1 - 佐々木隆研究室

第 12 回 紅茶から見るイギリスとアメリカ
1 紅茶文化
(1)
「茶」という言葉の伝播
広東語 ch’a 系(陸路)
cha, chai, tchaĭ, chay など日本語、ポルトガル語、ヒンズー語、ペルシャ語、アラビア語、ロシア語、トルコ語へと伝播。
福建語tay(te)系(海路)
tay (te), thee, tee, tea, the などオランダ語、ドイツ語、英語、フランス語へと伝播。
The Oxford English Dictionary. (Vol.II)(Oxford: Clarendon Press, 1989), p.1060.
Properly, the name of TEA in the Mandarin dialect Chinese, which was occasionally used in English at the first introduction
of the beverage.
The Oxford English Dictionary. (Vol.XVII)(Oxford: Clarendon Press, 1989), pp.684-686.
tea(ti:) The original English pronunciation (te:), sometimes indicated by spelling tay, is found in rimes down to 1762,
and remains in many dialects; but the current (ti:) is found already in the 17 th c., shown in rimes by the spelling tee.
The Oxford English Dictionary. (Vol.II)(Oxford: Clarendon Press, 1989), p.361.
1.=Bohea tea. The name was given in the beginning of the 18th to the finest kinds of black tea; but he quality now
known as‘Bohea’is the lowest, being the last crop of the season.
The Oxford English Dictionary. (Vol.XVII)(Oxford: Clarendon Press, 1989), pp.684-687
tea(ti:) The original English pronunciation (te:), sometimes indicated by spelling tay, is found in rimes down to 1762,
and remains in many dialects; but the current (ti:) is found already in the 17 th c., shown in rimes by the spelling tee.
(2)トーマス・ギャラウェイ (Thomas Garway) (http://home.netvigator.com/~aa321123/garway.html)(2004 年 12 月1日
アクセス)
A Broadsheet of Tea by Thomas Garway back to 17th Century
Following is the text of the famous broadsheet or advertising leaflet circulated by coffeehouse proprietor Thomas
Garway, the first to sell tea in England, with contmporary spelling , but today's punctuation. The Drink is
declared to be most wholesome, preserving in perfect health until extreme Old Age.
The particular virues are :
It maketh the Body active and lusty.
the Obstructions of the Spleen.
It helpeth the Head-ach , giddiness and heaviness thereof. It removeth
It is very good against the Stone and Gravel, cleansing the Kidneys and
Urinators being drunk with Virgin's Honey instead of sugar.
opening Obstructions.
It taketh away the difficulty of breathing,
It is good against Lipide, Distillations, and cleareth the sight.
It removeth lassitude,
and cleareth and purifieth adult Homors and a hot Liver. It is good against Crudities, strengthening the
weakness of the Ventricle or stomack, causing good Appetite and Digestion, and particularly for Men of
corpulent Body and such as are the great eaters of Flesh. It vanquisheth heavy Dreams, easeth the Brain , and
strengtheneth the Memory.
It overcometh superfluous Sleep, and prevents sleepiness in general, a draught of the Infusion being taken , so
that without trouble whole nights may be spent in study without hurt to the Body, in that it moderately healeth
and bindeth the mouth of the stomach.
It prevents and cures Agues, Surfeits and Fearers, by infusion a fit quantity of the Leaf, thereby provoking a
most gentle Vomit and breathing of the Pores, and hath been given with wonderful seccess.
1
It (being prepard with Milk and Water)Strengtheneth the inward parts, and prevents consumptionk, and
powerfully assuageth the pains of the Bowels, or griping of the Guts or Looseness. It is good for Colds, Dropsies
and Scruffy , if properly infused purging the Blood of Sweet and Urine, and expelleth Infection. It driveth away
all pains in the Colicky processding from Wind, and purgeth safely the Gall. And that the Virtures and
Excellencies of this Leaf and Drink are many and great is evident and manifest by the high esteem and use of it
(especially in later years) among the Physicians and knowing men of France, Italy, Holland an dother parts of
Christendom: and in England it had been sold in the Leaf for six pounds, and sometimes for ten pounds the
pound weight, and in respect of its former scarceness and dearness, it hath been only used at Regalia in high
Treatments and Entertianments, and Presents mad ethereof to Princes and Grandees till the year 1657 . The
said thomas Garway did purchase a quantity thereof, and first publickly sold the said Tea in Leaf and Drink ,
made according to the directions of the most knowing Merchants and Travellers into Eastern Countries: And
upon knowledge and experience of the said Garway's continued care and industry in obtaining the best Tea, and
making Drink thereof , very many Noblemen, Physicians, Merchants and Gentlemen of Quality have ever since
sent to him for the said Leaf and daily resort to his House in Exchange Alley aforesaid to drink the Drink thereof.
And to the end that all Persons of Eminency and Quality, Gentlemen an dothers, who have occasion for Tea in
Leaf may be supplied . These are given notice that the said Thomas Garway hath Tea to sell from sixteen to fifth
Shillings the pound.
