ジャマイカの多言語的状況をめぐる言説

ラテンアメリカ・カリブ研究
第 6 号:
9{16 頁 c 1999
〔論文〕
ジャマイカの多言語的状況をめぐる言説
鈴木慎一郎 (Shinichiro Suzuki)
ローチおばさんは、ジャマイカ方言 (dialec)
は「英語の訛ったもの (corruption) 」って聞く
とほんと腹立つんだって。英語はノルマンフ
ランス語とかラテン語とかから派生した (derived) らしいけど 、だったら英語だって訛っ
てできたんでしょ。みんな聞いた?「派生」っ
て。英語は派生だけどジャマイカ方言は訛りな
んだよ! すごい不公平! (Bennett 1993:1)
られる。こちらは言語学上クリオール英語に分
類されているが住民はパトワあるいはダ イアレ
ク1)と呼ぶことが多い。英語とパトワとはふつ
う考えられている起源と与えられた社会的威信
の程度とを異にする。パトワには大部分の住民
の祖先が出身した西アフリカ諸部族の言語との
近縁性が指摘されているが、英語に比べパトワ
はじめに
は低い地位を与えられてきた。
冒頭に引いたのは、1919 年にジャマイカで生
前述の二つのトピックを素描し考察を加えて
まれ、自国の口承文芸を早くから詩作やパフォー
いくことがこの稿の中心になるが、それに先だっ
マンスにとりあげてきたベネットの言葉である。
て背景としての言語状況を概観しておきたい。
カリブ海地域英語圏の多言語的状況をあつか
うさいに忘れてならないことの一つは、言語間
1. 背景としての言語状況
の地位の不均衡である。われわれはたがいに対
言語学者たちはジャマイカの言語状況をバイ
等な複数の言語が共存しているような図を前提
リンガリズムあるいは連続体として研究してき
とするわけにはいかない。もう一つは「文化的
た2) 。バイリンガリズムというとき、英語とパ
自画像」(落合
1996) や「文化の客体化」(太田
トワとはそれぞれ固有の語彙、文法、音声学的
1998) と呼ばれている領域である。文化(この
特徴を備えた言語とされる。もちろんそのさい
ばあい言語)をメタ・レヴェルで対象化するこ
も、これら二言語が多くの語彙を共有するとの
とで集団の差異にかんする何らかの言説を構築
認識がともなっている。いっぽ う連続体という
するのは文化人類学者や言語学者に限らず、現
とき、そこでは英語とパトワとをそれぞれ両極
地の人びともそれを行なう。
に置いた図が想定され、個々の発話は話者の意
ジャマイカの言語をめぐりこれらの点を深め
識にしたがってあるいはそれとは無関係に連続
ていくには、ここでは二つのトピックに光を当
体の上を移動(コード・スイッチング )すると
てるのがふさわしいと私は考えた。一つめはパ
される。
トワの構造的(言語内的)劣性と低い地位を結
バイリンガリズムという概念化と連続体とい
びつける典型的な言説、二つめはパトワをジャ
う概念化はたがいに矛盾しない。あらゆる実際
マイカ語と名づけなおすことで国民的文化へと
の話しことばを二つ(あるいは後述するように
格上げしようという運動である。
三つ)の言語体系のいずれかに整理することは
ジャマイカでは英語が公用語だが、英語とは
別の言語として住民と言語学者の双方によって
認識されている言語がとくに日常会話では用い
信州大学人文学部専任講師
1)
Dialect の t 音は発音されないことが多い。
2) ジャマイカおよびカリブ海地域英語圏の言語状況にかん
する言語学的研究としては、以下の文献が基本的なものの例
といえる。
Alleyne 1985, 1988; Allsopp 1996; Cassidy
1961; Cassidy & Le Page 1967; Roberts 1988; Taylor
1977.
