第一次世界大戦と DH ロレンス

日本大学歯学部紀要 31, 73―77,2003
第一次世界大戦と D. H. ロレンス1)
――資金繰りの日々
佐藤 治夫
D. H. Lawrence and WWI
―― Days of debts and tears
Haruo Sato
Abstract
The economical condition of D. H. Lawrence is analysed, with special reference to his income.
The author for the first time clarified the two main bodies of his income―donations(sometimes
equals to personal debts)from his friends and admirers, together with the royalties from the publishers. A new fact was also discovered that J. B. Pinker, the publisher, played an important role
in helping the Lawrences economically during the First World War.
Key words : D. H. Lawrence, WWI, Pinker, royalties, income
7 月 13 日にフリーダと Kensington Register
英国参戦
Office で結婚をしたロレンス夫妻は,英国にて
David Hubert Lawrence(1885―1930)
の生涯の
の小説家・詩人 D. H. ロレンスとしての名声を
うちで,最も金銭的に辛かった時期が,第一次
夢見てそのまま滞在することになった。しか
世界大戦の開始から終了までであった。フリー
し,この後の彼の人生を象徴するかのように,
ダ・ウィークリーとの駆け落ちから始まった,
結婚してすぐの 7 月下旬には
ロレンスの悪夢のような時期であった。当時の
一般の英国人が高を括っていた,ヨーロッパ大
書簡番号3)763
J. B. Pinker 宛
23 July 1914
陸での対ドイツ戦がよもや自分の身に及ぶとは
Did you exchange the agreements with Me-
本人も考えていなかった。1914 年 6 月 24 日2)
thuen, and did he give you the cheque for me?
にフリーダとの結婚のために帰英し,Gordon
I wish he would, for I am again at my last pen-
Campbell 邸(9 Selwood Terrace, South Kens-
nies....
ington, S. W. 発信の書簡)
に 8 月半ばまで滞在
しているが,その間に,6 月 28 日の第一次世
とメシュエン社からの Wedding Ring 分印税税
界大戦勃発を迎えてしまった時に,後に‘the ul-
前渡し金(100 ポンド)
を確認させ,所持金が底
にて自
tra―simple life’と Pinker への書簡(#778)
を突いたとすでに窮状を訴えている。
7 月末に,身過ぎ世過ぎのために(?)
書いた
ら描いた生活が始まったのである。
日本大学歯学部 英語
〒101―8310 東京都千代田区神田駿河台 1―8―13
(受理:2003 年 9 月 24 日)
Nihon University School of Dentistry
1-8-13 Kanda-Surugadai, Chiyoda-ku, Tokyo 101-8310, Japan
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日本大学歯学部紀要 31, 73―77,2003
旅行記ものを仕上げて,湖水地方に旅行に出る
の姓が,フリーダ・フォン・リヒトホーフェ
が,8 月 5 日に Barrow in Furness に到着した
ン,つまり有名な撃墜王「レッド・バロン」の
ロレンスは,駅が出征兵士であふれているのを
血縁者であるので,当時英国籍のドイツ人約
知る。英国は,グリニッジ標準時の 8 月 4 日午
8000 人の中でも,特に警戒されたであろう。
後 11 時に,フリーダの祖国ドイツと交戦状態
戦時色の染まった英国での,ロレンスの小説
に入っていた。生涯の友としても交友のあるコ
出版は思うに任せず,かつ『虹』のように内容
テリアンスキーへの同日付の葉書
が出版社メシュエンの意向に沿わず,契約料の
みで印税が入らないなどの場合もあり,次第に
書簡番号 772
S. S. Koteliansky 宛
5
August
ロレンス家の収支を追い詰めてゆくのである。
1914
困窮のロレンス家
...I am very miserable about the war.
