇 「待ち望む」
(カテゴリー: 信頼、待望)
サーヴァル
‫ָשׂ ַבר‬
27 節「彼らはみな、あなたを待ち望んでいます。」(新改訳)
Keyword; 「待ち望む、期待して待つ、依存する」 look,
hope,
depend on,
wait,
104:27/119:166/145:15
◆詩 104 篇 24 節に「あなたのみわざは何と多いことでしょう。―なんとあなたの業の
豊かなことか(岩波訳)―あなたは、それらをみな、知恵をもって造っておらます。地は、
あなたの造られたもので満ちています。」(新改訳)とあり、すべての生き物が例外なく、
すべて神の知恵をもって生かされていることへの<驚き>と<賛美>が綴られています。
◆すべての被造物(生き物)たちは、それぞれ単体では存在し得ません。すべてが有機的な
かかわりをもって存在しているからです。自然界におけるいのちの神秘は、神ご自身の三
位一体性の交わりのいのちの反映です。「永遠のいのち」とは、死後に保障されているい
のちではなく、愛のかかわりよって存在し得る永遠の輝きです。それゆえ、27 節では「彼
らはみな、あなたを待ち望んでいるのです。
」としています。
「待ち望む」と訳されたサー
ヴァル
‫( ָשׂבַ ר‬savar)は、旧約では 6 回、詩篇では 3 回のみです。エルサレム訳は
All creatures depend on you. すべての造られた者は神に依存しているのです。
◆神のかかわりのいのちを、現代の科学的用語で言い表すならば、「生態系」、あるいは、
「食物連鎖」という言葉に換言できます。生産者である植物、消費者である動物(人間は
その頂点に立つ存在です)、そして分解者である目に見えない微生物や菌類、それらが密
接なかかわりをもっています。傲慢で浅はかな人間の考えは、神の創造されたいのちの循
環、その微妙なかかわりのバランスを破壊しています。天敵の存在さえも自然の微妙なバ
ランスを保っているのです。もし、天敵を排除するならば、保護しようとする動物をも滅
ぼしてしまうことになります。
◆イエス・キリストは「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを
失う者はそれを見出す」と言われました。これは、人間が自分の考えでかかわりのいのち
をつくりだそうとするならば、大切ないのちそのものを失い、かかわりのいのちを神の御
手にゆだねるならば、大切ないのちを得ることになるという意味です。自然しても、政治
にしても、組織にしても、人間の歴史を見ればわかるように、多くのいのちを作ろうとし
て、かえってそれを失ってきました。今一度、神の創造のいのちの神秘を見直すべきとき
です。そして旧約の詩人たちが「なんとあなたの業の豊かなことか」と驚嘆したように、
私たちも自然界における神のマジェスティに共感すべきです。
‫ ָשׂבַ ר‬の類義語としては①楽しみに期待しながら待つカーワー‫( ָקוָ ה‬qawah)25:3/27:14/
37:9/40:1/69:6, 7/130:5/ ②信頼しながら静かに待つヤーハル‫(יָחַ ל‬yachal) 31:24/33:22/
38:15/42:5 ③神と共にいることを望むハーカー‫(חָ כָ ה‬chakhah)33:20/106:13 があります。
◆
114
詩 105 篇 「守る」
(カテゴリー: 従順)
ナーツァル
シャーマル
‫נָ ַצר‬
‫ָשׁ ַמר‬
45 節「これは、彼らが主のおきてを守り、そのみおしえを守るためである。ハレルヤ。」
ׁKeyword;
「守る」
keep, obey, observe
① ‫שׁמַ ר‬
ָ ・・18:21, 23/19:11/37:34/99:7/103:18/105:45/106:3/
119:4, 5, 8, 9, 17, 34, 44, 55, 57, 60, 63, 67, 88, 101, 106, 134, 136,
146, 158.167, 168/
②
‫・・נָצַ ר‬25:10/34:13/78:7/105/45/119:2, 22, 33, 34, 56, 69, 100, 115, 129,145/
(※いずれも人が神の教えを守るという箇所のみ。神が人を守るという箇所は揚げていません。)
◆詩 105 篇の書かれた結論が最後の節である 45 節に記されています。「これは、彼らが
‫( ָשׁמַ ר‬shamar)、そのみおしえを守る‫(נָצַ ר‬natsar)ためである。」
◆すでに 78 篇でも瞑想したようにナーツァル‫(נָצַ ר‬natsar)は神と人との親しいかかわり
を「保つ」(keep)という意味合いですが、今回のシャーマル‫שׁמַ ר‬
ָ (shamar)は喜んで「従
主のおきてを守り
う」(obey, observe)という意味合いのことばです。いずれも、主体的に「愛する」という
ニュアンスとして受け取って良いと思います。
◆この詩 105 篇では<歴史化の営み>がなされています。歴史化の営みがなされるときに
は、その背景にアイデンティティの危機が存在します。おそらくこの詩篇は捕囚から解放
されて、今や再びイスラエルに帰還した後に書かれたとものと思います。神の民は、そこ
で何を拠り所にして立つべきか確認する必要に迫られました。そこで、彼らが思い起こし
たのは、
「主は、ご自分の契約をとこしえに覚えておられる」(8 節)ということでした。
ここでの契約とは、神がモーセと結んだシナイ契約ではなく、主がアブラハムがと結んだ
契約のことです。彼らはそこに再び帰り、そこから歴史を再び見直し、自分たちの神の民
としてのアイデンディティを建て直そうとしているのです。これが<歴史化の営み>です。
◆ちなみに、この詩 105 篇では、神がモーセと結んだシナイ契約については一言も触れて
おりません。なぜなら、そのシナイ契約によれば、神への不従順のゆえに、神とのかかわ
りはすべて終結してしまうからです。詩 105 篇の作者は、むしろ、神の「奇しいみわざ」
に「思いを潜め」、
「思い起こす」よう神の民に訴えています。神がしてくださった多くの
恵みにもかかわらず、何度も神に背き、幾度も神の警告を無視してきたにもかかわらず、
神は民に見切りをつけることなく、忍耐とあわれみをもって再び回復してくださった「昔
からのなぞ」(詩篇 78:2)に目を向けせようとしています。それは具体的には神がアブラハ
ムと結んだ永遠の契約です。その契約は恵みの契約であり、神の一方的な好意に基づく契
約です。
115
◆預言者エレミヤは、捕囚前後にアブラハム契約に立って、シナイ契約では滅ぼされても
文句の言えない神の民に、希望のメッセージを語りました。そのメッセージとは「新しい
契約」についてです。
31:3 主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。
それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。31:4 おとめイスラエルよ。
わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。
31:31 見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家と
ユダの家とに、新しい契約を結ぶ。32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、
エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの
主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ。――33 彼
らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――
わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼ら
の神となり、彼らはわたしの民となる。
◆エレミヤが預言した「新しい契約」は、幾分かは捕囚から解放された民たちの中に実現
しました。その良い例が詩119篇と言えます。しかしながら、神の計画の中においてはま
だ不十分でした。真の実現は、イエス・キリストが父から遣わされ、十字架と復活と昇天、
そして聖霊の降臨によって実現しました。このときから、神の民は神の愛を深く知り、親
しいかかわりを築くことができるようになったのです。聖霊のみわざによって「律法が心
に書き記され」、自発的・主体的なかかわりと保持が培われるのです。このことをしてく
ださったのも、すべて神の恵みであることを覚えたいと思います。
◆今日、私たちもある意味でクリスチャンとしてのアイデンティティの危機が存在します。
疲弊した自分たちの教派や教団に自らを見出すのではなく、信仰のルーツであるアブラハ
ムの契約を思い起こし、そこに接木された存在としてその中に生きること、そして神の民
が一致していく道を探り出す今日的課題があるように思います。そこで主がアブラハムに
言われたことばを思い起こします。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをの
ろう者を私はのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」(創世記12章3
節)と。このことが何を意味するのかをもっと深く理解しながら、その契約の中に生かさ
れる者でありたいと願います。
116
詩 107 篇 「叫ぶ」
(カテゴリー: 祈り)
ザーアク
‫זָ עַ ק‬
13 節「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。」
「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は・・・救いを与えられた。」(新共同訳)
Keyword;
「叫ぶ」
cry, cry out, call
22:5/107:13, 19/142:1, 5
◆詩 107 篇の構造には特徴があります。それは四つからなる部分∸①4~9 節、②10~16
節、③17~22 節、④23~32 節―のそれぞれに、今日的な音楽用語でいうならば、明確な
<バース>と<コーラス>を持っていることです。<コーラス>とは「さび」の部分で作
者が最も訴えたい事柄で、各パースの中にそのままの形で繰り返されます。言うなれば、
四つの異なる<バース>は<コーラス>を様々な面から説明していると言えます。
◆ところで、コーラスの部分(6 節、13 節、19 節、28 節)を見ると、いずれも、
「苦しみの
ときに、彼らが主に向かって叫ぶと・・・」となっています。「叫ぶ」という動詞に注目
してみると、二つの叫びを表わす動詞が使われています。
◆第一部分(6 節)と第四部分(28 節)ではツァーアク
‫(צָ עַ ק‬tsa`aq)という動詞が、第二部分
(13 節)と第三部分(19 節)ではザーアク‫(זָ עַ ק‬za`aq)が使われています。
◆ザーアク‫(זָ עַ ק‬za`aq)は、旧約では 73 回、詩篇ではわずかに 5 回(22:5/107:13, 19/142:1,
5)使われています。同じ言葉が出エジプト記 2 章 23~24 節にも使われています。
「イスラ
エル人は労役にうめきわめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。
」とあります。神はモ
ーセを召し出してエジプトから彼らを導き出させました。ザーアク
‫(זָ עַ ק‬za`aq)は苦しみ
の中からの叫びであり、嘆きの訴えを意味します。
◆一方のツァーアク
‫(צָ עַ ק‬tsa`aq)は助けを求めて大声を上げて叫ぶことです。岩波訳では
「泣き叫ぶ」と訳しています。祈りが聞かれるまでは決してやめない継続的な叫びである
ことがこの動詞の特徴です。詩篇では 107:6, 8 以外に 34:17/77:1/88:1 で使われています。
◆なぜ、同じ構造を持つコーラス部に、叫びを意味する二つの動詞が使われているのかが
不思議ですが、おそらく、叫びの微妙なニュアンスを伝えたかったのかもしれません。
束縛されている呻きにも似た声にならない叫びもあれば、大声を出して助けを求める叫び
ーそのいずれの叫びにも、神は耳を傾けてくださり、彼らを苦悩から救われたことが大切
なポイントです。叫びを通して、神とのかかわりはより直線的なものとなります。
◆類義語として他に以下の二つがあります。
(1) カーラー‫ק ַרא‬
ָ (qara’)-call, 呼ばわる、叫び求める、訴える、叫ぶ。
3:1, 4/17:6/22:2/55:17/102:2/119:145, 146/120:1/141:1 等。
(2) シャーワー‫שׁוַ ע‬
ָ (shawa`)-cry for help, 助けを求めて叫ぶ。体裁を繕わない祈りを意
味します。18:6, 41/22:24/28:2/30:2/31:22/72:12/88:13/119:147
◆新約では「盲人バルテマイの叫び」、
「水の上を歩いて沈みかけたペテロの叫び」も参照!!