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ラテンアメリカ・カリブ研究
困難だからである。また連続体上での言語運用
の政治家のことばである。またエンターテイン
について記述するにはやはり「英語」や「パト
メントのことばでもある」(Cooper 1993a:55)。
ワ」といったカテゴ リー化が不可避だからでも
クーパーは文字言語としてのパトワについては
ある。話しことばが連続体上のどの位置にある
言語学者キャシディーによる表記法の採用を広
かをより精緻に示すためには、
「深い」パトワ
く呼びかけてきている。これはパトワの地位向
という言い方がされたり、英語がさらにイギリ
上運動の一環といえるものである。
スの標準英語とジャマイカの標準英語とに弁別
2. パト ワの構造的劣性をめぐる言説
されたりする。
しかしバイリンガリズムと連続体という二つ
ジャマイカの知識人は新聞上でパト ワをめ
のモデルは現実の文脈でつねに交換可能という
ぐ ってたびたび 論争し てきた( 近年の例とし
わけではない。たしかに連続体モデルのおかげ
て
いては、けっして一様ではない。話者がみな同
Blake-Hanna 1989; Cargill 1989a, 1989b,
1989c, 1989d, 1993; Cooper 1989, 1993a,
1993b; Green 1993; Hearne 1990a, 1990b;
Nettleford 1990; Ritch 1993; Shields-Brodber
1990; Thompson 1989a, 1989b; Watson 1989a,
1989b, 1989c など )。論争をなす典型的な言説
じようなコード・スイッチングを行なうわけで
の一つは、パトワは言語としては構造的に劣っ
はないのである。
ておりしたがってそれを用いる者の知能や精神
でコード・スイッチングの側面への視野は大き
く開かれてきた。ただし話者を個人ごとにみて
いくと、彼/彼女の話しことばが連続体上を往
き来する幅や、連続体上での平均的な位置につ
言語学者デヴォニシュは、連続体上のコード・
や品性も劣るというものである。
し 、モノリンガルなパトワ話者人口も一定規模
1989 年にカーギルは、その年の Caribbean
Examinations Council (CXC) 試験3)の数学
で存在することに注意をうながす。彼/彼女は
と英語においてジャマイカ人受験生の成績が
もっぱらパトワを用い英語の運用には困難のあ
地域内で最低であったことを嘆いた
スイッチングは教育機会によって促進されると
(Cargill
る者である。法廷、学校、マス・メデ ィアなど
1989a)。彼はまた西インド 大学
での公的言語政策が、英語とパトワとの連続性
の学部生の多くが英語を正確に書けず補習を必
や語彙上の共通性を根拠に次のような仮定から
要としているという報道
英語のみを是認するのであれば 、モノリンガル
れ、それはパトワがより使われるようになった
なパトワ話者には不利となる。つまり、連続体
4)
ジャマイカ校
(Lobban 1992) にふ
社会的風潮のせいだとした (Cargill
1993)。
上のことばであれば誰でもある程度は理解でき
カーギルおよび彼に同調する論者は、英語と
る、だから誰でもある程度の英語が理解できる、
比べてパトワは単純だという前提から出発する。
との仮定である (Devonish
1986)。
文芸批評家C・クーパーはパトワに代えてジャ
マイカ語 (Jamaican) という名称を提唱する一
いわく、パトワには精密に構造化された法則が
なくて語彙も乏しく、数や時制の概念もあいま
いで、パトワによる表現には常に非論理性や不
人だが、次に引く彼女の寸描は音声言語としてパ
正確さがつきまとう、単純な言語では複雑で微
トワが用いられる社会的脈絡を的確にとらえて
妙な表現が不可能であるからパトワを用いると
いる。
「ジャマイカ語は国家の公用語という地位
理知的で抽象的な思考ができない、つまりパト
を与えられてはいないものの、大多数のジャマイ
カ人の母語である。それは家族のなかで使われ
る。それは愛のことばであり罵りのことばであ
る。それは親密さのことばである。選挙運動中
3) カリブ海地域英語圏で二次教育修了程度の者を対象に
行なわれる共通試験。
4) カリブ海地域英語圏では中心的な研究教育機関であり、
ジャマイカ、トリニダード 、バルバド スにキャンパスを持
つ。
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ジャマイカの多言語的状況をめぐる言説
ワは諸学問を学ぶうえで妨げになると。カーギ
造的欠陥を前提としなくてもわれわれは納得さ
ルらによれば、メンデルの法則、アインシュタイ
せられてしまう。判定された学力の高低は就職
ンの一般相対性理論、コンピューターのプログ
あるいは総合大学やカレッジなどの第三次教育
