アメリカ大統領制度史上巻 西川秀和

アメリカ大統領制度史上巻
西川秀和
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アメリカ大統領制度史上巻
はじめに
本書は、アメリカの歴史を通じてどのように大統領制度が発展してきたかを
論じている。大統領個人の業績に注目するというよりは、大統領制度の発展に
様々な出来事がどのような影響を与えたのか、または歴代大統領が大統領制度
の発展にどのように貢献したのかに注目している。そのため一般的な歴史では
重要な出来事でも記載していない場合もあるし、反対に一般的な歴史ではあま
り重要ではない出来事も大統領制度に与えた影響の大きさから記載している場
合がある。したがって本書は一般的なアメリカ史の通史ではなく、大統領制度
の発展と歴代政権の政策の展開をたどった通史である。とはいえ大統領制度と
歴代政権の政策は深い関連性を持つので、歴代大統領が展開した主要な国内外
の政策について網羅的に言及するように務めている。
まず大統領制度とは何か。その答えを求めてオックスフォード・イングリッ
シュ・ディクショナリーにあたると以下のように記されている。
「1、大統領の職、もしくは権能、大統領職、議長職、監督職、管理職、大統
領がその職を維持する任期。2、監督の管理下にある地区。特にインドではそれ
ぞれ東インド会社の 3 つの工場の監督によって支配される東インド会社の領域
の 3 つの地区。3、上級の、第 1 位の、もしくは主導的な地位」
またホワイト・ハウスのホーム・ページでは以下のように説明されている。
簡潔だが要を得た定義である。
「アメリカ大統領はアメリカ合衆国政府と軍隊の最高司令官の両方である。
憲法第 2 条の下、アメリカ大統領は議会によって制定された諸法の執行に責任
を負う。アメリカ大統領の閣僚として指名された者が率いる 15 の行政部局が連
邦政府の日常管理を行う。中央情報局や環境保護局のようなその他の行政機関
がこれらに加えられ、その長は閣僚ではないが大統領権限の監督下にある。ア
メリカ大統領は他にも、連邦準備制度理事会や証券取引委員会などの 50 以上の
独立連邦委員会の長や連邦裁判所の判事、大使、そしてその他の公職を任命す
る。大統領府はアメリカ大統領の側近からなり、行政管理予算局、アメリカ通
商代表部などの組織を伴う。アメリカ大統領は議会によって制定された法案に
署名するか、または拒否権を行使する権限を持つ。しかし、議会は、両院の 3
分の 2 の議決によって拒否権を覆すことができる。行政府は、他国との外交を
行い、アメリカ大統領は条約に関して交渉を行い署名する権限を持つが、それ
はじめに
3
は上院の 3 分の 2 の承認を得なければならない。アメリカ大統領は、大統領令
を発令でき、それは行政府の役人に命令を下し、現行法を明確し、促進するも
のである。またアメリカ大統領は、弾劾の例を除き連邦犯罪に対して恩赦や特
赦を与える無制限の権限を持つ。こうした権限は幾つかの責任を伴う。その中
で憲法が求めていることは、
『大統領は随時、連邦議会に対して連邦の状態につ
いての情報を提供し、必要 かつ時宜に適したと判断する措置についての審議を
勧告すること』である。その要件を満たすのであればいかなる方法でもよいが、
アメリカ大統領は伝統的に毎年 1 月(就任の年を除いて)に両院協議会で一般教
書演説を行い、来る年の政策の見通しを述べる。憲法は大統領職に就くために 3
つだけ要件を挙げている。
アメリカ大統領は少なくとも35 歳でなければならず、
生まれによる市民であり、少なくとも合衆国に 14 年間 居住しなければならな
い。数多くのアメリカ人が少なくとも 4 年に 1 度はアメリカ大統領選挙で投票
しているが、アメリカ大統領は実際には国民によって直接選ばれているわけで
はない。その代わりに、4 年毎の 11 月の最初の火曜日に、国民は選挙人団を選
んでいるのである。人口に応じて 50 州に割り当てられる。各州選出の議員 1 人
に 1 人ずつ割り当てられる(コロンビア特別行政区は 3 人)。こうした選挙人がア
メリカ大統領に票を投じる。現在、選挙人団の数は 538 人 である。バラク・オ
バマ大統領は合衆国第 44 代アメリカ大統領である。しかし、彼はアメリカ大統
領に就く者として 43 人目である。グロヴァー・クリーヴランド大統領が第 22
代と第 24 代を務めたからである。今日では、アメリカ大統領の任期は、1 期 4
年を 2 回までに制限されている。しかし、1951 年に憲法修正第 22 条が成立す
るまで、アメリカ大統領は無制限の任期を務めることが可能であった。フラン
クリン・デラノ・ローズヴェルトは大統領に 4 度選ばれ、1932 年から 1945 年
に亡くなるまで在任した。ローズヴェルトは 2 期を越えて在任した唯一のアメ
リカ大統領である。伝統的に、アメリカ大統領とファースト・ファミリーはワ
シントン D.C.にあるホワイト・ハウスに居住する。ホワイト・ハウスはアメリ
カ大統領の執務の場であり、上級職員の事務所でもある。アメリカ大統領が飛
行機で旅行する時に、飛行機はエア・フォース・ワンと指定されている。マリ
ーン・ワン(大統領が乗っている時)と呼ばれる海兵隊のヘリコプターを使う。地
上の旅の場合、アメリカ大統領は防弾を施した大統領専用リムジンを使う」
現代、大統領制度は創始された時には想像できない程、巨大で強力な政治制
度に発達している。しかし、現代の大統領制度に至るまでの道は一定ではなか
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アメリカ大統領制度史上巻
った。何故ならより多くの権限を獲得しようとする強力な大統領が存在する一
方で、限られた権限しか行使しようとしない弱体な大統領も存在したからであ
る。つまり、大統領制度の発達は一進一退であったと言える。本書はそうした
一進一退を余すところなく論じている。
何故、研究対象としてアメリカ大統領を選んだのか。それは大統領制度が世
界中で採用されている優れた政治制度だからである。特にアメリカは初代大統
領が就任して以来、200 年以上にわたって大統領制度を維持し、現代では超大国
として君臨している。建国当初、アメリカは今のような超大国ではなかった。
人口比で言えば、江戸時代の日本の人口が約 3,000 万であったのに対し、アメ
リカは約 400 万の人口を抱えるに過ぎなかった。
初代大統領から現職大統領に至る歴史の流れの中でアメリカが何故、強大な
国家に発展したのか。もちろん、その答えは多数あるだろう。世界史の中でア
メリカが占める位置、アメリカ人の精神、思想、アメリカの地理的条件、アメ
リカの移民に対する姿勢、アメリカの価値観、アメリカの交通網など挙げれば
きりはないだろう。しかし、アメリカの発展の 1 つの要素として考えられるの
が優れた政治制度であると私は考えている。国家の指導者が安定した政権を運
営できるか否かは国家の発展にとって重要な問題である。初代大統領が就任し
て以来、大統領制度はアメリカの歴代政権を支えてきた優れた制度である。政
治の力は国家の発展に不可欠な要素である。それはアメリカであろうとどこの
国であろうと変わりない真理である。
しかし、初代大統領の時代から言われてきたことだが、一方で強力な権限を 1
人の国家元首が握ることには危険が伴う。アメリカ大統領に関しては「帝王的
大統領」という言葉でその危険がかねてより指摘されてきた。その課題をどの
ように克服するのか。それも制度研究の課題であり、政治を考えるうえで忘れ
てはならない問題である。さらに国家元首の研究は、制度の研究であるのと同
時に政治家としての個人の研究でもある。リーダーシップとは何か。求められ
る政治家とは何か。国家の長として何を根拠にして正義や公正とするのか。歴
代大統領の中で、高い評価を得る者がいる一方で、低い評価を下される者もい
る。それは何故だろうか。国家の長として何ができて何ができないのか。歴代
大統領を比較して何か共通項はあるのか。歴代大統領の中で暗殺された者が 4
人にも及ぶのは何故だろうか。歴代大統領とはアメリカ国民にとってどういう
存在なのだろうか。こうした課題を考えるにあたっては、制度研究に加えて歴
はじめに
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代にわたって個人を深く知る研究でも多くの実りがある。
政治は制度に拠るところが確かに大きい。しかし、研究にあたってその制度
そのものを動かすのはいつの時代も人であることを忘れてはならない。アメリ
カの政治制度を解析するには、個々の事例の積み重ね、すなわち歴史の過程を
研究する必要がある。
アメリカの政治制度は200年以上もかけて作られてきた。
国家の長としてアメリカ大統領が下した判断が堆積して現代アメリカのような
巨大な統治機構が形成されているのである。大統領制度によって歴代アメリカ
大統領が生み出されることが 1 つの真実であれば、その逆もまた真実なのであ
る。歴代大統領はどのような原理に基づいて政治的判断を下したのか。それを
研究することによってこの制度が見えてくる。そのためには時代の大きな流れ
に加えて、大統領個人が自分の中に積み重ねてきたこと、すなわちそれまでの
人生経験や職業経験、さらには思想形成の過程を研究することが大切である。
では日本はどうだろうか。日本は従来、経済は一流で政治は三流だと言われ
てきた。国際競争力のランキングで経済は上位を占めているのに対して、政治
は下から数えたほうが早いかもしれない。確かに日本の政治制度にも良い点は
ある。すべてが悪いわけではない。しかし、今の日本の政治が一流であると評
価されているわけではない。まず政治的指導者が世界から信頼されなくてはな
らない。簡単に交代してしまうような政治的指導者を誰が信用することができ
ようか。もし日本が混迷を深めることがあれば、それを救えるのは政治の力で
ある。いったい誰を政治的指導者に仰げばよいだろうか。日本国大統領である。
何もアメリカの制度をすべて模倣せよと言っているわけではない。私は、日
本は日本なりの政治制度を採用すべきだと考えている。道州制導入で地方が変
わるならば、それに対応して中央の政治制度も変わらなければならない。安定
した政権を築ける政治制度を研究し設計しなおさなければならない。アメリカ
建国時にアメリカ合衆国憲法を制定するにあたって交わされた議論を研究する
と、アメリカ大統領制度が発展の余地を多く含み得る制度として設計されたこ
とが分かる。言うなれば多くの事例に応用可能である。だからこそ世界中の多
くの国に採用されるのと同時に多用な派生も生まれているのである。もし本当
に必要となるのであれば日本にも適用可能なはずである。
いつか日本が日本なりの政治制度改革を行う時に備えて私は大統領制度の研
究を行った。我々国民一人ひとりが自らの手で指導者を選べる日が来ることを
信じて。
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アメリカ大統領制度史上巻
目次
アメリカ大統領制度史上巻
目次
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はじめに……3
概論……11
第 1 部 大統領制度の起源……59
第 1 章 植民地時代から憲法制定会議前夜まで……60
第 1 節 植民地時代……60
第 2 節 邦憲法……62
第 3 節 連合会議……65
第 2 章 憲法制定会議……75
第 1 節 憲法制定会議の開始……75
第 2 節 ヴァージニア案の導入……82
第 3 節 全体委員会……84
第 4 節 6 月 20 日から 7 月 26 日……87
第 5 節 細目委員会……90
第 6 節 8 月 7 日から 8 月 31 日……91
第 7 節 8 月 31 日から 9 月 8 日……93
第 8 節 9 月 9 日から 9 月 17 日……94
第 9 節 ジョン・アダムズとジェファソンの憲法に関する見解……95
第 3 章 憲法制定会議の大統領制度に関する議論……100
第 1 節 大統領制度をめぐる 2 つの流れ……100
第 2 節 行政権に関するヨーロッパの思想的影響……103
第 3 節 大統領制度の各草案……106
第 4 節 行政府の長の数……109
第 5 節 参事院……111
第 6 節 大統領の選出方法……112
第 7 節 大統領の任期……118
第 8 節 大統領の弾劾……122
第 9 節 大統領の不能力……124
第 10 節 三権分立の原理……125
第 11 節 拒否権……128
第 12 節 行政権……131
第 13 節 統帥権……132
第 14 節 閣僚……134
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アメリカ大統領制度史上巻
第 15 節 恩赦権……135
第 16 節 外交権限……136
第 17 節 任命権……138
第 18 節 教書権……140
第 19 節 議会の招集……141
第 20 節 法の執行への配慮……142
第 21 節 大統領の呼称……142
第 22 節 大統領の宣誓……143
第 23 節 大統領の被選挙資格……144
第 24 節 副大統領制度……147
第 4 章 憲法案批准……152
第 1 節 フェデラリストと反フェデラリスト……152
第 2 節 『ザ・フェデラリスト』……154
第 3 節 各邦の批准……163
第 5 章 憲法の修正条項……166
第 1 節 憲法修正第 12 条……166
第 2 節 憲法修正第 20 条……174
第 3 節 憲法修正第 22 条……177
第 4 節 憲法修正第 25 条……181
第 2 部 伝統的大統領制度……189
第 1 章 建国期……190
第 1 節 ワシントン政権……190
第 2 節 ジョン・アダムズ政権……233
第 2 章 ジェファソン・デモクラシー期……253
第 1 節 ジェファソン政権……253
第 2 節 マディソン政権……288
第 3 節 モンロー政権……313
第 4 節 ジョン・クインジー・アダムズ政権……334
第 3 章 ジャクソニアン・デモクラシー期……341
第 1 節 ジャクソン政権……341
第 2 節 ヴァン・ビューレン政権……368
第 3 節 ウィリアム・ハリソン政権……374
目次
9
第 4 節 タイラー政権……377
第 5 節 ポーク政権……382
第 4 章 南北戦争前後……395
第 1 節 テイラー政権……395
第 2 節 フィルモア政権……398
第 3 節 ピアース政権……400
第 4 節 ブキャナン政権……404
第 5 節 リンカン政権……409
第 6 節 アンドリュー・ジョンソン政権……452
第 5 章 金ぴか時代……465
第 1 節 グラント政権……465
第 2 節 ヘイズ政権……474
第 3 節 ガーフィールド政権……481
第 4 節 アーサー政権……486
第 5 節 クリーヴランド政権 1 期目……489
第 6 節 ベンジャミン・ハリソン政権……497
第 7 節 クリーヴランド政権 2 期目……504
第 8 節 マッキンリー政権……509
注……522
10
アメリカ大統領制度史上巻
概論
アメリカ大統領はアメリカ人にとって最も簡単に想起できる政治家であり、
世界的にも最も強大な指導者と見なされている。政治制度としてアメリカ大統
領制度はその権限と職務の複雑さに対して熱心な研究が行われている。そうし
た研究はこれまでも、そしてこれからも政治学の分野で比類のないものである。
大統領制度は憲法制定会議で創始された。憲法制定会議は、人民の意思を代表
する行政首長に率いられる強力な連邦政府について初めて真剣に議論した。
行政首長に関する議論が始まったのは 1787 年 6 月 1 日である。ほとんどすべ
ての代表が行政首長に幅広い権限を与えることを恐れていた。また行政首長を
王に等しい程、強力にしたいと望む代表はほとんどいなかった。しかし、多く
の代表達は行政首長を 1 人に限るべきだという信念を持っていた。他の者達は
行政首長を 3 人にするように要求した。
ジェームズ・ウィルソン(James Wilson)は行政首長を 1 人にするべきだと論
じた。ウィルソンは行政首長には活力と迅速に決断する能力が求められると述
べた。ウィルソンはそうした資質は行政首長を 1 人にした場合に見出させると
した。エドモンド・ランドルフ(Edmund Randolph)はウィルソンの提案に強く
反対した。ランドルフは 1 人の行政首長は君主制の萌芽だと指摘した。ジョン・
ディキンソン(John Dickinson)は、王を頭に据えた政府を否定しないと述べた。
ディキンソンは、君主制は世界の中で最善の政体であると主張した。しかしな
がら、アメリカに王を据えるのは問題外だとディキンソンは述べた。 行政首長
の人数をどうするかについては長い議論となった。最終的に代表達は行政首長
を 1 人にする案に決定した。
次の問題は行政首長の任期である。行政首長は再任を許されるか否か。アレ
グザンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)は長期の任期を提案した。ハミ
ルトンは、もし大統領が 1 年か、2 年しか任期を持つことができなければ、アメ
リカはすぐに元大統領で溢れることになる。そうした元大統領達は権力を求め
て争うだろう。そして、その結果、国家の平和が乱される。ベンジャミン・フ
ランクリン(Benjamin Franklin)は再任の権利について論じた。人民が共和国の
支配者である。そして、大統領は人民の僕である。もし人民が同じ大統領を繰
り返し選びたいと望めば、人民はそうする権利を持つ。最終的に、大統領の任
期は再任が制限されない 4 年に決定された。
概論
11
さらに次の問題は大統領の選出方式である。それは最も難しい問題であった。
代表達は繰り返し議論した。ウィルソンは行政首長を選挙人と呼ばれる特別な
代表によって選出する案を提案した。その案に同意しない代表達がいた。そう
した代表達は選挙人を使う方式を実行するのは難しく、費用が嵩み過ぎると主
張した。1 人の代表が大統領を邦知事によって選出する方式を提案した。その代
表は大きな邦の邦知事は小さな邦の邦知事よりも多くの票を持つべきだと主張
した。特に小さな邦の代表はこの案に賛成しなかった。その他の提案は、大統
領を直接人民が選出する方式である。エルブリッジ・ゲリー(Elbridge Gerry)は
その方式に衝撃を受けた。人民はそうした方式を理解できないとゲリーは述べ
た。不正直な人物がたやすく人民を騙すことができる。大統領を選出する最も
悪い方法は、 人民が直接選出する方式であるとゲリーは主張した。大統領の選
出方式に関して憲法制定会議は 60 回も表決を行った。最終的に代表達は邦議会
が指名した選挙人によって大統領を選出する方式を採用した。
今度はある代表が、大統領が悪い行いをした場合に備えて、罷免する方法を
定めておくべきだと主張した。代表達は同意した。グヴァヌア・モリス
(Gouverneur Morris)は、もし大統領が信頼を裏切れば弾劾するべきだと主張し
た。 代表達は、もし大統領が収賄、反逆、もしくは重大な犯罪に手を染めた場
合、罷免されるべきだという点で合意した。
最後の問題は大統領の権限、特に議会に対する拒否権である。大統領に絶対
拒否権を与えようと考えた代表はほとんどいなかった。しかし、大統領は立法
過程にある程度、影響力を及ぼすべきだと代表達は考えた。もしそうすること
ができなければ、大統領職の意義は薄れてしまう。そして、議会は独裁的な権
限を持つようになる。マディソンは解決策を提示した。大統領は拒否権を持つ
べきだとマディソンは主張した。しかし、もし議会が大多数の賛成を得れば大
統領の拒否権を覆して法案を再可決できる。
憲法の最終案にはその他にも大統領に関する規定が盛り込まれている。大統
領は生まれによる合衆国市民か、憲法が採択された時点で合衆国市民でなけれ
ばならない。大統領は少なくとも 14 年間、国内に居住し、少なくとも 35 歳で
なければならない。大統領は報酬を受ける。しかし、その報酬は任期の間、増
額も減額もされない。大統領は最高司令官であり、随時、連邦の状況を議会に
報告する。また大統領の宣誓の言葉も決められた。200 年以上にわたって少なく
とも 4 年に 1 度、歴代大統領によって宣誓は繰り返し行われてきた。
12
アメリカ大統領制度史上巻
その他の主要な問題は連邦判事の任命である。議会が連邦判事を任命するべ
きだという意見があった。また大統領が連邦判事を任命するべきだという意見
もあった。ウィルソンは連邦判事の任命を大統領に委ねる案に賛成して、多人
数の組織が公正に任命を行うことは難しいと主張した。ジョン・ラトレッジ
(John Rutledge)はウィルソンの意見に強く反対した。決して大統領に連邦判事
の任命を委ねるべきではない。そうした任命はあまりに君主制を想起させる。
フランクリンは小話を披露した。スコットランドでは判事は弁護士達によって
指名される。彼らは最善の弁護士を判事に選ぶ。そうすると判事に選ばれた弁
護士が担当していた事件を彼らは彼らの間で分け合ってしまう。代表達はこの
問題に関して表決を行った。代表達は大統領が上院の同意を伴って判事を指名
することに決定した。
憲法制定会議で大統領制度が創始されて以来、2013 年現在まで、すべてで 43
人が大統領職を占め、成功の度合いは異なるにしろ、国家に奉仕してきた。大
統領制度はその間、国内的にも国際的にも政治権力の焦点であり続けた。しか
し、1789 年に憲法が成立して以来、大統領制度は少しの修正が行われただけで
ある。
アメリカ大統領制度の本質は200年前と同じく今日でも認識可能である。
しかしながら、憲法を制定した者によって形作られた 18 世紀の大統領制度は、
20 世紀と 21 世紀を通じて拡大された大統領制度に比べると弱体であるように
見える。しかし、アメリカ大統領制度はこれまで考案されてきた政治制度の中
でも最も試練に耐えてきた政治制度である。アメリカ大統領制度は、数々の戦
争を耐え抜き、数々のスキャンダルを体験し、経済的混乱に見舞われ、暗殺も
起こった。大統領の権限は、それぞれの大統領の統治戦略と同じく、時代毎の
異なった状況によって変化している。概してアメリカ大統領制度の発展は、伝
統的大統領制度、近代的大統領制度、そして現代的大統領制度に分けられる。
伝統的大統領制度は、18 世紀末から 20 世紀転換期までの大統領が含まれ、
幾つかの例外を除けば、そうした大統領のほとんどは記憶に残らない。この時
代において大統領職は今日のように高い政治的目標となるような存在ではなく、
多くの初期の政治家は大統領になろうという野心を抱くこともなかった。大統
領は控え目な権威、小さな権限しか持っていなかった。実際、ニュー・ヨーク
州、マサチューセッツ州、そしてヴァージニア州のような大きな州の州知事の
ほうが大統領よりも大きな政治的権力と権威を持っていた。建国初期の大統領
は、その憲法成立以前の活躍によって尊敬されていたが、国家防衛と外交政策
概論
13
に関して制限されていた。これは憲法の制定者の意図であり、大統領は政策形
成に関して受動的な関与者の立場に置かれた。結果として、19 世紀の間、ほと
んどの大統領は、政策形成において主要な役割を果たしていた議会が可決した
法を単に執行するのみであった。
伝統的大統領制度の時代においては、4 つの記憶すべき政権がある。ワシント
ン政権、ジェファソン政権、ジャクソン政権、そして、リンカン政権である。
この 4 つの政権は、大統領の権限が小さく制限された伝統的大統領制度の時代
における傑出した例外である1。
憲法を通じて強力な行政府が確立されたとはいえ、大統領職とその他の政府
の府との関係を具現化するのは建国初期の大統領の仕事であった。建国初期の
大統領がそうした具現化を行ううえで、いかに大統領職に関する見解、政治的
対抗者の決意、そして広範な政治的文脈に依存しようとも、1840 年までに大統
領は大統領の権限を拡大し、大統領職を党派に基づいた政治的な官職に変えた。
イギリス国王の過剰な行政権に対する反応として、邦議会は行政府の権限を
制限する邦憲法を制定した。しかしながら、徐々に立法権の濫用が、新たに批
准された合衆国憲法の下の連邦行政府に対する支持を生み出す契機となった。
憲法制定者は、並び立つ立法府と司法府によって均衡が保たれる強力な行政府
という概念を受け入れていた。その一方で、憲法に反対する者は、そうした安
全策が不適切であり、大統領が実質的な君主になるのを防止できないのではな
いかと恐れた。こうした懸念は、連邦政府の基本的な性質に関する議論を招き、
建国初期の政治を支配し、二大政党制度の原型を生み出し、アメリカ政治の中
で継続した主題となっている議論を促している。
1789 年 4 月 30 日、ワシントンが最初の就任宣誓を行うにあたって、人民が
示した姿勢は、人民が新しい政府を歓迎しながらも、大統領の一挙一動に注意
深く目を配っていることを示していた。ワシントンは、共和国が存続できるか
否かは大統領制度の成功にかかっていると考えた。アメリカ、そしておそらく
世界の目が連邦政府に向けられているのを確信しながら、ワシントンは行政府
を賞賛に値するが強力な新しい政府の府に作り上げようとした。まず連邦の官
職任命をワシントンは大統領の最も慎重を要する責任と見なし最初の課題とし
た。ワシントンは友人に宛てた多くの手紙の中で、連邦の官職任命において血
縁と友情の義務から自由であることの重要性を主張した。
ワシントンは、独立革命の軍事的、または行政的業績を通じて一般から賞賛
14
アメリカ大統領制度史上巻
され、名声を得ていて、憲法に対して揺ぎ無い支持を与えている人物を公職に
選んだ。さらに閣僚人事だけではなく、ワシントンは自ら数百に及ぶ連邦の官
職を指名し、いかに些細な官職であろうと行政組織のあらゆる官職の使命に関
与した。ワシントンは、閣僚を自らの副官と見なし、行政組織に関する完全な
統制権を行使し、どのような決定であれ最終判断を下す権限を持った。
強大な大統領制度に反対する議員は、大統領が閣僚を罷免する権限を制限し
ようとしたが、議会は 1789 年の決定で大統領が単独で閣僚を更迭する権限を認
めた。さらに強力な行政府が法の執行を行わなければならないと信じてワシン
トンは地方検事を統制し、指揮系統を構築し、洗練された国家で見られるよう
な儀礼を導入し、特定の責務を負わせた。
ワシントンの行政官の統制に対して公然と挑戦した者はほとんどいなかった
が、アメリカ人の君主制と中央集権に対する反感のために、大統領の日常的な
行為や意見が絶えず監視にさらされた。ワシントンは自らの振る舞いが将来の
大統領の形態を打ち立てることを認識していたが、すべての人々を喜ばせるこ
とはできないと悟っていた。批判を見越してワシントンは権力の分立が重要だ
と考えた。条約について諮るために上院を訪問して満足がいく結果を得られな
かった後でワシントンはすべての議会への通達は文書で行うことを決定した。
1792 年 4 月、ワシントンは各州の住民につき 3 万人毎に 1 人の下院議員を割り
当てるという憲法の規定に反する法案に初めて拒否権を行使した。議会が法案
を修正した後にワシントンは法案に署名した。こうした行動によって、行政府
と立法府の間に存続する抑制と均衡が有効に機能させられた。
批判を避けようとするワシントンの試みにも拘わらず、フランスとイギリス
の戦いに関する中立宣言、ウィスキー反乱の鎮圧、ジェイ条約の締結などをめ
ぐって大統領の権威に対する抵抗が噴出した。中立宣言とジェイ条約をフラン
スとの同盟に違反すると見なした親仏派はジェファソンも含めて、ウィスキー
の課税に反対して立ち上がった農民を鎮圧するために軍を率いたワシントンの
行動に怒った。ワシントンの武力の誇示は大統領制度と連邦政府の正統性を示
すためであったが、民主共和派が拡大する契機となり、ジェファソンを辞任に
追いやり、二大政党制度の確立を促した。
ワシントンの人気は未だに衰えなかったが、連邦の権威に対する抵抗が強ま
る一方であることに心を痛めたワシントンは、2 期目の終わりに告別の辞を公表
して党派の危険性を示唆した。告別の辞の公表によって将来の大統領のために 2
概論
15
期在任の前例を作ったというのが伝統的な解釈だが、ワシントンの日記や手紙
によれば、ワシントンは単に自分の家と家族のもとに戻りたかっただけであっ
たことが分かる。大統領を退任するまでにワシントンは弛まぬ監督を以って大
統領制度と行政府に正統性を与えた。ワシントンが示したように、大統領制度
の将来は大統領の個性、憲法に対する姿勢、そして国内外の危機への対応に依
拠することが予見された。時宜に適ったことにも、第 2 代大統領となったジョ
ン・アダムズはワシントンが抱いた強力な行政府という観念を共有していた。
建国されたばかりの国家にとって統治の継続性を保つことが最良だと考えて
アダムズはワシントンの閣僚を留任させた。1796 年の大統領選挙の結果、アダ
ムズは民主共和派のジェファソンを副大統領に迎えなければならず、ワシント
ンが任命した者の中にはアダムズに対する忠誠心が疑わしい者が少なからず存
在した。
アダムズ政権は内部抗争、外交的失敗、そしてフランスとの宣戦布告なき戦
争に費やされた。アダムズは、カリブ海と大西洋におけるアメリカ商船に対す
るフランスの攻撃を外交を通じて解決したいと望んだが、1798 年、フランスの
代理人はアメリカの外交官から交渉を開始する見返りとして賄賂を引き出そう
とした。この XYZ 事件と呼ばれる事件が発覚すると多くの者はフランスに対す
る全面戦争を唱えた。アダムズは穏健な方針を維持しながらも海軍省を創設し、
艦船の建造を議会に求め、アメリカの艦船と私掠船にアメリカ沿岸とカリブ海
域でフランスと交戦するのを認めた。アダムズにとって、議会の宣戦布告なし
で海軍を配置することは憲法上、大統領に最高司令官として認められた範囲内
の権限であった。
新聞による政策の酷評に対応するためにアダムズは、1798 年、治安を乱すと
考えられる外国人を国外退去処分にし、名誉毀損と見なされる批判を処罰する
権限を大統領に与える外国人・治安諸法に署名した。フランスとの戦争を予期
してアダムズは議会と協力して不動産や奴隷に課税することで軍の規模を拡大
した。新しい課税はペンシルヴェニア州でフリーズの乱を引き起こし、アダム
ズ政権は暴動を鎮圧するために軍を配置しなければならなかった。その一方で
アダムズは軍の拡大を支持する連邦派を怒らせた。連邦派の支持を得てハミル
トンは消極的なアダムズから軍を拡大する主導権を奪おうとした。しかし、ア
ダムズは独断でフランスへの使節派遣を決定して、そうした計画を覆そうとし
た。アダムズは自らの政策に反対する閣僚を更迭し、拡大された軍を解体し、
16
アメリカ大統領制度史上巻
フリーズの乱の指導者に恩赦を与えた。アダムズは行政府の統制を維持するた
めに 21 人の行政官を更迭したが、連邦派は議会の内外でアダムズのリーダーシ
ップと政策を損なう運動を始めた。
1800 年の大統領選挙が近付く中、アダムズは民主共和派と対抗するだけでは
なく、連邦派の反感もかっていた。連邦派は公然と大統領を気質と知性の点で
大統領職に向かないと非難した。こうした抵抗にも拘わらず、アダムズは敗れ
たとはいえその差は 8 票差であった。ニュー・ヨーク州のアーロン・バー(Aaron
Burr)の助けを得て、民主共和派は 12 票の選挙人を擁するニュー・ヨーク州を
確保し大統領選挙に勝利した。
党派的争いによってアダムズは苦い経験をしたが、18 世紀の終わりまでにア
ダムズとワシントンは、大統領の権威と行政府に対する単独的なリーダーシッ
プを確立した。アダムズとワシントンは、連邦法を執行し、国家の安全保障を
維持することができる独立した大統領職の形成に貢献した。ワシントンは、大
統領を威厳、決意、強さを持った統一された政治的存在に作り上げた。アダム
ズは海軍省の創設、通商の保護、フランスの交渉で示した独断を通じて行政府
と大統領の権限を拡大し、大統領の権威を守りながら宣戦布告を避けた。1800
年までに大統領制度は連邦政府の重要な一部となった。
1790 年代を通じて、ジェファソンは小さな政府を志向し、大統領の権限と中
央集権化に疑念を抱く民主共和派を指導した。大統領としてジェファソンは、
エリート主義で君主的だと見なされるものをすぐに廃止した。ジェファソンは
普段着で訪問者を接受し、儀礼がかった公式晩餐会を止め、虚飾だと思えるあ
らゆる形態の儀典を慎んだ。大統領の専制だと考えるものに対する軽蔑にも拘
わらず、ジェファソンは大統領の権限を縮小させるどころか、大統領職を著し
く拡大させ、大統領の権限の行使においてワシントンを超えた。例えばジェフ
ァソンは自ら閣僚の文書に目を通し、行政組織に関する大小を問わず様々なこ
とに深く介入した。ジェファソンは政治的理由でこれまでにない規模で連邦の
公職者を罷免した。そうした罷免の中には廃止された治安法の下、告発を行っ
た地方検事が含まれる。ジェファソンはそうした法に関連する係争中の事件の
判決に影響力を及ぼすために大統領の権限を行使した。民主共和党寄りの新聞
発行者に関する事件でジェファソンは起訴陪審で無罪になるように地方検事に
命令を下した。
ジェファソンは、大統領は最高裁から独立して憲法の解釈を行うことができ
概論
17
ると信じ、アダムズによる判事の任命に抵抗することでその理論を試した。1801
年裁判所法を違憲とする最高裁の権限を認めたジェファソンであったが、マー
ベリー対マディソン事件の判決でジョン・マーシャル(John Marshall)最高裁長
官が大統領を最高裁に屈従させようと試みたと考えて激怒した。ジェファソン
は判事を憲法の最終的な裁定者にすることは、アメリカ人を寡頭制の下に置く
と後に論じている。ジェファソンは、最高裁は行政府に介入する憲法上の権限
を持たないと宣言した。
1803 年、フランスからルイジアナを購入するために 1,500 万ドルの予算を求
めた時にジェファソンは大統領の権限をさらに拡大した。ジェファソン自身、
ルイジアナ購入の憲法上の疑義を抱いていたが、ジェファソンはルイジアナ購
入が国家にとって良いことであるからそれは正当化されると結論付けた。ジェ
ファソンは外交で自由裁量を発揮し、イギリスとの通商条約を上院に提出しな
かったことで敵対者を驚かせた。ジェファソン政権期のさらなる大統領の権限
の拡大は 1807 年から 1809 年の出港禁止法の間にもたらされた。イギリスとフ
ランスによるアメリカ商船に対する攻撃を解決するために、ジェファソンはす
べての出港を禁止し、民主共和党が支配する議会から未曾有の執行権限が与え
られた。議会の法の下、大統領によって認められた船舶のみがアメリカの港を
出ることができた。砲艦が違反者に向かって発砲し、議会は非協力的な連邦党
の知事を出し抜くために州の民兵を大統領の管理下に置き、大統領は法の執行
に関連する訴訟に介入することができた。例えば、チャールストンの徴税官に
船舶の出港許可を与えるように命じる裁判所の判決をジェファソンは覆した。
司法長官から反対された後、ジェファソンは司法長官の見解を公表し、すべて
の徴税官に裁判所の判決を無視して司法長官に従うように指示した。
1809 年 3 月までに出港禁止法と厳しい法の執行によってニュー・イングラン
ドの政策に対する敵意が著しく高まり、分離を示唆する声まであったので、議
会は出港禁止法の撤廃を余儀なくされた。戦争を避けることを望んで行った政
策に対する反感に失望したジェファソンは、後に大統領職を自らの墓碑銘から
除外したが、政治的な理由による公職者の罷免、ルイジアナ購入、司法府への
挑戦、出港禁止法で与えられた広範な執行権限を通じて大統領の権限を拡大し
た。またジェファソンはトリポリ戦争を行い、地中海でトリポリがアメリカ船
を拿捕し、アメリカ船員を捕虜にするのを止めさせた。ジェファソンの従来の
大統領の権限と中央集権化に対する不安にも拘わらず、19 世紀はこれまでアメ
18
アメリカ大統領制度史上巻
リカが経験しなかったほど強力な大統領制度の下で幕を開けた。
ナポレオン戦争で生み出された外交上の問題は 3 人の大統領に付きまとった
が、ジェファソンの指導の下、民主共和党は軍事予算を削減し、アダムズによ
って配備された軍備を解体した。こうした措置はジェファソンの後継者である
マディソンの政権運営を困難にさせた。マディソンは他の大統領と同じく、不
忠誠な閣僚を含む27 人の行政官を更迭することで行政府を統御した。
1814 年、
上院は決議を通じて大統領の権限を制限しようとしたが失敗した。
マディソンは戦時大統領として失敗であったと批判されることが多い。実際、
強力な行政府を信奉するマディソンの信念にも拘わらず、マディソンの個性は
戦時大統領に求められる資質に適していなかった。マディソンは学究肌で穏や
かに話し、戦時に求められる政党の指導者になることができなかった。出港禁
止法が撤廃されたために、マディソンはアメリカの通商に加えられるイギリス
とフランスの攻撃に対してどのように対処すればよいのかという問題をめぐる
政党の争いに巻き込まれた。1812 年戦争に至るまでマディソンは外交文書の内
容が本当かどうかよく確かめることもなく性急な判断を下したために問題を余
計に困難にした。民主共和党のタカ派は、軍備の削減のために適切に戦うこと
ができず、決定的な勝利を収めることができそうにもないイギリスとの戦争を
唱導した。
たとえ歴史家が主張するように、マディソンがタカ派の圧力によって戦争を
行うことを余儀なくされたとしても、マディソンは反戦の声を抑圧するために
治安法の制定を求めるタカ派の要求を黙認しようとはしなかった。またマディ
ソンは、連邦党が開催したハートフォード会議によって提案された、再任を制
限し、同じ州の出身者を連続して選出することを禁じることで大統領の権限を
損なう憲法修正を認めようともしなかった。さらに 1815 年、マディソンはバー
バリ諸国(16 世紀から 19 世紀にかけてのモロッコ、アルジェ、チュニス、トリ
ポリ)を打ち破ることで地中海でアメリカを長い間悩ませてきた問題を完全に解
決した。過去の過ちから学んだマディソンは退任する前に軍事支出を増額し、
平時の軍の規模を 3 倍に拡大し、沿岸要塞に予算を割り振る革新的な防衛計画
を提案した。いろいろ問題はあったにせよ、マディソンは人気のある大統領と
して退任することができ、退任した後もその政治的意見は尊重され、大統領の
権限の擁護者となった。
モンローは 1812 年戦争後の愛国主義が高まった時に大統領に就任した。政権
概論
19
初期、モンローはアダムズ=オニース条約を締結し、スペインからフロリダを
獲得し、モンロー・ドクトリンを公表することで大統領の外交に新時代を切り
開き、西半球への干渉と植民地化についてヨーロッパに警告した。連邦党は急
激に衰えたために党派的対立は少なくなり、民主共和党の実施的な一党支配に
よる「好感情の時代」が訪れた。モンローは署名に関する声明を出した最初の
大統領である。それは法案の特定の条項に関して大統領が何故、拒否権を行使
しなかったのか説明する声明である。さらに憲法上の疑義を抱きながらもモン
ローは国内開発事業の端緒となる法案に署名し、将来、連邦政府が公共事業を
監督する道を開いた。
1818 年から 1820 年にかけてミズーリを奴隷州として加入を認めるか否かを
めぐって議会は激しい議論を交わした。モンローは議論に関する公式声明を発
表することはなかったが、ミズーリで奴隷制度を禁止するのは違憲であると考
え、禁止を認めるようないかなる法案にも拒否権を行使するつもりであった。
上院はミズーリでの段階的な奴隷解放を促進する下院の法案を認めようとしな
かった。その結果、今後、ルイジアナから形成される北緯 36 度 30 分以北の新
しい州で奴隷制度を禁止する一方でミズーリを奴隷州として認める妥協が成立
した。モンローはミズーリ妥協を承認し、1821 年 8 月、ミズーリは奴隷州とし
て連邦に加入した。
モンローは任期の全期間を通じて高い人気を保った。モンローが大統領に就
任した 1817 年までに既に民主共和党は 16 年にわたって政権の座にあり、その
ためモンローは公職者をほとんど更迭することなく、議会と政策をめぐって争
うこともほとんどなかった。1816 年、連邦党は最後の大統領候補を擁立し、1820
年の大統領選挙は実質的にモンローの対抗馬はおらず、連邦政府は党派的対立
を克服したかのように思えた。
しかし、党派的対立はモンロー政権で一時的に休止していただけであった。
党派的対立の解消は、混戦となった 1824 年の大統領選挙を制して大統領になっ
たジョン・クインジー・アダムズにこそ必要であったかもしれない。アダムズ
は自らを全国を代表する人物と見なし、大統領職を国内開発事業を推進するた
めに利用しようとした。アダムズは、連邦政府による教育計画、海軍士官学校、
天文台、運河、道路の建設、そして、オレゴンの獲得を提唱した。アダムズは
先駆的な構想を持っていたが、アダムズに反対するジャクソン支持派議員は、
そうした計画によってもたらされる連邦政府の拡大を非難し、アダムズの野心
20
アメリカ大統領制度史上巻
的な計画を阻んだ。さらにアダムズは時代錯誤な方法で政治困難を解決しよう
とし、政党政治の必要性を無視した。アダムズは行政府を支持者で固めること
を拒否し、空席が生じた時のみ行政官の任命を行った。そうした政党政治の軽
視によってアダムズは再選に必要な政治的連携を形成することができなかった。
ジャクソンからの悪意ある攻撃に効果的に対応できなかったアダムズは 1828
年の大統領選挙で大差でジャクソンに敗れた。アダムズの政治経歴はそれで終
わりではなかったが、その高い理想にも拘わらず、アダムズは大統領制度に大
きな影響を与えることはなかった。
大統領職はすべてのアメリカ人によって選ばれる唯一の公職であるという信
念に基づいて、ジャクソンは大統領制度を憲法の限界まで引き伸ばした。ジャ
クソンの信念は正しかった。何故なら 1832 年の大統領選挙までにサウス・カロ
ライナ州を除くすべての州で選挙人は一般投票で選ばれるようになったからで
ある。8 年間の任期の中でジャクソンは大統領制度の輪郭を再構築し、猟官制度、
合衆国銀行の廃止、議会や最高裁との衝突を通じて大統領の権限の新しい領域
を確立した。
ジャクソンは大統領を政党の指導者と見なし、閣僚には服従を求めた。ジェ
ファソンは大幅な行政官の更迭を行ったが、ジャクソンも同様に数百人の公職
者を交代させた。ジャクソンは、連邦政府には 3 つの同等の府があると認めて
いたが、最高裁がウスター対ジョージア州の判決で 1830 年インディアン強制移
住法は違憲だと判断した時に、ジャクソンはそれを無視してジョージア州がネ
イティヴ・アメリカンをオクラホマに強制移住させることを黙認した。またジ
ャクソンは、予算法案で提示された道路建設に反対することで署名に関する声
明に新しい役割を与えた。ジャクソンは法案に署名したものの、道路建設に予
算を割り当てないように議会に指示した。下院はジャクソンの指示が本来、認
められていない項目毎の拒否権にあたるとして批判したが、最終的にジャクソ
ンが勝利を収めた。
ジャクソンの物怖じしない性格と行政府の厳格な管理はジャクソンの立場を
強化した。元連邦党員と不満を抱いた民主共和党員はジャクソンを「アンドリ
ュー1 世」と呼び、ホイッグ党を結成した。2 度目の二大政党制の形成はジャク
ソンに責任がある。ジャクソンの 2 期目までに民主党は議会で辛うじて多数派
を占めていたが、1832 年、上院のホイッグ党議員は合衆国銀行の特許が切れる
4 年も前に特許の更新を実現しようとした。ジャクソンは合衆国銀行特許更新法
概論
21
案に拒否権を行使し、党派的な銀行家が銀行の連邦的な義務に違反していると
公表した。議会との引き続く戦いの中でジャクソンは合衆国銀行から政府の預
託金を引き上げるように財務長官に命令した。そして、命令に反対した財務長
官を更迭して新たに財務長官を任命することで命令を実行させた。
1833 年、上院は預託金の引き上げに関する書類を提出するように大統領に求
めた。しかし、ジャクソンは立法府と行政府は同等の立場にあり独立している
という主張に基づいて上院の要求を拒否した。1834 年 3 月、ホイッグ党のヘン
リー・クレイ(Henry Clay)上院議員は、憲法に違反して預託金を引き上げ、財
務長官を罷免した故を以って大統領を問責する決議を通過させた。ジャクソン
は上院が憲法で定められた領域を踏み越えていると批判する声明を発表し、下
院が大統領の不正行為を判断する権限を持つので問責は上院の権限に属さない
と論じた。合衆国銀行の特許は更新されなかったので、上院は行政官の罷免の
理由を説明する報告を提出するように大統領に強制することで報復しようとし
たが、下院で法案は否決された。上院は人事をめぐってジャクソンと対決した。
ある測量士の解任に関して、上院はジャクソンの指名を承認することを拒絶し
た。何故ならジャクソンが同じ人物を再指名しただけであったからである。ま
たホイッグ党議員は、ロジャー・トーニー(Roger B. Taney)の最高裁判事指名を
できるだけ延期させようと試みたが、1836 年にトーニーの指名は承認され、ト
ーニーは 1864 年に亡くなるまで在任した。1837 年 1 月に上院が大統領を問責
した決議を公式記録から抹消することを決定した時に、ジャクソンと議会の対
立は終わりを迎えた。
ジャクソンの後を継いだのはヴァン・ビューレンである。ヴァン・ビューレ
ンはジャクソン政権で国務長官と副大統領を務め、ニュー・ヨーク州民主党の
強力な政党組織を背景にジャクソン政権を支持した。ヴァン・ビューレンの猟
官制度はジャクソンの猟官制度と似通っていたが、ケンダル対合衆国事件で下
された判決に挑戦しなかった。ケンダル対合衆国事件の判決によって、大統領
は行政組織に対して絶対的な権限を持たないことが示された。ヴァン・ビューレ
ンは同意しなかったものの、ケンダル対合衆国事件の判決はこれまでの大統領
が妨げてきた司法府による行政府の運営に対する容喙の扉を開いたと言える。
1937 年の恐慌でヴァン・ヴェーレンは経済的救済策をほとんど何も行わなかっ
たので人民の支持を失った。そして、ウィリアム・ハリソンに大統領選挙で敗
れたことでヴァン・ビューレンは 1 期のみの大統領になった。
22
アメリカ大統領制度史上巻
アメリカの最初の 8 人の大統領は大統領制度と未熟な国家像の両方を高める
共和政体の統治の基準を確立した。ワシントンやジェファソン、そしてジャク
ソンは大統領に司法府と立法府と同等の地位を与え、行政府を自由に管理する
ために戦った。1840 年までに様々な圧力にも拘わらず、大統領は有権者に対す
る義務を慎重に擁護し、自身の政策を推進するために政党政治を駆使した。各
大統領は、憲法制定者が思い描いたように大統領職が行政首長となり、最高司
令官となり、政策形成者になったことに自信を持った。したがって、ワシント
ンに続く初期の大統領は、憲法制定会議で示された概念から大統領制度と行政
府の進化に貢献し、行政府が連邦政府の中で、強力で影響力のある府になる基
礎を作った。
ジャクソンに続く大統領の中で成功を収めた者は個人的権威を利用したが、
しばしば政党の力に頼った。ジャクソンが強大な大統領権限を行使したことで
ホイッグ党は議会の優越を重視し、大統領の権限を制限することを目指した。
ホイッグ党にとって不幸なことに、そうした見解を抱いていたウィリアム・ハ
リソンは、任期が始まってすぐに病死した。ハリソンを引き継いだタイラーは、
離反した民主党員であり、様々なホイッグ党の全国的な経済政策を採用するこ
とを拒否した。タイラーが度重なる拒否権の行使でそうした政策を妨げようと
したのでタイラーの閣僚は一斉に辞任し、ホイッグ党はタイラーを党から放逐
した。政党もなく、閣僚もなく、名声もなく、信任もない大統領になったタイ
ラーは権限の正統性の源泉を除くすべての点でジャクソンが行使した大統領権
限に倣おうとした。タイラーは大統領職単独で何がなし得るのかを示した好例
であった。タイラーの拒否権とタイラー自身が確保した閣僚はタイラーが任期
を終えるまでホイッグ党が推進しようとした政策を阻んだ。
ポークはカリフォルニアを獲得することでアメリカをジャクソン主義的な拡
張主義に目を向けさせ、奴隷制度をめぐる緊張を緩和できるのではないかと望
んだ。ポークがメキシコ国境地帯に兵士を送ったために戦争が引き起こされた
がそれは状況を悪化させるだけであった。北部の民主党員からポークは南部の
奴隷制度擁護派の利益を優先したと非難を受けた。ヴァン・ビューレンを中心
とする民主党の一派は米墨戦争によって新たに獲得された領土での奴隷制度を
禁止するウィルモット修正条項を支持した。しかし、ウィルモット修正条項が
否決されると、彼らは民主党から離反して新たに自由土地党を結成した。民主
党の西部の一派は、奴隷制度の是非を住民に決定させる住民主権で亀裂を埋め
概論
23
ようとした。州権を尊重するジャクソン主義の根本原理に立ち返れば、住民主
権は非の打ち所がないように思えたが、地域間の衝突によって既に民主党の分
裂は回復できない程、進行していた。
テイラーはホイッグ党の 2 番目に選ばれた最後の大統領であり、大統領にな
る前に政治に関する経験がなかった。テイラーは後に 1850 年の妥協と呼ばれる
措置に関して議会と衝突した。奴隷主でありながら奴隷制度の拡大に反感を抱
いていたテイラーは 1850 年の妥協の基礎となるクレイが提案した法案に抵抗
した。テイラーが死去してフィルモアが大統領に昇任した後、1850 年の妥協は
成立した。テイラーの強力な議会に対する抵抗は大統領の独立を擁護しようと
した試みと見なすこともできる。
1850 年代を通じて、大統領職と議会は民主党の手中にあった。国家の拡大が
連邦を保持する最後の望みだと考えて、ピアースとブキャナンは西部への拡大
を明白な天命として強調した。しかしながらピアースは、スティーヴン・ダグ
ラス(Stephen Douglas)上院議員によって、実質的にミズーリ妥協を廃棄し、カ
ンザスで奴隷制度を認める住民主権を支持するように強要された。カンザス=
ネブラスカ法はさらに民主党を分裂させ、共和党の誕生を促した。ブキャナン
はキューバ獲得を追求することで南部の拡張主義戦略を解決しようとした。ブ
キャナンは、そうした発想を連邦分裂の危機から注意を逸らせようとする無益
な試みの中で考え出した。1860 年 12 月にサウス・カロライナ州が連邦から脱
退した時、ブキャナンは、大統領権限の憲法上の厳密な解釈によって危機に対
応するための能力が制限されると主張した。ブキャナンは権力の分立を単に機
能主義的な解釈で読み解いていた。議会への教書の中でブキャナンは、大統領
は法を執行する権限があるだけで法を作る権限はないと述べた。立法権限や戦
争権限の共有など厳格な権力の機能的分立には多くの問題があるのにも拘わら
ず、19 世紀の多くの大統領はブキャナンの例に倣った。
ジャクソンに続く時代の大統領は正統性を憲法の原理に求めようとしたが、
彼らはしばしばそれが政治的理由で不可能であると分かった。例えば、就任し
て僅か 2 日後に出されたドレッド・スコット事件の判決に支持を決定したブキ
ャナンの行動は、ブキャナンの憲法に対する姿勢と適合させることは難しい。
トーニー最高裁長官は、憲法修正第 5 条の正当な法の手続きを定めた条項に基
づいて、連邦議会の準州から奴隷制度を除外する権限を違憲と見なし、自由黒
人に対する市民権を否定した。トーニーの判決は北緯 36 度 30 分以北の準州で
24
アメリカ大統領制度史上巻
奴隷制度を禁止するミズーリ妥協を否定するものであった。ブキャナンの厳格
な権力の機能的分立によれば、ブキャナンはドレッド・スコット事件の判決を
違法と見なすことができたはずである。なぜなら判決によって裁判所はミズー
リ妥協に拒否権を行使する権限が与えられたからである。しかし、ブキャナン
はダグラスに対抗して南部の支持を勝ち取ろうと考えて政治的基盤に背を向け
ることを拒否した。その結果、政治と原理が袋小路にはまり込んだ。
リンカンはまったく異なる憲法の解釈を行った。権力分立の下で大統領は法
を執行するように制限されているが、リンカンは法の執行を広義に解釈した。
さらにリンカンはジャクソン主義的な人民を代表する大統領制度の概念を受け
入れた。リンカンは南北戦争を通じて人民の権限に依拠することで行政権の広
範な解釈と憲法に定められた最高司令官としての権限を正当化した。リンカン
は単なる民主主義者ではなく、緊急事態で君主が国家のために行動する権限を
与えるイギリス法の伝統に依拠している。ジョン・ロック(John Locke)はこうし
た特権はあらゆる首長に必要なものであると論じており、憲法の制定者も大統
領に行政権全体を与えたことでそうした特権を示唆している。
リンカンは有権者の信任を特権の行使の事後承諾の正当化に用いている。リ
ンカンは奴隷解放宣言を 1862 年の選挙の前に告知し、共和党が議会の支配を取
り戻してから署名している。リンカンは 1864 年の選挙の勝利を提案された修正
第 13 条に正統性を付与するものと見なした。
第 1 次就任演説でリンカンは行政首長のすべての権限は人民に由来し、州の
分離のための条件を定める権限は何も与えられていないと述べた。そして、も
し人民がそれを望めば、人民自身がそうすることができ、大統領はそれに関し
てできることは何もない。それは議会による宣戦布告を暗示していた。しかし、
議会の休会中にサムター要塞に対する攻撃が行われた。ほぼ同時にボルティモ
アの暴徒が首都を防衛するために必要な軍の通路を阻んだ。
リンカンは行動を余儀なくされた。数日間にリンカンは首都を守るために民
兵を召集した。それからメリーランド州で人身保護令状を差し止め、南部の港
を封鎖し、後にウェスト・ヴァージニア州を形成する連邦に忠実な者に武器を
送った。5 月 25 日、連邦軍は南部に同調的なジョン・メリマン(John Merriman)
を鉄道の橋を破壊する支援を行った容疑で逮捕した。収監された後、メリマン
は人身保護令状を請求した。メリマンの申し立てによる事件でトーニー最高裁
長官は、議会の法による他は人身保護令状の特権は差し止められないという判
概論
25
断を示した。
1861 年 7 月 4 日、リンカンは自身の行動を議会の前で説明した。大統領の権
限は制限されている。法が忠実に執行されるように配慮する権限によってもた
らされる行政権は、議会による宣戦布告なしでは、最高司令官としての権限に
依拠して正当化することは難しい。しかし、ほぼ 3 分の 1 の州において、忠実
に執行されるべき法全体が抵抗を受けて執行できない。1 つの法を侵害すること
を恐れて、1 つの法ではなくすべての法を執行できなくし、政府を分裂させるべ
きか。人民の自由に対して強過ぎる政府がよいのか、それとも国家の存在自体
を維持できない程、弱過ぎる政府がよいのかとリンカンは問うた。大統領と大
統領の非常時権限の擁護者は、こうした言葉を引用し、憲法は自滅するための
契約ではないと主張する。
宣戦布告なしで緊急時の非常時大権に依拠する大統領の権限は最高裁の挑戦
を受けた。リンカンが南部の港を封鎖した後、連邦の海軍は南部に積荷を運ん
でいた船舶を拿捕した。宣戦布告なしで大統領は戦争権限に基づく権限を行使
できないという論理に基づいて船舶の所有者は告訴した。裁判所は所有者の訴
えを斥け、5 票対 4 票で反乱を鎮圧する際の最高司令官としてのリンカンの行動
の正当性を認めた。
しかし、最高裁はリンカンがとったすべての緊急時の行動を認めたわけでは
なかった。ミリガンの申し立てによる事件で最高裁は、連邦裁判所が通常に機
能している場所での人身保護令状の差し止めに対して異議を唱えた。多くの学
者はミリガンの申し立てによる事件の判決の影響を割り引いて考えている。な
ぜなら判決は南北戦争が終結し、リンカンが死去した後に書かれたからである。
しかし、その判決文は大統領の権限の濫用に対する警告となっている。合衆国
憲法は戦時でも平時でも支配者と人民に対する法であり、あらゆる時、あらゆ
る機会ですべての階層の人々を守る盾であると判決文は述べている。政府の非
常時に憲法の規定を差し止めることができるという主張は誤りである。なぜな
らそれが基づいている憲法の中にある政府がその存在を維持するために必要な
あらゆる権限を持つという必要性の論理は誤りだからである。
リンカンがそうした判決に示された理念に背いていた一方で、リンカンの憲
法を尊重する姿勢はできる限り速やかに緊急事態の終結を決意させた。
1864 年、
リンカンは緊急事態が去り、憲法の制限が再び戻ったと決定した。連邦に復帰
する条件として奴隷制度を終わらせることを要求するウェイド=デーヴィス法
26
アメリカ大統領制度史上巻
案を議会が可決した時、リンカンは、自らが軍事的根拠に基づいて行った行動
と同様の行動を議会は憲法上、行うことはできないという根拠で拒否権を行使
した。
リンカンは明らかに歴代大統領の中で最も偉大な大統領である。それはリン
カンが大統領の権限を拡大したからではなく、リンカンが大統領の権限を叡慮
と良心を以って行使したからである。ゲティスバーグの演説は国家が新しい自
由の誕生に奉献されたと述べている。新しく生まれた自由は以前に存在した自
由とまったく異なるものであった。国家はもはやジャクソン主義の理念にも支
配されず、ホイッグ党の理念にも支配されなかった。その代わりにリンカンは
民主党の叡慮とホイッグ党の良心を兼ね備えた国家を思い描いた。リンカンは
自ら能力を発揮することができるすべての個人に法的保護を拡大しようとした
が、同時に政治組織が自己保全に必要な優越性も認識していた。
リンカンの大統領の権限の範囲は最高裁が示した判断で詳細に見ることがで
きるが、アンドリュー・ジョンソンの大統領権限は議会との関係で定義される。
ジョンソンは元奴隷主であり南部の民主党員であり、リンカンとともに副大統
領候補として立候補した。リンカンの暗殺後、ジョンソンは南部再建の方向性
をめぐって議会と争った。ジョンソンは戦闘で勝利したと言えるが、戦争には
明らかに敗北した。元民主党員で旧南部連合に忠実な知事を任命することでジ
ョンソンは再建策を南部の白人に有利になるようにした。それにも拘わらず、
ジョンソンが弾劾され 1 票差で罷免を免れた後、大統領制度はジョンソンの下
で政府に対する統制力を決定的に失った。
議会がジョンソンを弾劾しようとした動機は南部再建に関する法案を妨害さ
れたからである。しかし、弾劾は立法府と行政府の政策の違いを解決するため
の手段ではない。憲法は弾劾の根拠を、反逆、収賄、重罪などとしている。言
い換えれば明らかに違法である場合か犯罪である場合である。下院が弾劾の特
定の事由を決定し、それが上院の審判の基準となる。ジョンソンの弾劾の特定
の事由は 1867 年公職在任法の違反であった。ジョンソンに対する特定の非難と
全体の非難の功罪は論争の余地がある。
公職在任法が大統領の罷免権を剥奪する議会の露骨な試みであるのかどうか
を判断することは難しい。憲法は任命権について言及しているが、罷免権につ
いては言及していない。この欠陥の指摘は第 1 議会にまで遡る。議員は外務省
の創設にあたって、大統領は単独で閣僚を罷免することができるのか否かを論
概論
27
議した。大統領が効果的に行政組織を管理することができるようにするために
は独立性が必要であるという結論に達した。任命権は上院と分有されているが、
独立性は大統領のみに罷免権を与えることでのみ確保される。
こうした合意にも拘わらず、議会はエドウィン・スタントン(Edwin Stanton)
陸軍長官を在任させるために公職在任法を可決した。陸軍省は、議会の南部再
建策で重要な役割を果たす解放黒人局を管理していた。ジョンソンは解放黒人
局が旧南部連合の諸州の復帰の障害になると考え、スタントンを罷免してグラ
ントを新たに指名した。下院はジョンソンの弾劾を決定することで報いた。弾
劾では、ジョンソンは任免権を法を妨害するために使ったと批判された。確か
にジョンソンはそうしたが、立法権は分有された権限であり、罷免権は分有さ
れた権限ではない。それ故、ジョンソンは公職在任法の合憲性を問うことで自
らの行動を正当化することができた。最終的に上院は大統領の罷免に必要な 3
分の 2 の票数を集めることができなかった。
立法府と行政府の本当の戦いは、憲法修正第 13 条と第 14 条の批准に対する
姿勢の違いと旧南部連合の諸州の復帰の条件をめぐって行われた。ジョンソン
は旧南部連合の諸州に奴隷解放を支持する誓約をすることで憲法修正第13 条に
投票する資格を与えたいと考えていた。ジョンソンは旧南部連合の諸州に、解
放された奴隷に法による正当な手続きを与える一方で旧南部連合の諸州の政治
的権利を制限する憲法修正第 14 条の批准を求めることを拒んだ。議会の共和党
過激派は解放黒人局を旧南部連合の諸州を黒人の有権者の手中に置くために使
い、旧南部連合の諸州に憲法修正第 14 条の批准を求めた。議会の共和党過激派
は黒人の選挙権を支持し、旧南部連合の高官を追放しようとしたが、ジョンソ
ンは黒人に対する人種的偏見を拭い去ることができず、南部への同情を棄てる
こともできなかった。解放奴隷は 40 エーカーの土地とラバが与えられる予定で
あったが、主にジョンソンの妨害によって実現しなかった。
ジョンソンは最後のジャクソン主義者と見なされ、南部の白人同胞に焦点を
あてた南部再建策を維持しようとした。大統領としてジョンソンは貧困白人と
奴隷主の両方を含む全体の善に配慮していると主張した。ジョンソンは自らが
タイラーと同じく、信任も政党も名声も議会の支持もない立場に置かれている
ことに気付いた。弾劾による罷免の危機は回避されたが、大統領制度は行政機
関に対する統制を失い、政府は議会の監督に委ねられた。ジョンソンの任期が
終わるまでにアメリカ政治は議会を中心とする政治に向かって動いていた。
28
アメリカ大統領制度史上巻
ジャクソン以後、低迷していた大統領の権限と権威はリンカンの死で頂点を
迎え、それ以後は再び急速に低迷した。南北戦争の予期せざる勃発でワシント
ンに生じた政治的空白は大統領のみが埋めることができた。緊急事態によって
リンカンは大統領権限を拡大させ、大統領制度に多くの先例を遺した。こうし
た先例は大統領職の伝統と見され、20 世紀において大統領が緊急時に権限を拡
大させる根拠として復活した。
ジョンソンが議会と戦い敗れた一方で、グラントは戦うことなく議会に降伏
したように見えた。1868 年、共和党の大統領候補指名を受諾するにあたってグ
ラントは「平和になろう」と述べた。それは北部と南部の間の平和を意味して
いたが、同時に議会と大統領の間の平和も意味していた。グラントは軍人であ
り、政治家ではなかった。平和を求めるにあたってグラントは議会の条件を受
け入れるつもりであった。
グラントを大統領に選んだことで、アメリカ人は軍事的英雄が大統領になる
という伝統を確立した。しかし、グラントが政党、地域、そして国民の均衡を
保つ際に直面した困難は南部戦争で直面した困難に劣るものではなかった。グ
ラントが就任するまでに、3 つの州を除くすべての旧南部連合の諸州が連邦に復
帰していた。その一方で白人の民主党員が南部の州の大半を支配していたので、
連邦への復帰によって再建をめぐる地域的な妥協を図ろうとする大統領の試み
が阻害された。南部に平和をもたらそうとするグラントの願いは、権力の座に
留まるために南部の民主党の票を必要とした共和党の姿勢、議会における争い、
北部の有権者の南部再建策に対する関心の減退によって阻害された。
グラントは南部で抑圧された奴隷の味方であるという評判を得ていたが、共
和党は過激派、保守派、穏健派に分裂しており、旧南部連合の高官をどのよう
に処遇するか、そして解放奴隷を支援するべきかといった問題で意見を異にし
ていた。そのような状況でグラントはジャクソン主義者のように対応した。政
策の焦点を領土の拡大にあてたのである。グラントはサント・ドミンゴを併合
しようとした。しかし、そうした試みは失敗に終わり、グラントは共和党を 1
つにまとめることができなかった。南部の民主党員とクー・クラックス・クラ
ンが台頭して南部を掌握すると、グラントは政治的テロを防止するために連邦
軍を派遣する権限を議会に求めた。クー・クラックス・クランやその他の暴力
的な民兵を抑えようとする措置は遅きに逸し、十分ではなく、分裂した共和党
員の目を覚まさせることもできなかった。
概論
29
1875 年までに共和党が支配する南部の州は 4 つだけになり、1876 年末まで
に民主党のサミュエル・ティルデン(Samuel Tilden)が大統領選挙で勝利する見
込みが高くなった。しかし、様々な政治的動きの後に 1877 年の妥協が成立し、
共和党のヘイズが大統領に選ばれた。ヘイズはルイジアナとサウス・カロライ
ナに対する共和党の支配から連邦が手を引くことに同意した。したがって南部
再建とこの時代の大統領制度は不名誉な形で終わりを迎えた。
特に国家構想の形成、戦争の遂行、そしてアメリカ国民との繋がりにおける
大統領権限の拡大は20 世紀になるまで大統領制度の基本的な特徴ではなかった。
大統領職の権限、大規模な行政府の官僚制度を含む近代的大統領制度の発展は、
憲法の制定者によって作られた慎ましい大統領職を作り変えた。連邦政府の三
府の中で行政府は最もその起源から拡大し、最も憲法制定者の意図から離れた
存在になった。セオドア・ローズヴェルトとウィルソンは、世論を積極的に喚
起しようと努め、国内外問題に積極的に関与することで近代的大統領制度の建
設者となった2。
1878 年から 1920 年の間、特にマッキンリーが大統領に就任した 1897 年以
後、大統領の相対的な権限は議会の権限を犠牲にして拡大した。19 世紀初期、
大統領は典型的に議会の主導に従い、行動をとるまえに明確な方向性が与えら
れるのを待っていた。しかしながら、20 世紀初頭までに大統領は度々主導的な
役割を果たし、議会は大統領の行動を事後承諾するか覆そうと努めた。しかし、
議会の行動はもはや以前ほど効果的でもなく重要でもなかった。大統領の権限
の拡大は、2 つの重要な発展の結果である。連邦政府の規制と法を執行する能力
の高まりとより積極的な外交政策の展開である。そうした試みは急速に拡大す
る産業社会に対応しようとする結果、生まれた。政治指導者は、自由市場によ
ってもたらされる否定的な社会的影響を緩和しようと努めながら、アメリカの
実業の範囲を国内だけではなく海外に広げようとした。この時代の共和党によ
るホワイト・ハウスの支配はそうした変化を定着させた。
1861 年のリンカン政権の開始から 1933 年のフーヴァー政権の終わりまで、
共和党はほとんどホワイト・ハウスを支配していた。南北戦争の間、連邦の擁
護者であった共和党は強力な州政府よりも強力な連邦政府を好んだ。共和党は
しばしば改革に携わった。共和党員は連邦政府の権限を市場経済と個人の行動
を形成するために使用するのを恐れなかった。さらに共和党は実業志向の政党
であり、その積極的な外交政策はアメリカの輸出のための海外市場の獲得に向
30
アメリカ大統領制度史上巻
けられていた。大統領職の長期にわたる支配を通じて、共和党はその政策目標
を実現することに成功したために、さらなる変革を求めて努力することが難し
くなった。
この時期に 2 人の民主党の大統領が選ばれている。クリーヴランドとウィル
ソンである。両者は共和党内の分裂と共和党の主要な綱領を取り入れることで
大統領選挙で勝利した。クリーヴランドは公職制度改革を最優先課題とし、そ
うした姿勢は多くの脱党した共和党員を引き付けた。ウィルソンは 1912 年の大
統領選挙でセオドア・ローズヴェルトが第三政党を結成して共和党の票を奪っ
たのに助けられて当選した。その時までに経済やアメリカ人のその他の生活の
側面を規制するために強力な連邦政府の権限を行使するという考え方が主流と
なり、ウィルソンはそうしたかつての共和党の理念を確かに継承した。
憲法は、大統領に法が忠実に執行されるように配慮することを求めている。
そのために大統領は上院の承認を得るか、もしくは単独で行政官を任命する権
限を持っている。1878 年から 1920 年の間、議会が法を執行する手助けをする
ためにより多くの行政官を指名する機会を大統領に与えたために大統領のそう
した権限は拡大した。
拡大する産業市場経済の複雑さと危難に取り組むために、議会は州際通商委
員会、移民帰化局など新しい連邦機関を創設する一連の法案を可決した。そう
した新しい機関の大半は行政府に属し、大統領の監督の下に置かれた。大統領
は、大統領令を発することで特定の方法で法を執行する行政官を指示すること
ができた。21 世紀の基準からすれば、19 世紀後半から 20 世紀初期の大統領は
控え目に大統領令を使った。その中でクリーヴランドが最も多く大統領令を発
したが、その数は 161 であり、ジョージ・W・ブッシュの 284 と比べて少ない。
その頃の大統領令はトルーマンが 1947 年に発した軍隊の人種統合を命じる大
統領令などに比べてその内容においても劇的ではなかった。大統領令は、公職
資格の調整、国立公園、国有林、ネイティヴ・アメリカンの居留地の設立など
に使われた。後の基準からすれば一般的でもなく劇的でもなかったが、大統領
令の使用は増え始めた。
1878 年以前に発せられた大統領令は僅かに252 であり、
そのうち 144 は南北戦争期に発せられた。1878 年から 1920 年にかけて現行法
を解釈し、議会の関与なしで実質的な法の修正を行うのに大統領令が使用され
る前例が確立した。
この時代の大統領令の新しい重要な使用法の 1 つは、どの連邦の官職が新し
概論
31
い公職制度法の適用対象となるのか指定する使用法である。不満を抱いた猟官
者によってガーフィールドが暗殺されたことで、ジャクソン政権以来、多くの
官職を埋めるのに使われてきた猟官制度の徹底的な改革を求める声が高まった。
猟官制度の下で官職を得るために最も重要な資格は有力な政治家との繋がりで
あり、党組織が官職の分配を促進した。統治がより複雑化するにつれて、公職
制度改革者は、職務をより円滑に実行するために経験と訓練を積むように行政
官に求め、政党との繋がりの強さではなく、成果競争主義に基づく採用や昇進
を行うように求めた。こうした制度を通じて、経験豊富な行政官が政権交代に
拘わらず、職を維持することができる。
ペンドルトン法によってそうした公職制度が連邦政府に導入された。大統領
はどの官職を政治任用職にするのか、またはどの官職を公職制度法の適用対象
にするのか決定する権限を与えられた。この時期の大統領、特にクリーヴラン
ドは公職制度法の適用対象となる官職の数を増やした。党派心は行政官の資格
として完全に抹消されたわけではなかったが、大統領は公職制度によって自ら
の政策を政権を超えて制度化することができるようになった。再選を阻まれ、
後に返り咲いたクリーヴランドにとって、そうした戦略は共和党に連邦の官職
を支配させないために重要な方法であった。
大統領の権限における最も劇的な変化は、積極的な外交政策の採用から生じ
る権限の増加である。この時代のアメリカ外交の主要な目的は、アメリカの生
産物の市場を確保することであった。1890 年代から重要性を増した目的は、国
際問題を支配する列強に仲間入りを果たすことであった。こうした目的は、条
約、行政協定、軍事力によって達成され得るもので、そうした手段は憲法上、
大統領の領域であった。
技術的変革、特に通信と海運の分野での変革は日常的に行われる外交関係の
構築を変化させ、前例のない程に大統領個人に権限が集中した。特に重要なの
は電信である。アメリカで商業用の電信は 1851 年に開始された。1866 年まで
に大西洋横断電信線がアメリカとイギリスを結んだ。国際的電信網が整備され、
費用が下がると、国務省やヨーロッパに派遣されている公使は電信にますます
頼るようになり、直通線を事務所に設置した。電信線の使用が一般化する前、
海外に派遣された外交官は外交政策を決定する大きな権限を持っていた。状況
を説明する手紙を本国に送り、本国からの指令を仰ぐには非常に長い時間がか
かった。指令が届く頃には状況が変化してしまい、その指令がまったく役に立
32
アメリカ大統領制度史上巻
たない可能性がある。そのため外交官はある程度、独断で交渉を進める必要が
あった。しかし、電信によって通信速度は画期的に速くなった。そのため大統
領と国務長官は事態の展開を追うことができるようになり、外交的判断を下す
主体は外交官から大統領に移った。
航海技術の進歩も国際関係に大きな影響を与えた。木造船は鋼鉄船に取って
代わられ推進機関として蒸気機関、もしくは内燃機関が用いられるようになり、
移動速度は格段に増加した。最も重要なのは海軍がイデオロギー的な潜在能力
を得たことである。ドイツは大海軍を建造することで世界の覇権国家であるイ
ギリスを追い越そうと考えた。またアルフレッド・マハン(Alfred T. Mahan)は、
世界に強国であることを示すことと通商の安全は強大な海軍力に依拠している
と主張した。アメリカではマハンに共鳴したセオドア・ローズヴェルトやイギ
リスやドイツに対抗しようと考える者がアメリカ海軍の近代化と拡大を図った。
こうした海軍力の増大は国際的な紛争の場で海軍力を誇示して圧力をかける砲
艦外交の契機となった。しかし、そうした外交は紛争をますます拗らせる可能
性があった。その代表例がハヴァナで爆破されたメイン号である。メイン号の
爆破が米西戦争の契機となったのは周知の通りである。
最高司令官として大統領は紛争地域に艦船を送るように決定できるので、砲
艦外交は大統領権限を拡大させた。艦船はもともと実際の戦闘が起きるのを抑
止するために送られ、交戦するわけではないので、議会の関与を排することが
できる。議会は海軍の運営に予算を割り当てる権限を持つが、大統領はそれを
うまく迂回することができる。古典的な例は、セオドア・ローズヴェルトがア
メリカ艦隊をアメリカの海軍力を誇示するために世界周遊に送り出した事例で
ある。議会は必要な額の半分しか支出を認めなかったが、ローズヴェルトは世
界周遊を決行した。ローズヴェルトは、もし議会が艦隊を帰還させたいのであ
れば、必要な予算を支出しなければならないと主張した。最終的に議会は大統
領の要求に応じた。
軍事的であれ商業的であれ、世界規模で海軍力を誇示するためには寄港する
港や貯炭所が必要である。当時の船舶は寄港することなく全行程をこなすのに
十分な燃料を携行することはできなかった。貯炭所を確保することはアメリカ
の世界的な覇権の確立に必要であった。マッキンリーはハワイ、グアム、フィ
リピンの獲得を、船舶の運航に関する有用性と中国との貿易路の確保で正当化
した。併合条約の条件を交渉するのは大統領の責任である。グアムとフィリピ
概論
33
ンの場合、マッキンリーはスペインが米西戦争の敗北によって放棄した土地に
関してアメリカの姿勢を示さなければならなかった。グアムの獲得はその規模
からしてほとんど問題とはならなかったが、フィリピンは別であった。マッキ
ンリーはフィリピンが中国市場に近いと指摘しただけではなく、フィリピン人
を文明化しキリスト教化するのはアメリカの道義的義務であると主張した。し
かし、フィリピン人は独立を求めてアメリカと争い、セオドア・ローズヴェル
トが 1902 年に大統領令で戦争の終結を宣言したのにも拘わらず、実質的に米比
戦争は 1913 年まで続いた。
1898 年のハワイの併合もアメリカで議論を招いた。
アメリカの実業家が 1887
年以来、ハワイ政府を支配していたので、ハワイは併合に進んで合意した。日
本も人口の 4 分の 1 が日本人であるためにハワイに関心を抱いていた。日本政
府は 1897 年、日本人の待遇に抗議するために艦船をハワイに送ったことがあっ
た。日本の野心を阻むように求める声とハワイ政府の併合を要望する声にも拘
わらず、マッキンリーが上院に提出した併合条約は批准に必要な票を集めるこ
とができなかった。マッキンリーはタイラーが 1845 年にテキサスを併合した時
の前例に倣うことにした。マッキンリーはハワイ併合を条約ではなく両院合同
決議として実現する方法を採用した。両院合同決議は上院の 3 分の 2 の賛成を
必要とする条約の批准と異なり、各院の単純過半数のみで成立する。マッキン
リーは大統領が政策目標を実現するために憲法の規定を迂回する方法を持って
いることを改めて示した。
航海技術の進歩は後の鉄道や自動車の発達のように、国際的な旅行を容易に
した。そのため大統領は他の世界の指導者と面談できるようになった。電信の
発達とともにそうした面談は外交政策の決定権を外交官から大統領に移した。
セオドア・ローズヴェルトは在任中にアメリカを離れた最初の大統領である。
1906 年 11 月、ローズヴェルトはパナマを訪問し、パナマ運河の建設を視察し
た。ローズヴェルトは、ポーツマスに日本とロシアの代表を招いて日露戦争の
和平交渉を仲介した。仲介の成功によってローズヴェルトはノーベル平和賞を
受賞した。またローズヴェルトは、議会が中国人排斥を日本人にも拡大しない
ようにするのと引き換えに、日本政府が自主的に日本からアメリカへの移民を
制限する紳士協定を結んだ。直接外交交渉を行うために海外に赴いた最初の大
統領はウィルソンである。1919 年、ウィルソンはパリに自ら赴き、ヴェルサイ
ユ条約の締結に関与した。
34
アメリカ大統領制度史上巻
軍隊の最高司令官として大統領は、いつどこにアメリカ軍を配置するか決定
する権限を持っている。20 世紀初頭、セオドア・ローズヴェルト、タフト、そ
してウィルソンは議会の正式な宣戦布告なしで度々海外に派兵した。その 3 人
の大統領は特にラテン・アメリカとカリブ海域への派兵に積極的で 1904 年に発
表されたモンロー・ドクトリンのローズヴェルト系論によって派兵を正当化し
た。こうした干渉は、アメリカの資産を守り、資本主義自由市場が繁栄できる
安定した政治的、経済的、社会的条件を国内で維持できる友好的な政府を支持
し、時には樹立するために行われた。
モンローが提唱したもともとのモンロー・ドクトリンは、ヨーロッパ諸国が
西半球に新たな植民地を獲得せず、スペインの植民地支配から脱して新たに独
立した諸国に干渉しないように警告したものであった。ヨーロッパ諸国を西半
球から締め出す代わりに、アメリカはヨーロッパ情勢に関与しないものとした。
1823 年の時点でモンロー・ドクトリンはアメリカに積極的な外交政策を推進す
ることを求めるものではなかったし、西半球の諸国に介入する権利を主張する
ものでもなかった。
セオドア・ローズヴェルトはそうしたモンロー・ドクトリンを根本的に修正
した。経済と政府が円滑に運営されるように保障するために、西半球の諸国に
アメリカ政府は介入する権限を持つとローズヴェルトは論じた。アメリカは、
南北アメリカ、カリブ海、そして中央アメリカで国際警察として行動する。ロ
ーズヴェルト系論によって、外交的、軍事的問題に関する大統領の権限が強ま
ったことが示された。
1903 年、
ローズヴェルトはパナマ運河を建設する権利の獲得に動いた。
前年、
フランスの運河開削権が失効し、ローズヴェルトと国務省は運河開削権の購入
交渉をコロンビア政府と行った。コロンビア政府が非協力的であると分かると
ローズヴェルトは、もしコロンビアに反旗を翻すのであれば支援するとパナマ
人に約束した。1903 年 11 月、パナマで革命が勃発し、ローズヴェルトはコロ
ンビア軍の上陸を阻むためにパナマに艦船を派遣した。ローズヴェルトは大統
領権限を利用してパナマが独立を宣言して 3 日後にパナマを承認した。ローズ
ヴェルトは、パナマ政府と、アメリカに運河開削権と運河地帯の主権を与え、
アメリカがパナマの独立を保障する条約締結交渉を開始した。その後、運河の
建設が開始され、1914 年に完成した。パナマ運河はラテン・アメリカにおける
アメリカの最も重要な資産となり、海上運送の時間と費用を下げることでアメ
概論
35
リカ経済に貢献した。多くのアメリカ人はパナマ運河の獲得を歓迎したが、ロ
ーズヴェルトが運河を獲得したやり方をこころよく思わない者も少なからずい
た。
さらにローズヴェルトはラテン・アメリカの問題に積極的に介入した。サン
ト・ドミンゴは政治的、社会的不安定に陥っていた。ヨーロッパ諸国が債務を
回収しようと艦船を送り込むことをローズヴェルトは恐れた。ローズヴェルト
は海軍と海兵隊を派遣してサント・ドミンゴの税関を差し押さえ、ヨーロッパ
への負債の支払いを強制した。ローズヴェルトはサント・ドミンゴの関税徴収
をアメリカが管理することを認める条約を結んだ。上院はローズヴェルトがパ
ナマ運河を強引に獲得したやり方を思い出して条約を批准することを拒んだ。
そこでローズヴェルトはサント・ドミンゴと議会の承認を必要としない行政協
定を結んだ。
それによってサント・ドミンゴは実質的にアメリカの保護下に 1941
年まで置かれることになった。アメリカ軍は 1916 年から 1924 年にかけて再び
サント・ドミンゴを占領した。パナマ運河の獲得とサント・ドミンゴでの行動
を正当化するためにローズヴェルトはローズヴェルト系論を公表した。ローズ
ヴェルト、タフト、そしてウィルソンはそうした原理に基づいて、1920 年まで
にハイチ、キューバ、ホンジュラス、ニカラグア、そしてメキシコなどに 20 回
にわたって派兵した。
ウィルソンは議会の承認なしでラテン・アメリカに介入するのにローズヴェ
ルト系論を利用するのを躊躇わなかった。しかし、ウィルソンは第 1 次世界大
戦に参戦する際に大きな挑戦に直面した。なぜなら第 1 次世界大戦参戦は、外
国の同盟に巻き込まれないように警告したワシントンの告別の辞に反している
と考えられたからである。ウィルソンはアメリカが世界に平和をもたらすこと
ができる唯一の存在だという信念を持ち、その目標を達成するために憲法上、
大統領に認められているすべての権限を使った。ウィルソンの平和をもたらそ
うとする努力は交戦国に拒否された。ウィルソンは中立国の貿易の権利を主張
し、ドイツの潜水艦による無制限攻撃に反対し、連合国に財政的支援を行った。
最終的にアメリカは第 1 次世界大戦に参戦した。ウィルソンは講和会談で国際
連盟の構想を実現することができたが多くの点で譲歩しなければならなかった。
さらに講和会談に自ら責任を負い、議員を使節団に入れなかった。上院がヴェ
ルサイユ条約を修正なしで批准することを拒んだ時、ウィルソンは世論の支持
を集め、人民からの信任を得ていることを示すことで議会に圧力をかけるため
36
アメリカ大統領制度史上巻
に遊説旅行に出発した。ウィルソンの試みは失敗し、上院がヴェルサイユ条約
を批准することはなかった。
ウィルソンは外交に関する憲法上の権限と最高司令官としての大統領の地位
を国際関係に深く関与するために使おうとした。ウィルソンは戦争遂行を目的
として拡大された行政機関とアメリカ国民を動員するために大幅な大統領権限
を行使した。しかし、議会は喜んでそうした権限を与えたわけではなく、上院
はヴェルサイユ条約の批准を拒否することで大統領の権限を制限した。1920 年
代にもローズヴェルト系論は適用されたが、ヨーロッパへの関与は基本的に控
えられた。
1920 年代を通じて、革新主義の時代と第 1 次世界大戦で肥大化した連邦政府
の機能に対する不満が高まったことを反映して、ハーディングとクーリッジは
連邦による規制を抑えようとした。両者は、規制機関の担当者に実業寄りの人
物を任命し、減税を行い、連邦支出を削減しようとした。彼らの政策は急速な
経済成長に寄与したが、これまでの大統領が築いてきた強力な行政府を弱体化
させた。
1920 年の大統領選挙でハーディングは革新主義とウィルソンの外交政策に対
する反動として「常態」に復帰することを誓約した。大統領選挙に圧勝した後、
ハーディングは連邦の規制機能を縮小した一方で連邦政府の効率性を改善しよ
うとした。1921 年、ハーディングは予算会計法の成立にこぎつけた。予算会計
法はもともとウィルソン政権で提案され、政府の財政処理を合理化し、行政府
に統一した予算を提出するように求めた。また会計検査院が設置され、政府の
支出を監督する責任を負った。ハーディングは行政組織の統合を進めることで
閣僚と官僚制度の再編を行った。ハーディングは、成功した大企業で見られる
ような運営手法を連邦政府に導入しようとした。
しかし、全体としてハーディングは議会とうまく協働することができなかっ
た。共和党内の東部の保守派と西部の革新派の分裂によって、ハーディング政
権の鍵となる政策の実現が脅かされた。議会はハーディグ政権の戦時の税率を
大幅に引き下げる減税提案の規模を縮小させた。西部と中西部から選出された
上院議員は農業政策をめぐってハーディング政権と衝突した。
ハーディングはホワイト・ハウスを開かれた存在にし、定例記者会見を再開
し、カメラマンのためにポーズをとった。ウィルソン政権下で徴兵に反対する
ように扇動した罪で収監されていたユージン・デブズ(Eugene V. Debs)に恩赦を
概論
37
与えたことは、戦時中に連邦政府によって行われた抑圧からの決別を示してい
るようであった。ハーディングは専門のスピーチライターを採用した最初の大
統領である。
ハーディング政権は著しい腐敗が横行したことで最もよく知られている。テ
ィーポット・ドーム・スキャンダル、ホワイト・ハウスでの禁酒法破り、司法
省や退役軍人局でのスキャンダルはハーディング政権に暗雲を投げかけた。
1923 年 6 月、ハーディングは連邦政府と大統領の評判を回復させるために遊説
旅行に出発した。アラスカから帰還する途中にハーディングは急死した。
ハーディングの死に伴ってクーリッジが大統領に就任した。クーリッジは第 1
次世界大戦の頃と比べると著しく縮小された連邦政府をハーディングから受け
継ぎ、連邦政府をさらに縮小する試みを継続した。クーリッジ政権期を通じて、
連邦予算はほとんど増額されることはなく大幅な黒字を保った。クーリッジは、
余剰金を公債の償還に使い、公債の総額は 4 分の 3 程度まで減らされた。
ハーディングと同じくクーリッジも議会との関係は円滑とは言えなかった。
就任するにあたってクーリッジは前任者の政策を継承することを宣言した。強
力な共和党議員は、クーリッジを暫定的な大統領と見なし、国事をほとんど把
握できないと考えた。その結果、クーリッジが 1924 年の一般教書で行った立法
要請を議会はほとんど受け入れなかった。さらにクーリッジは第 1 次世界大戦
の退役軍人に報奨金を与える法案に拒否権を行使したが議会に覆された。さら
に議会の調査によってハーディング政権の腐敗が明らかにされるとクーリッジ
の立場も損なわれると考えられた。しかし、そうした調査に無干渉を貫く姿勢
や 1924 年の大統領選挙での勝利は、議会での批判を黙らせるのに十分な評判と
人気を大統領にもたらした。
クーリッジは報道や人民と親しい関係を築こうとした。クーリッジは寡黙で
知られていたが、平均で 1 週間に 2 回も記者会見を開催した。自らの発言を基
本的に内密にするようにクーリッジは求めたが、クーリッジは様々な問題に関
する深い洞察を示して記者に感銘を与えた。またクーリッジはラジオを使って
直接人民にその言葉を伝えた。クーリッジのすべての一般教書演説と 1924 年の
大統領候補指名受諾演説がラジオで放送された。
クーリッジは 1928 年の大統領選挙に出馬することを辞退したため、フーヴァ
ーが共和党の大統領候補指名を獲得して大統領選挙で勝利を収めた。フーヴァ
ーは富裕な鉱山技師であり、第 1 次世界大戦中の救済活動や食糧庁長官になっ
38
アメリカ大統領制度史上巻
たことでよく知られるようになった。ハーディングやクーリッジの制限された
政府の概念を共有していたフーヴァーであったが、近代における大統領の役割
をさらに積極的に考えていた。1920 年代、フーヴァーは航空産業や放送産業に
対する連邦の規制を拡大した。フーヴァーは、住宅、医療保険、労働関係、そ
の他の人間の活動に関する民間分野を促進するうえで政府は積極的な役割を果
たすべきだと考えていた。フーヴァーはそれまであまり活躍することはなかっ
た商務省の機能を拡大し、企業と提携して社会的、経済的状況に関する情報を
有効活用した。
フーヴァーは近代的大統領制度の概念において、大統領は政局から離れた立
場を保ち、公共の福祉の非政治的、非イデオロギー的な推進者になるべきだと
考えていた。フーヴァーは特定の政策を形成するために実業家や専門家の助け
を借りた。任期の 1 年目にフーヴァーは、社会的傾向に関する大統領調査委員
会を設立した。社会的傾向に関する大統領調査委員会は住宅、雇用、教育、医
療保険、法の執行、天然資源、そしてその他の重要な問題に関する考察を行っ
た。フーヴァーは委員会の考察を使って、主に官民連携によって立法措置を伴
わずに社会的進歩を促進し、大統領職の影響力を使って委員会の提言を前進さ
せるようにするつもりであった。
しかし、
1929 年の大恐慌の発生によってフーヴァーの野心的な計画は、
健康、
教育、そして福祉に関する新しい省庁を創設するという案とともに頓挫した。
フーヴァーは、大統領職が非政治的な公職であり、公共の問題に対して非党派
的で科学的な手段で対応しなければならないと考えていたが、すぐに自身が党
派に捕らわれていることを悟った。専門家の考察に基づいてアメリカ人の生活
を向上させるどころか、フーヴァー政権は終わりのない危機管理に直面しなけ
ればならなかった。
フーヴァーの議会との関係は最初から緊張していた。共和党内の西部の革新
派も東部の保守派もフーヴァーを信用していなかった。フーヴァーの政局から
離れた立場をとろうとする姿勢はフーヴァーと思想を同じくする議員でさえも
遠ざけた。1930 年の中間選挙で民主党は下院で多数派を獲得し、上院は両党で
均衡した。上院の革新派議員は失業者に対する連邦の直接支援を求めた。同時
に南部の民主党議員と共和党の保守派議員は、歳入の減少によって均衡予算が
実現できなかったことでフーヴァーを非難した。
フーヴァーは大恐慌の原因が国内ではなく国外にあると考えていたが、大恐
概論
39
慌の影響を緩和し、経済を刺激するための方策を行おうとした。1930 年、フー
ヴァーは失業問題に取り組む実業家と専門家からなる失業救済に関する大統領
機関を設立した。失業救済に関する大統領機関は、フーヴァーの考えを反映し
て、その活動は主に情報の収集、民間寄付の促進、州政府や地方政府に対する
さらなる救済の呼びかけに限られた。
フーヴァーは経済に刺激を与え、再編を行うために連邦の権限を直接行使す
ることを躊躇った。フーヴァーは連邦準備制度理事会に実業の拡大を促進する
ために利子率を下げるように促したが、銀行の破産の広がりは国家の金融制度
を損なった。1931 年、フーヴァーはようやく重い腰を上げて経済に連邦が直接
関与する動きを示し、復興金融公社の創設を提案した。復興金融公社は経済に
刺激を与えるために銀行や企業に融資を行った。1932 年 1 月、議会は復興金融
公社の設立を認める法案を可決したが、復興金融公社は経済の再生に目立った
効果を及ぼすことはなかった。フーヴァーを非難する者は、フーヴァーが連邦
の資金を銀行や企業に融資した一方で、失業者やその家族に直接連邦の支援を
与えなかったと批判するが、均衡予算を重視し、経済への連邦の大規模な介入
に対して慎重なフーヴァーの姿勢は多くの議員にも共有されていた。
フーヴァーはすぐに報道と衝突するようになった。経済的危機に直面して、
フーヴァーは記者と一般国民と円滑な関係を築くのに不手際を示した。フーヴ
ァーは度々記者会見を開いたが、フーヴァーの受け答えはしばしば曖昧であっ
た。フーヴァーの声は定期的にラジオで流されたが、事実と数字を並べ立てる
だけの放送は人間の温かみや個人的関心に欠けていた。フーヴァーは大統領に
なる前に人道主義者としての名声を得ていたが、大統領として冷淡で思いやり
がないと国民から思われるようになった。1932 年にフーヴァーは約束された報
奨金の即時支払いを求めるために議会に請願しようとワシントンに行進した退
役軍人とその家族を強制的に排除し、報道と国民の支持をさらに失った。アメ
リカ中で都市の空地やごみ捨て場などに建てられた失業者や浮浪者などを収容
する住宅群は「フーヴァーヴィル」と呼ばれ、空のポケットをひっくり返すこ
とは「フーヴァー・フラッグ」と呼ばれた。
こうした状況下でフーヴァーが再選される見込みはほとんどなかった。フー
ヴァーの対抗馬である民主党のフランクリン・ローズヴェルトは自信を発散さ
せ、支援を必要とする者に対して同情を示した。ローズヴェルトはどのように
大恐慌に取り組むか具体的な提案をすぐには明らかにしなかったが、ローズヴ
40
アメリカ大統領制度史上巻
ェルトの楽観的な姿勢はフーヴァーの悩みに満ちた陰気な姿勢と対照的であっ
た。
1932 年のフランクリン・ローズヴェルトの登場が新しい政治の時代の始まり
となった。ローズヴェルトは大統領が果たすべき役割について野心的な概念を
抱いていた。ローズヴェルトは、近代産業と都市社会の発展によってこれまで
にない程、強力な大統領が不可欠だと信じていた。農業と工業、供給者と製造
者、生産者と消費者といった複雑な関係で特徴付けられる経済的、社会的秩序
の調整と統合は大統領制度を通じてのみ達成できるとローズヴェルトは考えて
いた。連邦政府の規模と権限は著しく拡大された。1933 年から 1945 年のロー
ズヴェルト政権は、近代的大統領制度を定着させる重要な多くの変化をもたら
した。大統領専属の職員が果たす機能が拡充され、大統領は政策形成過程にま
すます深く関与するようになり、人民と強い絆が結ばれ、国際関係において大
きな地位を占めた。ローズヴェルト政権は近代的大統領制度の新しい理解を生
み出し、大統領の行動に関する期待と大統領がリーダーシップを発揮する能力
に焦点がますます当てられるようになった3。ローズヴェルトのニュー・ディー
ルは、第 2 次世界大戦参戦と同じく、大統領職と行政府の国内外にわたる権限
が拡大される時代の始まりであった。この時代、大統領制度に比べて、人民の
統治の主要な道具としての議会と政党の重要度は相対的に下がった。
ローズヴェルトは従来の定式に従うよりも、経済を再浮揚させるために様々
な新しい試みを行った。ローズヴェルトとフーヴァーは、活動的な大統領は、
政治的領域で既存の党派の衝突から超越するべきだという見解を共有していた。
しかしながら、ローズヴェルトはフーヴァーと違って有能な政治家であった。
たとえ政党がこれまでのようにもはや公共政策を形成し、経済的発展を促進す
ることができなくなっているとしても、政党と協調していくべきだとローズヴ
ェルトは考えた。したがって、ローズヴェルトの目標は二面性を持っていた。
管理能力を拡大することで経済的発展と社会福祉の調整者としての大統領の役
割を拡大するとともに、既存の二大政党制を支配している地域的利害を気にか
けることなく大統領が政策目標を追求できるように政党を再編成する。
ローズヴェルトの 1 期目は危機管理に費やされた。経済的成長を生み出し、
繁栄を取り戻すために官民の連携を促すというフーヴァーの思想をローズヴェ
ルトは決して否定していない。活発で統制された議会の協力を得て、ローズヴ
ェルトは連邦の権限を戦時のような程度と範囲で行使するニュー・ディールを
概論
41
推進した。ローズヴェルト政権の最初の 100 日間で、大統領は銀行制度を完全
な倒壊から救うために銀行の一時休業を命じた。議会はローズヴェルト政権の
要請に応じて多くの立法を行う一方で、グラス=スティーガル銀行法のように
ローズヴェルトの反対を押し切って制定した法もあった。貧窮者に直接連邦が
支援を行い、農業生産と市場を再構築し、工業部門で実業と政府の協調を促進
する施策が可決された。発電や天然資源保護を行う事業も認められた。
ローズヴェルトの成功の 1 つの秘訣は個人的な人気にあった。ローズヴェル
トはラジオを有効活用した。炉辺談話と呼ばれる一連のラジオ放送はローズヴ
ェルトと人民を結び付ける絆となった。1933 年 3 月、ローズヴェルトは炉辺談
話で銀行制度に関する政府の措置の詳細を話し、親しみやすい言葉でその他の
複雑な問題を説明した。12 年間でローズヴェルトは 1,000 回近くの記者会見を
行った。ホワイト・ハウスに宛てられた多くの手紙、カード、詩、歌、その他
の支持の表明はローズヴェルトのカリスマの現れであった。
2 期目までローズヴェルトは大統領の役割に関する明確な概念を完全に自由
に促進することはできなかった。100 日間の成功の後、ローズヴェルトは党派的
な伝統や古い議会の伝統が大恐慌の危機に対応しようとする大統領の努力を阻
害していると気付くようになった。1934 年の中間選挙で民主党が躍進したとは
いえ、議会は大統領の権限に依然として警戒心を抱き続けているようであった。
ローズヴェルト政権が熟考した計画はしばしば議会による修正を受けた後で辛
うじて法制化された。社会保障法は第 2 次ニュー・ディールの中核となる立法
であるが、受給資格、対象範囲、政府の責任などに関して南部の議会指導者が
要求した多くの制限が含まれている。さらに議会は、ローズヴェルトの拒否権
を覆して、退役軍人に特別給付を与える法案を再可決した。
ローズヴェルトの苛立ちは、ニュー・ディール立法を損なう最高裁の判決に
よってさらに悪化した。最高裁は、悪化した経済を立て直す中心的な措置と見
なされていた農業調整法と国家産業復興法に違憲判決を下した。ローズヴェル
トは、そうした判決を狭い政治的な党派主義と時代錯誤の法的解釈と見なし、
大恐慌から国民を脱却させようとする大統領の能力を制限するものだと考えた。
1936 年の大統領選挙で再び勝利を収めたローズヴェルトは 2 期目の大半を大
統領権限の拡大に費やした。1930 年代後半、ローズヴェルトは政治組織の刷新
と大統領権限の範囲の拡大のために、最高裁の改革、政党の再編成、行政府の
権限の強化を試みた。それは、地域を基盤とした政党、厳格な憲法解釈、党派
42
アメリカ大統領制度史上巻
に支配された議会を公共政策の形成と実施の主要な手段とすることは、社会の
変化に対応するには時代遅れであるというローズヴェルトの信念を反映してい
た。
ローズヴェルトはこうした努力において部分的な成功しか収めることはでき
なかった。最高裁を再編成するという案は失敗に終わった。1938 年の中間選挙
の予備選挙で保守党の現職議員をニュー・ディール支持者と入れ替ようとする
ローズヴェルトの試みは失敗し、リベラル派と保守派の線に沿って政党を再編
する試みは挫かれた。連邦の官僚制度を再編し、強化された行政府を通じてよ
り一貫性を持たせようとする試みは大統領権限の強大化を恐れる議会の妨害に
あった。第 2 次世界大戦以前からニュー・ディールの事業は制限されていたが、
1938 年の中間選挙によって生まれた保守連合によってローズヴェルトは野心的
な計画の一部を断念せざるを得なくなった。
しかし、そうした後退はニュー・ディール自体に致命的であったわけではな
かった。最高裁は反ニュー・ディール的な立場をとらなくなり、ニュー・ディ
ール立法の合憲性を認めるようになった。また判事の死亡や退任によってロー
ズヴェルトは新しい判事を指名することができるようになり、最高裁をわざわ
ざ再編する必要はなくなった。連邦政府を徹底的に再編するというローズヴェ
ルトの試みは実現しなかったが、1939 年、議会は再編法を制定し、様々な連邦
機関を再編する権限を大統領に与えた。さらに広範な行政府の運営を監督する
支援を行うために大統領府が創設された。政党を再編するという試みは成功し
なかったが、国際危機と世界大戦によって国民の目はホワイト・ハウスにます
ます向けられるようになり、議会の審議を支配してきた偏狭な地域主義を際立
たせる結果をもたらした。
1930 年代後半、国政を鋳直そうとするローズヴェルトの試みと同時に、国際
危機が国民の関心をとらえるようになった。ヨーロッパで行われている戦争と
日本の東南アジアへの進出は国民の目を国内問題から逸らせた。アメリカの軍
備を整え、ドイツの侵略に直面するイギリスに支援を与えるローズヴェルトの
一連の措置は、大統領がリーダーシップを発揮し、ホワイト・ハウスに権限を
集中させる新しい機会となった。第 2 次世界大戦を通じて、ローズヴェルトは
国家の資源を動員するために新しい様々な行政機関を設けた。1941 年 12 月、
議会は大統領に経済に対する戦時権限を与えた。ローズヴェルトは決意と活力
を以ってそうした権限を最大限に活用した。議会による明確な授権なしで、ロ
概論
43
ーズヴェルトはマンハッタン計画を推進し、日系人を強制収容し、公正雇用慣
習委員会を設立した。
1942 年の中間選挙の結果に勇気付けられた保守派議員はローズヴェルトに対
する攻撃を続けた。議会はローズヴェルトの税制を刷新しようとする試みを阻
み、重要なニュー・ディールの事業を終わらせた。しかし、ローズヴェルトの
国民への訴えかけ、そして戦時の決定が国の行く末を左右することから、依然
として国民の関心は大統領に向けられていた。第 2 次世界大戦後、冷戦の脅威
が認識され始めると、既に大戦中に確立していた国家安全保障に基づく官僚制
度が大統領制度をアメリカの政治組織の中核として強化した。
1921 年から 1945 年の間、大統領制度は権限と国民の注目度において不均衡
ながらも発展した。控え目な大統領であるハーディングとクーリッジは革新主
義の時代の前の常態に復帰し、地方の政党、地域的利害や党派的利害に支配さ
れる政治制度を管轄する大統領を目指した。フーヴァーはそうした前任者と異
なった概念を抱き、大統領制度を党派や伝統的な地域的、党派的忠誠から距離
を置いた存在にしようと考えた。公平無私な専門家の意見を活用しようとした
フーヴァーの試みは大恐慌によって打ち消された。ローズヴェルトはフーヴァ
ーとより活発な大統領制度に関する概念を共有していたが、さらに進んで州権
と連邦政府の無干渉といった伝統的な概念を打破し、大統領制度を経済的、社
会的変容を主導する手段と見なした。こうした大胆な大統領制度の概念が完全
に実現するのは第 2 次世界大戦中であったが、ローズヴェルトは最初から国内
問題を大統領の権限を拡大する主要な領域として見なしていた。近代的大統領
制度の発達に最も貢献したのはローズヴェルトである。
大統領への予期しない昇格にも拘わらず、トルーマンは特に外交分野で顕著
にアメリカ政治を形成した。トルーマン、そしてアイゼンハワーは、アメリカ
の経済成長と継続する冷戦のために、国内外の問題に関して主導的な役割を果
たす大統領制度の発展を統御した。ローズヴェルト政権で推進された大統領制
度の組織的発展に加えて、トルーマンは国家安全保障法を承認し、国家安全保
障会議、中央情報局、統合参謀本部、そして防衛省を設立した。アメリカの封
じ込め政策はトルーマン政権期に発展し、今後、40 年に及ぶアメリカの国家安
全保障政策の方針が定められた。国内政策でトルーマンはローズヴェルトのニ
ュー・ディールをフェア・ディールで拡大しようとしたが、そうした政策の法
制化にあまり成功しなかった。1950 年に朝鮮戦争が勃発し、戦争の泥沼化に伴
44
アメリカ大統領制度史上巻
ってトルーマンの支持率は劇的に下がったが、トルーマンは歴史的により高い
評価を与えられている。
1945 年 4 月 12 日、トルーマンが大統領になった時、アメリカは未だに第 2
次世界大戦の最中にあった。数週間後、ヨーロッパの戦争は終結したが、アメ
リカが原子爆弾を投下するまでアジアでの戦争は続いた。大統領としてのトル
ーマンの最初の主要な決定は、原子爆弾を使用するか否かであった。トルーマ
ンは日本との戦争が長引いてアメリカ軍の犠牲がさらに増えることを恐れて原
子爆弾の使用を決定した。
トルーマンが就任したばかりの頃は高い人気を誇ったが、その人気は戦後の
景気減速によって急激に下がった。1946 年の中間選挙で共和党は上下両院で多
数派を占めた。その結果、トルーマンは分断された政府と直面することになっ
た。トルーマンは 1948 年の大統領選挙で敗北すると多くの人々に思われていた
が、共和党の大統領候補に対して驚くべき勝利を収めた。
トルーマンの最も顕著な業績はソ連に対する封じ込め戦略を採用したことで
ある。それは、ソ連の侵略を抑止することで共産主義の拡大に対する戦いで勝
利するという戦略である。1947 年、トルーマンは共産主義の脅威に対抗するた
めにギリシアとトルコに援助を与えなければならないと演説して議会に封じ込
め戦略を提示した。この政策はトルーマン・ドクトリンとして知られるように
なった。
封じ込め政策を実行するためにトルーマン政権はその他の政策を展開した。
アメリカは西欧に対して経済支援を行うためにマーシャル・プランを承認した。
マーシャル・プランを議会に承認させやすくするためにトルーマンはジョン・
マーシャル(John C. Marshall)国務長官の名前を利用した。トルーマンはさらに
北アメリカとヨーロッパのための集団安全保障体制として北大西洋条約機構を
支持した。1948 年、ソ連がベルリンへの通路を遮断すると、アメリカと西側諸
国はソ連が封鎖を終わらせるまで物資を空輸して対抗した。
国内政策ではトルーマンはフェア・ディールでニュー・ディールの経済的、
