61号

2014
61
NO.
ISSN 0388- 6700
佛教大学附属図書館の事業活動報告 2013年度∼2014年度前半期
28
佛教大学附属図書館の沿革と
「成徳常照館」
の由来
29
谷口 浩司
24
11
図書館専門員 古川 千佳
4
36人の絵師たちと前川家∼
2
『京洛三十六家 山水花鳥人物図貼交屏風』
1
附属図書館長 谷口浩司
20
文学部中国学科教授 鵜飼光昌
私たちはこの 年、アクセス・サービスの向上を目指して、計
量の求められる時代を迎えています。
能﹂
を超えて、課題の
﹁発見機能﹂
のようなより高度に専門的力
められてきました 。今 や 学 術 情 報の電 子 化の流 れは﹁ 検 索 機
収 集を担っており、高 度な専 門 性と独 立 性を備えた運 営が求
かし、もう一方で、大学図書館は、文献資料の系統的、体系的な
情報基盤として学部の教育と研究に深く結びついています。
し
いち早く構築し、利用に供してきました。大学図書館は、学術
で、かつ素早いアクセス﹂が一元的に可能となるウェブサイトを
料を電 子 データベース化し、学 外の電 子 情 報と併せて、﹁ 的 確
ベースだけでなく、学内に収蔵された図書・雑誌などの文献資
佛教大学では、外部から提供される電子ジャーナルやデータ
くこれまで以上に、学術情報環境の拡充整備が求められます。
電子化された情報の生産と流通が進むなかで、期待に応えるべ
応が焦 眉の急となっています。インターネットの普 及とともに
実を前にして、高等教育を担う大学への期待は大きく、その対
縮減に向かっています。国の内外から押し寄せるこのような現
に立たされる日本は、他方で先進国が経験したことのない社会
加速するグローバル化時代を迎え、
ますます厳しい国際競争
附属図書館長
図書館とわたしの研究
画 的に取 り 組 んでき ました 。
この間 2012年 、大 学 は 開 学
100周年の記念すべき節目を迎え、図書館もまた決意を新た
問題意識を高めて、主体的な学習を目指す
﹁図書館の能動化の
に次の100年に向かって一歩を踏み出しました。学生諸君が
試み﹂
が多くの大学で行われるようになっています。
これは図書
館だけの力で実現できることではありません。学部と意志疎通
を図りながら教 学を支える部 門と連 携し、充 実した仕 組みの
構築を目指したいと願っています。
1
社会学部公共政策学科教授 藤井透
5
Interview 中国古典・思想史の世界を訪ねて
大学図書館の新たな課題に向けて
61
目次
NO.
2014
大学図書館の新たな課題に向けて
デジタルコレクション公開
佛教大学大学院・稲吉昭彦/附属図書館・松島吉和
京都国立博物館・水谷亜希/佛教大学総合研究所・尾脇秀和
新収資料紹介 『京童』
『山城四季物語』
『山城名勝志』
『都商職街風聞』
『花洛名所獨案内記』
デ ジ タ ル コ レ ク ショ ン 公 開
きょ う ら く
さん
じゅ う
ろっ
か
さん
すい
か
ちょ う
じん
ぶつ
ず
はり
まぜ
びょう
ぶ
﹃京洛三十六家 山水花鳥人物図貼交屏風﹄
﹃ 京 洛 三 十 六 家 山 水 花 鳥 人 物 図 貼 交 屏 風 ﹄は、京 都 六 角 通 油 小 路
年︵2003 ︶
に文書やその他の調度品類と共に
東 入ル本 能 寺 町で両 替 商などを営んでいた 前 川 五 郎 左 衛 門 家に伝
わったもので、平成
年7 月︵2014 ︶
から図書
年︵2011 ︶
になって存在が確認され、修復
に 年以上の歳月を費やした後、平成
23
公開しています。
cm
38
cm
78・0 。地に銀箔を敷き詰め、 枚の絹本着色図が貼り込まれてい
この屏風は六曲一双で、右隻、左隻とも総寸は縦171・2 、横3
cm
館ポータルサイト上でデジタル画像を
﹁一般公開コレクション﹂
として
26
ることが判明し、平成
たっての調査整理を重ねるうちに、多くの史料の中に数点の屏風があ
佛教大学附属図書館の所蔵となりました。以来、文書の目録作成にあ
15
25 36
名の作品
36
佛教大学附属図書館事務部長
前川家文書の整理と屏風の発見
平成
年︵1998 ︶4 月から平成
年とに入手し、
15
年︵2005 ︶3 月まで、当時の文学
衛門家に伝来した文書類を、平成7 年︵1995 ︶
と平成
て、両替商をはじめ京都御用米会所貸付方などに携わっていた前川五郎左
佛教大学附属図書館では、江戸時代後期に京都六角本能寺町に居を構え
松島 吉和
であり、
当時の画壇の縮図ともいえる歴史的にも大変貴重なものです。
を中心に、土佐派や京狩野派も含む京坂で活躍した絵師
ます。それぞれの図の寸法は、縦 ・8 、横 ・0 前後。円山四条派
cm
17
年に入手した前川五郎左衛門家の資料には、文書だけでなく調度
15
年︵2010︶ 月に事務部長として着任した際に、当時の歴史学
22
4
年︵2
24
年3月に、調度品の中で忘れられていた屏風の存在が明らかになってきた
が刊行できるまで古文書類の整理も進んできたのですが、整理途中の平成
012 ︶3 月には
﹃京都本能寺町前川五郎左衛門家文書目録﹄
の第4 巻目
再開するように依頼を受け、大学院生の皆さんの協力を得て、平成
部長の渡邊忠司先生から中断していた前川家文書を含む古文書の整理を
平成
れている状況です。
したのですが、そのため一部の調度品についてはまだミュージアムに保管さ
︵現宗教文化ミュージアム︶
に預けて燻蒸処理が施された後に図書館へ収蔵
品も含まれており、
一旦 広 沢 キャンパスにあるアジア宗 教 文 化 情 報 研 究 所
平成
川五郎左衛門家文書目録﹄第1巻∼第3巻として刊行しました。
の大学院生の皆さんに調査整理していただき、
その成果を
﹃京都本能寺町前
部史学科教授の竹下喜久男先生の指導のもとで文学研究科日本史学専攻
10
のです。
邊先生、図書館長の谷口浩司先生と大学院生の皆さんと入ってみてみたら、
そこで貴重書庫に保管されている資料を改めて確認することになり、渡
どうも屏風の箱らしいものがあり、開けてみると江戸後期の有名な絵師の
名前が記された絵が貼られた銀屏風だったわけです。
今回は古文書の調査整理に携わっていただいたり、屏風の調査分析をして
いただいたりした研究者をお招きして、詳しくお話を伺うことにしました。
第16図
東東洋「雪景茅屋図」
第13図
狩野永俊
「雪景楼閣山水図」
第10図
河村文鳳
「李適之図」
第7図
森狙山
「親子猿図」
第4図
松川龍椿
「朝顔図」
第1図
原在中
「蘭石図」
第16図
橘公順
「黄安図」
第13図
上田耕夫
「柳堤舟遊図」
第10図
柴田義董
「樵夫図」
第7図
月峰
「瀑布図」
第4図
紀広成
「梅に文鳥図」
第1図
岸駒「旭日飛鶴図」
第17図
中島来章「大原女図」
第14図
大原呑舟
「韃靼人狩猟図」
第11図
月潭
「武陵桃源図」
第8図
岸岱
「松に鵲図」
第5図
円山応震
「虎渓三笑図」
第2図
森徹山
「虎図」
第17図
吉村蘭洲
「渓流図」
第14図
中林竹洞
「松堤舟遊図」
第11図
松村景文
「遊亀図」
第8図
矢野夜潮
「浦島図」
第5図
西村楠亭
「住吉踊図」
第2図
合川珉和「毬杖図」
第18図
土佐光孚「王朝美人図」
第15図
村上東洲
「茅屋山水図」
第12図
吉村孝敬
「鴨図」
第9図
八田古秀
「亀図」
第6図
田中日華「撫子図」
第3図
月橋
「松下高士図」
第18図
長沢芦洲
「あけび図」
第15図
円山応瑞「鮎図」
第12図
村上松堂
「秋海棠に小禽図」
第9図
別所東渓
「嵐山春景図」
第6図
長山孔寅
「韓信股潜図」
第3図
山口素絢「笑い上戸図」
2
3
右隻
左隻
1
23
各扇に貼られた作品
人の絵師たちと前川家 ∼
ればと思います。
る前川家のことなどについてお話しいただけ
値や作品を描いた絵師たち、また所有者であ
まりいただきました 。屏 風そのものが持つ価
の調査研究に携わっていただいた方々にお集
や
﹃京洛三十六家 山水花鳥人物図貼交屏風﹄
る前 川 五 郎 左 衛 門 家に伝 来した文 書の整 理
松島
本日は本 学 附 属 図 書 館が所 蔵してい
美 術 史 を 専 門とされる研 究 者に見ていた だ
いましたが、ただ、真贋がわからない。やはり
松島
これは大変貴重なものではないかと思
と。
尾脇
狙 仙の猿というのは有 名な作 品 だな
ことがある絵師の名も出てきて。
稲吉
屏 風に貼ってある絵を見たら、聞いた
らピカピカで。
尾脇
長いこと放置されていたわりに開けた
学は屏風のような美術資料としては他に
﹃洛
たものだということがわかってきました 。本
条 派 、狩 野 派 、岸 派の著 名な絵 師た ちが描い
記載されている絵師たち、それも円山派や四
希さんの調査によると、﹃平安人物志﹄
の中に
山下先生のもとで調査していただいた水谷亜
復の作 業を始 めることになり、それに先 立っ
て予 算 措 置がなされました 。翌 年の2 月 、修
が山 極 伸 之 学 長に修 復の必 要 性を説 明され
∼
尾脇
屏風を見つけた時のことですが、文書
立博物館におられた山下善也学芸部連携協
くのが一番 だろうということで、当 時 京 都 国
うお話しでした 。早 速 、谷口先 生や渡 邊 先 生
整理の際、貴重書庫の中に程良い高さの大き
ないかと思ったので、松 島 事 務 部 長にお 願い
川﹂
と書かれていて、
これが前川家の屏風じゃ
なっていました。箱の横をチラリと見たら
﹁前
が平成
年3 月のことで、三双あった屏風を
ただくことになりました。屏風を発見したの
力 室 長に連 絡させていただいて、確 認してい
が発見されたことで、図書館としてはさらに
壇に名 を 残 す 絵 師 た ちの作 品 を 貼った 屏 風
中 洛 外 図 屏 風 ﹄を所 蔵していますが、近 世 画
て屏風を公開して記者会見をいたしました。
な横長の箱があり、ちょう ど記帳台のように
60
36
稲吉
この箱は他の史料とは明らかに何か違
して開けてみることになったんです。
なかでこの銀 屏 風 が 最 も 価 値の高いものだ
て山 下 室 長に見ていただいたところ、三 双の
6 月に宗教文化ミュージアムへ全部持ち出し
人ではなかったのですね?
お話しいただけますか。前川家はもともと商
す。
この屏風の所有者であった前川家について
当 該 分 野の研 究に貢 献できると 考 えていま
83 6 ︶
には、もともと本家であった夷屋︵恵
が、
このまま保 管しておけば劣 化が進むとい
比須屋︶治兵衛に屋号や暖簾を返す手続きを
うものではないかと思っていましたが、
貴重書庫
政 期がひとつの画 期で、
このあたりを境にし
取っています。義 虎 以 降 続いていた 治 兵 衛と
の中で中身を確認してみたら、
銀屏風でした。
て前 川 家は両 替 商から御 用 町 人へと発 展し
前が出てくるのは、荘兵衛︵義陳︶
が改名する
尾脇
京 都 前 川 家の初 代 、恵 比 須 屋 荘 兵 衛
ていくという感じです。
次の義 陳の代になるとさ らに大 き くなりま
義虎という人は、近江国浅井郡川道東村の百
の本家・別家という関係は、
この時に解消され
天保3 年︵183 2 ︶からです。天保7 年︵1
姓 五 郎 左 衛 門の子です。義 虎は延 享 元 年︵1
稲吉
義秀の代は両替商︵本銭屋︶
をやってい
ました。義陳の代には京糸割符年寄になった
す。ちょう ど屏 風の制 作 時 期に近い文 化・文
744 ︶
に京 都に出てきたよ うです。奉 公 先
り、郷 士 株や地 下 官 人 株を買ったり、その他
大名・旗本・寺院の用達、掛屋などを務めてい
還 暦 ぐらいでしょう。四 代 目の義 陳のときに
御 用 米 会 所 貸 付 方という 、公 金 運 用 を 担 う
ます。前 川 家を単に京 都の商 家とは、なかな
ました 。
この屏 風が作 られた時にはちょう ど
︶
に
む夷 屋︵ 恵 比 須 屋 ︶治 兵 衛 。義 虎は治 兵 衛か
ら暖簾分けを許され、恵比須屋荘兵衛の名で
御用町人となります。文政
す。以後、前川家は代々本能寺町に根拠をお
貫目という金額を御用米会所に支払っている
です。その時に手切れ金ではないですが、銀
会 所 貸 付 方を御 用 米 会 所から独 立させるん
年︵ 1 8 2 9 ︶に義 陳は御 用 米
年︵182
独立します。その後、商売が軌道に乗り、義虎
御 用 米 会 所 貸 付 方の業 務を引 き請 けるので
きました。義虎には子どもがなかったので、奥
のです。
さんの弟︵石田武惟︶
を養子にしますが、義虎
が亡 くなった4 年 後に亡 くなっていま す。武
年︵1830︶
に御用米会
尾脇
それまでは恵 比 須 屋 荘 兵 衛という名
前でしたが、文政
惟の次はその甥にあたる義 秀が継 ぎます。
こ
代目恵比須屋荘兵衛で、ちょうどこ
貫目を直すと金千両
貸 付 方を一手に引き請けるということは、自
尾脇
それをポンと渡している。御用米会所
に値します。
は銀遣いですから、銀
稲吉
その当時の京都や大坂、
いわゆる上方
値になるのでしょうか?