(3)ポルトガル、ブラガンザのキャサリン王女 (Katherine of Braganza, a Portuguese princess)
「紅茶とお菓子の時間」(http://www.kzask.com/Tea_History.html)(2004 年12 月1 日アクセス)
イギリスに紅茶が広まったのはポルトガル王女のキャサリンがイギリスのチャールズ 2 世と結婚したからでした。キ
ャサリン王女はかなりお茶好きだったようで、イギリスへの嫁入り道具として喫茶道具、中国茶、砂糖を持っていき
ました。それによりお茶に砂糖を入れて飲む贅沢な飲み方が広がり、宮廷や上流階級に喫茶の風習が広まったのです。
(4)ベッドフォード公爵7世夫人、アンナ・マリア (wife of the 7th Duke of Bedford , the Duchess of Bedford)
「磯淵猛の紅茶の話」(http://www.catalog-shopping.co.jp/shop/shop12/essey/Essey08.html)(2004 年 12 月 1 日アクセ
ス)
■ロンドンから北に 100 キロメートル、ベッドフォードシャーのウォーバン・ アビーへ。ここにはアフタヌーンテ
ィーの創立者と言われる、七代目ベッドフォード公爵夫人、アンナ・マリアが住んでいた館がある。
■時は 1845 年頃、公爵夫人はこの館の応接室に人を招き、午後のひとときをおしゃべりに費やした。その室は、ブ
ルー・ドロウイングルームと呼ばれ、金の模様がちりばめられたブルーのシルクの壁布に、美しい金細工の絵柄の
天井から豪華なシャンデリアが吊り下げられている。
■豪華でおいしいと名高いイギリスの朝食は、朝からディナー・メニュー と言われるほど盛りだくさんで、ランチ
は召し使いの手を煩わせないというのが習慣だったが、観劇や音楽会が終ってからのディナーは、かなり遅い時間
になったので、 いくら朝食をたくさん食べていても空腹に耐え切れなくなってしまう。
■そこで公爵夫人は、この応接室で、スコンやサンドイッチ、ケーキなどをサービスし、紅茶と一緒に楽しんだとの
ことである。
■1845 年と言えば、既にインドのアッサム茶は本格的な茶栽培が行なわれていて、奇跡と言われた中国種の茶樹も、
カンベル博士によってダージリン地方で栽培 が成功していた。
■「公爵夫人のアフタヌーンティーでは、中国のラプサンスーチョンやインド
用意されていた」とある。ラプサ
ンスーチョンは中国武夷山の正山小種(セイサンショウシュ)として紅茶の元祖であり、インドのダージリンは、 世
界最高の香りとして王侯貴族に崇められた最高級茶である。果して、今日味わっているようなダージリンの、フルー
ツとも花のようなとも言われる香りを当時の公爵夫人 たちは、既に楽しんでいたのだろうか。
(5)アフタヌーン・ティー (afternoon tea)
三谷康之『イギリス紅茶事典』
(日外アソシエーツ、2002 年 5 月)
、pp.61-62
2
【アーフタヌーン・ティー】イギリス人は紅茶好きで知られているが、起き抜けにも、朝食時にも、昼前にも、昼食
時にも、午後にも、夕食時にも、就寝前にも、喫茶を楽しむ習慣を持つ。この場合は、その中でも午後 4~5 時くら
いの間に軽食を取りながら飲むお茶をいう。上流や中流階級では 5 時頃(five o’clcok tea)が伝統であったが、一般
では4時頃、(four o’clock tea)になるのが最近の傾向ともいえる。個人差はあるものの、日本のおやつは 3 時とい
うのが通例だが、イギリスの場合は4時半といってもよさそうだ。
紅茶と一緒に出される食べものは、サンドイッチ(tea sandwich)
、スコーン(scone)
、手作りのケーキ(home-made
cake)
、ビスケット(biscuit)などか通例。喫茶店などではスコーンが I~2 個だけのこともあるが、スコーンに
サ ンドイッチとケーキを組み合わせて出すところもある。ただし、ハイ・ティー(hightea)とちがって、肉料理
は出きないのが原則。
夕食の支度に取り掛かる前に、学校から帰宅した子供と母親とでその日の出来事を語らいながら、バターつきパン
(bread and butter)と熱い紅茶で-・休みという家庭もある。日曜日にはそれこそ家族全員揃っての‘Sunday a
afternoon tea’が楽しめるわけである。
また、この時間帯に人の家に招待された場合は、こういう茶席になるものと心得ていた方がよい。ハイ・ティー
(high tea)の場合もそうだが、単に‘tea’といってこのお茶を指すこともあり、
「茶を飲む」というよりは「食べる」
という意味合いが強いためにヽ‘eat tea’という言い回し(⇒eating tea)も使われる。
この習慣の起源については 19 世紀までさかのぼった言い伝えがあるが、その背景には次のような事情があった。
18 世紀の後半には産業革命により工業化の時代となって、生活様式に変化が生じ、それまでは昼であぅたはずの
‘dinner’の時間帯が、午後の3~4時頃になり、さらに 19 世紀に入るともっとずっと遅くなって、8~9 時くらいにな
った。つまり、昼食は今日よりも早い時間帯であったにもかかわらず、夕食は反対に遅いということになる。7 代目ベ
ッドフォード公爵夫人(Duchess of Bedford)のアンナ(Anna:1788-1861)は、午後4時頃(5 時頃ともいわれる)
の空腹と退屈とを紛らわすために、
紅茶を飲みながらバターつきバンやケーキやらを食べ始めたという。
