ISSN 1881−1981 教養・文化論集 第3巻 講 第1号 (通巻第4号) 演 現代日本学生の人生観 ………………………………………………………… 小 泉 私の人生 健 ― 挫折から成功への道 ― ………………………………………………………… 石 好 川 日本映画の現状 ………………………………………………………………… 岡 田 裕 介 どうなる政治・経済・日本 ― 参院選後の政局を占う ― ……………………………………………………… 福 岡 政 行 大相撲と神 ………………………………………………………………………… 内 館 牧 子 女は不浄か? ― 大相撲における女人禁制 ― …………………………………………………… 内 論 館 牧 子 元 志 保 辰 彦 和 廣 幸 典 学 敬 香 文 夏目漱石 門 を読む ― ニーチェ哲学の受容を視座として ― ………………………………………… 橋 異化された語り物的演劇の<声>と<身体性> ― 「語り」 と 「ドラマ」 の比較演劇研究 ― ……………………………………… 平 実践報告 地域ぐるみの健康づくり活動機運を盛り上げるために行った 住民聞き取り調査と報告会の実施効果 (上) ― 横手市増田町西成瀬地域における 「健康の駅」 活動の普及に向けた取り組みを事例に ― ………………………… 高 願 佐 松 照 橋 法 藤 川 井 理 2008年2月 ノースアジア大学総合研究センター教養・文化研究所 目 次 講 演 現代日本学生の人生観 ………………………………………………………………………… 小 泉 健 (1) 好 (13) 私の人生 ― 挫折から成功への道 ― …………………………………………………………………………… 石 川 日本映画の現状 …………………………………………………………………………………… 岡 田 裕 介 (33) どうなる政治・経済・日本 ― 参院選後の政局を占う ― ………………………………………………………………………… 福 岡 政 行 (47) 大相撲と神 ………………………………………………………………………………………… 内 館 牧 子 (63) 女は不浄か? ― 大相撲における女人禁制 ― ……………………………………………………………………… 内 館 牧 子 (83) 元 志 保 (105) 辰 彦 (119) 論 文 夏目漱石 門 を読む ― ニーチェ哲学の受容を視座として ― …………………………………………………………… 橋 異化された語り物的演劇の<声>と<身体性> ― 「語り」 と 「ドラマ」 の比較演劇研究 ― ……………………………………………………… 平 実践報告 地域ぐるみの健康づくり活動機運を盛り上げるために行った 住民聞き取り調査と報告会の実施効果 (上) ― 横手市増田町西成瀬地域における 「健康の駅」 活動の普及に向けた取り組みを事例に ― ………………………………………… 高 橋 和 幸 願 法 廣 典 佐 藤 学 松 川 敬 照 井 理 香 (151) 北京外国語大学 講 北京日本学研究センター・日本語学部共催 特別講演会 「現代日本学生の人生観」 演 北京外国語大学 北京日本学研究センター・ 日本語学部共催 特別講演会 「現代日本学生の人生観」 講 師 学校法人ノースアジア大学理事長・学長 ノースアジア大学総合研究センター長 日 時 平成19年6月15日 会 場 北京外国語大学 午後2時∼ ―1― 小 泉 健 司 会 本日は北京外国語大学 北京日本学研究センターと日本語学部の共同主催による特別講演会 です。 講師の先生を紹介します。 学校法人ノースアジア大学理事長・学長の小泉健先生です。 (拍手) ノースアジア大学は秋田にありますが、 昨年から北京外国語大学との間に学術交流の協定が 結ばれて、 様々な交流活動を行っております。 今回も学長が北京外国語大学を訪問されること になりまして、 この機会に学長にご講演をお願いしているわけです。 本日の学長のご講演の演 題は 「現代日本学生の人生観」 です。 日本の若者は何を考えているのか、 今日はこれをぜひ、 先生に教えて頂きたいと思います。 簡単に先生の履歴を紹介しますが、 皆さんは先生の顔を見て、 お幾つになられると思います か。 何か昨日まで38歳と言われていたそうですが、 本当は今年還暦を迎えられておりまして、 60歳だそうです。 お若く見えますね。 先生には若く見える秘訣もぜひ、 教えて頂きたいと思い ます。 先生は東京のご出身で、 日本大学法学部をご卒業されております。 先生のご専門は法学です。 履歴としては、 仙台地方検察庁検察官、 秋田地方検察庁検察官、 そしてご自分で弁護士事務所 を開設されて事務所所長を務められております。 そして、 1999年から秋田経済法科大学、 つま り、 今のノースアジア大学の教授をされまして、 法律政治研究所長、 常務理事、 国際センター 長、 総合研究センター長を歴任され、 現在は大学の理事長・学長を務められております。 著書、 論文、 多数出されておりますが、 特に代表作としては 物権法概説 司法の実務 がありま す。 本来は先生のご専門の方から、 法律の話や最近の日本の社会問題となっているような離婚問 題等、 色々とお話を頂きたいところでしたが、 先生が事前に出して下さった3つのテーマの中 から、 おそらく今の若者に関心のある、 「人生観」 から1回目のご講演をして頂いて、 今後、 機会があればまた違う話をして頂きたいという風に考えております。 それでは、 さっそく先生にお願い致します。 (拍手) 小 泉 こんにちは。 ご紹介頂きました小泉です。 宜しくお願い致します。 この北京外国語大学が、 中国の大変優秀な人材を今までにたくさん出してきたということを、 私も良く分かっております。 この大学で、 しかも皆さんのように、 これから中国の、 そしてま た、 中国以外の国から来ている方もいると思いますけれども、 そういう国々の将来を背負って 立つような優秀な皆さんの前で、 こうやってお話が出来る機会を作って頂いたことを嬉しく、 しかも光栄に思っています。 今、 (司会の) 先生から私の専門が法律であるというご紹介がご ざいまして、 離婚とかそういう話であるべきかなという思いもありますけれども、 私にとって、 実は非常に難しいテーマなんです。 それを、 今日は少しだけ話しますけれども、 詳しくは次回 に話させて頂くということで、 お願いしたいと思います。 それで、 今日、 先生とお話した時、 「率直にお話して良いですよ」 と言われましたので、 現 代の日本の若者がどんなことを考えているのか、 ということを誤魔化さないで、 正直にお話さ せて頂きたいと思っております。 と言いますのは、 日本は今、 非常に難しい状態になっている んです。 それはどういうことかと申しますと、 大学に入っても、 将来、 自分が何になって良い か分からないという学生が非常に増えております。 これは学生のごく一部、 例えば10%とか20 %の学生がそういう考えでいるということではなくて、 かなりの学生がそういう気持ちでいる ―2― 北京外国語大学 北京日本学研究センター・日本語学部共催 特別講演会 「現代日本学生の人生観」 んです。 実はこの話を、 私がヨーロッパ等に行って、 中国でもそうですけれども、 日本の学生 が将来何をやって良いか分からないという話をしますと、 ここのところは絶対に分かってもら えません。 「大学に行くというのにはそれだけの理由があるでしょう。 目的があるから大学に 行くのであって、 どっちに進んで何をやって良いか分からない、 というのはないでしょう」 と、 皆さん言うわけなんです。 しかし、 日本はそうなんですよ、 学生は何をやって良いか分からな い。 私はゼミを持っておりまして、 23名か24名のゼミ生がいるのですが、 成績は決して悪くはな いのに就職試験に受けて落ちるのではなくて、 受けないんです。 それで、 「就職試験はどうだっ た」 と聞くと、 「いや、 別に」 と言ったり、 「どうして受けないんだ」 と聞くと、 「いやあ」 と か言って。 そういう学生が何人も出てくるんですが、 どうしてこうなんだろうな、 という気持 ちを私はずっと持っております。 最近は、 大学を卒業するけれども、 卒業した後に職に就かな い学生、 職を持たない学生、 日本ではフリーターと呼んでおりますけれども、 そういう学生が 非常に増えています。 かなり、 何万、 何十万という単位でそういう学生がいる。 これを親は容 認している。 そういう風潮があります。 実は、 現代の学生がどういう意識を持っているかということで、 2007年4月に日本青少年研 究所というところでとったアンケートがありまして、 一部抜粋したものを皆さんのお手元に配っ ています。 これは、 日本、 アメリカ、 中国、 韓国の学生がどのような気持ちでいるかというア ンケートをとったものです。 これを要約して言いますと、 中国の学生は 「勉強して偉くなりた い、 一生懸命勉強する、 自分に自信がある」 と。 就きたい職業のベスト3は、 「法律家、 公務 員、 それから企業等の経営者」 で人の上に立ちたいという希望を持っています。 一方、 日本人は、 「会社に勤めてそれなりに過ごしていければ良い」 と。 お配りした用紙の 1枚目の裏に、 生活意識という項目がありますけれども、 「暮らしていけるような収入があれ ば、 のんびりと暮らして生きたい」 と答えており、 これが日本の平均的な学生の考え方なんで す。 その下にありますけれども 「やりたいことに、 いくら困難があっても挑戦してみたいと思 う」 と、 これは中国の学生の意識。 それから5番目に書いてありますけれども、 偉くなること について 「責任が重くなる、 自分の時間が無くなる、 だから私は嫌です」 と。 しかし、 これが 現代日本の若者だけの考え方かというとそうではなくて、 入ってずっとキャリアを積んできた 方でもそうです。 また、 この前、 新聞に載っていましたけれども、 女性が社会進出し、 幹部候 補生として、 キャリアとして入ってくる女性が多くなってきている。 ところが、 そういう社員 の半数近くが 「長に就きたくない、 嫌だ」 という風に考えているという、 アンケート結果が出 ております。 それから、 偉くなりたいかという6番目の質問がありますけれども、 そういうことについて、 日本は8%。 中国が34%、 これが一番ですね。 次が韓国の22.9%で、 その次が22.3%のアメリ カです。 これはたくさんの学生を相手に調査をした結果です。 こういうことになっていまして、 これに付け加えて言いますけれども、 自分自身に対して自信があるか、 これは出ていませんけ れども、 自分は自信が無いということについて、 「そうだ」 と、 「何をやっても出来ないんだ、 自信が無いんだ」 というような学生が、 日本では7割から8割くらい占めています。 自分を信 頼していないんですね。 これが中国、 韓国の学生は逆で、 自分に対して自信がある学生が7割 から8割くらいいるんです。 日本は一体どうなってしまうんだろうと思います。 ところで、 どうも中国側から見ると日本人の学生というのは国家意識が強くて、 団結してチー ―3― ムでやることが得意なのではないかと見る方が多いとは思うんですけれども、 実は国家という ものに対しての意識はほとんどないんです。 日本では、 地方議員の選挙、 知事の選挙、 市長の 選挙、 国会議員等色々な選挙がありますけれども、 投票に行かないんです。 選挙に関心が無い。 それから、 これも調査の結果が出ているんですけれども、 大学生の中で、 今の日本の首相が誰 かということについて正確に答えることが出来ない人が結構いるんです。 今、 安倍さんで、 そ の前が私と同じ小泉という人でしたけれども、 名前が出てこないんです。 全然分からない。 そ ういう風に、 国家に対する関心がほとんど無くなっています。 大学教授になったのが今から10年くらい前で、 その前に弁護士をやり、 その前は検察官です けれども、 実はそれをやる傍ら、 大学でずっと講義をやってきました。 今から30年くらい前か ら大学で講義をやっていたんですけれども、 変わったところは一つもありません。 昔は隅で喋っ ている学生が多かったんですね。 親があまり行け行けと言うから大学に来ているけど、 勉強は やりたくない。 友達と何だか分からないけどよく喋っている。 ところが最近の現象は、 コミュ ニケーションが段々取れなくなってきている。 友達がいない学生が増えてきています。 つまり 私語をする相手、 喋る友達がいないので、 一人でぽつんと座っている。 大学の講義は非常に静 かになってきたんです。 ところが、 静かになってきたから大学の講義を聴いているかというと そうではなくて、 実はぼうっとして別のことを考えている学生が段々、 段々増えてきている。 日本でも女性が強くなってきています。 大学ではもちろん女性の方が、 成績が良いです。 こ れは私の専門なので、 ちょっとだけお話しますけれども、 日本は離婚が非常に増えています。 今、 1年に75万組くらい結婚しているんですけれども、 75万組のうち25万組くらいが離婚して います。 3組に1組は離婚です。 それで、 日本では 「成田離婚」 という言葉があるんですね。 これはどういうことかと言いま すと、 成田空港からハワイとかに新婚旅行に行きます。 帰ってきて、 成田に着いた途端に離婚 する。 これは何故かと言うと、 新婚旅行中にトラブルが起こるんですね。 それはどうしてかと 言うと、 それまで一人で暮らしていたので、 コミュニケーションが上手く取れない。 それで帰っ てきて離婚。 今は、 「成田離婚」 から、 「成田胃潰瘍」 に変わってきています。 (胃潰瘍になる と) お腹が痛くなって、 出血してしまったり、 胃に穴が開いてしまったりする。 新婚旅行に行っ て帰ってきて、 胃潰瘍でお腹が痛くて入院してしまう人がいるんですけれども、 「成田胃潰瘍」 になる人は、 男と女、 どちらが多いと思いますか。 そうなんです、 男なんです。 男は何割くら いいると思いますか。 何対何くらいだと思いますか。 (会場内から6対4との答え) 6対4く らいですか。 これは、 あまり正しくないです。 99%、 男です。 男は弱いんですね。 私は裁判所にも司法修習生として少しいたことがあるんですけれども、 日本では離婚事件は 家庭裁判所でやります。 調停をして、 話し合いをしてもらう。 裁判官の見習いとして、 司法修 習生としていたんですが、 お昼休みに外に出てきましたら裁判所の庭で男と女が喧嘩をしてい るんです。 女の人が男のネクタイを持って振り回しているんです。 最後に、 男の人が吹っ飛ん じゃったんですけど。 もう時計は割れて、 私が助けてあげたんですが、 女の人がファイト満々 で、 とにかくそういうことになっていまして、 もう大変なんです。 女の人が強いっていう話が 出ましたから話しますけれども、 調停の席で夫婦が喧嘩していますと、 「ここまで来て喧嘩し ないで下さい」 と止めに入ります。 その時は遠くから言わないといけないんですね、 興奮して いますから。 遠くから 「止めなさい」 って言わないと、 ちょっと間に入ってこうやったら、 「あんたなんか黙ってなさい」 ってぶたれたり、 顔を殴られたりすることがあるものですから、 ―4― 北京外国語大学 北京日本学研究センター・日本語学部共催 特別講演会 「現代日本学生の人生観」 遠くから止めなさい、 と声をかけるのです。 エキサイティングな話になっています。 そういう ことで段々日本が混乱して、 学生は何をやって良いか分からない。 どうしてこういう話をするかというと、 そういう私は理事長として大学を経営しているもの ですから、 経営の方が8割で学長としてはほとんど講義をやっておりません。 今は1つゼミを 持っているくらいで、 後はやっておりません。 大学の先生方には学生が一生懸命勉強に取り組 めるような指導をお願いしておりまして、 そういうわけでこういう問題について関心を持って いるわけなんですが、 非常に大変なんです。 私一人だけではなくて、 全国的にも本当に大変な ことだと思います。 実は私自身も偉そうなことを言っておりますが、 学生時代は何をやって良 いか分からなかった時代があるんです。 ですから私の体験も踏まえて、 私が如何に立ち直った かということを踏まえてお話してみたいと思います。 私の親は、 東京の下町、 ダウンタウンのようなところで、 本当に貧しい人達が住むところで 小さな工場をやっておりました。 従業員の数は多くて3名、 少ない時は2名でやっていたんで す。 名称は社長になっていますけど、 家に帰ったらこんな掘っ建て小屋の中で汗まみれになっ て自動車の部品を作っていたんですね。 私の親というのは学歴に対して非常にコンプレックス を持っていました。 大学に行っていなかったんです。 昔で言うところの高等小学校、 今で言う と中学校しか出ていなかったんです。 最下級の公務員になって消防署にいましたが、 偉い大学 を出た人が後からたくさん入ってきて、 いずれ若くても自分より上になってしまいますから、 それで辞めてしまって工場を始めたんです。 そのため、 酒を飲むたびに、 「大学へ行け」 ということをしょっちゅう言われていたんです ね。 だけど、 私は勉強が嫌いで親がやっている工場をもらったほうが楽かなと思っていたんで す。 長男ですから、 親の仕事をやろうかなと思っていまして、 高校の時はずっと勉強をしてい なかったんですよ。 それで、 親が途中で病気か何かで倒れてしまって、 私がその後を2代目社 長か何かでやっていれば、 もしかしたらバブルの時に上手く乗って、 金持ちになってベンツか 何かに乗っていたかもしれませんけれども、 どうも役所を出てきた人というのは商売が下手な んですね。 あまり上手くいかないんですよ。 それでちょっと倒産のような状態に段々なっていっ て仕事をどうするか、 「とにかく、 お前は大学へ行かなかったら、 これから生活が出来ないだ ろう」 と母親が言いました。 この母親というのは看護婦をやったり、 それから映画会社のフィルムの編集の仕事等に勤め たりしていました。 それで、 中国に関心を持っていて、 司馬遷が書いた 史記 の易しく日本 語訳されたのをかなり読んでいた人でした。 学歴はない人でしたけれども、 漢字が好きでした。 それで 「勉強が大事なんだよ」 ということを言われましたけれども、 こっちは勉強したくなく て、 不良の学生と一緒に音楽を聴いたり、 何か色々やっていたんです。 ただ、 絵が好きだった ものですから、 美術部に入って絵を描いたりしていましたけれども、 勉強は全くやっていませ んでした。 成績は悪かったです。 それで、 親が倒産したものですから、 母親の妹がお金を工面してくれることになったんです。 大学に行くのにお金が掛かるものですから、 お金を工面してくれるということでやっと大学に 行けたのです。 私は文学をやりたいということでフランス文学、 それからロシア文学等をやっ てみたいなということで3つ願書を出していたんです。 しかし、 父親は 「法律も受けろ」 と言っ たんです。 法律に対して非常にコンプレックスを持っていました。 「とにかく、 日本は法律を 勉強した人が役所でも何でも上に行く。 文学は駄目だ、 法律をとにかく勉強して、 法律の試験 ―5― を受けて上に行け」 と。 「そうでなかったら大学に行かせない」 ということを言われまして、 大学に入ったんです、 しょうがなくて。 「もう法律やるものか、 どうせどこに行ったってやら ない」 という気持ちでいました。 それでとにかく入りまして1年間は、 日本ではクラブ活動と か色々ありますので、 文芸部に入ってやっていました。 いよいよ専門課程の2年に入った時に、 大学が紛争になりまして、 大学の経営方針を巡って学生と大学当局とのトラブルが起こった。 学生が占拠してしまったんです、 大学を。 これはもう警察も出まして、 2年間近くそういうト ラブルが起きていたと思います。 私は本当のことを言うと、 出版社に入りたかったんです。 出版社に入って何か文を書く仕事 をしたかった。 ところがうちの大学にはそういう求人が来なかったんです。 「あそこは駄目だ、 トラブルばっかり起こしているし、 ろくに勉強もしていない」 ということで、 もう募集も来な かった。 それで、 そういう親が何であれ、 何の学部を出たのであれ、 とにかく試験で就職出来 るものを探そうと思って考えたのが、 司法試験だったんです。 司法試験は、 当時は7科目をやらなければいけなかったのですが、 本当に大変な試験でした。 友達がやるというので、 何人かで試験勉強が始まったんですけれども、 全然面白くない。 1冊、 これくらいの本を、 民法 (Civil Law) というとこれくらいあります。 民法総則、 物権法、 債 権、 総論、 債権各論、 身分法。 1科目でこんなにある。 商法、 会社法というと会社法、 手形法、 手形小切手法、 商法総則。 こんな、 このくらいある。 だから、 試験に出る科目だけで覚えなく てはいけないのが、 ここからこのくらいの分量です。 ほとんど取り組んだけれども全然分かり ませんでした。 とにかく外国語を読んでいるような気持ち、 感じなんですね。 全然分からない。 そういう中で勉強していったんですが、 ある時、 法律が面白いなという時が来たんですね。 刑法、 刑事罰の法律なんですけれども、 この分野に共犯理論というのがあります。 共犯理論と いうのは、 何人かで悪いことをしたとして、 他の人の分についても全部連帯責任を負うという 規定です。 ここの中で何故、 人がやったことを仲間が責任を負わなくちゃいけないかという問 題に関して、 ずうっと考えていたことがあったんです。 教科書に書いてあるんですけれども。 1日10時間、 12時間と勉強する中で一つの問題に対してずうっと考えていました、 3日も4日 も。 そしたらあるヒントに出会ったんです。 そのヒントに出会って、 そこから、 日本では 「目 から鱗が落ちる」 と言うことわざがありますけれど、 ぱっと一瞬にして見渡せるように分かり ました。 その分野だけですけれども分かりました。 「なるほど」 という風に思いました。 それ で、 今まで一生懸命ただ読んできたけれども、 分からないものは分からないままに勉強してき ましたけれども、 「この先生は一体どういうことを言おうとしているのか、 文章には無いけれ ども、 彼の言わんとしたことはどういうことだったのだろうか」 ということを考える勉強に変 えた時に、 嫌でたまらなかった法律学が少しずつ好きになってきたということで、 私は今の生 活があるのかなという風に思っています。 司法試験に受かってから検察官になって、 日本の検察官というのは捜査と裁判と両方やるん ですね。 毎日、 やくざとか強盗犯とか、 殺人犯とかそういう犯人達を夜まで取り調べする。 そ れで、 裁判所で裁判に関わる仕事をやっていた。 そういう中で、 昔は勉強したいという思いが あったんですけれど、 段々、 段々また人間が堕落してしまった。 取調室で検察官として調べを 終えた後で、 部下達と一緒に毎日酒を飲むような生活になってしまって、 これが10年以上も続 きました。 それから弁護士になってもそうですね。 忙しくて、 終わった後、 お酒を飲むくらい の仕事しか出来ない。 私は 「これではいけない」 と思って、 勉強を始めたんです。 そういう意 ―6― 北京外国語大学 北京日本学研究センター・日本語学部共催 特別講演会 「現代日本学生の人生観」 味ではかなり遅い。 10年、 15年間も勉強をしないでやくざを相手に、 人を殺した人を相手に、 毎日こうやっていた時代があったんです。 それから 「もう1回勉強をしてみたいな」 と思って、 勉強を始めたんですけれども。 論文を書いて大学の研究誌に載せるようになって、 大学との関 係を持つようになったのは、 ここ10年くらい前からだと思います。 そのくらいです。 本物の意 味の学問をやったというのは、 もしかすると皆さんより遅いのかもしれない。 9年くらい前か ら大学の教授となって、 それから大学の経営者ということでやっています。 私は今年の大学の入学式で、 こんな話をしているんです。 日本では孔子の影響を受けている 学者が非常に多いんです。 また、 学生や一般の人も孔子の 論語 から相当な影響を受けてい ます。 京都に伊藤仁斎という学者がおりました。 この人は孔子の影響を受けて、 孔子の教えを 皆に広めた。 それで、 この人は材木屋の息子なんですけれども、 一生懸命に孔子の勉強をして 孔子の教えを色々な人に教えた。 この人には4000人の教え子がいましたけれども、 色々な人が いました。 今から200年くらい前の人なんですけれども、 教え子の中には当時の武士、 支配階 級もいますし、 それから農民、 町民もいます。 それから神官、 神社、 神に仕える方ですが、 そ ういう人もいました。 こういう人達が日本中から当時、 歩いて集まってきたんです。 今から200年前というのは、 当然義務教育ではありませんから勉強する義務はないんです。 昔、 学問がなくても武士の子供は武士になる、 大名の子供は大名に、 将軍の子供は将軍になる という時代に、 全国から4000人もの人達が集まってきた。 当時は江戸時代ですけれども、 町人 の中には大変なお金持ちがいました。 そのような、 当時のお金で千両以上のお金を持っている 人を 「分限者」 と言いました。 この分限者というのは今のお金でいうと200億円、 元にすると8 00万元くらいのお金を持っている人ということになります。 大変なお金持ちです。 この人達は、 とにかく色々なことをしたんです。 いつも遊んで、 今でいう別荘のようなものを造って、 大変 立派な豪邸や庭を造ったり、 芸者さんを上げてドンチャン騒ぎをしたりした人達がたくさんい ます。 それで、 実はこの人達がやったことの無いことが一つあったんです。 それは何かという と、 学問をしたことが無かったんですね。 学問をしたことが無かったのですが、 伊藤仁斎のと ころに入門して弟子になって、 「こんなに面白いものはない、 学問とはこんなに面白いものな んだ」 と言っている、 そんな記録があります。 また、 当時の記録で、 伊藤仁斎のところに200キロ離れたところから通って、 勉強した百姓 がいました。 その人は農村に帰って、 そこで勉強したことをまたおさらいして、 復習してきて、 「今まで勉強してきたことは間違っていた。 仁斎先生が言ってたことは、 こうだなあ」 と毎日 言いながら勉強していました。 ところが、 その村の村長さんが 「勉強というものは大事だけれ ども、 勉強すると大体ああいうことになるから、 気違いだ」 と言われていたんですね。 「この 村で勉強してはならん」 と。 しかし、 その人が死んで、 時間が経って段々、 段々偉い人だって いうのが分かるんですね。 今、 その人はその村で偉人として祭られています。 この人も農民で、 それまでは全く勉強していなかった。 この伊藤仁斎という人は、 生活に役立たないような学問は学問でないと言い出したんです。 論語 の中にこういう孔子の言葉があります、 「子曰く、 之を如何、 之を如何と曰わざる者は、 吾之を如何ともする末きのみ」 伊藤仁斎は小さい家で弟子に教えていたのですが、 「(そこに通 う) 弟子達がとにかく勉強して、 考えて悩んで、 先生、 自分はこういう風に思いますけれど も、 ここはどういう風に思いますか というようなことを言って来なかったら教えられないよ」 と彼は本の中で述べています。 これも孔子の教えですね。 また、 孔子はこんなことも言ってい ―7― ます。 「之を知る者は之を好む者に如かず、 之を好む者は之を楽しむ者に如かず」 孔子の本家 本元の皆さんにこういう話をするのは恐縮ですけれども、 「学問というものは、 知っている人 より、 学問を好きな人の方がもっと上だし、 学問を好む人より、 もっと学問を楽しんでいる人 の方がずっとすごい」 と孔子は言っています。 私は伊藤仁斎の書いたものをずっと読んできま して、 まさしくそうだなと思いました。 学生諸君が勉強する動機は、 たぶん 「偉くなりたい、 勉強してこうなりたい」 という思いが あるからでしょう。 だから、 勉強はつらくてもやる。 でも、 私は本当の意味ではそうであって はいけないと思います。 勉強は辛いものだということではなくて、 本当は楽しい。 勉強ほどこ んなにエキサイティングなものは無いと思います。 私は大学の先生方に、 「本当は学生諸君と いうのは、 学問に対する好奇心、 探究心、 そういうものを本能的に持っていると思います」 と 言っております。 こういうものに火を付けてくれる先生がいるならば、 私は、 「(あなたは) 十 分に給料分の仕事はしたから、 ボーナスは倍くらい出してもいいよ」 ということを常々言って おります。 どうも学問が、 若者の本能で無くなってしまったのは、 つい最近のような気がしま す。 昔の若者は、 「これは一体どういうことなんだろう、 何故なんだろう、 どうしてこういう ことになるのか」 という疑問を持っていました。 本を読んで著者がどういうことで何を言わん としているのかということを、 若者には本能的に追求したいという気持ちがあると思うんです。 本当は学問とは楽しいものなんだと思います。 ところが、 我が大学もそうなんですけど、 日本の大学の学生のこの回答を見てみますと、 ど うも自分に自信が無い。 ちょっとこの3枚目を見てもらうと、 非常に悲しくなります。 8番の よく疲れていると思うか、 という質問ですね。 日本人はもう50%、 疲れていると答えています。 それから、 いらいらしているというところに書いてあるんですね。 いらいらしているのと疲れ ているのを合わせると、 もう80%くらいですよ。 お爺さんが言っていることでしょ。 私等の年 代が言うんだったら分かるんですけれども、 10代の若い人達が疲れているし、 いらいらしてい る。 こういう状態になってしまっています。 本当は、 私は月曜日の朝が一番楽しい時だと思います。 しかし、 日本人の働いている人達は、 「早く金曜日になれ」、 あるいは朝から働いていて毎日3時頃になると時間を見て、 4時にも見 て、 5時にも見て。 とにかく朝が来ると 「早く夕方になれ」 と、 月曜日に行くと 「早く金曜日 になれ」 と、 とにかく1番貴重な時間が早く過ぎることを願っています。 それは、 今やってい ることが嫌いだからなんです。 学生の時は 「勉強嫌い」 だし、 働くと 「仕事嫌い」 だし、 結婚 すると 「奥さん嫌い」 だし、 死ぬまで 「嫌い、 嫌い」 で全部駄目なんですね。 日本はそういうことになっていまして、 ぜひ皆さんのような、 張りきって輝いている顔をさ れている方に言って良いものかどうか分かりませんけれども、 お隣の国がそういう病んだ状態 になっておりますので、 皆さんもぜひ他山の石として、 そういうことにならないように頑張っ てやって頂ければという風に思っております。 私は 「仕事は楽しいし、 勉強も楽しい」 と、 そ ういう気持ちでいます。 今からもう1回勉強してみろと言われれば、 一番になる自信がありま す。 頭は良くないですけれど、 一番になる自信はあります。 どこを探したって自分と同じ人は いないんですから、 様々な分野でぜひ頑張ってやって頂ければと思います。 せっかく来たので、 ご質問等あれば後15分くらいあると思いますので、 お話をお伺いしたい と思います。 日本のことでも、 若者のことでも何でも結構です。 私のことでも結構です。 どう ぞ。 ―8― 北京外国語大学 司 会 北京日本学研究センター・日本語学部共催 特別講演会 「現代日本学生の人生観」 はい、 ありがとうございました。 今、 先生の方から特に今の日本の若者の考えていること、 これを調査したデータを元にして大変詳しくご紹介頂きましたが、 予定の時間が後15分ありま すので、 ぜひ皆さんの方より聞きたいことを聞いて下さい。 センターと学部の両方から学生が 来ているので、 質問する前に所属、 名前を言ってから質問して下さい。 何かありますか。 はい、 どうぞ。 質問者 こんにちは、 先生。 私は日本語学部1年生のケイと申します。 先生が以前は検事をなさって いたことがあるそうで、 実はつい最近 HERO という日本のテレビドラマを見たのですが、 それも検事を巡っての話でした。 先生にお聞きしたいのは、 検事を長年やっていて一番印象に 残った事件とか、 その後にどうして弁護士になると決意したのか。 この2つの質問です。 お願 いします。 小 泉 知能犯もやりましたけれども、 やはり贈収賄ですね。 贈収賄の事件をやりまして、 贈収賄と いうと県レベルの役人の上の方がお金を貰いまして、 芋づる式に一人が逮捕されるとどんどん 喋っていく。 そういうことで7、 8人逮捕したことがありました。 これを逮捕した時の取調べ はそんなに難しくないんです。 それで、 賄賂を貰う場合は、 領収書を出すっていうことは絶対 無いんです。 「領収書下さい」 って。 ただ、 証拠を探そうと思えば探せなくないし、 彼らは非 常に捕まり慣れしてないものでショックなんです。 捕まってしまうと大体喋っちゃうんですね。 だがら、 贈収賄というものはそれほど難しくないんです、 実は。 ところで、 日本の検察官というのは、 自衛隊の警務隊、 公安調査庁、 警察、 鉄道公安これは 今はありませんが、 色々な組織の指揮権を持っています。 ですから検察官というのは、 それを 総動員して、 総指揮して捜査出来るので非常に強い権限を持っています。 それで、 やはり殺人事件というものが、 非常に印象に残っています。 私が受け持った殺人事 件で、 団地で主婦が殺されたという事件がありました。 これは37歳位の女性で、 鋭利な刃物で、 長さが (刃の部分が) 18センチくらいの刃物で首から2ヵ所さされて、 畳の上で死んでいまし た。 子供は長男が小学校6年生で、 次男が小学校4年生。 その2人が帰ってきて、 午後1時頃 お母さんが死んでいるのを見つけて、 子供が人工呼吸の知識があるものですから、 お母さんに 一生懸命人工呼吸して、 それから親戚のところに電話をかけていますね。 その親戚の人が駆け つけて、 警察に連絡がついたのが午後3時くらいです。 私のところに連絡があったのが午後3時30分、 40分くらいで、 私は秋田県全域の県境の道路 全部に検問をかけました。 車両全部にストップをかけて、 全部の車両について確認するように という指示を出しました。 それから後は、 雨が降ってきていましたので、 庭に全部大きなビニー ルシートをかけるように指示を出しました。 足跡が消えてしまうからですね。 それで、 全部入 れさせないように、 立ち入り禁止にしました。 私が着いたのが大体午後5時30分くらいですか ね。 警察の人が100人くらい来ていましたけれども、 鑑識課というのがその段階で大事なんで す。 鑑識の人に何をやってもらったかというと、 全部の畳をそれぞれ1メートル四方で担当者 を2人決めて、 分けまして、 畳1枚で4人が配置。 それで虫眼鏡を持ってその範囲内で全部の 毛 (体毛) を集めたんです。 それがどこから出たものかということで。 それから裸にしました。 女の人でしたけれども、 裸にして外傷が無いかどうかを調べました。 恐怖のまま死んでいると、 手をぎゅうっと握って死後硬直が起きています。 早い段階で起きる ―9― んです。 普通だと、 死んで一定の時間が経たないと死後硬直が起きないのですが。 それで、 何 が欲しかったかというと、 手を開かせて、 全部開かせて、 爪の中の垢を採りたかったんです。 相手を引っ掻いていないか、 これが DNA 鑑定をやると有力な証拠になるんですね。 しかし、 これはなかなか大変なんですね、 ぽきぽきと音がするくらい硬くなって恐怖で死んでいますの で。 それで、 これを皆さんの前で話して良いかどうか分かりませんけれども、 性的な関係が無 かったかどうかを調べました。 これは、 例えば相手の性的な目的による殺人事件というのもあ りますから。 次に、 こんな長い体温計をお尻の中に入れまして体温を調べたんです。 脇の下なんかでは絶 対駄目ですからね。 体温を見るんです。 そうすると、 体温が例えば36度として外気温を26度と すると、 段々、 段々外気温に近づいていくということになりますよね。 そうすると、 統計で1 時間に体温が何度下がるか分かりますから、 死後何時間経っているかを知ることが出来ます。 そして、 早くこれを医学部の法医学教室に連れて行って解剖しました。 私も法医学の大学教授 を助けてやりました。 何故、 私がこれをやらなくちゃいけないかというと、 警察では駄目なん です。 それは公判で証拠を証明する当の本人が分かっていないと反対尋問に耐えられないとい うことで、 私が解剖をやりました。 まず、 電気ノコギリで頭を切って、 外して調べました。 例えば、 殺そうとした時に脳溢血で 死んでいるということもあるんですね。 脳溢血で外傷が出てきた場合に、 どっちが本当の死因 か分からない。 そして、 心臓も切ってみました。 心臓麻痺であったかもしれない。 そうすると、 刺したのと死んだのと因果関係が無くなってしまう。 心臓麻痺は無かったと証明しなければい けない。 ですので、 もう2時間くらいかけても調べます。 それで、 一番最初に知りたかったのは何かというと胃の中の物でして、 胃を切ってみたんで す。 この人は中華料理を食べていましたので、 中華料理屋さんを地図で調べました。 そして、 死後何時間というのが出てきておりましたから、 その範囲内で行ける距離の中華料理屋さんに 警察官を何名かずつ行かせて、 こういう人が来なかったかと尋ねさせました。 来ていたとすれ ば、 一人で来たか、 誰かと来たか、 そういうのを聞きますね。 そうやって取調べをしました。 そして解剖が終わって、 縫合しました。 遺族は廊下で待っていました。 ちゃんときれいに洗っ て、 脳を外していますから、 脳を入れてもべろべろになっちゃうのでこの中に固い新聞紙を詰 めて縫合して、 脳はお腹の中に詰めてあげて縫って、 棺桶に入れて引き渡すんです。 その間、 ずっとビデオと写真を撮っています。 終わるのが明け方の3時とか4時でした。 日本では悪い習慣で、 捜査をやったり、 何かしていると一杯飲むという癖がありまして、 お 清めと称してそこで飲みます。 今まで遺体があったところで飲んでいるんです。 それで、 飲ん で部下を連れて外に行くんですが、 夜がちらちらと明けてくる時にまだお店がやっています。 そして、 部下をそういうところまで連れて行ったので、 一杯飲ませてやります。 帰って家に着 いたら午前6時くらいなんですが、 その日も決して法廷は待ってくれません。 別の法廷が入っ ているわけで、 そんなことがあったから今日は休みます、 というわけにはいかないんです。 親が死んだ時も法廷を休んでいないんです。 母親が死んだ時も裁判のために休んではいませ ん。 出来ないんですね。 だから、 例えば (司法解剖を行った翌日) その日は法廷が10時から始 まっているんであれば、 お風呂に入って洋服を着替えて、 着替えないと臭くてたまんないんで すね、 臭っていますから。 (遺体の) お腹の中でガスが発酵しているんですね、 そのガスの臭 いがしますので、 着替えます。 女房は嫌がるので、 玄関で全部着替えて、 真裸になっておいて、 ― 10 ― 北京外国語大学 北京日本学研究センター・日本語学部共催 特別講演会 「現代日本学生の人生観」 部屋の中に入って着替えて行きます。 そんな生活をやっていました。 ですから、 そういう殺人 事件は大変だと分かっていますので、 私はそういう事件が起きると、 今日一日つぶれるなと思っ ていましたね。 最初が大事なんです、 始まってから勝負は10時間くらいで決まるでしょう。 そ こを下手にしてしまうと捕まりません、 犯人は。 捕まっても裁判で負けます。 それである時、 「刑務所の中で囚人同士が喧嘩して、 これからパトカーと検察庁の車が迎え にいきます」 ということで夜中に電話が来て、 (その囚人が) 死ぬのかどうかを今か今かと待っ ていたことがありました。 死んだら出動なんです。 生きている間は (待っていなければならず) お役目が長いんです。 段々、 待っているうちに 「もう死ぬのか、 どうなのか」 ということになっ てきまして、 変な気持ちになったことがありました。 「早くはっきりして欲しいし、 寝させて 欲しい」 という気持ちがありましたね。 そんな生活をやっているうちに、 「自分は、 本当は勉強がやりたいんだ、 文学がやりたいん だ、 あるいは学生に教えたいんだ」 と思うようになりました。 もうやくざの様な生活を毎日、 毎日やってきまして、 アカデミックな生活から段々遠ざかってきたので、 私はこの辺で足を洗 おうという風に思って、 今は未来のある若者達と一緒に暮らしております。 (拍手) 司 会 ありがとうございました。 何か小説を聞いているような感じでしたね。 先生にはお忙しい中、 こういう風に時間を作って頂きましたけれども、 今後もまた、 北京外国語大学との関係で訪問 して頂けることもあると思いますので、 続きを楽しみにしていきたいと思います。 本日は先生 から、 日本の学生、 今の若者の話をして頂きましたが、 実は我々もそんなに他人事のように聞 くことが出来ないと思います。 よく、 「日本の今日は中国の明日である」 というような言葉が あります。 発展段階から言うと色々な現代病であったり、 あるいは近代化したために、 歪みと か色々な悩みが出てきたりして、 同じような発展の道を辿らないといけないのですが、 我々は、 既に発展した日本の色々な経験を教訓として、 なるべくそういうような同じ失敗をしないよう に発展していくことが、 おそらく発展途上国の皆さんの最低限、 気をつけなければならないこ との一つだと思います。 そういうことで、 さらに皆さんも若者ですから、 同じように今の日本 の若者は何をしているのか、 そういうことを知った上で、 自分の人生をこれからどのように歩 んで行った方が良いのか、 大変参考になったと思います。 大変短い時間でしたけれども、 先生 の貴重なご講演に感謝したいと思います。 ありがとうございました。 (拍手) ― 11 ― ノースアジア大学 講 総合研究センター主催 新生ノースアジア大学記念講演会 「私の人生 ―挫折から成功への道―」 演 ノースアジア大学 総合研究センター主催 新生ノースアジア大学記念講演会 「私の人生 ―挫折から成功への道―」 講 師 対談司会 前秋田公立美術工芸短期大学学長 ノースアジア大学総合研究センター客員教授 石 川 好 学校法人ノースアジア大学理事長・学長 ノースアジア大学総合研究センター長 小 泉 健 橋 元 司 会 ノースアジア大学総合研究センター副参与 日 時 平成19年4月20日 会 場 カレッジプラザ講堂 (秋田市中通) 午後1時∼ ― 13 ― 志 保 橋 元 本日は新生ノースアジア大学記念講演会にお越し頂きまして誠にありがとうございます。 前 秋田公立美術工芸短期大学学長、 本学総合研究センター客員教授石川好先生のご講演に先立ち まして、 学校法人ノースアジア大学理事長・学長 小泉健先生がご挨拶申し上げます。 どうぞ ご静聴下さいませ。 (拍手) 小 泉 小泉でございます。 今日はこんなにたくさんの方においで頂きまして、 本当にありがとうご ざいます。 この総合研究センターができてから丁度3年になりますけれども、 本当に皆さんの ご支援に支えられてここまでやってきたという気持ちでいっぱいです。 ぜひこれからも色々な 行事、 あるいは著名な先生方の講演会を開催したいと思っておりますので、 ご支援をお願い致 します。 今日は、 今年度に入りまして第1回目の講演会でございまして、 新生ノースアジア大学記念 講演会、 こういう名が打ってあります。 そこで非常に著名な作家であります、 石川好先生をこ の会場にお招きすることが出来ました。 先生はご承知のように秋田公立美術工芸短期大学の前 学長でありまして、 新日中友好21世紀委員会の日本側代表の委員の方でございます。 日本のこ の政治あるいは安倍政権との関係は極めて深いものがありまして、 指導的な立場におられる先 生でございます。 そういったことも踏まえて色々とこの後の講演会でお話して頂けると思いま すので、 ぜひ最後までお聞き頂きたいと思います。 また、 講演会の後で、 先生が大宅壮一ノンフィクション賞をとられた ストロベリーロード の作品の映写会を、 先生のご好意によりまして実施出来ることとなっております。 この映画に は国際的なスターがたくさん登場しておりますので、 ぜひ期待して頂きたいと思います。 宜し くお願い致します。 橋 元 それでは続きまして、 対談形式のご講演会に移りたいと思います。 司会は本学理事長・学長 小泉健先生。 講師は本学総合研究センター客員教授石川好先生です。 それでは先生方、 宜しくお願い致します。 小 泉 それでは続きまして、 先生との対談形式での講演ということで入らせて頂きたいと思います ので、 宜しくお願いします。 先生は色々な著書がございまして、 テレビ、 新聞等々でも先生の お考えを、 色々知る機会がおありと思いますけれども、 実は私は今日、 先生の個人的な生活と いうか、 ある意味では挫折の時、 至福の時というようなことや、 ちょっと話せないようなこと も是非お話して頂ければ嬉しいなという風に思っております。 また、 学生の今後の糧に、 人生 の糧になるとも思いますのでお願いしたいと思います。 私も色々な方を存じていますけれども、 経歴という意味では先生のような経歴をお持ちの方 はほとんどいないのではないか、 極めて異色の経歴を歩んでこられたのではないかと思います。 その辺のところを率直に聞きたいのですが、 先生は伊豆大島の生まれでしたね。 石 川 伊豆の大島の波浮の港です。 「波浮の港」 というと歌で有名ですから、 大概の人は知ってい ると思います。 小 泉 高校を卒業してから、 お兄さんを頼ってカリフォルニアに渡米されたということを聞いてお ― 14 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 新生ノースアジア大学記念講演会 「私の人生 ―挫折から成功への道―」 りますけれども。 何というんですかね、 大島に住まれる方というのは、 そういう風な新進気鋭 というか外に行って。 石 川 小泉さん、 さすがに良いこと聞いて下さいました。 島というところは、 学業を終われば必ず どこかへ出るしかないわけです。 仕事があるわけじゃないですから。 高校を出れば大概の人は 東京の方へ出て、 就職する、 あるいは大学に行く。 ところが、 私なんかは通例の高卒とは違っ て面白いことがありましてね。 兄貴がすでにアメリカに渡って百姓をやっていた。 私が生まれた時伊豆大島には米軍の基地があったんですよ。 第2次世界大戦が終わった後、 北方四島がまだ返ってきていませんね、 あれは日本領。 それから沖縄諸島、 奄美諸島、 そして 伊豆諸島。 伊豆大島も含めて伊豆諸島もアメリカの占領区にあったということを知っている人 はほとんどいないんです。 沖縄、 奄美諸島、 伊豆諸島、 小笠原諸島、 これが戦後からしばらく は日本じゃなかったんです。 最初に返還されたのが伊豆大島とか伊豆諸島。 戦争が1945年8月 15日に終わり、 9月にミズーリ号で降伏調印してすぐに伊豆大島及び伊豆諸島はアメリカの占 領下に入った。 しかし、 わずか9ヵ月も経たない間に返還されているものですから、 あの大島 がアメリカの領土だったということは記録から忘れ去られてしまった。 その期間中に、 大変なことがありましてね。 その時、 大島の人達はどんなことを考えていた かというと、 もう日本へ戻れないだろうということで、 何と独立国を作ろうと考えたのです。 突拍子もないですけれども、 憲法を作ったんですよ。 今年は奇しくも憲法ができてちょうど60 年ですね、 施行が1947年の5月3日でしたけれども。 その憲法の一番大事なところは主権在民 ですが、 あの戦争が終わって9月17日以降に進駐軍が入って来て、 それから2ヵ月の間に大島 に残っている人たちが、 主権島民という言葉を使った大島独立憲法を作ったんです。 まだ戦後 の憲法、 平和憲法というのができない、 主権在民という言葉が日本の中にない時に、 大島の島 民はガリ版で作った憲法の草稿には主権島民という言葉を使い、 島の防衛は自分達、 島民が集 まって警察を作るという条文を書いていた。 敗戦直後の私の生まれた大島にはそういうことが あったんです。 それで、 私がアメリカに渡った理由はなんであるかというと、 すでに米軍の基地があったも のですから、 そこに私らの兄貴は働きに行っていたんですね。 私も子供の頃からよくその米軍 の基地に行って、 何か食べ物をもらいに行くわけです。 その食べ物をもらいに行く途中で落ち ている写真を見つける。 プレイボーイ のヌード写真みたいなものです。 それを見ただけで アメリカに行きたくなっちゃうわけです。 昭和27、 8年頃の話です。 ここに居らっしゃるお客 さんの誰よりも早く、 私はアメリカの金髪の美人のセミヌード写真を見ていたわけです。 小 泉 先生の人生が、 その写真で変わったんでしょうか。 石 川 8才頃に、 金髪のそのヌードの写真を見ちゃったわけです。 そこが私の人生の過ちの第1歩 であったと思います。 小 泉 それで分かりました。 私は、 先生が島を出て東京へ行くのかなという風に思ったのですが、 アメリカの方へ行ってしまったと。 ― 15 ― 石 川 だから選択肢は、 東京湾の方に行くか、 それかアメリカへ行くか。 もうどっちに行くかとい うことで。 ですから、 私は兄貴がもう行っていたということだったのでアメリカへ行きました。 それから、 私の兄貴の友人たちがニューカレドニアという、 昔、 森村桂が書いた 近い島 天国に一番 という小説がありましたが、 そこに出掛けていました。 大島には、 漁港ですから氷を 作る良い工場があって、 そこの製氷技師がニューカレドニアに呼ばれて行くなど、 もうそうい うことやっていたんです。 また、 戦前にはシアトルへ移民で行った人もいたんです。 つまり、 私の生まれた島とはそういうところなんです。 小 泉 移民でアメリカに行かれて、 農園で働かれたということなんですが、 その時の模様はこの後 に上映される映画 ストロベリーロード で、 その内容がちょっと分かるんですけれども、 大 変な、 辛い厳しい思いをされたと。 石 川 高等学校を出てアメリカに渡ったのは、 東京オリンピックが終わった翌年、 1965年の、 4月 7日。 高等学校の卒業式が終わってほんの直後です。 それで、 当時はまだ移民が主にブラジル 移民とか中南米移民でしたね、 パラグアイとかウルグアイとか。 私は横浜から三井大阪商船の アメリカ丸っていう船に乗り、 17日かけて行ったんです。 貨客船の船底でした。 1964年、 東京 オリンピックがあった時に、 日本は海外旅行の自由化になったんです。 東京オリンピックがあ るからということで、 日本人も戦後初めて外国に行って良いと。 ところが、 持ち出し金額は300ドルが限界なんです。 当時1ドル360円でしたけれども、 300 ドルしか持たせなかった。 その翌年なんです、 我々がアメリカへ行ったのは。 当時、 大卒の月 給が2万円ぐらいでしたが、 船底に乗って17日間で4万円でした。 これは向こうの畑に着いて から払う、 働いて返すという条件で4万円の船の切符を送ってもらって出掛けてたんです。 こ れでも厳しい思いをしているんです、 皆さん同情して下さいね。 小 泉 厳しいと言いながら、 今日上映する映画で先生の恋人役が桜田淳子でしたか。 石 川 映画ではね。 小 泉 私生活は別ですけれども。 そういうような、 色々な話もあったようようですけれども。 石 川 そうなんですよ、 そういう話がちょっと。 アメリカに渡った時に向こうで知り合った年上の 女性がいまして、 むにゃむにゃがあるんですけれども、 その役を桜田淳子がやるわけです。 そ れでこの映画の中では、 ロケの時にすごいラブシーンがあったんです。 私は原作者っていうか 特権がありまして、 そこのラブシーンの場所にいて良いことになったわけです。 のけぞりまし た、 きれいな肌で。 ところが、 映画になったらお蔵入りになっちゃったんです、 そのラブシー ンだけは。 そういう桜田さんのラブシーンを見ている人は、 そうはいないんですよ。 悔しいで しょ、 こういうのを役得と言うんです。 小 泉 そうでしたか。 初めて分かりました。 それで、 先生はそこで大体4年くらいおられたんです か。 ― 16 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 新生ノースアジア大学記念講演会 「私の人生 ―挫折から成功への道―」 石 川 ちょうど4年と3ヶ月です。 小 泉 それで、 日本にいったん戻られて、 大学に行かれたということでしょうか。 石 川 ですからこういうことです。 アメリカには、 1965年から1969年の9月くらいまでの約4年余 りいたんです。 それで、 その時のアメリカというのはどういう状況かっていうと、 ベトナムの 反戦運動とかヒッピーとか、 学園紛争です。 もう全米の大学の大半がそのベトナム戦争反対運 動、 公民権運動とかで騒がしい時代でした。 それから、 1967年、 ロバート・ケネディ。 J.F ケネディの弟がロサンゼルスのアンバサダーホテルで暗殺される。 私はたまたまその頃、 その 近くにいたんです。 ケネディの弟の暗殺って後でわかるんですけど。 そして翌年、 マーティン・ ルーサー・キングがメンフィスで殺されるとか。 とにかくそんな無茶苦茶な時代です。 それで、 4年経ったから1度帰ってみようかと思っただけで。 本当はいったん日本に帰って、 またアメリカに戻るつもりだったんですよ。 何故かと言ったら、 4年間もアメリカにいたもの ですから、 時々同級生たちが手紙を寄こすんですが、 何か日本も学生運動で明日にでも革命が 起こりそうなことを書いているわけです。 今でこそインターネットや携帯電話でやりますけれ ども、 当時は、 国際電話を掛けるのに、 例えば私にしたら畑から伊豆大島に掛けるのに半日待 たなきゃ駄目なんです。 国際電話を申し込んで繋がるまで。 それでお金も高いですから、 4年 間行っている間に1度だけしか掛けたことがないんです。 信じられないと思うんですけど。 で すから、 日本の事情は全く分からないんです。 そして、 手紙もエアメールじゃないんです、 船便。 船で大体2週間ですから、 こちらから出 して2週間、 帰り2週間。 こちらが出した手紙について、 友達から返事をもらって読むのが1 ヵ月後なんです。 だから、 週刊誌なんか送ってもらっても大変なんです。 ある時に、 ある俳優 と女性が結婚した。 しかし、 週刊誌を回し読みしているものですから、 離婚したやつを先に読 んでいると、 この俳優はまた再婚したのかと思うわけです。 どれも皆が回し読みするから、 何 月何日号と記された週刊誌の表紙がない、 中身しかないような週刊誌を回し読みしている。 そ んなことで、 浦島太郎なものですから、 1回日本に帰ろうと思ったんです。 それで、 帰ってし ばらく日本で生活してから、 またアメリカに戻って百姓を続けようと思ったんです。 だから、 そこが私の間違いを犯しちゃったところなんですね。 そのまま帰ってその土地で百姓をやって いれば、 私は大金持ちだったんですよ、 皆さん。 小 泉 そこが、 アメリカの大金持ちになるか、 現在のような小説家になるかの分かれ目だったので しょうか。 石 川 我々はすごく安いと思っていた土地が、 後に数十億円で売れたんです、 本当に。 その時に私 がアメリカに帰っていれば、 今のように秋田の大学の学長なんかやってはいないんですよ。 小 泉 向こうは、 もちろん税制が非常に安いですから。 ほとんどはもう売却益が出て、 懐に入ると いうことで、 今頃大変な大財閥 石川好が出来ていたのかも知れませんね。 石 川 冗談めいて言えば秋田、 なんだそりゃという感じでしょうね。 運命って不思議なものです。 ― 17 ― 1969年の9月くらいに帰ってきまして様子を見ていると、 日本がもう大学紛争で大変な時だっ た。 東大紛争だ、 東大の入試がないとか。 これはえらいことになっているなと思いまして。 そ の頃、 ちょうど同級生たちが私と入れ替わりに大学を卒業するわけですね。 そこで、 私もよせ ば良いのに、 試しに日本の大学を受けてみようかということを考えてたわけですね。 大学入試 は2月くらいにありますから、 9月くらいから受験勉強を始めました。 もう受かる自信なんか ない、 とにかく試しにやってみて、 落っこちて、 それで納得してアメリカに帰って百姓続けて 金持ちになろうと思ったわけです。 ところが、 運悪く受かっちゃったんです、 大学に。 これが 私の人生の最初の挫折なんです。 大学に受かっちゃったことが。 小 泉 それで、 大学時代と言いますと、 他の学生とは世代が違いますね。 他の多くの学生は18才で 入学し、 先生は23歳で入学されました。 石 川 だから、 本来、 大学に入学する年から5年経っているわけです。 その時の同級生が、 今、 広 島県知事やっている藤田雄山とか、 俳優の中村雅俊。 それから、 日本医師会会長の武見の息子 で参議院議員の武見敬三。 これらが同期にいたんです。 小 泉 それで、 卒業されて、 またアメリカに戻られたということでしょうか。 石 川 卒業する時は28歳になっているわけです。 そうしますとね、 当時は大体大学に入るのに5年 もかかっていると雇ってくれないんです。 もうキャリアが全然だめだと、 28歳で大学卒業とは。 それで、 もう僕は4年もアメリカで百姓やったり、 ぷらぷらしていたものだからほとんど馴染 めないでしょ、 日本に。 同級生には馴染めないし。 馴染めないから、 慶応大学を卒業する時に 就職活動も実際しなかったんだけど、 しようと思っても無理だった。 どこも雇ってくれるとこ ろがないから、 しょうがないから、 また出稼ぎにアメリカに渡ったわけです。 小 泉 今度は、 仕事を少し変えて。 石 川 2つやりました。 草刈りともうひとつは漁師。 高校時代4年間は百姓をやって、 今度は漁師 もやりたいと思ったからメキシコに行ったんです。 バハ・カリフォルニア半島の最南端にサン・ カルロスという小さい町があって、 海老とか獲れるんです。 そこで3ヵ月間漁師をやりました けど、 またメキシコからアメリカに戻って、 今度は草刈りをやったわけです、 ガーデナーとい う仕事を。 小 泉 大体5年間くらいはそういうようなことで。 石 川 2回目に行った時には、 2年弱ですね。 小 泉 2年くらいですね。 石 川 元祖フリーターと自分では言っていますが、 ろくなものじゃないですよ。 ― 18 ― ノースアジア大学 小 泉 総合研究センター主催 新生ノースアジア大学記念講演会 「私の人生 ―挫折から成功への道―」 経歴書を読みますと、 日本に戻られて銀座のクラブのマスターになったということで、 その あたりのことを特にちょっと聞きたいと思うのですが。 石 川 これを本当にしゃべったら、 今の政権2つ、 3つ飛んじゃいますけど。 どういうことかとい うと、 帰ってきた当時すでに子供がいたわけです。 そうしますと、 とにかく食わなきゃいけな いでしょ。 それで、 何をやったかというと、 まず皿洗いから始めたんです。 1981年くらいです けれども。 私の友人達がアメリカから来た時、 アメリカから日本に戻って皿洗いをやって、 逆 じゃないかと言われました。 普通、 日本人はアメリカに渡ってまず皿洗いやって金稼いで, 小 銭を儲けていく。 だから、 アメリカにいたやつが日本に戻って皿洗いからスタートするなんて、 あんたの人生どうなっているのと言われて批判されたことがあるんですけれども。 いずれにし ても六本木で皿洗いをやっていたんです。 皿洗いやって時給当時680円でした。 女房、 子供は 養えません。 そこで、 私はちょっと競馬が上手なので競馬の予想屋をやって、 府中競馬場と中 山競馬場の入り口で予想を売っていたんです、 1枚300円で。 あと何をやって飯を食ったら良いのかと思って。 たまに、 大学の友人達とかが、 何ならどっ か就職先を紹介するぞという話は持ってきてくれるんですけれども、 ここまでずれたんですか ら今更あんた達と同じように会社に入りたいとは思わないと。 35歳近くになっても皿を洗った り、 競馬の予想屋をやったりしているわけですから断固フリーターに徹するしかないと。 そう いう時にたまたま新聞を見ていたら、 募集があったんです。 漢字で 「倶楽部あぽろん」 と書い てありまして、 大卒、 英語少々分かる方、 営業部長を求む。 そうすると、 俺、 大卒で英語が少々 分かる。 それから、 35歳くらいの人って書いてあるんです。 もうそれだけに引き寄せられてね、 何だって良いから行ったんです、 ちょうど35歳だったから。 ところが、 行ったら飲み屋だったんですよ、 クラブ。 それで、 これはもうはしょらなきゃな らない話がいっぱいあるんですけど、 それが実は伝説のクラブでして、 初代のママが女優の嵯 賀美智子。 これはもう本当に2度とできないようなクラブだったんです。 それで、 そこのお客 さんが若き日の小泉の純ちゃん、 今の総理。 森さんとか中川秀直幹事長だとか、 堤義明とかの 財界人、 全部そういう人ばっかりだったわけですね。 そして、 私がたまたまそこの面接に行っ たら、 社長が私の履歴書を見て気に入ったわけです。 高等学校を出てアメリカ移民5年って書 いている。 慶応大学を卒業して、 またメキシコで漁師だの草刈りだの書いてある。 それから、 競馬の予想屋だとか。 僕は正直ですからみんな書いて持って行った。 その私の履歴書を見るな り、 「こんなろくでもない履歴書を見たのは初めてだ」 と言うんです。 そこが気に入ったと言 われ、 この店で働かないかと言うんです。 そこは銀座の、 私は知らなかったんですけど、 超一 流のクラブだったんです。 そこでちょうど2年半くらいホステスのスカウトをやってみて、 80名くらいスカウトしまし た。 ですから、 歩いている女性をスカウトしてホステスにさせちゃうのはすごく得意なんです。 それで、 私が心配だったのは、 秋田公立美術工芸短期大学の学長引き受けた時に7割くらいは 女子学生ですから、 癖が出るんじゃないかと思いまして、 6年間自制するのは本当に辛かった ですね。 やっと今、 開放されたという気持ちがしておりますけれども。 小 泉 それで、 政権の2つくらい飛ぶような話があったということですが。 ― 19 ― 石 川 これは守秘義務がありますから。 そこのお客さんだっていうことや夜の生態については、 懐 にしまって棺桶に入るしかないんですけれども。 そういうことであります。 小 泉 そういうことでございまして、 後は想像して頂いて。 それで先生はその後、 2、 3年後に雑 誌の編集長になられたということですが。 石 川 ちょうどそのクラブのマネージャーやっている時に、 ある編集者と知り合いまして。 最初の 作品は カリフォルニアストーリー と言うんですけれども、 その時に書いたんです。 これは、 その時に文藝春秋の編集者と知り合いまして、 カリフォルニアの百姓をやっていた 話をしたわけです。 当時、 ウエストコーストブームと言いまして、 ビバリーヒルズとかハリウッ ド、 ディズニーランドとか、 大変なブームの時でした。 日本も高度成長になって豊かになりま したから、 ウエストコーストに旅行に行く人が増え出していたんです。 メディアがそんなハリ ウッドとかビバリーヒルズの話ばっかりしている時に、 カリフォルニアにはメキシコ人の密入 国者がいて、 カリフォルニアの農産物が何で安いのか、 それはみんなメキシコ人達が安い値段 で働いているからだと、 そういう話をしましたら、 そんなアメリカの話は聞いたことがないと 言うんです。 そもそも、 メキシコ人が何百万人も密入国で入ってるなんて初めて聞いたと。 そ れで、 そういうことをちょっと書いてみないかと言われたんです。 私はその時にはまだ飲み屋のマネージャーをやっていましたから、 誰も私のことを知らない。 それで、 無名な人でも良いのかと言ったら、 有名・無名は関係ない、 文藝春秋は面白ければちゃ んと載せる出版社だと言われ、 書いたんです。 そしたら、 面白いと言われた。 私がメキシコとアメリカの国境のことや、 アメリカにいかにメキシコから密入国者が入って いるかということを書いていたんですけど、 それを読んである財界人が、 私に会いたいと言っ てきたんです。 その人はだいぶ有名な会社の社長さんなんですけど。 日本の財界人というのは 馬鹿にしたものじゃないんですね。 それで、 話をしたら、 そういうことを何か小さい新聞でも 良いからやってみないかと言うんです。 そして、 自分がスポンサーをやると言って、 出来たの が、 サード・コースト という雑誌。 つまりイースト・コーストとウエスト・コースト、 東 海岸、 西海岸と別に、 アメリカにはメキシコとアメリカの国境がある。 これを僕は、 サード・ コーストという名前を付けて、 サード・コースト という名前の雑誌を30号くらいまで作っ たんですよ。 小 泉 その時にはあれですか、 もうお店を辞めてしまって。 石 川 辞めたのは、 ちょうどその時。 小 泉 それで、 石 川 そうです。 小 泉 この ストロベリーロード ストロベリーロード がその後に出てくる。 は、 ノンフィクションということで評価されましたけれども、 文学的にも非常に高い評価を受けております。 先生の書いた物はアメリカなんかでも評価され ― 20 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 新生ノースアジア大学記念講演会 「私の人生 ―挫折から成功への道―」 たと聞いておりますけれども。 また、 翻訳もされたと。 石 川 翻訳されました。 韓国語と英語の両方になっているんです。 アメリカって面白いところでし て、 あるところだけを高校の教材に使っているんです。 それはどういうところかと言うと、 私 がハイスクールに行って英語が全然分からず、 友達を作るために侍の格好か何かを真似してや るところがあるんですけれども、 そこの章だけを英訳して高校生たちに読ませるんです。 なぜ かと言いますと、 アメリカだと自分の横に色々なアジア系の人がいる。 その人達は、 この本に 書かれている、 こういう人の心理と同じなんだと。 それを教えるために副読本で私の本を使っ ているんです。 つまり、 アメリカのハイスクールとかそういうところには、 多民族国家だから色んな国から やって来る。 この前、 ジョージア工科大学で韓国人の学生が30数人殺したでしょ。 あの学生も 中学、 高校生くらいの時にアメリカに来ているわけ。 そして、 その内面の葛藤か何かがあって、 最後はあんなことになっちゃったんだけど。 アメリカのハイスクールのようなところには英語 が全然分からない人が、 色々な国からたくさん来ているわけです。 だからそれを参考にして、 教えるために使われたことがあったんです。 それで、 今でも100ドルくらいの印税を送ってく ることがあるんです。 そういう点では、 アメリカというのはたいしたものですね。 小 泉 それでは、 先生が参議院議員に立候補された時のことを、 ちょっとここでお聞きしたいと思 うのですが。 石 川 そうそう、 今年7月に参議院議員選挙がありますけれども、 実は今から10何年前だか…。 小 泉 95年ですから。 石 川 13年前、 立候補しました。 今は無くなりましたけども、 新党さきがけの要請で立候補しまし た。 秋田魁新聞の 「さきがけ」 ですけれども、 これも何かの縁ですね。 新党さきがけという政 党の、 あの漢字の名前を付けた人は誰かと言いますと、 当の私なんです。 だから、 縁があって 秋田に来ちゃったんです。 それで、 秋田魁新聞に原稿書いているんだから。 話が上手すぎると 言われるかもしれないけど、 本当なんです。 どういうことかと言いますと、 あの政党作る時に、 僕はあの後の大蔵大臣の武村正義さんと か田中秀征さんとか、 もう既に知っていたんです。 支持とかそういうことはしなかったんです けど、 そしたら、 さきがけを 「先駆」 と書くさきがけと付けたんです。 それでその日の夕方に 発表することになった。 そこで私は 「先駆」 と書くさきがけだと、 これは全共闘運動と間違え られるよ、 と言ったんです。 だから、 これはやめなさい。 10人くらいで天下を取りたいと言う んだったら、 この漢字を使いなさいと言ったんですね。 それが秋田魁の 「さきがけ」 なんです。 この漢字の本当の意味は夜盗なんです。 秋田魁新報社の人は、 本当の意味は夜盗だと知ってな いでやっていると思うんです。 本来の意味は夜盗、 つまりは風のごとく、 野武士のような盗賊 集団という意味なんですよ。 あの魁という文字1個で。 だから、 武村さんたちが政党を作る時 に、 突如として天下を取ろうとして10人の人が集まったんだから、 あんた達は夜盗だと。 だか ら、 この魁だという風に、 直してあげたんです。 ― 21 ― 党が出来た時は人気があったんですけど、 だんだん人気がなくなっちゃった。 それで人気が なくなって出馬を頼まれちゃったんです。 あんたが名付け親じゃないかと。 名付けられた自分 達が苦しんでいるんだから、 名付けたお前が、 責任を取れと。 ということで、 私と中村敦夫が 立候補したんですよ。 それでちゃんと責任を果たしました。 落選というオチが付きましたけど。 