目ということですが、金 だとどれくらいの価
水谷
独 立 するために支 払った 額が銀
貫
すが、文 政
7
所貸付方としては苗字御免となり、
この時か
の人が
60
佛教大学附属図書館
事務部長
10
の屏 風の時 代の人です。
のちに中 興の祖とい
60
分の裁 量で公 金の貸 付 運 用 ができるわけで
松島 吉和
13
か言いにくいですね。
なった 。
これが安 永5 年︵17 7 6 ︶
のことで
は 本 能 寺 町︵ 六 角 油 小 路 東 入 町 ︶で 家 持 と
は、大宮通三条上ル町で両替商︵本銭屋︶
を営
屏風を作らせた前川家とは
23
ら前川荘兵衛とも名乗るようになりました。
佛教大学総合研究所
特別研究員
す。公金の貸付運用で自己の利益を生むんで
佛教大学大学院
文学研究科日本史学専攻
博士後期課程
12
尾脇 秀和
われる人で、義 秀の代には、旗 本 杉 浦 家の掛
京都国立博物館
学芸部 教育室 研究員
我々が口にしている前川五郎左衛門という名
水谷 亜希
屋を務めたりして、事 業 規 模が大きくなり、
稲吉 昭彦
3
4
5
﹃京洛三十六家 山水花鳥人物図貼交屏風﹄
Round-table
talk
【御用米会所】…享保20年(1735)
に京都と大津に設立される二条御蔵からの払米を取り扱う会所。京都の御用米会所には米方と貸付方が存在した。貸付方は文政
10年(1827)
に前川義陳が業務を引き請け、
文政12年
(1829)
に前川義陳が御用米会所から独立させる。
【京糸割符】…京都の糸割符仲間。近世後期、
糸割符制度は全く形骸化しており、
「京糸割符」
は苗字帯刀などの諸特権をもつ特権町人身分と化していた。
「糸割符株」
として売買され、
前川義陳も天保6年
(1835)
に買得した。仲間の代表を京糸割符年寄という。
【郷士株・地下官人株】…京都の
「郷士」
は、苗字帯刀を許可された百姓の一代限の身分。地下官人は朝廷に仕える下級官人の総称で苗字帯刀する。
いずれの身分
も、実際には
「株」
として売買されていた。
すよね。
それもかなりの額だったと思います。
屏風は富と名声の象徴
えば、残りの利 益は全 部 自 分の手に入る。今
尾脇
公 金 を 運 用 して上 納 分 を 払ってしま
た様 子はありま
で 。運 用で失 敗 し
屋 荘 兵 衛の名 前
せんから 、屏 風 を
で言えば、年金基金を運用して自分の利益を
の義 貞に譲 渡した現 銀 だけで銀7 7 0 貫7
作った義秀の代ま
続 税 もかかりま
48匁5分ですから、恐ろしい金額です。
ができていたので
で 、か な りの蓄 え
せんし、当 時は相
ごろという時期は、ちょう ど家督が義秀から
松島
郷士株を買ったり、尾脇さんが論文に
上げるような感じかもしれない。
義 陳に移るとき だと思います。義 秀のこれま
書かれたりしているように糸割符の株も手に
稲吉
安政2 年︵1855 ︶
に義陳が5 代目
での成果と義陳のスタートというちょうどそ
年︵1816︶
の節目にあたります。
それが象徴的ですね。
貫を
す。
新選組の屯所があった八木家。
形式的には
尾脇
郷士株は壬生の八木家から買っていま
稲吉
そういった
はできません。
て 、普 通の商 人に
ポンと渡せるなん
しょう 。銀
入れていますね。
義 陳の息 子 、義 貞の名 前で。京 糸 割 符 年 寄と
意 味では 、中 興の
8 15︶
に隠 居して、翌 文 化
せんね。
歳か
年で還 暦を迎
年︵1
しての御 用 会 符は、史 料のなかに現 存してい
祖というのはすご
松島
義秀は前川家の年譜では文化
えていますし、義 陳の家 督 相 続の時でもある
恵比須屋荘兵衛、父親と同じ名前から始まっ
ます。江戸参府の時のものです。義陳は最初、
60
のならば、その祝いに作 られたのかもしれま
尾脇
その時 、義 陳は
12
ういう時にこの屏風が作られたものなんだと。
水谷
なんだか、
イメージがわいてきます。
そ
稲吉
屏風が作られた文化
!?
13
13
歳くらい。義
乗り、帯 刀もできるようになり、経 済 的な上
て、前川荘兵衛、前川五郎左衛門と名字を名
を 作 り、その基 礎
すね 。義 秀が基 礎
く 納 得 がい き ま
の上に義陳がさら
昇とともに身分も一緒に上昇させていった。
まで、ぜんぜん休むことなく活 動し続けてい
稲吉
壬 生の郷 士 株 、京 糸 割 符 株 、お 金 に
ときは不採算部門でした。
でも御用米会所貸
ます。夷屋治兵衛との縁を切るというのも、
も
が発展していったわけですから。
付方を引き請けた義陳は、体裁として整って
に大きくしたとい
松島
稲吉さんも論文に書かれていますが、
いなかった部分を改革して順調に軌道に乗せ
松島
義秀は自分が 歳になるまで、円山応
よっていくつか身 分を手に入れているのです
御 用 米 会 所の貸 付 方を独 立させて公 金 運 用
ていきます。
挙 を は じ め 、いろ ん な 絵 師 に 絵 を 描いても
ともとの恵 比 須 屋 本 家である治 兵 衛よりも
をしようと考えたのは、両替商だけではあま
松島
両替商をやっていたから、
その利益をう
らっていますね。当時の絵師は一人一人が個々
えます。
り利益が上がらないと考えたのでしょうか。
まく運用していたと考えられますか。
師の作品を集められたというのは、経済力だ
に活 動していたと思いますが、
これだけの絵
水谷
かな り あると 思いま す。ま ず は 流 派
何かあったりするんですか?
入ってきた新興商人が多かったということを
うのは近江国や伊勢国といった他の地域から
商人というのは、上京と下京にいて、中京とい
もしろいのは、円山四条派が多いのですが、
そ
がなくなってくるんです。
この屏風の中でもお
戸の後半ぐらいになってくると流派間の垣根
と 、活 動の場が違ったのですが、
この時 代 、江
用絵師、土佐派は宮廷絵師、円山派は町絵師
尾脇
時期的には、義秀の事業の総仕上げみ
のではありませんか。
60
人の絵師による夢の共演
稲吉
二条御蔵御囲米代金銀と京都町奉行
尾脇
当初は御用米会所貸付方を引き請け
ら、
利益は非常に大きいと思います。
あったら、その土 地の絵 師にも直 接 頼むこと
つつ、両替商もやっていたようですね。恵比須
けでなく水 谷さんが屏 風の調 査 をまとめら
もできますね。
からわりと近い。
別。円山四条派の子弟関係もありますし、合
稲吉
描いている人た ちの横のつながりは、
水谷
歩いていける距 離ですし、生 活してい
作をよくしているんです。誰かの何 回 忌 だと
たし。自分で集めたかはわかりませんが。
る中で、すれ違ったりしていたかもしれませ
か、追 善のためにみんなで集 まって絵を描い
いた人が多いんですよね。
川家の文書の中にも書かれているかもしれな
読んだことがあります。そのことが今 回の前
機 会に集まっています。もともと狩 野 派は御
川 家の発 展と屏 風の制 作の関 係からも窺 う
こに土佐派が入っていたりとか、狩野派が入っ
たり、長寿を祝って集まったりと、
いろいろな
ことはできませんか。絵 師の住 まいがそこに
みな肩を並べて絵を描いているのがこの時 代
ていたりとかするところです。様々な流派が、
いですよね。
集中していますが、﹃平安人物志﹄を見てみる
ならではの作品でしょう。
す。
たいな。自 分の人 生でここまでできるよ うに
松島
そうした当時一流の絵師たちに描いて
水谷
絵 師 を 集 めるにあたって 、プロデュー
なったんだぞという。
もらうとなると 、相 当な費 用がかかっている
サー的な人を間に挟んでいたのかなと思って
稲吉
これだ けの絵 師 を 集 めて描 かせたの
ませんか。
坂に住んでいる人もいますが、大 坂に屋 敷が
いたのですが、
この屏 風の絵 師のなかには大
尾脇
前 川 家は大 坂にも 屋 敷 を 持っていま
うのは、そこで需 要が多かったとは考 えられ
と、京都の絵師がほぼそこに集まっていたとい
松島
ちょうど中京ですね。京都の古くから
ん 。普 段から交 流があったんだろ うなと 。前
尾脇
前 川が住んでいたのが六 角 油 小 路 だ
来た 時に云 々というよ うな文 言 もありまし
ある。大坂の商人からの手紙があって、
この間
れた論文でも指摘されているように絵師が住
人の絵師のうち多くは、円山四条派
尾脇
前川自身、何回か大坂に行った形跡が
水谷
んでいたところとも関係あるのでしょうか?
所の金銀という莫大な額を運用するのですか
ね 。御 用 米 会 所 貸 付 方 も 義 陳 が引 き 請 けた
歳で亡くなる
73 24
商 才に長けていたからでしょう。前 川 家の方
陳は元 治2 年︵1 8 6 5 ︶
に
23
なのですが、名前のとおり四 条 界 隈に住んで
36
36
6
7
『平安人物志』
巻中巻頭
『平安人物志』
巻中
「畫」
項初
『平安人物志』巻中
「畫」
項次葉
Round-table
talk
『京洛三十六家 山水花鳥人物図貼交屏風』∼ 36人の絵師たちと前川家 ∼
【平安人物志】…近世京都文化人の人名録。明和5年(1768)
を初版として慶應3年(1867)
まで、数年おきに増補や改訂を重ねて9版の刊行が知られている。掲載書
は文化10(1913)
年4回目の版、
「畫」
の項は巻中にあり、73人の絵師名が収録されている。
【御用絵師】…江戸時代、
幕府や大名などに召し抱えられた絵師のこと。
【宮廷絵師】…土佐派は、
宮廷の絵所を拠点として、
大和絵
(やまとえ)
の伝統を継承した流派。
【町絵師】…土佐派・狩野派など、宮廷や幕府に仕えた絵師に対して、
民間で絵を描くことを生業とした絵師。
水谷
事業規模の話を聞いて、それぐらいの
表現させているような感じがします。
は、当 時の恵 比 須 屋の成 果 を 誇 示 している、
でしょうか。それとも、寄せ集めたのでしょう
思っていました 。
これは、寄り合って描いたの
古い貼 り 紙 が あ り 、ど ういう 意 味 だ ろ う と
の画 面に皆で描いている場 合は、
いかにも寄
水谷
これは難しいところで、合作など、
一つ
り合い描 きという 感じがするのですが、
この
か。
点です。絵のひとつひとつは小さいので、
こう
屏風は一人一枚ずつですからね。手の込んでい
大 き さ だった らできる だ ろ う なと 思いまし
した場合はアルバム状の画帖にするのが普通
る図もある一方で、その場で描けそうな図も
た。おもしろいのは、屏風のかたちをしている
るというのが流行っていたんです。画帖にして
です。当時、
いろんな人の絵を集めて画帖にす
年の款
せたかったんでしょうね。
こういうスタイルは
てそれを屏 風にしてというのは、みんなに見
は全員ご存命なのですが、森狙仙だけ名前の
されていません 。絵 師のみなさんはそのとき
記がありますが、他の作品には制作時期が記
あります。吉村孝敬の
﹁鴨図﹂
に文化
それほど多 くはないですね 。また 、貼 交 屏 風
漢 字 が 違 う 。屏 風の絵には﹁ 祖 仙 ﹂と あるの
個人的に楽しむのが普通の見方ですが、あえ
というと 、縦 長の掛け軸くらいの大きさの絵
で、文化
年より9 年以上前に制作されたこ
を 何 枚 か 貼るというスタイルが 主 流ですの
13
まり多くない。
あまり見ない形です。
で、あえて小さい絵をたくさん集めたのはあ
れていない。 年も
尾脇
時代的には、狙仙を除くとそんなに離
とになります。
年もかけて集めたとい
尾脇
何で 銀 屏 風 にし た んでしょう ね 。金
13
わりとあるのですか?
じゃなくて。
こういうもので銀屏風というのは
るのですか?