社会的政策を継続しようとした。そうした政策には包括的な医療保険、連邦に
よる住宅建設支援、最低賃金の引き上げ、労働組合の保護などが含まれた。し
かし、トルーマンは自らの政策を実現するのに十分な支持を受けることができ
なかった。例えば労働組合を制限するタフト=ハートリー法はトルーマンの拒
否権を覆して成立した。トルーマンは大統領令で軍隊内の人種統合を推進した。
概論
45
トルーマンの多くの提言は民主党の戦後の綱領の主要な構成要素となった。
冷戦の封じ込め戦略はトルーマンの 2 期目に多くの批判にさらされた。ソ連
の核実験の成功、共産勢力による中国の支配などアメリカは多くの後退を体験
した。1950 年、ジョゼフ・マッカーシー(Joseph R. McCarthy)上院議員が連邦
政府内部に共産主義者とその同調者が含まれると宣言した。マッカーシーの批
判はマッカーシズムと呼ばれる一連の赤狩りをアメリカに引き起こした。1950
年 6 月、朝鮮戦争が勃発し、アメリカは韓国に対する軍事支援を即座に行った。
トルーマンは武力を行使するのに議会の決議を求めなかった。その代わりにト
ルーマンは国連安保理決議がアメリカの「警察行動」を正当化すると主張した。
アメリカを中心とした国連軍は北朝鮮の攻撃を撃退したが中国軍の介入によっ
て戦争は膠着状態に陥った。休戦交渉が行われたがトルーマン政権期中に終結
することはなかった。
たとえ大統領の任期を 2 期に制限する憲法修正第22 条が適用されなかったと
しても、朝鮮戦争と人気の低迷によってトルーマンは 1952 年にさらなる任期を
求めないことを決断した。もしトルーマンが 1952 年の大統領選挙に出馬してい
れば、第 2 次世界大戦の英雄であるアイゼンハワーの挑戦を受けただろう。ア
イゼンハワーはノルマンディー上陸作戦を成功に導き、1948 年の大統領選挙で
民主党と共和党の両方から出馬を求められる程の名声を得ていた。
アイゼンハワーは 1948 年に大統領選挙に出馬しなかったが、朝鮮戦争の行く
末と防衛費の増大、膨らみつつある財政赤字に懸念を抱いて 1952 年の大統領選
挙に出馬することを決意した。アイゼンハワーは共和党の大統領候補指名を容
易に獲得し、本選でも容易に民主党の大統領候補に勝利した。アイゼンハワー
はトルーマン政権下で北大西洋条約機構軍最高司令官を務めていたが、1952 年
の選挙戦でトルーマン政権の多くの政策に反対した。
しかし、外交政策ではアイゼンハワーはトルーマン政権の封じ込め戦略を採
用したが、幾つかの重要な違いがある。アイゼンハワーはもし防衛費が最優先
事項になってしまえばアメリカ人の生活様式が脅かされるという国内の危機を
共産主義による国外の危機と同様に警戒した。防衛費を統制下に置くために、
アイゼンハワーはアメリカと同盟国に対する攻撃への核抑止力に大きく依存し
た。
この政策はニュー・ルックと呼ばれるが、
ジョン・ダレス(John Foster Dulles)
国務長官の大量報復という概念で知られている。ニュー・ルック戦略の骨子は、
大量報復力を全体戦争と局地戦争に対する主要の抑止力とし、実際の戦闘でも
46
アメリカ大統領制度史上巻
必要に応じて大量報復力を行使すること、局地戦争では地上軍は関係同盟国に
依存し、アメリカは戦術核兵器を使用することができる空海軍と機動地上部隊
によって支援すること、日本、ドイツの再軍備を促進し、さらに軍事援助を活
用してアメリカの軍事力を補完する同盟諸国の軍事力強化を図ること、海外駐
留のアメリカ地上軍を削減し、機動的戦略予備軍を創設すること、アメリカ本
土の防衛を強化することである。
こうした政策を実現するためにアイゼンハワーは国家安全保障のための組織
として立案委員会に週毎の国家安全保障会議のための資料を準備させ、実施調
整理事会にその決定を実行させた。アイゼンハワーはそうした過程を管理する
ために国家安全保障問題担当特別補佐官を任命した。アイゼンハワーのホワイ
ト・ハウス内の改編は、軍事的経験に基づき、その政策に影響を与えた。
核兵器の脅威が朝鮮戦争を終わらせるうえでどのような役割を果たしたのか
は議論の余地があるが、アイゼンハワー政権は停戦交渉を進めた。フランスが
ヴェトナムでの植民地支配を継続するために支援を求めてきた時にアイゼンハ
ワーはヴェトナムに直接介入しようとはしなかった。フランスの敗北に伴うヴ
ェトナムの分裂はアメリカの将来の外交政策に重大な影響を与えた。
またソ連がスプートニクの打ち上げに成功した時、ニュー・ルック政策に基
づいて防衛費を抑制しようとするアイゼンワー政権の試みは批判を受けた。ソ
連がアメリカに対してすぐに核ミサイルを発射できる能力を開発するのではな
いかという恐れが強まった。アイゼンハワーはソ連に対する偵察飛行で集めた
情報によって深刻なミサイル・ギャップが存在しないことを知っていたが、情
報を公開しなかったためにアメリカの防衛力の増大に関する議論は続いた。
激しく対立する議論に関与することに消極的なアイゼンハワーの姿勢は見え
ざる手によるリーダーシップを反映している。アイゼンハワーは政策目標を熱
心に追及しながらも公的には政局に無関心な様子をよそおった。こうした手法
はマッカッシーの反共産主義十字軍の効果を減殺するのに役立ち、マッカーシ
ーは最終的に自らが行った高圧的な調査のために上院で問責された。しかし、
見えざる手は国内政策で、特に公民権の分野ではそれ程、明確ではなかった。
1957 年、アイゼンハワーはリトル・ロックの高校に黒人学生を入学させるため
に連邦軍を投入し、南部で黒人の投票権を保障するための 1957 年公民権法を支
持した。しかし、アイゼンハワーの政策の焦点は国家安全保障と外交政策であ
り、アイゼンハワー政権の遺産はそうした部分で顕著である。
概論
47
大統領職の大衆的な側面は、強力な大統領のリーダーシップを求める人民の
期待もあって、特に 1961 年から 1963 年のケネディ政権で、そのテレビの効果
的な利用もあって拡大し続けた。またこの時代は、アメリカが世界の超大国と
して支配権を確立したことで特徴付けられる。そのことにより大統領は 1960 年
代の偉大なる社会や貧困に対する戦いなどの大規模な国内政策や共産主義の国
際的な封じ込めなど大規模な外交政策を展開できるようになった。しかし、ヴ
ェトナム戦争の間の封じ込め政策の失敗は近代的大統領制度が持つ有効性に疑
問を投げかけた。リンドン・ジョンソンとニクソンは、ヴェトナム戦争に対す
る行動やウォーターゲート事件への関与などによって「帝王的大統領」という
烙印を押された。ローズヴェルトの超憲法的な手段によって生み出された成功
はもはや達成できないように思われた。
ケネディは最年少の 43 歳で大統領に当選し、その当時、最高年齢の大統領で
あったアイゼンハワーから大統領職を引き継いだ。世代交代はアメリカの政治
に新しい方向性を与えた。ケネディはニュー・フロンティアという言葉を政策
目標として掲げ、
「再び国を動かそう」というスローガンを採用した。ケネディ
はテレビを情報伝達手段として定期的に利用した最初の大統領であり、テレビ
でライヴ中継される記者会見を行い、人気を高めた。テレビは 1960 年の大統領
選挙でケネディの勝利に貢献した。ケネディとニクソンの間で行われた大統領
選挙本選で行われた最初の討論会でケネディは多くの視聴者に自信を持った姿
勢を示した。
就任するにあたってケネディは外交問題で多くの挑戦に直面した。就任後 1
ヶ月もしないうちに、政府高官は不注意にもミサイル・ギャップは存在せず、
アメリカはミサイル開発で先を進んでいると漏らした。それは、アメリカがソ
連に防衛分野で後塵を拝しているという 1960 年の大統領選挙でケネディと民
主党が訴えた内容と矛盾していた。
1961 年 4 月、ケネディ政権は、キューバの反乱者を支援してカストロ政権を
打倒しようという秘密の作戦が失敗に終わって困惑させられた。ピッグス湾の
侵攻はもともとアイゼンハワー政権で計画されていたが、ケネディの危機管理
能力に疑問が呈せられることになった。こうした問題に拍車をかけたのはケネ
ディが、アイゼンハワーが整備した安全保障問題に関する制度の多くを撤廃し
たからである。ケネディは国家安全保障担当特別補佐官を政策の調整役よりも
政策を提唱する役割に変えた。ピッグス湾の失敗の後、ケネディはニキータ・
48
アメリカ大統領制度史上巻
フルシチョフ(Nikita S. Khrushchew)書記長とウィーンで論争し、ベルリンの
壁の建築で東西の緊張は高まった。
しかし、ケネディは初期のこうした困難から復活し、冷戦の中で最大の危機
であったキューバ・ミサイル危機を確固としたリーダーシップと慎重な決断で
乗り切った。キューバ・ミサイル危機でアメリカは、ソ連がキューバからミサ
イルを撤去する代わりにアメリカもトルコからミサイルを撤去することを約束
した。またケネディは国際理解を醸成するためにアメリカ人をボランティアと
して海外に派遣する平和部隊とラテン・アメリカの開発を支援する進歩のため
の同盟を進めた。
国内政策ではケネディは公民権を推進しようとした。ケネディは、ミシシッ
ピ大学とアラバマ大学の人種統合のために連邦軍を投入した。1963 年、ケネデ
ィは公民権法案を提唱したが生きているうちにその法制化を見ることはなかっ
た。1963 年 11 月 22 日、ケネディはテキサス州ダラスで暗殺された。
ケネディの後を引き継いだリンドン・ジョンソンはケネディの政策目標を法
制化することを誓い、ケネディが進めていた公民権法案の実現に取り組んだ。
副大統領になる前、上院の多数派の指導者であったジョンソンにとって議会を
主導するリーダーシップは得意とするところであり、1964 年公民権法への反対
を克服した。1964 年の大統領選挙でジョンソンは圧倒的な勝利を収めた。
ジョンソンは、30 年前にフランクリン・ローズヴェルトが行ったニュー・デ
ィールを拡大して完遂する野心的な偉大なる社会政策を公表した。ジョンソン
は高齢者に対する医療保障と貧困者に対する医療扶助を実現した。ジョンソン
は、投票資格に人種に基づく要件を課すことを禁じる 1965 年投票権法を支持し
た。またジョンソンは、住宅、教育、都市再生などに連邦が支援を行う法整備
を行った。
ジョンソンが政策の焦点を国内政策に当てようとしたのにも拘わらず、ジョ
ンソン政権はヴェトナム戦争への関与で記憶されている。ジョンソンは共産主
義勢力と戦う南ヴェトナムを支援するためにアメリカ軍を送り込んだ。派遣さ
れたアメリカ軍の数はジョンソン政権の終わりまでに 50 万人を超えた。ヴェト
ナムへの増派は議会の宣戦布告なしに行われたが、議会はジョンソンの要請に
従って、東南アジアでアメリカの利益を守るために軍隊を使用する権限を大統
領に認めるトンキン湾決議を可決していた。ジョンソン政権は戦争目的の包括
的な見直しを行わず、大統領の無秩序な決定作成過程はそうした見直しを不可
概論
49
能にした。
国内の反戦運動の高まりを受けて、ジョンソンは大統領選挙に出馬せず、残
りの任期をヴェトナム戦争の終結を目指す努力にあてることを表明した。1968
年の大統領選挙で共和党の大統領候補であるニクソンはヴェトナム戦争の終結
と国内に法と秩序を取り戻すことを約束して勝利した。
ニクソンの外交政策におけるリーダーシップは野心的であると同時に議論を
招くものであった。ニクソンはヴェトナム化によってアメリカ軍を徐々にヴェ
トナムから撤退させる戦略を採用した。ヴェトナム化は、空爆を強化する一方
で、戦争を遂行する責任をアメリカ軍から南ヴェトナム軍に移す戦略である。
共産主義勢力への補給路を断つためにニクソンはカンボジアへの攻撃を承認し
た。カンボジアへの攻撃はアメリカ国内で反戦抗議を引き起こした。1973 年、
ニクソン政権はヴェトナム戦争を終結させることに成功したが、その軍事行動
は引き続き議論の的になった。ニクソンは中国とソ連に接近して冷戦の緊張緩
和に努めるとともに、中国とソ連が共同してアメリカに対抗しないように画策
した。1972 年、ニクソンは中国とソ連を訪問し、ソ連と 2 つの主要な軍備制限
に関する条約を締結した。こうした外交的主導を行う際にニクソンはヘンリ
ー・キッシンジャー(Henry Kissinger)国家安全保障問題特別補佐官と主に協働
した。ニクソンは政策を形成するのに小規模で内密の助言者の集団に依存した。
低迷した経済に取り組むためにニクソンは賃金と物価に関する統制を行った
が、アラブ諸国の石油禁輸によってインフレが著しく悪化した。アメリカ国民
の市民的自由を損なうと批判を受けながらもニクソンは、麻薬犯罪を取り締ま
り、犯罪を規制するための法整備を行った。またニクソンはジョンソン政権の
偉大なる社会を解体しようとした。ニクソンは 1972 年の大統領選挙で圧勝した
が、こうした顕著な成功はウォーターゲート事件によってすぐに翳りが見える
ようになった。
1972 年 6 月、ニクソンの「鉛管工」と呼ばれる一団が民主党全国委員会の事
務所に侵入した。この侵入は露見し、ホワイト・ハウスとの繋がりが暴露され、
ニクソン政権を破綻させた。侵入から数日後、ニクソンの側近は大統領と事件
の隠蔽について相談し、中央情報局を使って連邦捜査局の捜査を阻むように提
案した。ホワイト・ハウスの録音テープを除けばニクソンの関与は内密にされ
た。ウォーターゲート事件の調査を開始した上院はホワイト・ハウスの録音テ
ープが存在することを知った。テープをめぐる議会と大統領の戦いが始まった。
50
アメリカ大統領制度史上巻
ニクソンは行政特権に基づいてテープの提出を拒んだ。最高裁はニクソンの主
張を認めなかった。弾劾によって罷免される可能性が高いと考えたニクソンは
1974 年 8 月 9 日に辞任することを公表した。
宣戦布告なき戦争であるヴェトナム戦争とウォーターゲート事件によって、
いわゆる「帝王的大統領制度」に対する批判が高まり、議会は大統領権限の濫
用を抑制しようとした。1973 年、議会はニクソンの拒否権を覆して戦争権限決
議を成立させ、議会の承認なしで派兵する大統領の権限を制限した。また議会
は 1974 年予算執行留保法を制定し、大統領が予算の使用に干渉しないようにし
た。こうした行動は議会が権限を取り戻そうとする動きであり、大統領権限を
抑制しようとする動きであった。
ニクソンの辞任に伴って大統領に昇格したフォードは、大統領のリーダーシ
ップが制限されている時に大統領に就任するには最適の人物のように思われた。
スピロー・アグニュー(Spilo T. Agnew)副大統領の辞任によって憲法修正第 25
条に基づいて副大統領に任命され、さらにニクソンの辞任によって大統領に昇
格したフォードは選挙を経ないで大統領になった唯一の大統領である。
当初、フォードは強い国民の支持を受けたが、ニクソンに無条件の恩赦を与
えると公表したことで人気は急落した。フォードはこの決定をほぼ独断で行い、
ウォーターゲート事件を越えてアメリカを前進させるのに不可欠な国民の支持
を獲得する機会を失った。
ヴェトナム戦争とウォーターゲート事件の後、期待される役割が限られ、直
面する挑戦がなくなることによって、大統領が権限を行使するために必要な資
源が減少したという事実のために近代的大統領制度の権限は縮小した4。1980
年代まで、大統領は大規模な国内構想を追求することができなくなった。大統
領職が与党に占められる一方で野党が議会を支配するという分断された政府が
常態となった。そして、財政赤字の増大によって、大統領は、ニュー・ディー
ルや偉大なる社会のような大規模な国内政策を形成する余地がますますなくな
った。
近代的大統領制度の発展は、議会を主導する手腕、行政管理経験、公的人格、
リーダーシップを構築する能力に依存していた大統領の権限の源泉が変化した
結果である。ウォーターゲート事件後の大統領は、メディアや議会との連帯を
築くことを通じて政策を主導し、政策への支持を集めるように期待された。超
党派の連帯を築くことができない場合、近代的大統領は大統領令、政府の主導、
概論
51
その他の議会によって承認されていない手段で単独的な政策形成を行おうとし
た。国内外の政策を実現するために、政治的説得術を用いてその他の関係者を
巻き込む大統領の能力が強調されるようになった。さらに大統領の公的イメー
ジがより重要になっている。20 世紀後半の劇的な政治的環境と情報革命によっ
て、大統領が自らの政策に支持を集めるために駆使するメディア戦略とレトリ
ック戦略は大きな影響を受けている。
大統領の正式な権限は軍隊の最高司令官から行政首長まで広範囲に及ぶが、
国内外の問題に対する大統領の権限の多くは議会と共有されている。1 人の人物
に権限が集中することで専制が生まれることを恐れて憲法の制定者は、連邦政
府に抑制と均衡に基づく三権分立の原理を導入した。憲法の制定者は、政府の
決定形成が行政府に集中しないように議会と司法府によって大統領権限を抑制
しようと考えた。しかし、権限の分有の正確な形態や権限の均衡は曖昧なまま
に残されている。
議会の監視にも拘わらず、第 2 次世界大戦後、大統領制度は強力で中央集権
化された行政権と結び付くようになった。冷戦における核の恐怖と封じ込め戦
略の展開によって、国家安全保障に焦点をあてた帝王的大統領の時代が始まり、
議会の国内外の政策形成に対する影響力が低下した。しかし、ウォーターゲー
ト事件後、議会は強力なリーダーシップに基づく独立を保とうとし、行政権に
対する監視を行おうとした。議会は一連の立法を通じて大統領に議会に対して
より説明責任を負わせるように努めることで憲法上の権限を取り戻そうとした。
その中には、行政府の秘密主義を制限するための 1976 年情報公開法と 1974 年
プライヴァシー法が含まれる。大統領の戦争権限については既に戦争権限決議
で制限されていた。20 世紀後半において議会の監視はさらに重要性が増してい
る。議会は特別調査委員会、公聴会、弾劾過程などを通じてそうした監視を行
っている。
1970 年代後半、大統領が影響力を及ぼす手法に劇的な変化がもたらされ、大
統領は立法計画を実現するために議会との連帯形成により焦点をあてるように
なった。現代的大統領は効率的に政権を運営するために、影響力と政治的取引
において憲法に規定されない権限に依存している。そのように立法計画を推進
する手段として超党派の連帯を形成しようと努めた大統領もいる。例えば、カ
ーター政権は、ホワイト・ハウスの職員による直接的な議員への働きかけを通
じて超党派の連帯を形成しようとした。そうした新しい手法は大統領と議会の
52
アメリカ大統領制度史上巻
政策形成主導を融合させるものであり、利益集団の目標をホワイト・ハウスの
政治資産に変えた。
カーターは立法計画を推進するうえで多くの挑戦に直面したが、議会との連
携を図るためにホワイト・ハウス議会連絡局を考案した。議会との連携の成功
は、大統領が上下両院の多数派と連携を構築できるかどうかにかかっている。
概して、同じ政党が大統領職と上下両院を支配した時に大統領の権限は増大す
る。例えば 1992 年の選挙ではクリントンが大統領に当選するとともに、民主党
が議会の支配権を完全に掌握した。クリントンは、家族医療休暇法、北アメリ
カ自由貿易協定、そしてブレイディ法などを、1994 年の中間選挙で民主党が議
会の支配権を失うまでに法制化した。20 世紀後半の大半を通じて、政党の指導
者として注目を集めることで大統領は行政府の主導の下、法案を通過させる多
くの機会を持った。1970 年代後半以来、議会との連携の形成が大統領の国内外
の政策を実現する鍵となっているが、政党の争いや特殊利益の要求などに引き
ずり込まれる危険をしばしば冒すようになった。
分断された政府の時代において大統領は議会との連携にあまり頼らなくなり、
行政協定、大統領令などを通じて権限を拡大し単独的な行動をとろうとする。
この場合、大統領は政策を実行するのに議会の承認を必要としない。特に議会
が大統領の反対する法案を制定しようとした時に単独的な行動はとられる。大
統領は拒否権を行使し、大統領令を発することで議会の法制化を阻み、優位に
立とうとする。
歴史的に大統領は議会の同意なしで統治を行う様々な手段を使ってきた。最
も広く使われるのは、連邦の行政官にその職務遂行に対して指示を行うために
主に発せられる大統領令である。伝統的に大統領は憲法上の権限を実行するた
めに大統領令を発してきた。フランクリン・ローズヴェルトは大恐慌と第 2 次
世界大戦を切り抜けるために効果的に大統領令を用いた。近年では、分断され
た政府の下、大統領令は議会の監視を免れるために発せられている。クリント
ンは 1994 年の中間選挙で共和党が議会の支配権を掌握した後で大統領令を発
する権限を有効に活用している。クリントンは積極的差別是正措置、労働関係
法、自然保護に関して大統領令を発行した。またクリントンはコソヴォへの軍
事介入を行うために大統領令を用いた。
行政府の予算を提出する権限のように特別法によって大統領に与えられる権
限がある一方で、国内外の危機に際して大統領が自由裁量権を行使する場合が
概論
53
ある。そうした授権は 20 世紀の大統領制度の歴史においてしばしば問題となっ
ている。例えばレーガンは、戦争権限決議の抜け穴を利用して、軍備管理政策
を決定し、条約を終わらせ、限定された軍事行動を行う権限が議会の監視を受
けない大統領の特権だという根拠にしている。
レーガン時代のその他の大統領の権限を強めようとする試みは署名に関する
声明の利用である。署名に関する声明は大統領に独自の法解釈を行う機会を与
える。大統領が大統領令や署名に関する声明を利用して大統領権限を行使しよ
うとする試みは、憲法上の領域を超えるとして論議の的となっている。
世論、マス・メディア、そして利益集団は大統領の単独的な権限の行使を助
長したり促進したりする。情報技術革命によって、20 世紀後半の大統領制度は
憲法制定者が想像できなかった程にマス・メディアの関心を引いている。結果
的に現代的大統領はマス・メディアを通じて行政権を拡大する手段を得て、ア
メリカ史上、これまでになかった程、政治的メッセージを瞬時に多くの人々に
伝えることができるようになった。このいわゆる「広報大統領制度」は、マス・
メディアでのイメージ、レトリック戦略、強力な象徴としての存在、そして儀
礼的義務を直接、国民に訴えかける手段として利用している。こうした手段の
利用を通じて、大統領は世論を結集させ、政治的関係者に大統領の政策目標に
従うように強要するために人民の支持を追求する。
20 世紀の情報革命とケーブル・テレビの普及は大統領の象徴的作用と権威を
高める一方で、大統領と有権者を媒介する政党の機能と利点を減じさせた。特
にテレビによって大統領は自分自身と政策目標を有権者に直接提示することが
でき、人気を高め、首尾一貫した情報伝達戦略を展開し、特定の社会的、経済
的、そして政治的問題に関心を集めることができる。例えば、レーガンは「偉
大なる伝達者」として知られ、テレビ演説と一般教書演説を使って大統領の国
内外の政策に支持を集めようとした。クリントンは有権者と国内政策の目標に
関して双方向のやり取りを行うためにタウン・ホール・ミーティングをテレビ
で放映した。
もちろん欠点も同時にある。テレビは大統領の地位を国家の最高の政治的象
徴に引き上げたが、大統領職は経済的不況、政治的スキャンダル、そして一般
の不満や抗議の的になっている。また大統領の個人的な欠点に焦点があてられ
るようになった。例えばフォードは強力な公的イメージを築き上げることがで
きなかった。大統領専用機の昇降段から転落した様子やスキーで転倒した様子
54
アメリカ大統領制度史上巻
などがフォードのイメージから離れなかった。テレビのショーにおけるパロデ
ィーやコメディアンの物真似などによって、フォードが不器用な大統領である
というイメージはますます定着した。
さらにマス・メディアは大統領の権限濫用に対する重要な抑制であり、結果
として大統領はより世論に敏感になっている。もし新たに就任した大統領が最
初の 100 日間で何らかの目覚しい成果をあげなければ、マス・メディアの批判
を受けることになる。こうしたマス・メディアの発展は、大統領の統治形態、
リーダーシップ、そして個性、管理能力に重要な影響を及ぼしている。
大統領の影響力は連邦政府の国内における責任が増大するにつれて増してい
る。公共の福祉、医療保険、そして安全保障のために新しい省庁が連邦組織に
加えられ、大統領の権限増加に貢献している。大規模で機能的に特化したホワ
イト・ハウスを中心とした人事制度を特徴とする機構的大統領制度は、20 世紀
後半の大統領の日常業務を構成するうえで大きな影響を及ぼしている。大統領
制度の機構化は連邦政府の官僚制度の拡大を伴ったが、大統領の管理上、政策
形成過程上の影響力を増大させた。現代的大統領は、既存の官僚制度を駆使し、
ホワイト・ハウス内の権限を強化し、そうすることで大統領職の政治力を高め
なければならない。
レーガン政権は、政策決定、人事決定、そして予算過程をホワイト・ハウス
に集中させることで行政組織の管理における転換期となった。1980 年代、保守
派は政府の社会保障の拡大と管理の不手際を批判し、政府の不正、官僚制度の
無駄を指摘した。レーガンは大きな政府を終わらせることを誓った。行政府全
体を対象とした大規模な政変を通じて権限や影響力を規制しようとするレーガ
ン政権の試みに多くの行政機関は抵抗しなければならなかった。
クリントン政権はそうした傾向を継続させた。クリントンの新しい民主党の
政策は、ニュー・ディールと偉大なる社会による政府事業の拡大から離れた。
就任して最初の 6 ヶ月間で、クリントンは大規模な連邦政府の改変案を提示し
た。効率性を改善し、赤字を減らすために政府を再生することを約束してクリ
ントンの再編案は 1993 年に提出された。官僚制度の勃興とともに、近年の大統
領は、行政管理の効率性と政府の説明責任を公共政策の政治化と特殊利益の影
響力の増大に対して均衡を保とうとしている。巨大な官僚制度をより効果的に
統制するために、大統領の権限と決定はますますホワイト・ハウスに集中して
いる。
概論
55
議会との連携の形成、情報伝達戦略に加えて、20 世紀後半の大統領は、大統
領の政治的メッセージと政治的目標の調整を行い、大統領が官僚制度を統御す
る支援を行うホワイト・ハウスの職員に対する包括的な組織的戦略の形成に焦
点をあてるようになっている。もし大統領が絶対的な権限で最終判断を下すこ
とを望むのであれば、大統領が指揮系統の頂点に立つ階層制度が採用される。
新たに生じた問題に対する情報収集、決定作成、そして解決策を提案する責任
は下層から頂点の大統領にまで伝達される。例えばレーガン政権の人事組織は、
上級職の一団によって構成される階層的な決定形成系統によって特徴付けられ
る。
もし大統領が見解の一致を重視するのであれば、公式な階層制度に依存する
ことはない。その代わりに大統領は特別な問題が生じるにつれ再編成される決
定作成の非公式な形態を構築する。大統領は指揮系統の頂点を占めるものの、
意図的に他者を決定作成に直接関与させ、政策主導に関して異なる意見を歓迎
し、情報収集に非公式な伝達経路を使うことを厭わない。例えば、クリントン
は決定作成にチームを形成する手段を採用し、国内外の政策目標を推進する可
能な選択肢についてフィードバックを行う異なる集団から幅広い意見や観点を
求めようとした。
政権移行チームは、効果的に組織的戦略を導き出し、有効に管理的な手段を
行使できる職員でホワイト・ハウスを埋める困難で複雑な仕事に直面する。こ
れは政権の管理形態を決定するホワイト・ハウスの運営を監督する重要性が増
していることを示している。さらにホワイト・ハウスの人事の決定は、情報の
管理、特にマス・メディアへの漏洩を防止するために重要である。20 世紀後半、
大統領の管理戦略と組織形態は、政権の成功を左右する重要な要素となってい
ると見なされている。ウォーターゲート事件後、大統領首席補佐官は、統制と
危機管理の中央集権化、そして情報漏洩の防止に貢献する重要な政治的主体と
なっている。
2001 年 9 月 11 日の同時多発テロの後、ブッシュは歴史的に前例のない程に
大統領の権限の強化を図った。ブッシュの大統領権限の強化は、行政特権を主
張し、議会の介入なしに国家安全保障を進め、行政管理を中央集権化し、決定
作成をホワイト・ハウス内で行うことによって大統領制度を拡大し、議会によ
る監視を減少させようとしてきた歴代政権の努力と緊密に連携している。
同時多発テロ以後、ブッシュ政権は国土安全保障局に、国境の安全確保、諜
56
アメリカ大統領制度史上巻
報収集の統合、そして国家のインフラを守る政策を形成する責任を負わせた。
さらに国土安全保障法によって、2002 年 11 月 25 日、国土安全保障局は閣僚級
の省に引き上げられた。国土安全保障法は、第 2 次世界大戦以来、最も大規模
な行政府の再編であり、テロ対策を行う 22 の連邦組織を強化し、ホワイト・ハ
ウスに統制が中央集権化された。
同時多発テロ後の一連の措置によって大統領府は前例のないやり方で強化さ
れ、大統領権限の拡大と単一的な決定作成を伴った。ブッシュは国家安全保障
を経済インフラの保護も含むものとして再定義し、国土安全保障令という新し
い種類の大統領令を創造した。市民的自由への脅威に対する不安が高まる中、
愛国者法、金融反テロリズム法、そして航空輸送安全保障法などの一連の反テ
ロ法を通じて、議会は大統領が諜報機関や法執行機関に一連の新しい権限を与
えることを認めた。大統領の最も重要な主張の 1 つは、アメリカ市民を含む個
人を「不法な敵の戦闘員」と宣告し、連邦機関に拘留させることを認める単一
的な権限である。
ウォーターゲート後の大統領制度は、議会との連携の形成、国内外の政策目
標を推進する単独的な行動、増大する官僚制度の効率的な管理、そして強力な
公的イメージを形成するための情報伝達手段への依存など様々な手段の間の均
衡で特徴付けられている。一連の複雑な大統領の活動は、20 世紀末から 21 世
紀にかけて変化する政治的状況の下で、行政府の影響力と政治的資源を高める
のに貢献している。
またアメリカ人が大統領を選ぶ方法が現代的大統領制度に貢献している。選
挙運動で成功するのに必要な政治手腕は大統領職に求められる複雑な国内、経
済、そして国際問題を解決する能力と異なっている5。クリントン、ジョージ・
W・ブッシュ、そしてオバマが直面した試練は、最近の権限の増大と統治能力
の減少を示している。同時多発テロの後、テロに対する戦いは大統領権限をあ
る領域で拡大したが、ブッシュ政権とオバマ政権は厳しい経済環境に直面し、
政策形成に関する大統領権限が制限されている。さらに大統領は過激な党派心
によって支配された政治的環境に直面している。大統領は今日でも依然として
公的生活の焦点であるが、現実には、大統領は滅多に自由に権限を行使するこ
とはできず、しばしば目標を達成するために他者と交渉しなければならない6。
大統領の役割の違いは時代毎に異なってきたが共通点はある。ワシントンは
最初の大統領としてアメリカ大統領制度を体現する人物だと見なされた。ワシ
概論
57
ントンのリーダーシップは新国家に正統性を与えた。ワシントンの閣僚である
ハミルトン財務長官とジェファソン国務長官は連邦政府が果たすべき役割につ
いて異なる見解を抱いていた。彼らのリーダーシップに関する政治哲学は後代
の大統領に引き継がれた。ハミルトンは積極的な連邦政府と強力なリーダーシ
ップを主張した。そうしたリーダーシップを発揮したのは、リンカン、セオド
ア・ローズヴェルト、ウィルソン、フランクリン・ローズヴェルト、トルーマ
ン、リンドン・ジョンソンなどである。多くの歴史家は、フランクリン・ロー
ズヴェルトをハミルトン的なリーダーシップを最も体現した大統領と見なす。
それはローズヴェルトが連邦政府の役割を最も積極的に拡大したからである。
ジェファソンはハミルトンと異なって消極的な連邦政府を主張した。ジャク
ソン、タフト、ハーディング、クーリッジ、フーヴァー、レーガンがジェファ
ソン的な無干渉主義を採用した大統領と見なされる。例えば、フーヴァーは、
私企業に対する政府介入は制限すべきだと信じて、大恐慌に対して連邦が支援
することを最初は断っていた。同様にレーガン政権は、企業に対する連邦の規
制緩和と連邦の権限を州に返そうとしたことで知られている。しかし、そうし
たハミルトン的な原理を受け入れなかった大統領もまったく積極的に行動しな
かったわけではない。事実上、ジェファソンは、バーバリ諸国に対して宣戦布
告なき戦争を行い、ルイジアナ購入を成功させ、出港禁止法を課すなと積極的
な大統領であった。またジャクソンもサウス・カロライナ州の連邦法無効宣言
に対して断固とした措置をとった。いずれにせよ、たとえハミルトン的な原理
が受け入れられなかったとしても、歴史的変遷を通じて現代の大統領制度が憲
法制定会議の代表達が想像すらできない程に強大な制度になっていることは確
かである。現代の大統領制度を理解するためにはどのような歴史的発展を経て
きたのか知ることが不可欠である。
58
アメリカ大統領制度史上巻
第 1 部 大統領制度の起源
第 1 章 植民地時代から憲法制定会議前夜まで
第 1 節 植民地時代
多くの物事が歴史的淵源を持つようにアメリカ大統領制度も歴史的淵源を持
っている。憲法制定会議に出席した代表達は、植民地時代においてイギリス国
王と総督を戴く政治制度を体験していた。1776 年の独立以後は、代表達は独自
に制定した邦憲法の下での政治制度と連合規約に基づく政治制度を体験した。
そうした体験は憲法制定会議で大統領制度を創始する糧となった。
植民地人としての長い年月の間、アメリカ人は立憲君主制というイギリスの
政治制度に慣れ親しんできた。イギリスは世襲による終身制の国王を頭に頂く
国家である。君主の権限は議会の権限によって制限されている。国王は宣戦布
告を行うことができるが、その命令は議会が予算を認めなければ実施され得な
い。一方、議会は法案を可決することができるが、国王はそれに対して拒否権
を持つ。イギリス議会は二院制であり、選挙で選ばれる庶民院と終身で世襲制
の貴族院から構成される。
イギリスの政治制度は植民地人が最も慣れ親しんだ制度であるにとどまらず、
人類が見出した中でも最善の制度だと見なされていた。基本的自由は歴史上の
他のどのような政治制度よりもイギリスの立憲君主制によってより良く保障さ
れている。イギリスは古典的な政治哲学において伝統的に解決不可能だと思わ
れてきた問題、つまり、アリストテレス(Aristotle)が定義した君主制、貴族制、
民主制がそれぞれ持つ限界を解決したように思われる。社会全体に代って統治
権を託された者は自己の目的のために権力を使うようになり、君主制は専制に、
貴族政は少数独裁制に、民主政は無政府状態に陥り、圧政を布くようになる。
イギリスの救済策は数世紀を経て発達し、3 つすべての政治制度の要素を 1 つに
混合させることによって、つまり、君主制は国王に、貴族制は貴族院に、民主
制は庶民院に代表され、お互いに抑制と均衡を保つことで進化してきた。
イギリス領アメリカ植民地の大部分の政府はイギリスの国家制度と構造上、
似通っていた。国王によって任命される総督、総督によって任命される上院、
人民の選挙によって選ばれる下院によって多くの植民地政府が構成されていた。
総督は広範な権限を与えられていた。しかし、政治的に敏感な総督はこうした
権限を慎重に行使した。なぜなら植民地政府の予算を認める権限は植民地議会
のみに認められていたからである。
60
アメリカ大統領制度史上巻
植民地の統治形態は主に 3 つに分かれた。会社統治型、領主統治型、国王直
接統治型の 3 つである。会社統治型をとった植民地は、初期のヴァージニア植
民地、初期のマサチューセッツ植民地、コネティカット植民地、ロード・アイ
ランド植民地である。マサチューセッツ植民地では、総会議と呼ばれる株主総
会において、法が制定され、総督や補佐官など植民地を統治する官吏が選ばれ
た。領主統治型をとった植民地は、メリーランド植民地、デラウェア植民地、
ペンシルヴェニア植民地である。統治権を与えられた領主は総督と参事院を任
命した。国王直接統治型をとった植民地は、ニュー・ハンプシャー植民地、ニ
ュー・ヨーク植民地、ニュー・ジャージー植民地、ヴァージニア植民地、ノー
ス・カロライナ植民地、サウス・カロライナ植民地、マサチューセッツ植民地
である。国王が総督と参事院を任命した。
このように植民地の統治形態は 3 つに分かれるが、一般的傾向として総督か
ら植民地議会へ権力が移るようになった。次第に総督は植民地人に対して責任
を負うようになった。総督はイギリスの南部省長官によって、任官希望者の中
から指名され、枢密院によって任命された。総督の任期は特に明確な規定はな
く、本国政府から召還を受けるか辞職するまで在任した。総督が死亡するか、
不在の場合、副総督が総督の権限を代行した。ニュー・ハンプシャー植民地、
ニュー・ヨーク植民地、そしてヴァージニア植民地では規則的に副総督が任命
されたが、他の植民地では稀にしか任命されなかった。副総督は参事、もしく
は参事院議長を務めることはあったが、平時には特に権限を持たない閑職であ
った。副総督が存在しない場合は参事院が知事の権限を代行した。
総督は証書発行の手数料と罰金の一部、そして俸給から収入を得た。俸給は
ノース・カロライナ植民地とサウス・カロライナ植民地を除き、概ね植民地議
会から支払われた。総督は、植民地議会を招集し、解散する権限、議会の法を
拒否する権限、広範な任命権、統帥権、重要事件の裁判権、反逆、殺人を除く
犯罪に対して恩赦を与える権限、国王や大臣の特別命令を執行する権限、植民
地行政一般を監督する権限、航海法を執行する権限、関税を徴収する権限、ネ
イティヴ・アメリカンに対する条約締結権、公有地分譲権など多くの権限を有
する。こうした広範な権限を与えられた総督であったが、いつでも自由に権限
を行使できたわけではなかった。総督自身が赴任すらしない場合も多く、その
場合は総督代理が立てられた7。
植民地議会は二院制であった。下院は財産資格を満たした植民地人の選挙に
植民地時代から憲法制定会議前夜まで
61
よって選ばれた。上院となる参事院は実質的に行政機関であり、総督の推薦、
もしくは国王や領主によって任命された。つまり、上院議員となる総督参事院
の構成員は国王や領主から任命された。マサチューセッツ植民地、ロード・ア
イランド植民地、コネティカット植民地においては植民地人の選挙によって選
ばれた。総督参事院は、植民地議会の上院であり、行政組織と司法組織を兼ね
た。植民地議会は立法権に加え、次第に財政監督権を掌握した。財政監督権を
武器に植民地議会は総督を監督と指導の下に置くようになった8。
イギリスの政治制度には多くの美点があったが、イギリス政府と植民地政府
は権力を渇望した者によって悪用された。アメリカ独立革命期にイギリスを統
治していた国王ジョージ 3 世(George III)は、政治上の便宜や役職などを議会の
支持を得るために実質的に賄賂として利用した。植民地総督の中にも植民地議
会に対して同様の行いをする者が現れた9。そうした権力の悪用に対する植民地
人の怒りは 1776 年の独立宣言に示されている。独立宣言は、
「生命、自由、そ
して幸福の追求」という文言でよく知られているが、その大半は国王の植民地
に対する権利侵害や絶対的な圧政を弾劾したものである。独立革命期を通じて
アメリカ人が引き出した教訓は、自由は行政権によって脅かされ、立法権によ
って守られるということであった。
第 2 節 邦憲法
独立戦争の間、13 邦によって 17 の憲法が起草された。イギリス国王と植民
地総督に対する反感から、それらの憲法の起草者達は概ね邦知事には弱い権限
しか与えず、邦議会に強い権限を与えた。また 4 つの邦は邦の統治者を指す言
葉としてもともと植民地総督を意味していた「ガバナー(governor)」を使うこと
を止め、代わりに「プレジデント(president)」を使用した。邦知事の任期は 10
邦で 1 年間に制限された。また 8 邦で邦知事は議会によって選ばれた。さらに 6
邦では邦知事に再選は許されなかった。またニュー・ヨーク邦とニュー・ジャ
ージー邦を除く邦知事は知事参事院と権限を分かち合うように強いられた。知
事参事院の構成員は議会によって任命されるか、人民によって直接選挙された。
大部分の邦では実質的に邦知事は委員会の議長職に過ぎなかった10。
憲法制定会議でヴァージニア邦知事のエドモンド・ランドルフは、大統領職
を単数にする案に反対した時、知事は行政府の単なる一員に過ぎないと発言し
62
アメリカ大統領制度史上巻
た。大部分の邦憲法は邦知事に曖昧な権限しか認めず、議会に対する解散権、
拒否権、役職の任命権を否定し、邦議会の権限侵害に対して邦知事が自己の権
限を守ることさえ不可能にした。議会の解散権を失うことで邦知事は、議会選
挙を行うことで人民に直接信を問う機会を持つことができなかった。任命権は
議会、もしくは議会が支配する任命委員会に移された。例外としてジョージア
邦では重要な公職は人民による直接選挙で選ばれた。さらに司法府は幾つかの
邦で一応独立していたものの、司法府の任命と報酬に関して議会に依存してい
た。また軍事権も議会の支配下に置かれた。4 邦で邦知事のみに恩赦権が与えら
れた。他の 3 邦では、弾劾の場合は恩赦権が認められなかった。次に各邦の邦
知事の特徴について簡単に述べておきたい。
ニュー・ハンプシャー邦の邦知事の被選挙資格はプロテスタントで 7 年間、
邦に居住し、財産資格が課せられた。邦議員に投票する資格を持つ有権者の投
票によって 1 年に 1 回選出される。邦知事が不能力となった場合、上席上院議
員が大統領の権限を有する。邦知事は参事院とともに弾劾の場合を除き恩赦権
を有した。
マサチューセッツ邦憲法は最も保守的な性質を持つ。マサチューセッツ邦憲
法はジョン・アダムズによって起草された。マサチューセッツ邦は混合政体を
基盤としている。つまり、強力な行政長官、資産階級を代表する上院、民衆を
代表する下院の 3 つの要素が混合する政体である。こうした 3 つの要素はお互
いに正当な権限を超えないように抑制し合う。したがって、マサチューセッツ
邦には、民衆の投票によって選ばれる下院と納税額に基づいて議席数が割り当
てられる上院、そして邦知事が置かれた。マサチューセッツ邦の邦知事の被選
挙資格は 7 年間で再選は無制限であり、キリスト教徒であることを宣言し、邦
に居住し、邦内に 1,000 ポンドの価値のある土地を所有するという財産資格が
課せられる。邦議員に投票する資格を持つ有権者の投票によって 1 年に 1 回選
出される。邦知事は独立した拒否権を有した。しかし、議会の両院の 3 分の 2
の賛成によって、拒否権は覆された。これは後の合衆国憲法でも同様の規定が
盛り込まれた。他の邦憲法と大きく異なる点は、知事の権限が大きい点である。
アダムズは邦知事に与えられる拒否権について、
「行政府は、立法府が自由の擁
護者であるのと同じく、叡智の擁護者となるべきである。防衛するための武器
がなければ、猟犬の前の野ウサギのように知事は倒されてしまうだろう」と述
べている。邦知事は参事院とともに弾劾の場合を除き恩赦権を有した。邦知事
植民地時代から憲法制定会議前夜まで
63
は大半の官吏を任命する権限を持つ。邦知事は参事院の助言を以って、議会の
会期中に両院が希望する場合はいつでも議会を休会し、延期することができ、5
月の最後の水曜日の前日に両院を解散し、必要に応じて議会を招集する権限を
持つ。邦知事はすべての軍隊の最高司令官となる。副知事は邦知事と同様の被
選挙資格を持ち、同様の方法で選挙される。
さらにニュー・ヨーク邦知事はマサチューセッツ邦と同じく邦議会ではなく
人民によって選ばれ、任期は 3 年で再選も可能であった。ニュー・ヨーク邦知
事の被選挙資格は明確に定められていない。ニュー・ヨーク邦憲法の下で初め
て選出されたジョージ・クリントン(George Clinton)は、7 期計 21 年間にわた
って知事を務めた。ニュー・ヨーク邦の行政権は知事のみに与えられ、知事参
事院と分有されなかった。さらに知事には議会に対する拒否権と役職の任命権
が与えられた。邦知事は同意なしに議会を 1 年のうち 60 日に限って停会するこ
とができた。拒否権はマサチューセッツ邦と同じく議会に覆される可能性があ
った。邦知事は弾劾、反逆、殺人の場合、恩赦権を行使することはできなかっ
た。副知事は知事と同じ方法によって選挙される。邦憲法によって規定される
ニュー・ヨーク邦知事の権限は、その多くが後に合衆国憲法で認められる大統
領の権限と同様のものであった11。
ニュー・ジャージー邦知事の被選挙資格は明確に定められていない。両院の
合同投票によって 1 年に 1 回選ばれる。副知事は上院によって選ばれる。邦知
事は参事院と合同して無制限の恩赦権を有した。
ペンシルヴェニア邦憲法は最も民主的な性質を有していた。投票権は男子納
税者とその成年に達した息子に与えられた。官職の交替制が導入され、代議員
は引き続く 7 年の間に 4 年以上、在任することが許されなかった。議会は一院
制であり被選挙資格はキリスト教徒であることのみであった。ペンシルヴェニ
ア邦知事の被選挙資格は明確に定められていない。代議院と参事院の合同投票
によって、邦知事は参事院の議長として 1 年に 1 回選ばれる。副知事は知事と
同様の方法で選出される。邦知事は参事院とともに弾劾、反逆、殺人の場合を
除いて恩赦権を行使する。行政権は邦知事と選挙によって選ばれる参事院に分
与された。また 7 年毎に監察院の構成員である監察官が選挙された。監察院の
職務は、邦憲法が遵守されているか調査すること、官吏の弾劾を命じること、
そして必要に応じて憲法協議会を招集することであった。
デラウェア邦知事は、任期満了の後、3 年間は被選挙資格を持たない。両院の
64
アメリカ大統領制度史上巻
合同投票によって 3 年間選ばれる。邦知事が無能力の場合、上院議長が副知事
として知事の権限を有する。
メリーランド邦知事は知識、経験、及び徳望を持つ人であることを被選挙資
格とする。両院の合同会議によって 1 年に 1 回選ばれる。邦知事が死亡した場
合、同様の方法で新しい知事を選出する。
ヴァージニア邦憲法は、強大な権限を持った勅任総督による専横という過去
の経験から邦知事の権力濫用を未然に防ぐという措置を重視して形成されてい
る。ヴァージニア邦では邦議会が強い権限を持った。ヴァージニア邦知事は、
引き続き 3 年以上在任することはできず、任期満了の後、4 年を経なければ再選
されることはない。両院の合同投票によって 1 年に 1 回選出される。邦知事が
無能力の場合、参事院議長が副大統領として知事の権限を有する。邦知事の権
限は著しく制限され、拒否権、議会の解散権などを有していなかった。また邦
知事は参事院の忠告や同意がなければほとんど行政上の決定を下すことができ
なかった。さらに邦知事は参事院の助言を以って刑罰の執行猶予、あるいは恩
赦を認める権限を持った。参事院の構成員は両院の合同投票によって選出され
た。議会の非常召集は枢密院、または下院議員の多数の要請によってのみ可能
であった。
ノース・カロライナ邦知事の被選挙資格は 5 年間、邦に居住し、財産資格が
課せられ、6 年の間に 3 年以上在任してはならない。両院の合同会議によって、
1 年に 1 回選ばれる。邦知事が無能力の場合、上院議長が知事の権限を有する。
サウス・カロライナ邦知事の被選挙資格は、5 年間、枢密院の一員であり、プ
ロテスタントで 10 年間、邦に居住し、財産資格が課せられる。両院の合同投票
によって 2 年に 1 回選ばれる。知事は拒否権を持つが、議会は同じ法案を 3 日
間の休会の後に、再び上程することが認められていた。知事は一定の俸給を保
障される。副知事は知事と同様の方法で選ばれる。
ジョージア邦知事は 3 年のうち 1 年以上は再選されない。代議院によって 1
年に 1 回選出される。邦知事が無能力の場合、参事院議長が知事として権限を
有する12。
第 3 節 連合会議
諸邦の代表が集まって大陸会議が開かれた。大陸会議は独立戦争の緊急性に
植民地時代から憲法制定会議前夜まで
65
応じて司令官の任命、兵糧の要求、紙幣の発行、軍隊の徴募、捕獲免状の発行
など一連の措置を行ったが、正当な法的基盤に沿ったものではなかった。大陸
会議の代表は諸邦からの大使に過ぎず、大陸会議は諸邦の統一的な代表的機関
というよりも単なる外交的機関であった。諸邦をまとめる何らかの恒久的な統
一機関の設立が求められた13。
1776 年 6 月に大陸会議は、独立宣言起草委員会と同時に連合規約起草委員会
を発足させた。連合規約の起草は軍事的に必要であった。独立宣言によってす
べて植民地は独立した諸邦になったが、何らかの共通の政府なしでイギリスに
対して共同戦線を張ることは難しかった。連邦を樹立するにあたって最大の問
題は、中央政府の支配権と各邦の主権の間に均衡を保つことであった。諸邦は
独立を欲したものの、イギリス政府に代って新たな中央政府を作って権限を譲
渡することには消極的であった。
もともとアメリカ独立革命の原因は、イギリス政府の中央政府が植民地の利
害に関係なく構成され、その権限を何の憲法的な制約もなしに行使したことに
ある。植民地人はイギリス本国政府を自由や植民地自治に対する危険な中央集
権的な権力と見なした。そうした経験から諸邦は一切の中央集権を自由に対す
る危険と見なし、地方自治権を以って自らの自由を守ろうと考えた。
大陸会議に派遣した代表に対して諸邦は、独立戦争を遂行するのに必要とさ
れる以上に連合政府を強化しないように求めた。またイギリスによる支配の経
験に則して、諸邦は行政府の構成を最小限にするように求めた。国王を想起さ
せるような行政府は容認されなかった。連合規約は不完全であったが、これま
で歴史上の他の連邦政府によって採択されたいかなる規約よりも優れた規約で
あった。もし連合規約の欠陥が修正されていれば、長年にわたって適用され続
けただろう。しかし、連合規約の修正には全邦の賛成が必要であった。
1776 年 6 月 11 日、大陸会議で連合政府案をまとめるために 13 人委員会が発
足した。7 月 12 日に委員会は勧告を大陸会議に提出した。勧告では連合会議の
代表の数は各邦の人口に基づくと規定されていたので小邦の反対を受けた。そ
して、1777 年 11 月 15 日、大陸会議は、勧告に若干の修正を加えた案を採択し、
それを連合規約と呼んだ。主に 3 つの問題が足枷となって諸邦による批准は遅
れ、最後のメリーランド邦が批准して連合規約がようやく成立したのは 1781 年
3 月 1 日である。
連合規約を定めるにあたっては以下のような 3 つの問題があった。第 1 の問
66
アメリカ大統領制度史上巻
題は邦の代表権を平等に与えるべきか、人口に比例して与えるべきかという問
題である。第 2 の問題は、各邦が負担する分担金の額をどのように決定するか
という問題である。第 3 の問題は西部領地の問題である。結局、第 1 の問題は
代表権を各邦に平等に与え、第 2 の問題は私有される土地の価値に応じて分担
金が決定され、第 3 の問題は西部領地を共有財産にすることで解決した。メリ
ーランド邦の連合規約批准が他の邦に比べて 2 年以上も遅れたのは、特に諸邦
が西部領地に対する請求権を連邦に譲渡しない限り批准しないと声明したから
である。連合規約は既に諸邦が大陸会議の下で用いていた協定を事後確認した
ようなものであったので、批准の遅れは大した問題とはならなかった。
連合規約は諸邦の中央政府と行政権力に対する恐れを具現化したものであっ
たが、実際のところ、連合会議は政府と呼べるほどのものではなく、
「友好の同
盟」と称するものに過ぎなかった。連合会議は大陸会議と実質的に変わらず、
単にこれまで大陸会議が行ってきたことを法制化したに過ぎなかった。事実、
アメリカ人は連合会議のことをこれまでと同じく大陸会議と呼び習わしていた。
正確には連邦ではなく国家連合であった。
それぞれの邦は 2 人から 7 人の代表を派遣したが、人口と富に拘わらず諸邦
は平等に1 票ずつの投票権を持った。
各邦の代表は邦議会によって任命された。
邦議会はいつでも代表を解任することができた。戦争開始、条約締結、借款協
定、武器調達、最高司令官任命など重要な問題は 13 邦のうち 9 邦の賛成で決定
される。連合会議は行政省を設置し、その長官を任命する権限を持つ。連合会
議の閉会中は、各邦の 1 人の代表から構成される行政委員会が全権を行使する
が、13 邦のうち 9 邦の同意を必要とする重要な問題に関しては決議権を持たな
い。
議長は連合会議によって選ばれ、大陸会議議長と同じく単なる議長職に過ぎ
なかった。連合規約の中では、連合会議は「連合会議の指示の下、合衆国の一
般的な問題を管理するために必要な委員と役人を任命する権限を持ち、その中
から司会を行う者を選ぶ権限を持ち、何人も 3 年のうち 1 年以上、議長職に在
任することを認められない」と議長に関して定められている。
主に委員会を通じて連合会議は行政的機能を果たそうとした。結局、財政的、
外交的、そして軍事的決定を行い、法を制定する業務が手に余ると分かった後
に連合会議は、外務、財政、陸軍、海軍、そして郵政に関する省庁を創設し、
その長を任命した。そうした省庁は日常の行政的事項の執行に有用であったが、
植民地時代から憲法制定会議前夜まで
67
その活動は連合会議によって綿密に監視された。省庁は独立した機関とは言え
ず、連合会議に明らかに従属していた14。連合議会は省庁の長を任免し、詳細
な指示を与えた。重要な問題に関して 13 邦のうち 9 邦の賛同を必要とする規定
によって、連合会議は重要な法案をほとんど可決することができなかった。さ
らに連合規約自体の修正には全邦の賛同が必要であった。そのため改革の一環
として連合会議に課税権を与えるために連合規約を修正しようとする動きがあ
ったが、結局、全邦の賛同を得ることができず実現しなかった。
こうした組織的な弱点に加えて、その他の点でも連合規約は連邦政府として
の権限を損なっていた。理論的には連合会議は宣戦布告し、条約を締結し、同
盟に参加し、陸海軍を徴募し、硬貨を規定し、公債を発行し、ネイティヴ・ア
メリカン問題を監督し、郵便局を設立し、度量衡を定め、そして邦間の紛争を
裁定する権限を委ねられていた。資金と軍隊は不動産価格と人口に応じて諸邦
が分担して拠出することになっていた。しかし、連合会議は諸邦に課税する権
利もなく、測量を行うだけの資金がなかったので不動産価格に基づいて分担金
を十分に割り当てることもできず、さらに最大の欠陥としてその決定を諸邦に
強制する力もなかった。ある邦が連合会議の要求に耳を傾ける一方で、その他
の邦はまったく無視するということが度々起きた。独立戦争が終わり、共通の
脅威が去ると、諸邦は連合会議の要求に応じる理由がますますなくなった。
また連合会議は諸邦の関税徴収権を制限するような通商を規定する権限を持
っていなかった。各邦は連合会議に通商を規定する権限を与えることを拒否し
た。連合会議はネイティヴ・アメリカンとの通商を規定し、諸外国と通商条約
を結ぶ権限を持っていたが、各邦間の通商を規定する権限は持っていなかった。
それ故、連合会議は各邦が関税を課すのを禁止したり、輸出入を停止するのを
禁止したりすることができなかった。1781 年、各邦に 5 パーセント以下の輸入
税を賦課徴収する権限を連合会議に与えることで財政基盤を強化する連合規約
の修正案が提案されたが、ロード・アイランド邦とヴァージニア邦が批准しな
かったために成立しなかった。
さらに 1783 年、マディソンによって連合規約の改革が試みられた。1782 年
から翌年にかけて、マディソンの指導の下、ようやく連合会議は自ら歳入を確
保する手段を模索し始めた。権力が腐敗から免れ得ないと信じる者達は、連合
会議により強い権限を与えることに対して反感を抱いていたので、マディソン
は粘り強く説得を続けなければならなかった。連合会議は邦に歳入を頼るので
68
アメリカ大統領制度史上巻
はなく、独自の財源を持たなければならないというのがマディソンの信念であ
った。さもなければ連合会議は諸邦が敵対的な派閥を形成しようとするのを掣
肘できず、その結果、まず弱者の側が外国の支援を呼び込み、それから強者の
側もそうすれば、最終的に両者ともにヨーロッパの戦争や政治に従属すること
になると予想された。1783 年 3 月 6 日、マディソンによって起草された財政計
画が議会に提出された。
こうしたマディソンの努力が功を奏して、1783 年 4 月 18 日、連合会議は、
公的信用を回復させる計画を各邦に提示して承認を求めた。マディソンは「諸
邦への挨拶」を起草して諸邦に支持を訴えた。その計画は、戦時公債の元本と
利子を返済するために、特別輸入税と 25 年間にわたる 5 パーセントの一般関税
を徴収する権利を連合会議に与えることを骨子とする。同時に連合会議は、各
邦が拠出する分担金の割り当て方式の修正を提案している。つまり、従来の土
地価格総額に基づく割り当て方式に代わって、人口に基づく割り当て方式を連
合会議は導入しようとしたのである。
しかし、この問題をめぐって連合会議は膠着状態に陥った。そこでマディソ
ンは、奴隷人口を 5 分の 3 に数える折衷案を提案した。これは後に合衆国憲法
で 5 分の 3 妥協のもとになった。こうした試みは、連合規約によって規定され
ていた全邦からの承認を得ることができず失敗に終わった。
マディソンは 1783 年 4 月の改革によって、連合会議が低落した権威を取り戻
し、その責務を果たせるようになることを望んでいた。また連合会議が、イギ
リスの通商規制に対して報復措置を取れるように提案している。マディソンに
とって連合会議の欠陥は、歳入と条約の執行を諸邦に完全に依存している点に
あった。独立によって獲得した自由が連邦の解体によって失われることをマデ
ィソンは恐れていた。緊密で強力な連邦政府こそ未だに脆弱な共和制を諸外国
の介入から守る手段であり、諸邦が分裂して互いに争って人民が重税、専制政
治、戦争、過大な軍隊などに悩まされないようにするための手段であった。
1783 年 4 月の改革の試みに続いて 1784 年、連合会議に内国通商と外国貿易
を規定する権限を制限付きで与える修正案が提案されたが連合会議で否決され
た。それだけではなく各邦間で通商をめぐる争いが起きた。例えば、1787 年、
ニュー・ヨーク邦議会は、ニュー・ジャージー邦とコネティカット邦からニュ
ー・ヨーク邦に到着する船舶、ニュー・ヨーク邦からニュー・ジャージー邦と
コネティカット邦に出発する船舶に対して、高い入港税と出港税を課した。報
植民地時代から憲法制定会議前夜まで
69
復措置としてニュー・ジュージー邦は、ニュー・ヨーク邦が所有するサンディ・
フックの灯台に月額 30 ポンドの税金を課した。しかし、連合会議にはそうした
紛争を解決することができなかった。マディソンは通商を規定する権限を連合
会議に与えるべきだと強く主張している。
「通商を規定する権限を少なくともある程度は[連合会議に]与えるかどうか
の問題を概観すると、それを可決すべきだということは疑いの余地もないこと
だと私には思える。もし通商を規定する権限がまったく必要ないのであれば、
通商を効果的に規定できる者に権限を付与する必要が確かにあるし、経験によ
る道理が予見するところ、個々の能力で行動する諸邦が通商を規定することは
決してできない。諸邦は別々に戦争を行ったり、同盟や通商条約を締結できな
かったりするように、通商を規定する権限を行使できない。したがって、こう
した事実の性質から、通商を規定する権限は、その他の権限に劣らず、連邦憲
法の条理に含めるべきである。私は、連邦制度の欠陥を修正することが非常に
重要であると思っている。なぜなら、そうした修正は、連邦が樹立された目的
に対するより良い回答になるだろうし、そのまさに欠陥が存続することによっ
てもたらされる危険を私は理解しているからである」15
上記のような弱点にも拘わらず、最終的に連合規約はアメリカが独立を勝ち
取る妨げとはならなかった。独立戦争は 1781 年 10 月 19 日、ワシントンがヨ
ークタウンでチャールズ・コーンウォリス(Charles Cornwallis)を降すことによ
って実質的に終焉を迎えた。勝利の後、連邦政府としての弱点がより顕著にな
った。共通の敵の脅威によってもたらされた結束はもはやなく、諸邦はお互い
に争い、連合会議に背を向けた。西部領地に対する重複する主張が争いに拍車
をかけた。紛争地域でコネティカット邦の入植者とペンシルヴェニア邦の兵士
が暴力的に衝突した。西部領地は国家の最も価値ある財産であったが、紛争を
解決するまでは開発することも、そこから利益を得ることも難しかった。東海
岸では、ニュー・ヨーク邦やマサチューセッツ邦、そしてサウス・カロライナ
邦のような港町を持つ諸邦が隣邦から輸入した物品に対して課税していた。
新国家は大きな負債を負っていた。独立戦争を戦った兵士達に対する支払い
や物品を供給した商人に対する支払いを完済しなければならなかった。破産や
差し押さえの危機に直面して、多くの兵士達や商人達は怒り、時には暴力的に
なった。1789 年までに外国の債権者は 1,000 万ドル以上の約束手形を抱え、未
支払いの利子は 180 万ドルにのぼった。もし支払いが完済されなければ、外国
70
アメリカ大統領制度史上巻
との交易が滞る恐れがあった。しかし、連合会議は国庫に分担金を納めるよう
に諸邦に説得することができないでいた。
1786 年の連邦政府の歳入は、
その年、
支払期日が来た負債の利子の 3 分の 1 以下であった。
アメリカは国内外を問わず様々な問題に直面していた。北部、南部、そして
西部の国境はまだ包囲下にあり、守備する兵士達に装備も資金もろくに準備す
ることができなかった。イギリスは 1783 年に締結されたパリ条約で明け渡す事
になっていた五大湖沿岸の 2 つの砦を占領し続けた。同様にスペインもアメリ
カの拡大を警戒してミシシッピ川をアメリカの船舶に対して閉ざし、パリ条約
でアメリカに属するはずの東岸の土地に対して領土主張をしていた。スペイン
とイギリスの両国はアメリカの入植者を襲撃するようにネイティヴ・アメリカ
ンをけしかけた。海外ではアメリカの船舶はバーバリ諸国の餌食となり、アメ
リカの貿易にとって有望な市場である英領カナダと西インド諸島から締め出さ
れていた。
イギリスのアメリカに対する敵意は理由のあるもので納得のいくものであっ
た。それはアメリカがパリ条約の 2 つの条項に従わなかったためである。1 つの
条項は独立戦争の間に没収された王党派の財産を補償することである。もう 1
つの条項はイギリス商人に対する独立戦争以前の負債を支払うことであった。
諸邦はこれらの 2 つの条項に強く抵抗し、連合会議は諸邦に条項を遵守するよ
うに強いることができなかった。連合会議は講和条約に基づいて没収された王
党派の財産を返還するように諸邦に要求したが、要求に応じたのはペンシルヴ
ェニア邦とメリーランド邦だけであった。
国内外の危機の中でさらなる問題が起きた。通貨危機がアメリカで起きた。
それは独立戦争が終わった後、アメリカが盛んに物品を買い込んで、時計やガ
ラス製品、そして家具など贅沢品をイギリスから輸入したからである。こうし
た贅沢品を購入するために、外国の債権者への支払い手段として唯一認められ
た財物である金と銀が国外に大量に流出した。一方で多くの債務者達、特に土
地を残して独立戦争に参加した農夫達は財政的に困難を抱えた連合会議から支
払いを受けることができずに破算と差し押さえの危機に直面していた。
その結果、債務者達は債務の完済を容易にするために邦議会に多額の紙幣を
発行するように働きかけた。つまり、農民が所有している不動産の価値に応じ
て、邦議会は仮証券を発行して農民に貸与し、税金の支払いやその他の納付金
の支払いに法定貨幣として使用することを認めた。またあらゆる債務と抵当の
植民地時代から憲法制定会議前夜まで
71
取立てを延期する猶予法が適用された。下落した通貨で返済されることを恐れ
た債権者達は政治的に巻き返しを図るが、限定的な成功しか収めなかった。強
力で民主的な邦議会は選挙民の中で少数の債権者よりも多数の債務者により過
度に迎合する傾向があった。商人は紙屑同然の証券をつかまされるのを嫌って
店を閉じ、商品を隠したり、他の場所に移したりした。
行政権に対する恐れは独立が宣言されてから10 年以上経ってもアメリカ人の
間で強いままであった。しかし、諸邦の強力な議会と弱い連邦政府の下でアメ
リカにもたされる諸問題は、特に保守的で財産を持つ人々にある種の教訓を与
えた。つまり、行政府に対する信頼の増加と立法府に対する不信感である。経
験は、効果的な行政府の適切な形態について教訓を与えた16。多くの有識者は、
適切な法の執行を可能にする強力な行政府なしでは連合会議は存続し得ないと
思うようになっていた。さらに全体の秩序や福祉を確保するためには、少なく
とも対応の統一が、そして必要な事項を処理できる十分な権限を持つ中央政府
が必要であると多くの有識者は信じるようになった。そうした中央政府は適切
に規定されれば、個人の自由にとって危険ではないだけではなく、自由を恒久
的に維持するうえで絶対に必要である。権力と自由は必ずしも相反するもので
はない。もし、権力が民主的に規定され、人民が権力を適切に抑制する手段を
与えられるのであれば、権力は自由にとって脅威とはならない。こうした考え
から、強力でありながら、権力の濫用を招かないような仕組みを持つ中央政府
を樹立しようとする動きが起きた。
後に憲法制定会議議長を務めたワシントンも早くから連合会議の改革を訴え
てきた。ワシントンは連邦に一貫性と安定、そして尊厳をもたらす憲法が必要
であると考えていた。そして、もし現状の連邦制度に変革がもたらされなけれ
ば、アメリカは国家として凋落すると危惧していた。1783 年 3 月 31 日にハミ
ルトンに宛てた手紙の中で以下のように述べている。
「合衆国の中で私よりも現在の連合を改革する必要性を深く感じているか、
または感じ得る人物はいないだろう。連合の悪い影響を私よりもよく分かって
いる者はおそらくいないだろう。というのは連合会議の欠陥と権限の欠如が、
まさに戦争の長期化の原因であり、その結果、莫大な費用が必要となったので
ある。私が軍を指揮する間に経験した困難の半分以上、軍の苦難と困難のほぼ
すべてはそれに起因する」17
さらに 1783 年 6 月 8 日、ワシントンは各邦知事により強い各邦の連帯を求め
72
アメリカ大統領制度史上巻
る回状を送付している。その回状は大陸軍総司令官として各邦知事に宛てた最
後の公文書であった。回状の中でワシントンは、現在の様々な困難は中央政府
が弱体であることに起因していると指摘した。そして、大陸軍の将兵が地域的
な偏見を越えて協力し合ったように各邦も協力し合うように求め、さもなけれ
ば連邦は崩壊してしまうだろうと警告した。
「もし諸邦が憲法によって明白に授与された権限を連合議会が行使するのを
許さなければ、すべては急速に無秩序と混乱に陥るだろう。連邦全体の問題を
規定し管理する最高権力をどこかに預けることは各邦の幸福にとって避けられ
ないことである。もしそれがなければ、連邦は長く存続することはできないだ
ろう。連邦を解体しようとする傾向を持つどんな方策も、もしくは国家の主権
を侵害したり損なったりする方策は、アメリカの自由と独立の敵と見なされる
だろう。そして、その張本人はそれにふさわしいように扱われる。もし我々が
諸邦の協力を得て革命の成果を分かち合えず、連盟規約で採用され工夫されて
いるように、自由で腐敗しておらず、抑圧の危険から幸いにも守られている政
治形態の下で市民社会の本質的な恩恵を享受できなければ、無目的に多くの血
と富が浪費され、対価もなく多くの苦難を体験し、そして多くの犠牲が無駄に
なされたことが悔やまれるだろう。他にも多くの考慮が、連邦の精神に完全に
順応することなく、我々は独立国家として存続できないということを証明する
だろう。最も重要だと思うことを 1 つか 2 つ述べれば私の意図を述べるのに十
分である。帝国としてまとまっているからこそ、我々の独立が承認され、我々
の権利が尊重され、諸外国の中で我々の名声を保つことができる。ヨーロッパ
諸国とアメリカ合衆国の諸条約は、連邦が解体してしまえばまったく効力を持
たない。我々はほぼ自然状態に残されるか、極度の無政府状態から極度の専制
政治に必然的に進むということを不幸な経験によって見出すだろう。専制的な
権力は、放縦に陥った自由の堕落の上に最も容易に築かれる」18
ワシントンは、連合規約を改正することで、より強力な中央政府を樹立する
ことにより、債権者を邦が定める不利な法律から守り、通貨の下落を阻止し、
公債の償還に必要となる課税も可能になると考えていた。また外国からの輸入
に依存しなくても済むように国内製造業を政府の手で育成することも必要だと
考えていた。
新国家が独立後、直面した問題の中で最も解決が困難だった問題は、諸邦間
の通商問題であった。諸邦は関税障壁を設けた。関税障壁で利益を得る者は少
植民地時代から憲法制定会議前夜まで
73
なく、多くの者が被害を受けた。ヴァージニア邦議会はマディソンの働きかけ
により、アナポリスで通商問題を協議する会議を開くことをその他の邦に呼び
掛けた。いわゆるアナポリス会議は 1786 年 9 月 11 日に開催されたが、ニュー・
ヨーク邦、ニュー・ジャージー邦、ペンシルヴェニア邦、デラウェア邦、ヴァ
ージニア邦の 5 邦の代表しか集まらなかった。他の邦はヴァージニア邦議会の
意図に疑念を抱き、代表をまったく送らなかった。そして、アナポリス会議は
通商問題を解決することはできなかったが、連合会議のような弱体な組織では
政策らしい政策を決定することができないという見解で一致し、フィラデルフ
ィアで 1787 年 5 月に 13 邦すべてを集めて連邦の緊急的な課題を解決するため
に連合規約の改正を検討する会議を開催することを決定した。
連合会議は最初、アナポリス会議の呼び掛けに対して熱意を示すことはなか
ったが、そうした態度を変化させる事件が起きた。負債を抱えたマサチューセ
ッツ邦の農夫達が救済策を邦議会に認めさせることができなかったために暴徒
と化し、土地の差し押さえを免れるために法廷を閉じ、保安官の競売を停止さ
せた。暴徒は他の諸邦で既に制定されていた救貧法を邦議会が制定するまで負
債と税金の取立てを停止させようと目論んだ。マサチューセッツ邦知事は暴徒
を解散させようとした。暴徒はそれに従わず、指導者達に反逆罪が下されない
ようにスプリングフィールドの最高裁の開廷を実力で阻止しようと試みた。邦
軍は暴徒を撃破し、その多数を捕虜にした。この暴動はその指導者の名前をと
ってシェイズの反乱と呼ばれる。有産者は社会が無秩序に陥るのではないかと
恐れた。そして、連合会議がそうした事態に対応できないのではないかと心配
した。事実、マサチューセッツ邦から救援の要請があった時、連合会議はまっ
たく何も対応策をとることができなかった。
1787 年 2 月 21 日、連合会議はアナポリス会議の呼び掛けに応じてフィラデ
ルフィアで連合規約を改正する会議を開くことを決議し、各邦に参加を呼びか
けた。もちろん諸邦は連合会議の呼び掛けに従う義務はなかった。事実、ロー
ド・アイランド邦は最後まで代表を憲法制定会議に送っていない。しかし、諸
邦はシェイズの反乱と同様の暴動が起きる可能性、国内外の問題、独立戦争の
英雄であるワシントンの参加などを鑑みて、自らの利益を守るために憲法制定
会議に代表を送ることにした。
74
アメリカ大統領制度史上巻
第 2 章 憲法制定会議
第 1 節 憲法制定会議の開始
1787 年 5 月 25 日から 9 月 17 日にかけてフィラデルフィアで憲法制定会議が
行われた。当時、憲法制定会議はそもそも連合規約を修正するために招集され
たので単にフィラデルフィア会議と呼ばれたが、ここでは便宜上、憲法制定会
議と呼ぶ。憲法制定会議は、人民の意思を代表する行政首長に率いられる強力
な連邦政府について初めて真剣に議論した重要な場である。憲法制定会議は連
合規約では見られなかった行政首長、すなわち大統領を明確に定義した点で革
新的であった。
75 人の代表が憲法制定会議の代表として選ばれたが、実際に出席したのは 55
人である。55 人の代表達は、概ね新国家にはより強力な連邦政府が必要である
という見解では一致していた。なぜなら代表達の多くが同様の経験を有してい
たからである。55 人の代表達のうち 7 人が邦知事を務めた経験を持ち、42 人が
大陸会議や連合会議の代表を務めた経験を持ち、21 人が独立戦争で生命と財産
を危機にさらし、8 人が独立宣言に署名していた。その他にも共通点があった。
ほぼすべての者が富裕であり、ほぼ半数が弁護士であり、約 4 分の 1 の者が自
らの大農園を所有していた。白人人口の 85 パーセントを占める小農園主は 55
人の代表達のうち僅かに 2 人だけであった。大部分の代表達の富は、公債や製
造業、海運業への投資や土地投機によって構成されていた。その他の代表達の
富は不動産や奴隷によって構成されていた。代表達の大半が早くから開発が進
んだ海岸部に居住していた。内陸部に居住する者が憲法制定会議に出席するの
は当時の交通事情からすれば難しかった。すべての者が公職を持ち、30 人が邦
議会議員であり、10 人が判事であり、3 人が知事であった。その中には邦憲法
の起草に深く関連した者も含まれる。すべての者が出身邦でよく知られた人物
であり、また全国的な名声を得た者も数多くいた。すべての者が白人男性であ
った。また 2 人のカトリックを除いてすべての者がプロテスタントであった。
大学への進学率が非常に低い時代であるのにも拘わらず、55 人のうち 30 人が
大学を卒業していた。代表達の平均年齢は 43 歳であり 20 代の若者も含まれて
いた一方で、60 歳を越えていた者は僅かに 4 人しかいなかった。最高年齢はベ
ンジャミン・フランクリンで 81 歳であった。フランクリンは次に高齢の者より
も 16 歳も年長であった。建国の父祖の中でジョン・アダムズとジェファソンは
憲法制定会議
75
外交官として国外に出ていたために憲法制定会議に参加することができなかっ
た。またジョン・ジェイ(John Jay)も連合会議の対外関係の調整に忙しく憲法制
定会議に参加することができなかった。
上記のような共通点もあったが相違点も多くあった。小さな邦を代表する者
がいる一方で大きな邦を代表する者がいた。南部から来た者がいる一方で北部
から来た者がいた。代表達は憲法制定会議への参加の度合いでも異なっていた。
フィラデルフィアに実際に来たのは 55 人であるが、そのうち最初から最後まで
会議に参加したのは 29 人のみである。しかし、その 29 人の中にはジョージ・
ワシントン、ベンジャミン・フランクリン、エルブリッジ・ゲリー、ジェーム
ズ・マディソン、ジョージ・メイソン(George Mason)、チャールズ・ピンクニ
ー(Charles Pinckney)、エドモンド・ランドルフ、ロジャー・シャーマン(Roger
Sherman)が含まれていた。その他の 26 人の代表達は様々な度合いで会議に参
加した。その中でも重要な役割を果たしたのは、オリヴァー・エルズワース
(Oliver Ellsworth)、グヴァヌア・モリス、アレグザンダー・ハミルトン、そし
て、ウィリアム・パターソン(William Paterson)である。これらの代表達は会議
に遅れて到着したか、病気や会議の進行に対する不満、または公用や私用など
で会議から早く離れた。
憲法制定会議に参加した代表達には一定の見解の一致があった。代表達は、
法と秩序を重視し、人間の権利に代わり財産権を重視した。衆愚政治に対して
警戒心を抱いていた。公債を支払うことができ、アメリカの外交的利益を十分
に主張できるに足る、連合会議より強力な中央政府を作るという目的で代表達
は一致していた。単純な多数決による支配ではなく、財産を持つ少数者を保護
できるような階層の均衡を保つ制度の確立を目指した。立法府、行政府、司法
府の権限を分かち、かつ均衡させるという三権分立の原理の確立を目指した。
最善の政体は共和政体である。連合会議にはなかった独立した合衆国裁判所を
設立する。強力な中央政府によって産業育成のために対外通商を規定し、通貨
を安定させる。国民の生命、自由、財産を守るための政府を樹立する以上のよ
うな点で代表達の見解は一致していた19。
憲法制定会議が開催される前、マディソンは、ワシントンやランドルフ、ジ
ェファソンなどに手紙で憲法制定会議の議事案を示している。マディソンは、
現行の連邦制度にはまったく賛同すべき点も、賛同に値する点もないとした。
もし何本かの強力な支柱をあてがわなければ、すぐに倒壊してしまうと予測し
76
アメリカ大統領制度史上巻
た。シェイズの反乱が筆舌に尽くし難い傷を共和主義に与えたので、君主制を
志向する者が勢いを強めるのではないかとマディソンは危惧していた。その一
方で、人民の多くは、三権分立に基づくより強力な連邦に加盟するという「小
さな悪弊」を喜んで受け入れるだろうという見解をマディソンは示した。マデ
ィソンの憲法理論の根本には、中央政府の権限強化が専制政治に繋がるのでは
なく、むしろ自由を擁護する保障となるという強い信念があった。3 人に示した
提案の骨子は次のような 9 点である。
第 1 に、大邦が正当な影響力を持つことができるように代表制の原理を変更
しなければならない。第 2 に、いかなる場合も完全な統一性を求める積極的に
して完全な権威を連邦政府に与えるべきである。第 3 に、どのような場合であ
れ、諸邦の立法に対する反対する権限を両院のうち議員定数が少ない院に与え
る。第 4 に、国家の最高性を司法府にも拡大する。第 5 に、任期の異なる両院
を設置する。第 6 に、国家行政首長(大統領)を創設する。第 7 に、内的及び外的
脅威からの安全を諸邦に明白に保障する条項を盛り込む。第 8 に、諸邦に対す
る強制権を宣言する。第 9 に、批准を邦議会の通常の権限からではなく人民か
ら得ることである。
さらに 1787 年 4 月、憲法制定会議を目前にしてマディソンは、
「合衆国の政
治制度の欠陥」をまとめている。本来、憲法制定会議は連合規約に抜本的な修
正を加える名目で招集された会議であったので、現行制度の欠陥をまとめる必
要があった。この覚書は憲法制定会議の青写真とも言える文書であり、次のよ
うな連盟規約の欠陥が列挙されている。
第 1 に各邦が連合規約で求められることを遵守しないことである。つまり、
こうした悪弊は、各邦の独立した権限と数から生じる。これは現行制度が抱え
る致命的な欠陥である。
第 2 に各邦による連邦の権限の侵害である。例えばジョージア邦は連邦の意
思とは無関係に独自の判断でネイティヴ・アメリカンと交戦したり条約を締結
したりしている。
第 3 に各邦の国際法と条約に違反する行動である。各邦は別個に行動するの
で結果的に統一した行動をとれない。その結果、国際法や条約に違反すること
も起こり得る。そうした行動が外国との紛争の火種とならないように留意すべ
きである。
第 4 に各邦が相互に権利侵害を行っていることである。例えばヴァージニア
憲法制定会議
77
邦は邦内の特定の港湾への立ち入りを他邦に対して規制している。メリーラン
ド邦やニュー・ヨーク邦は自邦民の船舶に対して優遇措置をとっている。さら
に各邦で発行されている紙幣も相互の権利侵害をもたらす。各邦の市民はそれ
ぞれ債務者であり債権者である。ある債務者が属する邦がその債務者に有利な
法律を制定する一方で、債権者が属する邦はその債権者に有利な法律を制定す
るだろう。貨幣の鋳造と価値の規定を排他的に行う権限を連邦に適切に委ねる
ことによって国内の混乱を抑えるべきである。
第 5 に共通の利益に関わる問題について一致協力が得られないことである。
通商問題の状況は、こうした欠陥を強く示している。その結果、いかに国家の
威信、利益、歳入が損なわれているだろうかとマディソンは述べている。
第 6 に各邦の憲法や法律の内乱に対する保障を欠いていることである。共和
主義の原理に基づいて多数者に権力が与えられているが、事実と経験によると、
少数者が武力に訴えるようになれば、多数者に対する強敵となる恐れがある。
また奴隷制度が存在するところでは、共和主義の理論が虚偽になるのは当然で
あるとマディソンは断言している。
第 7 に法律に制裁を欠き、連邦に強制力を欠いていることである。制裁は法
律の構想において不可欠であり、同じく強制力は政治の構想において不可欠で
ある。独立戦争の最中でさえも、外敵による危険がありながら各邦は連邦に対
する彼らの義務を満たさなかった。平和時においてはなおさらであろう。連邦
法は各邦に等しく適用されるべきである。各邦が自発的に連邦法を遵守するか
どうかは疑わしい。そうした疑念により、結局、誰も連邦法を遵守しようとは
しなくなる。
第 8 に連合規約が人民による批准を欠いていることである。もし連邦が単に
各邦間の契約に過ぎないのであれば、もしある邦が連合規約を遵守しなければ、
残りの他の邦は同規約を遵守する義務から解放されることになる。そして、連
邦を解体する権利を持つことになる。
第 9 に各邦で法が重複していることである。確かに法は、遵法者の義務を明
確にする限り必要である。しかし、法がその限度を越えれば最も有害な類の厄
介なものとなる。
第 10 に各邦の法が変わりやすいことである。法が頻繁に改廃されることは、
例えば通商問題に関しては不安定の原因となり、それは我々の市民にとっても
外国人にとっても躓きのもとになる。
78
アメリカ大統領制度史上巻
第11 に各邦の法が不公正なことである。
それは本来、
公共の善と個人の権利、
両方の最も安全な守護者であるはずの共和政体の根本原理に疑問を投げかける
ことになる。すべての市民社会は、異なった利害を持つ集団や派閥に分かれて
いる。共和政体においては、多数者が形成され法律を制定する。共通の利益や
感情に基づいて多数者は結び付いている。それらを共有しない少数者の権利や
利益を多数者が侵害する可能性がある。その可能性を防止できるものは何か。
公共の善を重視する良識である。公正であることは最善の策であることを忘れ
てはならない。少数者に対する抑圧という危険を回避するためには良識が必要
である。そのためには公正な制度を保障しなければならない。
第 12 に各邦の法が無力なことである20。このようにマディソンは 12 点にわ
たって連合規約の欠陥を述べている。マディソンは諸邦が互いに自邦の利益を
守るために争い合えば、共和制の前提が崩壊すると危惧していたのである。連
邦を永続させることがマディソンの最優先課題であり、共和主義という名の栄
誉を取り戻すことを目指していた。もし憲法制定会議が失敗に終われば、連邦
が君主政に逆戻りするか、もしくは分裂するだろうとマディソンは考えていた。
憲法制定会議が行われた場はフィラデルフィアである。フィラデルフィアは
当時、ペンシルヴェニア邦の首都であり、連合会議はニュー・ヨークで参集し
ていたものの、多くの点でアメリカの首都と言えた。またフィラデルフィアは
当時、アメリカ最大の都市で人口約 4 万 5,000 人であり、経済、文化の中心で
あった。憲法制定会議の議場に使われたのはインディペンデンス・ホール(当時
はステイト・ハウスと呼ばれペンシルヴェニア邦議会の議事堂として使われて
いた)である。代表達が使用した議場は 1775 年から 1783 年の間、大陸会議の議
場としても使われ、独立宣言はその場で署名された。
連合会議は憲法制定会議を 1787 年 5 月 14 日に開催するように呼び掛けた。
しかし、会議は期日になっても定足数が満たされなかったので 5 月 25 日まで開
催されなかった。大部分の代表達は 2、3 日以内にフィラデルフィアに到着した
が、もっとずっと後になって到着した者もいた。連邦政府の強化に強く反対し
ていたロード・アイランド邦議会は完全に憲法制定会議をボイコットした。
5 月 25 日の最初の仕事は議長を選ぶことだった。ワシントンが全会一致で議
長に選ばれた。会議でワシントンはほとんど発言することはなかったが、大統
領制の創始の他、様々な局面で影響力を及ぼしている。重要な局面では議長が
用いる小槌を他の代表に託し、自らヴァージニア代表内の票決に加わっている。
憲法制定会議
79
例えば、行政府の権限を 1 人の行政首長、つまり大統領に持たせる動議や弾劾
を通じてのみ大統領の罷免を議会に認める動議、そして、大統領に再選を認め
る動議などに賛成票を投じている。また拒否権についても、大統領に強い権限
を与えるべきだとワシントンは考えていた。つまり、拒否権を大統領単独に与
え、それを覆すのに必要な票を 3 分の 2 ではなく 4 分の 3 にする案を支持して
いた。
ワシントンが唯一口を挟んだ機会は、会議も終わりを迎えようとしていた 9
月 17 日、連邦下院の議員定数割り当てについて 3 人の代表が改正案を提議した
時だけである。彼らは、
「下院議員の数は、人口 4 万人に対し 1 人の割合を超え
ることはできない」という規定を「人口 3 万人に対し 1 人の割合」に修正する
ように求めた。ワシントンは、憲法に反対する者をなくし、署名を速やかに進
めるために修正を支持した。そして、会議は修正を全会一致で可決した。
憲法制定会議が最初に扱うべき問題は、そもそも連合会議の修正のために招
集された会議で、新しい憲法を考案することが認められるか否かという問題で
あった。パターソンは、連合会議の訓令に従うべきだと主張し、代表達は正式
な権限を得るために一旦、各邦に帰るべきだと論じた。ランドルフは、危機の
際に必要な措置をとることは認められると反論した。
ワシントンが議長に選ばれた後、ウィリアム・ジャクソン(William Jackson)
が書記に選ばれた。ジャクソンの手による「会議日誌」は 1819 年に公刊された
が、単なる動議と賛否を記録したものであり、討論の詳細にまで記述が及んで
いない。幸いにもマディソンが討論の詳細な記録である「憲法制定会議に関す
る覚書」を残している。マディソンは、他国の政府の研究の中で創始者の意図
が何であるか読み取ることができなかったと嘆いている。それ故、後世の者が
創始者の意図を理解できるように、憲法制定会議で行われた議論の詳細を残そ
うと考えた。マディソンの行動はマディソン自身の発案であったが、他の代表
達はマディソンが何をしているか十分に認識していた。公平さを期すためにマ
ディソンは最後の代表が死ぬまで記録を秘密にしておくことにした。最後まで
生き残った代表はマディソン自身であった。マディソンは 1836 年に 85 歳で亡
くなった。
1837 年、
議会はマディソンの記録をその他の文書とともに購入した。
そして、
マディソンの記録は『憲法制定会議日誌』として 1840 年に出版された。しばし
ばマディソンは、議会が終わった後、代表達の交流の輪を抜け出して、下宿で
80
アメリカ大統領制度史上巻
自らの速記録をもとに代表達の見解を書き出す作業に没頭した。マディソンは、
討論の記録をつけることで論点を整理し、話し合いがうまく進むように運んだ
のである。マディソンの他にも議事録をつけていた代表は何人か存在するが、
マディソンの詳細な議事録には及ばない。マディソンの関連文書が公刊される
まで、憲法制定会議で何が話し合われたのかは一般にほとんど知られていなか
った。なお憲法制定会議に関する史料集成としてマックス・ファーランド(Max
Farrand)による『1787 年の憲法制定会議の諸記録』は極めて有用である。憲法
制定会議に参加した代表達の記録を会議の日付毎にまとめ一覧できるように工
夫されている。
会議の最初の日の残りの仕事は出席していない邦の代表達からの委任状を受
諾することであった。そうすることでそれぞれの邦が等しい投票権を持つとい
う慣例上の手続きに暗黙の了承がなされた。ウィルソンは人口が多い邦が大き
な投票権を持つべきだと考え、そうした了承に不満を抱いたが、マディソンや
その他の者達によって、小さな邦の代表達を初めから背かせることは会議全体
を失敗に終わらせる可能性があるので得策ではないと説得を受けた。
5 月 28 日、代表達は追加の規則と手続きを採択した。特に重要なのは秘密規
定であった。代表達は他の代表を除いて家族も含めて誰にも会議場での議論に
ついて明かさないという規定である。会議の内容をすべて内密にすることによ
って外部からの影響を排すためである。そうすることで代表達は自らの考えを
発表しやすくなり、また自らの意見を躊躇うことなく変えることができた。さ
らに憲法制定会議に反対する者が、特定の問題を取り上げて憲法制定会議の進
行を妨害するのを妨げないようにすることができた。マディソンは後年、
「もし
21
議論が公開されていたら憲法は採択されなかっただろう」と述べている 。
もう 1 つの重要な規則は、たった 1 人の代表の求めであっても、会議は決定
を再考することを許すことである。なぜなら問題をいつでも取り上げ、再び決
定できるようにすることで、投票に負けた側が抗議と不満のために議場を去る
よりも留まって他の代表達を説得する機会を持たせるようにするためである。
憲法制定会議は筋書き通りの進行もなく、秩序だった進行もなかった。問題
の再考を許すという代表達の決定は、見解の統一を形成し、諸部分がうまく噛
み合った政府を作るという願望によって強化された。そのため会議は物事を直
線的に進めることができず、前に取り上げた問題を再び取り上げたりして、行
きつ戻りつしながら螺旋状に進めることしかできなかった22。憲法制定会議は
憲法制定会議
81
首尾良く招集されたとはいえ、失敗する危険性は大きかった。フランクリンは
「もし憲法制定会議が善をなし得なかったら、害悪をなすだけであり、我々が
我々自身を支配する叡智を我々のうちに持っていないことを示すことになる」
と述べている23。憲法制定会議は円滑に進行したとは言い難い。ワシントンは
「私は憲法制定会議の過程で有利な出来事を見ることをほとんど諦めていて、
それ故、この事業を行う組織を持ったことを後悔しています」と述べている24。
とはいえ憲法制定会議の進行はまったく無秩序であったわけではない。代表
達によって提出された様々な案や会議によって任命された委員会が進行を整理
する手助けをした。こうした案や委員会によって会議の進行を 7 つの大きな段
階に分けることができる。
第 1 の段階は 5 月 29 日のヴァージニア案の導入である。第 2 の段階は 5 月
30 日から 6 月 19 日で、会議を全体委員会に構成し直し、ヴァージニア案を検
討し、さらにハミルトンの案やニュー・ジャージー案を検討した。第 3 の段階
は 6 月 20 日から 7 月 26 日で全体委員会の決定を逐条的に議論した。第 4 の段
階は 7 月 24 日から 8 月 6 日で、細目委員会が代表達の意見を反映した新しい憲
法の草案を起草した。第 5 の段階は 8 月 7 日から 8 月 31 日で、細目委員会の報
告に基づいて憲法案が逐条的に検討された。第 6 の段階は 8 月 31 日から 9 月 8
日で、延滞事項委員会が代表達を分裂させていた諸問題について受け入れやす
い解決案を推奨した。第 7 の段階は 9 月 9 日から 9 月 17 日で、文体委員会によ
る憲法案の最終調整と署名である。
第 2 節 ヴァージニア案の導入
5 月 29 日、ランドルフによってヴァージニア案が提議された。ヴァージニア
案は連合規約から完全に逸脱するものであり、主にマディソンによって起草さ
れた。15 条からなる同案は、合衆国憲法の基盤となった。ヴァージニア案の特
徴は、人民の直接選挙による第一院(下院)と邦議会の選出による第二院(上院)に
基づく二院制の導入に加えて、各邦による侵害を阻止できる強力な権限を連邦
政府に与える点にある。また三権分立の原則が明らかにされている。
ヴァージニア案では、大統領に相当する職は国家行政首長(National
Executive)と呼ばれている。大統領(President)という呼称は、細目委員会にお
いて採用が決定された。この時、他に最高裁判所(Supreme Court)、連邦議会
82
アメリカ大統領制度史上巻
(Congress)、下院(House of Representatives)なども採用されている。大統領制
度の創始にあたって最も危惧されたことは、強力な立法府が行政府の権限を侵
害することであった。それを防止するためには、行政府の長を立法府から独立
した立場に置くことが重要であった。そこで問題となる点は行政府の長を選出
する方式である。
マディソンは立法府による大統領選出に一貫して強く反対している。もし立
法府が大統領を選出することになった場合、候補者は議会の多数派と結託する
恐れがある。それは行政府が立法府に従属する結果を招く。それ故、大統領の
選出方式として、人民によって選ばれた選挙人による指名が最善であるとマデ
ィソンは結論付けている。細目委員会が提案した人民による直接選挙を採用し
なかった理由は、まず国土が広大なアメリカでは、すべての人民が候補者の各
主張の是非を判断するために必要とされる能力を持つことが不可能である点、
各邦の人民は自分の邦の利益を優先するので小邦にとって不利になる点、有権
者数の不均衡が北部と南部の間で生じる点である。奴隷の人口を 5 分の 3 の割
合で人口に含める条項があるために、特に多数の奴隷を擁する南部にとって人
口が過少に見積もられることになるので不利が明らかであった。最終的に、大
統領の選挙方式は邦議会の定める方法により選出された選挙人による指名で行
われることに定められた。
また一方で大統領による横領や抑圧を防止するために、大統領を弾劾できる
制度を整えるべきだとマディソンは提言している。しかし、メイソンが「失政」
も大統領弾劾の基準に含めるべきだと論じた際に、マディソンは大統領の地位
が議会によって恣意的に左右されることになるとして反対を唱えた。さらにマ
ディソンは議会ではなく最高裁判所が弾劾裁判を行うべきだと論じていた。し
かし、最高裁判所の構成員があまりに少数であり、堕落させられる可能性が高
いとしてマディソンの提案は否決されている。
さらにヴァージニア案では特に「統一国家的(National)」という当時では新奇
な概念が盛り込まれている点は特筆すべきである。それは、連合規約の下での
現行制度を意味する「連邦的(Federal)」という概念とは対照的な概念であった。
統一国家的な概念は、連邦政府が、これまでのように各邦を通じて間接的に人
民に働きかけるのではなく、直接的に人民に働きかけることを意味している。
統一国家的な概念を推進した一派をナショナリストと呼ぶ。
この概念は多くの反対をまねいた。反対派(「連邦的」な概念を支持したので
憲法制定会議
83
主に「フェデラリスト」と呼ばれるが、後の憲法批准賛成派や連邦派とは異な
る)が邦の権限を完全に奪取するような中央政府の成立を恐れたためである。し
かし、ヴァージニア案は、邦の権限を完全に奪取することを目指していたわけ
ではなく、連邦と各邦の均衡がとれるように権限を配分することが大きな目標
であった。また、各邦がその邦民に対する権限を保留する一方で、連邦は直接
国民に対する権限を行使するという二元制度への移行を目指していたのである。
ヴァージニア案をめぐる討議の過程で統一国家的な概念の主唱者になったの
はマディソンとウィルソンである。一方、連邦的な概念は、コネティカット邦
代表のシャーマンとエルズワース、ニュー・ジャージー邦代表のパターソンの 3
人の他、マサチューセッツ邦の代表ゲリー、メリーランド邦の代表ルーサー・
マーティン(Luther Martin)が中心となって主唱した。
第 3 節 全体委員会
5 月 30 日、憲法制定会議は全体委員会を設けることを決定した。実質的に全
体委員会は憲法制定会議と同じ機関であったが、代表達はより打ち解けて議論
を進めることができた。象徴的にワシントンは議長の座を一時的に降りて、ナ
サニエル・ゴーラム(Nathaniel Gorham)が全体委員会の議長を務めた。全体委
員会での決定は憲法制定会議に対する勧告という形を取ったので、どの決定で
あれ 1 度以上の決をとる機会が与えられた。
5 月 30 日から 6 月 13 日まで全体委員会は逐条的にヴァージニア案を検討し
た。ヴァージニア案の大部分は受け入れられたが、ある部分は修正され、曖昧
な点は明確にされた。まず国民議会に二院制を採用する点は全会一致で認めら
れた。しかし、両院をどのように構成するのかという点については意見が分か
れた。連邦的な概念を主唱する者達は、人民による第一院(下院)の選出に反対し、
邦議会による第一院(下院)の選出を提案した。5 月 31 日の票決で、少なくとも
一院は人民による直接選挙で選出されることが議決された。
次に問題になったのは行政府の長の構成、権限、そして選出方法であった。
ランドルフは行政府の長を複数にすべきだと主張して、単独にすべきだと主張
するウィルソンと対立した。マディソンはこの問題の討論を先送りにするよう
に求めた。そして、行政府の長の任期を 7 年 1 期に限ることが決まった。また
行政府の長は不正行為と義務の怠慢で弾劾され罷免される。審査院なしで行政
84
アメリカ大統領制度史上巻
府の長は単独で拒否権を行使できる。拒否権は両院の 3 分の 2 の票数で覆され
る。3 分の 2 の票数を要件とするのはアメリカ人の発明である。イギリス議会で
はこのような要件は採用されていなかったが、諸邦では採用されていた。
さらに行政府の長の選出方法について話し合われた。6 月 2 日、選挙人投票で
行政府の長を選出するというウィルソンの提議が否決された後、国民議会が行
政府の長を選出する方法が賛成票を集めた。
6 月 4 日、行政府の長を複数にするか、単数にするかという再び問題が取り上
げられた。ウィルソンは、諸邦の知事を例にとって単数説を強く唱えた。マデ
ィソンはヴァージニア邦の代表達にウィルソンの提案に賛成票を投じるように
働きかけた。その結果、行政府の長を単数にする提案は受け入れられた。マデ
ィソンの働きかけ以上にワシントンの存在が強い影響を及ぼしたと考えられる。
なぜならワシントンこそ新政府の行政府の長になり得るほぼ唯一の人物だと見
なされていたからである。多くの代表達は腐敗した人物が権力を一手に握る可
能性を恐れていたが、ワシントンなら信頼を裏切らないだろうと思っていたの
である。しかし、行政府の長の選出方法については容易に決定せず、論議がこ
の先も続くことになる。
さらに行政府の長の拒否権に関する論議が後に続いた。メイソンは、絶対的
な拒否権を行政府の長に与えることは専制政治をもたらすと反論を唱えた。マ
ディソンの支持の下、立法府は行政府の長の拒否権を 3 分の 2 の票数で覆せる
という規定を盛り込むことで合意が成立した。その次に、司法府について話し
合われた。ウィルソンとマディソンは、判事を行政府もしくは第二院(上院)が任
命する案を提出したが、反対派により先送りが決定された。各邦の利益を唱え
る反対派の抗議にあいながらも、ウィルソンとマディソンは、連邦裁判所の管
区を定め、巡回裁判所を設立する権限を国民議会に持たせることに辛うじて成
功した。
6 月 6 日、第一院(下院)の選出方法を人民による直接選挙にすべきか否かが再
び話し合われた。シェイズの反乱の記憶がまだ新しい中、シャーマンは国民議
会の権限を制限するために邦議会による選出を求めた。まずウィルソンがそれ
に対して、もし直接選挙が行われなければ人民は連邦政府に愛着を感じなくな
ると反論を行った。マディソンはウィルソンを支持して、衆愚的な選挙の危険
性を認めながらも、不完全と悪弊から完全に免れる政府などないので、そうし
た危険性に対して過度に警戒すべきではないと弁じた。そして、そうした危険
憲法制定会議
85
性は、人民の権利を認め、人間の本質を認める利点によって相殺されるはずで
あるから、代表達は人民が考えるように考え、人民が感じるように感じるべき
だと述べている。続いてマディソンは憲法制定会議で行った演説の中でも最も
重要な演説を行った。人民が直接、立法府の少なくとも一部門を選ぶことは、
自由政府の明確な原理であることを再び強く訴え、シャーマンの論を斥けたの
である。
6 月 7 日、デラウェア邦代表のジョン・ディキンソンが、第二院(上院)の議員
を邦議会が選ぶべきだと提議した。それに対してマディソンは、もしディキン
ソンの提案を受け入れれば上院の議席が多くなり、その結果、上院に求められ
る冷静である点、整然としている点、見識がある点といった資質を保つことが
難しくなると反論した。
6 月 8 日、邦が制定した不適切な法律に対して拒否権を行使する権限を国民議
会に与えるべきか否かが論じられた。最終的に邦の法律に対する拒否権は明記
されなかった。僅かに憲法第 6 条第 2 項において連邦法の最高法規性が示され
たのみである。
ヴァージニア案に関する討論の結果、以下のような点で大筋の合意が成立し
た。三権分立の原則を守り、人民の直接選挙による第一院(下院)と邦議会の選出
による第二院(上院)の二院からなる立法府を設立し、第一院(下院)の任期は 3 年
とし、第二院(上院)の任期は 7 年とする。また立法府は、諸邦が定めることがで
きない問題を規定する権限と憲法、もしくは条約に違反する諸邦の法律を拒否
する権限を持つ。そして、行政府の長は単数であり、7 年間の任期で国民議会に
よって選ばれ再選されることはなく、国民議会の立法に対して拒否権を持つ。
一方、国民議会はそれを一定の票数を得れば覆すことができる。さらに連邦判
事は第二院(上院)によって指名され、非行なき間、在職できる。最後に憲法の批
准は、その目的のために選ばれた代表による会議によって定められる。
小邦を中心とするフェデラリストは 6 月 4 日からヴァージニア案の対案を練
り始めた。6 月 11 日にシャーマンによって提案された妥協案は、下院の議席を
人口比に基づいて配分する一方で上院の議席を各邦 1 議席ずつ配分するという
内容であった。そして、6 月 15 日、ニュー・ジャージー邦代表のパターソンは、
コネティカット邦、ニュー・ヨーク邦、デラウェア邦、メリーランド法の支持
を受けて 9 条からなるニュー・ジャージー案を提出した。
ニュー・ジャージー案の骨子は次の通りである。立法府は各邦が平等の代表
86
アメリカ大統領制度史上巻
権を持つ一院制である。現行の連合会議に複数、または委員会形式の行政府と
行政府によって指名される終身の判事からなる最高裁を付け加える。そして、
連合会議に、関税と印紙税を課す権限、外国および州際通商を規定する権限、
邦から分担金を徴収する権限を与え、さらに邦に連邦法に従うように強制でき
る行政府の長を指名できる権限を与える。そして、司法府には外国人、条約、
連邦の通商規定や税の徴収に関連する事例を扱う権限を与える。ニュー・ジャ
ージー案は連合規約の改正を求めるもので新たな憲法案を提示するものではな
かった25。
6 月 18 日、ニュー・ヨーク邦代表のハミルトンが初めて席を立った。ハミル
トンの熱弁は 5、6 時間続いた。ハミルトンはイギリス政府をモデルとして強力
な中央政府の樹立を求め、行政府の長を選挙人によって選出し、終身の任期を
認めること、さらに行政府の長に絶対的な拒否権と省庁の長を任免する権限、
反逆罪を除くあらゆる罪科に恩赦を与える権限、条約を締結する権限など広範
な権限を与えること、連邦議会による邦知事の任命を提案した。また邦知事は
邦議会によって制定された法律に対して拒否権が与えられる。連邦上院の議員
はイギリスの貴族院のように任期は終身とされる。ハミルトンの提案は急進的
であり、ヴァージニア案を穏健に見せる役割を果たした。行政府の長に恩赦を
与える権限や条約を締結する権限を与える点などハミルトンが提案した幾つか
の点は後に採択されている26。
6 月 19 日、全体委員会はヴァージニア案とニュー・ジャージー案の採決を行
った。ニュー・ジャージー案を支持していたコネティカット邦がヴァージニア
案支持に転向し、メリーランド邦は代表の間で意見が分かれたので 7 票対 3 票
でヴァージニア案が採択された。ヴァージニア案は修正を受けたうえで認めら
れ、全体委員会に報告された。しかし、連邦議会における議席配分をめぐる大
邦と小邦の衝突は未解決であった。
第 4 節 6 月 20 日から 7 月 26 日
6 月 20 日、再びワシントンが憲法制定会議の議長席に戻った。6 月 20 日から
7 月 2 日にかけて全体委員会によって示されたヴァージニア案の各条項が検討
された。その最中、コネティカット邦代表のウィリアム・ジョンソン(William
Samuel Johnson)が、各邦政府にどの程度の主権が残されるかと問い、連邦政
憲法制定会議
87
府と各邦政府の権限の管轄をどのように分けるのかという疑問を投げかけた。
そうした疑問に対してマディソンは、連邦政府が必ずしも邦政府の権限を完全
に奪取しようとしているわけではないと論じた。討論はさらに進み、今度はニ
ュー・ヨーク邦代表のジョン・ランシング(John Ten Eyck Lansing, Jr.)とニュ
ー・ジャージー邦代表のジョナサン・デイトン(Jonathan Dayton)が、各邦は第
一院(下院)において、平等に議席を与えられるべきだと提議した。小邦は同数配