それが 1840
年のことと推測されている。そのうちにその席には友人たちも招待されるようになって、やがてはそれが上流階級で
の流行になり、さらにその後に中流階級にも普及して今日のように定着して行ったとするのが通説。ただし、第 2
次世界大戦以降は、日常生活のペースが速くなってきたため、この習慣にも陰りが生じてきている。実際に、子供は
別としても、一般には日曜日などに客を招待した場合を除きあまり行なわれていない。
ちなみに、19 世紀末葉の上流階級では、この茶席へ招待された女性は特別な‘茶会服(tea gown)を身につけるよ
うになっていた。丈が長くゆったりしたウェストのこしらえで、生地は柔らかく半ば透けて見えるものを用い、レー
スの襞飾りには花綱飾り(festoon)をあしらっていた。また、この時代は馬車で午後のドライブ(afternoon drive)
へ出かける習慣もあり、それが食欲増進にもつながって、帰宅後に出されるこのお茶は格別であったろうと考えられ
る。さらにつけ加えれば、エドワード王(Edward Ⅶ:1901-10 在位)の時代には、このお茶は 5 時あるいはそれ以降
の時間帯まで後退し、上流階級の間では完全な社交の時間にまでなっていて、給仕入はむろんのこと楽士の演奏つきの
茶席であった。
この時に好まれる紅茶の種類は、アール・グレイ(Earl Grey tea)
、キーマン(Keemun tea)
、オレンジ・ベコー
(Orange Pekoe tea)
、ダージリン(Darjeehling tea)
、セイロン(Ceylon tea)
、ラプサン・スーチョン(Lapsang
Souchong tea)のほか、チャイナー・ブラック(China black tea)など。⇒cream tea; eating tea; le five o’clock tea
(6)アッサム紅茶とR.ブルース少佐 (Maj.Robert Bruce)
①アッサム紅茶(http://www.koutyajiten.com/2010/12/296/)
(2015 年 3 月 8 日アクセス)
アッサムは、紅茶大国といえるインドで産出されている紅茶の約半分を占めるほど、紅茶の栽培が盛んな地域で、世界
でも最大の紅茶の産地と言われています。
その特徴は、クセが少ないのですが、濃厚な風味と香りのよさ、深みのある赤い水色が人気で、紅茶を代表する銘柄と
して世界中で広く愛飲されています。そんなアッサムの濃厚な美味しさは、ストレートでももちろんですが、ミルクを
加えても紅茶の風味が落ちないのが特徴です。アッサムを硬水でいれるとパンチのある渋味が和らぐこともあり、硬水
が主流だったイギリスで最初にアッサムが人気となりました。
また、アッサムは風味が濃厚なのでタンニンやカフェインが多くクリームダウンを起こしやすいため、アイスティーに
は向きません。しかし、成分が抽出しやすく、ティーバッグや他の茶葉とのブレンド用の紅茶として使用されています
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②R.ブルース少佐 (Maj.Robert Bruce) (http://kouchazuki.web.fc2.com/indiarekishi.html)
(2015 年 3 月8 日アクセス)
ロバート・ブルースによるアッサム種の発見
1823 年になると、
ロバート・ブルース少佐がインドのアッサムの北東で自生していた茶の茂みを発見しました。
その後、
弟のチャールズ・ブルースは、この自生の茶樹や茶種子を、カルカッタ植物園長のウォーリック博士に送りました。し
かし、残念ながらすぐには認められませんでした。
ブルース兄弟の功績が認められなかった理由としては、当時のイギリス東インド会社が中国茶の貿易を独占していたこ
ともあって、本格的にインドにおける茶の製造に乗り出す必要がなかったということがあげられます。
茶業委員会の設立
しかし、1833 年になると、イギリス東インド会社は中国茶の貿易の独占権を失いました。これが転換点となり、英国人
はインド独自の茶の製造に本格的に着手していきます。1834 年には、インド提督のウィリアム・ベンティック卿により、
「茶業委員会」が設立されました。茶業委員会のメンバーは中国に送られ、中国種の茶の種を輸入しようとしました。
茶業委員会は最初、ロバート・ブルースがアッサムで発見した茶の木はインドに固有のものではないと考えていて、イ
ンドで中国種の茶を栽培しようとしたのです。そうして、中国産の茶の種がカルカッタの植物園に植えられて栽培され
ました。
チャールズ・ブルースによるアッサム種の栽培
そうしている間に、アッサムで、チャールズ・ブルースは、茶園を開発するために土地を開拓していました。自生して
いたアッサム種の茶の茂みから葉をむしって実験も行なっていました。
ブルースは、
中国から二人の茶の専門家を雇い、
彼らの助けもあって、ブルースは着実に茶製造の秘密を学んでいきました。
アッサム種の開発と茶園の開拓はとても厳しいものだったようです。茶園で働いていた労働者たちに、トラやヒョウな
どの猛獣が襲いかかることもありました。また、入植地が地元の部族たちによって襲撃されることもありました。それ
でも、ブルースたちは懸命に茶園の開発を続けていきました。
アッサム種の成功
1838 年には、アッサム産の茶葉が英国に向けて発送されました。翌年にはロンドンのオークションにかけられて、当時
のバイヤーたちから優秀な茶葉であるという評価を受けることができました。