稲吉
屏 風の構 成 全 体を通しての流れはあ
及してきたということですね。
れまでに描いてほしいと頼んでおいたものを、
松島
義秀が文化
うものではないでしょう。
年は私の還暦だから、
そ
水谷
背 景に金を用いた金 屏 風は数 多くあ
水谷
一応、四季にはなっているんですね。右
20
るのですが、それに比べて銀 屏 風は江 戸 時 代
10
歳の時に屏風にしたということも考えられ
13
という話を聞いたことがあります。
た方法で画面に施された銀は黒くなりにくい
れているかはわかりませんが、技 術 的に優れ
水谷
変色しないようなコーティングが施さ
言っていましたし、純度もかなり高いのでは。
が良いもので、現 代のものより厚みもあると
尾脇
修復にあたった方も、銀箔はかなり質
だけ開けていたのではないかと。
で驚 きました 。多 分 、それまでも必 要なとき
れたみたいですね。発見当時もわりとキレイ
水谷
修復から戻って、カビなどもだいぶ取
して黒ずんできてしまわないか心配ですね。
尾脇
銀屏風なので展示しているうちに酸化
て検討する必要性があります。
宗教文化ミュージアムとの連携も視野に入れ
存在が周知されない可能性もあるわけです。
館の中に眠 らせておくことは、貴 重な資 料の
ると、水谷さんが言われるように銀屏風が普
が強いのですが、それに対して江 戸 時 代も下
洛外図屏風﹄
のような金屏風というイメージ
松島
織 豊 時 代から江 戸 時 代 初 期は﹃ 洛 中
ちょっと瀟洒な感じがします。
す と 明 ら かに キ ラ キ ラしていま す が 、銀 は
と増えてくる印象です。好みでしょうか。金で
の最 初の方はあまりなく 、後 半になってくる
の地道な調査と研究がなければ、
この屏風の
ことは重 要なことだと思いました 。みなさん
ということも含めて、実に歴 史の事 実を知る
川義秀とはどんな人物で、何をしていたのか
を描いた絵師だけではなく、依頼者である前
不思議な縁ですが、その屏風に描かれた作品
の時を経て、現代に突然現れたということも
知れず後世に伝わってきた。それも200 年
松島
江戸時代後期に制作された屏風が人
すね。
ういう来歴の屏風かわかるというのがいいで
いることに大きな意 味があると思います。ど
水谷
屏風だけでなく古文書と一緒に残って
的に修復していかなければなりません。
も考えられます。今後はそれらの屏風も計画
府の御用絵師である狩野柳雪斎ではないかと
風﹂があります。狩野秀信を調べてみたら、幕
の
﹁仙人図屏風﹂
と、高橋機外筆の
﹁山水図屏
り、図書館にはこの屏風の他にも狩野秀信筆
面には〝 寄 会 画 銀 屏 風・一双・前 川 〟と書いた
尾脇
屏 風 が仕 舞 われていた もとの箱の側
お祝いの席とかに置くんでしょうか。
ろがある。会話のネタにはいいですよね。何か
たお客さんも見たら、何かしら気になるとこ
様なものが描かれていますから、前川家に来
花 見 、それで夏が来てというふうに。多 種 多
隻の右上から、お正月っぽい飾り物、梅、桜の
る必 要があると考えています。
このまま図 書
の屏 風を貴 重な文 化 財として登 録 申 請をす
タをコレクションとして公開していますが、
こ
松島
図書館では現在、デジタル化したデー
制作にかかわる背景も知ることができません
貴重な史料として
ますね。
稲吉
酸 化しなかったのは、特 別なときにだ
残っていました。
見、
さらに今後も継続して調査研究を進めて
いただくことで、近世京都における前川家の
でした。前川家文書の整理と今回の屏風の発
てから 、その後 ずっと 仕 舞っておいた 可 能 性
発展が経済史の面でどのような重要性を持っ
松島
義 秀が亡 くなって義 陳になってから、
もありますね。
支えていたのがどのような人 々であったのか
ているのか、また近世京都画壇の絵師たちを
を考えるうえで、
この屏風は貴重な史料とい
尾脇
義 陳 がこれを 後 生 大 事にしているよ
ですよね。
だける機会を設けることができるよう、大学
えるでしょう。もっと一般の方々にも見ていた
として考えていく必要があると思います。
松島
じつは前川家伝来の資料は、図書館に
化ミュージアムに保管されている調度品もあ
所蔵している文書や屏風のほかにも、宗教文
うな人 だった ら、あんなにも成 功していない
何回開いたかわからない。還暦にお披露目し
えにし
け 開いていたのでしょう 。比 較 的いい状 態で
60
8
9
Round-table
talk
『京洛三十六家 山水花鳥人物図貼交屏風』∼ 36人の絵師たちと前川家 ∼
はじめに
(
享 保 元 年︵ 1 7 1 6 ︶
年︵ 1 7 8 4 ︶
年︵ 1 7 7 6 ︶
延 享 元 年︵ 1 7 4 4 ︶
安永
天明
天明
寛政
文化
文政
年︵ 1 7 8 8 ︶
年︵ 1 7 9 6 ︶
)
義虎、近江国浅井郡川道東村 現( 滋賀県長浜市川道町 の)百
姓五郎左衛門 義(光 の)子として生まれる
義虎、京都へ出る
のちに奉 公 先の大 宮 通 三 条 上ル町 夷 屋︵ 恵 比 須 屋 ︶治 兵 衛
商︵本銭屋︶
を営む
から暖簾分けを許されて独立、恵比須屋荘兵衛の名で両替
義虎、六角油小路東入町 本(能寺町 の)家持となる
義虎没
武惟没
義秀、絶家していた川道東村百姓五郎左衛門名跡を再興さ
義秀、隠居する
せる
年︵ 1 8 1 5 ︶
義陳、地下官人御香水役人の株を買得する
百姓米屋兵四郎
年︵ 1 8 2 1 ︶
江州醒ヶ井
石田家
︵石田兵四郎家︶
(
)
②
③
文政
文政
文政
文政
天保
天保
天保
天保
嘉永
安政
元治
︵1757∼1822︶
年︵ 1 8 2 7 ︶
年︵ 1 8 2 2 ︶
義 陳 、御 用 米 会 所 貸 付 方を御 用 米 会 所より独 立させ、その
義陳、御用米会所貸付方を引き請る
義秀没
年︵ 1 8 3 6 ︶
改名
義陳没
⑤
︵1829∼1886︶
京都市
﹃京都の歴史﹄ 伝統の定着
︵昭和 年︶
参考文献
義 陳 、前 川 五 郎 左 衛 門の名を義 貞に譲り、前 川 荘 左 衛 門と
義陳、京糸割符年寄となる
別家の関係を解消する
義 陳 、夷 屋 治 兵 衛へ
﹁恵比須屋﹂
の屋 号・暖 簾を返 上 、本 家・
義陳、壬生村の郷士株 八(木重次郎家 を)買得
義陳、京糸割符株を買得
義陳、前川五郎左衛門と改名する
兵衛と称する
義 陳 、御 用 米 会 所 貸 付 方としては苗 字 御 免となり、前 川 荘
経営を掌握
年︵ 1 8 2 9 ︶
年︵ 1 8 3 0 ︶
年︵ 1 8 3 4 ︶
年︵ 1 8 3 2 ︶
年︵ 1 8 3 5 ︶
年︵ 1 8 5 3 ︶
年︵ 1 8 5 5 ︶
年︵ 1 8 6 5 ︶
④
︵1793∼1865︶
林 屋 辰 三 郎﹁ 化 政 文 化の歴 史 的 位 置 ﹂同 編
﹃化政文化の研究﹄︵昭和 年︶
林 屋 辰 三 郎﹁ 近 世 絵 画と京 都 ﹂京 都 国 立 博
京 都 画 派の活 躍 ﹄
物 館﹃ 近 世 日 本の絵 画 ―
︵昭和 年︶
京 都 文 化 博 物 館﹃ 京の絵 師 は 百 花 繚 乱 ―
﹃平安人物志﹄
にみる江 戸 時 代の京 都 画 壇 ﹄
︵平成 年︶
水谷亜希﹁京洛三十六家山水花鳥人物図貼
交 屏 風 ﹂︵ 佛 教 大 学 附 属 図 書 館 蔵 ︶﹃ 京 都 国
立博物館
学叢﹄第 号︵平成 年︶
尾脇秀和﹁幕末期京糸割符の動向とその終
焉 ﹁
の身 分 格 式と特 権 ―
﹂﹃日 本
―糸 割 符 ﹂
史研究﹄第599号︵平成 年︶
尾脇秀和﹁近世禁裏御香水役人の実態 ―
地
下 官 人の職 務・相 続・身 分 格 式 ―
﹂﹃ 古 文 書
研究﹄第 号︵平成 年︶
稲吉昭彦﹁近世後期京都における御用米会
所貸付方の独立と恵比須屋荘兵衛﹂佛教大
学総合研究所紀要別冊﹃洛中周辺地域の歴
史的変容に関する総合的研究﹄︵平成 年︶
古川 千佳
図書館専門員
蒙 教 訓 的なもの、説 話 集 的な要 素を含む中 世 小 説
仮名草子は一般に、仏教的な要素を多分に含む啓
的なもの、名所記、案内記に文学的記述が加えられ
た実用書的なものなどに大分されるが、本書は最後
にあげた 名 所 記 、案 内 記に文 学 的 記 述が加 えられ
た実用書的なものといえる。
﹁せめて古郷のつとに。見ぬ京物語/はほいあらじ。
﹁京童﹂
については自序に命名の由来を掲げている。
仮名草子とも京都地誌ともいわれる本書の書名
は﹁ 吉 田 ﹂か ら﹁ 鳥 羽の戀 塚 ﹂まで 、巻 第 五 は﹁ く ら
で、巻第三は
﹁北野の天神﹂
から
﹁革堂﹂まで、巻第四
︵子安︶﹂まで、巻第二は
﹁清水寺﹂
から
﹁二條の城﹂ま
となっている。巻 第一は﹁ 内 裏 ﹂にはじまり﹁ 泰 産 寺
社仏閣、名勝を配し、内容は縁起、由緒などが主軸
巻第一、二には洛中を、巻第三以降には洛外の寺
仁和寺の法師のひとり岩清水に/まうでつる事のあ
秦 ﹂までの見 出しを立て、名 勝 ごとにほぼ対 応 する
挿絵が添えられている。近世京都地誌の嚆矢である
ま﹂から﹁ 水 うみ﹂まで、巻 第 六は﹁あたご﹂から﹁ 太
は。杜撰のことなりといなひながら/・・・
︵中略︶
・・・
文には狂歌師でもある著者自作の狂歌、発句、長歌
とともに、仮名草子の文体をかりて古歌を引いた本
仏閣のかたちをゑかき。來歴を/しるしてよといへ
まいりてとう下かうめされ。科をば
る。よりて/ 此 草 藁を京 童と名 づく﹂と綴り、徒 然
だけにとどまらない。
などを添え、
その内容は、単なる名所・地名を連ねる
草の故 事を引いて少 年を先 達に京の各 地を巡った
いちや / がおはんとたはふれて 。筆 をはし らしむ
求ん。/ 所
く
今 黄 吻 /ねがはくは。詞の花をかざらず。その根を
の外 まで見 めぐり。鳳 闕のめで/たきつくり。神 社
やしく。今 少 年のさかしきにあ/なひさせて。九 重
﹃京童﹄
断っておきたい。
ではなく、本 学 所 蔵 本についての言 及であることを
本稿における前置きのない説明は諸本一般について
と述べている。
26
京都居住
分銅屋
︵石田︶
又兵衛
①
︵1748∼1788︶
義
貞
ため、詳細は次の機会を待たねばならない。
よって、
ばならないのであるが、紙幅と時間にかぎりがある
48
25
︵1716∼1784︶
﹃京童﹄
﹃山城四季物語﹄
﹃山城名勝志﹄
モ(ト︶
12 10 5
13
3
5
6
7
6
2
﹃花洛名所獨案内記﹄
﹃都商職街風聞﹄
常の図 書 館 資 料のほかに、特 定のテーマに沿った収
本学図書館では単行図書や継続図書といった通
集を行なっている。そのテーマとは、建学の理念にか
らびに近世の庶民に関するものなどである。本誌前
かる法 然 浄 土 教 学を中心とした仏 教 学 、京 都 学な
号 では 浄 土 宗 関 係 資 料 の中 か ら 新 収 資 料 と して
﹃ 授 菩 薩 戒 儀 ﹄が紹 介されたが、今 号では昨 年 度か
ら今年度はじめにかけて収集した京都関連の資料
五点﹃京童﹄﹃山城四季物語﹄﹃山城名勝志﹄﹃都商職
街風聞﹄﹃花洛名所獨案内記﹄
を紹介する。
本︶
である。天下の孤本というわけでもなく、また本
ここに紹介する五点の資料はいずれも版本︵印刷
学だけが所蔵しているというわけでもない。ただ近
代印刷の図書と異なり、印刷本だからといってそれ
ら諸本がすべて同一とはかぎらないのが古典籍であ
前近代の図書は、それぞれ表情を変えて出来上がっ
る。同じ版木を用いても、
一冊一冊手作りされていた