ラムなどをパトワをつうじて理解することはで
機関への進学を左右する。一般教育履修証明試
きない。パトワはまたシェイクスピアのような
「優れた」文学の媒体にもなりえない。カーギル
いわくパトワは知力を破壊する (Cargill 1993)。
リッチはパトワでは真理を表現することができ
ないとさえ書いている (Ritch
1993)。
パトワを擁護する側はおもにここに反論する。
験 (General Certi
cate of Education) や CXC
試験の結果が第三次教育機関への入学を決定し、
また人事でも重視されるのである。学習到達度
が低いほどホワイトカラーの職業につくのは難
しくなる。第二に労働市場では英語に堪能であ
ることは有利である。口頭や文書でのすぐれた
それによれば 、パトワは固有の文法と語彙を備
英語の能力を条件に掲げた求人広告はごく普通
えており、他のあらゆる言語と同様に思考や表
である。第三に、今日の世界で政治的・経済的・
現の道具として機能する。その意味でパトワは
文化的ヘゲモニーを握る国々の共通語は英語で
ひとつの言語として英語と対等であり、学校で
ある。つまり英語のリテラシーは、学校教育で
の教科をパトワによって学ぶことも可能なはず
の到達度、職業的地位、収入、物質的豊かさ、
5)
である 。また英語の低成績はパトワの使用が
威信へと反映する。言語と社会的ヒエラルヒー
英語の習得を妨害してきたからではなく英語教
との間にはこうしてあたかも必然的な連関が設
育法が原因である (Thompson
1989a)。
しかし カーギルらの主張はなお続けられる。
けられる。
社会的ヒエラルヒーを品性から説明するイデ
パトワを使う者は表現力や思考力や知能が劣
オロギーがある。この品性のイデオロギーにし
るだけでなく野蛮で粗雑である。この立場をと
たがうと、社会的に高い地位にあることはその
る者はパトワを動物の鳴き声にたとえ (Cargill
1989a, 1989b)、人目についてはならない下着
にもたとえる (Green 1993)。用いることばか
人が倫理的で道徳的な生活を営んでいることで
もある。紋切型的にいえば勤勉で規律正し く、
神を畏れ、良い身なりを保ち、礼儀作法を守る生
らその人の知性や品性などをも評価するこの言
活である。逆に社会的不成功者であることは、
説の自明性は、次にしめすように、社会的ヒエ
怠惰で、規律を欠き、罪深く不信心であり、下
ラルヒーにかんする認識と、さらにそのヒエラ
品で、粗雑で、不作法で、不謹慎な者であると
ルヒーを正統化する学校教育のイデオロギーに
いうことになる。
もとづいて構造化されている。
パトワを使う人間はいかにも野蛮であると思
まずパト ワを使う人間が野蛮とされ ること
えてくるのはこの段階においてである。ではパ
についていえば 、そこには社会的ヒエラルヒー
トワを使う人間は知能が劣るとされることにつ
にかんする認識が介在している。言語の問題は
いてはど うか。これが前述の言説の残りの部分
次のように社会的ヒエラルヒーの問題に変換さ
であった。それは、学校での成績はその人間の
れる。第一に学校教育は現に英語で行なわれて
能力を測り社会的役割を選抜するうえで公正な
いる。どの教科でも学力を身につけるには英語
基準であるということを所与とするかぎり、当
でなされる教授を正確に理解しなければならな
然視される。なぜ公正な基準になりうるかとい
い。現行の学校教育科目の履修において英語が
えば 、教育機会が均等であれば成績は個人の能
重要なことは、カーギルらのようにパトワの構
力を正確に反映するとみなされるからである。
5) 小学校低学年ではパトワで授業をおこない高学年で英
語を第一外国語として履修するという提案もなされている。
ここでもわれわれはパトワの構造的欠陥を前提
とする必要がない。教科の成績と社会的地位と
12
ラテンアメリカ・カリブ研究
の対応関係を自明視するこのイデオロギーを学
ズムという不名誉なそしりを招くかもしれない。
校教育のイデオロギーと呼ぶなら、多人種社会
しかし前述のように学校教育のイデオロギーに
ジャマイカにおいてそれは次のようにはたらく。
よると、教育程度が低く「卑しい」仕事につかざ
奴隷制期の社会的ヒエラルヒーは人種的優劣
るをえないとしたら非は当の個人にある。英語
のイデオロギーによって正統化されていたが 、
も学校教育科目の一つであるから、英語がうま
生物学的人種主義がタブーとなって少なくとも
く使いこなせないということもまた学力の次元
公には唱えられることがなくなった今日では、
へすり替えられ、やはり個人の努力で改善でき
学校教育のイデオロギーがヒエラルヒーを正統
る問題とされる。こうしてパトワ批判者はレ イ
化する (Austin
1984:xii-xiv, 16-20, 144, 149150, 214; Kuper 1976:74-75, 88)。人種的優劣
シストであるという中傷をかわすことができる。
のイデオロギーによれば不平等は人種間に想定