アッサムで製茶に成功した後、1850 年代になると、ヒマラヤの山すそにあるダージリンでも、茶の栽培が開始されまし
た。
その後、インドの茶の輸出量は年々拡大を続けていき、1885 年には輸出量は 3 万 5274 トンにまでなりました。
今日、インドは世界で最大の茶の生産国のひとつになっています。また、驚くべきことにインドでは、二百万人以上の
人がお茶に関連した仕事に従事しているといわれています。
(7)
「ボストン・ティー・パーティ」
「Tea Party」の訳について
The Boston Tea Party は、
「ボストン茶会事件」と訳されることもあるが、
「茶会」が事件になったわけではない。よ
くその内容を理解してカタカナ表記する方がよいのではないかと思われる。Party には「徒党」
「集団」というい意味を
はじめ、
「政党」という意味もあるだけに奥深い。
「ボストン・ティー・パーティと独立戦争」
(http://park.looktour.net/national-park-info/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E8
%B5%B7%E6%BA%90%E5%85%88%E4%BD%8F%E6%B0%91%E6%97%8F/%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%
88%E3%83%B3%E8%8C%B6%E4%BC%9A%E4%BA%8B%E4%BB%B6%EF%BD%9E%E7%8B%AC%E7%AB%8B
%E6%88%A6%E4%BA%89 (2015 年3 月8 日アクセス)
1769 年の春、現在のカリフォルニア南端サンディエゴ湾の中に一隻のフリーゲート号が入港してきた。乗船していたの
は、カリフォルニアへ殖民を目指すスペインの探検家だった。16 世紀にもスペイン人はカリフォルニア海岸を船で探検
したが、当時中南米の殆どを占領していたスペインにしてみれば、カリフォルニアを殖民する余裕がなかったという。
200 年余の年月が過ぎ、1769 年の夏、サンディエゴのプレシディオ(要塞)ヒルの上に、セラ神父がカリフォルニア最
初のミッション(伝道寺院)を建立した。翌 1770 年には北上して風光明媚なモントレーに上陸した一隊は、ここにも
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新しいミッションを建立した。その後、30 年の間に広大なカリフォルニア海岸の南半分に渡って 19 ヶ所ものミッショ
ンを建立してしまった。そして、それらがインディアン達の交易所や伝道所となり、更には植民地化の拠点ともなった。
1763 年に集結したヨーロッパの7年戦争の間に、植民地だったアメリカでは、イギリスとフランスが闘い、イギリスが
勝ったことにより、広大なカナダの植民地を手に入れた。
しかしながらイギリスは、莫大な戦費のために国の財政が窮乏した。そこで、時の国王ジョージ3世は「植民地防衛の
ための費用なのだから、植民地の連中に分担させよう!」と考え、関税法を改めて税金の取りたてを強化した。印紙税
法が制定されたのが 1765 年。
当時、イギリスの東インド会社は、植民地を含む本国との茶貿易について、とても不公平な独占権が与えられていて、
他の国の東インド会社は密輸という手段で対抗していた。植民地の人々は無論反発して、イギリスからの輸入品に不買
運動を行った結果、茶税だけを残して印紙税法は撤廃された。
しかし、茶は植民地の人たちの中にも既に浸透しており、密輸茶の人気は高まるばかり、イギリスの茶の売り上げは落
ち込んでいった。困ったイギリス東インド会社のために、イギリスは「本国に関税を払わないで、アメリカに茶を売っ
てもよい」と宣言。正規輸入される茶は安くはなったが、密輸に従事していた人たちは激怒する。
1770 年、ボストン虐殺事件勃発。重い税金に反対したボストン市民と英国軍が衝突。兵士が群集に向け発砲し、死者5
人。ボストン茶会事件のきっかけになる。そして 1773 年 12 月 16 日のこと。 「積み荷の茶を塩水で混ぜ合わそう!」
とインデイアンに扮装した人々は無言で、ダートマス号、エリーナ号、ビーバー号に乗っていた茶箱 342 個を海に投棄
してしまう。この事件の後、その近辺の海で獲れる魚は茶の味がするといわれたとか。この事件を契機として、フィラ
デルフィアなどでも「ティーパーティ」が開かれ、最終的には独立戦争へと発展した。
1774 年、海路と並行して、陸路でメキシコ北辺からカリフォルニア中央部に到達するコースを作り上げる必要があり、
英雄ファン・バウディスタ・デ・アンサにスペインから命令がくだった。
探検隊でもあったアンサは、アリゾナの南端にあるツーバック根拠地を指揮していた。アンサは命令を受けた年(1774
年)に1度予備審査を行う。ツーバックから74日かけてモハベ砂漠を横切り、現在のロサンゼルスに近いサンガブリ
エル・ミッションに到達している。
2度目は、まず始めに同じルートを辿り、最大の目的は伝説のサンフランシスコまで一挙に足を伸ばし、そこの殖民の
拠点を築く事であった。アンサがツーバックを出発したのは、1775 年 10 月 23 日の事で、240 人もの部下を従え、1000
頭もの家畜を連れていたという。
同年4月 19 日早朝、大陸の反対側のボストン郊外では、豊かな森の連なるレキシントンの原野で、後にミニットマン