伝存および異版・同版等を含む全般の状況、諸本に
ている。紹介にあたっては、本来ならばそれら諸本の
51
24
義
陳
5
4
8
8
4 12
おける本 学 所 蔵 資 料の位 置についても記さなけれ
59
貞
胤
正
胤
6
36
25
展
胤
武
惟
10
義
秀
義
虎
良
胤
新
収
資
料
紹
介
75
義
陳
直
胤
元
義
秀
信
胤
前
川
家
恵
比
須
屋
荘
兵
衛
武
惟
2
前
川
家
義
虎
〜
義
陳
の
略
年
譜
前川・石田家略系図
10
11
『京洛三十六家 山水花鳥人物図貼交屏風』∼ 36人の絵師たちと前川家 ∼
﹃京雀﹄
知恩院
はない。著者名については本文への署名はなく、自序
末に
﹁中川喜雲撰﹂
と記されている。
物である。医業の傍ら貞門の俳諧を学び、仮名草子
著者の中川喜雲は江戸前期に京都で活動した人
作 者としても活 躍した 。日 本 古 典 籍 総 合 目 録 デー
総合目録データベース
タベースおよび NACSIS-CAT
な どによれば﹃ 京 童 ﹄明 暦 四 、﹃ 鎌 倉 物 語 ﹄万 治 二 、
寛文七、﹃女筆往来﹄︵寛文十年書籍目録等︶、﹃都案
﹃ 私 可 多 咄 ﹄万 治 二 、﹃ 案 内 者 ﹄寛 文 二 、﹃ 京 童 跡 追 ﹄
内 者 ﹄寛 文 十一、﹃ 道 中 名 所 記 ﹄︵ 天 和 元 年 書 籍 目
録︶、﹃奈良刀﹄﹃赤手拭﹄﹃道草﹄︵上記三点は紀行群
書 備 考による︶など地 誌 、年 中 行 事 、咄 本 等の分 野
波 出 身で、名は重 治 、吉 左 衛 門と通 称し、山 桜 子と
に著 作を遺している。生 没 年はわかっていないが丹
別号した。
刊 記は巻 末の序 文に続 けて
﹁明暦四戊戌年/七
月吉日/平野屋作兵衛開板﹂
と刻され、平野屋作兵
衛︵京都二条通観音町︶
から明暦四年︵一六五八︶
の
日付で刊行されている。木整版。
体裁は六巻六冊の四つ目袋綴本である。寸法は縦
部分の匡郭は四周単辺無界で毎半葉に十一行を配
横一七・三センチメートル、表紙は深縹色
二五・四 ×
で雷文地に蓮華唐草文の空押しがされている。本文
した和文である。
木屋/高山﹂︵松木屋は飛騨高山の貸本屋と思われ
来歴を示す情報としては
﹁越□﹂
ほか、﹁飛州/松
されたことがうかがえる。
なお、巻第三に
﹁十二
十
る︶
の印記、﹁松木﹂
の墨書があり、多くの人々に利用
︿書誌﹀
記しているが、巻第一の巻頭と序文中にのみ平仮名
三﹂
の飛び丁がみられる。
書 名は巻 頭 、目 録および自 序 文 中にも﹁ 京 童 ﹂と
で
﹁きやうわらべ﹂
とルビが振られている。元題簽は
考由来の。/さだかなるばかりを。記侍れば。神祭の
序題は
﹁都歳時記序﹂
といずれも入れ木で改められ
﹃山城四季物語﹄
かに八 文 字 屋 五 郎 兵 衛 、山 森 六 兵 衛が知 られてい
事は。鎮/座垂迹のたしかならぬこと。/又山城の
現在、﹃京童﹄
の版元は、本書の平野屋作兵衛のほ
る。山森版にはさらに二種を確認することができる
ほか。
いづくにも/ 有 事とをばもらし侍ぬ﹂と執 筆
残っておらず、後補題簽は無地のままである。柱には
という 。
これらはすべて刊 年 表 示を同じくするが、
編輯方針を記している。宮廷行事は他書にまかせ、
ている。本 文 部 分は柱 題﹁ 四 季 ﹂も 含 めて旧 版のま
真如堂十夜念仏
巻次のみが刻され、序文、跋文および巻尾にも書名
八文字屋版を初版に求版と部分 全
・面復刻を重ね、
最後は平野屋の手にわたり、書肆名のみ入れ木で修
民間行事のなかでも京都でのみ行われるものをとり
火の日を知らないはずはなかったろうが、本書が坂
の記載間違いもみえる。京都人の坂内が大文字送り
五日の夕如意山に火を大文字に燈事﹂
のような日付
を志 向 する面がうかがえる。その一方で七 月の
﹁十
行 事を中心に縁 起 開
・祖 伝
・ 記 等を解 説 するが、単
に行事の羅列ではなく文献をもとに考証し、学術性
れる行事は省略したという。社寺の祭礼、法会、信仰
あげ、由来や鎮座垂迹の不明なものや他所でも行わ
正印行されたものとみられている。
各巻目録
︿構成﹀
各冊冒頭に各一丁を配す
序文
初冊巻一目録の後に自序二丁を配す
跋文
末冊巻六の末尾に一丁半を配す
敲・校 正 不 足 が原 因であろ うか。坂 内 後 年の著 作
内 初 期 あるいははじめての著 作であったた めの推
﹃山州名跡志﹄巻四﹁如意嶽﹂
では
﹁於如意山毎歳七
目録見出し項数
巻一 十八、巻二 二十、巻三 十二、巻四 十四、巻
国立国会図書館所蔵の改題本を同館デジタルコレ
・
浅野弥兵衛が
﹃都歳時記﹄
と改題して刊行している。
に前 後 する享 保 六 年︵一七 二一︶
には、大 坂の書 肆
倣ったともいわれる。また後 年 、おそらく著 者 没 年
鴨 長 明 作 、現 在では別 人の作と考えられている︶
に
本 書の書 名 等は先 行の
﹃ 四 季 物 語 ﹄︵ 近 世には伝
いる。
月 十 六 日ノ暮ニ燈ヲ大 文 字ノ形ニ點ス﹂と 記 して
五 十、巻六 十三、計八十七
各冊最終丁付
巻一 卅七、巻二 卅一、巻三 廿一、巻四 廿二、巻
五 十九、巻六 廿五
目録序跋を分けず各冊と
挿絵数
も
﹁一﹂
から通番を振る
巻一 二十、巻二 二十一、巻三 十三、巻四 十四、
巻五 十、
巻六 十三、
計九十一
︵オモテ ウ・ラ別計︶
クション画像でみると、題簽書名には
﹁繪入﹂
の角書
ま、序文も旧版の延宝二年のものがそのまま使われ
が冠せられ、首尾題は
﹁都歳時記﹂﹁宮古歳時記﹂
に、
給ふ。公事のおこりは。/公事根源。年中行事のふみ
京都の年中行事書で、自序に
﹁大内におこなはせ
ているように見える。
﹃山城四季物語﹄
仏の御 事なり。/さらに僕がおろかなる心をもて。
にくはしければ/もらしぬ。たゞ地下にとり行。神
しるすにはあらず。/其所々の。縁起并傳記舊記を
12
13
はおおむねそれまでには成立していたと思われる。
体裁はもと六巻六冊であったものが全巻一冊に合
︿書誌﹀
書名は題簽、巻頭、巻尾、目録、自序題には
﹁山城
×
︵十八︶、巻五 九月 十
・月︵十八︶、巻六 十一月 十
・
二月︵十三︶
挿絵数
巻一 八、巻二 九、巻三 十、巻四 八、巻五 六、巻
六 三 丁オモテ ウ・ラ別計四十八
跋文
横一八・二センチメートル、表紙の表にくたびれが見
られる。題簽の周囲は摩耗がすすんでいるものの四
本された五つ目袋綴本である。寸法は縦二六・八
周双辺の元題簽が残り、書名ははっきりと確認でき
四 季 物 語 ﹂と記され、柱と跋 題には﹁ 四 季 ﹂﹁ 四 季 物
名はなく、自序の署名は
﹁坂内氏山雲子﹂、風鈴軒友
末尾に一丁を配す
語﹂
と略記されている。著者名については本文への署
松處士の跋文中には
﹁山雲子直頼﹂
と記されている。
る。本文部分の匡郭は四周単辺無界で毎半葉十一行
る。直頼の著作には日本古典籍総合目録データベー
二種の印記がみられ、後者は文芸雑誌﹃武蔵野﹄︵半
伝来を知る情報としては
﹁山田藏書﹂﹁兎角菴﹂
の
の飛び丁、巻第一に
﹁又十四﹂、巻第三に
﹁又十﹂
の又
部、宇治郡部、久世郡部、綴喜郡部、相樂郡部、郡未
り、洛陽部、乙訓郡部、葛野郡部、愛宕郡部、紀伊郡
目 、﹁ 平 安 城 記 ﹂を 冠 する 。本 文 は 宮 城 部にはじ ま
︵京都府南部︶
の地誌で、巻一には序、總目録、引用書
巻第一の目録に
﹁一二﹂、本文冒頭に
﹁三四﹂﹁五六﹂
を配した和文である。
著 者の坂 内 直 頼は京 都の国 学 者で、確かな生 没
年はわからないが、正保元年︵一六四四︶ごろに生ま
総合目録データベースなどに
スおよび NACSIS-CAT
よれば
﹃伊勢物語抄﹄年不明、﹃山城四季物語﹄延宝
井桃水主宰、明治二十五年三月創刊、樋口一葉らが
勘 部と中 心 部から周 辺 部に向かって筆を進 めてい
れ、正 徳 元 年︵一七一一︶ごろ没したと考えられてい
二 、﹃ 書 札 初 心 抄 ﹄天 和 二 、﹃ 歌 仙 金 玉 抄 ﹄天 和 三 、
参加︶
の同人・小田果園の蔵書印であり、旧蔵の来歴
﹃山城名勝志﹄﹃山城名勝志圖﹄
﹃和歌詞林抄﹄天和三成立、﹃軽口大わらひ﹄延宝八、
をうかがうことができる。
﹃ 山 城 名 勝 志 ﹄︵ 以 下﹃ 名 勝 志 ﹄という ︶は山 城 国
﹃本朝諸社一覧﹄貞享二、﹃説法用歌集諺註﹄元禄四、
丁がみられる。
﹃善光寺縁起﹄元禄五、﹃九想詩諺解﹄元禄七、﹃有職
の文にまかせ/て書載﹂
せ、﹁近代の人の説を引用る
る。凡例によれば
﹁此編は山城國の名所古跡を舊記
︿構成﹀
には或 云と書 す其 所 /の人の説を用るには土 人 言
袖 中 鈔 ﹄元 禄一一、﹃ 山 州 名 跡 志 ﹄正 徳 元 、﹃ 都 歳 時
記﹄享保六、﹃唯信鈔註解﹄︵享保書籍目録︶、﹃大和
序文
舊 記 御 文に混 ﹂ぜないように区 別している。また自
と書す愚按の詞は/今案︵按︶
と書す且皆細書して
詞秘注﹄元文三、﹃日本風土記﹄享和三︵年記は成立
口絵
冒頭に三丁を配す
︵山雲子︶
名所/たつねてあかすたつぬるよりしてきゝきく/
年中行事、有職故実といった広範な分野での著作活
または刊 年 ︶があり、和 漢 文 学の注 釈 、仏 教 、地 誌 、
春・夏・秋・冬四画︵オモテ ウ・ラ別︶
目録
よりしてあゆみをなすあゆみをなすより/してさ
跋に
﹁弱年/のむかしより今六十にすくるまて古跡
山雲子・如是相、法号は白慧、また葉山之隠士とも
各巻冒頭に各一丁を配す
動と活動年代をみることができる。字は雪庭、号は
称した。
正 月 六 、二 月 五 、三 月 六 、四 月 十 、五 月 四 、
文献調査を行なってなしえた解説だという。取上げ
十歳を過ぎるまで山城国の名所旧跡を歩きまわり、
しかく才ともし・・・﹂
とあり、著者は若いころから六
かひをしるし留ところをあらは/さんとするに筆み
六 月 三 、七 月 七 、八 月 四 、九 月 七 、十 月 三 、
目録見出し項数
/書林/本間長兵衛/大角八郎兵衛/開板﹂
と刻
十一月 三、
十二月 追加含む二、
計六十
刊 記は巻 末 尾 題のすぐ後に
﹁ 延 寳 甲 寅 九 月 吉日
行されている。冒頭の自序年記は同年衣更着︵二月︶
各巻内容配当および最終丁付
巻一 正月 二
・月︵五 二
・十︶、巻二 三月 四
・月︵[十
九 ]︶、巻 三 五 月 六
・ 月︵ 十 四 ︶、巻 四 七 月 八
・月
上におよぶ。本文に先立ちまだ益軒を名乗る前、損
られた寺社 名所旧跡は二千七百箇所余、掲出され
・
た引用書目は
﹃舊事本紀﹄
をはじめとして七百点以
され、京都二書肆の合版で延宝二年︵一六七四︶
に刊
のはじめ、末尾の俳友 風鈴軒友松處士の跋文年記
・
は同年弥生中の十日︵三月二十日︶
となっており、刊
行日より半 年ほど前に書かれていることから本 文
武好輯編﹂
と記され、
村田通信の序文中には
﹁左馬少
一、十三∼二十一巻頭下部に
﹁散位正六位上源朝臣
志﹂
、
柱は
﹁山州名勝志﹂
と記されている。
著者名は巻
︿書誌﹀
巻次が付されていないが、本体に対応する山城國總
附図の
﹃山城名勝志圖﹄︵以下﹃志圖﹄
という︶
には
允源武好﹂、貝原篤信の序文中には
﹁大島武好﹂
と記
軒貝原篤信書するところの
﹁平安城記﹂が付されて
圖、大内之圖、八省院・豐樂院圖、東西兩京圖、乙訓
されている。
末冊末尾の自跋に署名はないが、
文中に
書 名 は 題 簽・巻 頭・巻 尾・目 録・序 は﹁ 山 城 名 勝
郡圖、葛野郡圖、愛宕郡圖、紀伊郡圖、宇治郡圖、久
﹁武好﹂
と小書きして自著であることを示している。