小 泉 それで、 先生が諦めないで、 その後も政界にいたら、 政治家 石川好が見られたわけですけ れども。 その後、 方向転換ということで、 またまた大方向転換がありまして、 文学賞の選考委 員をやられたと聞いておりますが。 石 川 文学賞と言っても、 ナンバーノンフィクション賞とかいくつかあるわけです。 ある程度やる と誰だってそんなもの出来るわけで、 順番が回って来るわけだから。 それで頼まれていくつか の賞の選考委員みたいなのやりましたけど。 小 泉 それで、 たくさんの著作を書かれて、 その後2001年に当地の秋田公立美術工芸短期大学の学 長にという話があったわけですか。 これは、 石川錬治郎元市長からの依頼で。 石 川 これは、 いかにも石川錬治郎さんらしい話だけども。 言っちゃいます。 確かに、 石川錬治郎 さんを知っておりまして、 ちょうどその時、 秋田公立美術工芸短期大学っていうのは定員割れ が始まったんです。 ですから、 一応この大学を作るのは石川錬治郎さんが作ろうと言ってやっ たわけですから、 その時は本人がものすごく責任感があったわけですね。 責任を感じて、 何と かこれを盛り返さなきゃいけないという気持ちがあって。 そのまんま放置しておくと、 ずるず る定員割れしちゃって取り返しのつかないことになる。 そういうことで、 彼は何とか外部から 人を呼ぼうと考えたわけです。 それで、 彼は色んな人を回り歩いていたんです。 ですが、 皆か らノーノーノーと言われたわけ。 本当にもう時間切れだったんです。 その時に、 彼は作曲家の 三枝成彰さん、 それから作家の島田雅彦さんのところに頼みに行くわけです。 秋田公立美術工 芸短期大学の校歌の作曲は三枝成彰さんで、 作詞が島田雅彦さんという小説家なんです。 あと 1週間で候補者が決まらないと、 今いる学内の先生が自動的になってしまう。 だから、 石川錬 治郎さんは真剣に口説いたわけ、 誰かやってくれないかと。 しかし、 皆からノーノー言われちゃっ たもので、 彼らに頼みに行ったんです。 そしてある時、 夜中の12時過ぎに突然、 三枝成彰さんから僕に石川起きろと電話があったん です。 石川錬治郎さんが横にいたらしいんだけど。 それで、 なんだ夜中にと言ったら、 秋田公 立美術工芸短期大学の学長を引き受けろと言うんですよ。 彼がどうしても新しい学長を探して いると。 自分が思うにはお前が最適だと。 そしたら、 石川錬治郎さんも、 例の調子で、 いやあ 久しぶりですとか言って電話を替わったんです。 学長をやってもらえませんかと。 そんな無茶 を言うなと思いました、 夜中の12時半過ぎに電話してきてね。 それで、 翌日に私はテレビ出演 があったんですけど、 彼は朝7時半からテレビ局の裏で待ち伏せしてるんです。 石川錬治郎さ んて、 そういう良いところがある方なんです。 それで、 大学に来てくれないかという話があって。 僕は興味があったから覗きに行ったんで す。 私は大学の先生方を1人も知らないわけですから、 選挙なんかやって勝てるわけない。 だ から、 私は、 それはあり得ないと思ったんですけど、 せっかく来たんだから一応演説だけやっ ― 22 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 新生ノースアジア大学記念講演会 「私の人生 ―挫折から成功への道―」 ていく。 ただし、 それで批判され負けるから、 選挙やらないで帰るつもりだったんです。 そこで私が言ったのは、 もし学長を引き受けたら独裁者をやりたいと。 教授会の多数決もひっ くり返したいとか、 もう要するにどっちみちやる気ないわけですから、 せっかく来た以上は、 言いたいことだけ言って帰ろうと思って。 それで、 教授会で挨拶したわけです。 そういう私で あっても選挙に勝ったらいいなと思う人がいたら1人でも2人でも手を挙げてもらいたい、 そ ういう手を挙げる人がいなければすぐ帰ると。 ばかばかしい、 こんな知りもしないところに来 て、 そんなあほなことをやる人はいないと。 そう言ったら、 何人かがこう顔を見ながら手を挙 げだしたんですよ。 3人4人手を挙げだしたんです。 でも、 3人挙げたって勝てっこないし、 どうしようかなあ、 先生方の名前も知らないんだもの。 そういうことがあって帰って、 それから1週間後に選挙があるということになったわけです。 そしたら、 圧勝したっていう返事があったわけです。 圧勝、 本当か。 でもそれを疑わないで来 た。 そしたらまあ2ヵ月くらいやっている間に、 私を引っ張った本人がいないわけですよ。 と ある事情があって辞めちゃって。 それで、 どうも教授会、 先生方の雰囲気が悪いんです。 私を 連れてきた人がいなくなって。 私は圧勝と言われて来たんですよ。 そうじゃないんだねえ、 選 挙の結果は1票差だったみたいなんですよ、 1票差。 小 泉 教授会の上の方なんかどんな感じでしたでしょうか。 石 川 いや、 だって私なんて学級会以来、 会議なんてやったことないんだから。 会議のやり方その ものを知らないでしょ。 どういう風にやっていいか分からない。 それで、 進行のレジメをとに かく読んじゃすっ飛ばして、 そうすると先生方は怒るわけですよ。 学長、 そんなやり方はあり ません。 こっちは知らなかったんだもん。 全部議案はパス。 だから、 もしかしたら私が辞めて 皆ほっとしていると思うんです。 小 泉 委員会はですね、 かなり統廃合したということを聞いていますが。 石 川 やっぱり大学というところは、 小泉さんもお悩みになっていると思いますけれども、 会議が 多過ぎるんですよ。 学校というところや、 会社もそうですけど会議が仕事だと思っているんで すね。 なんか、 会議をやりたくなっちゃうんだね。 それで、 会議ばっかりやっている人間って いうのはろくなものじゃないです。 企業でもどこでもそうですけど、 会議というのは仕事やっ ているふりをするためにあるんですよ。 先生方は忙しいんですよ、 授業で。 それにもかかわら ず、 何とか会議、 何とか会議とどんどん作るわけですね。 そのくせ、 忙しい忙しいと言ってい る。 役所と同じですね。 ところが、 そんな会議に出てみると、 大の大人がやるような会議じゃ ない会議ばっかりやっている。 だから、 これとこれが似ているからくっつけろと言って全部くっ つけちゃって。 それから、 委員会の会長っているでしょう、 選挙をやるわけですよね。 だから、 同じ先生方が同じ何とか委員の委員長になるに決まっているんですよ。 だから、 僕は稟番制で、 アイウエオ順で、 皆交代でやらせたんですよ。 その方が良いんですよ。 小 泉 非常に斬新な委員長の選挙ですけれども、 びっくりいたしました。 ぜひ、 我が大学も考えて いかないと。 ― 23 ― 石 川 我が大学も、 って本当にどこもそうなんですよ。 これは企業も同じです。 会議ばっかりやっ ている会社というのは必ず潰れるんですよ。 大学も同じで、 会議が駄目なんですよ、 本当に。 数を減らすような方向でやって頂ければ、 ノースアジア大学は大いに発展すると思います。 ひ とつ付け加えると、 私は大学の PR 部長に徹したことです。 全国的に無名に近い大学を何とし ても PR したかった。 この点に限っては、 私なりにある程度の成果はあったと思います。 小 泉 ありがとうございます。 石 川 会議を減らせば。 小 泉 ええと、 あの。 石 川 困った顔をしていますね。 小 泉 ところで、 先生との関わりの深い国と申しますと、 アメリカが1番深い関係ありますけれど も、 それ以外ですと、 中国。 先生は中国政府の要人と会われたり、 あるいは新日中友好21世紀 委員会の日本側委員ということもやられたりしていますが、 中国に対してはどうでしょうか。 石 川 私は今、 申し上げましたように、 アメリカで百姓をやっていました。 アメリカで何をやった と言ったところで、 何もやってない、 単にイチゴをちぎっていたのと、 人の庭を掃除して犬の フン拾っただけの人間でして。 アメリカ通と言われるのは申し訳ない。 本当にやっていたことっ て、 ただそれだけなんですよ。 あとは、 旅行好きだから、 ただアメリカをぷらぷらしていただ けの人間でしてね。 ところが、 今から10年位前、 ある機会があって中国に行って、 僕はショックを受けました。 こんな近くにこんな面白い国があるのに、 何で私は来なかったんだろうと思いまして。 それで 1人で通いだしたんですね、 中国に。 私は人と仲良くなる才能だけはあるんですよ。 それで、 特に中国ってところは、 きちっとした外交ルートとかがないと絶対に要人とかに会うことはで きないんですね。 しかし私は例外的に、 外交ルートとか政治家ルートとか使わずに、 中国の党 の中央にいる、 要職にある人と個人的な関係が出来ていた。 そういう時代でしたが、 日中関係 がどんどん、 どんどんおかしくなっていく。 それで、 外務省に頼まれて、 例えば、 5年前の日中国交正常化30周年というのがありました けど。 その時外務省に頼まれて、 実行委員会の企画委員長をやりましてね、 GLAYのコンサー トや、 小澤征爾さんのマダム・バタフライの企画など、 そういうプロデューサーをやったんで す。 今回も日中国交正常化35周年の、 私は企画委員長をしています。 実行委員長は経団連の御 手洗さんがやっているんですけれども、 つい1ヵ月前もモーニング娘の後藤真希さんとか、 平 原綾香さん達を連れて、 企画委員長として、 スーパーライブ・イン北京というコンサートをや りに行ったんです。 小 泉 小坂町で今年の6月に、 新日中友好21世紀委員会が開かれるということで、 こういうこと言 うとなんですけれども、 小坂町といえばちょっと外れたというか、 田舎の町でこういう大きい ― 24 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 新生ノースアジア大学記念講演会 「私の人生 ―挫折から成功への道―」 委員会が開かれるっていうことは非常に稀なことで、 先生のご尽力というようなことを聞いて いますけれども。 石 川 そうなんです。 6月9日から新日中友好21世紀委員会の総会を3日間に渡ってやるんですけ れど。 これはどういう委員会かと言いますとね、 今から20数年前に中曽根さんと胡耀邦さんが 作った会議で、 両国の総理直属の委員会なんですよ。 つまり、 日中関係がややこしい時に、 外 交的に難しい問題はこの委員会がよく協議をして、 日中の難しい問題を解決しましょう、 とい う趣旨で出来たのが20数年前なんですね。 ところが、 日中関係が今から7、 8年前におかしくなって休眠状態だった。 小泉さんが靖国 に行ったりして日中関係が悪化したので。 それを、 もう1回やり直そうということで、 3年前 に 「新日中21世紀委員会」 というのを胡錦涛さんと小泉さんが作ったんです。 その委員を私は 頼まれたわけです。 それで、 半年に1回、 中国か日本のどこかで場所を変えながら開催する。 例えば、 1回目は大連、 その次は雲南省の昆明、 それから青島でやりました。 日本は、 軽井沢 や、 京都の迎賓館でこの前やりました。 ノースアジア大学の小泉さんもすごい人だけど、 前の 総理の小泉さんも気風が良くてですね。 あの日中関係がややこしい時、 こういう会議なら、 京 都の迎賓館を使ってやれと言う人なんですよ。 それで、 どうやって今回、 秋田へ会議を引っ張ってきたかと言いますと、 去年の10月に青島 でやった時に温家宝さんと会ったわけです。 我々が行ったら、 そういうレベルの人に会うこと が義務付けられている。 その時に、 たまたま、 温家宝さんが今年の春、 日本に来ることが分かっ ていた。 彼は北京地質学院っていう鉱山専門の大学を卒業しており、 元々が鉱山学専門の地質 学者なんです。 そんなもので、 次回どこでやろうかという話をしている時に、 私が言っちゃっ たんですね。 温家宝さんに、 あなたは鉱山の専門家だけど、 私も秋田の大学の学長をやってい て、 秋田に小坂町という町があって昔は銅山で栄えたところで、 今ここにはリサイクルセンター があると言ったんです。 小坂町のリサイクルセンターの宣伝をするために言ったわけですよ。 すごいでしょ、 温家宝さんの前で秋田の PR したわけですから。 中国がリサイクルとかそうい うことに悩んでいるのを知っていましたから。 小坂町の同和のリサイクルセンターと言うのは、 大変なものなんですね。 世界で1番厳しい環境条約っていうのがバーゼル条約で、 例えばこの 携帯電話とかこんなものは、 壊れたものを外に持ち出し出来ないんですよ、 産業廃棄物として。 ところが、 小坂町とか鹿児島の串木野にあったリサイクルセンターというのが、 免責されて いるんですね。 つまり、 それだけ技術が良いからそれを持ち込んで再利用出来るところが、 国 際条約で認められているのが、 皆さんの住んでいる秋田にあるんです。 皆さん、 世界に1ヶ所 しかない宝を秋田県が持っているんですよ。 よく、 秋田は自殺が1番だとか、 脳卒中が1番だ と言うけど、 小坂町のそれも世界一のひとつなんです。 秋田に住んでいる人達は、 悪い方の日 本一の自慢ばっかりするけれど、 良い方の世界一の自慢はしないわけですよ。 だから、 私が温 家宝さんに秋田の世界一の自慢をしてきたわけです。 そうしたら、 彼は大変興味を持った。 それなら自分達のメンバーに、 その町に行ってそのリ サイクルセンターを見せてやって欲しいと。 そういう人達はポリシーメーカーです。 政策にア ドバイスできる立場の人達なんですよ。 それで、 小坂町で会議をやって、 同和のリサイクルセ ンターを見てもらい、 中国に持ち帰ってその話をしてもらいたいと。 そしたら温家宝さん、 そ れは面白いと言うから。 それで流れは出来たわけですね。 ― 25 ― 小 泉 そうすると、 6月になりますとたくさんの人が小坂町に集まってくる、 ということになりま すね。 石 川 中国はメンバーが8人で、 プラス向こうの外交部の方、 マスコミ等の向こうのメディアも来 ますからおそらく総勢20人を超すと思います。 我々サイドは、 宇宙飛行士の向井さんっていま すでしょ。 それから防衛大学の学長の五百旗頭さん、 座長が富士ゼロックスの小林陽太郎さん。 あと、 学者先生が多くて我々メンバーと外務省の方とか、 メディアとか合わせれば40人、 50人 くらいが来て、 3日間にわたってそういう会議をやるとは思うんですがね。 全マスコミが入っ てくるとは思いますけれども。 小 泉 私は、 小坂町というとたかだか人口5000人強、 非常に小さい町というようなイメージしかな かったんですが、 何と言うんですか、 たくさんのアイデアを持っていて、 よりビジョンの高い 町だということを先生からお聞きしまして。 石 川 私がこういう席で言うのもなんですけどね。 皆さん方、 秋田の方々っていうのは自分の良い ところを認めないで、 悪いところばかりを話題にするのが大好きな県民性を持っているんじゃ ないかと思うんです。 例えば、 私に言わせたらあの小坂町なんていうのは日本の民主主義の最 も成功している町ですよ。 何故かと言いますと、 かつて3300の自治体がありましたでしょ、 そ のうち市町村合併で半分くらいになりましたね。 どこの市町村にいっても1番良い、 立派な建 物と言ったら合同庁舎ですよ、 役所ですね。 皆さん、 小坂町の合同庁舎行ってご覧なさいよ。 昔の木造の、 いつ倒れるか分からないようなものを使っているんですよ。 こういうことをやっ ている町が秋田県内にあるんです。 日本中のどこの行政でも、 建物作るのだけは赤字になっても良いから、 国もやれ、 県もやれ と言うんですよ。 でも、 あの町はそれを断固跳ね除けて、 町の合同庁舎は木造のいつ潰れるか 分からないようなバラックですよ。 これが地方公共団体のありようなんですね。 日本の戦後の 地方自治は、 各地方自治公共団体が自立して町民と一緒にコミュニティを作るんだと言ってス タートしたんですよ。 しかし、 結果はそれぞれの自治体がでっかい建物を作って、 そればっか りでしょ。 箱物を作って。 秋田の小坂町だけですよ、 その流れに逆行しているのは。 ということは何かと言ったら、 まさに戦後の民主主義の原点を踏襲しているのが小坂町なん ですよ。 これは日本の誇りなんですね。 秋田民主主義なんですよ。 私は、 そういう町が秋田に あるということを高く評価するね。 要するに、 秋田には日本の民主主義の、 地方自治の原点と 言いますか、 理想的なありようをやっているところがあるんです。 別に、 私が小坂町の宣伝を する理由はひとつもないけれども、 そういう町があるということを秋田の皆さん方が高く評価 しなきゃいけない。 小 泉 あそこにある康楽館も非常に貴重な文化的な遺産だということで、 大変な町だなという印象 を持っています。 石 川 その康楽館は、 康楽館で良いんです。 地方公共団体とは何であるかと言った時に、 まず箱物 を作るのではなくて、 自分達が役人としてやる仕事の場所を、 1番安い物の中でやるんだとい ― 26 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 新生ノースアジア大学記念講演会 「私の人生 ―挫折から成功への道―」 う意識が町にあることが大切だと思います。 町もそれを認めてやらせているってことは、 おそ らく今の町長さんの見識だと思うんですよ。 普通なら圧力がかかって合同庁舎作れとかね。 建 設業者とかが仕事が欲しいわけでしょ。 それを作るには誰も文句が言えないから。 それをやめ ている町があるってことは、 秋田県の誇りなんですよ。 秋田民主主義っていうのはそこにある はずなんです。 そういう点でそれも含めて、 私は中国の共産党の人に見せたいわけです。 お前らはふんぞり 返っているけど、 この町を見てみなさいと。 こんなおんぼろのところで、 きちっとした行政を やっているでしょうと。 そういうことも中国から来たポリシーメーカー達に、 そういう町に連 れて行って見せたいわけです。 だって、 京都の迎賓館に連れて行くよりも、 日本が知りたけれ ば田舎に来て、 人々の暮らしを見て、 そういうことをやらなければいけない。 だから、 そう思っ て今回小坂町であの会議をやったのです。 小 泉 それでは、 先生がお作りになった北前船のことをお尋ねしたいんですが。 秋田と山形は元々 ひとつの国、 出羽の国だったと。 それで、 2つの県が頑張って事業をやろうじゃないかという ようなことで、 先生は色々とやられていますけれども。 どの辺まで進んでいるのでしょうか。 石 川 今日はどこまで行った、 なんだけど。 私が特別にやっている役とかはないんですけれど、 6 年間この秋田でお世話になりまして、 もったいないと思ったのね。 秋田県はなんでこんな可能 性があって、 やれば出来ることをやらないでほったらかしにして、 という思いがあったもので すから。 それで、 こちらの大学でお世話になっている時に、 せっかく来たわけですから出来るだけ旅 行してやろうと思って。 県内や庄内をぐるぐる回っていたわけですよ。 そうすると色々なもの が見えてくる。 何でこれが出来ない、 もったいないというのがいっぱいあったわけですね。 そ れで、 とりわけこの地域の経済的な状況はひどい。 それならば、 かつて出羽の国として栄えた 庄内がある。 これと、 一緒になってその地域の方々とで面白いものを再発見し合って、 まず自 分達でやったらどうですかと提言し、 「北前船コリドール運動」 を起こし、 文章を書いたりし たら、 庄内の方々が面白いって、 集まって来たわけです。 そして、 今どういう状況かと言いますと、 庄内の会社は出来ているんですよ。 秋田もやって いますけれども。 こんなこと言ってもおかしいけれども、 秋田県民は踏み込んでいく気迫って いうのがないんですね。 私が会社経営をやってあげれば良いんだけれども、 それじゃあ何にも ならないんですよ。 本当に出来るんだけれども、 なかなか遠慮っぽいところがあるのか、 作っ てやっていこうというところまではいかないんですよね。 ただ、 始まるとは思いますけどね。 私が思ったより遅いペースですけれども。 それで、 これは利益を生むための会社と考えるのか、 賑やかにするための情報発信基地とするのか、 という議論があるわけですが、 何も無理をする 必要はない。 ただ、 その中身が継続して色々な試みがなされているっていうのは事実、 続いて おりますね。 小 泉 最後になりますが、 先生が6年間学長をやられて、 教育についてちょっとお尋ねしたいなと 思っております。 先生は現代の若者に対して、 全く失望はしていないんだ、 素晴らしい面をた くさん持っているんだ、 ということを常々言われておりますが、 私なんかは現実にゼミとかやっ ― 27 ― ていまして、 最近の学生はどうも覇気がないんじゃないかと。 先生が若かった当時、 未知の世 界へ、 全く何の人間関係もない世界に勇気を持って飛び込んだ、 そういうような気迫というも のも最近の学生に欠けているんじゃないかな、 というような思いが私にはあるのですが。 非常 に保守的で人間が小さくなってきていると。 先生はそうでないというようなことを言われてい ますけれども、 その辺のところをどんな風にお考えでしょうか。 石 川 いや、 本当はそうなんですよ。 小泉さんの言っている通りなんです。 でも、 教育現場にいる 人がそれを言ってはいけない。 しかし300%同意している。 あえてそうではないんだと言い繋 ぐしかないわけですから、 我慢して、 かばいながらやっている。 私も6年間大学に勤めたので よく分かります。 でも、 仕方ない。 仕方ないでは済まない。 腹一杯になった子供たちの前で、 教育というのは難しいんですよ。 それは、 教育をする側、 受ける側もですね、 ご褒美があるか らやるんですよ。 こういう勉強すれば腹一杯になるんじゃないか、 どこか良い就職口があるん じゃないか、 ということがあるから、 勉強するんですね。 これはもう、 人間が生き物である以 上しょうがない。 だから、 勉強しなくても飯が食えるような国が出来たら、 子供が勉強するもんですか。 腹一 杯とはそうなんですよ。 社会から飢えがなくなったところで教育が出来るかどうか、 そこのと ころが問われているんですね。 それを、 今の子は勉強しないと言われてもしょうがないんです よ。 だって、 家に帰って冷蔵庫を開けたら、 食い物がいくらでも入っているんだから。 私らの 子供の頃なんか、 小泉さんも皆さん方もそうだと思いますけれども、 やっぱり腹が減っていた でしょ。 そうだって言ってくださいよ、 話が進まないじゃないですか。 腹が減っていたはずな んですね。 そうか、 秋田の人間は腹が減っていなかったんだ。 それで遅れちゃったんですよ、 腹が減っていないから。 いずれにしても、 やはり、 お腹が空いているとか、 飢えというものが社会にあるがゆえに、 学校というものが存在する1番のモチベーションなんですね。 だから、 例えば中国なんかに行 けば分かります。 目の色変えて勉強しています。 今の中国だったら、 勉強して大学を出ると、 すごい生活が待っているんだと思えるわけ。 その勉強の仕方は半端じゃありません。 インドも そうです。 だから、 勉強して何をしたとしても良い生活も出来ない、 偉くもなれないが、 勉強 すれば何かになれるんだと思える国、 そう思わせる国の子供達は勉強するんですよ。 だから、 それについて1人悩むのは小泉理事長だけじゃないですよ。 皆豊かな国を作ってしまった罪な んですよ、 罰を受けているということです。 ですから、 私はその認識からしか教育論は始まら ないと考えています。 小 泉 特に女子学生と男子と比べますと、 どうも女子の方は覇気があるというか、 勇気があるとい うか、 他県であっても、 職がある、 自分が求めるものがあると行く。 ところが、 男の子はどう も親のところから離れたくないというか、 他県に行きたがらない傾向がある様な感じがしまし て。 石 川 それはね、 私の大学でも全く同じことを経験しました。 一昔前から中学や高校の勉強のでき る子は、 大体が女子学生だという時代が10年以上も前からあったわけですね。 たとえば NHK のような、 マスコミで1番難しい試験を受けますと、 大体1番で入るのは女の子だと。 ソニー ― 28 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 新生ノースアジア大学記念講演会 「私の人生 ―挫折から成功への道―」 とか外務省とか財務省のキャリア試験を受けても、 1番で受かる子が大体は女子学生だという ことが定番だったんですよ。 ところが、 私どものような工芸系の学校がありますでしょ。 言ってみれば物作りに近いよう な、 木材工芸、 大工さんの養成をするようなコースがあります。 男がノコギリを持つのが当た り前だったけど、 今では皆こうやって、 ここでこうやってノコギリを挽く。 これが一昔前だっ たら、 けたぐりでしょ。 ノコギリを挽くにはやっぱり踏み込んでひかなきゃ。 踏み込んでノコ ギリを挽いているのは女子学生ですよ。 つまり、 そういう物作りとか匠の現場でも、 女の方が圧倒的に上手なんです。 今、 小泉学長 が重要なことを言ったんです。 何を言いたいかといいますと、 木材工芸、 ガラス工芸、 陶芸な どのそういう物を作ったりするところに行っても、 女性、 女子学生が圧倒的に優秀で、 圧倒的 に良い製品や作品を作っているんです、 皆さん。 それは何故かと言うと、 女の子の方が幻想に 気が付くのが早いからなんですよ。 男の子達は堅実だったわけ。 ノースアジア大学に入って、 仮に三菱銀行に入るだとか、 ソニーに入るとする。 だけど銀行なんてのは、 どれがどの銀行か 分からないでしょう。 三菱東京 UFJ、 その UFJ の中には三和銀行とか何とかがくっついてい て、 住友には10行くらいの銀行がくっ付いちゃったわけでしょう。 会社だって有名な会社は無 くなっちゃっているでしょう。 僕の理解では、 大企業とか安定した職場、 そんなものは嘘だという幻想を女の子の方が早く 持っちゃったんですよ。 英文科に入って、 三菱商事に入った、 出世しそうなサラリーマンをゲッ トしようとか言ったのは幻想だと気が付いた。 三菱になんか入ったっていつ潰れちゃうか分か らない。 そうだったら、 自分の手に職を身に付けた方が良い、 自分でキャリアを積んだほうが 良い、 という風に女の子はなっちゃった。 皆さん、 女の時代が来ました。 待っていて良かった ですね。 それでもっと言っちゃうと、 今は教育論の話なんですけど、 教育の現場の中では女の 人が力を持ち出した、 間違いなく。 小泉さんも言っていましたけどね。 教育論なんかもそうな んですけど、 誰もが言うんですよ、 若者の目が輝いていないって。 それは男を見ているからそ うなんですね、 私は女しか見ませんから。 女子学生の目は輝いてますよ。 小 泉 ありがとうございました。 先生のお話で自信をもらった方がたくさんいるかと思います。 ずっ と先生からお話を聞いてまいりましたけれども、 少しまだ時間がありますから、 こういった機 会は本当に少ないですので、 ぜひご質問等ありましたらいくつか承って、 先生からお聞きした いと思います。 いかがでしょうか。 石 川 小泉さん、 今の教育に関わる話でもう1つ申し上げたいんですけど。 前から、 例えば政治家 の比率も何%かを女性にするべきだと言いますけれども、 明らかに学力とかそういうものは完 全に女子学生の方の出来が良いんですよ。 英語でも数学でも国語でもね。 のみならず、 さっき 申し上げたように我々のような大学で、 男はへっぴり腰で火を使っているのに、 ガスバーナー で勢いよく火をつけるのは女子学生ですからね。 もう終わったんですよ、 日本の男たちの時代 は。 だから、 どうすれば女性がもっと社会に出られて、 それで結婚もして子育ても出来るように なっていくのか、 そういう視点を持って日本の教育問題とか大学改革ということを考えなきゃ 駄目だと思う。 女性を抜きにして、 教育再生会議だとか道徳教育なんていうのは、 無効なんで ― 29 ― す。 公教育というものは、 教育現場の中で女性がもう少し働いて、 結婚もして子供も産んでと いうことを中心に考えてやればいいんですよ。 それを考えないで、 日本の若者の学力が低下し ているだとか、 モラルが悪いからだとか、 もう1回公教育をやり直さなければならないから教 育基本法を変えるとか、 そういう問題じゃないんですよ、 日本の教育現場の問題は、 私の理解 で言うと。 女性の能力をどう活用するか、 そこにかかっている。 ノースアジア大学も女子学生 を大事にする大学を目指すべきです。 本当ですよ。 そうするともっと倍率が増える。 小 泉 ありがとうございます。 何かご質問等ございましたらどうぞ。 はい、 どうぞ。 跡 部 どうもありがとうございます。 ノースアジア大学の跡部と申します。 1990年代の後半に選挙 に行こうか、 という政治的な活動をされていましたけれども、 あの当時の先生の取り組みと言 いますか、 きっかけというか、 ぜひ教えて頂きたいのですが。 石 川 これは 「選挙に行こう勢 (ぜい)!」 という団体を皆で立ち上げた話ですね。 どういうこと かと言いますと、 私が参議院の選挙で立候補した時は神奈川選挙区で、 年々投票率が低下して その時は史上最低の投票率の選挙でした。 神奈川県は50%割ったんです。 それで、 私が落ちた から恨みで言ったわけじゃありませんけれども、 いくら何でも5割を割るような国政選挙って いうことがあり得るのかどうか。 問題は良い候補が居るとか、 何であろうと、 まず投票に行く しかないんだという、 そういう運動を起こそうじゃないかとモノ書きの同僚の連中に言ったら、 皆賛同してくれまして。 そしたら、 お祭り騒ぎになっちゃったわけですね。 桂三枝や田中康夫、 そして多くの作家達、 皆街に出てきて、 それでビラ持って、 選挙に行こうぜ、 選挙に行こうぜ と言い出していたら、 本当にその時の選挙で投票率が上がっちゃった。 その当時、 橋本龍太郎さんが総理やっていて、 参議院に負けただけで橋本さんが退任しちゃっ た。 私は橋本龍太郎さんを良く知っていましたから、 後で怒られました。 石川君、 君が余計な ことを言うから投票率が上がって、 俺は退任しちゃったから、 お前が責任取れって。 これ、 本 当の話なんです。 それくらい怒られたことがありました。 その後に、 色々な人が選挙に行きま しょうよとか言って、 行こう勢という言葉が合言葉になった。 とにかく、 きっかけはただそれだけなんですよ。 単純にそういう思いつきで動いたというこ とになると思いますけれども。 その後に、 田中康夫がそれを自分がやりだしたと言って、 選挙 に行こうぜ、 選挙に行こうぜと言い出して、 彼も言い出しっぺだから長野県の知事になっちゃっ たわけですね。 それで、 私の後に彼が自分から代表を買って出てやったわけですね。 私は公務 員になったわけですから。 そんなことしちゃいけないものですから、 6年間おとなしくしてい たんです。 小 李 泉 はい、 どうぞ。 先生、 貴重なお話をありがとうございました。 ノースアジア大学の李廷と申します。 韓国 籍の者です。 先生にぜひお話頂きたいと思うのが、 今後、 県が国際化ということで、 かなり力 を入れていかなければいけないと思いますけれども、 県の国際化戦略において特に先生が考え ― 30 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 新生ノースアジア大学記念講演会 「私の人生 ―挫折から成功への道―」 ていらっしゃることがあれば、 ぜひお聞かせ願いたいなと思っております。 石 川 私が6年間大学の学長をやっていて教員を公募した時には、 まず外国籍の先生を採るように やったんですよ。 日本人を採るよりも外国人を採れと。 それで今、 秋田公立美術工芸短期大学 は26名の先生のうち3名が外国人で、 実は全員が韓国人なんですね。 大学で教員を募集します と、 同じように日本人の先生方もその専門分野の人が来るんですが、 韓国から来た学者の方が よっぽど優秀なんですよ。 26人のうち3人の韓国から来た学者を、 私が勤務している間に任命 しちゃったんですけども。 何でそんなことを申し上げたかと言いますとね、 まず地域の国際化といった場合に、 やはり どれだけこの地域に外国籍の方が住んでいるかどうかということ。 これがまず1番大事です。 それから、 その方々とちゃんとしたネットワーク、 コミュニティで付き合いが出来ているかど うかということもです。 幸いなことに、 秋田県には国際教養大学のように、 言ってみればその ものずばりの大学が出来た。 ノースアジア大学のことをやっているのに、 国際教養大学のこと 言うのも失礼なんですが、 全て秋田の中のものとして言えば、 そういう珍しい大学が出来て、 外国からもたくさん来県しているわけですね。 言ってみれば秋田は最先端を行っているんですよ。 だって、 こんなちっぽけな人口100万強 の県の中で、 全部英語で授業をやるような大学を作り、 少しずつ、 少しずつ外国人を増やして いる。 そして、 英語で教育をやっている。 しかも、 秋田経済法科大学という漢字名の大学をノー スアジア大学という風に変えてしまうような度胸というか、 世間知らずというかそういう大学 が誕生した。 これを含めて国際化なんですね。 そういうことをあえてやってみせる、 というと こが凄いと思いました、 私は。 ご質問の元に戻りますけれども、 国際化なんて単純なことです。 この地域に住んでいる外国 籍を持っている人、 旅行者でも良いし、 仕事をしている人でも、 誰でも良いんですね。 その方々 と、 この県や町が一緒に付き合えるかだけです。 私はそれ以上でもそれ以下でもないと思って おります。 今ここに住んでいらっしゃる外国人の方々と付き合えない日本人が、 今度外国に行っ て付き合えるわけがない。 もうそれだけですよ。 くどいようですけれど、 秋田経済法科大学も ノースアジア大学に変わったんですし、 国際教養大学もあるということを考えれば、 秋田県は 実はそういう可能性を持った県であると私は思います。 秋田に幸あれ。 小 泉 ありがとうございました。 いかかでしょうか、 他に何かありましたら。 はい、 どうぞ。 加 藤 恐れ入ります。 加藤と申します。 先程、 これからの学校像のひとつということで、 女性、 女 子学生を大事にするというような先生のお話もありました。 そこで、 本日も様々な世代の方達が集まっているところですけれども、 これから地方に根ざ していく色々な世代の女性達に向けて、 若い人達が生きていくのとはまた違う難しさだとか、 色々な中身はありますけれども、 秋田の女達がこれからの時代を生きていくために何かメッセー ジをひとつ送って頂ければ幸いに存じます。 よろしくお願い致します。 石 川 ありがとうございます。 出来れば2人っきりの時のほうが良いですね。 その方が真剣な話が ― 31 ― 出来るかと思うんです。 さて、 秋田の女性に対する助言というのはあり得ないと思うんですね。 だって、 秋田の女性と青森の女性とどこが違うのか。 それは言葉の問題じゃなくて。 おっしゃ る意味はよく分かるんですけれども、 こういう議論の中でどちらかといえば、 経済的にも非常 に弱いとか、 それから秋田における女性の雇用率が悪いだとか、 色々な問題を抱えている秋田 の中での生き方を前提として、 多分そのご質問になったんだろうと思います。 ところで、 私の見立てで言いますと、 これからの5年くらいの間に秋田の方々は秋田の有り 様に気が付かないと、 本当にやばいことになると思います。 私は6年ほど秋田にいた間に、 秋 田の財政状況だとかそういうことを少し、 こっそりと研究してみました。 これを放置しておく と本当に夕張化が進みます。 しかし、 ということは希望があるということです。 つまり、 秋田 県はそういうことを回避しなきゃならない、 やることがあるということなんですよ。 それを、 その次の世代に残らないように防ぎながら、 秋田を作り変えるということを始めなきゃならな い時に来たんです。 だから、 これをこの後5年くらい放置していたら、 本当にまずいですよ。 そういう機会があれば、 いつか何故そうかということを具体的に数字とか何かを挙げて、 説明 したい。 そこで、 その女性がどうのこうのという話と結びつくかどうか分かりませんけれども。 やは り地域の方々が地域のことを、 もうちょっと真剣に考えなきゃいけない。 これは、 女性だとか 男性だとかっていう事を抜きにして、 真剣に考えていかなければならないんです。 狼少年で言っ ているわけではないんですけれども、 秋田に関わりを持っていらっしゃる皆さん方が、 秋田の 実像について真剣に考え、 秋田をどういう風にするかを、 自分達の力でやっていかなきゃいけ ないと思いますね。 そういう中で、 女性の役割とか生き方というのが出てくるんじゃないかと 思います。 実は秋田が抱えている問題は根深く、 数字的な未来図の中に見えてきておりますから。 これ は秋田の中に秋田革新運動と言いますか、 そんなものが私は出来てこなきゃいけないと思いま す。 今のようなご質問に対しての答えが、 出てくるんじゃないかと思いますね。 私は、 生き方 に関しては人にはお答え出来ないんですよ。 だって、 私は自分の生き方もどうやって生きてき たかも、 全然分かりませんから、 人に自分の生き方を教えて欲しいと言われても、 私もその質 問だけにはお答え出来ません。 誠に申し訳ありませんけれども。 小 泉 ありがとうございました。 では、 時間になりましたので、 この辺で対談を打ち切りさせて頂 きたいと思います。 橋 元 先生方、 素晴らしいご講演を誠にありがとうございました。 「本当に大事なことは目に見え ない」 という、 サン・テグジュベリの言葉があります。 石川先生の大変正直な天真爛漫なお話 しぶりは、 先生が心の目で見られた世界のことを、 真っ直ぐに語って下さったような気が致し ます。 本日は本当にありがとうございました。 (拍手) ― 32 ― ノースアジア大学 講 総合研究センター主催 講演会 「日本映画の現状」 演 ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「日本映画の現状」 講 挨 師 拶 東映株式会社代表取締役社長 ノースアジア大学総合研究センター客員教授 岡 田 学校法人ノースアジア大学理事長・学長 ノースアジア大学総合研究センター長 小 泉 橋 元 司 会 ノースアジア大学総合研究センター副参与 日 時 平成19年5月11日 会 場 秋田市文化会館 午後1時30分∼ 大ホール ― 33 ― 裕 介 健 志 保 橋 元 お知らせ致します。 本日は、 新生ノースアジア大学記念イベント、 岡田裕介氏ご講演会及び 東映映画 「俺は、 君のためにこそ死ににいく」 の先行上映会にお越し頂きまして、 誠にありが とうございます。 平成19年4月より、 本学はノースアジア大学に名称を変更致しました。 しか し、 いつまでもこの秋田の地で、 皆様と共に若者達のための教育を行い、 また秋田県の発展の ために、 力を尽くしていきたいと考えております。 どうぞ皆様、 新生ノースアジア大学をよろ しくお願い致します。 それでは、 東映株式会社代表取締役社長・本学総合研究センター客員教 授、 岡田裕介氏のご講演 「日本映画の現状」 に先立ちまして、 学校法人ノースアジア大学、 小 泉健理事長がご挨拶申し上げます。 どうぞご静聴下さいませ。 小 泉 (拍手) ありがとうございます。 今日は、 この会場に学園関係者の方、 それから市民の方々、 学生の皆さん、 たくさんの方々がお見えになっております。 本当にありがとうございます。 昨年、 この会場で 「バルトの楽園」 を上映させて頂きました。 そして一昨年は 「北の零年」 ということで、 大作をずっとお願いさせて頂いておりますけれども、 私、 今日の上演の映画、 昨日見させて頂いたんですが、 本当に2本の作品に全く負けないというか、 もっと素晴らしい、 大変感動的な作品でございます。 それで、 一緒にスタッフの人達と見させて頂いたのですが、 もう涙の連続の作品になっております。 今日はその上演に先立ちまして、 非常に幸運なことに ですね、 今年もまた、 大変にお忙しい中ですけれども、 岡田裕介社長に、 この秋田に来て頂き ました。 本当は明日からですね、 この映画全国一斉に封切りになりますので、 私は、 社長は東 京にいたほうが営業的には効率が良いのかな、 というような思いがするんです。 しかし、 あえ てその中をですね、 ここに来てくれたという、 岡田さんの心意気というものを、 ぜひ感じて頂 きたいなという気持ちで一杯でございます。 岡田さんのことは、 私のほうから紹介する必要のないほど大変著名な方でございまして、 最 近は映画作りの傍ら、 政府、 安倍政権の審議官、 あるいは様々な会議の委員として活動されて います。 そういうことで、 大変な方でございますけれども、 当の本人は映画俳優を10年、 そし てフリーのプロデューサーを10年。 その後は東映でサラリーマンをやってるという風におっしゃっ ていますけれども、 東映に入ってからは撮影所長等を経まして、 取締役、 そして非常に若い、 もう記録的な若さで代表取締役社長と。 たくさんの系列会社を持っていますけれども、 その東 映のグループの総帥として活躍されている方です。 それで、 映画の現状につきましては、 今日この後いろいろお話があると思いますけれども、 映画のデジタル化ということが言われております。 このデジタル化を反映して、 この節目に当 たり、 新しい劇場というものが各地で作られておりますけれども、 岡田さんは今まで映画館に 対して私達が持っていたイメージというものを、 一新された方でございます。 今日本で、 「北の零年」 もそうですけれども、 この大作を作れるというのは、 岡田さんが率 いる東映しかないということが言われております。 それで、 ご承知のように世界中の子供さん の間で、 日本のアニメーションが大変な人気でございます。 このアニメーションにおいて、 東 映が日本一。 そして、 日本のアニメーションは非常に質の高いもので、 どこの国も真似が出来 ない。 それで、 そういうアニメーションを東映アニメーションが作っているわけですが、 昨日 聞いたところでは、 輸出しているアニメーションのシェアは東映が実に80%以上占めていると いうことをお聞き致しました。 そういう話も少しして頂けるかなと、 私は思っております。 まあ、 私が長々と話をしても仕方がないので、 この辺で終わりますけれども、 今年は総合研 ― 34 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「日本映画の現状」 究センター3年目に当たります。 年数から言えば、 芽が出て双葉が開いて、 そして少し背が伸 びてきたかな、 という時期だと思います。 ここに辿り着くまでには、 スタッフの皆さんの大変 な苦労があったわけですけれども、 これからも総合研究センターが団結してですね、 市の伝統、 情報の発信地と、 そういう風な形で頑張るようにしたいと思っております。 今後ともぜひ、 よ ろしくご支援ご指導をお願いしたいと思います。 それでは私の後にですね、 岡田さんのご講演 がありますので、 ぜひ最後まで聞いて頂きたいと思います。 本日は本当にありがとうございま した。 (拍手) 岡 田 ただ今、 何か非常に格好良く紹介して頂きました岡田でございますが、 実際には3ヶ月位前 に強引に、 何が何でもこの日に来てくれって、 小泉理事長が言われるので来たんです。 そんな に大きな意味はないんですけれども、 それならやりましょうという話で来させて頂きました。 正直なかなか時間もとれないので、 一番最初は、 ここの客員教授を引き受けた時は、 もうちょっ と講義するものと思っていたんですけど、 いつの間にか講演や漫談に変わってきましてですね。 大学の一つの催し物として良いんだろうか、 大学という名前の中でやってもいいんだろうかと いう具合に思うことが時々あるんですけど、 まあお許し頂いて、 1時間近くお話を聞いて頂け ればと思います。 ただ私、 「北の零年」 の時も大変お世話になった夕張市が破綻しましてね、 その時に、 学校をどうしていくかっていうことが、 市をやっていく時、 この町、 そして市を興 していく時に、 やっぱり一番重要な原点なんだということを、 相当僕は申してるんですね。 そ して、 そこからいろいろなことをやっていくんだということを申していたんですけれども。 やっ ぱりこういう機会を通じて、 皆さんと共に、 この秋田も盛り上げていくというような観点から、 東京の情報を含めいろいろと。 けれど私にとりましても、 政治の問題・経済の問題を何か知っ たかぶりしてるのもおかしな話ですから、 映画の状況について簡単にお話させて頂きます。 去年全体の映画人口の邦洋の比率で、 53%という比率が日本映画、 皆さんの見て頂く中でで すね、 アメリカ映画、 フランス映画、 韓国映画いろいろありますけど、 53%が実は日本映画に なっていたんですね。 つまり、 過半数を日本映画が占めたというのは、 実は21年前に 「南極物 語」 という映画がありまして、 これが日本でものすごくヒットしまして、 その年に1年だけ、 日本映画が洋画に勝った年ががあったんですね。 ただ、 その年を除きますと30年以上、 とにか くアメリカ映画全盛期というか、 アメリカ映画がもう皆さんの中で非常に支持されまして、 20… そうですね、 28%くらいまで、 日本映画っていうのは落っこちていた状況だったんですね。 そ れが去年、 久々に日本映画が、 21年ぶりに皆さんの支持を得て、 過半数を占めるようになった わけです。 それで、 日本映画が何故復興してきたのかということについては、 いろいろなことを言われ るんですが、 ひとつは今、 小泉理事長から話がありましたけれど、 日本はアニメにおきまして は、 世界の中で№1のクオリティ、 それから面白さを持っているものと思われていて、 世界の 業界から注目を浴びております。 注目を浴びてるというよりは、 もう非常に拒否されてる段階 なんですね。 何を拒否してるのかと言いますと、 中国においてはゴールデンタイムと言われて いる良い時間帯に、 一切日本のアニメーションをかけることは相成らんということで、 日本ア ニメ防止法案みたいなのがありましてね、 放映されないんです。 中国の子供達にとっては、 面 白いものがいいわけですけど、 日本のアニメーションを見てしまうと、 中国のアニメなんて面 白くないから全然見なくなる。 どんどん日本のアニメが伸びてくる。 この状況が酷過ぎるとい ― 35 ― うことから、 日本のアニメをかけることは一切禁止してるんですね。 それで、 今日は関係者が いらっしゃらないからいいんですけれど、 何でこういうことになっているかと言いますとね、 アメリカにおきましては、 昔からのディズニーという大きなアニメーションの会社がありまし た。 日本のアニメーションを全部ディズニーが買うんですね、 高い金を出して。 日本もそこで 売らなければいいんだけど、 うちなんかは儲かるので売っちゃう。 そうすると、 彼らは実はそ こで握り潰すんですよ。 要するに、 それだけ欠損になっても日本のアニメに出てきて欲しくな いと思うくらい、 日本のアニメは技術的には進歩していて、 水準が高いですね。 けれども、 皆さんも今までご覧になって分かる通り、 それでは日本の映画が、 実際の実写っ て言われている日本映画が、 どうしてそんなに流行らなかったのかっていうことがあるわけで すけど、 この大きな理由にはですね、 やはりアメリカ映画を見ると、 すごいじゃないのこの金 の掛け方、 ものすごいよ、 日本の映画ちゃっちくて見ていられないじゃない、 でも入場料金は 一緒だよ、 アメリカ映画見るの当たり前じゃないというのが、 この何十年と続いてきた歴史な んです。 それが何故今年、 いや去年ですね、 日本映画のほうが上回ったのかっていうことに関 しますと、 ここが面白いんですけど、 デジタル革命っていうことがあるんですね。 デジタルっ ていうのはどういうことかっていうのがあるんですけど、 アメリカの場合にはデジタルで出来 るということで、 いろいろなことをやってきました。 例えば金属で、 ボーンと撃たれてビヨー ンなんて、 ビュンと金属が元に戻ったとか、 俗に言えば、 これは現実にはないけれども、 この すごい技術を何回も繰り返し見せられてきたわけですね。 それでその度に、 我々はその映画を 見てすごいなっていうことになってきて、 こんなの作れないよ、 こんなのどうやってやるんだ ろうっていうことになってたんです。 それと街中借りきって、 街中に大きなセットを建てて、 映画を作る。 そんなこと日本じゃ出 来ないよ、 みたいな話になってきて、 もう日本映画ダメだよっていうことになっていた時に、 このデジタルっていうのが出てきたんです。 デジタルっていうのはどういうことかって言いま すと、 これはコンピュータと結んでやっていくんですけれども、 実はこの街を再現したり、 過 去のものを映し出したり、 いろいろなことが出来るんですね。 それでこれをもってですね、 表 現力が向上しました。 アニメーションって、 皆さんお分かりの通り描き手がいまして、 好きな 思いで描いていくわけですから、 自分の想像した絵が全部描けるってことなんです。 でも映画 の場合は、 想像した絵が作れないっていうのが、 一番大きな原因だったんです。 そして日本映画を一番妨げていたのが、 このお金が掛かり過ぎる、 どうしたらいいかよく分 からない、 というところでもう頭を振っていたことです。 ところがこのデジタル技術により、 去年 「always 三丁目の夕日」 と言えば、 名前くらい聞いたことがあるかと思うんですけれ ども、 これは昭和30年代を再現したものなんですが、 昔の我々から言うと、 そんなのもう出来 やしないよ、 電車1台走らせるだけで、 30年代の電車なんてありゃしないじゃない、 どうやっ てやるんだよっていう話になるんですね。 これが実はですね、 デジタルっていうものはこれぐ らいのミニチュアを作りまして、 それを大きくして合成することによって、 全部出来るように なったんです。 そのためにあの企画は、 昔で言うと、 10年前だと、 馬鹿かこんな企画立ててき やがって、 いくら掛かるか分かりゃしないじゃないか、 でも今やりますとあんまりお金かから ないんですよ。 実はアメリカ映画でもコストダウンのために、 そういうあまりにも馬鹿げた映 画を作っていく時代から、 デジタルだったら安く出来るじゃないかっていうことで、 アメリカ もデジタル発信している、 日本もデジタルの研究してきている。 ということはどういうことかっ ― 36 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「日本映画の現状」 て言いますと、 映画に差がなくなってきてしまったんです。 映画のクオリティにおける差が、 アメリカと変わらなくなってきた。 要するに、 昔はもうすごい映画だったなということが、 今 はそうではなくて、 人間ドラマ描いたり、 日本人の心描いたり、 そういうことによって、 映画 本来の姿を映し出してくれている。 日本映画のほうがやっぱり面白いじゃないかということを 見直して頂いたのが、 大きな理由なんですね。 そして、 もうひとつの大きな刺激は韓国映画なんです。 韓国映画は、 日本ですごく当たるよ うになった。 日本中で注目を浴びるようになってきた。 韓国で出来て日本に出来ないわけない だろうっていう、 これがね、 我々の大きな刺激になったんですね。 韓国映画も、 韓国ドラマも ほとんど日本映画の焼き直しでもともと出来てるんですね、 日本映画をものすごく勉強してい て。 でもこんなにパクられて、 これだけ当てられたんじゃたまらないよっていうのかな、 日本 映画は刺激を受けて作り出した。 すると、 日本映画が上がってくると同時に、 今度は韓国映画 がどんどん下がってきちゃったんです。 韓国映画より、 やっぱり日本のほうが面白いっていう 具合に思って頂いた。 でも良い刺激を韓国映画から受けたのは確かなんですね。 この韓国も、 ひと頃に比べると規制が緩くなってきているというものの、 日本のアニメが世界で一番優れて いると認めているが故に、 輸入しないんです。 その反対に日本だけは、 もう本当にガードする ことが何もないんです。 入り放題入ってくるし、 いくらでも作れるという。 こんな歪な関係が これらの国々と続いているんですね。 そういうのが要因で、 非常に日本映画が元気になってきたと。 日本映画を皆さんに見て頂い て、 これからもやっていきたいということなんですけど、 この日本映画ってですね、 発展に先 駆けました何個かの要因の中にもうひとつ要因があるんですね。 この要因っていうのは何かと 言いますと、 実はね、 まあ秋田の皆さんからはご支持頂いているので、 そんなことはあまりな かったと思うんですけれども、 東京なんかで道路で撮影していると、 交通の邪魔じゃないかと いう話になって、 すぐ警察沙汰になる。 それならと警察で許可を取ろうとしても、 なかなか許 可を出してくれない。 許可を出してくれない間に、 何かもう放送が近付いてる、 これではどう にもならない。 それで我々が無許可で撮影したりすると、 ほとんど責任者が一泊留置所に入っ て、 犯罪行為ではないけれど始末書を書く。 だいたいそれで許して下さいという話で、 何とか 許してもらえたりしていたんですけれど、 撮影するのが仕事で、 ましてやその場所を変えたり、 例えば看板を取り外してこっちの看板に変えるなんてことをしたりすると、 とんでもないこと になってなかなか撮影出来ない。 アメリカにおいては、 実は警察その他っていうのが全部応援してくれるんですね。 セントラ ル・パークでカーチェイスを撮るって言っても、 あとを復元すればいいよっていう話から、 セ ントラル・パークで車同士でぶつかったり、 ビルを爆破したり火事にしたり、 もう本当にど真 ん中で。 映画に対する支持者がすごく多くて、 市民たちも交通が遮断されてるのに、 撮影なら 仕方がないよっていう具合にみんなが協力してくれる中で、 日本ではなかなか協力して頂けな かった。 こんな時にですね、 よし分かった、 じゃあ東京都内で全部撮影を許可する場所を別に設置す る。 そしてすぐさま撮影出来るようにしようじゃないか、 そうしないとダメだよと。 国際的に もそりゃ追いつかないよ、 すぐやってやるよということを言ってくれたのは、 実は石原慎太郎 さんなんですよ。 石原慎太郎さんが、 何て言うかね、 ロケ地斡旋係、 斡旋課みたいなのを引き 受けて頂きましてね、 今は我々が全部そこへ申し込んだら、 即座にここでこういう具合にやっ ― 37 ― てくれ、 何時までいいって言っているとか、 全部やってくれる。 こうして撮影することが可能 になったんですね。 それを踏まえて、 全国の知事さん達はじめ、 多くの自治体がうちにロケに 来て下さいよというロケ誘致、 うちの町をいろいろ宣伝するためにも、 やって頂きたいってい うことになった。 けれど一番最初は、 石原都知事が大英断で行って下さったことなんですよ。 それで、 我々の業界に理解があるということばかりではなく、 実はその前は青島幸男さんなん ですね、 もっと理解があったのは。 でもなかなかやって頂けない。 とにかくこの部分がなかな か進まなかった。 それで、 例えば日本の、 昔のプロの脚本家から言いますと、 新宿の駅で車が故障して突っ込 むなんていうシナリオをもし書いたとしたら、 お前馬鹿じゃないか、 こんなもの撮影出来るわ けがないじゃないか、 こんなこと書くこと自体がプロの脚本家としておかしいよっていう、 絵 にならないものを脚本に書いてどうするんだよっていうことになるんです。 でもそれを知った 上で書くのが脚本家だってことになってたんですが、 今はデジタルというものとそういう許可 を与えてもらった、 この二つが合わさることによって、 かなり無制限のシナリオが書けるんで すね。 だから最近我々はシナリオライターに、 こういうのは書いてはいけませんよという規制 をしたことがないんですね。 だから、 面白くない本を書いた人はもう、 そういう規制があるか ら書けなかったんだという言い訳は出来ないんですよね。 やっぱり発想がダメなんだってこと しかなくなるような、 良い状態に入ってきた。 これがやっぱり、 日本映画が大きく発展していっ た理由なんです。 何も国がお金を付けてくれれば直る、 そんなことは一切必要ありませんよっ て。 あなた方のそういうおかしなところを直して下さいよっていうことを、 私がすごく申し上 げたんですね。 まあ、 私ばかりではなく団体として、 それぞれの団体がそういう話を説明して、 きちんとやってもらうことによって、 何も国が予算付けてくれなくても結構だと、 そういうと ころを直して欲しいということをすごく強調したんです。 今回その中で、 近日中に、 衆議院でも通過すると思うんですが、 盗撮防止法という法律があ ります。 盗撮というのは、 スカートの中を盗撮するばかりじゃないんです。 実は今ですね、 映 画館で映画を全部撮影している人がすごく多いんです。 今日この中に、 そういう人はいらっしゃ らないと思いますけど、 それをもってですね、 自分でそれを売ったり、 インターネットに載せ たりする。 私が言いたいのは、 そういう人は何のためにやっているのかよく分からない。 自分 のそういう技術を見せたいのか。 それからもう一つは、 それを、 自分達で海賊版っていうもの を作ってビデオとして発売する。 要するに、 これが非常に問題になってるんですよ。 それでこ の法律に、 実は1年かかったんですね、 我々団体がこれをやって下さいと言い始めてから。 例 えばここに何億付けて下さいっていう、 そういう話ではなくて、 とにかくこれが、 実は法律違 反ではなかったんですよ。 盗撮が違法だということが法律で決められているんですかって言わ れた時、 決められていなかったんですね。 皆さんコンサートに行かれたことがあると思うんで すが、 例えば誰かのコンサートをやる、 それでカメラの持ち込みは絶対禁止ですと、 入り口で チェックさせてもらいます、 撮影は出来ませんとか言いますけど、 それは主催者と皆さんとの そういう契約の元に、 この券で、 このお金で来て頂くということが全部契約に謳われている時、 ある契約事項の中で行われているというだけで、 法律には何もなかったんです。 それで、 そう いう具合に撮影する人がいても、 これと同じことなんですね。 映画館の中にカメラを持ち込ん で撮影することは、 我々が禁止しますよっていうことであって、 国としては法律も何もなかっ たんです。 ― 38 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「日本映画の現状」 それでですね、 これは人間の基本的なことで、 それによって誰が損するとか我々は非常に被 害を受けているとか、 大変なことをいろいろ言いましたけど、 そんなこと以前に、 映画を見て 頂くお客さんの隣の人が、 今日でもそうですけれども、 カメラをこうやって据えてずっと撮っ てるっていうのは、 常識として考えて、 おかしいと思いませんかっていうことなんですね、 我々 が言いたいのは。 誰がそれで損をしたとか、 誰がそんなことをしてるとか、 それよりもこれが 良い行為だと思いますかっていう話を、 相当させて頂いたんですね。 これは、 私は今インター ネットに関しても、 国その他に非常に申し上げてるんですけれども、 インターネットで自殺サ イトや違法なものを販売したりするサイトが、 開くと一杯あります。 それで、 私は表現の自由 とか何とか以前の問題として、 やっぱりこれは国が規制すべきだっていうことを言ってるんで すね。 こういうことがあっていいと思いますかっていうことです。 やっぱりこれは常識で考え てもおかしいですよ。 一緒に自殺する人を求めていたり殺人者を募集していたり、 これは、 僕 は人間としてのインターネットを使っていく常識の問題だと思います。 けれどもともとですね、 今度の盗撮防止法もそうなんですけれど、 国は非常に遅れてるんですね。 要するに、 インター ネットなんかがどんどん先に進んでいっちゃって。 それで今日は教授の先生とかいろいろな方 もいらっしゃいますけど、 だいたいそういう方が法律をお作りになって、 そんな悪いことをす るような人はいないんじゃないかと思ってる。 でも法律というのはちゃんとそこを、 もうちょっ と自分達で吟味してやらないと、 そんなことをする人が一杯いるんですよっていう、 それを禁 止するもの、 刑法を作っていかないと成り立ってこないですよっていうことを申し上げている んですね。 今、 私はテレビ局なんかでも言っているんですけれど、 やっぱりアメリカと日本で一番差が あるのは、 以前お話したことがあるかもしれないんですが、 テレビなんですね。 テレビは皆さ んが毎日ご覧になっているように、 日本では、 これは異常発達したことなんです。 アメリカで は、 こんなにテレビは発達していないんです。 何故発達していないかと言いますと、 非常に禁 止されていることが多いからなんですね。 禁止されていることは暴力、 エロに関する裸の問題、 それから陰謀の問題。 この三つに対する規制がものすごくきついんです。 我々が作っておりま す水戸黄門をはじめとする時代劇、 これアメリカでは一切かけるの禁止です。 善い方でも悪い 方でも関係ないんです、 暴力になっていくことは一切ノーなんです。 こういったものは一切か けていません、 アメリカでは。 向こうはこのためにCATVというテレビですけど、 有料チャ ンネルがすごく流行ったんです。 有料チャンネルは、 個人の自由として見ていい権限をアメリ カが与えているために、 お金を払って見るならどうぞっていう、 そういうシステムの中に成り 立ってましてね。 けれど日本の場合には、 今、 否応なしにテレビのチャンネルひねったら出て くるわけですね。 そのチャンネルに対する規制っていうのが、 アメリカは非常にきついんです ね。 話は逸れましたけれども、 そういう法律を含めて、 世の中の進歩と法律がなかなか追いつか ない。 それで私なんかはもう、 これはすぐに通して頂けるものと思っていたんです。 けれども 今度の内閣に相当がんばって頂いて、 今回無事通させて頂くことになったんですが、 これに1 年かかっていたら、 他の法律案含めて大変だろうなって思うんですね。 ここで撮影してるのが 犯罪に当たるかどうか、 それを訴えても犯罪にはならないんだとか、 検証をそれぞれして、 検 証しているって、 普通おかしいことですよね。 これをおかしく思わない、 これにいちいち時間 をかけてやるより、 他にやるべきことが一杯あるんじゃないかっていうことを申し上げている ― 39 ― んですけれど、 とにかく非常に遅い。 すると、 この間にいろいろな問題が起こってくる。 今、 それぞれ株の問題でもいろいろなことがあります。 株の、 その法律が追いついていってないん ですね、 だから、 その抜け道で悪いことするやつが一杯いる。 で、 日本人はどこかみんな善い 人が多いじゃないですか。 隣の人も悪い人なんていない。 そういう中で回ってきたものと違っ て、 本当に悪どいのが一杯出てきているんです。 だからそこの刑法に関しては、 今回自分らも やって、 法律を作ってきて大変だと思うんですけど、 やはりこれを迅速にもっとやっていかな ければいけない。 そういうことを政府に働きかけて、 我々の業界ばっかりじゃないんです、 全 ての業界でそういうことっていうのは、 やっぱり進めていかねばならんという具合のものです ね。 それで、 今の盗撮防止法案を民主党が賛成してくれるかどうか。 共産党も含めてどう思って くれるか。 けれどもそういう党派や主義主張を別にして、 これをおかしいと思わない人は、 やっ ぱりどうかしてると思いますよ。 我々の業界だからではなくて、 やっぱりこれは盗んだ行為で すよっていうことで、 全員まとまって頂けるんですけど、 まとまって頂くまでにこんなに時間 がかかるものなんですかっていうのは、 少しだけ文句があるんですよね。 けれども本当に今回 ありがたくて、 そうやって一歩ずつ発展のため、 それからいろいろなことをやるために、 今度 はその法律に関して、 1千万円以下の罰金10年以下の懲役刑っていうのが決まったんですね。 ですから、 例えばここで撮影する人が、 今日はいるわけないんですが、 もし見かけた場合には、 ここへ電話して下さい。 この夏から、 我々の業界全体で大キャンペーンをやっていきます。 東 映ばかりではなくて、 東宝さんも松竹さんも、 角川さんもどこも。 それからアメリカの映画会 社も全て、 もう共同で宣伝して、 これは犯罪ですよっていうことを皆さんにお伝えして、 皆さ んの中で犯罪を止めて頂くという方向へ持っていこうと思ってます。 その時はまた、 皆様のご 協力をよろしくお願い申し上げます、 ということなんです。 それと同時に、 これだけ復興してきた日本映画をどう守っていくかということについてです が、 東映におきましては、 やはりいろいろなことをやってきましたけれど、 テレビで皆さんも ご存じの時代劇のシリーズなんかは、 もうほとんどうちが作っております。 それで、 時代劇を 守ってやるっていうことは、 やはり日本映画にとって大事なことではないか。 それで、 日本映 画というものは何なのかって言った時に、 先ほど言いましたようにデジタルという意味では、 アメリカも日本も変わらなくなってきたんですね。 けれども日本映画って一体何なのかって言っ た時に、 やっぱり時代劇は一つの要素ではないか、 日本人を描いていく場合に、 そういうもの を必要としているのではないかという具合に、 自分は今、 考えているんです。 だから日本の何 を残せばいいんだろうか、 日本映画を皆さんに支持して頂くためには、 どういうことやればい いのかっていうことがあると思うんです。 ちょっと話が大きく逸れますが、 アメリカ映画と日本映画の大きな違いって言う話で、 私、 実はですね、 30になったばかりの頃に、 日本映画に限界を感じていたと言うか、 そういう時期 にアメリカへ行ったんです。 それで、 アメリカで映画のプロデューサーをやりたくて、 アメリ カで雇ってくれないかということで向こうへ行ったら、 私が今まで作ったものとか、 いろいろ なものを見て審査して、 分かった、 向こうで雇ってやるっていう話になったんです。 その時条 件があって、 ひとつはとにかくアメリカ人になりなさいっていうことを、 すごく言われたんで す。 日本の映画をアメリカに持ってこようなんて思ったら、 もう全然ダメなんです。 アメリカ 人の感覚を理解しない限り、 アメリカではヒットしないんだって、 それで当時すごく言われた ― 40 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「日本映画の現状」 ことを思い出します。 今ここで思い出したんですけれど、 文化は高いほうから低いほうに流れ て、 低いほうからは絶対に高いほうへは流れないんだ、 日本文化はアメリカ文化より低いんだっ ていうことを、 はっきりその場で向こうの担当者が言ったんです。 それはどういう意味なのかっ て聞きますと、 あなた達、 当時ビルマ、 今はもう名前が変わりましたけど、 タイやビルマの映 画を見てますかって言ったんですね。 見てないじゃないですか、 何故日本の国民は見ないんで すか。 アメリカ映画ばかり見て、 何故タイの映画、 当時ビルマっていいましたけれど、 ビルマ の映画を見たんですかと言った。 見ないでしょう、 そんなもの全然見たいと思わないからです、 文化ってそういうものですっていうことを言われて、 この野郎と思いましたけれど、 それも一 理あるかなと。 確かに見てないなっていうのも、 すごく感じたんです。 それともうひとつ、 日本の映画は、 日本の子供向けか馬鹿だって言うんですよ。 何が馬鹿だっ て言うと、 忍者映画とか日本のアクション映画を見ていると、 ドロンっていうとすぐ消えるっ て言うんですね。 要するに、 あんな非合理的なことをやっている国民は、 馬鹿なんだって言う んです。 あんなものは誰も信じてるわけないじゃないですかって。 そんなことはね、 みんな知っ ていてやってた話なんですが、 そんなことをどうこう言って。 そして、 ああいうことを子供の 頃から見せ続けているから、 論考が合わなくなってくるんだって言うんです。 それならと、 僕 はその場で言ったんです、 当時 「スーパーマン」 って映画、 空飛んでるじゃない、 何で日本人 ばっかり、 消えるのも空飛ぶのも変わらないだろうって。 すると、 アメリカ人は空への憧れ、 宇宙への憧れっていうのがすごく強くて、 空を飛ぶことについてはリアリティがなくても、 あ れがアメリカ人なんだよって言うんです。 分かったような分からないような話なんです。 けれ どもその話をとにかく理解しない限りはアメリカ人にはなれないんだよ、 だから先ほど言った アメリカ人になれってそういうことなんだよ、 そんなドロンと消えるようなことはしちゃいけ ないんだっていうことを、 すごく言うんですよ。 だからスーパーマンはね、 確かに言われてみ るとみんなそうなんですが、 クラーク・ケントっていうのは、 必ず眼鏡を外して背広を緩める 場所が必ずあるんですよ。 