ロレンス夫妻の開戦直前の帰英は,物価の安
を妻フリーダの母国語であるドイツ語で‘auf
いイタリアなら暮らしが成り立つ前提で,結婚
wiedersehen’と結んでいることは,ロレンス夫
と出版に関する処理を行うだけの予定であった
妻の置かれた不安定な将来を予感させるもので
ろうが,大戦勃発により,英国から出られない
ある。
状態となったものである。事実,英国の卸売物
価指数は開戦の 1914 年に比べると,1917 年で
戦時下の英国に「閉じ込められて」
は 2 倍になっており,収入の道が殆どなくなっ
ロレンス夫妻の持つ弱点は,妻フリーダが今
や「敵性外国人」となったこと,またドイツそ
たロレンス家ならずとも大戦中の家計のやり繰
りは大変だったのである。
のものへのロレンス自身の思いいれである。書
転居の連続
簡の検閲下では当然ながら,親独派であること
は容易に分かってしまう。ドイツの「スパイ」
家計費の中に占める割合が多いのは,土地や
に関する取り締まりは当然ながら行われてお
家屋の賃借費であるのは,いつでも都市生活者
り,ロレンスの出版代理人であるガーネット
の宿命である。開戦当初に身を寄せていた知人
が,結婚直後の,ロレンス夫妻を食事に招いた
宅に,
そういつまでも留まれるわけもなく,
開戦
後で,帰りにドイツ語で別れの挨拶を交わした
から間もなく,The Triangle, Bellingdon Lane,
だけで,近所の住人の通報により,ガーネット
Nr. Chesham, Bucks. に引越す。家賃は週 6 シ
4)
家に合計 3 回延べ 5 名の警官が調査に来た ほ
リングであったので,年額を 55 週間とすると)
ど,「スパイ」には神経を尖らせていたのであ
16 ポンドと 10 シリングであり,当時の標準的
るから,敵性外国人を妻に持つロレンスの扱い
な賃貸物件としては,安ものの住居と言わざる
は,想像に難くない。当然のことながら,夫妻
を得ない。ロレンスは,1914 年 7 月 23 日に上
ともども国外に出ようとするが,戦時下とて思
記の書簡番号 763 にてピンカーに窮状を訴えて
うようにはならず5)に断念せざるを得ず,逆に
いるが,次にロレンスがピンカーに窮状を訴え
6)
徴兵検査という屈辱的な体験 をすることにな
た 1915 年 4 月 23 日まで の 9 ヶ 月 間 の 家 賃 は
る。翌 1915 年,5 月に英国船籍の客船ルシタ
10 ポンド 16 シリングとなるところだが,1915
ニア号がドイツ軍に撃沈されると,さらに英国
年 1 月 23 日に Greatham, Pulborough, Sussex
内で反独感情が高まった。妻フリーダの結婚前
の家をヴァイオラ・メネルから無料で借りると
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第一次世界大戦と D. H. ロレンス1)
いうか,再び居候が可能になったので,7 ポン
こちから前借や既に出版されていた分に対する
ド 4 シリングの出費で済んでいる。
原稿料の早期の徴収,などを実現してロレンス
第一次大戦中最も長期に亘って住んだのは,
に送ってくれたのも確かである。第一次世界大
渡米のため一時的に居を構えた 1, Byron Villas,
戦の間に,ピンカー経由でロレンスの手元に
Vale―of―Health, Hampstead, London を解約し
入った金額は,実に 400 ポンドに及んでいる。
てしまい,かつ渡米が叶わなかったために 1915
ロレンス夫妻が飢えを凌げたのは,善意の友人
年 12 月 30 に引越したコーンウォールの Porth-
知人たちからの援助もあったが,実際には,主
cothan
(家賃は年 5 ポン ド
書 簡 番 号 1196)
で
に「書きまくった」小説家・詩人ロレンスと,
あった。大変気に入っていたこの住居も,戦況
金を集めまくってくれたピンカーの二人の努力
の悪化にともなう外国人対策の強化にともなう
によるものであり,従来信じられているよう
措置がとられた。1917 年 10 日 11 日に,10 月
に,友人知人の援助に「縋って」戦時下を切り
15 日までにコーンウォール退去ならびに海岸
抜けたわけではないのである。
地帯と主要な港湾への立ち入りの禁止を命じら
ロレンスの収入
れ,ロンドンに逃れた(書簡番号 1463)
。多分,
ロレンス書簡に現れた,借金ならびに友人か
徴兵検査と相俟って,戦争と英国に対するロレ
らの寄贈(後日金回りの良くなった時代に返し
ンスの印象を決定付けた事件であろう。
この後は,バークシャーの Chapel Farm Cot-
ていることもあるので借金と考えたほうが良い
tage, Hermitage, nr Newbury. に 1917 年 12 月
場合も多い)
をまとめてみると,以下の一覧と
18 日移るが,最終的には,見かねた妹が家賃
なる。(日付はロレンス書簡中で借金に触れて
の年額 65 ポンドを支払 っ て く れ,ダ ー ビ ー
いる日付)
シ ャ ー の Mountain
Cottage,
Middleton
by
Wirksworth に 1918 年 5 月 2 日引越している。
1914 年 6 月?