いる。
世 郡 圖 、綴 喜 郡 圖 、相 樂 郡 圖の地 図 十 二 鋪 を 収 め
ば通称を求馬といい、若年より官家に奉仕し宝永七
編 者の大 島 武 好は、﹃ 新 修 京 都 叢 書 ﹄解 題によれ
年︵一七一〇︶七十歳で没している。貝原篤信は宝永
目録に
﹁○○ノ圖別ニ附ス﹂
と記している。八郡部は
同 名で対 応 するが、宮 城 部 および洛 陽 部には山 城
武好と親交のあったことを記し、﹁・・・武好姓源往歳
國 總 圖 、大 内 之 圖 、八 省 院・豐 樂 院 圖 、東 西 兩 京 圖
前掲の
﹃山城四季物語﹄
の著者坂内直頼が元禄十
/ 甲 申 季 冬 念 六日 任 左 馬 少 允 益 因 / 自 古 代 嘗 有
二 年 筑 前から寄せる序 文で、自 身の京 都 遊 学 中に
五年に白慧の法号で著した地誌﹃山州名跡志﹄
が奇
預于
公職也観其所/著之山城名勝志其為書
その序で
﹁左馬少允源武好博覧和記廣知故実﹂
と記
也・・・﹂
とその功績をたたえている。村田通信もまた
し、博覧強記の知識人と評している。公家に出入り
範 囲 も﹃ 名 勝 志 ﹄とほ ぼ 同 じ く山 城 八 郡と 洛 陽 部
わたって解説されているが、八郡部をさきに配して
書肆の共板で刊行されている。木整版。洛陽とは、中
兵衞/藏版﹂
と刻され、正徳元年︵一七一一︶、九名の
川三郎兵衞/北村四郎兵衞/林正五郎/新井彌
/梅村彌右衞門/田中庄兵衞/西川丹五郎/古
洛陽 宣風坊書林/兒玉九郎右衞門/井上忠兵衞
刊 記は末 冊 後 見 返しに
﹁ 正 徳 元 秊 卯 年 初 秋日 /
過言でないようなものであったからかもしれない。
その考証にも長い時間のかかる一大事業といっても
理由は、本書の編纂が膨大な調査を要するもので、
総合目録データベースな
ベースおよび NACSIS-CAT
どでは
﹃名勝志﹄以外の著作は確認できないが、その
いたことがうかがえる。
日本古典籍総合目録データ
することで、武好は多くの書物に接する機会を得て
﹃山城名勝志﹄
いる。
︵殿舎ノ部、大内裏之部、寺院、神社︶が二十二巻に
しくも同正徳元年に公刊されている。
こちらの収録
が対応している。
る。またこれら附図のあることは本体の
﹃名勝志﹄総
﹃山城名勝志圖 ﹄
山城國總圖
14
15
書林はいずれもその区域に店を構え、その多くが寺
四条大路と五条大路に囲まれた地域である。右記の
区画のひとつの名で、朱雀大路を中心にした左京の
はこれまた 中 国の都 城 制にならった 平 安 京の条 坊
退にともない京全体をさす異称となった。宣風坊と
で、東の京すなわち左京のことであったが、右京の衰
国の東 都の呼 称に倣って平 安 京でも使われた 呼 称
下 冊の先 頭に綴じられるべき初 丁が綴じられてい
の初 丁が、巻 十一上 、十 二 上の最 終 丁にはそれぞれ
にそれぞれ次 冊の先 頭に綴じられるべき各 巻 目 録
七の第七十丁には乱丁がみられ、巻八∼十の最終丁
同一丁が重複している。巻十五の第三十六丁と巻十
が欠落し、巻十七の第十三丁は八重落ではないが、
付はともに
﹁三﹂
で重複している。巻七の第四十一丁
の又 丁があり、巻 五の目 録 最 終 丁と本 文 初 丁の丁
ている。巻一に
﹁一ノ四﹂
の飛び丁、巻十四に
﹁又十五﹂
四
︵洛陽部五︶巻四目録一∼二 本文三∼六十二、
四十一、
三下
︵洛陽部四︶巻三本文四十二∼八十、
十一、三上︵洛陽部三︶巻三目録一∼三 本文四∼
∼三十三、
二下
︵洛陽部二︶巻二本文三十四∼六
三十六、二上︵洛陽部一︶巻二目録一∼二 本文三
∼二十六終
巻一
︵宮城部︶目録一∼二 本文三∼
平安城記七∼十二
[総]
目録・凡例・引用書目十三
一 村田序一∼三 貝原序一ノ四、五∼六︵飛丁有︶
各冊内容配当および丁付
町五条あたりに集中し、合版には好都合であったと
上︵乙訓郡部一︶ 巻六目録一∼二 本文三∼四十
には、都の地誌という内容
思われる。﹁洛陽 宣風坊﹂
三、
六下
︵乙訓郡部二︶巻六本文四十四∼六十二、
二、
五下
︵洛陽部七︶巻五本文三十三∼六十八、
六
来 歴を示 す情 報としては、﹃ 名 勝 志 ﹄
の初 冊 表 紙
七︵葛野郡部一︶ 巻七目録一∼二 本文三∼五十
五上︵洛陽部六︶巻五目録一∼三 本文三∼三十
二年三月三日︶、貝原篤信の序文日付も﹁寶永乙酉
あり、初 冊 冒 頭に
﹁ 書 林 / 丸 米 ﹂、各 冊 初 丁に
﹁廣中
に
﹁仁百卅九番/全三十册﹂
と墨書された蔵書票が
本文三∼三十五、
八下
︵葛野郡部三︶巻八本文三
︵第四十一欠︶
、
八上
︵葛野郡部二︶巻八目録一∼二
題字にも匡郭はない。
春 分日 ﹂となっており、序 文 成 立から六 年 余を経て
氏 所 / 紅 梅 書 屋 / 藏 之 印 章 ﹂﹁ 神 谷 蔵 書 ﹂、各 冊 最
る。﹃志圖﹄
は十二図とも無匡郭の墨摺地図で、内題
の公刊となったことがうかがえる。
﹂
終 丁に
﹁竹
の印 記がある。﹃ 志 圖 ﹄
の各 表 紙には
十六∼六十七
巻九目録一、九上︵葛野郡部四︶
に相 応 するような出 版 地の表 現をみることができ
付きの畳物である。﹃名勝志﹄
の寸法は概ね縦二六・
体裁は、﹃名勝志﹄
は四つ目袋綴本、﹃志圖﹄
は表紙
﹁行﹂
の墨 書 貼 紙が、初 図︵ 總 圖 ︶表 紙にはさらに墨
る。村田通信の序文日付は
﹁寶永乙酉上己日﹂︵宝永
横一八・七センチメートル、地 図を折り畳んだ
×
巻九本文三十六∼八十一 巻十目録一、十︵葛野
九下
︵葛野郡部五︶
巻九目録二 本文三∼三十五、
二
山城八郡/合計 拾弐枚 全部﹂
の中に朱書﹁行印/
︿構成﹀
六十五、十二上︵愛宕郡部三︶巻十二目録一∼二
三十六、
十一下
︵愛宕郡部二︶巻十一本文三十七∼
録一、
十一上
︵愛宕郡部一︶巻十一目録二 本文三∼
巻十一目
郡部六︶巻十目録二 本文三∼四十四
地誌
﹃名勝志﹄
二十一巻三十冊に地図
﹃志圖﹄
十二
本文三∼二十九、
十二下
︵愛宕郡部四︶巻十二本
十三本文四十一∼七十九、十四︵愛宕郡部七︶巻
十三下
︵愛宕郡部六︶巻
録一∼二 本文三∼四十、
文三十∼五十六、
十三上
︵愛宕郡部五︶巻十三目
﹃名勝志﹄
巻一冒頭に村田通信、
貝原篤信を配す
十四目録一∼二 本文三∼六十二︵又丁有︶、十五
有︶
、
十八
︵久世郡部︶巻十八目録一∼二 本文三∼
七目録一∼二 本文三∼八十四
︵乱丁および重複紙
玩 具や美 術 品としての人 形ではないことがうかが
﹁銅人形師﹂
は
﹁に﹂
ではなく
﹁と﹂
の項に入っている。
細工﹂﹁人形師﹂
は
﹁に﹂
の項に入っているのであるが、
師﹂
という職業が成り立つまでになったようである。
本文三∼八十四
︵又丁有︶
、
十七
︵宇治郡部︶巻十
二︵乱丁有︶、十六︵紀伊郡部︶巻十六目録一∼二
︵愛宕郡部八︶巻十五目録一∼三 本文四∼八十
﹁平安城記﹂︵貝原篤信著︶
六十三、
十九
︵綴喜郡部︶巻十九目録一 本文二∼
え、別の範疇にいれられることを示している。銅人形
﹁平安城記﹂
につづいて二丁、
一丁、
十一丁を配す
総目録・凡例・引用書目
序文に続いて配す
序文
鋪を附図とする。
合本十五册也﹂
の交じる貼紙がある。
書﹁總圖。大内之圖。八省院 豊楽院/東西兩京圖。
五八・七、大内之
×
横一五・九センチ
﹃志圖﹄
の表紙は概ね縦二〇・〇 ×
メートル
︵以下単位同じ︶、各図の寸法は以下のとお
りである。山城國總圖 四五・八
圖 三一・三 四六・二、八省院・豐樂院圖 五九・〇
×
四 六・五 、東 西 兩 京 圖 五 八・五 ×
七 〇・九 、乙 訓
×
郡 圖 三一・三 ×
四 三・二 、葛 野 郡 圖 三 〇・九 ×
六
九・〇、愛宕郡圖 三〇・八 七八・六、紀伊郡圖 四
×
六・五 ×
四七・三、宇治郡圖 三一・四 ×
横六三・〇、
四 七・〇 、綴 喜 郡 圖 四 六・二
久 世 郡 圖 三 〇・五 ×
五九・二、相樂郡圖 三〇・九 ×
七〇・三。本志、附
×
図とも縹 色 表 紙に四 周 双 辺の元 題 簽が残り、書 名
の下 部に収 録 郡 部 名 または図 名 、﹃ 名 勝 志 ﹄
ではさ
らに冊次序次が刻される。﹃名勝志﹄
の本文部分の匡
六十三、
二十
︵相樂郡部︶巻二十目録一 本文二∼
もので、人体内部の血管や内臓の様子が見えるよう
とは銅 製の医 学 用 解 剖 人 形 、人 体 型 張 子のよ うな
郭は四周単辺無界で毎半葉十一行︵注双行︶
を配し
三十四、
二十一
︵郡未勘部︶巻二十一目録一∼二 本
るという。日 本へも輸 入され、我が国でも東 洋 医 学
や鍼灸を学ぶために作られたことに、その歴史を遡
に作 られている。銅 人 形は中 国 宋 代の医 学で、経 絡
文三∼二十五 跋文一∼二 見返し刊記三大尾
みやこあきないち ま たのふ う ぶ ん
﹃都商職街風聞﹄
レイアウトでは
﹁薬﹂
の項に特徴がみられる。
ここで
学 も 学 ばれるよ うになった 江 戸 後 期には﹁ 銅 人 形
列挙している。排列はいろは順とその最後に
﹁京﹂
を
を学ぶために製作されるようになり、
やがて西洋医
加 えた 見 出 し字のもとに行 われるが、﹁ お ﹂
の項 が
は薬品名が冒頭に出されており、紙幅の割き方も群
いうべきもので、各種職業の店や職人の住所と名を
﹁を﹂﹁お﹂
字位置の二か所に分散している。
序に
﹁けに
うことができる。
をぬいており、京土産としての需要の高さをうかが
江戸期文久年間における京都市中の職業名鑑と
やみやこ繁 昌に/工 商その業を我 逸と/はけむそ
﹃都商職街風聞﹄
の中に人の/口もて言はやすを/ひろひ集めて遠國
/よりうゐ登りの君 子もの/ 求め玉ふ便とすれは
洩た/こともさはなるへしと尓 云 ﹂と記されている
とおり、諸国から訪れる人々の買い物などの便とし
て、袂や懐に入れられるくらいの小さな作りになっ
ている。巻末の板元﹁御断書﹂
に
﹁一 次第ふ同之義御
免可被下候/一 市中多分之義ニ付若相洩候/御方
様且は間違等在之候はゝ/板元へ御しらせ可被下
候﹂
とある。
同種の職に多数の店や職人がいるようで
あれば、
割愛した部分もあったものと思われる。
本 書の見 出しをたどると古 都ならではの店やめ
ずらしい職業名であふれている。最後に立項された
﹁京﹂
には京都三職﹁御冠師﹂﹁烏帽子折﹂﹁御末広師﹂
業である。
一方で
﹁と﹂
の見出しには、﹁銅人形師﹂
とい
が挙げられている。内裏をかかえる京ならではの職
うものがある。﹁人形﹂
のつく
﹁人形問屋﹂﹁生人形糸
16
17
︿書誌﹀
最終丁ウラ
﹁御断書﹂
の後に配す
しい時 代に後 押しされた 京 都 再 興の気 運が伝わっ
ち 十一、
り 五、
ぬ 六、
お
︵本来は
﹁を﹂
のところ︶
い 十二、
は 十九、
に 十、ほ 五、
へ 九、
と 十二、
場する名所、施設等である。見出し項数としては依
中、次に目に入るのは明治時代になってはじめて登
に配され、以 下 新 京 極 、御 所と続く。見 出しを追 う
大橋が半丁全面ちかくをしめる挿絵とともに最初
てくる。本文では目録の道法起点となっている三条
商 職 ちまたの風 聞 ﹂︵﹁ 花 洛 商 職 ﹂は角 書 ︶と直 刷り
二、
わ 五、
か 二十九、
よ 二、
た 十、
そ 四、
つ 四、
目録見出し項数
し 、目 録 お よ び 巻 頭には﹁ 都 商 職 街 風 聞 ﹂と 記 す。
ね 一、
な 一、
ら 三、
む 二、
う 四、
の 四、
お 一、
く
書名は表紙左肩に題簽風の双辺郭を伴って
﹁花洛
柱、巻尾、序には記していない。編者名については本