117
詩 109 篇 「貧しい(者)」
(カテゴリー: その他)
エヴィヨン
‫אֶ בְ יוֹן‬
31 節「主は貧しい者の右に立ち、死を宣告する者たちから、彼を救われるからです。」
Keyword;「貧しい」―形容詞 poor, needy,
9:18/12:5/35:10/37:14/40:17/49:2/69:33/
70:5/72:4, 12, 13/74:21/82:4/86:1/107:41/109:16, 22,31/112:9/113:7/132:15/140:12
◆31 節に「貧しい」と訳された形容詞エヴィヨン
‫’(אֶ בְ יוֹן‬ebyon)は、しばしばもう一つ
‫`(עַ נִי‬ani)とワンセットで用いられま(35:10/37:14/40:17/70:5/86:1/140:12
参照)。
詩 109 篇では 16 節と 22 節とにそれが見られます。22 節には「私は悩み‫`(עַ נִי‬ani)、
そして貧しく‫’(אֶ בְ יוֹן‬ebyon)、私の心は、私のうちで傷ついています。」とあります。前
者のアニー‫עַ נִי‬は、英語(NIV)では poor と訳され、後者のエヴィヨン‫אֶ בְ יוֹן‬は needy と
の形容詞アニー
訳されています。いずれも貧しさを表わすへブル語ですが、後者の方は極貧を表していま
す。このように、二つの言葉が使われることで「貧しさ」がより強調されています。
◆詩 109 篇は「呪いをかける」という表現形式でいわれのない悪意に対する神の復讐を求
めています。モーセの律法の中の申命記 15 章には神の福祉理念が記されていますが、そ
れによれば、隣人に対する負債を七年毎に免除し、取り立ててはならないことが命じられ
ています。そのことによって神の民たちの中に貧しい者がいなくなるはずでした。しかし、
イスラエルの歴史(特に、北王国)をみるとそれが守られることはなかったようです。異教
徒との同盟関係において繁栄していくプロセスの中で社会の貧富の格差が次第に大きく
なり、詩 109 篇に描かれているように、「貧しい者たち」が踏みつけられ、見捨てられ、
さらに貧しさの度合いがよりひどくなっていきました。預言者アモスはそのことで指導者
たちを叱責しています。アモス 2:7, 5:12, 8:4 参照。
◆この詩篇で注目したい点は、(1)作者自身が「悩む者、貧しい者」だと自覚していること、
(2)その圧迫の現実から助け出してくれるように神に嘆願していること、(3)その結果、主
はその貧しい者の祈りを聞いてくださったことの感謝と賛美がつづられていることです。
◆イエスは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものです。」と言われました。
また、ナザレの会堂で聖書を朗読したとき、
「主の御霊が貧しい人々に福音を述べ伝える
主のしもべにある」という聖句を選らばれました。ここにある「貧しい」とはギリシア語
で「プルーコス」という言葉ですが、もともと「縮こまる、うずくまる」という「プロー
シン」から派生した形容詞です。普通の貧乏ではなく、差し迫った窮乏を意味します。こ
‫`(עַ נִי‬ani)と‫’(אֶ בְ יוֹן‬ebyon)があ
の「プルーコス」の背後には、へブル語の二つの形容詞、
るようです。(W・バークレー著―滝沢陽一訳『新約聖書ギリシア語精解』1970、日基出版を参照。)
◆私たちが、自分が貧しい者であることを知ることは容易ではありません。「貧しい心」
とは、自分が無力な者であることを徹底的に悟り、神の恵みの豊かさという富を与えられ
た者を意味します。今も、私たちの主は私たちの右手に立ってとりなしておられます。
118
詩 111 篇 「感謝する」
(カテゴリー: 感謝・賛美)
ヤーダー
‫ָי ַדה‬
1 節「ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝しよう。」
I will praise the Lord with my whole heart.
Keyword; 「感謝する」 praise,
◆この詩 111 篇の冒頭には、
「私は心を尽くして主に感謝しよう。
」という主に対する偉大
な誓約が宣言されています。「感謝しよう」と訳されたヤーダー
‫(י ַָדה‬yadah)は、英語で
は praise と訳されています。praise は「賛美する」「感謝する」が同義です。
◆2 節以降から最後まで、感謝すべき「主」が、どのようなお方であるかが述べられてい
、
「偉
ます。そこには主の本性である「聖」
、そして、王としての「尊厳、威光(majesty)」
大さ」、神の「善」、
「義(正義)」、
「公正」、
「さばき」、
「真実」、
「恵み(あわれみ)」「知恵」、
「永遠(不変性)」といった神の属性が記されています。
◆1 節の中にある「心を尽くす」ということばは、原意は「心にあるすべてをもって」と
いうことです。
「心」とは、
「知性」
「感情」
「意志」を司る部分です。つまり、知性をもっ
て神を知ること、神を知ることによって伴う心の喜び、そして義務や強制からではなく自
意による意思をもって口に出すことーなどをすべて含みます。これらすべてをもって、私
は、主に感謝(賛美)しようーI will praise, オデー アドナイ
‫או ֶֹדה יְ הוָ ה‬
と宣言してい
るのです。
◆「心を尽くす」ということばは、詩篇の中には 10 回(新改訳)出てきますが、そのうち
の 6 回は詩 119 篇にあります。それはとても意味あることです。なぜなら、詩 119 篇の
作者はブロークン・ハート(broken heart)を経験しており、その辛い、恥辱の経験からは
じめて「心を尽くす」生き方がはじまったからです。そして作者は、神を知るための瞑想
を深めました。みことば(神の律法)を拠り所として、神を知ることを追い求めました。そ
の結果、
「みことばは私の喜びです」と告白するようになったのです。
◆感謝というと、何かをいただいたことへのお礼の程度と考えている人がいますが、ここ
でいう感謝とは、自分の存在が全知全能の神の恵みによって生かされ、その恵みの連続に
よってーたとえ平凡な生活の中にあってもー支えられているということへの気づきです。
◆ある人は言いました。「歌は、歌うまでは歌ではなく、愛は表現されるまでは愛ではな
く、祝福も感謝するまでは祝福ではありません。
」と。感謝の生活も、日々、心を尽くし
て感謝し続けることによって築き上げられます。それは多くの人に大きな影響を与えます。
どんな小さなことでも感謝できる生き方はそれだけで驚きです。なぜなら、実に多くの
人々が現状に感謝することなく、不平不満とつぶやきを持って生きているからです。そこ
には何ら良い実を期待することはできません。普段から、どんな小さなことにも感謝して
生きることを心がけるならば、感謝で終える人生が約束されています。
119
詩 112 篇 「(主を)恐れる」
(カテゴリー: 信頼)
ヤーレー
‫יָ ֵרא‬
1 節「ハレルヤ。幸いな人よ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。
」
Keyword;「(主を)恐れる、畏れる」(動詞も形容詞も同様に‫ )י ֵָרא‬fear,
33:8/34:9/
40:3/64:9/67:7/68:35/72:5/86:11/89:7/96:4/99:3/102:15/111:9/112:1/115:11/130:4/145:6
◆詩 112 篇には「主を恐れる」者の幸いと祝福が述べられています。
「主を恐れることは、
知恵のはじめ」ということが前篇(111 篇)にあり、その展開が本篇と言えます。本当の幸
いは「主を恐れる(畏れる)」ことにあるというのが、旧約全体の幸福観です。
◆旧約において、「主を恐れる」ということは「主を信じる」
「主を愛する」と同義です。
「主を恐れる」とは、神と人と自分との、本来、あるべきかかわりの在り様を、一語で言
い表したものと考えます。なぜなら、詩 112 篇には「主を恐れる者」を、①「主の仰せを
大いに喜ぶ人」②「直ぐな人」③「情け深く、人には貸し、自分のことを公正に取り行う
人」④「正しい人」とあるように、神に対して、人に対して、そして自分に対しての在り
様が記されているからです。
◆またこの詩篇には、
「主を恐れる」者の祝福について次のように記されています。
①「その人の子孫は地上で力ある者となる」
、②「繁栄と富がある」
、③「その人の義が永
遠に堅く立つ」
、④「決してゆるがされない」
、⑤「とこしえに覚えられる」、⑥「悪い知
らせを恐れない」
、⑦「自分の敵をものともしない」
、⑧「貧しい人々に惜しみなく分け与
える」
◆詩篇にある「主を恐れる者」に与えられる祝福を概観するだけでも、主が「主を恐れる
者」と親しくされ、どんなにか愛しておられるかがわかります。主はそのいつくしみを、
「主を恐れる者」のために蓄え備えておられます。主の目はいつも主を恐れる者に注がれ