メシュエン社からの 100 ポン
ド(以下の計算には入らない)
これでやっとしばらくは家賃の心配からは解放
1914 年 8 月 25 日
されて著述に励めることになった。
ジョージ朝詞華集第一巻
増刷分 10 ポンド?
ピンカーの援助
1914 年 9 月 13 日
不思議なことに,戦時中の英国に閉じ込めら
れたロレンスが窮状を訴えるのはピンカーで
マーシュから 10 ポンド贈
られる
1914 年 9 月 10 日
ストロウからの前渡し金
10 ポンド
あった。友人・知人に直接金の無心をすること
は誰でもためらいがあるものであろう。実際に
1914 年 10 月 5 日
ピンカーから 17 ポンド
は,ピンカーに宛てて,
1914 年 10 月 13 日
ピンカーから 25 ポンド
1914 年 10 月 21 日
王立文学基金から 50 ポン
1914 年 7 月 23 日(書簡番号 763)
1915 年 4 月 23 日(書簡番号 906)
ド贈られる
1918 年 2 月 16 日(書簡番号 1522)
1915 年 1 月 13 日
ピンカーから 5 ポンド
と,ロレンスの手元に金が集まり始めた 1917
1915 年 1 月 13 日
ピンカーから 25 ポンド
年を除いて,不定期ではあるが金の無心をして
1915 年 7 月 12 日
ピンカーから 42 ポンド 10
いる。毎回ピンカーが自分の懐から金を送って
いたわけではなさそうであるが,好意的にあち
シリング
1915 年 7 月 17 日
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ピンカーから 90 ポンド
日本大学歯学部紀要 31, 73―77,2003
1915 年 10 月 5 日
ピンカーから 33 ポンド
1915 年 11 月 10 日
マーシュから 20 ポンド贈
上記の一覧を年度単位で合計してみると,
られる
1914 年開戦からの分
オットリーヌから 30 ポン
1915 年
292 ポンド 10 シリング
ド贈られる
1916 年
174 ポンド 2 シリング 6 ペンス
バーナード・ショーから 5
1917 年
21 ポンド 5 シリング
ポンド(詳細不明)
1918 年終戦まで分
1915 年 11 月 30 日
ピンカーから 40 ポンド
合計
1915 年 12 月 29 日
バートランド・ラッセル
1915 年 11 月 18 日
1915 年 11 月 22 日
1916 年 3 月 6 日
122 ポンド
104 ポンド
713 ポンド 17 シリング 6 ペンス7)
から 2 ポンド(詳細不明)
この金額だと,書簡番号 1251
J. B. Pinker 宛
マーシュから 2 ポンド 2
30 June 1916 でピンカーに伝えている状況.
I can manage on about £150 a year, here.
シリング 6 ペンス
1916 年 7 月 13 日
ピンカーから 50 ポンド
が,単にピンカーに窮状を訴えるためでなく,
1916 年 8 月 23 日
ロウェルから 8 ポンド
実際の生活実感なのであろうか。
1916 年 10 月 17 日
マーシュから 4 ポンド贈
ロレンス家の生活費
られる
1916 年 11 月 14 日
ロウェルから 60 ポンド
一般論として,都市部で暮らす英国紳士が召
1916 年 11 月 17 日
ピンカーから 50 ポンド
使の一人も使って暮らすには 300 ポンドが必要
1917 年 7 月 26 日
マーシュから 7 ポンド 15
とされていた時代に,コーンウォールで家賃年
シリング
額 5 ポンドの家に暮らしていたロレンス夫妻に
ピンカーから 13 ポンド 10
は,十分な額であったのかもしれない。月に換
シリング
算して 12 ポンド程度の金額で十分だったので
コテリアンスキーから 10
あろう。
1917 年 9 月 22 日
1918 年 2 月 21 日
どうしても一点だけ,多額の支払いが必要
ポンド贈られる
1918 年 2 月 21 日
シャーマンから 10 ポンド
贈られる
護士から請求された 150 ポンド程度の弁護士費
1918 年 2 月 22 日
ピンカーから原稿料 9 ギ
用であった。この「トラブル」の初めは,開戦
ニー(=9 ポンド 9 シリ ン
直後の 1914 年 10 月下旬の書簡に現れる。
だったのは,フリーダの離婚訴訟終了後に,弁
グ)
シ ン シ ア・ス キ ス か ら 5
書簡番号 799
ポンド贈られる
ber 1914
1918 年 4 月 28 日
妹エイダが新居の家賃 65
...The Literary Fund gave me £50. I have got
ポンドを払う
about £70 in the world now.