然として全 体の八 割を超えている近 世 以 前からの
文への署 名 はな く 、冒 頭 見 返 しに配 される 序 文に
四、
や 十一、
ま 五、
け 五、
ふ 十九、
こ 十三、
て
﹁練要堂主人識﹂
と記すのみである。
密局﹂﹁織工塲﹂﹁勸業塲﹂﹁中学校﹂﹁ステーション
︵停
寺社仏閣に、建勲神社など明治期に創建 再
・興され
た 寺 社が加 えられ、さらに
﹁ 山 嵜ステイション﹂﹁ 舎
一、計三百十三となり、﹁ろ﹂﹁る﹂﹁れ﹂﹁ゐ﹂﹁え﹂
は
五、あ 十、さ 六、き 十二、ゆ 六、め 二、
み 五、
し 十五、
ゑ 四、
ひ 七、
も 五、
せ 五、
す 十二、
京
項立てせず
書 林 / 車 屋 町 夷 川 上ル町 / 橋 本 太 右 衞 門 / 二 條
通高倉東/林芳兵衞/二條通高倉西入/田中屋
刊 記は最 終 丁ウラに
﹁文久四年甲子初春/京都
專 助 ﹂と刻され、田 中 屋 専 助 名には﹁ 皇 都 二 條 通 /
目録 一∼六、本文 一∼六十六︵末尾の御断書お
﹃花洛名所獨案内記﹄
七 〇 ︶年に開 設され、多 くの事 業 振 興が図 られた 。
た大阪舎密局の教頭を務めたハラタマ K.W.Gratama
の薫陶を受けた明石博高の建議によって翌三︵一八
代理化学の府として明治二︵一八六九︶年開設され
究の主たる目的であった。京都舎密局は開化後に近
ける chemistry
︵↓セイミ︶研究教育機関で、幕末諸
藩では軍 事 技 術 向 上が、明 治 期には殖 産 振 興が研
など近代ならではの目新しい名が登
車塲 京
・都駅︶﹂
場 する。舎 密︵セイミ︶局とは幕 末から維 新 期にお
よび刊記を含む︶
丁付
ず︶
の蔵 版 印が添えられている。冒 頭の自 序には年
轉堂藏□﹂︵最終字印影薄く読取れ
高倉西嶋林/
記がなく、文 久 四 年 一(八 六 四 に)京 都の書 肆 、橋 本
本 書は明 治 二 十 四 年の、川 勝 徳 次 郎による再 版
同八︵一八七五︶年には官立の京都司薬場が併置さ
ひと り
本であるが、その奥 付によれば初 版は明 治 十 三 年
れ、本書に
﹁上京區卅一組夷川土手甼ニあり諸藥品
太右衞門 林
・ 芳兵衞 田
・ 中屋專助の三名によって出
版されている。木整版。
横一五・九センチメートル、表 紙は、表に三
×
条 大 橋を渡る大 名 行 列 、裏には流 水 上に舞 う千 鳥
す場合に京都の入口三条大橋を起点とする点や名
︵一八八〇︶七月に出版されている。京都で道法を記
﹁五十一﹂
は同じ紙が二枚ずつあり、重複している。
まれており、新しい価値観にもとづいた文章に特徴
明 開 化によって新しくできた建 物や組 織が多く含
の名所案内記を踏襲するものではあるが、明治の文
所の大半が寺社仏閣であることなど、江戸時代から
傾向は新しい建造物に共通しており、
とくに最後の
ろに近代の美意識をみることができる。
このような
築、建造物が新しい名所として認識されていくとこ
製造や検査が行われた。文章表現においても近代建
皆西洋造ニして尤も美觀なり﹂
とあるように、薬品
製 造 及 藥 業 取 締の局なり 門 前に分 局 左 右ニあり
七・三
体裁は三つ目袋綴の横長懐中本である。寸法は縦
る。匡郭は四周単辺、本文部の丁付﹁二﹂﹁三﹂﹁五十﹂
の姿を描いた色刷りで、
一見縮緬本の表紙を思わせ
伝来を示す情報としては
﹁松井/藏書﹂﹁碧雲齋﹂
をみることができる。本 書の見 出しの一番に挙 げら
挿絵として選ばれた旭光に輝く四条大橋では
﹁都て
の蔵書印記がみられる。
︿構成﹀
興 政 策として槇 村 正 直 京 都 府 参 事 等の計 画によっ
鉄造ニして橋上ニ八本の紅白硝子燈を立殊ニ壮麗
れているのは
﹁新京極﹂
である。東京遷都後の京都振
て再開発された特記すべき場所とはいえ、歓楽街が
序文
前見返しに配す
︵練要堂主人識︶
目録
なり﹂と称 賛し、袋の表 紙にもその光 景が使われて
二・七センチメートルと極小懐中本である。紫色地
いる。本書の挿絵は豊臣秀吉の命によって架けられ
現 在も擬 宝 珠や橋 脚の一部にその跡を残 す伝 統 的
に小丸と小四角の文様を空押し艶出しした色鮮や
内 裏よりさきに配されるというのは江 戸 時 代まで
な建造物である三条大橋にはじまり、硝子燈を立て
かな表紙を使用し、題簽の印字には赤インクが使わ
ならばおそらく考えられなかったことであろう。新
た鉄 造りの近 代 建 造 物となった四 条 大 橋を配して
れている。本文部の匡郭は四周単辺、再版本では第
刊記
冒頭に六丁を配す
締めくくり、近世から近代への移ろいを暗示してい
四十一から第四十四丁が欠落しているが、初版には
冒頭に
﹁三條大橋ヨリ諸方道法附﹂
として二段組
目録
︿構成﹀
示すものはみられない。
存 在していたのか不 明 。蔵 版 印や藏 書 票 等 来 歴を
るようにもみえる。
書 名は表 紙 左 側の花 枠 題 簽と前 見 返し、袋 中 央に
︿書誌﹀
﹁花洛名所獨案内記﹂
と刷られ、本文の巻頭、柱、巻
尾には記されていない。
﹃花洛名所獨案内記﹄
みの見出しの下に道法 距(離 を)記す
目録見出し項数
﹁新京極﹂より﹁ステーショーン﹂まで百六を数え
本文見出し項数
る
︵起点の三条大橋は含まず︶
刊記
三条大橋から六波羅密寺まで百十七を数える
後見返しに奥付を配す
目録 一∼二、本文 一∼四十、ただし第二十八丁
丁付
町 通 綾 小 路 下ル中ノ町 / 著 作 印 刷 兼 発 行 者 川 勝
著作者名については後見返しに
﹁京都市下京区寺
は表 裏﹁ 自 廿 八 / 至 三 十 ﹂
の頁 付 、四 十一∼ 四 十
と刻されている。川勝徳次
十一月 再版﹂﹁鴻宝堂藏﹂
る。
これらは郷 土 資 料であると同 時に、京 都に立 脚
にも 、お びた だ しい数の出 版 物 を 見ること ができ
江戸時代、明治時代の京都資料としてはこのほか
おわりに
四欠、時刻表 四十五∼四十六
徳次郎﹂
、
袋の書名脇には
﹁川勝徳次郎編輯﹂
と記す。
刊記は後見返しに
﹁明治十三年七月 出版御届/
同年同月 彫成發兌/明治廿四年十一月 再版﹂
と刻
郎は本書奥付刊記に示されるとおり京都の書肆で、
する本 学にとって来し方 行 く末を考 えるに重 要な
され、袋には﹁ 明 治 十 三 年 七 月 出 版 ﹂﹁ 明 治 廿 四 年
堂号を鴻宝堂という。元禄半ば過ぎにはすでに出版
資料でもあることを知り、そのなかに多くのことを
学ばなければならないと考える。
活 動を行なっていたことが知 られるが、明 治になっ
横一
×
てからは銅版も多く手掛けている。
本書も銅版。
体裁は三つ目袋綴の横長、寸法は縦五・三
18
19
鵜 飼 先 生は、学 部 生 時 代はどのような
けが入口に壊れかけた錠がかかっている
買った諸橋轍次先生の
﹃大漢和辞典﹄だ
中 国 仏 教 界の中 心 人 物の一人であった
の後 、謝 霊 運 と 同 時 代の高 僧で当 時の
では 思 想 史へ研 究 領 域 を 広 げ 、また そ
野 も 学 びたいという 思いか ら 、大 学 院
中国古典・思想史の世界を訪ねて
生活を送られたのですか?
よ うな古い部 屋の中で燦 然と輝いてい
ありましたので 、魏 晋 南 北 朝 時 代 を 代
きっかけを教えてください。
想 史 で す が 、そ の 研 究 を 始 め ら れ た
現在の研究分野は魏晋南北朝時代の思
学 部では中 国 文 学 、そして大 学 院では
中心に研究するようになりました。
慧 遠の研 究 も始 め、中 国 古 代の思 想を
る、
そんな学生時代でした。
学部生時代は文学部で中国文学を専
表する詩人で田園詩人と呼ばれた陶淵
攻しました 。最 初は古 典 文 学に興 味が
明や、山水詩の祖とされる謝霊運など、
という 人 は 、南 朝 宋の有 名 な 詩 人で 、
学 部 生 時 代 に 研 究 していた 謝 霊 運
俊 映 先 生 、藤 堂 恭 俊 先 生 、水 谷 幸 正 先
その当 時の本 学の大 学 院には 、坪 井
仏教学を専攻されたわけですね。
用しましたね。授業がある日だけでなく
て勉 強 していました 。図 書 館 もよ く 利
貴 族 出 身で身 分 も高 く 、山 水の遊 びを
多 くの有 名な詩 文を残した 作 家につい
休みの日 も 午 後 から 出 かけていって夜
たので、私も先生方から非常に多くのこ
生、髙橋弘次先生 、 先生をはじ
とを学ばせていただきました。
よ く し た 人で す が 、仏 教 を 信 仰 し 、当
に も 携 わった り していま し た 。聡 明で
また 、大 阪 大 学 名 誉 教 授で中 国 思 想
遅くまでいることが多かったように思い
多 方 面の才 能に恵 まれた 天 才ですが、
名な先 生 方が教 鞭を執っておられまし
詩人や文学者としてだけでなく仏教に
史がご専門だった森三樹三郎先生が大
め 、浄 土 学 や 仏 教 学の研 究に関 する著
も造詣が深い人物であったので、
この分
り 改 めて刊 行 されました 。講 演 も 非 常
時の仏 教 者 を 非 常に尊 敬 したり、サン
間 書 物の細かい字を追い続 けていると
阪 大 学の退 官 を 機に本 学に赴 任 され、
に巧みな先生で、
お亡くなりになられて
ス クリット を 理 解 して 、涅 槃 経の翻 訳
目が痛くなることもよくありました。自
主に大 学 院において後 進の指 導をされ
からも残された 講 演 原 稿によってたく
明は明るくありませんでしたから、長時
転 車で通 学できるところにアパー トを
ていた時代でもあり、私も指導を受ける
さんの本が出版されています。
ます。ただ、最近の図書館ほど館内の照
借 りて 、漢 籍 を 読 むた めに無 理 をして
ため先 生の演 習を受 講し、輪 読 会など
史書﹃資治通鑑﹄
や当時の仏教に関する
た 。森 先 生は宋の司 馬 光の編 年 体の歴
かなか大変なことですね。
献を正確に理解する﹂ということは、
な
森 先 生からご指 導を受けたという﹁ 文
にも積 極 的に参 加させていただきまし
論文を集めた﹃弘明集﹄を演習のテキス
トとして継 続 的に使 用 され、正 規の授
を鋳 型にはめてはならないと考 えられ
に関する
﹃六朝士大夫の精神﹄も先生の
名著です。また、魏晋南北朝期の精神史
だただ敬服するばかりでした。どこの国
です が 、森 先 生の卓 越 した 読 解にはた
輪 読 会 形 式で読 んでいた だいていたの
宋の朱子が著した﹃論語﹄
の注釈書を
鵜飼 光昌
文学部中国学科教授
ということは確かに大変なことです。森
漢文の場合は漢字を日本語と共有し
先生はとにかくテキストの読みについて
業以外にも有志のために
﹃論語﹄
の輪読
先生でした。﹁文献を正確に読むことが
は厳 密でしたが、たとえば﹁こう考えた
解はできても、すべてを正確に理解する
研究の出発点﹂
というのが先生の基本的
ていますから、ある程度のところまで理
な考え方で、研究者として今の私がある
ら ど うか、
こんなふうに考 えるべき だ ﹂
会などを開催していただいたのですが、
のも、先生と出会い、多くの指導を受け
といった 研 究の方 向に関 する教 えは受
テキストの読みについては非常に厳密な
ることができたからこそです。
森三樹三郎先生の著書で思い出深いも
たのでしょう 。今は、そのことをむしろ
けたことがありません。若い柔らかい心
のはありますか?
﹃論語﹄
の輪読会を通して学ばれたこと
有難いと思っています。
明社、レグルス文庫︶
は中国学科のテキ
はありますか?