ています。また主の使いも、「主を恐れる者」のまわりに陣を張り、彼らを助け出されま
す。また、
「主を恐れる者」の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて救われます。
◆日本の神学者渡辺善太氏の愛弟子である岡村民子氏の言葉を借りて表現してみるなら
ば、
「主を恐れる」という自覚について、次のように表現できるかもしれません。
(1) 聖前感 ―この世の常識や自分のものさしが根底から覆される存在に出会ったという自覚。
(2) 被造物感―自分が神によって造られた存在であり、創造主なしには存在し得ないという自覚。
(3) 反省感 ―神の光に照らされて自分を反省(悔い改め)し、常に自己吟味を迫られるという自覚。
(4) 負債感 ―永遠に払い切れない代価で神に買い取られ、祝福という負債を持ったという自覚。
(5) 自立感 ―人に依存することなく、ただ、神(キリスト)にあって立つという信仰的自立の自覚。
(6) 使命感 ―神から与えられた召しに対して、忠実に生きようという使命感的自覚。
(7) 敵前感 ―神の敵の存在とその策略が常にあるという意識と神の武具による勝利の自覚。
以上のような自覚こそ、「主を恐れる」ということではないかと思います。
120
詩 116 篇 「(救いの杯を)かかげる」
(カテゴリー: 宣教)
ナーサー
‫נ ָָשׂא‬
13 節「私は救いの杯をかかげ
Keyword;
‫(נ ַָשׂא‬nasa’)、主の御名を呼び求めよう。」
「かかげる、上げる、向ける、仰ぐ」
lift up,
24:4, 7, 9/25:1/28:2/63:4/86:4/93:3/116:13/119:48/121:1/123:1/134:2/143:8
◆「かかげる、上げる」と訳されたナーサー
‫(נ ַָשׂא‬nasa’)は、「目を上げる」「手を上げる」
「声を上げる」
「心を上げる」
「頭を上げる」ことに用いられています。これらはみな意識
的な信仰行為を表しています。詩 116 篇 13 節の「救いの杯をかかげる」という表現も信
仰的な決意を表わすものであり、しかも、多分に預言的です。
◆そこで、
「救いの杯をかかげる」(「救いの杯を献げて」と訳している聖書もあり)とは
いったいどのような意味なのかを知る必要があります。
◆マルコ第 10 章 35 節以下で、イエスはしばしば「杯」について言われました。
「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしの飲もうとす
る杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか」(10:38)と。この言
葉は、ゼベダイの二人の子、ヤコブとヨハネがイエスに「私たちの頼み事―(すなわち、あなたが
栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてくださいと
いう願い事)ーをかなえていただきたい」と語ったことに対する返答でした。すでにイエスは、三
度も、弟子たちにこれから自分の身に起ころうとしていることーつまり「これから、わたしたちは
エルサレムに向かって行くこと。そして人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡され、彼らは人
の子を死刑に定め、異邦人に引き渡すこと・・」(マルコ 10:33~34)―を話されましたが、彼ら
はそのことがどういうことかを理解できませんでした。
◆イエスが飲もうとする杯には三つの意味合いがあります。その第一の意味は、祝福の杯
です。愛に満ちた、恵みが溢れる甘い杯です。それをヤコブとヨハネは最後の晩餐におい
て経験しました。(マルコ 14:23~24)参照。
◆第二の杯の意味は、苦難の杯です。イエスは最後の晩餐のあと、弟子たちを連れて祈る
ためにゲッセマネに行かれました。そしてひとり祈られました。「アバ父よ。・・どうぞ、
この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたの
みこころのままを、なさってください」と(マルコ 14:36)。 人より上に立ちたい、権力
を手にして人を支配したい、というひそかな誘惑があります。年がいくほど、経験を重ね
るほど、その危険は大きくなります。しかしイエスの道はどこまでも人に仕える道でした。
◆第三の杯の意味は、救いの杯、天の御国の杯です。イエスは言われました。
「まことに、
あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実
で造った物を飲むことはありません。
」と(マルコ 14:25) 。私たちには、将来、救いの完
成があります。神の国で共に飲む日が来ることを信じて、今、救いの杯をかかげるのです。
121
詩 117 篇
「ほめ歌う」
(カテゴリー: 賛美)
シャーバフ
‫ָשׁבַּ ח‬
1 節「すべての国々よ。主をほめたたえよ(‫。)הָ לַל‬すべての民よ。主をほめ歌え(‫שׁבַּ ח‬
ָ ) 。」
Praise the Lord, all you nations; extol him, all peoples (NIV)
Praise the Lord, all nations; Laud Him, all peoples! (NASB)
Praise the Lord, all you Gentiles! Laud Him, all you peoples! (NKJV)
63:3/106:47/117:1/145:4/147:1
Keyword; 「ほめ歌う」 extol, laud,
◆詩 117 篇は詩篇の中で最も短い詩篇ですが、この詩篇はやがて神に対する賛美が全世界
的規模においてなされるようになるという預言的な詩篇です。「すべての国々」と訳され
たゴイーム
‫(גּוֹיִ ם‬goyim)は、国(nation)、民族を意味するゴイ‫(גּוֹי‬goy)ですが、ユダヤ人
から見た異邦人(gentiles)をも意味します。
◆この詩篇はやがて神の民であるイスラエルと異邦人がともに神を賛美するよう呼びか
けているのです。このように、すべての国々、すべての民族の礼拝の実現は、神に選ばれ
た民であるイスラエル人(ユダヤ人)の民族的な救いの実現をなくしてあり得ません。とす
れば、この詩篇は神の救いの成就を視野に入れたコンデンス的詩篇と言えます。
◆現在、ユダヤ人はまだイエスをメシアだと信じる者たち(メシアニック・ジュー)は数で
言うならばわずかです。しかし、イスラエルが再建した 1948 年以降、ユダヤ人はイスラ
エルに帰還しつつあり、ユダヤ人とクリスチャンたちとの間にある根強い隔ての壁が、そ
の掛け橋を作るべく多くの働きを通して、少しずつですが、打ち壊されつつあると聞きま
す。その働きの究極はまさに、この詩 117 篇のように、
「その恵みは、私たちに大きく、
主のまことはとこしえに至る。ハレルヤ。
」と賛美しながら、ユダヤ人も異邦人も共に主
をほめ歌うことにあります。
「恵み」(へセド)と「まこと」(エメス)は、すでにイエス・キ
リストを通して実現しています。それが完全な形で表わされるのがキリスト再臨の時です。
ユダヤ人たちはその時、
「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と言って迎えます。
◆さて、ここで「ほめ歌う」と訳されたシャーバフ
‫( ָשׁבַּ ח‬shabach)は、賛美用語の一つで
すが、旧約では 8 回、詩篇では 5 回使われている動詞です。使用頻度としては他の賛美用
‫ ָשׁבַּ ח‬は同音異語として、神が海や国民の騒ぎ
語と比べるならば稀少です。(余談ですが、
を「静められる」still, keep という意味があります。)
◆このシャーバフ
‫( ָשׁבַּ ח‬shabach)は、NIV 訳、および NASB 訳では laud と訳されており、
称賛するという意味です。ちなみに、新改訳 63:3 では「賛美します」、106:47 では「誇
ります」
、そして 117:1、145:4、147:12 では「ほめ歌います」と訳されています。
‫(י ָָדה‬yadah)-感謝を込めて手を高く上げてー ②
ハーラル‫(חָ לַל‬halal)-派手に、にぎやかにー ③バーラク‫(בָּ ַרך‬barak)-声を出さず静かにー
④ザーマル‫(זָ מַ ר‬zamar)―楽器を伴ってー ⑤シール‫(שׂיר‬sir)-声をもってー があります。
◆賛美用語としての類義語は、①ヤーダー
122
詩 119 篇 (1) 「たくわえる」
(カテゴリー: 渇望)
ツァーファン
‫ָצ ַפן‬
11 節「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」
Thy word I have treasured in my heart, (NASV)