と呼ばれるようになる植民地側の民兵達とイギリス駐屯地との間に最初の銃火が交わされ、独立への革命は熱き火蓋は
切って落とされた。
一方、太平洋岸でワシントンが独立軍の指揮を取り始めていた時、他方では、太平洋岸を目指したアンサ探検隊がアリ
ゾナの荒野の中をヒラ・バレーに沿って西へ進んだ(ここは第二次大戦の最中に日本人と日系人が強制収容された場所
でもある)
。
数ヶ月後、砂漠や山脈を超えて、アンサ達がなだらかな丘の上から美しいサンフランシスコ湾を見下ろしたのは、1776
年3月の事で、それから4月へかけて、平和でのどかな湾の周辺を調査して、砦とミッションを建てる場所を決定した。
アメリカの独立宣言書が公布される3ヶ月前の事である。
結局その年の9月には砦が、10 月にはミッションが建てられ、スペイン領サンフランシスコはアメリカ独立宣言の年に
誕生する事になった。
当時、このカリフォルニアから南米の南端まで領有した強大なスペインから見れば、独立したばかりのアメリカ合衆国
は、物の数ではなかった。 しかし、その後スペインの新大陸における政治的野望は跡形もなく消え、アンサの功績も忘
れ去られようとしている。
(8)アヘン戦争
「アヘン戦争とお茶」(http://www.o-cha.net/japan/teacha/detail_j.asp?id=64)
アヘン戦争とお茶
イギリスでは 19 世紀にはお茶が広く国民に普及してきました(図表と写真)
。当然、お茶の輸入量も増大しました。
とくに、それまでイギリスの茶貿易を独占していたイギリス東インド会社の貿易独占権が廃止され(1833 年)、貿易
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が自由競争になったことも大きな要因でした。
①お茶の飲みすぎで経済悪化
お茶の輸入量が増えればその分輸出国への支払いが増えます。当時、国際間の支払いは銀で行われており、イギリ
スに銀の不足が目立ってきました。もとよりイギリスはアメリカ独立戦争の影響で植民地からの銀の供給が困難にな
っていたことに加え、産業革命の進行などにより、たくさんの銀が必要となっていました。そこへお茶の輸入量がふ
えたため、中国に払う銀が底をついていたのでした。
東インド会社は逆に中国から銀を引き出すために、イギリスの羊毛や綿織物をインドへ、インドのアヘンを中国へ、
中国のお茶をイギリスへ、といういわゆる「三角貿易」を考えついたのでした。もともと中国ではアヘンはポルトガ
ル商人によって医薬品として輸入され、その輸入量は年間約 1000 箱に過ぎないものでした。ところが 1830 年ころ
から急激に輸入量が増大し、なんと 2 万箱。35 年には 3 万箱、39 年には 4 万箱へと激増していました。中国国内で
は逆に銀が流失し財政が窮乏するとともに、アヘンよって風紀の乱れなど社会が混乱してきました。
②イギリスの武力挑発
東インド会社はアヘン取引に直接かかわらず、会社の許可のもとに新興の自由貿易商人にアヘンを売り込ませてい
ました。この中には幕末から明治に日本の茶貿易で活躍したジャーディン・マジソン社(日本では「英一番館」とよ
ばれていた)も含まれていました。
1839 年、中国では林則徐がアヘン取締りを強化しました。折も折り、イギリス人水夫が酒に酔って中国人を殺害
する事件が勃発し、中国はイギリスに犯人引渡し要求を拒否されたため、対抗してマカオを封鎖したのでした。翌年
になるとイギリスは海軍を派遣し、中国海軍を破り、主要な港を占領したため中国はイギリスの条件を受け入れ、
1842 年、戦争は終結しました。これが「アヘン」戦争でした。
③中国茶の輸出はさらに増大
この結果、中国は、1.ホンコンをイギリスに譲り渡し、2.カントン港のほかさらにシャンハイなど5港を開港する
ことになりました。したがって、この戦争を機に、中国からさらにお茶の輸出が増大することになりました。以後、
中国は苦闘と混乱の時代を迎えることになりました。ホンコンはつい最近、1999 年中国に返還されたことはご存知
のとおりです。アヘン戦争は日本にも大きな影響を与えました。幕末、ペリー艦隊の浦賀来航を機に、外国人排斥運
動、つまり攘夷運動が激化したのもアヘン戦争によって欧米列強の実力を知らされたからでした。
これほどアジア諸国に大きな影響を及ぼしたアヘン戦争もその発端は「イギリス人のお茶の飲みすぎ」だったので
す。
(3)紅茶に関する年表
1559 年 ジャン・バテスタ・ラムジオ『航海記』
(ペルシャ人からお茶の事を聞いたという内容。おそらく、
緑茶のこと)
*ヨーロッパにおける最初の茶の記述。
1610 年 ヨーロッパに茶が伝わる。このときの茶は「緑茶」であったようだ。
1613 年 平戸のイギリス商館滞在のリチャード・ウィッカムの手紙によると、「ミヤコで上等のお茶一壷」
を買ってくれるようにとの依頼の手紙を書いた。「上等のお茶」とは抹茶であったと推測される。
1658 年 『マーキュリアス・ポリティカス』(Mercurius Politicus)に世界最初の紅茶の新聞広告。
“That Excellent, and by all Physitians approved, China Drink, called by the Chineans, Tcha, by
other Nations Tay alias Tee, is sold at the Sultanese-head, a Cophee-house in Sweetings Rents by
the Royal Exchange, London.”