分を主張し、大邦は人口による比例配分を主張した。こうした主張に対して、6
月 26 日、マディソンは、ランシングとデイトンの提議は小邦の安全を保障する
ために必要な措置ではないと反論を行った。さらに同日、第二院(上院)について
詳細に論じられた。最終的に第二院(上院)の任期は 6 年とされ、3 分の 1 ずつが
2 年毎に改選されることになった。
第一院(下院)に関する議論に続いて、第二院(上院)で各邦に平等に投票権を与
えるべきだという動議に関する議論が 28 日から 30 日にわたって行われた。マ
ディソンやウィルソン、そしてグヴァヌア・モリスはそうした動議に反対を唱
えた。彼らの考えでは、各邦の人口の違いを無視して平等に投票権を与えるこ
とは、統治されることに同意した人々が平等な声を持つという共和主義の原則
に反していた。また大邦が連携して小邦を圧迫する可能性も少ないと指摘し、
小邦の危惧を和らげようとした。
結局、7 月 2 日、第二院(上院)の議席配分をめぐって票決が均衡したので、妥
協案を考案するために 11 人委員会が設立された。小邦の代表の中には分離独立
を口にする者もいて、この問題に関して妥協が成立しなければ憲法案自体の成
立も危ぶまれた。3 日後、11 人委員会は妥協案を報告した。
同案は主に 3 つの内容からなる。第 1 に、第一院(下院)では、各邦は人口 4 万
人につき 1 席の議席を持ち、奴隷は自由民に対して 5 分の 3 の割合で人口に含
める。第 2 に、第二院(上院)では、各邦は同数の議席を持つ。これは前者がナシ
ョナリストの考え方、後者がフェデラリストの考え方を取り入れた案と言える。
ただし奴隷の人口を 5 分の 3 の割合で人口に含める妥協は新たな発想ではない。
それは既にマディソンの発案で 1783 年 4 月 18 日に連合会議が採択した連合規
約の修正案に盛り込まれ、ウィルソンが憲法制定会議の場で示唆したのである。
そして、第 3 に、第一院(下院)のみが予算の発議権を持ち、第二院(上院)はそれ
に対する修正権を持たない。各邦が第二院(上院)で同数の議席を持つ点が小邦に
対する妥協であり、第一院(下院)のみが予算の発議権を持つ点が大邦に対する妥
88
アメリカ大統領制度史上巻
協である。この妥協はコネティカット妥協と呼ばれている。
マディソンやウィルソンはこの妥協案に反対し、各邦間に確執を残すような
妥協は避けるべきだと勧告している。特に第二院(上院)で同数の議席を各邦に割
り当てる点について強く否定している。7 月 16 日、最終的に妥協案は僅差で可
決された。結局、マディソンやウィルソンの強硬な反対は受け入れられず、11
人委員会が報告した妥協の基本方針はほとんど変更されなかった。
7 月 17 日、マディソンは再び邦の法律に対する拒否権を明確に認めるように
求めた。それはマディソンが最も重視した点の 1 つであった。しかし、会議は、
そうした明言を避け、単に国民議会の法律と条約を「最高法」であると言及し、
諸邦の議会と裁判所がそれに従うべきだと指摘するにとどめた。また会議は再
度、行政府の長を人民の直接選挙で選出する案を斥けた。それに加えて、行政
府の長の再選を認めるという決定がなされた。
7 月 18 日、全体委員会はマディソンの提案にしたがって、連邦法の下で生じ
るあらゆる訴訟を管轄する権限を持つ司法府の設立を認めた。従来の制度では
諸邦の抵抗により司法府は明確に確立されていなかったのである。しかし、ど
のように判事を任命するかについては議論の余地を残した。
7 月 19 日、マディソンは行政府の長を立法府によって選ぶことに再び反対し
た。その一方で北部と南部の均衡をとるために、選挙人方式が最も反対が少な
い選択肢であると示唆している。
7 月 24 日、憲法制定会議はすべての決定を再検討し、憲法案を起草するため
に細目委員会を発足させた。細目委員会はゴーラム、エルズワース、ウィルソ
ン、ランドルフ、そしてラトレッジの 5 人からなり、それぞれの地域の代表を
含んでいた。細目委員会は憲法制定会議で採択されたあわせて 1,200 語からな
る決議を 3,700 語からなる草稿として起草した。その報告は決議の他にもニュ
ー・ジャージー案や連合規約、ニュー・ヨーク邦憲法やマサチューセッツ邦憲
法など様々なものを参考にして作成された。
7 月 23 日から 26 日にかけては第二院(上院)の定数について話し合われた。第
二院(上院)の定数を各邦 2 人ずつとし、それぞれが別個に票を投じる方式が提案
された。別個の 2 票を与える方式は各邦による投票という色合いを薄めるとい
う意味があった。さらに憲法の批准について話し合われた。邦議会による批准
を求める意見に対してマディソンは反対意見を述べた。その代わりにマディソ
ンが求めたのは、人民による合衆国憲法案の批准である。
憲法制定会議
89
7 月 25 日、マディソンは行政府の長の選出に関する議論を行った。既に公職
にある者が行政府の長を選出するか、もしくは特別に選ばれた選挙人が行政府
の長を選出するか、2 つの可能性があるとマディソンは論じた。もし前者であれ
ば選択肢は 5 つである。邦議会、知事、判事、国民議会、そして司法府の 5 つ
である。公職にある者が行政府の長を選出することは、その候補と密接な繋が
りがあり、党派心に左右され得るし、外国の影響を受けやすいので避けるべき
である。さらにマディソンは、強力な邦議会と弱い邦知事によってもたらされ
る悪弊について論じている。このような論を展開した後、マディソンは、人民
によってその目的のために選ばれた人々、すなわち選挙人団による選出方法と
人民による直接選挙を掲示した。マディソンは選挙人による選挙方法を推奨し
た。なぜなら直接選挙は既に否決されていたからである。こうしたマディソン
の熱弁にも拘わらず、全体委員会は 7 月 26 日、国民議会が行政府の長を選出す
べきであると再び議決した。
第 5 節 細目委員会
妥協案が可決された後、7 月 26 日から 8 月 6 日の間に細目委員会で草案が編
まれ、その間、憲法制定会議は休会となった。細目委員会の報告の大部分は憲
法制定会議の決議を忠実になぞるものであったが、委員会独自の判断による点
もある。下院に弾劾を行う権限を与え、最高裁に判決を下す権限のみを与える
点、そして公職者に財産資格を設ける条項を削除した点である。
細目委員会による決定で重要な点は、一般的に曖昧な文句で与えられていた
権限を明確な特定の権限として明言した点である。連邦議会には 18 の明確な列
挙された権限が与えられ、諸邦は他国と条約を結ぶ権限、紙幣を発行する権限、
そして輸入品に課税する権限が禁止された。そうした権限は連合規約で連合会
議に認められた権限と多くの部分で共通していた。細目委員会は大統領に立法
を連邦議会に勧める権限、官職を任命する権限、他国からの外交官を接受する
権限、恩赦を与える権限、法律が執行されるように配慮する権限、軍隊を指揮
する権限を認めた。大統領がもし死亡するか、辞職するか、職務遂行が不可能
になった時に大統領職の権限と義務を代って上院議長が遂行することが決定さ
れた。最高裁と下位の裁判所から構成される司法府の設立が法律によって定め
られ、連邦政府の定めた法律の下で起きるあらゆる裁判と邦間、または異なる
90
アメリカ大統領制度史上巻
邦の住民間で起きる裁判に関する裁判権を司法府が持つことが定められた。大
統領及び財務長官は連邦議会によって選出され、任期は 7 年とされた。
南部への譲歩として、連邦議会は奴隷の輸入を禁止することができず、輸出
品に課税することもできなくなった。アメリカの船舶で輸出品を出荷すること
を求める航海法が定められることを恐れる南部の代表達に配慮して、細目委員
会は、航海法を定めるには両院の 3 分の 2 の票数を必要とすると定めた。8 月 6
日、憲法制定会議が再開され、草稿の検討が行われた27。
第 6 節 8 月 7 日から 8 月 31 日
様々な検討が行われた中でマディソンは、下院議員の人口割合を「4 万人以上」
に改めるべきだと提案した。将来の人口増加により下院の議員定数が増え過ぎ
ると予測したからである。マディソンの提案の結果、
「人口 4 万人に対し 1 人」
という条文の前に「超えることはできない」という言葉が挿入されることにな
った。最終的にこの部分は「人口 3 万人に対し 1 人を超えることができない」
という文言に改められている。また議会の選挙資格に財産資格を課すという動
議が提出された。しかし、反対が相次いだため、選挙資格については諸邦の決
定に委ねられることになった。
8 月 9 日から 11 日、そして 13 日から 15 日にかけて、憲法制定会議は連邦議
員の資格と任期などについて討論した。被選挙資格を得るまでに必要な市民権
保有期間について、メイソンとグヴァヌア・モリスがそれぞれ下院議員は 7 年、
上院議員は 14 年の期間を設けるべきだと提案した。マディソンはこうした提案
に対して反対を唱えた。全体委員会は、暫定的に上院議員は 9 年、下院議員は 3
年の市民権保有期間を必要とすると定めた。
さらにマディソンは、司法府にも行政府とともに立法府に対する拒否権を持
たせるという提案を再び行っている。しかし、判事が政争に巻き込まれること
を嫌う代表達が多く、今回もマディソンの提案は否決された。さらにグヴァヌ
ア・モリスも立法府の権限濫用を防止するために大統領に絶対的拒否権を与え
るべきだと再び提案した。モリスの提案も否決されたが、妥協として拒否権を
覆すために必要となる票数が 3 分の 2 から 4 分の 3 に改められた。
8 月 16 日、連邦議会の列挙された権限に関する議論でマディソンは、輸出へ
の課税を含めた広範な歳入に関する権限を議会に付与するように主張した。南
憲法制定会議
91
部の諸邦はそうした権限に対して警戒心を抱くことが考えられた。しかし、マ
ディソンは歳入の確保によって維持可能となる海軍力によってそうした警戒心
が相殺されると南部の代表達を説得した。またマディソンは、エルブリッジ・
ゲリーの郵便道路と郵便局を設立する権限を議会に与える提案に賛同を示した。
しかし一方でマディソンは議会が信用証券を発行する権限を削除することを黙
認している。なぜなら議会はそうしたことを行う黙示的権限を持っているとマ
ディソンは確信していたからである。
8 月 17 日、マディソンとゲリーは、交戦権に関して議会は「戦争を行う」権
限を持つという文句を「宣戦布告する」権限を持つという文句に変えるように
提議した。なぜなら行政府の長は、議会の事前の承認なしに、
「突然の攻撃を撃
退する権限」を持たなければならないからである。マディソンは、もし政府が
突然の攻撃に対して身動きができなければ人民を守ることができないので、大
統領は緊急事態を処理する権限を持つべきだと考えていたのである。さらにマ
ディソンは連邦議会が公益のために立法を行う権限を与えようとした。すなわ
ち、北西部領地を管理する権限、 連邦管区を管轄する権限、特許と著作権の保
護、大学を設立する権限、そして「有用な知識と発見」を流布することなどで
ある。
翌週、憲法制定会議は行政府について逐条的に検討を始めた。特に奴隷貿易
や通商に関する条項に関して会議は紛糾した。北部の代表達は、人口に奴隷の 5
分の 3 を加える規定や奴隷の輸入を禁じる法律を制定できない規定を激しく攻
撃した。北部の代表達は、道義的な観点から批判を行ったのではなく、奴隷の
反乱を恐れていた。奴隷の反乱が外国の侵略を招き、それに北部も巻き込まれ
ることを心配していた。南部の代表達は、奴隷制度を危機にさらすような憲法
案に南部の諸邦は批准しないだろうと主張した。各邦 1 人ずつの代表からなる
委員会に問題の解決が付託された。8 月 24 日、委員会は次のように報告した。
1800 年まで黒人奴隷の輸入を禁止することはできない。しかし、一定の税率を
超えない範囲で関税を課すことを認める。また航海通商法の制定に両院の 3 分
の 2 の賛成を必要とする提案は認められない。
この報告に加えて、チャールズ・コーツワース・ピンクニー(Charles
Cotesworth Pinckney)は 1808 年まで奴隷輸入を禁止できない期間を延長する
ように提案した。最終的にピンクニーの提案は受け入れられた。さらに奴隷輸
入に関税を課す点についても、人間を財産と同等視するものだという反対がな
92
アメリカ大統領制度史上巻
された。そうした反対は受け入れられず、憲法制定会議は連邦議会が課税、も
しくは関税を課すこともあり得ることを認めた。
第 7 節 8 月 31 日から 9 月 8 日
一方で、憲法制定会議は両院共同で大統領を選出することを票決したが、選
挙人団による投票も検討することになった。しかし、奴隷制度や通商規定の問
題に忙殺されていた憲法制定会議は、8 月 31 日、行政府の問題を延滞事項委員
会に委ねた。
9 月 4 日にまとまった報告には、選挙人団による大統領選出、大統領の任期を
4 年とし再選を認める条項が含まれていた。選挙人団の構成は、各邦に選出の権
限が与えられ、その選出の方法がいかなる方法であれ、平等の権利を持ち、連
邦議会の議員数と同数とする。選挙人の過半数を獲得し首位となった者が大統
領に選出される。次位となった者は副大統領に選出される。もし過半数を獲得
した候補がいない場合、
上院が上位5 人の中から大統領と副大統領を選出する。
大統領は少なくとも 35 歳で、出生によりアメリカ市民である者、もしくは憲法
制定時にアメリカ市民である者、過去 14 年間、アメリカに在住した者でなくて
はならない。また大統領は、上院の助言と承認にしたがって判事や外交官、そ
の他の役人を指名する権限を与えられるべきだと報告された。こうした報告は 9
月 4 日から 8 日にかけて検討された28。
ノース・カロライナ邦代表のヒュー・ウィリアムソン(Hugh Williamson)は、
大統領選挙の際に過半数の票を得た候補がいない場合、上院ではなく下院が各
邦 1 票ずつの方式で決選投票を行うという提案を行った。ウィリアムソンの提
案は認められた。議会による大統領選出を望んでいた代表達は、ワシントンを
除けば選挙人団の過半数を占める候補が出現する可能性は低く、最終的に大統
領選出は十中八九、下院の手に委ねられることになるだろうと考えていたので
ある。
条約締結権については上院から大統領に移された。また上院が条約を批准す
る場合の票数について議論された。北部の代表達が単純過半数を提案する一方
で、マディソンの他、ミシシッピ川の自由航行権をめぐる確執の記憶がまだ新
しい南部の代表達は 3 分の 2 を提案した。マディソンは妥協案として、講和条
約を批准する場合は単純過半数とすることを提議した。それに加えて、大統領
憲法制定会議
93
が戦時権限を手離そうとしない場合に備えて、上院の 3 分の 2 の票数で大統領
の同意なしに講和条約を締結できる案も提案した。最終的には、南部の代表達
が望んだように、条約の批准には出席議員の 3 分の 2 を要すると決定された。
9 月 8 日、憲法制定会議は延滞事項委員会の最後の提案を採択した。つまり、
大統領は反逆罪、収賄罪、その他の重大犯罪について下院による弾劾を受け、
そして、上院の判定によって免職されるという提案である。また憲法制定会議
は副大統領とその他の行政官を弾劾の対象とし、上院の判定を単純過半数から 3
分の 2 の票数が必要なように改めた。さらに下院には予算の発議権が認められ
た。最後に憲法制定会議は文体委員会を任命した。
第 8 節 9 月 9 日から 9 月 17 日
文体委員会はグヴァヌア・モリス、マディソン、ハミルトンの他 2 人からな
っていた。彼らは憲法案の条文を 23 条から 7 条に整理した。また各邦は契約の
義務を損なうような法律を定めてはならないという条項が付け加えられた。文
体委員会が手を加えた中で最も印象に残るのが「我々合衆国の人民は、より完
全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平安を保障し、共同の防衛に備え、
一般の福祉を増進し、我々と我々の子孫の上に自由の祝福の続くことを確保す
る目的を以って、アメリカ合衆国のために、この憲法を制定する」という前文
である29。
9 月 10 日、マディソンは憲法修正を特別な憲法修正会議ではなく、両院の 3
分の 2 で発議され、4 分の 3 の邦の批准によって行うことを提案した。ランドル
フは本来、会議が連合規約の改正のために開催されたのにも拘わらず、新たな
憲法案を提出するに至ったことを心配していた。そこでランドルフは憲法案を
成立させるために各邦の憲法批准会議の批准だけではなく、連合議会と各邦議
会の承認を求めるべきだと主張した。
憲法草案は 9 月 12 日に提出され、翌日に印刷されたものが各代表に配布され
た。憲法草案は代表達によって広く受け入れられたが、逐条的な検討が開始さ
れた。その中で議会が大統領の拒否権を覆すために必要となる票数を 4 分の 3
から 3 分の 2 に戻す提案がなされた。もしその提案が通れば、大統領の拒否権
が容易に覆されることを意味した。拒否権は大統領の権威を擁護し、一般的、
もしくは党派的な不公正を防ぐために必要であると考えていたマディソンは反
94
アメリカ大統領制度史上巻
対を唱えた。しかし、憲法制定会議は 9 月 12 日、議会が大統領の拒否権を覆す
ために必要となる票数を 3 分の 2 に戻すことを決定した。
その一方、ゲリーとメイソンは憲法案に権利章典を盛り込むことを要求した。
憲法制定会議はその提案を否決した。連邦政府の権限が憲法によって限定され
ているので、権利章典をわざわざ明記する必要はないというのが否決の主な根
拠である。また、そもそも権利章典に明記されている権利は連邦政府によって
与えられたものではないので、連邦政府はそうした権利に介入する権限を持た
ないのは自明の理であった。
連邦議会は上院での各邦の平等な議決権を奪うような改正を諸邦の同意なし
に行ってはならないという条項が付け加えられた。そして、グヴァヌア・モリ
スとゲリーが中心となって、憲法改正の手続きが細目委員会の案とマディソン
の案を組み合わせて定められた。また、両議院の 3 分の 2 が必要と認める場合
か、3 分の 2 の邦議会の請求によって開催された憲法改正会議によって憲法改正
を発議した場合、いずれの場合においても 4 分の 3 の邦が批准した改正は憲法
の一部となることも最終的に認められた。
9 月 15 日、憲法制定会議は憲法案の最終的な承認に入った。しかし、ランド
ルフとメイソン、そしてゲリーの 3 人は憲法案に署名しない意向を示した。3
人は連邦議会に無制限で危険な権限を与えることに反対し、諸邦で憲法批准会
議を行って憲法案に対する反対が出た後に再度、憲法制定会議を行うべきだと
主張して譲らなかった。3 人の主張は全会一致で否決された。9 月 17 日に憲法
案の署名が行われた。55 人の中で最後まで出席したのは 41 人であり、上記の 3
人を除く 38 人が憲法案に署名した。
第 9 節 ジョン・アダムズとジェファソンの憲法に関する見解
ジョン・アダムズとジェファソンは外交官としてヨーロッパに滞在していた
ために憲法制定会議に参加していないが憲法案について手紙を交わすことで見
解を示している。特にアダムズは憲法制定会議以前に行政首長について詳細か
つ具体的に論じた唯一のアメリカの政治理論家であった。1775 年、アダムズは
リチャード・リー(Richard Henry Lee)に宛てた手紙の中で行政首長に関する構
想を最初に示している。行政首長は下院と上院の合同投票で選ばれる。行政首
長は上院の助言と同意を以って行政官、士官、外交官を任命し、軍隊を指揮す
憲法制定会議
95
る権限を持つ。
アダムズの考えがさらに精緻化されたのが『政府論』である。アダムズが『政
府論』を執筆した契機はトマス・ペイン(Thomas Paine)が発行した『コモン・
センス』が一世を風靡したことである。アダムズは『コモン・センス』の影響
力は認めたものの、独立後にどのような国家を建設するかという視点を欠いて
いると批評している。独立の必要性が大陸会議で論じられた後、代表達の中に
は旧制度からどのように新制度を生み出すべきか悩む者がいた。ジョージ・ウ
ィス(George Wythe)の求めに応じてアダムズは政府の構成に関する自分の考え
方を手紙に書いて返答した。それをリーが許可を得てパンフレットの形で出版
した。ペインは『コモン・センス』の中で直接民主制と一院制を示唆している
が、アダムズはそうした政治形態を危険なものと見なし、
『コモン・センス』に
対抗する形で『政府論』を発表することにした。
『政府論』は、政府は万人の幸福を実現するために存在するという理念の下、
どのような政体がその目的を実現し得るのかという問題を追究している。アダ
ムズは「人間は危険な生物」であるので、
「人間ではなく法の支配」に基づく共
和政体こそ最も優れた政体であると主張した。そうした考えは早くからアダム
ズの脳裏にあった。1772 年春の「ブレインツリーでの演説のための覚書」の中
で「すべての人間に迫る危険がある。自由政府の唯一の原理は、人民の自由を
危険にさらすような権力を生きた人間に信託しないことである」とアダムズは
記している。この言葉はクインジーにあるアダムズの像に刻まれている。
さらにアダムズは「その政府が一院制であれば、国民は長らく自由でいるこ
とはできないし、ずっと幸福でいることもできない」と一院制に対して反対を
唱えている。
『政府論』では、行政首長は議会の立法に対して拒否権を持つべき
であり、1 年で改選され、恩赦を与える権限を持つと論じられている。
『政府論』
は古から当代に至るまで様々な政府を論じた事例集であり、多くの政治家が邦
憲法案や後の合衆国憲法案を構想する際に参考にした。
さらにアダムズは公務の傍ら、1786 年の秋から約 14 ヶ月間かけて『擁護論』
を書いている。
『擁護論』は 1787 年に第 1 巻が刊行され、合衆国憲法を正当化
する理論的基盤として広く読まれた。アダムズは『擁護論』で、秩序が損なわ
れる原因を強力な中央政府の不在だけに求めるのではなく、人間の本性の欠陥
に求めている。アダムズは「抑制されずにいれば、人民は、無制限の権力を持
つ王や上院と同じく不正で専制的かつ残忍で野蛮になる。1 つの例外を除き、多
96
アメリカ大統領制度史上巻
数者は常に少数者の権利を侵害する」と述べている。
こうした悪弊を免れるためには市民の徳が不可欠であるとアダムズは論ずる。
しかし、アダムズによれば、独立革命以後、アメリカはヨーロッパ化したため
に、秩序を維持するのに有用な徳を失った。ではどうすれば秩序を保ちながら
自由な政府を維持できるだろうか。
アダムズは、失われてしまった徳の代わりに、
「混合政体」をアメリカが採用
すればそれが可能であると主張し、イギリスの政治制度は「人類が発明した中
で最も素晴らしい制度である」と述べている。混合政体とは、単純な中央政府
を構成するのではなく、社会の諸階層から議会の代表をそれぞれ選び出し、権
力を均衡、分立させる政体である。諸階層が監視し合うことで、お互いに行き
過ぎを抑制できるとアダムズは考えた。つまり、諸階層それぞれの自由を他の
階層の侵害から保護することが政府の責務なのである。しかし、一方で貧しい
者は富める者と同じく、財産の保護や機会の平等を受けるべきだが、その圧倒
的な数によって社会を完全に統制下に置くことは否定されなければならないと
している。それは、少数の富者による多数の貧者への抑圧が防止されるべきで
あるのと同じく、多数の貧者による少数の富者への抑圧もまた防止されなけれ
ばならないからである。こうした考えはアダムズ独自の発想ではなく、古代ギ
リシアの政体やイギリスの政体などを参考にしている。こうした様々な論から、
憲法制定会議の代表者達に広く共通する基本的な政治哲学を抽出することがで
きる。生命、自由、そして財産に関する基本的権利、共和政体の樹立、権力分
立などである30。
ジェファソンはアダムズのように行政首長に関する見解を述べたパンフレッ
トを発表することはなかったが、1784 年 4 月、連合会議に行政委員会を設置す
るように提案している。連合会議は立法と行政を兼ねていたため、会議が休会
中に行政機能を果たす組織が必要であった。ジェファソンの提案は採択され、
各州の代表が集まって行政委員会が組織された。しかし、行政委員会は指導者
を欠いた組織で各代表が平等であり、意見の調整がうまくいかなかった。多く
の委員達が職務をすぐに放棄したために、ジェファソンが提案した行政委員会
はまったく体をなさなかった。こうした経験は、行政府の長は複数よりも単数
のほうが適切であるという考えのもとになった。
憲法案が提議された後、アダムズはその内容を吟味し、ジェファソンと意見
を交わした。アダムズは憲法案について「連邦を保持できるように十分に考え
憲法制定会議
97
られている」と歓迎している。大統領の任期に制限が課されていない点につい
てジェファソンは危惧していたが、アダムズは大統領の権限を強化し、選挙の
回数を減らして外国からの干渉をできるだけ排除すべきだと述べている。大統
領の官職任命を上院が承認する必要がないとも考えていた。ジェファソンがよ
り中央集権的な連邦政府を支持したのに対し、アダムズは各邦の権限をある程
度は保留するべきだと主張した。またアダムズは以下のように大統領について
ジェファソンに向かって論じている。
「あなた[ジェファソン]は君主制を恐れている。[その一方で]私は貴族制を恐
れている。それ故、大統領に上院よりも強い権限を与えるほうがよいと私は考
えている。また、すべての官職を任命する権限を、大統領によって任命された
枢密院の助言を得るにしても、大統領に与えるほうがよいと私は考えている。
もし枢密院の構成員でなければ上院議員及び上院にも決定権や発言権を与えな
いほうがよいだろう。上院に官職を分配する決定権を与えた結果、党派心や不
和が生じるに違いない。あなたは一旦選ばれた大統領が何度も選ばれて終身と
なることを恐れている。そのほうがよいように私には思える。あなたは外国に
よる干渉、陰謀、影響を恐れている。私もそうである。しかし、選挙が度々行
われれば、外国による干渉の危険も繰り返されることになる。選挙の回数を減
らせば、それだけ危険も減るだろう。そして、もし同一人物が再選されれば、
再選されることは十分ありえますが、外国による干渉の危険は減るだろう。外
国人は、見込みがないことを悟って、そういう企みを行う気力を失ってしまう
だろう」31
さらにジェファソンはアダムズだけではなくマディソンと意見を交わしてい
る。11 月初めに合衆国憲法案の詳細を知ったジェファソンはマディソンに、
「[私
が憲法案に賛成できない]第 1 の点は、信教の自由と出版の自由をこじつけに頼
ることなく明確に規定した権利章典が欠落している点、さらに常備軍の防止、
専売の規制、永久不変の効力を持つ人身保護令状、そして、国際法ではなく国
法による審理が可能なあらゆることに関する裁判に陪審を認めることが欠如し
ている点である」と指摘している。
また第 2 の点として、ジェファソンは大統領の任期についても論じている。
つまり、任期を 7 年とし、再任を認めるべきではないと主張している。大統領
が終身任期に留まるようになれば、大統領職が世襲化される危険性も増大する
と考えたためである。その危険性を防止するためには選挙制だけでは不十分だ
98
アメリカ大統領制度史上巻
とジェファソンは考えていた。なぜならジェファソンによれば、ローマ皇帝も
ドイツ皇帝もポーランド王も何らかの選挙を経た君主制であったからである。
ジェファソンは何よりも君主制を恐れていた32。
2 つの点の中で特に権利章典については、ジェファソンとマディソンの間で詳
細な意見が交わされている。第 1 に、マディソンは、連邦政府の権限が憲法で
明確に規定されているのであれば、権利章典で国民の諸権利をわざわざ明示す
る必要はないと論じた。それに対してジェファソンは次のように回答している。
確かに憲法は権利章典なしでも制定できる。かつてジェファソンは人民の自由
の実現を大きな目的としてヴァージニア邦憲法を起草したが、権利章典を盛り
込もうとは考えなかった。残念ながらその目的は十分に達成されていないが、
後から補則を付け加えることで過ちを正すことはできる。合衆国憲法にも「補
則という手段で権利章典[を付け加えること]が必要」となるだろう。ジェファソ
ンの考えでは、権利章典は、
「付託された権限を立法府と行政府が濫用すること
から我々守る」防壁であった。
第 2 に、マディソンは、権利章典に諸権利を明記したとしても、それだけで
は人間のすべての本質的権利を自由に認めたことにはならないと訴えた。それ
に対してジェファソンは、
「まったくパンがないよりは半分の塊でもパンがあっ
たほうがましである」と述べ、すべての本質的な権利を確保できなかったとし
ても、とりあえず確保できるだけの権利を確保しておいたほうがよいと論じた。
第 3 に、マディソンは、連邦政府の権限の制限と邦政府の連邦政府に対する
不断の警戒が権力濫用に対する防止策となるとジェファソンに書き送った。確
かに邦政府の連邦政府に対する不断の警戒は重要だが、権利章典は、連邦政府
の権力濫用に対して警告を行う際に明確な根拠になり得るとジェファソンは回
答した。
そして第 4 に、マディソンは、これまでの経験によれば、権利章典はあまり
効果を発揮していないことが明らかであると言う。これに対してジェファソン
は、すべての条件下で権利章典が有効であるとは言えないが、
「かすがいが多け
れば建物はしばしば持ちこたえさせることができるが、かすがいが少なければ
崩壊してしまう」というたとえを引き、権利章典の必要性を強く訴えた。
権利章典の問題や大統領の任期の問題がありながらも、ジェファソンは最終
的に、合衆国憲法が「かつて人類に示されたもっとも賢明なものであることは
疑問の余地がない」ことを認めている33。
憲法制定会議
99
第 3 章 憲法制定会議の大統領制度に関する議論
第 1 節 大統領制度をめぐる 2 つの流れ
18 世紀末、世襲ではない市民が国家元首となる制度は決して一般的ではなか
った。世界の諸国は、世襲の君主制、もしくは独裁制を採用していた。世襲で
はない選挙された公職者が政府を主宰するという発想は、西洋の最も革新的な
政体からしても当時は独特であった。しかし、歴史的に前例がまったくないわ
けではなかった。紀元前 6 世紀、アテネでは籤でアルコンと呼ばれる執政官が
選ばれ、現在の大統領に比せられるような責任を担っていた。同様にローマ共
和国で共和政が崩壊し帝政に移行する前、コンスルと呼ばれる執政官が同様の
責任を担った。その後、ルネサンス期に幾つかのイタリアの都市国家では世襲
ではない貴族を行政首長に選んでいた。イギリスでも 1649 年のチャールズ 1 世
(Charles I)の処刑の後、世襲ではない行政元首が置かれた時期があった。またア
メリカ植民地でも、植民地総督が後に大統領が行使するような行政権を行使し
ていた。
こうした歴史的な事例はそれぞれ個別の事例であり、憲法の制定者が関連あ
る事例として選択できるような伝統を形成していなかった。憲法の制定者はア
メリカ独立革命を経験していたが、それでも大統領制度は多くの点で革新的で
あった。制定者の憲法の概容は、発明と断絶ではなく革新と順応から生じた。
そして、イギリスの政治文化から多くの側面を受け継いでいる。共和制の基礎
として親しみのある政治思想を確認するとともに、彼らはアメリカ政府の行政
府として馴染みのない制度を採用した。
大統領制度はイギリスの遺産と明らかに繋がりを示し、当時のヨーロッパの
政治思想の顕著な特徴を持っている。制定者は、イギリスの共和主義のイデオ
ロギーとリーダーシップに関するルネサンスの思想を合体させ、アメリカの行
政権の概念を構成した。さらに彼らの植民地総督との経験を踏まえて、制定者
に最も大きな影響を与えたのはイギリスの遺産であった。18 世紀までにイギリ
スは立憲君主制になり、政治的自由と市民の権利を尊重する独特の政体になっ
ていた。それは今日の基準からすれば進歩的とは言えないが、そのほとんどが
独裁的な政体を採用している他のヨーロッパ諸国を凌駕していた。
イギリスの政治的伝統を除けば、共和政に関する古典的な概念が革命期のア
メリカの政治思想を形成した。制定者はギリシアやローマの思想家の古典を参
100
アメリカ大統領制度史上巻
照し、古代の政体の勃興と衰退の歴史的説明から教訓を得た。マディソンやハ
ミルトンは古典哲学から大きな影響を受けていた。さらにアテネやローマ共和
国の歴史は人間による統治の重要な教訓を提起した。古典哲学は、イギリスの
政治には辺縁的な影響しか与えていないが、アメリカの政治的伝統の発展に貢
献したことは否定できない。
共和政、統治、市民の責任に関する古典的な思想は制定者を魅了した。ここ
で言う共和政とは代議政治の原理に基づいて支配者を選挙によって選ぶ政治で
ある。制定者は、ローマ共和国の勃興と崩壊に対する理解は共和政の生死を握
る鍵だと確信していた。多くの者は、ローマ共和政を効果的で正統性のある共
和政の最善の歴史的模範だと見なしていた。それ故、彼らは明らかにローマの
制度、思想、政治的慣習をアメリカの共和政のモデルとした。その一方で、彼
らはローマ共和政の崩壊を、1 つの組織に権力が集中することの危険性、そして、
たとえ世襲ではなくても抑制されない行政首長が持つ脅威に関する教訓だと考
えた。ローマ共和政の崩壊と帝政への移行は、共和政の脆弱性を示している。
アメリカ大統領制度の概容を考える者にとって、ローマの歴史は軍のリーダー
シップから市民を隔離するだけではなく、軍を市民の統治に対して説明責任を
負わせる必要があることを示していた。ローマの執政官の歴史は、行政権は特
別の義務と責任に厳しく制限されるべきであり、したがって一般的な権限や権
威を与えるべきではないことを示している。
憲法制定会議の間、大統領制度は 2 つの主要な流れで発展した。1 つの流れは
ヴァージニア案で大まかに規定された行政府の長がより明確に特定化されてい
く流れである。もう一方の流れは立法府に従属した弱い行政府の長を強化する
流れである。こうした 2 つの流れは行政府の案に関する諸問題を検討する中で
次第に明らかとなった。
大統領が新政府で果たす役割に関する議論には 3 つの課題があった。1 つ目は、
行政首長は単数か、それとも 3 人から構成される委員会のように多数であるべ
きか。委員会形式を支持する者は、もし 3 人がそれぞれ異なる地域から選ばれ
れば、すべての主要な問題に関してそれぞれの地域の利害が反映されやすくな
ると考えた。その一方で 1 人の行政首長を支持する者は、もし行政首長が 1 人
であれば、全国的な見解を維持し、すべての国民の異なる利害を適切に代表す
ることができると考えた。2 つ目は、行政首長は、議会の法に対する拒否権や軍
隊を指揮する権限などどの程度の権限を持つべきか。3 つ目は、行政首長の任期
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
101
の長さはどの程度にするべきであり、再選を可能にするべきか否か。任期の長
さについては 3 年、6 年、7 年、終身などの案があった。さらに代表達は行政首
長を選ぶ方式について議論した。邦議会による選出、連邦議会の両院による選
出、連邦上院による選出、邦知事による選出、そして人民による選出などが提
案された。
行政府の案は憲法制定会議で最も困難を伴う問題であった。そして、その発
案は会議の中で最も創造的な行為であった。大統領制度は長い議論となる点に
ついて何とか勝利しようとする意志の衝突から生まれたのではなく、適切な活
力に満ち、共和政にとって安全な新しい制度を生み出そうとする精緻な努力か
ら生まれた34。
憲法制定会議の代表達が直面した問題は、モデルとしたい行政府に関する経
験がないことであった。彼らの目からすればイギリス国王と国王の任命した植
民地総督は自由を踏みにじる者であった。独立後に起草された邦憲法は邦知事
を脅威をもたらさない存在にしたが、同時に無能にもした。連合規約の下で成
立した連邦政府は実質的に行政府の長を持たなかった35。
代表者達を悩ませたさらなる問題は、行政府の権限に関する二律背反に由来
するものであった。彼らは行政府を立法府の行き過ぎを抑制できる程度に強く
したかったが、専制政治に陥る危険性がある程度に強くしたくはなかった。こ
うした二律背反はアメリカ人に広く共有されるもので、アメリカ人はかつて存
在した君主制を強く憎むのと同時にワシントンを王にしたがっていた。しかし、
人民のワシントンへの期待は君主制を渇望するものではなかった。代表達と人
民はワシントンがかつて大陸軍を指揮している時にそうであったように責任を
持って権力を行使することを期待していた。ワシントンであれば安心であるが、
その後継者がそうであるとは限らない。フランクリンは憲法制定会議で「指導
的立場についた最初の人物は善良な人物かもしれない。その後に続く者がどの
ような人物かは誰も知らない」と述べている36。
代表達が抱えていたこうした困難にも拘わらず、大統領制度は憲法制定会議
が続く中でゆっくりと形成された。大統領制度の構想は不明確な状況から明確
に規定された大統領制度を創り出す方向に着実に向かって行った。二律背反に
も拘わらず、彼らは最初、予期していたのよりもずっと強力な行政府を構成し
た。
創設された大統領制度に対して概ね 4 つの姿勢が見られる。憲法によって、
102
アメリカ大統領制度史上巻
強力な大統領制度が創られたと評価する者、憲法によって強力過ぎる大統領制
度が創られたと非難する者、憲法によって、適切に制限された大統領制度が創
られたと評価する者、憲法によって不適切に制限された大統領制度制度が創ら
れたと非難する者である37。
第 2 節 行政権に関するヨーロッパの思想的影響
憲法制定会議で大統領の権限を決定する際に、政治理論は実践的に経験に比
べて重要な役割を果たしたとは言えないが、大部分の代表達はロックの『市民
政府二論』
(1690)やモンテスキュー(Baron de Montesquieu)の
『法の精神』
(1748)
を中心にデイヴィッド・ヒューム(David Hume)やスコットランド啓蒙主義の哲
学者の著作多くを学んでいた。どの著作が憲法制定にあたって主要な役割を果
たしたのか研究者によって意見が分かれているが、事実、ロックの影響は植民
地時代の人民主権や立法権をめぐる多くの初期の争いに見て取れるし、初期の
邦憲法の行政府と立法府の関係の決定に見て取れる。ロックはそうした関係に
おいて立法府が上位を占め、行政権と連邦権は立法府の一部であり、立法府に
責任を負わなければならないと主張した。これは議会政治の本質であり、アメ
リカ合衆国憲法と大きく異なる点であるが、行政首長に与えられる実際上の権
限に関するロックの言及は憲法制定会議の議論と憲法自体に明らかに反映され
ている。
ロックは、開会中、議会の権限は至高であり、議会の行動が人民の利益を徹
底的に損なう場合に、議会を打倒することができる主権を持つ人民によっての
み制限されると論じた。議会が休会中に法に継続性を持たせるために行政首長
は実際的な権限を担う。法の執行がなされ、実効力を持つように監視する存続
する権限がなければならず、したがって行政権と立法権は分立される。行政首
長は議会を招集し解散する権限が与えられるが、それは行政権が立法府に優越
することを意味するわけでない。なぜならそうした権限はあくまで信託であり、
議会、そして最終的には人民に対して説明責任を負わなければならないからで
ある。
行政権に関するロックの重要な主張はその他に 2 点ある。ロックは、他国と
の関係に関連する広範な行動を対象とする連邦権という概念を導入し、連邦の
責任と行政府の責任を慎重に分けながら、連邦権と行政権はほとんど分立され
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
103
ておらず、同時に個別の人々の手中にあると論じた。またロックは、必要性に
応じて行政首長は法の規定なしに、時には法に反してでも公共の善のために自
由裁量に基づいて行動する権限が与えられると主張した。これは大権という言
葉で示される。それはもちろん絶対的な権限ではなく、まったく法に制限され
ない権限でもなく、法を無視してもよいということでもない。その正当化は、
法によって直接規定されておらず、異なった状況で定められた現行法によって
阻害される場合に、公共の利益を擁護するために行動する必要性に基づいてい
る。この権限に法的な制限は課せられないが、世論という最終的な拒否権によ
って抑制される。もし大権に関して行政首長と人民の間で議論が起きれば、そ
うした大権が人民にとって善であるか悪であるかによってその是非が判定され
る。
憲法は、大統領の外交関係における責任と行政特権に関して広範な権限が内
在すると示唆するのみである。そうした権限が著しく拡大されたことは歴史が
示している。そのような発展のすべての原因をロックの著作に求めようとする
のは馬鹿げている。なぜならそうした発展は歴代大統領が様々な挑戦に直面し
て何らかの対応をとった結果、生まれたものであるからである。政治理論はそ
うした劇的な過程にそれ程、多大な影響を与えたわけではない。しかしながら、
ロックが行政権の本質について類稀なる洞察を持ち、アメリカ大統領制度の成
長において展開されることになる発展の幾つかの点について気付いていたこと
は重要である。ロックの著作は、アメリカの初期の政治的思想のすべてに大き
な影響を与え、ロックの分析はアメリカの政治制度を築く根本的な原理の輪郭
を描く手助けをした38。
憲法制定会議に影響を与えたもう 1 人の政治思想家はモンテスキューである。
モンテスキューの著書である『法の精神』はアメリカで 1787 年以前に入手可能
であり、憲法制定会議の代表達が『法の精神』を読み、その中核となる政治理
論に親しんでいたことは明らかである。モンテスキューは 18 世紀初期にイギリ
スで数年間を過ごし、イギリスの議会制度に深く傾倒した。自由を保持したい
と考える政治共同体にとって最善のモデルがイギリスにあるとモンテスキュー
は確信した。モンテスキューは、イギリスの立憲制度の中で権力は国王、庶民
院、貴族院で平等に分与されていると考えた。政府の異なる府を分立させ、そ
れぞれの独立を守るのに十分な権限を与えることによってのみ自由は保障され
る。立法権と行政権が同じ人物、もしくは同じ組織に握られれば自由はない。
104
アメリカ大統領制度史上巻
何故なら同じ君主か元老院が専制的な法を定めるという危険が生じるからであ
る。
マディソンは『法の精神』をカレッジ・オヴ・ニュー・ジャージーで教科書
として使っていた。憲法制定会議の代表の中で 9 人がカレッジ・オヴ・ニュー・
ジャージーの出身であった。マディソンの『法の精神』に関する知識は徹底し
たもので、20 年後に記憶から『法の精神』を引用できた程である。憲法制定会
議に出発する前にワシントンのために考察の資料を準備した時に、マディソン
はモンテスキューに大いに依拠している。
『法の精神』に関する言及がマディソ
ンの手稿に散見され、マディソンはその手稿を憲法制定会議で利用した。ウィ
ルソンやハミルトンも『法の精神』に親しんでおり、憲法制定会議で議論する
際にモンテスキューに言及している。
モンテスキューが『法の精神』で展開した三権分立の概念は、憲法制定会議
で行われた議論や憲法自体から代表達の共通見解であったことが分かる。その
ような広く認められた概念は他にはない。フランクリンのような代表は、モン
テスキューの理論を損なってきたイギリスの政治制度に重要な変革が起き、大
規模な腐敗によって、三権分立が実践されるよりも実践されないことでその意
義を証明したと長らく考えてきた。それでもアメリカ人は、三権分立の原理を
放棄せずに実践的に理論を修正しようとする実践家であった。マディソンは
『ザ・フェデラリスト』第 47 篇で、憲法はモンテスキューの三権分立にしたが
っていると主張している。しかし、アメリカの行政首長もイギリスの行政首長
も理論的に、または機能的に他の府から完全に分立していないのが真実である。
過去 50 年の間で、首相はイギリスの政治制度の中で、議会によって選ばれ、議
会に責任を負う真の行政首長として出現した。首相は、権限侵害に対して自ら
の地位を擁護するためにある程度の独立を保つが、公式な意味では首相は決し
て独立していない。
ロックとモンテスキューのどちらが憲法第 2 条に影響を与えたのか正当に判
定することはほとんどできない。両者は、彼らが考えたことが、国王の議会を
閉会し、解散する権限、拒否権、統帥権、外交権限のようにイギリス法の現行
規定に既に存在していると認めている。彼らの貢献で重要なことは、彼らが国
王が何故、そのような権限を持つのか合理的な説明を提示しようとしたことに
あり、そうした説明は代表達に影響を及ぼした。つまり、彼らは革新的な原理
を導入しようとしたわけではなく、現存の意見を強化し、他者にその有効性を
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
105
説明しようとした。最終的な分析でアメリカ人はイギリスの政治制度を模倣し
ようとはしなかった。しかし、アメリカ人はイギリスの政治制度の価値ある多
くの側面を理解していたし、ロックやモンテスキューの理論を大いに活用した
39
。
ロックとモンテスキューに加えて、憲法制定会議で行政権を規定する際に非
常に大きな影響を与えたのはウィリアム・ブラックストーン(William
Blackstone)の『イギリス法釈義』である。
『イギリス法釈義』はフィラデルフィ
アで 1771 年から 1772 年にかけて出版された。憲法制定会議の多くの代表にと
って、
『イギリス法釈義』はイギリス法に関する基本的な参考書であり、イギリ
スの政治制度に関する最も信頼のおける情報源であった。さらに多くの代表は
弁護士であり、
『イギリス法釈義』に親しんでいたことは間違いない。
『イギリス法釈義』の「国王の特権について」はこの時代における行政権に
関する最も詳細な議論であり、その言葉や概念は憲法第 2 条の淵源となった。
しかし、ブラックストーンが描いたイギリスの政治制度は当時でさえも少し時
代遅れであったことは注意すべきである。
ブラックストーンにとって真の権力は国王に存在した。現実には議会が国王
の権限を蚕食し始め、首相は政治過程で決定形成の中核になりつつあった。し
かし、そうした事実は憲法制定会議で理解されなかった。イギリスの政治制度
で起きていた変化はその当時、未だに明確に認識されていなかった。ブラック
ストーンの価値はイギリスの政治制度が発展するもとになったイギリス法につ
いて詳細な解説を加えたことにある。しかしながら、フランクリンやウィルソ
ンは、ブラックストーンの権力の関係に関する記述は現実と乖離していると他
の代表に指摘している。
とはいえ『イギリス法釈義』が憲法全体に影響を与え、憲法第 2 条が「国王
の特権について」に大きな影響を受けていることは確かである。
『イギリス法釈
義』では、国王は外交政策と軍隊の指揮においてほぼ絶対的な権限を有し、理
論的に議会の法案を拒否できる権限を有し、議会を閉会し、解散する権限を有
する。建国の父祖達は国王の抑制されない権力を非難し、国王の装飾を公然と
軽蔑していたが、ブラックストーンの行政権の定義に大きな影響を受け、大統
領に同様の責任を与えた40。
第 3 節 大統領制度の各草案
106
アメリカ大統領制度史上巻
マディソンは「憲法の父」と称されるが、大統領制度の創始に果たした役割
は限定的である。マディソンは、憲法制定会議が始まる少し前に「行政府の長
が構成されるべき方式、行政府の長に与えるべき権限について未だに私自身の
意見をまとめきれていません」と述べている41。マディソンが主に起草したヴ
ァージニア案は行政府の長について不明瞭にしか規定していない。
ヴァージニア案は「国家行政首長が設けられ、[空白]年間の任期で国民議会に
よって選ばれ、定期的に規定された回数、決まった俸給を受け取り、増額や減
額が行われる際に在任している行政首長職に影響を及ぼすような増額も減額も
されず、再任する資格を有せず、国法を施行する包括的権限に加えて、連邦に
よって連合会議に与えられた行政権を享受するべきであると決議する」と行政
府の長について規定している。しかし、行政府の長が単数なのか複数なのか、
また参事院、もしくは委員会の議長を務める形式なのかは明確にされていない。
任期も決められず、行政府の長が持つべき権限も具体的に列挙されていない42。
またヴァージニア案と同じ日にチャールズ・ピンクニーによるピンクニー案
が提出されている。ピンクニー案は憲法制定会議における議論の中で重要な役
割を果たさなかったが、後に細目委員会によって参考資料として使われている。
ピンクニー案の原本は失われたが、ピンクニーは 1818 年に公文書館のために複
製を作っている。ピンクニー案の第 8 条では以下のように大統領職について言
及している。
「合衆国の行政権は、アメリカ合衆国大統領に属する。アメリカ合衆国大統
領が彼の肩書きとなり、彼の称号は閣下となる。大統領は[空白]年間の任期で選
ばれ、再任が可能である。大統領は随時連邦の状況につき情報を議会に与え、
また必要と考える施策について議会に対して審議を勧告する。彼は合衆国の法
律の適切に執行されることを配慮する。大統領は合衆国のすべて官吏を任じ、
大使、他の公使、そして最高裁判事を除く他のすべての合衆国官吏を上院の同
意を得て、これを任命する。大統領は外国からの公使を接受し、異なる国家の
首長と通信を行う。大統領は弾劾を除いて恩赦及び刑の執行延期を行う権限を
有する。大統領は合衆国陸海軍及び各州の民兵の最高司令官であり、報酬を受
け、その額は任期が継続する間、増減されることはない。その職務を開始する
前に、大統領は合衆国大統領の義務を忠実に執行することを宣誓しなければな
らない。大統領は下院の弾劾を受け、反逆罪、収賄、もしくは汚職について最
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
107
高裁の有罪判決を受ければその職を免じられる。その免職、死亡、辞任、もし
くは不能の場合、別の大統領が選出されるまで上院議長が大統領職の義務を遂
行する。上院議長の死亡の場合、下院議長が大統領職の義務を遂行する」43
また 6 月 15 日に提出されたニュー・ジャージー案では以下のように行政府の
長を規定している。
「合衆国は連邦議会において、[空白]人からなり、[空白]年間、在職し続け、
定期的に定められた回数で固定給をその職務に対して受け、給与の増減が行わ
れた時に行政府を構成する者に影響を与えるような給与の増減は行われず、国
庫から支払いを受け、在職中とその後、[空白]年間、その他の職や任命を受ける
ことができず、2 回選ばれる資格を持たず、各邦の知事の多数による要請で連邦
議会によって免職される連邦行政官を選出する権限が与えられ、連邦行政官は
連邦法を執行する一般的権限に加えて、その他の規定がない連邦官吏を任命し、
いかなる場合も連邦行政府を構成する者の何人と雖も軍隊を指揮することは禁
じられ、将軍やその他の適格者のように自ら軍事企図を行うことを禁じられる
が、すべての軍事行動を指示すると決議する」44
さらにハミルトン案では以下のように行政府の長について規定されている。
「合衆国の最高行政権は、選挙され非行なき間、在職する統治者に属する。
選挙は上述の選挙区の人民によって選ばれた選挙人によって行われる。行政府
の権限と機能は以下の通りである。可決されたすべての法に対して拒否権を有
し、可決されたすべての法を執行する。戦争が認められ始まった時に戦争を指
示する。上院の助言と承認を得て、条約を締結する権限を有する。財務省、戦
争省、そして外務省の長官を単独で任命する。外国に派遣される大使を含むそ
の他すべての官吏を指名し、上院の承認か否定に従う。反逆罪を除いてすべて
の犯罪に恩赦を与える権限を有し、反逆罪については上院の承認なく恩赦を行
うことはできない。統治者の死亡、辞職、もしくは免職の際に、後継者が任命
されるまで彼の権限は上院議長によって行使される」45
憲法制定会議の初めの 2 ヶ月の間に決まった事柄は、行政府の長を単数とす
ることと議会が制定した法律に対して拒否権を行政府の長に与えることであっ
た。その他の問題は 1 度、決定されてもしばしば決定が覆された。例えば 7 月
17 日に憲法制定会議は連邦議会に支配される弱い行政府の長を考案した。しか
し、19 日と 20 日には連邦議会から独立した行政府の長が考案された。さらに
24 日には行政府の長を連邦議会によって選ぶ案に戻った。任期については様々
108
アメリカ大統領制度史上巻
な提案がなされ、8 年や 15 年、時には 30 年という提案もあった。7 月 24 日に
発足した細目委員会が大統領という呼称を決定し、継承について定め、その権
限について列挙した。しかし、選出方法、任期、そして再任を可とするか不可
とするかは、延滞事項委員会が選挙人による選出、4 年の任期、再任を可とする
ことを提案するまで決まらなかった。
ヴァージニア案における国家行政首長は憲法制定会議が始まったばかりの時
点で多くの代表達が望んでいたものと合致するものであった。マディソンが提
案した案の中で議会によって選出され列挙された権限もない行政府の長は弱か
ったが、連合規約の下の政府よりは確実に強かった。確かに行政府の長は議会
によって選出されると規定されていたが、まったく従属的というわけではなく、
一定の任期を持ち、拒否権を認められ、恣意的な俸給の減額も禁止されていた。
憲法制定会議の代表達の中でもより強い行政府の長を置くことを望んだ中心
人物がウィルソンとグヴァヌア・モリスである。しかし、ウィルソンが強い行
政府の長は政府の中における世論の影響を強めることができると考えていた一
方で、モリスは強い行政府の長によって世論を抑えることができると考えてい
た46。憲法制定会議の間、強い行政府の長を求める代表達は勝利に次ぐ勝利を
収めた。行政府の長は単数で委員会形式を取らなかった。連邦議会によって 1
期のみ選ばれるのではなく、独自の選出方法が取られ、再任を可とする。細目
委員会は、軍隊の指揮、立法過程への関与、恩赦、そして法律の施行を含む行
政府の長に与えられる列挙された権限を示した。連邦上院で各邦に平等の投票
権を与えるというコネティカット妥協の後、大邦の代表者達は官職の任命権と
条約の締結権を上院から行政府の長に移すという案に賛成した。こうした勝利
にも拘わらず、ウィルソンやモリスを中心とする強い行政府の長を望む代表達
がすべてを望み通りにしたわけではない。例えば行政府の長に絶対拒否権を与
える案は認められなかった。しかし、彼らは最初に構想されていたよりもずっ
と強い行政府の長を置くように憲法制定会議を動かしたと言える。
第 4 節 行政府の長の数
行政府の長の数は最初に考えるべき問題であった。第 1 に、行政府の長は単
数か複数か、つまり、行政府の長を 1 人にするか、委員会形式を取るかという
問題である。第 2 に、行政府の長はその権限を行使する際に参事院に諮るべき
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
109
か否かという問題である。ヴァージニア案は行政府の長の数に関して明確に規
定していない。おそらくマディソンがその問題に関して明確な意見を持ってい
なかったか、もしくは連邦議会がその問題を自由に決定すべきだと考えていた
からであろう。
6 月 1 日、全体委員会でウィルソンは行政府の長を単数とするべきだという動
議を提出した。いつもは活発に議論する代表達の間に沈黙が訪れた。どのよう
な行政府が構成されようとも最初の指導者になると誰もが予測していたワシン
トンの前で議論するのを代表達は憚ったのである47。フランクリンが自由に議
論するように勧めると代表達は議論を始めた。行政府の長を強力にしようとす
る代表達の最初の試練となった。ウィルソンの動議に対してランドルフとシャ
ーマンが中心となって反対を唱えた。ランドルフは行政府の長を単数にするこ
とは君主制の萌芽となるものだと主張し、それぞれの地域から 1 人ずつを選出
して 3 人が行政委員会を構成する案を代案にするように求めた。シャーマンは
理想的な行政府の長は立法府の意思を実行に移す以上の何者でもないと主張し、
行政府の長の数を決定せずに連邦議会に決定を委ねるべきだとした48。フラン
クリンが行政府の長を複数にすべきだという理由はさらに積極的であった。フ
ランクリンは、行政委員会によって定められた政策は単数の首長によって定め
られた政策よりも容易く変更されず、より安定して一貫していると論じた49。
ディキンソンは、王を頭に据えた政府を否定しないと述べた。ディキンソンは、
君主制は世界の中で最善の政体であると主張した。しかしながら、アメリカに
王を据えるのは問題外だとディキンソンは述べた。
ウィルソンは巧妙に自らの動議を擁護し、行政府の長を単数とすることでリ
ーダーシップが生まれ新しい政府の活力と手早い処置の源になるだろうと論じ
た。またウィルソンは、行政府の長を単数とすることは行政権の管理に不可欠
であるとも論じた。すなわち権力の悪用や無能の責任を行政委員会に対してど
のように問えばよいのか。3 人に行政権を分与する方式は自制がきかなくなり、
お互いの敵意を生むことになる。そうした争いは害毒を政府の中だけでなく、
諸邦、そして人民の間に撒き散らすことになる50。こうした議論は多くの代表
達にとって説得力があるものであった。彼らは君主制を恐れていたが、連合規
約の下で連邦政府が行政府の責任の分散からどのような弊害を受けていたのか
を認識していた。有産者として彼らは、シェイズの反乱のような無秩序を恐れ、
行政府の長を単数にすることで、そうした暴徒や無秩序に委員会形式よりも迅
110
アメリカ大統領制度史上巻
速かつ効果的に対応できると考えた。またマディソンの提案により、行政府の
長に連邦法を執行する権限と特別の規定あるもの以外の官吏を任命する権限が
与えられることが決定した。
6 月 4 日、憲法制定会議は圧倒的多数で行政府の長を単数にする案に賛同した。
数少ない投票記録の中でワシントンはこの動議に賛成票を投じている。行政府
の長を単数とする案に反対した者達の平均年齢は 55 歳である。それに対して賛
同者の平均年齢は 41 歳である。そうした違いは、年長者達の行政府の長に対す
る観念が植民地総督との長い戦いによって育まれたものであるからだと考えら
れる。しかし、若い代表者達は、そうした経験をあまり持たず、連合規約と邦
憲法における行政権の弱さによる弊害をより心配していた51。
第 5 節 参事院
ヴァージニア案は「行政府と適当な人数の国民司法府は、国民議会の発効す
る前のあらゆる法律、および各邦議会の拒否権が確定する前のあらゆる法律を
検査する権限を有する審査院を設立し、もし国民議会の法律が再可決されない
か、もしくは各邦議会が各院の議員の[空白]人によって再び拒否されなければ、
審査院の異議は棄却に相当するべきであると決議する」と審査院の拒否権につ
いて規定している。そうした種の参事院は邦知事に助言を行うことを目的とし
て 13 邦すべての邦憲法で規定されている。参事院の構成員は一般的に議会によ
って選任された。シャーマンは最終的に行政府の長を単数とする案に賛同した
が、憲法案を国民に受け入れやすくするために、参事院と権限を分有すべきだ
と主張した。ゲリーも単数の行政府の長に加えて信頼性を増すために参事院を
付属させるように主張した。ウィルソンは、そうした参事院を設けることに反
対した。なぜなら参事院は行政府の長を単数とすることで得られる利点、すな
わち活力、迅速さ、そして責任の所在を明確にすることを損なうと考えたから
である。
参事院を設ける案は 6 月 4 日、ゲリーとルーファス・キング(Rufus King)が
判事達に立法過程に容喙させることに対して疑念を示した後に棚上げされた。
参事院がどのような影響を行政府の長に与えるのかについて代表達の意見は分
かれた。参事院は行政府の長を抑制することができると考える者がいる一方で、
参事院は司法府の支持とともに議会との関係において行政府の長を強化するも
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
111
のとなるだろうと考える者もいた。
参事院の構想は度々、様々な形式で繰り返し取り上げられた。8 月 18 日、エ
ルズワースは参事院が未だに設けられていないと注意を促した。そして、上院
議長、最高裁、及び各省庁の長官からなる大統領に助言を与える参事院を設け
ることを提案した。8 月 20 日、同様にグヴァヌア・モリスは大統領の執務を補
佐するために、最高裁長官及び各省庁の長官からなる参事院を設けることを提
案した。大統領は各省庁の長官の所管事項の他に、いかなる事項も討議に付す
ことができ、参事院の構成員に文書による意見を徴することができる。大統領
は常に自己の判断を下し、意見を取捨選択する52。代表達はエルズワースの提
案を討議せず、問題の解決を細目委員会に付託した。細目委員会は、
「合衆国大
統領は、上院議長、下院議長、最高裁、及び外務、内務、陸軍、海軍、及び財
務の各省庁が随時設置されるにしたがい、これらの各省庁の長官より構成され、
かつ彼が自己の職務執行に関し、適宜付議する事項に彼を助言する義務がある
枢密院を有する。しかし、彼らの助言は彼を拘束し、もしくは彼の採る処置に
対する彼の責任に影響しない」と報告した。しかし、憲法制定会議は参事院に
関する細目委員会の規定に対して表決を行わなかった。
延滞事項委員会は、各省庁の長官よりその所管事項に関して文書により意見
を徴する権限を大統領に与えることを提議した。それに対してメイソンは、上
院または議会がニュー・イングランド、中部、そして南部の各地域から参事を 2
人ずつ選んで大統領に付属させるべきだと提案した。メイソンの提案に対して
グヴァヌア・モリスは、延滞事項委員会は、大統領が参事院を自己の不当な政
策に同意するように説得し、自己の非行を隠蔽しようとする恐れがあるという
結論を下したと答えた。モリスの意見に動かされた代表達はメイソンの提案を
否決した。結局、見解の統一がなされなかったために参事院は設けられなかっ
た。
第 6 節 大統領の選出方法
代表達が大統領の選出方法について一致している唯一の点は世襲制の反対で
あった。ウィルソンはヴァージニア案で示されている連邦議会が行政府の長を
選出する案に反対を唱えた。行政府の長が議会によって選ばれることは、行政
府の長が立法府に従属的になることを意味していた。6 月 1 日、ウィルソンは代
112
アメリカ大統領制度史上巻
案として行政府の長を人民の選挙によって選出する案を提案した。ウィルソン
は自らの提案が多分に空想的であると認めながら、立法府と行政府がお互いに
独立し合い、諸邦からも独立したままでいるためには人民による選挙が必要で
あると主張した53。
代表達は人民による選挙というウィルソンの提案を実質的に無視した。原理
的にウィルソンの考えはあまりに民主的であった。彼らは、民主政は小さな共
同体のみで可能であると考えていたのである。それに加えて、あまりよく知ら
ない遠く隔たった邦の候補者に有権者が投票しなければならない場合、人民に
よる選挙は不可能であると思われた。マディソンは人民に適切な資質を持つ行
政府の長を選択するように求めるのは無理なことであるとウィルソンの提案に
反対を唱えた。さらに南部の代表達を代表してマディソンは、人民による直接
選挙ではより人口が多い北部からの候補者がほとんど常に勝利を収めるだろう
と主張した54。
また人民による直接選挙は人口が少ない邦は圧倒的に不利であった。例えば
デラウェア邦の人口はペンシルヴェニア邦の約 10 分の 1 であった。多くの奴隷
を抱える南部の邦も不利であった。なぜなら奴隷は投票権を持たないので票数
に含めることができないからである。多くの代表達の中には、アメリカのよう
な広大な土地で人民が大統領候補の利点を見極めることは不可能であるという
見解の統一があった。メイソンは「行政府の長の適切な性質を選択するように
人民に委ねることは、目が見えない者に色の判別を求めるように不自然なこと
である」と述べた。人民による直接選挙は偏狭なものとなると多くの代表達は
考えた55。
さらに、6 月 2 日、ウィルソンは選挙人によって行政府の長を選出する案を提
案した。選挙のために各邦は選挙区に分けられ、選挙区の有権者は、中央に集
まって行政府の長を選出する選挙人を選出するという方式である。ハミルトン
も選挙人による間接選挙を提案した。ゲリーは、議会による行政府の長の選挙
は、議会と候補者の間で様々な陰謀や取引が行われるようになると主張した。
しかし、シャーマンは、行政府の長によって執行されるのは議会の意思である
から、行政府の長は議会に絶対に依存すべきであり、議会から行政府の長が独
立すれば専制の原因となると反対を唱えた。最終的にウィルソンの案は 8 票対 2
票で否決された。6 月 9 日、議会が行政府の長を選出する方式に不満を抱いてい
たゲリーは各邦の邦知事によって行政府の長を選ぶ方式を提案した。ゲリーの
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
113
提案に対してランドルフは、邦知事は、事実上、邦議会に依存しているので邦
議会の見解に支配され、邦の利益を偏重する者を行政府の長に選ぶとし、その
結果、選ばれた行政府の長は邦の連邦に対する権限侵害に対抗することはでき
ないと反対を唱えた。その結果、ゲリーの提案は否決された。
6 月 19 日、憲法制定会議は行政府の長の選出方法について議論した。マディ
ソンは、行政府の長を連邦議会への従属から自由にするべきだと主張した。さ
らにマディソンは、自由な政府の根本的な原理は立法府、行政府、司法府の権
限が分立していることにあり、それぞれの権限が独立して行使されることにあ
ると述べた。エルズワースは、連邦議会が大統領を選ぶという条文を削除して
邦議会が任命する選挙人によって大統領を選ぶ方式を提案した。選挙人は人口
20 万人を超えない邦には 1 人、人口 30 万人を超えない邦には 2 人、人口 30 万
人を超える邦には 3 人を割り当てる。憲法制定会議はエルズワースの動議を受
け入れたが、選挙人の割り当てに関しては後回しにした。
7 月 17 日、グヴァヌア・モリスは人民による選挙を提案した。モリスは、も
し議会が行政府の長を選挙し、弾劾することも可能であれば、行政府の長は議
会の単なる手先に過ぎなくなると訴えた。もし人民が行政府の長を選ぶことが
できるなら、有能な人物か、功労がある人物か、全国的名声がある人物を選ぶ
と考えられる。しかし、議会が行政府の長を選べば、陰謀と徒党によって支配
される。行政府の長が議会から独立しなければ、議会は行政府の権限を侵害し、
専制的になる恐れがある。モリスの意見に対してシャーマンは、人民には一般
的に候補者を選別する知識がないと依然として反対を唱えた。また人民は同じ
邦の出身の候補者ばかりを選ぼうとし、大きな邦に比べて小さな邦は不利にな
る。さらにチャールズ・ピンクニーも、人民が少数の扇動者によって扇動され
る危険性があると論じた。モリスはこうした反対に対して、アメリカ全土で行
われるような大規模な選挙では大衆扇動の危険性は低くなるし、ニュー・ヨー
ク邦知事の選挙の例では徒党や陰謀が効果を発揮するのは局地的な場合のみで
あると主張した。メイソンは、アメリカはあまりに広大なので、人民が候補者
の主張を正しく理解するのは難しいと論じた。ウィリアムソンは、人民が同じ
邦出身の候補に投票し、人口の多い邦が有利になることは明らかであると主張
した。結局、モリスの提案は否決された。邦議会が任命する選挙人によって行
政府の長を選挙する案がマーティンによって提案されたが否決された。ウィル
ソンは人民によって選挙された候補者の中から議会が最後の選択を行う方式を
114
アメリカ大統領制度史上巻
提案した。その方式により陰謀と取引が制限され、人民一般の自由と利益が確
保できるとウィルソンは主張した。マディソンは人民による選挙で行政府の長
を選ぶ方式が最適であると主張した。続いてエルズワースは、邦議会が任命す
る選挙人による行政府の長の選挙を提案した。憲法制定会議はエルズワースの
提案を受け入れた。
7 月 20 日、選挙人の割り当てについてゲリーは動議を提出した。ゲリーの動
議によれば、ニュー・ハンプシャー邦は 1 人、マサチューセッツ邦は 3 人、ロ
ード・アイランド邦は 1 人、コネティカット邦は 2 人、ニュー・ヨーク邦は 2
人、ニュー・ジャージー邦は 2 人、ペンシルヴェニア邦は 3 人、デラウェア邦
は 1 人、メリーランド邦は 2 人、ヴァージニア邦は 3 人、ノース・カロライナ
邦は 2 人、サウス・カロライナ邦は 2 人、ジョージア邦は 1 人が割り当てられ
る。小さな邦の反対にも拘わらず、ゲリーの動議は 6 票対 4 票で採択された。
さらに、連邦議会議員や連邦官吏は選挙人になれず、選挙人自身は大統領にな
れないということが認められた。
しかし、憲法制定会議は 7 月 24 日と 26 日にすべての議決を再審議した。選
挙人で行政府の長を選ぶという提案は、憲法制定会議の多くの代表達にとって
革新的過ぎた。代表達は選挙人が集まった時に外国による扇動を受けるのでは
ないかと恐れた。そのため代表達はヴァージニア案にあるように連邦議会が行
政府の長を選出する案に票を投じた。その結果、邦議会が任命する選挙人によ
る選挙は否定され、連邦議会による選挙が復活した。しかし、連邦議会によっ
て行政府の長を選出する方法には 2 つの欠点があることを代表達は認識してい
た。1 つは、もし議会が権力の濫用を行ったり、行政府の権限を侵害したりした
場合、行政府の長は効果的に議会を抑制できない点である。2 つは、行政府の長
が官職任命権を使って議員の支持を獲得しようとする点である56。
行政府の長を連邦議会が選出する案は 7 月と 8 月に行われた数度の表決で再
確認された。行政府の長は、官職任命権と権力を議員の支持を集めるために使
わないようにするために再任が認められないことになった。しかし、一方で代
表達は、再任を認めることは官職の仕事を遂行するうえで励みとなるというこ
とも認識していた。そのため代表達は、再任の可能性を除外することを遺憾に
思っていた。その結果、再任を可能とするような選出過程に関する探究は続け
られた。これは容易な仕事ではなかった。
ウィルソンは、連邦議員の中から選ばれた 15 人が行政府の長を選挙するとい
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
115
う妥協案を提出した。そうすれば、陰謀が回避され、議会への従属が緩和され
ることが期待された。モリスは人民による選挙が最善の方法と考えていたがウ
ィルソンの妥協案を支持した。他にも以下のような妥協案が提出された。邦知
事か、もしくは邦知事によって選ばれた選挙人が行政府の長を選出する方法、
各邦の最良の市民による候補指名とその候補の中から連邦議会か、連邦議会に
よって選ばれた選挙人によって行政府の長を選出する方法、連邦議会が行政府
の長を選出し、再任の際は邦議会によって選ばれた選挙人が行政府の長を選出
する方法、抽選で選ばれた連邦議員によって行政府の長を選出する方法などで
ある57。
連邦議会によって行政府の長を選出する方法に代る案を探究する試みは 8 月
24 日以降、急速に加速した。その日までどのように連邦議会が大統領を選出す
るかは明確ではなかった。憲法制定会議は、行政府に関する細目委員会の報告
を検討した。細目委員会は、行政府の長を連邦議会の投票で選ぶ方式を提案し
たが、投票をどのように行うかは提案しなかった。その時、行政府の長を連邦
議会によって選ぶか、人民によって選ぶかがまた議論された。ダニエル・キャ
ロル(Daniel Carrol)とウィルソンは、モリスが提案したような人民による選挙
を提案したが否決された。ラトレッジは諸邦が邦知事を選出する方式に倣って、
連邦議会の両院による合同投票で行政府の長を選出する方式を提案した。その
方式は実質的に人口の多い邦に有利であると考えられたために小さな邦は反対
を唱えたが、ラトレッジの提案は採択された。議会における陰謀と取引、そし
て行政府の長が従属的になることで議会が専制に陥ってしまう危険性を恐れた
モリスは、諸邦の人民が選ぶ選挙人によって行政府の長を選ぶ方式を提案した。
しかし、モリスの提案は否決された。ラトレッジの提案は大統領の選出過程で
大邦に明らかに有利であったので、既に憲法制定会議を分裂させていた大邦と
小邦の間の論争を再燃させる恐れがあった。そうした致命的な分裂を避けるた
めに、コネティカット妥協の唱導者であるシャーマンは 8 月 31 日の動議で大統
領の選出過程の決定を延滞事項委員会に委ねることを提案した。
9 月 4 日、延滞事項委員会は、大統領を選出する方法として再任に制限を設け
ず、選挙人を用いる案を提案した。そうした方式は 1776 年のメリーランド邦憲
法で上院議員を選出する方式を参考にしたと考えられる58。大統領は、各邦が
それぞれ採用した方法によって選ばれた選挙人の過半数を獲得して選ばれる。
代表達は各邦が選挙人の選出を人民に委ねると予想していた59。各邦は連邦議
116
アメリカ大統領制度史上巻
会における議員数と同じ数の選挙人を割り当てられる。それは大邦に有利であ
った。もしどの候補も過半数の選挙人を獲得できない場合、上位 5 人の中から
上院が当選者を決定する。それは小邦に有利であった。また選挙人が結託して
陰謀を企てないために、選挙人は全国組織として会合することはなく、各邦の
首都で票を投じ、その結果は連邦上院に送付され数えられる。さらに選挙人は
出身邦の候補ばかりに票を投じないようにするために異なった 2 つの邦から 2
人の候補者を選出することが求められる。次点者は新たに設けられた副大統領
として選出される。議会による大統領選出には陰謀と党派的利害が絡む危険性
があったし、行政府を議会に従属させることを意味した。選挙人を用いる方式
はそうした弊害を避けることができた。また良識ある選挙人は民衆を扇動して
大統領になろうとする人物の登場を阻むことができ、かつ全国的選挙の長所を
保持することができた60。ハミルトンは選挙人方式の利点を次のように述べて
いる。
「大統領を直接選び出す人には、大統領の地位に相応しい素質を分析する能
力を持ち、大統領には誰がよいかを理性的に判断のできる人物が好ましい。そ
れには純粋で政治に対する理性的な能力を十分に備えた人々でなければならな
い。一般大衆より選ばれた少数の人々こそ、そのような複雑な選挙に必要な知
識と選択眼を持ち合わせている可能性が強い」61
ただ 1 つの点のみが大統領を選挙人によって選出する方法において問題とな
った。過半数を獲得する候補がいない場合、上院が当選者を決定するという点
である。大邦は、上院に最終選定を委ねることは小邦に有利だとして反対した。
今日のような二大政党制の発展が見込まれていなかったので、ワシントンが大
統領を務めた後、どの候補も過半数を獲得する可能性が低いと考えられ、した
がって多くの大統領が上院によって選出されることが予想された。メイソンは
20 回のうち 19 回はどの候補も過半数を獲得することはないだろうと予測した
62。しかし、代表達は上院の権限が強大になり過ぎることを恐れた。チャール
ズ・ピンクニーは、自己の任命を上院に依存するが故に大統領は上院の単なる
手先となり、上院と結託して下院を圧迫する恐れがあると指摘した。メイソン
とランドルフも同様の危険性を指摘した。ウィルソンは、上院が大統領を選出
するようになれば、上院に強大な権限を与えることになると論じた。上院は大
統領の任命を支配し、司法府の任命権を実質的に掌握し、さらに条約の批准権
と弾劾を審判する権限を持っている。そうなれば立法、行政、司法の三権は上
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
117
院で混合されることになり、他の府を圧迫するようになる。ウィルソンは上院
ではなく連邦議会全体に大統領の最終選定権を与えるように提案した。メイソ
ンは、上院に最終選定権を与えないようにするために、過半数の選挙人を獲得
できなくても最高の得票者を大統領として選出するべきだと主張した。マディ
ソンは、上院が最終選定権を行使する機会を少なくするために、最高の得票者
が 3 分の 1 の選挙人を獲得すれば当選を認めるという案を提案した。こうした
提案はいずれも否決された。様々な提案の中でシャーマンは、もしどの候補も
過半数を獲得できない場合、下院で各邦に 1 票ずつ与えて票決を行う案を提案
した63。下院で各邦に 1 票ずつ与える形式は小邦に配慮したためである。上院
は下院が大統領の最終選定を終えた後、次点者が決まらない場合、副大統領の
最終選定を行う権限が与えられた。9 月 6 日、憲法制定会議はシャーマンの提案
を採択した。
第 7 節 大統領の任期
大統領の選出方法、再任を認めるか否か、そして任期の長さはそれぞれ独立
して考えられない問題であった。ヴァージニア案では行政府の長の任期は空白
のままであり、再任は認められていなかった。6 月 1 日、こうした規定が全体委
員会で検討された時、再任を認め任期を 3 年とする案、再任を 2 回認め任期を 3
年とする案、再任を認めず任期を 7 年とする案など様々な案が提案された。
6 月 9 日、ゲリーは行政府の長を連邦議会の投票ではなく諸邦の知事の投票で
選ぶ案を提案した。邦知事は自身も邦の行政府の長であるため議会よりも有能
な行政府の長を選ぶことができると期待された。しかし、ゲリーの案は否決さ
れた64。代表達の選択は、再任を認めるか否かという点、そして連邦議会によ
る選出を認めるか否かという点に絞られた。マディソンは再任を認める点と行
政府の長を連邦議会によって選出する点の両方を同時に憲法案に盛り込むこと
はできないと主張した。何故ならもし大統領が議会によって選ばれ、かつ再任
を認められた場合、大統領は再任されるように政治的影響力と官職任命権を使
って議員を抱き込む危険性が考えられたからである65。最終的に 6 月 13 日に以
下のような決議がまとまった。
「1 人からなる国家行政首長が設けられ、国民議会によって選出され、任期は
7 年とし、連邦法を執行する権限を持ち、その他の規定で定められる場合を除い
118
アメリカ大統領制度史上巻
た官吏を任命する権限を持ち、2 回選ばれる資格はなく、弾劾され、不正行為、
もしくは義務の怠慢で有罪判決を受ければ免職され、固定給を受け、それによ
って公務に彼の時間を捧げる報酬とし、国庫から支払いを受けると決議する。
国家行政首長はあらゆる法を拒否する権限を持ち、その後、国民議会の各院で 3
分の 2 の票を得なければ可決されないと決議する」66
マディソンの指摘にも拘わらず、7 月 17 日、憲法制定会議は再任を認める点
と行政府の長を連邦議会によって選出する点の両方を認めた。しかし、ジェー
ムズ・マックラーグ(James McClurg)が両方を同時に盛り込むことの矛盾点を
指摘した時、任期を 1 期に限るように戻された。さらにマックラーグはグヴァ
ヌア・モリスとジェイコブ・ブルーム(Jacob Broom)の支持を受けて、矛盾点を
解決する別の方法を提案した。すなわち、大統領を連邦議会が選出し、任期を
罪過なき限り終身とする案である。マックラーグの考えでは、任期を 7 年とし、
議会による再選を認めることは、行政府の長を永久に議会に従属させることを
意味した。再選を認める議決の後で行政府の長の独立を保つためには任期を終
身にするしかないとマックラーグは主張した。モリスはマックラーグの提案を
支持し、終身制により行政府の長の独立が保たれるのであれば、どのような選
任方法をとっても問題はないと述べた。メイソンは、行政府の長に終身制を認
めることは容易に世襲君主制に転化する危険性があると指摘した。マディソン
は、人民による選挙か、もしくは任期を長くすることで行政府の長を議会から
独立させることは共和政体を保持するために不可欠であると論じた。マックラ
ーグの提案はメイソンが述べたように過度に君主制を想起させるものだったの
で代表達にとって受け入れられるものではなかった。
7 月 19 日、マーティンは行政府の長の再選を制限するべきだと動議した。ラ
ンドルフはマーティンの動議を支持して、もし行政府の長が議会により再選さ
れることになれば、行政府の長は議会をまったく抑制できなくなると述べた。
モリスは、行政府の長が議会により自由に任命され弾劾されるようになれば、
行政府の長が人民の利益の保護者になることもできず、単なる議会の従属者に
なると警告した。そして、モリスは行政府の長を議会から独立させるために、
行政府の長を人民の選挙で選び、再選資格を与えるべきだと主張した。キング
も再選資格を奪うのに反対して人民が選ぶ選挙人による行政府の長の選出が最
善であると主張した。マディソンは一般人民による選挙が望ましいと述べた。
ウィルソンは再選資格をなくさない限り、行政府の長を議会が選出すべきでは
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
119
ないという見解の一致が見られると指摘した。そして、人民による直接選挙、
もしくは間接選挙が受け入れられるようになってきたのは喜ばしいことだとウ
ィルソンは述べた。最終的に憲法制定会議はマーティンの動議を否決する一方
で、大統領の任期を 7 年から 6 年に短縮することを決定した。任期をもっと短
くすべきだと主張するモリスに対してエルズワースは、もし選挙が頻繁に行わ
れれば、行政府の長の地位は十分に強固なものとならないと論じた。エルズワ
ースの考えでは、たとえ不人気になっても行政府の長は遂行しなければならな
い義務を持っている。
7 月 24 日、行政府の長をどのように選出するべきかという問題が再び議題に
のぼった。ウィリアム・ホーストン(William Houston)は、既に同意が成立して
いたように選挙人が行政府の長を選出する代わりに連邦議会が行政府の長を選
出する方式を再び提案した。ホーストンは、選挙人方式は非常に不便であり、
多額の費用を要するうえに、有能な人物は選挙人になりたがらないだろうと述
べた。結局、憲法制定会議は行政府の長を選出する方式を選挙人による方式か
ら連邦議会による方式に戻すように決定した。任期と再任を認めるか否かも再
び議論の対象となった。ウィリアムソンは選挙方法だけではなく任期を 7 年と
し再任を認めない規定も復活させるべきだと主張した。エルズワースは再任を
認めない規定を復活させることに反対して、もし再選を認めれば行政府の長は
職務に励むことが期待されると主張した。ゲリーは、再任を認めないのであれ
ば、任期を長くすればする程、行政府の長が議会に従属する危険性も抑えられ
るので任期を 10 年ないし 20 年に延期するべきだと主張した。
さらに 7 月 26 日、憲法制定会議は行政府の長の任期を 1 期に限るように決定
した。具体的にどのような条文にするかは細目委員会に委ねられた67。再任を
認めるか否か、それとも連邦議会による選出か否かという問題はまた任期の長
さを決定する問題でもあった。もし大統領が連邦議会によって選ばれ、再任が
認められない場合、任期を長くするべきだと代表達は考えていた。一方でもし
大統領が議会によって選ばれず再任が認められた場合、任期を短くするほうが
好ましいと代表達は考えていた。
8 月 6 日、細目委員会は草案を提出した。行政府の長に関する条文は以下の通
りである。
「第 1 節、合衆国の行政権は 1 人の人物に属する。彼の肩書きは『アメリカ合
衆国大統領』であり、彼の称号は『閣下』である。大統領は議会の投票によっ
120
アメリカ大統領制度史上巻
て選出される。大統領は 7 年間、在職し、2 回選出されることはない。第 2 節、
大統領は、随時連邦の状況につき情報を議会に与える。大統領は必要にして良
策なりと考える施策について議会に対し審議を勧告する。大統領は非常の場合
には、議会を招集することができる。閉会の時期に関して両院の間に見解の一
致を欠く場合には、自ら適当と考える時期まで休会させることができる。彼は
合衆国の法律の適切かつ忠実に執行されることを配慮する。大統領は合衆国の
すべての官吏を任命し、この憲法に特別の規定あるもの以外のすべての場合の
官吏を任命する。大統領は大使を接受し、諸国の首長と通信できる。大統領は
刑の執行延期と恩赦を与える権限を有するが、彼の恩赦は弾劾を防止するため
に申し立てることはできない。大統領は陸海軍及び各州の民兵の最高司令官で
ある。大統領はその職務に対して定時に報酬を受け、その額は彼の任期の間、
増減されることはない。大統領は行政府の職務の遂行を開始する前に、次のよ
うな宣誓もしくは確約をしなければならない。
『私はアメリカ合衆国大統領の職
務を忠実に遂行することを[空白]厳粛に誓う(もしくは確約する)』
。大統領は、反
逆罪、収賄、もしくは汚職で下院によって弾劾され、かつ最高裁で有罪判決を
受ければその職を免じられる。上述のような免職、死亡、辞職、またはその権
限及び義務を遂行する能力を失った場合は、別の大統領が選ばれるか、大統領
の不能力の状態が去るまで上院議長がその権限と義務を行使する」68
憲法制定会議は 8 月 24 日まで大統領に関する規定を取り上げなかった。大統
領に関する規定の議論は 8 月 27 日まで行われた。大統領の権限を強めようとす
る提案も大統領の権限を弱めようとする提案も認められなかった。8 月末、憲法
制定会議は様々な問題を考案するために延滞事項委員会を発足させた。延滞事
項委員会は、選挙人によって大統領を選出し、再任は制限されず、任期は 4 年
とすることを推奨した。憲法制定会議は延滞事項委員会の報告を採択した。
任期を 4 年とし、再任を制限しないという決定は、任期を 1 期に限るべきだ
という主張と任期を終身とするべきだという主張の間の妥協である69。多くの
代表達は再任を制限するという考えに否定的であった。もし大統領が良い治績
をあげたのならば、どうして人民は彼を続投させることが許されないのだろう
か。議員の再任には制限が課せられないことを考えると、議員よりも継続性と
経験が必要とされる行政府の長に再任を認めることは妥当である。国家の緊急
時に人民の安全に不可欠な行政府の長を再任できなくするのは懸命なことだろ
うか。またもし再任が認められないことで政治的野心を阻まれた行政府の長が
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
121
暴力や憲法に反した方法で権力を維持しようとする可能性もある70。
第 8 節 大統領の弾劾
憲法制定会議の間、代表達は任期が満了となる前に大統領を免職にする場合
を想定した。深刻な権力の悪用があった場合、その救済策は弾劾である。弾劾
はイギリスの政治制度で歴史に根差した伝統的な慣習である。17 世紀の間、大
臣や参事の庶民院による弾劾と貴族院による審判は、君主制の権力の中で議会
が支配を強め、大臣を議会に対して責任を持たせるうえで大きな役割を果たし
た71。18 世紀になって庶民院が不信任決議で大臣を辞めさせることができるよ
うになると弾劾はその重要性を減じた。しかし、行政府が立法府に責任を持つ
伝統は残った。
ヴァージニア案では行政府の長の弾劾について明確な規定はないが、多くの
代表達はそうした仕組みを憲法案に盛り込むべきだと考えていた。邦憲法の中
では 7 つの邦憲法が弾劾について定めていた。強い行政府の長を推進する代表
達は、目標を達成するためには、歯止めが効かなくなった行政府の長を免職で
きる仕組みを盛り込んで他の代表達を納得させる必要があると認識していた。
ディキンソンは連邦議会が邦議会の多数の請求によって行政府の長を免職でき
るという動議を提出した。ディキンソンは、邦議会にそうした権限を持たせる
ことで各邦が行政府の長を統制できると考えていた。メイソンは、行政府の長
を罷免する手段を講ずる必要性は認めたが、罷免権を議会に委ねることで行政
府の長を隷属させることは善良なる政府の根本原理に反すると主張した。マデ
ィソンとウィルソンは、行政府の長の罷免に邦を介入させることは不当である
と反対した。ディキンソンの動議は、デラウェア邦を除くすべての邦の反対で
否決された72。
弾劾に関する憲法制定会議の統一見解は 6 月 2 日に示された。6 月 2 日、全
体委員会でウィリアムソンは、行政府の長が非行、または義務を怠ったと弾劾
され有罪判決を受けた場合、免職されるという動議を提出した。全体委員会は
ウィリアムソンの動議を即座に承認した。また司法府の管轄権が弾劾の審判に
及ぶことも決定された73。しかし、弾劾を誰が行うか、そしてその審判を誰が
行うかは必ずしも明確ではなかった。すべての邦は邦憲法で下院に弾劾権を認
めていた。審判を行う権限は、2 つの邦では裁判所に、他の 2 つの邦では上院議
122
アメリカ大統領制度史上巻
員と判事から構成される特別裁判所に、残りの邦では上院に与えられていた。
憲法制定会議の統一見解は 7 月 19 日にさらに強化された。7 月 19 日、グヴ
ァヌア・モリスはもし大統領の任期が短ければ、時間の経過が問題を解決して
くれるのでわざわざ弾劾を行う必要はないと主張した。行政府の独立を保障す
るために議会によって弾劾を行うべきではないとモリスは考えたのである。キ
ングもモリスの見解を支持して、もし議会が行政府の長を弾劾できるのであれ
ば、三権分立の原理は破壊されると主張した。判事と違って行政府の長は選挙
により周期的に審査される。選挙による周期的な審査は弾劾に相当する保障と
なる。こうした意見に対してマディソンは、行政府の長の無能力、怠慢、もし
くは背信に対して何らの予防策は必要であると述べた。任期の制限は十分な予
防策ではない。議会の場合はすべての議員が腐敗する可能性は低い。しかし、
大統領は単独であるために議会よりも無能力、腐敗などが起こり易い。さらに
ゲリー、ランドルフ、フランクリン、そしてメイソンが反論を行った。彼らは、
弾劾が権力の悪用に対する重要な安全策であり、暗殺という手段に頼らずに暴
君を排除する方法であると主張した。こうした反論にあってモリスは自らの論
を撤回し、行政府の長の弾劾の必要性を認めた。しかし、大統領の審判を議会
が行う以外の方法を周到に規定しなければならないとモリスは付け加えた。代
表達は弾劾の必要性を認めた。
細目委員会は、ウィリアムソンが提案した弾劾について明確に定義しようと
努め、弾劾を行うべき場合を「反逆、収賄、そして汚職」と定めた。さらに細
目委員会は、弾劾の過程を下院が弾劾を行い、最高裁が審判すると明示した。8
月27 日まで憲法制定会議は弾劾に関する細目委員会の報告を取り上げなかった。
モリスは、最高裁長官を含む審査院を設けるのであれば、審査院は弾劾の過程
に関与すべきではないと主張した。代表達はモリスの動議を受け入れた。そし
て、8 月 31 日、延滞事項委員会が発足し、弾劾の問題も扱うことになった。
延滞事項委員会は 9 月 4 日に 3 つからなる報告を提出した。第 1 に弾劾は下
院が行うこと、第 2 に審判は最高裁長官が議長を務める上院で行うこと、第 3
に弾劾は「反逆罪か収賄」を根拠として行い、
「汚職」という曖昧な根拠で行わ
ないことである。マディソンは、上院に審判を行う権限を与えれば、上院に大
統領が従属させられるとして、最高裁が審判を行うように戻すように提案した。
それに対してモリスは、少数で構成される最高裁は容易に腐敗させられるので
上院に審判を委ねたほうがよいと主張した。シャーマンは、大統領が判事を任
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
123
命するので最高裁が大統領を審判するのは不適当であると述べた。9 月 8 日、メ
イソンは「反逆罪と収賄」のみでは、例えば憲法を覆そうとするような多くの
危険な侵害行為を取り締まることができないと主張した。そして、メイソンは、
「失政」を弾劾の対象に含めるように要求した74。マディソンが「失政」は実
質的に議会における不人気以上の意味を持たないと反対すると、メイソンは失
政を「重大犯罪と非行」に改めた。
「重大犯罪と非行」は深刻な権力濫用を示す
14 世紀のイギリスの慣習法の用語である。マディソンの反対にも拘わらず、
「重
大犯罪と非行」は憲法制定会議によって採択された。
さらに代表達は延滞事項委員会の弾劾に関する報告に 3 つの修正点を加えた。
第1に上院の審判の可決に必要な票数は過半数から3分の2に引き上げられた。
第 2 に副大統領とすべての行政官が大統領と同じく弾劾の対象になることが定
められた。第 3 に公平を保つために弾劾を審判する目的で上院が開会される場
合、議員は「宣誓あるいは確約することを必要とする」という規定が付け加え
られた。
第 9 節 大統領の不能力
大統領の弾劾について論じられる一方で、大統領が職務を遂行できなくなる
場合についても論じられた。その問題が憲法制定会議で初めて論じられたのは 8
月 6 日のことで、大統領職の継承に関する細目委員会の報告が検討された時で
あった。細目委員会は、大統領が職務の義務と権限を遂行できなくなった場合、
上院議長がその義務と権限を遂行すると規定していた。
8 月 27 日、ディキンソンは職務が遂行できなくなった場合とは具体的にどう
いう状況で誰が判断するのかと疑念を示した75。職務を遂行できなくなった場
合に関する議論を詳細な答えを決めるために後回しするように代表達は決定し
た。しかし、詳細な答えを決める機会は遂に訪れなかった。その結果、憲法の
中で職務を遂行できなくなった場合について明確に定義されずに残った。大統
領が職務を遂行できなくなくなったとどのように判断するのか、またどのよう
に継承者に大統領職の権限と義務を受け継がせるのか、そうした過程は未だに
不明確である。延滞事項委員会は、単に副大統領、すなわち上院議長を職務が
遂行できなくなった大統領の継承者として規定し、何ら明確な説明のないまま
に「不能力(disability)」という言葉を「無能力(inability)」という言葉に換えた。
124
アメリカ大統領制度史上巻
副大統領職の設置は 1 つの問題を解決した。もし大統領が死亡するか、職務
を遂行できなくなるか、または弾劾され有罪が確定した場合にどうなるのかと
いう問題である。細目委員会が初めにこの問題を扱った。細目委員会は、上院
議長が、新しい大統領が選出されるか、大統領が職務を遂行できるようになる
まで大統領の職務を代行するという案を推奨した。マディソンを中心とする代
表達は、そうした案は上院に大統領を免職する動機を持たせるものだとして反
対を唱えた。結局、この問題は延滞事項委員会に付託された。
延滞事項委員会は、上院議員ではなく副大統領が上院議長を務め、もし大統
領職が空席になった場合、副大統領が大統領職を占めるという案を提案した。
死亡した大統領の任期が満了を迎える前に特別選挙を行って大統領を選出する
という動議を採択したうえで憲法制定会議は延滞事項委員会の案に賛同した。
文体委員会が憲法の最終稿を起草した時にそうした動議は抜け落ちた。誰も
誤りに気付かなかった。その結果、憲法制定会議は憲法に 2 つの曖昧な点を残
した。1 つ目は、大統領が死亡するか、辞職するか、職務を遂行できなくなるか、
または免職された場合、副大統領は新たな大統領になるのか、それとも単に大
統領の職務を代行するだけなのかという疑問点である。2 つ目は、副大統領が大
統領の残りの任期を務めるのか、それとも新たな大統領を選出する特別選挙が
行われるまで一時的に任期を務めるのかという疑問点である。こうした疑問点
をめぐる論争は、ウィリアム・ハリソンが在職中に初めて死亡した大統領にな
った時に起きた。最終的に副大統領のタイラーは特別選挙を行うことなくハリ
ソンの残りの任期を務めた。
第 10 節 三権分立の原理
多くの代表達は、自由を守るためには政府に権力分立の原理を組み込まなけ
ればならないと確信していた。したがって大統領の創始を考えるにあたっては
権力分立の原理について代表達がどのように考えていたのか知る必要がある。
様々な啓蒙政治思想家の中でもモンテスキューの思想が大きな影響を代表達に
及ぼしていた。モンテスキューは 1748 年に書かれた『法の精神』の作者として
権力分立に関する託宣者と言えた。モンテスキューの思想は代表達によく知ら
れていた。ハミルトンは『ザ・フェデラリスト』で次のようにモンテスキュー
の思想を説明している。立法府の権力と行政府の権力が同一の人物か、同一の
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
125
統治機関の手に握られた場合、自由はあり得ない。なぜなら同じ君主か元老院
が専制的なやり方で法律を施行するために専制的な法律を定める恐れがあるか
らである。また裁判権が立法府に与えられれば、臣民の生命と自由は恣意的な
統制の下に置かれる76。
合衆国憲法に適用された権力分立の原理は、ある特定の機能を果たすために
政府のそれぞれの府に排他的権限が与えられる厳密な分化というわけではなか
った。代表達にとって権力分立は実際には分けられた府が権限を共有する形態
であり、1 つの府の構成員が他の府の構成員を兼ねない形態であった77。当初か
ら憲法制定会議は権力分立を守るために 2 つの禁令を課していた。1 つ目の禁令
は、現職の行政府の長の給与を変更しないことである。2 つ目の禁令は、立法府
と行政府に同時に籍を置くことを誰にも認めないことである。両方の禁令はヴ
ァージニア案で示され、最終案でも実質的に変更されずに残った。
行政府の長が議会によって選出されるという条文の後でヴァージニア案は
「定期的に規定された回数、決まった俸給を受け取り、増額や減額が行われる
際に在任している行政首長職に影響を及ぼすような増額も減額もされない」と
規定している。行政府の長に関する他の規定が曖昧なのを考えると、給与に関
する規定は詳細なものと言える。マディソンは明らかに給与を増減することで
議会が行政府の長の独立性を脅かすことを恐れていた。
憲法制定会議の間、行政府の長の給与に関する条項は僅かに修正されただけ
である。最終的に代表達は大統領が合衆国、もしくは諸邦から他のいかなる報
酬も受けてはならないという規定を付け加えた。6 月 2 日、ウィルソンは、大統
領にいかなる報酬も与えるべきではないというフランクリンの演説を読み上げ
た。フランクリンは、権力を愛し、お金を愛することは多くの人々を駆り立て
る原動力となり、その両方が同じ官職において一挙に得られるのであれば、多
くの人々の心に深甚な影響を及ぼすと考えていた78。代表達はフランクリンの
演説を静聴したが、その主張を受け入れなかった。行政府の長の独立を議会か
ら守るためには、大統領職を富裕者のみが占めることができる官職にすること
は意味がなかったからである。
大統領の報酬の増減を禁止したことに加えて、立法府の構成員と行政府の構
成員を完全に分離する決定は当然の決定であった。ヴァージニア案では連邦議
員の資格について「4、国民議会第一院の議員は、少なくとも[空白]歳に達し、
各邦の人民によって[空白]年毎に[空白]年の任期で選出され、公務に彼らの時間
126
アメリカ大統領制度史上巻
を捧げる代償として十分な俸給を受け取り、特定の邦がもうける公職、もしく
は合衆国の権限の下、第一院の権能に属する特別な公職を除いて、任期中、も
しくは任期満了後[空白]年間は、いかなる公職に就く資格も有せず、任期満了後
[空白]年間は再選されることはなく、解職請求にも従うべきであると決議する。
5、国民議会第二院の議員は、少なくとも[空白]歳に達し、各邦議会がそれぞれ
指名した適切な数の人々の中から第一院によって選ばれ、彼らの独立性を保つ
のに十分な期間その職を保ち、公務に彼らの時間を捧げる代償として十分な俸
給を受け取り、特定の邦がもうける公職、もしくは合衆国の権限の下、第二院
の権能に属する特別な公職を除いて、任期中、もしくは任期満了後[空白]年間は、
いかなる公職に就く資格も有するべきではないと決議する」と規定している。
最終案では議会を去った後に公職に就くことを禁じる規定が除外された一方で、
連邦議員は在任中、合衆国のいかなる公職にも就くことはできないと規定され
ている。また憲法は連邦議員が大統領選挙で選挙人を務めることも禁じている。
代表達は、行政府の長が議員を行政府の官職と俸給で抱き込むことができな
いように行政府と立法府を分離させるように努めた。6 月 22 日、ピアース・バ
トラー(Pierce Butler)は、イギリスの議員が、彼ら自身と友人のために官職を得
ようとすることが腐敗の原因になっていると主張した79。さらに翌日、バトラ
ーは、モンテスキューに依拠して、委託された権限を自らの利益のために悪用
しようとする者に権限を与えることは賢明ではないと主張した。こうした問題
は 8 月 14 日にジョン・マーサー(John Mercer)によって再び取り上げられた。
マーサーは、政府は政治的影響力によって維持されるものであり、大統領が議
員を行政府の官職に任命できないことで影響力を行使できなくなれば、大統領
は単なる権威の亡霊になってしまうと主張した80。さらに 9 月 3 日、ウィルソ
ンとチャールズ・ピンクニーは、もし官職に就く者が 1 つ以上の職の責任を忠
実に果たすには腐敗し過ぎているということになれば、尊敬すべき人々は官職
に就きたがらなくなるだろうと論じた。こうした反対にも拘わらず、代表達は
行政府と立法府を分離する決定を変えなかった。行政官と議員を兼任すること
を禁じる特徴は、アメリカの政治制度を議員が慣習的に行政官を務める議院内
閣制とまったく異なる制度にした81。
しかし一方で、判事が行政府の官職に就く場合については何も言及されてい
ない。ニュー・ジャージー案は判事が行政府の官職に就くのを禁じているが、
憲法制定会議の場でそれが議論されることはなかった。それどころか審査院に
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
127
関する提案では行政府の長に加えて 1 人か、さらに多くの連邦判事を審査院の
構成員とするように提案されていた。判事が行政府の官職に就くことを許すこ
とは代表達の手落ちではなかった。代表達は行政府と司法府を法律を施行する
組織として合わせて考えていた。また代表達は、新しい政府の中で最も強力な
府は立法府であり、立法府を抑制するためには行政府と司法府が連携しなけれ
ばならないと考えていた。
第 11 節 拒否権
代表達は大統領やそれぞれの府に与えられる権限をなかなか列挙しようとは
しなかった。ヴァージニア案の主な起草者であるマディソンは、フィラデルフ
ィアに到着する 2 週間前にワシントンに向かって、行政府の長にどのような権
限を与えるべきか未だに具体的に意見をまとめていないと述べている。当初は
それぞれの府に特定の権限ではなく一般的な権限を与えるだけであった。ヴァ
ージニア案で立法府は、
「各院は法を案出する権利を有し、連邦によって連合会
議に与えられた立法権を享受する権利を国民議会に与えるべきであり、さらに
各邦が権能を持たないすべての場合、もしくは、各邦議会の行為によって合衆
国の調和が乱される場合において法を制定する」と規定されているだけである。
行政府については、
「国法を施行する包括的権限に加えて、連邦によって連合会
議に与えられた行政権を享受する」と規定され、審査院とともに拒否権を行使
できると規定されているのみである。代表達が権限の一般的な授与を好んだの
は、特定された権限は時の経過とともに時代遅れとなり、実質的に政府の権限
を制限するものとなると考えたからであった。
細目委員会は、憲法案でそれぞれの府の権限を列挙し、憲法制定会議に報告
した。憲法制定会議は委員会の報告を採択した。代表達は逐条的に列挙された
権限に関して議論を行ったが、権限を列挙すべきだという決定に関しては反対
する者は誰もいなかった。
議会が可決した法案を拒否する権限は、ヴァージニア案で示された行政府の
長の権限の中で唯一の特定された権限である。弱い邦知事と強い邦議会によっ
てもたらされる弊害は、立法府の権限侵害に対して行政府が自己防衛手段とし
て拒否権を持つ必要性を代表達に痛感させた。しかしながら代表達は多くの権
限を行政府の長になかなか与えようとはしなかった。
128
アメリカ大統領制度史上巻
ヴァージニア案では行政府の長は審査院の協力の下、拒否権を発動できるよ
うになっていた。マディソンはそうした審査院の協力があれば、行政府の長は
積極的に拒否権を発動できるだろうと考えていた。マディソンの信念は、ニュ
ー・ヨーク邦では邦知事のみに拒否権が認められているものの、ほとんど拒否
権は行使されていない一方で、マサチューセッツ邦では参事院を伴った邦知事
が自由に拒否権を行使しているという事実に基づいていた82。またヴァージニ
ア案は、拒否権を行使された法案は、両院の多数決で再可決されると規定して
いる。
6 月 4 日、ウィルソンとハミルトンは行政府の長に議会の再可決を受けない絶