森先生の
﹃中国思想史﹄上・下︵第三文
ストとしても使用されていました。仏教
代 表 作の一つです。教 鞭を執 られていた
の古 典 も そ う だ ろ う と 思 うのです が 、
を中 国 文 化との連 関のもとでとらえた
年に同 朋 舎 出 版 よ
大阪大学の
﹃文学部紀要﹄
に発表された
ものですが、昭 和
61
20
21
I n t e r v i e w
見方、考え方、感じ方というものは年齢
先生は中国の人たちと同じように中国
語 順で訓 読 する方 法とは異 なり、倉 石
語﹄
には詳しく記されています。
また、桑
解 釈 が あると 、吉 川 幸 次 郎 先 生の﹃ 論
︵為政︶
という言葉にはおよそ三通りの
く、父母は唯だ其の疾まいを之れ憂う﹂
こ うれ
や人生経験とともに変化していきます。
古典を現代音で読んで頭から理解する
原武夫先生の
﹃論語﹄︵中国詩文選 筑
そ
や
若いと きに引 きつけ られるものもあれ
生には中国留学から帰国されるときに
ということをされた研究者です。倉石先
た
ば、年齢を重ねることで見えてくるもの
ふ ぼ もありま すね 。私は学 部 1 年 生のと き
年︶
にも、﹁ 其 ﹂という指
京語に基づく現代中国語の辞典を出さ
名 な 言 葉 がありま すが、わが国 初の北
の後 漢の頃に始 まった 注 釈 作 業 ︶
では、
ると示されています。古注︵
示代名詞のとり方によって三つの解があ
摩 書 房・昭 和
繁 夫 先 生の研 究 室を訪ねて、﹁ どういっ
れた方でもあり、旧来の訓読法を用いな
﹁玄界灘に訓読を捨ててきた﹂
という有
た本を読んだらいいですか?﹂
とお聞き
﹁父母をして唯だ其の
︵子供の︶疾いをの
世紀
したことがあります。
そのときまず最初
い革 新 的 な 教 育 をされた 先 生です。倉
お父さんお母さんに心 配をかけるなと
世紀の宋の時代の朱
語りかけるように書いておられるので、
2
いう解釈。朱注︵
1
古 代 中 国の文 語 体の難しい文 章という
∼
に読むように勧められたのが吉 川 幸 次
れぬ場合もあるが、それ以外のことでは
み之れ憂えしむ﹂
と読み、病気は避けら
ほどこ なか
152・昭和
年︶
は、
やさしいことばで
に六 朝の文 学を専 門とされていた森 野
4
石 先 生 の﹃ 口 語 訳 論 語 ﹄
︵筑摩叢書
49
朝
∼
おのれ ほっ
年︶だったのですが、
郎先生の
﹃論語﹄︵中国古典選
ひと ンスの文 学や思 想を専 攻しておられた
ある﹂と述べています。桑 原 先 生はフラ
符 号や送り仮 名などをつけて日 本 語の
年︶をテキストに使用しました。漢文を
の
﹃中国古典講話﹄︵大修館書店・昭和
スクーリング授 業で 、倉 石 武 四 郎 先 生
たとえば、私は今 年の通 信 教 育 課 程の
よって印 象はだいぶん変わってきます。
同 じ﹃ 論 語 ﹄でも 注 釈 や 日 本 語 訳に
にくいという印象があるのでしょうね。
若い時 代にはとくに﹃ 論 語 ﹄は取っつき
まった記憶がありますね。
難 しいという 印 象の方 が強 く残ってし
部の1年生ということもあり、﹃論語﹄
は
動を受けることはありましたが、
まだ学
な初めて出会う孔子の言葉に新鮮な感
せざる所は人に施す勿れ﹂
といったよう
ところ 才 だったその当 時は、たとえば﹁ 己の欲
日新聞社・昭和
3
先 生ですから 、西 洋の古 典と 中 国の古
書かれていますから、﹃論語﹄
を初めて学
のかといったことも非常にわかりやすく
のお 弟 子さんた ちの関 係がどう だった
イメージが取り払われますし、孔子とそ
らに江 戸 時 代の伊 藤 仁 斎の説では﹁ 父
それに報いなければならぬと解釈し、
さ
常に子供の健康をのみ心にかけている、
の︶疾いをこそ之れ憂う﹂
と読み、父母は
子の注釈︶
では、﹁父母は唯だ其の
︵子供
母については唯 だ 其の
︵ 父 母の︶疾いを
であるという解釈です。吉川幸次郎先生
何よりも父 母の健 康をこそ憂 慮 すべき
之 れ憂 えよ ﹂と 読み、子は父 母に対 し、
が出ていますね。
﹃ 論 語 ﹄というのは孔 子が書いたもの
でいる ﹂と 語 り 、ま た 桑 原 武 夫 先 生 は
第一の、古注の説によって、
この章を読ん
能 だと すれば、選 択は読 者の自 由とい
﹁文法的に三大家の解釈のいずれもが可
うことにならざるをえない﹂
が、﹁私は仁
文章ですし、
いろいろな観点からいろい
ろな解釈ができるわけです。﹃論語﹄
の言
斎に従う。それがもっとも自然だからで
曰 わく 、父 母は唯 だ 其の
﹁ 孟 武 伯 、孝を問 う。子
らえようとするのが中 国 思 想の特 色な
数の範例の積み重ねによって、世界をと
的な単一原 理の追 究よりも経 験 的な多
常に多 くの意 味を持っています。﹁ 抽 象
い
葉がいかに異 論を生むかという 例とし
疾まいを之れ憂う﹂
は、孔
と
し
て、
たとえば
﹁孟武伯、孝を問う。子曰わ
述べられています。孔子が始祖と言われ
子 が 魯の高 官 、孟 武 伯の
のである﹂
と桑原先生はその書の中でさ
こう
典 、ギ リシャ哲 学 や キ リスト 教 と 儒 教
る儒教の思想の根幹をなす概念の一つに
もう
ぶ はく との比較の中で、中国語の特異性につい
〝仁〟
というものがありますが、
この言葉
問いに 答 え た 言 葉で 、こ
らっと書かれておりますが、卓見だと思
す。
の前の章 と 次の二つの章
います。
なく 、孔 子 もまた 定 義 し
今日私たちの用語におけ
ぜひ読み比べをしてほしいですね。
関 す る 図 書 が 所 蔵 されています か ら、
図書館にはさまざまな種類の
﹃論語﹄
に
生れるのは科学技術を前
い。定 義 という 考 え 方 が
み比べすると 、
こういう 見 方 もできる、
面 的にな り ま す が 、
いろんな 文 献 を 読
一つの観点だけで物事をとらえると一
ほしいと思います。
ら、学 習や研 究に大いに役 立てていって
端末で検索すればすぐにわかりますか
す。どういう本が収蔵されているのかも
図書館の蔵書は人類の思索の集積で
すね。
り図 書 館を積 極 的に利 用してほしいで
うと思っても限度がありますから、
やは
す。読みたいものを個人ですべて揃えよ
り、思 考に広 がりや 柔 軟 性 が出てきま
こういう 批 評 もあるということがわか
提と する﹂と 桑 原 先 生は
よ う としているのではな
る定 義を求めたものでは
なっていま す が 、﹁これは
も〝 孝 〟についての問 答に
も定 義しようとしてもできないほど非
て述べられていること も 興 味 深い点で
ではなく、孔子の言行録ですから会話の
は﹁ 若い頃 から 読みなれているせいか、
﹃論語﹄
に関してはいろいろな日本語訳
冊になっていますね。
ぶ人にも興味をもって読んでもらえる一
12
2
22
23
18
49
45
『論語註疏解經』
十三種の儒教経書の注疏集成である
『十三経注疏』
に収録されるものの一つ。
孔子の『論語』に魏の何晏が集解し、宋
の邢䇲が疏(注釈)
を加えたもので、
「孟
武伯問孝 子曰 父母唯其疾之憂」
「子游
問孝 子曰 今之孝者 是謂能養 至於犬
馬 皆能有養 不敬何以別乎」
など孝につ
いての孟武伯や子游の問いに答えた孔
子の説への注釈が展開されている。本
書は崇禎10年
(1637)
、
古虞毛氏刊。
40
鵜飼光昌
う かい みつ あき
文学部中国学科 教授
1957年京都市生まれ。広島大学文学部卒
業、佛教大学大学院文学研究科博士課程満
期退学。主な論文に「廬山慧遠の念仏三昧
について」
(佛教大学総合研究所編『法然上
人800年大遠忌記念 法然仏教とその可能
と謝霊運−」
( 佛教大学中国言語文化研究
性』、2012年3月)、
「頓悟説について−道生
「廬山慧遠の『沙門不敬王者論』について」
会『中国言語文化研究』8号、2008年7月)、
(『吉田富夫先生退休記念中国学論集』、汲
古書院、
2008年3月)などがある。
はじめに
それから今日に至るまで、
一世紀前の
それらの条 件を十 分には活かしきれ
収蔵されるようになったおかげである。
かくなりす ぎるので、
ここでは割 愛し、
た 。英 語の二 次 文 献の書 誌 的 情 報は細
研 究 者 に よ る 先 行 研 究 を 重 視 して き
研 究テーマの特 質から、やはり、欧 米の
藤井 透
イギリス社会保障の思想や制度がきわ
研究が本学図書館に所蔵されている英
ていないという反省も含めて、わたしの
社会学部公共政策学科 教授
めて重要であるとみなし、
とりわけ、﹁ナ
図書館とわたしの研究
ショナル・ミニマム﹂概念を創造したフェ
だろうか。経済学を研究する者にとって
資 本 主 義 社 会とは、どんな社 会なの
世紀末から 世紀初頭の世紀転換期
ビアン協会のウェッブ夫妻の思想と理論
語 文 献 、雑 誌 、
マイクロフィルム・フイッ
永 遠のテーマであるが、わたしは、資 本
ざるを得ないと同時に、そのことが資本
といえば、聞こえはいいかもしれないが、
一貫 して同 じテーマを 追 究 してきた
が、
ここでは、当 時の代 表 的な総 合 雑 誌
いることは研究者からみて、ありがたい
つ資 料 や 文 献 が、数 多 く本 学 図 書 館に
同時代の論者の中には、名前を知っただ
知ることは比較的、簡単である。
しかし、
あった。
る研究も参照するが、わたしは、自分の
と主張することはできまい。
日本人によ
かれらの手 書き文 書を含めた膨 大なコ
ウェッブ夫妻を研究しようと思えば、
とって、本学にどんな貴重な素材が所蔵
いる。
これらの雑 誌が、それぞれ対 象や
が、近年、図
Journal of Modern History
書 館に入 り、個 人 的には、大 変 、喜 んで
するために、
Victorian
Studies,History
、を 参 照 し て き た が 、
o f Education
これまで 、わたしは先 行 研 究 を 把 握
たかにまず言及してみよう。
雑誌論文や書誌的な文献を利用してき
究するにあたって、
これまで、どのような
主義社会の存在条件でもあると理解し
これは、現 在に至るまで、若い頃からの
どのような研究テーマであっても、必
イギリスの社 会 保 障というテーマを研
てきた。そこで、
これらの問題に、
かなり
分の怠惰をごまかすような表現でもあ
テーマを まと め 切 れていないという 自
ず、先 行 研 究 は 存 在 し 、これを 無 視 し
書いてみたい。
早期に対応しようとした国がイギリス
る。
にもかかわらず、
これまで、研究を続
て、自分の研究にオリジナリティがある
シュにどれほど依拠してきたかを以下、
であり、イギリスにこそ 、今日の社 会 保
年 余 りの間
に関心を持ち続けてきた。
障につながる思 想や制 度が見 出せるの
けてこ ら れたのは 、在 職
まり前の話である。
の存 在を
である、
The
Edinburgh
review
強調しておこう
︵写真参照︶
。
けでは、当人の経歴や業績を即座に思い
レクションにアクセスすることが研究者
が、 Journal of Sociology,The American
に、わたしの研 究に直 接 、間 接に役に立
特 徴は違 うが、欧 米の研 究 動 向を把 握
本 学には、同 誌の第 三 期といわれる、
浮かべることが困 難な人 物も少なから
年あ
するのに非 常に重 要な雑 誌 だからであ
1802年から1929年までの全巻が
ずいる。
このよ うな場 合には、次の新 旧
・ ・ミルのように筆 者がきわめて
著 名 な 人 物であれば 、かれらの経 歴 を
Ⅱ
としては求められていよう。そのコレク
治経済学院︵
︶図書館に所蔵され
ションは、かれらが創 設したロンドン政
が役に立つ。 The
の National Biography
Dictionary of National Biography,33v.
がそれであ
National Biography,61v.2004.
る 。コンパク トに 書 か れた 個 人の評 伝
究 者と 同 様 、わたしにも そのよ うな 条
することであるが、
ほとんどの日本人研
ている。
は、
なじみのなかった人物を短時間で知
O x f o rd d i c t i o n a r y o f
これを読めば、たとえば、当時の救貧
るのにきわめて有効である。わたしの研
1 9 1 7 - 1 9 9と
0.
法や社 会 調 査 、種 々の社 会 立 法の動 き
件はない。
ところが、本学には、意外なほ
図書館を日常的に利用
に対 する保 守 系の論 者の観 点がよく理
究テーマに即していえば、ウェッブ夫 妻
どフェビアン、ウェッブ研 究の条 件 がそ
理想は
解できる。ただ、当時の他の総合雑誌に
や ・ ・ベヴァリッジのよ うな 著 名 な
1884年に創設されたフェビアン協
もっとも古くからの会員であり、長きに
人 物でも、新 旧の National Biography
の
評伝を読み比べることで勉強になる。両
わたって、同協会の理論的な指導者と目
にも、多くの文章が無著名になっ
review
ているという難点がある。筆者が分から
先 行 研 究を学 ぶよ う 、うるさく指 導さ
されてきた。
とりわけ、社会保障の分野
会は、イ ギリス社 会 主 義 者の知 識 人 集
れた 。
これは教 員としては、ただしい指
で 、ウェッブ夫 妻 およ びフェビアン協 会
者 を 比 較 することで 、研 究 史の動 向 や
導であった。
しかし、
わたしは、先行研究
な ければ 、その文 章 を 自 分の論 文の中
ばかり読んでいても、研究が前進するの
が 注 目 されたのは 、戦 後 イ ギ リス福 祉
団として、
しられている。ウェッブ夫妻は
かという不安があった。
そして、素材、す
国 家の創 設にかれらが理 論 的 、思 想 的
同 協 会の創 設 者では な かった ものの、
なわち文 献や資 料を直 接 、扱 うよ うに
たからである。
に大きな影 響を与えたとみなされてき
評価の変遷が読みとれるからである。
憶 が ある 。次 節 では 、わ た しの研 究 に
研 究を始 めた 頃には、指 導 教 員から
誌的文献で明確にできる。
残念ながら、本学には所蔵されていな
いが、 W.E.Houghton,ed.The Wellesley
index to Victorian Periodicals.5vol.
がそれである
︵これは、オンラ
1966-1989.
イン版もある︶。
ともあれ、本学に赴任し
たのちに、 The Edinburgh review
が入った
ことは 、わ た しにとって 、大 変 、幸 運で
なって研究の
﹁視界﹂が広がっていった記
ぼえるだろう。ただし、筆者名は次の書
ろっている。
L
S
E
で、引用することにはだれもが躊躇をお
H
ら、研究を始めた。今からおよそ
る。また 、やや 扱っている対 象 が広 がる
所 蔵されている。同 誌には、当 時の主に
冊程度紹
されているのかをみてみたい。
Journal of Economics and Sociologもy、
歴 史 研 究 を 包 含 する 雑 誌であるので 、
保守系の論客が、ある共通のテーマに関
、3 冊から
定期的にチェックするようにしてきた。
Ⅰ
では ないかと 思い、大 学 院 生のこ ろ か
主 義 社 会とは、失 業と貧 困を生み出さ
19
最新の研究動向や論点は、実は、同時
連 する文 献を
介し、それに評者のコメントを加えると
J
W
代の評論のなかにすでに現れていたこと
が少なくない。1908年から公刊され
S
もみ ら れたこと だ が 、 The Edinburgh
文章が数多く掲載されている。
いう、
いわば
﹁書評論文﹂
の形式を採った
た
が所蔵されて
The Sociological review
5
24
25
20
20
L
S
E
2
30
た めには、同 協 会 が発 行 してきた 年 報
こ と を 御 存 知 だ ろ う か 。そ れ は 、
このような困 難な作 業が、
ろ う 。本 学には 、 Annual report on the ところが、
本学にいながらにして相当部分、行える
や報告書を読むことが基本の作業とな
1880年 代から第一次 大 戦 あたりま
猟する必要があろう。
る!︶現 状では、
ひろく当 時の雑 誌を渉
られるというわけである。
学にいながらにして、原資料でたしかめ
かすヒントになる論 争が、幸いにも、本
か〟
という非常に重要なテーマを解き明
したと、
のちにショー自身が告白した論
響を受け、ジェボンズ理論に宗旨替えを
ていたショーが、
ウイックスティードの影
この論 争は、当 初 、
マルクスを擁 護し
が、1890年
work of the Fabian Society
から1969年まで備えられている。さ
義 、労 働 関 係の多 様な雑 誌が、
マイクロ
でのイ ギ リスの社 会 主 義 、社 会 民 主 主
このほ かに もマイ クロフィル ムのな
においても、
であ
らに 、 New Fabian Research Bureau
フィルムになっており、それが本 学に収
かには、作 家で芸 術 家でもあった ・モ
ない
︵もちろん、
が1936年から1948年
Quarterly
まで収蔵されている。
これらの文献を利
蔵されているからである。
わたしが数え
そのフェビアン協会の長い歴史を知る
用すれば、改良主義的なフェビアン協会
た限り、雑 誌の数は にも及ぶが、その
1880年 代 は 、イ ギ リスにおいて
な か か ら フェビ ア ン 協 会 お よ び シ ド
リス が 資 金 面 で も 思 想 面 で も 支 え た
、当時きわめて著名であっ
Commonweal
た 女 性 活 動 家である ・ベサントが編
と こ ろ が 、そ の も と も と の 日 記 が
の名称で、
マイク
Diary of Beatrice Webb
ロフィッシュとして図 書 館に収められて
ニー・ウェッブに関連する興味深い雑誌
いる。
この資料については、
わたし自身は
﹁社会主義の復活﹂
と言われた時期であ
など、重要な
Our corner
雑誌が収蔵されている。
これらのマイク
ま だ 十 分に利 用しているわけではない
時期であった。
そして、
わたしたちの一般
的なイメージとは異なり、当時の社会主
集を行っていた
ロフィルムはわたしの赴任以前に、収蔵
が、関 連 して 、収 蔵 されたと 思 われる、
照︶。
紀転換期イギリスの時代思潮を知るう
されていたと思われるが、ともあれ、世
を一例 だけ、取り上 げてみよう︵ 写 真 参
Ⅲ
えでも、きわめて価値のある雑誌群であ
榜する多様な社会主義組織が誕生した
本 学には、社 会 主 義 者によって当 時 、
Archive Arrangement Routledge
義者が、
ひとりで複数の組織に同時に所
Associates ,Index to the diary of Beatrice
と併せて利 用 するこ
Webb, 1873-1943.