「中国人によって『チャ』ほかでは『ティ』とも呼ばれ、すべての医師から折り紙をつけられた素晴ら
しい中国の飲み物が、王立取引所の近くスイーティング・レーンにあるサンタネス・ヘッド・コーヒ-・
ハウスで売られております。
(出口保夫訳)
1660 年 トーマス・ギャラウェイ、紅茶を宣伝。
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1662 年 チャールズ2世とポルトガル、ブラガンザのキャサリン王女の結婚(キャサリン王女、ヨーロッ
パの紅茶の習慣をイギリスに伝える)
1665 年 トーマス・ギャラウエイで紅茶の売り出し(OEDの例文に記録がある)
1706 年
トワイニング、ロンドンに「トムズ・コーヒー・ハウス」を開店。(一般市民への紅茶の販売。
当時、コーヒー・ハウスは女人禁制)
1717 年 トワイニング「ゴールデン・ライオン」開店。(女性向けの紅茶販売店)
1740 年 ダンカン・フォーブスの手紙(トゥイデール卿宛)
「紅茶はいまではごくあたりまえになりました。それで、ごく貧乏な労働者家庭でも、朝は紅茶で食事
をします」
(出口保夫訳)
1750 年
ラネラ・ティ・ガーデン改装。1000 個のランプを設置。
1750 年
トーマス・ショート『紅茶、砂糖、ミルク、ワイン、酒、パンチ等に関する論説』
* イギリスで最初の紅茶に関する医学的見解(紅茶を推奨)
1756 年
ジョナス・ハンウェイ『紅茶論』
*紅茶は有害という説。
1756 年
ウェッジウッド、シャーロット王妃より紅茶ポット、スプーン、紅茶カップなどの注文を受ける。
(王室御用達となる)
1759 年 ウエッジウッド、独自の新しい工房を開く(カリフラワーウェア)
1770 年
ジョサイア・スポード、陶器工場を開く。
1772 年
ジョン・コークリー・レットスン『紅茶の医学的特徴と飲茶の効用に関する考察』
* 紅茶を推奨
1773 年
ウェッジウッド、ロシアの女帝カテリーナから「ディナー・セット」総数 952 点の注文を受ける。
1784 年
紅茶税の引き下げ
1790 年 ベッドフォード公爵七世夫人、アンナ・マリア、アフタヌーン・ティーの習慣を普及させる。
1793 年 トマス・ミントン、ミントン社設立。
1802 年
tea garden の用例がある(OEDの例文に記録がある)
1830 年 C.A.ブルースがインドのアッサム地方で茶樹を発見。
1834 年 紅茶貿易の自由化。
1836 年 ジョン・フランシス・ディヴィス『中華帝国とその住民たちの出版による挿絵入り』
1840 年~42 年
アヘン戦争
1847 年 ロバート・フォーチュン『三年間に亙る中国北方諸省遍歴記。茶・絹・木綿産地への訪問を含む。
中国人の農業、および園芸、新植物等についての報告付き』(『遍歴記』)
1848 年 サミュエルズ・ボール『中国における茶の栽培と製造』
1852 年 ロバート・フォーチュン『松羅山と武夷人を含む中国の産茶地域の旅、ヒマラヤ山脈中の東イン
ド会社の茶園についての小記付き』
(
『茶区訪問記』)
1857 年 ロバート・フォーチュン『中国人の間での滞在。内陸で、海岸で、そして海上で。1853 から 1856
年に及んだ第 3 次訪問の間における諸事件と冒険の物語。多くの自然の生産物および美術作品、養蚕そ
の他についての覚え書きを含む。目下の戦争についての提案つき』(『中国人の間での滞在』)
1869 年 スエズ運河開通。これにより中国とイギリスは 60 日間の短縮。ティー・クリッパーの衰退。
2 紅茶と日本人
「紅茶と言えばイギリス」と言われる程、紅茶=イギリスという固定観念がある。しかし、もともと「茶」の発祥の
地は言うまでもなく、中国である。
「紅茶」を英語では緑茶などとはっきり区別する場合には、“tea”ではなく、“black tea”
(1)
と表現する。
これを直訳すれば「黒茶」となる。一方、中国茶には分類上「紅茶」
「黒茶」も両方存在する。“black tea”
を「紅茶」と訳したところに日本の英国紅茶の受容の原点があるのではないとの仮説を基に、訳語からその受容の一端
を明らかにしていきたい。
7
(1)日本人と紅茶の出会い
日本人が初めて紅茶を口にしたのは、1791 年(寛政3)11 月 1 日と言われている。その日本人は大黒屋光太夫
(1751-1828)である。紀州藩の米などを積んで伊勢の国の神昌丸船首、大黒屋光太夫等 16 名は 1782 年には白子港を出
帆。遠州灘で暴風雨にあい、ロシア領カムチャッカに漂着。9 年後にペテルブルクに到着。女帝エカテリーナ2世に帰