対拒否権を与えるように全体委員会に求めた。それに対してフランクリン、シ
ャーマン、メイソンを中心とする他の代表達は、植民地時代にイギリスの国王
や総督が植民地議会の法案に対して絶対拒否権を持っていたことを思い出させ
た。メイソンは、行政府の長は侵害的な法案に対して、議会が再考することを
期待して法制化を延期する権限だけを認めるべきだと主張した83。行政府の長
に絶対拒否権を与える案は全会一致で否決された。ゲリーは、行政府の長に議
院の法案に対する拒否権を与え、それぞれの院で 3 分の 2 の票数が集まれば法
案は再可決されるという折衷案を提案した。それはマサチューセッツ邦憲法で
邦知事に与えられていた拒否権と同様であった。ゲリーの折衷案は採択され、
行政府の長は拒否権を審査院と分有するべきだという提案は棚上げされた。
6 月 6 日、ウィルソンとマディソンは司法府の代表を拒否権の行使に関与させ
る審査院を復活させるように提案した。しかし、両者の提案は否決された。7 月
21 日、再びウィルソンは司法府の代表を拒否権の行使に関与させるように提案
した。マディソンは司法府が拒否権の行使に関与することで立法府の侵害から
その身を守る機会を提供できる考えてウィルソンの案を支持した。その一方で
ゲリーは、司法府を拒否権の行使に関与させることは行政府と司法府を混合さ
せることになるという理由で反対を唱えた。またゴーラムは、1 人の行政府の長
と数人の判事が拒否権の行使に関与することで、拒否権は行政府の長の手から
取り上げられ、判事は行政府の長を犠牲にするようになるとして反対した。さ
らにラトレッジは法が成立する前に判事は法に対する解釈を行うべきではない
として反対した。司法府の代表を拒否権に関与させるという提案は、4 票対 3
票で否決された。次に憲法制定会議は、行政府の長が司法府の構成員を指名し、
もし上院の 3 分の 2 の反対がなければその指名は確定されるというマディソン
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
129
の提案を取り上げた。しかし、数人の代表が任命権を連邦議会から取り上げる
ことに反対した。結局、マディソンの提案は 6 票対 3 票で否決された84。
8 月 6 日の報告で細目委員会は、拒否権に関する全体委員会の決定に忠実に沿
いながら 2 つの未解決の問題を解決した。1 つ目の問題は、大統領のみに拒否権
を与えたことである。2 つ目の問題は、大統領が法案に対応するまで、法案が可
決されてから 7 日間の期間を与えることである。その期間中に大統領によって
署名もされず拒否もされなかった法案は法となる。しかしながら大統領が拒否
権を行使する機会を持つ前に休会することで議会が思い通りにすることを防ぐ
ために、重要な例外が設けられた。もし議会が 7 日以内に休会した場合、大統
領は法案を拒否するために単に無視すればよいことになった。そのような拒否
権は後に「握りつぶし拒否権」と呼ばれるようになる。
8 月 15 日と 16 日、憲法制定会議は、細目委員会の報告に関して大統領の拒
否権を強化する修正を加えるように決議した。再可決に必要な票数が 3 分の 2
から 4 分の 3 に引き上げられた。さらに議会が法案を別の名前で呼んで拒否権
の行使を免れようとさせないために、拒否権の対象が「すべての命令、決議、
そして票決」に拡大された。最終的に、大統領が拒否権を行使できる期間は 7
日間から日曜日を含まない 10 日間に延長された。
拒否権に関する最後の修正は 9 月 12 日に加えられた。9 月 12 日、文体委員
会は最終案を提出した。ウィリアムソンは大統領の拒否権を覆すのに必要な票
数を 4 分の 3 にするという条項を再考するように代表達に求めた。ウィリアム
ソンは 4 分の 3 の条項を提案した 1 人であったが、そのような規定では大統領
に多くの権限を与えることになるとして反対したのである。いかなる形式の拒
否権も認めようとしなかったシャーマンはウィリアムソンの提案を支持した。
グヴァヌア・モリス、ハミルトン、そしてマディソンは 4 分の 3 の条項を擁
護しようとした。モリスは、共和政体を危機にさらす法の不安定さを防止する
ために 4 分の 3 の条項が必要であると訴えた。モリスの考えでは、法が不足す
るよりも法が過剰に制定されるほうが社会にとって有害であった。さらにマデ
ィソンは、立法府の不正と権力侵害を抑制するために拒否権がいかに重要かを
代表達に納得させようとした。モリスもマディソンも代表達を説得することは
できなかった。ゲリーは、3 分の 2 の票数で十分な保障となり、4 分の 3 の票数
は少数者に過大な権力を与えることになると主張した。最終的に、大統領の権
限に関して疑念を抱く代表達に憲法案に速やかに署名させるために、憲法制定
130
アメリカ大統領制度史上巻
会議は再可決に必要な票数を 4 分の 3 から 3 分の 2 に戻した85。しかし、3 分
の 2 の票数は、総議員数の 3 分の 2 であるか、それとも出席議員の 3 分の 2 で
あるか憲法は明確に規定していない。後に 1919 年の最高裁の判決により、出席
議員の 3 分の 2 であることが確定した。
第 12 節 行政権
ヴァージニア案では行政府の長について「国家行政首長が設けられる」と規
定されている。全体委員会はこの規定に「1 人の人物によって構成される」とい
う文言を付け加えた。さらに細目委員会は、
「合衆国の行政権は 1 人の人物に与
えられる。彼の称号は『合衆国大統領』とされ『閣下』とされる」と規定した。
行政権の帰属を明言する文言はピンクニー案を参考にしていることは明らかで
ある。細目委員会の行政府の長に授与する権限を明らかにした条項は重要であ
る。なぜなら大統領の権限が議会の恣意的な授与によるものではなく憲法に由
来するものであることを明確に規定したからである。
「行政権」という言葉は一般的な用語で曖昧な言葉であった。それは列挙さ
れた権限以上の内容を持ち、特定されない権限を付与し得るものであった86。
そうした権限の中で第 1 に考えられるものは非常時大権である。大権について
はロックが『市民政府二論』で詳細に論じていたので、代表達にとって馴染み
のある概念であった。大権とは、人民がその支配者に公共の善のために場合に
よっては法に反しても自由な選択で物事を行うことを許すことである87。
大統領の権限が憲法で列挙されている権限の枠内を超え得るという理論は、
グヴァヌア・モリスのお蔭で憲法自体の条文によって支持されている。モリス
は文体委員会で主な起草者としての役割を果たした。委員会の責務は単に憲法
案の文体を印刷するのに適した形式に変えることであった。強い行政府の長を
推進する考えを持っていたモリスであったが、実質的にできることはほとんど
何もなかった。モリスのそうした傾向はよく知られていて、大統領を強化する
ために何らかの大きな変更を加えればすぐに知られる可能性があった。モリス
は大統領に行政権を授与する条項を「行政権は、アメリカ合衆国大統領に属す
る」と特に変更を加えなかった一方で、議会に立法権を与える条項を「この憲
法によって与えられる一切の立法権は、合衆国議会に属する」と変更した。
「この憲法によって与えられる」という文言が立法府の権限に加えられてい
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
131
る一方で、行政府の権限に加えられていないという事実は、行政府の権限が「こ
の憲法によって与えられる」範囲を超えることを認めるものだと考えられた。
さもなければ、なぜ立法府の権限に「この憲法によって与えられる」という文
言が加えられているのに、行政府の権限には同様の文言が加えられていないの
か説明できないからである88。
第 13 節 統帥権
ヴァージニア案では行政府と立法府に一般的権限を与えることが明記されて
いるだけで軍隊を誰が指揮するのか規定されていない。それはヴァージニア邦
の代表達の間で意見の統一がなされず、誰に軍事権限を与えるか未だに不明確
であったためである。18 世紀の多くの政治哲学者は、戦争と講和の権限は行政
府に属すると考えていた。しかし、憲法制定会議の初期の段階では、連合規約
の下で連合会議が軍隊を制御したように連邦議会が軍隊を制御するのが当然だ
と多くの代表達は考えていた。6 月 1 日、憲法制定会議がヴァージニア案の行政
府の長について取り上げた時に、チャールズ・ピンクニーは行政府の長の権限
を戦争と講和にまで拡大するべきではないと主張した。それは行政府の長を君
主に変えてしまう恐れがあるとピンクニーは訴えた。強力な行政府の長を主張
するウィルソンさえピンクニーの見解を支持した。ウィルソンは、イギリス国
王が持っていたような権限は行政府の権限を決定するのに適切な参考とはなら
ないと述べた。そして、戦争と講和のような権限は本質的に立法府の権限であ
ると述べた。さらにウィルソンは、法の執行と官吏の任命が厳密に行政府の長
の権限であると付け加えた。
全体委員会ではこの問題は取り上げられなかった。細目委員会が大統領の列
挙された権限の中に初めて軍事的役割を示す条項を盛り込んだ。細目委員会は
大統領が「合衆国陸海軍、及び諸邦の民兵の最高指揮官」であることを規定し
た。しかし一方で連邦議会には「戦争を行う権限、軍隊を徴募する権限、艦船
を建造し擬装する権限、連邦法を執行し、条約を守り、反乱を鎮圧し、侵略に
対抗するために民兵を召集する権限」が与えられた。8 月 17 日にこれらの条項
が検討された時、代表達は混乱した。
「戦争を行う権限」には明らかに実際の戦
闘行為を指揮する権限が含まれていると考えられる一方で、大統領には最高司
令官の職務が与えられていたからである。いったい立法府と行政府のどちらに
132
アメリカ大統領制度史上巻
実際に兵士達を指揮する権限があるのかが問題となった。
細目委員会によって提示された曖昧な規定を明確にするために、憲法制定会
議では議論が行われた。ピンクニーは下院に戦争を行う権限を与えることに反
対した。なぜなら下院は人数が多過ぎて決定を下すには緩慢過ぎると考えられ
たからである。条約を締結する権限を与えられた上院のみに戦争を行う権限を
与えるべきだとピンクニーは主張した。しかし、ピンクニーの案を支持する者
はいなかった。バトラーは議会が軍事的な問題に対して迅速に対応できるか疑
念を示し、大統領に戦争を行うのに必要なすべての資格を与えるように求めた。
バトラーの提案を支持する者も誰もいなかった。マディソンとゲリーは、大統
領に広範な軍事的権限を与えることに躊躇しながらも、議会は外国の侵略に対
して迅速に対応できないと指摘した。そのため.議会の「戦争を行う権限」を「宣
戦布告する権限」に換え、大統領が突然の攻撃に対して迅速に対応できる余地
を残した。シャーマンは、行政府の長が侵略に迅速に対応できるようにすべき
だが戦争を開始できるようにするべきではないとしてマディソンとゲリーの意
見に賛同した89。また行政府の長に戦争権限を与えるべきではないと主張して
いたメイソンも「戦争を行う権限」を「宣戦布告する権限」に換える案を支持
した。マディソンとゲリーの動議は採択された。
マディソンとゲリーの動議が採択された後、バトラーは立法府に戦争権限を
与えたのと同じく、講和の権限、つまり条約を締結する権限も立法府に与える
べきだと提案した90。明らかに代表達は、国家を交戦状態に置く権限を議会に
与える一方で、大統領に侵略を撃退する権限と議会による授権の後で戦争を行
う権限を与えることを規定していた。しかし、憲法の僅かな条項と代表達の性
急な議論によって多くの重要な問題が解決されずに残された。大統領は国家が
攻撃を受けるまで待たなければならないのか。侵略の危機が差し迫っている場
合、大統領は先制攻撃ができないのか。急激な攻撃に対して国を守る権限は、
海外のアメリカ市民と利益を守るために行使できるのか91。
「戦争を行う権限」と「宣戦布告する権限」に関して代表達は議論したが、
大統領を最高司令官とする条項についてはほとんど議論しなかった。2 邦を除い
てすべての邦で邦知事が邦の軍隊の最高司令官とされていた。そのため強力な
行政府の長に反感を抱く代表でさえ、大統領を最高司令官にする条項に特に何
の疑問も抱かなかった。最高司令官の権限は、戦争、侵略、反乱の際に軍隊に
指示を与えることであるという共通見解が代表達の間にあった。またそうした
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
133
権限は、戦争を開始し、戦争を終わらせる権限と同一ではないという共通見解
もあった。最高司令官は軍隊を徴募し維持する権限を持たない。軍隊を徴募し
維持する権限は議会にある。そうした点で大統領の最高司令官としての権限は、
邦知事の権限よりも制限されていると言える。邦知事は自らの権限で民兵を召
集することができるのに対して、大統領は議会が召集した軍隊を指揮するだけ
である。明らかに代表達は大統領を最高司令官とすることで、戦争を開始し、
戦争を終わらせる権限を与えようとはしていなかった。その一方で、軍隊を指
揮する権限を、多人数によって構成され、常に開かれているわけではない議会
に与えるよりも大統領に与えるほうがよいという利点はまったく議論の余地の
ないことであった。
8 月 27 日、憲法制定会議は諸邦の民兵の制御に関して、大統領は現に召集さ
れて合衆国の軍務に服することが確定したうえで民兵の最高司令官として務め
るというシャーマンの動議を議論の余地もなく受け入れた。したがって最終的
に憲法では、第 2 条第 2 節 1 項において「大統領は合衆国の陸海軍及び現に召
集されて合衆国の軍務に服する各州の民兵の最高司令官である」と規定されて
いる。
第 14 節 閣僚
憲法は第 2 条第 2 節 1 項において「大統領は行政各部省の長官から、それぞ
れの部省の職務に関する事項につき、文書によって意見を徴することができる」
と規定している。代表達は「行政部各部省の長官」という言葉を閣僚を構成す
る各省庁の長官という意味で規定したわけではない92。事実、憲法の中には「閣
僚」に対する明確な言及はない。こうした規定は延滞事項委員会によって提案
され、9 月 7 日に全会一致で採択された。しかし、こうした案の原型はヴァージ
ニア案が提案した審査院に見られる。
多くの代表達は何らかの形式の審査院を設けようとしたが、結局、審査院は
設けられなかった。なぜなら誰を審査院に加えるか、または審査院を単なる諮
問機関にするか、それとも行政権を分有させるのかなどについて様々な意見が
あり 1 つにまとまらなかったからである。
閣僚に関する代表的な案としてグヴァヌア・モリスとチャールズ・ピンクニ
ーの案が挙げられる。8 月 20 日、モリスとピンクニーは、行政府に 5 つの省庁
134
アメリカ大統領制度史上巻
を設ける案を提案した。5 つの省庁の長は、司法長官、内務長官、財務長官、外
務長官、国防長官で構成され、それぞれ大統領に責任を負う。モリスの提案を
もとに、細目委員会は「合衆国大統領は、上院議長、下院議長、最高裁、及び
外務、内務、陸軍、海軍、及び財務の各省庁が随時設置されるにしたがい、こ
れらの各省庁の長官より構成され、かつ彼が自己の職務執行に関し、適宜付議
する事項に彼を助言する義務がある枢密院を有する。しかし、彼らの助言は彼
を拘束し、もしくは彼の採る処置に対する彼の責任に影響しない」とまとめた。
細目委員会の案は議論されなかったが、大統領が省庁の長官から助言を受ける
という発想は、9 月 4 日の延滞事項委員会の報告の基礎となった。9 月 7 日、メ
イソン、フランクリン、ウィルソン、ディキンソン、そしてマディソンは審査
院を設けるべきだと再び主張したが、様々な論点をめぐってこれ以上の事態の
紛糾を望まなかった代表達は、延滞事項委員会の報告をそのまま受け入れた。
第 15 節 恩赦権
植民地時代、恩赦を与える権限は総督の権限であった。ただし反逆罪や殺人
罪に関しては、植民地総督は、国王の裁定があるまで刑の執行猶予を行うこと
しかできなかった。他のどの邦よりも大きな権限を与えられたニュー・ヨーク
邦知事も、反逆罪や殺人罪に関しては次の議会が開かれるまで刑の執行猶予を
行うことしかできなかった93。またヴァージニア邦やジョージア邦では邦知事
に恩赦権は与えられていなかった。大統領に恩赦の権限を与えるべきだと最初
に提案したのはハミルトンである。6 月 18 日の演説の中でハミルトンは、行政
府の長に反逆罪を除くすべての違法行為に対して恩赦を認める権限を与えるべ
きだと主張した94。細目委員会は、大統領が「執行猶予と恩赦を認める権限を
有し、その恩赦は弾劾を防止するために申し立てられることはない」と勧告し
た。
本来、恩赦は国王が持つ権限であった。イギリスではすべての犯罪は国王に
対する違法行為だと見なされていた。したがって違法行為を許す権限は国王の
特権であった。合衆国ではすべての犯罪は行政府の長ではなく法に対する違反
行為だと見なされる。そのためどの邦憲法も邦知事に単独の恩赦権を認めてい
ない95。
8 月 25 日、シャーマンは大統領の恩赦に上院の同意を必要とするように修正
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
135
する動議を提案した。シャーマンの動議は否決された。8 月 27 日、マーティン
が、恩赦を有罪判決が出た後にのみ認める動議を提出した。それに対してウィ
ルソンは共犯者の証言を得るために有罪判決が下る前に恩赦を認めるべきだと
主張した。マーティンは動議を撤回した。9 月 12 日、文体委員会は恩赦を「合
衆国に対する犯罪」に限った。すなわち、恩赦の対象から諸邦の法を除外し、
連邦法に対する違法行為に限ったのである。9 月 15 日、ランドルフは、反逆罪
に大統領自身が加担する可能性があるので反逆罪に対する恩赦を認めないとい
う動機を提出した。ウィルソンはもし大統領自身が反逆罪に加担していたとし
ても、大統領は弾劾され罷免され得るとして反対を唱えた96。ランドルフの動
議は否決された。その結果、最終的に憲法は第 2 条第 2 節 1 項で大統領は「合
衆国に対する犯罪につき、弾劾の場合を除く他、刑の執行延期及び恩赦を行う
権限を有する」と規定された。大統領の恩赦権は抑制されていない権限である。
第 16 節 外交権限
憲法制定会議が始まった当初、大部分の代表達は外国と条約を締結する権限
は議会に与えられるべきだと考えていた。連合規約の下では連合会議に条約を
締結する権限が与えられるのが慣習であったし、ヴァージニア案でも条約を締
結する権利については明示されていないが、
「連邦によって連合会議に与えられ
た立法権を享受する」と規定されている。
条約を締結する権限を行政府と立法府が分有する案を初めて示したのはハミ
ルトンである。6 月 18 日の演説でハミルトンは、行政府の長が上院の助言と承
認とともにすべての条約を締結する権限を持つことを示唆した97。ハミルトン
の示唆は憲法制定会議で論議の的にならず、細目委員会は上院が条約を締結す
る権限を持つことを提案した。下院が条約を締結する権限を与えられなかった
のは、交渉における秘密を保持するのに構成員が多い下院は適していないと代
表達が判断したためである。
細目委員会の提案は激しい議論を巻き起こした。メイソンは条約を締結する
排他的な権限を上院に持たせれば、上院は条約という手段で国家全体を売るこ
とができると主張した98。マディソンは、邦のみを代表する上院よりも全国民
を代表する行政府の長が条約の締結権を持つべきだ考えていた。条約締結権は
地域的な利害にも関係していた。南部の代表者達は、将来、何らかの条約によ
136
アメリカ大統領制度史上巻
って、ミシシッピ川の自由航行権が奪われるのではないかと恐れていた。同様
にニュー・イングランドの代表者達も、ニューファンドランド沖の漁業権が侵
害されるのではないかと恐れていた。結局、条約締結権については延滞事項委
員会に付託された。
9 月 4 日、延滞事項委員会は、上院の助言と同意を得て条約を締結する権限を
大統領に与え、かつ批准に上院の出席議員の 3 分の 2 の同意を必要とするとい
う案を提案した。上院のみに条約締結権を認めていた細目委員会の提案からす
れば延滞事項委員会の案は格段に大統領により大きな外交権限を与える提案で
あった。南部の代表者達やニュー・イングランドの代表者達の不安を和らげる
ために設けられた 3 分の 2 の同意を必要とするという条項は激しい議論の的と
なり、数多くの修正動議が提出された。3 分の 2 という文言を削除して単純過半
数に改める動議が提出された一方で、上院の出席議員の 3 分の 2 という文言を
上院の総議員数の 3 分の 2 に改める動議が提出された。また下院を条約締結の
過程に含めるという動議もウィルソンによって提出された。ウィルソンの動議
に対してシャーマンは、条約を締結する場合の秘密の保持を下院に期待するこ
とはできないとして反対を唱えた。ウィルソンの動議は否決された。
さらに戦争を終わらせる目的とした条約の締結に対して単純過半数の同意を
適用するという動議もマディソンによって提出された。マディソンの動議は全
会一致で採択された。さらにマディソンは、大統領の同意なく上院が 3 分の 2
の賛成だけで講和条約を締結できるようにするという案を提案した。マディソ
ンは戦争状態から非常時大権を得る大統領が講和条約の締結を妨害する危険性
を考えたのである。バトラーは、腐敗した大統領に対する予防策になるとして
マディソンの提案を支持した。ゴーラムは、戦争遂行の手段は大統領の手中で
はなく、議会の手中にあり戦争遂行のための予算を打ち切るだけで戦争を終わ
らせることができるとしてそうした予防策は不要だと主張した99。またグヴァ
ヌア・モリスは、いかなる平和条約も人民の利益の保護者である行政府の長の
同意なくして締結されるべきではないと反対を唱えた。マディソンの提案は否
決された。ゲリーは、講和条約は漁業権や領土などの重要な問題を決定するの
で、むしろ締結に多くの票数を必要とすると主張した。キングは平和条約を例
外とする規定を削除するように求めた。キングの要望は採択された。その結果、
延滞事項委員会が提案した通りに条約締結権は認められた。大統領に上院とと
もに条約締結権を認める提案は比較的に激しい議論の的にはならなかった。そ
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
137
れは、コネティカット妥協が認められた後に、行政府の長に強い権限を与えよ
うとする代表達と小邦の代表達の間で同盟が形成されたことを反映している。
条約締結権に関する規定は外交を上院と大統領のどちらが主導するべきかとい
う争いの原因となった。
大統領が全権大使その他の使節を接受する権限は細目委員会によって規定さ
れた。また細目委員会は大統領が外交使節を接受する権限に加えて、それを邦
知事に連絡することを認めている。8 月 25 日、憲法制定会議は邦知事に連絡す
る必要性を認めなかった。外交使節の接受に関してほとんど議論がなされなか
ったために、それが実質的なものか、それとも儀礼的なものに過ぎないのかと
いう点について不明確であった。実際には、外交使節を接受する権限、場合に
よっては接受を拒否する権限は、大統領を外国からの通信の単独の受納者とす
るとともに、どの政府を外交的に認めるのかの単独の決定者とした。
第 17 節 任命権
憲法は第 2 条第 2 節 2 項で「大統領はまた、全権大使その他の外交使節なら
びに領事、最高裁判所の判事、およびこの憲法に任命に関する特別の規定ある
もの以外の、法律をもって設置される他のすべての合衆国官吏を指名し、上院
の助言と同意を得て、これを任命する。ただし、連邦議会は、その適当と認め
る下級官吏の任命の権を、法律をもって、大統領のみに、あるいは司法裁判所
に、もしくは各省の長官に与えることができる」と規定している。さらに同 3
項で「大統領は、上院の閉会中に官吏の欠員が生じた場合には、その欠員を補
充することができる。ただし、その任命は次の会期の終わりに効力を失う」と
規定している。連合規約の下では官職の任命権はすべて連合会議に与えられて
いた。またヴァージニア案でもそうした慣習を踏襲し、議会による任命を提議
していた。
官職任命権は憲法制定会議において激しい議論を巻き起こした問題の 1 つで
あった。なぜなら任命権を有する機関が他のいかなる機関よりも強い権限を握
るようになると代表達は確信していたからである。ほとんどの代表達は官職を
設ける権限を行政府ではなく立法府に与えるべきだと考えていた100。
6 月 1 日、
マディソンは、規定されている以外のすべての官職を任命する権限を行政府の
長に与えるようにヴァージニア案を修正する案を提案した101。この決定は、立
138
アメリカ大統領制度史上巻
法府の介入なく行政府の長が判事、公使、そしてその他の官職を任命するべき
だという強い行政府の長を推進するウィルソンやハミルトンの意見を助長した。
司法府の任命権について代表達は 2 つの立場に分かれた。上院に任命権を与
えるべきだという立場と大統領に任命権を与えるべきだという立場である。上
院はすべての邦から選出される議員から構成されているので大統領よりも被任
命者について詳しい知識を持っていると上院による任命を支持する者は主張す
る。さらに大統領は多くの人数から構成される議会よりも陰謀や縁故主義に影
響され易い。司法府の任命権は従来、国王に属していた権限なので、人民は国
王と同じく大統領に対しても警戒の目を向けるようになるだろう。それに対し
て大統領が司法府の任命権を握るべきだと主張する者は、大統領のみが判事を
広範で全国的な視野で選ぶことができると反論した。ウィルソンは議会のよう
な多人数の組織による任命は経験上、不適当であり、陰謀や偏向が伴うと主張
した。6 月 13 日、代表達は、上院に連邦判事を任命する権限を与えるというマ
ディソンの動議を採択した。マディソンは多数で構成される議会は必ずしも裁
判官の任命に適当な判断者ではないとしながらも、上院は人数が少なく限られ
た人々の組織であるので裁判官の任命に適当であると主張した。
7 月から 8 月にかけて、立法府と行政府のどちらが官職の任命において不公平
なのか、または任命される官職についてその資格をよく知っているのかについ
て白熱した議論が繰り返された。多くの代表達は、ジョージ 3 世と植民地総督
達が官職任命権を利用して議員の支持をうまく得ようとしたのを覚えていて、
行政府の長に官職任命権を与えることをこころよく思わなかった。ウィルソン
は大統領のみに司法府の任命権を与えるように訴えた。しかし、ウィルソンの
提案は拒絶された。上院でも人数が多過ぎて適切な判断が下せないので、マサ
チューセッツ邦に倣って上院の助言と同意を以って行政府の長が連邦判事を指
名するという折衷案がゴーラムによって提出された。マディソンは、行政府の
長による指名と、一定期間内にその指名が上院の 3 分の 2 によって否決されな
い限り確定するという案を提案した。しかし、小さな邦は上院に任命権を与え
るという従来の姿勢を変えなかった。またエルズワース、ゲリー、そしてメイ
ソンは、行政府の長による任命に対して司法府の独立を侵害するものだとして
反対を唱えた。憲法制定会議は、最終的にすべての動議を否決して、全体委員
会の報告通り、上院に司法府の任命権を与えることに決定した。
7 月 21 日、代表達は司法府の任命権を上院のみに与えることを再確認した。
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
139
細目委員会は、上院の権限の中に公使の任命権を加え、さらに財務長官を議会
が選出することを加えた。また細目委員会は、憲法によって規定されている以
外のすべての官職を任命する権限を大統領に与えることを再確認し、合衆国の
すべての官職を任命する権限を与えた。しかしながら、省庁の長や省庁のその
他の官職を指名する責任がどこにあるのか未だに不明確であった。
8 月の終わりにかけて、大統領に司法府の任命権を与えるべきだと信じるグヴ
ァヌア・モリスとウィルソンは、上院が新しい判事を任命するために元の判事
を弾劾しようとする危険性を示唆した。8 月 17 日、代表達は大統領に財務長官
の任命権を与える動議に反対を唱えた。代表達は財政に関する権限を議会の手
に残しておこうと考えたのである。8 月 24 日、代表達は、大統領の官職を任命
する権限を拡大させる一方で、判事と公使の任命を上院の管轄から外す動議を
通過させた。ディキンソンの動議は、既に規定されている官職を除いて憲法に
よって設けられるすべての官職と今後、設けられるすべての官職に対する任命
権を大統領に与えると宣言している102。最終的に問題は延滞事項委員会に付託
された。
条約締結権と同様に、延滞事項委員会は、9 月初め、官職任命過程において大
統領の役割をより重くする案を提案した。判事や公使、その他の官職はゴーラ
ムの折衷案に基づいて上院の助言と同意を伴って大統領によって任命されるこ
とになった。大統領の任命が認められるには出席議員の単純過半数を要する。
再びウィルソンは大統領単独に官職任命権を与えるように代表達を説得しよう
とした。ウィルソンの考えでは、官職の任命に上院を介入させることは貴族制
に至る危険な傾向であった。しかし、ウィルソンの動議は受け入れられなかっ
た103。
3 つの点を加えた後で憲法制定会議は延滞事項委員会の報告を採択した。9 月
6 日、上院の閉会中に生じた欠員を補充する権限が大統領に与えられた。9 月 14
日、財務長官を任命する権限が議会から大統領に移された。9 月 15 日、議会は、
下級官吏の任命権を大統領、裁判所、もしくは各省の長官に与えることができ
ると規定された。大統領と上院が任命権を分有する仕組みは、大統領単独に任
命権を与えるべきだという意見と上院に任命権を与えるべきだという意見の妥
協である。
第 18 節 教書権
140
アメリカ大統領制度史上巻
大統領の権限を列挙する中で、細目委員会は、
「大統領は、随時連邦の状況に
つき情報を議会に与え、自ら必要にして良策なりと考える施策について議会に
対し審議を勧告してもよい」と規定している。細目委員会は明らかにピンクニ
ー案を参考にしてこの規定を盛り込んでいる。同様の規定はニュー・ヨーク邦
憲法にも見られる。ニュー・ヨーク邦憲法は「すべての会期において邦の状況
を立法府に伝えること、良い政府、福祉、そして幸福に関すると思われるよう
な問題を考慮するように勧告することは知事の義務である」と定めている。
拒否権をめぐって激しい議論をした代表達も教書権についてはほとんど何も
議論していない。それは、拒否権が立法府を犠牲にして行政府を強化する試み
だと考えられた一方で、教書権に関する規定は大統領にそれ程重要な権限を与
えるとは考えられなかったからである。大統領が立法府に立法を勧告すること
は立法府を弱めることにはならないと考えられた。なぜなら立法府は大統領の
勧告を必ずしも受け入れる必要がないからである。また議会に情報を伝える義
務を大統領に負わせることで、議会はより良く立法を行うことができると考え
られた104。
教書権に関する文言は 8 月 24 日のグヴァヌア・モリスによる動議によって修
正された。モリスは、施策について議会に対し勧告するのを大統領の義務にす
べきだと訴えた。憲法制定会議はモリスの動議を受け入れて、
「してもよい」と
いう文言を「そして」に入れ換えた。したがって最終案は、
「大統領は、随時連
邦の状況につき情報を議会に与え、そして、自ら必要にして良策なりと考える
施策について議会に対し審議を勧告する」となった。強力な行政府を最も警戒
している代表達でさえもこの規定にほとんど反対しなかったことは、大統領が
立法府の指導者になることをまったく予見していなかったことを示している。
第 19 節 議会の招集
細目委員会は、非常の場合に両議院を招集する権限、つまり特別会期を設け
る権限を大統領に認めている。さらに閉会の時期に関して両院の間に見解の一
致を欠く場合は、大統領が適当と考える時期まで両院を休会させることができ
ると規定している。ジェームズ・マクヘンリー(James McHenry)は条約や大統
領の官職任命を考慮するために上院だけを開会する選択肢を大統領に与える修
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
141
正を提案した。マクヘンリーの提案が受け入れられ、最終案は、
「大統領は非常
の場合には、両議院あるいはその一院を招集することができる」と規定された。
第 20 節 法の執行への配慮
ヴァージニア案によれば、行政府の長は「国法を施行する一般的権能」を持
つと規定されている。6 月 1 日、マディソンはその文言を「国法を実行に移す権
限と随時国民議会に委託された権限、もしくは本質的に立法府の権限でも司法
府の権限でもないその他の権限を執行する権限」を持つように改めるように提
案した。立法府と司法府に関する規定は、チャールズ・コーツワース・ピンク
ニーの不適切な権限を行政府に与えるべきではないという示唆に基づいている。
ピンクニーは代表達にマディソンの修正を不必要だとして削除するように説得
した105。議論は他には起こらなかった。細目委員会は、大統領は「合衆国の法
律が滞りなく忠実に執行されることを配慮する」と規定した。細目委員会の提
案は議論の余地なく採択され、最終的に大統領は「法律の忠実に執行されるこ
とを配慮する」と規定された。強大な大統領制度を警戒する代表達がこの規定
に関してほとんど何も異議を申し立てなかったのは不思議なことである。
そうした文言の由来はどこにあるのか。ジェイが起草した 1777 年のニュー・
ヨーク邦憲法の中では、
「能力の最善を尽くして法の忠実に執行されることを配
慮する」ことが邦知事の義務であると規定されている。少なくともヴァーモン
ト邦が似たような条項を定めていた。他の邦はそのような条項はなかった。
第 21 節 大統領の呼称
憲法制定会議の最初の 2 ヶ月間、代表達は行政府の長を「国家行政官(national
executive)」
、
「最高行政官(supreme executive)」
、もしくは「長官(governor)」
と呼んでいた。8 月 6 日、細目委員会はその報告の中で初めて「大統領
(president)」という用語を使用した。プレジデントという称号は連合会議の議
長にも使用されていたし、その他にも 4 邦でも使われていた。代表達が君主的、
もしくは専制的な官職を作るのではないかと恐れている人達にとってプレジデ
ントという称号は馴染み深く安心できる称号であった。細目委員会で「大統領」
という用語が提案されると、憲法制定会議は議論の余地なくその提案を受け入
142
アメリカ大統領制度史上巻
れた。
プレジデントという言葉の原義は、
「他の者に先立って座る者(one who sits
before others)」であり、独立革命以前はジェームズタウンで「植民地の長官」
の意で使用されていたという。もともとはラテン語で praesident であり、
「支
配する者」という意味であったらしい。
プレジデントが日本で「大統領」と訳されるようになったのはいつか。江戸
時代の和英辞書である『諳厄利亜語林大成』は既にプレジデントを収録してい
る。しかし、あてられている訳語は、
「首魁(カシラ)」である。
「大統領」という
訳語はまったく見当たらない。また 1857 年に上海で発行された新聞を翻刻し
た『官板六合叢談』によると、合衆国大統領は「合衆國首領」と記載されてい
る。また福沢諭吉が和訳した『華英通語』では、プレジデントの訳語として「監
督」があてられている。
『英和對譯袖珍辞書』では「評議役ノ執頭、大統領」と
いう訳語が記載されている。つまり、少なくとも幕末には「大統領」という訳
語が既に考案されていたことは確かである。
「大統領」という訳語の初出は判明している限りにおいては 1853 年のフィ
ルモア大統領の親書である。現時点では、これより先に「大統領」という訳例
は見当たらない。この親書は、オランダ語と漢文を介して英語から邦文に訳さ
れた。その際に蘭文和解では「伯理璽天德」と音訳され、そして漢文では「大
統領」となっている。
『ペルリ提督日本遠征記』によると、ペリーが幕府に英語
正文と蘭訳、漢訳を手交し、オランダ語通訳のアントン・ポートマン(Anton
Portman)が堀達之助に対してその文書の性質を説明したとある106。またペリ
ーは望廈条約を参考にして中国語に堪能なサミュエル・ウィリアムズ(Samuel
Wells Williams)に手伝わせて条約の草稿を書いている107。
「大統領」という訳
語の発案者はウィリアムズである可能性が高い。
第 22 節 大統領の宣誓
憲法第 2 条第 1 節 8 項は、
「大統領はその職務の遂行を開始する前に、次のよ
うな宣誓もしくは確約をしなければならない。
『私は合衆国大統領の職務を忠実
に遂行し、全力を尽くして合衆国憲法を維持、保護、擁護することを厳粛に誓
う(もしくは確約する)』
」と規定している。憲法第 6 条 3 項で「上院ならびに下
院議員、各州議会の議員、および合衆国ならびに各州のすべての行政官ならび
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
143
に司法官は、宣誓あるいは確約により、この憲法を支持すべき義務を負う」と
規定されているものの、宣誓の文言が明確に規定されているのは大統領のみで
ある。大統領の宣誓が法の執行ではなく職務の遂行に関して明確に規定されて
いるのは、憲法で大統領に大権を暗示的に授与していると考えられると主張す
る者もいる。
大統領の宣誓の文言については憲法制定会議で実質的に何も議論されなかっ
た。宣誓の前半は 8 月 6 日に細目委員会が提案した。8 月 27 日、メイソンとマ
ディソンは、宣誓に「最善の判断と権限で合衆国憲法を維持、保護、擁護する」
という文言を付け加えるように提案した。ウィルソンは特別な大統領の宣誓は
不要であると反対したが、メイソンとマディソンの提案が通った108。9 月 15
日、代表達は「最善の判断と権限で」という文言を「全力を尽くして」に換え
たが、この変更を説明する議論に関して何も記録は残されていない。
その当時、諸邦で広まっていた慣習に反して、憲法制定会議は宗教的宣誓を
大統領やその他の連邦職員に課すことを禁じた。多くの邦憲法が知事に就任す
る条件としてキリスト教、場合によってはプロテスタントを忠実に支持するこ
とを盛り込んでいた。例えばノース・カロライナ邦憲法は、邦知事が神の存在、
プロテスタント主義の真実を確認し、邦の平和と安全に反するような宗教的信
念を持たないように規定している。8 月 30 日、チャールズ・ピンクニーは、合
衆国のいかなる公職または信任による職務についても、その資格として宗教上
の審査を課せられることはないという動議を提出した。シャーマンは、広まっ
ている自由がそうした審査に対する十分な安全保障となるとしてピンクニーの
提案は不要であると反対した。しかし、ピンクニーの動議は憲法制定会議によ
って採択された109。
1853 年、ピアースは「私は合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、全力を尽く
して合衆国憲法を維持、保護、擁護することを厳粛に誓う」と言う代わりに「私
は合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、全力を尽くして合衆国憲法を維持、保
護、擁護することを厳粛に確約する」と述べた。また 1789 年 4 月 30 日に行わ
れた最初の就任式でワシントンは誓約の言葉の締め括りとして「神に誓って」
という言葉を付け加える慣習を始めた110。
第 23 節 大統領の被選挙資格
144
アメリカ大統領制度史上巻
大統領に選出されるための資格要件はなかなか定められなかった。そうした
遅れは、憲法制定会議が問題を無視したからではなく熟考したからである。大
多数の代表者達は、憲法で資格を認められた構成員からなる議会が大統領を選
ぶという考え方を持っていた。そのためわざわざ憲法で大統領に資格要件を定
める必要はないように思われた。しかし、8 月中旬までに代表者達は議会による
大統領の選出という考えを変えた。そのため憲法で資格要件を認められていな
い組織が大統領を選出する可能性が出てきた。新しい選出方法の導入により、
大統領に資格要件を付ける必要が出てきた。職務の権限が大きければ大きい程、
資格要件をより厳しくすべきだという考え方から資格要件は厳しいものになる
と思われた。
8 月 20 日、ゲリーは、大統領の資格要件を定めるために細目委員会を再開す
べきだという動議を提出した。2 日後、細目委員会は大統領の資格要件について
報告した。その報告によれば、大統領は少なくとも 35 歳で、合衆国市民であり、
少なくとも 14 年間合衆国に居住した者でなければならないと規定された。9 月
4 日、延滞事項委員会は、その報告を修正した案を示した。すなわち、少なくと
も 35 歳で、生まれによる市民か、もしくは憲法が採択された時に市民であり、
少なくとも 14 年間合衆国に居住した者を資格要件とする。9 月 7 日、憲法制定
会議は改正案を採択した。判事やその他の任命される官職の資格要件は含まれ
ていなかった。そうした官職は資格要件が示されている者によって選ばれるか
らである。
それぞれの資格要件には独自の理由がある。年齢の資格要件を設けるには 2
つの理由がある。1 つ目の理由はある程度の年齢にならなければ人間の成熟が現
れないからである。2 つ目の理由はある程度の年齢の人物であれば有権者がその
人物を評価する経歴を持てるからである。
居住と市民権を資格要件とするには、良い政府の原理に基づいているわけで
はなくその当時の政治状況が関係している。大統領に 14 年間の居住を求める資
格要件は、独立戦争中にイギリスに渡った親英派や独立戦争に参加するために
合衆国に移住した外国の士官を除外するためであった。細目委員会は 21 年間の
居住を資格要件として提案したが 14 年間に短縮された。居住の資格要件をあま
りに長くすることは、ハミルトン、バトラー、そしてマクヘンリーといった代
表達をも除外してしまうことを意味したからである。
生まれによる市民を大統領の資格要件として求めるのも当時の政治状況を反
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
145
映している。憲法制定会議の間、代表達が、イギリスの名誉革命のように合衆
国を支配させるためにヨーロッパの君主を呼ぶつもりだという噂が広まった。
ジョージ 3 世の次男の名前が度々そうした噂にのぼった。外国の支配者を呼ぶ
ということはまったく例がなかったわけでもなかったし、またその噂を聞いた
アメリカ人にとってまったく非常識というわけでもなかった。憲法で独立した
単独の行政府の長を設けることは、大統領制度が潜在的な君主制だと疑う反対
者達から非難を受けるだろうと代表者達は考えていた。そのため少なくとも大
統領を生まれによる市民に限ることによって外国の君主を呼ぼうとしていると
いう噂を完全に打ち消す必要があった。
またジェイはワシントンに宛てて「我々の連邦政府の政権に外国人が参入す
るのを強く抑制し、アメリカ軍の最高指揮権を生まれによる市民だけに与えず、
委譲しないと明確に宣言することは賢明ではなく、理性的でもないかどうか私
に示唆することを許して下さい」と述べている111。つまり、軍の最高司令官の
地位が外国人に渡ることが恐れられていたのである。
多くの邦が邦知事に資産に関する資格要件を設けている一方で、憲法には資
産に関する資格要件は含まれていない。しかし、大統領の資格要件に関する条
項が認められる 1 ヶ月以上前、代表達は邦知事の資格要件と同様の資格要件を
設けることに同意していた。7 月 26 日、憲法制定会議は、メイソン、チャール
ズ・ピンクニー、そしてチャールズ・コーツワース・ピンクニーの判事、議員、
行政府の長の資格要件に財産を含むべきだという動議を採択した。細目委員会
がその動議を事実上、無視したので、8 月 10 日、チャールズ・ピンクニーは再
度、動議を提出した。細目委員会の議長であるラトレッジは謝罪してピンクニ
ーの動議を支持した。ラトレッジは、財産に関する資格要件をあまりに高く設
定すれば多くの人々を不快にさせる一方で、あまりに低く設定すれば要件その
ものが無意味となるので委員の間で合意が成立しなかったと主張した。フラン
クリンは資産を資格要件に含めるという考え方に対して攻撃した。ピンクニー
の動議は否決された112。実際は具体的にどの程度の資産を資格要件として認め
るかは難しい問題であったので、それが憲法において資産が資格要件として含
まれていない主な理由であると考えられる。
選挙資格については各州に委ねられた。そのため憲法修正第 26 条が成立する
までほとんどの州が選挙資格年齢を 21 歳としていた。しかし、憲法修正第 26
条によって 18 歳以上の国民に一律に選挙資格が与えられるようになった。18
146
アメリカ大統領制度史上巻
歳という年齢の主な根拠は 18 歳に定められている徴兵年齢による。また憲法修
正第 15 条によって、人種によって投票権を制限することが禁じられ、憲法修正
第 19 条で婦人参政権も認められた113。
第 24 節 副大統領制度
代表達の間で副大統領職に相当する官職は植民地時代の副総督職であった。
副総督は、総督が死亡するか、不在の場合、総督の権限を代行した。しかし、
多くの植民地では副総督は常在する官職ではなかった。
独立後、コネティカット邦、マサチューセッツ邦、ニュー・ヨーク邦、ロー
ド・アイランド邦、そしてサウス・カロライナ邦の 5 邦が邦憲法で副知事につ
いて規定していた。副知事は知事と同様の方法で選出され、必要に応じて知事
として行動する責任を負った。またニュー・ヨーク邦の副知事は、邦上院の議
長を務め、票決が均衡した際に 1 票を投じる権限を持っていた。その他の邦は、
知事の死亡、不在、そして不能の際に異なった方法をとった。例えばヴァージ
ニア邦とジョージア邦では枢密院の長が知事の権限を継承する者として指定さ
れていた。デラウェア邦とノース・カロライナ邦では上院議長が継承者として
指定されていた。ニュー・ハンプシャー邦では上席上院議員が知事の権限を継
承することになっていた114。
副総督や副知事の存在が、副大統領職を設けるという憲法制定会議の決定に
どの程度の影響を与えたのか知ることは難しい。議論の中で副総督や副知事に
関する言及は記録されていない。また憲法制定会議の後半に至るまで副大統領
職を憲法案に盛り込む提案はなされなかった。副大統領職は大統領の選出方法
が決定された結果、生まれた官職である。
代表達は当初、議会が行政府の長を選出すべきだと考えていた。しかし、結
局、選挙人による選出方法が採択された。選挙人は各邦によって選出されるこ
とになったが、その結果、選挙人が自分の邦の候補のみに票を投じて、全国的
に選ばれた候補が出ない恐れがあった。延滞事項委員会は、その問題を、選挙
人にそれぞれ 2 票を与え、違う邦の候補に投票するように求めることで解決し
た。そして、次点になった候補が副大統領となることが決定された。延滞事項
委員会の一員であったウィリアムソンは、副大統領職が望まれて設けられたの
ではなく、選挙人にそれぞれ 2 票を与える選挙制度が決定された結果、導入さ
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
147
れたものであると述べている115。しかし、副大統領職の創設は憲法制定会議を
悩ませていた 2 つの問題を解決した。
1 つ目の問題は上院議長の役割である。議長は慣習上、票決が均衡した場合の
みに投票権を持つことになっていたが、その場合、議長を務める上院議員の出
身邦はほとんどの票決で 2 票のうち 1 票を失うことになる。反対に議長を務め
る上院議員にすべての票決で投票することを認めた場合、その上院議員の出身
邦にもとからの 2 票に加えて票決が均衡した場合の議長分の 1 票を与えること
になり、邦の投票権の平等という連邦上院の原則が崩れてしまう恐れがあった。
延滞事項委員会は、このジレンマを解決するために、副大統領を上院議長とし、
票決が均衡した場合のみ投票権を持つようにすることを提案した。大統領に対
する弾劾の審判は例外で、その場合は最高裁長官が上院議長を務めることにな
った。しかし、副大統領に対する弾劾の審判で副大統領自身が上院議長を務め
ることを禁じていない。
2 つ目の問題は、大統領職が予期しない出来事で空席になった場合の継承であ
る。ヴァージニア案もニュー・ジャージー案も大統領職の継承については何も
言及していない。6 月 18 日、ハミルトンはその長大な演説の中で、行政府の長
が死亡するか、辞職するか、弾劾され免職されるか、それとも国を空ける場合、
上院議長を務める上院議員が大統領の権限を代行する案を提示した。しかし、
ハミルトンの案はほとんど考慮もされず、議論もされなかった。8 月 6 日の報告
の中で細目委員会はハミルトンの案を大幅に受け入れ、
「大統領が前述のように
免職、死亡、辞職し、彼の職務上の権限と義務を遂行する能力を失った場合、
新しい合衆国大統領が選出されるか、もしくは大統領の不能力の状態が去るま
で、上院議長がその権限と義務を遂行する」と規定している。8 月 27 日にこの
規定に関して論議された際に多くの不満が出た。マディソンは上院議長が大統
領の継承者として認められれば、上院は積極的に大統領職を空席にさせようと
するので、審査院の構成員に大統領の権限を代行させるべきだと主張した116。
グヴァヌア・モリスは最高裁長官を継承者にすべきだと提案した。最終的にウ
ィリアムソンは、問題を先送りするように求めた。そのため憲法制定会議は延
滞事項委員会に判断を委ねることにした。
9 月 4 日、延滞事項委員会は、
「大統領が前述のように免職、死亡、辞職し、
彼の職務上の権限と義務を遂行する能力を失った場合、新しい合衆国大統領が
選出されるか、もしくは大統領の不能力の状態が去るまで、副大統領がその権
148
アメリカ大統領制度史上巻
限と義務を遂行する」と報告した。3 日後、ランドルフは副大統領がいない場合、
「連邦議会は法律により、大統領および副大統領について、免職、死亡、辞職
もしくは不能力の場合に、大統領の職務を行うべき官吏を定めることができる。
この官吏は、これにより、大統領が選任される時が至るまで、その職務を行う」
という規定を付け加えた。マディソンはランドルフの提案の最後の部分を、
「右
のような不能力の状態が去り、もしくは大統領が選任されるに至るまで」に換
えるように求める動議を提出した。マディソンの動議は可決され、提案通りに
修正された117。
マディソンがランドルフの提案を修正した理由は明らかである。マディソン
は、死亡した大統領に代わる大統領を選ぶための特別選挙を議会が実施するよ
うにさせたいと考えていた。多くの代表達は、大統領の継承者は特別選挙が行
われるまで大統領の一時的な代理として務めるだけだと考えていた118。しかし、
文体委員会が憲法の最終案を整える過程で代表達のそうした意図は無意識に抜
け落ちた。文体委員会は、延滞事項委員会の報告とランドルフの提案にマディ
ソンの修正を加えたものを 1 つの条項にまとめた。9 月 15 日、代表達は書き誤
りを発見し、
「新たな大統領が選ばれる時期が来る」という文言を「大統領が選
任される」に改めた。その結果、憲法第 2 条第 1 節 6 項は、
「大統領が免職、死
亡、辞職し、または上記の官職の権限および義務を遂行する能力を失った場合
は、同上は副大統領に移り属する。連邦議会は法律により、大統領および副大
統領について、免職、死亡、辞職もしくは不能力の場合を規定し、その場合に
大統領の職務を行うべき官吏を定めることができる。この官吏は、これにより、
右のような不能力の状態が去り、もしくは大統領が選任されるに至るまで、そ
の職務を行う」と規定している。
継承に関する代表達の意図は文体委員会によって不明確にされた。文法的に
は、
「同上」という言葉が、
「上記の官職」つまり、大統領職を指すのか、それ
とも「権限と義務」だけを指しているのか不明確である。それは継承の際に副
大統領が大統領に昇格するのか、それとも単に一時的に大統領職を代行するの
かという疑問を招いた。
「大統領が選任されるに至るまで」という文言も、前大
統領の任期の終わりまでを意味しているのか、特別選挙が実施されるまでを意
味しているのか不明確である119。
憲法制定会議において副大統領職に関して特に目立った議論は起こらなかっ
た。9 月 4 日、ゴーラムは、大統領選挙で次点の者が副大統領となるという規定
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
149
のみでは僅かな票数であまり知られていない人物が当選する恐れがあると主張
した。シャーマンは大統領候補として次点となるくらいであれば十分に有能な
人物が選ばれる可能性が高いとしてゴーラムの主張を斥けた。
9 月 7 日、副大統領が上院議長を務める案について議論された。ゲリーは副大
統領を上院議長とすることで行政府と立法府の独立が損なわれると主張した。
副大統領は大統領と親密であるから、副大統領を上院議長とすることは事実上、
大統領を上院議長にするのに等しい。シャーマンはこうした主張に対して、副
大統領が上院議長にならなければ果たすべき職務がないと論じた。さらにシャ
ーマンは上院議員の中から上院議長を選べば、各邦の投票権の平等の原則を損
なうことになると述べた。メイソンは、副大統領職は上院の権利を侵害するも
のだと主張して短い議論を締め括った120。実際、副大統領が立法府の一部なの
か、行政府の一部なのか、それとも両方の一部かは憲法上、不明確である。こ
うした反対にも拘わらず、憲法制定会議は圧倒的な票数で副大統領職を設ける
案を採択した。
憲法制定会議後、副大統領をめぐる議論はそれほど活発ではなかった。
『ザ・
フェデラリスト』では第 68 篇でのみ副大統領について言及されている。副大統
領職は、上院で票決が均衡した際に 1 票を投じる議長を務めるために必要であ
る。さらに大統領と同じ方法で選出された者が大統領の代役を務めるために副
大統領は必要である121。ハミルトンの論は、反フェデラリストのクリントンが
提起した懸念に応じたものである。クリントンは後にジェファソン、マディソ
ン両政権下で副大統領を務めることになるが、1787 年 11 月、
「カトー」という
名前で、副大統領職は不要で危険な官職であると論じた。クリントンによれば
副大統領を上院の議長にすることは、行政府と立法府の権限を混同することで
あり、そうした権限を常に 1 つの邦の出身者に与えることは不公平である122。
マーティンも、批准に反対して、ペンシルヴェニア邦やヴァージニア邦のよう
な大きな邦が、副大統領が上院の議長を務めることで利益を得ると指摘した。
つまり、単に選挙で次点の者が副大統領に選出されるのであれば 1 つの大きな
邦の票数だけで選出されることもあり得る。もしそうなれば実質的にその邦は
他の邦に比べて上院で不公正な影響力を持つことになる。メイソンも同様に上
院において副大統領が投票権を持つことは立法府と行政府の権限を混同させる
ことになると副大統領制度に反対を唱えた。リーは、副大統領に明確な資格要
件がないことに懸念を示した123。
150
アメリカ大統領制度史上巻
副大統領制度の擁護者は、副大統領が上院の議長を務めることを利点と見な
した。彼らの観点では、国全体で副大統領を選出することは、上院にとって良
いことであった。マディソンは、1 つの邦が選んだ上院議員を議長にするよりも
広く国全体の人民が選んだ者に議長を任せたほうが望ましいと述べた。ウィリ
アム・デイヴィー(William R. Davie)は、国民全体が選出した副大統領が、票決
が均衡した場合に 1 票を投じることは可能な限り公平だと主張した。エルズワ
ースとシャーマンは、副大統領は立法府と行政府の権限を混同して行使してい
るわけではなく、副大統領職自体が継承の場合を除いて立法府の一部であると
それぞれ論じた124。副大統領制度をめぐる論争は、主に副大統領職が立法府と
行政府の権限を混同しているという点に向けられ、大統領職の継承については
ほとんど向けられなかった。それが大統領職の継承について明確な規定がなさ
れなかった理由である。
憲法制定会議の大統領制度に関する議論
151
第 4 章 憲法案批准
第 1 節 フェデラリストと反フェデラリスト
前述のように、フィラデルフィアで開催された憲法制定会議は、もともと、
まったく新しい憲法案を提案するためではなく、連合規約に修正を加えるため
に招集された。託された任務を無視したことは、長い間、秘密裡に会議を進め
たこともあって、議論の的になることは明らかであった。さらに連邦政府によ
り強化した権限を与えた点や立法府の構成案など憲法案の幾つかの条項も議論
の的になることは明らかであった。中でも大統領制度の創始は国中を驚かせる
提案であった。憲法案を支持する派はフェデラリストと呼ばれ、憲法案に反対
する派は反フェデラリストと呼ばれた。
フェデラリストは警戒すべきなのは専制政治ではなく、むしろ国家を解体さ
せ、分裂させようとする動きであると考えていた。外交、軍事、通商に関する
権限は本来、統一国家的な性質を持つものであり、連邦政府に付託されるべき
である。またどのような形態の政府であれ課税権はその存立に欠くことはでき
ない。そして、独立戦争を通じて苦労して獲得した権限を 13 邦の間で分割する
ことは避けるべきである。
その一方で、各邦で行われた憲法批准会議の中で、反フェデラリストが特に
非難を集中させたのが大統領制度である。反フェデラリストは大統領制度を偽
装した君主制だと非難し、イギリス国王が貴族院とともにイギリスを支配する
ように大統領は貴族的な上院とともに合衆国を支配することになるだろうと主
張した。大統領制度に最も強硬な反対を唱えたのがパトリック・ヘンリー
(Patrick Henry)である。1788 年 6 月 7 日、ヴァージニア邦憲法批准会議で大統
領が国王に容易になり得る可能性を示唆して反フェデラリストの不安を代弁し
た。またヘンリーはヴァージニア邦憲法批准会議で以下のように大統領制度が
参事院を伴わない点を批判している。
「合衆国大統領は憲法上、参事院を有していない。こんなことは凡そ信頼で
きる正常なる政府にあっては聞かざるところである。したがって大統領は的確
な情報ないし助言を受けることができないだろう。そして、概ね側近の者やお
気に入りによって左右されることになるだろう。あるいは上院の手先になるだ
ろう。または国政参事院が主要行政機関の長官の間から構成されるだろう。こ
れこそ凡そ自由な国における参事院としては、最悪にして危険極まるものであ
152
アメリカ大統領制度史上巻
る。というのは彼ら官吏達は自分達を遮蔽保護し、彼らの職務上の不始末に対
する検察を妨害しようとして、凡そ危険かつ圧政的な手段を結束してとるよう
になるかもしれないからである。それ故、連邦憲法にもし提案したように 6 名
からなる参事院、すなわち東部諸州より 2 人、中部諸州より 2 人、そして南部
諸州より 2 人、下院において各邦単位の投票によって任命され、上院と同様の
任期と交替制による参事院が設置されたならば、大統領は信頼できる的確な情
報と助言を常に受けることになっただろう。その参事院の長は大統領の空席な
いし不能力の場合には、合衆国の臨時副大統領として行動するものとなっただ
ろう。そうすれば上院が長期にわたって開会することは余程避けられただろう。
かように憲法に参事院を致命的にも欠いたことから、官職任命に際しての上院
の不要な権限が生じ、また立法府の一院たる上院と大統領の警戒すべき相互依
存と連携が生じたのである。そこからまた不必要な官吏たる副大統領が登場し
た。副大統領は他に仕事がないために上院議長とされ、よって行政権と立法権
を危険にも混合させ、ひいては諸邦の中のあるものに、他の諸邦に対して不必
要かつ不当なる優先権を常に与えている。合衆国大統領は反逆罪に対して恩赦
を施す無制限の権限を有している。この権限は、大統領が犯罪を犯すべく秘か
に唆した者を刑罰から庇い、またそれによって大統領自身の罪を暴かれること
を妨げるために、行使される時もあるかもしれない。すべての条約を国の最高
法と宣言することによって、大統領と上院は立法の専権を多くの場合に持つこ
とになる。これは条約を法と然るべく区別し、また信頼に値する同意をなし得
る下院の同意を必要とすることにすれば、避けられただろう」125
ヘンリーの他にも反フェデラリストは、
「君主的な」大統領と「貴族的な」上
院が官職任命権と条約締結権を、下院を除外して分有していると非難した。ペ
ンシルヴェニア邦憲法批准会議の代表達は、1787 年 12 月 18 日に憲法案の条約
締結に関する条項は外国の干渉を招き得るという報告を出版した。その報告に
よれば、上院は定足数を満たすのに 14 人で十分であり、そのうち 3 分の 2、つ
まり 10 人が大統領の上程した条約に同意を与えれば条約が成立する。そうなれ
ば外国が賄賂を用いて条約を締結させるのはたやすいことである126。
君主制は反フェデラリストの主な不安の種であり、大統領制度は非難から免
れた点はほとんどなかった。ヴァージニア邦とノース・カロライナ邦の憲法批
准会議は、16 年間のうち大統領の任期が 8 年間を超えないようにする修正を憲
法案に加えるべきだと提議した。ジョージ・クリントンは 1787 年 11 月、
「カト
憲法案批准
153
ー」という名でニュー・ヨーク・ジャーナルに論説を発表し、モンテスキュー
を引き合いに出して大統領の任期は長過ぎるので1 年に改めるべきだと論じた。
さらにクリントンは、審査院の欠如によって大統領が適切な情報や助言が得ら
れないと指摘した。
憲法案に対する最も辛辣な非難は、憲法制定会議に参加した代表自身によっ
て行われた。例えばメイソンは選挙人によって大統領を選出する方法は、ほと
んどの場合、過半数を獲得する候補が現れず、結局、大統領の選出は下院に委
ねられるので人民を欺くものであると非難した127。マーティンは、大統領の拒
否権は、もし覆されなければ、大統領が議会に優越していることを示すものだ
とメリーランド邦憲法批准会議で述べた128。興味深いことに、大統領制度は 2
人の将来の大統領からも非難を受けている。ジェファソンは、無制限に再選さ
れ軍隊を指揮する権限を持つ大統領はポーランド国王の悪い版になるだろうと
述べている。モンローは、大統領が終身制になるのではないかと恐れていた。
第 2 節 『ザ・フェデラリスト』
憲法第 2 条は、諸邦に憲法案を批准させようとするフェデラリストにとって
大きな政治問題であった。大統領制度が新しい政府の中で最も革新的であるだ
けではなく、単独の行政府の長という性質はアメリカ人にかつて独立革命で打
倒した君主制を想起させた。反フェデラリストはそうしたアメリカ人の恐れを
利用した。反フェデラリストに対抗するために、フェデラリストは憲法批准会
議において大統領制度の長所と憲法が大統領に課している制約について論じた。
フェデラリストは、ハミルトン、マディソン、そしてジェイが、ローマ共和政
の政治家であるプブリウス・ヴァレリウス(Publius Valerius)に因んで付けた「プ
ブリウス」の名の下で新聞に発表された一連の論説を論拠として憲法案を擁護
した。一連の論説は後にまとめられ『ザ・フェデラリスト』と呼ばれるように
なった。
『ザ・フェデラリスト』の執筆の端緒となったのはテンチ・コックス(Tench
Coxe) という人物である。コックスは 1787 年 9 月頃に「憲法案に関する見解」
をマディソンに送り、続けて憲法擁護の基礎となる材料を送り続けた。マディ
ソンは憲法擁護のための論を書くことをハミルトンと協議すると約束した。そ
の結果、ハミルトンとジェイとともにマディソンは、
「プブリウス」という共同
154
アメリカ大統領制度史上巻
名義で『ザ・フェデラリスト』を執筆することになった。
『ザ・フェデラリスト』の執筆の意義は、人民に憲法案の利点に関する詳細
な議論を示すことにあった。そもそも憲法制定会議は、憲法案が公表されるま
で一般には、まったく新しい憲法案を考案するのではなく、単に現行の連合規
約に修正を加えるだけの集まりだと考えられていた。そのため、多くのアメリ
カ人は新しい憲法案についてほとんど何も知らないに等しかった。中でもニュ
ー・ヨーク邦は根強い反対を唱える党派があり、その成功が全国的に大きな重
要性を持っていた。憲法反対論者に対抗する有効な論陣を張ることが『ザ・フ
ェデラリスト』の第 1 の目的であった。
各篇の執筆者が誰かについて確実に判明しているのは、第 18 篇から第 20 篇
の 3 篇を除き、ハミルトンによる 49 篇、マディソンによる 14 篇、ジェイによ
る 4 篇である。第 18 篇から第 20 篇の 3 篇は、マディソンが 1786 年に古代や
現代の連邦制について自身でまとめた覚書やハミルトンの手による資料などを
参考にしている。誰がどの篇を担当したかについて主な根拠は、ハミルトンが
死の直前に書いた覚書と晩年にマディソンがワシントンの出版業者に送った一
覧であるが、両者には食い違いが見られる。そのため残りの篇の著者について
は諸説ある。
1788 年 3 月、ハミルトンはフェデラリストの第 69 篇から第 77 篇を書いて大
統領制度について論じた。第 69 篇は、大統領制度が潜在的な君主制だという反
フェデラリストの非難に応えている。ハミルトンは、イギリス国王が世襲で終
身制なのに対して、大統領は選挙によって選ばれ限られた任期のみ務めると論
じた。国王が議会の可決した法案に対して絶対拒否権を持つのに対して、大統
領の拒否権は議会によって覆されることもあり得る。国王が宣戦布告し、陸海
軍を徴募できるのに対して、大統領はそのいずれもできない。国王は自らが適
当だと考えれば条約を結ぶことができる。しかし、大統領は上院の同意がなけ
れば条約を締結することができない。国王がどんな理由であれいつでも議会を
閉会できるのに対して、大統領は閉会の時期に関して両院の間に意見の一致を
欠く場合のみ議会を閉会できる。国王が官職を創設し、自由に任命できるのに
対して、大統領は官職を創設することができず、任命にも上院の同意を必要と
する。国王が通商に関する多くの点で権限を持っているのに対して大統領の通
貨や通商に関する権限は大幅に制限されている。最後にハミルトンは、国王が
弾劾を受け免職されることはないのに対して、大統領は弾劾を受け免職され得
憲法案批准
155
ると指摘した129。
イギリス国王と大統領の対比においてハミルトンはイギリス国王の特徴につ
いて無視している点がある。ハミルトンがイギリス国王の特徴として挙げた点
は、17 世紀のものであった。18 世紀になって国王に比して国会と内閣の影響力
は強まっている。例えば、イギリス国王が国会の法案に対して最後に拒否権を
行使したのは、アン女王(Queen Anne)の 1707 年である。しかし、
『ザ・フェデ
ラリスト』の第 69 篇は、効果的に反フェデラリストの大統領制度に対する批判
に反駁していると言える。ハミルトンは、反フェデラリストのクリントンが就
いていたニュー・ヨーク邦知事が行使する権限よりも、多くの場合で大統領の
権限は小さいと論じている。ハミルトンは議論を大統領職、イギリス国王、ニ
ュー・ヨーク邦知事の 3 者の比較で構成している。ハミルトンの議論の主な目
的は、アメリカ人が戦ったイギリス国王と同様の権限を大統領が持つという懸
念に対して反駁することである。ハミルトンは、そうした反駁を大統領と国王
の権限を逐一比較することで綿密に行った。ニュー・ヨーク邦の人民に議論が
より親しみやすくするために、ハミルトンはニュー・ヨーク邦知事との比較も
導入した。もし大統領の権限がニュー・ヨーク邦知事と同様であれば、ニュー・
ヨーク邦の人民は、大統領が潜在的な君主制と批判することもないだろうとハ
ミルトンは考えたのである。
『ザ・フェデラリスト』の第 70 篇でハミルトンは大統領によってもたらされ
る活力が良い政府には不可欠であると論じた。政府の活力は、外部からの侵略
から社会を守るために必要であり、また暴徒から財産を守り、野望、派閥、無
政府状態による混乱から自由を保障するためにも必要である。憲法案によって
創造される政府の中で大統領によってもたらされる活力の源泉は、単一性、持
続性、適当な給与、そして十分な権限の 4 つによって構成される。大統領が単
独であることで、決断力、行動力、秘密性、迅速性など好ましい点が生じる。
それに比べて委員会形式の多頭制は、意見の不一致によって分裂し、迅速な行
動を欠き、結果的に党派が形成される。また多頭制では構成員の間で競争心が
生まれ、悪意にまで発展する恐れがある。その結果、激しい闘争が起きる。闘
争の結果、公職の尊厳は損なわれ、権能は弱まり、政府の計画は停滞してしま
う。そうなると国家が非常事態に陥った場合、適切な政策がとられるのを阻害
する可能性がある。さらにお互いに責任をなすりつけ合うので、行政府に失政
の責任を問うことが難しくなる。失政が実際にあったと認められても誰に責任
156
アメリカ大統領制度史上巻
を問えばよいのか定めることが難しくなる。そうした確執は行政府の特質であ
るべき迅速性を損なう。その結果、国民の安全保障に不可欠な戦争遂行の場合
には、多頭制の弊害が強く出る。同様のことが参事院を設けることについても
あてはまる。参事院のある徒党が全行政機構の機能を妨害し麻痺させることも
あるだろう。たとえそのような徒党が存在しなくても、内部の意見の不一致が
あるだけで行政機能は弱体化してしまう。イギリスのような君主制においては、
参事院は国王が罪過なきように監督する機関となり得る。しかし、アメリカの
ような共和制においては、参事院は憲法上必要とされている大統領自身の責任
を消滅させるか、激減させるかしてしまう。また人民の監視の対象は複数であ
るよりも単数であったほうが自由の保障の点では望ましい。自由や権利を保障
するために多頭制を採用するという考えが提示されているが、多頭制が必ずし
も自由や権利を保障しないことは明らかである。なぜなら巧妙な指導者が 1 人
いて、その他の少数者を陰謀に巻き込めば、権力はより濫用されやすくなる。
もし権力が 1 人の人物に与えられれば、その者は厳重な監視下に置かれる。つ
まり、参事院は、行政府の迅速性を阻害するだけではなく、大統領の過失の隠
れ蓑として利用される可能性がある130。
第 70 篇は行政府の権限を論じ、大統領制度を論じた部分でも最も引用される
部分である。ハミルトンは、大統領の活力が行政府の最も重要な部分だと信じ
ていた。活力は大統領の権限拡大に関する最もよく言及される口実であり要素
である。もし『ザ・フェデラリスト』が主題を 1 つ持つとすれば、活力の重要
性がその主題であり、憲法に生命を吹き込む主題である。ハミルトンは大統領
がその責務を果たすためには活力が必要であることを示した。大統領の権限は、
伝統的に君主制に関連付けられる活力、秘密性、迅速さをもたらすために意識
的に設計された。さらにハミルトンは政府の目的について述べる。ハミルトン
は個人の保護が政府の目的だと考えた。他の篇でハミルトンは、公正を行き渡
らせるために樹立された政府の目的は公共の幸福であり、公共の善であると主
張している。特に人民の幸福はその一般的な自由と権利の保護を意味する。ハ
ミルトンはそうした人民の幸福を守るうえで活力のある大統領がもたらす利点
を述べた。第 1 は、外国の攻撃から社会を守ることである。第 2 は、堅実な法
の管理である。第 3 は通常の公正な司法の裁きを妨げる違法な徒党から財産を
保護することである。第 4 は、自由の確保である。
『ザ・フェデラリスト』の第 71 篇から第 73 篇では、大統領制度は活力にとっ
憲法案批准
157
て不可欠な資質を他にも持つと論じられている。第 71 篇の論題は任期である。
行政府に活力を与えるためには持続性が必要である。4 年間の任期は大統領が自
信と決意を持って行動するのに十分な時間であるのと同時に、公共の自由にと
って危険となる程、長くはない。また長期の任期が認められることによって大
統領の下で運営される行政機構が安定する。短期間で職を辞めなければならな
い場合、大統領は独自の判断を行うことで社会から非難を受ける危険を冒そう
とは思わなくなるだろう。大統領は公共の福祉の擁護者として、時には人民の
過ちを正すことが義務である。それには大統領が長い任期を与えられ、その意
思を敢然と決意を持って実行し得るだけの立場に置かれていなければならない。
任期が長ければ、任期の終了までに大統領が適当だと判断した施策の妥当性を
社会に理解させることが見込める。そうすることで大統領は有権者の間で尊敬
と好意を獲得する機会が与えられ、大統領の確固とした姿勢も支持されるよう
になる。その結果、大統領は自信と決意を持って行動することができる131。
第71 編でハミルトンは大統領制度の活力を続けて論じている。
ハミルトンは、
強力な権限と影響力を持った大統領が強力な国家を建設するには不可欠である
と信じていた。ハミルトンは、政策を形成するうえで人民の.意思が果たす役割
を強調する共和制の原理と安定した効率的で賢明な政府の必要性の間で均衡を
とろうと努めた。ハミルトンは、共和政の原理が、人民の見解に影響を与える
ようなあらゆる情動に基づいて政府が行動することを求めてはいないと主張し
た。人民は公共の善を促進しようとするが、彼らは必ずしもそれを促進する手
段について正しい見解を持っているとは限らない。それ故、大統領が公共の善
を決定する十分な独立性と活力を持ち、不安定で激しやすい立法府の影響と釣
り合いをとることができるようなることが不可欠である。しかし、こうしたハ
ミルトンの立場は、安定性や効率性よりも自由や独立性を重んじる反フェデラ
リストの反感を招いた。近代史を通じて、歴史家は人民の意思の至高性と政治
的安定の間の本質的な緊張を指摘する。民主政体は根本的に人民の意思に基づ
いている。しかし、それは多数派が賢明に見えるが実は破滅的な政策を採用す
る危険性を常に孕んでいる。ハミルトンはそうした行き過ぎを抑える強力な行
政首長の必要性を痛感していた。
『ザ・フェデラリスト』の第 72 篇で、ハミルトンは、無制限に再選を認める
ことは、報酬を求めることが人間の行いの強い誘因となるので好ましいと主張
する。そうした誘因がなければ、大統領は怠惰になってしまうか、極端に走っ
158
アメリカ大統領制度史上巻
て権力を不法に行使するかしてしまう。再選を認めず、新たな任期を務めない
で退任を求めることは生じる弊害が多いので大統領に再選を認めるべきである。
再任が認められなければ新任の大統領が多くなり、そうした大統領はそれぞれ
助言者や補佐官を伴うので行政府の多くの側面で分裂的な変化がもたらされる。
大統領は再選について心配することがないので良識的な行動をとる誘因が失わ
れる。再選を禁じられることで大統領は自発的に権力を手放すよりも権力を簒
奪しようと試みるようになる。国家は経験に富んだ大統領を必要としている。
大統領の任期を 1 期に限れば、経験に富んだ大統領を在任させるうえで得られ
る恩恵を享受できなくなる。特に国家の危機の際に有能で経験に富んだ大統領
のリーダーシップをアメリカ国民が得られなくなることは有害である。また大
統領が頻繁に変わることは不安定さをもたらす。また再選を認めることで人民
が望むだけ有能な大統領を在任させることができる。任期の制限には、業績を
気にせずにいられるので大統領の独立性が保たれ、人民に専制に対する防止策
が与えられるなど確かに利点があると考えられるが、そうした利点には些か疑
問点がある132。
第72篇でハミルトンは大統領がアメリカの王になろうとするという心配を克
服しようと努めた。ハミルトンは君主制を明らかに支持しているわけではない
が、活力ある強力な大統領を唱導した。結局、そうした強力な行政首長の不在
が連合規約の欠陥だったのである。憲法はもともと大統領の再任に制限を課さ
なかったが、1951 年に成立した憲法修正第 22 条によって大統領の任期は 2 期
に制限された。その修正はフランクリン・ローズヴェルトが 4 期にわたって大
統領を務めた後に制定された。
『ザ・フェデラリスト』の第 73 篇で、ハミルトンは、大統領に適切な報酬を
与えることが政府の活力に必要だと主張している。さらに任期の期間中に議会
が大統領の報酬を増減することができないという規定をハミルトンは重要視し
ている。もしそうした禁止事項がなければ大統領が議会の意思に追従してしま
うとハミルトンは警告した。第 73 篇の後半では、拒否権を立法部による権力侵
害を防止する手段として、さらに立法府が不適切な法案を可決するのを防ぐ手
段として説明している。ハミルトンは立法府が党派の影響を受けて、公共の利
益を損なう法を可決することがあると警告している。そのような場合、大統領
がそうした法案を阻止できる能力を持つことが必要不可欠である。共和政体で
は、大統領は立法府の決定を覆すのを常に躊躇うともハミルトンは指摘する。
憲法案批准
159
しかも大統領の拒否権は絶対拒否権ではなく、議会は 3 分の 2 の投票で覆すこ
とができる。
第73 篇は憲法の原理である均衡と抑制の原理を示している。
憲法の制定者は、
権限を分散し、どの府も強力になり過ぎないようにすることが必要であると考
えた。第 73 篇は特に議会の権限に課された制限について扱っている。ハミルト
ンは、共和政体では、人民の声を直接反映するために立法府が最も強大になる
と主張する。立法府が政府を完全に独占しないように、その他の府が自己防衛
を行う憲法上の手段を必要とする。多くの点で憲法は異なる府の間で競合を生
み出すように設計されている。憲法の制定者は、そうした競合によって公共の
善を損なうような政策が実行されたり、専制が台頭したりするのを妨げると信
じていた。
続いて第 74 篇では大統領の統帥権と恩赦権について論じられている。軍隊に
指示を与えることは、特に権限の行使が単独で行われなければならないことを
示している。軍事権限を複数の行政官に分散させることは破滅に繋がる。ハミ
ルトンは、恩赦に議会の支持を求めることから生じる利点について考慮しなが
らも、恩赦は大統領単独で行うのが最善だと主張した。もし恩赦が集団によっ
て決定されるのであれば、そうした集団は人道的な条件で恩赦を与えたり、状
況によって求められる公正を支持したりするのにそれ程、重圧を感じなくなる。
さらに議会の判断は党派心によって左右され易い。大統領が迅速に恩赦を与え
ることが国益によって必要不可欠な場合がある。例えば、国内の静謐を回復す
るために、大統領が反乱軍の指導者に恩赦を与えることが必要になるかもしれ
ない。もしそうした恩赦が、議会の承認を得るために遅れれば、重要な機会が
失われてしまう可能性がある。
反フェデラリストはヨーロッパで国王が恩赦権を濫用してきたように大統領
が恩赦権を濫用するのではないかと恐れた。重大犯罪に対する最初の恩赦は、
ウィスキー暴動で連邦法を暴力で否認しようとした指導者に対してワシントン
によって与えられた。したがって、こうした初期の恩赦権は、ハミルトンが主
張したように、国内の騒擾に対して平和と秩序を回復させるために用いられた
ことになる。しかし、建国初期以来、恩赦権は寛容や公正といった理由ではな
く政治的理由で行使されていると激しい議論の的になっている。
第75 篇では大統領が上院と条約締結権を分有することが適切であると主張す
る。ハミルトンは、憲法が条約を締結し承認する役割を立法府と行政府に誤っ
160
アメリカ大統領制度史上巻
て混合させているという批判に答えた。条約の締結は、行政府と立法府のどち
らの範疇にも本来、完全にあてはまらない。したがって立法府と行政府の役割
を混合させることは適切である。条約締結権は大統領に限られるべきだと主張
する者がいる。ハミルトンは、大統領はヨーロッパの君主と違って限定された
期間しか在任しないと注意を促した。
大統領は1 人の市民に戻ることを前提に、
個人的な利益を優先して国益を損なうような条約を締結しようとするかもしれ
ない。それ故、大統領の権限は議会によって抑制されなければならない。その
一方で議会は条約の締結に関してもっと大きな権限を持つべきだと主張する者
がいる。ハミルトンは、それは条約締結の過程に不必要な遅延と非効率をもた
らし、アメリカの交渉における立場を弱めると主張した。また下院が条約締結
権に関与しない妥当性について論じられている。下院は、見聞の広さ、見解の
一致、決断力、秘密保持、臨機応変さなどの条約締結に必要な資質を欠いてい
る。
第 75 篇は、それ以前に論じられた問題、条約締結権を再び論じている。それ
は、政府の活力と権力の分立の間の憲法に埋め込まれた根本的な緊張を示して
いる。一方で、憲法の制定者は、大統領が外国と効率的に交渉できるくらい十
分に強力であるように望んだ。もし大統領が弱ければ、他の国の首長は大統領
を適切に扱わないだろう。しかしながら、同時に、憲法の制定者は、大統領が
強力になり過ぎることも避けようと考え、条約を批准する権限を上院に与えた。
第 75 篇は、アメリカ憲法の重要な思想的基盤である性悪説を示している。憲法
の制定者は、政治家は個人的な利益のために公共の善を犠牲にしてでもその権
力を使いがちであると考えていた。もし大統領がヨーロッパの君主のように単
独で条約を締結できれば、自分自身のためのその権限を使うようになるだろう
と憲法の制定者は恐れた。例えば個人的な関係を持つ企業を利するように大統
領が外国と通商条約を結ぶ危険性が考えられる。条約締結に関する上院の監視
なくして、大統領が個人的な利益のために条約を締結するのを阻止することは
できない。
第 76 篇では大統領の官職任命権について論じられている。ハミルトンは、上
院の助言と同意を伴って官職を任命する大統領の権限を擁護した。官職任命を
行うには 3 つの方法がある。官職を任命する権限を 1 人の人物に与える。多人
数の組織に与える。多人数の組織の同意を伴って 1 人の人物に与える。ハミル
トンは最初の 2 つの選択肢を否定した。多人数の組織は党派の利害に左右され
憲法案批准
161
易く、業績に基づいて官吏を公平に選ぶことは難しい。その一方で、1 人の人物
に官職任命権を与えることは、官吏の選択を曇らせる縁故主義と腐敗を生じる
原因となる。しかし、多人数の組織が官職の任命を行うよりも識見のある 1 人
の人物が官職の任命を行うほうが、責任が分散されず義務感を持つので最適で
ある。大統領は慎重に官職に任命する人物を調査し、公平に最適な人物が選ば
れるように配慮する。上院の同意は大統領の縁故主義に対する抑制になり、不
適切な人物が任命されるのを妨げる。上院によって指名が拒絶される可能性は、
大統領が慎重に人物を選ぶ動機となる。大統領が上院に圧力をかけて腐敗した
不適切な候補者を支持するように働きかけるのではないかという懸念がある。
それに対してハミルトンは、少なくとも上院議員はある程度の美徳を持つので
そうしたことは起こり難いだろうと主張した。
第 76 篇では、再度、権力分立と抑制と均衡の原理の重要性が示されている。
ハミルトンは大統領と上院の両方が欠点を持つ可能性を指摘した。したがって
そのいずれにもすべての官職任命権を委ねることはできない。またそれは憲法
制定において重要な役割を果たした妥協と実利主義を示している。憲法の制定
者は、憲法によって創造される政治制度が完全であるとは主張していない。む
しろ、彼らは、権力の濫用を防止する有効な唯一の手段は、異なる府が相互に
監視し合う動機と能力を持つことであるという信念を持っていた。ハミルトン
が危惧した官職任命に党派が及ぼす影響はアメリカ史の中で現実であることが
証明された。官職任命を反対政党が大統領の攻撃に使うことは稀なことではな
い。ハミルトンは、上院に大統領の指名を承認する権限を与えることで腐敗を
防止しようと努めた。しかし、不幸なことに上院の指名の承認は政治的な動機
に左右されがちである。官職任命はしばしば、指名者の適性に関する議論では
なく政治的口論の的になっていることは明らかである。
第 77 篇では、第 76 篇に続いて大統領の官職任命について論じられている。
そして、総括として、ハミルトンは反フェデラリストによる様々な反対に答え
ている。ハミルトンはまず、上院に官職任命の承認を得ることは、政府の安定
性によって重要であると主張する。そして、ハミルトンは、官職任命において
大統領に上院が不適切な影響力を持つことを否定している。むしろ様々な栄誉
と報酬を得ているために大統領が上院に影響を及ぼす可能性が高い。しかし、
必要であれば、上院は大統領の官職任命権を抑制できる。それは不適切な影響
とは言えない。さらに行政府と立法府が官職任命でそれぞれ役割を果たすよう
162
アメリカ大統領制度史上巻
にすることで、憲法は、官職任命が評判を問題とし、人民の精査に服すること
を本質的に保障する。ハミルトンは憲法で規定されている官職任命の過程とニ
ュー・ヨーク邦で規定されている官職任命の過程を、議会の承認に従わずに決定
を下す小さな組織に完全に官職任命権を委ねる危険性を示すために比較した。
ハミルトンは、ニュー・ヨーク邦の官職任命過程は、その結果、縁故主義と腐
敗に支配されていると主張した。憲法によって行政府に与えられた権限は良い
政府を運営するのに不可欠であり、人民への適切な依存と適切な責任という共
和制の諸原理と行政府に必要とされる活力を調和させている。ハミルトンは大
統領制度に関する憲法の規定は、共和政体の自由の原理を侵害することなく、
活力を与えるすべての必要条件を効果的に組み込んでいると結論付けた133。
第 77 篇は、行政府に与えられた権限と制限について擁護した一連の論の最後
を占めている。第 77 篇の主題は、連合規約で欠如していた強力で活力のある行
政首長の必要性とアメリカ人の自由を脅かさない行政首長の必要性の間の均衡
をとることである。ニュー・ヨーク邦の官職任命過程に触れることでハミルト
ンは論をニュー・ヨーク邦の人々に受け入れやすくした。ハミルトンは、憲法
によって提示される政治制度がニュー・ヨーク邦の政治体制よりも優っている
と大胆にも断言した。
『ザ・フェデラリスト』がそもそもニュー・ヨーク邦の人々に憲法案に批准
するように呼びかけるために書かれたことは記憶に留めておく必要がある。も
し『ザ・フェデラリスト』をアメリカ全体や後の世代に向けて書かれた 1 冊の
本と見なすと読者は混乱するかもしれない。
『ザ・フェデラリスト』は大まかに
明確な問題について整理されているが、個々の篇はしばしばお互いに直接関係
のない幅広い事柄を扱っている。それは、
『ザ・フェデラリスト』が、絶えず変
化しつつある世論に対応して書かれたことに起因している。著者は、あまり組
織化されずその関心も様々であった反フェデラリストが憲法案に対して行う特
定の批判に答えようとした。それ故、
『ザ・フェデラリスト』の読者は、個々の
篇によって進められる特定の議論を結び合わせて統一的な主題を抽出しなけれ
ばならない。
第 3 節 各邦の批准
大部分の歴史家は、初めはアメリカ人の大多数が憲法案に反対であったとい
憲法案批准
163
うことに同意している。実際、多くの邦で強く激しい反対論が巻き起った。し
かし、批准をめぐる争いでフェデラリストには 2 つの利点があった。第 1 の点
は、憲法制定会議に参加した代表達自身によって憲法案がどのような反論に対
しても適切に擁護され得た点である。第 2 の点は、表に出ることはなかったが
ワシントンが積極的に憲法批准を推進するハミルトンやマディソンの活動を援
助した点である。
1787 年 12 月 7 日、デラウェア邦が憲法案に批准した最初の邦となった。デ
ラウェア邦が最初に憲法案に批准したのは、フェデラリストが新憲法における
小邦の有利を説くことができたからである。新憲法の下、小邦は大邦と同じく 2
人を連邦上院に送ることができ、大統領選挙人の数でも優遇されている。その
ために小邦は本来、得ることができる以上の権限を手に入れることになる。こ
うした説得が功を奏し、デラウェア邦は批准に至った。その 5 日後、ペンシル
ヴェニア邦は 41 票対 23 票で、権利章典の欠如に対して懸念を示した後、憲法
案を批准した。フェデラリストは反フェデラリストが組織化される前に批准を
完了させる戦略をとり、見事に早期の批准に成功した。多くの邦で権利章典の
欠如への懸念が示されたので、フェデラリストは最初の連邦議会に権利章典を
憲法に加えるように提議することを約束した。
1787 年 12 月 18 日にニュー・ジャージー邦が、そして 1788 年 1 月 2 日にジ
ョージア邦が全会一致で憲法案を批准した。続いて 1 月 9 日、コネティカット
邦は 128 票対 40 票の大差で憲法案を批准した。マサチューセッツ邦では、激し
い反対が見られたが、権利章典を最初の連邦会議に提議するというフェデラリ
ストの約束によって 2 月 6 日、187 票対 168 票の僅差で憲法案を批准した。4
月 28 日、メリーランド邦は 63 票対 11 票の大差で憲法案を批准した。5 月 23
日、サウス・カロライナ邦は 149 票対 73 票で憲法案を批准した。そして、6 月
21 日、ニュー・ハンプシャー邦が憲法案に批准したことによって合衆国憲法は
成立した。
ヴァージニア邦とニュー・ヨーク邦という大きな邦の批准がまだであったが、
もし新政府が成功を収めれば、孤立してしまうことの不利を悟って 2 邦も憲法
案に進んで批准することが期待された。6 月 25 日、ヴァージニア邦は 89 票対
79 票の僅差で合衆国憲法に批准した。ヴァージニア邦では激しい議論が行われ
た。ヴァージニア邦で大勢を覆したのはランドルフ邦知事である。ランドルフ
邦知事は憲法制定会議で憲法案に署名しなかったことを釈明し、現状では連邦
164
アメリカ大統領制度史上巻
の瓦解を見るよりは批准に票を投じたほうがましであると述べた。ランドルフ
は「政治の問題に思考を向け、最もふさわしい共和政体を考えるすべての人士
は、選出の時期、選出の方法、権限の量など行政府の長から生じる大きな困難
について同意するだろう」と述べた134。7 月 26 日、ニュー・ヨーク邦も 30 票
対 27 票で合衆国憲法に批准した。クリントン邦知事は大土地所有者と足並みを
揃えて憲法案の批准に反対した。新憲法によって邦政府が関税の徴収権を失え
れば、さらに高率の税金がかけられるのではないかと恐れたのである。そうし
た反フェデラリストに対してハミルトンやジェイを中心にするフェデラリスト
は善戦し憲法の批准に漕ぎ着けた。ノース・カロライナ邦とロード・アイラン
ド邦は最初の大統領が選ばれ、最初の連邦議会が始まった後にようやく合衆国
憲法に批准した。
憲法批准をめぐる議論が行われている間、反フェデラリストは、憲法は中央
政府による専制の可能性を許していると批判した。反フェデラリストは市民の
権利を明確にし、立法府、行政府、司法府に制限を課す権利章典の採択を求め
た。新たに連邦議会が発足した後、権利章典が提案された。憲法修正第 1 条か
ら第 10 条で構成される権利章典は、1791 年に 3 分の 2 に州の批准を得て成立
した。権利章典の目的は政府の三府に明確な領域を与えることである。第 2 条、
第 3 条、そして第 4 条は明らかに行政府に制限を課している。行政府は人民が
武器を携行する権利を奪ってはならず、恣意的に兵士を人民の家屋に宿営させ
ることはできず、裁判所の令状なしで逮捕、捜索、押収を行うことはできない。
さらに第 9 条と第 10 条は連邦政府全体に制限を課し、憲法で列挙されていない
権限は州と人民に留保されるとしている。
合衆国憲法は建国の父祖達が後世に残した最大の業績である。それは、それ
ぞれが至上の主権を持つ諸州を構成単位として至上の主権を有する連邦政府を
形成するという難題を成し遂げたからである。また大統領制度というこれまで
の歴史でほとんど例を見ない独特で広範な制度を規定した点で大きな意義を持
つ。そうした制度が果たして有効に機能し得るかはその後の歴史が証明するこ
とになった。
憲法案批准
165
第 5 章 憲法の修正条項
第 1 節 憲法修正第 12 条
憲法制定会議で大統領制度の創始に関して様々な決定がなされた。合衆国憲
法が成立した後、
大統領制度に関する憲法修正は4 回にわたって行われている。
1804 年に成立した修正第 12 条、1933 年に成立した修正第 20 条、1951 年に成
立した修正第 22 条、1967 年に成立した修正第 25 条である。
大統領と副大統領を選挙人によって選出することを規定する憲法第 2 条第 1
節 2 項から 4 項は、憲法制定会議の末期と各邦の憲法批准において最も議論が
少ない部分であった。しかし、選挙人方式が新しい政府の制度を大きく変える
最初の例となった。修正第 12 条により、選挙人が大統領候補に 2 票を投じ、最
も多数の票数を得た者が大統領に選ばれ、次点の者が副大統領に選ばれる方式
から、選挙人が大統領候補と副大統領候補に別々に票を投じ、それぞれ最も多
数の票数を得た者が大統領と副大統領に選ばれる方式に変更された。また修正
第 12 条により、過半数の選挙人を得た大統領候補がいない場合、従来は上位 5
人の候補の中から下院が大統領を選ぶようになっていたが、上位 3 人の候補の
中から下院が大統領を選ぶように変更された。選挙人が副大統領を選ぶことが
できない場合に副大統領を選ぶ権限を上院に与える条項は従来のままである。
過半数の選挙人を得た副大統領候補がいない場合、上位 2 人の候補の名から、
上院が過半数で副大統領を選ぶ。また副大統領に就く資格として大統領と同じ
資格が課された。さらに、3 月 4 日までに大統領が選出されない場合、副大統領
が大統領の職務を行うと規定された。
選挙人方式は、憲法制定会議で、政党が組織されず大統領選挙に影響を及ぼ
さないという仮定の下で考案された。憲法制定会議の代表達は政党を党派的利
害に基づくものだとして否定的に見ていた。政党の代わりに邦や既存の組織が
大統領候補を指名すると代表達は考えていた。そうすることで最も人気があり
適格な候補者が大統領になり、2 番目に人気があり適格な候補者が副大統領にな
ると予想していた。
憲法制定会議の代表者達の予測に反して、ワシントン政権下で連邦派と民主
共和派が形成され、それぞれ独自の大統領候補と副大統領候補を擁立するよう
になった。その結果、1800 年の大統領選挙で問題が生じた。民主共和党を支持
する 73 人の選挙人がジェファソンとバーにそれぞれ 1 票ずつ投じた。両者に票
166
アメリカ大統領制度史上巻
を投じた選挙人はジェファソンを大統領に、バーを副大統領にすることを望ん
でいたが、憲法上、ジェファソンとバーは大統領の座をめぐって同じ票で均衡
したと見なされた。憲法第 2 条第 1 節 3 項に基づいて下院がジェファソンとバ
ーのどちらを大統領に選出するか決定を委ねられることになった。
下院を支配していた連邦党は、35 回もジェファソンが当選に必要となる州の
過半数の票を獲得するのを妨げた。36 回目の投票で下院はジェファソンを大統
領に、バーを副大統領に選出することをようやく決定した。1804 年の大統領選
挙で連邦党が陰謀を企むのではないかと不安に思う者がいた。民主共和党の候
補が勝利したとしても、連邦党を支持する選挙人が 1 票を民主共和党の副大統
領候補に投じれば、本来、副大統領候補であった者が大統領に選ばれる恐れが
あった。
もともとの憲法の条項は政党の出現と連邦党の陰謀に対応できないと認識し
た民主共和党は、1803 年 12 月、憲法修正第 12 条を提案した。強固な連邦党に
支配された州を除いて修正の批准は迅速に進み、
1804 年 6 月に修正は成立した。
選挙人に大統領候補と副大統領候補にそれぞれ票を投じることを求める修正
第 12 条は、修正に至った問題を解決した。1800 年以来、どちらが大統領と副
大統領に立候補したのかをめぐって混乱は起きていない。対立する政党の指導
者が副大統領に選ばれる可能性がなくなったことで大統領の単一の行政府の長
としての性格が強められた135。
憲法上、もともと無力であった副大統領職は、憲法修正第 12 条によって 2 番
目の大統領候補という地位も失った。憲法修正第 12 条が成立する前から、副大
統領候補の指名は、大統領候補と地域的、もしくは党派的な均衡をとるために
使われた。副大統領職は権限だけではなく権威も奪われたので、野心のある有
能な政治家は副大統領候補の指名を避けるようになった。副大統領職は長い間、
活動停止に追い込まれ、しばしば凡庸な政治家によって占められた。議会にお
ける議論の中で少なくとも一部の議員は憲法修正第12 条が副大統領制度に影響
を与えることを鑑みて、副大統領制度の廃止に動いた。しかし、結局、副大統
領制度の廃止には至らなかった。
選挙人をめぐる問題の一部は後に「不誠実な選挙人」として問題になった。
憲法制定会議の代表達は、選挙人が自らの良識に従って大統領候補に投票する
だろうと考えていた。しかし、現代では選挙人は有権者が支持する候補に投票
するように選ばれるのであり、独自の判断で誰を支持するか決定するわけでは
憲法の修正条項
167
ないと考えられている。1789 年と 1792 年の大統領選挙では、選挙人が自らの
良識に従って大統領候補に投票したことは明らかであった。1796 年の大統領選
挙でも選挙人は投票前にまったく何も誓約を求められなかった。1800 年の大統
領選挙では連邦党と民主共和党の対立構造が明らかになり、両党はそれぞれ大
統領候補を擁立した。そのため選挙人は自党の大統領候補に投票することを期
待されて選出されるようになった。したがって、選挙人が自らの良識に従って
大統領候補に投票するという憲法制定会議の代表達が想定した前提は崩壊した
のである。
42 州とコロンビア特別行政区では投票用紙に大統領候補と副大統領の名前が
記載されているだけで選挙人の名前すら記載されていない。有権者が支持する
候補に投票するように選挙人に義務付ける憲法上の規定は存在しない。26 州と
コロンビア特別行政区は、現在、法で選挙人は予め表明した候補を支持しなけ
ればならないと定めているが、憲法修正第 12 条に違反している可能性がある。
歴史的に、1789 年以来、2 万人近くの選挙人が選ばれてきたがその中で 11
人のみが不誠実な選挙人である。不誠実な選挙人は誰も処罰されていない。罰
則規定があるのは 5 州のみである。ミシガン州とノース・カロライナ州では不
誠実な選挙人の票は数えられず、他の選挙人候補によって代わられる。不誠実
な選挙人が選挙の結果を左右した事例はない。しかし、不誠実な選挙人が登場
する頻度は近年になって増している。不誠実な選挙人が出たのは 1792 年、1820
年、1948 年、1956 年、1960 年、1968 年、1972 年、1976 年、1988 年、2000
年、2004 年である136。2000 年の大統領選挙では、コロンビア特別行政区の選
挙人の 1 人が 85 パーセントの一般投票を得たアル・ゴア(Al Gore)に投票せずに
棄権した。その選挙人は、コロンビア特別行政区が議会での代表権を欠いてい
ることを抗議するために棄権したと述べた。そのような目的のために投票権を
利用した選挙人は他にはいない。また 2000 年の大統領選挙のような接戦で不誠
実な選挙人が出た例も他にはない。2004 年の大統領選挙で、ミネソタ州の選挙
人はジョン・ケリー(John Kerry)を大統領に、ジョン・エドワーズ(John
Edwards)を副大統領に投票することを誓約していたが、明らかに間違いだと考
えられるが、エドワーズを副大統領だけではなく大統領に投票した。
不誠実な選挙人の問題に加えて、一般投票で一定の票数を得た大統領候補、
もしくは副大統領候補が選挙人による投票が行われる前に死亡する可能性があ
る。それは実際に 1872 年の大統領選挙で起きた。自由共和党と民主党の連立大
168
アメリカ大統領制度史上巻
統領候補であるホーレス・グリーリー(Horace Greeley)は 42 パーセントの一般
投票を得た。しかし、選挙人による投票が行われる前の 11 月 29 日に死亡した。
もし選挙人による投票が行われるまでグリーリーが生きていれば66 票を獲得し
ただろう。実際にはグリーリーの票は他の 4 人の候補に分かれた。グリーリー
に 3 票が投じられたが、議会はそれを無効とした。グラントが既に過半数の選
挙人を獲得していたために選挙の結果には何も影響しなかった。
憲法修正第 12 条は、選挙人の過半数を獲得できる候補がいない場合、上位 5
人から下院が大統領を選出する従来の規定から、上位 3 人から大統領を選出す
るように改めている。5 人から 3 人に数を減らしたのは二大政党制度の出現によ
る。二大政党制度の下では、5 人の候補者が選挙人を獲得する可能性は低いと考
えられる。事実、1824 年の大統領選挙でどの候補も過半数の選挙人を獲得でき
なかった時、選挙人を獲得できた候補は 4 人のみであった。下院が 3 人の中か
ら当選者を選ぶという規定により、下院は大統領の就任に間に合うように当選
者を決定することができた。1825 年に当選者を決定する前に、下院は憲法修正
第 12 条における手続き上の不明確な点を明らかにした。議会が定めた重要な規
則の 1 つは、州による投票で当選者を決定する際に、出席している州の過半数
ではなく、州の総数の過半数を必要とするという規則である。もう 1 つの規則
は、下院は、他の業務に妨害されることなく当選者を決める投票を継続すると
いう規則である。最後の規則は、下院議員は各州のためにそれぞれ設けられた
投票箱に秘密投票で票を投じることができるという規則である。こうした規則
は法制化されていないため、容易に変更される可能性がある。
憲法修正第 12 条は重要な問題について未解決のままである。
「もし下院が右
のような選任を行う権利の発生を見た場合に、次の 3 月 4 日まで大統領を選任
しない時は、副大統領が、大統領の死亡あるいはその他の憲法上の不能力を生
じた場合と同じく大統領の職を行う」と憲法修正第 12 条は規定している。この
規定は「大統領の任期の開始期と定められた時までに大統領が選定されていな
い場合、または大統領の当選者がその資格を備えるにいたらない場合には、副
大統領の当選者は、大統領がその資格を備えるにいたるまで大統領の職を行う」
と規定する憲法修正第 20 条に取って代わられている。また下院は当選者が決定
するか、もしくは大統領の任期が切れるまで投票を続けなければならない。下
院が当選者を決定できなかった場合、副大統領が大統領となる。大統領となっ
た副大統領は憲法修正第25 条に基づいて新しい副大統領を指名しなければなら
憲法の修正条項
169
ない。この指名は議会の承認を必要とする。
憲法修正第 12 条が成立して以来、どの副大統領候補も過半数の選挙人を獲得
できなかった事例は 1 例のみである。1836 年の大統領選挙で民主党の大統領候
補のヴァン・ビューレンは過半数の選挙人を獲得できた一方で、副大統領候補
のリチャード・ジョンソン(Richard M. Johnson)は副大統領に当選するのに 1
票足りなかった。ジョンソンは父親から相続した奴隷を内縁の妻とし、その妻
が死亡した後も黒人女性と混血の女性の恋人を持っていた。そのためヴァージ
ニア州の 23 人の民主党の選挙人はジョンソンを支持することを拒んだ。上院は
上位 2 人、つまりジョンソンとホイッグ党の副大統領候補のフランシス・グレ
ンジャー(Francis Granger)の中から当選者を選ぶことになった。その結果、33
票対 16 票でジョンソンが副大統領に選ばれた。しかし、もしホイッグ党が上院
を支配していれば結果はどうなったかという疑念が残る。さらに憲法修正第 12
条は、
「上院議員の総数の 3 分の 2 をもって定足数」とすると規定しているが、
もしある党の上院議員達が副大統領の選出を妨害しようと欠席すればどうなっ
たかという疑念も残る。
こうした疑念はあるが、憲法修正第 12 条の下、上院は、下院が大統領を選出
するよりも容易に副大統領を選出することができるようになった。上院は上位 2
人の候補者から当選者を選ぶだけでよく、当選に要するのは州の多数ではなく、
上院議員の総数の過半数である。
連邦法と州法によって、憲法に示されている一般的規定に加えて、選挙人の
選出、認証、人名表の作成に関する手続きが定式化されている。選挙人は 1845
年に定められた法に従って 11 月の第 1 月曜日の次の火曜日に選出される。憲法
上、選挙人を選ぶ方式は各州の自由であるが、1876 年に州議会による選挙人選
出を一時復活させたコロラド州を除き、1860 年以来、すべての州は州法によっ
て選挙人を一般投票で選ぶ方式を採用している。選挙人を州議会が選ぶ方式を
最後まで残した州はサウス・カロライナ州である。1828 年までに他の州はそう
した方式を廃止していた。