の話者は知能や精神や品性が劣るという言説は
される先天的差異に起因する。たとえば「黒人
パトワの構造的欠陥を仮定しなくとも必然とし
は生まれつき知能が劣っているから勉強も商売
て受容されうるものである。しかしそうした仮
ここまでたびたびふれてきたように、パトワ
も不得意である」
。いっぽ う学校教育のイデオ
定上の欠陥が前景化されるのはそれが次の事実
ロギーによれば 、不平等の原因は本人の教育程
を隠蔽するからである。英語がパトワに比べて
度でありそれは本人の努力次第である。生まれ
「言語そのもの」として優れている(つまり優れ
が貧しくても教育の機会を活用して努力すれば、
た言語内的構造を持つあるいは思想や文学の媒
成績に反映し社会でもみとめられ、よい職業に
体として優れている)ゆえにではなく、歴史的
ついて地位を上げることができる。それができ
に政治権力が公的な地位を英語に与えてきたが
なかったとすれば本人が怠けていたからであり
ゆえに今日のヘゲモニーがあるという事実、そ
非はその人自身にある。つまり学校教育のイデ
してそれゆえに言語運用の問題が教育や社会的
オロギーは人種に言及することなく不平等を根
地位や品性のイデオロギーと接合されてきたと
拠づける。
いう事実である。
不平等は個人に帰するものだという同意が 、
このイデオロギーの流通によって作り出された
3. パト ワ、クリオールからジャマイカ語へ
のなら、政治権力としては個人が活用できる機
たとえば英語とならぶもう一つの公用語とす
会を均等にしてやればよいことになる。機会の
るなどしてパトワの地位を向上させようとの主
増大はジャマイカ政府が教育政策について常に
張は、現地の知識人を中心に持続している。そ
掲げてきた題目であった。じっさいには払える
れによればパトワは、黒人奴隷とその子孫の独
学費によって学校の種類が限られ、カリキュラ
創性と革新性の結晶であり、祖先から受けつが
ムの内容や教師の質に差が生じ 、また学業に費
れてきた尊い文化的伝統であるので、ジャマイ
やせる年数も決まってくる。ジャマイカの教育
カの国民的文化の代表という地位がパトワに与
事情を調査したA・クーパーによれば 、学校教
えられるべきだとされる。
育は地位上昇の手段として機能してはおらず親
パトワの地位向上を主張する論者は、言語学
世代の高い地位があってはじめて獲得できるも
者がよく用いるクリオールあるいはジャマイカ
のだという (Kuper
1976:74)。
ン・クリオールという名称や住民自身が用いる
ジャマイカの知的文脈における学校教育のイ
パトワやダ イアレクという名称に代わるものと
デオロギーについてはさらに特筆すべきことが
して、ジャマイカ語という名称を新たに採用す
ある。パトワを名ざしで攻撃することはアフリ
ることを提案している。今までの他の名称がふ
カ的伝統をさげすむ意見ととられかねず、
レイシ
さわしくないのは次の理由によるという。
13
ジャマイカの多言語的状況をめぐる言説
まずクリオールという語は、植民地での支配
げされているのである。こうした主張はジャマ
/被支配関係から発生した言語一般をさす。ま
イカ語が黒人系以外の住民にも使われているこ
たクリオールは、ヨーロッパ生まれあるいはア
とを否定しない。多様な住民に使われているこ
フリカ大陸生まれに対する新世界生まれの人間
とはむしろ黒人系住民の文化的影響力の証しと
もさし 、さらに料理や建築などをふくめて植民
される。
地での接触状況から誕生したあらゆる事物をさ
ジャマイカ語を国民的文化の核として称揚す
す。フランス語の一般名詞としての「パトワ」
る運動は次のような思想的情況にそくしてとら
には、標準言語の変り種という意味がある。ま
えられる。知識人の間では民俗文化への持続し
たパトワは、カリブ海の他の島々であるド ミニ
た関心があり実際の記録作業も多い。そこでは
カ、セント・ルシア、マルティニークなどで使
アフリカとジャマイカとの文化的連続性という
われている日常口語の名称でもある。パトワや
枠組みが用いられることが少なくない。個々の
ダ イアレクという名称には、統一形や標準から
慣習は、アフリカ文化と連続していると考えら
逸脱した正統でないものという負の評価がしみ
れるものほど 、より基層的で真正なジャマイカ
こんでいる。
文化の要素とみなされる傾向がある。そのさい
これらの名称でなく、多くの言語がそうであ
るように話者のナショナリティーを示す語をあ
てるべきだとするのが、ジャマイカ語という名
称の提唱者たちの主張である。ダブ・ポエット
のオク・オノオラ (Oku
Onuora) は同様の主張
表層として選り分けられるのは欧米の影響と考
えられる部分である。
またパトワを称揚し自覚的、意識的に用いて
いくのはとくに
1970 年代以降は教育のあるエ
リートにかぎらないようだ。デヴォニシュは、
のなかで、英国人の言語が英語、フランス人の
大衆的エンターテインメントのポスターや街角
言語がフランス語、日本人の言語が日本語と呼