国を許され、1792 年に根室に帰着した。帰国する前年の 1791 年 11 月 1 日に大黒屋光太夫一行は女帝エカテリーナ2
世の宮廷でのお茶会に招待された。この時に振舞われたのが欧風紅茶(tea with milk)と言われている。1983 年に日本紅
茶協会はこの 11 月 1 日を「紅茶の日」と定めた。その後の影響については定かではないが、日本人と紅茶の出会いが
1791 年にあったということだ。
(2)中国茶の分類
「茶」の歴史は中国に始まる。中国茶の分類は、
「五大茶」+「近代紅茶」=「六大茶」と分けることもできよう。中
国人の色彩感覚で茶葉の外観によって分類された。しかし、紅茶は例外的に、抽出した茶液の色によって呼び名が決ま
ったのである。
緑茶:不発酵茶(西湖龍井・碧螺春・黄山毛峰など)
白茶:弱発酵茶(白牡丹・白毫銀針など)
黄茶:弱後発酵茶(君山銀針・霍山黄芽など)
青茶:半発酵茶(武夷岩茶・安渓鉄観音・凍頂烏龍茶など)
紅茶:完全発酵茶(川紅工夫・英徳紅茶・キーマン紅茶など)
(2)
黒茶:後発酵茶(六堡茶・プーアル茶など)
六大茶の中ではもちろん、緑茶の歴史が最も古く、日本への受容も奈良時代までにさかのぼることができる。黒茶は今
では高濃度のカテキンを含むことで一躍名をはせることとなったプーアル茶などがそうである。紅茶は現在我々が飲む
紅茶である。その発祥地は福建省であり、紅茶が世界にひろまることとなるが、あとはその生産地により呼び名が変わ
ることとなる。また、製茶法的なことから言えば、殺青から始まる「緑茶、黄茶、黒茶」と萎凋から始まる「白茶、青
(3)
茶」
「紅茶」となる。殺青は、
「茶採みをした新鮮な葉の中の酵素を加熱することによって殺すことである。
」
これに
より茶の香・色・味を獲得するのである。萎凋は新鮮な葉をしおらせる工程が中心となる。萎凋によって発酵が進行す
るのである。
(3)ヨーロッパの茶史:緑茶から紅茶へ
「茶」の発祥地は中国である。従って紅茶の原点もまた中国である。ヨーロッパに茶がもたらされたのは 1610 年と
言われている。オランダ東インド会社の船が日本と中国の茶を持ち帰ったとされている。どのような茶の種類のもので
あったかははっきりしないものの、それは緑茶であったようだ。その後 18 世紀初頭には、Bohea tea(武夷茶)がもた
らされ、茶葉が黒かったことから black tea と呼ばれるようになり、これがヨーロッパの人にはいわゆる(中国)紅茶
ということになる。武夷茶は福建省の武夷山でとれるいわゆる半発酵の烏龍茶のことである。英語で最も権威のある英
語辞典 The Oxford English Dictionary に“Bohea tea. The name given in the beginning of the 18th to the finest
kinds of black tea”(4)とある。ボヒー(武夷茶)は茶葉が黒かったので black tea と呼ばれるようになったのだ。従っ
て、茶葉が緑茶と比べて黒ければヨーロッパ人にとっては black tea ということになる。中国茶の分類によるところの
黒茶とは違ったものである。現在のいわゆる英国紅茶は 1823 年に C.A.ブルース (Charles Alexander Bruce,
1793-1871)がインドのアッサム地方で茶樹を発見し、さらに中国の茶製法を利用することで、インド紅茶が誕生し、中
国茶からインド紅茶、スリランカ紅茶へと移っていくこととなる。ブルースはその後、生涯アッサムで生活を送った。
当時イギリスは、中国に頼らずに紅茶を確保することを考えていた。内田慶市によれば、東インド会社が中国から輸入
(5)
したのは、‘Bohea’,‘Congou’(‘Congo’),‘Souchong’,‘Pekoe’(‘Pecco’)であるという。
これは何を意味するかといえば、当
時 black tea と呼んでいたものは、今でいうウーロン茶のことであった。
8
(4)日本の紅茶受容――黒茶から紅茶へ
中国茶が日本に伝えられた時、茶葉は外見又は煎汁の色は褐色ないし文字通り茶色であった。しかし、緑茶が伝わっ
てから茶葉は茶色から緑へと変わった歴史がある。さて、中国茶が六大茶に分類されることは前述したが、手元の『岩
(6)
波日中辞典』
(第二版)で「こうちゃ」をみると「
【紅茶】hongcha」とある。
反対に『中国語大辞典』で“hongcha”
をひけば「紅茶」とな
(7)
る。
日本に black tea が紹介された経緯には、中国語と英語に注目しておくと面白いことに気がつく。幕末にヨーロッパ
やイギリスに関するものが日本にもたらされるには、鎖国の影響もあり、当然中国語とオランダ語が、今で言う日本の