I have hidden your word in my heart, (NIV)
Keyword; 「たくわえる」心に納める、秘蔵する、秘め置く
secrete, hidden, cherish, store up, 10:8/17:4/27:5/31:19/56:6/83:3/119:11
◆「たくわえる」(新改訳)と訳されたツァーファン
‫(צָ פַ ן‬tsaphan)は、「秘め置く」(岩波訳)、
「心に納める」(新共同訳)とあるように、何か大切なものを心にいだく、秘める、秘蔵す
るという意味をもった動詞です。旧約では 32 回、詩篇では 8 回用いられています。
◆詩 119 篇では、
「どうしたら、若い人は自分の道をきよく保つことができようか。
」とい
う問いに対する答えとして三つー①「あなたのことばに従って、それを守ること」
、②「心
を尽くして、あなたを尋ね求めること」、そして、③「あなたのことばを心にたくわえる
こと」-を挙げています。
◆新約聖書のルカの福音書にも、イエスの母マリアが心に納めるということをしています。
「これらのことを、すべて心に納めて、思い巡らしていた。
」(1:19)
「母はこれらのことを、みな、心に留めておいた。」(2:31)
◆必ずしも、すべてを理解しているわけではなく、また、解答を見出したというのでもな
く、直感的に、大切なこととして自分の心の中に納め、秘め置くことは重要です。特に、
神の事柄においては、心に秘め置くことで、短絡的な答えで満足することを防ぎます。
◆イスラエルの民たちがバビロン捕囚を経験したことによって、民族としてのアイデンテ
ィティを確立すべく神の律法を真剣に学ぶようになります。そしてそこからユダヤ式教育
法が確立していったようです。その教育法では、本やテキストを使ってなすものではなく、
顔と顔を見合せて学ぶ方式です。子どもがきちんと理解できるまで何度も繰り返し、復唱
させ、繰り返すことによって、最も大切なことを体得していく教育法です。ユダヤ人の「ミ
シュナー」は 6 世紀になって文書化されたようですが、そうした学習法を意味しています。
◆ユダヤ人のラビたちの対話形式による学習姿勢は、本質的に「答え」よりも「問い」に
関心があったようです。なぜなら、ものごとの答えは時代の状況下や立っている視点によ
って変わっていきますが、
「問い」は絶えず残るからです。こうした学習法によって物事
の本質を見抜く力、洞察力が研磨され、優秀な人材を多く輩出させたと言われています。
‫(צָ פַ ן‬tsaphan)」とは、単に、神のことばを
◆神の「ことばを心にたくわえるツァーファン
数多く覚えることではなく、そのことばの意味するものを体得するために、たえず、良い
「問い」を自らの心の内に持つことであると信じます。
123
詩 119 篇 (2) 「走る」
(カテゴリー: 渇望)
ルーツ
‫רוּץ‬
32 節「私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが私の心を広くしてくださるからです。」
Keyword;
「走る」
run,
◆「走る」と訳されたルーツ
‫(רוּץ‬ruts)は、旧約で 102 回、詩篇で 6 回使われていますが、
そのイメージは「急いで走る、忙しい、追いかける、競争する、走り寄る、はせる」です。
詩 119 篇の作者が急いで何かをしなければならなかった事柄とはいったいなんだったの
でしょうか。
「悲しみのために涙を
◆第四段落(25~32 節)では、「ちりに打ち伏しています」(25 節)、
流している」(28 節)という信仰の危機的な状況の中にあって、作者は「(みことばのとお
りに)生かしてください」、「教えてください」、「悟らせてください」、「思いを潜めること
ができるように」、
「堅くささえてください」、
「(偽りの道を)取り除いてください」、
「はず
かしめないでください」との七つの願いを訴えています。しかし同時に、「(真実の道を)
選び取ります」、
「私の前に置きます」、
「堅く守ります」、
「(仰せの道を)走ります」といっ
た任意に基づく、自発的、主体的な信仰の決断もしています。
◆主に対する霊的渇望がご自身の民の中から起こされること、これこそバビロン捕囚とい
う辛い経験をさせた主の愛の配慮でした。そうした文脈の中で「走ります」ルーツ
‫(רוּץ‬ruts)ということばは、神の民が自らの信仰的な自立に向けたアイデンティティの確
立の急務の自覚とその熱意(献身)を表わす表現だと言えます。このことが確立されなけれ
ば、彼らは自分たちの存在の根拠と生きる希望を失う危機感を抱いていたことをうかがわ
せます。
◆「選び取る」(主に選ばれて、選ぶ)、
「私の前に置く」(常に意識すること)、
「堅く守る」
(いかなる状況においても神とのかかわりをみことばにしたがってしっかりと保つーkeep
-こと)、そして「走ります」(信仰の自立)はアイデンティティの確立と深く関わります。
◆使徒パウロもピリピ人への手紙の中で、
「一心に走る」ということばで、同じことを教
えています。
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕
えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えて
くださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この
一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリ
スト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走ってい
るのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。」(3章12~15節)
◆ここには義務ではなく自由があります。この自由こそ、詩 119 篇の作者の言う「主は心
を広くしてくださったから」(32 節後半)という意味ではないかと思います。
124
詩 119 篇 (3) 「思い出す」
(カテゴリー: 瞑想)
ザーハル
‫ָז ַכר‬
52 節「主よ。私は、あなたのとこしえからの定めを思い出し‫。זָ כַ ר‬慰めを得ました。」
55 節「主よ。私は、夜には、あなたの御名を思い出し‫」・・・ זָ כַ ר‬
Keyword; 「思い出す」 remember, 9:12/20:3/22:27/25:6, 7/42:4, 6/63:6/74:2, 18, 22/
77:3, 6, 11/78:35/78:39, 42/83:4/88:5/89:47/89:50/98:3/103:14/105:5, 8, 42/106:4, 7, 45/
109:14/111:5/115:12/119:49, 52, 55/132:1/136:23/137:1, 6, 7/143:5
◆瞑想用語の一つであるザーハル
‫(זָ כַ ר‬zakhar)は、これまでも何度も取り上げてきまし
た。詩 20 篇 7 節では「誇ります」、詩 71 篇 16 節では「心に留めます」、詩 77 篇 3, 6, 11
節では「思い起こします」、そして今回の詩 119 篇 52, 55 節では「思い出す」です。とり
わけ、詩篇特愛の動詞です(旧約全体 222 回、詩篇は 52 回)。
◆詩 119 篇は、バビロン捕囚において、その地で自分たちのアイデンティティを再発見し
再建すべき課題に迫られることを余儀なくされていました。自分たちの歴史を振り返り、
いつくしみ深い神の恵みの視点から「思い出し(回顧)」たのでした。
◆「回顧と展望」をテーマとする申命記において、繰り返し、繰り返し、命じられている
ことばがあります。それは「・・を覚えていなければならない」ということばです。
申命記 5:15/7:18/8:2, 18/9:7, 27/15:15/16:3, 12/24:9, 18, 22/25:17/32:7 参照。
◆具体的には、神がエジプトから連れ出されたこと、パロにされたこと、全エジプトにさ
れたこと、さらに 40 年間にわたる荒野のすべての行程でした。全行程とは、必ずしも生
存と防衛の祝福された保障だけでなく、過去の苦しみも、思い出したくないような失敗の
経験も含まれます。そのような意味において、申命記では神がモーセを通して民(新しい
世代)を約束された新しい地へと進み行かせる前に、過去を回顧して、神の恵みを思い起
こすようにと命じられたのです。
◆バビロン捕囚を経験した民たちの新しい世代は、神のトーラーに開眼させられたことに
よって、新しい神のみわざを霊によって予感していました。それゆえ、かつてモーセが民
たちに言い聞かせたように、過去の歴史における神の恵みと神の教え(トーラー)を回顧し
たのです。過去の神の恵みを回顧することは彼らのアイディティティを再確立する上でき
わめて大切な取り組みでした。単なる古き良き時代への感傷的回顧ではなく、自動車のバ