の標示でパトワが文字言語として意識的に選択
ばれている事実をあげている6) 。C・クーパー
されてきているのを指摘し 、そこにはメッセー
は、ジャマイカ語という名称によってこの言語
ジを当の文脈で効果的に伝えるという意図があ
はジャマイカ国民のエトスの真正な表現として
の地位を得ると書いている (Cooper
1993c:1617)。またアダムズはアフロ・ジャマイカンとい
う名称を提案する (Adams 1991:5)。アダムズ
るとする (Devonish
1996)。
パトワの地位向上への主張は<ジャマイカ国
民>と<奴隷の子孫としての黒人系大衆>との
関係を再想像するヴ ィジョンの一部といえる。
によれば 、この言語が西アフリカ諸部族語の特
そのヴィジョンによれば、ジャマイカ文化はヨー
徴を備えていることは明らかでありその形成の
ロッパ、アフリカ、アジアの諸文化の混交から
歴史は名称にも刻みこまれるべきであるという。
形成された雑種文化というよりアフリカに出自
パトワは奴隷の子孫としての黒人系大衆のこ
を持つ人びとの文化であり、新世界でのアフリ
とばであるという認識は以前からあった。ジャ
カ文化である。したがってアフリカに出自を持
マイカ語を国民的文化とする主張はこの認識の
つ人びとの文化は、ジャマイカ文化の単なる一
延長線上にあるものといえる。そこでは、ジャ
部ではなくジャマイカ文化の代表へと地位を高
マイカの黒人系住民は単に国民の部分をなす人
められなければならない。クリオールという名
間集団ではなく、国民を代表する人間集団へ、
称はその人びとの言語には最適のものではない
あるいは真正な国民へと格上げされ 、そしてか
ことになる。
れらの真正な言語も真正な国民的文化へと格上
6)
1991 年 10 月 24 日キングストンの言語教育センター
でのパフォーマンス中の発言。
この再想像のヴ ィジョンは、政府が広める国
民統合のヴ ィジョンにたいして政治的含意をも
つ。国家独立からこれまで政府が公に掲げてい
14
るナショナリズムは、少数派の人種集団(白人
ラテンアメリカ・カリブ研究
ある聖書をパトワに翻訳しようという動きが近
系、混血、中国系、インド 系、シリア系など )と
年現れていることを、最後に付け加えておきた
多数派の人種集団(黒人系)の一致団結による国
い8) 。
家発展を奨励するものである。政府は人種間に
政治的経済的不均衡が存在するという認識を明
確に表してはいない。いっぽ うでたとえば政府
観光局のパンフレットは、たがいに異なる起源
から発した多彩な文化の共存こそがジャマイカ
のユニークな点だと宣伝する。人種間の差異に
かんして無難に言及がなされうるのはほぼ文化
の領域だけであるかのようだ。そして政府は黒
人系住民の文化を国民の代表的文化とみとめる
ことについては積極的ではない7) 。すると、パ
トワの形成過程で複数の言語がたど った経路を
捨象してしまうのではなく、しかしとりわけア
フリカからの文化的伝統としてパトワを掲げ 、
その言語をナショナリティーと同じジャマイカ
ンという名で呼んでいくことは、政府による国
民統合のヴ ィジョンを植民地期以来の歴史的地
平で再審にかけることだといえる。
冒頭のベネットの言葉はこう続けられている。
「ジャマイカ方言は英語の訛りっていうけど 、そ
れだけじゃない、アフリカのチュイ語 (Twi) の
訛りでもあるんだよ」
。
むすびにかえて
この稿はジャマイカの多言語的状況の一端を
あつかいえたにすぎない。下位言語の言語内的
欠陥が仮定されることでその言語を下位におと
しめたまさにその歴史が隠蔽されるという論点
や、また国民的文化としての言語という論点は、
法廷、議会、学校、教会などの機関での言語政
策や、文学や音楽といった表現文化での言語運
用の実態を、より細かくとりあげて考究される
必要がある。その一例になるであろうが、多く
のジャマイカ人にとってもっとも身近な書物で
7) この点を 1960 年代の状況にそくして考察したものに
(柴田 1989) がある。70 年代のマンリー政権は国民的文化
形成への民衆の貢献を高く評価した。しかし私のみるとこ
ろでは、当時から現在まで政府の公的な言説では「民衆」と
いう語は黒人系住民を一義的にさすものとしてではなくお
もに階級的な意味合いで用いられているようだ。
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8) 聖書をパトワに部分訳したカセット・テープが西イン
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ド 聖書協会
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(Bible Society of the West Indies)
(
)
15
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ラテンアメリカ・カリブ研究