メイン州とネブラスカ州以外のすべての州が勝者総取り方式を採用している。
勝者総取り方式では、州の一般投票で最多数の票数を得た候補がその州のすべ
ての選挙人を獲得する。メイン州とネブラスカ州は、州全体で最多数の票数を
得た候補が 2 人の選挙人を獲得し、残りの選挙人は下院選挙区 1 つにつき 1 人
の割合でその選挙区で最多数の票数を得た候補に分配される。
170
アメリカ大統領制度史上巻
もし大統領選挙の結果をめぐって何らかの紛争がある州で起きた場合、連邦
法は、その州が既存の手続きに従って独自に解決するように規定している。1876
年の大統領選挙ではまだそのような規定がなかったために、4 州の選挙人の投票
が問題となった時、議会は選挙委員会を作ることで解決を図った。その結果、
委員会はすべての選挙人の投票を共和党のヘイズのものと認めた。ヘイズは一
般投票で民主党のティルデンの後塵を拝していたが、委員会の裁定により、185
票対 184 票で選挙人投票において勝利を収めた。不正が行われたのではないか
という非難が国中に渦巻いた。1887 年、議会はもし将来、同様の事態が起きた
場合にその解決を州に委ねることを決定した。
全国の選挙人団は 1 つの団体として決して集わない。その代わりに選挙人は
12 月の第 2 水曜日の後の月曜日にそれぞれの州で会合して投票する。その後、
投票結果はワシントンに送付され、副大統領を議長とする両院合同会議で数え
られる。最近では、1961 年にニクソンが、1969 年にヒューバート・ハンフリ
ー(Hubert H. Humphrey)が、そして 2001 年にゴアが自らの敗北を両院合同会
議で宣告した。1989 年にジョージ・H・W・ブッシュは両院合同会議で自らの
当選を宣告した。
選挙人方式に対しては以下のような批判がある。国民の投票権を制限し、普
通選挙の精神に反する。選挙人は選挙人団として州毎に選ばれるが、それは国
民の意思を正確には代表していない。人口の多い州より人口の少ない州のほう
が有利である。一般投票で最も多くの票数を獲得した大統領候補でも選挙人の
獲得数で敗れる場合がある137。
実際に、憲法修正の提案の中で最も多いのが選挙人方式の改廃である。一般
投票と選挙人投票の不均衡は明らかである。1912 年の大統領選挙でウィルソン
は 41.8 パーセントしか一般投票を獲得できなかったのにも拘わらず、81.9 パー
セントの選挙人を獲得した。一方、同じくウィルソンは 1916 年の大統領選挙で
1912 年の大統領選挙を上回る 49.2 パーセントもの一般投票を獲得したのにも
拘わらず、52.2 パーセントの選挙人しか獲得できなかった。僅か 3,420 票差で
カリフォルニア州を制したことによりウィルソンの勝利が確定した。もしカリ
フォルニア州で敗北していたらウィルソンは選挙人投票で逆転されていただろ
う138。他にもレーガンは 1980 年の大統領選挙で 50.8 パーセントの一般投票し
か獲得していなかったのに拘わらず、
実に 90.9 パーセントの選挙人を獲得した。
また一般投票で勝利したのにも拘わらず選挙人投票で敗れる例もある。1876 年
憲法の修正条項
171
の大統領選挙ではティルデンがヘイズに一般投票で 3 パーセントの差をつけた
のにも拘わらず 1877 年の妥協の結果、選挙人投票で敗れた。1888 年の大統領
選挙ではクリーヴランドがベンジャミン・ハリソンに一般投票で 0.8 パーセント
の差をつけたのにも拘わらず選挙人投票で敗れ、再選を阻まれた。最近の例は
2000 年の大統領選挙である。ゴアはジョージ・W・ブッシュに一般投票で 0.5
パーセントの差をつけたが、選挙人投票で敗れた。
1824 年の大統領選挙で最も多くの選挙人を獲得しながらも下院による決選投
票で敗れたジャクソンは選挙人方式の廃止を提案している。ジャクソンは 1828
年の大統領選挙で勝利して大統領に就任した後、次のように提案している。
「すべての政治問題におけるように、この問題についてもその対策の要点は
世論の自由な活動に対して存在する障害をできるだけ少なくするということで
ある。然らば、行政府最高長官の官職が公正に表現された多数人民の意思のみ
に従って特定市民に付与されるように我々の政治体制に修正を加えるように努
力しよう。したがって私は大統領及び副大統領の選挙における中間介在的な諸
機構を一切撤去するように我が憲法を修正することを勧告したい。そのやり方
によっては、各州に対してそれが大統領と副大統領の選挙において現在有する
相対的な比重を崩さないようにすることができるだろう。そして、第 1 回の選
挙で所期の目的が達せられない場合には、第 2 回の選挙では、最高得票者 2 人
の中から決選投票によって決するように仕組んでおけば十分であろう。かかる
修正案に関連してであるが、行政府の最高長官の任期を 4 年または 6 年に制限
することがよいと考えられる」139
最近では選挙人方式をめぐって 4 つの修正が広く議論された。ケネディやリ
ンドン・ジョンソンなどを含む提唱者は、各州の選挙人が、その州で最多数の
一般投票を得た候補に自動的に投票する案を提案している。そうした案は選挙
人団を無傷で残すが、選挙人を実質的に廃止することになる140。またそうした
案は、不誠実な選挙人の問題を解決し、第三政党が得た選挙人を主要な政党の
候補と取引する材料に使う可能性を排除する。しかし、自動的に選挙人を割り
振る案の政治的な主な課題として、国民、もしくは議会の関心を呼び起こすこ
とができないという点がある。またその案によって改善される欠点は相対的に
微小である。
1950 年代に人気を集めたのがヘンリー・ロッジ(Henry Cabot Lodge, Jr.)上院
議員とエド・ゴセット(Ed Lee Gossett)下院議員によって提案された案である。
172
アメリカ大統領制度史上巻
彼らの案は、大部分の州で採用されている勝者総取り方式を廃止し、州の一般
投票の得票率に応じてその州の選挙人を候補に割り振るという案である。もし
この案が実現すれば、各大統領候補は、対抗者に一般投票で大きく差を空けら
れると予測される州であっても諦めずに選挙運動を活発に展開するようになる
という利点が考えられる。また第三政党の候補が立候補する動機を持ち易くな
るが、どの候補も過半数を獲得できず、大統領の選出は下院に、副大統領の選
出は上院に委ねられる可能性が高くなる。政治的には、大きな州がこの案を大
統領選挙における優越を脅かす案と見なしている。
メイン州やネブラスカ州で行われているような方式をすべての州で採用する
という案もある。州の一般投票で最多数を獲得した候補が 2 人の選挙人を獲得
し、残りの選挙人は下院選挙区毎に 1 人ずつ割り振られ、それぞれの選挙区で
最多数を獲得した候補がその選挙区に割り振られた選挙人を獲得する。この案
は得票率に応じて選挙人を割り振る案の長所と短所のすべてを持っている。
全国の一般投票で最多数を獲得した候補に 102 人の選挙人をボーナスとして
与える案が提案された。ボーナスの選挙人の数が 102 人である理由は、50 州と
コロンビア特別行政区にそれぞれ 2 人ずつ選挙人を割り振ったと想定したから
である。この案は実質的に議会が大統領の選出に関与する可能性を排除してい
る。この案の問題は、1960 年の大統領選挙のように全国の一般投票の得票率が
僅かに 0.2 パーセントしか違わない場合、ボーナスをどの候補に与えるか決定す
るのに長い時間がかかり、したがって早期に当選者を決定することが難しくな
ることにある。
大統領選挙を改革する提案の中で最も人気がある案は選挙人を廃止し、人民
の直接投票で大統領を選出する案である。直接投票を提案する案は多く出され
たが、その大半が大統領の選出に少なくとも 40 パーセントの得票率を必要とす
る点で共通している。もしどの候補も 40 パーセントを獲得できない場合は、上
位 2 人によって決選投票が行われる。ニクソン、フォード、そしてカーターは
そうした案を支持していた。1969 年、下院は 338 票対 70 票で直接選挙を認め
る修正を憲法に加えることを可決した。しかし、1979 年、上院で同様の表決が
行われたが、賛成は 51 票にとどまり、修正を発議するのに必要な 3 分の 2 の賛
成が得られなかった。多くの国民は世論調査において直接選挙に対して肯定的
である141。
直接選挙による大統領選挙の利点は、大統領選挙をその他のアメリカの選挙
憲法の修正条項
173
と同じ形式にすることができる点、その過程を国民により分かり易くすること
ができる点、どの候補も過半数の選挙人を獲得できない場合に議会が大統領を
選出する可能性を排除できる点、そして、1824 年、1876 年、1888 年、2000
年の 4 回の大統領選挙で起きたように全国の一般投票で劣る大統領が選ばれる
可能性を排除できる点にある。
直接選挙による大統領選挙に反対する者は、そうした方式は憲法上で認めら
れた連邦主義を侵害し、第三政党の形成を助長し、その結果、どの候補も 40 パ
ーセントの得票率を得ることが難しくなり、決選投票において第三政党が主要
な政党と取引しようとするようになると主張する。
ゴアが一般投票でジョージ・W・ブッシュに勝利しながらも、選挙人の獲得
数で選挙に敗北した 2000 年の大統領選挙の直後、改革を求める新しい声があが
った。例えばヒラリー・クリントン(Hillary Clinton)上院議員は、直接選挙を支
持して選挙人を廃する案を提案した。しかし、憲法の修正を求める声は、フロ
リダ州の選挙人をブッシュとゴアのどちらが獲得するか議論する声に打ち消さ
れた。
政治的に、大統領を直接選挙で選ぶ案は、大きな州と比べて選挙人方式で利
点を持つ小さな州の連合によって阻まれた。選挙人は州の連邦上院議員の数と
連邦下院議員の数に応じて割り当てられる。連邦下院議員の数は人口比に応じ
て決定されるが、連邦上院議員の数は人口比ではなくどの州でも 2 人と決めら
れているので小さな州にとって有利であった。
現在、有志によって各州で全国一般投票法を成立させる運動が進んでいる。
全国一般投票法は、全国の一般投票で最多数を得た候補に州がすべての選挙人
を獲得させるという法である。同法は、選挙人方式を変えることなく、各州議
会が選挙人を選ぶ方式を任されている憲法上の規定を利用して、実質的に直接
選挙を実現しようとする試みである。現在、7 州が全国一般投票法を制定してい
る。7 州の選挙人の合計は 132 人であり、今後、賛同する州が増え、過半数の
270 人を超えれば、全国一般投票法は実効的になる142。
第 2 節 憲法修正第 20 条
1933 年に成立した憲法修正第 20 条は「死に体」修正としても知られている。
大統領、副大統領、そして連邦議員が選出されてから就任するまでの時間を短
174
アメリカ大統領制度史上巻
縮している。退任する大統領、副大統領、そして連邦議員の政治的影響力が低
下する期間、すなわち死に体の期間をできるだけ短くすることが主な目的であ
る。修正が成立する前、もし大統領が特別会期を招集しなければ、新たに選ば
れた連邦議員の休止期間は、11 月の第 1 月曜日の後の火曜日、つまり投票日か
ら、憲法第 1 条第 4 節 2 項で定められた翌年の 12 月の最初の月曜日までの 13
ヶ月であった。大統領と副大統領が就任するまでの期間は投票日から翌年の 3
月 4 日までの 4 ヶ月であった。大統領就任の日付が 3 月 4 日に定められたのは
連合規約に基づく連合会議の決定による。
1788 年に合衆国憲法が批准された後、
連合会議は1789 年3 月4 日を新しい憲法下で新政府を開始する日付と決定した。
そして、1792 年に 3 月 4 日を大統領の任期の開始日とする法が定められた。
憲法修正第 20 条の主要な起草者であるジョージ・ノリス(George W. Norris)
上院議員は 3 つの欠点を修正しようとした。もともと 3 月 4 日が新政府の開始
日と定められたのは、当時の旅行が困難であり、時間を要するものであったか
らである。
第 1 の欠点は、
2 年に 1 度、
議会に死に体の会期が訪れることである。
その会期は選挙の後の 12 月から翌年の 3 月まで続き、敗北した政党の退職する
議員を多く含むことになる。第 2 の欠点は、大統領が就任する前に議会が開会
されないことで、現行の制度では死に体の議会に、もし選挙人によって大統領
と副大統領を選出できない場合、大統領と副大統領を選出させることになる。
これは 1801 年と 1825 年に実際に起きた。第 3 の欠点は、国に実質的に 2 人の
大統領、現職大統領と大統領当選者が 4 ヶ月も並存するのは長過ぎる。
死に体と大統領の並存の問題を解決するために、憲法修正第 20 条第 1 節は、
1 月 20 日正午を大統領と副大統領の 4 年の任期の開始日とし、1 月 3 日正午を
連邦議員の任期の開始日とした。17 日間の猶予を与えれば、もし大統領の選出
が下院に、副大統領の選出が上院に委ねられた場合も十分な時間的余裕を持て
ると考えられた。大統領の就任日の繰上げは、旧制度の移行期において、世界
恐慌で苦しむアメリカ国民が 1932 年の大統領選挙で敗れたフーヴァーと勝利
したフランクリン・ローズヴェルトの間で起きた 4 ヶ月にわたる膠着状態を見
た時にその有効性が証明された。しかし、大統領当選者は、当選から 11 週間で
大急ぎで人員や政策を政権の開始に備えて適合させなければならなくなった
143。1993 年に大統領としてクリントンが政権初期に直面した多くの問題は、
性急に人員と政策を準備したことによる。
ノリスは憲法修正第 20 条を大統領と副大統領の選出過程における2 つの問題
憲法の修正条項
175
を解決する手段として使った。憲法修正第 20 条第 3 節は、もし任期の開始日の
前に大統領当選者が死亡した場合、副大統領当選者が大統領になると規定して
いる。1967 年に成立した憲法修正第 25 条第 2 節の下、大統領職を継承した副
大統領当選者は、新しい副大統領を指名し、議会の承認を得ることになる。
大統領当選者の死亡の場合に加えて、憲法第 20 条第 3 節は、もし任期の開始
日までにどの大統領候補も過半数の選挙人を獲得できないか、あるいは下院で
当選者を決定できない場合、副大統領当選者が、大統領が選ばれるまで大統領
代理となると規定している。憲法第 2 条第 1 節 5 項の下、年齢、市民権、もし
くは居住期間の条件によって大統領当選者が大統領に就任する資格を持たなか
った場合も、大統領が資格を有するようになるまで副大統領当選者が大統領代
理となる。また憲法修正第 20 条は、大統領当選者と副大統領当選者がその資格
を備えることができない場合に、議会はどのような方法で誰が大統領の職務を
行うか決定するかを法で決めることができると規定している。
その規定に従って、議会は 1947 年に大統領継承法を可決した。同法は、大統
領、もしくは副大統領が選出されるまで下院議長が大統領代理となると規定し
ている。大統領代理になることで下院議長は大統領の資格要件を満たすだけで
はなく、議員を辞職しなければならないと考えられる。下院議長に続く継承順
位は上院仮議長である。上院仮議長の次は国務長官であり、その後は各省の長
官が省の創設された順番に従って続く。
大統領当選者、もしくは副大統領当選者が正式に当選が宣告される前に死亡
した場合を想定して憲法修正第 20 条第 4 節は制定された。憲法修正第 20 条 4
節は、そのような不測の事態に備えて議会が法を制定することしか求めていな
い。しかしながら議会はそのような法を制定していないので、もし実際に不測
の事態が起これば即興で法を制定しなければならない。議会が採り得る選択肢
は、選挙人を数える際に大統領当選者が死亡している場合、その候補者の当選
を宣告し、憲法修正第 20 条第 3 節に基づいて副大統領当選者を大統領と認める
か、副大統領当選者が死亡している場合、憲法修正第 25 条第 2 節に基づいて大
統領の宣誓が行われた後に新大統領に副大統領を新たに指名させるかである。
議会のその他の選択肢は、敗北した大統領候補の中から下院に大統領を選ばせ
ることである。技術的には議会が死亡した候補が大統領に不適格であることを
宣告し、敗北した候補の選挙人を数え、上位 3 人の候補の中から大統領を下院
に選出させることが考えられる。しかし、二大政党制度の下で行われた多くの
176
アメリカ大統領制度史上巻
大統領選挙で、当選者の他に選挙人を獲得できたのは 1 人だけである場合が多
いという問題点がある。
1932 年 3 月 2 日、憲法修正第 20 条は容易に議会を通過し、1933 年 2 月 6
日、異論もなく批准された。歴史上、すべての州が即座に批准を認めた唯一の
修正である144。奇しくも修正が成立した 9 日後に大統領当選者のフランクリ
ン・ローズヴェルトの暗殺未遂事件がフロリダ州マイアミで起こり、修正の必
要性を実感させた。
1933 年 2 月 15 日、ローズヴェルトが演説を終えた直後に、無政府主義者の
ジュゼッペ・ザンガラ(Giuseppe Zangara)が 5 発の銃弾を放った。その時、ロ
ーズヴェルトはシカゴ市長のアントン・サーマク(Anton Cermak)と会話中であ
った。ローズヴェルトは無傷であったが、サーマクは右肺に銃弾を受け、その
他、数人が負傷した。シークレット・サーヴィスに護衛されてローズヴェルト
はその場を去った。サーマクは銃創が原因で 19 日後、亡くなった。ザンガラは
死刑判決を受け、1933 年 3 月 20 日に処刑された。
第 3 節 憲法修正第 22 条
憲法修正第 22 条は、何人も 2 回を超えて大統領に選出されてはならないと規
定している。また前大統領から大統領職を引き継いだ大統領も 2 年以上、在職
した場合、1 回を超えて大統領に選出されてはならないと規定している。もし大
統領職を引き継いだ大統領が 2 年未満しか在職しない場合、2 回の選出が許され、
合計の任期は 10 年未満となる。憲法修正第 22 条は、議会がこの問題を考えて
いる当時の大統領であったトルーマンを対象外にするように考えられ、
「本条の
規定は、それが効力を生ずる時に任期にある大統領の職にある者またはその大
統領の職を行う者が、その任期の残余期間中大統領の職にありまたは大統領の
職を行うことを妨げるものではない」と規定している。憲法修正第 22 条は、2
期在任の伝統を破って 4 選を果たしたローズヴェルトに対する共和党が支配す
る議会の非難の表れである。
大統領の在職は 2 期までに限るべきだと公式に表明した初めての大統領はジ
ェファソンである。3 期目に出馬するように求めるヴァーモント州議会からの手
紙に、1807 年 12 月 10 日、ジェファソンは以下のように答えている。
「行政首長の業務の終わりについては憲法で定められていませんし、慣習で
憲法の修正条項
177
も定められていませんが、彼の在任は、名目上、4 年ですが、実際は終身になる
かもしれず、歴史はそれがいかにたやすく世襲に変わるのを示しています。短
い選挙期間で責任を持つ代議政府は人類に多くの幸せをもたらすと信じて私は
そうした原理を本質的に傷付けるような行動をとらないことが義務であると感
じますし、2 期を越えた任期の延長に対する最初の例をもたらした模範的な前任
者によって打ち立てられた健全な先例を無視する人物になるのは気が進みませ
ん」145
ジェファソンがワシントンを模範的な前任者として言及したのは完全に適切
であるとは言えない。ワシントンは自発的に 2 期で大統領職を退いたが、それ
は何らかの原理に基づいたわけではなく、政治の世界から引退したいという個
人的な欲求が強かった。しかし、ジェファソンによる任期を 2 期に限る伝統は
大統領制度にすぐに定着した。ジョン・クインジー・アダムズはそうした伝統
を「暗黙の補足的な憲法」と述べている146。さらにホイッグ党員と多くの民主
党員は大統領の任期を 1 期に限るべきだと議論するようになった。実際、ジャ
クソン以降、リンカンが登場するまで選挙で当選して 2 期務めた大統領は 1 人
もいなかった。ジャクソンも大統領の任期を 6 年に延ばす一方で 1 期に限るよ
うに憲法を修正するべきだと主張していた。ワシントンからフーヴァーまでの
30 人の大統領の中で 20 人が 1 期だけか、もしくはそれ以下の任期しか持たな
かった。
19 世紀後半から 20 世紀初期にかけて、3 期目の問題は時折、議論されるだけ
であった。グラントとウィルソンは 3 期目に向けて意欲を見せたが、2 期目の終
わりに人気が低迷していたために大統領候補指名獲得でさえ難しいと思われた。
セオドア・ローズヴェルトの事例はさらに複雑である。ローズヴェルトが大統
領選挙で当選したのは 1904 年の 1 回だけであり、その前に前任者のマッキンリ
ーの任期を引き継いで 3 年半在職した。1908 年、ローズヴェルトは再指名を辞
退した。ローズヴェルトの人気を考えると当選は確実に思われたが、ローズヴ
ェルトは大統領の任期を 2 期に限る伝統を「賢明な慣習」と評した。しかし、4
年後、ローズヴェルトは再び大統領選挙に出馬した。1908 年にローズヴェルト
は「3 杯目のコーヒー」を飲むことを否定したが、それはコーヒーを再び飲まな
いと決意したわけではなく、
「もちろん私が意味したのは 3 期続けての任期」だ
147
と述べた 。
1940 年に大統領の任期を 2 期に限る伝統はフランクリン・ローズヴェルトに
178
アメリカ大統領制度史上巻
よって破られた。1937 年、ローズヴェルトは 3 期目の可能性を完全に排除しな
かったが、1941 年 1 月 20 日の大きな抱負は後継者に大統領職を引き継ぐこと
だと述べた。数多くの民主党員が大統領選挙に出馬する意思を固めた。しかし、
ローズヴェルトは 2 期目が経過するにつれ、自らの政策と計画に抵抗する議会
にますます苛立ちを募らせるようになった。1939 年に第 2 次世界大戦が始まる
と、アメリカのみが世界情勢の喧騒から逃れ続けることができる見込みはほと
んどなかった。1940 年 7 月の民主党全国党大会でローズヴェルトは最終的に 3
期目への意欲を公表した。全国党大会の代表達は圧倒的多数でローズヴェルト
を支持した。
ローズヴェルトの立候補の正当性について世論は分かれ、共和党員は彼らの
候補者であるウェンデル・ウィルキー(Wendell Willkie)を応援するために「3 期
目を阻止せよ」と叫んだ。民主党員はリンカンの言葉を引用して「川の流れの
中で馬を変えること」は馬鹿げていると反論した。ローズヴェルトは 1940 年の
大統領選挙で勝利を収めたが、一般投票の差は、1936 年の 1,108 万票から 494
万票に減少した。第 2 次世界大戦の勝利が目前となっていた 1944 年の大統領選
挙では、ローズヴェルトは 360 万票差で勝利した148。そして、ローズヴェルト
は 4 期目に入って 3 ヶ月もしないうちに病死した。
議会は大統領の任期を制限していない憲法に決して満足していたわけではな
かった。1789 年から 1947 年に至るまで 270 もの大統領の任期を制限する決議
が議会に提出された。ローズヴェルトの登場は、この長い間、懸案事項だった
問題に党派的な側面を付け加えた。1932 年、共和党はローズヴェルトのニュー・
ディール連合によって権力の座を追われた。保守的な南部の民主党員は、リベ
ラル派と北部の民主党員に党の支配権を譲り渡した。
1946 年の中間選挙で共和党は上下両院で多数派を奪還した。1947 年 2 月 6
日、下院は大統領の任期を 2 期に限る修正を憲法に加える案を 285 票対 121 票
で可決した。下院の案は、1 期を完全に務め、もう 1 期を 1 日でも務めた大統領
は再選を求めることはできないと規定している。共和党議員は全会一致でこの
修正を支持し、民主党議員は 47 人が賛成し、121 人が反対した。民主党議員の
賛成票は大部分が南部の民主党議員の票であった。3 月 12 日、上院は 1 期を完
全に務め、もう 1 期を半分未満務めた大統領に再選を認めるように変更したう
えで憲法修正を 59 票対 23 票で可決した。共和党議員は下院と同じく全会一致
で修正を支持した。民主党議員は 13 人が賛成し、23 人が反対した。下院の案
憲法の修正条項
179
と上院の案の違いは速やかに調整され、1947 年 3 月 24 日に議会は最終決定を
下した。
憲法修正第 22 条をめぐる議論は、党派的な問題に憲法上の原理が被されてい
た。共和党は、大統領の任期を 2 期に限ることでアメリカ国民は過度に個人化
した大統領制度の脅威から守られると主張した。さらに共和党のレオ・アレン
(Leo Allen)下院議員は、国民に大統領が在任する期間を制限できる機会を与え
るべきだと述べた。それに対して民主党のエステス・キーフォーヴァー(Estes
Kefauver)下院議員は、国民はもし大統領が再任を求めれば、4 年毎に大統領が
在職を終わらせるべきか否か判断する機会を持つことができると答えた。大統
領の任期に制限を設けなかった憲法制定会議の決定にほとんど注意が払われる
ことはなかった。また議会は修正が副大統領にもたらす好ましい政治的影響を
予見することもなかった。2 期を務めた大統領が再任を禁止されることで、副大
統領は政権内の地位を維持したままで次の大統領候補指名を獲得するために公
然と選挙運動を行うことができるようになった。
憲法修正第 22 条が発議された後、批准を求められた各州の反応は様々であっ
た。憲法修正第 22 条が成立するまで 3 年 11 ヶ月を要した。議会の発議から成
立に至るまでの期間は 2 番目に長い。ちなみにその期間が最も長かったのは、
議会が議員報酬を引き上げるのを制限する憲法修正第 27 条である。1789 年に
発議されてから 1992 年に成立するまで 203 年を要した。1947 年に 18 の州議
会が修正第 22 条を承認した。いずれの州も共和党の地盤であった。その後、批
准はゆっくりと進んだ。南部は民主党の地盤であったが、トルーマンが公民権
法を推進したことによって、人種分離を求める南部の州議会は修正を批准する
ようになった149。その結果、1951 年 2 月 27 日、憲法修正第 22 条は成立した。
成立後、さらに 5 州が批准し、批准した州は 41 州となった。
憲法修正第 22 条が成立して以来、2 期を完全に務めた大統領がまだそれ程多
くないために、修正が近代的大統領制度と現代的大統領制度にどのような影響
を与えたのか見極めることは難しい。
ケネディは 1 期目の 3 年目で暗殺された。
1963 年 11 月 22 日に大統領職を引き継いだリンドン・ジョンソンはケネディの
任期の半分未満しか務めていないので、さらに 2 期務めることができた。しか
し、1968 年に人気が低迷していために、ジョンソンは大統領選挙に出馬するこ
とを断念せざるを得なかった。ニクソンは 1972 年に再選されたが、2 期目の半
分が過ぎる前に辞任した。フォードはニクソンの任期の半分以上を務めたため
180
アメリカ大統領制度史上巻
に、さらに 1 期しか務めることが認められていなかった。しかし、フォードは
大統領選挙で敗北した。1976 年の大統領選挙でフォードを破ったカーターは
1980 年の大統領選挙でレーガンに敗北し、1 期で大統領職を追われた。レーガ
ンの後継者のジョージ・H・W・ブッシュもクリントンに再選を阻まれた。
憲法修正第 22 条の適用を受けた最初の大統領はアイゼンハワーである。1960
年にアイゼンハワーは 3 期目に立候補する意欲を持っていたという。大統領と
してアイゼンハワーは憲法修正第 22 条に対して「深い懸念」を抱いていた150。
レーガンは憲法修正第 22 条の適用を受ける 2 番目の大統領であった。レーガン
は 2 期目に大統領の任期を 2 期に制限する条項を撤廃するために憲法を修正す
ることを主張した。ただしレーガン自身には適用されない形式での修正である。
結局、レーガンの主張は認められなかった。アイゼンハワーやレーガンの人気
にも拘わらず、アメリカ国民は憲法修正第 22 条の撤廃を望む様子をまったく見
せなかった。アメリカ国民の間には、大統領は強力な指導者であるべきだが、
強力になり過ぎるのを防ぐために限られた時間のみ指導者であることを許され
るという見解の一致が行き渡っているようである。しかし、大統領の任期を制
限することによって、大統領の権限は縮小されることになる。また大統領は 3
期目を目指して大統領選挙に出馬できないことで自党の支持を失う恐れがある。
それと同時に大統領の影響力が弱まる恐れがある151。
第 4 節 憲法修正第 25 条
憲法修正第 25 条は、副大統領職の空席と大統領の不能力という 2 つの問題を
取り扱うために制定された。大統領が免職、死亡、辞職した場合に副大統領が
大統領の権限を代行するのではなく、大統領職を継承する権利についても取り
扱われている。もともとの憲法の規定では、大統領が免職、死亡、辞職した場
合に副大統領は大統領になるのか、それとも単に大統領代理となるのか不明確
であった。1841 年にウィリアム・ハリソンが死亡した時、タイラーは副大統領
が大統領職を継承する権利を明言し、その後の継承の前例を作った。憲法修正
第 25 条第 2 節によれば、副大統領職が空席になった場合、大統領が副大統領候
補を指名し、議会の承認を受けることになっている。憲法修正第 25 条第 3 節と
第 4 節によって、大統領の不能力を扱う具体的な手続きが明示された。こうし
た条項によって、大統領単独か、もしくは副大統領及び閣僚の過半数が大統領
憲法の修正条項
181
の不能力を宣告した場合、大統領の権限は一時的に副大統領に移る。大統領の
不能力をめぐって大統領と副大統領及び閣僚の間で論争が起きた場合、解決は
議会に委ねられている。
憲法第 2 条第 1 節 6 項は、大統領が免職、死亡、辞職、または不能力に陥っ
た場合は、その権限は副大統領に移ると規定している。しかし、
「同上」という
言葉が、大統領の「権限と義務」が副大統領に移ることを意味するのか、単に
「上述の職」
、つまり、大統領職が移るのか明確ではない。また憲法は、不能力
とはどのような状態であるのか、必要に応じてどのように副大統領が大統領の
職務を開始すればよいのか、そして副大統領は実際に大統領になるのか、それ
とも一時的に大統領の権限を代行するだけなのか明記していなかった。
憲法の曖昧な規定によって生み出されたこうした問題は、ガーフィールドと
ウィルソンが長い間、不能力に陥った時に明らかになった。ガーフィールドが
銃撃されたのは 1881 年 7 月 2 日だが死亡したのは 9 月 19 日である。閣僚は状
況を議論するために会合し、アーサーは副大統領として合法的に大統領になれ
るが、そうすることでもしガーフィールドが回復した場合、職務を再開する妨
げとなると結論付けた。
ウィルソンの閣僚と多くの議員は、1919 年と 1920 年にウィルソンが長期に
わたって病床についた際に、トマス・マーシャル(Thomas R. Marshall)副大統
領に一時的に大統領の権限を移そうとしたが、憲法に明確な規定がなく、ホワ
イト・ハウスの職員の抵抗もあったために実現しなかった。ガーフィールドと
ウィルソンの不能力は非常に長期にわたったが、マディソン、ウィリアム・ハ
リソン、アーサー、クリーヴランド、マッキンリー、ハーディング、フランク
リン・ローズヴェルト、アイゼンハワー、ケネディ、レーガンなど約 3 分の 1
の大統領もその任期中に一時的に不能力に陥っている。
副大統領が死亡、辞職、免職の場合か、もしくは大統領職を継承した場合、
副大統領職は空席になる。副大統領職が空席になった事例は 18 回である。1812
年、マディソン政権下のクリントン副大統領が在職中に死亡し、1813 年まで副
大統領職は空席となった。マディソン政権 2 期目のゲリー副大統領も 1814 年に
在職中に死亡し、1817 年まで副大統領職は空席となった。ジャクソン政権下の
ジョン・カルフーン(John C. Calhoun)副大統領は連邦上院議員に選出された
ことで辞職し、ジャクソンの 1 期目の残りの任期が終わるまで副大統領職は空
席となった。1841 年、ウィリアム・ハリソンの死去に伴ってタイラーは大統領
182
アメリカ大統領制度史上巻
に昇格し、1845 年まで副大統領職は空席となった。3 年 11 ヶ月に及ぶこの空席
は史上最も長く副大統領職が空席となった期間である。1850 年、テイラーの死
去に伴ってフィルモアは大統領に昇格し、1853 年まで副大統領職は空席となっ
た。1852 年の大統領選挙で副大統領候補として当選したウィリアム・キング
(William DeVane King)は結核のためキューバで療養中であり、同地で宣誓を執
り行った。しかし、1853 年 4 月 18 日にキングは死亡し、ほとんど何も副大統
領としての責務を果たさなかった。キングの任期は最も短い副大統領の任期で
ある。1865 年 4 月、リンカンの暗殺に伴ってアンドリュー・ジョンソンは大統
領に昇格し、1869 年まで副大統領職は空席となった。グラント政権下のヘンリ
ー・ウィルソン(Henry Wilson)副大統領は 1875 年に在職中に死去し、1877 年
まで副大統領職は空席になった。1881 年、アーサーはガーフィールドの暗殺に
伴って大統領に昇格し、1885 年まで副大統領職は空席となった。クリーヴラン
ド政権 1 期目のトマス・ヘンドリックス(Thomas Hendricks)副大統領は 1885
年に在職中に死亡し、1889 年まで副大統領職は空席となった。マッキンリー政
権 1 期目のギャレット・ホバート(Garret A. Hobart)副大統領は 1899 年に在職
中に死亡し、1901 年まで副大統領職は空席となった。1901 年 9 月にマッキン
リーが暗殺された後、セオドア・ローズヴェルトは大統領に昇格し、1905 年ま
で副大統領職は空席となった。タフト政権下のジェームズ・シャーマン(James
Sherman)副大統領は 1912 年に在職中に死去し、1913 年まで副大統領職は空席
となった。
1923 年にクーリッジはハーディングの死亡に伴って大統領に昇格し、
1925 年まで副大統領職は空席となった。1945 年、トルーマンはフランクリン・
ローズヴェルトの死去に伴って大統領職を継承し、1949 年まで副大統領職は空
席となった。1963 年、ケネディの暗殺に伴ってリンドン・ジョンソンは大統領
に昇格し、1965 年まで副大統領職は空席となった。ニクソン政権下でアグニュ
ー副大統領は 1973 年 10 月に辞職し、約 2 ヶ月後にフォードが副大統領に就任
するまで副大統領職は空席となった。1974 年 8 月、ニクソンの辞任によってフ
ォードが大統領に昇格したために、新たにネルソン・ロックフェラー(Nelson A.
Rockefeller)が副大統領に就任するまで約 4 ヶ月間、
副大統領職が空席となった。
憲法修正第 25 条が成立するまで、大統領職と副大統領職が同時に空席になる
事態に備えて大統領継承法が定められていた。1792 年から 1886 年までは、そ
のような事態が起きた場合、上院仮議長が大統領に、下院議長が副大統領とな
り、特別大統領選挙を行うと規定されていた。しかし、ガーフィールドの暗殺
憲法の修正条項
183
によって 1792 年大統領継承法が見直された。ガーフィールドを継承して副大統
領であったアーサーが大統領に昇格したために副大統領職が空席になった。
1792 年大統領継承法は上院仮議長と下院議長を副大統領に次ぐ継承順位に置い
ているが、上院仮議長も下院議長もその当時は空席であった。下院は招集され
ておらず、上院も党派間の争いによって上院仮議長が決まっていなかった。こ
うした事態を改善するために 1886 年大統領継承法が制定された。1886 年から
1947 年までは、国務長官とその他の閣僚が継承順位に置かれた。
そして、1947 年大統領継承法によって、副大統領の次に下院議長が大統領職
を引き継ぐように規定された。その次は上院仮議長である。そして、国務長官、
財務長官、国防長官、司法長官、内務長官、農務長官、商務長官、労働長官、
保健福祉長官、住宅都市開発長官、運輸長官、エネルギー長官、教育長官、退
役軍人長官と閣僚が続く。ジョージ・W・ブッシュ政権で国土安全保障省が設
立され、国土安全保障長官が継承順位の末席に加わった。しかし、これまで大
統領職と副大統領職が同時に空席になるといった事態は 1 度も起きていない。
大統領の不能力と副大統領職の空席に関する国民と議会の関心は低く、大統
領が不能力に陥った時に関心が高まったと思えば、危機が過ぎた後、またすぐ
に低くなった。しかし、1945 年から 1963 年の間、大統領をめぐる一連の出来
事が、憲法上のこうした問題について関心を集める契機となった。1945 年以降
の核兵器及び大陸間弾道ミサイルの発明と拡散によって、有能な大統領がいつ
でも権限を行使できるように求める声が強くなった。アイゼンハワーは、1955
年には心臓発作で、1956 年には回腸炎とその手術で、1957 年には卒中で不能
力に陥った。さらに 1963 年のケネディの暗殺により、心臓疾患を持つリンド
ン・ジョンソンが昇格して大統領になり、副大統領が不在になったため、法的
に指定される第 1 の継承者は、慢性的な疾患を持つジョン・マコーマック(John
W. McCormack)下院議長となった。
憲法修正第 25 条の明らかな 1 つの契機となったのが、アイゼンハワーが副大
統領のニクソンに宛てた手紙の公表である。その手紙の中でアイゼンハワーは、
もし自分が再び不能力に陥った場合、不能力が去り、大統領が権限の返還を要
求するまで副大統領が大統領代理を務めるように指示した。さらに、もしアイ
ゼンハワーが不能力に陥り、何らかの理由で意思を副大統領に伝えられない場
合、アイゼンハワーが大統領の権限を復活させると決定する時まで副大統領自
身の判断で権限を肩代わりするように指示した。
184
アメリカ大統領制度史上巻
アイゼンハワーが示した方針は、ケネディとジョンソン、ジョンソンとマコ
ーマック、
1964 年の大統領選挙後はジョンソンとハンフリーに受け入れられた。
しかし、アイゼンハワーの方針は大統領の不能力の問題を完全に解決したわけ
ではない。アイゼンハワーの手紙は法的強制力を欠く。また不能力でありなが
らそれを認めようとしない大統領を解任できるか否かについては定められてい
ない。さらに結果的に生じる副大統領職の空席をどうするかについて言及され
ていない。
1963 年 12 月、ケネディが暗殺されて間もない頃、憲法修正に関する司法委
員会小委員会の長を務めるバーチ・バイ(Birch Bayh)上院議員は、大統領の不能
力と副大統領職の空席を解決する憲法修正を図るために公聴会を開くことを宣
言した。アメリカ法曹協会の特別委員会と協力してバイは小委員会の公聴会の
叩き台となる修正を起草した。バイが起草した条項は若干の手が加えられて憲
法修正第 25 条として成立した。
1964 年 9 月 29 日、上院は修正を全会一致で可決した。しかし、下院はなか
なか動こうとしなかった。おそらく、副大統領職の空席を埋める修正が、従来
の制度では副大統領がいない場合、大統領職を継承することになる下院議長に
対する軽侮だと見なされたからであろう。しかし、1964 年の大統領選挙でハン
フリーが副大統領に選出された後、上院は再び全会一致で修正を可決し、下院
も 1965 年 4 月 13 日、368 票対 29 票で修正を可決した。
初めから憲法修正第 25 条に関する議会の懸念は、不能力の規定に向けられて
いた。バイの草稿と議会によって認められた案は、修正の第 3 節と第 4 節で 3
つの異なった状況を対象にしていた。1 つ目の状況は、まず大統領がその職の権
限と義務を遂行できなくなることを認識する。大統領から上院仮議長と下院議
長に手紙が送られ、副大統領が大統領代理となる。不能力が去ったことを伝え
る手紙によって大統領はその権限を回復する。
2 つ目の状況は、大統領が不能力に陥ると同時にその職の権限と義務を遂行で
きなくなることを認識できない場合である。副大統領と閣僚が状況を議論する
会議を開く。もし副大統領と閣僚の過半数が大統領の不能力を宣告する場合は、
大統領が議会に手紙で不能力が去ったことを伝えるまで副大統領が大統領代理
となる。
不能力に関する 3 つ目の状況が最も困難な状況である。精神的な不調や突然
の身体的な不調のように、大統領が不能力に陥っているか否か議論になる可能
憲法の修正条項
185
性がある。大統領が不能力ではないと否定しても副大統領と閣僚は違ったよう
に判断するかもしれない。
憲法修正第25 条は、
もしこうした事態が起きた場合、
議会の判断に従って副大統領が大統領代理となることを想定している。議会は
大統領が不能力か否か判断するのに最大 3 週間の猶予が与えられ、大統領自身
の判断を覆すのに両院の 3 分の 2 の票を必要とする。3 分の 2 の票を必要とす
るように規定されているのは、大統領に疑わしきは罰せずの利益を与えるため
である。憲法修正第 25 条は、大統領が不能力である限り、その権限は副大統領
に移ると規定しているだけなので、大統領が、不能力が解消されたと主張する
場合、すべての過程がもう 1 度繰り返されることになる。
バイを批判する者は、不能力の決定に関して行政府に過度の権限を与え過ぎ
ていると指摘する。立法府、司法府、行政府の代表から構成される委員会に不
能力を決定させる案も提案された。バイは自らの提案を、政権外の者に大統領
から権限を剥ぎ取る可能性を認めることは憲法上の三権分立の原理を侵害する
恐れがあると擁護した。最終的に、立法府にある程度の権限を与え、不能力の
宣告を避けるために大統領が閣僚を罷免する可能性を排除するために、憲法修
正第 25 条は、閣僚に代わって議会が選ぶ他の機関の長の過半数が大統領の不能
力を宣告できるように規定している。
興味深いことに、憲法修正第 25 条は不能力の決定に関して詳細な手続きを規
定しているのに拘わらず、不能力が何であるのか明確に定義していない。議会
の討論から、不能力が無能、怠惰、不人気、もしくは弾劾され得る行為を意味
していないのは明らかである。議会は、不能力に関して特定して明記すること
は、医学の見解の変化によって時代遅れとなる可能性があると考えた152。
議会は、副大統領職が空席となった時に直ちに新しい副大統領を任命する必
要性を認めた。それにより、大統領職が与党に引き継がれる可能性と常に副大
統領が大統領の不能力に関する規定を実行できる可能性が高まった。空席が生
じた際に大統領が新しい副大統領を指名し、両院の過半数による承認を受ける
というバイの提案は、憲法修正第 25 条第 2 節として結実した。議会、もしくは
前回の大統領選挙の選挙人団が副大統領を指名する案が提案された。また大統
領による副大統領の指名を認めるか、拒絶する権利を放棄するか議会に時間制
限を課す案も提出された。いずれの案も否決された。
憲法修正第 25 条の批准に対して強い反対はなかった。1967 年 2 月 10 日、憲
法修正第 25 条は成立した。最終的に 3 つを除くすべての州が批准した。憲法修
186
アメリカ大統領制度史上巻
正第 25 条が実際に適用される機会はすぐに訪れた。1973 年 10 月 10 日、連邦
裁判所で収賄に関する容疑で告発されていたアグニューは司法取引の一環とし
て副大統領を辞職した。10 月 12 日、ニクソンは憲法修正第 25 条に基づいて、
すぐに後任を指名した。後任となったのがフォードであり、憲法修正第 25 条第
2 節の適用を受けた初めての副大統領になった。約 2 ヶ月に及ぶ調査の後、11
月 27 日、上院は 92 票対 3 票でフォードの指名を承認した。続いて 12 月 6 日、
下院も 387 票対 35 票でフォードの指名を承認した。1974 年 8 月 9 日、ウォー
ターゲート事件で弾劾され有罪判決を受けるのを避けるために今度はニクソン
が辞職した。ニクソンの辞職に伴ってフォードが大統領になった。8 月 20 日、
フォードはニクソンと同じく憲法修正第 25 条に基づいてニュー・ヨーク州知事
のロックフェラーを副大統領に指名した。議会は約 4 ヶ月に及ぶ調査を行い、
12 月 10 日、上院は 90 票対 7 票で、12 月 19 日、下院は 287 票対 128 票でロ
ックフェラーの指名を承認した。
憲法修正第25 条第4 節及び第5 節はそれ程、
適用される機会はなかった。
1981
年 3 月 30 日、暗殺未遂事件によってレーガンは負傷した。手術前にレーガンの
意識ははっきりしていたが、レーガンは権限を副大統領に委譲する文書に署名
しなかった。その一方で、大統領の側近は、副大統領及び閣僚の過半数が大統
領の不能力を申し立てる可能性についてホワイト・ハウスで議論するのを妨げ
た。1985 年 7 月、癌の手術を行う前にレーガンは大統領の権限を副大統領に委
譲する文書に署名したが、そのような短期間の場合に憲法修正第 25 条を適用す
る必要はないと述べた。
1991 年 5 月、ブッシュは不整脈で入院した時に、もし電気ショック療法が必
要な場合は副大統領に権限を委譲する考えを示した。しかし、電気ショック療
法は不要であることが分かり、そのような措置はとられなかった。
2002 年、結腸内視術のために鎮静状態になった時にジョージ・W・ブッシュ
は憲法修正第 25 条を適用した。1 月 29 日午前 7 時 9 分、ブッシュは、大統領
の義務と権限を遂行できないために副大統領を大統領代理とする旨を記した下
院議長と上院仮議長宛の手紙に署名した。午前 9 時 24 分、ブッシュは大統領の
義務と権限を再び遂行できる旨を記した手紙を下院議長と上院仮議長に送った。
このような措置をとった理由をブッシュは、同時多発テロのような事件があっ
た後、大統領は自らの職責について十分に慎重にならなければならないと述べ
た。
憲法の修正条項
187
188
アメリカ大統領制度史上巻
第 2 部 伝統的大統領制度
第 1 章 建国初期
第 1 節 ワシントン政権
第 1 項 概要
ジョージ・ワシントン(George Washington)は 1732 年 2 月 22 日(ユリウス暦
1731/32 年 2 月 11 日) 、ヴァージニア植民地ウェストモーランド郡ポープズ・
クリーク(現ウェイクフィールド)で生まれた。10 人中 5 番目の子供であった。
父は再婚で、ワシントンが再婚後の初めての子供になる。ヴァージニア邦民兵
の将校になるまで測量士として働いたこと以外は、ワシントンの少年時代につ
いてはあまりよく分かっていない。独立戦争勃発直後に、フレンチ・アンド・
インディアン戦争で 1 つの旅団を率いた経験をかわれ、ワシントンは大陸軍総
司令官に任命された。そして、 1775 年から 1783 年まで続いた困難を極めた独
立戦争で勝利をおさめた。
「革命のペン」ジェファソン、
「革命の舌」ヘンリー
と並んで 「革命の剣」と称される。または「祖国の父」とも呼ばれる。合衆国
憲法が制定されるとワシントンは新たに創設された大統領職に全会一致で選出
された。ワシントンは最初の閣僚を任命し、最初の最高裁の判事を任命した。
立法府と行政府の厳格な権力分立を堅持した。ワシントンは初めて拒否権を行
使した。建国されたばかりのアメリカの基礎を固めるために、フランス革命戦
争とは距離をおいた。党派対立の激化を憂慮しつつワシントンは 2 期 8 年にわ
たる大統領任期を終えた。大統領任期を 2 期 8 年までとする慣例はワシントン
が作った。大統領としてのワシントンの最大の功績は、強力な中央政府に基づ
く今日の連邦制の礎を築いたことである。
第 2 項 大統領の権限と新政府
合衆国憲法は大統領の義務と権限について概要しか定めていなかった。それ
故、歴代の大統領と歴史的出来事が大統領制度を形成する余地が残された。
「行
政権は、アメリカ合衆国大統領に属する」という規定や「法律の忠実に執行さ
れることを配慮する」という規定を通じて、200 年以上にわたって大統領権限の
範囲は定められてきた。
憲法の条項のみでは、大統領と各省庁の長官の関係や大統領と議会の関係な
どがどうあるべきか正確に決めることはできない。同様に、大統領は、戦争、
190
アメリカ大統領制度史上巻
平和、そして外交においてどのような役割を果たすか必ずしも明確ではない153。
大統領は、憲法制定会議における強い大統領制度の推進者が望んだように解釈
上の余地を埋めることができた。しかしながら、大統領権限の拡大は容易では
なかった。
大統領権限の拡大が容易でなかったように、アメリカに新たな政府を組織す
ることも容易ではなかった。アメリカのような大規模な範囲で共和政体と連邦
政府が存在した事例は世界史上、例を見ない。オランダやスイスも連邦国家で
あったがその規模はアメリカに比べるとはるかに小さかった。ローマ共和国も
その範囲はアメリカのように広大であったが、後に帝政に移行したことは歴史
が示している。
第 3 項 文民統制の原理
独立戦争の末期、1783 年にワシントンはニューバーグの陰謀を阻止して共和
政体の崩壊を防いだ。1783 年 3 月 10 日、給与の正当な支払いや年金の授与な
どを求め、それが受け入れられないのであれば直接行動を取ることを呼び掛け
る檄文が流布した。つまり、戦争が終結した場合、要求が受け入れられるまで
軍を解散しないか、もしくは戦争が終結していない場合、連合会議を無防備の
まま放置すると述べたのである。
3 月 15 日、不穏な動きを阻止しようとワシントンは自ら士官達の前に姿を現
して説得を試みた。説得が功を奏し、士官達は内戦の可能性を否定し、連合会
議への信任を宣言する決議を採択して解散した。
さらなる軍隊の不穏な動きを未然に防ぐためにワシントンは将兵の不満の解
決を連合会議に強く要請した。その結果、連合会議は、将校には既に認められ
ていたが支給されていなかった半額の年金の代わりに、退役後 5 年間、給与の
全額を支給すること、兵士には退役後 4 ヶ月間、給与を支給することを認めた。
また退役軍人にはオハイオ地方の土地を 1 人当たり 100 エーカー与えられるこ
とになった。さらに傷痍将校には給与の半額が生涯にわたって支給され、傷痍
兵には毎月 5 ドルが支給されることになった。こうして軍による国家転覆の危
機は回避され、連合会議への軍の服従が示されることによって文民統制の原理
が確立されたのである。またニューバーグの陰謀を阻止したことでワシントン
の共和主義に対する献身が示された。
建国初期
191
講和条約が締結され、アメリカの独立が認められた後、ワシントンは 1783 年
12 月 23 日に連合会議に軍権を返還し、農場に帰還した。ワシントンの退任は
世界に深い影響を与えた。勝利に輝いた将軍が軍権を返還し、農場に帰ること
はほとんど前例のない偉業であった。イギリスの多くの軍事指導者は軍事的業
績の見返りに何らかの政治的報酬を求めるのが常であった。アメリカ人はワシ
ントンの誠実さを尊敬と畏敬の念で以って賞賛した。ワシントンは権力を放棄
することで却って権威を得ることができた154。
第 4 項 大統領選挙
合衆国憲法の発効に伴い、初めて大統領が選ばれることになった。大陸軍総
司令官として独立戦争の勝利に最も貢献し、さらに憲法制定会議で議長を務め
たワシントンの他に大統領となるべき人物はいなかった。副大統領の人選につ
いてワシントンは名前を挙げて明言していないが、マサチューセッツ州から選
ばれるのが妥当であると述べている155。
しかし、ワシントン自身はジェファソンに向かって「私自身の農園で 1 人の
実直な人として生き、そして死ぬこと以上の望み」はないと明言しているよう
に大統領就任に乗り気ではなかった。また「政府の首長に私が着任することは、
犯罪者が処刑場に赴く時に抱く感情とまったく同様の感情を伴う」とも語って
いる。それに、もし公職に就かないという前言を翻して大統領に就任すれば、
批判を受けるのではないかとワシントンは恐れていた156。
躊躇するワシントンを説得したのは主にハミルトンである。ハミルトンは、
一旦、憲法制定会議の議長を務めたのであるから、このまま中途半端に引き下
がれば名声は保たれるどころか、損なわれることになるだろうと述べた。そし
て、名声を保つためには憲法制定会議で提案した連邦政府を成功に導くしかな
いと論じた。それでもワシントンはハミルトンに対して「ある種の憂鬱を常に
感じている」と返答している157。
1788 年 10 月 9 日のペンシルヴェニア・パケットは、ワシントンを大統領に、
ジョン・アダムズを副大統領に支持するように呼びかけている。この頃になる
とワシントンも大統領職を引き受けるように考えを変えていた。しかし、一時
的に在職して政府がうまく機能するのを見届ければすぐにでも大統領職を辞任
するつもりであった。
192
アメリカ大統領制度史上巻
1788 年 9 月 13 日、大陸会議は大統領選挙の日程を決定した。その決定にし
たがって 1789 年 2 月 4 日(2 月の第 1 水曜日)、選挙人の投票が行われ、69 人の
選挙人(10 州)すべてがワシントンを大統領に指名した。
第 5 項 就任式
就任式は 1789 年 4 月 30 日に行われた。4 月 30 日まで就任式が延期された理
由は、議会の定足数が満たなかったからである。連合会議の決定により予め 3
月 4 日(3 月の第 1 水曜日)に議会が招集されることになっていたが、当日になっ
ても、上院は 26 人中 8 人、下院は 65 人中 13 人しか参集していなかった。その
ため大統領の就任を正式に認めることができなかった。下院が定足数を得たの
が 4 月 1 日、上院が定足数を得たのが 4 月 6 日である。両院が定足数を得て上
院議長によって選挙人票の開票が行われ、ようやくワシントンの大統領選出が
正式に認められた。そして、4 月 14 日に大統領選出の報せがマウント・ヴァー
ノンに居るワシントンに伝えられた。
マウント・ヴァーノンから就任式が行われるニュー・ヨークまでの道中、沿
道の市民からワシントンは熱狂的な祝賀を受けた。フィラデルフィアでは凱旋
門のような橋が新たに建設され、トレントンでは数百人の少女が合唱でワシン
トンを迎えた。4 月 23 日、各地で歓迎を受けたワシントンは、特別に準備され
た艀でニュー・ジャージー州のエリザベス・タウンから海を渡って暫定首都の
ニュー・ヨークに入った。マウント・ヴァーノンからニュー・ヨークに入るま
で非常に時間がかかったのは、早々に大統領職に就くことは見苦しいと思われ
たからである158。またワシントンは、新政府の未来は人民によってどのように
受け入れられるかで決まると思っていたので、就任式に向かう途中、各地でど
のように歓迎されるか知りたいと考えていた。ニュー・ヨークに入ったワシン
トン一行は、教会の鐘、礼砲、群集の歓呼の声で迎えられた。ワシントンの住
居に定められたウォルター・フランクリン邸に向かってパレードが行われた。
パレードは騎馬隊を先頭に、砲兵隊、士官達、第 1 連帯の精兵歩兵からなる大
統領警護団、ワシントン本人、ニュー・ヨーク州知事とその随従者、州連隊の
士官達、ニュー・ヨーク市長、聖職者、そして市民と続いた。パレードの後、
ニュー・ヨーク邦知事主催の晩餐会が開催され、花火が上がり、町中の建物の
窓には蝋燭が灯されていた。
建国初期
193
就任式の日の正午過ぎ、ワシントンを迎えるために議員達はウォルター・フ
ランクリン邸を訪問した。12 時 30 分、鷲のボタンの茶色の手織り羅紗を着て
帯剣したワシントンは、群衆の喝采の中、豪華な装飾が施された 6 頭立てのク
リーム色の馬車に乗り込み、フェデラル・ホールに向かった。6 頭はすべて白馬
で、ワシントンは毎朝、馬達の歯を磨くように命じていたという。行列はまず
様々な扮装で身を固めた民兵に続き、ニュー・ヨークの保安官、上院議員の一
団、ワシントン本人、下院議員の一団、臨時外務長官のジョン・ジェイ、陸軍
長官ヘンリー・ノックス(Henry Knox)、ニュー・ヨーク州裁判所長ロバート・
リヴィングストン(Robert R. Livingston)、そして名士達が続いた。
フェデラル・ホールに到着すると、ワシントンは上院会議場に導かれた。ジ
ョン・アダムズが代表してワシントンを歓迎する挨拶を行った。それが終わる
とワシントンはバルコニーに出た。そこには小さな机が 1 つあり、1 冊の聖書が
置かれていた。宣誓式で聖書を使うことはその日の朝に決定されたばかりであ
った。しかし、フェデラル・ホール内には聖書が 1 冊もなく、最も近くにある
フリーメイソンリーのセント・ジョンズ第 1 ロッジから借用して済ませた。そ
の聖書は、ハーディング、アイゼンハワー、カーター、ブッシュ親子の就任式
でも使われた。就任式で聖書に口付けする慣習はワシントンが作った。しかし、
ピアースは聖書に口付けせず左手を聖書の上に載せただけであった。さらにセ
オドア・ローズヴェルトはまったく聖書を使わず手を挙げるだけにとどめた。
群衆は轟くような歓呼でワシントンを迎えた。次にニュー・ヨーク州裁判所
長のリヴィングストンが進み出て宣誓の言葉を述べた。続けてワシントンが「私
は合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、全力を尽くして合衆国憲法を維持、保
護、擁護することを厳粛に誓う」と宣誓の言葉を述べ、最後に「神に誓って」
と付け加え、聖書に口付けした。宣誓の間、ワシントンが開いていた頁は、
「主
御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御
自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい」
と記された詩篇第 127 篇 1 節であった。
「そはなされり」と言った後、リヴィン
グストンは「合衆国大統領ジョージ・ワシントン万歳」と群衆に向かって叫ん
だ。国旗がフェデラル・ホールの円屋根に掲揚され、13 発の銃声が鳴らされ、
教会の鐘の音が響き渡った。
第 6 項 就任演説
194
アメリカ大統領制度史上巻
宣誓が終わり、群衆に向かって何度もお辞儀をした後、ワシントンは会議場
へ戻って行った。登壇したワシントンは就任演説を開始した。約 20 分間、列席
者は起立して演説に耳を傾けた。聴衆は議員や要人など限られた人数であった。
それでもワシントンは聴衆を前にして赤面し、口ごもったという。ワシントン
は次のように演説した。
「この最初の国事行為において、宇宙を支配し、諸国の会議を主宰し、さら
にその摂理によって我々人間のすべての欠点を補う全能なる神に対して、私の
熱烈なる懇願を申し述べないとすれば、それは誠に不適切なことである。私は、
神の祝福によって、合衆国国民が自らの自由と幸福のために築いた政府を、こ
れらの根本的な目標達成のために捧げることができるように願う。あらゆる公
的、私的善行の偉大なる創造主たる神に対して、このような敬意を表明するに
あたり、その中に、私の思いに勝るとも劣らない聴衆の皆様の思いが言い尽く
されていることを確信している。合衆国国民以上に、人間事象を司る神の見え
ざる手の存在を認め、畏敬の念を持つように運命づけられた国民はない。我々
は独立国家としての体裁をなしつつあるが、これまでの一歩一歩の歩みの中に、
神の摂理の働きを読み取ることができるように思われる。連合政府によって達
成された重要な革命は比類稀なことである。なぜなら、ほとんどの国が政府を
樹立する場合、過去から未来へ向けて神の祝福を受けたいと謙虚に期待するこ
とはあっても、神に対して敬虔な態度で感謝することはないからである。慈愛
に満ちた人類の親である神にもう 1 度謙虚に祈願する。アメリカ国民は冷静に
審議する機会を与えられるとともに、連邦の統一を確保し、幸福を増進するた
めに必要な政府の形態に関しては、他に類をみない満場一致の採決をもって処
理することができた。ひとえに神の恩恵の賜物である。したがって、引き続き
その神聖な祝福が、この政府の行く末を左右する広い視野、節度ある会議、賢
明な政策にも平等に及ぶように願う」159
最初、ワシントンは 73 ページにも及ぶ政策提言を含めた就任演説を行うこと
を考えていたが、簡素な内容にとどめるように変更した。ワシントンは、政府
が国民の自由と幸福追求の実現という本質的目的のために樹立されたと説いて
いる。それだけではなく、自由とそれを保障する共和政体を保持できるか否か
は国民自身にかかっているとも述べている。つまり、国民自身も、自由の精神
を放縦の精神から分け隔てる必要があると論じているのである。就任演説の最
建国初期
195
後でワシントンは、アメリカ市民が州や地方を超えて形成した連邦政府を支持
し、アメリカ人という一体化した概念に愛着を抱くように促した。
就任演説を議会で行うスタイルは、イギリスの慣習を模倣したものである。
イギリスでは新しい会期が始まる際に、国王が貴族院に姿を現して短い演説を
読み上げる慣例があった。ワシントンが行った就任演説の一般的なスタイルは
以後の大統領も踏襲している。すなわち、大統領職に選ばれたことに感謝し、
自らの能力を謙遜しながらも職務に全力を尽くすことを誓い、そして神の恩寵
を願うというスタイルである。
就任式を終えたワシントンは、半マイル離れた場所にあるセント・ポールズ
教会に向かった。同教会で貴賓達とともに祈りに参加した後、ワシントンは夕
食をとるために自宅に帰った。夜にワシントンは、4 頭立てにした馬車に乗って
再び現れた。6 頭立ては公務でフェデラル・ホールに向かう時のみに限られてい
た。ワシントンを乗せた馬車は蝋燭やガスの炎で彩られたニュー・ヨークの至
る所で行われている祝賀会を回った。
最初の就任記念舞踏会は 5 月 7 日に行われた。舞踏会には大統領をはじめ、
著名な政治家や軍人、外交官が出席した。大統領夫人はその頃、まだニュー・
ヨークに着いていなかったので出席していない。舞踏会では記念品として女性
達に大統領の肖像をあしらった扇が贈呈された。
第 7 項 新政府と権利章典
大統領の権限の範囲と性質に関する多くの重要な問題はワシントン政権で解
決された。ワシントンは「私は人跡未踏の地を歩いているようなものである。
私の行いの中で、その動機について曖昧な解釈をもたらすことが許される行い
などほとんどないだろう。私の行いの中で、今後、前例とされないような行い
などほとんどないだろう」と述べているように初代大統領として自らの行いが
連邦政府の将来に大きな影響を与えることをよく分かっていた160。また「それ
自体、はじまりにおいてはほとんど重要には見えない多くの事柄も新しい連邦
政府の開始で確立された故を以って、大きく持続する結果をもたらすかもしれ
ない」と述べている161。
新政府はまるで 2 年前に行われた憲法制定会議の続きのようであった。憲法
制定会議議長を務めたワシントン自身は新政府では大統領となり、連邦議会に
196
アメリカ大統領制度史上巻
は憲法制定会議の代表者達が多く含まれていた。下院にはマディソンをはじめ
とする 8 人の代表達が含まれていた。上院には 10 人の代表達が含まれていた。
憲法制定会議の 4 分の 3 の活動的な指導者が、憲法案で提示された政府を実現
するために働いた162。
ワシントンは、連邦政府に反対する人々を宥めるために権利章典を早期に付
け加えることを議会に提案した。就任演説でワシントンは、次のように権利章
典の必要性を述べている。
「議員諸君は統一的、効率的な政府の恩恵を危険にさらすような変化、もし
くは経験という将来の教訓を待つべき変化を注意深く避けようとしているが、
その一方で、自由民の固有の権利を尊重し、国民の調和を尊重することは、前
者をどの程度強化すべきか、または後者をいかに安全にうまく促進するのかと
いう問題に関する議員諸君の思慮に十分に影響を及ぼすだろうと私は確信して
いる」163
1789 年 9 月 25 日、議会は審議を経て 12 条の憲法修正案を可決した。続いて
10 月 2 日、修正案は各州に通達された。権利章典の採択により、いまだに合衆
国憲法に強固に反対している人々の支持を得ようとしたのである。1791 年 12
月 15 日、ヴァージニア州の批准によって権利章典(2 条が否決されたので 10 条
となった)が成立した。ちなみにコネティカット州、マサチューセッツ州、ジョ
ージア州の 3 州はこの時、権利章典を批准していないが、成立 150 周年を記念
する形で 1941 年に批准している。
新政府の役割は、政府を人民全体の大部分に受け入れてもらえるようにする
ことであった。そのためには、強力な中央政府に対して伝統的に人民が疑念を
抱く中で、統一された活力ある連邦政府を築かなければならなかった。憲法で
約束された「より完全な連邦」を実現するためには、行政権が人民の不信の対
象となってきた政治的環境の中で、強力な大統領制度を必要としていた。こう
した伝統から憲法上の大統領制度に命を吹き込む困難な仕事は、ワシントンの
人気と資質なしでは達成し得なかった164。新国家を象徴する人物となっていた
ワシントンは、ワシントン自身ではなく、大統領職自体をアメリカの象徴にす
るように務めなければならなかった。また大統領職の威厳を保つように行動し
なければならなかった。それと同時に、共和制国家という枠組みの下、国民に
不信感を抱かせないように、そうした行動が君主然として見えないように配慮
する必要があった165。ワシントンの畏敬を抱かせるような性格と人気は、新政
建国初期
197
府の正統性の源泉となった。
第 8 項 2 期在任の伝統と大統領継承法
まず大統領の在任期間を 2 期に限るという慣例を作ったのはワシントンであ
る。1796 年 9 月 17 日、ワシントンは告別の辞で「退任するという既に固めた
決意」を明らかにしている。しかし、ワシントンは在任期間を 2 期に限るとい
う前例を打ち立てようとは意図していなかった。ワシントンが望んでいたこと
は、たとえワシントン自身が大統領でなくても、新しい憲法がうまく機能する
ことを国民に納得させることであった。もともとワシントンは一期で退任する
つもりであったが、閣僚やマディソンの強い勧めで続投を決意した。
ワシントンが確立した 2 期在任の慣習が長い間継続していたことは、セオド
ア・ローズヴェルトがもし 1904 年の大統領選挙で当選すれば 1908 年の大統領
選挙に出馬しないと約束したことでも明らかである。前任のマッキンリーから
引き継いだ任期も含めてセオドア・ローズヴェルトは 2 期在任の伝統を守ろう
としたのである。
2 期在任の伝統が初めて破られたのは 1940 年である。
その年、
フランクリン・ローズヴェルトが史上初の 3 選を果たしたのである。
現在では、1951 年の憲法修正第 22 条により、
「何人も、2 回を超えて大統領
の職に選出されてはならない。他の者が大統領として選出された場合、その任
期内に 2 年以上にわたって大統領の職にあった者または大統領の職務を行った
者は、何人であれ 1 回を超えて大統領の職に選任されてはならない」と定めら
れている。
1792 年 2 月 2 日、大統領と副大統領がともに執務を続行できない場
合の継承順位を定めた 1792 年大統領継承法案が可決した。同法により、
上院議長代行、下院議長の継承順位が定められた。ジェファソンは国務
長官を下院議長の次に置くように提案したが、連邦派の反対で実現しな
かった。ジェファソンの提案が実現したのは 1886 年のことである。
第9項
三権分立の原理と外交上の慣例
行政府の長としてワシントンは三権分立の原理を堅持した。1790 年 12 月、
ワシントンは「大統領とアメリカ議会」に宛てた文書群をフランス政府から受
198
アメリカ大統領制度史上巻
け取った。ワシントンは封を自ら切ることなく、議会に誰が封を切るべきか問
うた。上院は、大統領に、もし文書群の内容が重要であれば報告するように通
達した。これはワシントンが行政府と立法府の権限の範疇を忠実に守ろうとし
た例として考えられる。
ワシントン自身は現在の大統領と違って人民を代表しているとは思っていな
かった。人民を代表するのはあくまで議会の役割だと考えられていたからであ
る。こうした考えが根本的に変化するのは 20 世紀に入ってからである。
「大統領は、随時連邦の状況につき情報を連邦議会に与え、また自ら必要に
して良策なりと考える施策について議会に対し審議を勧告する」と規定する憲
法第 2 条第 3 節に基づいて、ワシントンは議会に自ら姿を現して一般教書を読
み上げた。ワシントンは一般教書によって大統領は立法措置が求められる問題
を議会に提示した。しかし、それは一般的な示唆であり具体的な法案提出では
なかった。
ワシントンが自ら法案提出を行った例は、陸軍長官を通して議会に提出され
た 1792 年の統一民兵法のみである。しかし、ワシントンは概ね議会の立法過程
に自ら容喙することを慎重に避けている。それは、立法府に不当な影響力を行
使しようとしているという批判を避けるためであった。ワシントンは、
「合衆国
の行政府の権限は、他のどのような国のものよりも明確に規定され、よく理解
されている。私の目標は、もし緊急事態によって不可欠な措置が必要とならな
い限り、どのような場合でも行政府の権限を拡大することでも伸張することで
もなく、そうあり続けるだろう」と述べている。議員を晩餐会に招待する際に
順繰りしたのも同じ理由である。または当時、下院議員を務めていたマディソ
ンにしばしば助言を求めたのも主にマディソンが憲法の解釈において最も詳し
い知識を有する人物であったことによる。
立法府に対する干渉の抑制が最も顕著に表れた例は対英方針である。ジェイ
条約締結交渉がロンドンで行われている最中、議会はイギリスに対する強硬策
を採択しようとしていた。ハミルトンはワシントンに議会に対して影響力を行
使するべきだと提言したが、ワシントンは沈黙を守った。最終的には、副大統
領として上院議長を務めていたジョン・アダムズの 1 票によりイギリスに対す
る強硬策は否決された。
ワシントンは外交面で議会に対する大統領の優位を示すことに躊躇しなかっ
たが、上院から「助言と同意」を取り付けようと努力した。ワシントンは、条
建国初期
199
約の交渉を行う前に上院と相談する必要があると考えた。クリーク族との条約
の締結に関して、ワシントンはノックス陸軍長官とともに、
「助言と同意」を得
るために 1789 年 8 月 22 日と 24 日に上院に出席し、自ら条約案を読み上げた
が、捗々しい成果を得ることができなかった。それは上院が熟議する前に何ら
かの助言を行うことを躊躇したからである。1 人の上院議員が問題を検討委員会
に付託するように提案した時、ワシントンは自分が議場に来た意味がないと不
満を述べたという166。上院はワシントンが示した条約案を少しの修正で認めた
たため、ワシントンは当初の目的を達成することができたが、ワシントンにと
って無関係に思える議論を延々と聞かされた。この出来事は、三権分立の原理
に基づいて大統領と議会が直接討論する場を設けることの難しさを示している。
それ以後、ワシントンは再び上院に助言を求めるために出席することはなかっ
た。この慣例は以後の歴代大統領すべてに踏襲され、上院は条約の締結交渉に
容喙せず、批准の諾否のみを判断するようになった167。
第 10 項 巡行
ワシントンはアメリカ各地を巡行することでアメリカ統合の象徴的存在とし
ての役割を果たした。1789 年秋、ワシントンは閣僚に「新しい政府に対する住
民の意向と農業、そして成長に関する知識を得るために、議会が休会中に東部
諸州を巡行する」ことを諮った。閣僚はワシントンの考えに同意し、南部にも
巡行するべきだと述べた。ワシントンは、10 月 15 日から 11 月 13 日にかけて、
コネティカット州、マサチューセッツ州、ニュー・ハンプシャー州のニュー・
イングランドに点在する 60 近くの村や町を巡幸している。ロード・アイランド
とヴァーモントはまだ憲法を批准おらず連邦に加わっていなかったので訪れて
いない。巡行は借用した馬車によって行われ、副官と個人秘書、そして 6 人の
召使と荷馬車が随従した。ワシントンはできる限り儀式を避けようとしたが、
様々な歓迎から逃れることはできなかった。肖像画のためにポーズをとったり、
新しいお酒の味見をしたり、発明品を見学したりするなど多くのことを求めら
れた。ボストンの街路には「皆の心を 1 つにした人物へ」という文句と「コロ
ンビアの愛する息子へ」という文句が記された装飾が据えられた。そして、大
統領を称える歌が歌われた。
またボストンでは、大統領に関する儀礼上の問題が起きた。マサチューセッ
200
アメリカ大統領制度史上巻
ツ州知事ジョン・ハンコック(John Hancock)は連邦に対する州の優越を何とか
示そうとした。まずハンコックはボストンの街の入り口まで大統領を迎えに出
て行かなかった。それに激怒したワシントンは、ハンコックがいないことを確
認するまで州議会議事堂のバルコニーに上がろうとしなかったという。10 月 26
日 12 時半にハンコックと大統領を自宅に招待する手紙を送って寄こした。30
分後、ワシントンはハンコックの招待を拒んだ。ハンコックが、自州の領域内
では各州が連邦に対して優越していることを象徴的に示そうとした一方で、ワ
シントンはまず州知事が大統領に対して表敬訪問を行うべきだと考えたのであ
る。これにより儀礼における連邦の優越性の先例が確立された。
ボストンに立ち寄った後、ワシントンはケンブリッジでハーヴァード・カレ
ッジの図書館と博物館を見学した。それからニューベリーポートとポーツマス
を周った。レキシントンでは、
「イギリスとの戦いで最初に血が流された地点」
を訪問した。ワシントンは様々な建物や街の様子、家畜や農地、産業の発展な
どに目を向けている。さらに 1791 年 4 月 7 日から 6 月 12 日にかけてワシント
ンは、マウント・ヴァーノンから出発し、ヴァージニア州、ノース・カロライナ
州、サウス・カロライナ州、ジョージア州の南部諸州を巡行している。ワシン
トンの巡行は主に視察であり、後代の大統領のように各地で演説を求められる
ことはなかった。当時、大衆の前で演説を行うことは大統領の品位を損なうと
考えられていた。
第 11 項 大統領の呼称と一般の関係
ワシントンは君主制の要素を過度に出すことなく、何とかして新政府の品位
と権威を体現するという難しい役割を担った。それは大統領の呼称をどうする
かという論議を 1 つの例として挙げることができる。1789 年 4 月 23 日、大統
領の呼称を検討する委員会が上院に設置された。5 月 14 日、同委員会は「合衆
国大統領にしてその権利の擁護者閣下」
、
「優渥なる殿下」
、
「高貴な殿下」
、
「選
ばれし陛下」
、 「閣下」
、
「選ばれし殿下」など様々な呼称を提案し、その中か
ら上院は「合衆国大統領にしてその権利の擁護者閣下」を選んだ。しかし、マ
ディソンを中心とする下院はそれを拒否し、単に「大統領閣下」という呼称に
なった。この呼称は今でも使われている。ちなみにワシントンは大陸軍総司令
官を務めていた時は、
「閣下(高官に対する敬称)」と呼ばれていた。
建国初期
201
ワシントン自身はどういった称号が相応しいと考えていたのか。それをうか
がわせるエピソードが残っている。ある時、ワシントンは数人の議員と食事を
ともにしていた。その席上でワシントンは下院議長ジョン・ミューレンバーグ
(John Peter Gabriel Muhlenburg) に「ミューレンバーグ将軍、高貴なる閣下
という称号はどうでしょうか」と聞いた。ミューレンバーグ議長は、
「では将軍、
そうなると常にあなた自身や私の友人のウェンクープのような大きな男が大統
領職を務めなければなりません。それが[背が高く力強いといったような意味も
持つ]称号には相応しいことです。しかし、もしたまたま、私の向かいの隣人の
ように小さな男が大統領に選ばれたら滑稽なことになります」と答えた。こう
したエピソードから、オランダの行政官に使われていた「高貴なる閣下」とい
う称号が大統領に相応しいとワシントンを考えていたようである。またワシン
トンは「合衆国大統領にしてその権利の擁護者閣下」という称号を好んでいた
ようだが、称号に関して議論が行われているのを知って、マディソンを支持す
るようになった168。
称号の他にも大統領が一般大衆とどのように接触を図るべきかという問題も
あった。大統領が職務を行えるように十分な時間を持つ一方で、人民との接触
を軽蔑しているという印象を与えない程度に威厳を保つ必要があった。ワシン
トンは、象徴的に重要性を持つ行動を通じて大統領制度に対する人民の支持と
尊敬を集める必要性を十分に認識していた。議会は、大統領夫妻が一般市民か
らの食事の招待に応じることを禁止していた。一方でワシントンはあらゆる市
民に対して常に門戸を開くことを考えていたが、現実には絶え間のない訪問に
悩まされた。そこでワシントンは、ニュー・ヨークの新聞に表敬訪問を火曜日
と金曜日の午後 2 時から 3 時に限る旨を公表した。しかし、この案には不満が
多く寄せられた。そのため毎週火曜日に大統領の接見会を催す方式に変更され
た。正装をした男性であれば誰でも事前予約なしで大統領に接見することがで
きた。これは非常に堅苦しい儀式であり、ワシントンは訪問者と握手をするこ
ともなく、お辞儀をして軽く話しかける程度であった。正式な場に登場する際
のワシントンの格好は、黒いビロードに繻子の装束にダイヤモンドの膝止めを
締め、髪粉をつけ帯剣して軍帽を持つというスタイルであった。
さらにワシントンは毎週木曜日に、官吏や議員を招いて 4 時から公式晩餐会
を行った。ワシントンが公式行事の中で楽しんだことはダンスくらいであった。
大統領の誕生日には決まって舞踏会が行なわれ、真夜中まで続いたという169。
202
アメリカ大統領制度史上巻
第 12 項 行政権の管轄
ジョン・アダムズやハミルトンといった政治指導者は、強力な大統領制度が
新政府を成功させるために必要だと考えていた。その一方で、ジェファソンや
マディソンといった政治指導者は、過度に大統領制度に依存することは、憲法
制定会議で編み出された均衡と抑制を主体とする政治制度を損なうのではない
かと心配していた。マディソンは憲法制定会議で連邦政府を強化しようと努め、
ワシントン政権期に行政府の領域を侵害しようとする議会の試みを阻むのに重
要な役割を果たした。しかし、ハミルトンが追求する国内外の政策に反感を抱
いたマディソンは 1790 年以後、行政権の拡大に反対するようになる。
ワシントンは、行政府を管轄する権限が大統領に属するという先例を打ち立
てた。1789 年 5 月 19 日、マディソンは外務省(後の国務省)を創設する動議を提
出した。マディソンの動議には外務省の長官が「合衆国大統領によってその職
を免じられ得る」という文言が含まれていた。セオデリック・ブランド
(Theoderick Bland)下院議員は、大統領と上院は任命権を分有しているので罷免
権も同様に分有すべきだと論じてマディソンの動議に反対した。もし大統領単
独に罷免権を与えてしまえば、憲法によって大統領の任命権に課された制限が
無意味なものになってしまう。ブランドはマディソンの動議に「上院の助言と
同意を以って」という文言を付け加えるように提案した。ブランドの提案を支
持する者は、憲法上、大統領と上院は任命権を分有しているので、罷免権も分
有すべきだと主張した。また上院は行政府の詳細に関与すべきだという伝統が
植民地時代からあった。ブランドの提案は、大統領が行政府を管轄する権限を
大きく損なう可能性あがった。
ワシントンとマディソンは大統領単独の罷免権が奪われれば、大統領が職務
を果たすうえで支障をきたすと考えた。マディソンは下院で「大統領に上院の
同意を伴って罷免権を与えることで、行政府にある単独性と責任の原則が放棄
される」と主張した170。閣僚は大統領が政府を管理し、その義務を果たす手助
けをしている。もし閣僚が大統領に責任を負わなければ、大統領は国に対して
責任を負うことができなくなる。さらにエグバート・ベンソン(Egbert Benson)
下院議員はマディソンの動議を修正するように求めた。ベンソンは、長官が「合
衆国大統領によって罷免されるか、その他の場合で空席になった」場合、外務
建国初期
203
省を管理する首席事務官を置くように求めた。ベンソンの動議は 30 票対 18 票
で可決された。ベンソンの修正は、長官を罷免する大統領の権限を認めながら
も、その権限が議会によって大統領に与えられたものであると示唆するのを明
らかに避けている。ベンソンの動議は可決されたものの、議会が、閣僚が大統
領に対してのみ責任を負うものとし、それぞれの法的に定められた権限内で大
統領の指示に従うべきだと判断したことは明らかであった。ワシントンが打ち
立てた先例の意義は、大統領が人民に対して責任を負っているのと同じく、行
政に関与する行政官に行政長官である大統領に対して責任を負わせるようにし
た点にある。
上院でウィリアム・マックレイ(William Maclay)上院議員は「合衆国大統領
によって罷免される」という文言から「合衆国大統領によって」という文言を
削るように求めた。もし罷免権を大統領単独に与えれば、大統領は罷免権を濫
用するようになり、閣僚はあらゆる問題を大統領に諮るようになり、単なる奴
隷になってしまうだろうとマックレイは警告した。マックレイの動議は激しい
議論を巻き起こした。上院の表決は均衡した。最終的に、副大統領のジョン・
アダムズは大統領単独の罷免権を認める側に 1 票を投じた。しかし、その一方
でワシントンは、上院が大統領による行政官の指名に同意しない権利を認めて
いる。それは上院儀礼の前例となった。上院儀礼はある州で大統領が公職者を
任命する際に、当該州選出の両上院議員、または当該州の大統領の所属する党
の先任上院議員に反対された場合、上院でこれを拒否する慣例である。サヴァ
ナ港の 1 人の官吏の指名にジョージア州選出の上院議員が反対したことによっ
て上院儀礼という慣例は始まった。上院儀礼によって大統領の選択の自由は制
限された。実質的に上院が指名し、大統領が同意を与えるという逆転現象が生
じている。ただし上院儀礼は閣僚に任命には適用されない171。
第 13 項 行政組織と閣僚制度の設立
新政府が始まった時、行政機関は実質的に存在していなかった。ワシントン
が連合会議から引き継いだのは、給与の支払いの滞った 12、3 人の事務官と空
の国庫、莫大な負債、そして 672 人の将兵だった。海軍は既に解散されて存在
していなかった。連合会議が諸邦から得ていた分担金は入らなくなり、税金を
徴収する機関は連合会議がそもそもそうした機関を持っていなかったのでまっ
204
アメリカ大統領制度史上巻
たくなかった。さらに法を施行するための司法府も憲法の条文上は存在したが、
実施的には存在していないに等しかった。そのためまず省庁が議会の法制化に
よって設立された。
まず外務省が創設された。発足したばかりの外務省の予算は 8,000 ドル、人
員は 4 人の事務員と 1 人の翻訳官だけであった。外務省の主な役割は、アメリ
カの公使や領事への通信、外国公使との交渉であった。しかし、司法省がまだ
存在しなかったために、判事や執行官に通信することも外務省の役割となった。
外務省に次いで 8 月 7 日、陸軍省が創設された。そして、9 月 2 日、財務省
が創設された。さらに 9 月 22 日、財務長官の下に郵政長官職が設けられた。財
務省には非常に多くの責務が与えられ、長年、行政組織の中で最も重要、かつ
強力な組織として機能した。財務相の責務は、歳入を改善し管理する計画を検
討すること、公債の債務履行者として国家の信用を維持する計画を検討するこ
と、歳入予算額を算定すること、合衆国の通貨を管理すること、関税を徴収す
ること、物品税の課税を行うこと、灯台業務を監督すること、航路標識を設置
すること、合衆国の土地測量を行うことなどであった。その他にも多くの責務
が加えられていった結果、19 世紀初頭には財務省の職員の数は連邦行政機関の
職員の過半数を占めるまでに至った。
9 月 24 日、1789 年裁判所法に基づいて司法府が組織され、司法長官職が設け
られた。司法府は 1 人の長官と 5 人の判事から構成される最高裁と 13 の地方裁
判所、3 つの巡回裁判所が設置された。法律審査権に関する訴訟が州裁判所から
連邦裁判所へ移管され、連邦政府の権限と州政府の権限が衝突するような訴訟
を連邦最高裁が審査することが規定された。司法長官職が創設されたとはいえ、
当時は司法省がなかったために司法長官は省の長官ではなかった。しかし、司
法長官は閣僚の 1 人として閣議に参加し、大統領と閣僚の法律顧問の役割を果
たした172。
ワシントンは政権終了までに約 400 名の公職者指名の承認を上院に求めてい
る。その人選は、個人的な意向によらず、地域的な均衡だけではなく、地元住
民にも配慮した公正な人選であった。ワシントンは独立戦争で功績をあげた
人々に報いたいと思っていたが、個人的、または派閥的な感情で不公平な取り
扱いをしたと思われないように慎重に判断を下した。ワシントンの判断基準は、
上院議員や下院議員の忠告に基づき、公職に指名する人物が憲法に忠実である
か否かという点と業績や才能ではなく良い評判を得ているか否かという点であ
建国初期
205
った。ワシントンは元王党派や憲法への支持が不明確な者を公職に指名するの
を避けた。またワシントンは個人的な関係や血縁関係を公職の指名に持ち込ま
なかった173。そのため、甥のブッシュロッド(Bushrod Washington)がヴァー
ニア州連邦地方検事の職を求めた時に、ワシントンはそれを拒んでいる。結局、
ブッシュロッドは、ワシントンが大統領を退任するまで、官職に就くことはな
かった。ワシントンの人事政策は連邦政府が良い評判を得られるように配慮し
た結果であった。
行政府を組織するにおいて、ワシントン政権は非公式な手続きを採用した。
各省庁の間で明確な労働分化はなかったし、省内の活動を取り締まる明確な規
則もなかった。したがって行政府の組織は場あたり的で個人的なものであった。
またワシントン政権は閣僚制度の原型を作った。当初、ワシントンは必要に応
じて閣僚の一人ひとりに文書、もしくは面談で助言を求めるスタイルを好んだ
が、徐々に閣議を開いて政策を議論するようになった。
最初に記録された閣議は 1791 年 11 月 26 日に行われている。ただ「閣僚
(Cabinet)」という言葉が一般に広まったのは 1793 年 4 月以降である174。また
ワシントンは、上院の同意を得ずに官吏を解任する権利を得たが、それにより
行政府の官吏がすべて大統領に対して責任を負うことになった。こうした閣僚
制度が法により公式に認定されたのは実に 1907 年のことである。閣議は通常指
定された日に行われるようになり毎週火曜日と金曜日に行われた。フランクリ
ン・ローズヴェルト以降は毎週金曜日に開かれている。閣僚はあくまで大統領
に対して助言を行う機関であって決定機関ではない。リンカンは閣議の中で「不
賛成 7、賛成 1、そして賛成に決まった」と発言している。また奴隷解放宣言を
発表する前、リンカンは閣僚に向かって「私はあなた方を私が書いたことを聞
かせるために集めた。私はこの問題に関してあなた方の助言を求めていない。
私は私自身で決定した」と言っている175。これは閣僚があくまで大統領に対し
て助言を行う機関に過ぎないことを示している。決定事項が発表される時も閣
議の決定事項としてではなく大統領の決定事項として発表される176。
ある目的のために与えられた資金を別の目的のために使用したという疑惑で
ハミルトンは議会の審問を受けた。ハミルトンはワシントンの承認を受けてい
たと主張した。しかし、ワシントンはそのような覚えはないと言明した。ハミ
ルトンはワシントンに言明を撤回するか、もしくは面談に応じるように求めた。
ワシントンはハミルトンの要望をいずれも認めなかった。これは、閣僚が議会
206
アメリカ大統領制度史上巻
の査問にかけられる場合、大統領は積極的に関与しないという先例になった。
アメリカの閣僚制度はイギリスの内閣と異なり、立法府との繋がりをまった
く持っていないという特徴を持つ。行政府が行政官を立法府に送り込んで影響
力を拡大することを阻止しようと、憲法は連邦の行政官が在任中に連邦議員に
なる資格を与えておらず、その一方で連邦議員は在任中に新設された、あるい
は増俸された行政官に任命されないと明確に定めている。しかし、閣僚が議会
に自ら出向いて審議に臨んだり提案を行ったりすることは禁止されていない。
事実、ワシントン自身は大統領として議会に影響力を及ぼすべきではないと考
えていたが、閣僚による議会への働きかけは自由に任せていた。それに加えて、
憲法には連邦の状況を随時、議会に報告することを大統領の義務としている。
そのことは、法の制定に関して、大統領がある程度、主導的な役割を果たすの
が望ましいという考えを示すものに他ならない。
現代のように大統領府が制度化されていなかったためにホワイト・ハウスの
補佐官のような存在はいなかった。大統領としてのワシントンの主要な業務は
通信であった。膨大な量の文書をワシントンは扱わなければならなかった。重
要な文書についてはマディソンやハミルトンの手を借りることができたが、彼
ら自身も多忙なために日常的な業務まで助けを求めることはできなかった。日
常的な業務を手助けする職員をワシントンは自ら雇わなければならなかった。
そうした職員を雇う費用は大統領自身の給与から支払われた177。
第 14 項 拒否権の行使
1792 年 4 月 5 日、ワシントンはランドルフ司法長官とジェファソン国務長官
の助言に従って議席配分法案に拒否権を行使した。それは連邦下院の定数を 67
議席から 120 議席に増やす法案であった。議席の割り当てが人口に正しく比例
されていないと考えたワシントンは、合衆国憲法第 1 条第 2 節第 3 項の「下院
議員の数は、人口 3 万人に対し 1 人の割合を超えることはできない」という規
定に基づいて反対を唱えた。法案に違憲性が認められた場合は拒否権を行使す
るべきだとワシントンは考えていた。連邦最高裁がまだ違憲審査権を確立して
いなかったので大統領のそうした役割は極めて重要であった。
初期の大統領は、政策判断に基づいて拒否権を行使することはほとんどなか
った。下院は法案を再可決にかけたが、憲法に規定された 3 分の 2 の賛成票を
建国初期
207
得ることができず、法案は廃案となり、後に 103 議席に増やすように改められ
た。これは大統領が拒否権を行使した最初の事例である。
1797 年 2 月 28 日、ワシントンは合衆国陸軍確立法案に対して 2 度目の拒否
権を行使した。特にワシントンが反対した点は軽騎兵部隊の削減である。そう
した戦力の低下は、フロンティアの住民をネイティヴ・アメリカンの脅威から
守る際に支障をきたす恐れがあるとワシントンは判断した。下院に差し戻され
た法案は再審議されたが、今回も 3 分の 2 の賛成票を得ることができず廃案と
なった。これは、たとえ法案に違憲性がなくても、国家安全保障に反する場合
は拒否権を行使する先例となったが、当時としては異例の措置であったと言え
る。
第 15 項 公債償還計画とフィラデルフィア遷都
大陸会議、および連合会議は独立戦争中、莫大な債務を抱え込んだ。さらに
大陸会議と連合会議は課税権を持っていなかったので資金を調達するためには
借入に頼らざるを得なかった。ワシントンが就任した当初、連邦政府の対外負
債だけでも約 1,000 万ドルを数え、利子の支払いだけでも年間約 150 万ドルを
要した。ハミルトンの見積りでは合衆国の市民に対してさらに約 2,700 万ドル
の債務があった。外国と自国市民からの信用を得るために債務の履行は不可欠
であった。特に自国市民からの信用を得て連邦政府の強固な支持層を形成する
という点で重要であった。
こうした状況の下、連邦政府の信用を築くことがアメリカの発展にとって不
可欠だと考えたハミルトンは、議会の要請に応じて 1790 年 1 月 14 日、公債償
還計画を議会に提出した。まず延滞利息が付いた外債と短期内債を額面価格で
長期公債に借り換え、輸入税と物品税で得られる歳入で利息と元金を償還する。
償却積立金を設け、もし公債が額面価格を下回ることがあれば、積立金を以っ
て公債を買い取って価格の維持を図る。さらに連邦政府が独立戦争時の州債約
2,500 万ドルを引き受ける。州債の引き受けは主に次のような政治的な目的によ
る。債権者となった市民から連邦政府への忠誠が期待できる。さらに州政府が
州債に悩まされることがなくなれば、連邦政府の輸入関税に対する独占的な徴
税権に対して異議を唱えることもなくなる。また額面での償還を常時保証した
新規公債を発行することで、実質的な通貨を流通させることをハミルトンは目
208
アメリカ大統領制度史上巻
指した。その当時、アメリカには統一した通貨がなかった。外債は最終的に 1795
年までに完済され、内債も 1835 年までに完済された。
しかし、この計画は様々な利害対立をまねいた。大きな問題点として負債の
残高は州によってまちまちであった。マディソンは連邦政府による州債引き受
けは、負債額が多い州にとっては歓迎すべきことだが、それが少ない州にとっ
ては特に利益がないと計画に反対を唱えた。そのためマディソンは、現時点の
負債ではなく、独立戦争が終わった 1783 年の時点の公債のみ引き受けるべきだ
と提案した。さらにマディソンは、すべての州が独立戦争中に負った損失と支
出を算定し均等に負担すべきだと主張している。
そのうえ公債償還計画によって利益を得るのは北部の投機家だという南部の
根強い不信感があった。独立戦争中の軍務、物資供給、軍資金の立替などに対
して発行された公債の原所有者である農民、退役軍人、小売商店の店主などは、
戦後の窮乏のために公債を額面価格を大きく割り込んだ価格で手放さなければ
ならなかった。公債の大部分は北部の有産階級の手に渡った。公債を額面価格
で償還することはそうした有産階級を利することになる。そのためマディソン
は公債の原所有者と後から安い値段で公債を購入した投機家を区別できない点
が問題だと主張した。さらに原所有者に対しては満額で償還し、公債を安く買
い集めた投機家に対しては市場価格に基づいて償還するように区別を設けるべ
きだとマディソンは論じた。最終的にマディソンの提案は否決された。
2 月から 7 月にかけて、4 度、マディソンはハミルトンの計画を阻止した。公
債償還計画自体を認めるべきか否かについて議会は膠着状態に陥った。ワシン
トン自身は州債引き受けが公正であると考えていたが、こうした対立を静観し
ていた。
連邦政府は実に 7,722 万 8,000 ドル(1789-1791 年)もの債務を抱えることにな
った。当時の連邦政府の年間歳入は関税徴収を中心とし、441 万 9,000 ドル
(1789-1791 年)であったが、利子の支払いに歳入の半分にあたる 231 万 9,000
ドル(1789-1791 年)をあてていた。
さらに貿易赤字も抱えていた。
輸出額が 2,100
万ドル(1791 年)に対して輸入額が 3,100 万ドル(1791 年)にのぼっていた。差し
引き 1,000 万ドルの貿易赤字である。債務は国内にとどまらず、フランス、ス
ペイン、オランダなど対外債務もあり、しばしば支払いが滞っていた。
後にワシントンは公債償還問題と首都選定問題がその他のどのような点より
も政府自体を揺るがす危険があったと述べている。しかし、ワシントンはハミ
建国初期
209
ルトンの計画に同意していたが、大統領は議会に直接影響力を及ぼすべきでは
ないという信念に基づいてそれを公の場で示すことはなかった。上院はハミル
トンの案を承認したが、下院は案の一部を認めたものの、州債の引き受けにつ
いては認めようとはしなかった。償還問題をめぐる紛糾の最中、ワシントンは
肺炎で重篤状態に陥っていた。ジェファソンによれば、3 人の医師のうち 2 人は
臨終も近いと断言したという。ワシントンが病臥している間もハミルトンは公
債償還計画を推進しようと精力的に活動した。最終的に公債償還計画が実現し
たのはフィラデルフィア遷都によってである。
大陸会議では、各州の間で公平を期すために州の領域と分離させた特別区を
創設して首都とすることが決められていた。しかし、特別区をどこに設けるか
はまだ決定していなかった。そのため各地で首都誘致合戦が行われた。フィラ
デルフィアを推す一派は、とりあえず、暫定首都の地位を得ようとしていた。
一旦、断定首都になれば、誰もそれ以上、首都を移す気にならないだろうと考
えていたからである。南部は革命でヴァージニア州が果たした功績から、ポト
マック川沿いに首都を置くべきだと主張した。その一方で妥協を考える者達は、
サスケハナ川沿いを候補地として挙げていた。候補地の中でもハミルトンが強
く推すニュー・ヨークは既に暫定首都となっていたので有利な立場を占めてい
た。
1790 年 6 月 20 日、ジェファソンはハミルトンとマディソンを自宅の晩餐会
に招いた。その席で、ハミルトンはニュー・ヨークを恒久的な首都にする案を
放棄する代わりに、南部のフィラデルフィアを暫定首都にした後、ポトマック
川沿いに恒久的な首都を設ける案を容認した。それに対してジェファソンは、
ヴァージニア州選出の下院議員を説得して州債の肩代わりに賛成票を投じるよ
うにすることを約束した。ハミルトンは、公債償還計画に対する南部の支持を
取り付けることに成功した。
この晩餐会での妥協の結果、7 月 16 日、暫定首都をフィラデルフィアに移転
させた後に恒久的な首都を建設する法案が成立した。同法により、大統領に候
補地を選定し、その建設の監督委員を任命する権限が与えられた。その一方で
公債償還計画も 7 月 26 日、上院を通過した。第 2 次一般教書でワシントンは公
債償還計画が受け入れられたことを歓迎している。さらに第 6 次一般教書でも
ワシントンは、国家の信用を維持するという目的の下、適切な公債償還計画に
よって累積債務を避けるべきだという考えを示した。
210
アメリカ大統領制度史上巻
こうして独立国家として今後、発展するために必要となる首都と信用という
アメリカの 2 つの礎が築かれることになった。恒久的な首都の名前が「ワシン
トン」に公式決定されたのは 1791 年 9 月である。
第 16 項 ネイティヴ・アメリカン政策
ワシントンはネイティヴ・アメリカン政策を確定した。独立戦争中にネイテ
ィヴ・アメリカン諸族の中には、イロクォイ 6 部族連合のタスカローラ族やオ
ナイダ族のように中立か、もしくはアメリカ側に立って戦った部族もいた。し
かし、イギリスは講和成立後もオハイオ川北西部領地(現在のオハイオ州、イリ
ノイ州、ミシガン州、インディアナ州、ウィスコンシン州一帯)に 7 つの交易所
を保持していただけではなく、周辺のネイティヴ・アメリカンに武器弾薬を供
給し影響力を保持していた。またオハイオ渓谷ではショーニー族、マイアミ族、
そしてウォバッシュ族と入植者の紛争が長い間にわたって続いていた。ワシン
トンはそうした紛争を防止するために遠征軍の派遣を議会に要請した。
議会に遠征軍の派遣を要請する一方でワシントンは、北西部領地長官を務め
るアーサー・セント・クレア(Arthur St. Clair) にネイティヴ・アメリカン諸族
と友好的な関係を築くように指令していた。しかし、ネイティヴ・アメリカン
との平和的な交渉は失敗に終わった。それはワシントンのネイティヴ・アメリ
カン政策の方針を平和的な交渉から武力制圧に変える契機となった。
このように方針を転換したワシントンに対してセント・クレアは、ネイティ
ヴ・アメリカンに懲罰的な攻撃を行うように提案した。議会の承認の下、ジョ
サイア・ハーマー(Josiah Harmar)率いる 1,200 人の民兵と 400 人の正規兵から
なる先遣隊が派遣された。ハーマーの部隊は、ネイティヴ・アメリカンの 2 万
ブッシェルのトウモロコシを焼き払った。しかし、10 月 19 日と 22 日の 2 度に
わたってハーマーの先遣隊はマイアミ族のリトル・タートル(Little Turtle)率い
る部隊に敗北を喫し、ワシントン砦に撤退を余儀なくされた。
北西部でのネイティヴ・アメリカンとの全面戦争を避けるためにはイロクォ
イ連合の動静が鍵であった。1790 年 12 月 1 日、セネカ族の 3 人の指導者がフ
ィラデルフィアを訪れ、1784 年のフォート・スタンウィクス条約で保障された
土地がニュー・ヨーク州によって侵害されていると抗議した。12 月 29 日、そ
の抗議に対してワシントンは、公正に売却された土地を除いてスタンウィック
建国初期
211
ス条約によってすべての土地が保障されると回答した。そして、ワシントンが、
イロクォイ連合に中立を保つことを求めた結果、イロクォイ連合は戦争に干渉
しないことを約束した。
さらにワシントンは正規軍をほぼ 2 倍に拡大し、各州から徴募した志願兵を
正規軍の規律の下に置くように改めた。1791 年 3 月 4 日、セント・クレアは自
ら遠征隊を指揮して進軍するように命じられた。セント・クレアの部隊は 9 月 7
日、ワシントン砦からマイアミ族の集落に向けて進軍を開始した。セント・ク
レアの軍にはマイアミ族の仇敵であるチカソー族の戦士達も加わっていた。
11 月 4 日、遠征軍は、マイアミ族の集落まで約 15 マイルの地点で、ハーマ
ーと同じくリトル・タートル率いる部隊に奇襲され大敗した。1,400 人のアメリ
カ軍兵士のうち、死傷者は 630 人にのぼった。これは、ネイティヴ・アメリカ
ンがアメリカ軍に対して収めた最大級の勝利である。こうした失敗により、ワ
シントンのネイティヴ・アメリカン対策についての批判が高まった。下院特別
委員会は、セント・クレアに対して査問を行うために大統領に関係書類の提出
を求めた。ワシントンは閣僚に諮ったうえで書類の提出に応じた。
フロンティア防衛の失敗は合衆国にとって大きな痛手であった。もしこうし
た不安定な状態が続けば、フロンティアの住民が合衆国から分離独立し、スペ
インかイギリスの保護下に入ろうとする危険性も否定できなかった。1792 年 3
月 5 日、ワシントンは議会に再度、軍隊を編成する資金を拠出するように求め
た。これまで送られた兵士達は主に民兵や志願兵であったが、今回は正規兵を
中心に編成されることになった。指揮官には独立戦争でも活躍したアンソニ
ー・ウェイン(Anthony Wayne)が任命され、2,000 人の正規兵と 1,500 人の志願
兵が指揮下に置かれた。
1794 年 8 月 20 日、ウェインの部隊はフォールン・ティンバーズの戦いでリ
トル・タートルを指導者とするネイティヴ・アメリカン連合軍に雪辱を果たし
た。戦いの結果、1795 年 8 月 3 日、ウェインと 93 人のリトル・タートルを含
むネイティヴ・アメリカンの指導者達との間でグリーンヴィル条約が取り交わ
された。この条約により、ネイティヴ・アメリカンは北西部領地からの後退を
余儀なくされ、白人の入植者が急増した。さらにジェイ条約の取り決めにより、
イギリスの 7 つの交易所も閉鎖された。その代わりにアメリカ政府によって交
易所が開設された。こうして独立戦争の最終局面に結末が訪れ、約 20 年に及ぶ
戦いは終わりを告げた。
212
アメリカ大統領制度史上巻
諸州とネイティヴ・アメリカンの間の緊張を緩和するために、1790 年 7 月 22
日、インディアン通商法が制定された。同法によって、公正な交易が保障され、
連邦政府の認可なく行われたネイティヴ・アメリカンの土地の取得が無効にさ
れた。しかし、ネイティヴ・アメリカンの土地を獲得しようとする諸州の動き
を止めることができなかった。ジョージア州はミシシッピ川とヤズー川の間の
土地を白人入植者に開放しようとしていた。そうした動きに不満を募らせたク
リーク連合は、1786 年 4 月 2 日、ジョージア州に対して宣戦布告した。
また 1790 年、ジョージア州議会は 1,500 万エーカーの土地を投機家に売却し
た。その土地は連邦政府がチョクトー、チェロキー、そして、チカソー諸族に
既に譲渡していた土地であった。スペインもその土地に対して領土主張をして
いたので、無用な紛争を避けようとワシントンは考えていた。こうした状況を
解決するために、係争地域への入植を禁じる布告が出された。
ワシントンはクリーク連合の指導者をニュー・ヨークに招いて調停を行った。
その結果、1790 年 8 月 7 日に講和条約が成立した。同条約によって、クリーク
連合は、スペイン領フロリダの範囲外にある領土を合衆国が保護するという約
束の下、ジョージア州が主張した土地の大部分が返還された。翌年には、チェ
ロキー族との間にも条約が締結された。しかし、1792 年、ジョージア州のフロ
ンティアの入植者とチェロキー族との間で紛争が再燃した。ワシントンは交渉
と調停を通して平和を維持する政策を採った。
敵対的なネイティヴ・アメリカンの反抗を鎮圧する一方で、ワシントンは外
交的手段も用いている。ワシントンはネイティヴ・アメリカン諸族を独立した
国家として認めていた。大統領官邸やマウント・ヴァーノンを訪れたネイティ