ックミラーのように正しく前進するための信仰的・肯定的回顧です。
◆私たちも回顧してみる必要があるかもしれません。今、ぶつかっている問題や状況だけ
に心を奪われることなく、物事を神の恵みの視点から肯定的に見ることができるならば、
私たちは思いがけない輝ける将来へと導かれていくことと信じます。
◆有名な「砂の上の足跡」(Footprints in the sand)という詩があります。これは回顧する
ことの良いたとえと言えるかもしれません。
125
詩 119 篇 (4) 「(~に)向ける」
(カテゴリー: 信頼)
シューヴ
‫שׁוּב‬
59 節「私は自分の道を顧みて‫שׁב‬
ַ ָ‫、ח‬あなたのさとしのほうへ私の足を向けました‫」。שׁוּב‬
(新改訳)
「わたしは、あなたの道を思う
‫חָ ַשׁב‬とき、足をかえして‫、שׁוּב‬あなたのあかしに
向かいます。」(口語訳)
Keyword;
「向ける、
向きを変える」
turn, return, bring buck, turn back
※神が人に「向きを変える」とき、「償いをする」(reward)、「生き返らせる」(revive, restore)、
「(喜びを)返す」という意味になります。人が神に「向きを変える」ことは悔い改めを意味します。
◆「(足を)向ける」と訳されたシューヴ
‫(שׁוּב‬shuv)は、本来、「帰る」という動詞です。
どこから、どこへ向きを変えて帰るのか、その方向性が含まれています。59 節の場合で
は、「自分の道」から「あなたのあかしの方へ」帰ると告白しています。その方向転換す
る場合に「自分の道を顧みる」ことをしているのです。「顧みる」
‫(חָ ַשׁב‬ハーシャヴ、
chashav)とは自分点検することです。なぜなら 57 節で「私は、あなたのことばを守ると
申しました。」と言ったとはいえ、その軌道からズレているかもしれないからです。
◆私は、冬の樹林内をスノーシューで散策していて「輪形彷徨」なるものを経験したこと
があります。「輪形彷徨」とは目隠しされた状態で歩くと、まっすぐに進めず、右か左に
それていき、自分ではまっすぐに歩いているつもりでも、知らぬ間に、同じ場所に戻って
来てしまうという現象です。それゆえ、「輪形彷徨」は山の遭難の要因の一つとされてい
ます。詩篇の作者が言うように「自分の道を顧み」て、急いで、ためらわずに「あなたの
方へ足を向ける」という修正をすることは重要です。これを聖書では「悔い改め」と言い
ます。ふと我に返り、父の家に帰った放蕩息子は思わぬ祝福を得たように (ルカ 15 章)。
◆イエスの弟子であるペテロもイスカリオテのユダも同じく主を裏切りました。しかし、
前者はやがてイエスの一番弟子となりましたが、後者は自責のゆえに自害しました。どち
らも自分のした過ちを悔いましたが、ペテロの場合はあわてて、あわれみ深い主のもとに
引き返して神の愛の懐に駆け込みました。これが悔い改めです。ユダは悔いましたが、主
のもとに帰ることをしませんでした。そこが大きな違いです。
◆ルツ記 第 1 章には、なんと 12 回の
‫שׁוּב‬があります。飢饉のためにモアブにやってき
た一家はそこで夫と二人の息子を亡くしました。残されたのは妻のナオミと二人の息子た
ちの嫁(オルパとルツ)でした。不条理な試練の中にもナオミの信仰は嫁たちに大きな感化
を与えました。やがてナオミが故郷のベツレヘムに帰ろうとしたとき、二人の嫁に再婚の
チャンスを与えるために実家に帰るように勧めました。押し問答の末、オルパは実家に帰
り、ルツはナオミと共に故郷に帰りました。人生の岐路に立たされたとき、否応なしに、
選択を迫られました。そして、はからずも異邦人ルツからやがてダビデが生まれたのです。
126
詩 119 篇 (5) 「喜ぶ」
(カテゴリー: 感謝)
シャーアー
‫ָשׁ עַ ע‬
70 節「・・しかし、私はあなたのみおしえを喜んでいます(‫שׁעַ ע‬
ָ )。」
Keyword;
「喜びます、楽しみます」
delight,
sport,
take delight in,
94:19/119:16, 47, 70
◆「喜んでいます」と訳されたシャーアー
‫( ָשׁעַ ע‬sha`a)は、旧約聖書で 6 回しか使われて
いない動詞です。しかもそれはすべて詩篇にあり、詩 119 篇に 5 回、94 篇に 1 回です。
‫( ָשׁעַ ע‬sha`a)の名詞シャアシュイーム‫( ַשׁעֲשׁוּעִ ים‬sha`ashu`im)は、すべて
◆シャーアー
「私の喜び」(新改訳)、
「わたしの楽しみ」(新共同訳)と訳されており、この名詞も詩篇の
中では 119 篇にのみ使われています(24, 77, 92, 143, 174 節)。とすれば、この動詞はバビ
ロン捕囚時に生まれた言葉と言えます。
‫( ָשׂמַ ח‬samach)があります(詩 119
篇では 74 節にあります)。英語では rejoice と訳されます。一方のシャーアー‫שׁעַ ע‬
ָ (sha`a)
◆ところで、喜びを表わす一般的な動詞としてサーマフ
は delight、もしくは sport と訳されます。rejoice と delight の違いは何なのでしょうか。
◆前者の rejoice はある特別なこととしての喜びを表わすのに対し、後者の delight は日常
的な楽しみ、気晴らし、遊びの感覚、趣味に興じるといった意味合いをもったことばであ
るように思います。
◆人は楽しいことをしているときには、時間を忘れ、疲れを感じません。むしろより創造
的な文化を生み出していきます。日本の江戸時代には多くの文化的な面で花を咲かせまし
た。その文化を担った人々は隠居して(自分の生活のために働くことから離れて)、自分の
やりたいことを興じた人々によって生み出されたと言われています。したがって、江戸時
代においては、隠居は自己実現する手段でした。
◆バビロン捕囚を経験した神の民たちは、外面的状況としては異教の民からの屈辱を受け
ていましたが、その中で彼らは神の律法を楽しむ文化を築きあげていたのかもしれません。
詩 119 篇にのみ見られる「あなたのみおしえは私の喜びーmy delight―です」という表現
は、まさに律法による自己実現の喜びを表している言葉かもしれません。
◆多くの人々は、試練や困難に遭遇すると無益と思うばかりか、人生における損であると
とらえてしまいがちです。しかし捕囚の民が得たものは全く逆のものでした。捕囚経験は
彼らを神にあって再教育するのに大いに役立ち、忍耐や信仰、不屈の精神、謙遜な態度な
ど、有益な特質を伸ばす契機となったと言えます。人々の経験する全ての事柄、特に忍耐
をもって耐えなければならないときに効果は大きく現れてきます。
127
詩 119 篇 (6) 「学ぶ」
(カテゴリー: 信頼)
ラーマド
‫לָמַ ד‬
71 節「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたの
おきてを学びました
Keyword;
「学ぶ」
‫(לָמַ ד‬lamad)。」(新改訳)
learn, 119:7, 71, 73
◆「学びました」と訳される動詞ラーマド
‫(לָמַ ד‬lamad)は、本来、「教える、鍛える、し
つける、養成する、teach, train」という意味です。それが詩 119 篇では「学びます」とな
っています(119:7, 71, 73 のみ)。
「学ぶ」とは、頭で理解すること、気づかされること、身
‫(לָמַ ד‬lamad)は「教える」ことと「学
ぶ」ことが、ワンセットになっている動詞だと言えます。ただ、ラーマド‫(לָמַ ד‬lamad)は
に着くこと、learn を意味します。つまり、ラーマド
詩篇の中では 27 回使われていますが、「学ぶ」と訳されているのは詩 119 篇のみです。
◆①いつ、②何を、③だれから、④どのようにして学んだのか、⑤その結果はなんであっ
たのか、興味を引くところですが、65~72 節の箇所では①と②と⑤について記していま
す。①では「苦しみにあったこと」「卑しめられたこと」が「学ぶ」契機となりました。
「苦しみに会う前には、あやまちを犯した」(67 節)者が、苦しみを経験することで何かを
学んだのです。②その何かとは、主が自分にとって良い方であるということです。
◆このブロックでは、6 つのトーヴ(
‫)טוֹב‬がいろいろな表現で使われています。「良くし
てくださった」
「良い(分別)「いつくしみ深い」
「いつくしみを施される」
「しあわせでした」
「(金銀にも)まさる」・・です。God is good. 神は良い方である、神は良いことしかなさ
らないーこのことに気づかされた「気づき」こそが、この作者にとって「学んだ」ことの
内容でした。さらに、⑤の学びの結果は、まさに「しあわせ」(
でした。(※
‫)טוֹב‬と「喜び」(‫) ָשׁעַ ע‬
‫( ָשׁעַ ע‬sha`a)は詩篇 94:19, 119:16, 47, 70 にしか使われていない動詞です.)