どのスーパーマンを見てもあります。 それで、 やっぱり着替えたん だっていうことなんです。 その話を思い出しまして、 今、 「スパイダーマン」 が大変ヒットし ておりまして、 秋田の皆さんにも何人かご覧になった方がいらっしゃると思うんですが、 この スパイダーマンも確かにね、 着替えているんですよ。 こう、 めくって、 必ずマスクを被るとこ ろが全部に入ってるんですよ。 けれど、 マスクを被ったらどうしてクモの糸を出せるのかは、 よく分からない。 これは映画ですから、 どこかおかしいところはあるんですよ。 けれどもそういう話以外に、 アメリカ映画と日本映画の違いっていうのは、 歴然と作る時に あるんですね。 それで、 その中で、 日本映画が持っている独特のものを、 どうやって我々が残 して、 それに誇りを持ってやっていくかって言った時に、 やっぱり現代劇はそのとき変わって きますから、 着ているものも変わってくれば、 いろいろなものが変わっていく。 でも時代劇だ けは何とか、 私は会社の営利とか何とかっていうことではなくて、 ある文化として残していか ねばならぬという具合に、 今考えいるてんです。 それで、 京都撮影所っていう撮影所を今、 我々は持ってます。 それで横には映画村という施 設がありまして、 皆さんに来て頂いたら、 少しは時代劇の世界に浸っていただけるような施設 でございます。 この映画村もおかげ様で30年を迎えまして、 エキスポランドみたいにジェット コースターもないので、 たいした怪我もなくずっとやらせて頂いて、 来て頂いた人達には喜ん で頂いているんですけれど、 この映画村が始まった時、 私はまだフリーでございまして、 何に ― 41 ― もなかった。 たまたま、 うちの父が東映の社長を当時やっておりまして、 映画村をやると言っ た。 それで、 そこでいろいろなものを売るんだと、 京都の八ツ橋を売ったり、 いろいろなこと をしたりするんだと。 聞いた瞬間にね、 僕はどうしてもある商売を、 ここで私にやらせて欲し いと言いました。 それで、 お前は何がやりたいんだって言うから、 十手、 刀、 編み笠、 それか ら股旅の合羽みたいなやつ。 そういうのを全部売る店をやりたいんだと、 それをやらせて欲し いという具合に言ったら、 冗談じゃないよと、 この東映が全部直営でやるんだから、 お前みた いなフリーにやらせられるかって話になって一蹴されまして、 次の日にすぐに会社で売ってる の知らずに、 僕のアイディアだけ盗まれました。 そして未だに映画村で一番売れるのは、 そう いうものなんですよ。 実はこれ、 結構精巧に出来てましてね、 十手なんか本当に、 今私はそれ ぞれの家に防犯用としてお買い下さいって勧めているんですけど、 本当にちゃんと出来てて、 これはもう完全な、 これは今認められているのが、 いいのかなって思うぐらいに精巧に出来て まして、 この十手っていうのが、 当時どれだけ強い武器だったかって、 分かるようになってる んですね。 本当に今あると、 ナイフなんかよりよっぽど強い、 刃物以上に危ないんですよ。 か なり危ないんです。 こういうものを売ってるんですよね。 でも、 未だにこれが一番売れたりし てるんです。 ちょっと高いので、 値下げしろって言ってるんですけど。 話がちょっと逸れましたけどね、 この中で、 時代劇で何を残していくんだっていう具合に、 この間から検討してるんです。 それで、 やっぱり技術を残さなければいけない、 かつらを作る 人残さなければいけない。 その中で、 今から数が減ってきて一番残さなければいけないのは、 皆さん何か全然気が付かないでしょうけど、 何だと思います?これね、 僕もびっくりしたんで すけど、 実は斬られ役なんですよ。 福本清三っていう有名な俳優が、 この中から出てきたんで すね。 福本っていうのは、 長年斬られ役をやってまして、 要するに毎回斬られていて、 その人 の顔だけを見てると、 「水戸黄門」 で斬られてるのもこいつ、 「遠山の金さん」 で斬られてるの もこいつ。 だいたい、 斬られ役って全部一緒なんですね。 それで、 顔をなるべく見せないよう に斬られていくのが斬られ役だっていうことになってるんですが、 自分達は目立ちたいから、 斬られる時に必ず顔をカメラのほうに向けて死んでいくんですよ。 だからよく注意して見ると、 だいたい分かるんです。 だけどこれをね、 やっぱりスターの影に隠れてずっとやってくる。 そ れで、 立ち回りで一番大事なのは、 実は斬るほうじゃないんですね。 斬られるほうなんですね、 一番上手くなければいけない専門職は。 実は斬られたその時に、 どう倒れてどういう具合に見 せていくか、 こういうのを日夜研究してるのがいるんです。 この職種のパートがすごく減った んですね。 この福本の話になるとすごくあれなんですが、 僕なんか涙流して喜んだんですが、 この間 「ラストサムライ」 っていう映画がありまして、 主役のトム・クルーズを監視する役で、 全編続いて彼が出てるんですね。 それで、 最後に殺されるまでちゃんと撮ってもらって、 初め て大きな役、 それも世界で№1と言われた監督、 そして映画の中であの大きな役をもらって、 長年東映で、 本当に40年以上斬られ役だけやってた人間が、 急に脚光浴びたんですね。 でもね、 この男が何故こういう脚光を浴びたかって面白いんですが、 映画が大好きでどうしようもない ある少女がいましてね、 一通だけその福本にファンレターが届いた、 その少女からだった。 い つも怖い顔をしていて、 でも一生懸命やっていて、 すごく斬られ役が上手で、 私はすごくあな たのことが好きで応援しているので、 頑張って下さいって。 福本は途中で辞めようと思ったん です。 もうこんなことをやっていてもどうにもならない。 けれど、 その一通の手紙が大きな支 えになって、 一人でも私の事を見てくれている人がいると思って、 相変わらず斬られてる時に ― 42 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「日本映画の現状」 顔を向けて死んでたんです。 それからその子が大きくなりまして、 映画が好きだっていうこと から、 私も知らなかったんですが、 実はアメリカへ行って映画の仕事に携わりまして、 キャス ティングをやってたんです。 それで、 今度この役は誰が良いかって言った時に、 東映の京都に 福本っていうのがいるから、 彼は絶対やれるから彼にさせて欲しいということで、 その少女が 大推薦したので、 監督が面接するっていうことだったんです。 それで、 起用が決まったのです。 つまりその一人の、 本当の一人のファンが大きく育ててくれた俳優なんですね。 しかし、 この福本清三が何故ずっと斬られ役をやってるかっていうことに関しては、 もう一 つ理由があるんです。 台詞がしゃべれないんです。 ですから、 本人も不満に思ってるわけでは ないんですよ。 それで大役が決まったって言いますけど、 おい福本、 斬られるのは上手いけど 台詞のほうは大丈夫なのかって、 一同みんな心配しました。 本当に福本でいいのかって。 監督 に、 後であれはやっぱり止めにしようって言われるんじゃないかって。 言われたら大変だって いうことで、 京都中みんなで福本頑張れと、 けれどもお前台詞の稽古しようとかいう話が出て 大変だった。 やっぱり世界一流の監督はすごい、 台詞はひとつもなし。 ずっと出てるけれど、 本当に全然ひとつもない。 けれどあの顔、 それがやっぱり、 本当の侍に一番ふさわしい顔をし てるんですね。 ずっと使い続けてくれて、 それで台詞はひとつもないんだけれども、 二条城の 試写の時に福本を壇上に出してやってくれということで、 二条城で世界プレミアムの試写会を やったんですね。 その時に、 京都中応援するから何が何でも出してくれって、 僕がちょっとワー ナーズに対して掛け合ってやって、 そこで舞台挨拶をしたんですね。 その舞台挨拶の時に初め て、 福本はこういうしゃべり方するのかって、 みんな知ったぐらいだったんですけどね。 こう いう仲なんですけど。 福本の話で話が逸れましたけれども、 今この斬られ役がいない。 ですから伝統を重んじるた めには、 この斬られ役を我々は育てていかなければいけないんですね。 しかし、 まともな人で 斬られ役をやりたいって言う人はなかなかいないんです。 ですから、 誰か変人がいたりそうい う人がいましたら、 やっぱりそういうのを徹底的に訓練して、 そういうのに身を投げてもらう。 ですからそういう商売に誇りを持ってやれる人、 それからそういうものに命をかけていいって いうそういうことをね、 我々は次に伝統を残していくと同時にやっていかねばいかん。 それから、 技術をしたりするのもいる。 技術がとても大事な役割を果たしているというのは、 実は屏風を描いたりする人のことなんですよ。 あの時代劇に一杯出ている屏風っていうのは、 襖も一杯ありますね、 あれはみんな、 実は描き師がいて描いてるんです。 毎回毎回何か張って るわけじゃなくて、 本当に描き手がいて、 本当にその時に合わせて、 監督がこんなものでは嫌 だって言うと描き直しているんですね。 非常な絵師なんですよ。 昭和30年代ですね、 東映京都 撮影所なんかにも天才の画家がいましてね、 あと2時間しかないんだけど、 松の廊下の後ろの 松を完成させてくれとか、 もうとにかく時間がないとか言っても、 とにかく酒を持って行った ら、 今みたいに労働時間がどうのというのはないんです、 その絵をいざ描くとなったらずっと 描くんです、 2時間であっぱれという絵を描くようなおっさんなんです。 けれども、 気が向か ないと全然描いてないんです。 繊細なんですね。 それで、 お前描かないとお金もらえないから 描けよって言っても描かない。 この男は、 そうやってなかなか描いたりしないもんだから、 実 は秘密でアルバイトを時々やるんですね。 これは何かっていうと、 横山大観、 雪舟の贋作を裏 で作る。 これの天才になりましてね、 昭和30年代の偽物は大分この男が描いてるんです。 それ で本当のプロの人から見ると、 雪舟とか横山大観より上手いって言うんですよ。 それぐらい筆 ― 43 ― さばきの、 要するに綿密な計算すると。 本当にすごいやつだったんだってね。 しかしそのあっ ぱれな贋作者本人は、 本当に少しの金しかもらわないで仕事をやってたんですけどね。 そうい う面白い時代、 それはいけないことかもしれないけど、 何かそういうのも一つのね、 天才と何 とかは紙一重みたいな人間達ばかりが集まった、 ある意味では芸術集団なんですね。 ですから それを、 やっぱり我々は今ここに継承していかねばならないという具合に考えてるんですね。 ですから、 皆さんと共に日本映画を支えていくという、 見て頂いて楽しんで頂くと同時に、 そ ういうことも我々はやってんだっていうことを理解して頂くと、 大変にありがたいという具合 に思うんですね。 それと、 今日見て頂く映画に関して少し触れますと、 今日の 「俺は、 君のためにこそ死にに いく」 というこの題名から、 脚本から何から、 全部これは石原慎太郎さんがおやりになりまし た。 今回私が言ったのは、 編集でここは切りなさい、 いらないですっていう話をして、 私が少 しアドバイスをしましたけど、 基本的には石原慎太郎さんがおやりになった。 それで、 こうい うものをやりたいんだと。 今日見て頂くような話なんですが、 この鳥浜トメさんという人に会っ て、 話を聞いた時に感動したと。 それで、 当時こういう人に国民栄誉賞を与えて欲しいという 具合に宮沢総理に頼んだけれど、 一蹴されてどうしようもなかった。 その時のことがあるので、 何とか映画を作りたいんだ、 やらせて欲しいんだと。 先ほど言いましたように、 石原都知事に は大変お世話になったので、 それならやって下さいと言ってやった映画です。 ただ、 映画が出 来るその時に言ったんですね、 映画というのは絶対に、 皆さんに思想を植え付けたり、 こうい うのが良いとか、 そんなものではないんだよと。 こういう事実があったんだということを、 伝 えることは構わない。 けれど、 それをもって思想を強要したり、 こうなんだよとか言ったりす ることは、 一切やってはいけないという話。 石原知事も、 私だって映画を作ってるんだからそ んなことは分かってるという話をして、 いろいろやりました。 この中で、 例えば靖国で会おう とかいう話が相当出てきます。 ただ、 靖国に我々が賛成してるとか反対してるということは一 切言っておりませんし、 私自身そんな風に思っておりません。 けれども事実当時の人達が残し た遺書の中から、 この文書が一杯出てくるんですね。 ですから当時の人達はそう思っていて、 これは事実ですよっていうことだけは確かなんです。 そして、 全部が喜んで行ってはいないっ ていうことです。 非常に矛盾に満ちた中で、 こんなことで良いんだろうかっていうことで行っ ている若者達。 けれど 「俺は、 君のためにこそ死ににいく」 の君っていうのは、 映画の中では 誰のことを言ってるんだろうかと思うんです。 実際には、 今日見て頂く方達のために行くと言っ てる。 要するに、 本当に残った人達がちゃんとしてくれるために私達は死んでいくんだって、 実際、 知覧に行って最後に残した遺書を全部読ませて頂きましたけど、 やっぱり本当にこうい う思いで、 今の日本の繁栄は、 ある種、 この人達が全部やったとは言いません。 けれどもある 一部分こういうものに支えられて、 60年の平和っていうのは続いてきたんだということだけは、 忘れて欲しくない。 映画っていうのは、 決して思想を植え付けたり、 何かを批評したりするも のではなく、 皆さんで楽しんで頂くものです。 今日も、 泣いて頂く方もいらっしゃると思いま すし、 やっぱり楽しんで頂くものなんですよ。 映画って所詮そんなものです。 そんな大した文 化的意義なんてありませんよ。 けれどそんな時少しだけ、 ああ、 こういうことがあったんだなっ ていうことを考えて頂くと良いと思うんです。 それで、 この中で戦闘シーンが相当出てきます。 これは現実には、 昔じゃ撮れませんね、 先 ほど言いましたデジタルというものを使うことによって出来ている。 しかしデジタルだけでは ― 44 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「日本映画の現状」 出来ないんです、 本物の零戦も三機作っております。 それがあって、 初めてデジタルっていう のは生きるんです。 偽物ばっかりではどうにもならないというのが、 この映画を見て頂くと分 かると思います。 だから本当のお話を石原さんがやりたいって言うので、 それなら石原さんの 思う通りやって下さい、 だけど思想のところは一切切らせて頂きますよっていうことから始め ております。 ですから見て頂いておかしな映画ではないと思います。 それで石原知事自身は、 あなた方がやると右翼みたいな映画になるからって私が言ったら、 冗談じゃない自分は本当は 左翼なんだという、 本当かどうか分からないような話をされました。 ですからそういう意味で は、 やっぱりある種の反戦映画だという具合に私共はとらえております。 それでは能書きはさて置いて、 見て頂きたいと思います。 ただ、 今日この映画の主人公とは 少し違いますが、 秋田県の中から、 実はこの知覧から飛び立たれて亡くなられた方、 いわゆる 特攻隊として亡くなられた方が9名いらっしゃいます。 位とかその他はさて置きまして、 坂本 さん、 伊藤さん、 小野さん、 渡部さん、 戸沢さん、 伊藤さん、 奈良さん、 金澤さん、 村木さん。 この9名の方が、 秋田県出身で18才から25才の間の方達ばかりですが、 特攻隊として出陣され て、 この沖縄に行くまでの地で亡くなられております。 この伊藤さんという方が残された文書、 他にも良い文書を書かれた方が一杯いらっしゃるんですが、 この人の文章を再度読ませて頂い て終わりたいと思います。 時機到来、 出陣の大命を拝し、 ただ今より出撃せんとす。 大和男子 の本懐、 これに優るものありません。 笑って悠久の大義に生きる。 長い間いろいろとご心配ば かりをおかけして、 まことに申し訳ありませんでした、 何とぞお許し下さい。 必殺必中をもっ て、 父上様、 母上様のご期待に添えます。 妹弟達のご養育を、 切にお願い致します。 こうしろ う、 本人の名前ですね。 なお、 ご厄介になりました方々に、 御礼状を出して頂きます。 ありが とうございます。 永遠に去らん。 最後にこの文章を残されております。 このように秋田の皆様 にも、 数少ない9名という方達ですが、 今の世の中に少しでも役に立っていこうとされた方達 がいらっしゃったことをもって、 申し訳ございませんが、 皆様ご起立願って、 何秒かの黙祷を して、 この映画を見て頂きたいと思いますので、 ご起立お願い申し上げます。 黙祷。 (数秒間 の黙祷) ありがとうございました。 今の我々とはかなり違った精神で、 彼らはここに臨んだん だと思います。 けれどほとんどの人は、 行きたくて行ってはおりません。 これだけは確かでご ざいます。 それではこれにて、 今日のお話を終わらせて頂きます、 どうもありがとうございま した。 (拍手) 小 泉 本当に貴重なお話、 ありがとうございました。 岡田さんは、 映画は文化であるということ、 この映画を残したいということを常々おっしゃっておりますけれども、 岡田さんのこの映画に 対する思いというものは、 今日のお話、 またこの後に映画で本当に伝わってくる、 そんな思い で一杯です。 岡田さんにもう一度拍手申し上げて、 今日のお話のお礼にしたいと思います。 本 当にありがとうございました。 (拍手) ― 45 ― ノースアジア大学 講 総合研究センター主催 講演会 「どうなる政治・経済・日本 ―参院選後の政局を占う―」 演 ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「どうなる政治・経済・日本 ―参院選後の政局を占う―」 講 挨 師 拶 白鴎大学教授・立命館大学客員教授 ノースアジア大学総合研究センター客員教授 福 岡 学校法人ノースアジア大学理事長・学長 ノースアジア大学総合研究センター長 小 泉 鎌 田 司 会 ノースアジア大学総合研究センター教授 日 時 平成19年7月28日 会 場 カレッジプラザ講堂 (秋田市中通) 午前10時∼ ― 47 ― 政 行 健 幸 男 鎌 田 皆様こんにちは。 それでは只今より、 ノースアジア大学総合研究センターが主催する講演会 を開催させて頂きます。 開催に先立ちまして、 本学の理事長・学長、 そして総合研究センター 長でございます、 小泉健先生からご挨拶を頂きます。 小 泉 小泉でございます。 福岡先生のご講演に先立ち、 ご紹介を兼ねまして、 一言だけご挨拶をさ せて頂きたいと思います。 総合研究センターも3年目に入りましたけれども、 市民の皆様には 毎回多数のご参加を頂きまして、 また、 色々な形でご支援を頂きまして、 心から御礼申し上げ ます。 本日は福岡先生のご講演でございますけれども、 本当であれば、 明日は天下分け目の選挙で ございますので、 先生は東京にいなくてはいけないはずなのに、 遠路はるばる来て頂きまして、 先生には心から御礼申し上げます。 先生のご講演、 あるいは著書等を通じて私が感じることは、 非常に議論が感慨的でなく、 地 に足が付いた実学と申しますか、 そういうような観点から色々な議論がされているということ でございます。 日本を代表する優秀な政治学者でいらっしゃいます。 しかも選挙前日でござい ます。 普段聞けないような貴重なお話が色々と聞けると思いますので、 最後までご静聴をお願 いしたいと思います。 本日は本当にありがとうございます。 (拍手) 鎌 田 それではご講演に先立ちまして、 福岡政行先生のプロフィールを簡単にご紹介させて頂きま す。 福岡先生は早稲田大学大学院政治学研究科博士課程を修了されております。 その後、 駒澤 大学の法学部の助教授を経まして、 現在は白鴎大学法学部の教授をされております。 また、 立 命館大学と本学総合研究センターの客員教授でもございます。 先生の本日のご講演は 「どうなる政治・経済・日本」、 サブタイトルは 「参院選後の政局を 占う」 ということですが、 先ほど理事長のご挨拶にもありましたとおり、 明日がその最大の場 面でございまして、 参院選前の政局ということになるわけでございます。 先生のレジュメも皆 様のお手元に届いていると思いますが、 「総選挙、 参院選、 総裁選」 というレジュメでござい ます。 大変私共の関心も高まっているところでございますから、 本日のこのご講演は、 ある意 味ではタイムリーな日に行われることになったのではないかと、 期待をしているところでござ います。 それでは先生、 よろしくお願い致します。 福 岡 (拍手) 本年2度目です。 今日は参院選投票日を一週間延ばされたため非常に話しにくいの で、 秋田県以外の分析を致します。 秋田県は非常に微妙な段階であり、 コメントを控えさせて 頂きたいと思います。 今日の授業の手順を言いますが、 このレジュメ 「総選挙、 参院選、 総裁選」 と、 なぜか総選 挙が一番前にきているかということがミソです。 おそらく、 明日 (7月29日) は政局になりま す。 この状態ですと、 安倍さんが何と言っても辞めざるを得ない結果になるような気がします。 そうすると8月か、 9月になるかもしれませんが、 総裁選挙が行われ、 これで次の総裁が決ま ります。 そして参議院の議長は、 間違いなく民主党であると思います。 誰になるのか分かりま せんが、 慣例でもって、 参議院会派第一党より議長が、 第二党より副議長が選出されることに なっています。 今のところは自民党が第一党ですが、 間違いなく大差でもって自民党が敗れる と民主党がきます。 公明党が院内会派を自民党と組むという話がありますが、 今の自民党と公 ― 48 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「どうなる政治・経済・日本 ―参院選後の政局を占う―」 明党は、 何と言うか隙間風が吹いている感じがするので、 そんなことはおそらくしないと思い ます。 そして、 おそらく参議院野党第一党となる民主党から議長が選出されるという雰囲気な ので、 自民党の総裁選は本当のところは年末か来年に実施されるか、 それとも安倍さんの任期 満了を待つかといった状況です。 今日の後半はぜひ皆さんに、 秋田県の実状についてお話ししたいと思います。 この地図のよ うなものがありますね。 これは人口日本地図ということで、 普通は土地の面積ですが、 日本の 人口比でやってみましたら、 秋田県は113万人で東京の約10分の1になっているんです。 こう いうふうに、 首都圏と、 愛知県と、 大阪近畿圏、 そして北海道はある程度いますけれども、 こ の地域にほとんど人口が偏っています。 秋田県の現在の人口は113万人です。 2035年に78万人 という人口統計が先日出ました。 その計算でいくと、 2055年、 日本の人口は8900万人で、 秋田 県は50万人をきるという風に言われています。 そして、 この段階で秋田県の高齢化率は50%を 超えます。 ですから、 今日20歳の学生が50年後は70歳です。 その時、 2人に1人はお年寄りと いう状況ですので、 そうなる前に何とかしたいという思いで、 ぜひ皆さんのお力もお借りした いと思います。 先日、 核のゴミの施設を、 秋田県のある村の村長が誘致することを決めて、 住民の意見はちょっ と分かりませんが、 知事は反対をしているそうです。 まあ、 生きるために核のゴミを受け持つ かどうかは農山村の1つの選択ですので、 ノーとは言いません。 ただ柏崎の刈羽の原発を見て、 報道の通りかなり事態は深刻であろうと思います。 今日、 柏崎刈羽に別のチームが調査隊で入っ ていますが、 この秋以降、 年末に向けてノースアジア大学の学生のボランティアも参加させよ うと思って、 バックアップの態勢を頂いております。 そういうことで、 出来れば核の問題にも ちょっと触れていきたいと思っていますので、 後ほどこの説明をします。 では、 総選挙・参院選の話からいきます。 最初に2つギャグを言います。 このレジュメは実 を言うと、 昨日フジサンケイグループで、 朝食会を帝国ホテルでやった時に配ったものと同じ ものです。 2つのギャグで、 1つは赤城の絆創膏。 これは笑いも出るから大丈夫だと思います。 もしこの選挙のMVPを決めるとしたら、 本当は長妻昭さんかなと思っていたんですが、 赤城 農林水産大臣だろうと思います。 それにしても赤城さんの奮闘ぶりに、 民主党の人がエールを 送っているという意味不明な状況であります。 もう1つが笑えるかどうかですが、 安倍はKY。 アルファベットのKとY。 どなたか知って いる方はいらっしゃいますか。 KY、 若い子なら知っているんですが。 はい、 後ろの人。 聴講者 「空気読めない」。 福 はい、 そうです。 今のギャグは高校生のいじめの最初の言葉なんです。 「あの子KYだよね」 岡 と言うんだそうです。 つまり、 安倍晋三さんの 「空気読めない」 というのは、 「今回、 赤城さ んよりもお前が取り散らかっているんじゃないの」 ということです。 それは例えば、 小さな人 口7万人とか8万人のところに行って、 「経済の成長は確実にある、 底上げ戦略です」 と言っ ても、 おそらくしらーっとする。 この 「空気読めない」 についてですが、 7月16日、 10時過ぎに新潟で地震があって、 NHK ニュースを見たら最大で震度6強でした。 この第1報を同じ頃、 長崎の講演会場で聞いた安倍 晋三総理大臣。 講演を1分で終えて、 1時半過ぎには東京に着きました。 そのまま総理官邸の ― 49 ― 屋上に陸上自衛隊のヘリコプターを配置して、 これに乗って新潟の柏崎に入ります。 当然新潟 県警は100人くらいついて、 安全を確保する。 そして柏崎小学校に2、 30人で入って、 それで 挨拶しようとした時に、 あるおじいちゃんが、 被災者のことをもっと考えろという趣旨のこと を、 どうも言ったんだそうです。 「皆さん大変ですね」 と言いに行ったんですけれども、 しらーっ としました。 こういう時は、 別にすぐ行かなくても、 防災担当大臣や新潟県警といったトップリーダーの 危機管理は、 新潟県周辺の陸上自衛隊のパイロット、 ヘリコプターを呼び、 行ける警察消防は 即座に向かえという指令を出すことがだいたい決まっているんです。 まして震度6強の場合は、 犠牲が出ることは間違いない。 5弱以降、 まあ4ぐらいですと多少揺れても対処出来ると思い ますが、 6という数字を聞いたら、 危機管理はそういう風にして働く。 これがやっぱり空気が 読めないということです。 久間さんの発言に関しても、 三度許すまじ原爆をと、 私達は62年間叫び続け、 謳い続けてき たのに、 「しょうがない」 と言ってしまった。 あの時の最初の一声について、 安倍さんは 「ア メリカ側の論理を言ったのではないでしょうか」 と。 硫黄島で戦ったアメリカ兵のコメントを 聞いたことがあります。 「何百万ドルもらったって二度と硫黄島で戦いたいとは思わない」 あ の映画を見た方はお分かりのように、 ある生き残った日本の兵隊さんが、 「人間って何度でも 殺されるんですね」 と言います。 ピストルか何かで死んだ人間が戦車でまた轢き殺されて、 そ の死体の下に自分は隠れて助かった人のコメントなんですが、 硫黄島の戦いを見たアメリカ側 の論理とすれば、 本土決戦になって硫黄島の戦いをもう一度、 今度は東京や関東でやるという ことになれば、 それはたまらんというのは頷けます。 それはアメリカの論理です。 日本人とし ては唯一の被爆国として、 三度許すまじ原爆をというのを、 日本国の初代防衛大臣が、 それも 被爆地である長崎ご出身の方が、 ああいう発言をされた。 そう考えれば、 やっぱりこのことや 強行採決をするあたりから、 空気を読めないということなんです。 もう1つ、 私は実を言うと今回の選挙と次回の総選挙では、 テレビの選挙速報には出ません。 それは次回の総選挙でどうしても当選をさせたい人がいるので、 中立不偏不党を守るためです。 岐阜県の美濃加茂というところで、 谷垣禎一さんが演説をやるというのでちょっと見ていま した。 すると谷垣財務大臣の演説の前に、 自民党の総決起集会があるんですが、 若手の議員が、 2千何百人集まった人達に向かって、 「皆さん景気が良いですか」 と大声で聞いたんです。 す ると普通だったら、 2000人も3000人も入っていたら、 普通の人は何も言わないけれど、 4、 5 人の人が 「悪い」 と反応した。 私は帰りの新幹線で谷垣さんと一緒だったので、 「財務大臣と しては、 ああいうのを聞くと辛いだろう」 と言いました。 すると 「構造改革というのはそうい うもので、 私達はその歪みの是正を、 小泉改革の間違ったところを直したいと思ってはいるけ れども、 安倍さんが底上げ戦略みたいなことを言うので」 と。 実感なき景気回復ですね。 その美濃加茂市は人口10万人弱だと思いますが、 岐阜県の南部はトヨタと関係がありますの で、 まだ良いんです。 岐阜県庁は色々と裏金問題でやられていますが、 知事は私の友人です。 元外務省 ODA、 政府経済協力局長なんですが、 中国の経済援助を半額にした男です。 私は、 中国であれアメリカであれ、 言うべきことは日本人として言ったことが良いと思っています。 トヨタの影響が良い形で出ている岐阜県も、 やっぱり格差問題というのがあります。 今、 全国各地を歩いていて、 講演をしても景気の悪さを感じています。 私は一昨日、 旭川で 講演をして、 東京に戻ってから秋田に来ました。 まあ時期も時期ですけれども、 この1ヵ月半、 ― 50 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「どうなる政治・経済・日本 ―参院選後の政局を占う―」 年金問題以降どこの会場も普段の2割増、 3割増であるということで、 この景気が悪いという 印象をしみじみ持っています。 それで、 参院選の問題です。 私は各新聞者の世論調査の生データをだいたい持っています。 29県の1人区なんですが、 このグラフを見ても分かるんですが、 九州は福岡県以外1人区です。 つまり、 1人区はみんな小さい県だと思ってください。 中国四国地方は広島以外1人区なんで す。 この関西地区は、 真ん中の京都・大阪・兵庫以外の、 北陸、 滋賀・三重・奈良・和歌山1 人区なんです。 それで、 関東は山梨県と、 群馬と栃木は1人区です。 そして東北はこう見て分 かるように、 北東北の青森・秋田・岩手・山形が1人区で、 29県という状況です。 客観的な分析をして、 各社のデータを総合すると、 山口県と群馬県と和歌山県の3つだけは 自民党がかなり優勢です。 大分県は民主党と社民党が分かれてしまったので、 やや自民党の方 が有力であるということです。 一方、 民主党の強いところは10くらいあります。 自民党の強い ところは3つです。 10くらいの県が、 この東北の青森・秋田を含めて混戦で、 新聞社とNHK、 テレビ局の7社ぐらいの調査で、 4勝3敗、 3勝4敗というところが10ぐらいあるんです。 そ して岩手県は、 ほぼ勝負があった。 山形県では、 前回も出ました民主党の女性候補者で農林水 産省の元キャリアです。 この方は体の小さい方なんですが、 一生懸命にこの3年間歩き続けて います。 そんなことで、 山形県では民主党のほうが強いということです。 あとは、 鹿児島県で もほぼ互角。 鹿児島県なんかはもちろん日本で最も自民党の強いところですが、 さくらちゃん のパパが出たということで、 演説するとあっという間に3000人集まったそうです。 安倍さんも この近くに来て3000人集まったそうですが、 拍手を見ていると、 そこだけワーッと同じように 拍手するということがありまして、 かなり動員も多いというか、 一部の団体も集中的に出てい たようです。 それで明日、 1つだけ見ていてください。 投票率は、 前回の時はまだそう高くなくて、 50% は越えるが55%くらいと言いましたが、 55%を越えて前回並みの57%、 これを上回った時は無 党派層がいくわけですから、 この秋田県も含めて投票率が60%近くまでいってしまうようなこ とになると、 地滑り的な結果になって、 29ある1人区のうち自民党は5つか6つくらいしか勝 てないという混戦状態になります。 そうなると大波乱で、 自民党は40議席を超えず、 そうなれ ば橋本さんの時の44議席よりも下ですから、 サドンデスで明日の夜10時頃、 安倍さんが責任を 持って自民党総裁を辞任することになるということです。 それで争点については、 基本的に年金なんですが、 私は1人区を歩いていて、 やはり経済格 差だと思いました。 これは、 今度秋の講座で全部やりますが、 秋田県で正社員300人以上の企 業といえば TDK、 後は民間ではどうですか。 イオンは全部併せれば300人も500人もいるけれ ども、 イオンの関係者はおそらく数十人、 本社から来ている人は数人でしょう。 秋田県庁はいっ ぱいいますから、 もちろんこれは4千人くらいいるでしょうか。 民間の病院で300人の看護師 さんを持っているところはあるでしょうか。 市立病院だとか、 県立病院などでは、 よく分かり ませんがあるかもしれません。 秋田市役所もいっぱいいましたから、 これもどうでしょう、 秋 田市の人口およそ33万人に対して、 おそらく2千人か3千人か。。 大仙市なども合併したので、 間違いなく300人以上います。 農協 (JA) もありますね、 秋田魁新報社はどうでしょう、 正規 社員で300人いないでしょう。 おそらく今20数万部ですから、 計算上で正社員は150人か100人 か。 そういう風になると、 30人以下の小零細商店街とでは、 やはり給料も違うと思います。 こ ういうような問題です。 ― 51 ― 前回夕張市の話をして、 ちょっとムッとした話をしましたが、 また新たに、 年内4、 50人辞 めるそうです。 最初の300人が、 もう半分の140人になりました。 けれども年内に辞める人は、 正規の退職金の90%をもらえるんです。 60歳ですと、 2400万円の90%ですから、 2100万円ぐら いでしょうか。 今年中に駆け込んで辞めた人は、 90%。 民間の企業が倒産したらどうでしょう。 30万円とか50万円の、 引越し代くらいとか、 1ヶ月分くらいの給料だけしか払われないという ようなことであります。 経済格差、 これは、 これからの秋田の問題とも深く関わるので触れま す。 それで、 前回6月30日からの1ヶ月間ですが、 土曜日ごとに事件というか、 ニュースが一面 に出ます。 6月30日は久間さんの発言がありました、 先ほど言ったようなことです。 これはな かなか辛いものであり、 2発目の原爆が投下された8月9日の長崎については、 ちょうど8月 9日0時0分を期して、 150万人のソビエト兵が、 シベリアの国境沿いや満州に入ってきます。 それを見て慌ててアメリカは2発目の原爆を長崎に落としたんですが、 それはそれとして、 やっ ぱり許されることではないと思っています。 7月7日土曜日、 日本経済新聞が一面トップで赤城農林水産大臣の事務所経費問題を載せま した。 そして赤城大臣のお父さんかお母さんが 「うちのこの豪邸で講演会なんかやったことは ない」 と言いました。 赤城大臣のお爺様、 赤城宗徳さんは岸内閣で農林水産大臣を務められ、 この方は本当に、 政治家として立派な方でした。 それで、 息子さんが政治に向いていなかった ので、 お孫さんの今の赤城さんが東京大学を出て農林水産省に入りました。 そして、 聞いたと ころによると外車を2台以上持っているらしいです。 1台はオープンカー。 金額を聞いたら 2500万円くらいするそうです。 2400万円の国会議員の給料で、 手取りがまず半分の1200万円で す。 それでもってフェラーリをレンタルで借りているのか、 買ったのかは分かりませんが、 そ うなると事務所経費の誤魔化しでお金を浮かせていると思わざるを得えません。 話が変わりますが、 後援会からご家族から、 まして奥さんの実家まで大金持ちで、 東京の世 田谷に1億円で買ったマンションまであるのに、 赤坂の議員宿舎を9万円で借りているという 高市早苗さんと山本拓さんのご夫婦がおります。 なおかつ、 その赤坂宿舎を1つずつ借りてい る。 こういうのが何とも言えなくて、 何か違うんじゃないのか、 「夫婦なんだから東京にいる 時くらい一緒にいろ」 とか言いたくなります。 そんなことを含めて、 赤城問題が7月7日にあり、 14日がその山本拓さんの福井県での松岡 さんについての問題発言。 これで終わるかなと思ったら、 今度は赤城さんが中国に行って下痢 したとか、 脱水症にかかったとか。 そして、 戻ってきて昨日今日の、 19万いくらの二重領収書 の問題発覚です。 ですから、 みんな領収書を見せてくれと言う。 とにかくそういう状態です。 10日ほど前に麻生さんと新幹線で一緒になりました。 それで、 3、 40分なんですが話をして、 彼に 「総裁選だね」 と言ったんです。 すると黙って頷いて、 「先生、 話し合いは出来ません」 つまり森さんのように話し合ったら低空飛行になるので、 何があったって総裁選になると、 彼 はそのように言いました。 それで、 実は谷垣さんにも同じように 「総裁選だろう」 と言ったら、 彼は、 「まあそうでしょうね」 と、 こういう感じでした。 この2人はやる気があるので、 おそ らくそうなると思います。 問題は麻生さんのアルツハイマー発言ですが、 この人間の口の災い の元は深刻です。 この発言がなければ、 麻生太郎さんで決まりだと思います。 けれど麻生さん が総理大臣になって総選挙を迎えた時に、 また余計なことをしゃべるかもしれない。 その不安 感から、 谷垣さんのチャンスが若干出てきているかもしれないということで、 ちょっと様子を ― 52 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「どうなる政治・経済・日本 ―参院選後の政局を占う―」 見て頂きたいんです。 今朝、 秋田魁新聞と毎日新聞、 日本経済新聞を見まして大きなニュースはないんですが、 こ の2週間、 色々なところからアングラ情報が流れて、 「投票日を7月22日から29日にした理由 を、 私は知っているのでお教えしたい」 という人がたくさんいるんです。 それで、 私は興味も ないし、 とにかく29日の前に秋田に行くので話しにくいなと思ったんですが、 どうもこの数日 の間に、 何か大きな事件が起きるという情報が流れていました。 でも、 それでどうしたんだと いうことです。 訳が分かりませんが、 どう見たってやはり22日と29日、 1週間ずらしたって年 金の怒りは収まらないんです。 期日前投票だってみんなやる気になったらやっているんだから、 何となくやることなすことが、 あの総理官邸の若い連中はダメなんだということです。 とんで もない事件が起こることをあてにして、 投票日を1週間延ばしたという話がアングラで流れて いたということについては、 今はまだ選挙前なので、 秋の講座でお話をします。 それで自民党の危機なんですが、 どのぐらい自民党が苦しんでいるかというと、 町村部、 つ まり秋田県内でも秋田市ではなくて、 人口5万人以下の市町村の地域で、 自民党が民主党の支 持率よりも低いんです。 これはほとんど全社、 各テレビ、 新聞どれも一緒です。 その理由の一 つは郵政です。 小沢さんが意図的に小さな町に入ってやっている姿を見ると、 選挙は川上から やれということが分かります。 分かっていてもやっぱり簡易特定郵便局は人員削減ということ があって、 自民党には入れにくい。 私の言う 「お灸を据える」 ということ。 テリー伊藤さんは 「お仕置き選挙だね」 と言いました。 とにかく参議院ですから、 自民党の政権が変わるわけで はないけれども、 安倍さんに誰か代わってもらいたいという気持ちが、 支持率が30%をきって 27%、 8%まで下がったというところにあるかも知れません。 もう1つは公共事業の建設会社です。 今はもう、 自民党のためにという建設会社はほとんど ないです。 あっちこっちで自民党の元関係者の建設会社が潰れているケースが、 石川県なんか もそうなんですが、 そういうような状態が続いています。 公共事業も真面目にやっている、 今 までのように政治力でやっているところとは違うような気がします。 また、 民主党は農家所得1兆円保障という政策を掲げました。 「また、 ばら撒きか」 という ことを小沢さんに言いたいんですが、 しかし、 4ha 以上の農家にしか助成金やバックアップ 資金は出さないでしょう。 全農家で4ha 以上となると、 大潟村を除いたらどうでしょう。 そ れに、 秋田県は比較的規模が大きいといっても、 後継者難もあります。 分かっていても、 とに かく今回の選挙では、 自民党に票は入れられないという考えがあるんです。 商店街については後で触れますが、 イオンの岡田元也社長は大学の4期後輩で、 弟は岡田克 也さんという民主党の関係者です。 今年の正月に、 イオン西日本の会というのに呼ばれて講演 をしました。 イオンの専務で、 あちこちで店舗を作ることを担当している人間が、 「今後とも 皆さんのご協力を」 という、 いわゆる協力店に向けての挨拶をしていました。 ただ、 これから は 「まちづくり3法」 で、 街中を活性化するために色々補助金が出るように、 やっとなりまし た。 その話もあって彼らが挨拶した後、 そこに大きなお店で入っている、 商工会所の副会長さん が、 「新しくイオンのショッピングセンターのモールをどんどん作るのも良いが、 既存店のバッ クアップもぜひしてもらいたい」 と、 そう言った瞬間に拍手が出ました。 イオンの中でも、 青 森県の下田町 (現おいらせ町) でしたか、 あそこなんかすごいものがあります。 もう全国各地 でそのケースなんです。 それで、 街中の商店街はやられている。 ― 53 ― アメリカは、 最後にも言いますがタウン方式です。 街の真ん中にお年寄りを集めるようにし ました。 交通弱者はもう運転が出来なくなった時、 商店街の真ん中と駅前に住んでもらうんで す。 これを今、 どういう風にするかという問題を、 ちょっと最後に入れます。 とにかく、 郵便・ 土建・農業・商店街という、 自民党の4本柱だったここが今ガタガタになっていて、 この格差 問題を含めておそらく相当の現象が起きるだろうと思っています。 それで、 ポスト安倍の総裁選ですが、 キングメーカーはおそらく森喜朗さんです。 小泉新党 ですとか、 小泉さんがと言われていますが、 本人はやる気がありません。 宮沢喜一先生がこの 間亡くなって、 その日、 連絡を受けました。 私は外に出ていたので濃紺のスーツを着ていて、 赤いネクタイではなかったのでそのままの格好で行きました。 1時間ほどして帰る時に、 小泉 さんが入ってきました。 喪服に黒いネクタイでした。 他の人は普通の格好で、 皆さんもう仕事 先でから駆けつけた様子でした。 すると、 小泉さんは昼間ずっと家にいるわけですから、 喪服 と黒いネクタイをして挨拶に行けるんです。 もちろんそれが正しいことです。 つまり、 本人と してはもう総裁をやる気持ちはない。 この人は良い意味でも悪い意味でも、 引き際の美学、 そ れを知っている人です。 人間っていうのは、 やっぱりどこかでまだ出来ると思うよりは、 もう ちょっと惜しまれて、 何で辞めるんですかと言われるくらいの時に辞めるほうが格好良いとい うことを、 彼は何度も私に言ったことがありますから、 おそらくやる気はないのだろうと思い ます。 それで、 総理大臣経験者でバッジを付けているのは森喜朗さんだけです。 彼はもう総理大臣 はやりませんが、 大臣はやってみたいと思っているようです。 私は宮沢喜一先生に、 「大蔵大 臣をやってください」 とアドバイスをしたことがあります。 小渕政権が出来た、 あの9年前の ことです。 その話を森さんとした時に、 彼は外務大臣をやりたい、 北方領土、 日露関係をやり たい気持ちを持っているという風に思っていたので、 彼はキングメーカーになるだろうという ことを考えながら、 同時に、 再登板ではないけれども、 再入閣を考えていると思いました。 それで麻生さんの弱さ、 強さですが、 弱さはもちろん口は災いの元ということです。 強さは 前回も触れたように、 中小企業、 地方の振興に重点を置きたいと言ったことですが、 これは本 当にやってもらいたかった。 もうこればかりは、 ちょっとしょうがないのかなと思います。 谷垣さんの強さについてですが、 彼は非常に責任感の強い方で、 野党の言っているように、 消費税を10%に引き上げて、 年金福祉目的税にすると言っています。 基礎年金部分を全額税負 担でも良い。 税金と年金というのは、 給料をもらっている人は分かるように、 同じように引か れる。 税金は毎年というか、 いわゆる同時進行で使われます。 年金は将来の積立金として取ら れるということですよね。 ですから、 どっちを先に使ったら良いかということは、 結論はない けれども、 基礎年金部分だけは、 もう60何%しか納付されていない上に、 5000万件も宙に浮い ています。 谷沢さんという、 年金問題をやっている弁護士さんがいます。 この間ちょっとご一緒した時 に、 年金は人柄が良い人は認めてくれるんだそうですが、 確かそうな証拠なんていうのは分か りません。 とにかくおとなしそうな、 はい、 はいと言われた通りにする人は認めてくれて、 う るさそうな人は認めてもらえないというようなことですが、 彼に聞いたら、 9月31日生まれの 人がいるそうです。 これはあり得ないでしょう。 そして、 漏れている中で100歳以上の方が186 万人いるそうです。 ご存命の方は2万8000人です。 そういうようなことを含めて、 谷垣さんは、 「消費税を引き上げなければ医療だって年金だって賄えない。 俺は財務大臣としてそれをやり ― 54 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「どうなる政治・経済・日本 ―参院選後の政局を占う―」 たい」 という気持ちを、 強く持っているということだけは、 ぜひ理解をしてください。 この2人以外に福田康夫さんという名前が出てきますが、 「70歳になったので総裁選に出な い」 と、 去年6月に言ったんです。 私もやっぱりそれはないだろうと思います。 それで、 誰が 良いのかということを、 昨日もフジサンケイグループの朝食会で聞かれたんです。 谷垣、 麻生 がイマイチだとしたら自民党は誰が良いんだ、 小泉再登板が良い、 福田が良いとか言われてい ます。 その中で私がぽろっと言った名前が、 後藤田正純君。 彼は加藤紘一さんのところにいま す。 強いリベラルで、 靖国神社にはやっぱり行かないんです。 もちろん、 後藤田正晴先生の関 係ですから。 後藤田家というのは、 徳島県でほとんどお医者さんなんです。 そういう家系の中 の後藤田正純君は、 ちょうど1年前の8月、 9月にグレーゾーン金利を中途半端に改革しよう とした時に、 小泉さんに政務官の辞表を叩きつけて 「辞めます」 と言った。 最終的に、 自民党 は後藤田正純君の意見を聞いてグレーゾーン金利を撤廃しました。 今、 ちょっと駅前の消費者 金融が苦しんでいますけれども、 こういう筋を通すなかなかの人間です。 非常に人間も謙虚で す。 この数ヶ月で私が会った政治家は、 私より年長者の野中広務さん、 古賀誠さん、 平沼赳夫さ ん、 森喜朗さん、 こういう人達です。 私が年長者に会う時は20分、 30分早めに行って、 料亭の 下座に座ります。 6時30分と言われたら6時10分くらいに。 相手は5分か10分早く来ます。 そ れでも、 私が下座にいるのを見て 「先生、 席が違います」 と言って、 頑として譲らない。 私は 2度 「いや、 もうこのままで」 という風に言います。 3度やると嫌らしいから、 2度までやっ て、 渋々 「すみません」 と言って、 上座に座ります。 それは野中広務さんでも、 古賀誠さんで も、 平沼赳夫さんでも同じです。 そうして、 重用じゃないけれども、 何か話を聞きたいという 事で、 そういう風に年長者は扱う。 私の教え子達を含めて、 6時30分と言っておきながら、 40 分に来た奴は何も言わず上座に座る。 ここが全てですから。 こいつらには任せられない。 安倍 さんの周辺も、 もう1回苦労すれば成長する。 例えば、 失敗はしても良い、 だけど2度失敗し ないように注意を出来るかという問題があります。 教師というのはそういうところが大事なん です。 古賀さんと会いました。 私はこういう嫌みな性格ですから、 「古賀さん、 最近の政局は、 連 戦、 連敗ですね」 と言った。 古賀さんは、 野中・古賀でやってきたから 「いやいや」 と言いな がら、 「先生、 でもしみじみ思いました。 旗がなければ戦いには勝てない」 と言いました。 旗 というのは総裁候補ですね。 旗がなければ戦う事が出来ない。 その旗は当然、 谷垣禎一さんを 指しているんでしょう。 それで、 谷垣さんのところは15人ですから、 「先生、 俺のところはラ グビーができるけれども、 麻生のところはサッカーしかできない」 と。 これが谷垣さんの自慢 話です。 古賀誠さんの盟友で、 二階俊博さんという人がいます。 和歌山県の人で、 中国と親しい。 古 賀さんもまだ力はあるけれども、 昔ほどではなく、 力は二階さんの方が上かもしれない。 この 二階さんのところに武部勤さんという人がいる。 この人が何だかんだ言って、 50人いる小泉チ ルドレンの大半を捉まえている。 武部、 二階というラインが出来ている。 二階グループは20人 いるかどうかです。 でも、 武部さんのところは、 杉村太蔵さんとか数はいます。 1票は1票で すから。 そういうような感じになると、 谷垣さんを古賀さん、 二階さん、 武部さん、 もちろん 谷垣さんの親分は加藤紘一さん。 その加藤紘一さんの盟友は山崎拓さん。 オール靖国参拝は控 えたいという人達。 いわゆるタカ派の安倍さん、 麻生さんより、 中国の胡錦涛と組んで日本の ― 55 ― 経済を良くしていきたいハト派です。 一昨日、 旭川のグランドホテルに泊まっていました。 旭山の動物園はもう大変なことになっ ていて、 ホテルは超満員です。 台湾からのお客さんが多いですが、 中国からのお客さんも多かっ た。 日本はそこをどういう風に生かすかという事を含めて、 ハト派連合というか谷垣さんに、 もしかすると自民党はぐるっと揺れて、 決めて、 もう消費税の増税をやるかもしれない。 解散 はしないで、 とにかく後2年2ヵ月先に消費税の増税を導入し、 基礎年金に消費税を充てる。 これくらいの事をやれば、 自民党は残るかもしれない。 今日帰らなければならないのは、 自民 党のある方と会うためで、 つまりもう政局になっています。 参院選は、 皆さんは明日、 投票す るだけだと思いますが、 そういう段階になっているということです。 麻生さんが圧倒的に有利 だったが、 7対3か6対4くらいまで下がってきました。 なんと言っても、 12、 3人しかいな いわけですから、 誰もが横を向いたら、 総裁候補になれないかもしれないという事です。 それで、 小沢民主党と政権交代。 以前、 ある宴席で小沢一郎さんと会った時に、 彼が 「先生、 もう一度政権交代が出来れば、 自民党は傲慢さを失って、 謙虚になるかもしれない。 民主党は 選挙に勝つだけじゃなくて、 本気になって政権を担当したい。 もう1回政権交代をやりたいん ですよ」 と言った。 本音のところ、 それが今の彼の気持ちです。 まあ、 野心があろうかと思う けれども。 仮に民主党が総選挙で勝っても、 小沢総理大臣はないと思います。 誰かを立ててそのまま代 表でいるとか、 あるいは副総理格で入るとかですね。 トップになると、 挨拶から何から何まで 全部行かなければならない。 外国にもサミット等で行かなければならない。 時差が心臓には一 番悪いでしょうから。 そんな事を含めてですが、 実はもう一度、 政権交代をしたい。 以前、 小 沢一郎さんから頼まれて、 小沢塾で一度講演をしたことがあります。 その時、 向こうからあっ たテーマが 「二大政党制と政権交代」 でした。 すでに、 その時からそこに絞っていたという事 です。 自自連合というのがありました。 自民党と自由党。 自民党と自由党は参議院の票が足りない もんで、 小沢さんと小渕さんが会いました。 そして、 その日の夜、 小渕さんは外国映画の DVD を見ながらソファーベッドで苦しんで倒れて、 そのまま入院をされた。 その数時間前に、 夕方 官邸で二人が握手をするという場面が見られたと思います。 今度は、 自民党と民主党との大連 合まで考えている。 つまり、 谷垣さんだったら乗っても良い。 麻生さんと戦って、 谷垣さんが 僅差で負けた場合は、 自民党の100人から150人くらいの票を谷垣さんが集めれば、 国会で首班 指名の時に谷垣さんに乗っちゃう。 野党全員、 少なくとも民主党が、 どんな事をやっても自民 党に楔を打つ。 小沢さんなら出来る、 それくらいの事はやります。 小沢さんは細川さんで、 非自民、 非共産の連立政権を作りました。 当時、 私は細川護煕さん のブレーンをしていました。 松下政経塾の教え子達を20人くらい、 日本新党に入れました。 細 川さんに私は 「まだ総理になるのは早いと思う。 小沢さんに言われてとなると、 振り回されま すよ。 とりあえず、 ここは武村正義さんをワンポイントでつないでから、 細川さんがやられた ら」 と言ったら、 細川さんは憮然としていました。 「何で、 殿様の俺が官房長官で、 武村が殿 様なんだ」 と彼は思ったんでしょう。 だけど、 細川さんの事を考えたらここは順番を先に譲っ て、 小沢さんの出方を見た方が良いと私は読んだのですが、 駄目でした。 わずか9ヵ月の政権 でした。 小沢さんは、 この時は細川さんで勝ちました。 9ヵ月後、 それを見ていた野中広務さん、 亀井静香さんが、 村山富市さんを九段宿舎で口説 ― 56 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「どうなる政治・経済・日本 ―参院選後の政局を占う―」 いたんです。 夜な夜な、 村山富市さんに 「あんた、 総理をやってくれ。 自民党が下で支える」 と。 親亀の上に子亀が乗れ、 そんなの普通ないでしょう。 自衛隊反対、 日米同盟反対のところ の党首が突然、 総理になる。 当時、 私のゼミ生が村山富市さんの秘書をやっていて、 その彼に 「おい、 5分で良いから村山さんに会わせろ」 と頼んだら、 私のために一生懸命時間を作って くれた。 そして村山さんに 「筋じゃない。 こんなんで自民党の上に立ったら、 日本の社会党は 駄目になってしまう」 と言いました。 ご案内の通り、 それからがたがたになる。 だけども、 野 中さんや亀井さんは、 そんなことは百も分かっていて、 小沢潰しと社会党潰しで村山富市自社 さ政権を作りました。 これを見た時、 私は政治を辞めようと思いました。 何でもありですもん ね、 とにかくジャイアンツと一緒ですよ。 敵の4番バッターとエースをかっぱらってきて野球 をやるという。 そういうのが、 私は大嫌いなものですから。 小沢さんはそういう歴史を全て踏まえて、 分かって農家保証1兆円の政策を掲げました。 お そらく日本の農村地帯は、 毛針で釣られると思います。 分かっていても、 やっぱり投票する。 今日も1人区を徹底的に回って、 おそらく鳥取とかあの辺から1人区を歩いている。 島根に入 るかもしれない。 青木幹雄さんの島根県です。 これはやっぱり複雑です。 亀井久興さんという、 上品な亀井さんがいます。 そのお嬢様が出馬されて、 自民党の候補者は景山さんと言いますの で、 演説では島根県から 「かげ」 をなくそうとアピールしています。 緑資源機構の件で、 熊本 と島根の両方に東京地検が入ったことが出ているから、 世論調査は全くの互角です。 島根県で 自民党が負けるなんてことは、 まずないと思いますが。 そこまで、 日本の地殻変動が起きているということですので、 とにかくそういう結果になる かもしれません。 小沢さんは最後の勝負を掛けている。 だけど、 それは参院選じゃなくて、 そ の後の政界再編。 おそらく自民党は麻生さんや谷垣さんだったら、 任期満了まで我慢しろと言 うでしょう。 とにかく強行採決しないで、 野党の言うとおりを聞いて修正、 修正で全部ごめん なさいと言いながら、 2年2ヵ月やっていく。 そして年金問題も消えかかって、 年金を消費税 でやると言ったら、 反発もあるかもしれないけれども、 おそらく多くの人は理解してくれる。 基礎食料品は5%のまま。 介護、 福祉、 教育、 環境も5%。 他のものは全部10%。 高価なもの はどんどん高いお金を取れば良いという発想。 この勝負で小沢さんは追い込んで、 半年以内に 解散総選挙。 そうなれば、 自民党は壊滅的に負ける。 306人は、 200人まで減る。 公明党は今、 逆風を受けていますから人の面倒は見切れない。 そうなれば、 公明党は強い方に回ってくる可 能性もある。 ひまわりの政党と言われていますから、 そういう風になる。 総選挙がきっと来る んですが、 それは秋の講座にして、 結論の部分に入ります。 日本は美しくない。 今、 ゼミでもって 美しくない国、 日本 るんです。 だけど、 安倍さんが終わりそうだから という本を書こうと思ってい 卑怯で、 悲しい国、 日本 という風にタイ トルを変えようと思っています。 卑怯で、 身勝手な日本は悲しいという文です。 その象徴的な のが、 北九州。 昨日も、 2歳のとてもかわいい名前の子が保育園の車の中に2時間も3時間も 閉じこめられて、 熱中症か何かで亡くなりました。 考えてもみて下さい、 2歳の子が汗を流し ながら頑張ったって、 ドアなんか開けられないでしょう。 私は、 神様は公平でないと思ってい ます。 神を冒涜するようですが。 先週、 一緒にボランティアをやっている中尾ミエさんから電話がありました。 「中越地震の 後、 なんで中越沖地震なの。 神様は公平じゃないね」 と彼女は言った。 来週、 彼女も入ります。 「集まったお金が何百万円かあるので、 仮設住宅の方に小さなテレビでももし必要であればお ― 57 ― 送りしようかしら、 と思っているから」 と言うので、 「学生が見てから必要なものを聞いてみ ましょう」 ということになりました。 先程の北九州の事件で神様がちゃんといたら、 こんな小 さな窓を割ってあげて空気だけ通すとか、 そんな気の利いた神様だったら、 信用してやっても 良いけれども、 ろくでもない神様が多い。 前回も触れましたが、 去年北九州門司の悲劇があって、 生活保護を打ちきられた方が自殺を したというケース。 最近では、 生活保護が打ち切られて結局、 餓死したというケースがあった。 ところが、 死後になって、 4月に市役所の窓口で 「もう生活保護はいらない」 「働く」 と言わ されたが、 働く事が出来ず 「おにぎりが食べたい」 と書かれた日記が出てきた。 こういうよう なことがあって、 なおかつ北九州市立東病院の介護ヘルパー41歳の女の人が、 アルツハイマー の人の複数の生爪を剥ぐ事件があった。 全部、 北九州市なんですよ。 それは北九州市だけが全 部悪いわけじゃないけれども、 こういうような虚しい事件が続いていて、 長崎県大村市の保険 金詐欺事件だって、 なんで75歳の爺さんが26歳の息子を殺さなきゃいけないのか。 逆なら、 あっ ちゃいけないけれども、 まだっていうのは分かる。 どれだけ欲深いのか。 また、 死んだお母さ んの年金をもらいたいから、 4ヵ月間骸骨と暮らしていたという事件もある。 それだけ勇気が あるんだったら、 何かもっと考えて、 普通だったらヘルパーさんか民生委員さんも何か考えて やれと思う。 もう、 無理心中とか、 そんなのが最近毎日です。 片一方では脳天気に景気が良く なりましたという話は、 大都市とか大企業だけです。 それで、 今日は持ってきませんでしたけれども、 2日ほど前に発売された寂聴先生の うさぎ 月の というメルヘンを読んだ方はいらっしゃいますか。 最近、 NHK とか色々な新聞で出 ていると思いますが、 何で月にうさぎがいるのか、 という話です。 何で400冊も本を書いて、 源氏物語 の現代語訳までかかれた寂聴先生が、 メルヘンを書くのか。 月のうさぎという、 皆さんが小さい時に聞いたあの話は、 インドの古い話です。 お年寄りがふらふらになって死に かかっていたのを、 狐と猿とうさぎが見て、 狐と猿はすぐに食べ物を持ってきた。 しかし、 こ のうさぎだけは一生懸命探したけれども、 要領が悪かったのか食べ物が見つからなかった。 つ いに3日目、 何も見つからなくて戻ってきた。 「ないのか、 食べ物」 と言われたので、 「私を食 べて下さい」 と言って、 そこで焚いていた火の中にそのウサギが飛び込む。 周りの狐や猿がか わいそうだと言って泣いている時に神様が出てきて、 そのうさぎを救い出して月の中に入れた という、 たわいもない話です。 それを寂聴先生が、 何で絵本にしたのかは、 人の心の痛さ、 自 己犠牲というものを今の子供達が分かっていないから、 あえてやったというコメントを出され た。 あの政治資金改正法、 5万円以上の領収書はつけます。 でも、 みんな4万8千円か4万9千 円にするでしょう。 でもそんなもの、 何の改革にもならない。 5円以下は良いとしても、 せめ て50円以上、 100円以上は文房具だって全部に領収書をつけろと言いたい。 そういう脳天気な 改革をしました。 また、 公務員改革でもって、 天下り云々と言ったって、 この間次官の連中が OB 達を呼んでも誰も来なかったっていうんでしょ。 そんなもの、 彼らなんかどれくらい傲慢 なのか。 農林水産次官だって、 厚生労働次官だって、 22歳か23歳で東京大学かなんかを出て、 58歳くらいで辞めて、 退職金は9000万円ですよ。 その後、 民間企業へ。 天下りの渡り鳥でしょ う、 3つも4つも渡って、 退職金1500万円。 もらっている奴は1200万円から1500万円の給料を もらって、 さらに3点セットの個室、 美人秘書、 車がついてくるんですよ。 ゴルフへ行く時に 車がないと、 格好が悪いじゃないですか。 全てそういう感覚なんです。 そういうのを見てくる ― 58 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「どうなる政治・経済・日本 ―参院選後の政局を占う―」 のも嫌になっちゃうけれども、 先程の絵本の中にいるような殊勝なうさぎもいて、 命は助かっ て月に行ったんだよと言ってくれれば一応安心だけれども、 現実の方が厳しいという事です。 NHK ドラマ ハゲタカ の話は前回したと思います。 その中で菅原文太さんが演じる大空 電機会長と、 柴田恭兵さんが演じる銀行出身の TOB と戦うコンサルタントの執行役員がいて、 「おい、 うちのなかで最も商品価値の高いレンズ。 これを磨く技術は何年かかると思う」 とベッ ドの上で、 菅原文太さんが柴田恭兵さんに言う。 柴田恭兵さんは 「分かりません」 と答えると、 菅原文太さんが 「レンズを磨くには30年という年季がいるんだ」 と言う。 短期資本、 グリーン メーラーです。 スティール・パートナー。 ブラザーだとか、 ブルドックソースだとか、 サッポ ロホールディングスとかアデランスとかみんなやられました。 しかし、 助かりました。 前回言 いましたが、 たまたま、 ここの担当弁護士が私の後輩です。 「日本の株主は、 先生、 まだ大丈 夫」 ファンドには、 ハゲタカとまともなファンドがあります。 この ハゲタカ がギャラクシー賞 「優秀賞」 や放送文化基金賞・テレビドラマ部門 「本賞」 をとった、 去年のドラマの最優秀作品なんです。 DVD がレンタルされていると思いますから、 ぜひ夏休みに見て下さい。 このドラマでアメリカから来た、 ファンド役の悪役が 「日本の経営 者の目を覚ますために俺達はやっているんだ。 金が金を生んで何が悪い」 と。 村上世彰と一緒 ですよ、 金が金を生んで悪くはない。 だけどお金でお金を儲けるというだけが全てなのか、 ルー ルを守っているのか。 前回も言ったと思いますけれども、 ゴールドマン・サックスの2万7000 人の平均給与が7000万円ですから。 社長の給与は70億円で、 新入社員は300万円です。 北洋銀 行の重役が私の後輩で、 北洋銀行は、 北海道拓殖銀行が潰れた後でこういう風にしたところで すが、 「おい、 お前のとこの平均給与っていくらだ、 700万か」 と聞いたら、 「そこまでいって ないと思います」 と。 日本の銀行はそういうことです。 秋田県庁、 秋田市役所の平均給与を聞 いてきて下さい。 600万円以上だと思いますよ。 42、 3歳平均で。 そんな事を含めてですが、 ハゲタカ。 最後です。 ある霞ヶ関の関係者と先週一緒になったんです。 「福岡先生、 2年前に東京大学 法学部から農林水産省に誰も行かなかったって話をしましたよね」 「ああ、 聞いた、 聞いた。 お前から聞いたよ」 東京大学法学部から農林水産省に行かなくなったんです。 国家公務員Ⅰ種 採用試験に受かって200番以内なら中央官庁に入れるんですが、 最近は200番以内の人と面接を するんです。 すると、 若手の40代くらいの課長補佐が相手をする。 どうしても採りたい奴はA をつけるんだそうです。 どうしても採りたくない奴はEをつけるんだそうです。 まあ、 あとは BCD でどうでも良いっていうのはCですよ。 成績は193番で下だけど、 こいつは面白いってい う奴はAをつけるそうで、 2人以上Aがついたのは受かるんだそうです。 どうしても採りたく ないEには、 5番とか7番の奴がいる。 どうして採りたくないか。 面接したって、 天井の端っ こをずっと見ながら、 答えは頭が良いからするんです。 後は下をずっと見たり、 机の何かをずっ と見ているとか。 つまり、 オタクと言うか、 パソコンばかりやっているような人です。 こいつ と一緒に仕事したくないな、 とかあるでしょ。 それはまあ、 複数がEをつけた場合は、 相性の 問題もありますが、 成績の良い奴の中からこういうのが出てくる。 成績はもちろん良くなきゃ 駄目ですが、 それだけでは社会で通じない。 ここが難しい。 これが今の日本です。 (配布したレジュメの) この2005年の日本の人口地図を見て頂いてよろしいでしょうか。 今、 これでもって2055年の人口地図を作っています。 秋田県の人口は半分以下になって、 もっと減っ てしまいます。 今、 秋田県は113万人。 日本は、 1億2770万人。 2035年、 秋田県は78万人。 日 ― 59 ― 本は1億1000万人。 2055年、 (ホワイトボードに書き込んで) こういう感じになります。 2035 年に78万人で、 2055年の人口はこの減り方でいくと40万人くらい、 下手をすれば35万人。 2055 年の日本全体は8890数万人、 今の人口の約3割、 およそ3600万人減少する。 ここの部分をどっ かで止めなきゃいけない。 これを、 この秋の中心テーマにします。 もちろん政局もやりますが。 これからの約50年間で、 これくらい変わるという事です。 これが、 今の2007年だという風に考 えています。 これから秋田県は約30年間で35万人減るんです。 この20年間でほぼ同じくらい減 りましたから、 このテンポで行くと40万人をきるくらいまでいきます。 どんどん加速的に減り ます。 先程言ったイオン。 今までは郊外型出店が多かったのですが、 アメリカはタウン方式と言っ て、 日本でも街の真ん中の商店街や駅前の活性化のため、 「まちづくり3法」 で郊外への出店 を規制するようになりました。 また、 昨日からのニュースでガソリンの価格が高くなったとあ りましたが、 間違いなくもっと高くなるでしょう。 将来的には、 自動車で郊外にのんびりと行 くのはなくなるような気がします。 それが分かれば、 イオンは街の中に戻ってくると思います。 あそこは感が良いから。 それで、 街の真ん中に中低層でバリアフリーのケア付きマンションを 造ってみようとする。 ところが、 我が日本国は農耕民族だから、 生まれ育った中山間地域をな かなか離れる事が出来ない。 あの新潟中越地震の時には、 山古志村の人口は2800人が2000人を きりましたが、 ほとんど戻りました。 5月に田植えにも行ってきました。 だけど、 やっぱり無 理です。 残ったのは私より年齢が上の方です。 「先生、 俺たちここで死ぬからな」 と言われま した。 子供達にはもう何も言えない。 そして、 8億8千万円で山古志村に橋が出来ました。 こ れで、 冬にも行けます。 しかし、 人口が480人くらいの地域に、 8億8千万円もかけて橋を作 らなきゃいけなかったのか、 でも作らなきゃ復興は出来ない。 だけど、 8億8千万円があった ら、 街の真ん中の空いているところがたくさんあるから、 看護師付きで温泉付きのマンション か何か造れないか。 この切り替えが出来るかどうかというと、 日本人はふるさとで育った農耕 民族なので、 狩猟民族、 移動民族、 移民してきたアメリカ人とは違う。 アメリカ人はお金があ れば、 フロリダやカリフォルニアの暖かいところに行きます。 街中や駅前の使い方をどうする か。 これから秋は、 県会議員や市会議員や行政関係者を呼んで、 ビジョンを聞いてみると、 皆さ んはがっかりすると思います。 