ヴ・アメリカンの族長達は、合衆国の「兄弟」として歓迎を受けた。
1792 年 3 月 23 日、ワシントンはネイティヴ・アメリカン諸族の族長達をフ
ィラデルフィアに招いて友好を呼びかける演説を行っている。それから 6 週間
にわたる会談が行われた後、セネカ族の指導者であるレッド・ジャケット(Red
Jacket)は、ワシントンより銀のメダルを贈られた。その他の族長達にも友好の
証として貝殻玉のベルトが贈られた。
さらにワシントンはティモシー・ピカリング(Thimothy Pickering)をイロクォ
イ連合に派遣した。ピカリングの尽力の結果、1794 年 11 月 11 日、カナンデグ
ーア条約が締結された。同条約によって、合衆国とイロクォイ連合は相互に主
権を承認することに加えて、合衆国がイロクォイ連合とその友好部族に対して
建国初期
213
干渉せず、合衆国に土地を売却することを決定するまでその領有権が保障され
ることが規定された。条約に署名した指導者の中にはレッド・ジャケットをは
じめフィラデルフィアを訪問した者達が多く含まれていた。
当時の大部分のアメリカ人と同じく、ワシントンは彼らの文化を低いものと
みなし、ネイティヴ・アメリカンが文明化の道を辿って最終的にはアメリカに
統合されるべきだと考えていた。事実、アメリカは 1778 年から 1868 年にかけ
てネイティヴ・アメリカン諸族と 77 の条約を締結し、
「合法的な」手段を用い
てネイティヴ・アメリカンの領有権を解消し、入植者の西部移住を促進する方
針を一貫して採用している。
第 17 項 連邦派と民主共和派の形成と第 1 合衆国銀行
ワシントンの大統領としての行いは、大統領が党派に左右されない官職であ
るという理解を体現するものであった。憲法制定会議の代表者達の大部分は、
党派を好ましく思っていなかったし、ワシントンは自身がいかなる党派の代表
者でもないと思っていた。またワシントンは、憲法第 2 条によって大統領は議
会における党派争いから距離を置くべきだと信じていた。大統領は政治制度の
統一性と安定性を保障する存在である。ワシントンは大統領が行政府の長であ
ることを自任していたが、選挙や立法過程に影響力を行使することは自らの原
則に反すると考えていた。大統領の最も優先すべき義務は法を執行することだ
とワシントンは信じていた178。
党派に左右されないというワシントンの信念は政権内の党派対立によって揺
らぐことになる。対立の火種になったのは財務長官ハミルトンと国務長官ジェ
ファソンである。前者を中心に連邦派が、後者を中心に民主共和派が形成され
た。連邦派は、ニュー・イングランドの商人を支持基盤として強力な中央政府、
中央銀行の設立、製造業の振興、公債償還、親英姿勢などを推進しようとした。
一方、民主共和派は南部諸州の農園主を支持基盤として立法府と州権の尊重、
農本主義、親仏姿勢などを推進しようとした。ハミルトンは国家が無政府状態
に陥るのを恐れ、秩序を維持するために中央集権化を目指した。ジェファソン
は、専制政治の出現を恐れ、自由を維持するために権力の分散を目指した。ハ
ミルトンは共和政体を効率的に運用するためにはエリートによる統治が必要だ
と考えいていた。ジェファソンは共和政体を運用するには人民の教化による農
214
アメリカ大統領制度史上巻
民民主主義に基づくべきだと考えていた。そうした対立は植民地時代から存続
する 2 つの大きな地位的利害対立が表面に現れたものであり、アメリカの国家
としての在り方に関する原理的な相違から発していた。両派の対立が深化した
主な契機は合衆国銀行設立である。
当時、慢性的な通貨不足にアメリカは悩まされていた。流動資本を供給する
だけではなく政府の財務機関としての役割を主体に様々な金融機能を果たす中
央銀行がアメリカ経済の発展に不可欠であると考えたハミルトンは、1790 年 12
月 13 日、合衆国銀行の創設を議会に提言した。ハミルトンは、合衆国銀行の徴
税業務、資金の支払い、必要に応じた短期信用の供与、通貨の供給、銀行の株
式の販売などを通じて実業の発展を促し、公債の価格を維持して政府の信用を
維持することを目指した。
ハミルトンの提唱は党派対立を助長する結果をもたらした。特にジェファソ
ンやマディソンは、金融に対して根強い不信感を持っていた。農本主義的傾向
を持つ彼らからすれば、銀行は資本家やその他の財界関係者を利するだけで自
営農を圧迫し、貧困層を搾取する悪しき存在に他ならなかったからである。ま
た連邦政府が特許状を与える権限について定めた規定がないという憲法上の問
題もあった。つまり、反対派は、中央銀行の創設を行政府による立法権限の侵
害だと見なしたのである。
こうした反対にも拘わらず、20 年を期限とする合衆国銀行特許法案は、1791
年 1 月 20 日、上院を通過し、2 月 8 日、下院を通過した。マディソンは同法案
が違憲であると議会で演説するだけにとどまらず、ワシントンに拒否権を行使
するように求めた。ワシントンはマディソンに拒否教書を準備させた一方で、
閣僚に合衆国銀行設立の合憲性について諮った。まず司法長官ランドルフは合
衆国銀行が違憲であるという見解を述べた。2 月 15 日、ジェファソンも合衆国
銀行特許法案に対して拒否権を行使するようにワシントンに提言した。ジェフ
ァソンの見解はランドルフの見解とほぼ同じであり、連邦に付与されることが
明記されていない権限は州に留保されることを規定した憲法修正第10 条に基づ
いて、合衆国銀行を設立する権限は憲法に明記されていないので違憲であると
いう見解であった。
ワシントンはランドルフとジェファソンの意見書をハミルトンに送って意見
を求めた。2 月 23 日、ハミルトンは、連邦政府は憲法によって規定されている
権限を行使するために必要となるあらゆる手段を用いることができるという黙
建国初期
215
示的権限の原則に基づいて、合衆国銀行設立は合憲であると結論付けた。ハミ
ルトンは、議会が通商を促進するために必要にして適切な施設である灯台の設
置を規定する法を制定することで、黙示的権限の原理を既に採用している。そ
れ故、合衆国銀行の設立は、税金の徴収、俸給の支給、負債の支払いのような
明確に法文化された権限と同様の権限として認められるべきであるとハミルト
ンは主張した。最終的に、ワシントンはハミルトンの意見を採用し、2 月 25 日、
合衆国銀行特許法案に署名した。ワシントンはある問題に対して特に強く反対
するべき点がなければ、その問題を担当する閣僚の意見を優先することが多か
った。ハミルトンが提唱するような黙示的権限が公的に認められるのは 1819 年
のマカロック対メリーランド州事件の最高裁の判決である。
合衆国銀行は完全な官営ではなく銀行株を発行することで資本金を集めた。
連邦政府は資本金の 2 割を出資した。連邦政府が全額出資しなかった理由は、
合衆国銀行を民間に委ねることで政治家からの干渉をできるだけ防ごうと考え
たからである。しかし、財務省が経営を監視することで、民間の利益だけでは
なく公共の福祉が保たれるように配慮している。連邦政府は合衆国銀行の設立
により新規公債の募集や借入など大きな財政的利益を受けることができた。そ
れだけではなく、合衆国銀行により生み出される莫大な信用はアメリカ経済の
発展に寄与した。アメリカはヨーロッパ諸国でも僅かな国々にしか与えられて
いないような高い信用を得ることができた。
また 1791 年末、ハミルトンは製造業に関する報告を議会に提出した。ハミル
トンは未発達なアメリカの製造業を関税によって保護することでその発展を促
すことを考えた。これも連邦政府の支持層を強固にしようという試みの一環で
あった。北部だけではなく南部でも製造業を発展させる必要があるとハミルト
ンは確信した。しかし、南部では製造業よりも綿花の栽培のほうが高い収益を
あげ、北部では既に自由貿易の原理に基づいて活動していた。その結果、保護
関税を求める者はほとんどおらず議会はハミルトンの提案を受け入れなかった。
ハミルトンの政策提案は、大統領が公共政策を形成し実行する主要な役割を
果たすという前提に基づいていた。そうした前提は、ジェファソンとマディソ
ンによれば、議会と州を大統領に従属させ、人民主権を損ない、合衆国をイギ
リスのような君主制国家に至らせる道であった。連邦政府の権限を過大に強化
し、その統一国家的な性質を強化しようとする目的で憲法が曲解されていると
ジェファソンとマディソンは考えるようになった。そして、財政上の恩恵を駆
216
アメリカ大統領制度史上巻
使して議会に腐敗した支配権を及ぼそうとする政治家の道具として利用されて
いると見なすようになった。しかし、ハミルトンが推進した政策がアメリカの
発展の基礎を作ったことは紛れもない事実である。
連邦派と民主共和派の両派は「政党」と目されるが、この時代は、政党は君
主制の遺物だという考えが強く、政治を腐敗させる存在として否定的に見られ
ていた。そのため、連邦派と民主共和派は、実質上は政党であるが、正式に「政
党」を名乗っていたわけではない。また憲法にも政党政治に関する規定は設け
られていない。そのため政権の政策に反対する組織化された政党が出現した際
に、政権はどのような対応をとるべきかは明確ではなかった。また反体政党の
事実上の党首であるジェファソンは辞任するべきなのか、また大統領が認可し
た政策に閣僚の一員として反対を唱えることは妥当なことなのかも明確ではな
かった。ワシントン自身は明らかに連邦派寄りであったが、政権を維持するこ
とが新政府の安定に繋がると信じていたのでハミルトンとジェファソンを何と
か和解させようと努力した。
1792 年 5 月下旬、ジェファソンはワシントンに、続投を促すのと同時に、新
聞で紹介されているハミルトン一派の背信を伝えるという間接的な形式でハミ
ルトンに対する不信感を明かした。7 月 29 日、ワシントンは身元を明かさない
ままジェファソンの訴えをハミルトンに伝え、それに対する返答を求めた。ハ
ミルトンは非難に対して逐一反論した。さらにワシントンは、8 月 23 日にジェ
ファソンに、同月 26 日にハミルトンに手紙を送って、
「傷付けあうような疑念
と苛立たしい攻撃の代わりに寛大な容認、相互の忍耐、そしてすべてにわたる
妥協的な譲歩」をするように説得を試みた179。ハミルトンとジェファソンは両
者とも 9 月 9 日に大統領に返答した。ハミルトンは、もし現代の状態が緩和さ
れなければ政府の活力が削がれると認めた。しかし、ハミルトンは、ナショナ
ル・ガゼットがジェファソンによって政治目的に基づいて創立され、その主要
な目的は自分と財務省を攻撃することにあると非難した。一方、ジェファソン
は、これまでハミルトンに騙されていたが、ハミルトンの金融政策が共和制を
破壊するものだと悟ったと激しく非難した。
第 18 項 中立宣言
両者の党派対立をさらに深めたのが 1793 年 4 月 22 日の中立宣言である。フ
建国初期
217
ランス革命勃発後、周辺諸国の君主は危機感を強めた。1792 年 4 月、フランス
はオーストリアに宣戦布告した。さらに翌 1793 年 1 月 21 日、ルイ 16 世(Louis
XVI)が処刑され、ヨーロッパ諸国は第 1 回対仏大同盟を結成した。
ヨーロッパで激化する戦争の報せがアメリカにも届き始めた。アメリカに実
質的な戦力がほとんどなかったので、フランスは米仏同盟に基づいて武力行使
を求めることはなかったが、アメリカの領土内に捕獲審判所を開き、アメリカ
船舶を私掠船として艤装する許可を求めた。さらに、イギリスが対仏戦争に参
加したという噂が取り沙汰されるようになった。戦火が新大陸に飛び火する可
能性もあり、アメリカは旗幟を明らかにする必要に迫られた。その頃、マウン
ト・ヴァーノンに滞在していたワシントンはジェファソンから報せを受け取っ
て、厳密な中立を維持するように返信で指示し、4 月 13 日に急遽、首都フィラ
デルフィアに向かった。4 月 18 日にワシントンは 13 の質問からなる手紙を閣
僚に送って意見を求めた。その中でも主な問題は、新しいフランス公使を接受
すべきかどうかという点とフランスの君主制が崩壊した今、米仏同盟の拘束力
はどの程度のものかという点であった。
翌日の閣議では、米仏同盟でアメリカはフランス領アンティル列島を防衛す
る義務を負わされていたが、当時のアメリカの脆弱な軍事力からして中立を守
ることが最善であるという見解で閣僚の意見は一致した。また休会中の議会を
招集すれば危機感を煽ることになるので、特別会期を設けるべきではないとい
う見解についても意見は一致していた。しかし、中立を実際にどのように行う
かについては、特にハミルトンとジェファソンの間で激しい議論が行われた。
ハミルトンは政体の変更によってアメリカは米仏同盟による義務から解放さ
れると主張した。それに対してフランス革命を高く評価していたジェファソン
は、戦争に巻き込まれないようにするべきであるが、政体が変更されても米仏
同盟は継続するので、戦争以外の方法でできる限りフランスを支援するべきだ
と主張した。また独立戦争時に君主政体からの支援をアメリカは受け入れたの
にも拘らず、逆に今度は共和政体を支援しないのはおかしいと指摘した。さら
に戦争を行うか否かの判断は議会に属するので中立宣言を大統領が単独で公表
することは違憲であると主張した。それに対してハミルトンは、議会の宣戦布
告がない場合、大統領はアメリカ人に中立を守らせる完全な権限を持つと論じ
た。ジェファソンを中心とする民主共和派は、フランス革命は共和制の神聖な
原理を体現するものだと見なしていた。彼らはイギリスを支持するハミルトン
218
アメリカ大統領制度史上巻
を君主制を望んでいるとして批判した。
ハミルトンとジェファソンのこうした対立は両者の外交指針の本質的な相違
に根差していた。ハミルトンは、自由と秩序の均衡が保たれているイギリスと
友好関係を結ぶことはアメリカが国家の統合と安定を必要している際に有益で
あると考えていた。イギリスとアメリカの本質的利害は相補的であり、決して
対立的ではないと信じていた。事実、アメリカの貿易の大半はイギリスによっ
て占められ、アメリカは事実上、イギリスに経済的に依存していた。その一方
でジェファソンは、フランスとの通商関係と外交関係を緊密化することがアメ
リカにとって最も有益であると考えていた。
最終的にワシントンは概ねハミルトンの意見に従い、1793 年 4 月 22 日、中
立宣言を公表した。ただし、ジェファソンの勧めに従って、ワシントンは宣言
の文面に「中立」という言葉は盛り込まず、
「交戦諸国に対して友好的かつ公平
な行動を採用し追求する」という表現に留めた。ワシントンは以下のように布
告した。
「オーストリア、プロシア、サルディニア、イギリス、オランダとフランス
の間で戦争状態が存在することは明らかであるが故に、合衆国の義務と利害に
よって、誠実と善意を以って交戦諸国に対して友好的かつ公平な行動を採用し
追求することが求められる。したがって私は、こうした現在の状況によって、
各国に対して上述の行動を遵守するという合衆国の意向を宣言し、合衆国市民
にそうした意向に反するすべての行為や行動を慎重に避けるように諭告し警告
することが適切だと考えた。そして、私はこれにより、合衆国市民は何人とい
えども、先述の諸国に対する敵対行為を行うか、支援するか、もしくは扇動す
る者は、国際法の下に、処罰、または[資産の]没収を免れ得ず、また諸国の現行
慣習法に基づいて密輸とみなされる品目を交戦諸国に持ち込む者は、処罰や没
収を被っても合衆国の保護を受けることはできないと知らしめ、さらに合衆国
に属するすべての公職者に、合衆国裁判所の管轄内で、交戦諸国、もしくはそ
のいずれかに関して国内法を侵害するすべての者に対して訴追を開始するよう
に指令を与える」180
中立宣言は上院に諮らずに大統領が外交を取りしきる先例となった。またア
メリカがヨーロッパの紛争に距離を置いて孤立を守る先例ともなった181。ワシ
ントンの配慮にも拘わらず、この中立宣言は、独立戦争をともに戦った同盟国
フランスを裏切ることになると親仏派から激しい非難を受けた。中でもフィリ
建国初期
219
ップ・フレノー(Philip M. Freneau)による非難はワシントンを激怒させた。ワ
シントンは、フレノーを「悪党」と呼び、ジェファソンに彼を翻訳官として雇
用するのを止めるように求めたが、ジェファソンはそれに従わなかった。ワシ
ントンは、フランス革命をめぐってアメリカ国内で党派を組んで争うのは馬鹿
げたことだと考えていたが、党派対立は深刻になる一方であった。
1793 年 6 月 29 日から 7 月 27 日にかけて、ハミルトンは「パシフィカス」
の筆名で、大統領が議会に諮ることなく中立を宣言することができると主張し
た。ハミルトンは、憲法第 1 条第 1 節で「この憲法によって与えられる一切の
立法権は、合衆国議会に属する」と規定されているのに対して、憲法第 2 条第 1
節 1 項で「行政権は、アメリカ合衆国大統領に属する」と規定されていること
から、大統領には憲法で表明されている以外の権限が黙示的に与えられている
と論じている。それは外交分野において大統領の大幅な自由裁量権を容認し、
非常時の権限を広範に解釈する論であった。そうした非常時の権限は特に 20 世
紀と 21 世紀の大統領によって行使された182。
ジェファソンは反論のためにペンを執るようにマディソンに要請した。フィ
ラデルフィアを離れていたマディソンは事実関係に疎いために、ジェファソン
の要請に乗り気ではなかったが、懇請もだし難く、
「ヘルヴィディウス」の筆名
で 8 月 24 日から 9 月 18 日にわたって 5 篇もの長大な反論をガゼット・オヴ・
ザ・ユナイテッド・ステイツに発表した。ヘルヴィディウス・プリスカス
(Helvidius Priscus)は皇帝ネロ(Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus)
の治世下で追放の憂き目に遭いながらも、皇帝の権限を制限する元老院の権利
を擁護するために戻った人物である。論稿の中でマディソンは、宣戦布告と条
約を審議する権限は議会にあるので、大統領に中立宣言を行う権限は認められ
ないと論じた。内政と同じく外交に関して大統領の権限は法を執行することに
限られる。マディソンにとって、パシフィカス、つまりハミルトンの論は行政
府の強大化を認め、立法府の管轄を侵害するものであり、それは自由な政府と
共和主義の基礎を崩壊させるものであった。マディソンとハミルトンの間で行
われた論争は、大統領の権限は憲法の条項によって制限されるか、それとも憲
法が明確に規定していない場合、独立して行動する自由裁量権が大統領に与え
られるかを問う最初の論争であった。こうした憲法上の論争は解決不可能であ
り、党派を超越した大統領制度を打ち立てるというワシントンの希望を打ち砕
いた。
220
アメリカ大統領制度史上巻
第 19 項 ジュネ問題
さらに革命フランス政府の駐米公使エドモン=カール・ジュネ
(Edmond-Charles Genêt)の登場が事態をよりいっそう紛糾させた。1793 年 4
月 8 日、サウス・カロライナ州チャールストンに到着した「市民」ジュネは親
仏派から熱狂的な歓迎を受けた。まずジュネが行ったことは、敵国イギリスの
通商を妨害するために私掠船に捕獲免許を与えることに加え、イギリス領カナ
ダとスペイン領フロリダおよびルイジアナに侵攻するための兵士の募集である。
ジュネはそうした領域で革命を起こして新しい共和国を樹立しようと考えてい
た。
そうした軍事行動の資金としてジュネは、まだ返済されていない 248 万ドル
の債務を前倒しでアメリカに支払うように請求する命令を受けていた。さらに
ジュネがフランスに到着する前、フランス政府の代理人はアメリカの対仏負債
を物資と交換する案を申し出ていた。閣僚は全会一致でその申し出を拒むよう
にワシントンに助言した。
ワシントンは代理人の申し出に加えてジュネの提案も拒むことに決定した。
その理由としては、フランスの要請に応じるだけの資金がアメリカにはないこ
と、そして、アメリカが公債を発行して不足分の資金を賄えば、アメリカ政府
の信用が低下することが挙げられた。最終的に対仏負債は公債に組み入れられ、
1815 年に完済された。
5 月 18 日、ワシントンはジュネを公使として迎接はしたが、ジュネの行為を
認めなかった。ジェネの接受は主にジェファソンの助言による。こうしたジュ
ネの行動に対して閣内は、中立宣言公布以前に行われた拿捕を合法的行為とし
て認める一方で、公布以後の拿捕は違法とし、すべての捕獲品を返還するよう
に通告した。またジュネが議会との直接交渉を仄めかした時にジェファソンは、
大統領こそ諸外国との唯一の伝達経路であると返答し、大統領の外交交渉にお
ける役割を規定した。
6 月、ワシントンはジェファソンを通じてジュネに、ジュネの侵攻計画がアメ
リカの主権を脅かすものであり、私掠船をアメリカの領海内から立ち去らせる
ように求めた。しかし、ジュネは申し入れを無視して、拿捕したイギリス船舶
をフィラデルフィアの港で艤装し始めた。地元当局から警告を受けたジュネは、
建国初期
221
釈明のために大統領のもとを訪れた。ジュネはワシントンに向かって、中立宣
言は米仏同盟に違反していると抗議し、ジュネがアメリカ政府よりもアメリカ
市民の間で人気があるのはジュネ自身の責任ではないと述べた。それに対して
ワシントンは、新聞を読んでいないし、アメリカ政府の人気について気にかけ
ていないと答えたのみであった。一連のジュネの行動により、中立宣言の下で
フランスにどのような行為を認めるかについて考えなければならなかった。し
かし、閣僚の間では見解の統一がなされず、ワシントンは大統領抜きで何らか
の意見をまとめるように閣僚に指示した。そこで閣僚はジェファソンの発案に
従って、最高裁に意見を求めた。それに対してジェイを筆頭とする最高裁は三
権分立の原理から司法府が行政府の管轄すべき問題に口を差し挟むべきではな
いと回答した。
8 月 1 日の閣議でジュネの解職をフランス政府に要求することがようやく決
定された。ジュネが大統領に対して行った侮辱的行為など解職要求の理由を示
すべきかどうかについて閣僚の意見はわかれた。ハミルトンはすべてを明らか
にするべきだと主張した。フランス政府がアメリカ政府を転覆させようとして
いるのではないかと疑っていたからである。一方、ジェファソンは、非難はジ
ュネ本人に限るべきで、フランス政府の政策に対して向けるべきではないと主
張した。最終的にワシントンは解職要求の理由を明らかにするのを差し控えた。
その一方でジュネは召還命令が届くまで、イギリスやスペインに対する敵対
行動を止めようとはしなかった。こうした行動を抑制するためにランドルフ司
法長官は、ヨーロッパの諸条約や慣行を参考に中立国の権利に関する国際法上
の原則をまとめた。それは主に次のような内容である。
アメリカの領海からすべての私掠船の退出を命じ、交戦国が私掠船をアメリ
カの港で艤装することを禁じる。さらにアメリカの主権が存する範囲内で外国
が法廷を開くことを禁じる。そして、外国政府がアメリカの領土内でアメリカ
市民を徴募することを禁じる。この原則は 1793 年 8 月 4 日に財務長官の名で発
行された。財務省の管轄下にある関税吏や徴税官が実際に海事を諸港で取り扱
うことができる唯一の役人だったからである。
さらにワシントンは、1794 年 3 月 24 日、再び中立宣言を発表し、スペイン
領に対する遠征に加わる者を処罰すると警告した。さらに、中立宣言が発表さ
れて以来、それに違反した場合に適用される処罰は定められていなかったが、
1794 年 6 月 5 日に中立法が制定されることではじめて中立に違反した場合の処
222
アメリカ大統領制度史上巻
罰が明確化された。
一方、フランスではジャコバン派による新政府が樹立され、新公使がアメリ
カに赴任した。新公使がジュネを逮捕して本国へ送還しようとした時、ワシン
トンはジュネが処刑される可能性を危惧してそれを許可しなかった。結局、ジ
ュネはアメリカに帰化した。
1793 年 7 月 31 日(辞任の発効は 12 月 31 日)、ワシントンの努力にも拘わら
ず、ジェファソンは国務長官を辞任した。しかし、これで党派対立が終息した
わけではない。当初、ワシントンは党派対立に関して均衡を保とうとする立場
にあり、連邦派に見なされることを拒み、1796 年の大統領選挙でジョン・アダ
ムズを連邦派の大統領候補として認めることさえなかったが、次第にワシント
ン自身も民主共和派の激しい非難の的となった。特にジェイ条約は激しい論議
の的になり、連邦派と民主共和派の亀裂をさらに広げた。
第 20 項 ジェイ条約
1793 年 11 月 6 日、イギリスは、武器弾薬を除く物品を運ぶ中立国の船舶の
積荷は敵産没収の対象とはならないという原則を否定して、フランス領西イン
ド諸島に食糧を輸送する中立国の船舶を拿捕するように命じた。その結果、多
くのアメリカ船舶が拿捕された。議会は戦争準備を開始するとともにアメリカ
の全港に外国船の入港禁止措置を発令した。さらにイギリスがネイティヴ・ア
メリカンをアメリカに敵対させようとしているという知らせが届いた。イギリ
スに通商上の報復を与えよという声が高まった。しかし、イギリスが食糧を輸
送中のアメリカ船舶に対する拿捕命令を取り消したためそうした声は沈静化さ
れた。そこでワシントンはイギリスとの最終的な問題の解決を図ろうとジェイ
をイギリスに派遣することにした。
ジェイは、主にハミルトンが起草した訓令に基づいて交渉を行った。その訓
令により、通商条約の締結、北西部領地にあるイギリスの拠点の撤廃、拿捕さ
れたアメリカ船舶に対する補償、そして、独立戦争中にイギリスによって解放
された奴隷に対する補償を取り付けるように指示された。ジェイの交渉の結果、
1794 年 11 月 19 日、ジェイ条約が締結された。その内容は、1796 年までに北
西部領地からイギリス軍を撤退させること、アメリカが被った損害を調査する
委員会の設置、英領西インド諸島との限定的な通商、アメリカ国内で敵国によ
建国初期
223
る私掠船の艤装を禁止することなどを含む。一方、アメリカは、独立戦争以前
の負債をイギリスの債権者に返済するように取り計らうこととイギリス人に引
き続き毛皮交易を認めることを約した。ジェイ条約によって平和が維持され、
アメリカの領土の保全が保障され、西部への発展の基礎が確立された。
しかし、ジェイがアメリカ人船員の強制徴用に対する補償と独立戦争中に連
れ去られた奴隷の賠償金を得ることができなかったので同条約は不評を招いた。
さらにイギリスは、フランス、もしくは他の敵国に向かう戦時禁制品を差し押
さえる権利を保持していた。禁制品の一覧表は、明らかにイギリスにとって有
利な内容であった。とはいえジェイは、ネイティヴ・アメリカンの自治による
衛星国建設や現セント・ポールに通じる回廊地帯などイギリス側の要求を断固
として拒み、ミシシッピ川の航行権については些かの譲歩もしようとしなかっ
た。しかし、親仏姿勢をとる民主共和党からすれば、ジェイ条約の締結はイギ
リスを攻撃しフランスを支援する望みが断たれたのに等しかった。またフラン
スもジェイ条約が米仏同盟に反するとしてアメリカに対する姿勢を硬化させ、
両国の関係は悪化の一途をたどった。
1795 年 3 月 7 日、条約の詳細が到着した。ワシントン自身はまだ条約を認め
るかどうかを決断していなかったが、6 月、特別議会を招集し、上院に条約を上
程した。そして 6 月 24 日、上院での非公開審議を経てジェイ条約は、西インド
諸島との制限貿易を規定した項目を除いて20 票対10 票で承認された。
しかし、
早くも 7 月 1 日に条約内容が暴露され民主共和派の怒りを誘った。多くの民主
共和派は、通商停止を取引材料にすれば、イギリスからもっと譲歩を引き出せ
たはずだと非難した。南部の農園主達は連れ去られた奴隷の補償がなされなか
ったことに大きな不満を抱いた。また北部の商人達も条約で取り決められた通
商条件に満足していなかった。
7 月 3 日、ワシントンはハミルトンに内密でジェイ条約の是非について諮問し
ている。その 8 日後、ハミルトンは 53 ページにもわたる注釈を書いてジェイ条
約を認めるように勧めた。結局、ワシントンは 8 月 12 日にジェイ条約に署名す
る意思を閣僚に伝え、その 6 日後に署名した。もしジェイ条約が成立しなけれ
ば、イギリスとの戦争が勃発する恐れもあった。その結果、アメリカの貿易が
壊滅的な打撃を被り、アメリカ政府の信用が完全に崩壊する危険性があった。
翌 1796 年 2 月 29 日、ワシントンはジェイ条約の発効を宣言した。それに対
して下院は、3 月 24 日、ジェイ条約に関連する文書の開示を大統領に求める決
224
アメリカ大統領制度史上巻
議を採択した。下院の民主共和派の目的は単に文書を見ることではなく、下院
に条約締結の過程に介入する権利を与えることであった。彼らは、もし条約を
締結する権限が、大統領と上院の 3 分の 2 の議員のみに認められれば、大統領
は 32 人の中の 22 人の協力を求めれば、下院の権限をすべて奪うような条約を
締結することもできると論じた。翌日、ワシントンは閣僚に下院の要求に応じ
るべきかどうかを諮問した。26 日、すべての閣僚が、上院のみ条約に関する「助
言と同意」が求められているという憲法の規定に基づいて、要求に応じるべき
ではないと返答した。その結果、ワシントンは下院の要求を拒絶した。これは
大統領が外交に関して特権を持つことを示した重要な先例となった。またマデ
ィソンを中心とする民主共和派は下院で、条約に関連する予算を差し止めよう
としたが、4 月 30 日、条約を執行するための予算として 8 万 800 ドルが認めら
れた。最終的にジェイ条約をめぐる憲法上の危機は回避されたが、下院が外交
において果たすべき役割については何の解決もなされなかった。
200 年以上経っ
ても、外交政策全般に参与する下院の権利は未だに議論の的である。しかし、
ワシントンが打ち立てた先例は今でも打ち消されていないことは確かである
183。
第 21 項 ピンクニー条約
1795 年 7 月から 10 月にかけてヨーロッパの動乱で長い間、交渉の停止を余
儀なくされたミシシッピ川の境界と自由航行権の問題についてトマス・ピンク
ニー(Thomas Pinckney)とスペイン外相マニュエル・デ・ゴドイ(Manuel de
Godoy)との間で交渉が再開された。その結果、1795 年 10 月 27 日、アメリカ
はスペインとピンクニー条約 (サン・ロレンゾ条約)を締結した。
同条約により、アメリカとスペイン領フロリダの国境線が北緯 31 度に定めら
れた。さらにアメリカは、ミシシッピ川の自由航行権とニュー・オーリンズの
倉庫使用権を獲得した。それは西部の輸出を促進する効果が見込める有利な条
件であり、アメリカが再三、スペインに要求していた権利であった。またスペ
インとの予期せぬ衝突を未然に防止する効果も求めた。アメリカ側は 1796 年 3
月 7 日に、スペイン側は同年 4 月 25 日に同条約を批准した。ワシントンは告別
の辞でピンクニー条約をアメリカ政府が市民に役立った例として挙げている。
ミシシッピ川の東岸に駐留していたスペイン軍は撤退し、アメリカはようやく
建国初期
225
自国の領土を完全に統括できるようになった。
第 22 項 バーバリ諸国との外交
ワシントン政権はバーバリ諸国に貢納することで平和を購った。ワシントン
政権期以前からバーバリ諸国の海賊がアメリカ船を襲撃し、船員を捕虜すると
いう事件が相次いでいた。1790 年 12 月 30 日、ワシントンは議会の求めに応じ
てジェファソンが作成した事件に関する報告書を議会に提出した。しかし、議
会は根本的な解決策を提示しなかったので、バーバリ国家の海賊は猖獗を極め、
捕虜にされるアメリカ人船員の数は増加の一途をたどった。
1792 年 2 月 22 日、捕虜にされたアメリカ人船員から請願を受けてようやく
上院は、この問題に関する助言を求めたワシントンの要請に応じて、財政状態
の許す限り、海軍を建造することを認めた。その一方で、ヨーロッパ諸国の例
に倣って、4 万ドルを超えない額でアルジェリアと妥結し、かつ貢納金を年額 2
万ドル以下に抑えるように勧告した。さらに上院は、もしそれが不可能であれ
ば、4 万ドルを超えない額で捕らわれているアメリカ人を解放するように努める
ように勧告した。議会はこうした交渉に関して 5 万ドルの予算を認めた。
1794 年 3 月 27 日、議会は海軍の建造を認める法案を可決した。その法案に
は、もしバーバリ諸国との平和友好条約が締結されない場合に備えて、6 隻の艦
船を建造するための予算として 60 万ドルが認められた。最終的に 1795 年 9 月
5 日に米阿平和友好条約が締結されたが、既に建造中であったために艦船の建造
は続行され、新たな合衆国海軍の発端となった。米阿平和友好条約は、アメリ
カがバーバリ諸国に毎年 1 万 2,000 枚のシークイン金貨相当の海軍軍用品を支
給する代わりに、アメリカ船を解放するという内容であった。
第 23 項 ウィスキー暴動
ウィスキー暴動でワシントンは大統領が国内の騒擾を鎮圧する責任を持つこ
とを明らかに示した。1791 年に制定された内国税法により蒸留酒に税が課され
た。南北戦争まで個人に課される所得税さえなかった合衆国では物品に対する
課税は莫大な負債を返済するために必要不可欠な措置であった。後に蒸留酒の
他にも嗅ぎタバコや砂糖、馬車にも税が課された。蒸留酒は西部の住民にとっ
226
アメリカ大統領制度史上巻
ては重要な産品であり、過剰な小麦生産を消化するための実用的な方法であり、
輸送費の支弁にも用いられているために新たな課税は死活問題であった。西部
の住民はそうした物品税を、かつて全アメリカ植民地を激怒させたイギリスの
印紙条例のように中央政府による不当で圧政的な法だと見なした。請願や嘆願
などを受けて議会は法に修正を加え、脱税を取り締まる官吏の数を減らそうと
努めた。その結果、大部分の地域で不満は抑えられたが一部の地域では反対運
動が拡大した。ペンシルヴェニア州ワシントン郡では反対運動が組織化され、
税金の支払いを拒絶し、連邦からの脱退さえ仄めかした。さらにペンシルヴェ
ニア州モノンガヒーラ郡で暴徒が徴税吏を襲撃した。
ペンシルヴェニア州知事は法を執行するための措置を何もとろうとしなかっ
た。ワシントンは連邦政府が諸州の力を借りずに法を執行することができるこ
とを示す好機だと考えた。ワシントンは、このように法律が踏みにじられれば、
共和政体は一撃で終わりを迎え、それ以後は無政府状態と混乱以外に予期でき
るものはないと考えていた。連邦判事は通常の手段では法律が執行されないと
大統領に伝達した。そのような場合、1792 年に制定された法律によって、大統
領は通常必要とされる手続きを経ることなく鎮圧のために民兵を召集すること
ができた。ワシントンはまずペンシルヴェニア州知事に自ら民兵を召集するよ
うに求めたが、州知事は召集を行うことを拒んだ。
そのため、8 月 7 日、ワシントンは連邦政府の名の下、1 万 2,950 人の民兵を
召集し、9 月 1 日までに降伏するように暴徒に呼び掛けた。その一方で、ワシン
トンはブラッドフォード司法長官、ジェームズ・ロス(James Ross)上院議員、
ペンシルヴェニア州最高裁判事ジャスパー・イエーツ(Jasper Yeates)を交渉役
として派遣した。3 人はピッツバーグでペンシルヴェニア州西部諸郡の代表と会
談し、秩序の回復に協力する約束を取付けた。しかし、約束を果たされず、9 月
15 日、3 人からの報告を呼んだワシントンはすべての公職者に法を厳格に執行
することを促す布告を出した。そして、その 10 日後、遂に軍の集合が命じられ
た。ワシントンとハミルトンはカーライルまで赴いてペンシルヴェニア州から
召集された民兵を閲兵した。両者は軍を率いてカンバーランド砦に向かい、メ
リーランドとヴァージニアの民兵を軍に加えた。それから遠征軍は 300 マイル
の荒野を行軍した。現職の大統領が戦場で軍を率いた最初に例にして唯一の例
である184。
ペンシルヴェニア州知事は州が暴徒を処理する適切な権限を持つと主張し、
建国初期
227
連邦の介入に反対した。しかし、ワシントンはハミルトンの説得を受けて、連
邦の武力で暴徒を鎮圧する道を選択した。地方の主張と連邦の主張が異なる時
に、連邦が地方に対して優位性を持ち、大統領がリーダーシップを発揮すると
いう前例が打ち立てられた。
ハミルトンや連邦派の指導者は党派的な思惑で動いていた。ハミルトンはウ
ィスキー暴動を政敵を葬り去る好機だと考えた。ハミルトンは地元の民主共和
派が暴動を扇動したとワシントンに示唆した。ジェファソンやマディソンは暴
動に対する連邦政府の介入に反対していなかったし、多くの民主共和派の人々
がウィスキー暴動を鎮圧するための軍隊に自発的に参加していた。しかし、多
くのアメリカ人は暴動と地元の民主共和派が関係していると思っていた。その
結果、連邦派は 1794 年の中間選挙で勝利を収めた。
遠征軍が到着した時、既にほとんどの暴徒が検挙されていたか、もしくは逃
走するかしたために戦いにはならなかった。20 人が反逆罪で訴追され、2 人が
有罪となり死刑宣告を受けた。1795 年 1 月 10 日、死刑宣告を受けた 2 人に大
統領によって恩赦が与えられた。これは大統領による恩赦の最初の例である185。
ウィスキー暴動は、連邦政府の威信に対する最初の挑戦であったが、ワシン
トンは憲法で定められた「法の忠実に執行されることを配慮する」という規定
を守り、この危機をうまく切り抜けることができた。幸いにも軍事力による実
力行使をできる限り最小限にとどめながらも、社会秩序を回復することができ
た。ワシントンは、法の執行ができない政府は政府とは言えないということを
よく理解していた。そして、三権分立の原理の下、法の執行に配慮するのは大
統領の責任であることをワシントンは認識していた186。
ウィスキー暴動は、1790 年代のアメリカを分裂させた政治的争いを終わらせ
るどころか助長した。ジェファソンとマディソンは、ハミルトンが常備軍を含
む強大な行政府を作り出し、憲法を覆そうとしているという確信を深めた。ま
たウィスキー暴動の真相が知れ渡ると連邦派の威信は崩れ始めた。幸いにも連
邦派と民主共和派の争いは、憲法制定会議の代表達が心配した程、破壊的では
なかった。ワシントンの党派を超越した姿勢と人気、そして議会の独立性の尊
重が党派の争いを抑制していた。二大政党制が成立した後でも、ワシントンの
先例により、大統領は政党ではなく国を率いていくことが期待された。
ワシントン政権の終焉は大統領職に重大な変化をもたらした。党派に左右さ
れない大統領から党派的な大統領への変容である。この変容は完全なものでは
228
アメリカ大統領制度史上巻
なかった。なぜなら最初の党派的対立の立役者であるジョン・アダムズ、ハミ
ルトン、ジェファソン、そしてマディソンはいずれも党派の存在をこころよく
思っていなかったからである。しかし、ワシントンが大統領を退任することで
党派的対立が大統領制度の中心的課題となった。それ以降、各大統領は党派を
超越しようと試みたが、党派は大統領のリーダーシップを決定するうえで不可
欠な条件となっていく。
第 24 項 告別の辞
1795 年が終わりに近付いた頃、多くの公人にとって最も重要な問題は、ワシ
ントンが大統領職の継続を受け入れるか否かという問題であった。当時、憲法
は大統領の再選に関して何の規定も設けていなかった。ワシントンの評判は党
派的対立によって傷付いていたものの、ワシントンが続投を決めれば大統領職
に留まることはたやすいと思われた。しかしながら、ワシントンは心からマウ
ント・ヴァーノンへ帰ることを望んでいた。
1796 年 9 月 17 日、ワシントンは告別の辞を発表し、大統領選挙で 3 選を避
けるために引退を表明した。ワシントンは告別の辞で、アメリカが国家として
一体性を保つことが国民全体及び個人の幸福にとって計り知れない価値を持つ
という点、人民によって修正されない限り憲法を誠実に遵守するべきだという
点、政治的繁栄をもたらすためには宗教と道徳の支えが必要である点、そして、
世論を啓蒙するために知識を一般に普及させる必要がある点を強調した。また
政治家が地域的な偏狭さにとらわれて他の地域の意見や要求を正しく政治に反
映させることができないという点と国益を増進させようとする大統領の努力が
党派心の有害な影響によって損なわれる点について警告した。さらにワシント
ンは特定の国との友好に傾いたり、逆に敵対に傾いたりしないように次のよう
に孤立主義の原理を提唱した。
「朋友並びに同胞市民諸君、遠からずして合衆国行政府を担当する市民を新
たに選挙し、この重責を担う人物を選ぶべく諸君が考慮しなければならない時
期が近付いている際に、私がここにこの候補者の中に私を入れて欲しくないと
いう決意を披瀝することは、殊に世論へのより的確な表明に値するであろうか
ら、時期を得たものであると思う。現在のような機会に、私の命ある限り燃え
続ける諸君の幸福に対する念願とそれに当然伴う懸念から、私の熟慮と観察の
建国初期
229
結果であり、諸君の国民としての幸福を永続させるために最も重要だと思われ
る若干の所感を述べて、諸君に慎重に考慮してもらい、また批判を求めたいと
いう気持ちに駆られる。諸君を 1 つの国民とするに至った連邦は、今や諸君に
とって貴重なものである。また連邦はかの巨大過ぎる軍備の必要を避けること
ができるが、この軍備たるや、いかなる形態の政府の下においても自由にとっ
て不吉なるものであり、とりわけ共和的自由にとって敵対的なものとして見ら
れるべきものである。この意味において、諸君が連邦を形成することは諸君の
自由の主要な支柱と考えられるべきであり、自由を愛するのであれば、連邦の
維持を大事にしなければならない。諸君の統一を効果的かつ永続的にするため
に、全体のための政府が必要不可欠である。いかに強固なるものであっても、
各地方間の同盟によってこれに代えることはできない。かかる同盟はすべての
同盟が、すべての時に経験したように、違背と中断を避けることができない。
この重要なる真理を知ればこそ、諸君は最初の試み[連合規約]を改善して、もっ
と緊密な統一と諸君の共通の利害に効果的な管理に適した憲法を採択した。
我々自身の独立した自由の選択の結果であり、慎重な考究と熟慮のうえ、採択
され、その諸原理においてその諸権力の配分において、完全に自由であり、安
定と活力を両立させ、自らのうちにその修正の条項を包含するこの政体は当然
に諸君の信頼と支持を得るべきものである。その権威を尊重し、その法を遵守
し、その政策に服することは、真の自由の基本的な公理によって課せられた義
務である。我々の政治体制の基礎は、国民がその基本法を作り、また変える権
利を持つ点にある。ただしこの基本法は全国民の明確で確実な行為によって変
更されない限り、その存続も万人によって侵すべからざるものである。国民が
政府を樹立する権力と権利を持つという思想こそすべての個人は樹立された政
府に服従する義務を負うということを前提としている。自由な国においては、
政治を委ねられた人々がその憲法上の権限を超えないように、ある府の権力が
他の府を侵すことのないように注意するように常に考えるべきであるという点
もまた重要である。越権をものともしない思想は、すべての権力を 1 つの府に
集中させ、どのような政体であろうとも専制政治を作り出すことになる。道徳
が人民の政府の欠くことができない源泉であるというのは完全な真理である。
これはすべての種類の自由な政府にも多かれ少なかれ当てはまることである。
自由な政府の誠実なる友は、政府の基礎を揺り動かす企図を無関心で眺めるこ
とはできない。然らば第 1 に重要な目的として、知識の一般普及のための施設
230
アメリカ大統領制度史上巻
を促進しなければならない。政治機構が世論を重視すればする程、世論が啓発
されるということは肝要である。すべての国民に対して誠意と公正を守り、す
べての国民に対して平和と調和を培わなければならない。他の国民に常に憎悪
を抱き、常に偏愛に耽る国民はある程度、奴隷である。(同胞市民諸君よ、私を
信じるように)外国からの影響の油断ならない害悪に対して自由なる国民は常に
注意しなければならない。なぜなら歴史と経験によって、外国の影響こそ共和
政府の最も有害な敵の 1 つであることが示されているからである。諸外国に対
する我々の行動の一般原則は、通商関係を拡大することにあり、できるだけ諸
外国と政治的な繋がりを持たないようにすることにある。我々が既に結んでし
まった取り決めに限っては、完全なる信義で以って履行するべきである。これ
でとどめておけばよい。ヨーロッパは優先的な利害関係を持っているが、我々
にとってはまったく利害のないことであるか、まったく疎遠な関係である。そ
のためヨーロッパは度重なる紛争に巻き込まれるが、その原因というのはまっ
たくの他所事である。それだからこそ、うわべだけの繋がりで、ありきたりな
ヨーロッパの政治変動、友好や敵意による連帯や連合に我々が関わり合いを持
つのは賢明ではない。我々が孤立し離れた場所にいることで、我々は異なった
進路に向かうことができる。もし我々が有能な政府の下で 1 つの国民としてあ
り続けるのであれば、我々が外部の厄介事から被る物質的損害をもろともしな
くなる時は遠くない。いかなる時でも完全に尊敬されるように決意し、中立を
もたらすような態度をとる時は遠くない。好戦的な国々が、我々を捕捉できな
いのに、軽率にも我々を挑発しようとしなくなる時は遠くない。我々が正義に
導かれ、我々の利害を計ったうえで平和か戦争を選ぶ時は遠くない。どうして
この特別な場所にいる利点を捨てようとするのか。どうして我々自身の立場を
捨てて、外国の立場に立とうとするのか。どうして我々の運命をヨーロッパの
運命と織り交ぜることによって、我々の平和と繁栄を、ヨーロッパの野心や競
争、利害、移り気、気紛れに絡ませなければならないのか。いかなる外界とも
恒久的な同盟関係を避けるのが我々の真の政策である。しかし、それは現在及
び将来、すなわち自己の裁量で決定できる限りにおいてである。決して現存の
協約に対する違背を勧めようとするものと解してはならない。誠実は常に最上
の政策であるという格言は、私事のみならず、公事にも適用できると私は考え
る。それ故、ここに繰り返して言う。かかる既存の協約はその真正に意味する
ところに従って守られるべきである。しかし、それを拡張することは不必要で
建国初期
231
あるし、賢明でもないというのが私の見解である。適当なる施設を作って常に
我が国をその名に恥ずかしくないような防御体制に置く配慮があれば、我々は
危急の際に一時的に同盟を結ぶことがあっても、安んじていることができるだ
ろう。我が同胞諸君、諸君に諸君を愛する老友の以上の助言を捧げるにあたっ
て、私はこれらの助言が、激情の赴くところを抑制し、また今日まで諸国が辿
ってきた運命の道筋を我が連邦もまた進むことを防止し得ると期待できる程、
強い感銘を残そうと敢えて望んでいるのではない。しかしこの助言が時に思い
起こされて、党派心を適度に抑制し、または外国の陰謀を警戒し、あるいは見
せかけの愛国心の瞞着を防ぎ得るという利益をもたらすと自惚れてよいのであ
れば、この期待は諸君の福祉を求める切願に対して十分な償いとなるだろう。
以上の助言もこの切望に促されて行われたのである」187
ワシントンの決断は、行政府の権力の悪用に関するジェファソンの懸念を和
らげた。ワシントンが示した模範によって、ジェファソンは大統領の在任期間
は 1 期に限るべきだという信念を変えた188。ワシントンは、独立戦争で荒廃し
た国内の復興を最優先すべきで、国外の問題には干渉すべきではないと考えた。
孤立主義は、以後約 100 年にわたってアメリカの基本方針となった。告別の辞
は、1893 年以来、毎年ワシントンの誕生日に上院で読み上げられるのが慣例と
なっている。
第 25 項 結語
大統領としてワシントンは数々の先例を打ち立てることによって党派対立を
抑えることができなかった。ワシントンは超党派的に振る舞うことで、連邦派
と民主共和派の均衡の上に身を置こうとした。しかし、実際にはワシントンの
考え方は連邦派寄りであったので、政権末期までに均衡の上に身を置くという
考え方は放棄せざるを得なかった。
また独立戦争時にワシントンが発揮した軍事能力を疑問視する評価もある。
確かにワシントンの部下の中には、分野によってはワシントンを凌駕する才能
を示す人材がいた。また何度も敗退を繰り返している。しかし、ワシントンが
最も評価されるべき点は、単に軍隊を指揮する能力ではなく、大陸会議や諸邦
と折衝を数多く重ね、勝利を手にするまで大陸軍を維持し続けた点にあると言
える。そして、自ら大陸軍総司令官の地位を手放すことによって、軍事独裁の
232
アメリカ大統領制度史上巻
可能性を否定し文民統制の原則を打ち立てた点を忘れてはならない。またワシ
ントンは大統領制度に正統性を付与しただけではなく、
「建国の父」として神格
化され、アメリカ建国神話と分かち難く結び付き、アメリカ統合の象徴として
今でも大きな影響を及ぼしている。
第 2 節 ジョン・アダムズ政権
第 1 項 概要
ジョン・アダムズ(John Adams)は1735 年10 月30 日(ユリウス暦では1734/35
年 10 月 19 日)、マサチューセッツ植民地ブレインツリー(現在のクインジー) で
生まれた。ジョン・アダムズという名前は父に因んでいる。父は息子を聖職者
にするために高い教育を施そうと考え、アダムズをハーヴァード・カレッジに
進学させた。しかし、アダムズは聖職者の道には進まず弁護士の道に進んだ。
1774 年に第 1 回大陸会議が開かれた際にはマサチューセッツ植民地代表の 1 人
に選ばれ、翌年の第 2 回大陸会議でも続いて代表に選ばれた。翌年の独立宣言
起草にも携わった。そうした活躍により「独立のアトラス(ギリシア神話に登場
する巨人)」と呼ばれる。大陸会議では戦争・軍需品局の長を務め、大陸軍の支
援を行った。さらにヨーロッパで約 10 年にわたって外交官として働いた。帰国
後に副大統領に選出された。ワシントン引退後、1796 年の大統領選で勝利し、
ワシントンの後を襲った。ワシントン政権末期から激しさを増した連邦派と民
主共和派の対立により政権は混迷を深めた。アダムズ自身は連邦派と目された
が、連邦派の中心的人物であるハミルトンと良好な関係を築くことができなか
った。そのような困難な状況の中、大統領独自の判断で悪化した対仏関係を改
善し、中立を守った。
第 2 項 大統領選挙
ワシントンが在任している間、その声望で表立った党派的対立は抑えられて
きた。しかし、副大統領のジョン・アダムズは有能で尊敬すべき政治家ではあ
ったが、ワシントンのような威信と公平無私という評判には欠けていた。連邦
派と民主共和派という分裂の中で、アダムズは明らかに連邦派に色分けされた。
民主共和派は、アダムズがイギリスの政体を高く評価していることから、アダ
建国初期
233
ムズを君主制主義者だと見なし反感を抱いていた。
1796 年の大統領選挙は、実質的に初めての政党に基づく選挙だと言える。ワ
シントン政権下で広がりつつあった党派間の亀裂はもはや埋めることは不可能
であった。ハミルトンを中心とする連邦派はアダムズを大統領に、トマス・ピ
ンクニーを副大統領に推した。一方、ジェファソンを中心とする民主共和派は
書簡による連絡や非公式の協議を経てジェファソンを大統領に、バーを副大統
領に推した。この際の候補公認は書簡による意見交換や非公式の協議を経て行
われた。今日とは違ってアダムズもジェファソンも公式声明を出すこともなく、
演説をすることもなく、支持を求める手紙を書くこともなかった189。官職をあ
からさまに求めることは品位を損なう行動だと見なされていたために、大統領
候補は控え目な態度をとることが当然だと考えられ、将来の政務に備えて郷里
に帰って英気を静かに養うのが慣例とされた。候補自身に代わって連邦派と民
主共和派が新聞やパンフレット、政治集会を通じて選挙運動を行った。
連邦派はさらに中央政府を強化することを提唱し、それに対して民主共和派
は権限を州に分散させることを主張していた。また外交に関して、連邦派はフ
ランス革命を衆愚政治だと否定的にとらえていたが、民主共和派はフランス革
命を肯定的に評価していた。連邦派は親英の傾向が強く、民主共和派は親仏の
傾向が強かった。そのため民主共和派はジェイ条約を非難していた。駐米フラ
ンス公使は政治的な小冊子を出して共和派を後押ししようとした。このように
内政においても外交においても両派は真っ向から対立していた。アダムズは民
主共和派の新聞から君主制を支持していると激しい非難を浴びせられた。
アダムズにとって最大の強みはワシントンによって後継者として認められて
いたことであった。しかし、連邦派の中心であったハミルトンはピンクニーを
大統領にしようと秘かに画策していた。アダムズが自己中心的で勝手気ままな
人物で大統領として資質に欠けるとハミルトンは判断したからである。事実、
アダムズは誰かが自分の名声を貶めているのではないかと根拠無く思い込むよ
うなこともあったし、しばしば癇癪を起こすこともあった。そこでハミルトン
は連邦派に属する選挙人に、アダムズとピンクニー両方に票を投ずるように伝
達した。南部で優勢であったピンクニーが北部でもアダムズと並べば、総計で
最も多く票を獲得することも十分可能であるとハミルトンは予測した。アダム
ズ自身はジェファソンが大統領に選ばれるのではないかと思っていた。
大統領選挙は 1796 年 12 月 7 日に行われ、138 人の選挙人(16 州)がそれぞれ
234
アメリカ大統領制度史上巻
2 票ずつ票を投じた。選挙の結果は接戦であった。アダムズはニュー・イングラ
ンドを中心に 12 州から 71 票を獲得し辛うじて首位と過半数を保持した。ピン
クニーはニュー・イングランドの票を完全に把握できず 59 票にとどまった。一
方でジェファソンは 8 州から 68 票を得て次点となった。その結果、異なる党派
から大統領と副大統領が選出されることになった。この欠陥は後に憲法修正第
12 条によって是正される。
第 3 項 WXYZ 事件
ジョン・アダムズは非常に困難な状況で大統領に就任した。ワシントン程の
名声を持つ大統領の後を襲うのは、どのような人物であれ難しかった。さらに
アダムズが直面していた 1797 年の外交関係は破滅的であった。フランスはワシ
ントンによる中立宣言とジェイ条約締結を米仏同盟に反すると非難していた。
そのうえフランスはイギリスに対する経済封鎖を名目にアメリカ船舶の取締り
を強化した。これにより多くのアメリカ船舶が損害を被った。1796 年 11 月、
さらにフランスは国交停止を宣言した。
就任前の 3 月 2 日、アダムズはジェファソンのもとを訪れて、召還されたモ
ンローの代りに関係改善のためにフランスに赴くように求めたが、断られてい
る。ワシントン政権期に既にハミルトンの強い影響力の下、チャールズ・コー
ツワース・ピンクニーが公使に選ばれていた。しかし、アダムズ自身はピンク
ニーの派遣に危惧を抱いていた。3 月 13 日、アダムズが心配していたように、
フランスが、ピンクニーの受け入れを拒否したという報せが届いた。ピンクニ
ーはパリを退去してアムステルダムでさらなる訓令を待った。さらにフランス
はカリブ海でアメリカ船舶を拿捕し始めた。またフランスがカナダ、西部、ル
イジアナを獲得しようとする野心は明らかであった。フランスはフロリダ、ル
イジアナを割譲するようにスペインに圧力をかけ、ケベック地方の住民を扇動
してカナダ共和国の樹立を宣言させようとした。もしフランスの策動が成功す
ればアメリカの周囲はフランス領に囲まれ、アメリカの安全が脅かされる可能
性があった。
4 月 14 日の閣議でアダムズは、新たな使節の派遣の是非を諮った。閣僚はフ
ランスとの外交関係を断絶させるべきではないと主張した。
1797 年 5 月 15 日、
アダムズはアメリカの中立と安全保障を講じるために特別議会を招集した。そ
建国初期
235
の翌日、アダムズは議会に戦争教書を送付した。それは、フランスが公使とし
てチャールズ・コーツワース・ピンクニーの受け入れを拒否し、アメリカ船舶
に損害を与えたことを非難し、商船の武装と海軍の増強、そして民兵を再編成
することを議会に求める内容である。最初の戦争教書であるが、正式な宣戦布
告を求めたわけではない。議会はアダムズの要請に応えて、8 万の民兵を 3 ヶ月
間動員し、80 万ドルの借款を締結する権限を与えた。さらに海軍軍備法で、ワ
シントン政権期に建造されていた 3 隻のフリゲート艦の再武装が認められた。
その一方で、アダムズはフランスとの和解を図るために特使を派遣した。民
主共和派のマディソンを特使の 1 人に任命しようとしたが、連邦派の閣僚の反
対にあって断念した。ピンクニーに加えて最終的に民主共和派からはマディソ
ンの代わりに古くからの友人であるゲリーが、連邦派からはマーシャルが特使
に選ばれた。
アメリカの使節団がフランスに到着した時、フランスはオーストリアを打ち
破り絶頂期にあった。仏外相シャルル・タレーラン(Charles Maurice de
Talleyrand-Périgord)は代理人を通じて、25 万ドルの賄賂を要求し、アダムズ
が5月16日に行ったフランスを非難した演説を取り消し、
その償いとして1,000
万ドルのフランス公債を引き受けることなどの条件を提示した。その一方で、
1798 年 1 月 31 日、使節団はフランスに現在のアメリカの立場に関する報告書
を提出した。それに対してフランスは、3 月 19 日、ジェイ条約が米仏同盟に反
する条約であること、最も親仏的なゲリーとのみ交渉することを回答した。そ
のため使節団は 4 月 24 日、ゲリーを残して帰国した。帰国の前にマーシャルは
交渉の経緯をまとめた報告書を送っている。その報告書の中で、4 人の代理人は
それぞれ W、X、Y、Z という暗号に変えられていた。そのため一連の経緯は
WXYZ 事件、または XYZ 事件と呼ばれる。
1798 年 1 月 24 日、使節団からの報告を待つ間、アダムズは閣僚と交渉が失
敗した場合の善後策を協議した。選択肢は、開戦、出港禁止、もしくはヨーロ
ッパ諸国との関係を変えるかであった。マクヘンリー陸軍長官は、アメリカ国
民はフランスとの戦争を望んでいないと答えた。チャールズ・リー(Charles Lee)
司法長官は開戦を唱えた。ピカリング国務長官はイギリスと同盟を結ぶように
勧めた。アダムズは強硬な態度を保つことには同意したが、イギリスとの関係
強化は認めなかった。
1798 年 3 月 4 日、フィラデルフィアにフランスからの通信が届き、交渉の失
236
アメリカ大統領制度史上巻
敗が判明した。それだけではなく、フランス政府が中立国の船舶に対してすべ
てのフランスの港を封鎖し、イギリス製品を積んだ船舶を拿捕する命令を出し
たことが分かった。フランスがアメリカに宣戦布告したという噂まで飛び交っ
た。
1798 年 3 月 19 日、アダムズは対仏交渉の失敗を議会に報告した。そして、
議会に軍備の増強を求めた。そのために民主共和派の親仏派はアダムズを激し
く攻撃した。民主共和派のアルバート・ギャラティン(Albert Gallatin)は書簡の
開示を求めた。その結果、65 票対 27 票でギャラティンの提案は可決された。4
月 3 日、議会の求めに応じてアダムズは WXYZ 書簡を提出した。5 月末から 6
月末にかけて議会は、大規模な軍艦の建造計画を認め、商船を武装し、港を要
塞化し、アメリカの水域でアメリカ艦船がフランスの私掠船を拿捕することを
認める措置などを打ち出した。ただし宣戦布告が行われた場合のように、非武
装船を拿捕することは禁じられた。フランスの工作員が街を焼き討ちしようと
していると言う噂が流れ、大統領官邸には歩哨が配置された。アダムズは 6 月
21 日には議会に対して、偉大で自由で強力な独立国家の代表として公使が接受
され、尊重され、そして栄誉を与えられることが確証できない限り、フランス
に代わりの公使を送ることはないと通告している。7 月 9 日、議会はさらにアメ
リカ海軍に武装したフランス艦船を拿捕すること、大統領に私掠船を認可する
権限を与える法案を可決した。その 2 日後、海兵隊が創設された。さらに議会
は 7 月 14 日、諸費用をまかなうために家屋と奴隷に課税することを決め、大統
領にあわせて 700 万ドルの借款を認めた。
対仏交渉の経緯を知ったアメリカ国民は激怒した。多くのアメリカ人はフラ
ンス革命勃発当初、革命に好意的であった。しかし、革命フランス政府による
恐怖政治や非キリスト教運動などが知られるようになると国民感情は一転した。
このようなフランスへの反感は「防衛に大金をかけろ、賄賂には一銭たりとも
使うな」という当時の言葉に表れている。
こうした国民感情を追い風にして、連邦派は親仏的な民主共和派に熾烈な批
判を加えた。一方で民主共和派は、連邦派が WXYZ 事件を捏造したのではない
かと疑いをかけた。米仏間の交易は途絶し、フランスの私掠船がアメリカ船舶
を憚ることなく拿捕し始めた。1798 年 7 月 7 日、議会によって米仏同盟は破棄
され、米仏の決裂は決定的になった。アメリカはフランスと海上で小競り合い
を続けたが正式な宣戦布告には至らなかったため、約 2 年間にわたった衝突は
建国初期
237
「擬似戦争」と呼ばれる。
第 4 項 閣僚との確執と 1800 年の米仏協定
国内外の危機に対応しようとするアダムズの努力は民主共和派だけではなく
連邦派からも妨害を受けた。副大統領のジェファソンが民主共和派を陰から操
っていることは周知の事実であった。一方、連邦派の中で強い影響力を持つハ
ミルトンはアダムズを政治的には穏健過ぎて国家の問題を処理することができ
ないと見なしていた。アダムズは連邦派であったが、ワシントンの模範に倣っ
てできるだけ党派から超越しようと努めた。アダムズはフランスとの擬似戦争
を受け入れたが、できる限り戦争を避けることを望んでいた。アダムズの主な
目的は外交と海軍の拡大を通じてアメリカの通商を守り、フランスにアメリカ
の国旗を尊重させることであった。しかし、ハミルトンを中心とする連邦派の
目的はフランスとの衝突を抑制することではなく利用することであり、フラン
スに宣戦布告することで同盟国であるスペインの植民地を奪取することであっ
た。アダムズとハミルトンを中心とする連邦派の間の溝は埋めることができな
くなった。
ハミルトンは数多くの方法で大統領の権威に挑戦した190。既に 1795 年に公
職から退いているのにも拘わらず、ハミルトンはアダムズ政権の政策を陰から
主導した。ハミルトンの影響力は、アダムズがワシントン政権の閣僚を留任さ
せたことから、アダムズ政権でも衰えなかった。アダムズがワシントン政権の
閣僚を留任させたのは、ワシントンへの敬意と良い政府は有能で経験ある行政
官が必要であると考えたからである191。ピカリング国務長官、マクヘンリー陸
軍長官、そしてオリヴァー・ウォルコット(Oliver Wolcott)財務長官はハミルト
ンの勧めでその職に就くことができた。彼らは事あるごとにハミルトンの助言
を求めた。リー司法長官とベンジャミン・ストッダート(Benjamin Stoddert)海
軍長官のみがアダムズに忠実であった。こうした背景により、アダムズは政権
運営で閣僚との確執を抱えることになった。閣僚との確執は彼らの背後にいる
ハミルトンとの確執であったと言える。
アダムズとハミルトンを中心とする連邦派の衝突はフランスへの特使派遣に
よって 1799 年に頂点を迎えた。フランスはアメリカの使節を適切な待遇で以っ
て処遇する意思を示した。さらにアメリカ船舶に対する出入港停止命令を解除
し、フランス領西インド諸島で発行された私掠免許状を無効とし、中立国の船
238
アメリカ大統領制度史上巻
舶と財産を侵害してはならないという命令を下した。さらに WXYZ 事件に関す
る釈明書が公表された。こうしたフランスの姿勢の軟化に対してアダムズは戦
争を避けるためにフランスに使節を送る準備を進めた。その一方で閣僚はハミ
ルトンの助言に従って、戦争準備を継続し、議会が招集され次第、フランスに
対する宣戦布告を求めようと画策していた。
1799 年 2 月 18 日、アダムズは誰にも諮ることなくウィリアム・マレー
(William Vans Murray)を特使としてフランスに派遣するように上院に承認を
求めた。マレーはフランスと良い関係を持っていたので特使に選ばれた。マレ
ーを通じてアダムズは、フランスが新しい使節を受け入れて戦争を避けるつも
りであることを知っていた。ハミルトンを中心とする連邦派に共鳴していた上
院は、アダムズの指名を拒否した。しかし、完全にアダムズの和平交渉を拒否
すれば、民主共和派から故意に擬似戦争を長引かせていると批判される恐れが
あるので、その代わりに 3 人の使節を派遣するように求めた。アダムズは上院
が示した案に同意した。この特使派遣の決断は、大統領としてのアダムズの業
績の中でも最も大胆な決断であったが、同時に連邦派の支持を失わせる結果を
もたらした。
アダムズと閣僚は特使に与える指示の内容について同意に至ったが、ブルボ
ン王朝の復活が近いと考えていた閣僚は、アダムズの不在を利用して特使の出
発を先延ばしにした。10 月 10 日、アダムズは黄熱病の流行で臨時に政府機能
が移されていたトレントンに到着した。そこでアダムズは、特使がまだフラン
スに出発していないのを知った。ハミルトンがアダムズを訪問し、フランスへ
使節を送ることに反対した。15 日の閣議でアダムズは閣僚の反対を押し切って、
翌日、11 月 1 日までに出発するように特使に命じた。結局、特使は 11 月 15 日
にフランスに向けて出発した。こうしたアダムズの決断はピカリングやマクヘ
ンリーに不満を抱かせる原因になった。
使節団は 1800 年 3 月 2 日にパリに到着した。そして、3 月 7 日、ナポレオン
(Napoléon Bonaparte)から歓迎を受けた。アメリカ使節団はフランスにフラン
ス海軍によって拿捕されたアメリカ船舶の賠償と 1778 年に締結された諸条約
の破棄を求めた。しかし、フランスは米仏同盟が維持されなければ賠償に応じ
ないという姿勢を示した。最終的に 1800 年 9 月 30 日から 10 月 1 日にかけて
行われた米仏協定によって擬似戦争が終結した。拿捕されたアメリカ船舶に対
する賠償の支払いは規定されなかったが、フランスはアメリカ船舶に対する拿
建国初期
239
捕を停止することに同意した。アダムズはワシントンから受け継いだ中立政策
を堅持することができた。上院は、1778 年の諸条約が完全に廃棄されたと認め
ることを条件に米仏協定に批准した。これによりアメリカは完全に自由に外交
上の主権を獲得した。またアダムズは再選を犠牲にしてまでも連邦派の反対に
負けることなく大統領の権威を守った。さらに擬似戦争を通じてアメリカの通
商に保護が与えられるようになり、アメリカ海軍が実質的に生まれ変わった。
1800 年 5 月、遂に閣僚との確執は最終局面を迎えた。次期大統領候補にチャ
ールズ・コーツワース・ピンクニーを担ぎ出そうとハミルトンが陰謀をめぐら
せていると確信したアダムズは、5 月 5 日にマクヘンリー陸軍長官に辞職を要求
した。翌日、マクヘンリーは辞職した。さらに 5 月 10 日、アダムズはピカリン
グ国務長官にも辞職を要求した。しかし、ピカリングは 12 日の手紙で辞職する
意思がないことを示した。止むを得ずアダムズはピカリングを罷免した。これ
は大統領が閣僚を免職した最初の例となった。こうした一連の更迭は大統領が
自らの判断のみで閣僚の交代を命じることができることを示した。
第 5 項 外国人・治安諸法
多くの歴史家は、閣僚と党派の分裂にも拘わらず大統領の権威を維持したこ
とでアダムズを高く評価しているが、外国人・治安諸法の制定に関してアダム
ズに否定的評価を下している。外国人・治安諸法は、帰化法、外国人法、敵性
外国人法、治安法の 4 法からなる。
帰化法は、アメリカの市民権を得るための在住期間を 5 年から 14 年に延長す
る法律である。その結果、民主共和派が多くを占める移民は投票権を得ること
が難しくなった。外国人法は、危険だと見なされる外国人を国外退去させる権
限を大統領に与える法律である。これにより移民の中から強固な民主共和派の
親仏派を追放することが可能になった。外国人法は連邦政府の自衛権だと認め
られる一方で、民主共和派からすれば、大統領に過大な権限を与えることで三
権分立の原則を脅かす法律であった。また敵性外国人法は、交戦期間中、敵国
人を検挙し収監することを認める法律であった。さらに治安法は、連邦政府や
連邦議会、または大統領に対する中傷や名誉毀損を行った者を処罰するという
法である。同法が制定されたのは、連邦裁判所が政府に対する陰謀、もしくは
政府高官に対する名誉毀損を審理し、有罪判決を下すための法的根拠を必要と
240
アメリカ大統領制度史上巻
していたからである。治安法は実質的に憲法修正第 1 条に違反し、出版の自由
や言論の自由を侵害していた。しかし、治安法はヨーロッパにおける同様の法
と比べればそれ程、抑圧的とは言えなかった。告発には中傷の意図を証明しな
ければならなかったし、罪に問われた者は十分に抗弁することが許され、陪審
員による裁定が認められた。しかし、同法によって、正当な政治的反対がまる
で政府に対する陰謀のように扱われた。
アダムズは治安法案に署名はしたものの、過激な連邦派の期待とは裏腹に積
極的に治安法を執行しようとはしなかった。そのために治安法に基づく告発は
僅か 25 件にとどまった。有罪判決を受けたのは 10 人である。またアダムズは
外国人法を用いて多数の移民を追放するように求めるピカリング国務長官の要
望に応じなかった。アダムズが実際に追放を認めたのは僅かに 2 人のアイルラ
ンド人の新聞記者のみであった。告発の多くは 1800 年に行われ、大統領選挙と
深く関係していた。そのことは治安法と外国人法が民主共和派を攻撃する道具
に使われたことを示している。
第 6 項 ケンタッキー決議とヴァージニア決議
こうした外国人・治安諸法に対して民主共和派は、ケンタッキー決議とヴァ
ージニア決議を動議にかけることで抗議した。ジェファソンは外国人・治安諸
法を権利章典を損なう法律だと考えた。また同法は連邦派の恐怖政治であり、
擬似戦争という隠れ蓑の裏に民主共和派を攻撃する目的が含まれているとジェ
ファソンは信じていた。そうした法を認めようとする上院の議長を務めずにす
むように、6 月 27 日以後、ジェファソンはモンティチェロに引き篭もった。連
邦派は、フランスとの戦争を忌避するジェファソンを裏切り者と激しく非難し
た。
7 月 2 日から 3 日にかけてジェファソンはマディソンの邸宅に滞在し、
善後策
を話し合った。それから 10 月まで約 3 ヶ月間、両者が連絡を取り合った様子は
ない。おそらく機密が漏れるのを恐れたためだと考えられる。草稿に日付が記
されていないものの、状況証拠から少なくとも 10 月初旬にケンタッキー決議の
草稿が完成していたようである。ケンタッキー決議の目的は、州と連邦を拮抗
させ、その結果、個人の自由を守ることにあった。ジェファソンがケンタッキ
ー決議を起草したことは長い間、内密にされ、それが判明したのは 1821 年であ
建国初期
241
った。当時、もしジェファソンが起草したことが露顕していれば、扇動罪、最
悪の場合は反逆罪で弾劾される恐れがあったと考えられる。また当時、ワシン
トンも危惧したように、各州がそれぞれ独自に連邦法を適用するかどうかを判
断するようになれば、連邦の解体をまねく可能性があった。
ケンタッキー決議の草案でジェファソンは、外国人・治安諸法が憲法修正第
10 条の「本憲法によって合衆国に委任されず、また各州に対して禁止されなか
った権限は、各州それぞれに、あるいは人民に留保される」という規定に反し
ていると主張している。そして、外国人・治安諸法の制定は合衆国に委任され
ていない権限に属するので無効である。つまり、ジェファソンは、連邦政府は
憲法によって規定されている権限を行使するために必要となるあらゆる手段を
用いることができるという黙示的権限を明確に否定している。さらに合衆国憲
法は各州の契約に過ぎないので、連邦政府が定める法律について、各州はそれ
が正しいかどうかを判断する平等な権利を有し、もし間違っていると判断した
場合は、その法律を無効にすることが正しい救済策であると訴えた。
ケンタッキー決議の骨子は以下の通りである。連邦政府や連邦議会、または
大統領に対する中傷や名誉毀損を行った者を処罰することを認めた治安法は、
連邦議会は言論および出版の自由を制限する法律を制定することはできないと
謳う憲法修正第 1 条に反する。また、危険だと見なされる外国人を国外退去さ
せる権限を大統領に与える外国人法は、憲法第 1 条第 9 節 1 項の「現在の諸州
中どの州にせよ、入国を適当と認める人びとの来往および輸入に対しては、連
邦議会は 1808 年以前においてこれを禁止することはできない」という規定に反
している。さらに、交戦期間中、敵国人を検挙し収監することを認める敵性外
国人法は、
「正当な法の手続き」を保障する憲法修正第 5 条と陪審と弁護を受け
る権利を保障する修正第 6 条に違反する。さらにそれは、合衆国の司法権が司
法部に存することを謳う第 3 条第 1 節にも違反している。
「1、アメリカ合衆国を構成するいくつかの州は、連邦政府に無制限に従属す
るという原理で結び付けられておらず、合衆国憲法という形式と表題、そして
その修正条項の下、契約によって結び付いていること、諸州は、限られた権限
を委託するという特別な目的で連邦政府を構成し、各州自体に残余の多くの権
利は留保されること、連邦政府に委託されていない権限は何であれ、その法律
は権限がなく、無効であり、効力を持たないこと、この契約にとって、各州は
州として、なくてはならないものとして加盟したのであり、州の共同によって
242
アメリカ大統領制度史上巻
形成されたものは別物であること、この契約によって作り出された政府は、権
力の加減を憲法ではなくその裁量に任せるので、それ自体に委託された権限の
範囲の最終的、かつ独占的な審判者とはなり得ないこと、共通の審判者がいな
い組織の間での他のすべての契約の場合のように、各々がそれ自体で、違反の
判断を平等に下し、是正の方策と形式を判断する権利を持つことを決議する。2、
合衆国憲法は、反逆罪を罰し、公海上で犯された重罪や海賊行為による有価証
券や通貨を押収し、国法の侵害、そしてその他の犯罪を処罰する権利を連邦議
会に委託し、
『本憲法によって合衆国に委任されず、また各州に対して禁止され
なかった権限は、各州それぞれに、あるいは人民に留保される』という憲法に
加えられた修正と一般的原則は真実であるが故に、連邦議会が 1798 年 7 月 14
日に可決した『合衆国に対する特定の犯罪を処罰するための法案に加える法案』
と題する法案、さらに 1798 年 6 月に可決された『合衆国銀行において行われた
詐欺を処罰する法案』と題する法案(そして、憲法に列挙されていない犯罪を規
定し処罰するすべてのその他の法案)は完全に無効であり効力を持たないこと、
そのような他の犯罪を規定し処罰する権限とそれに付随する権限は、各州とそ
の領域の範囲内に専ら留保されることを決議する。3、
『本憲法によって合衆国
に委任されず、また各州に対して禁止されなかった権限は、各州それぞれに、
あるいは人民に留保される』ことは憲法修正の 1 つとして明白に宣言されてお
り、一般的原理としても真実であること、信教の自由、言論の自由、もしくは
出版の自由に対する権限は憲法によって合衆国にまったく委託されておらず州
に対しても禁じられておらず、先述の事柄に関するすべての合法的な権限は、
州もしくは人民に権利として保持されること、[中略]そして、この一般的原理と
明らかな表明に加えて、憲法に加えられた特別な修正条項は『連邦議会は、国
境の樹立を既定し、もしくは信教上の自由な行為を禁止する法律、また言論及
び出版の自由を制限する法律を制定することはできない』と明言し、それによ
って同じ条文で、同じ言葉で、信教、言論、出版の自由が守られているので、
他者を対象としている聖堂から離れるような違反であっても、名誉毀損や虚偽
であっても等しく連邦裁判所の監督から免れること、したがって、1798 年 7 月
14 日に連邦議会が可決した『合衆国に対する特定の犯罪を処罰するための法案
に加える法案』と題する法案は出版の自由を侵害するものであり、法とは言え
ず、完全に無効であり効力を持たないことを決議する。4、外国の友人達は彼ら
が居住する州の法律の管轄と庇護の下にあること、[中略] 『本憲法によって合
建国初期
243
衆国に委任されず、また各州に対して禁止されなかった権限は、各州それぞれ
に、あるいは人民に留保される』という憲法に加えられた修正と一般的原則は
真実であり、1798 年 7 月に連邦議会が可決した『外国人に関する法案』と題す
る憲法によって委託されていない権限を外国の友人達に及ぼす法案は、法とは
言えず、完全に無効であり効力を持たないことを決議する。[中略]。6、我が州
の法の庇護の下にある人物を、
『外国人に関する法案』と題する上述の法案に基
づいて大統領の国外追放命令に従わなかった罪で収監することは憲法、特に『何
人も正当な法の手続きによらずに自由を奪われることはない』という修正に違
反すること、
『すべての刑事上の訴追において、被告人は、犯罪が行われた州お
よび、あらかじめ法律によって規定されるべき地区の、公平な陪審によって行
われる、迅速な公開の裁判を受け、かつ起訴の性質と原因などについて告知を
受ける権利を有する。被告人はまた、自己に不利な証人との対審を求め、自己
に有利な承認を得るために強制的手続きをとり、また自己のために弁護人の援
助を受ける権利を有する』という他の規定によって、法律の庇護の下にある人
物を、告訴によらず、陪審によらず、公判によらず、証人の突合せもなく、有
利な証人からの聞き取りもなく、弁護もなく、助言もなく、嫌疑のみで合衆国
外に追放する権限を大統領に与える同法案は法ではなく、完全に無効であり効
力を持たないこと、法の庇護の下にある人物を裁く権限を裁判所から合衆国大
統領に移すことは、外国人に関する同法案によって行われるが、
『合衆国の司法
権は、1 つの最高裁判所および連邦議会が随時制定設置する下級裁判所に属する。
最高裁判所および下級裁判所の判事は、非行なき限りその職を保つ』という憲
法の規定に反すること、 法案はそれ故、無効であること、そして、司法権を、
既にすべての行政府の権限を持ち、すべての立法府の権限に対して拒否権を持
つ連邦政府の行政府の長に移すことはさらに注意すべきであることを決議する。
7、連邦議会は『合衆国の債務の支払い、共同の防衛および一般の福祉の目的の
ために、租税、関税、間接税、消費税を賦課徴収する』権限と『合衆国政府ま
たはその官庁もしくは官吏に対して与えられた他のいっさいの権利を執行する
ために、必要にして適当なすべての法律を制定する』権限を委託されていると
いう合衆国憲法の部分に対して連邦政府によって採用される(様々な過程で明ら
かにされる)解釈は、憲法によって規定されたすべての制限を損なうこと[中略]
を決議する。8、[中略]。諸州から自治の権利をすべて奪い、その権利を特別な
委託によらず、その契約において厳粛に同意された留保によらず連邦政府に移
244
アメリカ大統領制度史上巻
すことは諸州の平和、幸福、もしくは繁栄のためにはならないこと、[中略]、人
民に選ばれた連邦政府の構成員によって委託された権限が濫用される場合、人
民による変革が憲法上の救済であるが、委託されていない権限が行使される場
合、法案を無効にすることが正しい救済策であること、すべての州は、契約の
範疇に入らない場合に関して、彼らの分限で(同盟の場合)他者によるすべての権
限の掌握を自らの権限で無効にする自然権を持つこと、[中略]、信任はどこにお
いても専制政治の生みの親であり、自由政府は信任ではなく警戒に基づいてい
ること、我々が権力を委託せざるを得ないものを束縛するために制限的な憲法
が規定されたのは信任ではなく警戒からであること、[中略]、上述の法案は、契
約が連邦政府の権限の手段ではないという偽りのない声明と同じく明白に憲法
に反していること、連邦政府は諸州に対してどのような権限も行使しようとし
ていること、諸州はこれを諸州の権限を掌握するものだと見なし、(単に連邦、
同盟をなす場合だけではなく)どのような場合においても諸州を結び付けるため
に付与された権限を以って、諸州の同意によらず、その同意に反した法律を作
り、連邦政府が諸州をその手の中に統合しようとしていること、これは我々が
選んだ政体を放棄することであり、我々の権限ではなく、それ自体の意思に由
来する権限を持つ政体の下で暮らすことであり、連邦をなさない場合において
も自然権を要する同胞州は、一致してこれらの法案は無効であり効力を持たな
いと宣言すること、各々が、憲法によってまったく意図的に認められていない
こうした法案、もしくは連邦政府のその他の法案がその領域内で行使されない
ようにする措置を取ることを決議する」192
ケンタッキー州議会はこうした決議案を審議した。主な変更点は、州の権利
を侵害する法律の実施を拒否する項目を削除した点である。ケンタッキー州議
会はもし連邦議会が明らかにその権限の範疇を超えるような行為があれば、各
州はそのような行為を矯正する手段を審議し、裁断する平等の権利を持つと主
張した。さらにケンタッキー州は、外国人・治安諸法に対して協力して無効を
唱え、その廃止を要請するように諸州に要請した。
一方、マディソンもケンタッキー決議と同じくヴァージニア決議を起草した。
マディソンはおそらく 11 月下旬までにケンタッキー決議の草稿を仕上げていた
と考えられる。その後、ヴァージニア決議の草案はジョン・テイラー(John
Taylor)の手でヴァージニア州議会に提出された。1798 年 12 月 24 日、ヴァー
ジニア州議会は同決議を若干の修正を加えたうえで採択した。ちなみにマディ
建国初期
245
ソンが同決議を起草したことが明らかにされたのは 1809 年以降である。最晩年
にマディソン自らヴァージニア決議を起草したことを認めている。
ヴァージニア決議の中でまずマディソンは、外国人・治安諸法を連邦政府に
まったく委託されていない権限を行使する点と憲法によって委託されていない
どころか、明らかに修正条項によって禁止されている権限を行使している点で
違憲であると論じている。
一般的にヴァージニア決議では州権が擁護されているが、後に州権の強硬論
者が唱えたような連邦法の無効や連邦からの脱退は含まれていない。それより
も、連邦派が支配する連邦政府の侵害から市民的自由を擁護するための憲法上
の理念を展開することが主な目的であった。さらに選挙時に治安法によって官
職者に対する批判を取り締まることは、不公正だとマディソンは指摘している。
また憲法を諸州による契約だと見なす概念を提唱し、州が連邦政府に対して異
議を唱える権利を有することを宣言した。そして、連邦政府の黙示的権限を明
白に否定し、諸州を 1 つの主権に合併させることに反対した。
「ヴァージニア州議会は全会一致で以下のように決議する。国内外のあらゆ
る攻撃から合衆国憲法と我が州の憲法を擁護する固い決意を表明し、あらゆる
手段で前者によって保障された合衆国政府を支持する。本議会は、諸州の連帯
に温かい愛着を抱き、そのすべての権限をかけてそれを維持すると誓うと厳粛
に宣言する。それは、この目的を果たすために、連帯の唯一の礎となる原則に
対するあらゆる侵害に目を光らせ反対することが諸州の義務であり、原則の遵
守こそ連帯の存在を保障し、公共の福利を保障するものだからである。本議会
は、連邦政府の権限を、諸州が加盟する契約から生じるものであり、契約を規
定する方法が持つ意義によって制限されるものであり、契約によって列挙され
て認められた以上の権限は何ら効力を持たず、また、契約によって認められて
いない権限の故意による明白かつ危険な行使だと見なし、諸州は契約に加盟す
ることで、悪弊の進行を阻止し、各々の分限の中で権利と権限、そして自由を
保持するために異議を唱える権利と義務を有すると断固として宣言する。また
本議会は、様々な事例において、連邦政府が、その権限を規定している憲法を
強引に解釈することによって権限を拡大しようとする傾向を明らかにしている
ことについて、また、一般的条項を必然的に説明し限定する権限の列挙の効果
の意義と効果を損なうために、さらに徐々に諸州を 1 つの主権に合併させるた
めに―それは明らかな傾向であり、必然的に、現行の合衆国の共和政体を絶対
246
アメリカ大統領制度史上巻
君主制、よくても混合君主制に変容させる結果をまねく―、一般的条項(連合規
約の中の限定された権限の認定から複写されたもので、誤って解釈する余地は
ほとんどない)を支持する徴候があることについて深い遺憾を表明する。本議会
は、連邦議会の近日の会期で通過した『外国人・治安諸法』に関して憲法の明
白な警戒すべき 2 点の侵害に対して特に抗議する。第 1 点として、連邦政府に
まったく委託されていない権限を行使すること、すなわち立法権と司法権をあ
わせて行政府に与えることは、自由な政府の原則、ならびに連邦制度の特別な
成り立ちと肯定的な規定を覆している点である。もう 1 点として、憲法によっ
て委託されていないどころか、明らかに修正条項によって禁止されている権限
を行使している点である。また、あらゆる権利を効果的に守るものと公正に見
なされている、公的な手段を自由に駆使する権利と人々の自由な意思疎通の権
利を標的にしているが故に、すべての人々に警戒感をもたらすのに他ならない
ような権限を行使している点である。我が州は、憲法批准会議において、
『その
他の基本的権利の中でも、信教の自由と出版の自由は、合衆国のいかなる権限
によっても、改悪されず、制限されず、抑制されず、また修正され得ない』と
明白に宣言し、詭弁や野心のありとあらゆる攻撃からこうした権利を守ること
を希求したことから、そうした目的をかなえるための憲法修正を諸州に推奨し
た。適切な時期に修正が憲法に加えられたが、もし今、明言され保障された権
利の 1 つに対する最も明白な侵害と他の権利にとっても致命的となる先例の確
立に対して、無関心であることが示されれば、憲法に咎めるべき矛盾や重要な
欠陥があることになる。諸州の同胞に最も真摯な愛着をずっと感じ、これから
も感じ続けると思われる我が州の善良なる人民は、すべての連帯の確立と永続
を真に希求し、相互の友好と相互の幸せの手段を保障する憲法に心から忠実で
あり、本議会は、諸州が同様の考えを持ち、我が州とともに、前述の行為が違
憲であり、我が州と協調して、人民と諸州それぞれに留保された権限や自由を
無傷で保つために各州が必要にしてかつ適切な手段を取ると宣言することを厳
粛に訴える。以上の決議の写しを州知事は各州の当局に伝達し、同上のものを
州議会に伝達するように要請しなければならない。さらに写しは、連邦議会で
我が州を代表する上院議員と下院議員にもそれぞれ配布しなければならない」
193
ケンタッキー決議とヴァージニア決議でジェファソンが期待したことは、巧
妙な策略によって眠らされた 1776 年の精神を喚起し、国民の目を開かせること
建国初期
247
であった。さらに、巧妙な策略から免れて、フランスが心から平和を望んでい
ることを国民に理解させることであった。後にケンタッキー決議とヴァージニ
ア決議は州権を擁護する理論的基盤として利用されたが、本来の目的は、連邦
派が支配する連邦政府の侵害から市民的自由を擁護するための憲法上の理念を
展開することにあった。
ケンタッキー決議とヴァージニア決議に対する諸州の反応はジェファソンと
マディソンの期待通りのものではなかった。そこで 1799 年 9 月、ジェファソン
はマディソンとモンローをモンティチェロに招いて外国人・治安諸法に対抗す
る計画を話し合った。ジェファソンは連邦から脱退することも辞さないとする
急進的な草案を準備したが、マディソンはそれが内包する危険性を指摘した。
そのためにジェファソンは単に人民は権利の侵害を黙認しないと宣言するに留
めた。マディソンは、連邦政府には限られた権限しか委託されていないという
点と憲法に反する法律は違憲であるという点でジェファソンと見解を共有して
いた。しかし、州議会が違憲と判断した連邦法の施行を州内で拒否することは
認めていない。州権という観点からすれば、ジェファソンの考えはマディソン
の考えよりも急進的であった。さらにマディソンはジェファソンに対して、憲
法上の問題を決定する際に、州の権限と州議会の権限の区分を考えなければな
らないと指摘している。何故なら、まさに連邦議会による権限簒奪に対する抗
議を行う際に、州議会による権限簒奪も起こり得るとマディソンは考えていた
からである。ジェファソンとマディソンの間に見解の相違は少なからずあった
ものの、ケンタッキー決議とヴァージニア決議は州権を擁護する基本原理とな
った点で重要である。
第 7 項 海軍省と臨時軍の創設
アダムズはフランスとの外交関係を一時的に断絶させる一方で 1798 年 1 月、
海軍省の創設と陸軍を戦時体制に置くための資金を議会に求めた。その結果、4
月 30 日に海軍省が創設された。それ以前は陸軍省が海軍の統括を行っていた。
また海軍省に続いて 7 月 11 日、海兵隊も創設された。ワシントン政権期、バー
バリ諸国の海賊に対抗するために議会は合衆国海軍の再建を認めていたが、非
常に小規模なものであった。
海軍を増強することでフランスの対米強硬姿勢を牽制しようとアダムズは考
248
アメリカ大統領制度史上巻
えた。またハミルトンが主導する陸軍増強案を抑える目的もあった。アダムズ
はそうした理由に加えて、急速に拡大する海洋貿易を維持するために、アメリ
カ船舶を保護する海軍は不可欠な存在であった。
フランスとの緊張が高まる中、アメリカはイギリスと互いの商船をフランス
の私掠船から守る協定を結んだ。連邦派はさらにイギリスとの同盟を推進しよ
うとしたが、アダムズはそれを認めなかった。アメリカは、フランスとの緊張
が緩和された後も、イギリスの海軍力に頼ることなく独自に自国の船舶を保護
する海軍力を整備しなければならないと考えていたからである。その結果、海
軍は 50 隻の艦船に約 5,000 人の人員を抱えるまでに拡大された。
1798 年 5 月 28 日、連邦派の強い影響の下、議会はフランス軍のアメリカ侵
攻に備えて 5 万人の臨時軍を編成することを決定した。それを受けてアダムズ
は、7 月 2 日、引退していたワシントンを臨時軍の最高司令官に指名した。元大
統領がそのような官職に任命された例は他にはない。
アダムズはワシントンを頂点にして、ノックス、チャールズ・ピンクニー、
そしてハミルトンの順序で指揮官を任命しようとした。しかし、ワシントンは
ハミルトンを次位に置くように強く望んだ。さらに閣僚もワシントンの要請に
同調したために、アダムズは不服であったがハミルトンを次位に置く案を承諾
せざるを得なかった。また閣僚は大規模な陸軍を編成する計画を推進しようと
したが、アダムズはそれを認めなかった。アダムズはハミルトンが軍を使って
クーデターを起こし、第 2 の「ボナパルト」になることを恐れていた。結局、
軍は 1800 年 6 月 15 日に解散されるまで存続した。
第 8 項 フリーズの乱
臨時軍と海軍の増強にともなう歳出の増加を補うために、1798 年 7 月、アダ
ムズは財産税の導入を認めた。翌年、ペンシルヴェニア州東部の農民が財産税
の撤廃を求めて反乱を起こした。この反乱は、首謀者である元民兵隊指揮官ジ
ョン・フリーズ(John Fries)の名前に因んでフリーズの乱と呼ばれる。または税
の査定官に熱湯を注ぎかけて農婦達が抵抗したことから熱湯反乱とも呼ばれる。
フリーズは数百人の暴徒を率いて刑務所を襲い、囚人を解き放った。
アダムズは反乱の鎮圧を命じたが、1794 年のウィスキー暴動の際にワシント
ンが自ら鎮圧に乗り出したのとは異なり、クインジーの自宅に滞在していた。
建国初期
249
アダムズの不在はこの時だけではない。ワシントンが 8 年の在任期間中に政庁
所在地から離れていた日数は合計で 181 日間であったが、アダムズはその半分
の在任期間にも拘らず、合計 385 日も政庁所在地を離れていた。大統領不在の
間、フリーズの反乱に対処したのは主に閣僚であった。特に 1799 年は 3 月から
9 月までほぼ 7 ヶ月間、アダムズは政庁所在地を離れていた。
反乱鎮圧後、裁判にかけられたフリーズと他 2 人は反逆罪で絞首刑の判決を
受けた。アダムズは、さらなる反乱を阻止するために刑を執行すべきだという
閣僚の忠告に反して、1800 年 5 月 20 日、フリーズに恩赦を与えた。アダムズ
は、フリーズの反乱を危険な暴動と見なしたものの、反逆罪にはあたらないと
考えた。そして、アメリカ人の人道的で心優しい性質に訴えかけるために恩赦
を与える決定を下した。この決断は、アダムズは気まぐれで弱気であるという
閣僚の確信を強めた。それは、鎮圧の際の不在に加えて、アダムズが連邦派の
支持を失う一因となった。
第 9 項 ホワイト・ハウスへの入居
アダムズはホワイト・ハウスに入居した最初の大統領である。1800 年 10 月
15 日にマサチューセッツを発ったアダムズは、11 月 1 日、ワシントンの大統領
官邸に入居した。それよりも前の 6 月 3 日にもアダムズはフィラデルフィアか
らワシントンを訪問しているが、まだ大統領官邸は工事中であった。そのため
11 月に入居した後も実際に使用できた部屋は僅かに 6 部屋に過ぎなかった。隙
間風が入る大きな部屋を十分に暖めることもできず、漆喰も完全に乾いていな
かった。屋内便所は無く、水も 5 ブロック先の広場から運んでこなければなら
なかった。アビゲイルは洗濯物を建築中のイースト・ルームに干していたとい
う。このように大統領邸が未完成にも拘らず、アダムズは大統領執務室(現ブル
ー・ルーム)で、ワシントンに倣い大統領の接見会を催している。
第 10 項 真夜中の任命
かねてよりアダムズが提案していた裁判所法案が、1801 年 2 月 13 日、成立
した。1801 年裁判所法である。同法は、最高裁判事の数を 6 人から 5 人に減ら
した一方で、各地を巡回して裁判を行う責務から最高裁判事を解放するために
250
アメリカ大統領制度史上巻
16 の巡回裁判所を設置することを規定している。その結果、新たに多くの公職
が任命されることになった。アダムズは司法府に立法府と行政府に対抗できる
だけの力を与えようと考えたのである。アダムズは大統領としての最後の夜の 3
月 3 日に、連邦派の影響力を残しておこうと夜を徹して判事を任命したと噂さ
れた。こうした任命は「真夜中の任命」と呼ばれた。確かに、任期末の数週間
でアダムズは多くの任命を行ったが、3 月 3 日に任命した判事は噂とは異なり僅
か 3 名である。
しかし、アダムズの努力も甲斐なく、1802 年に 1801 年裁判所法は廃止され、
こうした任命は無効になった。しかし一方でアダムズが最高裁長官に任命した
マーシャルは、強固な連邦派として 34 年間もその職にとどまり、連邦最高裁に
よる違憲立法審査権を確立した。
第 11 項 結語
アダムズはワシントンが持っていたような圧倒的なカリスマは持っていなか
った。さらに民主共和派からも連邦派の主流からも非難されつつ政権を運営し
なければならなかった。党派を超越しようとするアダムズの姿勢は連邦派と民
主共和派による深刻な内紛の発生を阻止した。しかし、アダムズは憲法に定め
られた規定に忠実に従い、大統領が外交や国防といった分野でどのように職権
を行使できるのかを示した。またワシントンが告別の辞で示唆しているように、
党派抗争は外国からの干渉をまねき、内戦を誘発する可能性があった。それを
避けるために党派抗争を抑制する独立した行政権力が必要であるとアダムズは
考え、その信念に従って行動したと評価することもできる。
大統領制創始当初は、ワシントンあってこその大統領職であり、大統領職の
機能はワシントンの資質と不可分であった。しかし、アダムズは、ワシントン
のようなカリスマや党派によらなくても大統領職が独立して有効に機能する可
能性を示した。アダムズは、連邦派に区分されているものの、党派は最大の悪
弊だと考えていたので超党派的な大統領として振舞った。アダムズは自ら信じ
るところに忠実であった。
しかし、そうしたアダムズの特質は 1800 年の大統領選挙でアダムズに敗北を
もたらす一因となった。民主共和派の勝利は連邦派の運命を定め、高まりつつ
ある大統領職に対する世論の影響を抑えようとする連邦派の願いを挫いた。ア
建国初期
251
ダムズは、政府は人民の幸福追求を支援すべきだが、政治的指導者は支援を共
同体全体に長期的な利益をもたらすことだけに限定すべきだと考えていた。そ
のため、時に指導者は公共の善のために人民の要望を受け入れない場合もある
というのがアダムズの信念であった。
252
アメリカ大統領制度史上巻
第 2 章 ジェファソニアン・デモクラシー期
第 1 節 ジェファソン政権
第 1 項 概要
トマス・ジェファソン(Thomas Jefferson)は 1743 年 4 月 13 日(ユリウス暦で
は 1742/43 年 4 月 2 日) 、ヴァージニア植民地ゴッホランド郡シャドウェル(現
アルブマール郡)で生まれた。10 人中 3 番目の子供であり、長男であった。父は
大農園を所有する地元の有力者である。母はイギリス生まれである。1775 年、
ジェファソンはヴァージニア植民地代表として第 2 回大陸会議に参加した。翌
年、独立宣言の起草に携わった。ジェファソンは、18 世紀の啓蒙主義的自由主
義の文脈から独立の正当性の原理を見出している。
「革命の剣」ワシントン、
「革
命の舌」ヘンリーと並んで「革命のペン」と称される。その後、ヴァージニア
邦知事、外交官を歴任し、ワシントン政権で国務長官を務めた。次いでジョン・
アダムズ政権では副大統領を務めた。1800 年の大統領選挙で民主共和党を率い
て勝利したジェファソンは、1801 年、第 3 代大統領に就任した。ジェファソン
は選挙で選ばれて大統領を 2 期務めた唯一の副大統領である。大統領としてジ
ェファソンは 1803 年にルイジアナ購入を実現し、西部への発展の扉を開いた。
大統領が外国の領土を獲得する際に憲法上の疑念があったが、ジェファソンは
大統領の条約を締結する権限によってルイジアナ購入を正当化した。しかし、
ヨーロッパでの戦乱に巻き込まれないように実施した出港禁止法は、ニュー・
イングランド諸州で不興をかった。さらにジェファソンは 1807 年、奴隷の輸入
を禁じる法に署名した。ジェファソン自身が考案した墓碑銘には「独立宣言、
またはヴァージニア信教自由法の起草者、そしてヴァージニア大学の父」とあ
り大統領の業績が含まれていない。
第 2 項 大統領選挙
アダムズは党派を超越した立場を保つことで国内の不和を緩和しようと努め
たが、1800 年の大統領選挙で民主共和党を率いるジェファソンに敗北した。ア
ダムズはジョナサン・ロビンズ事件で暴政でアメリカを支配する独裁者である
という非難を受けた。イギリス海岸の掌帆長であったトマス・ナッシュ(Thomas
Nash)は反乱を起して上官の命を奪った。ナッシュはジョナサン・ロビンズ
ジェファソニアン・デモクラシー期
253
(Jonathan Robbins)という偽名を使った。アダムズはジェイ条約の規定に従っ
て、ナッシュを逃亡犯罪人としてイギリスに引き渡した。その結果、ナッシュ
は裁判にかけられ、有罪となり絞首刑に処せられた。本当はアイルランド出身
であったナッシュは裁判で、アメリカ生まれのアメリカ市民であると主張して
いた。共和派はナッシュの主張を利用し、ナッシュはアダムズの暴政の被害者
となったと喧伝した。もしナッシュの主張が真実であったなら大統領権限の不
当な行使と見なされていただろう。
アダムズ政権からジェファソン政権への移行は、平和的手段による 1 つの党
派から別の党派への権力の移行であった。しかし、1800 年の大統領選挙は 1 つ
の危機であった。そうした状況は、憲法が大統領候補の党公認制度を想定せず、
大統領候補と副大統領候補を別々に指定しないことから生じた。1800 年までに
政党制度は完全な発達を見せた。それぞれの党派の連邦議員は、大統領候補と
副大統領候補を党幹部会で指名した。党幹部会の決定はそれぞれの州の党組織
に伝えられ、選挙人は公認された大統領候補と副大統領候補に 2 票を投じた。
選挙人投票は 1800 年 12 月 3 日に行われ、138 人の選挙人(16 州)がそれぞれ
2票ずつ票を投じた。
ジェファソンとバーは9州からまったく同じ73票を得た、
対して現職アダムズは、10 州から 65 票しか得られなかった。今回、ニュー・
ヨーク州から 1 票も得ることができなかったことがアダムズの決定的な敗因に
なった。ジェファソンはジョージア州の 1 人か 2 人の選挙人がバーとは他の候
補に投票するだろうと予測していた。そのためバーと全く同じ票数を獲得する
とは思っていなかった194。また当初の予定ではロード・アイランド州の選挙人
の中の 1 人がジェファソンに投票する一方でバーに投票しない計画であった。
そうすることで得票が同数になる事態が避けられるはずだとバーは確約してい
た。しかし、ロード・アイランド州が連邦党の手に落ちたためにバーの約束は
反古となった。
民主共和党はバーに譲歩するように求めたが、バーはそれに従わなかった。
そのために 1801 年 2 月 11 日、憲法第 2 条第 1 節第 2 項の「過半数を得た者が
2 名以上に及びその得票が同数の場合には、下院は秘密投票により、そのうちの
1 名を大統領に選任しなければならない」という規定に従って、連邦党が支配す
る連邦下院で決選投票が開始された。各州がそれぞれ 1 票を投じ、全体の過半
数、つまり、16 票のうち過半数である 9 票を占めれば大統領に当選される。各
州がどちらに票を投ずるかは、州選出議員の多数決によって決定された。
254
アメリカ大統領制度史上巻
ジェファソンが 8 州を押さえていたのに対し、バーは 6 州を押さえていた。
残りの 2 州、ヴァーモント州とメリーランド州では、州選出議員の票数が均衡
し、両者ともに票を獲得することができなかった。連邦党議員の多くはバーを
支持していたが、ハミルトンはバーよりもジェファソンを支持していたので、
ジェファソンが当選するように働きかけた。その一方で上院議長に大統領の職
務を代行させようという案が持ち上がった。ジェファソンはその案に対してア
ダムズに拒否権を行使するように求めた。しかし、アダムズは事態に介入する
ことを断った。過激な民主共和党員の中には、もしジェファソンが大統領の座
に就けないのであれば武力蜂起を厭わないと仄めかす者さえいた。ジェファソ
ンは後年、
「議会の簒奪に対して武力による抵抗が起こる可能性があった」と述
べている195。連邦解体の危機を未然に防止するためにジェファソンは憲法修正
会議の開催を一時、検討していた。
幸いにも 2 月 17 日の 36 回目の決選投票でようやくジェファソンの大統領当
選が確定した。それは、ヴァーモント州とメリーランド州でそれぞれバーを支
持する議員が棄権したために均衡が破れたためである。このようにして 1801 年
2 月の危機は回避された。
1801 年 2 月の危機は、
憲法修正第12 条の導入を促した。
憲法修正第 12 条は、
連邦政府の中で政党が果たす役割を憲法が初めて認識した条項だと言える196。
憲法制定会議が想定した選挙人制度は、政党が発展し、大統領の選挙過程に大
きな影響を及ぼすことを想定していなかった。大統領の選挙過程が政党の発展
という新しい事態に適合しておらず、そうした弱点が連邦派に利用されること
を恐れて、1803 年 12 月、民主共和党が多数派を占める連邦議会は修正第 12 条
を発議した。強硬な連邦党が支配する州を除いて諸州は迅速に修正第 12 条を批
准した。そして、1804 年 6 月に修正第 12 条は成立した。
第 3 節 1800 年の革命
1800 年の選挙におけるジェファソンの勝利はアメリカの政治を再編成するも
のであった。大統領の座だけではなく議会でも多くの議席を獲得した民主共和
党は国家を指導する政党になった。民主共和党政権はジェファソンが大統領に
就任した 1801 年 3 月 4 日から 1829 年 3 月 4 日にジョン・クインジー・アダム
ズが大統領を退任するまで 28 年間続いた。これはアメリカ史上、単一政党によ
ジェファソニアン・デモクラシー期
255
る政権保持の最長記録である。
ジェファソンは 1800 年の選挙を「1800 年の革命」と呼ぶ。ジェファソンに
とってそれは、
「1776 年の革命が政府の形体上の革命だったように、それは政
府の原理上、真の革命」であり、剣によって達成されたのではなく、理性的か
つ平和的な改革の手段、すなわち人民の投票によって達成された」第 2 のアメ
リカ革命であった197。さらにアメリカという広大な領域に共和制を樹立すると