◆苦しみの効用は実に大きなものがあるようです。御子イエスも多くの苦しみを通して従
順を学んだとあります(ヘブル人への手紙 5 章 8 節)。とするなら、私たちが経験する多く
の苦しみ、ストレスと感じる事柄、疲れや重荷があります。しかし、その背後におられる
御父の愛の深い配慮を知って、
「私にとって良いことでした」と気づく者はさいわいです。
◆へブル人への手紙 12 章には御父の子に対する訓練の意図がはっきりと記されています。
「あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。
主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を
懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』 訓練と思って耐え忍びな
さい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。・・霊の父は、私たちの益のため、私た
ちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは
喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練され
た人々に平安な義の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。」
128
詩 119 篇 (7) 「慕って絶え入る」
(カテゴリー: 渇望)
カーラー
‫כָּ לָה‬
1節「私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。」
2節「私の目は、みことばを慕って絶え入るばかりです。」
Keyword; 「慕って絶え入るばかり」 faint, 84:2/119:81, 82, 123/143:7
」(新
◆詩 84 篇 2 節にも「私のたましいは、主の大庭を恋い慕って、絶え入るばかりです。
改訳)とありましたが、そこでは、
「恋い慕って」カーサフ
りです」カーラー
はカーラー
‫(כָּסַ ף‬kasaph)と「絶え入るばか
‫(כָּ לָה‬kalah)と二つの動詞が充てられていましたが、詩 119 篇 1, 2 節で
‫(כָּ לָה‬kalah)ひとつで「慕って絶え入るばかりです」と訳されています(ただし、
新改訳と口語訳の場合のみです)。
◆ちなみに、新共同訳では「求めて絶え入りそうです」(1 節)、
「待って衰えました」(2
節)、岩波訳では「恋い焦がれて」(1, 2 節)、関根訳では「したい絶え入るばかり」(1 節)、
「待ちわびて衰え」(2 節)、リビングバイブル訳では「待ちくたびれました」(1 節)、
「目
も緊張し続けてすっかり充血してしまいました」(2 節)・・などと訳されています。
◆カーラー
‫(כָּ לָה‬kalah)という動詞は旧約全体で 204 回、詩篇でも 23 回と比較的多く使
われている動詞です。英語の訳語も多くあります。finish, destroy, fail, perish, complete,
consume, wipe, vanish, end,
など。この動詞の全体のイメージは、もうダメ、もう限界、
今にも死にそう、終わっちゃう・・といったところでしょうか。
◆やつれて憔悴するほどに恋い焦がれて、神の救いを待ち望むその姿は、今日の神のリバ
イバルを求めて祈る多くの者たちの姿と重なり合います。捕囚を経験した神の民たちのこ
のような渇望はどうしてもたらされたのでしょうか。それは思うに、神のトーラー(教え)
に耳を傾けていくうちに、主なる神こそ自分たちを恋い慕っておられることに気づかされ
たからではないかと思います。
◆申命記には「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれた。
」(7 章 7 節)、
「主
は、ただ、あなたがたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの子孫の
あなたがたを、すべての国々と民のうちから選ばれた。今日あるとおりである。」とあり
ます。「恋い慕う」「選ぶ」
「愛する」という主の熱い思いを知ったとき、彼らははじめて
主をそのようなお方として知り、慕い求めるようになっていったと思われます。
◆今日に生きる私たちも、主を知ることがどんなに大きな力をもたらすことでしょうか。
生産性を求められる世の中で、それぞれが孤立し、生きる意味を考えたり人とかかわった
りする余裕が失われて、心の病が増えています。そうした時代の中にあって、教会は再度、
主を知ることの大切さに目が開かれる必要があります。預言者ホセアが「主を知ることを
切に追い求めよう。主は暁のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、
後の雨のように、地を潤される。
」と語ったように・・・。
129
詩 119 篇 (8) 「愛する」
(カテゴリー: 信頼)
アーハヴ
‫אָהַ ב‬
97節「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。
これが一日中、私の思いとなっています。」
Keyword;
「愛する」
love,
5:11/26:8/31:23/40:16/69:31/97:10/116:1/145:20/
119:47, 48, 97, 113, 119, 127, 132, 140, 159, 163, 165, 167
◆「愛する」という動詞アーハヴ
‫‘(אָהַ ב‬ahav)は、本来的には神が人を愛する無条件の
愛です。しかしその神の愛に触れられた者が、神を愛するときにもこのアーハヴという動
詞が使われています。詩篇の中では詩 119 篇に多く見られます。おそらく、作者がハビロ
ンの捕囚の地において神のトーラーに目が開かれ、神の愛の深さにふれたからです。そし
て、作者は神とその教えを愛する者となりました。ところで、神の教えを愛するとはどう
いうことか。97 節~104 節の段落においてそれを伺い知ることができます。
◆第一に、
「主のみおしえを愛するとは、一日中、それを自分の思いとするということ」
「終日」(関根訳)、
「ひねもす」(岩波訳)
です。
「一日中」とは、
「絶え間なく」(新共同訳)、
ということです。私の「思い」とは、
「思い巡らす」ことであり、瞑想することです。つ
まり、一日中、主から与えられた教えを思い巡らすこと、これが愛することです。ある時
間だけ思い、そのあとはすっかり頭から消えているとしたら、愛しているとは言えません。
作者は自分が主を愛しているそのあかし(内証)として継続的な思い巡らしをあげています。
◆第二に、
「主のみおしえ愛するとは、その結果として知恵が与えられること」を意味し
ます。作者は「敵よりも」
「すべての師よりも」「老人よりも」
、賢く、悟りがあり、わき
まえ(分別)があると述べています。一見、傲慢に聞こえますが、主の教えに身も心も満た
すことによって、自分の生き方に自信を得たと受け取るべきです。愛は人に自信を与え、
秀だせる力を与えます。愛は人を生かします。
◆第三は、
「主のみおしえを愛するとは、優先すべきことを明確に選択するということ」
です。作者は主のおしえを愛するゆえに、偽りの道をことごとく憎むと言っています。
イエスは「神も富も、同時に愛することはできない」と言われました。愛するとは大切な
ことがらを選び取らせ、そうでないものとはっきりと退けさせるのです。
◆私が思い巡らしているイエスのことばがあります。それは、弟子たちが「だれが一番偉
いか」と議論していたときに、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせて「だれ
でも、このような子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを
受け入れる者はわたしを遣わした方を受け入れる者です。あなたがたのすべての中で一番
小さい者が、一番偉いー偉大で尊い存在、必要な器―のです。」と言われたことばです。
「受け入れる」(受容)とは、愛することです。最も愛を必要している者を受け入れ、これ
に愛を注げるか、と主に問われています。
130
詩 119 篇 (9) 「甘い」
(カテゴリー: 賛美・喜び)
マーラツ
‫מָ לַץ‬
103節「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。
蜜よりも私の口に甘いのです。」
Keyword;
「甘い」
sweet, 119:103
◆「何と甘いことでしょう」と訳された原文はマー・ニムレツー
と訳された動詞はマーラツ
‫נּ ְִמלְ צו‬-‫「、 מַ ה‬甘い」
‫(מָ לַץ‬malats)です。このことばは詩 119 篇 103 節にしか使わ
れていませんが、とても印象的です。「なんと甘いことでしょう」を、岩波訳は「なんと
滑らかなことか」と訳しています。
◆類義語にマータク
‫(מָ תַ ק‬mataq)があります。用例としては、出エジプト記で民が苦い
水でつぶやいた時、主はモーセに一本の木を示し、それを苦い水に投げ入れると水は甘く
なったとあります(15:25)。つまり、水が美味しく飲めるようになったということです。
次の用例としては、「私たちは、いっしょに仲良く語り合い」(詩篇 55:14)とあるように、
楽しい交わりを意味しています。enjoy
sweet です。詩篇 19:10 の「それらは・・蜜よ
りも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。」、箴言 16:24 の「親切なことばは蜂蜜、たましい
に甘く、骨を健やかにする。」
、雅歌 2:3 の「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、
林の木の中のりんごの木のようでする私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実
‫(מָ תַ ק‬mataq)の
は私の口に甘いのです。」
・・これらの「甘い」は、いずれも、マータク
‫(מַ תוּק‬matoq)が使われています。また、サウルの息子ヨナタンは戦場での
形容詞マトク
疲れの中で、蜂蜜をー少しばかりでしたがー食べると「目が輝いた」とあります(サムエ
ル第一、14:27)。
「目が輝く」とは、力や元気が回復することを意味します。甘いものは
比較的、即効的に、エネルギーへと換えられます。
◆マーラツ
‫(מָ לַץ‬malats)にしても、マータク‫(מָ תַ ק‬mataq)にしても、「甘い」という味覚
用語の意味するところは、①美味しい ②貴重なもの
④心地よい
③元気が出る(元気づけられる)
⑤快い・・といった意味合いがあるようです。
◆詩篇ではみことばを知性的な領域だけでなく、感覚的な領域でも味わう表現が多く見ら
れますが、それらは赤子が母親に抱かれている感覚に近いものだと思います。赤子は知性
としては理解できなくとも、母親の愛を日々五感によって感じ取っています。視覚を通し
て母親の愛のまなざしを、聴覚を通して母親の優しい声を(時には危険や禁止の声を)、
触覚を通して母親の温かいぬくもりを、臭覚を通して母親の存在のにおいを、味覚を通し
て母親の愛を感じ取っています。同様に、神の子である私たちも、視覚によって神の愛の
まなざしを見、聴覚を通して神の御声を聞き、触覚によって癒しや導きを感じ、臭覚によ
ってキリストの香りを嗅ぎわけます。味覚によって神のことばの甘さを味わう者とされて