国際語ということになる。ここで考えておきたいのは、black tea の中国語訳「黒茶」
、がいつの間に「紅茶」といわれ
るようになったかだ。春山行夫の『紅茶の文化史』によれば、日本で初めて「紅茶」
(ルビは「べにちや」
)という表現
が登場したのは、 1868 年の『万国新聞紙』の5月上旬号であ
(8)
る。
春山はさらに漢訳にも注目し、1866 から 1869 年にかけて出版されたロブシャイトの『英華字典』には black tea
の訳語はなく、1872 年の
J. ドーリットルの『英華萃林韻府』 (二巻本) には「黒茶」という訳語があ
る。日本国内の動きを見てみると、1874 年には政府は『紅茶製法布達案並製法書』を府県に配付して、その製造を奨
励。1875 年には日本政府が中国(清)より技術者を招き、茶技術伝習をすると共に多田元吉を中国に派遣、さらに翌年
には多田元吉、石河正竜、梅浦精一がインドにも派遣された。1877 年に帰国し、高知県下でインドでの伝習製法を試し、
紅茶 5000 斤を輸出し、好評を博した。1878 年には政府は『紅茶製法伝習規則』を発布し、紅茶伝習所を各県に設置。
さらに、同年には多田元吉編注『紅茶説』
(勧農局)
、多田元吉『紅茶製法纂要』
(上下)が世に出ている。前後するが、
1887 年には日本に初めて紅茶が輸入された。1890 年には多田元吉がインドから持ち帰った茶の種子をいかして、東京
西ヶ原の農務省直営茶園を設置し、
「紅茶用品種」の育成をはじめたのである。日本の紅茶の受容では多田元吉を抜きし
て語ることはできない。
『紅茶の事典』によれば、茶業近代化の功労者の多田元吉が名実ともに「紅茶」という日本語を
造ったということになりそうだ
言葉上の紅茶受容史の原点は、black tea の翻訳が「黒茶」ではなく、多田元吉によって「紅茶」として訳され、定着
したところにあるようだ。中国語の「紅茶」は日本からの逆輸入ということになりそうだ。このあたりは、今後の研究
調査が待たれるところである。日本では少なくても 1868 年には「紅茶」が紹介された。中国語の事典・辞典で 1872
年に登場することになる。こうした紅茶の歴史を見ると、茶の原点は中国にあるが、紅茶の流布はイギリス。そして、
「紅茶」という言葉は英語の black tea の日本語として誕生した造語である。茶の日本への受容史を中心に、日本語と
しての「紅茶」についても考察すると、明治期に入ってからの日本は、まさに文明開化を迎え、東洋よりも西洋に眼が
向いていたことは確かである。
「中国紅茶」ではなく、
「英国紅茶」が注目を浴びるようになったのもこうした時代の流
れかもしれない。
現在における日本国産紅茶生産者は 50(2003 年 3 月現在)を数える。埼玉県では日高市の「吉野園」
、入間市の「む
さしの紅茶」の名前が見られる。日本におけるお茶の五大名場(狭山・静岡・宇治・九州・伊勢)でも、
「色は静岡、香
りは宇治よ、味の狭山でとどめさす」と呼ばれる狭山周辺で紅茶が生産されているのは興味深いこところである。
注
(1) The Oxford English Dictionary.(Vol.II) (Oxford: Clarendon Press, 1989), p.361.
(2) 日本紅茶協会(http://www.tea-a.gr.jp/dic/day/.html 2005 年 11 月 5 日)
(3)「3 年黒茶」
(http://www.6.ocn.ne.jp/~yakubo/kurocha.htm)/布目潮風 『中国喫茶文化史』岩波書店、2001 年 3
月)
、p.53-63
(4) The Oxford English Dictionary. (Vol.II), p.361.
(5) 内田慶市「
『黒茶』から『紅茶』へ」
(
『関西大学東西学術研究所紀要』第 31 号、関西大学東西学術研究所、1998
年 3 月)
、pp.3-4.
(6) 倉石武四郎・折敷瀬興編『岩波日中辞典』
(第二版)
(岩波書店、2001 年 3 月)
、p.401.
(7) 大東文化大学中国語大辞典編纂室編『中国語大辞典』
(上)
(角川書店、1994 年 3 月)
、p.1269.
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(8) 春山行夫『紅茶の文化史』
(平凡社、1991 年 1 月)
、p.316.
*佐々木隆『日本文化ブームと国際文化交流』
(多生堂、2012 年4月)より一部転用。
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