とによって、今後、思想史的なウェッブ研
究をさらに深めることを、期したい。
世 紀 転 換 期のウェッブ夫 妻の社 会 保
の経済学者である ・ ・ ・ウイックス
されているが、もともとの日 記が、忠 実
数 派 報 告を落とすわけにはいかないで
障構想といえば、かれらによって執筆さ
をあげることができる。そして、自
1948.
伝の記述の基になったのが、彼女の日記
れた 、1909年 王 立 救 貧 法 委 員 会 少
Apprenticeship,1926.Our Partnership,
あ る ビ ア ト リ スの ふ たつの 自 伝 、 M y
ると言えよう。
属 することは決 して珍 しいことではな
かった。
これは、ウェッブ夫 妻の思 想や理 論を
ける ウェッブの盟 友であった 劇 作 家の
年にかけて、
フェビアン協会にお
協会に関連する雑誌だけを参照すれば
から
済む、
ということにはならないことを意
巻本として公刊
味 する。かれらは同 協 会との関 連 があ
ティードとの間で、
マルクスの
﹃資本論﹄
であった。
この日記も
まり知られていない雑誌にも、執筆した
んのこと、
イギリス福祉国家の節目であ
あろう。同報告書は、同時代ではもちろ
ば、
必ずしもそうではない。
り、大学の図書館が自分にとって
﹁空気﹂
に、書物として再現されているかといえ
けの研 究 成 果を出してきたとはいえな
のような存 在であるという点に、当 初 、
開していた。
る1940年 代 、そして1980年 代に
いが、今後は、依拠できる基本資料が学
の主に価 値 論に関 する激しい論 争を展
いたっても、繰り返し議論の的になった、
思い至らなかったのである。
考 える機 会 を 与 えられ、自 分の研 究 が
驚 くほ ど 多 くのものを 図 書 館に負って
小論の依頼があった時に、自分の研究
つ、充 実 することを 願っている 。わた し
属 する大 学 図 書 館に数 多 く存 在し、か
自 分が日 々 、利 用 する文 献や資 料が所
いたことを発見した。すべての研究者は
と思われる。
このような最重要文献であ
と本学図書館との関係がすぐに頭に浮
むすびに代えて
ればと思う。
をフルに利用して、研究に活かしていけ
内に数 多 く所 蔵されているという 強み
要文献のひとつである。
ところが、
一方の多数派報告書と併せ
ると 、1、
200頁を超 える長 大な報 告
書であるために、有名な割にはきちんと
る両 報 告 書のみな ら ず、王 立 救 貧 法 委
も、本学の図書館が社会科学、社会保障
分野の教育、研究の核になることを期待
の文 献や資 料を系 統 的に収 集し、当 該
1909 Royal Commission
図書館
院 生 以 降 、とりわけ、はじめてイギリス
員会の議会資料
が
on the Poor Laws and relief of Distress
全 冊 、 巻にまとめられて本 学に収
あるが、それだ けではない。
これからの
完 結に大きな弾みになると思 うからで
自 負 が あった か ら だ と 思 わ れる 。しか
本 学の発 展は、社 会 科 学の分 野の充 実
している。そ うなれば、わたしの研 究の
そこには 、同 委 員 会にお ける 膨 大 な
し、しばらく考えていくう ちに、うえで
分の資 料は自 分でみつけてきたという
証 言 、独 自に行われた 各 種 調 査 結 果 も
を 強 力 に 支 え る 大 学 図 書 館 の 存 在こ
─』
(佛教大学『社会学部論集』第
によってたしかなものとされるし、それ
員会少数派報告の原点(1)
( 2)
挙げた文献以外でも、電子ジャーナルや
2002年、共訳)、
『「1907年原則」
他大学図書館への紹介・利用などで、本
とは何か─1909年王立救貧法委
すべて網羅されている。
よって、
これらを
開拓者─』
( ナカ ニ シ ヤ 出 版 、
読めば、同 時に進 行していた﹁ 自 由 党の
年)。主な著書・論文に『エドウィ
そ、
つよく求 められていると 、確 信して
ン・チャドウィック─福祉国家の
学の図 書 館 を 活 用 して 、研 究 を 進 めて
ン客員研究員(2005年∼2006
諸 改 革 ﹂︵ 1906∼ 1 9 1 4 年 ︶を 含
士課程満期退学、ロンドン大学
いるからである。
ユニバーシティ・カレッジ・ロンド
き た 事 実 に 気 づく よ うに なった 。
つま
京都大学大学院経済学研究科博
向を、すべて把握できると言っても過言
社会学部公共政策学科 教授
ではあるまい。
46、47号、2008年)などがある。
もちろん、
これまで挙げてきた文献や
資料のみで、
わたしの研究のための素材
がすべてカバーされるわけではない。し
かしあらためて振り返ってみると、個人
研究と言いながら、
いかに多くのサポー
トを得て、
わたしが研究をやってきたか
がわかる。そのサポートに応えられるだ
藤井 透
めた世紀転換期イギリス社会保障の動
などで、資料を探してきた経験から、自
L
S
E
蔵されている事 実を知る人は決して多
20
くはないだろう
︵写真参照︶。
を訪れた1987年以降、
かん だわけではなかった 。
これは、大 学
読まれてこなかった文書ではなかったか
今 回 、図 書 館と自 分の研 究の関 係を
イギリス社会保障史研究における最重
完 璧な文 献 目 録がいまだ作 成されてい
H
ことがあるからである。ウェッブ夫 妻の
P
・バーナード・ショーが、ジェボンズ派
研究しようと思えば、狭義のフェビアン
ている。同 誌の誌 面 上では、1884年
ウェッブ研究の必読書として、夫人で
主義、アナーキズム、社会民主主義を標
W
編 集 されていた To-day
という 雑 誌 が 、
1883年から1889年まで収蔵され
り、
フェビアン協会はもとより、
マルクス
17
争であった 。〝フェビアン経 済 学 とは 何
が可能となろう。
の特 徴 を 長 期にわたって把 握 すること
L
S
E
Rev
G
26
27
A
4
89
54
佛教大学附属図書館の事業活動報告
月
図書館 階カウンター内に高速カラーブックスキャナー︵ Bookshot3600
︶
を設置。
月
図書館 階、 階に書架増設。
図書館利用説明会開催。︵∼2014年 月︶
2013∼2014年度前半期
月
図書館ポータルサイト説明会開催。︵∼2015年 月︶
月
図書館
階に職員研修用図書コーナーおよび朝日選書
月
古典籍利用講座開催。
月
イタリア そ
―の歴史と文化
月
江戸時代の思想家たち
―
月
シェイクスピア ―
作品とその時代
月
西行と定家 乱世を生きた歌人
―
月
古代日本の宗教事情
のイベント欄からアクセスして一覧を確認することができます。
特 集コーナーの展 示 図 書については 、佛 教 大 学 ホーム ページの図 書 館
―
―
佛教大学教育後援会の援助金により、
朝日選書を整備。
コーナーを設置。
2
特集コーナー・テーマ
︵2014年 月∼ 月︶
月∼
月∼
9
月
図書館 階に講談社文芸文庫コーナーを、
月
図書館報﹃常照﹄第 号を発行。
年度私立大学等研究設備整備費等補助金により、
4
倶楽部を設置。
同じく 階に軽読書コーナー Lynzo
佛教大学教育後援会の援助金により、講談社文芸文庫を整備。
月
図書館 階、 階、 階に書架増設。
平成
月∼2014年 月︶
﹃京童﹄、﹃山城四季物語﹄、﹃山城名勝志﹄、﹃山城名勝志図﹄
を
購入︵補助金交付決定︶。
特集コーナー・テーマ
︵2013年
月
古代ギリシアの歴史と文化
に映える学舎、
とりわけ図書館は読書の秋を迎える季節と
月
日本中世の文学
月 、図 書 館 開 館
後記
が入るようになりました。
しかし、今まで建物に遮られて見
失われた世代の作家たち ―
―
者となり、智 慧の光をいつも照 らすよ うにという 願い
代
校長江藤澂英師
︵浄土宗大本山善導寺 世住職︶
によっ
が込 められています。
この木 額は佛 教専門学校第
て撰述されたもので、
現在は図書館 階に掲げられてい
ます。
また、
同じく 階に設置されている浄 土 宗 総 本 山
︶年
知 恩 院にある八 角 形の経 蔵﹁ 転 輪 蔵 ﹂︵ 略して輪 蔵 ︶
の
教育部学友会、教育振興会から寄附されました。転輪
周 年を記 念して、佛 教 大 学 同 窓 会 、鷹 陵 同 窓 会 、通 信
縮 小 複 製は、1998
︵平成
1
えなかった左大文字を間近に眺めることができます。夕陽
月
李白と杜甫 ―
中国唐代の詩人たち ―
月
ヘミングウェイ、
フィッツジェラルドとその時代
5
6
4
5
7
8
蔵は、 回 転させることによって、
一切 経を読 誦したこ
佛教大学附属図書館報『常照』第61号をお届けします。紫
月
幻想と怪奇な世界
―
―
5
7
9
年度
2014
とと同じ功徳を得られるといわれています。
2階 朝日選書コーナー
月
史伝文学の醍醐味
月
スペイン そ
―の光と影
月
落語を愉しむ
観阿弥680年・世阿弥650年の時空
月
秘すれば花なり ―
月
法然上人とその時代
月
戦国乱世の英雄たち そ
―の実像と虚像を探る ―
月
世界のミステリとSFの名作
月
世 住 職 ︶に深 く帰 依 され
周 年を記 念して閲 覧 室 、書
月には、開
階 建で、研
1972
(昭和47)年4月に開学60周年記念事業で完成した旧図書館
3
佛教大学附属図書館の沿革と
﹁成徳常照館﹂
の由来
佛 教 大 学 附 属 図 書 館は、佛 教 大 学の前 身 佛 教 専 門
︶年
学 校 があった 京 都 市 左 京 区 鹿ヶ谷の地 か ら 、現 在の
階 建の閲 覧 室と 、鉄 筋コンクリー ト
京 都 市 北 区 紫 野に移 転した1934
︵昭和
日に木 造
月に開 学
︶年
階地下
月に着工し
2階 職員研修用図書コーナー
なりました。
階 建の書 庫 を 竣工 落 成 しました 。
この図 書 館 建 設に
師︵ 浄 土 宗 大 本 山 知 恩 寺
あたっては、佛 教 専 門 学 校 初 代 校 長である土 川 善 澂
た篤志家上村常治郎氏のご遺族から多額の寄付をい
︶年
ただき、完成することができました。その後、1963
︵昭和
周 年 記 念 事 業として地 上
庫などが増 築され、1972
︵昭和
学
周 年の記 念 事 業として、同 窓 会 、
究 室を配 置した複 合 図 書 館 棟が完 成しました 。現 在
の図 書 館は、開 学
鷹 陵 同 窓 会 な どの卒 業 生 、在 学 生 な ら び 保 護 者 、浄
︶年
属圖書館成徳常照館之記﹂
にある﹁ 今ココニ冠スル所
佛 教 大 学 附 属 図 書 館の建 物は、﹁ 佛 教 專 門 學 校 附
ハ
ノ成徳常照館ノ名
︵中略︶繙書ノ士專ラ徳器ノ成
就ニ努メテ智 光ヲ常 照スル﹂から﹁ 成 徳 常 照 館 ﹂と名
づけられ、書物をひもとく者が努力して、立派な人格
野キャンパスのリニューアル工事に伴って、図書館の西側
佛教大学附属図書館報 『常照』 第61号
1
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7
1
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月に竣工したものです。地上
1
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土 宗 寺 院 をはじめとした 、本 学 有 縁の方 々 からの多
︶年
大な寄 付によって、1995
︵平成
1997︵平成
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4
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50
階地下 階建で100万冊を収蔵することができます。
4
に建っていた4号館が解体されて、午後からは明るい日射し
発行日 平成26年10月23日
発行者 佛教大学附属図書館長 谷口浩司
発行所 京都市北区紫野北花ノ坊町96
佛教大学附属図書館
制 作 株式会社栄美通信
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