1918 年 5 月 2 日
妹エイダから 20 ポンドを
Of this I owe £145 to the divorce lawyers, for
贈られる
costs claimed against me. This I am never go-
王立文学基金から 50 ポン
ing to pay. I also owe about £20 otherwise. So
ド贈られる
I’ve got some £50....
1918 年 2 月 22 日
1918 年 7 月 12 日
(1918 年 11 月 11 日
第一次大戦終結)
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Catherine Jackson 宛
21 Octo-
第一次世界大戦と D. H. ロレンス1)
この書簡中で,ロレンスはこの時点で 50 ポン
人知人からの援助を受けたわけではなく,例え
ドを所持していたことになり,弁護士費用を払
ば SS コテリアンスキーが貧窮している中から
うことは望むべくも無く,相手方がロレンスに
申し出た 10 ポンドの贈呈を断っており,困っ
未払いのままのメシュエン社からの 150 ポンド
ている相手には,乏しい所持金の中から,自分
を差し押さえないように,「あがく」ロレンス
が受け取った額(時にはそれ以上)
以上に送金し
がいたのだが,注目すべきは,7 月 23 日の段
たようである。このように,周囲の者に対する
階でピンカーに縋ろうとしたロレンスが,上記
細やかな気遣いがロレンスの特質の一部であ
の一覧からすると 122 ポンド収入があったはず
り,また,この「細かい」部分の解明について
なので,7 月 23 日時点での所持金(不明)
と合
は,未着手の Memorandum の解明を俟たねば
算しても,10 月 21 日の時点で 70 ポンド以上
ならない。
を使っていることである。8 月にバッキンガム
シャーに引越したときの費用にしてはかかりす
注
ぎていて,今後の研究に俟つ部分である。
また,
文中の‘I also owe about £20 otherwise.’も,現
在のところ説明のつかない部分である。書簡研
究ではなかなか発掘できない,実際のロレンス
と周囲の人々との交流のなかから,何らかの形
でロレンスが,借りるか援助かを受けている可
能性を,この「他にも 20 ポンド借りがあるの
で。
」は示唆している。
(1)
本研究は,日本大学歯学部佐藤研究費の援助を
受けての研究である。また研究成果は,著者の所
属する D.H.ロレンス書簡研究グループ
(研究代表
者:須田理恵――日本大学,相良英明――鶴見大
学,市川 仁――中央学院大学)
の研究の一部を構成
し,同グループの資料を一部使用している。
(2)
本文中の日付は,Peter Preston, A D.H.Lawrence
Chronology, Macmillan, 1994 に拠る。
とにかく 50 ポンドあれば 1914 年は無事に過
(3)
本文は Letters of D.H.Lawrence, Cambridge U.
ごせたはずであり,翌年早々のピンカーからの
P., 1987―1993 VOLS.1―7 に拠っており,書簡番号は
送金金額 30 ポンドと合計すると,10 月 21 日
から翌 1915 年の 4 月 23 日にピンカーへ経済的
困窮の手紙を書くまでの間の約半年間は,約 80
ポンドで過ごしたことになり,1 年間を 150 ポ
ンドで過ごせるというロレンスの言葉は,かな
同シリーズの書簡集に拠る。
(4)
Edward Nehls, D.H.Lawrence : a composite biography, Wisconsin UP 1957 vol.1 p 241
(5)
佐藤治夫「D.H.ロレンスの国外脱出」日本大学
歯学部紀要第 26 号 1999
(6)
書簡番号 1089 に延べられている‘it makes
me
り真実に近いものと思われる。年間の生活費 1
angry also to be stripped naked before two recruit-
年分を弁護士から請求されたロレンスが,逆上
ing sergeants, and examined.’ 屈辱的な体験はした
したかのごとく絶対不払いを早々と宣言したわ
が,健康上の理由からの兵役免除を受けている
(書
けも納得できるものである。
簡番号 1257
9 July 1916)
。
(7)
合計には,1918 年 4 月の妹エイダからの家賃 65
むすび
ポンド分は,お金としてロレンスに渡したのでは
以上のごとく,ロレンスの書簡を使って,不
幸にも戦時下の英国に「閉じ込められた」ロレ
ンス夫妻の,生活費の遣り繰りを示す記録を一
部発掘出来たのである。作家ロレンスの名誉の
なく,家主に直接支払われているので含まれてい
ない。また,開戦前であるし,開戦前にすでに使
い果たしていたのが明白であるので,前渡し金と
してメシュエン社からの 100 ポンドも計算には含
まれていない。
ために付け加えるのだが,実際にはすべての友
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