います。神とのスウィートな愛の交わりをより楽しむ者でありたいと思います。
131
詩 119 篇 (10) 「あえぐ」
(カテゴリー: 渇望)
ヤーアヴ
‫יָ אַב‬
131 節「私は口を大きく開けてあえぎました。あなたの仰せを愛したからです。」(新改訳)
「わたしは口を大きく開き、渇望しています。あなたの戒めを慕い求めます。
」(新共同訳)
Keyword; 「慕う」 longing for 119:131 (旧約聖書中、ここ 1 回のみ)
◆詩 119 篇には詩 119 篇特有の語彙(動詞)がいつくか見られます。たとえば、
①「学ぶ」と訳されたラーマド
‫(לָמַ ד‬lamad)。詩篇では 27 回使われています。その多く
(teach)と訳されていますが、119 篇では 7 節と 71 節の 2 回が「学ぶ」(learn)
は
「教える」
と訳されています。
「苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。私はそれで
あなたのおきてを学びました。
」(119:71)は有名です。
‫( ָשׁעַ ע‬sha`a) (119:16, 47, 70)。英語では delight と訳されて
います。名詞形では「私の喜び」(My delight) ‫שׁעֲשׁוּעִ ים‬
ַ (sha`ashu`im)として使われ
ています。119:24, 77, 92, 143, 173 参照。シャーアー‫שׁעַ ע‬
ָ (sha`a)の「喜び」は、特別
②「喜ぶ」と訳されたシアー
な「喜び」(rejoice)ではなく、日常的なこととしての「喜び」―オランダの歴史学者ホ
イジンガの「ホモ・ルーデンス」でいうところの<遊び>の世界に近い感覚-、しかも
高価で、尊い、大切な楽しみを表わしています。LB 訳では「無上の喜び」と訳されて
います。神のトーラー(教え)を幾千の金銀にも勝るものとして高めたのです。
③「甘い」と訳されたマーラツ
‫(מָ לַץ‬malats)も(119:103)。サウル王の息子ヨナタンが戦
場で少しばかりの蜂蜜でも目が輝いたとあるように、まさに、昔は甘いものが貴重でし
た。
「あなたのみことばは、私の上あごに名と甘いことでしょう。密よりも甘いのです」
という表現は 119 篇の中のまさに白眉です。
④「目を留める」と訳されたシャーアー
‫( ָשׁעַ ה‬sha`ah)。目も心も注ぎ込む、しかも好意
をもってじっと凝視する、注目するという意味です。英語では regard と訳されていま
す。新約聖書のヘブル人への手紙 12 章 2 節にある「アフォラオー」(αφοραω)というギ
リシア語も新約聖書ではここ 1 回しか使われていませんが、へブル人への手紙のキーワ
ードです。まなざしをイエスに固定して、イエスから目を離さないでいること、イエス
‫( ָשׁעַ ה‬sha`ah)もそれに近い
だけを見つめながら、イエスを仰ぎ見るという言葉です。
意味合いではないかと思います。
◆そして、今回の「あえぐ」(渇望する、慕う)と訳されたヤーアヴ
‫(יָאַב‬ya’av)も詩 119
篇にしか登場しない動詞です。なぜ「あえぐ」のでしょうか。それは 129 節にあるように、
「あなたのさとしは奇しい(wonderful)」からです。死海写本では「奇しい」を「蜜蜂の
流れ」と訳しているようです。
◆バビロン捕囚の経験によって新しく生み出された言葉を通して見えてくるものは、
「みことばの戸が開かれて」、神とその教えに対する新しいいのちのかかわりなのです。
132
詩 119 篇 (11) 「選ぶ」
(カテゴリー: 信頼)
バーハル
‫בָּ ַחר‬
173 節「・・・私はあなたの戒めを選びました。」
Keyword;
「選ぶ」
choose,
◆「選ぶ」と訳されたバーハル
25:12,
119:30, 173
‫(בָּ חַ ַר‬bachar)という動詞は、旧約で 164 回、詩篇 13 回使
われています。その多くが、神がイスラエルを、あるいは神が人を選ぶという場合に使わ
れています。
◆この動詞が多く使われているのは申命記、次いでイザヤ書です。申命記では 31 回中 1
回だけいのちを選ぶように求められています。つまり、30 回は神がイスラエルを選んだ
とたたみかけているのです。その極めつけは 7 章 7~8 節です。
「主があなたがたを恋い慕
って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。
事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があな
たがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主
は力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から
あなたがたを贖い出された。」です。ここには神の先行的な愛と真実に基づく「選び」が
記されています。
◆イザヤ書も 20 回中 2 回だけ、神の喜ばれることを「選ぶ」ようにと勧告し、その祝福
を約束しています。いずれもイスラエルか神の選民として自立するためには、この「神に
選ばれて、神を選ぶ」という神の恩寵に対する主体的な決断が重要です。信仰的自立とは
「愛されて愛する、選ばれて選ぶ」という主体的な決断に基づく服従の意志なのです。
◆主イエス・キリストも弟子たちに「あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ 15 章 16 節) と言わ
れました。選びの先行的恩寵が弟子たちに明言されています。
◆ところで、詩篇でも同様です。13 回中 2 回だけ、しかも 119 篇(30 節と 173 節)に人間
側の「選び」の告白として使われています。119 篇にそれが見られるという点が重要です。
バビロンの捕囚を経験した者がはじめて、自分たちが神の選びにあずかり、神の律法を賦
与されていたことに目が開かれ、それによって自らのアイデンティティを確立し、やがて
離散と迫害を余儀なくされる運命にあった彼らの存在を根底から支える基盤となったか
らです。
「私は真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置いた。
」(119:30)
「私はあなたの戒めを選びました。」(119:173)
◆神に選ばれて、「選ぶ」という主体的な告白の数は、神の選びの宣言に比べてあまりに
もその数は少ないように思います。それゆえ、極めて重く、価値のある告白となっていま
す。しかも、その「選び取り」の告白をもって詩 119 篇が閉じられているのです。
133
詩 131 篇 「(魂を)和らげる、静める」
(カテゴリー: 信頼)
シャーワー
‫ָשׁוָ ה‬
2 節「まことに私は、自分のたましいを和らげ(‫שׁוָ ה‬
ָ )、 静めました(‫」。)דּמַ ם‬
Keyword;
「沈黙、平穏」
silent, still,
◆詩 131 篇は短い詩篇ながらも、
「静まりへの希求」をテーマとしたすばらしい詩篇です。
120 篇~134 篇の「都上りの歌」のテーマは、「シャロームへの希求」です。このテーマ
において、まさに詩 131 篇はきわめて重要な詩篇と言えます。
◆作者は自分のたましい(ネフェシュ)を「和らげ」
「静め」ようとしています。
「和らげ」
と訳された動詞シャーワー
‫( ָשׁוָ ה‬shawah)は、平らにする、平穏にする、沈黙させる、静
める、still という意味で、旧約では 4 回、詩篇ではこの 131 篇のみ使われています。
後者の「静めます」と訳された動詞ダーマン
させる quiet で、前者のシャーワー
‫(דּמַ ם‬damam)は、穏やかにする silent
沈黙
‫ ָשׁוָ ה‬と似たような意味を持っています。同義的なこと
ばを重ねることによって、
「静まりへの希求」を一層強める表現となっています。
◆今日、キリスト教会は、この「静まりへの希求」が高まりつつあります。この霊性の必
要性を強調している一人、ヘンリー・ナウエンは“Out of Solitude” (邦訳「静まりから
生まれるもの」―大田和功一訳、あめんどう社、2004)の中で、「朝早くまだ暗いうちに、
イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ 1 章 35 節)
という聖書のテキストを通して、多くの人々の問題に深くかかわっておられるイエスの働
きの中心(秘訣)に、ひとり退くこと、御父との親しい交わりに身を浸すことの重要性に注
目しています。一人になること、一人でいること、閑静な場所に身を置くこと、人から離
れることのできる場所を持つこと、それがなぜ大切なのか。それは、私たちのすること、
言うことに深みを(内実を)持たせるためです。
◆ドイツのナチに立ち向かった牧師ボンフェッファ―は「共に生きる生活」という本の中
で、沈黙についてこう述べています。「一人でいることのできない者は、交わりに入るこ
とを用心しなさい。交わりの中にいない者は一人でいることを用心しなさい。・・ひとり
でいる日がなければ、他者と共なる日は交わりにとっても、個人にとっても、実りのない
ものとなる。」 これは沈黙の必要性を語っています。沈黙は神に聞くためのものであり、
神の道はしばしば外的活動を犠牲にしなければならない反対の方向にあります。
◆はからずも、作者は1節で「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつ
かない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。」と述べています。高慢な野
心、崇高な気負いから解かれて、意図的に平静な心を回復することが必要なのです。作者
はそれを「乳離れした子が母親の前にいる」姿にたとえています。主の前にただひたすら
静まって御声に聞き入っているマリアのライフスタイルを彷彿させます。
134
詩 137 篇 「たたえる、上げる」
(カテゴリー: 賛美)
アーラー
‫עָ לָ ה‬
6 節「もしも、・・私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、・・」
Keyword; 「上げる」 登る、上る、引き上げる、あがめる、ささげる、
18:4/24:3/30:3/40:2/47:5, 9/51:19/62:9/66:15/68:18/71:20/74:23/78:21/81:10/97:9/
102:24/104:8/17:26/122:4/132:3/1335:7/137:6
‫`(עָ לָה‬alah)は、旧約 892 回、うち詩篇は 23 回使われ
◆「たたえる」と訳されたアーラー
ています。
「たたえる」と訳されていますが、賛美用語ではありません。「主の山に登る、
祭壇にささげる、寝床に上がる」といった、今置かれているところから、より高いところ
へ上るというイメージの強い動詞で、前後の文脈によってさまざまに訳されています。
原文(直訳)では、「もし、私が上げないならば、エルサレムを、~の上に、頭、私の喜び」
となっており、それぞれの聖書がこの 4 節を以下のように訳しています。<もし、私がエ
ルサレムを>・・
「わが最高の喜びとしないなら」(口語訳、岩波訳)、
「わたしの最大の喜
びとしないなら」(新共同訳)、
「この上なき喜びとしなければ」(フランシスコ会訳)、
「わが頭上に喜びの冠としないならば」(関根訳)、
「わがすべての歓喜(よろこび)の極みとな
さずば」(文語訳)、If I do not consider Jerusalem my highest joy(NIV)・・等です。