何にもビジョンがないような、 県庁職員や市役所職員がいるか もしれないので。 夏の間は、 県庁や市役所に喧嘩を売ってきます。 そういうのを今、 やろうと いう風に思います。 「スローライフ」 という言葉があります。 何となく、 みんなで楽しく、 の んびりと暮らす。 でも、 人口が40万人くらいになった50年後に、 秋田市以外の小さなところは 相当厳しいと思います。 「限界集落」 という言葉がありますが、 どんどん増えてくるでしょう。 まして、 秋田県は広い。 ノースアジア大学を含めてですが、 この問題をしばらく検討したいと 思います。 それでは質疑応答です。 質問者 国民新党の話が出てこなかったのですが、 意識して外されたのですか。 福 国民新党はキャスティングボートを握りたいという風に、 色々考えてやってみたんですね。 岡 ところが、 おそらく民主党一人勝ちで、 新党日本は田中康夫さんが受かるかどうかで、 1議席 ― 60 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「どうなる政治・経済・日本 ―参院選後の政局を占う―」 がやっとだと思います。 共産党は3議席か4議席。 社民党はおそらく2議席か3議席。 そうす ると、 民主党が60議席くらいで、 自民党が40議席以下くらいになると差が20議席以上開いてし まいますので、 どうやっても、 4議席、 5議席の国民新党ではキャスティングボートを握れな いんです。 それは結果論ですけれども。 おそらく、 頑張っていた綿貫さんや亀井さん達も、 こ こはもう野党のまま行くという風に決めたのが、 ここ1週間ですが、 ちょっと存在感を失って います。 小沢さんは中途半端な政界再編はやらず、 次の総選挙に標準を合わせていると思われ るので、 国民新党の出番がないので、 触れなかったという事です。 質問者 私は、 ここから100㎞くらい離れた北秋田市阿仁から来ました。 うちの方には秋田内陸縦貫 鉄道という鷹巣から角館までの約90㎞を走っている鉄道があります。 今、 赤字で明日、 明後日 にも廃止になるかどうかの瀬戸際にきておりまして、 何かこの内陸線を上手く利用する方法は ないものか、 何かもし名案がありましたら、 お聞かせ願いたいなと思います。 福 岡 人口はどれくらいですか。 質問者 (阿仁地区の) 人口は、 3800人くらいです。 高齢化率が45%。 福 分かりました。 しかし、 現段階では名案はありません。 辛いですけれども、 全国各地でこう 岡 いうケースはいっぱいあり、 能登半島から、 九州の薩摩半島から、 私は4ヵ所くらい10年近く 見てきています。 現場を見ていませんので何とも言えませんが、 そこの人口が3800人で、 そこ で内陸線の周辺領域の人口を足しても、 おそらく5万人とか限られているという状況で私が思 うのは、 夕張を見て、 もうこれは自治体が再建出来ないのでこういうケースは、 国が直轄をす る方が良いと思います。 ですから、 人口が3000人とか、 高齢化率が50%を超えた時には、 国が 直轄をして限られた人数の中で、 例えばシルバーバスとか福祉バスとか、 最低限の足を確保す るのは、 国が全額援助する。 それから、 例えば秋田市とか繁華街に移転するのは、 先程も言っ たように、 秋田市とか大仙市とか大きなところの合併が先にあって、 しても秋田市以外は5年 もたないと思います。 このテンポで行ったら、 人口はどんどん減っていきます。 これは、 何か 国の直轄地にして、 面倒を見るような形にしないと。 今日、 秋田魁新聞に、 国土交通省とかが 島根県でやると書いていました。 私はそのやり方をしても無理なような気がするので、 総務省 の友人に限界集落の再生と地域住民がどのように判断するかは、 新潟県の山古志村とか刈羽村 を見て、 具体的に考えるようにとは言っていますけれども、 ちょっと現状では悲観的な話 し かできないと思います。 質問者 日本の経済は、 世界でも一流と言われていますけれども、 政治の方は前から二流、 三流と言 われてきました。 これは一流に近づきつつあるのでしょうか。 福 岡 政治は残念ながら、 二流から三流に成り下がっているという状態です。 それから、 今日触れ られなかったのは、 株の問題ですが、 サブプライムローンという、 アメリカの低所得者向けの 金利があって、 50万円の月の収入のある人の借金の返済額が65万円だそうです。 つまり、 住専 の時と同じなんですね。 持っている資産が減れば減るほど、 いわゆる金利が8が10になって、 ― 61 ― 10が12になる。 だけど、 ここに来て10数兆円焦げ付き始めて、 野村證券が780億円くらい焦げ 付いたというのが、 数日前のニュースでありました。 昨日と一昨日とこの1週間で1万4千ド ルだった株が1万3200ドルくらいですか、 700ドルか800ドルくらい下がったという、 つられて 日本も一時500円を超す状態なんですね。 これについて、 あるアメリカのファンドから戻って きた後輩が、 「なんで日本人って、 外貨建ての投資信託をあんなにやっているのかな。 円が1 ドル120円なんてない」 と。 せいぜい力関係でいけば、 基本的には日本の経済は悪くないんで すから。 このことを含めて、 トータルな国際戦略と経済戦略も、 あのイラクやイランの問題、 アフガ ニスタンやパキスタンの問題を含めて、 アメリカにべったりだというのは、 どのくらいこの後 辛いのか、 ということですね。 そうなってくると、 経済の国際的な戦略だとか、 いわゆる10年 先の戦略を持ってやっている政治家というのは、 どれくらいいるのか。 それで、 私は自民党と 民主党の大合併が良いと思っています。 野党がなくなっちゃうけども、 消費税も上げて、 アメ リカとのスタンスをちょっととって、 中国やインドときちんとやるとか。 そう考えると一流の 政治家は残念ながらいないし、 むしろ一流に上がるよりも残念ながら三流の方に下がってきて いるという印象を持っています。 それも悲観論ばっかりで、 寂聴先生の本で誤魔化しています けれども、 そういう気持ちです。 質問者 明日の参議院選挙について、 だいたいの傾向は先生のお話で分かりましたけれども、 全国的 に見て天気が投票行動にどのような影響を与えるのかということについて、 先生のお考えをお 聞かせ頂きたいなと思います。 福 岡 29日に投票に行く人達というのは、 相当頭に来ている人達が多いと思うので、 多少の天気が 悪くても、 東京地方は雷が鳴ると出ていますけれども、 1日のうち3時間でも4時間でも曇り の時間があれば、 投票率は55%くらいまではいくという気がします。 もしかして、 2年前の郵 政選挙のように、 67%とか68%いってしまうかもしれません。 もし全国平均が60%を超すよう であれば、 それから秋田市よりも秋田県全体の投票率、 つまり郡部の農村部の投票率が高いよ うになると、 やっぱり自民党にとっては相当厳しい選挙になると思います。 多少の雨と槍が降 らない限りは、 今回は56、 57%くらいまではいくような気がしています。 今日のお話を参考に してみて下さい。 ありがとうございました。 (拍手) 鎌 田 ありがとうございました。 大変、 熱のある、 関心のある題材でございますので、 まだまだ、 ご意見のある方もいらっしゃるとは思いますが、 本日はこれで終わらせて頂きます。 混迷する 政局と言いますか、 また、 先生のお話の中では、 強烈なビジョンを持つリーダーが不足してい るということでした。 しかし、 ちょっと出てきたような感じも致しますが、 「どうする、 日本」 ということで私達にまた課題を与えてくれているのではないかと、 このような感じでお聞き致 しました。 秋にもございますので、 大変期待も高くなって参りました。 もう一度、 拍手をお願 い致します。 (拍手) ― 62 ― 秋田経済法科大学 講 総合研究センター主催 講演会 「大相撲と神」 演 秋田経済法科大学 総合研究センター主催 講演会 「大 相 撲 と 神」 講 師 脚本家・秋田経済法科大学総合研究センター客員教授 内 館 挨 拶 学校法人秋田経済法科大学理事長・学長 秋田経済法科大学総合研究センター長 小 泉 阿 部 司 会 秋田経済法科大学経済学部教授 日 時 平成18年6月27日 午後2時40分∼ 会 場 秋田経済法科大学 40周年記念館 ― 63 ― 271番教場 牧 子 健 時 男 阿 部 (拍手) それでは、 秋田経済法科大学総合研究センターの、 平成18年度前期シティカレッジ 第5回目の講演会を行いたいと思います。 本日の講師は、 皆さんもよくご存知の、 脚本家・内 館牧子先生です。 先生のご紹介は、 本学の理事長・学長であります、 小泉健先生にお願いした いと思います。 ご紹介の後、 ご講演を頂いて、 最後に10分ほど質疑応答の時間を設けますので、 どうぞご質問のある方はお願い致します。 そして、 講演を始めるに当たって、 皆さんもうお気 付きのことと思いますが、 後ろに映像が流れております。 これは、 秋田の学術ネットワークと いうのがございまして、 現在そこで研究開発しておりますインターネットを用いて、 こちらか ら他の大学の授業が聞ける、 またこちら側から発信できるという、 双方向の遠隔講義システム を用いています。 現在、 秋田大学や秋田県立大学の会場に、 今回の講演会の映像が流れるとい うことになっております。 例えば、 向こうで質問があれば、 こちらのほうでも受けることが出 来ます。 このように、 双方向で質問を共有して講義を進められる、 というものです。 それでは 小泉先生、 内館先生のご紹介をお願い致します。 小 泉 ご紹介頂きました小泉でございます。 今日は、 本当にたくさんの方が、 この会場にお見えに なっています。 学生、 それから教職員の方はもちろんですけれども、 秋田市にお住まいのたく さんの方においで頂き、 本当に嬉しく思っています。 今日は念願叶って、 内館先生の、 第1回 目の特別講義でございます。 これは、 先ほど司会の阿部先生がおっしゃったように、 遠隔授業 システムを使って、 秋田大学、 そして秋田県立大学に講演会の様子を発信しています。 そういうことで、 これから先生のお話を伺うことになります。 私のほうからご紹介するまで もないと思いますが、 内館先生は脚本家としてデビューされてから、 皆さんご承知のように、 ひらり 、 毛利元就 といった、 たくさんの有名な脚本をお書きになっておりまして、 脚本 界では、 この部門の文学賞をほとんど一人で総なめにした方でございます。 新聞で先生が東北大学の大学院に入学するということを知りまして、 私は本当に驚きました けれども、 先生は入学されて、 相撲部の監督になられたということです。 それで、 この相撲部 が、 最初は4名しかいなかったそうです。 部員が5名をきってきますと廃部の憂き目にあうわ けですが、 先生は大学院生ですから5人目の部員になりまして、 部員兼監督、 今でいうとプレ イングマネージャーということで入部しまして、 廃部になろうとしていた相撲部を救済した、 名実共に救世主です。 今では大変な人気が出まして、 人数が非常に増えたということを伺って おります。 そして、 先日の新聞で東北大学にも、 とうとう土俵が完成したということを拝見致 しましたけれども、 大変おめでたいことだと思います。 それで、 今日は 「大相撲と神」 ということでお話を伺うことになりますが、 先生の大学院時 代の、 一つの研究テーマではなかったかと思います。 私も今日の午後は予定を入れておりませ んので、 皆様と共に、 この会場で聞かせて頂きたいと思っております。 それでは、 先生にご講 演をお願いしたいと思います。 今日は皆さん、 本当にありがとうございます。 (拍手) 内 館 ご紹介に預かりました、 (拍手) ありがとうございます、 東北大学相撲部監督の内館でござ います。 最近どこに行ってもこれを言いまして、 実は先ほど理事長がおっしゃった通り、 部員 が4人しかいなかったんですが、 現在19人になりました。 それで、 これはひとえに私が東北大 学の廊下を歩きながらでも、 教室の中でも、 男子学生を見ると頭の中で回し姿にひん剥くんで す。 それで、 これはいけるとなるとすぐ拉致しまして、 その結果19人になって、 今ではかなり ― 64 ― 秋田経済法科大学 総合研究センター主催 講演会 「大相撲と神」 良い成績を収めております。 今でも東北大学の相撲部の稽古で、 月に2回ぐらいは仙台に行っ ているんですけれども、 こうして今度、 当大学にご縁が出来て、 私は土崎で生まれたものです から、 ちょっとでも秋田のお役に立てれば嬉しいなと思って伺いました。 それで、 今日はサッカーの話ならきっとたくさんの方が集まって下さると思ったんですけれ ど、 何せ相撲ですから、 どうかと思って心配したんですけれども、 こんなにたくさんの方にお 集まり頂いて、 本当に嬉しく思っています。 若干難しいお話も致しますけれども、 私が東北大 学に出した修士論文をもとにして、 お話ししたいと思います。 とても1回では話し切れないの で、 今日は出来るところまで話していこうと思っています。 まず、 今日ここにお集まりの方も、 やはり勉強したいと思っていらしたということだと思い ますけれども、 私が東北大学の大学院を受けたのは54歳だったんです。 そして、 3年かけて出 ました。 現在57歳なんですけれども、 どうして大学院を受けたかということがあります。 それ も仕事を3年間休みまして、 相撲の研究に行くっていうことを決めたんです。 何のためにそん なもの研究するんだって思われる人が、 私の周囲にもずいぶん多かったんですけれども、 相撲 については、 私は4歳からオタクなものですから、 すごくよく分かるんですが、 相撲は非常に 特殊なスポーツです。 それで、 強ければ良いというわけにはいかないんです。 例えば、 相撲で は 「心技体」 と言われますけれども、 「心」 が 「技」 や 「体」 より一番上にきているんですね。 これは、 プロスポーツではちょっと珍しくて、 普通は技や体だろうと思うんですけれども、 相 撲の場合は 「心」 が一番上にきます。 相撲は、 本来は心技体ではなくて、 心気体だと言われる ぐらいのスポーツなんです。 それで私は、 どうしてもその相撲のことをしっかりと勉強して、 ある理論武装をしなければいけないという思いがあったんです。 すごく前になるんですけれども、 きっかけは政治家の森山官房長官です。 昭和53年 (1978)、 まだ私は、 横綱審議委員でもなければ普通に会社勤めをしていたんですけれども、 その頃森山 さんは青少年室長でしたが、 森山青少年室長が立ち上がったわけです。 何について立ち上がっ たかというと、 女性を土俵に上げないのは差別であるということを言いました。 それが、 昭和 53年 (1978) のことなんです。 これは、 森山さんがご自分で土俵に上がるということではなく て、 全国でちびっ子相撲がありますが、 東京都の荒川区というところで、 準優勝したのが小学 校5年生の女の子だったんです。 それで、 準優勝は全国から国技館に集まって、 国技館の本土 俵で全国大会に出られるんですが、 相撲協会はノーと言ったわけです。 女は子供であろうと、 国技館の土俵には乗ることは出来ないということでノーと言って、 結果、 その女の子は区予選 で準優勝しながらも上がれなかったわけですね。 それに怒ったのが森山さんでした。 それで、 相撲協会の二人の親方をご自分のところに呼びまして、 これは何故だということを詰め寄りま した。 相撲協会はその時に、 「伝統ですから」 とか、 「女は上がれないことになっています」 と いうことで答えているわけですけれども、 森山さんが、 「それならば、 もし私が官房長官とか 内閣総理大臣とかになったならば、 どうするおつもり?」 ということをおっしゃったそうです。 相撲協会はその頃の新聞によりますと、 「そんなことはないでしょう」 というニュアンスの答 えで、 帰っていきました。 それで、 一件落着したと思ったわけです。 ところが、 平成2年 (1990) になって、 森山さんが官房長官になってしまいました。 それで、 いよいよ彼女は、 ある意味リベンジですけれども、 「内閣総理大臣杯を私が土俵に上って優勝 力士に渡します」 ということを言ったわけです。 本来、 内閣総理大臣杯は内閣総理大臣が授与 するものです。 ですから、 貴乃花に渡した小泉総理が 「感動した」 と言ったのがそれなんです。 ― 65 ― ところが森山さんは官房長官ですから、 だいたい官房副長官なんかが代理で渡すケースが多い ので、 官房長官が、 「私が代理で渡します」 と言っても問題はないんです。 そうしましたら、 相撲協会が非常に焦って、 これは困ったということになったわけです。 そして、 その時の総理 は海部さんだったんですけれども、 海部さんが、 もしも 「いや僕があげますから、 あなたは引っ 込んでらっしゃい」 と言えばそれで済むことだったんですが、 海部さんはそれをおっしゃらな かった。 あくまでも私の考えですが、 世の中の風が、 女の人を土俵に上げないのはやっぱり差 別だという方向に吹き始めていたせいもあっただろうと思います。 平成2年ですから、 ひら り を書く2年前です。 それから、 森山さんは結局ダメだということで折れて、 土俵には上り ませんでした。 以前から森山さんの場合は、 女性はプレイ出来ないゴルフ場でプレイしたい、 それは差別だというようなことが何度かあったりしたものですから、 私はそういうことがまた 始まったかな、 と言うレベルで考えていたんですが、 その後、 今度は動きが少し大きくなって きました。 まず、 2001年3月に、 太田さんという女性が大阪府知事になりました。 それで、 3月場所に は大阪府知事杯が必ず授与されるんですけれども、 これは府知事の仕事です。 ですから代理で も何でもなくて、 太田房江さんが土俵に上って渡すというのは、 公務としては当然のことなん です。 それで、 太田房江さんが、 私が上がって優勝力士に大阪府知事杯を渡しますということ を言いました。 先に申し上げておきますと、 私は土俵に女の人が上がる必要はないと思ってお ります。 女の人が土俵に上がる、 上がらないということが、 男女差別とイコールではないと思っ ているんです。 ところが、 太田さんが上がると言った。 そして朝日新聞の2001年3月1日付け に、 太田さんがコメントを発表しています。 どういう風に言ったかと言いますと、 「男女共同 参画は大きく進んだ。 多くの女性の実績と、 男性側の理解によるものである。 神事や伝統文化 においても、 多くの人が疑問に感じている問題を解決することは可能なはずだ。 それがグロー バルスタンダードにもなることだと思う」 ということを発表しているわけですね。 それから、 「21世紀は女性の時代である、 協会が新しい形を目指すのに良い時期だ」 ということを、 太田 さんが2001年と2003年に、 2回発表しています。 私はそれを読んだ時に、 ある危険を感じたん です。 それが結果的には、 東北大学を受ける1番の理由になったんですけれども、 伝統だとか 文化だとか、 それから宗教的なこと、 お祭り、 そういったことにまで全て男女共同参画を取り 入れて、 べったりとならして良いものだろうかという懸念がすごくあったんです。 そして、 そ れをやってしまうと文化が痩せ細ってしまうのではないかという気が致しました。 実は最も危険なのはグローバルスタンダードという言葉なんです。 グローバルスタンダード というのは、 地球標準、 世界標準というか、 ある一つの標準を作るということですが、 それは 大事な部分もあります。 ただ、 各国のネイティブなものに関してまでグローバルスタンダード を取り入れるという太田さんの感覚は、 私には考えられない。 フランスでもイギリスでも、 ど この国でも、 大事に自分達が守ってきた文化や伝統を、 世界標準に当てはめて変えようとする かどうか。 私は多分、 しないという国のほうが多いんじゃないかと思ったんです。 ところが、 太田房江さんは 「21世紀は女性の時代だし、 協会が新しい形を目指すのに良い時期だ、 男女共 同参画がグローバルスタンダードにも沿う」 ということを言ったんです。 すると世間から、 どんどんそっち方向の意見が出てきたんです。 例えば、 ある女性学の専門 の助教授が、 すごいことを言っています。 朝日新聞の2001年3月29日付けに書いていますが、 「私は相撲の歴史については全く無知だが、」 はっきりこう書いてるんです。 「全く無知だが、」 ― 66 ― 秋田経済法科大学 総合研究センター主催 講演会 「大相撲と神」 と前置きした上で自説を展開して、 最後に 「繰り返して言うが、 問題の核心は伝統ではなく、 公務の遂行をいかに保障するかということである」 と結論づけていました。 相撲の歴史や相撲 については全く無知であるという人が、 女性を土俵に上らせるかどうかという、 いわば相撲が 核として守ってきたことに対して、 これだけの断言をしてしまうんですね。 これは怖いなと思 いました。 また、 鳥取県の倉吉市の市長が、 その後の2003年2月5日に、 相撲について言って います。 これはどういうことを言っているかというと、 倉吉市では、 女子小学生が相撲大会の 土俵に上がっていることや、 神社の祭りで女性みこしが盛んな点を挙げ、 「女性が土俵に上が れないのは根拠がない、 男女共同参画を考えると改善されるべきだと、 熱く話した」 と書いて あります。 これを熱く話すのは非常に危険なんです。 というのは、 この方も全く相撲を分かっ てないわけです。 女性はですね、 国技館の土俵には上がれないんです。 そして名古屋・大阪・ 九州の本土俵にも上がれないんです。 でも、 例えば東北大の土俵は女の人も上がれます。 それ からあちこちの神社でも、 女の子が上がれるから予選が突破出来たわけですね。 女性みこしだっ てもちろん担いでますし。 つまり彼らは相撲について全く分かっていないんだけれども、 男女 差別であると、 男女共同参画の時代であるということを断言しているわけです。 そしてさらに、 怖い文章があったんです。 ちょっと遡りますが、 1990年の1月6日に、 朝日 新聞がこういう記事を出しています。 「表彰式に女の人を土俵に上げるくらいで、 大相撲の良 さが消えるとは思わない。 男女平等という人類の理想が定着するよう協力してもいいはずだ。 いわれない迷信を追放するために。」 人類の理想が定着するようにって、 大上段に構えて、 「い われない迷信を追放するために」 でまとめる叙情性、 すごいですよねえ。 ところが、 このいわ れない迷信っていうのは、 女性は不浄だっていう部分ですね。 それに関しては、 多分次回のお 話になると思いますけれども、 こういう動きが進み始めたわけです。 この風潮を、 私は非常に怖いなと思ったわけです。 国技ということに関してほとんど知識が なくて、 相撲の場合は5世紀からあったと言う説もありますけれども、 相撲協会では1350年ぐ らい続いているとしています。 1350年の相撲、 それから歌舞伎、 能、 お茶、 香道、 どういうも のであっても、 日本的な伝統文化の世界というものを断つことに対して、 あまりにも政治家や 学者は畏れがなさすぎるという気がしました。 それで、 例えば相撲でいきますと、 土俵が出来たのが1699年頃といわれています。 それより 前は、 土俵はなかったんですね。 それで、 1699年頃に土俵が出来てから現在までの間、 女の人 は上げないということで、 必死に男達が守ってきたわけです。 それで今、 男女共同参画の嵐が 吹いて、 世の中がそうだそうだと言って、 そっちの方向に行ったとします。 そうした時に、 例 えば大阪府知事であれどなたであれ、 表彰状を持って土俵に上がった。 上がったという段階で、 1699年から守ってきたものというのは、 一度そこで途切れるわけですね。 そして、 太田さんで あれ森山さんであれ、 どなたであれ、 上ったということでもう大騒ぎになると思います。 新聞 には書かれ、 テレビには出て、 大騒ぎになる。 それで、 ああ、 これで私はとにかく男女共同参 画のひとつの働きをしたわ、 ということになって、 次からは男の副知事、 男の代理人が渡した りする。 そうなると、 たった一度だけ上ったということで、 伝統は途切れてしまうわけですね。 そして、 途切れてしまったものっていうのは戻せないんです。 それに対して私は、 途切れてももちろん良いと思っています。 ただ、 それは守ってきた当事 者が決めることであり、 外部の人間が口出しすることではない。 1699年から守ってきた当事者 が、 もうそういう時代ではないから女の人も上ってくださいと、 それから力士も髷を切りましょ ― 67 ― うと、 それからプロレスやボクシングのように、 音楽にのって力士が入ってきてもいいじゃな いか、 それから、 回しはもう時代遅れだからパンツにしましょうといったことを、 例えば守っ てきた当事者が、 ある判断のもとに決定を下すというのであれば、 それは一つの改革だと思い ます。 ですから、 そこで途切れても良い。 私はしょっちゅう相撲見に行っていますが、 土俵に 乗せろという女政治家と国技館で会ったことはないんです。 相撲をほとんど見たことがなく、 白鵬と豪風の区別もつかないような政治家が土俵に上がらせろというのは、 これは横暴です。 まして伝統文化が途切れるということに関して、 何の畏れもない。 これは、 私は非常に危険だ と思いました。 それで、 決して相撲協会に頼まれたわけでも何でもないんですが、 今後、 そのわけの分から ない人達がわけの分からないことを言ってきたならば、 私ががっちり理論武装して、 引き受け て立ちましょうと。 それで北の湖さんに、 私が頑張りますからその時は呼んで下さいって言っ たんです。 その後で慌てて受験勉強をしまして、 決して裏口ではありません、 表からちゃんと 東北大学に入りました。 面接の時に、 ちょっと迫力がありすぎたので、 教授が入れてくれたか な、 という懸念は無きにしもあらずなんですが。 とにかくそういうことで、 相撲をきっちりと 勉強しておきたいというのがあったんです。 そして勉強した結果、 もしもやはり私の考えは間 違っていたと、 男女共同参画があって、 男でも女でも子供でも、 みんな上っていいではないか ということになったら、 それはそれで構わないと思いました。 それで、 東北大学の文学研究科というところの宗教学に入りました。 ここからが今日のテー マなんですけれども、 宗教学に入った理由は、 大相撲は神事が原点なんですね。 もともとは五 穀豊穣を祈って、 果たして今年は米の出来が良いだろうか、 悪いだろうかっていう、 年占とい う占いを含めて、 神にお願いする部分が相撲の原点だと言われています。 神事が原点だというのは、 相撲協会がきっちり守っているわけですね。 私は1年半ほど、 論 文を書くために相撲教習所というところに通ったんです。 相撲界は非常に組織がしっかりして いまして、 昭和32年に相撲教習所を作りました。 ここには相撲界に入ってきた新弟子が全員、 6ヶ月間入れられるんです。 これは有無を言わせません。 とにかく全員入れられるんです。 そ して外国人の力士でも、 一切通訳はなしです。 それで、 私が通っている間に把瑠都が来ていま した。 把瑠都はエストニアの出身ですけれども、 実はその時エストニアから二人来ていたんで すね。 着物を着て、 全く日本語が分からないのに、 昨日今日着いたエストニアの少年が二人入っ ていたんです。 けれど一人逃げてしまったんです。 そして結果的に把瑠都だけが残った。 把瑠 都は、 こんにゃくの煮付けやがんもを食べたりしながら頑張って、 今の地位を築いたんです。 私はジーコが日本語をしゃべれないのを見て呆れたんですけれども、 相撲界の外国人はペラペ ラです。 絶対通訳を付けないからです。 教習所では相撲史、 運動医学、 憲法、 そういったことを全部教えます。 その他にも、 相撲の 実技も教えるわけです。 そこでもうはっきりと、 新弟子に相撲は神事が原点であると、 五穀豊 穣を祈る祭り事が原点であったということを教えているわけですね。 各学科とも、 いろんな大 学の名誉教授クラスの先生がいらして教えています。 神事が原点だと分かると、 心技体の心が 上だということも、 分かると思います。 つまり、 一番上に心がくるということから、 単なるス ポーツではないんだなということですね。 それから勝ち方が汚いと、 三賞ももらえないんです。 割と最近の例では、 栃東が12勝したの に三賞をもらえなかった。 それについて、 大橋巨泉さんが怒りの文章を書いていました。 それ ― 68 ― 秋田経済法科大学 総合研究センター主催 講演会 「大相撲と神」 で、 「どんな勝ち方でも勝ちは勝ちじゃないか、 何を相撲界は格好付けてるんだ、 いっそ体重 別にしろ」 というようなことを書いていらしたんですけれども、 それはもう大きな間違いでし て、 何故栃東が三賞をもらえなかったかと言うと、 今からもう4年ぐらい前の話ですけれども、 立ち会いと同時に変わるんですね。 それで、 ぶつかりあうと見せかけて変わって、 相手がばたっ と手をつく。 それで幾つか勝っているんです。 これに三賞選考委員会でクレームがついたわけ です。 成績では確かに星は上がっているが、 賞には値しないと。 まして大関だろうと。 逃げて 勝つっていうのは、 やっぱりこれは勝ち方としては汚いと言われるわけです。 これもですね、 神がいる土俵でやるべきことではないということもあるのでしょうね。 そして例えばですけれども、 すごく体の小さい海鵬ですとか、 それからまあ、 豪風もそうで すね。 ああいう体の小さい力士が、 曙のような力士との立ち会いと同時にひらりと変化して、 曙がばたっと手をついたというような時は、 それほど言われないんです。 ところが、 対戦相手 が自分よりも番付が下の力士であったり、 自分よりも体が小さい、 つまりハンディキャップを 背負っている力士であったりするのに変化したということを、 角界では非常に嫌います。 それ で、 栃東がもらうことが出来なかった。 それからもう一つ、 私は横綱審議委員になって、 まだたった一人しか審議していないんです が、 それは朝青龍です。 朝青龍が横綱になった時に厳しい条件が付けられました。 一応満場一 致で推挙したんですが、 もろ手を挙げてではないんです、 厳しい条件が付いているんです。 そ の条件というのは、 精神面が良くない、 態度が悪い。 この態度と精神面の教育を、 師匠にきち んと責任を持ってもらいたい。 その教育が出来るという約束があれば、 横綱にしましょう、 と いうことだったわけです。 それで、 師匠は約束しますと言って、 約束しました。 ところがどう だったかというと、 やっぱりいろいろ問題は起こしているわけです。 それで、 精神面の条件付 きというのも、 これもやっぱり神事に根ざしているから、 土俵には神がいるということからき ていると思うんです。 こう考えていきますと、 私は土俵の、 相撲の勉強をしようと思った時に、 どういう切り口で いったらいいかっていうことを考えたときに、 これは相撲に限らずですけれど、 私達の生活全 般の中に、 変革しても良い部分と、 守り抜かなければいけない部分というのがあると思うんで す。 ここを間違うとガタガタになるんですね。 つまり大相撲の場合は、 どこを変革して、 どこ を変革しなくてもいいのかということです。 例えば、 過去は部屋別総当りなんてなかったわけ です。 5つの大きな部門があって、 その部門別に当たっていたんですね。 ですから出羽海一門 の力士は、 出羽海系の部屋の人とは当らなかったんです。 ところが、 今は全ての力士は部屋別 で当たる。 ですから、 二子山部屋と二所ヶ関部屋っていうのは、 本当は一門ですから当たらな いんですが、 今では当たるようになった。 これは、 私は神とか神事ということと関係がないの で、 スポーツ性を考えて直しても構わないだろうとやったことだと思います。 つまり、 結局神に関わる部分、 協会が一番核として大事にしている部分は、 手を入れてはい けないのではないか。 神に関わらない部分はどんどん変革して、 時代に合わせたら良いのでは ないかということに、 考えが至ったわけです。 それで、 さあ神に関わる部分というのを、 どの 切り口で切っていったら良いだろうかっていうことを、 国分町でお酒を飲みながらいろいろ考 えました。 その結果、 行きついたのは、 「結界」 ということだったんです。 これは界を結ぶということ ですね。 今やこの言葉はかなり死語に近くなっていますけれども、 この結界というのは非常に ― 69 ― 面白いものなんですね。 それで、 もともとはどういうことかと言いますと、 仏教徒や山岳宗教 の人達が、 修行のために一定区域を区切ることなんです。 それで、 そこに障害となるものが入 ることを許さないこと。 そして、 聖域と俗域を区別するために区切ることなんです。 ですから 例えば、 一番簡単な例で言えば土俵ですけれども、 土俵は円形に作られています。 それで、 そ の下にお客さんがいるわけですけれども、 この土俵は、 俵で区切られた聖域なんですね。 つま り、 俵が界を結んでいるわけです。 俵なんか踏み越えるのは簡単なんですけれども、 俵で界を 結んでいる、 結界であるということなんです。 実際には俵ですからピョンと入れるんですけれ ども、 この中には簡単に入ることが出来ないという約束なんですね。 これが私の研究テーマだっ たんです。 それで、 これを調べていくと非常に面白くて、 日本文化のすごさっていうのも分かってくる んですけれども、 まず1回目の講義としましては、 この結界の話を相撲に絡めてお話します。 そうしますと、 この後おそらく7月場所をテレビで見る時に、 ああ、 これが内館さんの言って いた結界だとか、 ここに神がいるんだいうことが、 すぐお分かりになると思います。 そうする と、 白鵬と朝青龍の勝負だけではなくて、 その周囲がすごく面白くなってくるんです。 それで、 まず結界というのは、 いろんな様式がありますが、 今日はとりあえず非常に分かり やすい二つの例をお話します。 一つは建築的結界。 これは、 垂水稔さんという有名な学者が分 類したものなんですが、 建築的結界というのがあります。 それから、 もう一つは装置的結界と いうのがあります。 この装置的結界というのは、 垂水さんよりももっと前に、 伊藤ていじさん という有名な建築家が、 やはり結界に興味を持って分類されたものなんですけれども、 これが 非常に面白いんです。 建築的結界というのは、 建築的な様式を持ったものです。 つまり、 簡単には破れない壁、 城 壁もそうです。 ポーンと俵のように跳び越えられないんですね。 がっちりあるわけです。 例え ば皇居のお堀なんかも、 私は一つの建築的結界だと思っているんですが、 あれもそう簡単には 跳び越えられないものです。 それから、 有名なところでは万里の長城。 これも簡単には入れな いものです。 そういったものは、 全部建築的結界で、 簡単には入れないものなんです。 ところが、 調べてみますと建築的結界というのは、 日本では非常に少ないんです。 これが日 本文化のすごいところなんですけれども、 ないと言ってもいいぐらい少ないです。 ところが、 装置的結界というのが、 日本ではものすごく多いんです。 装置的結界は、 建築の ようながっちりした壁面だとか、 区切りっていうのを持っていないんですね。 簡単に、 ピョン と跳び越えられるような道具で区切られる。 だけれども、 それははっきりとした結界であると いう約束のもと、 万里の長城にも等しい力を持つというものなんです。 土俵の俵もそうですね。 土俵の俵は、 丸く20俵で結界しています。 丸い土俵の外を四角く囲んでいて、 この角俵ってい うのは28俵あるんですけれども、 簡単に跳び越えられます。 だけれども、 これは跳び越えては いけないものなんだと、 万里の長城と同じぐらい力を持つものなんだっていう約束ごとを、 過 去の日本人はしっかり認識してたわけです。 それで、 これはある親方から直接聞いた話で、 論文には書きましたが、 しゃべるのは初めて なんですけれども、 ある女性政治家が、 「今なら誰も見てないから土俵に乗っけてよ、 乗って みたいわ」 と、 親方に言ったそうです。 で、 親方はぶるぶる震えて、 「てめえ、 塩持って来い」 って、 「若いの塩持って来い、 こいつにぶっかけろ」 と言ったと言うんですね。 結局その女性 政治家は、 この結界が万里の長城のようにしっかりしたものであるという認識が、 全く出来て ― 70 ― 秋田経済法科大学 総合研究センター主催 講演会 「大相撲と神」 いないわけです。 ところが昔は、 決してそんなすごいポジションにある人じゃなくても、 本当 に士農工商の時代の、 一番下にあったような人達でも、 きちっと分かっていたわけです。 この装置的結界というのは、 他にどういうものがあったかと言いますと、 非常に無防備な結 界なんですね。 例えば、 芸者さんがお客様と自分との間にお扇子を置いてお辞儀をする。 この 扇子というのは結界なんですね。 こっちから向こうはお素人さん、 こっちから手前は芸者、 玄 人ですという結界なんです。 ですから、 扇子一本でも別世界で簡単に跳び越えられないんです。 それから、 日本の場合すごく面白いのがお箸です。 ご飯を食べる時、 和食のレストランに行っ てもですけれども、 必ずお箸というのは、 箸置きに横に置かれています。 ところが、 お考えに なるとすぐ分かる通り、 西洋はナイフとフォークが縦に置かれて、 その前に人が座るわけです。 それで、 日本食の場合も横置きの箸の前に人が座る。 中国の場合どうかというと、 お箸は縦に 置くんですね。 日本では、 お箸というのは、 頂く側と授ける側というか、 頂く側と食べ物を下 さる側の結界になっているわけです。 それから例えば、 盛塩というものがあります。 盛塩は、 どこかそういう割烹なんかに行くと、 必ず盛塩がしてあります。 あれも、 清めましたよ、 中は もう清らかですよということを示しているわけです。 それから、 暖簾も結界です。 例えば舞台 を見に行った時に、 誰か俳優さんの楽屋を訪ねて行くとします。 この入り口には、 名前が書か れた暖簾が下がっています。 簡単に入れるんですけれども、 この暖簾が下がっている以上、 ぱ あっと暖簾をくぐって、 ズカズカと入って行けないんですね。 やっぱり暖簾の手前で、 ある仁 義を通す必要がある。 会いたいんですがいかがでしょうかというようなことを、 お付の人に言っ たりするわけです。 そういう意味では、 日本は明らかに結界というのが装置で示されているん です。 無防備で簡単に乗り越えられるけれども、 決してそれは簡単ではないという約束事なわ けです。 装置的結界というのは、 日本ではまだまだたくさんあります。 茶室の造りなんていうのは、 ほとんどが装置的結界なんですね。 ところが、 装置的結界をだんだん理解出来なくなってきた 日本人がふえているわけです。 今、 実際に相撲で問題になっているのはですね、 名古屋場所と 大阪場所で、 表彰式も全部済んだ後で、 シャベルを持って、 男と女が一気に土俵に上るんです。 それで、 土俵俵を掘り起こして持って帰ると言うんですね。 これをですね、 地元のテレビが恒 例行事として紹介したというので呆れるんですけれども、 あそこは聖域ですから上ってはいけ ないんです。 ただ、 協会は渋い顔をしながらも、 もう神様を送り出した後だから、 単なる土俵 というか、 地べたになっているからどうぞということで、 見逃しているということがあります。 この装置的結界というものを生み出した日本人というのは、 たいしたものです。 がっちりし たものではないのに、 入るわけにはいかないという意識というのは、 大変な高尚な文化なんで す。 例えば、 結界石というのがあります。 高野山ですとか、 ああいうところに行きますと、 女 人結界と書いた結界石が立っています。 そうすると、 ここから先は女の人は行けないというこ とを、 昔は誰もが分かっていたわけですね。 それの善し悪しについては、 次回説明します。 そ れからですね、 牛馬結界というのもあったんです。 そうすると、 馬を引いたり牛を引いたりし てきたお百姓さんが、 牛馬結界石を見れば、 ここから先は牛や馬は行っちゃいけないんだなっ ていうのがすぐに分かって、 それを守ったと。 でも、 こんな四角い石が立っていたところで、 単なる石柱ですから、 簡単に行けてしまうんです。 それでも、 行かないという心があった。 その心を、 伊藤ていじという、 装置的結界という言葉を編み出した先生が、 「心のけじめ」 と呼んでいます。 つまり、 これは越えてはいけないんだ、 簡単に越えられるけれど、 越えては ― 71 ― いけないんだということが分かるということは、 心にきちんとけじめをつけるという気持ちが あるからである。 日本人は、 そこが非常に優れていたということを言っているんですね。 それで、 昔ですけれども、 西洋から日本に来た人がびっくりするのは、 どうして田んぼに垣 根がないのかということです。 日本の場合は、 確かに田んぼに垣根はないんですね。 西洋の場 合はがっちり垣根を組んでいる。 一つには、 猪、 鹿、 熊、 そういったものに食い荒らされると 困るので、 垣根を組んでいたわけです。 それで、 日本は今でもそうですけれども、 田んぼや畑 にほとんど垣根がない。 これはどういうことだって西洋人は聞いたそうです。 そうしましたら 日本人は、 いらないよ、 添水唐臼があるじゃないかと言ったんです。 添水唐臼っていうのは水 を受けた竹が上下して、 カタンカタンと音をさせるものです。 その音によって、 猪や熊などは 逃げて行くであろうということを言っているわけです。 ところがよく考えてみれば、 凶暴な熊や猪が、 カタンカタンというひそやかな添水唐臼の音 で逃げていくとは到底思えないんですけれども、 それでも日本人の場合は、 食い荒らされるこ とよりも、 風流を重んじたというところがあったわけです。 その他にですね、 例えば障子の光。 ぱあっと陽が照ってくるよりかも、 障子の光を通して見 たお日様が美しいとか、 それから障子の光の向こうにある柿の木が、 すごくシルエットがきれ いだったとか、 そういったものを日本人は、 やっぱりすごく好んだわけですね。 それで、 例え ば隔簾梅という言葉があります。 梅を見る時に、 梅の花を直接見るのではなくて、 御簾を下げ て、 御簾を隔てて梅を見る。 御簾を隔てて見た梅というのが、 実は一番美しいんだということ を、 決して学問も何もなかった当時の日本人は分かっていたわけです。 分かっていれば、 誰も 見てないから土俵に乗っけてよという言葉は出て来っこないんですね。 どうして日本では建築的結界が育たないで、 装置的結界が育ったのだろうかということにつ いて、 もちろんいろんな説があるんです。 いろんな説があるんですけれども、 一つだけ紹介し ますと、 風土だろうと言われています。 つまり、 この穏やかな日本の風土というものが、 日本 人を非常に穏やかにしたと。 そして、 いとをかしの世界にまで純化させていった。 これは、 風 土というものは非常に大事であるっていうことを言ってるわけですね。 それで、 その風土に関 して、 かなり刺激的な文章があります。 これは、 立原正明の 風景と慰藉 という、 今は絶版 になっている本の中に書いてある文章なんですが、 これはちょっと、 立原じゃないとここまで 書けませんね。 非常に面白かったんで、 私は論文の中に使ったんですけれども、 ちょっと長い のですが読みますね。 立原は次のように書いている。 「闘牛は形式美の範疇に入り、 多分これ はスペイン人の感性が生み出したものだろう。 おびただしい牛の血が流されながら、 それが残 酷に映らなかったのは、 スペインという風土のせいだったのか、 それとも観衆の熱狂のせいだっ たのか。 私がヨーロッパを歩きながら考えたのは、 何とここに住んでいる人達は動物的だろう ということだった。 日本は神なき社会と言われているが、 考えてみると、 この水と緑の豊かな 風土で、 どんな神が必要なのだろう。 スペインを歩いて半年後に、 私はエーゲ海で過ごした時、 切実にこのことを感じた。 言葉のレトリックのまやかしに、 ごまかされてはいけない。 推論で はなく、 いつか誰かがこのことを証明する必要があるだろう。」 つまり何を証明するかというと、 この水と緑の豊かな風土で、 どんな神が必要なのか。 その 続きがあります。 「一夜フラメンコを見た。 何とも野蛮な踊りであった。 つまり闘牛と同じで、 フラメンコに は血の匂いがし、 洗練された形が欠けていたのである。 闘牛はその場に居合わせるとすこぶる ― 72 ― 秋田経済法科大学 総合研究センター主催 講演会 「大相撲と神」 爽快だが、 一旦そこから離れて眺め直すと、 要するにあれが文明国のことではないということ が、 はっきり分かってくる。 私はフラメンコを見ながら、 能舞台を思い浮かべ、 ああ、 あの静 謐な舞台には紛れもない美がある、 あれほど確かなものはないと、 再び日本を再発見していた。」 さらに続きがあります。 「ギリシャを歩いているうちに、 不思議なことに気付く。 この国には影がないということで ある。 これは何もギリシャに限らず、 地中海沿岸の風土全てに当てはまることだろうが、 もち ろん樹木がないせいである。 では何が見えるかというと、 自分の影である。 もちろん樹木があ るところにはあるが、 しかしギリシャ全体から見たら、 その占める値は極めてわずかである。 草木のない岩山とか、 明るい太陽の下で、 自分の影しか見えないとなると、 人間は一体どうい うことになるのだろう。 まず、 繊細な精神はここでは育たない。 前に私は、 障子の美しさとそ こに庭の木の影が揺れることについて述べた。 事実、 私達は日本にいると、 どこに行っても影 を見ることが出来る。 この影が、 繊細な文学を生んできたと言っても良い。 ことに、 中世の文 学は影が作り出した文学であると言っても良い。 ところがこの影は、 形がはっきりしない。 明 確ではない。 夕日の影ぞ壁に消えゆく、 の影である。」 夕日の影が言うなれば、 壁の中に消えていったということですね。 「ここには、 私達の内部に生じた感情が外部の対象に帰する柔らかい心的権利であり、 これ は実に繊細な投影図である。 ここには理論的な形が1つも見られない。 夕日の影が壁に消えて いっても、 ヨーロッパ人なら別な表現をするだろう。 壁に消えていく影は、 私には余情である。 この余情が、 ヨーロッパを歩いていても見つからないから、 私はすこぶる困った。」 ということを書いているわけです。 そしてまだ続きがあって、 「闘牛で殺戮された牛は、 あくる日のマドリードの市民の食卓に上るということだった。 私 は何か、 西欧の貧しさを見た思いがした。 闘牛は過酷なショーであった。 緑のない南ヨーロッ パで、 人間がいかに動物的に歴史を積み重ねてきたか、 それをまざまざ見た思いがした。」 ということを書いているわけです。 これを読むと、 日本の風土というのは、 神なき風土です けれども、 緑や水そのものが神であり、 そして人は一神教ではなくて、 お日様にも、 刀にも、 櫛にも、 髪にも、 いろんなものに神が宿っているという風に考えたという、 日本の文化という のが分かってきます。 そして、 そういう状況であればこそ、 この装置的結界というのが、 非常 に発達したわけですね。 おそらくヨーロッパの人達は、 目の前に扇子があってもポーンと行く。 塩が盛ってあっても、 ポーンと跳び越えるということをするだろうという気が致します。 そして、 この他にも、 実は結界ということに関する分類はいろいろあるんですけれども、 と りあえずはこの二つを思いながらテレビで相撲を見て頂くと、 大変に分かりやすいと思います。 相撲には、 たくさんこの装置的結界が残っています。 まず相撲は歴史を考える時に、 先ほど申 し上げたように、 1699年、 これは諸説あるんですけれども、 協会がこの説をとっています。 1699年に土俵が出来て、 その前までは地べたで取っていたわけですね。 その前から、 既に現在 の相撲に残っている動きや、 それから伝統というのが出ています。 その一つの例で言いますと、 花道ですね。 花道というのは、 土俵につながる東西の道です。 西の花道と東の花道なんですけれども、 花道から力士は歩いて入ってきます。 そして、 力士は 入ってくると、 土俵下に勝負審判が座っているわけですが、 勝負審判に一礼して、 隣の座布団 に座って出を待つわけです。 相撲界ははっきりした格差社会ですから、 幕下から下は座布団が ありません。 上になると座布団に座れるわけですね。 この花道というのがいつ出来たかという ― 73 ― ことなんですが、 はっきりしないんですけれども、 平安期だと言われています。 これは、 非常 に面白いんですが、 神代の時代、 野見宿禰や当麻蹶速といった人達が相撲を取っていた時代の 相撲はですね、 「日本書紀」 によると、 仕切らずに立ったまま、 互いに手を取って、 そこから もう蹴飛ばすのもあり、 何でもありだったようなんです。 ですから今で言うと、 K―1や総合 格闘技に非常に近いものがあるんですね。 それで、 神代の時代の相撲では当麻蹶速が負けたわけですけれども、 どうやって負けたかと いうと、 野見宿禰に腰を蹴飛ばされて、 腰の骨を折ってしまったんですね。 それが未だに 「腰 折田」 という地名として残っているというんですけれども、 それぐらいの激しい死闘だったわ けです。 それが平安期になって、 貴族の社会になってきましたら、 土俵はありませんが、 雅び な貴族達はそういう何でもありというのを非常に嫌ったわけです。 714年ぐらいからなんです けれども、 もっと美しいかたちとして、 先ほど立原の文章で、 スペインのものにはかたちがな かったと言っていますけれども、 かたちというものを、 非常に貴族は大事にしたわけです。 かたちというのは、 よく 「容」 という字を当てるんですけれども、 かたちを整えた、 非常に 美しい芸能としての相撲を作り上げたんです。 それが約400年続きます。 400年かけて、 貴族は 様式美を備えた技芸としての相撲をしっかり作っていったんです。 貴族が作った相撲は 「相撲 (すまひ) の節会 (せちえ)」 でわかります。 非常に芸能色の豊かな相撲のイベントで、 天皇の 前でお見せしたんです。 その時に、 相撲は芸能ですから、 歌、 舞、 蹴鞠だとか、 いろんな芸能 が一緒にあって、 その一つとして相撲も行われました。 天皇や貴族達に、 相撲や歌舞音曲を見 せたというのが、 714年ぐらいから始まったわけです。 まだ土俵はありませんけれども、 北に天皇のいらっしゃる場所があり、 東西から力士が入っ てきて、 天皇の前で相撲を取ったわけです。 それが今も残っている相撲の花道なんですけれど も、 「相撲節会」 の時代、 東から天皇の前に出てくる力士は、 髷に葵の花をつけたというんで すね。 それから西の力士は、 夕顔の花をつけて、 土俵に上った。 そこから花道という言葉が出 来たという風に言われているんですけれども、 折口信夫のそうではないという意見もあります が、 花道という言葉がここから出来たという説はロマンチックですよね。 お日様が上ってくる 東ですから葵。 それから西は日が沈む、 だから夕顔ということで、 つけて上ってきたことは確 かなようです。 それで、 力士がその花をつけたまま戦います。 そして勝った力士、 例えば葵のほうが、 東が 勝った。 東が勝つと、 自分がつけていた花を次の力士につけてやって、 その力士は上がる。 そ れから、 夕顔のほうは負けたわけです。 負けた者は、 次の力士に花をつけず、 次の力士は新し い夕顔の花をつけて上がったというんですね。 これが、 今も相撲界に残っているんです。 テレ ビでよく見て下さい、 花はつけませんが、 水をつけます。 水は、 必ず勝った力士が次の力士に つけます。 負けた力士はつけられないんです。 これは、 ここから由来されているといわれてい ます。 つまり、 勝った力士は次の力士に花をつけたというのと同じように、 勝った力士だけが 次の力士に水をつけることが出来るんです。 ですから、 一番面白いのはですね、 取り組み、 結びの一番の前を見て下さい。 そうすると結 びの一番で、 豪風と白鵬がやったとする。 秋田出身だから豪風に勝たせましょう。 それで、 東 の白鵬が負けたとします。 そうすると、 負け残りといって、 白鵬は座って結びの一番を見なけ ればいけないんです。 そして結びで東から朝青龍が上がった、 それで、 西からは雅山が上がっ た。 そうすると、 豪風は勝ち残りで西にいます。 ですから雅山が上がったときに、 彼は勝った ― 74 ― 秋田経済法科大学 総合研究センター主催 講演会 「大相撲と神」 わけですから、 自分の夕顔の花をつけるのと同じに、 雅山に水をつけることが出来ます。 とこ ろが白鵬は負けたので、 水を朝青龍につけることが出来ないんですね。 でも、 結びの一番です から、 他の誰も力士はいません、 もう最後ですから。 では、 朝青龍は水なしで上がるのかといっ たら、 これは清めですから、 水をつけないと上がれないんです。 けれども、 誰も水をつける人 がいない。 これ、 テレビで見てますと面白いんですよ。 東から朝青龍の付き人が来るんです。 それで付き人が、 浴衣を半分脱ぎます。 肩を半分出して、 そして水をつけるんですね。 付き人 はもちろん勝った付き人です。 負けた付き人は水をつけられない。 その中で勝った付き人が、 三段目であっても序二段であっても、 勝った付き人が体を半分出して、 裸だという意識を示し て、 水をつけるということをやります。 このように、 これは平安期からの花道の名残りかと考 えられます。 それと同時に、 たくさん結界がありますけれども、 その中で、 今度は土俵についてお話しま す。 土俵は先ほど申し上げたように、 俵で結界されています。 そして、 俵20俵で円形を作りま す。 そして、 角俵といって、 28俵で外側を四角く埋め込んでいます。 土俵造りは全部手作業で す。 28俵というのは、 天の28宿にちなんだものだといって、 つまり天には28の星があって、 そ の星で昔は吉凶を占ったというんですけれども、 それだと言われているわけですね。 そして、 これははっきり結界していますから、 この角俵から中は聖域です。 それで、 お客さんがいると ころは俗域なんですね。 ですから、 聖域と俗域をはっきり分けています。 そしてなおかつ、 徳 俵というのが土俵の四方にあります。 これはテレビでご覧になればよく分かりますが、 この徳 俵というのが土俵の4m55cm の円からちょっと外に出ているので、 そこに足がかかったら得 をするから徳俵と言われているようですが、 実は、 この徳俵は外せるんです。 それで、 当時は 今みたいに屋内で相撲を取っておらず、 土俵が出来た頃には外で取っていました。 当然ながら 屋根もないので、 雨が降って土俵がぐしゃぐしゃになってしまった時に、 この徳俵を外すと、 ここから雨水が逃げていきます。 1699年に水はけのための俵として出来たのが、 今も徳俵とし て残っているわけです。 土俵について作家の宮本徳蔵さんが、 学問的ではないんですけれども、 すごく面白い文章を 書いています。 「土俵の周りは、 地天・水天・火天・風天4つの神によって、 ぐるっと取り巻かれている。 円陣を描いて、 土の中に埋め込まれた20俵の小俵のうち、 東西南北の真ん中が一つずつ外側に ずらされており、 徳俵と呼ばれる。 雨水が溜まった際のはけ口だと説明されるが、 それが実は 副的な用途で、 実のところは今述べた、 四天の通路なのである。」 これはもちろん学問的ではないのですが、 大変に面白いと思います。 実は徳俵が、 地天・水 天・火天・風天の通路であると言っているんですね。 「彼ら神は、 観客の目に触れぬままに、 代わる代わるそこから出入りし、 勝負の成り行きを 見守り、 不利になった側を励ます。 時としては気まぐれに茶々を入れ、 土俵際の逆転といった 番狂わせを演出することもある」 ということを書いているわけです。 そういう発想をしたくなるくらい、 はっきりとした結界 として残っているわけです。 もう一つ面白いのは、 土俵の中心ですね、 つまり、 土俵があって、 その真上に吊り屋根があ ります。 土俵の中心をまっすぐ上方に伸ばしていくとどこに出るかというと、 これは国技館の 中心点に出ます。 ですから、 設計者が最初から神のいる土俵の中心を、 国技館の中心に当たる ― 75 ― ように設計したということなんです。 それからもう一つは、 テレビを見ればすぐ分かりますが、 今は柱がないんですけれども、 四本柱 (しほんばしら) というものがあります。 ときどき、 相 撲をあまり知らない人が、 「よんほんばしら」 と言うのですが、 これは 「しほんばしら」 と読 みます。 今はありませんが、 昭和27年までは、 土俵の上に4本の柱が立っていました。 これが日本の 宗教観の、 最も原点のようなものなんですけれども、 日本では4本柱を建てて上を縄で結ぶと、 そこに神が降りてくるという考え方があったんです。 この時、 すぐに思い浮かべるのが地鎮祭 です。 地鎮祭ってお家を建てる時や、 例えばダムを造る時でもそうですし、 大きなビルを建て る時もそうですが、 必ず4本柱を建てて、 結んで、 そしてお祓いをします。 そして4本柱を建 てて結んだところには、 降神といって神を降ろすわけですね。 神は呼ばれてここに来てくれる わけです。 これは、 アフリカにダムを造ろうが、 ニューヨークにビルを建てようが、 北海道で あろうが九州だろうが、 東京であろうが秋田であろうが、 とにかくそれさえやれば日本の神は 降りてきてくれるっていうのは、 非常にフットワークが良いんですけれども、 日本にはそうい う宗教観があるんです。 これが相撲にもあったんです。 これは諸説あってはっきりとは言いにくいんですが、 土俵成立とほぼ同じ頃ではないかと言 われていますが、 私が調べた限りでは土俵よりも先に柱が立っているんですけれども、 柱を東 西南北に4本建てたわけです。 つまり4本の柱によって、 はっきりと結界しているんです。 何 を結界しているかと言うと、 まず東西南北をはっきりと結界しています。 ですから、 東西南北 の柱の間はすごく広く開いているんですけれども、 しかしそれは城壁のようなものであるとい う意識なんです。 東西南北を結界している上に、 春夏秋冬を結界しています。 ここはテレビでよく見て頂きた いんですが、 今はもう柱はありませんから、 代わりに吊り屋根に4色の房が下がっています。 切ってしまう前までは、 柱に4色の布が巻いてあったんですけれども、 柱を切ってしまってか らは、 神様の宿るところがないというので、 房にして残したんです。 房が何を表しているかというと、 東には青房、 緑色の房が大きく下がっています。 青房は春 を意味し、 青龍神が宿っていて、 さらに持国天が宿っています。 それから赤房の南は夏です。 朱雀神がいて、 そして増長天が宿っています。 それから西は秋、 白房です。 白虎神がいて、 そ して広目天が宿っています。 黒房の北は冬、 玄武神、 それから多聞天が宿っているんです。 で すから、 青房を見るとこっちは春、 夏は赤房、 それから秋は白房、 冬は黒房。 この4つの房は ただ飾りとして下がっているのではなくて、 そこには神が宿っているということなんです。 春 夏秋冬をを結界して、 土俵を聖域にしているわけです。 そしてその結界した定義で、 結界した房をよく見てください、 これはもう何度もテレビで映 しています。 テレビで見るとよく分かりますが、 房には御幣が結わえてあるんです。 4つの房 全てに御幣が結わえてあります。 この御幣も、 飾りだろうと思ったらとんでもない話で、 実は 初日の前の日に、 神迎えの儀式というのをやります。 昔は関係者だけの儀式でしたが、 今は誰 でも見ることが出来ます。 ほとんど知られていないので、 あまり見に来る人はいないんですけ れども、 もし興味がおありでしたら、 初日の前日、 秋田からだと東京場所が一番近いと思いま すけれども、 例えば9月場所、 9月場所の初日は日曜日ですから、 その前の土曜日に朝9時半 に国技館に行けば、 フリーパスで誰でも入れます。 土俵の上で、 神様を迎える儀式をやるんで すね。 大変に荘厳な儀式です。 立行司が神官の格好をしまして、 そして神を降ろすんです。 神 ― 76 ― 秋田経済法科大学 総合研究センター主催 講演会 「大相撲と神」 がどこに降りてくるかといいますと、 土俵に7本の御幣を立てます。 7本の御幣を立てて、 敷 物を敷いて、 立行司が座ります。 4隅に他の行司もちゃんといる中、 立行司が神を降ろします。 神は立てられた7本の御幣に憑依するわけです。 それで、 この7本の御幣に神を憑依させると いうのが神迎えの儀式なんです。 これはかなり面白いものです。 それで、 神が憑いた御幣の7本のうちの4本を、 房の後ろにつけます。 ですから、 神が憑い た御幣が四方を結界して、 土俵を守ってくれているわけですね。 残りの3本はどこに行くのか と言いますと、 行司部屋に行きます。 つまり力士を裁く行司の部屋に、 残りの3本がまつられ るわけです。 そして15日間の興行が無事に済んだ後、 迎えた神はお帰り頂かなければいけないんですね。 これも誰もが見られるんですが、 こっちはもっと知られてないですね。 神送りの儀式というの があるんです。 迎えた神を15日間ありがとうございましたということで、 お酒を飲んで頂いて 帰すイベントなんです。 これは誰でも見られますが、 千秋楽の入場券を買って入り、 全て表彰 式が終わっても残っていてください。 そうすると全部終わった後で、 呼び出しさんが土俵の上 に、 お神酒を持ってきます。 そして入ったばかりの新弟子が、 全員そこで円陣を組みます。 そ して若い行司が、 行司部屋にあった神が憑いている御幣を持って現れるんです。 そしてお神酒 を回して手打ちをした後、 ぐるりと取り囲んだ若い新弟子達が、 御幣を持った行司を高く胴上 げするんです。 行司は、 御幣を持って空を舞うわけですね。 これは天に帰って頂いたという印 なんです。 この胴上げというのは、 昔から神にお帰り頂くということで非常に日本的な動きだったとい うことを、 民俗学者の桜井徳太郎先生がおっしゃっています。 これで神が帰っていくんですね。 つまり、 15日間ずっといたわけですね。 先ほど私が申し上げたように、 名古屋場所や大阪場所 で女や男が上がって、 土俵俵を掘り返してもしょうがないと、 協会が見て見ぬふりをしている というのは、 神がお帰りになった後の土俵だから、 これは単なる土であると。 だからしょうが ないということでしょうね。 ですから機会があったらぜひ神送りと神迎えの儀式というのを、 ご覧になって頂きたいと思います。 それから、 水引幕というものがあります。 水引幕というのは、 これも結界しているんですけ れども、 土俵の房のところに相撲協会の紋を染め抜いた紫色の幕が下がっています。 これを水 引幕といいますが、 単なる幕ではないんです。 これは、 北から巻いて北に収めます。 北から巻 いて北に収めることによって、 陰陽道でいうところの熱気や陽気を冷ますといういわれがある からです。 そして、 昔はここに注連縄が下がっていましたが、 今ではありません。 注連縄とい うのは明らかに聖域を示すものですが、 今、 注連縄は、 たった一人、 横綱の腰に巻いてあるだ けなんですね。 ですから、 今は注連縄はありませんが、 過去にはあって、 そこではっきりと結 界を示していました。 それから、 もう一つ面白いのは、 日本では先ほど申し上げたみたいに、 装置的結界というも のがすごく多くて、 明らかに日本人の意識の高さっていうものを表していたと思いますけれど も、 もっと意識の高いものがあるんです。 これは私が名前を付けたんですが、 象徴的結界とい うやり方なんですね。 結界を示す物が一切ないのに、 あたかもあるように象徴していることで す。 横綱の土俵入りをご覧になるとわかりやすい。 実際には全ての力士がそうなんですけれど も、 土俵に上がりますと、 塵を切ります。 塵を切るということは、 土俵に上がって蹲踞をした 後に、 パーンと柏手を打ちます。 そして公明正大、 何も持っていないということで、 両手を広 ― 77 ― げて見せるわけですね。 これを塵を切るというんですけれども、 塵を切る時によく見ていて下 さい、 柏手を打ってすぐには手を離しません。 必ず柏手を打った後に両手を合わせて揉みます。 何で揉んでいるかと言いますと、 自分は清らかであるという、 象徴的な結界を意味している んですけれども、 昔、 外で取っていた時には、 身を清めて上がろうにも水というものがそんな にふんだんになかった上に、 塩もなかった。 しかし、 身を清めて聖域には上がらなければいけ ない。 それで、 草をちぎって掌にのせて揉み潰したんです。 そして、 それによって身を清めた んです。 つまり、 草で身を清めて、 それを両手を広げて捨てたんです。 これは今も残っている 聖域に上がるための一つの儀式なんです。 聖域の中ではきっちり、 聖域の中のルールっていう ものがあってやっているわけです。 ですからこれは、 かたちは何もないけれども、 ひとつの象 徴的な所作としてやっているということなんです。 それから、 しこもそうです。 力士はしこを踏みますけれども、 しこと言う字は 「四股」 と書 きますね。 ところが本来は、 醜いという字だったんです。 「醜 (しこ)」 と読んだんです。 つま り、 醜女 (しこめ) なんて言いますけれども、 しこというのは醜いという字を書いていたんで す。 それで、 これは何故かと言いますと、 神の棲む土俵に上がるのに、 人間ごときの俺という ことで、 自分を卑下した。 卑下するために醜いという字を当てて、 醜名を付けたというわけで す。 そして、 しこを踏むということは、 もともと大相撲は、 五穀豊穣を祈る神事だったわけで すから、 土俵でしこを踏むことによって土の中の邪鬼を殺して、 なおかつ土を活性化させると いう意味があったんですね。 しかし、 最近はすごくいい加減なしこを踏んでいる力士も目立ち ます。 逆に片山のしこに、 ものすごい拍手が起きますが、 これは貴乃花もそうでした。 かかと が天を向いているんですね。 かかとが天を向くようにピーンと上げて、 ドカーンと下ろしてい るんです。 しこは本来邪鬼を踏み潰しているわけですから、 そういう力強いしこでないといけ ないわけです。 それから土俵入りですが、 横綱がせり上がります。 これは三段構えでせり上がりというんで すけれども、 せり上がりの時も、 すぐにヒョイと上がるということは間違っています。 横綱の 両腕には、 六百貫の邪鬼を乗せているということになっているんです。 ですから、 じりじりと 上がってきてパーンと跳ね返すという、 これはもう明らかに神事なんです。 常にそういうこと で、 清らかなところに上がるため、 結界されたところに上がるための禊というのが明確にあっ たということなんです。 そしてもう一つ、 相撲では太鼓と柝が入ります。 析というのは拍子木です。 相撲では打楽器 しか使いません。 弦楽器というのは全然ないんです。 打楽器というのは、 あの世とこの世を結 ぶものであると言われ、 江戸時代ですとか、 子供が神隠しにあっていなくなったというような 時は、 みんなで鍋釜を叩いて探しました。 これは、 あの世とこの世を繋ぐために叩いたといわ れるんですけれども、 相撲でも今、 あの世、 つまり神のいる世ですね、 それとこの世を繋ぐと いうことがあって、 それで打楽器しか使わないということも考えられます。 それから聖域に上がるために、 もう一つよく分かるのは、 先ほど言った水です。 これは、 化 粧水とも力水ともいわれていますけれども、 力士は土俵上で必ず水で清めます。 ところが、 こ れを調べてみましたら、 昭和15年までは朱塗りの盃を使っていたんです。 それで、 双葉山が朱 塗りの水盃を頂いているという写真を、 私は相撲博物館で見つけて、 嬉しくて震えがきたんで すけれども、 これは水盃を酌み交わして土俵に上がるという儀式を信じていたということだと 思います。 それは昭和15年から消えてなくなって、 今のような水のつけ方になってしまいまし ― 78 ― 秋田経済法科大学 総合研究センター主催 講演会 「大相撲と神」 た。 それから、 過去、 江戸の頃までは、 紙塔婆というのがあったようです。 今、 力士は化粧紙・ 力紙というのを使って、 口をすすいだ後に拭いたりしますけれども、 紙塔婆というのが、 江戸 時代まではあったという文献を見つけました。 ところが調べても調べてもその1冊以外に書い たものがなかったんです。 ただ、 私はこれを非常に面白いと思っています。 今は紙を使って口 を拭くと捨ててしまいますけれども、 昔はその紙を、 お墓のところに立っている塔婆の形に力 士が折ります。 そして、 東西の力士は自分の塩の場所にそれを挿したというんです。 つまり、 朱塗りの盃で水を飲んだ後、 そこに紙塔婆を挿していたということは、 明らかに土俵の上で、 聖域の上で死ぬぞという心意気を示したものだと考えられます。 残念ながら、 これは今では全 く見られません。 ただ、 心意気を示しているという意味では、 立行司が脇差を差しています。 