いう実験は、ジェファソンにとって共和政ローマ時代以来、まったく例を見な
いものでもあった。ジェファソンの理念はアメリカだけにとどまらず、アメリ
カ人自身のためだけに行動するのではなく、全人類のために行動していると述
べているように全人類をも対象にしている。それは当時のアメリカの使命感を
如実に示している。ジェファソンは以下のように共和主義の理念について第 1
次就任演説で述べている。
「国民諸君、我が国の最高の行政官として義務をとろうとするにあたって、
私はここに集い、私に期待をかける同胞諸君の好意に対して感謝の意を表す。
大統領の仕事は私の能力の到底及ぶところのものではないことを十分に自覚し
ているし、責任の重大さと私の力の弱さによって正しく感じられる不安な予感
を抱いているが、私は敢えてこの重責を果たそうと試みる。広大にして豊穣な
る地に拡大し、その産業の豊かな産物を世界に送っているこの興隆しつつある
国は急速に今日、我々が予期することができない程、遠い宿命へと前進しなが
ら、権力を求め正義を忘れがちな国々と通商している。このような卓越した目
的を考え、現在、直面する重要問題とその前途に我が国の名誉と幸福と希望が
かかっているのを考えると、前途に不安を覚え、仕事の重大さに逡巡せざるを
得ない。しかしながら、多くの諸君がここに集い、我々の憲法によって規定さ
れた様々な権威の中に、すべての困難の下にも信頼し得る智徳と熱望を持つ
人々を見出し得ることを私に想起させるので、私は決して失望すべきではない。
諸君、立法府の崇高なる職務を担う諸君、並びに諸君と協力する人々、私は、
我々が混乱の世界に波風高い天候の真っ只中に出帆したこの船を安全に舵をと
って安全に航行できるように導きと支持を与えてくれるように希望する。我々
が経験してきた論争を通じて、活発な意見の交換や討論の遂行は時には自分の
考えていることを自由に考え、話し、また記述することに慣れていない人々に
とっては、威圧を感じたような様子を見せたかもしれない。しかし、この論争
は、今や憲法の規定に従って表明された国民の声によって既に決定されたので
256
アメリカ大統領制度史上巻
あるから、言うまでもなく、すべての人々は憲法の意志を通じて行動し、共通
の福祉のための共通の努力において協力し合うだろう。多数の意志がすべての
場合に有力であっても、正しくあるべき意志は合理的でなければならないし、
また少数者も平等の権利を有し、その少数者の平等権は平等な法がこれを保護
しなければならず、これを蹂躙することは弾圧に他ならないという神聖なる原
理を、すべての人々はまた十分に留意するべきである。国民諸君、1つの精神
と 1 つの気持ちを以って協力し合おう。お互いの交際に調和と愛情を取り戻そ
う。調和と愛情なくしては、自由も、否、生活自体も無味乾燥なものに過ぎな
い。人類を長く苦しめてきた宗教上の頑迷と不寛容をこの国土から放逐した経
験を持つ我々が、その宗教上の頑迷や不寛容と同じく専制的であり邪悪であり、
またそれらと同じく残酷で血なまぐさい迫害を伴い恐れのある政治的不寛容を
黙認するのであれば、我々はまだ一歩も前進していないということをよく考え
るべきである。苦悩と騒乱に満ちた旧世界に、また血と殺戮によって長い間失
われてきた自由を狂ったように[フランス革命で]求め続けた人々の苦悶に満ち
た激情を顧みると、繰り返し押し寄せる旧世界の激動の大波が、この遠い平和
な岸辺にすら届いてくることも決して不思議ではない。またこのことを一部の
人々が過大に感じて恐れ、他の一部の人々が過小に感じて、安全を保つための
様々な手段について意見が分かれるのも、少しもおかしなことではない。しか
し、意見の相違のどれもが主義の相違ではない。我々が同じ主義を持つ兄弟を
異なった名前で呼んできた。この意味で我々はすべて民主共和党であり、我々
はすべて連邦党である。この連邦を解消したいと思い、またあるいはこの共和
政体を変革しようと考える人が、もし我々の中にいるならば、そういう人々を
どんなことでも安全だという証拠にその意見を妨げずに世に出すべきである。
意見の誤りは真理がその誤りと論戦させることができるようになっているとこ
ろでは、寛容され得るものである。実際のところ、共和政は強力にはなり得ず、
したがって我が国の政府は強力ではないと心配する善意の人々がいることを私
は知っている。しかしながら、本当の愛国者は、今、共和政が十分に成功しつ
つあるこの実験の過程にあって、世界の最善の希望である我が国の政府が何と
かして自ら維持されていく力に欠けているかもしれないという単に理論だけの、
また架空の恐れに基づいて、できる限り我々を自由で堅実にしてきたこの政府
を放棄したいと思っているのだろうか。私は決してそうは思わない。反対に、
私はこの政府こそ地上における最も強力な政府だと信じている。この政府こそ
ジェファソニアン・デモクラシー期
257
すべての人々を法の命において、喜んで法の旗の下に馳せ参じ、自分自身の個
人的な問題のように、公共の秩序の侵害に直接対処し得る唯一のものだと信じ
る。人は自分自身を治める政府に信頼をおくことは不可能だと時には言われて
いる。しかし、そうであれば、人は他人を治める政府に信頼をおくことができ
るだろうか。また我々は人を治めるのに王政の形態で天使を見出したことがあ
るだろうか。この問題について歴史を以って答えさせれば明らかであると思う。
では、連邦と代議政治に愛着を持っている我々自身の連邦主義並びに共和主義
の諸原理を勇気と確信を以って続けていこうではないか。幸いにして我が国は
自然と広大な大洋によって地球の 4 分の 1[ヨーロッパ]を占める破滅的な破壊か
ら隔絶されていて、気高くしてアメリカ以外の人々の頽廃の影響を受けること
がない。また数千年後に至るまで我々の子孫を受け入れるのに十分に恵まれた
地を持ち、我々自身の才能を用いて、我々自身の生産の結果を獲得し、生まれ
ながらにしてではなく、我々の行為とその行為の結果として我々国民の名誉と
確信を有する平等の権利を持つという当然なる意識を享受している。また実際、
公然と行われ、様々な形で行われているが、そのすべてが誠実、真実、節制、
感謝及び人間の愛を諄々と説いている温情ある宗教によって啓発されている。
すべての天の賜物によって現在、人間の幸福を祝福し、今後、さらにより大き
な幸福を与えてくれることを約束する偉大なる神の恩寵を認め、これを尊崇し
ている。すべてのこれらの恵みを以って、我々を幸福にして反映している国民
とするためにさらに必要なものとしては何があるか。親愛なる国民諸君、もう 1
つある。賢明で質素な政府である。それは人々をお互いに傷付け合わないよう
に抑制し、それ以外は自律的に勤勉と進歩を自由に追求させ、労働者の口から
稼いだパンを奪い取らない政府である。これが良い政府の要点であり、我々の
幸福の輪を閉じて完成させるために必要なことである。国民諸君、私は、あな
た方にとって近しく価値があることすべてを把握するという職務を遂行しよう
としているが、私が政府の基本原則だと見なすもの、そしてひいてはこの政権
を形作ることになるものをあなた方に理解してもらうのは当然のことである。
私はできる限り最も狭い範囲で要約し、一般原則を述べるが、その限界につい
てすべては述べない。宗教的であれ政治的であれ、いかなる地位や信条に拘わ
らず、すべての人々に平等で厳正な正義を。どの国との同盟に巻き込まれるこ
となくすべての国々との平和、通商、そして誠実な友好関係を。各州政府の有
するすべての権利につき各州政府を支持し、これを国内諸問題の最も有力なる
258
アメリカ大統領制度史上巻
政治機関とし、また反共和政的な諸傾向に対する最も確実な防塞とすること。
中央政府を国内の平和維持と外国の脅威に対する国家の防衛の支柱として、こ
れをその憲法の許す最大限度に維持すること。国民の選挙権を用心深く保護す
ること。平和的な救済手段がもたらされなければ、革命という名の剣で切り取
られる権力濫用を穏健かつ安全に矯正すること。多数決に絶対に黙従すること。
それは共和政体の基本原則である。多数決によるのではなく武力だけに訴えか
ける黙従。それは専制政治の基本原則であり、まさに専制政治の生みの親であ
る。よく訓練された民兵は、平時に、そして正規軍が救援に来るまで戦争初期
に最も信頼できる存在である。軍人の権限に対する文官の優越性。公費を無駄
なく使い、国民の負担を軽くとどめること。負債を実直に返済し、神聖なる国
民の信頼を保つこと。農業とそれを助ける商業を振興させること。情報を伝播
させ、公的論理という名の法廷ですべての権力濫用を糾弾すること。信教の自
由。言論の自由。人身保護令状の庇護の下での個人の自由、そして公平に選ば
れた陪審員による裁判。これらの諸原則こそは、革命及び改革の時代を通じて
我々を導き、我々の行方を照らしてきた輝かしい一団の星座を構成するもので
ある。我が国の賢人の知識と英雄の血がこれらの達成のために今まで捧げられ
てきた。これらの諸原則こそ我々の政治的信念の信条たるべきで、また市民教
育の教科書たるべきであり、さらに我々が政治を委託する人々の奉仕の是非を
制定する規準でなければならない。我々が、あるいは過失により、あるいは驚
愕狼狽のあまりに、これらの諸原則の道筋から外れてさまようことがあれば、
直ちに踵を返して、平和、自由、安全へと導くこの道筋に戻り、そしてこの道
を進むようにしなければならない。諸君、では私は、諸君が私を選んだ大統領
職に就く。大統領職がすべての官職の中で最大であり、いかに困難なものであ
るかは、私は既にその下僚として見ていて、十分な経験があるが、私は大統領
の地位にもたらされる名声や好意を以ってこの地位を引退することは不完全な
人間の運命としてほとんどないということを知っている。大統領はその卓越し
た奉仕によって、国民の愛情の最高の地位を与えられ、忠実なる歴史の最も公
正な頁を運命付けられているので、諸君が我が国の初代、かつ最大の革命的性
格と持つ[ワシントン]大統領に信頼を置いていることに対比して、私は率直に、
私に対しても十分な信頼を求める。この信頼によってのみ、私は国事について
正常な政治を行う決意と結果をもたらし得ると信じている。私の判断力の不足
のため、しばしば過ちを犯すかもしれない。過ちを犯さない場合でも、その地
ジェファソニアン・デモクラシー期
259
位が全体の観察をなし得ないような人々からは過ちだと思われるかもしれない。
しかし私は、私の過ちは決して故意に犯すことはないので、諸君の許しを得た
いと思う。またすべての面を見ないで非難する人々の過ちに支持を与えないよ
うに願う。今度の選挙によって示された諸君の支持は過去のことについて私に
大きな慰めを与えた。私が将来、懸念していることは、他の人よりも予め良い
意見を出した人々が良い意見を幾つも出すこと、私の権限内ですべての良いこ
とを行うことによって他の人々の意見を一致させること、すべての人々の幸福
と自由によって役に立つことなどである。さて諸君の善意を信頼して私は職務
に就く。しかし、諸君が諸君のなし得る権限内でさらに良い人を選びたいと思
った場合は、私はいつでも引退するつもりである。また宇宙の運命を支配する
神は何が最良であるのか我々に判断の道筋を示し、諸君の平和と繁栄にとって
有利な解決を我々に与えてくれるだろう」198
従来、ジェファソンは弱体な行政府を望み、黙示的権限の合憲性に対して疑
義を唱えていた。ジェファソンの考えによると、各州はその領域内で大幅な権
限を保持し、連邦政府は専ら外交と通商問題を担うようにするべきであった。
そうすれば連邦政府を非常に簡素な組織にとどめることができ、僅かな職員と
費用で済ませることができると大統領になる少し前にジェファソンは語ってい
る。またジェファソンはハミルトンが農民を犠牲にして資本家を支援する体制
を作り上げたと考えていた。
それにも拘らず、ジェファソンは自らが設立に反対していた第 1 合衆国銀行
の特許を取り消していない。それは、ハミルトンの負債を 15 年で完済すること
ができても、ハミルトンの金融制度を取り除くことはできないとジェファソン
が考えたからであった。とはいえ、州法銀行の設立を後援することで合衆国銀
行の相対的な地位を低下させている。つまり、ジェファソンは、州債と国債を
一本化し、忠実に返済することで国の信用を高め、通商を奨励するという、こ
れまでの基本政策を継承したのである。ジェファソンはハミルトンが築いた金
融制度を覆すために資本家を犠牲にして農民を援助する政策を行わず、単に事
態を放任しておくにとどめた。ジェファソンは政府介入を、利権を伴った公債、
税金、関税、銀行、特権、助成金を通じて富者を支援する不正な手段だと考え
た。共和政体で可能な是正策は、富者からそうした不正な手段を奪って自由と
平等を回復することであった。ハミルトンの金融制度を覆そうとすれば、苛烈
な闘争を生み、階級間の分裂を拡大し、穏健派を民主共和党から遠ざけること
260
アメリカ大統領制度史上巻
になると考えてジェファソンは経済秩序を根本的に変えるのは政府の仕事では
ないと判断した。熱烈な民主共和党員の中には、急進的な憲法修正を通じて
「1800 年の革命」を制度化すべきだと唱える者が多かったが、ジェファソンは
その圧力に屈しなかった。そのため「革命」と言える程の政策上の大きな変化
はなかったと多くの歴史家は指摘している。
第 4 項 農本主義
ジェファソンは農本主義に基づいていたが、その観念は次第に変化している。
民主共和党の国家観と連邦党の国家観はまったく異なるものであった。民主共
和党にとって重要なことは、西部の自作農を国家発展の主役に据え、海岸部の
商業への依存度を低め、農産物の新しい市場を海外に確保することであった。
そして、連邦政府の権限を憲法の下で厳格に制限することを基本的な目標とし
ていた。公債については、利子支払いが特定の階層を富まし、さらにそうした
層が政府内と癒着することを警戒していた。また連邦党が推進する自由貿易政
策によってアメリカの市場がイギリスに独占されることを恐れていた。一方で
連邦党の目標は、ヨーロッパ諸国に比肩する近代国民国家を形成することであ
り、製造業の輸出を促進と農業の国内市場の発展を統合することであった。ま
た公債について連邦派の中心人物であるハミルトンは、通貨の安定供給に繋が
るとして積極的に捉えていた。
こうした国家観の相違に基づいて、民主共和党と連邦党はよく次のように対
比される。民主共和党は南部諸州の農園主を支持基盤として立法府と州権の尊
重、農本主義、親仏姿勢などを標榜する。一方、連邦党は、ニュー・イングラ
ンド地方の商人を支持基盤として強力な中央政府、中央銀行の設立、製造業の
振興、公債償還、親英姿勢などを標榜する。連邦派は権力が多数派に握られる
ことを恐れたのに対して民主共和派は権力が多数派以外に握られることを恐れ
た。ジェファソンは多数派である人民を広範な教育制度や自由な新聞によって
啓発され、共和政体の腐敗に対抗できるようになることを望んだ。
特に農本主義についてジェファソンは、自作農を中心にした農業こそ最も大
事な産業であり、工業はヨーロッパに任せておけばよいと考えていた。農民は
「最も価値ある市民」であり、また「最も活発で、最も独立心に富み、最も高
潔」であるから農業で事足りる限り、農民をその他の職業に就けることは望ま
ジェファソニアン・デモクラシー期
261
しくないとジェファソンは早くから主張している。商人は誰も愛することなく、
商業は冷淡な心を養うという確固たる信念がジェファソンの心の中にはあった。
共和制にとって商業に基づく利己心が危険であるとジェファソンは思っていた
のである。
一方でジェファソンの農本主義は、
『ヴァージニア覚書』で「もし神が選民を
もつものとすれば、大地に働く人々こそ神の選民であって、神はこれらの人々
の胸を、根源的な徳のための特別な寄託所として選んだのである」と述べてい
るように道徳的な意味合いが強かった。しかし、1801 年 12 月 8 日の第 1 次一
般教書で「農業、製造業、商業、そして海運業は我々の繁栄の 4 本の柱であり、
最も自由に個人企業に委ねられた時に活況を呈します」と述べているようにジ
ェファソンは完全な農本主義者というわけではなかった。例えば「製造業の精
神」は国民の間に既に深く根付いているので、それを放棄しようとすれば「多
大な犠牲」を要するとも後に述べている。つまり、
「4 本の柱」の中でも最も農
業を重視すべきであり、投機に興ずる一部の少数者の利益を重視するのではな
く、堅実な暮らしを営んでいる多数者の利益を重視すべきだという理念をジェ
ファソンは持っていたのである。
ここで 1 つ注意すべき点は、ジェファソンが目指した政策は単なる自由放任
ではなかったという点である。従来、保守主義者はジェファソンの政治理念を
「小さな政府」を体現するものだととらえがちであるが、民主共和派は経済的
自由主義の洗練された解釈を持っていた。第 2 次就任演説でジェファソンは次
のように述べている。
「公債の償還がいったん終われば、それによって[重荷から]解放された歳入は、
諸州への[余剰金の]分配と付随する憲法の修正によって、平和時おいて、河川、
運河、芸術、製造業、教育、そして各州内のその他の大きな目標に適用される
ようになる」199
さらにジェファソンは、ルイジアナ購入で新たに拡大した土地を発展させる
ために政府による鉱山経営や工場建設を提案している。またイギリスに依存せ
ずにすむようにアメリカ自身も工業製品を作れるようになるべきだと考えるよ
うになった。
第 5 項 政権交代
262
アメリカ大統領制度史上巻
連邦党から民主共和党へ政権が移行した一方で、ジェファソンはワシントン
に始まるヴァージニア王朝を確立した。ジェファソン自身がワシントンと同じ
ヴァージニアの農園主階級であったばかりか、後継者のマディソンとモンロー
もヴァージニアの同じ階級の出身であった。モンローに引き続くジョン・クイ
ンジー・アダムズもマサチューセッツ出身であったがヴァージニア王朝と 20 年
来、協力体制にあり、モンローの下で国務長官を務めていた。ヴァージニア王
朝が実質的に打破されるのはジャクソンの登場まで待たなければならなかった。
このようにヴァージニア王朝という継続性はあったにせよ、民主共和党の努
力は、ジェファソン主義者が憲法を侵害していると信じる連邦党の政策を撤廃
することに向けられた。1801 年、議会を支配する民主共和党は治安法の最後の
痕跡を消し去った。治安法はジェファソンが大統領に就任する前日に期限が切
れていた。しかし、治安法への反対を明確に示すために、ジェファソンは治安
法で有罪となった者に恩赦を与えた。さらにジェファソンは議会に有罪となっ
た者が支払った罰金を利子とともに返還するように議会に求めた200。
ジェファソンは、財務省の改革、減税、公債償還、政府の効率化という 4 つ
の方針の実現に努めた。まず関税収入で公債償還や歳費が十分まかなえると考
えて、すべての内国税の即時廃止を行った。その結果、内国税の徴収官が不要
になり、財務省の規模拡大が抑えられた。ジェファソン政権期、財政は一貫し
て黒字であり、歳出の増大も抑えられた。
財務長官ギャラティンは、歳入の約 4 分の 3 を利子と元本の支払いにあてて
1817 年までにすべての公債を償還する計画を立案した。ジェファソンはこの計
画を昇進した。その結果、8,600 万ドルの公債を 4,600 万ドルまで減少させるこ
とに成功した。
また合衆国の会計は普通の農民も理解できるものでなければならないという
理念に従ってジェファソンは、ギャラティンに会計方式を簡潔化するように求
めた。あらゆる人々が会計を理解することにより、不正使用を調べることがで
き、ひいては不正使用を抑えることができるとジェファソンは述べている。ま
たジェファソンは、政府の経済への介入を特定の利益集団を利する不正な手段
であると見なしていた。
またジェファソンは、陸軍の動員解除を完了させ、軍艦の建造を中止し、さ
らに軍艦を商人に売却し、残った軍艦からも大部分の艤装を撤去することによ
ってアダムズ政権の影響を排除しようとした201。とはいえ、アダムズ政権から
ジェファソニアン・デモクラシー期
263
ジェファソン政権に移行して根本的な変化はなかったと言える。例えば、第 1
合衆国銀行に加えて差別的なトン税、漁業奨励金、ジェイ条約に基づいて設け
られた英米合同調停委員会のような連邦党の特色を示すような制度に手が付け
られることはなかった。しかし、連邦党政権から民主共和党政権へ血を流さず
して政権交代が実現したという点では高く評価されている。唯一、実質的に変
わった点は、連邦政府の支配力の主軸がボストン、ハートフォード、フィラデ
ルフィアからニュー・ヨーク、リッチモンド、ローリーに移ったことである。
大統領選挙の結果で紛糾したものの、概ね政権交代は円滑に行われた。しか
し、政権が始動するまでは時間がかかった。閣僚が揃わなかったためである。
ジェファソンが新政府の組織が完全に整ったと言えるようになったのは、よう
やく 5 月 14 日になってからである。閣僚の確保に加えてさらに大きな問題にな
ったのは、連邦党の公職独占の是正であった。ジェファソンは「我々はすべて
民主共和党であり、同時にすべて連邦党である」と第 1 次就任演説で述べたが、
民主共和党員は連邦党員を公職から追放するように求めた。公職は公益のため
に奉仕した者に対して与えられるべき正当な報酬であるという当時の考えに基
づいて民主共和党は公職を獲得しようとした。
しかし、ジェファソンは、マディソンとギャラティンと相談のうえ、3 つの基
準で公職における連邦党と民主共和党の均衡を保つことにした。第 1 に、憲法
で保護されている役職を除いて、アダムズが自身の敗北を知った後に行った任
命は無効とする。第 2 に、公的な悪行を基準として罷免する。第 3 に、保安官
や検察は人民の権利の保護に密接に関与しているので強固な連邦党員がそうし
た職に就いている場合、速やかに穏健な民主共和党員に代える。とはいえ、ジ
ェファソンは原則的に党派の違いで公職者を差別することはないと言明してい
る。316 の大統領が任命する連邦職の中で、ジェファソンが就任してから 2 年
後までに、158 の公職が民主共和党員に占められるに過ぎなかった。残りの 158
の公職のうち、132 の公職が連邦党員、26 の公職が無所属であった。
このようにして「革命」は再びもたらされ、ジェファソンの下で団結してい
るように見えた民主共和党内であったが、ジェファソン政権期の 8 年間で次第
に綻びを見せ始めている。ニュー・ヨーク州やペンシルヴェニア州といった州
の民主共和党員は公職に対する不満や地域的利害からジェファソン政権に反対
を唱えるようになり、南部や西部の「古き民主共和党員」からもルイジアナ購
入や合衆国銀行の容認など連邦政府の権限の拡大に警鐘を鳴らす一派が勢いを
264
アメリカ大統領制度史上巻
強めた。またジェファソンが連邦党に対して穏健な姿勢を示したこともそうし
た一派には不評であった。
ワシントンと同じくジェファソンはたとえ大統領にならなくても偉大なアメ
リカ人として数えられただろう。ジェファソンの大統領としての貢献は、人民
の支配の擁護者としての名声を高めた。ワシントンもアダムズも自身を人民の
指導者とは考えていなかった。彼らは大統領の憲法上の責任は、1790 年代のア
メリカ政治を混乱に陥れた意見や党派の衝突を超越することだと信じていた。
ジェファソンはアメリカの政治制度の民主化を主導したが、人民の支配への貢
献は完全ではなかった。マディソンの助けを得てジェファソンはアメリカ最初
の民主的な政党を率いたが、政党政治の正当性を完全に認めたわけではなかっ
た。ジェファソンは恒久的な二大政党制を打ちたてようと考えていたわけでは
なかった。むしろジェファソンは、本質的に地方分権的なアメリカの政治制度
に中央集権化を押し付けようとする連邦党に対抗するための一時的な組織とし
て民主共和党を見ていた。連邦党の試みが挫かれれば、民主共和党も自然に消
滅し、憲法が想定していたような党派のない政府に戻るとジェファソンは信じ
ていた。民主共和党は党派を終わらせるための政党であった202。しかし、歴史
が示しているように民主共和党はすぐに消滅することはなかった。
ジェファソンの観点では、独立戦争の原理は、連邦党が連邦政府を積極的に
強化したことによって損なわれた。そして、連邦党の国内外の政策は君主制の
樹立を図るものであった。ジェファソンは第 1 次就任演説で連邦政府の役割を
制限し、歳出を削減すること、商業よりも農業を振興させることを約束した。
ジェファソン主義者の勝利により、連邦政府は縮小され、南北戦争まで小さい
ままであった。またジェファソンは、議会が各省に対して政府特別支出を給付
する際に、一括払いで総額を給付し、各省の自由裁量で支出を行うことを認め
る慣行を改めようとした。ジェファソンとギャラティンは議会にそうした慣行
を是正するように勧告したが、議会は特別支出の給付に僅かばかりの細目を設
けただけであった。しかし、ジェファソンはアメリカの統治形態を変えること
に貢献した。大統領制度を民主的に見えるように変え、アメリカ政府を反エリ
ート主義的な方向に導いた。また連邦党が打ち立てようとしていた大統領の統
治と経済的特権との繋がりを絶つことに成功した。
第 6 項 司法府との対立
ジェファソニアン・デモクラシー期
265
民主共和党の革命の責務は、特権的な連邦党の影響を排除し、真の共和政体
を取り戻すことであった。民主共和党の矛先はまず司法府に向けられた。連邦
党は連邦政府内で影響力を維持しようとして司法府を連邦党の判事で埋めよう
とした。連邦党に支配された議会は、1801 年裁判所法を定め、多くの新しい判
事を任命した。アダムズ政権末期に行われたいわゆる「真夜中の任命」である。
民主共和党にとって司法府は、人民の政府と政治的自由に対する最後の障害で
あった。一方、連邦党にとって司法府は群衆の支配と無政府状態を防止する最
後の砦であった203。
民主共和党員はすべての連邦党員を公職から追うようにジェファソンに求め
た。そうした要請に従うかわりに、ジェファソンは 1802 年 4 月 29 日に議会を
通過したいわゆる 1802 年裁判所法により 1801 年裁判所法を廃法に追い込むこ
とで、実質的に増員された連邦派をその「牙城」と化した司法府から追放する
方法を選んだ。
1802 年裁判所によって最高裁判事の数は 5 人から 6 人に戻され、
6 つの最高裁判事が長を務める巡回裁判所が設けられた。また特別条項によって
最高裁の次の開廷が 1803 年 2 月まで延期されるという異例の措置がとられた。
42 人の治安判事の中で 17 人が免職になり、316 人の公職者の中で 105 人が免
職になった。こうした措置は、すべての連邦党員を追うことに比べると穏健な
措置であった。
民主共和党と連邦党の司法府をめぐる争いは党派的対立以上のものであった。
民主共和党は、公職者の憲法に基づく行為を覆すような広範な権限を司法府に
与えることを否定していた。連邦党は、司法府が憲法の最終的な裁定者である
という主張を支持していた。ジェファソンは、裁判所の司法的判断を下す権利
には挑戦しなかったが、政府の各府が憲法に関わる問題を決定する責任を分有
すべきだと考えていた。
こうした問題が争点となったのが 1803 年のマーベリー対マディソン事件で
ある。ウィリアム・マーベリー(William Marbury)はコロンビア特別行政区を管
轄する治安判事の 1 人でアダムズのいわゆる「真夜中の任命」で新たに職を得
た。マディソンは国務長官としてマーベリーに対して任命辞令を発行するのを
拒否した。当時はまだ司法省がなかったので判事の任命辞令は国務長官が発行
していた。マーベリーはマディソンの措置を不服として最高裁に告訴した。
争点は、マーベリーが辞令を受ける権利はあるかという点と、もしその権利
266
アメリカ大統領制度史上巻
を有するのであれば、最高裁が職務執行令状を発行することで救済が可能であ
るかという点であった。前者についてマーシャル最高裁長官はマーベリーが辞
令を受ける権利があると明言し、新政権がその責務をまっとうしていないと譴
責した。しかし、後者については、最高裁は職務執行令状を発行することで救
済することはできないとした。なぜなら、最高裁が職務執行令状を発行する権
限は憲法に定められていないからである。それは、立法府が 1789 年裁判所法で
違憲でありながら最高裁の職務として付け加えた権限に過ぎないとマーシャル
は断定し、連邦議会の立法の違憲性を問うた。マーシャルは連邦議会の行為の
違憲性を認め、司法府の判断が立法府の判断に優越するという原理を確立した。
この判決は、司法府が連邦議会の立法の違憲性を判定する権限を大統領が認め
るという条件の下、ジェファソンに連邦党の官職任命者を自由に解雇する権限
を与えた204。
それは連邦党のマーシャルがジェファソン政権に提示した妥協である。民主
共和党は、三権分立の原理に基づいて、司法府は連邦法の無効を宣言したり、
行政官に法への服従を命じたりすることはできず、立法府や行政府は司法府の
決定を違憲と見なした場合は無視する権限があると主張していた。もし最高裁
がジェファソン政権に職務執行令状を発行した場合、行政府と司法府の正面衝
突は回避できない。ジェファソン政権は最高裁の命令を越権行為として無視し
て服従しないことは確実であり、最高裁は命令を強制する手段を持たない。そ
の結果、司法府は敗北することになる。しかし、完全に事件を棄却することも
民主共和派の主張を黙認することになる。各州や連邦政府のそれぞれの府が相
互にそれぞれの行動の合憲性を判断して否認し合えば、国家の統一と秩序の維
持は不可能になり、連邦は瓦解する。そのためマーシャルは職務執行令状の発
行を規定した連邦法自体の合憲性を問うことで司法権優越の原理を確立する道
を選んだ。
ジェファソンは下院議員に働きかけて連邦裁判所判事を罷免させようと画策
した。その結果、酒におぼれた連邦地方裁判所の判事が弾劾され罷免された。
ジェファソンの司法府に対する戦いは最高裁判事サミュエル・チェイス(Samuel
Chase)をめぐる争いで終わりを迎えた。チェイスは職務上の不法行為ならびに
職権濫用で提訴され、司法府は独立の危機を迎えた。上院において、チェイス
の弾劾裁判は 1804 年 11 月 30 日から始められた。
チェイスは強固な連邦党員と
して知られ、ジェファソン政権と対立していた。審議の結果、翌 1805 年 3 月 1
ジェファソニアン・デモクラシー期
267
日にチェイスは弾劾から免れ、危機は回避された。もし弾劾が成立していれば、
党派的な理由で判事が辞めさせられることを意味し、司法府の独立を阻害しか
ねなかった。独立を確保した司法府は、マーシャルが率いる最高裁を中心に連
邦の優越、法の支配、財産権の不可侵を確立していく。
ジェファソンが第 1 次就任演説で明かした計画のほとんどはつつがなく完遂
され、ジェファソンは司法府と争う意味がなくなった。司法府はジェファソン
政権の 1 期目を乗り切ったが、行政府と司法府の間で提起された問題は完全に
未解決であった。憲法に関わる問題を最終的に決定する権限は、行政府、立法
府、そして司法府のいずれにあるのかという問題はアメリカの歴史の中で繰り
返し提起された。
第 7 項 大統領の儀礼的慣習
ジェファソン政権は、大統領と人民との関係をより親密にするために機構上
の重要な変化をもたらした。ジェファソンは大統領職の余分な儀礼的装飾を剥
ぎ取った。騎乗従者を伴った馬車に乗ったワシントンと違って、ジェファソン
は 1 人の召使を伴っただけで自ら騎乗した。また服装も簡素で、国家の長とし
て相応しくないと見なされる程であった。ジェファソンは就任式でも帯剣せず、
髪粉をつけなかった205。ジェファソンは、人民を基盤とする政府に矛盾するよ
うな君主的な要素を大統領制度からできるだけなくそうと努めたのである。
ジェファソンは毎朝 5 時に起床し、1 日に 12 時間から 13 時間、書き物机の
前で書類や手紙を書くのに費やした。午後には気晴らしのために馬に乗り、夕
食のために3 時半までに戻った。
ジェファソンは少人数で食事するのを好んだ。
午前中にホワイト・ハウスを訪れる人は誰でも自由に中に入ることを許された。
ジェファソンは、貴族的であるとしてワシントンが導入した大統領の接見会
を廃止した。最初の接見会が開かれる予定だった日、ジェファソンはいつもの
ように 1 時に馬に乗って出掛けた。そして 3 時に帰ってきた。鞭を手に持ちブ
ーツを履き泥が跳ねた状態でジェファソンは大統領官邸に入っていた。すると
正装した紳士淑女がジェファソンを待ち受けていた。それを見たジェファソン
は困った様子もなく気軽に挨拶した。それ以後、接見会で人が集まることはな
かった。
さらに誕生日を祝って開催される舞踏会、感謝祭のような記念日を指定する
268
アメリカ大統領制度史上巻
ことなどを取り止めている。しかし、一方で議会の会期中は週に 3 回程度、午
後 3 時半から 8 時まで晩餐会が行われた。晩餐会には 8 人の議員と 1 人
の閣僚が交替で招かれた。そうした晩餐会では席次を平等にするために円卓
が使われ、着席の順序も従来とは異なり自由であった。招待状は大統領名義で
はなく単に「Th. ジェファソン」名義で発行された。こうした晩餐会では政治
的問題を話すことは禁じられていたが、大統領が議員達と友好関係を築く有効
な手段として作用した。
また 1801 年 7 月 4 日にジェファソンはホワイト・ハウスで初めての
陸海軍の閲兵式と祝賀会を行い、1,000 人以上と握手を交わしている。
それまでの慣習では、大統領は堅苦しくお辞儀をするのみであったので、
それはまったく新しい慣例であった。こうした祝賀会は年に 2 回、元旦
と独立記念日に行われ、誰もが参加することができた。こうした様子を
前任者のアダムズは、ジェファソンは丸 8 年間が接見会だったと評して
いる。
君主的な要素を大統領制度から除外しようとするジェファソンの試みは議会
との関係でも示された。ジェファソンは教書を口頭ではなく文書で伝える形式
を採用した。大統領が議会で一般教書演説を行う様子は、国王が議会で開会を
宣言する様子を想起させるからである。憲法第 2 条第 3 節は、
「大統領は、随時
連邦の状況につき情報を連邦議会に与え、また自ら必要にして良策なりと考え
る施策について議会に対し審議を勧告する」ことを規定している。しかし、教
書を伝える具体的な方法については何も指定されていない。1801 年 12 月 8 日
の一般教書が文書で伝えられた最初の一般教書となった。教書を文書で送付す
る慣習はウィルソン大統領の時代まで 100 年以上も継続した。
第 8 項 メリー問題
余計な装飾を省こうとするジェファソンの考えは外交官の接受にも示されて
いる。
1803年11月28日、
駐米イギリス公使アンソニー・メリー(Anthony Merry)
は国務長官マディソンに伴われて大統領公邸に向かった。大統領に謁見するた
めである。謁見を控えてメリーは外交官の正装を着用していた。奇妙なことに
マディソンとメリーが官邸に到着した時、謁見の間にジェファソンの姿はなか
った。そのためマディソンはメリーを残してジェファソンを探しに行った。メ
ジェファソニアン・デモクラシー期
269
リーはマディソンについて行こうとしたが、事情がよく分からないので諦めた。
狭い廊下をメリーが歩いていると、突然、書斎からジェファソンが出てきた。
驚いたメリーは、咄嗟のことにも拘らず、貴賓に対して背中を向けないという
外交儀礼を守りながら謁見の間まで戻った。メリーは狼狽しながらもジェファ
ソンを迎え、予め準備しておいた献辞を述べた。さらにメリーを驚かせたのは
大統領の服装であった。ジェファソンは平服であっただけではなく、踵の擦り
減ったスリッパを履いて立っていた。献辞が終わった後、両者は会話を交わし
たが、その最中、ジェファソンはその踵の擦り減ったスリッパを足で投げ上げ
て爪先で受け止めてみせたという。
謁見終了後、マディソンはメリーに、大統領だけではなく各閣僚も訪問する
ように伝えた。メリーは前例を盾にしてそれを断った。するとマディソンは、
現政権は前政権の古い外交儀礼を守る必要はないと言った。怒りを抑えながら
メリーはマディソンの要請に従った。
3 日後、今度は夫婦揃ってメリーは官邸で開かれる晩餐会に赴いた。その会場
に入ってまずメリーが驚いたことに、交戦中であるフランスの外交官が招かれ
ていた。それだけではなく、ジェファソンが定めた席次はメリーを憤慨させた。
本来であれば、メリー夫人がジェファソンの右側に、マディソン夫人が左側に、
そしてメリー自身はその隣が定席であった。しかし、ジェファソンが席次をま
ったく守らなかったために、メリーは自分の席を探さなければならなかった。
ようやく納得できる席をメリーが占めようとした時、1 人の議員が割って入り、
その席を要求した。それでもジェファソンは何もしようとしなかったのでメリ
ーはますます困惑し、晩餐会が終わるとすぐに馬車を呼んで立ち去った。
こうした新しい形の儀礼をジェファソンは「ざっくばらん」と呼んだ。それ
は、平等主義に基づいた儀礼で、従来の優先権を認めない方式であった。しか
し、メリーへの仕打ちは多分にイギリスに対する反感が込められていることは
指摘すべきである。一連の出来事はメリー問題と呼ばれるが、幸い深刻な外交
問題に発展せずに終わった。
第 9 項 トリポリとの交戦
ジェファソンはバーバリ諸国へ貢納金を支払うことなくアメリカ商船の安全
を確保すべきだと考えていた。ジェファソンが大統領になるまでに、実にアメ
270
アメリカ大統領制度史上巻
リカの歳入の 5 分の 1 にあたる約 200 万ドルが貢納金や身代金としてバーバリ
諸国に支払われていた。1801 年 5 月 20 日、4 隻からなる艦隊が地中海へ派遣
された。艦隊にはもしバーバリ諸国が宣戦布告した場合、バーバリ諸国の船を
撃沈することでその横暴な振る舞いに懲罰を与えるようにという命令が下され
ていた。またバーバリ諸国の 1 ヶ国だけが宣戦布告した場合は、港を封鎖する
ように命じた。トリポリがアメリカに宣戦布告していたために 8 月 1 日、戦闘
が起きた。戦闘の結果、アメリカが勝利を収め、敵船は武装解除のうえ解放さ
れた。その理由をジェファソンは、議会の承認なく防衛の線を踏み越えること
は憲法によって認められていないと述べている。こうしたジェファソンの姿勢
は大統領の戦争権限に関する最も厳密な解釈だと言える。最終的に議会が海軍
力の行使を認めたのは 1802 年 2 月 6 日である。トリポリを屈服させるまでそれ
から約 3 年を要したが、貢納金を停止するという従来の目的は果たされた。
第 10 項 西部の探検
ジェファソンは率先して西部の探検を推進した。1802 年秋、かねてより西部
探検に並々ならぬ関心を抱いていたジェファソンは私設秘書であるメリウェザ
ー・ルイス(Meriwether Lewis)と探検隊の派遣計画を練った。そして、議会に
総額 2,500 ドルの予算を求めることになった。1803 年 1 月 18 日、ジェファソ
ンは議会にルイスとクラークの探検隊に関する特別教書を送付している。
ルイスはウィリアム・クラーク(William Clark)をパートナーに選び、1803 年
8 月 31 日にピッツバーグを出発した。ルイスとクラークの探検隊の主目的はミ
ズーリ川の流域を探査し、交易ルートとして最適な太平洋への水路を見つける
ことであった。またその領域のネイティヴ・アメリカンと会談して諸族間の対
立を沈静化させ、交易ルートの安全を確保することも重要な目的であった。
さらにルイスは、ネイティヴ・アメリカンの居住地域や人口、諸部族の関係、
言語、風習、生業などを記録するように命じられた。それは主にネイティヴ・
アメリカンとどのような交易が行えるかを調べるためであった。他にも土壌、
動植物、昆虫、鉱産資源、気候にいたるまでありとあらゆる事象を報告するよ
うに綿密な指示をジェファソンはルイスに与えている。
1805 年 11 月 15 日、ルイスとクラークの探検隊は太平洋に到達した。帰途に
入った一行は大統領に面会することを同意したマンダン族の長を伴ってセン
ジェファソニアン・デモクラシー期
271
ト・ルイスに向かった。1806 年 9 月 23 日、一行は長い旅を経てようやくセン
ト・ルイスに帰着した。探検隊は 2 年半をかけて 7,679 マイルを踏破し、日誌、
動植物図、緯度経度の測定記録、地図などの貴重な資料をもたらした。ジェフ
ァソンは他にも探検隊を送り出しているがこのような成功を収めたのはルイス
とクラークの探検隊のみである。ルイスとクラークの探検隊が持ち帰った熊は
ホワイト・ハウス前で檻に入れられて展示された。そのため、ホワイト・ハウ
スはしばしば「大統領の熊園」と呼ばれたという。
第 11 項 ネイティヴ・アメリカン政策
ジェファソン政権でネイティヴ・アメリカンからの土地の買収が積極的に推
進された。ネイティヴ・アメリカンに対してジェファソンは農業に基づく定住
を強く勧めた。未開から文明化するために、ネイティヴ・アメリカンが広大な
土地を要する狩猟を放棄し、それよりも狭い土地で事足りる農業で生計を立て
るようにすれば、余った土地を白人に売却することができ双方の利益となると
ジェファソンは考えていたのである。さらに土地の売却によって手に入れたお
金を農機具や家畜を購入する費用にあてれば、農業をうまく軌道にのせること
ができるとジェファソンは論じている。しかし、当時、既にネイティヴ・アメ
リカンは単なる狩猟採集民族ではなく、広大な地域で農耕を行っていた。
またジェファソンは、交易所でネイティヴ・アメリカンに安価で生活必需品
を供給することを提唱している。それはネイティヴ・アメリカンを懐柔する最
善の方法だと考えられた。それに加えて、ネイティヴ・アメリカンが交易所で
お金を使うようになれば、いずれは借金をするようになり、その結果、容易に
土地の売却に応じるようになるだろうとジェファソンは考えていた。
その一方でジェファソンは、交易所を運営することにより、ネイティヴ・ア
メリカンに害を与えるような交易品を売る商人を排除すべきだとも述
べている。なぜなら交易品の 1 つであった蒸留酒がネイティヴ・アメリ
カンの間で早くから広まり、その過度の使用が、ネイティヴ・アメリカ
ン社会で深刻な社会問題になっていたからである。そのためジェファソ
ンは、ネイティヴ・アメリカンの族長が蒸留酒の禁止を呼びかけた際に
賛同を示している。またジェファソンはネイティヴ・アメリカンに代議制民
主主義を採用し、土地を個々人が所有することで生じる争いを調停する仕組み
272
アメリカ大統領制度史上巻
を作るように勧めている。さらにネイティヴ・アメリカンが州に土地を売却す
る場合、合衆国の調査官が売買に立会い、合意が自由になされたものか、満足
な対価が支払われているか確かめることをジェファソンは保障している。
とはいえ、そのような親密な呼びかけを行いながらもジェファソンは、ルイ
ジアナ購入によってフランスが決して再び帰って来ないことをネイティヴ・ア
メリカンに理解させれば、拠り所を失った彼らがより容易に土地の売却に応じ
るだろうと考えていた。ジェファソンにとって、ネイティヴ・アメリカンを農
業に従事させ、白人に同化・統合させ 1 つの人々にすることがまさに物事の自
然な進歩であり、彼らの安息と幸福のための最終的な目標であった。またネイ
ティヴ・アメリカンがそのように進歩すれば、諸外国の干渉に惑わされること
はなくなるだろうとジェファソンは期待していた。しかし一方で、ネイティヴ・
アメリカンにアメリカが武力で彼らを容易に粉砕できることを分からせること
も必要だとジェファソンは示唆している。つまり、最終的にネイティヴ・アメ
リカンは平和的な統合か、さもなくば軍事的な征服かという選択肢を迫られた。
ジェファソン政権期に推進されたネイティヴ・アメリカン政策により、1802
年にチョクトー族から約 150 万エーカー、1804 年にクリーク族から約 200 万エ
ーカー、同年にスー族とフォックス族から約 5,000 万エーカーが買収された。
1805 年には再びチョクトー族から約 500 万エーカーが買収されている。その他
にもカホキア族、ピオリア族、カスカスキア族、オセージ族などの領地が買収
された。また新たにフランスから獲得したルイジアナについては、人口が多い
海岸部は早期に州として連邦に組み入れる一方で、ミシシッピ西岸はネイティ
ヴ・アメリカンを現住地から移住させる用地にするのが最善の利用法であると
ジェファソンは述べている。この案は後の時代に実現されることになる。
第 12 項 ルイジアナ購入
ジェファソンは連邦政府の役割を制限することを主張していたが、完全な教
条主義者というわけではなかった。ジェファソンが目指していた政府は、人民
の意思をより反映できる政府であった。外交と諸州間の関係においては、中央
政府の権限は積極的かつ効果的に行使されるべきだとジェファソンは考えてい
た。しかし、状況によっては、自らが唱える原理に反することもジェファソン
は厭わなかった。1803 年に行われたルイジアナ購入は連邦政府が外国の領土を
ジェファソニアン・デモクラシー期
273
併合する権限を持っているのかが問題となり、憲法上の疑義を招いた。
1800 年、ニュー・フランス建設を目論んだフランスはルイジアナを秘密裡に
スペインから取り戻した。そうした動きを察知したジェファソンが最も恐れた
ことは、ルイジアナの支配権がフランスからスペインに移ることによって、ミ
シシッピ川の自由航行権とニュー・オーリンズの倉庫使用権を保障したピンク
ニー条約が反古になることであった。1802 年 4 月 18 日、ジェファソンは駐仏
アメリカ公使ロバート・リヴィングストンに、フランスによるニュー・オーリ
ンズ獲得に対して不快感を示し、その代替地を要求するように命じた。
しかし、1802 年 10 月 16 日、フランスへの移管準備が整う前にスペインの監
督官が、ニュー・オーリンズでの荷物積み替えを突如停止したため、アメリカ
の西部は生産品の積み出し港を失う結果となった。リヴィングストンは、これ
はフランスの差し金ではないかと疑った。約 50 万人もの西部の住民の怒りは激
しく、フランスとの戦争を求める声さえあった。上院では、大統領に民兵を召
集し、ニュー・オーリンズを占拠する権限を与える決議が提議された。フラン
スの行動に抗議する多くの文書が出回り、西部の住民の怒りを宥めるためには
ニュー・オーリンズと両フロリダをフランスから購入する以外に根本的な解決
策はないと思われた。
フランスがルイジアナの支配権を確立することで生じる危険性はジェファソ
ンの外交意識を根本から変える問題であった。従来、フランスとアメリカは利
害衝突が少なく、ジェファソンはフランスの成長をアメリカ自身の成長である
かのように歓迎してきた。しかし、フランスがニュー・オーリンズを扼するこ
とはアメリカを公然と無視することに等しかった。それにより、アメリカの国
益が侵され、西部の発展が阻害される恐れがあった。したがって、たとえフラ
ンスとの友好関係を損なう恐れがあっても、ニュー・オーリンズと両フロリダ
の購入を提案すべきだとジェファソンは考えた。なぜなら、もし利害衝突の種
となりかねない両地をアメリカが購入してしまえば、それ以降はすべての諸国
と恒久的な平和と友好が望めたからである。
1803 年 1 月 11 日、ジェファソンはモンローをニュー・オーリンズとウェス
ト・フロリダの購入交渉を行う特使として任命した。その翌日、問題を根本的
に解決するためにニュー・オーリンズの購入を決意したジェファソンは、議会
にその購入代金として 937 万 5,000 ドルを要求した。モンローは詳細な訓令と
条約案を帯同してフランスに渡り、リヴィングストンとともにフランス側と交
274
アメリカ大統領制度史上巻
渉にあたった。モンローに与えられた訓令は、ニュー・オーリンズと両フロリ
ダを購入するためにフランスに 1,000 万ドル以下の価格を提示することであっ
た。もしフランス側がその条件を拒んだ場合はニュー・オーリンズの島に限定
して 750 万ドルの価格を提示する。さらにフランス側がその条件も拒んだ場合
はミシシッピ川の通行権を永久に保障するように求める。さらにそうした提案
がすべて拒まれた場合は、イギリスと緊密な関係を築くために秘密交渉を開始
する。
フランスはサント・ドミンゴで勃発した反乱の鎮圧にほぼ成功したものの、
1802 年の夏から秋にかけての黄熱病の流行で遠征軍は壊滅的な打撃を被った。
それはサント・ドミンゴを足掛かりにしてルイジアナの実効支配に乗り出すと
いうフランスの計画の頓挫を意味した。フランスが反乱鎮圧に手を焼いた結果、
資金に困るだろうというジェファソンの早くからの予想通り、ナポレオンはニ
ュー・フランス建設を断念し、アメリカにルイジアナ全域の売却を提案した。
しかし、フランスとイギリスの戦争が本格的に再開されるまでナポレオンは譲
歩しないだろうとジェファソンは考えていたので、この提案が早々に行われた
ことは予想外の出来事であった。
1803 年 5 月 2 日(4 月 30 日付)、モンローとリヴィングストンはパリでルイジ
アナ割譲条約を締結した。いわゆるルイジアナ割譲条約は主に 3 つの協定から
なる。第 1 に、割譲する領域について、第 2 にアメリカがフランスに 6,000 万
フランを支払うこと、そして第 3 に、合衆国が支払う 2,000 万ドルをフランス
に対して負債を持つアメリカ市民への償還に当てることである。こうした協定
によって現在のアーカンソー州、アイオワ州、カンザス州、ルイジアナ州、ミ
ネソタ州、ミズーリ州、モンタナ州、ネブラスカ州、オクラホマ州、ワイオミ
ング州、サウス・ダコタ州、ノース・ダコタ州にまたがる広大な地域の割譲が
定められた。総面積は約 5 億 3,000 万エーカー(日本の国土の約 5 倍半)に及ぶ。
こうした交渉を成功に導いたリヴィングストンとモンローであったが、もと
もと両者はニュー・オーリンズとウェスト・フロリダの購入のために派遣され
たので、ルイジアナ全域の購入は与えられた指示から逸脱することであった。
つまり、ジェファソンはルイジアナ購入を事前にまったく知らされずに追認し
たことになる。しかし、ルイジアナ全域の購入は、外国への依存と戦争の可能
性を著しく減らすと考えられたのでジェファソンにとって歓迎すべきことであ
った。またルイジアナ購入は東部のネイティヴ・アメリカンを西部に移す計画
ジェファソニアン・デモクラシー期
275
にとっても有利に働くと考えられた。
こうした信念に基づいてジェファソンは特別会期を招集し、上院に条約を提
出した。1803 年 10 月 20 日、上院は 24 票対 7 票でルイジアナ割譲条約を承認
した。翌日、ジェファソンは条約の成立を宣言した。続いて 10 月 31 日にはル
イジアナの獲得を大統領に認める法案が可決された。さらに 11 月 10 日、購入
に当てる公債の発行を認める法案とアメリカ市民のフランスに対する負債の支
払いを認める法案が成立した。そして、翌年 2 月 24 日にはニュー・オーリンズ
でフランスとスペインに特別待遇を与える法案、3 月 26 日にはルイジアナの 2
つの領域に分け暫定政府を樹立する法案が通過した。
連邦党は、ルイジアナ購入を憲法からの逸脱と批判した。連邦政府が外国の
領土を併合する権限を持っているのか。また併合された地域を連邦政府の一存
で将来、連邦に加入するように約束することができるのか。さらに憲法に明記
されていない権限を連邦政府は持っているのかという憲法上の疑義があった。
またジェファソン自身、連邦政府には憲法に明文化された範囲内の権限しか
なく、解釈によって成文憲法を白紙委任状にしてはならないと長らく主張して
きた。ルイジアナ購入は、憲法に規定された範囲内の権限を越える判断であり、
それを中央政府で専権的に行うことは、すなわち強力な中央政府の存在を認め
たに等しかった。またルイジアナ購入は歳出の増加をもたらし、第 1 次就任演
説で約束した「労働者の口から稼いだパンを奪い取らない政府」の実現から遠
ざかる危険性をはらんでいた。ジェファソンは、このような論理的矛盾を解消
する必要があった。
そのためジェファソンは憲法修正を考えていた。それは新しい権限を国民に
求めることで、従来通り黙示的権限は否定しながらも、ルイジアナ購入の合憲
性を遡及的に確かなものにするという方針に基づいている。憲法を恣意的に解
釈して権限の拡大を求めるよりも、憲法修正によって権限の拡大を国民に求め
る道をジェファソンは選ぼうとしたのである。ジェファソンにとって、憲法を
恣意的に解釈することは、権限の無制限な拡大を招く危険性があったからであ
る。
ジェファソンの憲法修正案には、ネイティヴ・アメリカンをミシシッピ川の
向こう側に移住させ、新たに加わった領域のうち北緯 33 度以北は白人の移住を
禁止するという項目が盛り込まれていた。結局、この修正案は提出されること
はなかった。ルイジアナ購入に関して憲法修正は特に必要ないと考えていた閣
276
アメリカ大統領制度史上巻
僚は、もしジェファソン自ら条約に関する憲法上の疑義を明らかにすれば、上
院は条約承認を拒否するかもしれないと危惧したからである。
ジェファソンは、ルイジアナ購入が憲法に規定された連邦政府の権限を越え
る行為であったと認めながらも、後見人が幼い被後見人の将来を思って越権行
為であるのにも拘らず土地を購入する例と同じく、人民の利益を増進させると
いう善良で誠実な動機に基づいているので問題はないと弁明している。
「憲法には我々が外国の領土を保持することに関する条項はないし、まして
や外国の領土を我が連邦に組み入れる条項はない。行政府は、国にとって良い
だろうという一時的な出来事に対処することがあるが、憲法を超えて行動して
いる。立法府は、難解な機微の背後で行動し忠実な召使のようにその身を危険
にさらすが、それを批准し支払いをしなければならず、我々が知るようにそう
する状況の中で彼ら自身がすることを認めていないために彼らの国に彼らの身
を投げ出さなければならない。それは後見人が被後見人のお金を使って重要な
隣接する領域に投資する場合と同じで、被後見人がある年齢に達すれば、私は
これをあなたにとって良いからしたのだと言える。私にはあなたを拘束する権
利はないし、あなたは私を否認するかもしれないし、私は苦境から脱しなけれ
ばならない。私自身をあなたのために危険にさらすことは私の義務だと思うだ
けである。しかし、憲法の線引きを強くすることによって、我々が国から否認
されることもなく、それらの行動の免責が確定され、憲法を弱めることもない
だろう」206
それでもルイジアナ購入はジェファソンにとって憲法を裂けるまで引き伸ば
すことであった。また、もしアメリカが憲法の修正なしでルイジアナを獲得す
ることが難しければ、ナポレオンが考えを変える可能性があるという報せも届
いていた。そのためルイジアナ獲得の承認を急ぐ必要があった。結局、ジェフ
ァソンは憲法を修正することを諦めた。1803 年の一般教書でジェファソンはル
イジアナ購入について以下のように報告している。
「連邦議会は前会期に、ニュー・オーリンズにおける我が国の倉庫使用得権
が停止され、その代わりの土地も条約上、まったく指定されなかったことから
生じた人心の異常な興奮状態を目の当たりにした。この権利の喪失状態が続く
ことは、どのような形式の補償から生じるどのような結果よりも、我が国にと
って有害であることに議会は気付いていたが、官吏が間違いを犯しただけで、
政府の誠意には公正な信頼を置いていたし、友好的で合理的な抗議がなされた
ジェファソニアン・デモクラシー期
277
ので、倉庫使用権は回復された。しかしながら、西部地方の通商にとって極め
て重要な要所が外国勢力の支配下に置かれている限り、我が国の平和が恒久的
に危険にさらされていることを、我々が現時点よりも前に知らなかったわけで
はない。我が領土内にその源を発し、領土の隣接地域を通って流れる他の河川
の航行に関しても、困難な問題が生じている。そこでニュー・オーリンズと我
が国の平穏に関係があるその周辺の獲得可能と思われる広さの領土の主権を、
公正な条件で獲得するための提案が正式に認可され、
合衆国大統領によって 200
万ドルの暫定支出が申請され計上された。それは支払額の一部として予定され
たもので、領土獲得の提案を連邦議会が認可したことを意味するものと見なさ
れた。明敏なフランス政府は、米仏両国の平和と友好と利益を最も良く恒久的
に促進するような寛大な協定が、両国にとっていかに重要であるかを正確な洞
察力で以って見抜いた。そして、フランスが取り戻していた全ルイジアナの資
産と主権は、先の 4 月 30 日付の公文書によって、一定の条件に基づいて合衆国
に移譲された。この文書が上院の憲法上の認可を受けると、憲法によって連邦
議会に付与された権限内の諸条件に関して、下院の職分を遂行するために、遅
滞無く下院に伝達されることになる。ミシシッピ川とその支流の流域の資産と
主権を確保すれば、諸外国との衝突や我が国の平和に対する水源からの危険の
憂いのない西部諸州の生産物の独自の出口と、上流から河口までの自由航行が
保障され、この地域の肥沃さ、気候と広さは、時節が来れば、我が国庫への重
要な税収入と、子孫のための豊富な食糧供給と、自由と平等な法の祝福を及ぼ
す広がりを約束する。次のことに必要な今後の措置を連邦議会が取るか否かは、
その叡智にかかっている。すなわち、このルイジアナ地方を即座に占有し、暫
定政府を樹立すること、同地方を連邦に併合すること、政府の変更が新たに迎
え入れた我々の仲間にとって恩恵になるようにすること、その仲間に対して良
心の権利と財産権を保障すること、インディアンに対して土地の占有と自治を
確認し、彼らとの友好的な通商関係を構築すること、そして獲得した領土の地
理を探索すること、以上である」207
ルイジアナのような広大な領域を組み入れることは連邦政府にとってまった
く初めての試みであった。ルイジアナにはネイティヴ・アメリカン以外の住民
も既に居住していた。その中心地であるニュー・オーリンズは早くも 1718 年に
フランスによって建設されている。そうした住民をどのようにして連邦政府の
管理下に置くかは難しい問題であった。これまでスペインやフランスの支配下
278
アメリカ大統領制度史上巻
で享受してきた特権を奪われることで住民が反発する恐れがあったからである。
彼らの反発を招く点は次のような点であった。第 1 に、海外からの奴隷輸入が
禁止されたこと、第 2 に、アメリカの司法制度に不慣れなために、訴訟に莫大
な経費がかかるのではないかという不安があること、第 3 に、土地登記が不明
確な土地を取り上げられるのではないかという疑念であった。
ルイジアナの住民の不安を解消するためにジェファソンは基本的権利を認め
たものの、当初は代議制の導入を認めなかった。代議制の導入には時期尚早で
あると考えたためである。しかし、後にジェファソンは考えを改め、代議制の
導入を認めている。その一方で、ルイジアナの安定化のために軍隊の配置も行
われた。そのためにジェファソンは常備軍の増員も検討している。またジェフ
ァソンは、ルイジアナの一部に居住を限り、残りは東部のネイティヴ・アメリ
カンを移転させる居留地として用いるように提案している。しかし、この案は
ほとんど実現することはなかった。結局のところ、ルイジアナの組み入れによ
って西部への入植が促進されたことは事実である。ジェファソンの見積もりに
よると、1805 年には約 10 万人が西部に移住している。こうした西部の人口増
加は、後々の政治的均衡の変化の契機となった。
第 13 項 フロリダ問題
ルイジアナ獲得は利害衝突の種をなくすように思われたが、スペインとの間
に新たな問題を引き起こした。何故ならルイジアナの境界をめぐってアメリカ
とスペインの見解が異なっていたからである。さらにアメリカは、スペインが
両フロリダもフランスに割譲していたと見なしていた。それに対してスペイン
側は 1800 年にルイジアナをフランスに割譲した際に、その部分は含まれていな
かったと主張した。
連邦議会は 1804 年 2 月 24 日、モービル法を制定することでフロリダ問題に
対応した。同法は、メキシコ湾とミシシッピ川の東側に注ぐ河川に対して徴税
区を規定する権限を大統領に認めるものであった。5 月 20 日、ジェファソンは
同法に基づいて、帰属が必ずしも明確ではない領域に新たな徴税区を画定した。
それは実質的にウェスト・フロリダをアメリカに組み入れることを意味してい
た。
ジェファソンは、もしナポレオンがスペインを完全に屈服させることができ
ジェファソニアン・デモクラシー期
279
れば、将来、必ずフロリダをアメリカの中立を購うために差し出すだろうと考
えていた。アメリカ政府はモンローとチャールズ・ピンクニーを通じてスペイ
ン政府と交渉に臨んだが、スペイン政府は、ウェスト・フロリダに対するアメ
リカの要求とイースト・フロリダ購入の申し出を拒絶した。
ジェファソン政権はフランスを通じてフロリダ問題を解決することを決定し
た。フロリダにおいてスペインと同じくフランスにも同等の通商上の特権を与
えることで支援を受けようと考えたのである。1805 年 11 月 19 日、ジェファソ
ンはフランスに仲介を求める条件を閣議に諮った。条件を検討した閣僚は、大
筋でフランスに仲介を求めるべきだという結論を下した。さらにジェファソン
は、12 月 3 日の一般教書と同月 6 日の特別教書でフロリダ問題に関する方針を
議会に示した。1806 年 2 月 13 日、議会はフロリダ購入に当てるために 200 万
ドルの予算を認めたが、購入は実行に移されなかった。結局、フロリダ問題は
ジェファソン政権時代には解決せず、最終的な決定は後の時代に持ち越された。
第 14 項 議会を主導する大統領のリーダーシップ
行政府の権限に関する異なった見解が、連邦党と民主共和党の中心的な争点
であった。連邦党は大統領に広範な権限を与えようとし、議会の行政府に対す
る侵害、特に外交分野での侵害を警戒し、大統領に対する議会の抑制を最小限
にしようとした。それに対して、民主共和党は、重大な決定は人民を代表する
議会がなすべきだと信じていた。また内政だけではなく外交についても大統領
の自由裁量権を制限すべきだと民主共和党は考えていた。ジェイ条約をめぐる
争いにおいて、民主共和党は、条約を執行する予算を拒否することで、下院に
外交政策に関して実質的な拒否権を持たせようとした。民主共和党が与党とな
ることで、大統領の行動に重要な変化がもたらされると予期された。しかし、
民主共和党は、大統領から行政権を完全に取り上げることは連邦政府を実質的
に無能にすることを悟った。ジェファソンはギャラティン財務長官の助けを得
て、ハミルトンがワシントン政権下で行ったように国内政策を統御した。実際、
ジェファソンは、出港禁止政策を遂行するために、かつて大統領に与えられた
中でも最も強力な権限を議会から獲得した。ジェファソンは、民主共和党内の
反対派から専制の証だと非難されながらも、そうした権限を積極的に行使した
208。行政府の権力を積極的に行使するという点で民主共和党政権は連邦党政権
280
アメリカ大統領制度史上巻
とほとんど変わらなかった。
しかしながら、1800 年の革命は大統領と人民の関係において重要な変化をも
たらした。ジェファソンの前任者であるワシントンとアダムズは、大統領の権
限は憲法に由来すると信じていた。その一方でジェファソンは前任者の見解を
完全に否定はしなかったものの、大統領が強力なリーダーシップをとれるかど
うかは人民の愛着の有無によると考えた。ジェファソンは第 1 次就任演説で、
民主共和党の計画が制定されたのは、1800 年の選挙で人民の多数が民主共和党
を支持したからであると述べている209。
ワシントンとアダムズは人民からある程度の距離をとり、議会における党派
や利害の衝突を緩和するのが大統領の役割だと考えていた。しかし、ジェファ
ソンは、議会と距離を置くよりも議会を通じて政府を主導する方法が最も効率
的かつ責任ある方法だと信じていた。独立した行政府の主導を必要とするハミ
ルトンの強力な大統領職の概念と違って、ジェファソンの大統領職の概念は、
民主共和党の政権構想を実現するために党首という立場を利用して政府内の各
府を協働させるものであった。
ジェファソンは議会を主導するリーダーシップを強力に発揮した。ジェファ
ソンは財務長官を通じて議会の委員会に議案を送付した。委員会の委員の配属
にジェファソンは強い影響力を及ぼした。議会で代弁者を務める議員を積極的
に使ってジェファソンは行政府と立法府を積極的に橋渡ししようとした。それ
はワシントンやアダムズには見られなかった試みであった。両院の院内総務は、
行政府の議案を法制化するにあたり立法過程を指導し、監督するために大統領
の要請によって制度化された。しかも、議員の党幹部会は、党員を支配し、立
法過程を円滑に進める手助けをした。またジェファソンは晩餐会を議員達と個
人的な繋がりを持つ有効な手段として作用した。そうした繋がりはジェファソ
ンが議会に影響力を及ぼすのに役立った210。ジェファソンのリーダーシップは
必ずしも公然としたものではなかったが、連邦党はジェファソンがカーテンの
陰から思うがままに民主共和党の議員を操っていると批判した211。強力な行政
府に反対し、立法府は行政府の影響力から自由になるべきだと主張した民主共
和党が、これまでにない程の影響力を立法府に及ぼす大統領を生み出したのは
皮肉なことである。大統領制度が弱体であったためにジェファソンはそうした
手法に頼らざるを得なかったのである。
ジェファソンは人民と大統領の関係を緊密にしようとしたが、民主党政権期
ジェファソニアン・デモクラシー期
281
において人民の意思を基盤とした大統領のリーダーシップには限界があった。
民主共和党の大統領達は、議会における立法の見返りとして官職任命権やその
他の恩典を利用しようとはしなかった。それは民主共和党の目からすればイギ
リスの政治制度の悪しき伝統であり、容認できることではなかった。1829 年ま
で大統領達は連邦政府の官職任命権を党の統一や法を制定する手段としてほと
んど使うことはなかった。実際に、ジェファソン政権の最初の 2 年で人事異動
の対象となった連邦の公職は 3 分の 1 にとどまった。大統領が人民に直接訴え
かけることは尊敬すべきことではないと考えられていた。20 世紀まで、大統領
達は人民の意思を基盤としたリーダーシップを、議会や州政府における政党の
影響力を通じて間接的に駆使した。
例えばジェファソンは、議会の民主共和党の指導者に対する影響力を駆使し
て出港禁止法を制定させたが、出港禁止に関する議論を直接人民に問うことは
なかった。民主共和党の指導者達は陰から大統領の指示を受けていたが、ジェ
ファソンは国民に対しては沈黙を守った212。それは大統領が直接世論に影響を
及ぼすことを禁じた慣習に沿ってのことであった。
第 15 項 アーロン・バーの反逆計画
ジェファソンはバーの反逆を抑えようとした。バーは 1800 年の大統領選挙で
ニュー・ヨーク州を民主共和党支持に塗り替えることに成功し、ジェファソン
の勝利に貢献した。しかし、ジェファソンはその後、バーを顧みることなく、
1804 年の大統領選挙でバーは副大統領候補から下ろされた。その一方で、影響
力の低下を恐れたニュー・イングランドの強硬な連邦党員は、ルイジアナ購入
によって連邦内の勢力均衡が崩された結果、もはや独立当初から存在している
州は連邦に忠誠を尽くす必要はないと考えて北部連合を形成し、連邦から分離
する計画を立て始めた。そうした強硬な連邦党員はバーに接近した。バーは副
大統領職を諦める代わりに、連邦党の支援を得て民主共和党の公認候補に対抗
してニュー・ヨーク州知事選挙に出馬することを決意した。バーは、もしニュ
ー・ヨーク州知事に当選すれば北部連合に参加することを連邦党と密約した。
その一方で連邦党はバーを北部連合の大統領に据えることを約束した。密約を
知ったハミルトンはバーの企みを阻んだ。その結果、連邦党員の陰謀は瓦解し
た。
282
アメリカ大統領制度史上巻
それでも猶、バーは陰謀をめぐらせることを止めなかった。バーの陰謀は、
西部をアメリカから分離させ、さらにスペイン領メキシコを征服してニュー・
オーリンズを首都とする新たな国家を建設する陰謀であったと言われている。
また駐米イギリス公使に資金援助と軍事支援と引き換えに西部で反乱を起こそ
うと申し出たとされる。
かねてよりジェファソンはバーの動きを警戒していた。陰謀の確証を得たジ
ェファソンは 1806 年 11 月 26 日に、
メキシコに対して軍事遠征を行おうとする
者を逮捕する布告を発した。この布告はバー一味を対象とし、反逆罪に問うも
のであった。そして、12 月 2 日の第 6 次一般教書でもスペイン領に対する軍事
的遠征を企てる首謀者と扇動者を逮捕すると警告している。それに加えて 1807
年 1 月 22 日、ジェファソンは特別教書を議会に送付している。特別教書の中で
ジェファソンはバーを西部地方を扇動する陰謀の首謀者として名指しで非難し
ている。また 2 月 3 日、ジェファソンは、オーリンズ準州長官ウィリアム・ク
レイボーン(William C. C. Claiborne) に、公の治安を維持するために、一連の
バーの行動に対して超法規的措置で対応するように求めている。1807 年、バー
は、1806 年 12 月 10 日から 11 日にかけてブレナーハセット島に私兵を集結さ
せ、ニュー・オーリンズ占領を計画し、さらにスペイン領メキシコへの軍事遠
征を企てた罪状で告訴された。バー裁判と呼ばれる一連の裁判は、予審、起訴
審理、反逆罪公判、軽罪公判からなり、ヴァージニア州リッチモンドの連邦第 5
巡回裁判所で行われた。
首席判事は連邦最高裁長官マーシャルが務めた。マーシャルは憲法第 3 条第 3
節 1 項の「合衆国に対する反逆罪を構成するのは、ただ合衆国に対して戦いを
起こし、あるいは敵に援助および助力を与えてこれに加担する行為に限る」と
いう規定にバーは該当しないという判断を示した。9 月 1 日、陪審団はマーシャ
ルの判断を受け入れ、バーの有罪を立証できないとして無罪を宣告した。続い
て軽罪についても 9 月 15 日、陪審団は無罪を宣告した。
有罪宣告が下されることを強く望んでいたジェファソンは、バーの無罪宣告
について連邦派のマーシャルが政治的意図で憲法を曲解したと見なした。しか
し、1807 年 6 月 10 日に証人として出廷するように要請された時、ジェファソ
ンは出廷を拒否している。なぜなら大統領は国事を優先すべきであり、憲法上
の義務を差し置いてまで命令に応じる必要はないとジェファソンは考えていた
からである。これは、大統領の職務が一般法の規定に優先するという前例とな
ジェファソニアン・デモクラシー期
283
った。
第 16 項 奴隷貿易の禁止
ジェファソン政権の下で奴隷貿易の禁止が定められた。
1807 年、
連邦議会は、
「現在の諸州中のどの州にせよ、入国を適当と認める人々の来住及び輸入に対
しては、連邦議会は 1808 年以前においてこれを禁止することはできない」とい
う憲法第 1 条第 9 節に基づき、奴隷貿易禁止法を制定した。条項の中の「人々」
という言葉は奴隷を示している。
法律が制定された結果、
1808 年 1 月 1 日以降、
奴隷の輸入が禁止された。
第 17 項 出港禁止法
ジェファソンは出港禁止法を制定することでアメリカの中立を維持しようと
したが、政権を深刻な危機にさらした。ヨーロッパではフランスとイギリスが
中心となって戦いを繰り広げていた。イギリスとフランスがお互いの商船を攻
撃しあったので、西インド諸島とヨーロッパの交易の大半がアメリカの手に帰
した。アメリカの造船と交易は急速に拡大した。船員の需要が増す中で、アメ
リカ商船ではイギリス船から脱走してきた船員を多く雇用していた。ギャラテ
ィン財務長官の見積もりでは、年間 4,200 人の船員の需要拡大に対して、2,500
人がイギリス人脱走者であった。
船員不足は深刻な戦力低下をもたらすので、船員の確保はイギリスにとって
国家の存亡に関わる最重要課題であった。イギリスはアメリカ船を臨検して脱
走した疑いがある者を強制徴用するだけではなく、脱走者を強制徴用から保護
するためにアメリカ市民であることを証明する文書を交付しないようにアメリ
カ政府に求めた。さらにイギリスはエセックス号事件で、敵国の港を出た中立
国の船舶が一旦、中立国の港に立ち寄った後、敵国の別の港に向けて航行を行
う場合、その船舶は連続した航海を行っていると判定され、したがって拿捕の
対象となると主張した。その主張に基づいて拿捕されるアメリカ船舶は急増し
た。フランスとイギリスの交戦により、1804 年から 1807 年にかけて 1,500 隻
のアメリカ船が拿捕され、数千人のアメリカ人がイギリス海軍で働かされた。
1806 年 4 月 18 日、議会がイギリス製品の輸入を規制する輸入拒否法を可決
284
アメリカ大統領制度史上巻
した一方で、モンローに加えてウィリアム・ピンクニー(William Pinkney)がイ
ギリスに派遣され、従来通りの通商、強制徴用問題の解決、そしてアメリカ船
舶の損害に対する賠償請求に当たることになった。1806 年 12 月 31 日、モンロ
ーとピンクニーはイギリスと通商条約を締結した。1807 年 3 月 3 日、両者から
条約案を受け取ったジェファソンは、それを上院に提出しないことを決定した。
強制徴用の停止を定めた条項が含まれなかったためである。閣僚も強制徴用の
停止が含まれない条約は何の意味がないという見解で一致していた。
事態は好転するどころか、さらに事態を悪化させる事件が起きた。1807 年 6
月 22 日、イギリス艦レパード号が、ノーフォーク沖で臨検を拒否したアメリカ
軍艦チェサピーク号に発砲したという事件である。その結果、3 人のアメリカ人
が死亡し、4 人が強制徴用された。国民はチェサピーク号事件を知って激昂した。
もしジェファソンが議会の特別会期を招集し、宣戦布告を求めていたら開戦に
至っていたであろう。
しかし、ジェファソンはあくまで冷静な措置をとろうと努めた。閣僚と協議
した翌日の 7 月 2 日、ジェファソンはイギリス海軍の国内港立ち寄りと物資の
補給を禁じる布告を発令した。さらに、万が一、戦争が起きた時に備えるため
に、地中海に派遣されていた艦船が呼び戻され、小型砲艦を建造するための資
材とその他の軍需品の購入が手配された。さらに、ハンプトン・ローズのイギ
リス艦隊がノーフォークやその他の町を攻撃する可能性に備えて、ジェファソ
ンはヴァージニア州知事に 10 万人の民兵を臨戦態勢に置くように命じた。
しかし、それでも戦備は決して十分ではなかったので、ジェファソン政権は
さしあたって国内世論の激化を抑え、イギリスに謝罪と補償の機会を与え、連
邦議会に宣戦布告するか否かを判断させる猶予を与えることにした。ジェファ
ソンは戦争の回避を望んでいた。しかし、2 度にわたって発効が延期されていた
輸入拒否法が 1807 年 12 月 14 日に発効した。さらにイギリス政府が海軍士官
に中立国の商船からイギリス人船員を強制徴用することを認めたという報せが
届いた。フランスからはナポレオンがベルリン勅令をアメリカにも適用するこ
とを決定したという急信が届いた。
こうした事態を踏まえてジェファソンは閣議を招集し、出港禁止の是非を問
うた。閣僚は全会一致で出港禁止が適切な策であると認めた。ジェファソンは
議会への勧告の起草をマディソンに任せた。ジェファソンの勧告に従って、1807
年 12 月 18 日、上院は 22 票対 6 票で、続いて 22 日に下院は出港禁止法を 82
ジェファソニアン・デモクラシー期
285
票対 44 票で通過させた。それは、実質上の全面的輸出禁止措置である。その目
的は第 1 に、アメリカ船が拿捕されるのを防ぐことである。第 2 に、アメリカ
からの輸出を途絶させ、フランスとイギリスに平和的な強制として経済制裁を
課し、中立国の権利を尊重させることである。またアメリカ自体が戦争に巻き
込まれることを防止する目的もあった。ジェファソンにとって出港禁止法は建
国後まもない脆弱な共和国を守るために必要な手段であった。
出港禁止法には 4 度にわたって補則が追加された。1808 年 1 月 9 日、出港禁
止法第 1 次補則が成立した。それは、違反の通報者に罰金の半額を与えること
によって密輸の取締りを強化する内容であった。1808 年 3 月 12 日、第 2 次補
則が成立した。陸輸による密輸の阻止の強化を主な目的とする。ただし海外か
ら国内へアメリカの資産を輸送することが条件付で許可された。さらに 1808 年
4 月 25 日、
第 3 次補則が成立した。
密輸の疑いがある船舶に対して臨検を行い、
拘留することを規定した補則である。同月 19 日には、米加国境地帯で頻発する
密輸に対して、ジェファソンはシャンプレーン湖地域が反乱状態にあると宣告
している。そして最後に 1809 年 1 月 9 日、第 4 次補則(ジャイルズ法)が制定さ
れた。それは外国の港に出荷される疑いがある船荷を連邦政府当局が発見した
場合、令状なしで押収することが認められた。さらに出港禁止法の施行に関し
て必要となれば軍隊を用いることを認める補則であった。法の執行のために海
軍を配置することで前例のない程、権限が大統領に集中した。それは不合理な
捜索や押収を禁じる憲法修正第 4 条に違反し、アダムズ政権下で制定された外
国人・治安諸法に匹敵する措置であった。これは、アダムズ政権下で外国人・
治安諸法に反対することで市民的権利の擁護を標榜してきた民主共和党にとっ
て、その信念を揺るがせかねない措置であった。大統領を退任した後、ジェフ
ァソンは次のように手紙で述べている。
「成文法の厳格な遵守は明らかに善良な市民の重要な義務であるが、最も重
要な義務ではない。必要性に応じた法、自己保全のための法、危機の時に国を
守るための法に従うほうがより重要な義務なのである。成文法に厳格に固執す
ることで我が国を失ってしまうことは、生命、自由、財産、そして我々が享受
しているものとともに法自体を失ってしまうことである。したがって手段のた
めに目的を犠牲にすることは馬鹿げている」213
出港禁止法に対して多くの国民が激しく反発した。特にニュー・イングラン
ド地方の商工業者は、民主共和党が連邦党を処罰するために出港禁止法を強い
286
アメリカ大統領制度史上巻
ていると反発した。ボストンの市民は集会を開いて、出港禁止を強制する者は
憲法の敵と人民の自由の敵であるという決議を採択した。多くの船が何の許可
もなく出港した。シャンプレーン湖を通じて農民達は関税吏の監視を潜り抜け
て農作物を輸出した。また市場を失った農産物の価格が低迷したために、ヴァ
ージニア州オーガスタ郡の自由土地保有者達は、出港禁止が撤廃されなければ
破産し、その結果、内戦に突入するだろうと警告した。このようにジェファソ
ン政権に対する非難が高まり、各地から出港禁止法の撤廃を求める請願が相次
いだ。また出港禁止法はジェファソン政権の予想に反して交戦国にほとんど影
響を与えることなく、アメリカ商船を保護することもできず、それどころか却
ってアメリカの威信を貶める結果をもたらした。
1809 年 3 月 4 日、出港禁止法は下院において 76 票対 40 票で撤廃された。議
会が出港禁止法を撤廃する代わりに、フランスとイギリスを除く諸国との貿易
再開を決定したからである。フランスとイギリスに対しては、アメリカの中立
の権利を認めるまで輸入と船舶の入港を禁止することが定められた。ジェファ
ソンは議会の決定に従い、3 月 1 日、禁輸法に署名した。
多くの歴史家は、出港禁止法は、目的は崇高であったが、実施方法で失敗し
たと評価する。また市民的自由を損なう恐れがあったという指摘もある。しか
し、国際紛争を解決するために経済制裁という平和的手段を用いようとした点
を評価する論者もいる。ただ結果的に、経済制裁でイギリスやフランスに与え
る影響よりも、自国の経済が被る損害のほうがはるかに大きいという無視でき
ない短所があった。
ジェファソンの出港禁止政策の失敗は、大統領の権限の限界を示す最初の顕
著な例となった。またそれは民主共和党とジェファソンに対する打撃であった
だけではなく、大統領の影響力の低下の始まりであった。ジェファソン以後の
民主共和党の大統領職は、民主共和党の正統派が示したような憲法で制限され
た役割を果たすように縮小された。
第 18 項 結語
連邦党と同じくジェファソンは大統領の権限の必要性を理解した。しかし、
ジェファソンは大統領制度を人民の支配に合致するように作り変えた。ジェフ
ァソンは、国政を担うのは国民の大多数ではなく優れた少数の人々であるとい
ジェファソニアン・デモクラシー期
287
う連邦党の信念を突き崩した。大統領として広範な自由裁量権を行使する代わ
りに、ジェファソンは、議会によって形成され、選挙によって認められた政党
の綱領を実行しようとした。ワシントンとアダムズとは違って、ジェファソン
は大統領職の憲法上の権限を強調することなく、憲法に明記されていない政党
の指導者として統治を行った。ジェファソン政権は、議会で統制のとれた政党
組織の発展を促し、大統領は自らの政策を推進するために議会の指導者に頼る
ようになった。大統領の影響力の源は党幹部会である。党幹部会は連邦党によ
って作り出されたが、より効果的な形にしたのは民主共和党である。ジェファ
ソン政権期、行政府と立法府の指導者達が党幹部会を開き、政策を形成し、党
の統一を促した。党幹部会で重要な役割を果たしたのがギャラティン財務長官
であり、時には大統領自ら党幹部会を主宰することもあった。ジェファソンは、
政府内に高度に中央集権化された政党を築き上げたが、厳しい政治的な手法で
はなく、会合や自由な議論を通じて政党は運営された214。政党の発展は、大統
領と議会の関係を劇的に変化させた。もし議会の指導者が政党を支配すること
ができれば、行政府を支配することもできると考えられた。ジェファソンが大
統領職を去った後、それは現実になった。大統領のリーダーシップを発揮する
ために築き上げた政党は、議会に有利に働くようになった。皮肉にも、ジェフ
ァソン自らが長らく主張してきたように大統領職の役割が制限されるようにな
るのはジェファソン政権後であった。
第 2 節 マディソン政権
第 1 項 概要
ジェームズ・マディソン(James Madison)は 1751 年 3 月 16 日(ユリウス暦で
は 1750/51 年 3 月 5 日) 、ヴァージニア植民地キング・ジョージ郡ポート・コ
ンウェイで生まれた。12 人中(早逝・死産を含む)最初の子供であった。父は同
植民地オレンジ郡に約 2,850 エーカーのモンペリエという農園と奴隷を所有し、
タバコ、小麦、トウモロコシなどを栽培していた。マディソンは身長 5 フィー
ト 4 インチ(約 163 センチメートル)、体重 100 ポンド(約 45 キログラム)と歴代
大統領の中で最も小柄で、
「棒石鹸の半分より大きくない」と友人達から評され
た。また「小さなジミー」とも呼ばれていた。独立戦争時、マディソンは大陸
会議と連合会議にヴァージニア代表として参加した。マディソンの最大の功績
288
アメリカ大統領制度史上巻
は、1787 年に行われた憲法制定会議で各邦の意見を調整して憲法案を妥結させ
たことである。それ故、
「憲法の父」と呼ばれる。憲法批准を実現するために古
典的名著である『ザ・フェデラリスト』の執筆に加わった。大統領としてマデ
ィソンは 1812 年戦争でイギリスと戦火を交え、戦況はしばしば不利であったが
在任中に何とか講和にこぎつけた。
第 2 項 大統領選挙
大統領の影響力の低下はマディソン政権下で顕著であった。マディソンが大
統領職を務めた間、主要な機構上の発展により行政府から立法府に権限が移っ
た。そうした発展の 1 つが、党幹部会である。議員が主体となった党幹部会は 1
つの独立した権力の源泉となった。1800 年と 1804 年の党幹部会によるジェフ
ァソンの大統領候補指名は既定の結論に沿っただけであったが、1808 年の大統
領候補指名はそうではなかった。ジェファソンと多くの民主共和党員はマディ
ソンが後継者であることに何の疑いも持っていなかった。マディソンは民主共
和党の共同創設者であり、15 年来、その指導者を務めてきたので資格は十分と
言えた。また 1805 年 1 月頃に既にジェファソンはマディソンを後継者に指名し
ていた。
しかし、ジェファソン政権の 8 年間で党内に亀裂も見られるようになってい
た。ニュー・ヨーク州やペンシルヴェニア州といった州の民主共和党員は公職
に対する不満や地域的利害から現副大統領ジョージ・クリントンを擁立した。
その一方で、ジェファソン政権の政策に不信感を抱いたヴァージニア州、ノー
ス・カロライナ州、ジョージア州を中心とする保守派はモンローを支持した。
1808 年 1 月 23 日、民主共和党の党幹部会が開催されたが、149 人の招待者
の中で出席したのは 89 人であった。その場でマディソンは 83 票を得て大統領
候補として公認され、クリントンが 79 票を得て副大統領候補に選出された。大
統領選挙は 1808 年 12 月 7 日に行われ、175 人の選挙人(17 州)が票を投じた。
マディソンは 12 州から 122 票を得た。勢力を弱めていた連邦党はニュー・イン
グランド以外の州ではほとんど勝利を収めることはできなかった。マディソン
が支持を獲得するために民主共和党議員と交わした多くの約束は、大統領を議
会に従属させる結果をもたらした。1812 年の大統領候補指名でも、マディソン
が党内のタカ派議員にイギリスとの戦争を確約するまで候補指名の獲得が遅れ
ジェファソニアン・デモクラシー期
289
た215。
第 3 項 政治的影響力の低迷
1808 年の大統領選挙でマディソンは勝利を収めたものの、出港禁止法が不評
であったために、ニュー・イングランド諸州での支持を大幅に失っていた。ま
た民主共和党内の分裂により、マディソンはジェファソンと違って議会に対し
て十分な指導力を発揮できなかった。マディソンもモンローも、そしてジョン・
クインジー・アダムズもジェファソンが議会に及ぼしたような影響力を行使す
ることはできなかった。
党内の調整を図るためにマディソンは、思うように閣僚人事を決定すること
ができなかった。例えば閣僚の中で最も要職である国務長官についてもマディ
ソンの希望に沿う人選ではなかった。もともとマディソンはジェファソン政権
で財務長官を務めたギャラティンを国務長官に指名しようと考えていた。しか
し、上院で大きな影響力を持っている民主共和党の一派がギャラティンの国務
長官就任に反対を唱えた。そこでマディソンは妥協案を提示した。つまり、ジ
ェファソン政権で海軍長官を務めたロバート・スミス(Robert Smith)を財務長官
に任命することと引き換えにギャラティンの国務長官就任を認めさせようとい
う提案である。
しかし、この案に対してギャラティン自身が反対したために、結局、マディ
ソンはギャラティンを財務長官に留任させる一方で、スミスを国務長官に指名
せざるを得なかった。スミスは事あるごとにマディソンの方針に難色を示し、
ギャラティンと対立した。それだけではなく国務長官としての役割を十分に果
たさなかったので、マディソン自ら国務長官の職務を果たさなければならない
程であった。
ギャラティンとスミスの対立は閣内と議会を巻き込んでさらに激化した。遂
にマディソンはギャラティンとスミスのどちらかを選択せざるを得なくなった。
ギャラティンはマディソンに辞表を提出した。しかし、マディソンはギャラテ
ィンの辞表を受理せず、スミスを罷免することを選んだ。スミスの罷免は後援
者達の離反を招いた。スミス一派はメリーランド政界、ヴァージニア政界で大
きな影響力を持っていたのでマディソンにとってその離反は大きな痛手であっ
た。そのためにモンローが後任の国務長官に選ばれた 1 つの理由として、ヴァ
290
アメリカ大統領制度史上巻
ージニア政界での影響力の回復が挙げられる。しかし、その後もモンローと陸
軍長官ジョン・アームストロング(John Armstrong)の確執が深刻な問題となっ
た。
また出港禁止法撤廃後にマディソンはナポレオン戦争の最中にあるヨーロッ
パ諸国と衝突しないように務めなければならなかったが、こうした政治的影響
力の低迷は選択の幅を狭める結果をもたらした。さらに共和主義を尊重する政
治哲学の故に、危機が迫ってもマディソンは平和時に陸海軍の大幅な拡充を図
らず、非常時大権を握ることもなかった。ギャラティンの卓越した財政的手腕
と、憲法の父にして民主共和党の生みの親という大統領自身の権威によって、
マディソン政権は混沌に陥るのを辛うじて免れた。
下院議長に就任したヘンリー・クレイの活躍が、さらに議会に対する大統領
の影響力を減退させた。クレイが下院議長に選ばれるまで、下院は何人かの指
導的な議員によって主導され、下院議長は彼らの仲裁役を務めるのが慣例であ
った。クレイはそうした慣例を劇的に変えた。クレイはイギリスとの戦争を強
力に推進した。マディソン政権が終わるまで、国政の主導権はクレイとその協
力者の手に握られた216。クレイの指導の下、下院は常設委員会の数と影響力を
増やすことによって立法府の広範な責務を果たす能力を強化した。民主共和党
の指導者によって調整された委員会活動によって、下院は効率的な立法組織と
なった。1811 年から 1825 年までクレイはアメリカの中で最も影響力のある人
物であった。マディソンはクレイを閣僚に招き入れようとしたが、クレイはマ
ディソンの求めを拒絶し、下院議長として国政を主導することを選んだ。
第 4 項 禁輸措置の改廃
アメリカの中立国としての権限を守るためにジェファソン政権が制
定した出港禁止法は政権末期に既に撤廃されていた。その代わりに議会は
禁輸法を制定し、フランスとイギリスを除く諸国との貿易再開を決定していた。
さらに同法はフランスとイギリスに対して、アメリカの中立の権利を認めるま
で輸入と船舶の入港を禁止することを規定していた。
1809 年 4 月、駐米イギリス公使デイヴィッド・アースキン(David
Erskine)は本国からアメリカとの和解を試みるように指令を受けた。ア
ースキンは早速、そのことをスミス国務長官に伝え、チェサピーク事件
ジェファソニアン・デモクラシー期
291
の補償と強制徴用された船員の返還を申し出た。さらに 1809 年 6 月 10
日に枢密院令が解かれ、本国から通商友好条約を締結するための特使が
派遣されるとアースキンは述べた。交渉の結果、4 月 18 日に中立貿易の
尊重を謳った覚書が取り交わされた。
この協定に基づいてマディソンは、6 月 10 日にイギリスとの通商を再
開することを布告した。貿易再開の報せに国中は沸きかえった。イギリ
スとの協定成立を確信したマディソンは、フランスに対する通商規制を
続ける一方で、イギリスに対する通商規制を完全に解くように議会に求
めた。しかし、イギリスとの和解への期待は裏切られることになった。
1809 年 5 月 30 日、イギリス外相が協定内容を認めず、アースキンを越
権行為で解職したからである。もしこの時、イギリス外相がアースキン
の方針を認めてればその後の戦争は起きなかったかもしれない。その報
せを受けたマディソンは 8 月 9 日、再び禁輸措置を復活させた。アース
キンとの協定が失敗に終わった後、マディソンは議会に海軍の拡張と 2 万人の
志願兵を募る予算を求めたが、議会はそれを拒絶した。それどころか議会は既
にジェファソン政権で縮小されていた海軍をさらに縮小させるように議決した。
1810 年 5 月 1 日、議会はメーコン第 2 法を可決した。同法は、禁輸法を
撤廃し、アメリカの通商を再開させるものであった。その一方で、イギリスと
フランスの戦艦がアメリカの領海に入ることを禁じている。さらに、フランス
とイギリスのどちらか一方が1811 年3 月 3 日までにアメリカに対する規制を撤
廃し、残る一方が 3 ヶ月以内にそれに倣わない場合、規制を撤廃しない側に対
して禁輸を再開する権限を大統領に認めている。
1810 年 8 月 5 日にナポレオンがアメリカに対してベルリン勅令の適
用を除外したという報せをマディソンは受けた。当時、駐露アメリカ公
使であったジョン・クインジー・アダムズはマディソンにフランスの布
告はアメリカをイギリスとの戦争に引きずり込もうとする罠だと警告
した。しかし、マディソンはアダムズの警告を受け入れず、1810 年 11
月 2 日、メーコン第 2 法に基づいて、フランスに対する禁輸を解除する
ことを宣言した。それは同時に、もしイギリスがフランスに倣って規制
を撤廃しなければ、3 ヶ月後にイギリスとの通商を停止することを意味
した。イギリスに対する通商停止は翌年 3 月 2 日、議会の法案により確
定した。
292
アメリカ大統領制度史上巻
しかし、メーコン第 2 法が敵対的な規制の無条件の撤廃を適用条件に
していたのにも拘らず、実はフランスが、もしイギリスが同様に規制の
撤廃に応じなければアメリカがイギリスとの通商に対して規制を課す
ことを条件として提示していたことが判明した。また後になって分かっ
たことだがフランスは密かにトリアノン勅令を出し、フランスの港のア
メリカ船舶の差し押さえを命じていた。その一方でフランスが全面的に
通商規制を撤廃したと信じたアメリカはイギリスにフランスの措置に
倣うように求めたが拒絶された。こうした失態はアメリカをさらにイギ
リスとの戦争の瀬戸際に追いやる結果をもたらした。
最終的にこうした一連の禁輸措置の改廃が決着したのは 1814 年のこ
とである。その年の 3 月 31 日、ナポレオンの敗北を知ったマディソン
は特別教書を議会に送付し、禁輸措置の撤廃を求めた。マディソンの要
請に応じて、4 月 7 日には下院が、同月 12 日には上院も撤廃を可決し
た。
第5項
フロリダ問題
1810 年 1 月、マディソン政権は、オーリンズ準州長官クレイボーン
に、アメリカによる占領をウェスト・フロリダの住民に要請させるよう
に促した。同年、ニュー・オーリンズの北部、パール川の西側に住む人々
がスペイン政府に対して反乱を起こした。この危機に際してマディソン
は難しい決断を迫られた。もし事態をこのまま放置すればフロリダが無
政府状態に陥り、フランスやイギリスといった強国に支配される恐れが
ある。その一方で、スペイン政府が反乱を鎮圧する手助けをすれば、再
びスペイン政府の実効支配が強まり、フロリダに対するアメリカの領土
主張を断念せざるを得なくなる。またアメリカの当局や兵士達による占
領は、スペイン人だけではなくフランスとイギリスも過度に刺激するこ
とになるだろうし、大統領がそうした権限を持つかどうかも疑問であっ
た。
フロリダに部隊を派遣する法的根拠は、アメリカ市民がスペイン当局
より公有地譲渡を受けていることであった。つまり、人民に正当に帰属
する土地は公的な庇護を必要とするという論理である。そうした考えに
ジェファソニアン・デモクラシー期
293
基づいて、マディソンはウェスト・フロリダの反乱者に違法な部隊を解
散するように求め、アメリカ政府が合法的な利益を守ることを宣言した。
さらに反乱者がバトン・ルージュにあるスペインの砦を占領し、アメ
リカ政府の保護下に入ることを求めた。1810 年 10 月 27 日、マディソ
ンはウェスト・フロリダ西部の実質的な領有を宣言するとともに、クレ
イボーンに部隊を率いてウェスト・フロリダに向かうように命じた。そ
の結果、ウェスト・フロリダ西部地域は 1812 年 5 月 14 日に議会によっ
て正式にアメリカに併合されミシシッピ準州の一部となった。
1811 年 1 月 3 日、マディソンは議会に対する特別教書でイースト・フロリダ
の状況と必要な措置について報告した。その結果、1 月 15 日、議会は、もしフ
ロリダ総督が併合に合意するか、もしくはフロリダが他の外国勢力の手に落ち
る可能性があれば、フロリダ全域、もしくはパーディド川以東の併合を試みる
許可を大統領に秘密裡に与えた。またそうした目的を達成するために陸海軍を
動員する権限も認められた。大統領にこうした権限を与えることは憲法の限定
的な解釈を踏み越える可能性があったが、不測の事態に対応するために必要な
措置だとマディソンは考えていた。
マディソン政権は元ジョージア州知事ジョージ・マシューズ(George
Matthews)に、スペイン当局や地元の当局の承認がある場合、または外国の介
入が認められた場合、イースト・フロリダを占領するという指示を与えた。そ
して、武力衝突に備えて、ジョージア州とイースト・フロリダの境界に少数の
陸海軍が配備された。こうした指令の下、マシューズが計画した内容は、ウェ
スト・フロリダの先例にならってイースト・フロリダに反乱軍を送り込むこと
であった。それは、イースト・フロリダの併合を地元の当局に認めさせるため
に、反乱者に暫定政府を樹立させることが目的であった。
1812 年 3 月 16 日、マシューズはマディソン政権の黙認の下、イースト・フ
ロリダに約 200 名からなる反乱軍を送り込んだ。独立が宣告された後、反乱軍
はマシューズの指揮の下、アメリア島を占領した。2 週間後、マシューズが率い
る一隊は首都のセント・オーガスティンに向けて進軍を開始した。セント・オ
ーガスティンを包囲する陣営からマシューズはアメリカ政府にイースト・フロ
リダの併合を受諾するように促した。
マシューズの軍事行動を知った国務長官モンローは、アメリア島占領を否認
した。マディソンはマシューズの計画について黙認していたと考えられるが、
294
アメリカ大統領制度史上巻
その行き過ぎた軍事行動によって困惑させられた。マディソン政権がマシュー
ズにどの程度の成果を求めていたかは明確ではないが、少なくとも実情は予想
を超えるものであった。平和状態にある国で反乱を扇動したり、公然と支援を
行ったりすることは厳しい非難を受ける恐れがあった。
第 6 項 政教分離の原則
マディソンは政教分離の原則を確立した。1811 年 2 月 21 日、マディ
ソンはワシントンのアレクサンドリアにある監督派教会を法人化する
法案に拒否権を行使している。同法案は、
「連邦議会は、国教の樹立を規定
する法律を制定することはできない」と規定する合衆国憲法修正第 1 条に反し
ているとマディソンは論じ、宗教が国家に及ぼす影響に警戒感を示した。
マディソンは同年 2 月 28 日にも、バプティスト派の教会のために土
地を確保する法案に拒否権を行使している。マディソンによれば、それ
は宗教結社を支援するために合衆国の予算を配分する前例になり得る
からである。また 1816 年 4 月 30 日にも、聖書の印刷用鉛板の自由輸入
に対して拒否権を行使している。猶、マディソンの政教分離の原則は厳
格であり、従軍牧師や議会付きの牧師に対する支払いに反対している。
さらに大統領が宗教的休日を認めることにも反対している。
いずれにせよ、マディソンは、政治と宗教の相互独立が、宗教の実践、
社会的調和、そして政治的成功にとって最善の関係であると強く信じて
いた。マディソンが政教分離を堅持したのは、宗教に対して一般的に反
感があったからではない。むしろ、宗教によって培われる姿勢や慣習は
共和主義を改善し得ると考えていた。また厳格な政教分離によって、政
治が宗教を腐敗させる危険性を除くことができるというのがマディソ
ンの信念であった。
第7項
ネイティヴ・アメリカン政策
マディソン政権はジェファソン政権の方針を継承し、ネイティヴ・ア
メリカンにさらに多くの土地を割譲させた。ショーニー族のテカムセ
(Tecumseh)は、アメリカの拡張に対抗しようとして、五大湖からメキシ
ジェファソニアン・デモクラシー期
295
コ湾に至るネイティヴ・アメリカン諸族の連合を結成しようとした。
1811 年 7 月 11 日、ヴァンセンヌの入植民は強まるネイティヴ・アメリ
カンの脅威を取り除くために彼らの本拠地を破壊するように求める決
議を採択した。テムカセが同盟者を募るために本拠地を留守にしている
間、インディアナ準州長官ウィリアム・ハリソンは軍をティペカヌー川
の河口にあるプロフェッツタウンに向けた。11 月 7 日未明、街の北西 1
マイルに野営していたアメリカ軍に約 500 人のネイティヴ・アメリカン
連合軍が奇襲をかけた。ティペカヌーの戦いである。奇襲の撃退に成功
したハリソンはプロフェッツタウンを焼き払い一躍、国民的な英雄とし
て知られるようになり、後に大統領選挙で勝利を収めることになる。
第8項
握りつぶし拒否権
マディソンは 1812 年に初めて握りつぶし拒否権を行使した大統領に
なった。マディソン政権期間中、拒否権は 7 回行使され、そのうち 2 回
が握りつぶし拒否権であった。連邦議会は 1812 年戦争の最中、外国人
の帰化について定めた法案を定めた。マディソンはその法案を議会権限
の濫用とみなし署名を行わなかった。その結果、握りつぶし拒否権が成
立した。しかし、その後、議会はマディソンの覚書をもとに修正法案を
再可決した。修正法案はマディソンの署名により承認された。
第9項
司法府の権威の尊重
マディソンはペンシルヴェニア州知事のサイモン・スナイダー(Simon
Snyder)から最高裁の判決に干渉するように求められた。事件の始まり
は 1803 年である。イギリスの船に捕らえられていた囚人が船を乗っ取
り、捕獲財産だと主張した。そこへ別の船が通りかかり、その船をペン
シルヴェニア州の捕獲財産として拿捕した。船が港に着いた後、元囚人
はペンシルヴェニア州を告訴した。連邦裁判所は原告の主張を認めた。
しかし、原告に捕獲財産は返却されず、最高裁は執行官に被告を拘引す
るように命じた。スナイダー州知事は州軍に被告の保護を命じる一方で、
マディソンに事態への介入を求めた。しかし、マディソンは、大統領は
296
アメリカ大統領制度史上巻
最高裁の判決を実行する義務があるとして介入を拒んだ。マディソンの
行動は、行政府と司法府の権威の均衡を保つ重要な先例となった。
第 10 項
1812 年戦争の勃発
1812 年戦争の間、大統領の影響力の低下が最も顕著に示された。イギリスが
ネイティヴ・アメリカンに武器を供与しているという証拠によってアメリカ人
の対英感情は悪化した。多くのネイティヴ・アメリカンが伝統的に部族に属す
る土地を開拓者が侵害していることに怒りを感じていた。またイギリス海軍に
よるアメリカ船員の強制徴用も対英感情が悪化した原因であった。さらにイギ
リス領カナダやスペイン領フロリダなどに対する領土主張も戦争の原因であっ
た。タカ派議員は主に南部と西部の民主共和党議員であった。南部と西部の住
民はネイティヴ・アメリカンの攻撃や農産物価格の下落に悩まされ、反英感情
を抱いていた。ニュー・イングランドを主な基盤とする連邦党は伝統的に親英
であり、海運業や貿易を通じてイギリスと強く結び付いていたので戦争に反対
していた。しかし、連邦党は議会でも国全体でも少数派であった。
イギリスに対する通商規制に加えてアメリカを戦争に追いやったの
がリトル・ベルト号事件である。アメリカの禁輸の再開に対して、イギ
リス海軍はニュー・ヨーク港沖で哨戒活動を行ない、フランスに向かう
アメリカ船舶を拿捕し、強制徴用を強めるという報復的措置を行った。
マディソンはそうした行為を止めさせるためにアメリカのフリゲート
艦プレジデント号を派遣した。1811 年 5 月 10 日、イギリス海軍のゲリ
エール号がアメリカ船舶に停船を命じ強制徴用を行った。強制徴用を受
けた水夫は生粋のアメリカ人であった。そのためアメリカ海軍はゲリエ
ール号の捜索を始めた。
5 月 16 日、捜索にあたっていたプレジデント号はヴァージニアのヘン
リー岬沖でイギリスのコルベット艦リトル・ベルト号を追尾して砲火を
交えた。交戦の結果、リトル・ベルト号はひどく損傷し、10 人程度の死
者を出した。どちらの船が先に発砲したかは定かではない。艦長の申し
立てではリトル・ベルト号をゲリエール号と見誤ったという。しかし、
マディソンはプレジデント号艦長の主張を受け入れて、その行動を賞賛
した。
ジェファソニアン・デモクラシー期
297
イギリスは、アメリカがリトル・ベルト号への攻撃に対する考えを改
めない限り、チェサピーク号に対する補償を行わないと通告した。さら
に、もしフランスがベルリン勅令を無条件で解除しないのであれば、ア
メリカの中立貿易を規制する 1806 年枢密院令を解除しないと宣告した。
マディソンはイギリスが枢密院令と強制徴用に固執するのであれば
宣戦布告も止むを得ないという決意を次第に固めるようになった。かね
てよりマディソンは 2 万人の志願兵の募兵と海軍の増強を訴えていたが、
その要請に対して議会は陸軍の増強を認めた一方で、海軍の予算は増額
していなかった。結局、今回も正規軍を 1 万 5,000 人増やし、志願兵を
5 万人募る権限は与えられたものの、予算は与えられなかった。また海
軍の増強計画は通らず修理費も 300 万ドルから 100 万ドルに減額された。
新税の創設も否決された。
このように軍備に不安を抱えながら、マディソンは強硬姿勢を示す一
方でイギリスが枢密院令を撤回する機会を与えた。そのため 4 月 1 日、
議会に 60 日間の完全な出港禁止令の制定を求めた。4 月 4 日に法案が
通過する前に上院によって期間が 90 日間に延長された。マディソンに
とってそうした措置は正当だと思われた。フランスが通商上の制約を撤
廃したことは明らかであったし、イギリスがアメリカ船舶を拿捕してい