ちなみに、137 篇 4 節で「たたえる」ということばを補充しているのは新改訳だけです。
◆「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。」
(1 節)とあるように、涙の経験は、神のイスラエルの民に対する取り扱いにおいて、少な
くとも二つの意味のある実りをもたらしました。一つは、シオン(エルサレム、あるいは
神と同義)を、
「最上の喜びにもまさってたたえること」
、もう一つは、
「主の教え(トーラ
ー)を喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむこと」(詩篇 1:2)です。主に対する最高の賛
美とみことばの瞑想は神の民に神のいのちを吹き込むツールです。神に選ばれ、その救い
にあずかった私たちひとり一人がこのような思いをもって主を愛しているか問われます。
◆バビロンは、神に逆らう勢力のシンボルです。そうした勢力の中に置かれているシオニ
ストたちは、神をたたえるべき「立琴を柳の木々に掛けて」(137:2)いるべきではありま
せん。その立琴を手に持って神を賛美し続けなければなりません。また昼も夜も、どんな
ときにも、神のみおしえであるみことばを聞き、それをじっくりと瞑想していくライフス
タイルを築かなければなりません。そうしたシオニストが輩出することこそ、バビロン捕
囚の大いなる神の目的でした。
◆アーラー
‫`(עָ לָה‬alah)の名詞形であるオーラー‫`( ֹעלָה‬olah)は「全焼のいけにえ」burnt
offerings を意味します。それは神の喜ぶ動物の肉の匂いが神のもとに「上る」からです。
神は祭壇から上ってくる「香ばしいかおり」をかいで心を和ませたようです。創世記 8 章
21 節参照。
135
詩 141 篇 「身を避ける」
(カテゴリー: 信頼)
ハーサー
‫חָ סָ ה‬
8 節「私の主、神よ。まことに、私の目はあなたに向いています。
私はあなたに身を避けます。私を放り出さないでください。
」
Keyword;
「身を避ける」
逃げ込む、避け所とする、寄り頼む
take refuge,
2:12/ 5:11/7:1/11:1/16:1/17:7/18:2/18:30/25:20/31:1, 19/34:8, 22/36:7/37:40/57:1, 1/
61:4/64:10/71:1/91:4/118:8, 9/141:8/144:2
◆「身を避ける」と訳されたハーサー
‫(חָ סָ ה‬chasah)は、旧約で37回、そのうちの25回が
詩篇で使われています。まさにこの動詞は詩篇特有のものと言えます。その意味は「主の
もとに逃げ込む、主に身を避ける」という意味です。
◆詩141篇8節では、前行の「私の目はあなたに向いています」という表現と「私はあなた
に身を避けます」という表現は同義です。というのは、主イエスが「からだのあかりは目
です。それでもしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ
あなたの全身は暗いでしょう。」(マタイ6章22節)と言われたように、「目」は全身、全
体を表わすからです。その目が神に向けられるときこそ、身を避けること、すなわち、神
に信頼している姿です。
◆この詩篇では、悪に誘い込もうとしている者たちが作者を取り巻いています。そうした
状況の中で、作者は自分の目を意識的に主に向け、主の中に逃げ込もうとしています。
◆8節の最後の分節にある「放りださないで」アーラー
‫`(עָ ָרה‬arah)の否定は聖書によって
訳が実にさまざまです。
「私を放り出さないでください。」 (新改訳)
「私の魂をうつろにしないでください。」(新共同訳)
「わたしを助けるものもないままに捨ておかないでください。」(口語訳)
「わたしをさらしものにしないでください。
」(フランシスコ会訳)
「わが魂を空にしないでください。」(岩波訳)
「わが魂を裸のままにしないでください。
」(関根訳)
◆これらの訳を並べてみると、悪に誘い込もうとしている者たちにふりまわされるとどう
いう結果がもたらされるか想像できます。心がうつろで、さらしものにされ、空(empty)
にされ、裸にされて放り出されてしまったような感覚になったとしたら、自ら立つことさ
えできません。そうならないようにと作者は祈っています。
◆どんなときにも、主のうちに避けどころを持つこと、主に目を向けるというライフスタ
イルを確立することの大切さを教えられます。
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詩 142 篇 「言う」
(カテゴリー: 祈り)
アーマル
‫אָמר‬
ַ
5 節「主よ。私はあなたに叫んで、言いました‫」。אָמַ ר‬
Keyword; 「言う、申し上げる」 say, said, speak,
◆「言う」と訳されるアーマル
‫’(אָמַ ר‬amar)は、へブル語の中でも最も多く使用されてい
る動詞です。その数は旧約全体で 5,503 回、詩篇では 100 回使用されています。
◆この動詞が聖書で最初に登場するのは、創世記 1 章 3 節「そのとき、神が『光よ、あれ』
と仰せられた(
‫。)אָמַ ר‬すると光ができた。」です。神はその時から語り続けておられます。
聖書の神はまさに「語られる神」と言えます。一方、人間がはじめて語ったのは、同 2 章
23 節「すると人は言った (‫。)אָמַ ר‬
『これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉、
これを女と名づけよう。・・』」でした。その女に対して語った(
でした。
「・・・と神は、本当に言われた(
‫)אָמַ ר‬のが最も狡猾な蛇
‫)אָמַ ר‬のですか。」(3 章 1 節)
・・このように
して、神の創造、人ヘの語りかけ、敵の人に対する誘惑・・、救いのドラマはすべて「言
う」、
「語る」ということを通して展開していきます。そして語る「ことば」が神の出来事
(ダーバール)を引き起していきます。それゆえ、アーマル‫’(אָמַ ר‬amar)に次いで多い動詞
が、ハーヤー‫(הָ יָה‬hayah,―to be, become, happen)であることもおのずとうなずけます。
◆ところで、詩 142 篇は祈りの用語が多く使われています。1, 5 節の「(声を上げて)叫ぶ」
‫( ָשׁפַ ך‬shapakh)、同じ
く 2 節の「言い表わす」ナーガド‫( ָנגַד‬nagad)、そして、5 節のアーマル‫’(אָמַ ר‬amar)です。
ザーアク
‫(זָ עַ ק‬za`ak)、2
節の「(嘆きなどを)注ぎ出す」シャーパク
◆人が神に言う(語る)ことは「祈り」という領域です。祈りの対象が神に向かうこともあ
れば、自分自身に向かうときもあります。その内容は、訴え、嘆願、愚痴、信仰告白など
様々ですが、自分に気遣ってくれる者、自分の存在を認めてくれる者がなく、完全に孤独
と不安の中にある鬱積した感情を注ぎ出すことのできる者は幸いです。自分の嘆きや苦し
みを訴えるだけでも、ある種の浄化作用(カタルシス)を経験できます。しかしこの作者は、
それで終わることなく、神への信仰を告白出来ていることは見習うべき教訓です。ちなみ
に、この詩篇の作者は主なる神を次のように告白しています。
①「あなたこそ、私の道を知っておられる方」(3 節)
②「あなたは私の避けどころ、生ける者の地で、私の分の土地です」(5 節)
③「あなたは私に良くしてくださる(方)」(7 節)
◆代々の聖徒たちの荒野経験、あるいは牢獄(洞窟)経験は真の祈りを学ぶ訓練場です。
旧約のダビデ、ヨセフ、ダニエル、新約の使徒パウロとシラス、ペテロとヨハネはみな、
こうした訓練を受けました。自分ではどうすることもできない閉塞状況で彼らは神に祈る
ことを身につけたのです。そして神はその祈りを聞き、不思議な方法をもって彼らを救い
出されました。このことが「マスキール」―(すなわち、教訓詩)―と言えるものです。
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詩 143 篇 「身を隠す」
(カテゴリー: 信頼)
カーサー
‫ָכּסָ ה‬
9 節「主よ。・・・私はあなたの中に、身を隠します。」
O Lord, for I hide myself in you (NIV)
Keyword; 「身を隠す」 身を避ける、 御手にゆだねる、hide, covered,
32:15/40:10/44:15, 19/55:5/69:7/78:53/80:10/85:2/104:6, 9/106:11, 17/143:9/147:8
◆ダビデが敵に追い詰められたとき、その状況の中でどこに自分の心を向けたか、それが
詩 143 篇のポイトンです。この詩篇には多くの祈りの用語(瞑想用語)と決意をあらわすこ
とばが並べられています。その中でも神の中に「身を隠す」ということが全体を包括する
動詞として際立っているように思います。
「身を隠す」と訳されたカーサー
‫( כָּסָ ה‬kasah)
は、本来、覆われること、包まれることを意味します。それが身を避け、身をゆだねると
「神の中
いう意味にもなっています。旧約では 152 回、詩篇では 17 回使われています。
に身を隠す」とは「隠遁」を意味しますが、それはいわば余儀なくされたものでした。
◆ドイツのマリア姉妹会を立ち上げたバジリア・シュリンクは、預言者エリヤがアハブ王
に神のことばを進言してから 3 年余りの間、身を隠すようにと主から命じられたように、
彼女も奇跡的な聖堂の建設を終えた後、主によつて孤独の中へと導かれました。彼女は典
型的に社交的で活動的な人物でしたが、神は彼女を隠遁へと召されたのです。彼女は当初
神の意図を理解することができませんでした。しかし、やがてその隠遁生活から、現代に
おける預言的な著作が数多く生み出されました。隠遁生活とは、主の前にひとりになるこ
とであり、イエスにとどまり、完全にゆだねることです。イエスと共にかつて経験したこ
とがないほどに多くの時間を過ごすことです。それを主ご自身が望まれたのだ、と彼女は
述懐しています。
◆追い詰められた状況の中で、詩 143 篇の作者は主の中に「身を隠す」
‫כָּסָ ה‬
(kasah)こ
‫(בָּ טַ ח‬batach)、主を「仰ぎ」‫(נ ָָשׂא‬nasa’)、主に向かって「手
を広げ」‫(、פָּ ַרשׂ‬paras)ながら、これまでの主とのかかわりを「思い出し」‫(זָ כַ ר‬zakhar)、
主のなさったひとつひとつのことを「思い巡らし」‫(הָ גָה‬hagah)、
「静かに考え」ַ‫שׂיח‬
ִ (siach)
ました。その結果、作者は主の恵みのことばを豊かに「聞き」‫שׁמַ ע‬
ָ (shama`)、自分の生
きるべき道を、行くべき道を「知り」‫(י ַָדע‬yada`)、主のみこころを「学ぶ」‫(לָמַ ד‬lamad)
とによって主を「信頼し」
ことができたのです。それゆえ、この詩篇のタイトルが「賛歌」であることにうなずくこ
とができます。
◆この作者は、敵に追い詰められ、霊は萎え果て、心が挫けたという危機的な経験を通り
ながら、信仰による自己認識(Identity)が一段と深まったように思います。その自己認識と
は、自分が「主のしもべである」との自覚と主に愛されているという自信に満ちた自覚で
す(2, 12 節)。こんな自覚と自信を、主とくびきを共にすることで培われたいものです。
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