この脇差は、 差 し違えってありますよね、 本当は西が勝ったのに東に上げてしまったとか。 物言いの結果、 行 司差し違えとなったとか。 その時には、 腹を切って死ぬという心意気を示したものだといわれ ています。 かなりの早口で申し上げたのですが、 あっと言う間に時間になってしまって残念です。 この 後また機会を作りまして、 結界の次の話と、 それから女性は何故不浄といわれているのか、 お 話したいと思います。 この、 女性は何故不浄っていわれているのかということに関しては、 大 変面白い書物がありまして、 血盆経というお経があるんです。 わずか400字くらいの、 中国か ら渡ってきたお経なんですけれども、 女性がいかに不浄かということを、 これでもか、 これで もかと書いています。 相撲界の女人禁制はそれが今に残っているのではないかということを、 フェミニスト達は言って怒っていますけれども、 果たして本当にそうかということを論文に書 きましたので、 それは次の機会に必ずお話させて頂きます。 中途半端でとても残念ですが、 か えって次回を楽しみにして頂くということで良かったかなと思います。 本当に皆さんありがと うございました。 (拍手) 阿 部 本当に大変貴重なお話、 ありがとうございました。 先生の方から質問の時間を頂けるという ことで、 会場のほうからぜひお聞きしたいということがあれば、 挙手をお願いしたいと思いま すが、 いかがでしょうか。 相撲に関することであれば、 相撲百科事典といわれているくらいで すから、 何でも聞いてください。 はい、 どうぞ。 質問者 満員御礼の札が出る時と出ない時がありますよね。 テレビで土俵の上の方を見ていますと、 出る時と出ない時があるんです。 これはどういった基準で満員となるのでしょうか。 内 館 今のは大変に鋭い質問なんですけれども、 実は過去に660日間も、 ずっと満員御礼が出てい たことがあったんです。 それはもう、 相撲をやれば黙っていても人が来るという若貴時代だっ たんですが、 今はこの5月の東京場所で、 6回出ました。 それから3月の大阪では、 9回出て います。 その前までは1、 2回しか出ていなかったんです。 この満員御礼はどうやって出るか と言いますと、 基本的には理事長の判断です。 理事長によって違うんですけれども、 北の湖さ んの場合だと、 だいたい95%くらい埋まると満員御礼の合図が出ます。 そうすると、 上からす るするっと降りてくるんですね。 それでも意地悪な週刊誌なんかは、 マス席ががら空きなのに ― 79 ― 満員御礼出ているじゃないかという写真を出したりするんですが、 ここがまた相撲の面白いと ころなんです。 相撲界の場合は、 2・3階席はそうではないんですが、 1階席というのは、 ほとんど相撲茶 屋が仕切っています。 相撲茶屋というのは、 お客さんにチケットや飲食物を売ります。 私も実 は自分の席を持っているんですけれども、 私は15日分を前払いして買ってしまうんです。 行け なくても15日分を一括して買います。 とりあえず、 6年間は買える権利を得た。 買う人がどん な人間かということもチェックされるんです。 ですから、 1階席っていうのはほとんど企業や好角家が持っています。 それで、 企業が持っ ていて、 接待のためにチケットを誰かにあげたとします。 誰かにあげた時に、 今の相撲はつま らないから見に行かないよということで、 行かなかったとする。 それでもチケットは売れてい るわけですね。 そういうことで考えますと、 相撲界というのは、 ある意味すごく体力があると いうことなんですが、 席が空いていてもチケットは全部さばけているという、 不思議な現象に なっています。 それで、 現実的には2・3階席も含めて、 理事長によってですが、 90から95% の客席が埋まったという時に、 満員御礼を出します。 そうではない時は出ないんです。 ですか ら、 テレビをご覧になって満員御礼が出ていない時は、 9割以下だということです。 質問者 今、 しこを踏むということで、 先生のお話をお伺いして不思議に思ったんですけれども、 私 は以前荒俣さんの本を読んだことがあるんです。 その本には、 江戸幕府を開いた時に、 徳川家 のブレーンになっている方が、 両国の方角というのは風水の鬼門に当たるということを言って、 それでしこを踏むことによって鬼を退治するというようなことが書かれていたのですが。 内 館 今日、 実はその話もしたかったんですけれども、 時間がないので省略してしまったんですが、 今せっかく良い質問が出ましたので、 その話をちょっとさせて頂きます。 すごく面白い文章が あるんです。 結界というのは先ほど申し上げたように、 装置的結界、 建築的結界、 象徴的結界などいろい ろあるんですけれども、 ひとつには外側から結界して、 中に悪いものを閉じ込めてしまう形が あります。 例えば遊郭などは、 一つの場所に閉じ込めているわけです。 そういう風に外側から 内側に向かって結界するものと、 もうひとつは悪いものを全部外に出してしまって、 内側から 外側に向かって結界するものがあるんです。 それで、 今の質問にちなみ、 大変に面白い文章があります。 内藤正敏さんが、 両国というの は、 ある種いかがわしい場だったと書いており、 それについても結界ということをおっしゃっ ているわけですけれども、 こう書かれています。 「江戸時代、 浅草の奥山とともに、 最もいか がわしい見世物小屋が並び、 江戸最大の盛り場として栄えたのが、 回向院のある両国だった。 回向院は、 明暦の大火で焼死した10万8千人余りの死体を埋葬した土地の上に、 4代将軍家綱 が増上寺第23世に命じて追善供養を行わせるために建てた、 定禅寺の末寺である。 10万人以上 もの大量の変死者の霊を鎮めるには、 徳川家の菩提寺の住職の呪力を必要としたのである。 両 国の大相撲も、 寛政3年 (1791) に、 回向院に埋葬される多くの霊の供養のための勧進興行が 発展したもので、 両国川開きの花火も、 享保18年 (1733) に大飢饉の死者を慰霊するために、 両国の料理屋が花火を上げたのに始まるといわれている。 同じ死体の上に建つ寺でも、 徳川将 軍の遺体が眠る増上寺と、 10万人以上の変死者の上に建つ回向院では、 全く宗教空間が違って ― 80 ― 秋田経済法科大学 総合研究センター主催 講演会 「大相撲と神」 いた。 豊かな江戸の文化が生まれたのは、 浅草寺や回向院、 あるいは吉原や品川宿などに渦巻 く、 アナーキーな都市のエネルギーの中からであった。」 という文章があります。 両国の国技館に行くと、 すぐ目の前の通りを挟んで向こう側に回向院が今もあります。 実際 に両国というのは、 そういうある種いかがわしいもの、 見世物小屋、 それから変死者というも のがいた地を、 外側から内側に向かって結界した場所だったということが言えると思います。 荒俣さんのおっしゃる通り、 そこでしこを踏んだこともあるでしょうね。 阿 部 時間も過ぎておりますが、 もう1問だけ受け付けたいと思います。 どなたかいらっしゃいま すでしょうか。 よろしいですか。 内 館 それではせっかくですから、 7月場所の見所を最後にご紹介します。 7月場所の見所ですが、 おそらく白鵬は横綱を目指して、 相当頑張るだろうと思います。 それで、 白鵬の相撲を見て頂 くと本当によく分かるんですが、 大鵬の再来と言われているくらいで、 とにかく腰を落として 磐石な相撲を取りますし、 寄り切りますし、 もう見事なんですね。 それで、 白鵬のお父さんがモンゴルでは有名人だということはよく言われていますけれども、 一体どのぐらい有名人なのかということを、 私は東北大の相撲部の、 モンゴルからの留学生2 人に聞いてみたんです。 そうしましたら、 簡単に言えば、 日本で言うところの長嶋茂雄だと言 われました。 ですから、 街を歩けないくらいの有名人なんだそうです。 そういうお父さんで、 白鵬が日本で横綱になることはどういうことかと考えますと、 長嶋茂雄さんの息子である一茂 君が、 大リーグですごい賞をもらった、 リーディングヒッターになった、 三冠王になったとか、 そういう騒ぎなんですね。 それで、 白鵬はお父さんの血を受け継いでいて、 大変立派な力士で す。 そしてお母さんが外科医だそうで、 ある意味ではエリート一家に育った息子なんですけれ ども、 多分相当な勢いで、 今場所は目の色を変えてやってくるだろうという風に思います。 そ うすると、 7月の千秋楽の翌日に横綱審議委員会にかかって、 推挙するっていうことになると、 またモンゴル人になってしまうんですけれども、 横綱が生まれるんですね。 そしてもう一つの見所は、 これはぜひ見て頂きたいのが、 雅山なんです。 雅山は大関でした。 ところが、 その後落ちてしまいます。 2場所負け越すと、 大関から落ちなければいけないんで す。 落ちた直後の場所で10勝すると再び上がれるんですけれども、 10勝出来なかったんです。 それで、 どんどん落ちてしまいます。 そして、 相撲では 「その番付の相撲しか取れない」 とい ういわれがあります。 つまり、 過去は良い仕事をしていたのに、 ポジションが落ちてしまうと、 そのポジションレベルの仕事しか出来ないということです。 雅山はですね、 そのポジションレ ベルの仕事しか出来なくなっていたんです。 ある意味ではどん底まで落ちてしまった。 ここか ら再び上に上がるということは、 大変に難しいことなんですが、 先場所、 先々場所とすごく頑 張って、 そしていよいよ7月場所、 北の湖さんは11勝すればと言っていますが、 私は多分10勝 でもいけるのではないかなと思っていますが、 少なくとも2ケタ勝つと、 もう1回大関に上が れる可能性が出てくるんです。 現在、 雅山は29歳なんですが、 雅山の師匠である三重ノ海は、 31歳で横綱になっているんです。 ということは、 どん底を見た雅山がもう1回大関に上がって、 そこから横綱になろうと思えば不可能ではないんです。 ですから、 大変な努力と運もいると思 いますけれども、 雅山の来場所のあり方というのを、 ぜひ見て頂きたいなと思います。 (拍手) ― 81 ― 阿 部 先生、 本当にありがとうございました。 内 館 どうもありがとうございました。 (拍手) ― 82 ― ノースアジア大学 講 総合研究センター主催 講演会 「女は不浄か? ―大相撲における女人禁制―」 演 ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「女は不浄か? ―大相撲における女人禁制―」 講 師 脚本家・ノースアジア大学総合研究センター客員教授 内 館 挨 拶 学校法人ノースアジア大学理事長・学長 ノースアジア大学総合研究センター長 小 泉 阿 部 司 会 ノースアジア大学経済学部教授 日 時 平成19年6月23日 午後2時40分∼ 会 場 ノースアジア大学 40周年記念館 ― 83 ― 271番教場 牧 子 健 時 男 阿 部 ノースアジア大学総合研究センター主催の公開講座にお越し頂きましてありがとうございま す。 ご講演に先立ちまして、 本学理事長、 総合研究センター長の小泉健先生よりご挨拶頂きま す。 よろしくお願い致します。 (拍手) 小 泉 ご紹介頂きました小泉でございます。 今日は満席で、 こんなにたくさんの方にこの会場にお いで頂きまして、 心から御礼申し上げたいと思います。 総合研究センターは、 今年で満3年になりまして、 本当に皆様のおかげであると感謝してお ります。 今日は、 内館先生の前回の講演会に引き続きまして、 「女は不浄か?∼大相撲におけ る女人禁制∼」 というご講演でございます。 待ちに待っていた先生のご講演の完結編ですので、 ぜひ最後までご静聴頂きたいと思います。 また、 今わらび座で、 先生がお書きになった、 秋田が誇る 「小野小町」 が上演されています けれども、 内館文学の新しい小町像、 少し気の強い小町でございまして、 大変独創的な小町像 を生き生きと描いておられます。 行った方は皆さん、 本当に感動して帰ってきておりますので、 是非時間を作って頂いて、 一度ミュージカルの方も見て頂きたいという風に思います。 それでは、 先生の講演になりますが、 専門的な相撲に関わる話、 非常に興味深いお話を聞か せて頂けるものと、 期待しております。 よろしくお願い致します。 阿 部 それでは、 内館先生の略歴を皆さんにご紹介したいと思います。 先生は秋田市のお生まれで、 東京育ちであります。 武蔵野美術大学を卒業後、 三菱重工業株式会社に入社されました。 その 後、 およそ17、 8年お勤めになった後、 フリーの脚本家になられました。 皆さんご存知の通り、 非常にたくさんのドラマ、 脚本をお作りになられております。 先程もご紹介がありましたが、 非常に秋田になじみの深い、 ということで、 内館先生がお書きになった 「小野小町」 が地元わ らび座で上演されております。 それから、 NHK の連続テレビの番組等で、 大変たくさんの賞を受賞されております。 中で も、 1993年に 「ひらり」 という番組で第1回橋田壽賀子賞を受賞されています。 日本相撲協会 の横綱審議会委員ということでも、 お見かけ致します。 そういう意味で、 秋田の誇る大変著名 な方でございます。 本日のテーマは、 今ご紹介にありましたように、 皆さん非常に興味深いテーマだと思います が、 前回は相撲に関しての結界というお話で、 相撲の世界には俵で作った境があり、 それはこ ちらの世界とあちらの世界の結界であるというお話をされました。 その続きを今日は 「女は不 浄か?∼大相撲における女人禁制∼」 という演題でご講演されます。 それから、 今回400名近く応募がありました。 教室に入りきらないということで、 隣の部屋 にも席を設けております。 正面には、 本学と秋田大学と秋田県立大学で開設しましたインター ネットの回線を使った、 遠隔講義システムがございます。 これで秋田大学、 秋田県立大学と、 隣の部屋と、 相互に交信できるという状態になっております。 それでは、 先生、 どうぞよろしくお願い致します。 内 館 内館牧子でございます。 今日のテーマは小野小町ではないのですが、 今、 小泉先生の方から お話があったので、 枕でその話をさせて頂こうと思います。 今回の小野小町、 相当新しい解釈 なんです。 おそらく小町の研究家は怒るのではないかというくらい、 相当新しい解釈なのです ― 84 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「女は不浄か? ―大相撲における女人禁制―」 が、 その解釈になったきっかけの歌があるんです。 小町と言うと必ず出てくるのが 「花の色は うつりにけりないたづらに 我が身世にふるながめせし間に」 という和歌です。 この歌も色々 な解釈がされていますが、 一般的にはあっという間に私の美貌が衰えてしまったわ、 悲しいわ と嘆いている歌と受けとられていますが、 これが必ず出てきます。 美貌なんていうのは衰える に決まっていますから、 それをジメジメと嘆いている女なんて友達になりたくないタイプだな あと思っていました。 ところがある時、 小町の別の句をたまたま目にしました。 晩年の歌なん ですけれども、 これはほとんど知られていないようです。 「我死なば焼くな埋むな野にさらせ やせたる犬の腹肥やせ」 というんです。 つまり 「私が死んだら埋葬する必要もないし焼くこと もいらないわよ、 そこら辺に転がしておいてちょうだい、 そしてやせた犬に遺体を食べさせて、 おなかをいっぱいにしてあげてね」 という歌なんです。 たまたまこれを目にした時に、 戦慄が 走りました。 小町の人生そのものがものすごく謎に包まれていますので、 いつ作られたという のは明確ではないのですが、 晩年と言われています。 この歌を晩年に作る女とはどういう女だろうかと、 どういう風にして生きてきたんだろうか と思ったわけです。 小町の生年月日ももちろんはっきりしていませんが、 西暦800年の前半で はないかと言われています。 その時代にこういうことを言った女の人というのは、 恰好いいな と私は思ったんです。 ただ、 おそらく解釈の方向によっては、 もう人生を諦めていたとかやけっ ぱちになっていたとか、 そういう解釈も一つはあるだろうと思います。 でも、 やけっぱちになっ て、 やせた犬に私の内臓を食べさせてやってよ、 という女はあまり魅力的ではないし、 推測で すが、 小町という女は、 今までのイメージとは何かもっと違うキャラクターだったのではない か、 と思ったわけです。 それで小町の歌を、 調べてみました。 もちろん、 わらび座の話なんか 全然ない頃です。 調べると、 結構激しい句がたくさんあるんです。 さすが秋田の女だなという くらい、 激しい句がたくさんありまして、 時の権力者である藤原に楯突く歌なんかも堂々と詠 んでいるんです。 天皇でさえ顔色を伺っていたという藤原に、 「藤の花というのは、 松の木に 絡みついて、 養分を吸い取って結局松を倒してしまうような嫌な木よね」 というようなことを 歌うわけです。 松というのは朝廷です。 藤の花を藤原にかけているんです。 そうかと思うと 「雲が流れてきて、 本来太陽が照らすべき人のところを照らさずに雲が隠してしまって、 別の 人に日が当たっている、 なんということだ」 というようなことを堂々と歌っているわけです。 これはすごいなと思いました。 それで私は 「我死なば焼くな埋むな野にさらせ、 やせたる犬の 腹肥やせ」 というのは、 「自分の人生を十分に生ききったから、 もう私の体は形だけよ、 ビニー ルチューブみたいなものよ、 だから犬が食おうが猫が食おうが勝手なの、 もう十分に楽しく生 ききったわ、 ああよかった。 いい人生だ」 と思いながら死んでいった女、 という解釈のもとに 作ったのが、 わらび座のミュージカル小野小町なんです。 ですから、 小町そのものが大変元気で、 何でもバンバン前に進んでしっかり秋田のお米を食 べて、 秋田のお酒を飲んで育っている女という形で書いています。 「花の色は、 うつりにけり な」、 本当に寂しいわ、 というような、 楚々としたたおやかな女に夢を見た男の人達は、 「すご い小町ですね」 と結構がっかりもしているようなのですが、 おおむね非常に好評でたくさんの 方に見て頂いております。 特に、 小町がどういう風に死んでいったかに関しては、 たくさんの 説があるんですけれども、 私はやはり、 故郷秋田の岩谷洞という大きな祠で92歳まで一人で暮 らして敢然と生きていた、 という説が一番好きなんです。 ですから、 ミュージカルのラストで は洞穴で悠然と生きた小町がいます。 村の若い漁師さんたちと仲よしで、 彼らは魚を持ってき ― 85 ― たり野菜を持ってきたりしてくれながら、 「ばあちゃん綺麗だよな」 と言うんですけれども、 小町はべったりと若い人に頼っては生きない。 子供もいませんし、 敢然と楽しく自分の力で92 年生きて、 そして最後にこういう歌を残して死んだという小町像にしてあります。 ですから、 「本当に私にばかり頼って困った姑だわ」 というようなお嫁さんがいましたら、 お姑さんと一 緒に是非行って下さい。 帰りになったらお姑さんが 「もう少し自分の力で生きるわ」 と言うか もしれません。 そういうわけで、 相撲の話に入ります。 前回、 結界の話をしましたけれども、 前回聴いてい ない方もいると思うので、 簡単に前回の復習をします。 私が東北大学の大学院に行った理由というのが、 実は世の中の風潮が、 「なぜ女の人は土俵 に上がれないんですか」 という話になってきた時期でした。 それが半端ではなく強くなりまし て、 特に大阪の太田府知事が、 三月場所になると 「私が土俵に上がって大阪府知事杯を渡しま す」 ということをおっしゃるわけです。 それで今までずっと女人禁制を相撲協会は守ってきま した。 ところが、 それがだんだんすごいことになってきまして、 世の中の流れが全て男女平等、 男女共同参画、 それがグローバルスタンダードであるという方向にいったわけです。 私は、 個 人的にはもちろん男女平等は当たり前のことだと思っていますし、 男女共同参画も大賛成です。 ところが、 全てのことを何でも男女一緒にしていいものか、 という思いがかなり前からありま した。 それで特に、 フェミニズムの方々が全て男女共同でということをおっしゃるんですけれ ども、 そうやって全部フラットにしていいものかな、 という思いがものすごくあったんです。 2001年の3月に太田府知事が朝日新聞に、 「21世紀は女性の時代である、 そろそろ女人禁制 を解いてもいい時期だ、 いいチャンスではないか」 ということを書きました。 それでも協会が 言うことを聞かなかったんです。 そうしたらその後2003年の2月にまた太田府知事が、 「男女 みんなで一緒に誰でもが土俵に上がって、 イベントをやって、 千秋楽を祝う、 そういう男女共 同参画こそがグローバルスタンダードである」 ということを書いています。 何と軽いことを言 う人かとあきれ、 私が太田さんの言葉に反論の文章を朝日新聞に寄せましたら、 女性学の准教 授の女の先生が、 「私は相撲の歴史については全く無知だが、 内館さんの言うことは間違って いる」 ということを投書なさった。 恐ろしい世の中になってきたと思いました。 私はサッカー については全く無知です。 トルシエとジーコの区別が最近やっとついたというくらいで、 ゴー ルのことを 「かご」 って言って笑われたくらいなので全く無知なんですが、 「私はサッカーに ついて全く無知だが、 ジーコのやり方は間違っている」 ということを書くほど、 面の皮は厚く ありません。 特に、 相撲の根幹となる女人禁制のようなことに言及するのであれば、 当然なが ら勉強していなければいけないのに、 「全く無知だが」 と堂々と言って、 自説を述べるわけで す。 ところが、 社会は全て男女共同、 男女共同参画、 男女平等となっている時代ですから、 「私は無知だが、 内館の言うことは間違っている」 ということに関しても、 「そうだそうだ」 と なりかねないと思ったんです。 個人的に先に結論を申し上げますと、 男女平等、 男女共同参画は大賛成ですが、 全てにそれ を当てはめるということには反対です。 女だけで守ってきたもの、 男だけで守ってきたもの、 伝統文化だとか民俗芸能だとか、 そういったものは当然ながら、 当事者がもういいと言うまで は、 私は外部の人間がとやかく言うものではないと思っています。 相撲の土俵は1699年に出来 たと言われていますが、 その後は女人禁制を守ってきているわけです。 当事者がまだだめだと 言っているのに、 「無知だが」 という女の人達が騒いで、 世の中がこれに煽られて行ってしまっ ― 86 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「女は不浄か? ―大相撲における女人禁制―」 た時に、 もしかしたら協会は、 「もういいです、 どうぞ土俵に乗って下さい」 と言うかもしれ ません。 そうなった時に、 一回太田府知事が土俵に乗って、 大阪府知事杯を渡したら、 初めて 女の人が土俵に乗った、 と新聞もテレビも大々的に取り上げると思います。 そして2回目から は男性副知事が代理で出るということは十分考えられると思ったんです。 そうすると、 たった 一回のことで、 守り続けてきたものが変わってしまいます。 それに私は非常に危機感を覚えま した。 特に鳥取の倉吉市の市長やいろんな方達が 「男女平等だ、 みんな乗せろ乗せろ」 と公言 することがありました。 それで私は勝手に使命感に燃えまして、 土俵を守らなければならないと思いました。 北の湖 さんに頼まれたわけではないんです。 だけれども、 勝手にそう思いまして、 それで宗教学を専 攻しようと思いました。 東北大学を選んだのは、 私がやろうとしていることに一番ぴったりで 宗教学がよかったということがあります。 仙台なので日帰りができると思っていたんですが、 結局忙しすぎて仙台に住んでいたんですけれども、 そういったことで女人禁制の勉強をしよう と思いました。 もっと分かりやすく言えば、 女から土俵を守るために女が立ち上がった、 とい うことなんです。 その時にどういう風に切り口を切っていったらよいかと考えたんですが、 女 人禁制とはどういうことなのかということを冷静に勉強して、 そこから結果的に女人禁制がお かしいと思ったら、 これまでの自説を変えようと思っていたんです。 簡単に話しますけれども、 結界ということがあります。 私はこれを切り口にしたんです。 結 界というのは界を結ぶことです。 ある一角をどういう形でもいいんですが区切って、 区切った 内側と外側は違うということを示すことを結界といいます。 つまり、 元々は仏教の修行のため に作られた形であり言葉なのですが、 何かで囲んだ、 或いは区切りをした、 一方の側というの は聖域になるんです。 そしてもう一方の側が私達が普段生きている俗域、 俗界になります。 一 方には障害物となるものが中に入らないように区切ったわけです。 これが外国にもたくさんあ りますし、 もちろん日本にもたくさんあります。 これで私がふと思ったのは、 土俵というのは 俵20俵で区切られた結界ではないかということです。 つまり、 土俵というのは20俵の俵で作ら れています。 これは俵20俵で作られた結界であって、 土俵の中と外は違うのではないかという 仮説を立てました。 これはあくまでも仮説です。 誰かがそう言っていたわけではなくて、 その 仮説を証明していこうと思ったんです。 結界というのは、 元々障害物を中に入れないために区切ったものという前提があります。 例 えば修験道でしたら、 山の中で修行をする、 その時に女人結界という結界石を立てます。 奈良 の大峰山などには今でもありますが、 「女人結界」 と刻んだ石柱が立っています。 この石が立っ ているところから向こうは女の人は行けないんです。 簡単に脇からするっと行くことはできる のですが、 これはお約束事で、 結界石が立っていると、 そこから向こうは結界されているとい うことなんです。 女の人が入ってくると修行僧の気持ちが乱れるから、 ここから先はだめです よ、 ということで決められています。 それでその結界というものが土俵の周り、 相撲場、 そう いうところにたくさんあるのかどうか、 あるとしたらどんなものなのかを調べ、 結界がたくさ んあることが証明できれば、 やはりこれは聖域だな、 ということが結論付けられると思ったん です。 それで結界のことを調べていきました。 結界というのはこれだけで非常に大きな学問のジャ ンルなんですけれども、 すごく乱暴に分かりやすく言ってしまうと、 大きな特徴、 特色がある 結界が二種類あります。 これは垂水稔という学者が分けたものなんですが、 一つは建築的結界 ― 87 ― です。 それからもう一つは装置的結界です。 この二つが非常に大きな結界です。 まず、 建築的 結界というのは非常に分かり易いんです。 目で見てすぐ分かる結界です。 例えば万里の長城で す。 誰かが中に入ろうとしても、 そう簡単には入れません。 見ただけですぐ分かる結界という のはシェルター型の結界、 力の結界と言いまして、 簡単には入れないし、 動かすこともできま せん。 建築物です。 万里の長城の他に、 中世の城壁なども建築的結界です。 ところが非常に面 白いことに、 日本にはこれが極端に少ないんです。 ほとんどないと言ってもいいくらいです。 強いて言えば、 皇居の周りにあるお堀と秀吉が造ったお土居かな、 というくらいですけれども、 お堀は建築的結界には違いありませんが、 それでも万里の長城や西欧の城壁なんかに比べたら、 簡単に結界破りができる結界です。 ところがもう一種類の結界、 つまり装置的結界というのは、 日本には嫌というほど溢れてい ます。 私は、 この装置的結界というのは、 建築的結界よりも高度で高級で高尚な結界だと思っ ています。 日本人はこれを理解する民族であったんです。 装置ですから小道具です。 例えば、 扇子、 暖簾、 盛塩などです。 お塩を盛ってあると向こう側は聖域です。 それから注連縄。 そう いったものは全部結界なんです。 お箸についてもよく言われますが、 西洋のフォークとナイフ はテーブル上に縦に置いてあります。 中国のお箸も縦に置きます。 日本だけが横に置くんです。 これは、 お箸で分割された向こう側に食べ物を下さる神がいるという、 一つの結界です。 それ から芸者さんが自分の前に扇子を置いてお辞儀をする、 これは扇子のこちら側は玄人、 向こう 側は素人だとしたものと言います。 それから、 例えば楽屋見舞いに行きますと、 入口に暖簾が 下げてあります。 楽屋の暖簾というのは、 簡単には開けて入っていってはいけないということ を日本人は分かっているんです。 暖簾というのもこちら側のあちら側の結界なんです。 小道具 ですから、 簡単に動かすことはできるし、 簡単に飛び越えることができます。 ところが日本人 は、 これは破ってはならないものなんだ、 万里の長城と同じだけの力を持つ区切りなんだ、 と いうことを昔の人はきちっと分かっていたんです。 例えば、 小野小町の里のお寺につい先だって行った時に、 結界石が立っていました。 「葷酒 結界」 と刻まれた石柱でした。 これがあると韮、 らっきょう、 にんにくなどの精のつく野菜を 食べた人とお酒を飲んでいる人は中に入れません。 この石が立っている向こうは寺院であり、 境内であり、 聖なる場所だからです。 この葷酒結界というのは今は分かる人が少ないですから、 韮を食べようが餃子を食べようが入ってしまうのですが、 昔の人は分かっていました。 それか ら 「牛馬結界」 もあります。 牛馬結界石があると、 牛や馬はそこから先は入れません。 沓脱石 というのもあります。 ただ石が置いてあるだけですけれども、 その石を見た時に、 ここから先 は靴を脱ぐんだなということが分かる、 そういうことを分かっていた日本人だったわけです。 それで、 この装置的結界の一番の特色は簡単に破れるところです。 ぽんとすぐ入れる、 だか ら葷酒結界石があっても、 中に入ることは簡単なわけです。 土俵は20俵の俵で結界されている にも関わらず、 例えば朝早く大相撲を国技館に見に行ったら、 ハイヒールで女の人が土俵にか け上るのは、 それはもう簡単です。 ほとんどまだ客がいませんし、 まさか土俵に上がってくる と思わないので、 呼び出しさんものどかに掃除なんかしているんですけれども、 その隙にハイ ヒールで土俵に立つことは簡単なわけです。 だけれども、 それをやってはいけないんだという 認識は、 私は一つの知性だと思います。 約束事を理解できている、 ということなんです。 とこ ろがある時に、 ある女性政治家が、 親方に言ったそうです。 「ねえ、 誰も見てないからいいで しょ、 土俵に上げてよ、 上がりたいのよ」 と言ったんだそうです。 「そう言われて、 親方はど ― 88 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「女は不浄か? ―大相撲における女人禁制―」 うしたんですか」 と聞いたら、 親方もすごいんですけれども、 若い衆を呼んで、 「塩だ、 塩持っ て来い」 って言ったというんです。 それで 「その女に塩をかけてやりました」 と言った。 私は 「それでよかったんですよ、 よくやった」 と言ったんですが、 私が嫌なのは、 簡単に結界を破 ることができると平然と思っている、 その無知が嫌なんです。 分かりやすいシェルター型の結 界に対して、 こちらはタブーの結界と言いまして、 タブーを理解していないと分からないとい うことなんです。 これらの結界が土俵の周りにあるかどうか、 調べていきました。 そうしましたら、 土俵の周 りには、 やはり建築的結界というのはないんですね。 強いて言えば国技館の建物、 あれは非常 に変わった造りをしています。 それというのは、 土俵の中心部が国技館の中心になっているん です。 最初から設計する時に土俵の中心が国技館の中心になるように、 設計されているわけで す。 ですから、 あえて言えば、 非常に聖なる建物として作った、 という意味では国技館は建築 的結界の仲間かもしれません。 あとはもう、 装置的結界が山のようにありました。 これは皆さ ん、 是非テレビをご覧になった時に見て頂きたいんですけれども、 例えば、 四本柱というのが あります。 これもテレビを見て頂ければすぐに分かりますけれども、 現在、 土俵上に屋根がか かっています。 そして房が下がっています。 これが今の土俵の状態なんですけれども、 これが昭和27年までは、 房がなくて、 柱が立って いたんです。 この柱を背にして勝負審判が土俵の上に座っていたんです。 それは昭和5年まで です。 昭和5年に、 危ない、 見にくいという事で土俵の下に勝負審判が降りました。 ところが 昭和27年までは柱が残っていたわけです。 結界柱なんです。 つまり、 柱も城壁と違ってすけす けなので簡単に入れてしまうんですけれども、 この柱は、 万里の長城と同じようにがっちりと 壁があるのとイコールです。 一つには四季を結界しています。 それから土俵上の四本の柱は東 西南北を結界しています。 当初はこの柱に布が巻いてあって、 青い布、 赤い布、 白い布、 黒い 布が巻いてあったんです。 それで昔から日本の宗教観として、 4本柱を立てて、 上を結べばそ こに神が降りてくる、 ということが信じられていました。 今でも地鎮祭の時に柱を4本立てて 上部を細いなわで結びます。 そうするとその地鎮祭がニューヨークのビルであろうが、 アフリ カでダムを作るのであろうが、 秋田の駅前の工事であろうが、 どこであろうが神様がそこに降 りてきてくれます。 それと同じで、 相撲も土俵に4本柱を立てて、 神に降りてきてもらうとい うことを続けていました。 四季をどう結界しているかというと、 青が春です。 そして青龍。 これはショウリュウと読ま ずにセイリュウと読みますが、 青龍という神がいます。 赤、 これが夏です。 朱雀という神がい ます。 白、 これは秋、 白虎です。 黒、 これは冬を表しており、 玄武という神がいます。 柱なん て簡単に破れる装置的結界なのですが、 こうやってがっちりと土俵を聖域たらしめているわけ です。 この四本柱を取ったのが昭和27年ですけれども、 これは大変なことなんです。 つまり柱 があればこそ結界され神が降りてくるということなのに、 相撲協会が、 見にくいし、 テレビ放 送も始まるからと言って、 平気で取ってしまった。 屋根も、 今までは柱の上に結んであったの を、 吊り屋根にしてしまいました。 確かにものすごく見やすくなりました。 柱がなくなったこ とによって、 ますます結界はスカスカになったわけです。 これでは神が降りてこないではない か、 柱もなくて何が結界なんだということになるわけですが、 相撲協会がすごかったのは柱と 同じ役割りを持たせて、 房をつけたんです。 柱の色布代わりに房で色を残したんです。 青房、 白房、 赤房、 黒房、 この4色の房をつけました。 この房は、 単にぶら下がっているだけに見え ― 89 ― ますが、 これは柱と同じであり、 そして万里の長城と同じ力を持ち、 聖域を示しています。 土俵回りの装置的結界は、 他にもたくさんあるんですけれども、 水引幕もそうです。 これも テレビで分かります。 真ん中に二つ相撲協会の紋を染め抜いた幕が、 吊り屋根の下部にぐるっ と回っています。 これは単なる飾りではないんです。 北から巻き始めて北に納める、 これは陰 陽道で、 熱気だとか陽気をさます意味があります。 かつては水引幕に注連縄を垂らして聖域を 示していましたが、 今はその注連縄はありません。 ただ、 御幣があります。 御幣というのは棒 の先についた紙垂を言いますが、 御幣も聖域を示すものです。 これはテレビで見てもすぐ分か ります。 房の裏側に御幣をとりつけてあり、 その御幣に神がいるわけです。 それから太鼓があ ります。 私は太鼓も結界だと思ってるんですけれども、 相撲には触れ太鼓、 跳ね太鼓などがあ ります。 相撲は打楽器しか使いません。 太鼓と柝です。 チョンチョンという柝です。 どうして 太鼓が結界と関係あるのかというと、 昔から太鼓、 打楽器というのはあの世とこの世を繋ぐと 言われていたんです。 ですから、 昔江戸時代なんかで神隠しにあった子供たちを捜すのには、 お鍋を叩いたり、 木魚を叩いたり、 いろいろなものを叩いたんですけれども、 叩くということ はあの世とこの世を繋いでいるということがあるわけです。 そのほかにも、 力水もあります。 力水というのは土俵に上がる人間を清めるためのものなん です。 それから紙、 力紙、 化粧紙と言いますが、 紙も使います。 それから力士の元結は、 ゴム も何も使わず紙の紙縒りで縛ってあるんです。 紙はイコール神に通じるということも言われて いるようですけれども、 力士が土俵の上に上るうえで、 はっきりと身を清めているということ を示しています。 それから塩です。 それから履物、 これもよくテレビで見て頂ければ必ず分か ると思います。 勝負審判が土俵の下に5人座っていますが、 物言いがついた時に土俵の上に上 がってきます。 勝負審判の席には必ず二足の草履が用意されており、 一つは通い草履と言って、 土俵の下に来るまで地べたを歩いてきた草履です。 それからもう一つは土俵上に上がるための 草履です。 これは地穢、 つまり地面の汚いものがついていない草履で、 これで土俵に上がるん です。 ですから必ず二つ用意されています。 それはもう明らかに土俵上が聖なる区域だという ことを示しています。 それからもう一つは四股名です。 四股名は最近ものすごく変わってきて 現代的な四股名になってきましたが、 基本的には山や海や川などでした。 千代の山とか、 今だ と千代大海がいます。 それから昔は川もたくさんいましたが、 川は流れるというので嫌って、 今はあまりつけなくなったんですけれども、 山や海や川というのをたくさんつけました。 これ は、 山や海や川などには神がいて、 聖域だったと当時は言われていたんです。 尚且つ、 今は漢 字で 「四股名」 と書きますけれども、 これは実は正しくないんです。 本当は、 「醜名」 と書き ます。 醜い名なんです。 なぜ醜い名をわざわざつけるかというと、 土俵の上には神がいる、 神 の前で戦うにあたって、 人間ごときとしてはみっともない名前をつけます、 ということで神に 対する敬意を示した、 というものなんです。 こういうことで、 たくさんの結界というものが土俵の周りにありました。 こうなると、 土俵 というのは、 20俵の俵で区切られた聖域であるということに間違いないなと思いました。 ここ までは前回お話しました。 それでその後なんですが、 では 「なぜ、 土俵というこの聖域の中には、 女の人は上がれない んだ」 という大変大きな問題が出てくるわけです。 なぜ土俵に上がれないのかということに関 しては、 相撲協会が大体いつも言うのが、 「昔からそうなっています」 とか、 「これが伝統です」 とか、 「そういう世界が一つくらいあってもいいでしょ」 とか、 そういう言い方なんです。 こ ― 90 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「女は不浄か? ―大相撲における女人禁制―」 れではやはり女人禁制は差別だという人達を納得させることは難しい。 私は、 女人禁制を守れ ばいいと思ってはいますけれども、 それでもなぜ女人禁制なのかということを明確にしなけれ ばいけないと思いました。 これがまた、 実はすごく難しいことなんですけれども、 女人禁制と いうことになると、 必ず言われるのが、 血の不浄なんです。 政治家であれ誰であれ、 相撲のこ とをあまりご存知ない方達も皆、 「女は不浄だというのか、 血を流すからか」 ということを言 います。 確かに血は不浄だとされていて、 そのケガレを 「血穢」 と言います。 実は、 不浄を示 す3つの色があります。 これを三不浄と言いますが、 血穢は赤です。 赤不浄と言います。 それ から白不浄というのがあるんです。 これはお産なんです。 お産が不浄であるとして 「産穢」 と 言い、 白不浄と言います。 それから黒不浄というのがあるんです。 これは 「死穢」 死んだ人の ケガレです。 だから例えば葬儀の後に塩を撒くというのは、 死穢を清めているわけです。 この中の血穢ですね。 女は血を流すから不浄なんだという風に必ず言われるわけです。 血の 不浄ということを、 必ずいろいろな方達が土俵の女人禁制が出るたびに言いますけれども、 彼 ら、 彼女らが言うことというのは女は不浄だ、 なぜなら血を流す、 血というのは月経血である、 月経血は不浄である、 だから女は不浄である、 これは差別だというこの流れになってくるわけ です。 もちろん、 相撲界は女人禁制は血穢のせいだということは一切言いませんが、 外部では そう憶測されていることは、 事実なわけです。 そして、 これについてなんですが、 明治から大 正にかけての日本には、 白不浄、 つまりお産、 それから赤不浄、 つまり生理中というのは、 小 さな小屋を作って、 その期間の女の人をそこに入れて、 一般の人達と接触できないようにして いた、 ということがあるんです。 それで、 生理中であったりお産が近い人達とは火を別にして 料理を作っていました。 女の人達はそこに入れられて、 ずっとそこで過ごしていたということ があります。 そこで忌みが明けるまで過ごしました。 子供を生むための産小屋、 生理中の月小 屋、 そこにこもらされていました。 そしていずれも白不浄と赤不浄の女性が家族とは別の火で 煮炊きします。 これは平安時代から始まったとされる触穢思想、 触れるとケガレがうつるとい うことですけれども、 触穢思想の始まりだという風に言われます。 ところが面白いことに、 生 理期間が終わると、 もう不浄ではなくなると考えていました。 子供を産んである時期を過ぎる と、 不浄ではなくなると考えていました。 ただ、 そのぐらい昔からずっと、 その血のケガレと いうのをみんなが知っていたわけです。 何故に血が不浄なのかというのは、 分からなくても、 とにかく血は不浄であると。 そこで私は何故に血は不浄なのか、 何故に血を流す人間は、 土俵 の中に限らず、 聖域には入っていけないのかということをずっと調べていきました。 今日の資料のAですが (資料A参照)、 これは血盆経の経文です。 これはまあおどろおどろ しい経なんですけれども、 1250年から1350年の間ぐらいに中国から日本に入ったと言われてい る経典です。 漢字でわずか400文字くらいなんです。 これは日本の天台宗、 臨済宗、 浄土宗、 曹洞宗で受け入れられたと言われています。 この血盆経を研究していらっしゃる学者もたくさ んおられ、 経文にも少し違いがあるようですがAは千葉県我孫子市の曹洞宗、 正泉寺というと ころで唱えられていたものです。 そして本山の曹洞宗の大本山の総持寺では、 1981年、 昭和56 年までこの血盆経が生きていたといいます。 この血盆経を読むとすごいんですけれども、 もう 前もって資料をお渡ししたので読まれたと思いますが、 これは高達奈緒美さんの論文からの引 用です。 「和讃」 といって、 血盆経をリズミカルな日本語に訳したものですが、 第1行目に 「帰命頂礼血ぼん経 は 月に七日の月水と 女人のあく (悪) 業深ゆゑ 産する時の大あく血 ― 91 ― 御説玉ひし慈悲海 神や仏を汚すゆゑ 渡る苦界のありさま 自ずと罰を受くるなり」 つまり月に7日間、 生理があって、 出産の時に血を流す、 それが神様や仏様を汚すから、 女 は無条件に罰を受けるんだということを言っているわけです。 この和讃というものをもう少し 説明しますと、 400文字の漢文では無学な女達は唱えられない、 というので江戸期になってか ら、 唱えやすいように基本的に七五調で書き直したものです。 女達はみんなで集まってこれを 必死に全員で唱えたわけです。 この和讃をみんなで唱えることによって、 たくさん唱えれば唱 えるほど罪が軽くなると言われていました。 ですから女達は、 何十人、 何百人と集まって、 一 緒になって 「御説玉ひし慈悲海 渡る苦界のありさまは 月に七日の月水と」 と大声で唱えて いるということは一種のトランス状態です。 トランス状態ですから、 ますます自分達は罪深い んだということが嫌でも知らされたと思うんですけれども、 結局女は無条件に、 とにかく女に 生まれただけでも罰を受けるんです。 そして女が流した悪い血というのは、 地面に触れて四万 由旬、 つまり深さ80万キロメートル、 広さ80万キロメートルの池になる、 その血の池というの は女が自分で作った地獄であるから、 女として生まれた以上、 身分が高かろうが、 身分が低か ろうが、 みんなこの地獄に落ちるのだ、 ということをこの血盆経は言っています。 この後の文 言も怖いんですけれども、 「扨この地獄の有さまは 池に 髪は浮草身は沈み を破りて肉をくひ 糸あみ張て鬼どもが 下へ沈ば黒がねの すみや岸へと近よれば わたれわたれと責かける 渡はならずその 嘴大きい虫どもが 身にはせきなく喰付て 皮 獄卒どもが追いだす 向ふの岸を見わたせば 鬼 どもそろふて待いたる」 つまり一回でも血の池に落とされてしまうと、 もう髪は浮かんで体は沈む、 沈んだら大きな 嘴の虫が皮に食い付いて肉を食べる。 これは大変だと言って、 なんとか岸辺に逃げると、 岸辺 には鬼達がいて 「さあ、 また行け、 落ちろ落ちろ」 と言うわけです。 「哀女人のかなしさは り 岸に立たる顔見れば 呵嘖せられて暇もなし 娑婆にて化粧し黒髪も 寄くる波の音きけば 色も変て血に染り 山も崩るゝばかりな 痩おとろへて哀なり」 つまり娑婆での姿は綺麗だった、 だけれども、 女はどっちみち汚いわけですから、 池に沈ん だら見た目も汚くなってしまった。 そして池に沈んだり浮いたりしながら、 食事代わりに丸め た血を食べさせられて、 水代わりに血を飲ませられる。 女たちはこの和讃を唱えながら、 女に 生まれて血を流したんだから、 自分で悪いことをやってるんだからこれは当然なんだ、 だから 女達は本当に悲しい、 と言って泣くわけです。 その泣き声は千万個の雷の音より恐ろしい、 あ あ悪行を作った女の身が悲しい、 でも悪行を作ったわけではなくて、 女に生まれてきてしまっ たということなんです。 そして 「穢れた身として生まれた女達は、 血盆経を信じて唱えなさい。 そうすれば先に死んだお母さん、 お姉さん、 兄弟達もみんなこの恐ろしい血の池地獄から逃れ られるのだ、 地蔵菩薩が極楽浄土に連れて行ってくれるのだ、 さあ女共よ、 成仏するために血 盆経を唱えよ」 と教えるわけですね。 この血盆経、 嘴につつかれて肉を食らうとかいうこれを 1981年までやっていた、 というのは恐ろしいものがあるんですけれども、 実際にこれを一生懸 命唱えていた無知な女達の時代というのは確かにあったわけです。 それがずっと今もつながっ てきていて、 血穢というのを考える時に、 この血盆経は避けては通れないと今も言われていま す。 それからもう一つ、 こういう教えもあるんです。 これは 「変成男子」 と言いまして、 法華経 や浄土教などで言われていたんですが、 つまり、 女が男に成り代わればいいということなんで す。 「女の身では天国に行けないけれども、 死んで男に成ってしまえば天国に行けますよ、 極 ― 92 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「女は不浄か? ―大相撲における女人禁制―」 楽浄土に行けますよ」 という教えなんです。 これも、 一生懸命経典を唱えるんです。 血盆経は 言うに及ばずですけれども、 男に生まれ変われば大丈夫ですよというのも、 ものすごい差別じゃ ないかと怒っている方々もたくさんいます。 今時の高校生だったら 「馬鹿みたい、 笑っちゃう」 で済ますでしょうけれども、 ずっとこれがあったというのは事実なんです。 そして、 大相撲に関して言うと、 相撲界そのものが、 男の世界であり、 修験道、 つまり高野 山なんかの修験をする、 山岳宗教と深いつながりを持っていました。 たとえば、 土俵には 「徳 俵」 という俵が出っ張っています。 徳俵は東西南北の四方に一俵ずつ出っ張っていますが、 こ の徳俵の分だけ土俵が広いことになってトクする。 だから徳俵と言うんだという説もあるんで すが、 本当は、 外で相撲を取っていた時代に、 雨や雪が降ったりして、 水はけが悪くなった時 に、 この俵を外すと排水口になったというんです。 そのための名残が今もある、 という風に言 われています。 ところがもう一つ説があって、 それは山岳宗教と絡んだ説なんですけれども、 山岳宗教では、 修行の邪魔になる人達は絶対に中に入れません。 どうするかというと、 山岳宗 教の修験僧達が修行している場所の入り口には、 「違い垣」 というものが作られていたそうな んです。 これは入口の前に俵を互い違いに置いて、 俵に椿の枝を鋭く切ったものを挿していた と、 山田知子さんが論文に書かれています。 これによって魔物が入ってこられないようにした んですね。 でも違い垣は簡単に飛び越えることができますから、 まさしく装置的結界なんです けれども、 これが土俵の徳俵として残っています。 そういう形で大変に厳しい戒律がある修行 の場、 という形での土俵というものが作られているわけです。 そして、 いかに山岳宗教で女人禁制が厳しかったか、 というのはいろいろな説がありますけ れども、 例えば、 今でも高野山はあるところから先、 女の人達が入れなくなっています。 この 高野山に大変面白い話があって、 高野山を開いたのは空海なんですけれども、 高野山参詣曼 荼羅 という画集があります。 これは図書館に行けば簡単に見ることができると思います。 こ こに空海とお母さんの絵が描かれています。 これを見た時は本当にびっくりしたんですけれど も、 空海のお母さんが、 「私は女だけれども、 上まで行ってお参りしたい」 と言いました。 そ うしましたら、 息子の空海は厳しく修行していますから、 「お母さんは女だからここから先は 行くことができません。 お帰り下さい」 と言ったんです。 このお母さんも小野小町と同じで結 構気が強くて、 「嫌だよ、 私は行くよ」 と言ったんでしょうね。 そのお母さんの足元に石があっ たそうです。 空海はその石に自分が着ていた袈裟を脱いでかけたんです。 そしてお母さんに、 「いくら止めてもお分かりにならないのであれば、 女性が入ってはいけない所ですけれども、 どうぞ行って下さい。 しかしその前に、 私が袈裟をかけたこの石をまたいで行って下さい、 こ の石をまたいでも何もなかったらどうぞ上までいらして下さい」 とお母さんに言うんです。 お 母さんは 「分かった、 私は行くよ」 と言ってまたいだんです。 そうしましたら、 その絵が 野山参詣曼荼羅 高 に出ているんですけれども、 お母さんがその石をまたぐと同時にものすごい 勢いで袈裟が燃え上がったんだそうです。 そして尚且つその石の上にお母さんの経血が落ちた んです。 お母さんはいくつとは書いていませんけれども、 人生50年もいってないくらいの時代 ですから、 お母さんが40歳であれ30歳であれ、 すでに生理はなかったかもしれません。 だけれ ども袈裟が燃えて生理がきてしまった。 それでお母さんもすごく驚いて、 「分かった、 やはり ここは聖なる場所だから、 私は行かない」 ということになって、 今でも大峰山にも比叡山にも、 女の人達はここまではお参りしていいですよ、 という祠が立っていますけれども、 お母さんは それっきり二度とこういうことをしなかったという伝説と絵が残っています。 ― 93 ― ですから、 そういったことというのが確かに当時はあったんです。 血が不浄だというのは本 当にたくさんいろいろなところに出てきているんですけれども、 相撲は山岳宗教と深いつなが りがある、 それから神道とも深くつながっています。 これは皆さんに、 是非一度ご覧になって 頂きたいんですけれども、 必ず本場所の初日の前日、 朝9時半に 「神迎えの儀式」 というもの を土俵でやります。 これは今まではずっと絶対に誰にも見せない秘密の儀式だったんです。 と ころが今は見せています。 ですから、 その気になればどなたでも見ることができます。 ただ、 あまり知られていないので見る人は少ないんですけれども、 この神迎えの儀式というのをご覧 になると、 今申し上げた以上に、 土俵というのは確かに神と結びついている、 というのが分か ります。 何をやるかと言いますと、 土俵に神道の神主さんの恰好をした行司さんが現れまして、 神様を招くんです。 祝詞をあげたりお祓いをしたり、 お神酒を回したりして神様を招くんです。 その時に、 神様というのは必ず依代というのに宿るんですけれども、 御幣を土俵の真ん中に7 本の御幣を立てまして、 神主さんの恰好をした行司さんが、 この御幣に神様を宿らせるという 儀式をやるんです。 これは無料ですし、 一度ご覧になるとかなり面白いです。 やはり強ければ いいというスポーツとは全然違う、 というのがお分かり頂けると思いますけれども、 儀式によっ て7本の神様が7本につきました。 このついた神様をどうするかというと、 これもテレビではっ きり分かります。 四つの房の後ろに、 その御幣をつけるわけです。 ですから、 テレビに映って いる青房や赤房の後ろにある御幣というのは、 神様のついている御幣です。 目には見えません が神様が宿っているということです。 そして、 本場所の千秋楽に、 表彰式などが全部終わった後に、 今まで15日間見守って下さっ た神様を送る 「神送りの儀式」 というのがあるんです。 これも誰でも見ることができます。 た だこれの場合は、 千秋楽の入場券が必要です。 最後まで表彰式も全部終わるまで見て、 その後 で大変興味深い儀式が見られるわけです。 神が宿った7本の御幣のうち4本は房に取り付けま した。 残りの3本は、 行司部屋に祀ってあるんです。 そのうちの1本を、 まだ下っ端の非常に 若い行司さんが手にして、 今場所入ったばかりの新弟子達が土俵の上で輪になって、 その行司 さんを土俵の上で胴上げするんです。 行司さんは御幣を持って宙を舞うわけですね。 これによっ て、 ついていた神が天にお帰りになった、 という行事なんです。 その後お神酒を回して手締め をして終わりです。 これでやっと神事が全部終わったとなるわけです。 ですから大相撲は神道 や山岳宗教の色があり、 どう考えてみても土俵は聖域ということがお分かり頂けると思います。 それで、 土俵は聖域だということは分かった、 それから血盆経を含めて、 血を恐れるという か血を非常に忌み嫌うということも分かった、 それではなぜ血を流す人達というのは、 聖域に は入ってはいけないのか。 血の何がいけないんだという話になっていくわけです。 例えば、 男 の人は土俵上で相撲を取った時に、 ぶつかり合って血が流れる場合があります。 力士と力士が 立合いで当たった時に、 1トンの力があると言います。 1トンの力で当たった時に、 当然切れ たりして血が流れて、 土俵の上に滴り落ちるということもあるし、 体やマワシが血で染まった ということもあります。 では男の血は不浄ではないのか、 女の血とどこが違うんだという話に なってくるわけです。 いろいろな文献を大学院に行っている時に探してみたんですけれども、 非常に納得できると いう文献がほとんどないんです。 その中で、 メアリー・ダグラスという人が書いた 忌 汚穢と禁 という思潮社から出ている本なんですけれども (資料B参照)、 これが非常に納得できた んです。 ― 94 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「女は不浄か? ―大相撲における女人禁制―」 「なんらかの点でまず肉体との関連をもたない穢れはほとんどなく、 生命が肉体に宿る以上、 肉体を完全に拒否することはできない」 つまり穢れというのは必ず人間の肉体、 動物もそうですけれども、 肉体と関係しているとい うわけです。 それをもっと具体的に書いたのが次です。 「肉体の開口部は特に傷つき易い部分を象徴していると予想するべきであろう。 そういった 開口部から溢出する物質は、 この上なく明白に周辺部の特徴をもった物質なのである」 これはつまり人間の体内の物質は開口部、 穴から流れてくるということです。 唾、 これは口 という穴です。 血、 乳、 尿、 大便あるいは涙といったものは、 穴から流れ出てきます。 それは 肉体の限界を超えたことになる。 本来は肉体の中にしまってあるものが、 肉体の限界を超えて その穴から出てくる。 つまりそれは体から剥落したもの、 皮膚、 爪、 切られた髪の毛、 汗等も 全く同様であるとメアリー・ダグラスは書いています。 肉体と穢れが深く関係していると考え た時、 女性が開口部から流す血と、 男の人が戦って切れて流れ出た血の違いが分かります。 もちろん私は、 血、 乳、 尿、 唾など開口部から流れたものが不浄だとは思っていませんけれ ども、 メアリー・ダグラスの書いていることは、 非常に納得できたんです。 更に興味深いのが、 この血というものを、 何故昔の人はそんなに不浄視したのか、 というこ とです。 実は男の人達が、 血を流す女というものを非常に怖がっていたというんです。 血とい う字は今は血液の血という字を書きますけれども、 古語では 「霊」 と書いてチと読んだんです。 これは古語辞典を見ても出ています。 つまり血は霊ともイコールであり、 霊はイコール力なん です。 力があるということです。 そうなると、 月に一回、 開口部から血を流す女というのは非 常に恐ろしかっただろうと思います。 まして今のようにしっかりとした医学的、 衛生的な観念 があった時代ではありませんから、 女の人達というのは、 血を流しながら町を歩いていたかも しれません。 そうなった時に、 これはなんなんだろう、 という怯えは当然出てきただろうと思 います。 さらにそれだけではなくて、 折口信夫という有名な学者がいますけれども、 その学者 は、 「当時の人たちは生理は神と性交したせいだと考えていた」 と書いています。 だから先程 申し上げた産小屋や月小屋という、 別の小屋に女の人を移すのは、 もちろん血が霊ということ で怖いというのはあるんですけれども、 そこで女達は神と性関係を結んだのである、 だから血 が流れるんだという風に考えていた、 ということもあるわけです。 神と性交した血となると、 これは怖いですよね。 それからまたもう一人、 宮田登という学者は次のように書いています。 「女性の生理について、 合理的な説明ができにくかった時代では、 いずれも人知を越えた神 秘的領域と係る現象と思われていたに違いない。 今のように何故に生理があるかというのが分 からない時代だったので、 だからそれは神秘的な領域のものに思われていたに違いない。 とり わけ出血が殺傷の際に生じ、 それが結果的に死と結びつく。 怪我をしたり殺し合いをしたりす れば血が流れて、 それが結果的に死ぬということと結びつく。 それであるからして、 血を非常 に怖がったというのは当然であった。 大量に出血すると死に至るのではないかという、 自然な 恐怖感がまずあった。 そして、 この背後に特別な神との関わりを信ずる武器を生じたのであろ う」 と書いています。 つまりこれで考えると、 血は不浄である、 怖い、 嫌だ、 不潔だというのと 同様に非常に怖いというのがベースにあったということが分かります。 だから、 怖いものはつ ぶさなければいけない、 ということで、 男達や権力者達が、 お前達は男より下等な動物なんだ、 ― 95 ― ということを教え込むことで、 不浄として差別したこともあるのだろうと言われています。 こうやって結局、 血というものが不浄であるという流れができてきたようです。 相撲界では 血が不浄だから、 という言い方は一切していませんけれども、 ただ山岳宗教や神道というのは、 不浄なものを排除する思いが非常に強い宗教ですから、 それが相撲に関わっているというので あれば、 女人禁制を守ってきたというのはどこかで納得できるわけです。 陰陽道の影響も非常に強く受けています。 陰陽道では、 青、 赤、 白、 黒、 この4色に加えて、 黄色が基本の色です。 相撲においては、 先程言ったように、 青は春、 夏は赤、 秋が白で冬が黒、 この4色があります。 でも黄色も実はあるんです。 黄色がいつのシーズンかというと土用なん ですが、 土俵周りにもこの土用が入っています。 土俵のどこに黄色があるか、 わかりますか。 昔は黄色い御幣を使って土用を示していました。 ところが今は土俵周りに黄色はどこにも見あ たりません。 ところがあるんです。 何が黄色かというと、 土俵の土の色なんです。 土俵の土の 色を黄色とみなしています。 ですから、 陰陽道の5色というのが土俵の周りにあるんです。 こうやって考えていきますと、 やはり非常に宗教的なスポーツであるということがお分かり になると思います。 形を変えながらも1350年以上も続いている相撲に、 簡単にグローバルスタ ンダードだとか、 男女共同参画だとか、 さらには21世紀は女の時代だなんて根拠のないことを 当てはめようというのは、 浅はかだと私は思っています。 実は私は論文を書きながら、 ある時、 大きなことに気がつきました。 これは何かと言います と、 先程申し上げましたように、 「神迎えの儀式」 をやることによって、 土俵は聖域になりま す。 「神送りの儀式」 をやることによって、 土俵は単なる土に戻ります。 単なる土の上だった ならば、 不浄だろうが誰だろうが乗ってもいいはずなんです。 神を呼んだ聖域であれば、 男の 人しか乗せたらいけないかもしれませんが、 これが神送りを済ませて、 単なる地面になったら 女の人が乗ってもいいではないかという疑問が出てくるわけです。 不浄だって構わないだろう と。 ある時に、 国会議員の辻元清美さんが非常にすごいことを言っていたんです。 「土俵に女を 乗せろ」 と。 彼女も相撲の知識があって言っているわけではないと思いますが、 「土俵に女を 乗せろ、 セクハラノックが土俵に上がれて、 なんで女はだめやねん」 と言いました。 ノックと はセクハラでやめさせられた大阪府知事ですね。 よく考えてみると辻元さんのいうことは一理 あるんです。 セクハラをしたということで、 もう彼は穢れているわけです。 その穢れた男がな んの潔斎もせずに、 つまり身を清めもせずに、 役所から来たままぽんと土俵に上がってしまっ て、 大阪府知事杯を渡すなんて変でしょう、 というのが当然出てくるわけです。 それでおかしいなと思っている時に、 2005年の7月場所で、 呆れる事件がありました。 内閣 総理大臣杯を官房副長官が代理で渡しました。 内閣総理大臣杯は本来、 内閣総理大臣が渡すも のですけれども、 官房副長官が代わりに渡すことは結構多いんです。 ですから、 別に男の官房 副長官が渡すのは何の問題もないんですけれども、 呆れたことに、 私はテレビで見ていたので すが、 その官房副長官はクールビズで上がったんです。 官房副長官はノーネクタイで、 クール ビズで内閣総理大臣杯を渡しました。 私は激怒したんです。 当たり前です。 なぜかというと、 土俵は聖域だから、 不浄な女は上がるなと言っている、 ではそれはのみましょう、 と。 だけれ ども、 その官房副長官は、 確かに男かもしれないが、 クールビズで上がりました。 クールビズ が何かといったら、 これはビジネスシーンにおける省略着です。 ビジネスシーンにおける省略 着で、 暑くても大丈夫なように、 ラクな恰好で事務をとるわけです。 ですから、 聖域に着て来 ― 96 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「女は不浄か? ―大相撲における女人禁制―」 る服ではありません。 土俵の周りを見て頂ければ分かる通り、 先程申し上げたように、 親方衆 は、 土俵用の草履に履きかえて上がっています。 それから全員が紋付袴です。 袷の紋付袴であ り、 一重の紋付袴であり、 夏になれば絽を着ます。 必ず親方は紋付袴、 それから力士は裸です。 裸というのは力士の正装なんです。 何も持っていない公明正大な裸ということで正装です。 海 外の人は民族衣裳を着て上がったりします。 民族衣裳というのも正装であり、 礼装です。 そこ に国会議員である官房副長官が、 おめおめと、 よくぞクールビズで上がってくれたじゃないか と、 私はカリカリきまして、 何を考えているんだと思ったわけです。 私はこれには大問題があ ると思いました。 よりによって国会議員が国技たるものに関して全く何も分かっていなかった。 聖域にはそういう恰好で上がってはいけないんだということを分からなかった。 秘書達も疑問 を持たずに送り出したんだろうと思います。 ということは秘書達もそのレベルだった、 とそう いうことになります。 私はもしかしたら、 女人禁制にかみつく知事達や市長達も、 そのレベル ということもあろうと思わざるを得ませんでした。 その人達に女人禁制などと相撲の根幹に関 わることを言う資格はありません。 ないのに平気で言っているわけです。 1959年に、 土俵の鬼、 若乃花が優勝しました。 ところが、 優勝すると思っていなかったもの ですから、 正装である紋付袴を用意していなかったんです。 パレードをするのに紋付袴がない んです。 それでどうしたかというと、 若乃花は、 マワシ一本でオープンカーに乗ったんです。 それで横に、 優勝旗を持って、 若秩父というお相撲さんがやはり裸で乗りました。 これを考え ても分かる通り、 普通の人が締込み一本で町を歩いたら、 警官に 「ちょっとキミキミ」 と言わ れるんです。 ところが力士は町なかをパレードしても言われないんです。 それは裸が正装であ り、 礼装であるということを誰もが分かっているからなんです。 ところが国会議員は分かって いなくて、 クールビズで土俵に上がったんですから、 私は、 横綱審議委員会の時に怒りました。 「こういう無知な国会議員を土俵に上げると言うのであれば、 女も乗せて頂きましょう」 と言っ たんです。 礼装で上がらないということは不浄なんです。 「礼装で上がらないということは不 浄だと言うのに平気で上げている。 だったら、 不浄な女性も上げるべきです」 と言ったら協会 は少し困っていました。 これ以上突っ込んでもかわいそうだなと思って、 あまりそれ以上突っ 込まなかったんですが、 おそらくもしかしたら、 「クールビズで行ってもよいですか」 という 連絡が前もって官邸から入ったということも考えられます。 その時に 「どうぞ」 と言ってしまっ たなら協会にも問題があるし、 「クールビズで行ってもよいですか」 と言った官房長官側にも 問題がある。 全然分かっていないわけです。 それで、 おそらくこの後、 世の中の流れとしては、 必ず女を土俵に上げろという方向に、 ま た行くような気がするんです。 ここ二、 三年は太田知事も言いません。 私はいつでも受けて立 とうと思っているんですけれども、 今のところは言ってきません。 ただこの後も言ってくる可 能性はあります。 そうした時に、 方法が一つあるんです。 土俵の聖域、 今まで守ってきたもの を守りながら、 女も土俵に上げるという方法を、 私は修士論文を書く上でやっと思いついて、 我ながらいい案だと思って、 教授にも褒められたんですけれども、 これがCという資料です (資料C参照)。 Cでお分かりの通り、 現在、 表彰式は神送りの前に行っています。 神送りの前ですから、 神 のいる時限、 空間で表彰式が行われています。 だから私はクールビズで上がってはいけないと 言っているわけですけれども、 式次第では10項目ありますが、 まず君が代があって、 賜杯拝戴 があって、 優勝旗授与、 総理大臣賞の授与と続きます。 森山官房長官が総理の代理で上がると ― 97 ― 言ったのは4番目です。 それから優勝力士のインタビューがあって、 各国の優勝力士への友好 杯があって、 女性の太田さんが土俵に上がりたいと言ったのは6番目です。 そして殊勲・敢闘・ 技能の賞があって、 それで出世力士の手打式があって、 9番目で初めて行司の胴上げがありま す。 ですから9番目に至るまではずっと神様はいます。 神様がいるところに女を上げてはいけ ないというのであれば、 男もきちんとした礼装で来なさい、 潔斎してから来なさい、 というの が私の意見なんですけれども、 結局はこれの順番を変えれば済むんです。 君が代があって、 優勝杯の賜杯拝戴があって、 優勝旗の授与があって、 そして、 総理大臣賞 授与式というのが4番目にあるからいけないんです。 この後、 女性が総理大臣になることもあ り得るわけです。 もし、 宗教的な行事、 神事としての女人禁制を協会がなんとしてでも守りた い、 だけれども女性を上げろというのも世の流れだ、 困った、 ということであれば、 優勝旗授 与の後、 神送りをやってしまうんです。 神送りをやってしまえば土俵はもう単なる地べたです から、 女であれ猫であれ犬であれ、 短パンであれランニングシャツであれ、 誰だって乗ってい いわけです。 そうすると、 いくらでも好きにどうぞ、 Tシャツでどうぞ、 という話になってき ます。 おそらく私は今後、 もし協会が宗教、 神事としての女人禁制を守り抜くと考え、 また逆 に女の人達は 「いつまでそんな古臭いことをしているんだ、 血の不浄なんていうのは過去には あったかもしれないけれども、 今はそんなものは通用しない」 となってきた時にどうするかと いったならば、 賜杯拝戴と優勝旗授与だけを儀式として、 それが済んだら神送りをやってしま うのがベストだと思っています。 すぐに北の湖さんに言いました。 北の湖さんも 「なるほど、 そうですね」 と言っていましたけれども、 何十年か後にそういうことになったら、 これは内館 のグッドアイデアだと今から自慢しておきますね。 こういうわけで相撲界というのは、 非常に面倒臭い状況があります。 昨日たまたま雑誌で新 横綱白鵬と対談をしたんですけれども、 彼はその中で本当によく頑張ってきたと思います。 今 の世の中とは大きくかけ離れた相撲界ではありますけれども、 ただこれをここまでしっかりと 守り抜いてきたということもまた事実です。 学者達の中には、 例えば 「国技というものは、 国 民皆で楽しめるものだ。 だから女が上がれないというのは国技ではない」 とか、 それから、 「男も女も皆、 お母さんから産まれたんだから、 女も土俵に上がるべきだ」 とか何ともはやシュー ルとしか言いようのない意見を言う人もいるんですけれども、 今お話申し上げたことで、 そん な問題とは少し違うというのがお分かり頂けたのではないかと思います。 おそらく今後もいろ いろなことが出てくるかもしれませんけれども、 多分相撲界の場合は、 これをある程度までは 一生懸命守っていくだろうと思います。 私は大蔵流狂言に伝わる言葉が好きなんですけれども、 「乱れて盛んになるよりは、 固く守 りて滅びよ」 というんです。 私は、 固く守りて滅ぶというくらいの気概をもっていないと、 伝 統的なものというのは守り抜けないだろうという気がしています。 例えば、 相撲は古いと言わ れるままに髷を切って茶髪になったり、 プロレスやボクシングと同じようにテーマ曲に乗って、 それぞれの力士が土俵に上がってくる、 となったら、 これはもう相撲ではない。 たとえ盛んに なったとしても乱れたことです。 その他にも、 相撲ではダメ押しさえ怒られるわけです。 相手 が負けた直後に、 とどめをさしてはいけないんです。 とどめは恥ずかしいことなんです。 スポー ツであれば、 とどめをさすところまで徹底的にやるという考え方もありますし、 朝青龍は平気 でダメ押しをしまくります。 でも、 その徹底的にやるというのは相撲の美意識にはないんです。 そういったことも含めて、 かなりいろいろなことが相撲界の中には残っていて、 日本人の意識 ― 98 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「女は不浄か? ―大相撲における女人禁制―」 としても、 昔の意識が残っています。 だから、 これをどう守っていくか、 というのが、 面白い テーマになっていくのではないかと思っています。 「いつの日か博士課程に行って、 相撲で博士号取ります」 と東北大学で大見得切った割には 全然めども立たないんですけれども、 とにかく、 こういう形で、 皆さんの前で相撲の話を二回 できたことは、 私にとっても大変うれしいことでした。 是非、 テレビをご覧になったり、 国技 館にいらっしゃった時に、 今のことを少しでも思い出して頂ければと思います。 私は東京場所 は自分の席を前もって15日間通しで買っていますので、 正面の第一列目の4番というところに 必ずおります。 ですから、 見かけたら声をかけて下さい。 力士が落ちてくるものですから、 非 常に怖い席です。 千代大海と魁皇が二人で組み合ったまま私の席に落ちてきて、 あばらを折り ました。 でも、 これからも相撲を愛し、 研究を続けていくつもりです。 今回で一応相撲の話は 終わりますけれども、 ノースアジア大学でのこういった講演は、 この後もまた少し違ったテー マで面白いことをやろうと思っていますので、 是非また続けてお越し下さい。 ありがとうござ いました。 (拍手) 阿 部 ありがとうございました。 それでは、 せっかくの機会ですので、 会場の方から質問を受けた いと思いますが、 いかがでしょうか。 西 尾 今日は貴重なお話ありがとうございました。 ノースアジア大学経済学部の西尾と申します。 本日は相撲を通じて、 その中にわれわれ日本人の宗教観、 いわゆるシャーマニズム、 アニミズ ムといわれるような、 社会的、 伝統的な習慣があるんだということを学ばせて頂きました。 あ りがとうございます。 一方、 私自身も今回新しく知ることがたくさんあったんですけれども、 その中で思うのは、 日本人の社会的な知識、 常識が薄れていることが非常に残念だなと。 ある いは女性を土俵に上げろとおっしゃっている方の中には、 知っていて意固地にこうしている方 もいらっしゃるのではないのかなと思うんですけれども、 お話の中で、 グローバルスタンダー ドというのが出ましたけれども、 国際化というのは本来自国の伝統文化を踏まえた上でそれを 他国と比較して、 お互い認め合うものだと考えております。 そのためには当然自国の文化や伝 統をしっかり知らないといけないと思いますし、 自国の文化に対する尊敬の念がなければいけ ないと思うんですけれども、 われわれ教育者に限らず、 大人として、 これからの子供達やその 他多くの方々に対して、 伝統文化を守っていくためにはどういう風に対応したらいいのか、 と いうことをご提案頂ければと思います。 内 館 今おっしゃった通りで、 実はグローバルスタンダードという言葉を使って、 大阪府知事が土 俵の男女共同参画を唱えた時に、 私も怖いなと思いました。 グローバルスタンダードという言 葉そのものが造語なわけです。 グローバルなスタンダードを決めるということですから、 いわ ばグローバルな地球の世界標準みたいなものをグローバルスタンダードと言うのでしょうが、 これは外国では通じない造語だと聞きました。 そうすると今おっしゃったように、 自分の国の 文化や伝統、 民族的なことなど、 そういうネイティブなものにどこの国がグローバルスタンダー ドを当てはめるか、 ということなんです。 こんなことはありえません。 だけれども、 例えばフ ランス、 イギリス、 インドネシア、 中国など、 どこの国でも自国の文化を大事に持っているは ずで、 日本でもそれを持っています。 なのに政治家、 行政の長が、 「グローバルスタンダード」 ― 99 ― なる軽い造語を錦の御旗にして、 それに自国の文化を当てはめようとするのですから、 私は本 当に受験勉強して東北大学に受からねばと火がつきました。 おっしゃる通り、 本当にそれは危 険なことです。 ただ、 今、 少しより戻しがきているような気がしています。 つまり、 あまりに も自国の文化を卑下しすぎたというか、 それは戦後すぐではなくて、 私はここ50年くらいの間 で徹底的に卑下しすぎたという気がしているんですけれども、 例えば、 自国の文化や伝統など、 先程申し上げた、 「固く守りて滅びよ」 というような事を言うと、 すぐ右傾していると言われ る。 そんな世の中になっていたことはあると思います。 それが、 決してイデオロギーの問題で はなくて、 自分の国の文化や先人が伝えてきたものをどう考え、 どう変え、 どう守っていくか ということは、 そのような政治的イデオロギーとは全く違うことだということに、 少しずつ気 がつき始めてきたんではないかと思います。 それで、 今のご質問で伝統文化をどう知らせていくか、 ということなんですけれども、 少し 前置きが長くなりますが、 実は、 森山眞弓官房長官が一番最初に土俵に上げよと言った女性だっ たんです。 これはなぜかと言いますと、 東京の荒川区のちびっこ相撲大会で、 女の子が準優勝 してしまったんです。 これは何の問題もありません。 なぜかと言うと、 女の子が上った土俵は 聖域ではなくて、 神のいないスポーツ施設としての土俵だったからです。 そこで女の子が準優 勝してしまったのはすごいことで、 全国大会が国技館で行われることになったんです。 国技館 で行われる時に、 相撲協会から 「準優勝しても女の子はだめです」 と言われたわけです。 当時、 青少年室長だった森山さんがかんかんに怒って、 国技館の理事二人を青少年室に呼んで、 なぜ だめなんだということを言って怒ったそうです。 それで新聞によりますと、 「いつか女の人が 内閣総理大臣や官房長官になったらどうするおつもりですか」 と言ったらしいです。 そうした ら協会の人達は 「そんなことはないでしょう」 というニュアンスで言葉を濁したようです。 と ころが困ったことに森山さんが官房長官になってしまったわけです。 それで協会は真っ青になっ たということなんですが、 私は当時まだ28、 9でしたけれども、 その新聞記事を読んだ時にこ れは違うなと思ったんです。 つまり、 どうして女の子は上がれないのかという歴史、 考え方を、 女の子に話して聞かせるべきだと私は思ったんです。 それに対して、 女の子が怒ったりしたら、 一緒に怒ってもいいし、 一緒に考えてもいい。 しかし、 森山さんはまず協会にかみついたんで すね。 おそらく頭が男女平等一色だったということがあると思います。 それからもう一つは、 大相撲の知識がなくて、 きちんと話せなかった、 ということもあるかもしれません。 つまり大 人の側に、 そのような伝統文化に対する知識というものがなかった。 批判する以上は、 最低限 の知識がないと、 先程の女性学の女性准教授のように、 「全く無知だが、 あなたの言うことは 間違っている」 というのは通用しません。 そのことから考えて、 どういう風にして伝統文化を教えるか、 ということに関しては、 東京 都の公立学校の場合、 かなり動きが出てきています。 レベル、 偏差値がかなり高い都立高校の 中に、 伝統文化を学ぶ特別な科を設置しているんです。 それは普通の試験だけではなくて、 例 えば、 将棋が何段であるとか、 囲碁が何段であるとか、 相撲で優勝したとか、 それから三味線 や踊りで受賞したとか、 お琴がこれだけうまいとか、 薙刀が何級であるとか、 そういったこと も重要視して合否を決めます。 そしてそこには独特な教科書があって、 教えています。 伝統文 化というものを、 そうやって広げていくということをかなりやっているんです。 ただ、 それで ももちろん、 全体的な数字からしたら微々たるものだと思いますけれども、 私自身は相撲のこ としか伝統文化は語れませんが、 大人達がどこかで意識して、 少なくとも子供や周辺の人達に ― 100 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「女は不浄か? ―大相撲における女人禁制―」 は語れるぐらいの歌舞伎、 能、 相撲、 お花、 それからもう少しゆとりがあれば香道、 といった ものをやはり、 独学でも本で学んでも構わないので、 私は大人が勉強してそれを子供に伝える、 ということだと思います。 外国人は日本人が日本文化を知らないことにあきれるそうですね。 例えば、 先程結界の話で二つだけ、 建築的結界と装置的結界だけは申し上げましたけれども、 もっと高級な結界があるんです。 それはお香なんです。 装置的結界は、 まだ扇子があったり俵 があったり暖簾があったり、 形が見えますけれども、 お香というのは何もないわけです。 だけ れども、 香をたくということによって、 そこの地域は聖域になってくるということを日本人は やっていました。 だから今でも大事なところにはきちんと香をたきしめて、 人を待ったり神を 迎えたりするというのはそういうわけです。 ですからそう考えてみますと、 私はとにかく、 大 人一人ひとりが少しでも雑誌で読むのでもいいから、 勉強して伝えるというくらいしか、 現在 のところは手がないかなと思います。 今日は、 小泉先生がいらっしゃるので、 是非ノースアジ ア大学、 明桜高校でもしっかりと伝統文化というものを教えてほしいなという気が致します。 阿 部 ありがとうございます。 それでは、 これは是非お聞きしておきたいという方がいらっしゃい ましたら、 ご質問お願いしたいと思います。 本 田 ノースアジア大学の教員の本田と申します。 今日はとても興味深い講演をありがとうござい ました。 一つだけ質問をさせて頂きたいのですけれども、 私の父が戦前の生まれで、 相撲がと ても好きで、 毎場所楽しみに相撲を見ていたものですから、 小さい頃から相撲を見ていました。 小さい頃はとても楽しみにしていたんですが、 ある時点から、 外国の力士の方、 例えば小錦さ んとかがいらしてから、 技の相撲というより力の相撲というか、 体格が日本人と違いますから、 ただ押し切るような相撲になってしまって、 それを見ていた父も相撲に対して、 最近の相撲は つまらなくなったといつもこぼしていたんです。 最近は、 琴欧州のようなヨーロッパの力士ま で出てきまして、 女人禁制で土俵に女性が上がれないということに関して、 今日いろいろ興味 深いお話を聞かせて頂いていて思ったんですけれども、 外国人力士がこのままどんどん増えて いきますと、 日本の国技という意味合いが少し薄れてきてしまうかな、 と悲しい気持ちになっ ているんですけれども、 このことに関して、 内館さんのご意見を聞かせて頂きたいと思います。 内 館 今のご意見、 本当にもっともだと思います。 現在、 外国人力士は、 一部屋に一人という制限 がついています。 ですから、 外国人がいないところというのは、 あと三部屋ぐらいしか残って いないんです。 例えば、 朝青龍がいて朝赤龍がいるではないかというのは、 平成13年に 「一部 屋一人」 が決まったわけですから、 その前に入れた部屋というのは、 二人いるところがあるん です。 ですから宮城野部屋も白鵬の他に、 龍皇という力士がいます。 両方ともモンゴルです。 外国人力士がこれ以上増えるといっても、 部屋の数だけはいるということにはなります。 先程 の西尾さんの質問とも重なるんですけれども、 外国人力士が悪いというよりは、 まず協会の相 撲の伝統文化に関する、 教育が非常に手薄なんです。 協会には昭和32年にできた相撲教習所というのがあります。 これは朝実技を練習して、 10時 から学科をやります。 教習所には新弟子は全員入るんです。 とにかく相撲界に入門したら、 大 卒であれ中卒であれ、 そこに突っ込まれるんです。 朝の10時から相撲史、 書道、 社会学、 相撲 甚句、 運動医学などを教えるんです。 6ヶ月間、 大学の名誉教授クラスの方が教えて下さいま ― 101 ― す。 それはとても充実しているんですが、 ただ、 入門したばかりで全然訳が分からない時に、 名誉教授クラスが今私がここで話したようなことを15歳に話しても、 これは難しいです。 だか ら、 ほとんど聞いていないと思うんです。 それと朝7時からもう土俵に下りて実技をするわけ ですから、 部屋を6時くらいに出てきて、 締込みをつけて、 スタンバイしていないといけませ ん。 部屋を6時に出てくるということは、 5時半くらいには起きないといけない、 ということ になります。 それで、 朝からめいっぱい実技をした後に、 女性は不浄かみたいな話を聞いても、 これは15歳じゃなくても辛いです。 だから、 その教育を、 もう一回親方衆と全ての力士にやり 直すシステムを考えましょう、 という話は横綱審議会でもいつも出ているんです。 一つには、 外国人だけではなくて、 若い日本人もが、 全く伝統も美意識も分からない。 だから所作も綺麗 ではなくなってきて、 私流にやってしまっているんです。 これも結局は教育で、 協会は重い腰 をそろそろ上げないといけないでしょうね。 外国人ばかりでは国技ではなくなるという問題に関しては、 その危険性はあると思います。 今も東西の横綱はモンゴルですから、 もう私は大らかに考えて、 相撲は元々モンゴルから渡っ てきたんだから、 と思ってはいるんです。 やっぱり一番困るのが、 強ければいいという考え方 を、 どうしても外国人はするんです。 それから懸賞金をもらう時に、 手刀を切ります。 手刀と いうのは、 手首から指先までが小刀なんです。 肘から指先までが大刀なんです。 ですから例え ば皆さんがテレビを見て頂く上で、 手刀の所作が一番正しいのは高見盛と豊真将です。 高見盛 は愚直なまでに力の入った手刀ですが、 高見盛は 「たかみさかり∼」 と勝ち名乗りを受けると、 大刀で力一杯に切っています。 神様に挨拶をします。 それで懸賞金がきたら、 左右中、 勝負の 三神にお礼をする。 だからこれは小刀で切って、 頂いて、 お辞儀をして降りていくんです。 こ れが外国人力士ですと、 例えば、 琴欧州なんかはいい加減です。 手刀半分くらい切ったら、 お 金をつかんで立っていますから。 朝青龍がたくさんのものすごい量の懸賞金をもらった時に、 紐で結わえてあるんですけれども、 紐を指でつまんで取った。 それも左手で。 私は酔っ払いが 寿司を持って歩いているのか、 と怒ったんですけれども、 やはりこの懸賞金の取り方というの も、 神様からの贈り物ということを眠い時間に教えているわけです。 まして琴欧州達なんかは 日本語が分かりません。 ですから、 結局は教育ということになってくると思います。 外国人だ けでなく、 やはり正直なところ、 日本人の若い男の子も決して分かってはいませんけれども、 お金を稼ぎに来ているのだから強ければいいだろう、 というのは外国人の方が濃いというのは 感じます。 ただ、 昨日白鵬と対談した時に、 そのあたりを突っ込みましたら、 「僕は皆に好かれる横綱 になりたい。 皆に好かれるためには日本の国の伝統文化をきちんと敬愛して、 美しい所作でやっ ていきたい」 と。 「あなた立派ね」 と言ったら、 「うちはお父さんがすごく偉いので、 僕は絶対 恥をかかせたくない」 と。 全員がそういう家庭教育を受けているわけじゃありませんし。 だか ら私は結局は教育だと思います。 そしてもう一つ、 外国人に関して言えば、 野球とかサッカーの場合は、 何億というお金を出 して4番打者にスカウトしたり、 私はサッカーは全然分からないんですけれども、 連れてきた らすぐレギュラーになったりするわけです。 だけれども、 相撲の場合はそのようにお金で連れ てきて、 突然大関にするなんていうことはありません。 必ず一番下から5時半に起きて教習所 に通わされて、 がんもどきの煮たものなどを皆一緒に食べています。 それで稽古して偉くなっ てくるということを考えた時に、 やはり外国人も日本人も同じように扱わなければいけないと ― 102 ― ノースアジア大学 総合研究センター主催 講演会 「女は不浄か? ―大相撲における女人禁制―」 思います。 そこまでは日本人の責任だと思います。 ただそこから先、 外国の伝統文化で禄を食 むということを考えた時に、 自分達がどういう態度でやるかというのはその外国人の知性にか かってくると思います。 だから後は、 私達は少なくとも一生懸命協力して、 サポートするしか ないだろうなということを思います。 (拍手) 阿 部 内館先生、 本当にありがとうございました。 ― 103 ― ) ) ( ) ( ( ( ) ) 2 賜 杯 拝 戴 式 1 君 が 代 斉 唱 思 ひ や ら れ て か な し け り 生 き て い た 時 は 化 粧 し て 美 し か っ た 黒 髪 も 現 在 、 表 彰 式 は 神 送 り の 前 に 行 っ て い る 。 つ ま り 、 神 の い る 時 限 、 空 間 で 行 わ れ 資 料 C ― 104 ― く ち ば し の 虫 ど も が 体 に く い つ き 、 肉 を 食 う 。 何 と か 岸 辺 に 逃 げ る と 鬼 た ち が ま た 血 の 池 に 突 き ば 皮 を 鬼 破 ど り も て そ 肉 ろ を ふ く て ひ 待 い す た み る や 岸 血 へ の と 池 近 地 よ 獄 れ に ば 落 ち る と 、 髪 は 浮 か び 、 体 は 沈 む 。 沈 む と 大 き な 獄 卒 ど も が 追 い だ す 向 ふ の 岸 を 見 わ た せ 出 典 ダ グ ラ ス ・ M 、 一 九 八 五 、 塚 本 利 明 訳 汚 穢 と 禁 忌 、 思 潮 社 池 扨さて 分 に こ が の 高 髪 地 か は 獄 ろ う 浮 の が 草 有 低 身 さ か は ま ろ 沈 は う が み 糸 み 下 あ ん へ み な 沈 張 こ ば て の 地 黒 鬼 獄 が ど に ね も 落 の が ち く る 嘴ちば わ の し 大 た だ き れ い わ 虫 た ど れ も と が 責 か 身 け に る は せ 渡 き は な な く ら 喰くい ず 付つき そ て の た も の 、 皮 膚 、 爪 、 切 ら れ た 毛 髪 お よ び 汗 等 も 全 く 同 様 で あ る 。 ル ビ 内 館 ) て い る 。 式 次 第 は 次 の よ う に 当 日 の 番 付 に 印 刷 さ れ て お り 、 来 場 者 に 配 ら れ る 。 業 な な 哀あわ お ぞ り り 女れ と す 人 呑 食 岸 の 。 向 や を に か こ 呑 好 立 な う や ば た し の と 日 る さ 岸 責 に 顔 は 辺 に か 三 見 け 度 れ 呵 逃 げ ば る 噴 よ 血 せ う 其 の 娑 ら か 時 丸 婆 れ と 女 か に て 見 人 せ て 暇 る の を 化 も と な 与 粧 な 、 へ し く け 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も に ) ( 神 酒 を 回 し 、 手 締 め に 無 上 の 法 を き く ) 」 8 出 世 力 士 手 打 式 た ち は 、 だ か ら 血 盆 経 を 信 じ て 唱 え よ 。 そ う す れ ば 先 に 死 ん だ 母 親 や 姉 妹 も 共 々 、 こ の 恐 ろ し い ( 「 内 の 注 釈 及 び ル ビ は 内 館 10 9 せ 千んし 神 穐ゆう 送 万ばん り 歳ざい 行 司 の 胴 上 げ 血 の 池 地 獄 か ら 逃 れ ら れ る の だ 。 地 蔵 菩 薩 が 極 楽 浄 土 に 連 れ て い っ て く れ る の だ 。 さ あ 、 女 人 の ( 」 内 館 牧 子 、 二 〇 〇 六 、 女 は な ぜ 土 俵 に あ が れ な い の か 、 幻 冬 舎 本 山 の 一 つ で あ る 総 持 寺 成 仏 経 で あ る 血 盆 経 を 唱 え よ う 血 盆 経 は 天 台 宗 、 臨 済 宗 、 浄 土 宗 他 の 各 宗 派 で 受 容 さ れ て い た が 、 特 に 曹 洞 宗 に お い て は 、 ) ) 「 出 典 わ ず か 二 十 五 年 前 ま で 、 血 盆 経 が 生 き て い た そ う で 、 中 野 優 子 は 、 ( ( 書 で 出 い は 典 て 一 い 九 高 る 八 達 。 一 奈 年 緒 美 昭 、 和 二 五 〇 十 〇 六 二 年 、 の 血 授 盆 戒 経 会 信 ま 仰 で の 、 諸 相 血 盆 、 経 慶 応 の 義 授 塾 与 大 が 学 行 ア わ ジ れ ア て 基 礎 い 文 た 化 と 研 い 究 う 会 と 神 や 仏 を 汚 す ゆ ゑ 御 説 玉 ひ し 慈 悲 海 お 自のず 渡 と る 罰 苦 を 界 受 の く あ る り な さ り ま 資 料 B 資 料 A 血 盆 経 和 讃 夏目漱石 論 門 を読む ニーチェ哲学の受容を視座として 文 夏 目 漱 石 門 を 読 む ニーチェ哲学の受容を視座として 橋 元 志 保 Ⅰ 門 の主人公野中宗助は、 過去の罪から逃れ 「心の実質を太く」 するために、 鎌倉の禅寺で参禅を 行う。 しかし、 悟りの糸口すら見出せずに帰京することになる。 自分は門を開けて貰ひに来た。 けれども門番は扉の向側にゐて、 敲いても遂に顔さへ出して呉れ なかつた。 たゞ、 「敲いても駄目だ。 独りで開けて入れ」 と云ふ声が聞えた丈であつた。 彼は何うしたら此門の閂 を開ける事が出来るかを考へた。 さうして其手段と方法を明らかに頭の中で拵えた。 けれども夫を 実地に開ける力は、 少しも養成する事が出来なかつた。 従つて自分の立つてゐる場所は、 此問題を 考へない昔と毫も異なる所がなかつた。 彼は依然として無能無力に鎖ざされた扉の前に取り残され た。 彼は平生自分の分別を便に生きて来た。 其分別が今は彼に祟つたのを口惜く思つた。 さうして 始から取捨も商量も容れない愚なものゝ一徹一図を羨んだ。 もしくは信念に篤い善男善女の、 知慧 も忘れ思議も浮ばぬ精進の程度を崇高と仰いだ。 彼自身は長く門外に佇立むべき運命をもつて生れ て来たものらしかつた。 夫は是非もなかつた。 けれども、 何うせ通れない門なら、 わざわざ其所迄 辿り付くのが矛盾であつた。 彼は後を顧みた。 さうして到底又元の路へ引き返す勇気を有たなかつ た。 彼は前を眺めた。 前には堅固な扉が何時迄も展望を遮ぎつてゐた。 彼は門を通る人ではなかつ た。 又門を通らないで済む人でもなかつた。 要するに、 彼は門の下に立ち竦んで、 日の暮れるのを 待つべき不幸な人であつた。 (二十一) このように全くの失敗に終わってしまった宗助の参禅を、 小説の構成上、 不自然であると見る先行研 究は多い。 たとえば明治43年に谷崎潤一郎は 門 において描かれているのは、 恋の 「眞實」 ではなく 恋の理想であり、 また 「宗助が鎌倉へ参禪に行く所は、 如何に見ても突飛であらう」 と述べている。(1) 田山花袋や正宗白鳥も宗助の参禅のことを 「唐突のやうな気がする(2)」 「少し巫山戯てゐる(3)」 と評して いる。 同様の指摘は現代の批評にまで続いており、 たとえば片岡良一は参禅が 「それほど内面的探求の 意欲の上にあるものとは感じられず」、 ストーリー展開上の 「道具立てとしては、 それがいささか大業 過ぎるものであったことも否定出来まいと思う(4)」 と述べている。 また柄谷行人は作品の成立事情につ いて触れ、 次のように書いている。 門 の宗助は急に鎌倉に参禅してしまう。 それまでの問題を放り出しておいて、 「悟り」 も何も ― 105 ― あったものではない。 これはこの作品の欠点とされており、 その理由として、 漱石の肉体的衰弱が あげられ、 また、 門 は、 という題名に落ちをつけるためにそうしたとも考えられている。(5) 門 東京朝日新聞 及び 大阪朝日新聞 に明治43年3月1日∼6月12日まで104回に渡って 連載された。 いわゆる修善寺の大患は同年8月に起ったのであるから、 この頃既に漱石の胃潰瘍は進行 しており、 6月∼7月にかけて長与胃腸病院に入院している。(6) つまりそのような体調の悪化が小説に 影響を与え、 欠陥ともいうべき唐突な宗助の参禅が生まれたのだというのである。 また後述するが、 こ の小説に 門 というタイトルを付けたのは漱石ではない。 それゆえ 「落ちをつけるために」 宗助を参 禅させたのだという考えもあるという。 このような先行研究に対して参禅の必然性を説くものとして重松泰雄や海老井英次の論が挙げられる。 重松論は、 それから が上梓されて間もない頃漱石が弟子の林原耕三に向かって 「あの結末は本当は 、 、 宗教に持って行くべきだろうが、 今の俺がそれをするとうそになる、 ああするより外なかった」 と語っ たという伝記的事実や、 三四郎 のヒロイン美子が三四郎を裏切り他の男性の許に嫁ごうとする時、 教会の前で 「われは我が愆を知る。 我が罪は常に我が前にあり」 とダビデの懺悔の歌を呟くことから、 「 門 の起筆に際して、 一篇の 結末 を宗教に持って行くというプランがあったに相違ない」 と述べ ている。 また宗助という主人公の名前も 「 宗教 へ導くべき人形としての命名」 ではなかったか、 と指 摘している。(7) それから から 行人 までを漱石の文学において最も宗教の問題が表われた時期とし、 <信>の観点から 門 の読解を試みる酒井論も、 安井との邂逅を恐れる宗助が、 「それが結局は自身 の心の問題であることに気付いた時、 改めて<宗教>の二字を想起している」 ことを指摘している。(8) 以上のように、 宗助の参禅をストーリーの構成上 「突飛」 または 「欠陥」 と捉える先行研究の流れの 中で、 その意義を認める論は少なく、 またその論拠をキリスト教を含めた宗教的なものへの傾倒や、 三四郎 それから 行人 といった前後の作品、 また執筆当時の漱石の言葉に求めるものが多いの である。 しかし、 これまであまり論じられてはこなかったが、 ドリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェの 門 のタイトルの典拠となったフリー ツァラトゥストラはかく語った (以下 ツァラトゥストラ と 略す) からの影響は、 先に引用した 「参禅」 の失敗時に表われる幻影の 「門」 の記述付近にも顕著であ ると思われる。 漱石の文学に対するニーチェの影響はウィリアム・ジェームズやアンリ・ベルグソン等 と比べると軽視され、 先行研究も僅かしか存在しない。 しかし漱石は確かに ツァラトゥストラ を所 蔵し、 詳細な書き入れを行いながら読み、 また彼の弟子達やその友人達の間でも同書は読まれ、 研究や 翻訳が行われていたのである。 ゆえに本稿では、 ツァラトゥストラ を中心とするニーチェ哲学の受容を視座としつつ、 門 を読 み解いていきたい。 また宗助の参禅の意味について考察し、 それが宗助の人物造型にどのような影響を 与えているのかについて考えていきたいと思う。 Ⅱ 和辻哲郎は、 漱石の死に際して随筆 夏目先生の追憶 を記し、 その中で次のように語っている。 、、 、 、 、 、 、 、 、 、 先生は自己の人格の内からさまざまな人物や世界を造り出した。 この造り出し方において私は先 生の芸術の一特長を注意したいと思う。 先生は眼の作家であるよりも心の作家であった。 画家であるよりも心理家であった。 見る人であ ― 106 ― 夏目漱石 門 を読む ニーチェ哲学の受容を視座として るよりも考える人であった。 小説家であるよりもむしろ哲人に近かった。 そのためか、 先生の作物 に写実味の乏しいことは、 さほど気にならない。 (しかしドストイエフスキイが自分を写実主義者 と呼んだ意味でならば、 先生もまた写実主義者である。) 私は先生の芸術に著しいイデエを認める。 一の作物の結構はすべてそのイデエから出ているよう に思う。 この意味で先生の作物はかなり 「作られた」 という感じの強いものである。 しかしその感 じはイデエの力強さの下にすぐ消えて行く。 そうして我々は赤裸々な先生の心と向き合って立つこ とになる。 我々は先生の作物から単なる人生の報告を聞くのではない。 一人の求道者の人間知と内的経路と の告白を聞くのである。(9) 漱石に対する、 このような強い憧憬の念はその後の和辻の文章にも散見する。 和辻は第一高等学校の 文科に通っていた頃、 教室の窓の下で工科担当の漱石の講義を聞いていた。 東京帝国大学の哲学科を卒 業後、 24歳の時日本で初めての本格的なニーチェの研究書を著す。 そして25歳の秋、 その著書 ニイチェ 研究 と一高以来漱石を慕っていたことを告白する手紙を送り、 その数日後初めて漱石と対面し言葉を 交わしたのだった。 漱石の影響を受けた文学者は多い。 いわゆる 「漱石山房」 の門下生といわれる文学志望の青年達の中 でも、 小宮豊隆、 森田草平、 野上弥生子、 芥川竜之介、 久米正雄等が有名であろう。 本稿の目的の一つ は、 そうした 「漱石山房」 の門下生達が称揚する漱石像を追うことではなく、 漱石文学におけるニーチェ の受容に彼らが果たした役割を指摘することにある。 まず、 小説 門 が生れる契機になったエピソードから取り上げたい。 小宮豊隆は次のように語って いる。 門 といふ名前は、 漱石自身がつけた名前ではない。 それをつけたのは、 森田草平と小宮豊隆 とである。 <中略>社の催促が急になつて、 漱石は面倒になつたものだらう、 当時漱石主宰の文芸 欄の下働きをしてゐた森田草平に、 何でもいいから名前を考へて、 それを社の方に報告して来てく れと頼んだ。 <中略>草平も閉口して、 豊隆の所へ相談に出かけた。 然し豊隆にも名案のある筈が なかつた。 不得已豊隆は、 机の上の を取り上げ、 おみくじでもひくやうに、 そ 、 れをぱつとあけて見る事にした。 さうして出て来たのが、 門といふ言葉である。 小説の名前は、 門 ツァラツストラ といふ事に一決した。 草平はそれを社へ通告し、 社では翌日の新聞に、 その通り予告した。 是は明治四十三年二月二十二日の事であった。 漱石も多分その予告で、 自分の是から書く小説が 門 といふ名前であるといふ事を、 初めて知つたのだつたと思ふ。(10) つまり 門 という小説全体を統括すべきタイトルは、 漱石が名付けたのではないこと、 またそれは ニーチェの ツァラトゥストラ からの引用であること、 そして ツァラトゥストラ を所有していた のは小宮であったこと等が把握できる。 ニーチェの著書が日本に紹介され始めたのは、 明治も半ばを過 ぎてからのことであり、 高山樗牛の次のような批評がその嚆矢とされる。 ○ ○ 蓋し彼は哲学者と謂はむよりは寧ろ大なる詩人也。 而して詩人として大なる所以は、 實に彼が大 ○ ○ ○ ○ ○ なる文明批評家 Kulturkritiker たる所に存す。 <中略>是の如く人格の独立の為に、 歴史発達論 を否定したるニーチェは、 更に論歩を進めて民主主義と社会主義とを一撃の下に破砕し、 揚言して ― 107 ― 曰く、 人道の目的は衆庶平等の利福に存せずして、 却て小数なる模範的人物の産出に在り。 是の如 ユーベルメンシュ き模範的人物は即ち天才也、 超人也。 即ち是れ無数の衆庶が育成したる文明の王冠とも見るべきも の也。 <後略>(11) 樗牛は、 ニーチェを偉大なる 「詩人」、 「文明批評家」 と見做し、 彼の哲学を 「現時の民主平等主義を 根本的に否定し、 極端にして、 而かも最も純粋なる個人主義」 の下に成立した学説であるとした。 また 樗牛は、 昨今の 「独逸青年」 の間には 「魔語」 のごとく 「フリードリヒ・ニーチェ」 の名が響き渡り、 「一世の人心を鼓動し得たり」 と述べている。 このような表現はやや大袈裟であるとしても、 明治20年 代末から30年代にかけて帝大や早稲田大学の講義においてニーチェの哲学が論じられるようになり、 雑 誌 太陽 や 早稲田文学 にニーチェの著作に関する批評が掲載された時期が、 日本におけるニーチェ の受容の初期段階と見て良いだろう。(12) そして、 生田長江によるニーチェ全集の翻訳が始まり、 先に触 れた和辻哲郎による ニィチェ研究 の出版等が行われた大正時代初期が、 その本格的な受容の始まり であると思われる。 そして、 漱石はその二人の青年のどちらとも親交を持っていたのである。 Ⅲ 生田長江は一高時代より森田草平の友人であった。 漱石に長江を紹介したのは、 森田であるとされて いる。(13) 長江は明治42年より ツァラトゥストラ の翻訳に取り組み、 そしてそれに難渋し、 漱石に助 言を求めたという。 当時、 長江はドイツ語版ではなく、 アレクサンダー・ティールの英訳とトマス・コ ンモンの英訳を併用して翻訳を行っていた。(14) 英国留学の経験を持つ漱石に助言を求めたのは、 当然の ことであろう。 明治42年7月の漱石の日記にも、 長江が自宅を訪れ 明な点を相談していったことが記されている。 (15) ザラツストラ の翻訳について不 前述したように小宮と森田が名付けた 始は、 翌年の2月のことであり、 この時期漱石が書いていたのは、 その前作の ところで東北大学附属図書館の漱石文庫には現在でも当時漱石が所有していた それから 門 の連載開 であった。 ツァラトゥストラ が現存している。 1899年版のティールの英訳である Thus Spake Zarathustra. である。 保存状態は大 変良く、 現在でも原文も漱石が残した多くの書き込みもはっきりと読むことが出来る。 この漱石の蔵書 を詳細に検討し、 彼の ツァラトゥストラ 読書の内実を明らかにしたのが、 平川弘の労作である。 平川は次のように述べている。 夏目漱石の ツァラトゥストラ にたいする書き入れの動機は、 大別してみればおよそ次の五つ の種類にわけられる。 第一は心理家としての漱石が随処で心理家としてのニーチェの人間性考察に 共鳴 (そして時に反撥) したためで、 友情について、 女性について、 自由な死について、 ニーチェ の発言は漱石の心の琴線にふれたのである。 第二にキリスト教的西洋の重圧を感じていた漱石が、 西洋のキリスト教的伝統に反逆するニーチェと 「反抗者」 として (奇妙な同盟だが) 共感したとい うことだろう。 ニーチェも漱石もともに voice from heaven 「天の聲」 を否定しているのである。 しかし、 そこにはニュアンスの違いがある。 漱石は人間本位の日本人として当然と思うことを正直 に述べただけだったが、 ニーチェはキリスト教にそむく者としてしきりに価値の転換を強調した。 その違いが漱石の書き入れの第三の動機となった。 すなわち社会性の強い常識人漱石がニーチェの 超人主義ないしはそれに類した反社会的な発想をつぎつぎと批判することとなったからであり、 そ れはおのずからニーチェ主義をふりかざす日本の論壇人への批判にも転化する性質のものでもあっ ― 108 ― 夏目漱石 門 を読む ニーチェ哲学の受容を視座として た。 第四は漱石が、 西洋文明の重圧下で自己本位の立場をきづこうとして自己の日本人性を過度に 強調したことだろう。 その際、 漱石のアプローチには東西二分法的な反西洋即東洋のやや安直な等 式が見られた。 この種の書き入れは ツァラトゥストラ の内容に即したものというよりは漱石自 身の問題をめぐるという色彩が強かったが、 そのような漱石にとつてニーチェの 「永遠回帰」 とい う思想は greatest nonsense ever uttered by human beings 「人間によってかって発せられた 最大のノンセンス」 でしかなかった。 しかし最上級の形容詞の使用からも察せられるように、 漱石 は ツァラトゥストラ から非常な ―― 時には 「異常な」 といいたくなるほどの ―― 刺戟を受け ていたのである。 漱石の書き入れの第五の種類は、 それだから、 ツァラトゥストラ 個々の単語に触発されて自分自身の問題を書きつけた感想ということになる。 が起爆剤となって漱石の鬱憤がつぎつぎと誘爆をはじめたのである。 ここで注目したいのは、 第二・第三・第四の動機による の作品中の ツァラトゥストラ (16) ツァラトゥストラ への書き込みである。 平川が指摘するように、 単身英国に留学して孤独な日々を送り 「いわば弱者として対西洋文明の関係の 中に否応なしにまきこまれていただけに」、 漱石は 「当時の日本人の誰にもましてキリスト教的西洋の 重圧に苦しみ、 それに反発せずにはいられない日本人」 であった。 つまり 「神は死んだ」 と語り、 キリ スト教的文化や道徳観念を次々と否定するニーチェの言葉に触発されて、 漱石が書き記した言葉の多く は、 自分自身の西洋文化に対する違和感や反発を赤裸々に語っている。 そこに見られるのはキリスト教 を人間の理想が創り出した一宗教として捉える姿勢である。 「恒常的な善と悪」 つまりはキリスト教的 道徳観を否定し、 現世と人間の 「意志」 を肯定したニーチェとは全く異なる宗教観を漱石は持っていた。 例えばそれは次のように表わされている。 Love one and pity allsays the woman. Love all and pity thyselfsays man and there is Christianity. Love all and love thyself toosays man again and there is Buddhism. (17) Love thyself onlysays man again and there is Nietzsche s Uebermensch. この書き込みは、 ツァラトゥストラ 第2部の 「同情深い者たちについて (Of the Pitiful)」 の章 の最終頁に残されている。 これはおそらくニーチェの次のような言葉に触発されて書かれたものと思わ れる。 Thus speaketh all great love: it even overcometh forgiveness and pity. ニーチェは 「神が人間への哀れみのために死んだ」 というキリスト教の教義の偽善性を突き、 宗教を 超えた新たな価値観を提示しようとしているのだが、 漱石はニーチェの指摘からキリスト教の欠陥のみ を読み取っている。 そして、 それを仏教との比較の中で論じようとする。 同じ頁の下段には次のような 書き込みがある。 Surrender thyself and God will save theesays the Christian. Assert thyself and thou shalt save thyselfsays the Buddhist. Thus there is only one Christ on earth and so many Buddhas in the world. Think if thou ― 109 ― art made an object of worship or a subject of worship.Choose. 神に身をまかせることで救われるキリスト教と、 自らの修行によって悟りを得る仏教とでは、 同じ宗 教でも信仰の道がまったく異なる。 漱石は繰り返しそのことを主張し、 キリスト教を非難し、 仏教を尊 重するのである。 また漱石は、 「学者 (of Scholars)」 の章の最後の頁に次のような文章を書き込んでいる。 Men are equal : men are not equal. Start from the former and you reach Buddhism and Christianity. Start from the latter you reach Carlyle, Huxley, Nietzsche and many others. Worship a woman and you become a milksop. Worship a God and you become an idolator. Worship a hero and you become a slave. Do away with any form of worship and then you will see the truth of equality. この章の最後に、 次のような言葉があり、 漱石の先の言葉を誘発する原因の一つになったものと思わ れる。 For men are not equal. Thus speaketh justice. 何故、 漱石はニーチェの言葉に反発するかのようにこれらの言葉を書き残したのだろうか。 その一因 は、 彼が宗教を人間の被造物と考えていたことによるのだろう。 彼は宗教が人間の思想から派生し、 そ の思想の相違から宗教のヴァリエーションが生れたことを繰り返し強調している。 このような漱石の考 えやまたキリスト教よりも仏教を尊重しようとする姿勢は、 から派生して、 数々の 断片 や 文学論 、 そして ツァラトゥストラ 我輩は猫である や に残された書き込み 草枕 、 門 、 行人 と いった小説にまで表現されていくのである。 たとえば神について語られている 「失職 (off Duty)」 の章に残された次のような漱石の言葉は、 門 の語り手の言説に影響を与えている。 Look within yourself and you will find two Gods. God of love and God of anger. Project the former from yourself and you have Christian God. Project the latter and you have Nemesis. Both are shadows for they have no real existence without you. Both are idols as they are objectified by you. God of Love becomes sometimes superannuated; that of anger sometimes assumes not only the shape of beasts but of their ferocious characters. Both developer and degenerate as they are only the shadows cast by ourselves which vary from time to time. 愛の神であるキリスト教の神も怒りの神である復讐の神も、 人間の内部から生まれた、 一種の自己投 影であると漱石は分析している。 次に 門 における 「愛の神」 に関する記述を引用する。 ― 110 ― 夏目漱石 門 を読む ニーチェ哲学の受容を視座として 彼等は自然が彼等の前にもたらした恐るべき復讐の下に戦きながら跪づいた。 同時に此復讐を受 けるために得た互の幸福に対して、 愛の神に一弁の香を焚くことを忘れなかつた。 彼等は鞭たれつゝ 死に赴くものであつた。 たゞ其鞭の先に、 凡てを癒やす甘い蜜の着いてゐる事を覚つたのである。 (十四) ここでは 「愛の神」 と 「復讐の神」 という二面性を持つ主体は 「自然」 に置き換えられている。 この ような 「自然」 の捉え方、 心から愛しあう者たちに対しても 「自然」 は時折残酷な面を見せるという表 現は前作の それから から続くものである。(18) 門 において宗助と御米は仲睦まじい相愛の夫婦と して描かれている。 しかし彼等がかつて犯した道義上の罪は様々なかたちで二人を苦しめ続ける。 それは 「復讐の神」 の 残酷な仕打ちと捉えることもできようし、 また良心の呵責から自らに起った出来事をそのように解釈し てしまうためだともいえよう。 すべては人間の思念、 「心」 から派生しているのである。 さて、 いままで見てきたように ツァラトゥストラ に触発されて生まれた漱石の様々な言説は、 門 においてどのように表現されているのだろうか。 Ⅳ 門 の前半部において語られるのは、 江藤淳が評したように理想的な 「夫婦愛の小説(19)」 であろう。 しかし、 二人が深く結びついた理由が隠されている過去の出来事が次第に明らかにされていく。 二人の精神を組み立てる神経系は、 最後の繊維に至る迄、 互に抱き合つて出来上つてゐた。 彼等 は大きな水盤の表に滴たつた二点の油の様なものであつた。 水を弾いて二つが一所に集まつたと云 ふよりも、 水に弾かれた勢で、 丸く寄り添つた結果、 離れる事が出来なくなつたと評する方が適当 であつた。 (十四) 「彼等に取つて絶対に必要なのは御互丈で、 其御互丈が、 彼等にはまた充分であった」 と語りながら、 二人のその強い結びつきが 「水に弾かれた勢で、 丸く寄り添った結果」 なのだと語り手は指摘する。 二 人の過去を暗示する喩となっているのだが、 非常に親密な夫婦の結びつきが他者からの排除、 社会から の排斥から生じた結果なのだということを語り手は繰り返し語るのである。 御米の急病に端を発した二 人の過去への遡及は、 三度にも及ぶ赤児の死と生活苦に彩られ、 夫婦愛の物語の深層に隠されていた二 人の罪が次第に明らかにされていく。 「貴方は人に対して済まない事をした覚がある。 其罪が祟つてゐるから、 子供は決して育たない」 と云ひ切つた。 御米は此一言に心臓を射抜かれる思があつた。 (十三) 三度赤児を失い、 苦しみ抜いた御米が易者の門をくぐり、 告げられた言葉である。 御米はその言葉を 夫である宗助にも告げられずに独り苦しんでいたのである。 御米はいつも微笑を湛えて宗助を甲斐々々しく世話し、 ユーモアのセンスと経済的な才覚さえ見せる 女性である。 しかし繰り返し子供を失い、 病と精神的苦痛に苦しめられる姿は、 北川扶生子が指摘する 通り懲罰を受けているかのようだ。 つまり御米の像には二重のイメージが重ねられている。 微笑みと慈 ― 111 ― しみに満ちた妻の像と女性としての規範を逸脱した姦婦の像である。(20) 子供を失った原因は貧困や転倒 による流産であったにも拘らず、 その罪は御米自身にあるかのように帰せられてしまう。 「是でも元は子供が有つたんだがね」 と、 さも自分で自分の言葉を味はつてゐる風に付け足して、 生温い眼を挙げて細君を見た。 御米はぴたりと黙つて仕舞つた。 (三) 宗助の御米をみつめる眼差しは、 共に赤児の死を打撃として受け止めた時の夫としてのそれではない。 いつのまにか子供を死なせた罪を母である御米自身のものと認識し、 子を生めない女として世間の求め る良妻賢母像から逸脱しはじめている御米の立場を意地悪く揶揄する世間の目そのものなのだ。 御米の受ける懲罰が母になれないことであるなら、 宗助の受けるそれは社会的地位の不安定さであろ う。 徳義上の罪を犯したために京都大学を中退し、 家からも勘当され、 御米と二人逃げるように広島へ と移り住んだために、 宗助は 「瘠所帯」 を張ることしか出来ない仕事に就く他なかった。 福岡を経て、 大学時代の友人杉原のおかげで東京に帰京し、 役所に職を得ることが出来た。 しかしそれは崖下の小さ な借家で、 二人がつつましく暮らしていけるという程度の身分と収入の保証でしかなかった。 学生時代 「相当に資産のある東京ものゝ子弟として」、 宗助はその心身の壮健さと闊達さを誇り、 「虹の様に美く しく」 未来を思い描いていた。 しかし京都から広島に移り住んでいた時期に父を失い、 家屋敷は借金と 叔父達の思惑によってほとんど宗助には何も残されずに処分されてしまった。 今の彼に残されたものは、 御米とまだ自立できないでいる弟と抱一の屏風だけであったのだ。 御米を奪った相手である大学時代の友人安井との再会を、 宗助は心底恐れていたが、 鎌倉の山寺での 参禅に宗助が出かけた動機はそれだけによるのではない。 宗助の心にはずっと次のようなものが渦巻い ていたのである。 宗助と御米の一生を暗く彩どつた関係は、 二人の影を薄くして、 幽霊の様な思を何所かに抱かし めた。 彼等は自己の心のある部分に、 人に見えない結核性の恐ろしいものが潜んでゐるのを、 仄か に自覚しながら、 わざと知らぬ顔に互と向き合つて年を過した。 (十七) 別の箇所には二人は 「山の中にゐる心を抱いて、 都会に住んでゐた」 ともある。 自分達が犯した徳義 上の罪を重く受けとめている二人は、 自分たちの生を肯定し、 主体的に生きることが出来なくなってし まっている。 親族も含めた世間の眼差しを恐れ、 互い以外の人間と親しく交わることも出来ない。 また 「心のある部分」 に潜む 「人に見えない結核性の恐ろしいもの」 とはいったい何であろうか。 それは自 分が犯した罪への後悔でもあったろうし、 これからも繰り返し訪れるだろう罰にも似た苦しみ、 病気や 経済的困窮などに対する恐れでもあっただろう。 過去の罪のために二人の生は歪められ、 常につきまとう不安の中で暮らしていかなくてはならない。 子を生めない女であり、 小六や叔母達といった宗助の親族に認められない御米は、 必死に自分を奮い立 たせて二人の小さな家を維持していこうと努力する。 しかし流産を含めた病と彼女の生を否定する言説 や眼差しは、 門 の中で繰り返し顕在化するのである。 また宗助は、 御米の病気や安井の出現など、 二人の生活が破壊されかねない事態に強い不安を感じている。 それは次のように表現されている。 然し其悲劇が又何時如何なる形で、 自分の家族を捕へに来るか分らないと云ふ、 ぼんやりした掛 念が、 折々彼の頭のなかに霧となつて懸かつた。 ― 112 ― 夏目漱石 門 を読む ニーチェ哲学の受容を視座として 年の暮に、 事を好むとしか思はれない世間の人が、 故意と短い日を前へ押し出したがつて齷齪す る様子を見ると、 宗助は猶の事この茫漠たる恐怖の念に襲はれた。 成らうことなら、 自分丈は陰気 な暗い師走の中に一人残つてゐたい思さへ起つた。 漸く自分の番が来て、 彼は冷たい鏡のうちに、 自分の影を見出した時、 不図此影は本来何者だらうと眺めた。 (十三) 自分の存在に対する不安と疑義が、 宗助の中に渦巻いていることは明らかであろう。 心の中の不安が 高まるにつれ、 元々自らの生を肯定できないでいる宗助の中に、 自分自身の影を 「何者だらう」 と問う 実存に関わるような疑問が生じてきてしまう。 生に対する根源的な不安は、 この六年間のあいだ時折宗 助を襲い、 それに耐えられなくなった宗助は、 「心」 の安定を求めて参禅するのだ。 安井との邂逅を恐 れる気持ちは、 ただその直接的な動機となったのに過ぎないのである。 彼は黒い夜の中を歩るきながら、 たゞ何うかして此心から逃れ出たいと思つた。 其心は如何にも 弱くて落付かなくつて、 不安で不定で、 度胸がなさ過ぎて希知に見えた。 彼は胸を抑えつける一種 の圧迫の下に、 如何にせば、 今の自分を救ふ事が出来るかといふ実際の方法のみを考へて、 其圧迫 の原因になつた自分の罪や過失は全く此結果から切り放して仕舞つた。 其時の彼は他の事を考へる 余裕を失つて、 悉く自己本位になつてゐた。 今迄は忍耐で世を渡つて来た。 是からは積極的に人生 観を作り易へなければならなかつた。 さうして其人生観は口で述べるもの、 頭で聞くものでは駄目 であつた。 心の実質が太くなるものでなくては駄目であつた。 (十七) 実存主義によれば、 「不安」 は 「人間存在の有限性からやってくる」 のだという。 「人間はおのれを全 面的に肯定はできず、 おのれのうちに欠損、 不完全さ、 無を見ないではいられない」 のである。(21) そう した不完全な生、 不安に満ちた生を生きる私たちは何を必要とするのか。 宗教や愛、 または孤独や不安 を跳ね返す強い主体性であろう。 ニーチェが 「神は死んだ」 と語り、 「力への意志」 や 「超人」 を求め たのも、 彼の 「孤独」 ゆえであり、 「社会への不平」 からであると漱石は分析している。(22) そして宗助 が自分の存在にかかわる根源的な不安に襲われた時、 彼が求めたのは 「心の修行」 すなわち仏教であっ たのだ。 宗助は一封の紹介状を懐にして山門を入つた。 <中略> 山門を入ると、 左右には大きな杉があって、 高く空を遮つてゐるために、 路が急に暗くなつた。 其陰気な空気に触れた時、 宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚つた。 (十八) 門 において宗助と御米は様々な 「門」 の傍に立ち、 また 「門」 を通過する。 門の字義的な意味は、 「敷地の周囲の垣・塀や、 建物や庭で囲んだ廊にあけた出入口(23)」 である。 しかし、 この作品の中に点 在する 「門」 はそれぞれの人物の境遇を示す、 もしくは変転させる境界となっている。 たとえば宗助と 御米がはじめて出会い、 会話を交わしたのも京都の小さな借家の門の前であったし、 御米は易者の門を くぐって子供を生めない因縁を言い渡される。 そして宗助は禅寺の山門をくぐり、 改めて自分自身を知 ることになるのである。 山門とは寺の正門であり、 三解脱門のことをいう。 宗助のくぐった山門の概観の記述はないが、 おそ らく禅宗風の重層門であろう。(24) 山門を入った宗助は世俗の空気との差異を感じるが、 三解脱門とは 「さとりに通ずる三つの道」 または 「禅定 (三昧) の三つの目標。 すなわち空・無想・無願の三つ」 を ― 113 ― 現しているのである。(25) そこは僧達が日夜寝る間も惜しんで修業を重ねる世界であった。 禅寺で宗助の 面倒を見てくれることになった釈宜道は、 次のようにいう。 「漸く此頃になつて少し楽になりました。 しかし未だ先が御座います。 修業は実際苦しいもので す。 さう容易に出来るものなら、 いくら私共が馬鹿だつて、 斯うして十年も二十年も苦しむ訳が御 座いません」 (二十) 宗助も無論 「今の不安な不定な弱々しい自分を救ふ事が出来はしまいかと」、 「悟」 を求めて参禅にやっ てきたのである。 しかし、 禅寺で彼が見出したのは、 公案に苦しみ、 「御米と、 安井に、 脅かされなが ら」 神経衰弱に襲われていく、 「平正の自分より遥かに無力無能な赤子」 のような自分であった。 老師 から与えられた 「父母未生以前本来の面目」 という公案(26)には、 まったく歯が立たず、 悟りに至る微か な兆しすら見いだせない。 その上それが宜道のいうように多くの 「歳月を掛けなければ成就できないも のなら、 自分は何しに此山の中迄遣つて来たのか」、 「山の中へ迷ひ込んだ愚物」 ではないのかとまで思 いつめてしまうのである。 そして十日が経ち、 山を下りようとする宗助の前に現れるのが、 冒頭に引用した幻影の 「門」 である。 その幻影は、 悟りに至る三解脱門のようでもあり、 また堅く閉ざされた扉と門番まで配された堅固な門 でもある。 宗助はいくらこの門を叩いても、 いくら開ける方法を考えても、 実際に門を通ることはでき ない。 彼はただ 「門の下に立ち竦んで、 日の暮れるのを待つべき不幸な人」 であると語り手によって規 定されてしまうのである。 先に引用した重松論も指摘しているが、 宗助の参禅の失敗を語り手はあらかじめ示唆しているようで もある。 「如何にせば、 今の自分を救ふ事が出来るかといふ実際の方法のみを考へて、 其圧迫の原因に なつた自分の罪や過失は全く此結果から切り放して仕舞つた」 という参禅前の宗助の心に関する記述は、 参禅に失敗した宗助について語り手が語っている事実と符合する。 彼は悟りを得るための 「其方法と手 段を明らかに頭の中で拵え」 ることが出来た。 しかし、 「夫を実地に」 行うことの出来る力は、 「少しも 養成することが出来なかつた」 のである。 つまり安井との問題に向き合うことを避ける宗助が、 悟りを 開くことは難しいのである。 おそらく 「圧迫の原因になつた自分の罪や過失」 と対峙する決意が宗助の 中に生まれない限り、 悟りへと通じる門はいくら叩いても微動だにしないであろう。 宗助が佇み続ける 「門」 と ツァラトゥストラ に描かれた 「門」 とでは、 おそらく共通点より相違 点の方が多いと思われる。 ツァラトゥストラ の門は永遠回帰の象徴であり、 門は二つの道が出会い、 反発する 「瞬間」 という場なのである。(27) 歴史的瞬間のすべての瞬間がまったく同じ順序で永遠に繰り 返されるのを、 人は受け入れることが出来るのか、 つまりはそれほど強く自らの現世での生を肯定でき るのか、 という問いは神を否定し、 つまりは来世での生を否定したニーチェならではのものである。(28) それゆえ、 ツァラトゥストラ において、 幻影の 「門」 の後に置かれたエピソードは、 喉を黒くて重い 蛇に侵され、 もがき苦しむ若い牧人の姿であった。 ツァラトゥストラは蛇をつかみ、 引き抜こうとする が、 上手くいかず、 蛇の頭を噛めと絶叫する。 牧人はその絶叫通り、 蛇の頭を噛み砕き、 吐き出し、 「光につつまれた者」 となって哄笑するのである。(29) この牧人はツァラトゥストラ自身であるとも、 超人 であるとも解釈できよう。 蛇は人が直面する様々な悪意、 恐怖、 憎悪、 嘔吐といったものの喩であろう。 しかし山門を後にした宗助が遭遇したのは、 偶然による安井との邂逅の回避であり、 また蛙のエピソー ドであった。 坂井の家で宗助は彼の弟と共に安井が再び満州へと旅立ったことを伝えられ、 また弁慶橋 の蛙の夫婦達の話を聞かされるのである。 ― 114 ― 夏目漱石 門 を読む ニーチェ哲学の受容を視座として 彼の云ふ所によると、 清水谷から弁慶橋へ通じる泥溝の様な細い流の中に、 春先になると無数の 蛙が生れるのださうである。 其蛙が押し合ひ鳴き合つて成長するうちに、 幾百組か幾千組の恋が泥 渠の中で成立する。 さうして夫等の愛に生きるものが重ならない許に隙間なく清水谷から弁慶橋へ 続いて、 互に睦まじく浮いてゐると、 通り掛りの小僧だの閑人が、 石を打ち付けて、 無残にも蛙の 夫婦を殺して行くものだから、 其数が殆んど勘定し切れない程多くなるのださうである。 (二十二) 坂井は、 「夫婦になつてるのが悪らしいつて、 石で頭を破られる恐れは、 まあ無い」 からお互い 「実 に幸福」 だというのであるが、 無論宗助には肯けない話である。 この蛙のエピソードは何を語ろうとし ているのだろうか。 まず始めに蛙の夫婦は、 宗助夫婦の喩であろう。 「泥渠の中で」 蛙達の 「恋」 が成立し、 夫婦で 「睦 まじく」 していると、 石を打ちつけられて殺されてしまう。 生活苦の中でも仲睦まじい夫婦となった二 アドヴェンチュアラー 人を、 満州に渡り、 蒙古刀を振り回す 「冒険者」 となった安井が見た時、 いったいどのようなことが起 こったのだろうか。 また蛙という喩は、 宗助夫婦の無力性、 卑小さを表しているともいえよう。 二人が 夫婦として生きたこの六年間は、 徳義上の罪を背負い、 経済的困窮と病気に苦しめられつづけた歳月で あった。 彼らは安井と再会し、 その罪を責められても、 まったく無力にそれを受けとめるしかないだろ う。 宗助の参禅は失敗し、 いかなる困難や不安にも立ち向かえるような心の強さを得ることは出来なかっ た。 つまり、 彼らは蛙の夫婦のように無抵抗に無力に殺されていく、 つまりは糾弾されていくしかない のである。 門 においては、 行われない。 門 ツァラトゥストラ のように 「自己超克」 や 「力への意思」 による運命の転換は に描かれているのは、 人間の卑小さ、 無力さであり、 生身の人間の苦しみである。 病に陥る苦しみ、 子供を失う苦しみ、 そして老いさえ感じさせる経済的な困窮、 徳義上の罪を犯したこ とによる深い悔恨、 そしてそれらすべてから生じる、 生きていくことへの根源的な不安。 そうした様々 な苦しみを消し去ることが出来ず、 宗教と互いの存在の中に救いを求める宗助と御米。 二人の夫婦愛の 物語を語ろうとした語り手は、 二人の次のような言説と動作を最後に示している。 「本当に難有いわね。 漸くの事春になつて」 と云つて、 晴れ晴れしい眉を張つた。 宗助は縁に出 て長く延びた爪を剪りながら、 「うん、 然し又ぢき冬になるよ」 と答へて、 下を向いたまゝ鋏を動かしてゐた。 (二十三) 循環する季節を示すことで、 再び廻ってくるだろう、 様々な苦しみを予感させるような結末となって いる。 また御米はその未来の不安に気づかず、 宗助は気づいていることで、 改めて 「長く門外に佇立む べき」 人である宗助の運命が明示されているのである。 Ⅴ 漱石のニーチェ哲学の受容は、 ツァラトゥストラ が読まれたであろうと推測されている明治38、 9年頃に始まる。 しかし、 それ以降、 その受容は断片的ではあっても継続的に彼の晩年まで続いていく。 明治36年∼38年に東京帝国大学で講義した 「英文学概説」 の内容をまとめて明治40年に出版された 学論 にもニーチェへの言及があり、 明治42年には生田長江から け、 明治43年には 門 、 翌年にかけて ツァラトゥストラ 思ひ出す事など 、 大正元年には ― 115 ― 行人 文 翻訳の相談を受 など、 断片的にニー チェの影響が見られる記述のある作品が続いていく。 また大正5年、 点頭録 には次のように記している。 欧州戦争が起つてから、 独乙の学者思想家の言論を実際的に解釈をするものが続々出て来た。 最初英吉利の雑誌にはニーチエという名前が頻りに見えた。 ニーチエは今度の事件が起る十年も 前、 既に英語に翻訳されてゐる。 英吉利の思想界にあつて別に新しい名前でもない。 然し彼等は其 名前に特別な新らしい意味を着けた。 さうして彼の思想は此大戦争の影響者である如くに言ひ出し た。 是は誰の眼にも映る程屡繰り返された。 基督の道徳は奴隷の道徳であると罵つたのは正にニー チエであると同時に、 ビスマークを憎みトライチケを侮つたのもニーチエであるとすると、 彼が斯 ういふ解釈を受けて満足するかどうかは疑問である。 本人の思はく如何は別問題として、 彼の唱道 した超人主義の哲学が、 此際独乙に取つて、 何れ程役に立つてゐるかも遠方に生れた自分には殆ん ど見当が付かない。(30) ニーチェの名前に 「特別な新らしい意味を着けた」 というのは、 ニーチェの思想がトライチュケと並 んで、 ドイツ軍国主義の代表格と見做されるようになったことを表している。 実際に 「背嚢に ツァラ トゥストラ を入れて」 最前線へと向う青年たちが第一次世界大戦において多数見られたという。(31) 軍 国主義に利用されたニーチェの思想を 「彼が斯ういふ解釈を受けて満足するかどうかは疑問である」 と 見る漱石の見解は正しいであろう。 このように漱石は、 ニーチェと彼の思想に対する関心をその晩年まで持ち続けていた。 その理由の一 端はおそらく小宮豊隆や森田草平、 阿部次郎、 そして和辻哲郎といった彼の弟子たちがニーチェに関心 を持ち、 彼の著作を読み、 研究していたことと無関係ではないだろう。 和辻哲郎の ニィチェ研究 を 拝受した旨を知らせる大正2年10月25日付の漱石の手紙には 「中々大部な書物ですからすぐ読む訳にも 行きません其うちゆるゆる拝見します」 とある。 和辻は漱石を慕って 「木曜会」 に参加しつづけ、 漱石 の最期を看取った弟子たちの中の一人となった。 [注] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) 谷崎潤一郎 「 門 を評す」 ( 新思潮 明治43年9月) 田山花袋 「夏目漱石氏の 門 」 ( 文章世界 明治44年4月) 正宗白鳥 「夏目漱石論」 ( 中央公論 昭和3年6月) 片岡良一 門 (「春陽堂文庫 門 解説」 昭和24年) 柄谷行人 門 (「新潮文庫 門 解説」 昭和53年) 「夏目漱石年譜」 ( 夏目漱石事典 勉誠出版 平成12年) 重松泰雄 「罪の子との<共生>―― 門 再論」 ( 叙説 Ⅴ 平成4年1月) 海老井英次 「<罪>の揺曳・<信頼>のゆらぎ ―― 夏目漱石 門 における<信>の世界」 ( 叙説 Ⅶ 平成5年1月) 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」 ( 新小説 臨時号 「文豪夏目漱石」 大正6年1月) 小宮豊隆 「 門 解説」 漱石全集 第6巻 昭和11年 ( 漱石全集 第6巻 岩波書店 平成6年) 高山林太郎 (高山樗牛) 「文明批評家としての文學者 本邦文壇の側面評」 ( 太陽 7巻1号 明治34年1月) ダミアン・フラナガン 日本人が知らない夏目漱石 (世界思想社 平成15年) 高田瑞穂 「作品解説 生田長江」 (日本現代文学全集 第46巻 生田長江・阿部次郎・倉田百三集 講談社 昭和42年) (12) に同じ 明治42年7月11日付の漱石の日記には次のように記されている。 「晩、 生田長江来。 ザラツストラの翻訳の件につき。 不明 な所を相談」 ( 漱石全集 第20巻 平成8年) (16) 平川弘 「夏目漱石の ツァラトゥストラ 読書」 (平川弘編 作家の世界 夏目漱石 番町書房 昭和52年) (17) ツァラトゥストラ に関する漱石の書き込みは東北大学附属図書館漱石文庫所蔵の蔵書 Friedrich W. Nietzsche Thus Spake Zarathustra. A Book for All and None. (The Works of Friedrich Nietzsche. Vol.Ⅱ). Trans. by A. Tille. London: T. Fisher Unwin. 1899. より引用。 資料を参照のこと。 (18) それから において 「自然」 は多義的に用いられ、 「天意」、 「愛」 等を表す。 また それから の 「自然」 については多 ― 116 ― 夏目漱石 門 を読む ニーチェ哲学の受容を視座として 数の先行研究がある。 例えば酒井英行は、 代助の 「自然」 は、 「法律」 や 「世間の掟」 と対立するものであり、 「良心」 の 制御を受けつつも 「本能に近似した」 「個人の生命の要求」 であると述べている。 (「自然の昔― それから 論―」 漱石 その陰翳 有精堂 平成2年) (19) 江藤淳 「 門 ―罪からの遁走」 ( 三田文学 46巻7号 昭和31年7月) (20) 北川扶生子 「失われゆく避難所 門 における女・植民地・文体」 ( 漱石研究 平成16年11月) (21) 事典 哲学の木 (講談社 平成14年) (22) 我輩は猫である には、 ニーチェの 「超人」 は彼の 「理想」 ではなく、 誰もが自我の拡張を望む時代への 「不満」 である との記述がある。 また 思ひ出す事など には、 「ニーチエは弱い男であつた。 多病な人であった。 又孤独な書生であつた。 さうしてザラツストラは斯くの如く叫んだのである」 との記述がある。 (23) 国史大辞典 第八巻 (吉川弘文館 昭和62年) (24) 岸 熊吉 日本門牆史 (大八州出版 昭和21年) 日本の門 (朝日新聞社 昭和32年) (25) 中村 元 広説佛教語大辞典 (東京書籍 平成13年) (26) 公案とは 「参禅修行にあたって指針となり、 依拠となるべき真実の語をいう。」 (注23に同じ) 加藤二郎によれば、 宗助が 与えられた 「父母未生以前本来の面目」 という公案は、 明治27年暮れから翌年にかけての鎌倉円覚寺における漱石の参禅 体験を基にしているという。 またそれが 「生死の超越」 にかかわる漱石の思惟に重要な影響を与えたと述べている。 ( 漱 石と禅 翰林書房 平成11年) (27) ニーチェ著 吉澤傳三郎訳 ニーチェ全集第9巻 ツァラトゥストラ (理想社 昭和54年) (28) リー・スピンクス著 大貫敦子・三島憲一訳 フリードリヒ・ニーチェ (青土社 平成18年10月) (29) (26) に同じ (30) 漱石全集 第16巻 (岩波書店 平成7年) (31) 大石紀一郎・大貫敦子他編 ニーチェ事典 (弘文堂 平成7年) 三島憲一 「毒に感染しないで、 毒を楽しむ」 (ニーチェ 著 手塚富雄訳 ツァラトゥストラ Ⅰ 中央公論新社 平成14年) 【付記】 門 本文の引用はすべて 漱石全集 第6巻 (岩波書店 平成6年) による。 なお引用に際し、 旧漢字は常用漢字に 改めルビは適宜省略した。 資料1 東北大学附属図書館漱石文庫所蔵 F. Nietzsche Thus Spake Zarathustra. A Book for All and None. (The Works of Friedrich Nietzsche. Vol.Ⅱ) 「同情深い者たちについて (Of the Pitiful)」 の章の最終頁に残された漱石の書き込み ― 117 ― 資料2 資料3 「学者 (Of Scholars)」 の章の最終頁に記された漱石の文章 「失職 (Off Duty)」 の章に記された 「愛の神と怒りの神」 に関する書き込み ― 118 ― 異化された語り物的演劇の<声>と<身体性> 論 ― 「語り」 と 「ドラマ」 の比較演劇研究 ― 文 異化された語り物的演劇の<声>と<身体性> ― 「語り」 と 「ドラマ」 の比較演劇研究 ― 平 目 辰 彦 次 はじめに Ⅰ 坪内逍遥の<文学的ドラマ>の【劇的朗読】と歌舞伎の 「語り」 ― シェイクスピアの翻訳朗読と歌舞伎 「外郎売」 の<音声表現> ― Ⅱ 近代文学の重層的な 「語り」 の諸相 ― 鏡花・龍之介・白秋 ― Ⅲ 児童文学における 「語り」 の<力>と<声>のドラマ性 おわりに 註 主要参考文献 追 記 はじめに 20世紀を代表する詩人のT・S・エリオット (1888―1965) は、 「詩の三つの声」 ( The Three Voices of Poetry, 1953 ) の中でそれぞれの<声>を次のように規定している(1)。 【第一の声】…詩人が自分自身に語りかける<声> 【第二の声】…多数の聴衆に向かって語りかける<声> 【第三の声】…登場人物たちが互いに語りかける<声> 上記の 「詩の三つの声」 をギリシアのアリストテレス以来用いられているジャンルの区分に照らし合 わせてみると、 【第一の声】は、 「抒情詩」 の<声>であり、 【第二の声】は、 「叙事詩」 の<声>であ り、 【第三の声】は、 「劇詩」 の<声>と想定することができる。 この 「西洋文学」 に見られる 「詩の三つの声」 を、 わが国の 「日本文学」 に照らし合わせてみると、 先ず、 【第一の声】は、 三十一文字の 「和歌」 に代表される詩歌の<声>であり、 【第二の声】は、 平家物語 などに代表される語り物の<声>であり、 【第三の声】は、 「能楽」 (能・狂言) をはじめ ― 119 ― 「人形浄瑠璃」 や 「歌舞伎」 に代表される 「ドラマ」 の<声>であると想定できる。 しかし、 日本の 「古典芸能」 の中には、 【第三の声】ばかりでなく、 「抒情詩」 的な【第一の声】が 「謡い」 として含まれており、 「叙事詩」 的な【第二の声】が 「語り」 としてしばしば含まれている。 日本の 「古典芸能」 では、 特に 「ウタウ」 行為の 「抒情詩」 的な【第一の声】と 「カタル」 行為の 「叙事詩」 的な【第二の声】がそれぞれ重要な要素となっている。 【第一の声】は、 「主情的」 で 「相手の心情に訴えようとする意図の強いもの」 であり、 「ウタウ」 と いう語は 「ウルタフ」 (訴) や 「ウッタウ」 という語と関連があり、 「相手の霊魂に影響を与える」 もの である(2)。 その【第一の声】を代表する 「古典芸能」 が 「能楽」 (能・狂言) であり、 その<声>は、 謡曲の 「謡い」 にあらわれる。 【第二の声】は、 「強く相手 (聞き手) を考慮しての言語行動」 であり、 「カタリ」 という語は、 いわ ば 「相手に対して、 その疑問を解き明かし、 相手を納得せしめんとする意図において積極性をもつ発話」 である(3)。 その【第二の声】を代表する 「古典芸能」 が 「人形浄瑠璃」 であり、 その<声>は、 「人形 浄瑠璃」 における義太夫節の 「語り」 にあらわれる。 両者は、 音楽的構成から見れば、 共に伝統的な仏教音楽の流れを汲むが、 その表現方法は、 「謡い」 と 「語り」 に分類される。 「謡い」 は、 「謡い」 の譜面に囃子事の注書きを付した 「謡本」 と呼ばれるものに記されているが、 そ れは、 ことばの韻を主体として、 全体的な印象を情緒たっぷりに盛り上げるように 「序破急」 の構成で つくられている。 この 「謡い」 の詞章は<文語体>で書かれ、 (1) 無拍子の 「謡い」 と (2) リズム に乗らない散文による旋律部と (3) 旋律をリズムに乗せてうたう韻文の三部からなっている。 これら の詞章は、 (A) シテ・ワキなどがうたう 「役謡」 と、 (B) 地謡方が斉唱する 「地謡」 の二種類に分か れ、 「弱吟」 と 「強吟」 の二つの旋律型と、 特殊な抑揚をもつ 「詞」 がある(4)。 「詞」 は、 登場人物の科 白に相当するものであり、 リズム無しで朗誦するように述べられる。 「語り」 は、 折口信夫 (1887―1953) によれば、 「神々のとなえごと」 より発し、 その 「詞」 は、 「元 来神々の霊を説いたもの」 であり、 その 「霊」 は、 「もの」 という語であらわされ、 その素性を明かす 「語り」 がだんだんと 「歴史的」 な内容となり、 「歴史を物語る」 ようになり、 日本の 「叙事詩」 が生ま れたという(5)。 ところが、 「叙事詩」 的な義太節による 「語り」 の芸能である 「人形浄瑠璃」 は、 厳密には、 内山美 樹子がいうように 「語り物と劇、 叙事詩とドラマの葛藤のうちに成立した芸術形態」 である(6)。 このよ うに 「人形浄瑠璃」 は、 【第二の声】をもつ 「叙事詩」 と【第三の声】をもつ 「ドラマ」 の 「葛藤のう ちに成立した」 芸能なのである。 坪内逍遥 (1859―1935) は、 こうした 「人形浄瑠璃」 の特性を踏まえて近松門左衛門 (1653―1724) の浄瑠璃を 「叙事詩的脚本」 ( epical drama ) と規定する(7)。 この 「叙事詩的脚本」 は、 「詞」 と 「地」 によって構成されている。 「詞」 は、 登場人物の科白であり、 「地」 は、 「ト書き」 の役割を果たしてい る。 前者は、 現在時制で語られ、 後者は、 過去時制で語られる。 「歌舞伎」 の 「浄瑠璃狂言」 (義太夫狂言) は、 今尾哲也が指摘するようにこの 「叙事詩的脚本」 であ る 「人形浄瑠璃」 の 「正本」 を、 「劇詩」 である 「歌舞伎」 の 「台帳」 に変換することによって成立し た 「ドラマ」 である(8)。 この 「浄瑠璃狂言」 の語り手は、 「ドラマ」 に登場する人物とは異質な人格をもち、 劇的世界の外に いる存在である。 つまりこの語り手は、 「ドラマ」 に登場する人物の行為を<異化>し、 その行動を説 明ないし予告する 「地」 の文を語るのである。 この義太夫節の浄瑠璃を語る語り手を 「浄瑠璃狂言」 で ― 120 ― 異化された語り物的演劇の<声>と<身体性> ― 「語り」 と 「ドラマ」 の比較演劇研究 ― は、 「チョボ」 の太夫といい、 略して 「チョボ」 と呼ばれる。 この 「チョボ」 の発する<声>は、 「叙事 詩」 的な【第二の声】である。 「歌舞伎」 の 「浄瑠璃狂言」 では、 舞台にこの 「チョボ」 の【第二の声】と生身の役者の【第三の 声】とが共存し、 重層的な<声>が観客の耳に入る 「シンクロニスム」 (同時性) の 「語り物的演劇」 の世界を形成しているのである。 そしてこの舞台で進行する時間は、 常に 「叙事詩」 の時間と 「ドラマ」 の時間が重層的に進行していくのである。 そうした二重構造の時間の中で語られる 「チョボ」 の 「語り」 は、 生身の役者の演ずる現在時制の演技の妨げにならぬようにしながら、 過去時制の出来事を語ってい かなければならない。 「歌舞伎」 の観客は、 舞台で役者の語る科白を聞きながら、 その 「ドラマ」 の世界に自己を投影させ、 感情移入して<同化>していくが、 同時に 「チョボ」 の 「語り」 を聞くことによってその<同化>は破 られ、 舞台の役者の演技は、 <異化>され、 観客は、 その 「ドラマ」 が現実とは別の世界の出来事であ ることをはっきりと意識していくのである。 日本の 「古典芸能」 では、 【第二の声】の 「語り」 を通してこのような<異化>がおこなわれる。 そ して 「ドラマ」 を演じる役者の<身体性>を通して【第三の声】が【第二の声】と響き合い、 重層的に 創造され、 観客を 「語り物的演劇」 の世界へと誘っていくのである。 この 「語り物的演劇」 の系譜には、 「今様」 「白拍子」 「平曲」 「延年」 「曲舞」 「説経節」 「義太夫節」 「新内節」 「人形浄瑠璃」 (文楽) 「歌舞伎」 などがある。 さらに 「語り」 は、 こうした 「語り物」 のジャンルを示す他に、 近世の芸能用語として狭義に用いら れることもある。 例えば、 「能楽」 (能・狂言) には、 シテの 「語り」 やワキの 「語り」 などと呼ばれる 「語り」 がある。 シテの 「語り」 では、 みずからの性格や身分を明かし、 語ることによって曲趣をより一層、 観客に訴 えかける。 殊に 箙 田村 屋島 の 「勝修羅」 や、 実盛 朝長 頼政 の 「三修羅」 には、 い ずれも 「語り」 があり、 その演劇的な 「語り」 は、 きわめて印象的で感動的である。 またワキの 「語り」 は、 シテの身分や性格を導き出す 「語り」 である。 殊に 隅田川 道成寺 藤 戸 のワキの 「語り」 は、 名人が演じれば、 シテの 「語り」 同様にきわめて印象的で感動的である。 「狂言」 は、 日本の 「対話劇」 といわれるが、 その 「狂言」 にも 釣狐 「語り」 がある。 また 「狂言」 には、 ひとりの狂言師が舞台でもの語る 朝日奈 などの 「狂言」 に どちはぐれ (大蔵流) や 見 物左衛門 (和泉流) などの 「一人狂言」 などの演目もある。 しかし、 こうした 「語り」 は、 日本の 「古典芸能」 にみられるばかりでなく、 シェイクスピア (1564― 1616) の諸作品にも認められる(9)。 例えば、 リチャード三世 における幽霊の 「語り」 は、 過去の薔 薇戦争の歴史を舞台で要約し、 未来の英国の繁栄を予言し、 リチャード三世には呪いを、 リッチモンド には祝福を語る(10)。 また マクベス では、 第五幕第五場で主人公が Tomorrow,and tomorrow, and tomorrow… という 「独白」 を語るが、 この主人公の語る 「独白」 は、 すべて現在時制で語られ、 「語る自己」 と 「語られる自己」 とが切り離され、 自己が<異化>されて客観的に語られている。 その意味でこの 「独 白」 を語る主人公は、 この 「劇全体のナレーターとしての性格を強く帯びている」 のである(11)。 シェイクスピア劇では、 このように日本の 「古典芸能」 にみられる 「語り」 と同様にさまざまな<声> をもった 「語り」 が用いられている。 日本におけるシェイクスピア劇の上演が、 明治以降、 「能楽」 (能・ 狂言) をはじめ 「歌舞伎」 や 「人形浄瑠璃」 の様式で受容されてきたのも、 こうした日本の 「古典芸能」 とシェイクスピア劇に共通した 「語り」 の構造が認められる点が大きいと考えられる。 ― 121 ― 本稿では、 こうした 「語り」 が、 シェイクスピア劇の翻訳をはじめ、 近松門左衛門の 「人形浄瑠璃」 や 「歌舞伎」 の 「外郎売」 の科白、 さらに 「小説」 や 「詩」 などの 「近代文学」 の題材において、 どの ような日本語の<音声表現>で示されているのかを比較演劇学の視座から 「語り」 と 「ドラマ」 に焦点 をあてて考察する。 ― 122 ― 異化された語り物的演劇の<声>と<身体性> ― 「語り」 と 「ドラマ」 の比較演劇研究 ― 坪内逍遥の<文学的ドラマ>の【劇的朗読】と歌舞伎の 「語り」 Ⅰ ― シェイクスピアの翻訳朗読と歌舞伎 「外郎売」 の<音声表現> ― 日本の 「近代文学」 は、 明治20年前後、 つまり1890年前後に成立したと考えられるが、 この 「近代文 学」 に理論的根拠をあたえたのが、 坪内逍遥の 逍遥は、 この 小説神髄 小説神髄 であった。 で馬琴の 「勧善懲悪」 説を批判し、 「語り」 の小宇宙としての 「滑稽本」 や 「人情本」 を改良し、 新しい時代の文学ジャンルとしての 「小説」 (ノベル) のあり方を求めた。 逍 遥は、 この 小説神髄 の中で 「観客の耳」 や 「其眼 (そのまなこ)」 に訴える 「ドラマ」 よりも 「読 者の心」 に訴える 「小説」 の優位を論じたのである。 また明治19年 (1886) 9月には、 「演劇改良会」 の創立を聞いて逍遥は、 その改良の目的を、 「小説」 の原理によって 「ドラマ」 をはかることにあるとし、 明治21年 (1888) 頃には、 演劇改良へ向かい、 シェ イクスピアや近松の研究に本腰を入れる。 そして逍遥は明治23年 (1890) に東京専門学校 (現・早稲田 大学) に文学科を新設し、 そのカリキュラムに朗読法を加え、 文学研究と共に朗読法の研究も始めるの である。 さらに翌年には、 朗読会を催し、 「読法を興さんとする趣意」 を 国民之友 に発表し、 <文学的ド ラマ>の 「来降に準備せんとする」 ことが 「朗読の法を研究」 する目的であるとし、 その朗読法を次の 三つのタイプに大別する(12)。 (1) 「機械的読法」 (Mechanical Reading) … 「只さらさらと読み流してゆく」 「素直なるノッペ ラ棒」 の読み。 「目のみ」 をもっての【音読】法。 「漢文の素読」 は、 この読法 による。 (2) 「文法的読法」 (Grammatical Reading) … 「発音は、 法に合い、 句読は宜しきを得」 「文章 の本位を明晰」 にする読み。 「智力のみ」 をもっての【朗読】法。 【正読法】 とも言われる。 (3) 「論理的読法」 (Logical Reading) … 「文と情と相応相伴して緩急の句読 (ポーズ) に注意し、 声の抑揚、 高低、 弛張 (強調) に注意し、 哀愁、 憤激等の情を其の声の色にあ らはさんとする心得ある」 読法。 欧米に謂う[朗読法]を意味する 「エロキュー ション」 (elocution) の脱化である。 「傑作脚本」 の<文学的ドラマ>を 「智 情意の三心力を鋭敏」 にして読む【劇的朗読】法。 逍遥は、 この三つの朗読法のうち、 「論理的読法」 を探究し、 その対象としてシェイクスピアの 「ド ラマ」 を選んだのである。 その理由を逍遥は、 「人間の性情を探り、 天命の一端を窺い知る」 目的のた めであるとし、 シェイクスピアのいくつかの作品を具体的に取り上げ、 次のように説明する(13)。 「シャイロックの台辞を読む時は、 剛愎にして慳忍なる猶太人の心となり、 ポーシャの台辞を読む時 は機敏聡明にして情濃かなる上臈の心となり、 マクベスを読む時は功名の邪念燃ゆるが如く、 暗澹たる 想像蒸すが如く、 而も良心の刺戟を忘るゝ能はざる勇怯相半せる賊臣の心となり、 マクベス夫人を読む 時は朱唇毒を漲らせて傍 (かたはら) 人無きが如く、 而も女性を脱せざる情熱の貴婦人となり、 或ひは ハムレットと共に懊悩し、 煩悶し、 推理し、 或ひはオフィリアと共に窈窕として逍遥し、 恍惚として歌 ひ、 (中略)、 若しくは老道士プロスペローと共に安心立命の境を尋ねて浮世 (うきよ) の実相を悟了す ― 123 ― ることを得んには、 是れ豈に人間の性情を探り天命の一端を窺ふ者に近からずや。 (後略)」 逍遥は、 シェイクススピア作品のような<文学的ドラマ>を読む場合、 【劇的朗読】法ともいえる 「論理的読法」 が恰好の朗読法であると述べている。 木下順二 (1914―2006) は、 「ドラマ」 の科白の問題を考えようとする場合、 「ドラマ」 の科白を芸術 的に効果的に伝えるための 「デクラメイション」 (declamation) の工夫が何よりも必要であり、 特に シェイクイスピアの 「ブランク・ヴァース」 の詩形を日本語に移す場合、 何よりも 「朗誦に耐える」 翻 訳が必要で、 その翻訳に際しては、 日本の 「古典芸能」 の 「語り」 の手法を利用して翻訳し、 原文のも つことばの響きや香りを少しでも伝えられるような翻訳が望ましいと述べ(14)、 シェイクスピアの翻訳さ れた科白を俳優が語る場合も、 この 「デクラメイション」 の問題を抜きには考えられないと述べている。 逍遥の翻訳は、 言文一致運動と共にその翻訳も変遷しており、 各時代によって用いる用語も<文語体> を用いたり、 <口語体>を用いたり、 それぞれの時代で異なる。 例えば、 明治43年 (1910) に出版され た ロメオとジュリエット の翻訳の場合、 「狂言」 の口調や 「歌舞伎」 の様式がその翻訳に活かされ、 日本の 「古典芸能」 の 「語り」 の伝統が、 その翻訳に反映されている。 次にその ロミオとジュリエット の第2幕第2場の有名な 「バルコニーの場」 におけるロミオとジュ リエットの科白をあげてみる(15)。 ジュリエット 「もう夜 (よ) が明 (あ) くる。 往 (い) んで欲しいとは思ひながら、 小鳥の脚に気 侭 (きまゝ) 少女 (むすめ) が、 囚人 (めしうど) の鎖のやうに絲 (いと) を附けて、 ちよと手放 (てばな) いては引戻し、 又飛ばいては引戻すと同じやうに、 お前をば往 (い) なしたうもあり、 惜しうもある。」 ロミオ 「卿 (そもじ) の小鳥になりたいなあ!」 ジュリエット 「お前を小鳥にしたいなあ!したが余り可愛 (かはゆ) がつてつい殺 (ころ) いては ならぬによつて、 もうこれでおさらばぢや。 さよなら!あゝ、 別 (わか) れといふも のは悲し懐 (なつか) しいものぢや。 夜が明くるまで、 斯 (か) うしてさよならを言 うてゐたい。」 また逍遥は、 大正9年 (1920) に発表した 「脚本の朗読法」 において 「其時、 其場合、 其主題に応じ て、 読む者其者の全人格を発露しつゝ、 一語、 一句を表情的に読む」 脚本の朗読法を提唱した(16)。 逍遥 によれば、 「能楽」 (能・狂言) の 「語り」 は、 「我が国に於ける表情的発声法の最も古く仕上げられた 標本」 であり(17)、 「太平記読み」 から進化した 「講談」 は、 「我が国に於ける最も早く発達したエロキュー ションの一種」 であるという(18)。 そして 「人形浄瑠璃」 や 「歌舞伎」 の科白は、 「能楽」 (能・狂言) の 「語り」 や 「講談」 の 「読み」 に較べて 「エロキューションとしては、 遙かに進んだもの」 であり、 こ の 「人形浄瑠璃」 や 「歌舞伎」 の科白は、 日本の立派な 「ドラマ的」 「エロキューション」 (劇的朗読) であると述べている(19)。 が、 逍遥は、 義太夫節による 「人形浄瑠璃」 の 「語り」 や 「歌舞伎」 の 「エロキューション」 には、 「コトバにリズムが有り過ぎる」 と述べ(20)、 逍遥は、 「素直な、 自然な調子」 をもった【劇的朗読】によ る 「脚本の朗読法」 を提唱する。 逍遥は、 こうした 「脚本の朗読法」 の研究を重ねることによって脚本の科白を語る 「エロキューショ ン」 を重視した 「聴く演劇」 としての<文学的ドラマ>の創造に意欲を燃やしていくのである。 ― 124 ― 異化された語り物的演劇の<声>と<身体性> ― 「語り」 と 「ドラマ」 の比較演劇研究 ― 逍遥はシェイクスピア劇の 「性格描写」 や 「人物描写」 の妙趣と近松浄瑠璃の 「語り」 を融合した史 劇 桐一葉 (読み本体) を明治27年 (1894) 11月から翌年 (1895) 9月まで 早稲田文学 表した。 例えば、 第7段の 「長柄堤訣別の場」 は、 次のような浄瑠璃の 「語り」 で語られる に連載発 (21) 。 晨鶏再び鳴いて残月薄く、 征馬連 (しき) りに嘶いて行人出づ、 はや分かれゆく横雲や、 残 (のこん) の星を一つづゝ、 鐘が消しゆくいなのめの、 長柄堤に秋たけて、 一むら蘆に風黒く、 ありあけすごき大 川水 (おほかはみづ)、 ゆきて帰らぬ浪の音、 狭霧にむせび白らけゆく千草が蔭の蟲の聲、 哀れはいと どまさるらん、 この 「語り」 で用いられている 「残の星を一つづつ」 の句は、 近松の世話浄瑠璃 「天神森の段」 で語られる次の一節を踏まえて書かれている の 。 此の世のなごり。 夜もなごり。 死 (しに) に行く身をたとふれば 消えて行く。 夢の夢こそ 曽根崎心中 (22) あだしが原の道の霜。 一足づゝに あはれなれ。 あれ数 (かぞ) ふれば暁 (あかつき) の。 七つの時が六つ鳴り て残る一つが今生 (こんじやう) の。 鐘のひゞきの聞きをさめ。 寂滅為楽とひゞくなり。 近松門左衛門の浄瑠璃作品は、 <叙事的>な要素と<音楽的>な要素の二つの要素を兼ね備えており、 それは、 三味線の伴奏に合わせて義太夫節で語られる 「舞台化された語り物」 であり、 義太夫節の 「語 り」 によって近松浄瑠璃の<テクスト>は<身体化>され、 観客の耳から入った義太夫の<声>によっ て劇的空間が観客のこころに<イメージ>としてひろがっていくのである。 浄瑠璃の<テクスト>は、 科白の部分の 「詞」 と叙事的部分の 「地」 の二つの部分からなり、 語り手 は、 その二つの部分をさまざまに語りわけ、 近松浄瑠璃の劇的空間を創出する。 特に近松の世話浄瑠璃 の 「詞」 は、 主人公の意思や行為が直裁簡明に描き込まれ、 その 「地」 の文は、 語り手が登場人物の行 為や状態を直接語る。 その 「語り」 は、 一気に語られることが多く、 八世竹本綱太夫のことばによれば、 それは、 「朗読調」 といわれるものである。 逍遥は、 桐一葉 においてこうした近松の 「語り」 を導入し、 「ドラマ」 における 「地」 の 「語り」 の朗読法を探究しながら、 主人公の片桐且元の性格をシェイクスピア劇にみられるような手法で描いて いる。 が、 明治28年以降、 逍遥は、 次第に朗読の実践活動から演劇運動へ急速に傾斜していくのである。 そ して逍遥の朗読研究会は、 <文学的ドラマ>の脚本と新しい朗読法とを有機的に統一する方向へと向かっ ていくのである。 逍遥は、 明治30年 (1897) に史劇 クスピアの悲劇 マクベス 牧の方 を発表し、 この史劇の女主人公である牧の方に、 シェイ に登場するマクベス夫人の面影を投影させている。 牧の方は、 北條時政の後妻でありながら、 聟である平賀朝雅を愛する余り、 謀策をめぐらし、 幼将軍 の実朝を殺害しようとする。 が、 その陰謀が露見し、 牧の方は自害して果てるのである。 このように史 劇 牧の方 は、 女主人公である牧の方の悲劇的な生涯に焦点があてられ、 描かれている。 この作品に もシェイクスピアの 「ドラマ」 を歌舞伎の様式に盛り込もうとする逍遥の意図が強くあらわれている。 明治37年 (1904)、 逍遥の史劇の処女作である た。 そして翌年には、 牧の方 桐一葉 は、 歌舞伎役者によって東京座で初演され も同じく東京座で歌舞伎役者によって初演されるのである。 が、 逍遥は、 こうした歌舞伎役者による自作史劇の 「エロキューション」 を聴いて 「大不快」 であっ ― 125 ― たと日記に書き記している。 この 牧の方 が初演された明治38年 (1905)、 逍遥の朗読研究会は、 逍遥によって 「易風会」 と改 められ、 雅劇 妹山背山 を清風亭で私演した。 これは、 近松半二 (1725―1783) の 妹背山婦人庭訓 の吉野川の一場を題材にした史劇であった。 この史劇には、 逍遥の 「脚本の朗読法」 を身につけた東儀鉄笛 (1869―1925) と土肥春曙 (1869― 1915) の二人が登場し、 「豊かな声量」 と 「ハリのある高調子での巧みなせりふ廻し」 で観衆の注目を 浴びた(23)。 以後、 この二人は、 逍遥の演劇運動の中心的な俳優として地位を占めていったのである。 この翌年 (1906) には、 「易風会」 が 「文芸協会」 へと発展解消を遂げる。 その第一回の歌舞伎座に おける公演では、 逍遥の翻訳した ヴェニスの商人 の 「法廷の場」 が上演され、 好評を博した。 この 公演でシャイロックを演じた東儀鉄笛の演技は、 「新旧俳優に見出されぬ柄と技芸」 と評され、 ポーシャ を演じた土肥春曙の 「エロキューション」 は、 「美しいせりふ廻し」 と大評判となったのである(24)。 逍遥のシェイクスピア劇の翻訳は、 大別して次の5期に分類することができる(25)。 第1期… 「浄瑠璃まがひの七五調」 の翻訳の時代 自由太刀餘波鋒 ( ジュリアス・シーザー ) の翻訳 第2期… 「註釈を本位と立てた」 「逐語訳」 の翻訳の時代 マクベス の翻訳 第3期… 「実演を目的とした」 翻訳の時代 ハムレット の翻訳 第4期… 「文語口語錯交」 の翻訳の時代 オセロー の翻訳 第5期… 「現代語本位」 の翻訳の時代 ヴェニスの商人 の翻訳 この第3期の時代に逍遥は、 文芸協会の上演用に ハムレット を翻訳し、 専ら舞台での 「実演を目 的とした」 翻訳をおこなったのである。 この ハムレット の翻訳は、 明治44年 (1911) に帝国劇場で上演された。 この時、 主人公のハムレッ トを演じたのが、 「新様式のせりふ廻し」 (エロキューション) を得意とした土肥春曙であった。 河竹登志夫の 日本のハムレット によれば、 ハムレットを演じた土肥の 「新様式のせりふ廻し」 は、 「歌舞伎式ではなく、 むしろ現代の新劇ふうの写実でしかも独自の抑揚とテンポ」 があったという(26)。 この土肥の 「新様式のせりふ廻し」 こそ逍遥の提唱した 「ドラマ的」 「エロキューション」 (劇的朗読) に他ならなかった。 この 「エロキューション」 は、 後に文芸協会調といわれる 「新劇」 特有の 「エロキュー ション」 の基となった。 この 「新劇」 の 「エロキューション」 は、 その後、 小山内薫 (1881―1928) の自由劇場を経て築地小 劇場の人々によって継承され、 発展していったのである。 特に築地小劇場で活躍した山本安英 (1906― 1993) を中心に昭和42年 (1967) に発足した<ことばの勉強会>は、 新劇人の立場から日本の 「古典芸 能」 の 「語り」 の検討を含めて日本の 「ドラマ的」 「エロキューション」 (劇的朗読) が、 どのようなも のかを探究した。 この<ことばの勉強会>で中心的な役割を担っていた木下順二は、 この勉強会を通して 平家物語 による 「群読」 を創造し、 「ドラマ的」 「エロキューション」 (劇的朗読) の新しい地平を築いていった ― 126 ― 異化された語り物的演劇の<声>と<身体性> ― 「語り」 と 「ドラマ」 の比較演劇研究 ― のである。 この 「群読」 は、 「語り」 の<重層性>を生み、 深みのある 「ドラマ的」 「エロキューション」 (劇的 朗読) を創造し、 その後の演劇人に大きな影響を与えた。 木下順二は、 平家物語 を読んで、 その登場人物である知盛という人物に興味を抱き、 その人物を 「群読」 という朗読の形式で表現した。 この 「群読」 は、 「音程を合わせるコーラスとは全く違うもの」 であり(27)、 「群の全体が、 演出家の正確な計算の上での複雑な組み合わせで流れを断ち切らずに読む」 という形式のものである(28)。 この 「群読」 では、 山本安英の他、 坂本和子 (NHK)、 小沢重雄 (民衆舞台)、 野村万作 (和泉流狂 言師) らが参加し、 さまざまなタイプの 「デクラメイション」 が試みられた。 特に野村万作によって 「狂言」 の様式で語られる現代語の部分と山本安英らの 平家物語 の原文の朗読の部分とが、 巧みな 木下順二の構成によって統一され、 聴衆に深い感銘を与えた。 木下順二が、 このような<群読>を試みていた頃、 「声読教室」 の川野圭泉と 「コトバの教室」 の坂 井清成が、 高田馬場の日本点字図書館で運命的な出会いをし、 のちに坂井が川野の 「声読教室」 を譲り 受け、 「コトバの教室」 と合併し、 現在の 「音声表現学苑」 の土台となる 「日本アクセント学院」 が誕 生した。 この 「日本アクセント学院」 の顧問には、 国語学者の金田一春彦 (1913―2004) と劇作家の田 中千禾夫 (1905―1995) がおり、 ここから劇的朗読家の松川真澄をはじめ多くのすぐれた朗読人たちが 巣立っていった。 この坂井の 「日本アクセント学院」 は、 名称を変えながら、 現在の 「音声表現学苑」 に至るまで延べ六百人を越す朗読人たちを育てた。 その教育方針は、 <音声表現>である朗読を中心に 据え、 ①発声・発音の基本を重視し、 ②朗読作品の内面的な把握を第一に心掛け、 ③<テクスト>に向 かう姿勢としては、 「読む」 → 「話す」 → 「語る」 を段階的にたどることによって語り手の豊かな<音 声表現>を高めることに力を入れている。 坂井は、 その<音声表現>の入門書 もの読む術 の中で 「読み」 に変化を与えるものとして 「抑揚」 と 「転調」 と 「間」 の三つをあげ(29)、 「外郎売」 の科白を付録にあげている(30)。 この 「外郎売」 につい ては、 坂井の詳細を究めた解説書があり、 そこでは、 「外郎」 の由来にはじまり、 「舌もじりことば」 や 「早ことば」 の訓練の実際が、 「語釈」 「表現」 の順で解説され、 巻末には、 「外郎売」 の 「音声学的解説」 がほどこされている。 この 「外郎売」 の科白は、 二代目・市川團十郎によって舞台で語られ、 その後、 「歌舞伎十八番」 の ひとつに数えられるが、 この科白には、 話術の基本的要素が多く含まれており、 「物読む術」 の訓練教 材としてもすぐれている。 例えば、 この 「外郎売」 の科白の最後のくだりは、 次のようなものである。 隠れござらぬ貴賎群集の、 花のお江戸の花うゐらう。 あれ、 あの花を見て、 お心をおやはらぎやつと いふ。 産子・這う子に至るまで、 此のうゐろうの御評判、 ご存知ないとは申されまひまひつぶり、 角出 せ、 棒出せ、 ぼうぼうまゆに、 うす・杵 (きね)・すりばち、 ばちばちぐわらぐわらぐわらと、 羽目を 弛 (はづ) して今日おいでの何れも様に、 上げねばならぬ、 売らねばならぬと、 息せい引つ張り、 東方 世界の薬の元締、 薬師如来も上覧あれと、 ホゝ敬 (うやま) つて、 うゐらうはいらつしやりませぬか。 この 「隠れござらぬ貴賎群集の」 から 「うゐらうは、 いらつしやりませぬか。」 までの科白について 坂井は、 次のような詳細を究めた 「語釈」 を行う(31)。 ― 127 ― 「隠れござらぬ∼花うゐらう」 「隠れござらぬ」 は江戸を讃えた 「花のお江戸」 にかかり、 「貴賎群集」 は 「身分の貴い人もいやしい 人も多勢おいでになる」 という意味になる。 「花うゐらう」 は、 「外郎」 の特製品で 「金銀二色の丸薬」 だった。 「あれ、 あの花を見て、 お心を、 おやはらぎやつといふ」 「あれ、 あの花を見て」 の科白は、 前の 「花うゐらう」 の 「花」 に因んで面白く言ったものだが、 こ の科白で 「外郎売」 が 「実際に大道の桜の木の満開の下ででもこの口上を述べているというリアリティー」 が加わる。 「おやはらぎ」 は動詞 「和らぐ」 の連用形に接頭語 「お」 がついたもので、 「お心を、 おやはらぎやつ といふ」 の全体の意味は、 「心をなごやかになさいませ」 となる。 「産子・這う子に至るまで∼申されまひまひつぶり」 「産子」 は 「生まれ落ちたばかり」 の 「赤ん坊」 のことで、 「這う子」 は 「やや大きくなって這い始め た赤ん坊」 のことで、 両方とも 「赤ん坊」 を指す。 全体の意味は、 「赤ん坊に至るまでこの薬のご評判 をご存知ないとは申されないでしょう」 という意味で、 その推量の助動詞 「まい」 に 「かたつむり」 (蝸牛) の関東方言である 「まひまひつぶり」 を掛けてある。 「角出せ、 棒出せ、 ぼうぼうまゆに」 「角出せ、 棒出せ」 は 「蝸牛のはやしことば」 であり、 「ぼうぼうまゆに」 の 「ぼうぼうまゆ」 は、 「近松語彙」 の中にもあることばで、 「眉の化粧法のひとつ」 をあらわすことばである。 「うす・杵・すりばち、 ばちばちぐわらぐわらぐわらと」 「うす」 は 「臼」 だが、 前の 「まゆ」 に掛けて、 その 「眉が薄い」 という意味の 「薄」 をもじったも のである。 続いて 「杵」 「すりばち」 と台所道具を並べる。 「すりばち」 の 「ばち」 は、 「鉢」 と擬音語 の 「ばち」 に掛け、 「ばちばち」 となる。 擬音語の 「ぐわらぐわらぐわら」 のひびきには、 いかにも 「ものが崩れるような壮快な感じ」 がある。 「ぐわ」 は、 本来 「ぐぁ」 と書くべきである。 「羽目を弛して今日おいでの何れも様に」 「うす・杵・すりばち」 を 「一ぺんに引っくり返した感じ」 を出して 「羽目を弛して」 と次に続ける。 「羽目を弛して」 の 「羽目」 は、 「板を縦または横に同一平面上に並べて張ったもの」 で、 「弛して」 は 「はずして」 と読む。 この 「弛」 の文字は、 弓へんがついているように元来、 弓の弦が 「ゆるむ」 とい う意味である。 したがって 「羽目を弛す」 とは、 「床や壁の羽目板がゆるんではずれるほど暴れること」 を意味し、 転じて 「興にのって度を過ごす」 「面白がって無茶をする」 という意味となる。 「何れも様に」 ― 128 ― 異化された語り物的演劇の<声>と<身体性> ― 「語り」 と 「ドラマ」 の比較演劇研究 ― は、 「どなた様にも」 ということである。 「上げねばならぬ∼息せい引つぱり」 「上げねばならぬ」 と 「売らねばならぬ」 は対句式に並べられており、 「ならぬと」 の 「と」 を勢いよ くはねあげて 「息せい引つぱり」 と強い調子で続ける。 「息せい引つぱり」 は、 「あらん限り気力をつく す」 という意味の動詞 「息精張る」 の中に 「引く」 が割込んで、 さらに強い調子を加えたことばになっ ている。 「東方世界の薬の元締、 薬師如来も上覧あれと」 「東方世界」 は、 「薬師如来」 の住む 「浄土」 で 「東方浄瑠璃」 の略である。 「浄瑠璃」 とは、 近松な どの 「人形浄瑠璃」 の語源となった語である。 「瑠璃」 は、 仏教で定められている 「七宝」 のひとつで 「青色の宝石」 を言い、 「東方世界」 の地は、 この 「瑠璃」 で作られ、 無数の仏が住んでいる 「壮厳端麗 な世界」 だという。 「薬師如来」 は、 「薬師瑠璃光如来」 のことで 「十二の大きな誓いを立てて人々の病 気を救う仏」 だと言われている。 この 「薬師如来」 をここでは、 「薬の元締」 と洒落ている。 「上覧」 は 「照覧」 とも書き、 神仏が見えていることで、 「あれ」 は 「ある」 の活用形で願望を表すから、 「どうぞ ご覧下さい」 という意味である。 「ホゝ敬つて、 うゐらうは、 いらつしやりませぬか」 「ホゝ敬つて」 は、 「歌舞伎」 の 「つらね」 の最後に必ずつける決まり文句で、 元来は客に向かって敬 意を表すものであった。 「つらね」 とは、 「ことばや歌を連ねる意から出たことば」 で、 「歌舞伎」 の演 出では、 主役が主に花道において述べる長科白をさす。 この 「つらね」 を語った主役は、 最後に笑顔で 客に向かってうやうやしく頭を下げるという演出がなされたという。 「うゐらうは、 いらつしやりませぬか」 は、 「ういろうのご入用の方はいらっしゃいませんか」 という ぐらいの意味である。 さらに坂井は、 こうした 「語釈」 を行った後、 「隠れござらぬ貴賎群集の∼うゐらうは、 いらつしや りませぬか」 までの 「表現」 について次のように解説する(32)。 「隠れござらぬ」 からは、 「薬の売り口上」 になるので、 「一段と声を張って」、 いわゆる 「大向うに掛 ける感じにして」 ゆき、 「あれ、 あの花を見て」 は、 「今までと調子を変えて、 女形のような裏声に似せ た感じの声」 で 「一寸シナを作って言う」 と面白い。 「産子・這う子に」 のくだりからは、 「普通の調子」 に戻って、 「次第にリズミカルに盛り上げて」 ゆ き、 同時に 「羽目を弛して」 のあたりから、 「商人の面目をとり戻してうんと愛想よく、 にこやかに調 子」 を変える。 この 「変り目」 と 「最後の納め方」 が 「仲々むずかしい」。 「うゐらうは」 の 「は」 は 「やや上げて」 語り、 「いらつしやりませぬか」 は、 「やわらかく中音の感 じ」 が良い。 ― 129 ― 坂井のこの丹念な 「読み」 には、 朗読の実践家として、 また<音声表現>の指導者としての行き届い た科白の分析が音声学的に行われている。 そして坂井が、 この 「外郎売」 の科白で試みた 「語釈」 は、 逍遥のいう 「正読法」 の朗読を行う場合、 必要不可欠なものであり、 その 「表現」 における 「読み」 は、 逍遥のいう 「論理的読法」 の朗読を行う場合、 大変、 参考になる 「読み」 である。 朗読家というものは、 こうしたさまざまな<音声表現>の試みの中で、 その 「表現」 をみずから選択 し、 <テクスト>となる書きことばを一語一語分析し、 そのことばの 「語釈」 を通して読み手本人の立 場を朗読という<音声表現>によって明らかにするのである。 その意味で<テクスト>をいかに読むか に、 読み手である朗読家自身の 「ドラマトゥルギー」 (思想) が透けてみえてくるのである。 ― 130 ― 異化された語り物的演劇の<声>と<身体性> 近代文学の重層的な 「語り」 の諸相 Ⅱ ― 「語り」 と 「ドラマ」 の比較演劇研究 ― ― 鏡花・龍之介・白秋 ― 河竹黙阿弥 (1816―1893) の 弁天小僧 の 「浜松屋」 における有名な 「知らざぁ言ってきかせやしょ う」 で始まる 「七五調」 の音楽的な科白は、 「歌舞伎」 役者の様式的な 「エロキューション」 として今 日よく知られている。 明治20年代のはじめに 「新演劇」 を標榜した 「新派」 の人々は、 こうした 「歌舞伎」 の様式的な 「エ ロキューション」 を離れた 「新派」 独自の科白術を探究した。 特に 「オッペケペー節」 で自由思想を鼓 吹した川上音二郎 (1864―1911) は、 泉鏡花 (1873―1936) が発表した 「小説」 の を、 明治28年 (1895) に 滝の白糸 と題して上演した。 以後、 滝の白糸 義血侠血 (1894) は、 明治の風俗劇を上演 する 「新派」 劇の人気演目となっていくのである。 またこの 滝の白糸 れ、 現在、 滝の白糸 の他に鏡花の 「小説」 である 婦系図 も、 「新派」 の人々によって舞台化さ と共に 「新派」 劇の代表作となっている。 鏡花の 「小説」 は、 これらの舞台化された作品にみられるようにつきせぬ悲哀の物語がさまざまな 「語り」 によって表現されるところに特色がある。 明治30年 (1897) に発表された鏡花の最初の<口語体>による 「小説」 だといわれている 化鳥 は、 少年を主人公とする一人称の 「語り」 によって物語が展開する。 その 化鳥 の冒頭は、 次のような出 (33) だしで始まる 。 愉快 (おもしろ) いな、 愉快 (おもしろ) いな、 お天気が悪くつて外へ出て遊べなくつても可 (い) いや、 笠を着て、 蓑を着て、 雨の降るなかをびしよびしよ濡れながら、 橋の上を渡つて行くのは猪だ。 この冒頭の一文は、 現在時制で語られている。 そしてこの 「小説」 は、 主人公の少年が 「雨の降るな か」 菅笠をかぶり、 「蓑を着て」 橋の上を歩く男を 「猪」 に見たてて語るところから始まる。 が、 この物語は、 冒頭から8行目の次の一文によって少年の回想を通してその少年の<内的モノロー グ>で物語が展開する構成になっていることがわかる。 寒い日の朝、 雨の降つてる時、 私の小 (ちひ) さな時分、 何日 (いつか) でしたつけ、 窓から顔を出 して見て居ました。 この一文によって実質的には、 現在時制として語られてゆく時間が、 実は、 少年の過去の回想である ことが読者に示されるのである。 少年は、 「寒い日の朝、 雨の降つている時」、 「母様 (おつかさん) と二人で住んで」 いる 「番小屋」 の窓から外を眺めながら、 次のような 「ダイアローグ」 (対話) を 「母様 (おつかさん)」 と続ける(34)。 「母様 (おつかさん)、 愉快 (おもしろ) いものが歩行 (ある) いて行くよ。」 「さうかい、 何が通りました。」 「あのウ猪。」 「さう。」 少年の 「母様 (おつかさん)」 は、 息子の手袋を拵 (こしら) えながら、 少年の 「語り」 に応え、 「さ ― 131 ― う」 と言って笑っている。 この少年と母様 (おつかさん) は、 その橋詰に 「番小屋」 を建て、 通交人から橋銭を取って暮してい る。 その少年は、 「番小屋」 に閉じ込められており、 窓から外を見ながら、 さらに 「母様 (おつかさん)」 と対話を続ける。 物語は、 このように少年の<意識の流れ>に沿って展開していくのである。 そして少年は、 この雨降 る朝から数えて半年ほど前に、 一度、 川に落ちたことを思い出す。 その時、 少年は誰かに助けられたが、 誰に助けられたのかはっきりしない。 そこで少年は、 「母様 (おつかさん)」 に 「一体助けて呉れたのは 誰ですツて」 と問うと、 少年の 「母様 (おつかさん)」 は、 次のように答えた(35)。 「それはね、 大きな五色 (ごしき) の翼 (はね) があつて天上に遊んで居るうつくしい姉 (ねえ) さ んだよ。」 少年は、 その 「羽の生えたうつくしい姉さん」 を 「見たい」 と思い、 日暮れまでたずね歩き、 異次元 の世界に迷い込む。 この 化鳥 の終結部は、 少年の次のような 「語り」 によっておわる(36)。 ふるへながら、 そつと、 大事に、 内証で、 手首をすくめて、 自分の身体を見ようと思つて、 左右へ袖 をひらいた時、 もう、 思はずキヤツと叫んだ。 だつて私が鳥のやうに見えたんですもの。 何 (ど) んな に恐かつたらう。 此時 (このとき)、 背後 (うしろ) から母様 (おつかさん) がしつかり抱いて下さらなかったら、 私 何 (わたしど) うしたんだか知れません。 其 (それ) はおそくなつたから見に来て下 (くだ) すたんで、 泣くことさへ出来なかったのが、 「母様 (おつかさん) !」 といつて離れまいと思つて、 しつかり、 しつかり、 しつかり襟 (えり) ん 処 (とこ) へかじりついて仰向いてお顔を見た時、 フツト気が着 (つ) いた。 何 (ど) うもさうらしい、 翼 (はね) の生えたうつくしい人は何 (ど) うも母様 (おつかさん) であ るらしい。 もう鳥屋には、 行くまい。 わけてもこの恐しい処 (ところ) へと、 其後 (そののち) ふつつ り。 しかし何 (ど) うしても何 (ど) う見ても、 母様 (おつかさん) にうつくしい五色の翼 (はね) が生 えちやあ居ないから、 またさうでなく、 他にそんな人が居るのかも知れない、 何 (ど) うしても判然 (はつきり) しないで疑 (うたが) はれる。 雨も晴れたり、 ちやうど石原も辷 (すべ) るだらう。 母様 (おつかさん) はあゝおつしやるけれど、 故 (わざ) とあの猿にぶつかつて、 また川へ落ちて見ようか不知 (しら)。 さうすりやまた引上 (ひき あ) げて下さるだらう。 見たいな!羽の生えたうつくしい姉 (ねえ) さん。 だけれども、 まあ、 可 (い) い。 母様 (おつかさん) が在 (い) らつしやるから、 母様 (おつかさん) が在 (い) らつしやつたから。 この 化鳥 には、 少年の 「夢想する世界」 と母の 「生きている世界」 とがあり、 両者の世界は、 少 年の 「語り」 によって交差しながら、 物語は展開していくのである。 最後の 「母様 (おつかさん) が在 (い) らつしやるから、 母様 (おつかさん) が在 (い) らつしやつ たから。」 という結びの一文では、 現在と過去の時制が、 交差しており、 両者の時制が渾然一体となっ ている。 少年の回想している現在から見れば、 「在 (い) らつしやつた」 であり、 少年の 「語り」 における現 ― 132 ― 異化された語り物的演劇の<声>と<身体性> ― 「語り」 と 「ドラマ」 の比較演劇研究 ― 在から見れば、 「在 (い) らつしやる」 のである。 この鏡花の 化鳥 には、 このように現在時制と過去時制の複合が認められるが、 そこには、 三田英 彬が指摘するように 「夢幻能に通い合う構造」 が認められる(37)。 「夢幻能」 は、 主人公 (シテ) の登場や劇の進行において、 しばしば時間・空間の飛躍や逆転がおこ なわれ、 回想的に 「ドラマ」 が展開する。 例えば、 「夢幻能」 では、 「次元を異にする主人公や空間と異 質な時間が同居して、 物理性を超えた演技が展開」 されるのである(38)。 鏡花の 化鳥 は、 このような 「夢幻能に通い合う構造」 を有しながら、 少年を主人公とする一人称 の<内的独白>ともいえる 「語り」 によって物語が展開されていくのである。 鏡花がこの 化鳥 を発表した明治30年代に 「新派」 劇は、 「四拍子ないしは二拍子系」 の 「日本語 の発話のリズム」 を<芸>として洗練させるようなかたちで、 「新派」 の<型>ともいえるその 「独自 のせりふ術と身体所作」 の様式的な演技をつくり出していったのである(39)。 「新派」 劇は、 科白が<口語体>で語られるにもかかわらず、 「三味線の合方ともなじむ」 独自の演技 スタイルを生み出していったのである。 その 「新派」 劇の典型は、 明治41 (1908) 年に新富座で初演さ れ、 以後も 「新派」 劇を代表する名舞台となった 婦系図 である。 特にこの 婦系図 には、 三幕目 に 「湯島の境内」 の場があるが、 これは、 原作の小説にはない場面で、 初演の舞台化されたおりに付け 加えられたものである。 この場は、 婦系図 の最大の見せ場だが、 幕あきは、 「歌舞伎」 で用いられる清元 「忍逢春雪解 (し のびあうはるのゆきげ)」 によってはじまる(40)。 この清元は、 河竹黙阿弥の まごううえののはつはな) 天衣紛上野初花 (くもに の6幕目、 「大口屋別荘の場」 で、 お尋ね者の片岡直次郎が恋仲の吉原の花 魁、 三千歳と忍び逢うシーンで歌われる。 「新派」 劇 婦系図 の 「湯島の境内」 は、 この人口に膾炙 した清元によって枠取られるようなかたちで構成されている。 人目を忍んで芸者あがりのお蔦 (つた) と夫婦になった早瀬主税 (はやせ・ちから) は、 師である真 砂の酒井先生の言いつけでお蔦と別れる決心をし、 湯島天神の境内で、 お蔦に縁切りを言い渡す。 ここ では、 早瀬の 「月は晴れても、 心は暗闇 (やみ) だ」 やお蔦の 「切れるの別れるツて、 そんな事は芸者 の時に云ふものよ」 「私にや死ねと云つて下さい。 蔦には枯れろとおつしやいましな」 などの科白が語 られる。 これらの科白は、 誰にでも聞き取れる<口語体>の科白でありながら、 「三味線の合方ともな じむ一定の間と呼吸」 で語られる(41)。 例えば、 早瀬の 「月は/晴れても/心は/暗闇 (やみ) だ」 の科 白を等時的に発声されるブロックに分けてみると、 四拍子に分拍される。 これが、 「新派」 劇の科白の 基本的なリズムなのである。 この科白は、 「月は/晴れても」 と 「心は/暗闇 (やみ) だ」 が対句的に 用いられており、 音数は 「3・4」 「4・3」 の十四音で構成されている。 これは、 「内在律」 と呼ばれ る 「判断に訴え、 知性を振動させる、 声なき声のリズム」 だが(42)、 木下順二は、 この 「内在律」 を 「せ りふの内にある心理的リズムと不即不離であるような語音のリズム」 と規定し(43)、 この 「内在律」 を用 いて日本の創作劇における 「語り」 や 「デクラメイション」 の問題を探究し、 シェイクスピア劇の翻訳 や 子午線の祀り を創造していったのである。 「新派」 劇がこうした 「内在律」 を用いた独自の演技スタイルを完成させていった明治30年代後半は、 近代日本人の<声>と<身体性>ともいえるものが完成された時期でもある。 兵藤裕巳が指摘するように今日、 「日本的」 と感じている 「リズム感」 や 「身体感覚」 は、 明治の 「口語演劇」 である 「新派」 劇のスタイルが確立されたこの時期に 「ほぼ国民規模」 で成立したのであ る(44)。 大正3 (1914) 年9月、 明治座で上演された 婦系図 ― 133 ― は、 この場面を原作者の泉鏡花が自ら 新小 説 (10月号) に書き下ろし、 それが上演された。 この作品が、 明治座で上演された翌 (1915) 年には、 芥川龍之介 (1892―1927) が している。 龍之介は、 その後も、 鼻 (1916) や 藪の中 羅生門 を発表 (1922) などを発表し、 平安時代の民衆の 野性美の発見と近代的解釈の調和を試みた。 特に盗賊多襄丸による武士の妻の陵辱事件を扱う 藪の中 には、 妻を犯された男の殺害事件をめぐって当時者である多襄丸、 真砂、 武弘の三人の語り手が、 それ ぞれの立場から異なった 「語り」 をおこなう。 が、 結局、 事件の 「真相は藪の中」 でおわるのである。 この 藪の中 の三人の語り手は、 いずれもが 「自己の利害や感情」 にのみ見入っており、 「ありの ままに相手を見、 相手の感情や苦しみを理解しようとする意志」 が全くない。 そしてそれぞれの 「語り」 では、 「エゴイスティックで、 思いやりや優しさの欠如した風景」 が語られるのである(45)。 このように 三人の語る三つの物語は、 それぞれの側面から並列的に語られながら、 同じような 「エゴイスティック で、 思いやりや優しさの欠如した風景」 を見せているのである。 「多襄丸の白状」 は、 真砂を手ごめにするまでの事件の経緯が示されているため 「清水寺に来れる女 の懺悔」 や 「巫女の口を借りたる死霊の物語」 のほぼ倍の長さがある。 この 「多襄丸の白状」 では、 多襄丸が武弘を殺害したい気持ちになったのは、 「どちらか一人死んで くれ」 「生き残つた男につれ添ひたい」 と縋りつく真砂の 「燃えるやうな瞳」 を見たからであると語ら れる。 そして多襄丸は、 「この女を妻にしたい」 と願うようになり、 自分の太刀で武弘の 「胸を貫き」 殺害するのである。 「清水寺に来れる女の懺悔」 では、 真砂が気を失ったのも、 夫と一緒に死のうと思ったのも 「夫の眼 の中に、 何とも云ひやうのない輝き」 すなわち 「冷たい蔑み」 や 「憎しみの色」 を見たからであると語 られる。 そして真砂は、 夫の目の前で手ごめにされるという状況の中でそれを見た夫の<死>を願うよ うになり、 真砂は 「殆ど、 夢うつつの内に」 夫の 「縹の水干の胸へ、 づぶりと小刀を刺し通」 すのであ る。 また 「巫女の口を借りたる死霊の物語」 では、 杉の根に縛られた武弘が自由の身になるや、 ためらう ことなく妻の落とした小刀を 「一突きに」 自分の 「胸へ刺し」 自害して果てるのである。 そして死霊と なった武弘は、 巫女の口を借りて盗人に手込めにされた妻の美しさを語るのである。 が、 その美しい妻 が 「狂つたように、 何度も」 盗人に言った言葉は、 「あの人を殺して下さい」 という 「憎むべき言葉」 であった。 この龍之介の 指輪と本 藪の中 は、 R・ブラウニング (1812―1889) の 男と女 ( Men and Women ) や ( The Ring and the Book ) などの影響を受け、 「ドラマチック・モノローグ」 (dramatic monologue) と呼ばれる<独白体>の 「語り」 によって物語が並列的に展開する。 そしてこの 「小説」 は、 こうした 「ドラマチック・モノローグ」 の 「語り」 を並列的に用いることによって<心理的ドラマ> を思わせる重層的な構成になっているのである。 龍之介の 藪の中 は、 強姦事件と殺人事件という題材を扱い、 映画化もされ、 大きな話題になった が、 北原白秋 (1885―1947) の 「おかる勘平」 も、 その発表時 (1910・2・20) には、 内容が風俗紊乱 にあたるとされ、 発表誌 「屋上庭園」 (第2号) は、 この白秋の 「詩」 を掲載したために発禁本となり、 廃刊に追い込まれた。 この白秋の 「おかる勘平」 は白秋の官能的耽美的詩風を代表する一編である(46)。 おかるは泣いてゐる。 長い薄明 (うすあかり) のなかでびろうど葵の顫へてゐるやうに、 ― 134 ― 異化された語り物的演劇の<声>と<身体性> ― 「語り」 と 「ドラマ」 の比較演劇研究 ― やはらかなふらんねるの手ざはりのやうに、 きんぽうげ色の草生 (くさぶ) から昼の光が消えかかるやうに、 ふわふわと飛んでゆくたんぽぽの穂のやうに。 泣いても泣いても涙は尽きぬ、 勘平さんが死んだ、 勘平さんが死んだ、 わかい奇麗な勘平さんが腹切つた…… おかるはうらわかい男のにおひを忍んで泣く、 麹室 (かうじむろ) に玉葱の咽 (む) せるやうな強い刺戟 (しげき) だつたと思ふ。 やはらかな肌 (はだ) さはりが五月 (ごぐわつ) ごろの外光 (ぐわいくわう) のやうだつた、 紅茶のやうに熱 (ほて) つた男の息 (いき)、 抱擁 (だきし) められた時 (とき)、 昼間 (ひるま) の塩田 (えんでん) が青く光り、 白い芹の花の神経が鋭くなつて真蒼に凋れた、 顫へてゐた男の内股 (うちもゝ) と吸はせた唇と、 別れた日には男の白い手に烟硝 (えんせう) のしめりが沁み込んでゐた、 駕にのる前まで私はしみじみと新しい野菜を切つてゐた…… その勘平は死んだ。 おかるは温室 (おんしつ) のなかの孤児 (みなしご) のやうに、 いろんな官能 (くわんのう) の記憶にそそのかされて、 楽しい自身の愉楽 (ゆらく) に耽つてゐる。 (人形芝居 (にんぎやうしばゐ) の硝子越しに、 あかい柑子の実が秋の夕日にかがやき、 黄色く霞んだ市街 (しがい) の底から河蒸汽の笛がきこゆる。) おかるは泣いてゐる。 美しい身振り (みぶり) の、 身も世もないといふやうな、 迫 (せま) つた三味 (しやみ) に連 (つ) れられて、 チョボの佐和利 (さはり) に乗つて、 泣いて泣いて溺 (おぼ) れ死にでもするやうに おかるは泣いてゐる。 (色と匂 (にほひ) と音楽と。 勘平なんかどうでもいい。) この白秋の 「おかる勘平」 は、 赤穂浪士の敵討ちを描いた 「浄瑠璃狂言」 の でほんちゆうしんぐら) 「人形浄瑠璃」 の 仮名手本忠臣蔵 (かな の5・6・7段目が題材にされている。 仮名手本忠臣蔵 は、 竹田出雲 (1697―1756)・三好松洛 (生没年未詳)・並木千 ― 135 ― 柳 (1695―1751) の合作で、 寛延元年 (1748) 8月、 大坂竹本座で初演された。 この 仮名手本忠臣蔵 は、 菅原伝授手習鑑 (すがわらでんじゆてならいかがみ) 義経千本桜 (よしつねせんぼんざくら) と並ぶ 「人形浄瑠璃」 の 「三代名作」 で、 「歌舞伎」 でもよく上演され、 起死回生の妙薬ともいわれる 「毒参湯 (どくじんとう)」 に譬えられる。 「歌舞伎」 では、 「人形浄瑠璃」 から移された 仮名手本忠臣蔵 の 「大序」 (鶴ケ岡八幡宮) で登場 人物たちがはじめ人形のように俯いて舞台に登場するが、 これは、 「人形浄瑠璃」 に対して 「歌舞伎」 の人々が敬意をあらわす演出だといわれている(47)。 しかし、 「人形浄瑠璃」 の 仮名手本忠臣蔵 と 「浄瑠璃狂言」 の 仮名手本忠臣蔵 では、 その 「ドラマ」 の構造が全く異質である。 それは、 演じる主体が、 「人形浄瑠璃」 では人形であり、 「歌舞伎」 では生身の人間であるという決定的な違いによるものである。 「人形浄瑠璃」 では、 太夫は 「床本 (ゆかほん)」 と呼ばれる脚本を土台に聴覚に訴える 「語り」 をお こない、 人形遣いは視覚に訴える人形を遣う。 その太夫の 「語り」 と人形遣いの人形の動きとが、 それ ぞれ独立しながらも一体となってひとつの 「ドラマ」 の世界を形成しているのが、 「人形浄瑠璃」 なの である。 この場合<情を深く語る>太夫があくまでも 「人形浄瑠璃」 の主役の座にある。 ところが 「浄瑠璃狂言」 の 「歌舞伎」 では、 主役の座は太夫ではなく、 役者にある。 そのため脚本は、 役者に都合のよいように書き替えられるのである。 「人形浄瑠璃」 では、 脚本にある 「詞」 と 「地」 を太夫がそれぞれ語っていたが、 「浄瑠璃狂言」 では、 「詞」 を科白として役者に語らせ、 「地」 の部分だけを太夫に語らせるようになったのである。 要するに 歌舞伎役者は、 「人形浄瑠璃」 の太夫から 「詞」 を奪いとってしまったのである。 これが、 現在、 「人形 浄瑠璃」 の作品を歌舞伎化する時の原則となっている。 「歌舞伎」 では、 こうした義太夫節の語り手を 「チョボ」 という。 「チョボ」 とは、 元来 「、」 (点) の ことである。 「歌舞伎」 に出演する太夫は、 役者次第で語る部分に異同が生じるため、 自分の語るとこ ろを間違えないように、 語り出しと語り終えるところに、 小さく切った赤や青の紙を点々と貼り付けて 目印にした。 この小さな点のような目印から 「チョボ」 の名称が生まれたといわれている(48)。 白秋の 「おかる勘平」 で 「チョボの佐和利に乗つて」 の 「チョボ」 は、 こうした義太夫節の語り手を さす。 そしてその語り手の 「佐和利」 とは、 義太夫節で 「ほかの流派の節にさわる」 ということで、 「他流の曲節を取り入れながら、 旋律を工夫した聞かせどころ」 をさすのである(49)。 白秋は、 遊女となったおかるが愛する勘平の<死>を嘆き、 泣いている場面を官能的な 「語り」 によっ て表現している。 その 「語り」 には、 江戸情緒漂う浄瑠璃の 「三味」 の 「音楽」 が奏でられ、 遊女の 「色と匂 (にほひ)」 が漂っている。 勘平のために遊郭に身を売ったおかるの<身体>には、 すでに遊女としての 「官能の記憶」 が<身体> に染み込んでおり、 その 「官能の記憶」 をおかるは辿り、 勘平の 「うら若い男のにほひを忍んで泣く」 のである。 白秋のこのような 「叙景詩」 における 「語り」 には、 読者をエロチックな情動に駆り立てる比喩と階 調の融合が認められる。 この作品は、 白秋の第3詩集 1月1日発行の 歌舞伎 東京景物詩 (1913) に収められているが、 初出は、 明治43年 (1910) (114号) である。 これは、 「屋上庭園」 に掲載される1ヶ月前に発行されて いるが、 その折は、 「屋上庭園」 で問題にされた 「顫 (ふる) へてゐた男 (をとこ) の内股 (うちもゝ) と吸 (す) はせた唇 (くちびる) と」 という一行があったにもかかわらず、 発禁の処分を受けていない。 白秋の 「おかる勘平」 は、 朗読家による<声>を通して<音声表現>されると、 聴衆は、 その語られ ― 136 ― 異化された語り物的演劇の<声>と<身体性> ― 「語り」 と 「ドラマ」 の比較演劇研究 ― た 「詩」 の一語一語に魂の昂揚感を覚える。 それは、 白秋の 「詩」 が、 耳から聴いて<イメージ>を喚 起できる 「語られることば」 で書かれているからである。 そしてそのことばには、 絢爛たる 「色」 とあ やしく爛れた官能的な 「匂」 と江戸情調漂う浄瑠璃の 「音楽」 が溶け合っている。 白秋の 「語り」 のリ ズムは、 こうしたことばの重層性によって形成されているのである。 ― 137 ― 児童文学における 「語り」 の<力>と<声>のドラマ性 Ⅲ 「児童文学」 は、 「子どもの心の成長に役立つ内容を、 子どもの立場と子どもの視点に立ち、 子どもの 諒解し得る表現で書いた文学」 と定義されているが(50)、 それが日本で本格的に成立するのは、 明治時代 の近代に入ってからである。 日本の近代における 「児童文学」 の歴史では、 ふつう巖谷小波 (1870―1933) の (51) の嚆矢であるといわれている 。 この こがね丸 こがね丸 が、 そ は、 明治24年 (1891)、 近代日本における最初の児 童文学叢書といわれる 「少年文学叢書」 の第一編として博文館から刊行された。 これは、 金眸大王のた めに非業の<死>をとげた庄家の番犬月丸の忘れがたみ黄金丸が、 牝牛の文角、 猟犬の鷲郎、 ねずみの 阿駒などの助けをかりて、 金眸およびその輩下の狐の聴水、 猿の黒衣などを見事に討ち取る復讐譚であ る。 この 黄金丸 を書いた巖谷小波を中心に 「お伽噺 (とぎばなし)」 と呼ばれる 「空想的・説話的な 物語」 を発表していた小波グループは、 そうした 「お伽噺」 を子どもたちに語って聞かせる 「口演童話」 の道も拓いた。 特に巖谷小波が創始したこの 「口演童話」 は、 その後、 久留島武彦 (1874―1960) や渡 辺茂男 (1928―2006) らによって積極的におこなわれ、 現在に至っている(52)。 これに対してキリスト教精神を基軸として欧米のすぐれた 「児童文学」 を日本に移植したのは、 「女 学雑誌社」 に拠った巖本善治 (1863―1942) や若松賎子 (1864―1896) らのグループであった。 特に若 松賎子の翻訳した 小公子 は、 明治23年 (1890) から明治25年 (1892) にかけて 「女学雑誌」 に連載 され、 後に単行本化され、 人々の注目を集め、 大ベストセラーとなった。 この若松賎子の 「翻訳児童文 学」 は、 「平易な口語体」 の 「語り」 でストーリーが展開され、 多くの読者を得た。 明治における 「児童文学」 は、 大きくわけると、 このように巖谷小波の 「お伽噺」 のグループとキリ スト教精神を基軸とした若松賎子らの 「女学雑誌」 に拠ったグループにわけることができる(53)。 大正時代になると、 「お伽噺」 は、 「童話」 と呼称されるようになり、 「大衆的児童文学」 に代わって 文学性豊かな 「芸術的児童文学」 が数多くあらわれた。 特に大正7年 (1918) に創刊された鈴木三重吉 (1882―1936) が編集する 「赤い鳥」 を皮きりに 「金の星」 (1919) や 「コドモノクニ」 (1922) などの 「童話」 雑誌が相次いで創刊され、 「童話」 のみを創作して生活する<童話作家>がこの時代にあらわれ た。 「赤い蝋燭と人魚」 (1921) などで知られる小川未明 (1882―1961) は、 その代表的な<童話作家> のひとりである。 またこの時代には、 芥川龍之介や有島武郎 (1873―1923) らの小説家も 「童話」 の創作に筆を染め、 「童心主義」 と呼ばれれる教育理念を軸とする 「童話」 を発表している。 特に大正7年7月 「赤い鳥」 の創刊号に発表された龍之介の 蜘蛛の糸 は、 「児童文学」 における 「語り」 の<力>と<声>のド ラマ性をもった 「童話」 として今日も多くの朗読家たちがこの 「童話」 を<音声表現>している。 この 蜘蛛の糸 は、 龍之介の最初の 「児童文学」 の作品であるが、 「視覚的」 な 「情景描写」 と 「語り」 の<力>によって<テクスト>に立体感を与えている。 「赤い鳥」 には、 こうした 「芸術的童話」 が多く発表されており、 芥川龍之介の他に泉鏡花、 島崎藤 村、 有島武郎、 小川未明らの作家たちも、 この 「赤い鳥」 に執筆した。 この 「赤い鳥」 は、 昭和4年 (1929) に一時廃刊となるが、 昭和6年 (1931) 1月に復刊される。 こ の復刊された後期 「赤い鳥」 から坪田譲治 (1890―1982) や新美南吉 (1913―1943) などのユニークな 境地を開いた個性的な作家たちが誕生した。 なかでも新美南吉は、 物語性に富んだ郷土色ゆたかな一連 の作品を発表し、 宮澤賢治 (1896―1933) と人気を二分する日本の 「古典的児童文学作家」 となってい ― 138 ― 異化された語り物的演劇の<声>と<身体性> ― 「語り」 と 「ドラマ」 の比較演劇研究 ― る(54)。 南吉の代表作 ごん狐 (ぎつね) (1932) は、 龍之介の 蜘蛛の糸 と同様に 「児童文学」 おける 「語り」 の<力>と<声>のドラマ性をもっている作品である。 やさしい心をもっているひとりぼっちの小ぎつねのごんは、 同じ境遇の村の若者の兵十に親しみを寄 せている。 しかもごんは、 この兵十をひとりぼっちにしたのは、 自分のせいだと思い込んでいる。 少し でもそのつぐないをしようとごんは、 兵十のところへ栗や松たけなどを運び続ける。 兵十は、 そんなこ ととは夢にも思っていないので、 気味悪がって、 知り合いの加助に相談する。 すると、 加助は、 兵十に 「それや、 人間ぢやない、 神さまだ」 「神さまが、 お前がたつた一人になつたのをあはれに思はつしやつ て、 いろんなものをめぐんで下さるんだよ。」 といい、 「だから、 まいにち神さまにお礼を言ふがいゝよ。」 と言う。 ごんは、 それを聞いてがっかりし、 「おれが、 栗や松たけを持つていつてやるのに、 そのおれ にはお礼をいはないで、 神さまにお礼をいふんぢやァおれは、 引き合はないなあ。」 と言う(55)。 次にその ごんぎつね の続きの部分を取り上げてみる(56)。 そのあくる日もごんは、 栗 (くり) をもつて、 兵十の家 (うち) へ出かけました。 兵十は物置 (もの おき) で縄 (なは) をなつてゐました。 それでごんは家 (うち) の裏口 (うらぐち) から、 こつそり中 (なか) へはいりました。 そのとき兵十は、 ふと顔 (かほ) をあげました。 と狐 (きつね) が家 (うち) の中へはいつたではあ りませんか。 こなひだうなぎをぬすみやがつたあのごん狐 (ぎつね) めが、 またいたづらをしに来 (き) たな。 「ようし。」 兵十は、 立ちあがって、 納屋 (なや) にかけてある火縄銃 (ひなわじゆう) をとつて、 火薬 (くわや く) をつめました。 そして、 足音 (あしおと) をしのばせてちかよつて、 今 (いま) 戸口 (とぐち) を出ようとするごん を、 ドンと、 うちました。 ごんは、 ばたりとたほれました。 兵十はかけよつて来 (き) ました。 家 (う ち) の中を見ると、 土間 (どま) に栗 (くり) が、 かためておいてあるのが目につきました。 「おや。」 と兵十は、 びつくりしてごんに目を落 (おと) としました。 「ごん、 お前 (まい) だつたのか。 いつも栗 (くり) をくれたのは。」 ごんは、 ぐつたりと目をつぶつたまゝ、 うなづきました。 兵十は、 火縄銃 (ひななはじゆう) をばたりと、 とり落 (おと) しました。 青 (あを) い煙 (けむり) が、 まだ筒口 (つゝぐち) から細 (ほそ) く出てゐました。 この ごん狐 (ぎつね) は、 きわめてドラマチックに悲劇的な結末で終わる。 この部分を<音声表 現>するには、 次のような朗読法が効果的だと考えられる。 先ず冒頭の 「その」 は、 ごんが 「栗」 などを 「兵十の家」 へ 「持つて」 出かける行為を 「神さま」 の なさることだと言われてがっかりしている夜をさす。 「そのあくる日も」 ごんは、 同じように 「栗を持つて」 「兵十の家へ出かけ」 る行為をしたために悲劇 的な結末を迎えることになる。 だから冒頭の 「その」 は、 しっかり押えて読む。 この朗読法によって、 「にもかかわらず」 の意味が一層、 聞き手に伝わる。 続く 「物置」 もはっきりと読む。 この 「物置」 は、 たまたまその日、 兵十のいた場所をさすので重要 なキーワードになる。 また 「家の裏口」 も重要なキーワードである。 兵十が、 「物置」 にいたので、 ご ― 139 ― んは 「家の裏口」 にまわって 「こつそり」 家の中へ入ったのである。 それを兵十に見つけられて撃たれ てしまうので、 「裏口」 もはっきりと読む。 「そのとき兵十は、 ふと顔をあげました。」 の 「ふと」 は、 何気ない気持ちで軽く読む。 そしてその前 の 「そのとき兵十は、」 のところでわずかに 「間」 を取って読む。 続く 「と狐が家の中へはいつたではありませんか。」 の 「と」 は、 「すると」 の意味をもってはっきり と読む。 「狐が……」 以下のところは、 兵十の気持ちで読む。 そして 「こないだうなぎをぬすみやがつ たあのごん狐めが、 またいたづらをしに来たな。」 のところは、 「こなひだ」 「うなぎをぬすみやがつた」 「あのごん狐」 に対する兵十の 「憎い」 気持ちと 「口惜しさ」 をあらわすためにゆっくりと読む。 「ようし。」 のところは、 強く、 低く、 ゆっくりと 「矯 (た) める」 気持ちで読む。 「兵十は、 立ちあがつて、 納屋にかけてある火縄銃をとつて、 火薬をつめました。 そして足音をしの ばせてちかよつて」 のところは、 決然とした感じで、 しっかりと強く読む。 「今戸口を出ようとするごんを」 のところの 「今」 は、 「今まさに」 の気持ちで、 はっきりと思いっき り高く読む。 そして 「ドンと、 うちました。」 のところは、 腹に力を入れて低く、 強く読む。 「ごんは、 ばたりとたほれました。」 のところは、 その前に 「間」 を入れて、 聞き手が思わず、 息を呑 むその呼吸に合わせて読む。 「兵十はかけよつて来ました。」 のところでは、 書き手の視点が転換され、 ごんが苦しい息の中で見た 兵十の姿が、 ここで語られている。 語り手は、 こうした書き手の視点の変化を的確に読み取り、 巧みに調子を変化させて読まなければな らない。 そのために、 はっきりと 「間」 を入れる。 続く 「家の中を見ると土間に栗が、 かためておいてあるのが目につきました。」 のところは、 兵十の 行動が語られている。 この 「家の」 ところは、 何気ない感じで軽く読む。 「土間に栗が、 かためて」 の ところは、 何気なくだが、 「栗」 という語をはっきりと聞き手に聞かせる必要がある。 「おや。」 は、 「栗」 が 「土間」 に 「かためておいてある」 ということに兵十が気づいたことをあらわ し、 「びつくりして」 は、 まさに驚愕した気持ちで読む。 そして息を呑むように 「ごんに目を落しまし た。」 の前にたっぷりと 「間」 をとる。 「ごん、 お前だつたのか。 いつも栗をくれたのは。」 のところは、 深く息を吸い込んだ後の腹から絞り 出すような<声>で読む。 聞き手は、 この一行の 「語り」 から 「いつも栗をくれた」 のが 「ごん」 であっ たことを、 兵十がようやく覚ったことを知るのである。 倒置法を用いることによって兵十の驚きが、 驚 愕であったことがはっきりと聞き手に伝わるのである。 「ごんは、 ぐつたりと目をつぶつたまゝ」 のところの前は、 「間」 を置いて読む必要がある。 なぜなら 兵十の 「ごん、 お前だつたのか。」 の<声>が瀕死の状態のごんに聞えたということを語り手自身が、 先ず実感しなければならないからである。 そしてその兵十の<声>を聞いたごんが喜んでいることを実 感して語り手はゆっくりとこの文を読むことが大切である。 「うなづきました。」 のところは、 心から満足そうに、 ゆっくりと読む。 「兵十は、 火縄銃をばつたりと、 とり落しました。」 のところの前の 「間」 も大切である。 兵十は、 ご んのしてくれた行為に深い感動を覚えながら、 同時に自分のした行為に深い後悔を覚え、 虚脱した気持 ちになって、 思わず 「火縄銃」 を手から 「とり落」 してしまうのである。 ここは、 兵十の気持ちになっ て読むことが大切である。 「青い煙が、 まだ筒口から細く出てゐました。」 の最後の一行の 「語り」 は、 この作品にすばらしい余 韻を与えている。 これを表現するには、 坂井清成が指摘するように 「間」 だけでは足りない、 「それ以 ― 140 ― 異化された語り物的演劇の<声>と<身体性> ― 「語り」 と 「ドラマ」 の比較演劇研究 ― 外の何かが必要」 である(57)。 この新美南吉の ごん狐 (ぎつね) は、 「プロレタリア児童文学」 が誕生し、 いくつかの短編童話が 創作された昭和前期に発表された。 この時代は、 「プロレタリア文学」 運動が興り、 小林多喜二 (1903― 1933) の 蟹工船 (1929) などが発表されていた。 こうした 「プロレタリア文学」 は 「芸術性」 より も 「政治性」 に優位を置いた理論に立脚していたために猛烈な国家の弾圧を受け、 その波は、 「プロレ タリア児童文学」 運動にも及んだ。 昭和12年 (1937) 7月には、 日中戦争が勃発し、 時代は軍国主義的な路線を突き進み、 「児童文学」 は、 やがて冬の時代を迎える。 昭和20年 (1945) 8月、 日本が敗戦を迎えた翌年 (1946) 3月、 「児童文学者協会」 が結成され、 初 代会長に小川未明が就任し、 坪田譲治、 浜田広介 (1893―1973) らが会員として参加した。 昭和30年代には、 「児童文学」 に<リアリズム>系統のものと<ファンタジー>系統のものがそれぞ れあらわれた。 前者の代表には、 松谷みよ子の いぬいとみこの 木かげの家の小人たち 龍の子太郎 (1960) などがあり、 後者の代表には、 (1959) などがある。 これらの作品は、 欧米にも翻訳され、 日本の 「児童文学」 は、 世界的レベルに達したといわれている(58)。 だが、 その後の 「児童文学」 は、 「マス〓メディア的児童文化追随」 のものと 「文学的・思想的に克 (か) ち獲って来たところを譲るまいとの姿勢に立って書き続けられている」 ものに大きく分極してい くのである(59)。 前者の代表が、 それいけズッコケ三人組 (1978) に始まる那須正幹 (1942―) の 「ズッ コケ三人組」 のシリーズの作品であり、 後者の代表が、 斉藤隆介 (1917―1985) の ベロ出しチョンマ である。 特に斎藤隆介の この ベロ出しチョンマ べろ出しチョンマ は、 成人した大人にも感動を与える作品である。 では、 千葉の花和村の 「チョンマ」 と呼ばれる12歳の男の子長松とその妹 で3歳のウメという女の子の父親が、 いのちがけの 「直訴」 という行為をしたために貼り付け台に貼り 付けられる。 この父親は、 チョンマとウメの顔を見ると、 ニッコリと笑う。 やがてウメもチョンマも貼 り付け台に貼り付けられる。 次の場面は、 長松が 「ベロを出したまま槍で突かれて死ん」 でゆく場面で ある(60)。 まず高いウメの胸の所で槍の穂先をぶッちがいに組み合わせた。 穂先がギラギラッと光った。 「ヒーッ!おっかねえーッ!」 ウメが虫をおこしたように叫んだ。 この時長松は、 思わず叫んでしまった。 「ウメーッ、 おっかなくねえぞォ、 見ろォアンちゃんのツラァーッ!」 そして眉毛をカタッと 「ハ」 の字に下げてベロッとベロを出した。 竹矢来の外の村人は、 泣きながら笑った、 笑いながら泣いた。 長松はベロを出したまま槍で突かれて 死んだ。 ウメが、 「こわいよ」 と泣き出すと、 チョンマは、 舌を出し、 ウメを笑わせ、 その間に処刑は終わり、 チョンマは、 舌を出したまま、 やりにつかれてこの世を去っていくのである。 ここには、 自己を犠牲に して村人を救おうとした 「父ちゃん」 や 「母ちゃん」 の生き方に触れながら成長してゆく長松の、 妹の ウメに対する心のやさしさを貫いた姿が、 「ベロを出したまま槍で突かれて死ん」 でゆく姿に鮮明に描 かれている。 また 車のいろは空のいろ (1969) で日本児童文学者協会新人賞を受章したあまんきみこ (1931―) ― 141 ― の ちいちゃんのかげおくり (1982) は、 悲惨な戦争のかげに小さな女の子の<いのち>が消えた姿 を描いた作品である。 「児童文学」 における 「語り」 には、 ベロ出しチョンマ や ちいちゃんのかげおくり などにみら れるように人々のこころに訴えかける強い<力>と<声>のドラマ性が感じられる。 その意味で 「児童 文学」 は、 <声>のドラマ性をもった 「語り」 をかなり強く意識した文学であるといえる。 ― 142 ― 異化された語り物的演劇の<声>と<身体性> ― 「語り」 と 「ドラマ」 の比較演劇研究 ― おわりに 日本の 「古典芸能」 の 「語り」 は、 それぞれの芸能の特性を活かした<様式的なリアリズム>によっ て造型され、 <音声表現>されてきたが、 西洋の朗読法である 「エロキューション」 や 「デクラメーショ ン」 を土台に発展してきた近代的な 「読み」 の行為である朗読は、 文学作品における作者の<イメージ> の世界を多様な<音声表現>によって 「語る」 ことに入念な工夫を凝らしてきた。 例えば、 芥川龍之介の 藪の中 では、 さまざまな並列的な 「語り」 によって重層的な<イメージ> が造型されているが、 朗読家は、 一人称で語る内省的で抒情的な【第一の声】と、 過去の出来事を叙事 的に三人称で語る【第二の声】と、 ダイアローグ (対話) を中心に二人称で語る演劇的な【第三の声】 の三つの<声>を、 織物を織るようにつなぎあわせてひとつの<テクスト>を創造し、 その<テクスト> を<身体化>し、 重層的な 「語り」 によって観客の耳に<声>の<イメージ>による 藪の中 をくっ きりと浮かびあがらせるのである。 本稿では、 坪内逍遥の提唱した<文学的ドラマ>の【劇的朗読】がいかなるものかを、 「語り」 と 「ドラマ」 の比較を通しながら、 さまざまな題材を取り上げて考察してきた。 例えば、 シェイクスピア の逍遥訳 ロミオとジュリエット をはじめ、 近松門左衛門の 曽根崎心中 や 「歌舞伎」 の 「外郎売」 の科白の<読み>、 泉鏡花の最初の<口語体>による一人称の 「小説」 である 藪の中 、 「浄瑠璃狂言」 の 仮名手本忠臣蔵 化鳥 、 芥川龍之介の を題材にした北原白秋の 「おかる勘平」 などの 「近代 文学」 における重層的な 「語り」、 さらに斉藤隆介の ベロ出しチョンマ などの 「児童文学」 におけ る 「語り」 の<力>と<声>のドラマ性を考察した。 本稿で取り上げた主な文学作品は、 2007年度日本演劇学会全国大会の 「レクチャーパフォーマンス・ セッション」 で劇的朗読家の松川真澄によって朗読された。 松川真澄は、 こうした文学作品を自らの<声>を通して立体化し、 主人公の心情やその作品の情景を 聴衆に伝えるのである。 つまり松川真澄の【劇的朗読】では、 逍遥のいう 「正読法」 によって文学作品 を自ら分析し、 解釈した後に 「論理的読法」 を試み、 「書かれたことば」 を<声>の<身体性>を通し て 「語られることば」 に変換し、 「一語、 一句」 をドラマチックに 「表情的に読む」 のである。 松川真澄は、 本稿で考察した作品の他にこの 「レクチャーパフォーマンス・セッション」 で平成18年 (2006)、 秋田で初演されたふじたあさや作・構成・演出による 「 おりん口伝 伝」 の 「リーディング」 (Reading) をおこなった。 この作品でふじたあさやは、 大仙市出身のプロレタリア作家として知られる松田解子 (1905―2004) の代表作 おりん口伝 の主人公の生きた世界を、 さまざまな<声>を通じて舞台で紹介し、 その世界 を描いた作家の松田解子の 「生き方」 も、 語り手である松川自身の<想い>を投影させながら、 舞台化 した。 この舞台で試みられたような 「書かれたことば」 を<声>の表現に移し変える 「読み」 の行為には、 実にさまざまなヴァリエーションがある。 例えば、 「黙読」 に対して<声>を出して読む 「音読」、 言葉 が本来持っている抑揚に忠実に読む 「朗読」、 さらに文字を離れて表情豊かに<イメージ>を伝えるよ うに読む 「語り」、 もう一歩進めて一人で演じて一人で語る 「語り物的演劇」 の 「ひとり芝居」、 さらに 坪内逍遥のいう 「ドラマ的」 「エロキューション」 の【劇的朗読】。 劇作家のふじたあさやは、 「 <おりん口伝>伝 で何をやろうとしているのか」 の一文のなかで 「松 川真澄さんが<劇的朗読家>と名乗っているのは、 単なる朗読ではなく、 そのような音声表現の多様さ に踏み込みたい。 そのようにして演劇の持つ力に迫ってみたい、 という覚悟のあらわれだろう。」 と述 ― 143 ― べている(61)。 ふじたあさや作・構成・演出の 「 おりん口伝 伝」 では、 こうした 「読み」 という行為のさまざま なヴァリエーションが試みられ、 松川真澄の多様な<声>が作り出す重層的な<イメージ>によって、 松田解子という作家の存在が、 トンボの目玉のように複眼的に観客の脳裡に浮かび上がってくるのであ る。 そして死者となった松田解子をはじめ、 荒川の鉱山墓地に眠る死者たちの<声なき声>を、 巫女の 役割も演じる松川真澄の<身体>を通して甦らせ、 ふじたあさやは、 「現代の複式夢幻能」 ともいえる 作品を創造したのである。 松川真澄は、 松川の科白では、 松田解子の生涯を【第1の声】で語り、 語り手の科白では、 その作品 を演劇的に【第3の声】で朗読したり、 叙事的に【第2の声】で朗読したりする。 このように 「 おり ん口伝 伝」 という作品は、 重層的な<声>の交響楽ともいえる構造を有しており、 ふじたあさやのき わめて実験的な 「語り物的演劇」 あるいは 「ひとり舞台」 の<ドラマ的読み芝居>ともいえる作品なの である。 次にその 「 おりん口伝 語り手 伝」 の冒頭の部分をあげてみる。 「和田の家のおりんさも、 とうとう鉱山 (かねやま) さ嫁 (い) ったとな」 「ンだンだ、 いっ た。 境のかえりのから馬車でな。 仲人の多吉おやじが手綱とって、 多吉のかかァがつきそって よ」 「ふーむ、 じゃ、 和田の家からは、 とうとう甥も甥嫁も送っていかなかっただな。 ンでも からトロでよかっただ。 石灰石 (せっかい) の上さでものせられたら石の角コでつつかれて、 嫁の着物もかかァのも、 行きつくまえに穴コだらけになったべよ、 はは……」 とついだ娘は上淀川の元地主、 和田敬之助の末っ娘で、 とついださきは銅掘る鉱山 (やま)。 松 川 松田解子作 「おりん口伝」 の書き出しです。 この松川の科白の後、 舞台後方のスクリーンに 「おりん口伝」 の初版本の表紙の映像が映し出される。 そして松川は、 次の科白を自分のことばとして【第1の声】で観客に語りかけるのである。 松 川 第一回多喜二・百合子賞、 第8回田村俊子賞を得たこの作品が発表されたのは、 1966年。 作者 61歳の作品です。 第2部が翌年雑誌に連載され、 68年に本になり、 正続合わせて刊行されたの は1974年のことでした。 松川のこの科白が語りおわると、 すぐに語り手は、 「おりん口伝」 の次の一節を演劇的な【第3の声】 や叙事的な【第2の声】を用いて朗読するのである。 語り手 「……それで、 おりんさ、 なに着ていったや」 「たいした嫁衣裳でいったてば。 どうせ鉱山の 聟の家からでも届けておいたのだべがな、 ちゃあんと島田あげて角かくしして嫁帯背負ってな。 ……ンだども嫁の荷物ときたら柳行李が一つっコよ、 はは……」 茶店の女房が急に噴きだすと、 「柳行李が一つっコ?」 「一つっコだと?」 そう問いかえして腰掛け台の母たちも大口をあけて笑いこけた。 似たりよったりお歯ぐろの剥 げた欠けた歯がのぞいていた。 ― 144 ― 異化された語り物的演劇の<声>と<身体性> この 「ひとり舞台」 では、 語り手が冒頭で ― 「語り」 と 「ドラマ」 の比較演劇研究 ― おりん口伝 の書き出しの一節を秋田弁で語り、 観客を 松田解子の世界へいざなう。 この舞台の台本では、 語り手と松川とが書き分けられている。 つまり松川の 「ひとり舞台」 であるこ の公演では、 語り手が松田解子の著作より作品の朗読をおこない、 劇的朗読家の松川という登場人物は、 その語り手の作品を<異化>して、 それぞれの場面についての状況を松川自身の視点や松田解子の視点 から一人称で語るのである。 この舞台では、 このように 「語り」 の<異化>がきわめて重層的な 「読み」 によって構成されている。 そしてこの舞台の最後は、 映像で鉱山墓地のお墓が映し出され、 松川が秋田で聞いた松田解子の次のよ うなエピソードを紹介する。 松 川 秋田でこんなお話を伺いました。 秋田で竿灯をご覧になった帰り道、 いい月夜だったそうです。 松田さんは、 いきなり月に向かって大きな声で呼びかけたそうです。 んだと同じ時代を生きてるよ お月さん、 おらァ、 あ って。 無垢な魂―そんな言い方があたっているような気がしま す。 それがあったから、 松田さんはあれだけの苦しみを乗り越えて、 あれだけのものが書けた…… そんな気がします。」 松川がこの科白を語り終えると、 いきなり舞台に置かれたピアノが鳴り出し、 生前、 松田解子がよく 弾いていたという にくしみのるつぼ が流れ出す。 松川は、 驚いてピアノを見つめると、 舞台後方に は、 映像で松田解子の肖像が写し出され、 ゆっくり幕が降りる。 この舞台では、 劇的朗読家の松川真澄を通してさまざまな 「読み」 の行為がおこなわれたが、 こうし た 「読み」 の行為によって生まれた<声>の表現を、 日本の芸能史では、 「語り」 (story-telling) と表 現してきた。 その 「語り」 によって 「ドラマ」 の科白は、 舞台において<身体化>され、 <異化>され て演劇的な発話行為となるのである。 この 「語り」 を現代演劇においてブレヒト的な<異化>効果をもたらすものとして 「ドラマ」 に導入 したふじたあさやは、 「語り物としての演劇」 を探究し、 昭和49年 (1974)、 前進座で ∼説経節による∼ さんしょう太夫 (香川良成演出) を上演した。 この舞台では、 「どこからかやってきて、 物語り、 演じて、 そしてどこかへ去って行く説経師たちの 集団」 の 「語り」 から さんしょう太夫 の物語が展開するのである(62)。 そしてこの舞台では、 「舞踊 的表現」 や 「マイム的表現」 などさまざまな演劇的な表現が用いられ、 「語りの大枠」 の中でそれらが おさまっているのである(63)。 さらにふじたあさやは、 この 「語り物としての演劇」 を発展させ、 「一人の俳優が、 こうしたさまざ まな伝承を、 物語の展開に即して演じながら紹介し、 物語の背景について観客とともに考えてゆくとい う形式」 を考え(64)、 中西和久という一人の俳優のために 「ひとり芝居」 三部作 ( しのだづま考 大夫考 山椒 をぐり考 ) を創造した。 いずれも 「説経節」 に拠った 「語り物的演劇」 であり、 そこには、 民衆のもつ 「願望のリアリズム」 とも呼べるものが描かれている(65)。 ふじたあさやのこうした<異化>された 「語り物的演劇」 では、 一人の俳優の<声>と<身体性>に よって 「語り」 と 「ドラマ」 が渾然一体となって舞台にあらわれるのである。 そこには、 「ドラマトゥ ギーが即俳優論」 であるというふじたあさやの 「俳優論に保証されるドラマトゥルギー」 が明確に示さ れているのである(66)。 松川真澄の 「ひとり舞台」 である<ドラマ的読み芝居>もふじたあさやの 「俳優 論に保証されたドラマトゥルギー」 によって形成されたものである。 ― 145 ― 註 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25) (26) (27) (28) (29) (30) (31) (32) (33) (34) (35) (36) (37) (38) (39) (40) (41) (42) (43) (44) (45) (46) (47) (48) (49) T. S. Eliot, On Poetry and Poets, Faber and Faber Limited, 1956, p.89. 阪倉篤義 「語り物の歴史と浄瑠璃の成立」、 日本古典芸能 浄瑠璃 、 第7巻、 平凡社、 1970年、 9頁。 阪倉篤義 「語り物の歴史と浄瑠璃の成立」、 10頁。 金春國男 能への誘い 序破急と間のサイエンス 、 淡交社、 1980年、 159頁。 折口信夫 「伝承文芸の主体」、 折口信夫全集 、 第17巻、 中央公論社、 1976年、 149頁。 内山美樹子 「浄瑠璃の戯曲作法」、 日本の古典芸能 浄瑠璃 、 第7巻、 平凡社、 1970年、 191頁。 坪内逍遥 「近松の浄瑠璃」、 逍遥選集 、 第8巻、 第一書房、 1977年、 667頁。 今尾哲也 「語りと演劇―義太夫狂言について考える―」、 演劇学論集 、 第39号、 日本演劇学会、 2001年、 119頁。 菅 泰男 「シェイクスピアと日本芸能」、 明星大学英米文学 、 第10号、 明星大学英米語学文学会、 1995年、 20頁。 平 辰彦 Shakesperare 劇における幽霊―その演劇性の比較研究― 、 緑書房、 91頁。 安西徹雄 彼方からの声―演劇・祭祀・宇宙 、 筑摩書房、 2004年、 254頁。 坪内逍遥 「読法を興さんとする趣意」、 逍遥選集 、 第11巻、 第一書房、 1977年、 254―262頁。 坪内逍遥、 「読法を興さんとする趣意」、 266‐267頁。 木下順二 劇的とは (岩波新書)、 岩波書店、 1995年、 133頁。 坪内逍遥訳 新修シェークスピヤ全集 、 中央公論社、 1933年、 73頁。 坪内逍遥 「脚本の朗読法」、 逍遥選集 、 第11巻、 第一書房、 1977年、 332頁。 坪内逍遥 「脚本の朗読法」、 337頁。 坪内逍遥 「脚本の朗読法」、 338頁。 坪内逍遥 「脚本の朗読法」、 339―340頁。 坪内逍遥 「脚本の朗読法」、 340頁。 坪内逍遥 「桐一葉」、 逍遥選集 、 第1巻、 第一書房、 1977年、 170頁。 なお実演用 桐一葉 では、 引用の部分は、 浄瑠 璃で 「晨鶏再び鳴いて残月薄く、 征馬しきりに嘶いて行人 (かうじん) 出づ、 はや別れ行く横雲や、 残んの星を一つづゝ、 鐘が消し行くいなのめの、 長柄堤に秋たけて、 一叢 (むら) 蘆に風黒く、 ありあけ凄き淀川みづ。」 (364―365頁) のよう になっている。 近松門左衛門 「曽根崎心中」、 日本古典文学大系49 近松浄瑠璃集 上 、 岩波書店、 1958年、 32頁。 坪内士行 坪内逍遥研究 (早稲田選書)、 早稲田大学出版部、 1953年、 143頁。 河竹登志夫 近代演劇の展開 、 日本放送出版協会、 1982年、 171頁。 坪内逍遥 シェークスピヤ研究栞 、 早稲田大学出版部、 1928年、 317―323頁参照。 河竹登志夫 日本のハムレット 、 南窓社、 1972年、 283頁。 木下順二 劇的とは 、 150頁。 木下順二 劇的とは 、 149頁。 坂井清成 もの読む術 、 三恵出版、 1997年、 52頁。 坂井清成 もの読む術 、 102―106頁参照。 坂井清成 外郎売の科白 、 三恵出版、 1983年、 90―97頁参照。 坂井清成 外郎売の科白 、 97頁。 泉鏡太郎 鏡花全集 、 巻3、 1941年、 岩波書店、 114頁。 泉鏡太郎 鏡花全集 、 巻3、 114―115頁。 泉鏡太郎 鏡花全集 、 巻3、 143頁。 泉鏡太郎 鏡花全集 、 巻3、 149頁。 三田英彬編 日本文学研究大成 泉鏡花 、 国書刊行会、 1996年、 221頁。 金春國雄 能への誘い 序破急と間のサイエンス 、 84頁。 兵藤裕巳 演じられた近代 <国民>の身体とパフォーマンス 、 岩波書店、 2005年、 178頁。 日本近代演劇史研究会編 20世紀の戯曲―日本近代戯曲の世界 、 社会評論社、 1998年、 153頁。 兵藤裕巳 演じられた近代 <国民>の身体とパフォーマンス 、 181頁。 山路閑古 古川柳 (岩波新書)、 岩波書店、 1965年、 8頁。 木下順二 劇的とは 、 140頁。 兵藤裕巳 演じられた近代 <国民>の身体とパフォーマンス 、 182頁。 清水康次 「 藪の中 ―語り手の手法―」、 作品論 芥川龍之介 所収、 双文社出版、 1990年、 240頁。 北原白秋 「おかる勘平」、 白秋全集 、 第2巻、 岩波書店、 1985年、 348―349頁。 和角 仁・樋口和宏 歌舞伎入門事典 、 雄山閣出版、 1994年、 198頁。 今尾哲也 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秋田経済法科大学総合研究センター教養・文化研究所、 2006年 田中栄三 トーキー俳優読本 、 文芸春秋社出版部六藝社、 1937年 坪内士行 坪内逍遥研究 (早稲田選書)、 早稲田大学出版部、 1953年 坪内逍遥 シェークスピヤ研究栞 、 早稲田大学出版部、 1928年 坪内逍遥訳 新修シェークスピヤ全集 、 中央公論社、 1933年 鳥越 信 日本児童文学 、 建帛社、 1995年 新美南吉 校定 新美南吉全集 、 第3巻、 大日本図書株式会社、 1980年 日本近代演劇史研究会編 20世紀の戯曲―日本近代戯曲の世界 、 社会評論社、 1998年 日本児童文学学会編 日本のキリスト教児童文学 、 国土社、 1995年 兵藤裕巳 演じられた近代 <国民>の身体とパフォーマンス 、 岩波書店、 2005年 ふじたあさや ふじたあさやの体験的脚本創作法 、 晩成書房、 1995年 三田英彬編 日本文学研究集成 泉鏡花 、 国書刊行会、 1996年 山路閑古 古川柳 (岩波新書)、 岩波書店、 1965年 ― 148 ― 異化された語り物的演劇の<声>と<身体性> 追 ― 「語り」 と 「ドラマ」 の比較演劇研究 ― 記 この論文は、 平成19年 (2007) 6月23日、 伊丹市・大手前大学W棟210教室 (Aホール) において開催された2007年度日本演劇 学会全国大会の 「レクチャーパフォーマンス・セッション」 (13:00∼15:00) での発表を論文としてまとめたものである。 当日のセッションでは、 劇作家で昭和音楽大学短期大学部のふじたあさや教授の指導を受けた劇的朗読家の松川真澄が本稿で 考察した主な作品を【劇的朗読】によって朗読した。 大会当日のセッション席上において甲南女子大学の高山吉張名誉教授からは、 貴重なご教示を受けた。 ここに記して謝意を表 したい。 なお私の恩師である京都大学の菅泰男名誉教授が、 平成19年6月5日、 92歳で亡くなられた。 菅先生は、 日本シェイクスピア 協会をはじめ、 日本演劇学会やアメリカ学会でも重要な役職につかれ、 大阪国際児童文学館館長や京都日本語教育センター理事 長などの要職にもつかれていた。 表彰も数多く、 平成3年 (1991) には、 「第一回シェイクスピア演劇賞」 や 「日本におけるシェ イクスピア賞」 をはじめ、 「京都府文化特別功労賞」 などを受けられ、 「勲三等旭日中綬賞」 をこの年に叙勲されている。 翌年 (1992) には、 「大阪市民表彰」 (文化功労) も受けられた。 この菅先生には、 明星大学で私の学位論文の指導をしていただいた。 菅先生と私が出会ったのは、 昭和52年 (1977) 7月2日、 青山学院女子短期大学で開催された日本シェイクスピア協会主催の第17回夏季セミナーの講演会であった。 その講演会で菅先生 All the World is a Stageと題した講演をなされた。 この講演は、 大変、 魅力的なものであった。 この菅先生の講演終了 は、 後、 菅先生を囲んでの懇親会が催され、 その席上で私は菅先生と親しくお話をする機会を得た。 菅先生は、 その時、 「一度よかっ たら、 京都に遊びにいらっしゃい。」 と言って下さり、 私は、 その言葉に甘えて、 その翌月の夏休みに早速、 京都の菅先生のお宅 を訪問した。 そのお宅は、 比叡山を望む広大な敷地に建てられており、 能舞台があるような広いお庭があり、 そこに菅先生は、 奥様と住んでおられた。 当時、 玉川大学の文学部英米文学科に入学したばかりの私は、 この夏の日にシェイクスピア劇を生涯の 研究テーマと定めた。 その後、 私は菅先生のご指導を仰ぎ、 30年にわたる 「比較演劇学」 の研究の道を歩んできたのである。 昭和54年 (1979) 3月、 菅先生は、 京都大学を定年で退職され、 大坂府枚方市に居を移された。 その引越しの折、 私は菅先生 の書庫の整理を泊りがけでお手伝いした。 忘れられない思い出である。 私が、 早稲田大学の大学院に進学することをご相談した時、 早稲田大学大学院では、 「比較演劇学」 を教えている河竹登志夫博 士がいるので、 そこで専門の 「比較演劇学」 を学び、 日本演劇学会へも入会し、 研究発表をするように勧めて下さった。 その頃、 菅先生は、 日本演劇学会の関西支部長をなされていた。 この日本演劇学会では、 昭和63年 (1988) 5月、 早稲田大学大学院に提出した修士論文 明治期における翻案劇の系譜―歌舞 伎から新派へ― で取りあげた 「明治期における喜劇の系譜」 を早稲田大学で発表した。 以後、 数多くの研究発表を日本演劇学 会でおこなってきたが、 菅先生は、 そうした私の学会発表のおりには、 常に温かい助言をして下さった。 平成2年 (1990) 4月、 私は、 明星大学大学院の人文学研究科英米文学専攻に入学し、 菅先生の指導を明星大学の大学院で直 接、 受ける幸運に恵まれた。 以後、 6年間、 菅先生より大学院で懇切な指導を受けた。 例えば、 「英国悲劇の研究」 では、 ハム レット が取り上げられ、 「英国史劇の研究」 では、 リチャード三世 が取り上げられ、 「英国喜劇の研究」 では、 ベン・ジョン ソンの喜劇が取り上げられた。 菅先生は、 その 「英国喜劇の研究」 でベン・ジョンソンの喜劇を流暢な大阪弁で翻訳され、 朗読 されて 「英国喜劇」 の本質をドラマチックに講義して下さった。 この大学院の授業には、 当時、 甲南女子大学の教授であった高 山吉張先生も国内留学の扱いで受講されていた。 いつも授業が終ると、 菅先生を囲んでさまざまな演劇談義が始まり、 教室は、 たちまち劇場の興奮と熱気に包まれた 「演劇の実験室」 となり、 いつも時間が過ぎるのを忘れるほどであった。 私は、 平成8年 (1996) 年3月、 その菅先生の主査で学位論文 Shakespeare 劇における幽霊―その演劇性の比較研究― を 明星大学に提出し、 博士 (英米文学) の学位を受ける。 菅先生はその年、 81歳を迎えられ、 明星大学を退官された。 菅先生に最後にお目にかかったのは、 平成14年 (2002) 12月7日、 京都・平安会館でおこなわれた日本演劇学会コロキウム2002 年の 「関西支部の半世紀―関西演劇の50年」 と題する菅先生の基調講演を聞いた時であった。 私は、 シェイクスピア劇をはじめとする世界の演劇を愛し、 舞台を愛し、 役者を愛し、 日本の 「古典芸能」 をも深く愛された 「関西のシェイクスピア」 と呼ばれた演劇学者の菅先生からシェイクスピア劇と日本の 「古典芸能」 の 「比較演劇学」 の研究の指 導を30年にわたり、 受けられたことを生涯の宝だと思っている。 その菅先生には、 主著 シェイクスピアの劇場と舞台 (1963) があるが、 菅先生は、 生前、 シェイクスピア劇と日本の 「古典 芸能」 には、 「近代写実散文劇」 には見られない 「語り」 の要素があると指摘し、 日本演劇学会創立50周年記念号の紀要 演劇学 論集 (37号・1999) には、 「対話と語り」 の論文を発表されている。 その菅先生のご霊前に本稿 「異化された語り物的演劇の <声>と<身体性>― 「語り」 と 「ドラマ」 の比較演劇研究―」 を追悼の意を込めて捧げたい。 合掌。 ― 149 ― 地域ぐるみの健康づくり活動機運を盛り上げるために行った住民聞き取り調査と報告会の実施効果 (上) ― 横手市増田町西成瀬地域における 「健康の駅」 活動の普及に向けた取り組みを事例に ― 実践報告 地域ぐるみの健康づくり活動機運を盛り上げるために行った 住民聞き取り調査と報告会の実施効果 (上) ― 横手市増田町西成瀬地域における 「健康の駅」 活動の普及に向けた取り組みを事例に ― 緒 Ⅰ 高 橋 松 川 和 幸* 願 法 廣 典** 敬** 照 井 理 香** 佐 藤 学** 言 健康づくりをはじめとした保健・福祉の設備や、 施設から離れていてそれらの恩恵を享受できにくい 過疎農村地域が秋田県内には多い。 またこれに対して、 過疎農村地域の隅々まで保健・福祉のハードを 整備して欲しいと期待することは、 国の財政構造改革が進む中においては困難な状況にある。 以上のことを踏まえると、 過疎農村地域では遠く離れた施設をたまに利用する形態よりも、 住んでい る地域において運動や食生活改善などの健康づくり活動を継続的に行ったほうがより効果的である。 ま た、 その際に地域に存在する社会資源を上手に活用することができれば、 それが最良の形といえる。 では、 どのようにすれば、 住民が地域の社会資源に目を向けるようになり、 そしてそれらを活用して 健康づくり活動に取り組む意欲が喚起されるのだろうか。 この課題に取り組む事例はいくつか見当たる ものの、 決定打となる方策を打ち出すまでにはどこも至っていない。 むしろ、 この課題解決には近道がないものと考え、 まずは、 地域の社会資源を活用しながらできる健 康づくり活動とはどのようなものがあるか、 このことに住民自ら気付いてもらうことから始めなければ ならないだろう。 そこで、 本研究では、 横手市増田町西成瀬地域における 「健康の駅」 活動の普及に向けた取り組みを 事例に、 ①直接住民に対して地域の社会資源を活用した健康づくり活動について質問を行う 「聞き取り 調査」 を実施し、 ②調査で集められた意見をまとめ調査報告会を開催するといった、 2段階の介入から なるアクション・リサーチを行った。 本稿 (上) では、 住民聞き取り調査を実施した介入結果について 報告を行いたい。 研究方法 Ⅱ 1. 調査対象とした地域 横手市増田町 (旧平鹿郡増田町) は2005年10月1日に横手市と合併し、 調査を行った時点では1年が 経過したところである。 旧町役場庁舎には増田地域局が置かれ、 増田地域局保健福祉課による保健活動 * 学校法人ノースアジア大学 ** 横手市福祉環境部 秋田看護福祉大学 看護福祉学部 健康の駅推進室 ― 151 ― 社会福祉学科 が行われており、 また合併後も同じ保健師が地域とかかわりをもっているため、 保健活動が大きく変化 する流れにはなっていない。 ところで、 合併前の増田町では少子化の影響で小学校の統廃合を行っており、 廃校を各地域の地域セ ンターとして活用しており、 そこでは公民館の性格を帯びた住民の自主的活動と各種地域行事をつうじ た交流が盛んに行われている。 調査対象とした増田町西成瀬地域 (以降西成瀬地域) でも旧西成瀬小学 校を地域センターとして活用しており、 住民の自主活動や様々な地域行事が開催されている。 以上のこ とから、 旧増田町の場合は、 横手市と合併した他の6つの町村に比べて各地域センターの取り組みが盛 んであることが特徴となっている。 西成瀬地域は横手市役所まで約20km 離れており、 また旧増田町の役場付近の市街地からも約4km 離れたところに位置し、 農家の割合が高いことなどから純農村的な性格が濃い地域である。 西成瀬地域 は地形的にも特徴があり、 一級河川である成瀬側の両岸に広がる土地に集落が細長く形成され、 また背 後には山地が迫っているため、 標高は高くないものの山村という印象を受ける。 西成瀬地域は、 集落の 規模の大小は見られるのだが10ヵ所の集落から形成されており、 歴史を遡ると元々は西成瀬村であった ことから、 住民の連帯感は旧村の枠組みが基になっているものと考えられる。 さらに西成瀬地域内を詳しく見ていくと、 地域センターの周辺に4つの集落があり、 残り6つの集落 は地域センターから離れた位置にあり、 この集落の位置関係が、 地域センターの利用者数にも影響を与 えている。 同地域を担当する保健師によれば、 地域センターから離れた集落に住んでいる高齢者の場合、 交通の便が悪いためにどうしても利用を控える傾向にあるとのことだった。 いずれにしても、 西成瀬地域では、 小学校だった建物や敷地を活用して卓球や室内テニスなどのスポー ツを楽しむ住民自主グループ活動が定期的に行われ、 季節ごとの地域行事も同センターを会場として開 催していることから、 ここが地域の交流拠点となっている。 2. アクション・リサーチとしてのフレームワーク 図1. 本研究の進め方 介入1 地域住民に近づき、 地域の課題を一緒に探る (1) ウォーキングの集い (ウォーキングをつうじた健康づくりイベント) の開催について広報 紙を全戸配布 (2) 同イベントの開催【会場:西成瀬地域センター、 2006年9月24日 (日)】 (3) 参加者に対して 「地域ぐるみの健康づくり」 に関する聞き取り調査を実施 (任意) 介入2 地域課題の明確化 (1) 住民聞き取り調査の結果報告会の開催について広報紙を全戸配布 (2) 同イベントの開催【会場:西成瀬地域センター、 2006年10月31日 (火)】 (3) 調査報告会の参加者に対してアンケートを実施 (任意) 一連の介入でどのような変化が起きたのかを明らかにする 本研究は、 岡村重夫が翻訳したロス (Ross, M. G.) のコミュニティオーガニゼーションの定義 「地 域社会が自らその必要と目標を発見し、 それらに順位をつけて分類する。 そしてそれを達成する確信と ― 152 ― 地域ぐるみの健康づくり活動機運を盛り上げるために行った住民聞き取り調査と報告会の実施効果 (上) ― 横手市増田町西成瀬地域における 「健康の駅」 活動の普及に向けた取り組みを事例に ― 意志を開発して、 必要な資源を内部・外部に求め、 実際行動を起こす。 このようにして地域社会が団結・ 協力して実行する態度を養い育てる」1)を基調としたアクション・リサーチである。 具体的には、 図1の とおり対象地域において聞き取り調査を行い、 住民がこれに回答することをつうじて地域を見直すきっ かけを作ったり調査結果を聞くことによって地域の実情を知ったりする機会を作ることである。 一連の 介入によって、 「地域ぐるみでの健康づくり活動の活性化、 あるいは健康に注意する意識が住民の間で 高まっていくこと」 を最終目標にしている。 その足がかりとして、 図1に示したとおり介入1の段階では聞き取り調査を実施することにしたのだ が、 その際に、 横手市役所健康の駅推進室の協力を得て様々な工夫を行った。 この集合調査に多くの住 民が足を運ぶよう介入1の段階では、 ウォーキングの集い (講座) を開催することにし、 イベントが開 催されるという情報については西成瀬地域センターだよりによって当該地域全戸に配布して知らせ、 同 時に同センターの運営役員らから住民同士による参加の呼びかけもしてもらった。 センターの行事の際 にどうしてもセンターの近くの集落からは参加者が多く距離が遠くなるにつれて参加者も減る傾向があ るという事前に入った情報に配慮するためでもあった。 ウォーキングの集いは2006年9月24日 (日) 9:30∼11:30の日程で西成瀬地域センターにおいて開 催した。 前半は健康の駅推進室保健師の講話によって 「安全で、 正しい歩き方」 について知識を学び、 後半は近くの真人公園までウォーキングを行い、 実践的に学んだ。 そして最後に、 参加者に対して聞き 取り調査への協力を依頼し参加者全員から回答を得ることが出来た。 とりわけ本研究の介入1の段階と しての聞き取り調査の際に留意したことは、 質問に対し 「回答を考える」 といった経験をつうじて、 地 域ぐるみの健康づくりについて意識したり、 地元には 「健康づくり活動に活用できるこのようなものが あったりするのだ」 という気付きが得られるようにかかわることであった。 そこで、 調査項目の柱には 次の3つを設定した。 ①地域にあるもので健康づくりのために活用できそうなもの (人的・物的資源)、 ②それら地域にある資源を活用すれば、 西成瀬地域ではどんな健康づくり活動ができそうか、 ③地域ぐ るみの健康づくり活動を行う際に自分はどのような協力ができるか、 である。 住民聞き取り調査で住民から寄せられた意見については、 地元住民が回答したものであるため興味を 持ちやすいのではないかという期待を込めて、 約1ヵ月後に調査結果をまとめ報告会を開催することに した。 なお、 この介入2の段階である調査報告会参加者にも終了後、 アンケートを行って調査報告会の 実施効果についてもみていくことにした。 Ⅲ 研究結果 ウォーキングの集い参加者17人全員から聞き取り調査に協力をいただいた。 協力 (回答) 者の男女比 は男性3人、 女性14人で、 年齢は40歳代が2人、 50歳代が3人、 60歳代が8人、 70歳代が4人となった。 なお、 60歳以上が17人中12人を占め、 高齢の方の参加が多かった。 参加者の職業構成は農業が4人、 会 社員・公務員等5人、 主婦・パート4人、 農業以外の自営業1人、 無職3人であった。 また、 地域セン ターで行われているスポーツ活動に普段から参加しているかを質問したところ、 17人のうち6人は 「今 回こうしたウォーキングの集いがあったから初めて参加した人である」 ことも把握できた。 参加理由に ついてみると、 「健康のため」 が6人、 「知識を学んだりするため」 が8人、 「友達に誘われたため」 が 3人であり、 地域センターだよりを全戸配布したりセンター運営役員から呼びかけたりした広報にもか かわらず、 地域センターの周辺集落からの参加者が17人中10人を占めた。 では、 今回の聞き取り調査項目の柱として据えた3つの質問に対する17人の回答についてみていきた ― 153 ― い。 第1に、 地域にあるもので、 健康づくりのために活用できそうなものは何かを質問し、 自由意見と して寄せられた結果を表1にまとめた。 第2に、 地域の資源を活用して、 西成瀬地域ではどんな健康づ くり活動ができそうかを質問し、 自由意見として寄せられた結果を表2にまとめた。 第3に、 地域ぐる みの健康づくり活動を行う際に、 自分はどのような協力ができるかを質問し、 自由意見として寄せられ た結果を表3にまとめた。 なお、 自由意見での回答となったため、 KJ法を活用して性質の似通ったものを一まとめとし、 表の 右端に○、 △、 □を書き加えながら分類整理してみた。 表1. 地域にあるもので、 健康づくりのために活用できそうなもの No 自 由 回 答 分類 1 地区で健康づくりに活用できる資源といえば、 やはり地域センターしか思い浮かばない。 ○ 2 地区に地域センターのような施設があるからこそ、 そこを会場にいろいろな活動がおこなわれ、 参加できるのだと思う。 地区内にこうした活動を指導してくれる住民がいることも恵まれている と思う。 ○ 3 小学校だった地域センターには体育館や校庭などがあり、 ここを拠点にすれば、 自分たちがやり たいと思った活動をどんどん取り入れてやっていけるはず。 ○ 4 小学校だったところを地域センターとして活用しているので、 体育館やグラウンドがある。 それ らは、 健康づくりに活用できる大切な地域の資源だと思う。 ○ 5 地域センターの体育館やグラウンドが健康づくりのために活用できる。 西成瀬地区は自然が豊か なのでウォーキングの際に自然も楽しむことが出来る。 ○ 6 自然に恵まれていること、 そして地域センターでスポーツをするにしても無料で使える。 そうい う面での環境は恵まれている。 ○ 7 市街地に遠い西成瀬地区では、 地域センターが一番使いやすいと思う。 真人公園は近いのだが、 なかなか一人で出かけることはなかった。 今回のウォーキングの集いで皆と真人公園まで歩いて、 よいところだと再認識した。 ○ 8 地域センターという施設、 四季折々の自然が楽しめる真人公園など場所には恵まれていると思い ます。 ○ 9 西成瀬地区は農村地域なので自然が豊かであること、 そして地域センターの体育館にしろ、 真人 公園への散策にしろ無料で使えるものがたくさんある。 ○ 10 地域センターでは陶芸教室や料理教室、 ダンベル体操、 ソフトテニス、 卓球などが行われていま す。 参加者は顔見知りの間柄なので気兼ねなく付き合えます。 また、 地域センター長をはじめ各 種教室の指導者を地域の人が務めるという地域ぐるみの活動をしています。 ○ 11 西成瀬地域センターが身近なところにあることと、 センター長をはじめとして指導者の人がいる こと。 ○ 12 小学校の廃校活用でできた地域センターなので、 施設・機材の面で恵まれている。 また、 センター 長はじめ指導者の人もいることも恵まれている。 ○ ― 154 ― 地域ぐるみの健康づくり活動機運を盛り上げるために行った住民聞き取り調査と報告会の実施効果 (上) ― 横手市増田町西成瀬地域における 「健康の駅」 活動の普及に向けた取り組みを事例に ― 13 西成瀬地区には地域センターがあるため、 ここを使えば健康づくり活動をおこなうための施設や 機材の面では十分に足りる。 しかし、 健康づくり活動の輪を広げていくためには、 住民リーダー を育成することや、 専門家の人たちのかかわりがもっと必要になるはず。 良き指導者がいるよう になり、 健康に関する地区住民の意識変化を促して欲しいと思っている。 ○ 14 西成瀬地域センターは小学校の廃校活用であり、 教室や体育館などはうまく利用されているが、 プールが活用されていない。 水中ウォークは膝への負担も非常に軽いことから中高年の人たちに 向いており、 地域センターのプールが活用できたらいいと思う。 ○ 15 小学校だった地域センターの体育館や校庭を使ってテニスをしたり、 真人公園をウォーキングコー スにできる。 冬場の外でのウォーキングは転倒の危険があるので体育館を活用したほうがいいと 思う。 ○ 16 地域センターの運営管理にあたる役員をはじめ若い人たちの協力があったり、 指導者になってく れる住民も西成瀬地区には多いと感じている。 △ 17 西成瀬地域センターから離れている集落もあり、 たとえば吉野集落からセンターを利用する人が 少ない。 吉野集落では旧吉乃鉱山などがウォーキングコースとして最適だと思うので、 活用でき ないだろうか。 ただし熊が出るような山間地なので、 大人数で散歩したほうがいいと思う。 △ No.1からNo.15のとおり大多数の方が、 健康づくり活動を行う場所として西成瀬地域センターを最 も有力視していることがわかる (分類表記○)。 その他、 今回ウォーキングの集いで歩いた真人公園や 地域センターの室内・体育館ばかりでなくグラウンド、 プールを活用したほうがいいという意見もみら れる。 また、 同センターでいろいろな講座を行う際に、 指導者になってくれる地域住民がいて人材にも 恵まれていると4人が回答している。 地域センター以外の社会資源に目を向けている少数意見としては、 地域センターから離れている集落 に暮らしている方から、 地元の鉱山跡地をウォーキングコースに出来るのではないかという提案もみら れる (分類表記△)。 表2. 地域の資源を活用して、 西成瀬地域ではどんな健康づくり活動ができそうか No 自 由 回 答 分類 1 地域センターで、 グランドゴルフ、 ウォーキング、 ダンベル体操、 ミニテニス、 卓球などをして 楽しむことが出来る。 ○ 2 地域センターで、 グランドゴルフをしたり、 ダンベル体操が出来る。 ○ 3 地域センターでミニテニス、 ソフトバレー、 卓球、 ウォーキングが出来る。 ○ 4 道具や機材も使わず最も安上がりなものがウォーキングやランニングである。 ウォーキングは全 ての運動の基本動作であるから、 健康づくりのためにウォーキングを広めていったほうがいいの ではないか。 ○ 5 地域センターで、 卓球、 バレーボール、 ダンベル体操が出来る。 ○ 6 西成瀬地域センターは、 スポーツの場所だけでなくステージがあることから芸能発表や展示会な どの文化活動もできる施設である。 ここを会場にしてお祭りや各種イベントが催され、 若い人た ちからお年寄りまで住民交流も図られている。 そういった面からも地域の健康づくりへの関心が 高まるようにしていけるのではないか。 △ ― 155 ― 7 西成瀬地域センターでは地域の人たちが作ったものの展示会など文化活動も比較的盛んなほうだ と思う。 これを健康づくりとうまく結び付けられないか。 有志で、 地域センターに集まりウォー キングクラブ活動をしているが、 平日の日中は集まりにくいので、 晩におこなっている。 参加し たい人のニーズに合わせて活動しないと健康づくり活動はなかなか長続きしないのではないか。 △ 8 地域センターで健康づくりに関する話を聞く。 センター内の体育館でのウォーキングも皆とやれ ば楽しい。 天気のいい日は真人公園までウォーキングするのも楽しいと思う。 ただし、 皆が集ま りやすいように休日に活動するとか工夫も必要だと思う。 △ 9 西成瀬地域センターの室内でいろいろと体を動かすようなトレーニングができる。 冬場はウォー キングするにしても転倒が怖いので、 自転車エルゴメータを設置してもらえたらもっと運動に興 味をもつ人が増えるのではないか。 □ 10 西成瀬地域センターは元々小学校だったためにプールがある。 それを活用して夏場はプールでの 体力づくりや水中ウォークなどができるのではないか。 □ 吉野集落は西成瀬地域センターから離れているところにあるため、 吉野集落では旧吉乃鉱山のあ 11 たりをウォーキングコースにする。 あるいは、 使われなくなった吉野保育所や生活センターなど を集落ぐるみの活動をおこなう場所として活用できないものかと思う。 □ 12 普通の公民館と違って西成瀬の地域センターは体育館があるのだから、 体育館を利用した楽しめ るスポーツをどんどん企画したほうがいいのではないか。 □ 13 健康のためには体を動かすことが大事だと思っているが、 冬場はどうしても体を動かす機会が減っ てしまう。 地域センターで冬場でも出来る健康づくり活動が、 もっとあればいいと思う。 □ 14 老人クラブ活動のように近い年齢の人たちで、 しかも同じ集落という縁の集まりとは異なり、 西 成瀬地域センターでの活動には、 各集落からいろいろな年齢層が集まるため刺激になる。 自分は いろいろな人と出会って話をしたいほうなので地域センターでの活動が楽しい。 人と人とのコミュ ニケーションはいろんな可能性をもっていると私は考えているし、 とくに健康に関わる情報交換 は重要だと思う。 健康づくりのために体を動かすとともに、 人と人とのコミュニケーションの場 づくりも大切ではないか。 □ 15 私は70歳代であるが、 50歳代の若い人たちがセンターで卓球を楽しんでいるところを見ていいなぁ と思う。 市街地まで遠い集落に住んでいるので地域センターが一番来やすいスポーツ・文化施設 だと思っている。 □ 16 地域センターで定期的に活動している人たちはどうしても固定化している。 来る人が決まってい て活動がマンネリ化しているので、 自分では 「これがしたい」 と思っても、 一緒にやる仲間が見 つからないのでその活動を諦めてしまう場合が多い。 □ 17 何か催し物があるときには集まるが、 普段はそんなでもない。 やはり、 人が集まらないことには 活動したくても出来ないのではないか。 □ 寄せられた意見を3つに分けてみた。 No.1からNo.5は、 西成瀬地域センターで現在行われている スポーツ活動など使用状況を踏まえてその活用方法について紹介しているもの (分類表記○)。 No.6 からNo.8は地域センターで行われている各種の文化活動とのタイアップや健康づくりに関する学習機 会の創出を指摘したもの (分類表記△)。 No.9からNo.17は独自の提案や意見である (分類表記□)。 ― 156 ― 地域ぐるみの健康づくり活動機運を盛り上げるために行った住民聞き取り調査と報告会の実施効果 (上) ― 横手市増田町西成瀬地域における 「健康の駅」 活動の普及に向けた取り組みを事例に ― 表3. 地域ぐるみの健康づくり活動を行う際に、 自分はどのような協力ができるか No 自 由 回 答 分類 1 今日、 ウォーキングの集いがあるということで初めて参加した。 実際に参加してみると楽しいと いうことがわかったので、 これからはこういう活動に参加したい。 けれども平日は何かと忙しい ので、 休日にこうした活動があるといいなぁと思う。 おおげさな協力はできないが、 参加者が少 ないといけないだろうから、 積極的に参加するという面で協力したい。 ○ 2 私は地域センターのすぐ近くに住んでいるので、 センターでのスポーツ活動にこれからも参加し 続けたい。 参加人数が少なくならないようにという協力をしていきたい。 ○ 3 地域センターで集まって毎週1回晩にウォーキングを続けています。 これからも皆と一緒にウォー キングに参加してこのクラブが長く続くように協力したい。 ○ 若い人たちには若い人たちの生活の仕方があるので無理に進められないが、 同じ年代の高齢者の 人たちには地域センターを大いに利用して欲しい。 集まって話をしたり、 ときには料理を持ち寄っ て食べることも楽しい。 誘ってもなかなか集まってくれないのは、 日中は農作業や孫の世話で忙 4 しいためということもある。 それならば、 晩に集まればということになるが、 夕食の後片付けを 家族が協力してくれないと開始時間に間に合わない。 家族の応援がないと健康づくり活動に参加 することが難しい主婦も多いはずである。 センターが遠いという理由で参加したがらない人につ いてはセンターまで連れてきてくれるバスがあればいいのではないか。 これからも、 なるべく地 域センターの活動に参加するように協力していきたい。 ○ 5 仕事柄、 地域の健康づくり活動にスタッフとして参加する機会が多いのですが、 地区住民として も積極的にセンター行事に参加したい。 ○ 6 今回のウォーキングの集いのような活動は非常にいいことだが、 こうした活動に女性高齢者が参 加するためには、 克服しなければならない課題も多い。 というのは、 自分の旦那のお昼ご飯を用 意してきたり、 孫の世話をしている女性高齢者はやはり日中の活動に参加しにくい。 まだまだ農 村地域では保守的な考えもあり、 男性高齢者は配偶者を外での息抜きの活動に参加させたがらな い人もいたりする。 それでも、 今回初めてセンターの行事に参加して楽しかったので、 機会があっ たらまた参加したい。 ○ 7 参加することくらいで、 とくに協力できることは思いつきません。 ○ 8 自分は40歳代なので、 室内テニスのコーチ役や運動をする前のウォーミングアップのときに体操 を教えるなどの協力ができると思う。 △ 9 お茶飲みをする際に何か作ってもっていくとか、 スポーツ活動の準備 (裏方) 作業などを手伝え ると思う。 また、 作品展示会を開催するためには展示するものが必要なので、 展示品を作って出 し続けたい。 △ 10 地域センターの近くに住んでいるので、 スポーツ活動や催し物の準備の手伝い・ボランティアが できるのではないかと思います。 △ 11 これまでも、 地域センターでおこなっている活動の宣伝をしたり、 友達を誘ったりしていた。 地 域センターで、 自分がこのような活動、 あるいは運動をしてきて楽しかったという体験談を交え て伝えると、 より具体的に話が伝わると思う。 これからもこうした面で協力していきたい。 □ 12 近所や知り合いの人たちに、 地域センターでおこなわれている健康づくり活動について情報を伝 えたり、 自ら積極的に活動に参加することで協力していきたいと思う。 □ ― 157 ― 13 地域センターで健康づくりの活動がある際に、 できるだけ友達を誘って参加するようにしたい。 それと、 自分が実際に運動してみて現れてきた効果を友達に伝え、 少しずつでも地域の健康意識 が高まることにつなげていきたい。 □ 14 今日勉強したウォーキング知識や実際に真人公園まで皆で歩いて楽しかったことを同じ集落に住 んでいる人たちに聞かせて、 こうした活動を広めていけるように協力したい。 自分は60歳代です が、 こうした健康づくり活動になかなか参加してこない若い人たちの健康が気になります。 □ 15 正直、 センターの近くに住んでいてもなかなかスポーツ活動に参加する機会がなかった。 今回ウォー キングの集いに参加してみて楽しいことがわかったので、 地域センターでの健康づくり活動があ る際に、 できるだけ友達を誘って参加するようにしたい。 □ 16 料理教室を開催すると参加者は結構いるのだが、 健康づくり活動や運動には参加者は少なくなる。 料理教室などのように自分でもやれると思うものには参加しやすいのだが、 体操などは疲れると か、 自分はできないと思い込んでいる人も多いはず。 そのため、 運動に興味をもつ活動者も決まっ ている人たちになりやすく、 もっと地域の人たちに声をかけて一致団結して参加するような機運 を作れたらいいと思う。 しかし、 この地区は農家も多いし、 出荷に追われて夜でも作業している 人もいるので、 全ての人が参加できる活動を考えることには無理があると思う。 とにかく、 地域 センターでおこなわれる健康づくり活動には今後も出来るだけ友達を誘って参加するようにした い。 □ 17 持病を抱えていることから体力を使うような協力はできませんが、 健康の大切さを周りの人に伝 え、 健康意識の輪を広げることに協力していきたい。 人間は病気をしてみないと健康の大切が本 当に理解できないものですから、 持病を抱えている自分だからこそ話せることもあるし、 そうし た話に共感してくれる人も現れると思います。 地域の意識改革が大切だと思います。 □ 意見は大きく3つに分けられる。 No.1からNo.7は、 地域ぐるみの健康づくり活動が続けられるよ うに参加し、 一員として支えたいという人たち (分類表記○)。 No.8からNo.10は活動をする際に何ら かの手伝いもできるという人たち (分類表記△)。 No.11からNo.17は友達や周りの住民を誘って参加し たり、 こうした活動を地域で積極的にPRしたりする協力ができるという人たちである (分類表記□)。 Ⅳ 考 察 横手市西成瀬地域でウォーキングの集いを開催して参加者に聞き取り調査を行った結果をもとに考察 してみたい。 第1に、 地域にあるもので健康づくりのために活用できそうなものは何かを質問した結果については、 表1のとおり17人中15人という大多数の方が、 西成瀬地域センターと回答している。 もちろん、 元の小 学校の校舎を地域センターとして活用していることもあり各教室・体育館・グラウンド・プールの活用 といったところに目が向けられていることを評価できるのだが、 地域センターだけに意見が集中したこ とは表裏一体の意味を持つものと思われる。 なぜならば、 当該地域住民にとって西成瀬地域センターの イメージがあまりに大き過ぎて、 各集落にある集会所などのように他の社会資源にはなかなか目が向け られていないといった面も指摘できるからである。 例えば、 ウォーキングの集いで実際に近くの真人公 園まで歩いてみて、 西成瀬地域にも健康づくりに活用できるものに同公園があることに気付いている様 子が伺えたり、 地域にはリーダーや指導者となってくれる人的資源があると回答した人も4人に留まっ ― 158 ― 地域ぐるみの健康づくり活動機運を盛り上げるために行った住民聞き取り調査と報告会の実施効果 (上) ― 横手市増田町西成瀬地域における 「健康の駅」 活動の普及に向けた取り組みを事例に ― たりしたことから、 地域センターのイメージが大き過ぎることによってむしろ住民の視野が狭くなって しまっていることも指摘できる。 以上のことから、 ウォーキングの集いのような健康づくりのイベント などをつうじ、 健康づくり活動をする際に使える地域の社会資源があることを、 住民が気付くことがで きるように継続的にかかわっていく必要性が感じられる。 第2に、 地域の資源を活用して、 西成瀬地域ではどんな健康づくり活動ができそうかを質問した結果 については表2に示したとおりで、 室内テニス・卓球・バレーボール・ウォーキングなど西成瀬地域セ ンターの現在の使用状況を踏まえた活用方法を5人が指摘しており、 地域センターで行われている各種 の文化活動とのタイアップや健康づくりに関する学習機会を活用すべきだと2人が指摘している。 また、 その他8人については、 独自の提案や意見を述べており、 どのような健康づくり活動が望まれているか ということについては、 まさに多様性がみられた。 その中でも注目したい意見は、 「同センターで開催 されている各種文化活動と連携し健康づくりの知識を学ぶ機会を加えていくことや、 集まった際に健康 体操を取り入れるといったことも含めた工夫をしたほうがいい」 という指摘である。 なお、 「ウォーキ ングの集いに誘っても運動は苦手と言ってなかなか参加したがらない人もいるので、 健康イコール運動 にとらわれずに地域の文化活動やイベントを活用しながら健康づくりへの関心を高め、 住民活動への参 加者を徐々に増やすことが望ましい」 という経験を踏まえた声も寄せられており、 真摯に受け止める必 要がある。 そしてそれらの指摘からは、 「西成瀬地域の様々な住民活動の際に健康を話題に取り上げな がら参加者の輪を広げ、 住民の外出の機会を促すことができれば自然に体を動かす機会も増加する」 と いった地道な取り組みが大切であるという示唆をもらった感がある。 第3に、 地域ぐるみの健康づくり活動を行う際に、 自分はどのような協力ができるかを質問した結果 は、 表3に示されたとおりで、 ①参加してグループ活動の一員となり活動を継続したり盛り上げ支える、 ②グループ活動を行う際の準備などを手伝いたい、 ③友人・知人を誘ってこうしたグループ活動に参加 したり、 活動を積極的に地域でPRする協力をしていきたいという意見に分かれている。 いずれにして も17人全員が協力したいという意見で占められていることから、 こうした協力の意思がある人たちに対 して今後も働きかけを行えば将来はオピニオンリーダーとなったり、 その人たちの働きかけからも西成 瀬地域の“地域ぐるみの健康づくり活動”の活性化に結びつく効果が期待できるものと思われる。 第4に、 住民に対する聞き取り調査を実施してみて介入する側にとっても気付かされた点がいくつか あるので、 これらを紹介しながら調査報告のありようについても振り返ってみたい。 まず、 少数ながら 農村の健康づくりの課題として特徴的な実態を映し出している意見がみられたので紹介したい。 ①地域 センターを集合場所として夜に時間設定しウォーキング活動をしているものの、 開始時刻に間に合うよ うにするには食事の後片付けを手伝ってもらうなど家族の協力も必要になるのだといった悩み。 ②地域 センターから離れている集落の住民、 とくに 「高齢者の場合は交通手段が確保できないためなかなか地 域センターへ行くことも、 まして地域センターで定期的に行われているスポーツ活動に継続的に参加す るのも容易ではない人が多い。 そのため、 集落単位での健康づくり活動も大切であるといった指摘。 ③ たとえば地域センターから離れている吉野集落であれは旧吉乃鉱山跡地をウォーキングコースとして活 用できるのではないかといった可能性を指摘した前向きな意見である。 なお、 この聞き取り調査の協力者を集めるためウォーキングの集いを開催した目論見は一長一短の結 果が現れたといえる。 実践報告である以上その反省点も明らかにしておくべきなのでふれておきたい。 ウォーキング講座形式のイベント開催によって参加者を集めたのだが、 参加者には偏りが生じたことも 否めない。 ①運動をすることに興味をもって参加してくれる人が多かった一方、 普段から地域センター でウォーキングのグループ活動をしている人たちの占める割合が高くなったこと、 ②当該地域の担当保 ― 159 ― 健師から事前に聞いていたとおりでセンター周辺の人たちの参加が多かったこと、 ③参加者の男女比率 についても圧倒的に女性が多かったために男性の 「健康づくり活動に関する意見」 がほとんどとれなかっ たことなどから、 西成瀬地域住民から幅広く意見を集約することにはつながらなかったと言わざるを得 ない。 このように反省点は多いものの、 この調査は換言すれば住民の意識啓発を図る介入でありオピニ オンリーダーを作っていく目的の上で、 その達成度は概ね高かったと指摘できる面もある。 なぜならば、 各質問項目に対して参加者が熱心に回答していることからも 「その学習効果がみられた」 と考えられる からである。 また、 少ないながらも健康を共通話題として地域ぐるみで活動することでの有用性を示す ものも発見できた。 それは、 生きがいづくり活動としてのふれあい・いきいきサロンや老人クラブ活動 では同年齢の集団になりやすい傾向にあるのに対して、 こうした健康づくり活動は 「中年層を含む幅広 い層から興味をもってもらえる」 ということがわかったことであり、 つまり、 ウォーキング参加者の年 齢層は60歳代が最も多く60歳代と70歳代の参加者で全体の2/3を占める一方で、 40歳代50歳代の中年 層の参加も見られたため、 幅広い年齢層にわたる人たちで健康づくり活動を実践することができたとい う面もあったからである。 以上のとおり、 「ウォーキングの集いを含めて住民聞き取り調査による意識啓発の介入を行うこと」 で、 介入する側にとっても多くの気付きと有益な情報を得ることができたといえる。 (つづく) 謝 辞 学術研究のため、 聞き取り調査に快く応じてくださった横手市増田町西成瀬地域の住民の皆様に心か ら感謝申し上げます。 また、 データの活用を横手市から許可いただいたことにも感謝いたします。 引 用 1) 岡村重夫訳、 Ross, M. G. 著 コミュニティ・オーガニゼーション ― 160 ― 全国社会福祉協議会、 昭和43年、 p42 教養・文化研究所所員名簿 教養部 堀 川 静 夫 (所長) 福 山 稲 本 俊 輝 伊 藤 護 朗 (運営委員) 遠 藤 純 男 小山内 幸 治 (編集委員) 瀬田川 昌 裕 和 田 寛 伸 庄 司 松 村 湯 川 裕 (運営委員) 信 (編集委員) 岳 志 (運営委員) 崇 ランディ・ケイ・チェケッツ 渡 部 勇 佐々木 久 吾 (編集委員) 橋 志 保 (運営委員) 元 法学部 吉 野 上 村 篤 康 之 (編集委員) 総合研究センター 西 山 亨 2008年 (平成20年) 2月20日現在 執 筆 者 紹 介 講 演 小 泉 健 ノースアジア大学理事長・学長 石 川 好 ノースアジア大学総合研究センター客員教授 岡 田 裕 介 ノースアジア大学総合研究センター客員教授 福 岡 政 行 ノースアジア大学総合研究センター客員教授 内 館 牧 子 ノースアジア大学総合研究センター客員教授 志 保 ノースアジア大学教養部講師 辰 彦 秋田栄養短期大学准教授 秋田看護福祉大学看護福祉学部社会福祉学科講師 論 文 橋 元 平 実践報告 高 橋 和 幸 願 法 廣 典・佐 藤 学・松 川 敬・照 井 理 香 (横手市福祉環境部健康の駅推進室) (掲載順) 教養・文化論集 第3巻 第1号 (通巻第4号) 2008年 (平成20年) 2月20日印刷・発行 編集・発行 ノースアジア大学 総合研究センター 教養・文化研究所 秋田市下北手桜字守沢46 1 電 話 018 836 6592 FAX 018 836 6530 URL http://www.nau.ac.jp/~center/ 印 刷 秋田活版印刷株式会社 秋田市寺内字三千刈110 電 話 018 888 3500㈹ ISSN 1881−1981 THE BULLETIN OF CULTURAL SCIENCES Vol.3, No.1 (4) February, 2008 CONTENTS Lectures The Today s Japanese Student s Outlook on Life ……………………KOIZUMI Ken My Life : The Way to Success from Collapse …………………ISHIKAWA Yoshimi The Present State of Affairs in the Japanese Films ………………OKADA Yusuke Whatever will become of the Politics and Economics in Japan? : I Predict the Political Situation after the Election of the House of Councillors ……………………………FUKUOKA Masayuki The Grand Sumo Tournament and the Kami …………………UCHIDATE Makiko Are Women Impure? : No Admittance to Women on the Grand Sumo Tournament ……………………………………………UCHIDATE Makiko Articles A Reading of Soseki Natsume s Mon ― From the Viewpoint of the Early Reception of Nietzsche s Thought in Japan ― ……………………………………HASHIMOTO Shiho Voicesand Bodiesof the alienated Narrative Theatres : Studies on Comparative Theatres of Narrationand Drama …………………………………………………………TAIRA Tatsuhiko Investigative Reports Report of Investigation through an Interview with Inhabitants to Perform Positively Health Promoting ActivitiesInvolving all the Dwellers of Local Community & the Effects Memoir Assembly Has on their Awareness of the Activities (1) ― Taking as an Instance the Activities to Spread Kenko no Eki , or Network of Health Care Station, in Nishinaruse, Masuda Town, Yokote City ― ……………TAKAHASHI Kazuyuki GANPO Hironori SATO Manabu MATSUKAWA Takashi TERUI Rika The Institute of Cultural Sciences North Asia University, Akita, Japan
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