ることも明らかであったからである。その一方でフランスに対してもア
メリカに対する侵害行為を是正するように求めた。
その一方、下院外交委員会は、正規軍の増員、志願兵の募集、民兵の
準備、艦船の艤装、そして、商船の武装などを勧告する 6 つの決議案を
提出した。クレイを中心とするタカ派が議会に積極的に働きかけた結果、
12 月に 6 つの決議案は次々と可決された。さらに上院は正規軍を 1 万
から 2 万 5,000 人に、さらに兵役期間を 3 年から 5 年に延ばすように定
めた。十分な歳入源を確保せずに軍隊をいたずらに拡大することに不安
を抱きながらもマディソンは上院の要請に応じた。陸軍の拡大に加えて
マディソンは議会に海軍の拡張と再軍備を求めた。しかし、1812 年 1
月 27 日、議会は僅差でマディソンの要請を否決した。そのため圧倒的
な海軍力を持つイギリスに対してアメリカは貧弱な海軍で対抗しなけ
ればならなくなった。さらに歳入源を確保するためにギャラティンは、
議会に関税、印紙税、特許料、物品税の引き上げと 1,000 万ドルの借入
298
アメリカ大統領制度史上巻
を提案した。最終的に下院はそうした措置を認めた。
3 月下旬、イギリスからの通信が届いた。イギリスが譲歩を示すだろ
うという噂があったが実情は異なっていた。イギリスは枢密院令を解除
せず、もしアメリカが通商規制を課し、商船を武装させるのであれば戦
争に至る可能性があると仄めかした。3 月 31 日、モンロー国務長官は下
院外交員会と会談し、議会が休会に入る前にイギリスに宣戦布告するべ
きだという政権の意向を伝えた。モンローはイギリスの戦艦の攻撃から
アメリカ船舶を逃れさせるために 60 日間の出港禁止を布告する許可を
求めた。同時にそれは戦争準備の時間を稼ぐためであり、イギリスから
の最後の通信を待つためであった。下院は出港禁止令を認め、上院によ
る修正にしたがって期間を 90 日間に延長した。マディソンはそうした
措置が弱腰と受け取られることを恐れたが、結局、議会の措置に従った。
1812 年 5 月 22 日、待ちに待ったイギリスからの急信がワシントンに
届いた。マディソンはその急信でイギリスの政策に変化が見られないと
悟った。5 月 27 日と 28 日の両日にかけてマディソンはモンローとともに駐米
イギリス公使オーガスタス・フォスター(Augustus J. Foster)と会談したが具体
的な解決策は見出せず、戦争が不可避であると考えるようになった。
1812 年 6 月 1 日、マディソンは戦争教書でイギリスに宣戦布告するように議
会に求めた。アメリカ大統領による最初の正式な戦争教書である。マディソン
が議会に提示した宣戦布告理由は主に、イギリスによる強制徴用、中立
貿易を行う権利の侵害、ネイティヴ・アメリカンの反乱を扇動している
ことの 3 つである。
「合衆国上院および下院へ。イギリスとの関係においてこれまで受けてきた
一連の出来事を示す確かな文書を私は議会に伝達する。イギリスが今、従事し
ている戦争は、1803 年の対ナポレオン戦争再開を越えるものではなく、あまり
重要ではないが正されていない過ちを省こうとするものであるが、イギリス政
府は、独立国であり中立国である合衆国に対して一連の敵対行為を働いている。
イギリス艦船は、国際法上、敵国に対して認められる交戦国の権利の行使とい
う名目ではなく、自国の臣民に対する国内の特権を行使するという名目の下、
公海上でアメリカ船に対して侵害行為を続けており、その下で航海する人員を
拘束のうえ連行している。したがって、イギリスの管轄権限は、国際法と船舶
が所属する国の法律以外、適用すべき法律がない状況の下―もしイギリスの臣
ジェファソニアン・デモクラシー期
299
民が誤って拘束され、それのみに関するならば、自力更正が認められるかもし
れないが―で、中立国の船舶にも拡大されているが、主権国家に武力を以て訴
えることはまさに戦争の定義に当てはまる。このような場合にイギリス臣民を
拘束することは、交戦国の権利の行使と見なすことができるのか、また、効力
ある法廷の前で行われる正規の調査なしで差し押さえた財産を付与する規定を
禁じ、個人の神聖な権利が問題になった場合に公正な裁判を絶対に必要とする
戦時法の行使として認めることができるのか。そうした裁判の場では、そうし
た権利はあらゆる小指揮官の意思に委ねられる。イギリスの行いはイギリス臣
民のみに影響を及ぼすわけではなく、イギリス臣民を捜索するという口実の下、
公法と国旗の保護の下にある数千のアメリカ市民が祖国と愛するものすべてか
ら引き離され、外国の戦艦に乗せられ、過酷な規則の下、最も僻遠の地へ追い
やられ、抑圧者の戦闘の中で命を危険にさらし、憂鬱にも同胞の命を奪う道具
となっている。またイギリス艦船は、我々の海岸における安全と権利に対する
侵害を行ってきた。彼らは遊弋して我々の通商を妨害している。最も侮辱的な
口実で、彼らは我々の港湾に対して無法な行動をとり、我々の神聖な領域内で
みだりにアメリカ人の血を流した。要するに、イギリス側が合衆国に対して戦
争状態にあると我々は見なすのであって、合衆国側はイギリスに対して平和状
態にある。合衆国がこのままさらなる剥奪やさらなる不正行為に対して受け身
であり続けるか、国の権利を守るために、武力に対して武力で抵抗するか、そ
れとも他国の競合や思惑に関わるすべての繋がりを避けて神の手に正義を委ね
るか、友好と平和の名誉ある再建にともにあたることを一貫して快諾するよう
にするかは、憲法が賢明にも立法府に委託した厳粛な問題である」217
宣戦布告理由を述べた後、マディソンは議会にその諾否を求めた。マ
ディソンが戦争に踏み切った理由として、大統領候補として再指名を得
るためだという説もあるが明確な裏付けはない。また 3 つの宣戦布告理
由の中でも強制徴用問題が最大の理由であった。なぜなら強制徴用はア
メリカ市民の自由を侵害する違法行為であるとともに、アメリカの主権
を侵害する行為だったからである。
宣戦布告という強硬姿勢を示すことでイギリスから譲歩を引き出せる可能性
が残されているとマディソンは考えていた。しかし、駐米イギリス公使との交
渉でさらにイギリスに対する不信感を強めたマディソンは、交渉の過程を複写
して議会に通告するように命じた。
300
アメリカ大統領制度史上巻
6 月 4 日、下院は非公開の討議によって 79 票対 49 票で宣戦布告を認
めた。主に西部と南部の議員が賛成票を投じ、反対票を投じている者は
北部の議員が多かった。続いて上院は宣戦布告にフランスも含めるかど
うか、もしくはイギリスと同じくフランスの船舶に対しても拿捕を認め
るか否かが討議された。マディソンはフランスに宣戦布告するべきでは
ないと考え、ナポレオンの不誠実さを示す多くの証拠があったのにも拘
わらず、フランスは反中立的な法令を撤回していると主張した。討議が
長引いたために、6 月 17 日になってようやく上院は 19 票対 13 票で宣
戦布告を可決した。翌日、下院が上院による修正を認めた後、宣戦布告
はマディソンの署名を経て発効した。6 月 25 日、駐米イギリス公使はワ
シントンを離れ、交渉は決裂した。
宣戦布告後、イギリス外相がアメリカの船舶に関して枢密院令を一時
差し止めることを 6 月 16 日に宣告し、続いて 23 日に執行命令が発令さ
れたという報せが届いた。しかし、その報せが届いたのは 8 月になって
からである。歴史家の中には枢密院令の差し止めによって 1812 年戦争
は必要ではなくなっていたと考える者もいる。モンロー国務長官は駐英
アメリカ公使に、紙上封鎖の撤廃、強制徴用の停止、そして賠償に応じ
れば休戦するとイギリス政府に伝えるように訓令した。しかし、8 月 29
日、イギリス外相はその申し出を拒否した。さらにジョン・ウォレン
(John Borlase Warren)提督による和平交渉の申し出に対して 10 月 27
日、モンローは強制徴用が停止されるまでは交渉に応じないと返答した。
いずれにせよモンローとマディソンは強制徴用が廃止されるまでは
休戦調停に応じないと決意していた。もし強制徴用問題について解決し
ないまま休戦に応じれば、アメリカはそれを黙認したと見なされる恐れ
があったからである。マディソンにとって強制徴用を認めることは、す
なわちイギリスへの服従であり、アメリカの独立が失われることに等し
かった。
第 11 項
カナダ征服の失敗
後の歴史的展開は大統領に戦争時の非常時大権を与えることになるが、マデ
ィソンは非常時大権を行使せず連邦軍を指揮する姿勢は非常に不明確なもので
ジェファソニアン・デモクラシー期
301
あった。マディソンは、議会に影響力を十分に行使することができなかったし、
また緊急の問題に対処する資質に欠けていた。マディソンは体躯に恵まれず、
声は小さく、強い性格ではなく、良く言っても穏健な性格であった。戦争を遂
行するためには、人民を結集させ、戦争に向かって統一する頑健な指導者が求
められたが、マディソンはそうした指導者にまったく向いていなかった218。
1812 年戦争は大統領の戦争というより議会のタカ派議員の戦争であった。タカ
派はカナダを征服し、西部フロンティアからネイティヴ・アメリカンの脅威を
排除し、アメリカの開拓民の新天地を広げることをイギリスとの戦争で達成し
ようと考えていた。
戦争中、マディソンは大統領権限をほとんど拡大させることはなかったが、
モンローは国務長官の権限を拡大した。モンローは、戦争の財源を確保するた
めに借入を確保し、兵士の士気を高め、退役後に与える土地を増やすことで新
兵の徴募を円滑に進めた。さらにモンローはばらばらであった州と連邦の軍事
行動を 1 つに統合した。モンローは戦争の指導者として名声を高め、次期大統
領の座を確実にした。
1812 年戦争に向けて国内は完全に一致したというわけではなかった。開戦に
よって通商上の利益が損なわれることを恐れたニュー・イングランド地
方を中心とする連邦党は、1812 年戦争を反感を込めて「マディソン氏
の戦争」と呼んだ。とはいえ 1812 年戦争は決して大統領の戦争とは言
えなかった。マディソンも連邦党の反発を十分に予想していた。民主共
和党の指導者達は、そうした一派を抑えるために、マディソンに新たな
治安法を制定することを勧めた。しかし、マディソンはそうした助言に
従わなかった。
軍事的見地から、1812 年戦争はアメリカ史の中で最も不成功に終わった出来
事である。イギリス軍の中核はナポレオンとヨーロッパで対峙していたが、1812
年戦争はアメリカ人によって破滅的に始まった。マディソンの最初の目的はカ
ナダの占領であった。カナダは当時、イギリス領で唯一、アメリカから陸伝い
に直接侵攻できる場所であった。アメリカの人口は 700 万人を超えていたが、
イギリス領カナダの人口は 50 万人以下であった。戦争開始時点でカナダに駐留
していたイギリス軍は約 5,000 人でナポレオン戦争のために本国からの応援は
期待できなかった。それでもイギリス軍は無秩序なアメリカ軍に対して連勝し
た。
302
アメリカ大統領制度史上巻
マディソンはウィリアム・ハル(William Hull)にモールデン砦に向かって進撃
するように命じた。しかし、ハルは民兵からアメリカの領内を越えて進撃する
ことを拒否されたうえに、駐屯軍の敗報を受けてデトロイト砦に撤退した。デ
トロイト砦がイギリス軍とネイティヴ・アメリカンの連合軍に包囲されるとハ
ルは一戦も交えずに降伏した。ハルは後に軍法裁判にかけられ死刑判決を受け
たがマディソンの減刑により死刑は免れた。マディソンは北西部の指揮権をウ
ィリアム・ハリソンに委ねた。ハルの侵攻に引き続いて何度かカナダへの侵攻
が試みられたがいずれも失敗した。ヘンリー・ディアボーン(Henry Dearborn)
率いる部隊はモントリオール方面から侵攻を試みたが、途中で州兵がさらなる
進軍を拒否したので撤退せざるを得なくなった。マディソンはデトロイト砦を
奪還するためにケンタッキー州民兵と北西部大隊にディファイアンス砦から進
軍するように命じた。ジェームズ・ウィンチェスター(James Winchester)はミ
シガン半島の東岸下部で勝利を収めた。しかし、ウィンチェスターはイギリス
軍とネイティヴ・アメリカン連合軍に破れ、降伏した。
驚くべきことに、イギリスの長年にわたる海軍の圧倒的な優越にも拘わらず、
アメリカは海戦でイギリスに対して優位に立った。また議会は海軍を増強する
手段をほとんど何も講じていなかった。しかしながらイギリス海軍の主力はフ
ランスと激戦中であり、アメリカ沿岸で軍務に就くことができるイギリス艦船
は限られていたことがアメリカに幸いした。エセックス号やコンスティテュー
ション号やその他のアメリカの艦船は、あらゆる 2 層戦艦や戦列艦よりも速く
走り、強烈な片舷一斉射撃を行うことができ、イギリスとの艦船との交戦で決
定的な勝利を得た。カナダ侵攻の失敗に意気消沈していたアメリカ国民は海戦
の勝利に大いに勇気付けられた。議会は、海軍増強のための特別支出を認めた。
そうした特別支出による新造艦船は 1812 年戦争に参加することはなかったが
海軍の重要な改革の柱となった。1812 年にアメリカ海軍は目覚しい戦果をあげ
たが、それ以降は港に閉じ込められた。イギリスはまずデラウェア湾からチェ
ピーク湾を封鎖し、
1813 年にはニュー・ヨークとノーフォーク以南の諸港まで、
さらに 1814 年にはニュー・イングランドまで封鎖を拡大した。アメリカの外洋
艦隊は封鎖に対抗できなかった。
マディソンと閣僚は、エリー湖とオンタリオ湖を制圧しなければ、いくらア
メリカ軍が進撃してもイギリス軍の防衛を崩すことはできないと理解した。も
し海軍を増強しなければ、イギリスがオハイオからミシシッピ川流域に南下し
ジェファソニアン・デモクラシー期
303
てアメリカを 2 つに分断する恐れもあった。マディソンはアイザック・チョウ
ンシー(Isaac Chauncey)を派遣してエリー湖とオンタリオ湖の制圧を行おうと
した。チョウンシーはオンタリオ湖東岸で軍艦建造を開始した。それに対して
イギリス海軍も軍艦建造を開始し、建艦競争が始まった。建艦競争によってチ
ョウンシーは、オンタリオ湖を通じてニュー・ヨーク北部に攻撃を加えようと
するイギリス軍の動きを牽制することに成功した。またチョウンシーはディア
ボーンと協力してアッパー・カナダの首都ヨークを急襲し、焼き払った。これ
は後にイギリス軍のワシントン焼き討ちによって報復されることになる。アメ
リカの攻撃に対してイギリス軍はナイアガラ砦を陥落させた。二面作戦による
モントリオールへの挟撃が試みられたが、アメリカ軍は小競り合いだけで退却
してしまった。
その一方で 1813 年 9 月、オリヴァー・ペリー(Oliver Perry)率いるアメリカ
艦隊がイギリス艦隊を3 時間の激闘の末に破り、
エリー湖の支配権を奪取した。
エリー湖の支配権を失ったイギリス軍はオハイオ北東部とデトロイト砦から撤
退した。ハリソンはイギリス軍を追跡し、1813 年 10 月、テムズ川の戦いで勝
利した。テムズ川の戦いではショーニー族長のテカムセが戦死した。イギリス
とネイティヴ・アメリカン連合の有力者であったテカムセの死によって、マデ
ィソンが目指したイギリスとネイティヴ・アメリカンの同盟関係の粉砕は達成
された。アメリカ軍は、カナダから一掃されたとはいえ、デトロイト砦を奪取
し、エリー湖を制圧することで、北西部から側面攻撃される危険性はなくなっ
た。
第 12 項 ワシントン炎上
1814 年、ナポレオン戦争が一応の終結を迎えたためにイギリスは増援軍を派
遣し、ナイアガラ、シャンプレーン湖、そして、ニュー・オーリンズからアメ
リカに侵攻する大規模な作戦を立てた。アメリカ軍はイギリスの増援軍が到着
する前にカナダ侵攻を再度、試みた。先だっての失敗から学んだアメリカ軍は
無能な指揮官を更迭し、州兵への依存を止め常備軍主体の編成を組んだ。アメ
リカ軍はエリー砦を攻略した。さらにチパワーの戦いでアメリカ軍はイギリス
軍を敗走させた。さらに 7 月 25 日、ランディーズ・レインの戦いでアメリカ軍
は、ナイアガラから侵入を試みたイギリス軍を撃退した。
304
アメリカ大統領制度史上巻
増援を得たイギリス軍は大西洋沿岸部で攻勢を強めた。ニュー・イングラン
ド諸州では連邦からの分離独立を求める声が高まり、マディソン政権は危機に
瀕した。こうした危機的な事態に陥ってもマディソンは戦時下を理由に戒厳令
を布くことはなかった。市民的自由の保障こそマディソンにとって共和主義の
重要な原理であったからである。
ヨーロッパの外交の場ではナポレオン戦争で勝利を収めたイギリスの影響力
が強まり、アメリカ公使はフランスやロシアの代表と会談することさえままな
らなかった。一方、マディソン政権内では閣内の不一致が現れ始めた。陸軍長
官アームストロングがマディソンの許可無く連隊の再編を行ったり、マディソ
ンの意向に沿わない文書を発行したりしていた。それは明らかな越権行為であ
った。そうした行いを知ったマディソンはアームストロングにすべての文書や
命令の写しを手元に送るように命じた。こうした対立はワシントン炎上後、ア
ームストロングが長官職を退くまで続いた。
マディソンはかねてよりアームストロングに、ワシントンがイギリスの攻撃
目標になっている可能性が高いと警告していた。さらに 7 月 1 日の閣議でマデ
ィソンは東部海岸、特にワシントンの防衛について対策を講じるように閣僚に
求めている。しかし、マディソンの警告に反して防衛準備をほとんど行われな
かった。
1814 年 8 月 18 日、イギリス軍上陸の報せがワシントンに届き、マディソン
はアメリカ軍を配置に着ける命令を発した。上陸後のイギリス軍はブレーデン
ズバーグに確実に迫っていた。22 日朝、ワシントンが攻撃にさらされる危険性
が高いと判断したマディソンは公文書を退避させるように指示し、ヴァージニ
アとメリーランドの民兵を、ブレーデンズバーグに向けて移動させるように命
令した。
24 日午前 10 時、イギリス軍が夜明けとともに陣営を引き払い、ブレーデン
ズバーグに向け進軍中という報せが入った。マディソンは決闘用ピストルを携
えて、他の閣僚とともにブレーデンズバーグに向けて出発した。ブレーデンズ
バーグの街の近くの丘でマディソンはブレーデンズバーグの戦いの推移を見守
った。マディソンは現役の大統領の中で唯一、間近で戦闘にさらされた大統領
である。午後遅く、イギリス軍の勝利が明らかになった後、マディソンはワシ
ントンへ帰還した。
マディソンは、イギリス軍による転用を防ぐために、海軍造船所にある資材
ジェファソニアン・デモクラシー期
305
を移管できなければ破壊し、さらに完成間近の戦艦に火を放つように命じた後、
ワシントンを立ち去った。それからまもなく、ワシントンに入市したイギリス
軍は、連邦議会議事堂やホワイト・ハウスを初め多くの建物に放火した。ワシ
ントンを焼く炎は 40 マイル先からも見えたという。
9 月 1 日、マディソンは国民をワシントン失陥で動揺させないように侵略者に
対する徹底抗戦を呼びかける声明を発した。連邦議会をフィラデルフィアかラ
ンカスターで開催するべきだという意見もあったが、マディソンはワシントン
で開催するべきだと強く主張した。マディソン政権は政府機能を再開するため
に、被害を免れた特許局と郵政省を仮の連邦議会議事堂に定めた。この時期、
マディソン政権を取り巻く状況は最悪であった。カナダから大規模なイギリス
軍の精鋭が南下中であったし、ガンで行われている講和交渉はまだ明るい兆し
は見えていなかった。また新手のイギリス軍がニュー・オーリンズ攻略に向か
っていた。戦債の募集もうまくいかず、ニュー・イングランド以南の銀行はす
べて正貨支払いを停止していた。
カナダからジョージ・プレヴォー(George Prévost)総督率いる 1 万 1,000 人の
イギリス軍が南下しつつあった。それを迎え撃つべくシャンプレーン湖の西岸
にアメリカ軍は布陣したが、その数はイギリス軍の半分にも満たなかった。プ
レヴォー率いるイギリス軍の南下を阻止できるかどうかはシャンプレーン湖の
制水権にかかっていた。アメリカ海軍がシャンプレーン湖を制圧すれば、イギ
リス軍は後方から補給を受けることができなくなるからである。
1814 年 9 月 11 日、トマス・マクドナー(Thomas MacDonough)率いる 14 隻
の艦隊は、17 隻からなるイギリス艦隊を 2 時間 20 分の激戦の末、撃破した。
このシャンプレーン湖の戦いの様子を見ていたプレヴォーは、その夜、南下を
断念してカナダに向けて撤退を始めた。シャンプレーン湖の戦いでの敗北は、
イギリス政府に講和を図らせる 1 つの契機となった。
ワシントンが襲撃された翌月、イギリス軍はボルティモアのマクヘンリー砦
を攻撃した。ボルティモアは海外貿易の要所であり、ボルティモアを失うこと
は大きな経済的痛手となる恐れがあった。幸いにもマクヘンリー砦はイギリス
軍の攻撃に持ちこたえた。その情景を見ていたフランシス・キー(Francis Scott
Key)が後に国歌となる「星条旗よ永遠なれ」を作った。
第 13 項 講和交渉
306
アメリカ大統領制度史上巻
この時までにアメリカとイギリスは双方とも戦争に疲弊していた。そのため
に戦闘が続く一方で和平交渉の試みもなされていた。ロンドンで両国は交渉を
行なったが、強制徴用の停止をめぐる見解の相違を埋めることはできなかった。
イギリスは枢密院令の撤廃に引き続いて全面休戦を申し出たが、マディソン政
権はその申し出を拒絶したため早期休戦の可能性は失われた。しかし、その一
方でマディソン政権は、イギリスへの要求を、強制徴用の撤廃から強制徴用に
関する条約交渉を行うことに引き下げている。
1813 年 3 月 8 日、駐米ロシア公使を通じてロシアがモンロー国務長官に和平
仲介を申し出た。3 日後、マディソンはロシアの和平仲介を受諾した。1813 年
4 月 17 日、イギリスからの返答が届く前にマディソンは、使節団を送ることを
決定した。しかし、イギリス外相はロシアの仲介を拒み、11 月 4 日、直接交渉
を望む旨をモンロー国務長官に送付した。
それを受けてマディソンは、翌 1814 年 1 月初旬、講和使節団の派遣を再度決
定した。1814 年 6 月下旬の閣議でヨーロッパ情勢の変化と使節団の見解につい
て協議が行われ、強制徴用に関する合衆国の立場を放棄することをマディソン
は決定した。そして、6 月 27 日、マディソンは、モンロー国務長官を通じて強
制徴用の停止が認められなくても講和条約を締結するように使節団に指示した。
1814 年 8 月 8 日、ガンで和平会談が始まった。最初、イギリス側はアメリカ
の使節団に厳しい要求を突きつけた。アメリカは、ニューファンドランドの漁
業権を放棄し、ニュー・ブランズウィックとケベックの間に直通道路を建設す
るために国境線を変更し、さらにカナダがミシシッピ川上流に接するように国
境線を変更するように求められた。またオハイオ川の北部にネイティヴ・アメ
リカンの衛星国を建国することが提案された。9 月 16 日にイギリス側はネイテ
ィヴ・アメリカンの衛星国については撤回したが、終戦時の占領地域に基づい
て国境を確定するように提案した。マディソンは、戦前の原状回復という条件
で講和を取りまとめるように使節団に指示していたので、こうしたイギリスの
提案は到底、受け入れられるものではなかった。交渉は行き詰ったかのように
見えたが、ボルティモアとシャンプレーン湖におけるイギリス軍敗退の知らせ
が届いたためにイギリスは態度を軟化させた。その結果、12 月 24 日、講和条
約締結が合意に至った。同条約により、両国は戦時中に占領した領土を返還し、
捕虜を解放すること、さらに敵対行為をとったネイティヴ・アメリカンに対す
ジェファソニアン・デモクラシー期
307
る赦免が定められたが、強制徴用の問題は未解決に終わった。カナダとアメリ
カの間の国境を定めるために 4 つの国境委員会が設立された。他にも同条約の
特徴として、両国が協力してアフリカから新世界への奴隷貿易廃止に尽力する
という条項が盛り込まれている。
1815 年 2 月 14 日、マディソンはモンローから条約の最終案を受け取った。
戦争の主要な原因となった強制徴用について講和条約が何の解決ももたらさな
いことはマディソンも重々承知していたが、和平交渉が破談に終わることも覚
悟していたマディソンにとって条約の最終案ははるかに望ましい内容であった。
2 月 16 日、上院は全会一致で条約を承認し、マディソンは戦争の終結を宣言し
た。
1812 年戦争では 28 万 6,000 人のアメリカ軍兵士が戦い、2,200 人が戦死し、
4,500 人が負傷した。1812 年戦争は第 2 次独立戦争とも呼ばれるように、戦争
の結果、イギリスはアメリカを再び支配下に置き、その西部への進出を抑える
見込みを失った。アメリカはイギリスに対する経済依存から脱却した。イギリ
スとの貿易が差し止められた結果、生じた空白を埋めるようにアメリカ国内の
製造業は飛躍的な成長を遂げ、北西部のネイティヴ・アメリカンの脅威は著し
く低下した。アメリカは農業国から工業国へ変化する一歩を踏み出した。その
一方でマディソン政権は、戦費が嵩んだために 1 億ドルを超える累積公債を抱
えることになった。またマディソン政権は強制徴用問題の解決という戦争目的
を達成することもできず、戦争過程で新たに戦争目的に加わったカナダ併合も
達成することはでいなかった。それどころか、アメリカ国内の地域間の利害対
立を顕在化させることになった。
1815 年 1 月 8 日のニュー・オーリンズでの勝利はアメリカ人の士気を高めた
が、講和条約は既に成立した後であった。イギリス軍はアメリカ軍の陣地に無
謀な正面攻撃を敢行したために 2,000 人以上の死傷者を出し、司令官も戦死し
た。それに対してアメリカ軍は 13 人が死亡し、58 人が負傷したに過ぎなかっ
た。ジャクソンの勝利のお蔭でアメリカ人は講和を喜んで迎えることができ、
マディソンは名誉をもって大統領を退任することができた。そして、ジャクソ
ンは戦争の英雄という地位を得て、後に大統領に選出される契機となった。
第 14 項 バーバリ国家に対する勝利
308
アメリカ大統領制度史上巻
1812 年戦争はバーバリ国家に対する勝利というアメリカによって悩
みの種をなくす副産物を生み出した。1812 年戦争にアメリカが没頭し
ている隙にアルジェの太守がアメリカの外交官を追放したうえ、アメリ
カ船舶への攻撃を再開した。貢納金の支払いに不満があったからである。
アルジェは、アメリカのブリッグ船エドウィン号を拿捕して乗組員を奴
隷にした。
その報せを受けたマディソンは議会にアルジェに対して軍事行動を
取る許可を要請した。1815 年 3 月 2 日、議会はアルジェに対する戦闘
行為を許可した。戦争は貢納よりもましであるというのがマディソンの
考えであった。
5 月 20 日、マディソンの命令により、スティーブン・ディケーター
(Stephen Decatur, Jr.)率いる艦隊がニュー・ヨークを出港し地中海に向
かった。6 月 19 日、ディケーターは、途中で拿捕した 2 隻のアルジェ
艦船とともにアルジェの港に入った。そして、6 月 30 日、アルジェの太
守は講和条約締結に合意した。同条約により、アルジェは、アメリカ人
乗組員を解放して 1 万ドルの賠償金を支払い、貢納金要求の取り下げを
約した。またディケーターは同様の条約をチュニスとトリポリとも結ん
だ。こうした条約により、アメリカはバーバリ国家に悩まされずに済む
ようになった。
第 15 項
ハートフォード会議とニュー・イングランドの抵抗
1812 年戦争の和平交渉が進展する一方、1814 年 10 月 17 日、戦争に反対す
る連邦党が多数派を占めるマサチューセッツ州議会はハートフォード会議開催
の呼びかけを行った。12 月 15 日、マサチューセッツ州、ロード・アイランド
州、コネティカット州の 3 州の州議会から選ばれた代表とニュー・ハンプシャ
ー州とヴァーモント州の連邦党から選ばれた代表が、南部と西部諸州の支配か
らニュー・イングランド諸州を守るために憲法修正を考案するためにコネティ
カット州ハートフォードに集まった。ハートフォード会議の開催は連邦党の不
満を示しているのと同時に大統領の威信をさらに低下させようという試みであ
った。
ハートフォード会議は幾つかの憲法修正を提議した。60 日以上続く出港禁止
ジェファソニアン・デモクラシー期
309
を禁じる。宣戦布告、新しい州の連邦加入、外国通商の禁止を可決するのに議
会の 3 分の 2 の賛成を求める。奴隷人口の 5 分の 3 を州の人口に加えて下院議
員の数を決定する条項を撤廃する。大統領の任期を 1 期に限る。前任者の出身
州と異なる州から次の大統領を選任するようにする。しかし、講和条約締結の
報せとニュー・オーリンズの勝報が国民の間に広まり始めると、ハートフォー
ド会議が採択した決議はまったく支持を得ることができなくなった。またハー
トフォード会議が、ニュー・イングランド諸州を連邦から脱退させるために行
われたという噂も連邦党の凋落に拍車をかけた。
連邦党の凋落はすなわち民主共和党の勝利ではなかった。マディソンの失敗
は個人的な資質によるだけではなく、一部は民主共和党の方針によるものであ
った。最小限の陸海軍以上の常備軍を設けることに反対して、ジェファソンと
マディソンはアダムズ政権によって整えられた軍備を解散させた。イギリスや
フランスとの問題を解決する手段は外交交渉に依存していた。その結果、イギ
リスやフランスとの外交交渉に失敗すると、民主共和党は 1807 年の出港禁止に
頼らざるを得なかった。そうした手段ではイギリスやフランスによる通商妨害
を止めることができず、アメリカの経済に破滅的な打撃を与えた。フランスと
イギリスに対する禁輸政策はうまくいかず、結局、アメリカは戦争の準備が足
りていないことを認識しつつも、マディソンには戦争する他に選択肢が残され
なかった。
大統領の威信の低下はマディソンが議会と国民を戦争に向けて糾合するのを
困難にした。マディソンの期待に反して、中央政府に反感を抱く伝統的な民主
共和党の理念は戦時でも衰えなかった。議会は積極的に宣戦布告を行ったが、
戦争を遂行するのに十分な予算を認めなかった。さらに州の民兵を用いるとい
うマディソン政権の計画は、州政府の妨害を受けた。
例えばニュー・イングランドの裁判所は、民兵の使用が認められる緊
急事態を宣言する権限は州知事に属するという判定を下した。その判定
に基づいてマサチューセッツ州とコネティカット州の知事は大統領に
よって割り当てられた民兵を充当することを拒絶した。さらに他のニュ
ー・イングランド諸州の知事も民兵を州の領域外に進軍させないように
しただけではなく、正規軍がイギリス領カナダへ向かった後の穴埋めの
ために海岸部に民兵を配備することさえも拒絶した。また連邦党寄りの
商人は戦債を購入したり、私掠船を艤装したりすることを拒絶した。そ
310
アメリカ大統領制度史上巻
うした状況に対してマディソンは何の手も打つことができなかった219。
第 16 項
第 2 合衆国銀行
マディソンは民主共和党の理念の限界を認識し始めた。第 7 次一般教
書でマディソンは、第 2 次合衆国銀行の設立を含む数多くの政策を提案
した。ワシントン政権期に設立された第 1 合衆国銀行の特許は 1811 年
3 月 4 日が期限であった。マディソンとギャラティンは特許更新を望ん
でいた。マディソンは従来、合衆国銀行の設立に反対していたが、20 年
間にわたる運営で合衆国銀行はその有用性を示し、国民に受け入れられ
るものとなったと考えを改めていたのである。しかし、1 月 24 日、下院
は僅差で更新を否決し、さらに 2 月 20 日、上院でも僅差で否決された。
その結果、第 1 合衆国銀行は廃止された。
1812 年戦争を遂行するにあたって合衆国銀行なしでは連邦政府は通
貨の安定した供給源を得ることができなかったために、金融危機を悪化
させた。連邦政府の負債は 1811 年には 4,500 万ドルに、1815 年の終わ
りには 1 億 2,700 万ドルに膨らんでいた。通貨を安定させ厳しい経済的
混乱を打破するために合衆国銀行は必要悪だと信じて 1816 年、マディ
ソンは第 2 合衆国銀行特許法案に署名した。この第 2 合衆国銀行はジャ
クソン政権期に特許更新を阻まれるまで存続した。
後年、マディソンは、憲法解釈に基づいて第 1 合衆国銀行設立に反対
したのにも拘らず、第 2 合衆国銀行設立を認めるのは矛盾しているので
はないかと批判を浴びている。それに対してマディソンは、公的な判断
は必然的に個人の見解を超越するものであると回答している。
第 17 項
国内開発事業
またマディソンは、第 2 合衆国銀行設立と並んで、国内開発事業と戦
争中に発展した国内産業を保護するために緩やかな保護関税を導入す
ることを勧めている。拡大する連邦を緊密に繋げるために運河や道路を
連邦政府の助成で建設すべきだというのがマディソンの考えであり、同
時にそれを実行するために必要となる憲法修正を勧めている。
ジェファソニアン・デモクラシー期
311
議会はカルフーンの主導の下、1817 年 2 月に国内開発事業法案を制
定した。同法案は、連邦政府が国内開発事業に助成金を支出することを
認めている。しかし、3 月 3 日、マディソンは同法案に拒否権を行使し
た。その決定はカルフーンを驚かしたが、マディソンは以下のように拒
否権を行使した理由を説明している。
連邦議会の権限は、憲法第 1 条第 8 節に列挙されているが、道路の建
設や運河の開削、そして航路の改善を行う権限は含まれていない。国内
開発事業は重要であるが、憲法に基づいて、連邦の権限と州の権限、そ
れぞれが及ぶ範囲を守る必要がある。憲法第 1 条第 8 節 1 項の「共同の
防衛および一般の福祉の目的のために」議会は税を課すことができると
いう文言を憲法の拡大解釈に用いるべきではない。
しかしながら、マディソンは強力な中央政府を好まない伝統的な共和
主義の理念より一歩進んで、憲法の下で制限政府に忠実である限り、
人々がその代表を通じて国家的な目的を実現しても問題はないという
考えを示している。そうしたマディソンの考えは「国家主義的な共和主
義」と呼ぶべきものであった。
第 18 項
結語
マディソンは行政府の権限が悪用される可能性に対して深い懸念を表明する
ことを決して止めようとはしなかった。すべての重要な決断において、マディ
ソンは民主共和党の原理に沿った大統領のリーダーシップを堅持しようとした。
しかし、そうした原理は活発な大統領のリーダーシップには適していなかった
220。
マディソンの政治哲学の骨子は、人民の権利と自由を守るための二重の制度
を提案した点にある。つまり、中央政府に三権分立を採用する一方で、国家全
体は州と連邦で均衡をとるという制度である。また、その当時、小規模な共和
国こそ理想であるという考え方が一般的であり、アメリカのように広大な領域
に跨る共和国を建設するという試みは、帝政以前のローマを別にすれば人類で
最初の試みであった。その過程におけるマディソンの理論的貢献は、権力を分
散させること権力の濫用と腐敗を防止するという枠組みを示し、大規模な共和
国においても自由が保たれる根拠を示したことにある。
312
アメリカ大統領制度史上巻
従来、マディソンは、ヴァージニア決議の起草という業績により、州権論の
文脈から語られることが多い。しかし、州の権限と連邦の権限の均衡を重視し
た平衡の守護者という評価が妥当であろう。
その証拠として、実現しなかったとはいえ、マディソンが権利章典で州が人
民の基本的人権を侵害しようとした場合に連邦が州を抑止する条項を盛り込も
うとした点を忘れてはならない。合衆国憲法とヴァージニア決議に加えて、マ
ディソンの政治哲学の一角を成すものとしてこの条項を評価するべきである。
また「憲法の父」という名前に隠されて、国務長官として、または大統領と
してマディソンが果たした役割について十分に評価されないことが多い。そう
した面も含めてマディソンを評価しなければならない。
さらに 1812 年戦争の評価についても 1 つ注意すべき点がある。後の南北戦争
の際にリンカンは非常大権の名の下に大統領権限を大幅に拡大して戦争を遂行
したが、19 世紀初頭の大統領制の枠内で同様に大統領権限を拡大して戦争を遂
行することは不可能であった。なぜならアメリカにとって 1812 年戦争は独立戦
争以来、初めて経験する本格的な戦争であり、大統領が戦時大統領として軍を
統制する先例がなかった。また当時はジェファソンが述べたような労働者の口
から稼いだパンを奪い取らない政府という共和主義の理念が未だに色濃く残っ
ており、たとえ戦時を理由にしても行政権の著しい拡大は難しかった。現代と
比べて弱体で未発達な大統領制度の下で危機に直面せざるを得なかった点を考
慮すると、ワシントン焼失の責任をマディソンのみに帰することはできない。
第 3 節 モンロー政権
第 1 項 概要
ジェームズ・モンロー(James Monroe)は 1758 年 4 月 28 日、ヴァージニア植
民地ウェストモーランド郡で生まれた。ワシントンと同郡である。5 人の子供の
中で 2 番目の子供であり、長男であった。父は、小農園主であり大工であった。
ウェストモーランド郡の巡回裁判所の判事も務めた。また印紙条例に反対する
ヴァージニア決議の署名者の 1 人でもあった。モンローは「最後の三角帽」と
いう渾名を持っている。三角帽は独立戦争時に軍務に服していたことを示して
いる。ジャクソンを除けば独立戦争に参加した最後の世代である。ヴァージニ
ア邦議会議員を皮切りに、駐仏アメリカ公使、ヴァージニア州知事を歴任した。
ジェファソニアン・デモクラシー期
313
また特使としてフランスとルイジアナ購入の実務交渉にあたっている。帰国後、
マディソン政権下で国務長官ならびに陸軍長官を務めた。1816 年の大統領選挙
で勝利し第 5 代大統領に就任した。モンロー政権期は「好感情の時代」と呼ば
れるように、実質的に民主共和党による一党支配の時代であった。奴隷制に関
して 1820 年にミズーリ妥協が成立した。また外交に関して 1823 年にモンロ
ー・ドクトリンが発表された。
第 2 項 大統領選挙
マディソンの後継者であるモンローとジョン・クインジー・アダムズはジェ
ファソンが退任して以来、失われた大統領職の権威を回復することができなか
った。モンローはマディソンよりも力量のある政治家であり、強い個人的資質
を持っていたが、人に対する接し方が堅苦しかったために政党を効果的に主導
することが難しかった。ワシントンやジョン・アダムズのように、モンローは
指示するよりも統括するほうが向いていた。
民主共和党内の分裂も懸案事項であった。民主共和党は憲法の厳密な解釈を
主張する伝統的な一派と、新しい一派、国民共和派に分裂した。モンローは前
者の一派に属すると見なされていた。後者はクレイ、カルフーンやジョン・ク
インジー・アダムズを代表とし、1812 年戦争以後、民主共和党を支配していた。
モンローはマディソンと同じくジェファソンの後継者であり、1801 年以来、
大統領を輩出してきたヴァージニア王朝の正統な後継者であると目されていた。
マディソンとジェファソンと同じく、モンローは民主共和党の時代に大統領職
に至る階梯と見なされていた国務長官職を務めていた。民主共和党の分裂によ
り、モンローが最後のジェファソン主義者になることは確実であった。モンロ
ーの大統領候補指名は困難を極めた。クレイと財務長官ウィリアム・クローフ
ォード(William Crawford)という有力な 2 人の候補者がいた。最終的にモンロ
ーは大統領候補指名を獲得し、本選でも容易に勝利したが、党幹部会で支持を
獲得するうえで直面した困難は、大統領として直面する困難の前触れだと言え
た。
第 3 項 国内開発事業
314
アメリカ大統領制度史上巻
その当時の主な国内問題は、国内開発事業であった。国土の拡大と発展する
経済を支えるために交通網を整備する必要があることは多くの人々が同意する
共通認識であった。しかし、連邦政府の国内開発事業についてモンローは憲法
の厳密な解釈に基づく疑義があると考えていた。こうした考え方はジェファソ
ンやマディソンと同じである。1817 年 12 月 2 日の第 1 次一般教書で早くもそ
の考え方を明言している。そして、連邦政府に国内開発事業を行う権限を与え
る修正を憲法に加えるように議会に勧告している。
議会の大部分の議員達が憲法修正に難色を示す中、クレイの主導の下、1822
年にカンバーランド道路の修復と料金所の設置を認める法案が可決された。5 月
4 日、モンローは同法案に対して拒否権を発動した。拒否通知書には長大な「国
内開発事業問題に関する見解」が付されている。これはモンローが拒否権を行
使した唯一の機会であった。
「国内開発事業問題に関する見解」の中でモンローは、連邦政府が道路や運
河を建設し管轄する権限はないと主張する一方で、議会には資金を調達する権
限があっても、地方ではなく国家一般の利益に沿って予算を配分するように制
限されると述べている。モンローは憲法の条文に詳細な解釈を加えただけでは
なく、各植民地の成立の背景や連合規約などにも言及している。カンバーラン
ド道路法案に対する拒否権の行使は、国民共和派との決別を意味した。
「道路と運河による国内開発事業に関する提案は何度も議会の前に提出され
てきたが、再び諸州に連邦政府に必要な権限を与える修正を勧めるために、も
しくは既に与えられている権限の原理に基づいて制度を有効にするために考慮
される。そのような権限が議会によって行使されることから多大な利点が生じ
るという意見は広まった意見のように思われる。その権利に関して多くの見解
の多様性がある。この問題を決定することは非常に重要なことである。もし権
利が存在するのであれば、直ちに行使されるべきである。もし権利が存在しな
いのであれば、権限の友人は一致してそれを獲得するための憲法の修正を勧め
るべきである。この問題を検証することを私は提案する。[中略]。合衆国にこの
権限を与えることが適切だともし考えられるのであれば、なし得る唯一の形式
は憲法の修正である。諸州は個々に権限を合衆国に移譲できないし、合衆国も
それを受けることはできない。憲法は、連邦政府と諸州政府の間に平等で単一
の関係を形成し、すべてに適用されるような形式でなければ、いかなる変化も
認めていない。もし一旦、連邦政府が個々の州と他州と共通しない契約を結ぶ
ジェファソニアン・デモクラシー期
315
ことを認め、他州がそれを認めなければ、どのような破壊的な結果がもたらさ
れるだろうか。そのような契約は憲法の原理に最も矛盾し、最も危険な傾向を
持っている。道路が通る諸州は道筋と合衆国による土地の獲得にのみ同意を与
えればよいわけだが、その管轄からまったく異なる権利は憲法の修正なしに与
えられないし、これまで述べてきた限定的な形式を除いてこの制度の目的のた
めに与える必要もない。問題全体を熟慮した結果、私はそのような修正を認め
てもらえるように諸州に勧めるべきだという意見である」221
民主共和党内の分裂は、行政府から立法府への権限の移行を促進した。議会
との戦いの中でモンローは拒否権をほとんど行使することはなかった。カンバ
ーランド道路法案に対する拒否権の行使は例外的である。モンローはワシント
ン政権下で始まった慣習に基づいて違憲性があると見なした場合のみ法案に拒
否権を行使した。
第 4 項 ミズーリ妥協
モンローによる議会の尊重は慣習を超えるものであった。これまでの前任者
の中でもモンローは最も議会の優越性を信じていた。そのため、ミズーリ妥協
の形成に積極的に関与しようとはしなかった。1819 年、奴隷州としてミズーリ
が連邦の加盟を申請すると、勢いを増しつつあった奴隷制度反対論者達はそれ
に強く反対した。1802 年には北部と南部の人口はほぼ同数であり政治的均衡が
保たれていた。徐々に北部の人口は南部に優るようになったが、新たに連邦に
加入する州は奴隷州と自由州として交互に承認されてきた。1819 年にアラバマ
が連邦に加入した後、奴隷州は 11 州、自由州は 11 州で連邦上院の政治的均衡
は保たれていた。しかし、もしミズーリ州が奴隷州として加盟すれば上院での
均衡が破れる恐れがあった。モンローは最初、そうした反対が政治的動機に基
づくものだと思っていた。つまり、連邦党が奴隷制問題を利用して党を復活さ
せようと目論んだと考えたのである。
ジェームズ・タルマッジ(James Tallmadge, Jr.)下院議員は、ミズーリにさら
なる奴隷を導入することを禁止し、今後、その地で奴隷の両親から生まれるす
べての子供が 25 歳以上になれば解放されるという修正案を提案した。タルマッ
ジの修正案は南部議員の怒りをかった。タルマッジの修正案は下院を通過した
が、2 月 27 日、上院はタルマッジの修正案を否決した。ミズーリ問題は引き続
316
アメリカ大統領制度史上巻
き加熱した論議の対象となった。北部は従来、投票できない奴隷人口の 5 分の 3
を人口に含めて議席を割り振る憲法の規定に不満を抱いてきた。その規定のお
蔭で南部は連邦議会で 20 議席を余分に占めることができた。さらに北部は、ミ
ズーリを奴隷州として連邦に加入させることは南部の票決権拡大の企てである
と見なした。北部の主張に対して南部はミズーリに奴隷制度を持ち込む権利を
主張した。
大統領は議会に直接的に働きかけるべきではないという理念に基づいて、モ
ンローはミズーリ問題に表立って干渉することは控えたが、もし奴隷制度廃止
を条件としてミズーリに連邦加盟を認める法案が可決されれば拒否権を行使す
ると言明した。領域内で奴隷制度を認めるかどうかを決定する権限はミズーリ
自体にあるとモンローは考えていたためである。しかしながら、最終的にはア
メリカ全土で奴隷制度が廃止されることをモンローは望んでいた。その一方で、
モンローが最も恐れていたことは、奴隷制度の是非をめぐって連邦自体が解体
の危機を迎えることであった。ジェファソンに宛ててモンローは次のように語
っている。
「現在の問題程、静穏と我々の連邦の継続さえ危うくするような問題を決し
て知らない。他のすべての問題はその問題に道を譲るだろうし、ほとんど忘れ
去られる程だろう。しかし、多くの人々の中に多くの知恵と美徳があり、した
がって連邦の連帯はそれに反するようなすべての試みに勝利を収める程、十分
に強固なものだろうし、私はこの試みがまったく無益ではないと思う」222
それ故、モンローはミズーリ妥協を全面的に支持した。ミズーリ妥協によっ
て、メインを自由州として認める一方でミズーリに関しては規制を設けず、ミ
ズーリの南の境界線である北緯 36 度 30 分以北で奴隷制度を禁止することが定
められた。その結果、自由州が 12 州、奴隷州が 12 州になって北部と南部の政
治的均衡が保たれた。こうして北部と南部の衝突は避けられ、再び静穏が取り
戻された。そうした静穏は約 1 世代の間、継続する。しかし、モンローは内心、
北緯 36 度 30 分以北で今後、新たな州が連邦に加盟した場合、奴隷制度を禁止
することは憲法上、疑義があるのではないかと思っていた。この点は閣議でも
話し合われた。ほとんどの閣僚はモンローと同様の疑義を抱いていたが、最終
的に大統領はこの点を未解決のままで触れないことに決定した。3 月 6 日にモン
ローは拒否教書を準備していたが、大統領再選のために北部の支持を失うのを
恐れて結局、拒否権を行使することはなかった。
ジェファソニアン・デモクラシー期
317
1821 年 8 月 10 日、大統領の宣言によりミズーリは正式に連邦に加入した。
ミシシッピ川以西における奴隷制全面禁止が回避され、議会での勢力均衡が保
たれた。行政府による立法府への干渉という非難を受けないように、また妥協
を支持することで自らの支持者を失わないように行動することは高度な政治的
感覚を必要とした。
第 5 項 リベリア植民地
1816 年 12 月、アフリカに黒人奴隷を送還することを目的とするアメリカ植
民協会が結成された。1817 年 11 月、植民協会はアフリカ海岸の調査を行い、
翌年 1 月、最初の植民者を送り出した。しかし、植民は困難を極め、死者が続
出した。モンローはこの協会に積極的な支援を行った。1819 年、議会は、同協
会が黒人を移住させるための土地を購入する資金として10 万ドルを与えること
を認めた。1821 年 12 月、同協会はモンローの支援で西アフリカに土地を購入
することに成功した。1824 年 8 月 15 日、その地はアッパー・ギニアからラテ
ン語の「自由人」に因んでリベリアと改名された。同時に同地に建設された町
はモンローの名をとってモンロヴィアと名付けられた。1800 年代の終わりまで
に 1 万 2,000 人から 2 万人程度の黒人がリベリアに移住したが、アメリカ全土
の黒人人口からすればごく僅かな数であった。リベリアは先住民の相次ぐ攻撃
を受け、幾度も植民地崩壊の危機に陥った。1847 年にリベリアはアメリカから
独立してリベリア共和国となった。ハイチに次ぐ史上 2 番目に古い黒人共和国
である。
第 6 項 巡行
モンローはワシントン以来、初めて巡行を行った。最初の巡行は 1817 年 6 月
から 9 月かけて行われた。まずワシントンを出発し、モンペリエのマディソン
を訪問した後、沿岸部をメイン州まで北上した。ニュー・イングランド諸州を
最初の訪問先に選んだ理由は、前マディソン政権が推進した 1812 年戦争に対し
てニュー・イングランド諸州が強い反感を抱いていたからである。そうした反
感を宥める必要があったのである。6 月 2 日、ボルティモアのマクヘンリー砦を
視察した。そして、フィラデルフィアに向かい、トレントン、ニュー・ブラン
318
アメリカ大統領制度史上巻
ズウィックを歴訪した後、6 月 9 日、ニュー・ヨークに入った。ニュー・ヘイヴ
ン、ハートフォード、ニューポート、そしてプロヴィデンスを経て 4 万人のボ
ストン市民に迎えられた。バンカー・ヒルを訪問し、ハーヴァード・カレッジ
から名誉学位を受けた。それからセイレム、ポートランドなどを回った。
モンローはさらに五大湖に沿って西の方デトロイトに向かった。それからオ
ハイオ州、ペンシルヴェニア州、メリーランド州を通って帰還した。巡行の目
的は主に各地の要塞や港湾を視察することであったが、同時に地域的、党派的
な緊張を和らげる効果もあった。こうした巡行は王による巡行を思わせるもの
であったので批判もあったが、概ね好意的に受け入れられた。
ニュー・イングランド諸州でもモンローは熱狂的な歓迎を受けている。同地
でモンローは各州の連帯を推進する演説を行い、アメリカ独立におけるニュ
ー・イングランド諸州の役割を称賛した。当時、大統領の品位を保つために大
統領は自ら選挙運動をすべきではないという観念があったが、大統領が自らの
政策について演説することを妨げているわけではなかった223。ボストンで独立
記念日の祝賀会に参加し、ジョン・アダムズと食事をともにしている。こうし
た一連の出来事から「好感情の時代」という言葉は生まれたのである。
また 1818 年、チェサピーク湾周辺の軍事施設の視察が行われた。さらに 1819
年 4 月から 7 月にかけては南部と西部諸州の巡行が行われた。大西洋岸をジョ
ージア州サヴァナまで南下した後、モンローはナッシュヴィルに向かった。そ
れから北方のケンタッキー州ルイヴィルに達した。総距離は少なくとも約 1,800
マイルにも及ぶ。
第 7 項 大統領の儀礼的慣習
当時、大使達が出席する晩餐会に国務長官も同席することが慣例になりつつ
あった。他の閣僚達はその晩餐会に同席できないことを憤った。そのためモン
ローは閣僚達も同席できるように改めようとしたが大使達の反対にあった。大
使達からすれば自分達が主賓であり、閣僚達の脇役にされたくなかったからで
ある。そこでモンローは、閣僚達を交代で晩餐会に出席できるように方式を改
めた。
連邦議会の会期中、モンローは 2 週間に 1 度、接見会を行っている。正装を
していれば誰でもそれに参加できた。接見会は執務室で行われ、大統領が立っ
ジェファソニアン・デモクラシー期
319
ている傍らに夫人と長女が座っていた。そして、召使が軽食を配った。こうし
た接見会はジェファソンやマディソンの時代と比べて堅苦しいものであった。
1818 年の新年祝賀会で、ようやく修復が終わったホワイト・ハウスのお披露
目が行われた。新年祝賀会で 1 つ問題となったことは各国大使達の序列であっ
た。もしそれを適切に決めなければ、国際的な緊張を引き起こすとモンローは
危惧していた。そこでモンローは大使達を迎える新しい手法を導入した。一般
客を迎える 30 分前に先着順で大使達を迎えることにしたのである。この手法は
成功した。
第 8 項 1819 年恐慌
1819 年恐慌は、1780 年代以来、最初の全国的な金融恐慌と言われる。それ
は第 2 合衆国銀行が土地投機を抑制するために西部の銀行への与信を過度に引
き締めたことが引き金である。恐慌の影響を受けて、連邦政府の歳入は 1819 年
度には 2,460 万ドルだったものが、1821 年には 1,457 万ドルまで減少した。歳
入減に対してモンロー政権は財政を安定させるために緊縮政策をとった。経済
に対して連邦政府は介入すべきではないという考え方が当時は一般的であった
ために、結局、モンローは 1819 年恐慌による景気後退を改善する策をほとんど
とることができなかった。議会も債務者の救済のために公有地購入の関する支
払い期限が延長する措置をとった他は抜本的な策を打ち出さなかった。
モンロー自身はこうした景気後退は定期的に起こり得る自然な現象であり、
国家経済は景気後退を乗り越える活力を十分に備えていると考えていた。各州
の数々の試みもあって、1822 年までには景気後退は回復した。しかし、恐慌に
よる歳入現象のために、モンローが既に進めつつあった大規模な沿岸防備計画
は縮小を余儀なくされた。
第 9 項 連邦政府の黙示的権限
1819 年、マカロック対メリーランド州事件で最高裁は連邦議会が国立銀行に
特許状を与える権限を認める一方で、国立銀行のボルティモア支店に税を課す
メリーランド州法に対して違憲判定を下した。最高裁は連邦政府が人民の政府
であり、各州の同盟以上のものであるという解釈を下した。連邦政府の権限は
320
アメリカ大統領制度史上巻
人民に由来するものであり、人民の利益のために行使されなければならない。
人民の利益のために憲法によって授けられた権限を執行する手段に関して、連
邦政府の権限は憲法で列挙された権限だけに制限されず自由裁量の余地を与え
られている。その代わりに連邦政府は憲法第 1 条第 8 節の下、黙示的権限を持
つ。目的が正当であり、憲法の範疇に留まるのであれば、あらゆる適切な手段
が認められる。さらに最高裁は、連邦政府と州政府の間の紛争を解決する権限
は司法府にあると明言した。
ジェファソンは最高裁で示されたそうした考えに反対していた。ジェファソ
ンの考えでは連邦政府と州政府の間の紛争の最終的な裁定者は人民自身であり、
憲法修正を通じて裁定は行われるべきであった。マディソンはそうしたジェフ
ァソンの考えを行き過ぎだと考えた。マディソンは、最高裁が連邦政府の権限
を拡大解釈し過ぎであると認めながらも、連邦政府と州政府の権限を画定する
のに司法府が適切な場所であると述べた。ヴァージニア州議会は最高裁の見解
を批判する決議を採択し、ペンシルヴェニア州議会は、連邦議会がコロンビア
特別行政区以外に金融機関を設立する憲法修正案を提案した224。
第 10 項 連邦の州に対する優越
最高裁はコーエンズ対ヴァージニア州事件で、連邦の条約や法に関係する場
合、最高裁は州最高裁の最終判決を再審理する権利を有していると再び主張し
た。コーエンズ対ヴァージニア事件で論争点になったのは、州法係争の刑事事
件を連邦裁判所に上訴できるかという点であった。最高裁は、各州が合衆国憲
法を批准することで連邦法の優越を受け入れたのであるから、合衆国と連邦法
に基づく連邦政府は国内のすべての個人と政府を正当に支配できると主張した。
したがって、合衆国憲法と連邦法に反する州憲法や州法は無効である。
そして、マーティン対モット事件では、最高裁は、大統領の要請があった場
合、州軍を連邦の軍務に就かせることを州が拒否する権限を否定した。1812 年
戦争でニュー・イングランド諸州は連邦による民兵の召集を様々な手段で拒ん
だ。最高裁は、そうした行為について全会一致で、大統領は民兵召集の根拠と
なる憲法上の理由を判断する唯一の決定者であり、交戦状態において、大統領
は合衆国正規軍の指揮下に入る民兵をすべての州から召集する完全な権限を持
っていることは明らかであると主張した。
ジェファソニアン・デモクラシー期
321
ギボンズ対オグデン事件で最高裁は、ニュー・ヨーク州内の全水路における
蒸気船運航の独占権を与える州法を無効とし、沿岸河川運航に関する通商の規
定は連邦の州際通商権限であることが明らかにされた。したがって合衆国内の
すべての水路の独占的支配権が連邦政府に与えられる。最高裁は、州際通商が
外見的に州内取引に限られている場合でも、国民一般の商取引に影響を与える
場合は、外国貿易と同様に、連邦政府の専属的支配下にあると判断した。この
判断に基づき、各州は他州とまったく関係がなく州内に完全に限定される通商
のみ規定することができるという前例が確立された。
第 11 項 1820 年公職在任法
1820 年、官僚制度の人事異動を促進し、説明責任を明らかにしようとした議
会は 1820 年公職在任法を制定した。同法によって、歳入を徴収する責任を担う
連邦職員は任期が 4 年に限られた。任期は各大統領の就任を以って満期になる
と定められた。公職在任法は上院の権限を増大させた。なぜならもし大統領が 4
年を超えてある人物を在職させ続けたいと考えた場合に上院の同意が必要にな
るからである。また一方で同法は大統領の罷免権を促進する効果もあった。わ
ざわざ罷免を行うよりも更新を認めないという形で実質的に罷免するほうがた
やすいからである225。
第 12 項 奴隷貿易禁止の国際的取り組み
モンロー政権は奴隷貿易禁止のための国際的取り組みに参加しようとした。
1818 年、イギリスはアフリカの奴隷貿易を禁止するために、両国の船舶をお互
いに臨検しあう提案をアメリカに行った。モンローは、その提案に応じるよう
にアダムズ国務長官に指示した。その結果、アメリカは少数の海軍をアフリカ
海岸に派遣して、イギリス軍とともに奴隷貿易の取り締まりにあたった。しか
し、アメリカは、イギリスのアメリカ船に対する臨検と捕らえた奴隷商人をア
メリカの港以外に送ることを認めなかった。それは、アメリカが長らく強制徴
用問題に悩まされた経験を持っていたからである。
1820 年 5 月 15 日、奴隷貿易を海賊行為と見なし、死刑で以って処罰する法
案が成立した。さらに下院は、1821 年 12 月、モンロー政権に臨検の権利を認
322
アメリカ大統領制度史上巻
めるように促し始めた。1822 年 4 月、下院の委員会が、奴隷貿易を取り締まる
ためにヨーロッパの海運国とお互いに船舶を臨検し合うことを限定的に認める
ように勧告した。さらに 1823 年 2 月 28 日、下院は奴隷貿易の禁止を促進する
ための条約締結を大統領に促す決議を採択した。
奴隷貿易に関する協定は円滑に進んだ。その結果、主に 3 つの取り決めがな
された。アフリカの奴隷貿易に従事する両国の国民は海賊として処罰を受ける
こと、両国の海軍は協力して奴隷貿易の取り締まりにあたり、お互いに商船の
臨検を許可すること、そして、拿捕した船舶はその本国で裁判を受けるために
送還され、いかなる船員もその船舶から離すことを禁じることである。
そもそも下院の動きに刺激されて協定の締結に着手したので、モンロー政権
は上院からも容易に条約の承認を取り付けられるだろうと考えていた。1824 年
5 月 21 日、モンローは批准を求める強い示唆とともに条約案を上院に送った。
しかし、南部の議員達はイギリスとの親善回復に疑念を抱いていた。なぜなら
イギリスの反奴隷制度運動の趨勢が、奴隷貿易禁止のみならず、奴隷制度の廃
止にまで向かうことに警戒感を抱いていたからである。彼らはさらにそうした
趨勢がアメリカにも飛び火しないかと危惧していた。さらに北部にも強制徴用
で苦しんだ記憶から臨検に反感を持つ者がいた。その結果、条約は修正を加え
たうえでようやく批准された。しかし、イギリス側が修正された条約の批准を
拒否したので、米英間の親善回復と奴隷貿易取り締まりのための共同作戦は頓
挫した。
第 13 項 ラッシュ=バゴット協定
奴隷貿易取り締まりのための共同作戦は失敗したがラッシュ=バゴット協定
で米英関係は改善された。1812 年戦争終結後、五大湖周辺でイギリスとアメリ
カの間で小さな事件が何度か起きた。それがさらなる衝突の引き金とならない
ように両国政府は五大湖周辺の軍備を制限することに同意した。五大湖に配備
される両国の軍艦に制限が課され、さらなる軍艦の建造が禁止された。駐英ア
メリカ公使リチャード・ラッシュ(Richard Rush)とイギリス公使チャールズ・
バゴット(Charles Bagot)の間で結ばれたラッシュ=バゴット協定である。協定
は 1818 年 4 月 16 日、上院で承認された。
ジェファソニアン・デモクラシー期
323
第 14 項 1818 年の米英協定
さらに 1818 年の米英協定によって米英関係は改善された。ロンドンで、ガン
条約で未解決の問題を話し合うために米英間で交渉が行われた。その結果、い
わゆる 1818 年の米英協定が締結された。同協定により、まず 1812 年戦争でイ
ギリスによって連れ去られた奴隷を補償することが決定した。またアメリカは
ニューファンドランド沖とマグダレン諸島沖の漁業権を獲得した。
大西洋からオンタリオ湖に至るまでの地域に関してイギリスとアメリカの間
で明確な国境線は定められていなかったため、ガン条約に、国境線を画定する
ための会議を行う条項が盛り込まれていた。まず西部の国境問題に関しては次
のような同意が成立した。すなわち、北緯 49 度線に沿ってミシシッピ川の源流
のウッズ湖からロッキー山脈まで西に広げることが認められた。
しかし、一方で太平洋側北西部の境界に関しては両国の主張が衝突した。イ
ギリス側は境界線として、北緯 49 度からコロンビア川に沿って河口に至る線を
提示した。一方、アメリカ側は、コロンビア川流域全体と北緯 51 度線を国境に
定めるように求め、それに代わって北緯 49 度を妥協案として提示した。結局、
両国の見解の相違の溝は埋まらず、1840 年代後半まで問題が未解決のまま残っ
た。
ひとまず境界問題は、オレゴンを 20 年間、両国の共同管理下に置くことで妥
結した。アメリカはより明確な条項の取り決めを求めたが、イギリスは毛皮貿
易の利益を守るために譲歩を拒んだ。共同管理はアメリカが最終的に望んでい
ることではなかったが、オレゴンに対するアメリカの領土主張が正当であると
イギリスが認めたに等しかった。しかし、長い間の懸案であった強制徴用問題
に関する進展はなかった。こうした問題を抱えていたものの、モンロー政権は
すぐに上院に協定を提出した。上院は協定を速やかに承認し、年内に協定は確
定した。
第 15 項 第 1 次セミノール戦争
モンロー政権は第 1 次セミノール戦争でネイティヴ・アメリカンの掃討を名
目にスペイン領フロリダの首都であるペンサコーラを占領した。かねてよりス
ペインは、メキシコや西インド諸島にある植民地を守るためにフロリダ半島を
324
アメリカ大統領制度史上巻
確保することが不可欠であると考えていた。その一方でアメリカはフロリダ半
島を併合することを望んできた。また外国勢力によるフロリダ半島の領有はア
メリカの安全保障に対する脅威だとも考えられた。
当然のことながらスペインはアメリカの要求を容易に受け入れようとはしな
かった。モンローもスペインとその同盟国との戦争になるのは避けたいと考え
ていた。南部ではフロリダを獲得するために直接行動をとろうとする機運が高
まっていた。
1812 年戦争以来、ジョージア州のアメリカ人はスペイン領フロリダのネイテ
ィヴ・アメリカンと衝突を繰り返していた。1817 年 12 月 26 日、紛争の解決を
図るためにカルフーン陸軍長官は、ジャクソンに兵士を召集して騒動を鎮圧す
るように命じた。モンローの考えでは、攻撃的なネイティヴ・アメリカンをス
ペイン領内まで追跡することは問題がなかった。スペインはその所領がアメリ
カに攻撃を仕掛ける者達の拠点となっているのにも拘らず放置していることで
国際法に違反していると考えたからである。
1818 年 3 月、ジャクソンはフロリダ国境を越え、セミノール族の拠点の 1 つ
を焼き払った。次いで 4 月 18 日、ジャクソン率いる軍はセント・マークスに進
軍し、国境の安寧を保持することを名目にスペイン当局に街への立ち入り許可
と要塞の明け渡しを要求した。翌日、スペイン当局の抗議にも拘らず、アメリ
カ軍は要塞を占拠した。そして、要塞内にいたイギリス人商人を、ネイティヴ・
アメリカンを扇動した罪で拘束した。ジャクソンはさらにもう 1 人のイギリス
人を拘束した。最終的に 2 人のイギリス人はジャクソンの手によって軍法裁判
にかけられ、スパイ行為とネイティヴ・アメリカンを扇動したという罪状で 4
月 29 日に処刑された。さらにスペイン領フロリダの首都ペンサコーラがネイテ
ィヴ・アメリカンの拠点となっていると聞きつけたジャクソンは軍を進め、1818
年 5 月 24 日、ペンサコーラを占領した。
7 月の閣議で、閣僚の多くは、こうしたジャクソンの作戦行動が越権行為と見
なし、議会からの認可なしに政権に軍事行動を取らせるものだとして譴責すべ
きであると主張した。閣僚の中でアダムズ国務長官だけがジャクソンを支持し、
ジャクソンは防衛的な行動を取ったに過ぎず、スペインが秩序を回復するまで
ペンサコーラを返還すべきではないと主張した。結局、スペインの抗議に対し
てモンローは中道的な立場を示すことにした。つまり、ジャクソンの軍事行動
の否認について言及しない代わりに占領地を返還することにしたのである。結
ジェファソニアン・デモクラシー期
325
局、モンローは、確かにジャクソンは命令を逸脱したが、それが必要であると
判断するに足る情報に基づいて行動したと議会に報告した。
第 16 項 アダムズ=オニース条約
最終的にモンローはスペインからフロリダを獲得することができた。かねて
よりアメリア島は私掠船や海賊船の根拠地となっていた。アメリア島はフロリ
ダ半島北東部のセント・ジョンズ川の河口にあり、当時は反乱者がスペインか
らの解放を唱えていたが、法的にはスペインの管轄下にあった。それはスペイ
ン政府にとって受け入れ難いことであったが、同時にスペイン政府の実効支配
の脆弱性を如実に示していた。
アメリカ軍は治安維持を名目としてアメリア島を占拠し、モンローは 1817 年
1 月 13 日に議会にスペインが秩序を回復できない限り同島をさしあたって占領
する旨を告知した。スペインが混乱している状況を見たアダムズ国務長官は、
コロラドの西側の島々とフロリダを交換することを駐米スペイン公使ルイス・
デ・オニース(Luis de Onís)に持ちかけた。しかし、スペイン公使はこの案を拒
絶した。交渉の場はマドリッドに移った。
モンローは、国内の情勢不安や植民地の独立革命に悩まされていたスペイン
はアメリカに譲歩せざるを得ないと考えた。マドリッドで進展中であった米西
交渉でスペインは、ルイジアナのミシシッピ川以西とフロリダを交換する案を
提案したが、ジョン・クインジー・アダムズはそれを拒絶した。1818 年 10 月
24 日、スペインはフロリダを割譲する新たな条件を示したが、アダムズは再度
それを拒絶した。
1819 年初頭、アダムズはオニースと交渉を再開した。スペイン側がルイジア
ナの西部境界をミシシッピ川にすることを主張した一方で、アダムズはテキサ
スすべてを含むリオ・グランデ川を境界にするように求めた。2 月 11 日、モン
ローは境界問題について譲歩を提案した。つまり、サビーネ川、レッド川、そ
してアーカンソー川からなる北緯43 度、
西経100度を境界とする妥協案である。
こうした交渉の結果、1819 年 2 月 22 日、アダムズとオニースによってアダム
ズ=オニース条約が締結された。同条約の内容は次の通りである。
アメリカ人がスペインに対して求めている総額 500 万ドルの補償を肩代わり
し、アメリカとスペインの国境をサビーネ川と画定することを条件に、スペイ
326
アメリカ大統領制度史上巻
ンはフロリダをアメリカに割譲する。その結果、現在のテキサスにあたる領域
はスペインの下にとどまり、オレゴンに対するスペインの領土要求は撤回され
ることになった。締結から僅か 2 日後、上院は全会一致で条約を批准した。
第 17 項 モンロー・ドクトリン
モンローはモンロー・ドクトリンを発表することで外交における大統領の主
導権を獲得した。1803 年から 1815 年のナポレオン戦争の間、スペイン本国の
混乱にともない、ラテン・アメリカの多くの植民地で独立の気運が高まった。
ラテン・アメリカ諸国はブラジルを除いてアメリカに類似した共和制を採用し
た。モンローはラテン・アメリカの独立運動に対して好意的な見解を示したが、
中立政策を維持した。そうした政策の下、モンロー政権は戦争からは距離を置
いたが、革命政府にスペインに認めるのと同じ通商上の優遇措置を与え、交戦
国の権利を認めるなど間接的な承認を行っている。
1820 年、ヨーロッパ列強は、神聖同盟はどこで革命が起ころうとも鎮圧に乗
り出すことを宣告した。アメリカの立場からすれば、神聖同盟は明らかにヨー
ロッパにおける革命の拡大と共和制国家の樹立を妨げようとしていた。そして、
モンロー政権は、同様の措置が南北アメリカ大陸に対しても取られるのではな
いかと危機感を強めた。さらにフランスをはじめとするヨーロッパ列強が、ス
ペインによる南北アメリカの植民地再復を支援するのではないかという憶測が
流れた。
スペインによる植民地再覆を支援するという名目の下、もしフランスがラテ
ン・アメリカ諸国を征服すれば、それはアメリカだけではなくイギリスにとっ
ても脅威であった。そこでイギリス外相は、駐英アメリカ公使に、ヨーロッパ
諸国による南北アメリカの侵略に対して警告する共同声明を出すように持ち掛
けた。
1823 年 10 月 9 日、ロンドンから駐英アメリカ公使の急信が届いた。11 日、
閣議で初めて対応策が協議された。アダムズ国務長官はイギリスに追随するこ
とに反対を唱えた。アダムズは、アメリカは独自にその立場を表明すべきだと
モンローに勧めた。なぜなら、わざわざ協力関係を結ばなくても、イギリスは
独自に海軍力を使って南北アメリカに対するヨーロッパの干渉を防止するだろ
うと考えたからである。またイギリスと協力関係を結ばずにおくことで、ヨー
ジェファソニアン・デモクラシー期
327
ロッパ大陸の諸国と同じく、イギリスに対してもアメリカの声明を適用するこ
とができるという利点もあった。
モンローは閣議に対応を諮るとともにジェファソンとマディソンに助言を求
めた。ジェファソンは「我々の第 1 にして根本的な原理は、ヨーロッパの争い
に決して関わらないということである。我々の第 2 の原理は、大西洋のこちら
側の問題にヨーロッパの干渉を認めないということである。南北アメリカは、
ヨーロッパとは別の一連の利害を持っている。それ故、ヨーロッパの体系と分
離した独自の体系を持つべきである」と助言した226。さらにジェファソンは、
アメリカはアメリカのための半球を持っており、ヨーロッパの利害に従属しな
いまったく別の利害の体系を持っているとと早くもモンロー・ドクトリンの萌
芽となる考えを述べている。マディソンはジェファソンと見解を共有しており、
共同声明の申し出に応じるべきだとモンローに回答している。モンロー自身が
どのように考えていたのかは、モンロー・ドクトリンの公表後にジェファソン
に宛てて書かれた以下の手紙で明らかである。
「この立場をとることでイギリスと協同するより、ロシアとその他の諸国に
対してより宥和的で丁重なやり方であり、また我々の政府がより信頼されるよ
うになされた。もし我々がこれらの諸国から離反しているイギリスと結んでい
れば、イギリスと我々の連合は警戒され、これらの諸国の怒りをかったかもし
れない。またイギリスと結んでいれば、その影響下で行動しなければならず、
その教唆の下に行動し、そうなれば同盟諸国の信頼のみならず、我が南方の隣
邦[ラテン・アメリカ諸国]の信頼すら失うことになる」227
モンロー自身は神聖同盟がラテン・アメリカ諸国に介入する可能性が高く、
それに対抗する措置を取らなければならないと考えていた。
11 月 13 日の閣議で
モンローは、フランスがスペインに介入し、神聖同盟がスペインの旧植民地を
回復する支援する可能性があると表明した。11 月 21 日の閣議でモンローは、イ
ギリスがスペイン領アメリカ諸国の独立を承認しない限り共同声明を行なわず、
ヨーロッパ諸国の南アメリカに対する干渉に関してアメリカは独自の立場を示
すべきだと閣僚に告げた。またフランスによるスペイン介入への反対、ギリシ
ア独立への支持、そして、ヨーロッパ諸国による北アメリカへの新たな植民を
拒否することを表明すべきだとモンローは考えた。ヨーロッパによるラテン・
アメリカへの干渉の可能性に加えて 1821 年、ロシア・アメリカ会社はロシア政
府に働きかけて、北緯 51 度以南との交易を禁じただけではなく、ベーリング海
328
アメリカ大統領制度史上巻
峡とロシア領北西部海岸の 100 イタリア・マイル以内から外国船舶を締め出す
勅令をとりつけた。それはロシアが北アメリカで植民地を拡大しようとする動
きの一環であった。こうした動きに対応して 1823 年 12 月 2 日にモンロー・ド
クトリンが公表された。
モンロー・ドクトリンは大きく 3 つの部分に分かれる。第 1 に、アメリカが
ヨーロッパの問題に関して中立を貫くという伝統的な政策を再確認している。
第 2 に、西半球において、既存の植民地の問題に関してアメリカは干渉しない
が、新たな独立諸国の再征服や君主制を樹立しようとする場合はアメリカに対
する敵対行為と見なすと主張している。そして、第 3 に、主に北太平洋で勢力
を伸ばすロシアに対して、西半球はもはや新しい植民地化に対して開かれてい
ないことを断言している。
「我が国の諸外国との個別の交渉や取引に関する対外関係の正確な知識は、
とりわけ必要であると考えられる。同様に必要なことは、我が国の資源、歳入
及び国家の繁栄と防衛に関連するあらゆる種類の改善事業の発展について、
我々が正当な評価を下さねばならないことである。使節団は、ガン条約の第 5
条の下で、画定を委ねられていた合衆国領とイギリス領の問の国境線の一部に
関して意見が一致しなかったので、この第 5 条に従って、その画定は友好国の
決定に付託されることもあり得るという報告をそれぞれ行った。いくつかの重
要な間題に関して長い間懸案になっているフランス政府との交渉、とりわけ前
の戦争で合衆国市民が不当な差押さえや財産の没収により被った損失に対する
正当な賠償交渉は、まだ望ましい結果を得ていない。当地駐在のロシア皇帝の
公使を通じてなされたロシア帝国政府の提案に際しては、アメリカ大陸北西海
岸における米露両国それぞれの権利と利益を、友好的な交渉によって調整する
完全な権限および訓令が、サンクト・ペテルブルク駐在の合衆国公使に対して
伝達された。同様の提案がロシア皇帝によってイギリス政府に対してもなされ、
それも同様に受諾された。合衆国政府はこの友好的措置によって、これまで変
わることなく皇帝陛下の友好的態度変を高く評価してきたこと、そして皇帝政
府との理解をこのうえなく深めようと切望してきたことを表明したいと望んで
きた。このような関心から始まった討議において、また両国が、その結果結ぶ
かもしれない協定において、合衆国の権利と利益が包含される基本的原則とし
て、次の点を主張するのがこの際適切と判断された。すなわち、南北アメリカ
大陸は、これまで取り続け維持してきた自由と独立の状態によって、今後、ヨ
ジェファソニアン・デモクラシー期
329
ーロッパ列強のいかなる国によっても将来の植民の対象と見なされてはならな
いという原則である。ギリシア人の英雄的闘争に鑑みて、彼らが戦いに勝利し
て、地球上の諸国民の間で対等な地位を回復するのに成功することに対して、
強い希望が抱かれている。すべての文明世界は、彼らの幸福に深い関心をもつ
と信じられている。どの列強も彼らに味方するとは宣言していないが、我々の
知るところによれば彼らに反対している列強はない。彼らの大義と名前が、そ
れがなければ、かのいかなる人民をも圧倒してしまったかもしれない危険から
彼らを守っている。諸国家のやり取りに大幅に入り混じる、強大化を視野に入
れた利益と獲得の計算は、彼らに関して言えばまったく影響がなかったようで
ある。我々が知りえた事実によれば彼らの敵は彼らに対する支配を永久に失っ
たと信じるに足る十分な理由がある。ギリシアが、再び独立国になると信じる
十分な理由がある。かの国がその地位を得ることは、我々の最も切実な希望の
対象である。連邦議会の前回の会期の初頭に、スペインとポルトガルの両国で
は、国民の状態を改善するために多大の努力が当時払われていたこと、またそ
れが非常に穏健な手段で行われているように思われたことが述べられた。その
結果がその頃、予想されたものとはきわめて異なってしまったとはあらためて
述べるまでもないことである。我々の付き合いも深く、祖先の地でもある地球
上のかの地域[ヨーロッパ]での出来事について、我々はいつも憂慮し、関心を抱
いて注視してきた。合衆国の市民は、大西洋の向に住む仲間達の自由と幸福の
ために、このうえなく友的な気持を抱いている。ヨーロッパ諸国自体に関連し
た主題をめぐる諸国間の戦争には、我が国はいまだかつていかなる役割をも演
じたことはないし、それは我が国の政策に合致しない。我々が侵害行為に怒り、
あるいは我が国の防衛に備えるのは、我々の権利が侵されるか、著しく脅かさ
れる場合に限る。我々はこの西半球における動きには必然的により直接的な関
係を持っているし、我々がそれに関わる理由は、明敏で公平な観察者の眼には
明らかであるに違いない。[神聖]同盟諸国の政治組織は、この点でアメリカのそ
れとは本質的に異なっている。この違いは、それぞれの政府の中に存在してい
るものから生じている。我が国の政治組織は多くの血と財貨を犠牲にして勝ち
取られ、最も明敏な市民の英知のお蔭で成熟を遂げたものであり、また、その
下で我々が比類のない幸福を享受してきた政治組織であって、その防衛には国
民がこぞって当たる。それ故に我々は、率直に、また合衆国とこれら諸国との
間に存在する友好関係のために、次のように宣言する義務がある。すなわち、
330
アメリカ大統領制度史上巻
我々は、ヨーロッパの政治組織をこの西半球に拡張しようとするヨーロッパ諸
国側の企ては、それが西半球のいかなる部分であれ、我々の平和と安全にとっ
て危険なものと見なさなければならない。我々は、いかなるヨーロッパ諸国の
現在の植民地や従属地にも干渉したことはなかったし、今後も干渉するつもり
はない。しかし、既に独立を宣言し維持している政府、しかもその独立を我々
が十分な検討を加え正当な原則に基づいて承認した政府の場合には、これを抑
圧することを目的とし、他の方法でその運命を支配することを目的とするヨー
ロッパ諸国による介入は、どのようなものであっても、合衆国に非友好的な意
向の表明としか見ることはない。このような新独立政府とスペインとの戦争に
際して、我々は独立政府を承認した時点で中立を宣言したし、中立を固守して
きたし、今後も固守し統けるつもりである。この方針は、本政府の所管官庁の
判断で、合衆国の側での臨機応変の変更が、独立諸政府の安全保障にとって絶
対に必要であるような場合を除いて、何ら変わらないだろう。ヨーロッパに対
する我々の政策は、ヨーロッパを長い間かき乱した諸戦争の初期の段階でとら
れたものであるが、今日でも相変わらず同じ政策のままである。それは、ヨー
ロッパ諸国のどの国の国内問題にも干渉せず、事実上存在する政府を我々にと
っての合法的政府と見なし、その政府との友好関係を増進し、率直で堅固な断
乎とした政策によってこの関係を維持し、正当な要求であればいかなる国の要
求にもすべて応じ、またいかなる国の侵害行為に屈伏しないという政策である。
しかし、南北アメリ力大陸に関しては、事情は著しくまた明白に異なっている。
[神聖]同盟諸国がその政治組織を南北いずれかの大陸のどの部分にでも拡張し
ようとすれば、必ずや我々の平和と幸福は危険にさらされる。また、我が中南
米の仲間達が、放っておけばひとりでに[神聖]同盟諸国の政治組織を採用するで
あろうなどと信ずる人は 1 人もいない。したがって、どのような形であっても、
そのような干渉が行われた時、我々が無関心に見過ごすことも同様にあり得な
いことである。当事者自身に任せることが依然として合衆国の真の政策であり、
他の諸国も同じ道をとってくれるようにと希望する」228
モンロー・ドクトリンは当初は「モンロー氏の諸原則」
、もしくは「モンロー
宣言」などと呼ばれていた。モンロー・ドクトリンという名で知られるように
なったのは 1853 年以降である。モンロー自身も一般的に適用される「ドクトリ
ン」を公表したとは考えておらず、あくまで特殊な状況に応じた声明だと考え
ていた。
ジェファソニアン・デモクラシー期
331
モンロー・ドクトリンは国内ではヨーロッパの君主国に対する断固たる干渉
の拒否と共和主義への賛辞として国民に歓迎された。多くの新聞もモンロー・
ドクトリンを支持し、ヨーロッパ諸国によるラテン・アメリカへの干渉の危険
性を抱き、アメリカがそうした干渉を払い除ける力があると信じていた。しか
し、議会の反応は鈍く、ほとんど議論さえ行われなかった。また対象となるラ
テン・アメリカ諸国の反応も冷ややかであった。ヨーロッパ諸国の中ではイギ
リスはモンロー・ドクトリンを歓迎し、神聖同盟によるラテン・アメリカへの
干渉の危機を終結させるものとして評価した。その一方で神聖同盟諸国はモン
ロー・ドクトリンを酷評した。
モンロー・ドクトリンは大統領が外交において優先権を持つことを示す格好
の例となった。西半球の独立を明言することでアメリカはさらなる外交的、軍
事的責任を負うことになった。モンロー・ドクトリンは議会によって承認され
ることもなく、モンローによって実行されたわけではないが、重要な文書であ
ることは間違いない。独立宣言と同じく、モンロー・ドクトリンはアメリカ人
の願望を文章化したと言える。またモンロー・ドクトリンは大統領の権威が低
下している時代において重要な文書であった。なぜなら外交政策を形成するに
おいて大統領の権限が優越することが示されたからである。ヨーロッパの干渉
からの西半球の独立は、アメリカがより多くの軍事的、外交的責任を負うこと
を示唆していた。そうした責任は大統領によって負われるべきものであった。
さしあたってのところ、モンロー・ドクトリンは大きな影響を及ぼさなかった
が、19 世紀末の外交に大きな影響を及ぼすことになる229。
第 18 項 結語
モンロー政権の終わりは 4 半世紀にわたった 1 つの王朝の終わりであった。
モンローはヴァージニア出身者の三頭政治、つまり、ジェファソン、マディソ
ン、そしてモンローの最後の 1 人であった。彼らはそれぞれ建国期に重要な役
割を果たした。1790 年代、新たな憲法の下で 3 人はそれぞれ連邦派に対抗して
民主共和派を形成し、その指導者となった。モンローはまた独立戦争で指導的
な役割を果たした最後の世代であった。ヴァージニア王朝の終焉により、民主
共和党は全国的な名声を持つ人物に率いられることはなくなった。
1812 年戦争の後、連邦党は勢力を大幅に失い、実質的に民主共和党の一党支
332
アメリカ大統領制度史上巻
配となった。皮肉にも、民主共和党の統一は、選挙で大勝を収めたが故により
いっそう難しくなった。統一を促進するためには好敵手が必要である。しかし、
モンロー政権期、連邦党はもはや全国的な組織とは言えなかった。1816 年まで
に連邦党はますます弱体化し、大統領候補を擁立することさえできなくなった。
その結果、1820 年の大統領選挙でモンローはほとんど何の抵抗も無く再選され
た。
さしあたって、民主共和党は新しい全国的な意見の統一を体現しているとい
うジェファソンの主張は正しいように思えた。連邦党に対する勝利によって、
憲法が想定したように党派がない状態を回復することができるように思えた。
モンローは、新しい時代の到来によって党派の分裂が消滅し、自由な政府の基
礎が磐石になることを望んだ。しかし、モンローは政策への支持を得るために
政党の指導者としての影響力を議会に及ぼすスタイルはあまりとらなかった。
それよりも個人的な接触や閣僚を通して影響力を行使するスタイルを好んだ。
また閣議を活用して意見の統一に努めた。モンローは物事をあらゆる面から検
討して結論を急がない性格であった。こうした手法は、政権末期に党派的な衝
突が顕在化するまで有効に機能した。一時的な景気後退はあったが、アメリカ
の製造業は堅実な発展を示し、西部への移住も進んだ。この好感情の時代はミ
ズーリ問題で一時期、中断され、さらに政権末期、次期大統領の選定をめぐる
争いで完全に幕を閉じた。
モンローの出自は、ヴァージニアの郷紳の中では下層に属した。そのため過
度に自己の名声や栄誉に固執する傾向があった。それは、独立戦争中に自分の
部隊を指揮して軍功をあげたいと何度も願ったことからも分かる。またモンロ
ーは、しばしば郷党意識や党派といった狭い意識にとらわれがちであったが、
ヨーロッパで外交の経験を積むことによって、幅広い視野を身につけた。
とはいえ独立宣言を起草したジェファソンや「憲法の父」であるマディソン
と比べてモンローは理論や理念を構築するという点では劣っていた。しかし、
閣僚を統御する能力や協力関係の構築などの点で優れていた。閣議では閣僚達
の討論を静かに聞き、最後に判断を下した。閣僚自身の裁定に任せることも多
かったが、たいていはモンローが方針を示し、閣僚達はそれに従った。またモ
ンロー・ドクトリンも国務長官ジョン・クインジー・アダムズとの連携なしで
は生まれなかった。
アメリカは建国以来、フランス革命とそれに引き続くナポレオン戦争などヨ
ジェファソニアン・デモクラシー期
333
ーロッパの騒乱に大きく影響を受けてきた。モンロー政権期はヨーロッパの騒
乱と決別してアメリカが独自路線に踏み出す転換期となった。アメリカをヨー
ロッパ情勢に振り回された建国期から国内発展の新たな段階に導いたモンロー
の功績は大きい。
第 4 節 ジョン・クインジー・アダムズ政権
第 1 項 概要
ジョン・クインジー・アダムズ(John Quincy Adams)は 1767 年 7 月 11 日、
マサチューセッツ植民地ブレインツリー(現在のクインジー)で第 2 代大統領に
なったジョン・アダムズの長男として生まれた。ジョン・クインジーという名
前は母方の曽祖父に因んで命名された。父に随行してヨーロッパ各地を歴訪し、
13 歳の時に駐露アメリカ大使の秘書兼通訳としてロシアに向けて出発した。正
規教育を受けた期間は短かったが父の厳しい薫陶を受けて、父と同じくハーヴ
ァード・カレッジに進んだ。オランダ、ポルトガル、プロイセン、ロシアなど
各国の公使を務めた後、マサチューセッツ州上院議員、連邦上院議員などを歴
任し、モンロー政権下で国務長官に就任した。国務長官としてモンロー・ドク
トリンの形成に大きく貢献し、アメリカの外交政策の基盤を作った。1824 年の
大統領選挙でジャクソンと大統領の座を争ったが、いずれの候補も過半数の選
挙人票を獲得できず裁定は下院に委ねられた。その結果、一般投票でも選挙人
票でも劣勢であったにも拘らず、ジョン・クインシー・アダムズの当選が決定
した。アダムズは対立党派の激しい抵抗のために著しい業績をあげることがで
きなかった。さらに 1828 年の大統領選挙でジャクソンに破れ、父と同じく 1 期
のみの大統領在任となった。退任後も連邦下院議員として重きをなし、 奴隷制
度に対して独自の反対論を展開した。そのため「偉大なる雄弁家」や「人権の
擁護者」と呼ばれた。
第 2 項 大統領選挙
既に連邦党は事実上、消滅していたが、好感情の時代の後、民主共和党もい
くつかの派閥に分裂しつつあり、それらがどのように離合集散し、新しい諸政
党を形成するのかまったく推測がつかなかった。そうした中、1824 年の大統領
334
アメリカ大統領制度史上巻
選挙は政策面の争いというよりも人物の争いであった。ヴァージニア出身者の
候補者はいなかった。それは 1 つの時代が終わったことを示していた。ニュー・
イングランド、南部、そして西部からそれぞれ大統領候補が立ち、アメリカ史
上、かつてない程に混迷した大統領選挙となった。選挙の結果は議論の嵐を呼
び、これまで行われてきた党幹部会による大統領候補指名の方式の変革を促し
た。ウィリアム・クローフォードが党幹部会によって民主共和党の大統領候補
に選ばれた。クローフォードは民主共和党の公認候補に選ばれたとはいえ、党
幹部会には民主共和党の上下両院議員の 4 分の 1 しか出席しておらず、民主共
和党が一致して選んだ候補とは言い難かった。またクローフォードの指名を多
くの州議会が支持せず、独自の判断で投票することを表明した。ケンタッキー
州議会はクレイを大統領候補に指名した。その一方でテネシー州議会はジャク
ソンを大統領候補に指名した。
大統領選挙は 1824 年 12 月 1 日に行われ、261 人の選挙人(24 州)が票を投じ
た。選挙の結果、どの候補も過半数を獲得することはできなかった。1824 年の
大統領選挙は史上 2 回目の下院が決選投票によって当選者を決定した選挙とな
った。ニュー・オーリンズの英雄であるジャクソンが 12 州から 99 票を得て首
位を獲得したが、過半数の 131 票には届かなかった。モンロー政権で国務長官
を務めたジョン・クインジー・アダムズは 11 州から 84 票を得た。アダムズは
国務長官こそ大統領の正統な後継者であると信じていた。前任者とは異なり、
アダムズは選挙に立候補した経験がなかった。その他、クローフォードがヴァ
ージニア州を中心に 5 州から 41 票、クレイがケンタッキー州とオハイオ州を中
心に 4 州から 37 票を得た。
憲法修正 12 条に基づいて、上位 3 人の中から当選者が決定されることになっ
た。そのために 4 位であったクレイは決選投票から外れた。またクローフォー
ドは中風の発作を起していたので事実上、候補から外されていた。その結果、
決選投票はアダムズとジャクソンの間で行われたと言ってよい。下院での決選
投票の結果、アダムズは 24 票のうち辛うじて過半数となる 13 票を獲得し、当
選が確定した。ジャクソンは 7 票、クローフォードは 4 票であった。アダムズ
が過半数を獲得できた背景にはクレイの影響力が大きい。もしクレイを強く支
持するケンタッキー州、ミズーリ州、オハイオ州の票がなければアダムズが過
半数を獲得することは難しかったと考えられる。
下院がアダムズの大統領就任を裁定する以前から、ジャクソンの支持者は、
ジェファソニアン・デモクラシー期
335
閣僚のポストと引き換えに下院議長のクレイにアダムズが協力を依頼したとい
う非難を行っていた。そして、アダムズがクレイを国務長官に指名した時、ジ
ャクソンの支持者は闇取引が行なわれたと議会で批判した。そのような取引が
実際に行われたかどうか真相は闇の中である。こうして深まった亀裂は修復さ
れることなく、民主共和党は、クレイが主導する国民共和党とジャクソン率い
る後の民主党に分裂した。1824 年の大統領選挙は、限られた数の議員が大統領
候補を指名し、その使命がそのまま当選に繋がるいわゆる「帝王的党幹部会」
の終焉であった。
第 3 項 国内開発事業
ジェファソン主義者の時代の最後の大統領であったジョン・クインジー・ア
ダムズは、少数派によって選ばれた大統領ということで厳しく束縛されていた。
しかし、アダムズは有能な政治家であり、議会に従属することを潔しとせず大
統領の権威を取り戻そうとした。実際、アダムズは、行政府の計画を積極的に
推進するために議会を公然と主導しようとしたアメリカ史上最初の大統領であ
った。
1825 年 12 月 5 日の第 1 次一般教書でアダムズは、もし議会が国民一般の利
益のために権限を行使しないのであれば最も神聖なる信頼を裏切っていること
になると論じている。そして、運河、道路、港湾、灯台などを建設するべきだ
と主張した。またアダムズは、連邦政府による建設、探査、教育、科学振興、
経済を改善する法律の制定などを提案した。この計画には、天体観測所とワシ
ントンが提言した国立大学の建設が含まれていた。特に天体観測所については、
当時はまだアメリカには存在せず、最初の天体観測所ができたのは 1838 年であ
る。
アダムズは、道路・運河建設によって国内の連帯が促進され、より多くの人々
が西部の開発に加わることができるようになると考えていた。こうした考えは
1790 年代からアダムズの脳裏にあった。道路・運河建設、港湾改良、河川浚渫
などの国内開発事業の資金は関税収入や公有地の売却益であった。また公有地
の割り当てや運河会社の株式購入などを通じて連邦政府は運河建設を支援した。
アダムズの広範な国内開発事業の推進に関してジェファソン、マディソン、
そしてモンローは、議会がそのような政策を認め、予算を拠出することに憲法
336
アメリカ大統領制度史上巻
上の疑義を抱いていた。国内開発事業に取り掛かる前に憲法修正が必要だとい
う点で 3 人の見解は一致していた。それに対してアダムズは狭義の憲法解釈を
否定し、より広義の憲法解釈を求めた。閣僚はアダムズの計画が実行不可能だ
と考え反対したが、アダムズは計画を推進しようとした。アダムズは憲法第 2
条第 3 節の「自ら必要にして良策なりと考える施策について議会に対し審議を
勧告する」という規定を積極的に実践しようとした最初の大統領であった230。
しかし、アダムズは人民の信任を得ることができなかった。
アダムズは公有地の売却益を国内開発事業の準備金であると考えていたため
に、公有地を廉価で払い下げようとしなかった。しかし、影響力を強めつつあ
った西部の住民の多くは安い定価で公有地を購入する先買権と未売却公有地の
漸減的価格引下げを求めていた。こうした利害衝突はアダムズの不人気の一因
となった。また南部は、国内開発事業を通じて連邦政府が権限を拡大し、奴隷
制度についても容喙するのではないかと不信感を強めた。こうした根強い反対
のためにアダムズの国内開発事業はほとんど実現しなかった。後にアダムズは、
国内開発事業が地域的対立の犠牲になって頓挫した結果、連邦は強化が遅れ、
奴隷制度問題を処理する能力を失ったと述懐している。
第 4 項 1828 年関税法
またアダムズは国内開発事業のために連邦の歳入を増やそうと議会に関税率
の引き上げを求めた。アダムズは保護関税によって国内製造業を保護し、都市
部の成長を促すことで農産物の市場も生まれると考えた。1828 年までにニュ
ー・イングランド諸州では製造業、特に羊毛産業が農業に代わって主要産業に
成長していた。そして、輸入品に対して高い関税を求める声が高まった。その
結果、1828 年関税法が可決された。
議会は、輸入された原材料により高い関税を課す修正を加えて関税の引き上
げを認めた。しかし、一方で輸入品に対する高関税は南部の農園主にとって支
出の増大を意味したので南部の指導者達は保護関税に反対し、低関税、もしく
は自由貿易政策を維持しようとした。そうした一派から 1828 年関税法は「唾棄
すべき関税」と呼ばれた。サウス・カロライナ州は「サウス・カロライナの論
議と抗議」を公表し、州権論に基づいて連邦法の無効を訴えた。唾棄すべき関
税はアダムズが 1828 年の大統領選挙で敗北する一因となった。
ジェファソニアン・デモクラシー期
337
第 5 項 ラテン・アメリカ政策
アダムズは穏健なラテン・アメリカ政策を推進しようとした。アダムズは、
最恵国の原理に基づいて通商条約をラテン・アメリカ諸国と締結し、そうした
新国家が共和主義の原則を遵守して平和を維持するように期待した。シモン・
ボリヴァル(Simón Bolívar)は、ラテン・アメリカの統一を促進し、スペインに
対する共同政策を協議するために最初の汎米会議であるパナマ会議の開催を決
定した。アメリカは、南北アメリカ全体の利益を考える中立国として招かれた。
ボリヴァルはアメリカを除外するつもりだったが、1825 年春、メキシコ公使と
コロンビア公使はクレイ国務長官にアメリカの参加を代診した。閣議で参加の
是非が討議され、条件が整えば、会議に参加する旨が回答された。アダムズは、
ラテン・アメリカ諸国と友好関係を築き、そうした諸国にキューバとプエルト・
リコの解放を思いとどまらせ、最恵国と海上自由の原則を採択させたいと考え
た。
11 月、アメリカは正式に会議に招聘された。クレイの勧めにしたがってアダ
ムズは 1825 年 12 月 6 日と 26 日、議会にパナマ会議への使節団派遣の是非に
ついて諮った。教書では、通商上の利益だけではなく、ヨーロッパ列強による
植民化への反対、宗教的抑圧の撤廃などについてラテン・アメリカ諸国と協力
関係を築くことができると示唆されている。
アダムズの要請を受けて 1826 年 1 月 11 日、議会は討議を開始した。南部の
指導者達は、パナマ会議参加に付随して黒人共和国であるハイチ共和国が議会
で承認されるのではないかと危惧した。またアダムズ政権に反対するジャクソ
ン支持者もアダムズ大統領による使節団派遣を阻止しようとした。そのため上
院ではパナマ会議参加をめぐって激しい議論が交わされた。
激しい議論の中、
アダムズは 3 月 15 日に教書を送付して議会の説得に努めた。
それは、アメリカの根本的な外交方針に関して、ワシントンの告別の辞に新た
な解釈を加える内容であった。こうした努力にも拘らず、使節団派遣の決定は
遅れ、上院で最終的に派遣が決定したのは 3 月 25 日であった。さらに使節派遣
のための予算計上がようやく下院で認められたのは 4 月下旬であった。
ジョン・ランドルフ(John Randolph)上院議員はパナマへの使節団派遣がクレ
イの陰謀であると非難した。クレイはランドルフに決闘を申し込んだ。決闘は
338
アメリカ大統領制度史上巻
いずれも負傷せずに済んだ。アダムズは「パトリック・ヘンリー」と偽名でカ
ルフーン副大統領がランドルフの非難を止められなかったことを新聞で攻撃し
た。カルフーンも「オンスロー」という偽名で反駁した。大統領と副大統領の
間の論戦は、上院における副大統領の責任が主な論題であった。この論戦の結
果、副大統領は議長として議場の秩序を保つ責任があるという規則の改正がな
された。
パナマ会議は実質上、ほとんど成果をあげずに散会した。アダムズはモンロ
ーにアメリカの代表として会議に出席して欲しいと要望したが、モンローは妻
の健康の悪化を理由に断った。アメリカの使節も紆余曲折があって結局、参加
できなかった。
第 6 項 ネイティヴ・アメリカン政策
ネイティヴ・アメリカンの権利をできる限り保護しようとしたという点でア
ダムズを評価するべきである。1825 年 5 月、アダムズはインディアン・スプリ
ングス条約に署名した。同条約は、アラバマの域外へクリーク族を移す内容で
あった。その一方で、アダムズはネイティヴ・アメリカンの土地を諸州の侵害
から保護する姿勢を示した。第 4 次一般教書の中でアダムズは連邦政府がネイ
ティヴ・アメリカンの主権と土地の権利を保障する必要があるという信念を示
した。事実、アダムズはジョージア州とチェロキー族の争いについては、一貫
してチェロキー族の権利を擁護した。そのため南部と西部の支持を失う原因の 1
つとなった。
第 7 項 結語
アダムズの厳格で独立独歩の精神は政治的連携を図るのに不向きであった。
またアダムズが目指した独断的な大統領のリーダーシップは当時の政治的風土
に適していなかった。1826 年の中間選挙で、アダムズ政権は史上初めて野党に
両院ともに過半数の議席を明け渡した。かねてよりジャクソン支持者とクロー
フォード支持者は連合してアダムズ政権に対峙していたが、中間選挙の敗北に
よりさらに政権運営が難しくなった。こうした事情により、アダムズが推進し
ようとした国内開発事業は無視されるか軽視されるかでほとんど実現しなかっ
ジェファソニアン・デモクラシー期
339
た。アダムズ政権の終焉はすなわち民主共和党の時代の終焉であった。
好感情の時代とその後のジョン・クインジー・アダムズ政権期間を通じて各
地域は変化しつつあった。ニュー・イングランドとペンシルヴェニア州では海
運業の代わりに製造業が台頭した。ヴァージニア州は農業州として衰退しつつ
あった。綿花栽培はサウス・カロライナ州とジョージア州からメキシコ湾岸の
諸州に拡大した。北西部は人口と影響力を増大させた。こうした変化によって
地域間の利害が顕在化し、連邦政府を通じて相補的な利害を有する州の間に結
合と提携を作り出すことが重要な政治課題となり、政治家は政党組織を通じて
地域間の利害衝突を調停する役割を果たさなければならなくなった。
アダムズは自らが固く信奉する厳格な正義から、政治的配慮に基づく政策を
採用することを好まなかった。それはアダムズが猟官制度を採用しなかったこ
とからもよく分かる。こうしたアダムズの自他ともに厳格な姿勢は、ともすれ
ば一般庶民を遠ざけているようにも見えた。それは父ジョンにも共通している。
アダムズは大衆の関心に迎合せず、しばしば妥協を好まず、自らが不正だと
思ったことは全く遠慮することなく主張したので決して政治屋の資質に優れて
いるわけではなかった。政治家は国民の道徳を涵養するために影響力を行使し
なければならないという固い信念があった。しかし、国家の行為は、国益の排
他的、かつ最優先の考慮により規定されるという自らの信念を貫き通した姿勢
は、外交面での業績とともに高く評価されている。アダムズが推進しようとし
たアメリカ体制も形を変えて後の共和党に受け継がれ、19 世紀後半の発展の礎
となった。
340
アメリカ大統領制度史上巻
第 3 章 ジャクソニアン・デモクラシー期
第 1 節 ジャクソン政権
第 1 項 概要
1767 年 3 月 15 日、アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)はサウス・
カロライナ植民地とノース・カロライナ植民地の境界周辺のワックスホーで生
まれた。正確な生誕地については不明である。3 番目の末子であった。父はリネ
ン織りや農業を生業としていた。ジャクソンが生まれる前に怪我が原因で亡く
なっている。ジャクソンは学校に通っていたが、僅か 13 歳の時に兄とともに独
立戦争に身を投じた。戦後、ジャクソンは法律を学び法曹界で身を立てた。西
部で頭角を現したジャクソンは、テネシーの州昇格に伴い州選出初の連邦下院
議員になった。その後、連邦上院議員にも選出されたが、経済的な事情でテネ
シーに帰り、州最高裁判事を務めた。1812 年戦争が勃発するとジャクソンは、
志願兵を率いて戦うことを決意した。ジャクソン率いる部隊は約 5 ヶ月かけて
イギリスと同盟していたクリーク族を打ち破った。さらに軍をフロリダに進め
たジャクソンはニュー・オーリンズでイギリスに大勝し、一躍、国民的英雄と
なっ た。1824 年でジャクソンは有力な大統領候補として浮上し、一般投票で
ジョン・クインジー・アダムズを上回ったものの、過半数を獲得できず、下院
の裁定の結果、落選した。1828 年の選挙で雪辱を果たしたジャクソンは、猟官
制度を導入し、幅広い階層に政治参加の道を開いた。また第 2 合衆国銀行の特
許更新に反対し、廃止を決定した。サウス・カロライナ州の連邦法無効宣言に
対して断固たる姿勢を貫き、連邦の優越性を確立した。その一方で、ネイティ
ヴ・アメリカンに対しては軍を派遣してミシシッピ以西に強制移住させている。
ジャクソンは議会のホイッグ党が制定した法案に積極的に拒否権を行使した。
ジャクソンは、連邦議会の行き過ぎから人民を守る役割を自任した。それは連
邦政府の権力が、議会と大統領のどちらにあるかという長く続く戦いの一部で
あった。
第 2 項 大統領選挙
ジョン・クインジー・アダムズの再選の試みは 1825 年に大統領に就任する以
前から行われ、大統領に在任した 4 年間続いた。アダムズは議会から強い抵抗
ジャクソニアン・デモクラシー期
341
を受けた。国中でアダムズとクレイの間で闇取引が行われたと非難するジャク
ソン支持者がアダムズに対して組織だった抵抗を行った。1828 年までに 1824
年の大統領選挙で深まった政治的混迷は新たな政党の編成を伴った。連邦党は
既に消滅していた。1801 年以来、アメリカ政治を支配してきた民主共和党は 2
つの主要な党派に分裂した。ジョン・クインジー・アダムズとクレイは国家的
な抱負を持つ国民共和派を形成し、ジャクソンと副大統領だったカルフーンは
州権を尊重し、連邦政府の権限を抑えようとする古い民主共和派を形成した。
1832 年までに両者はそれぞれホイッグ党と民主党に発展し、南北戦争の直前ま
でアメリカの政界を支配した。ホイッグ党は、旧連邦党、強固な州権論者、民
主党に不満を抱く者、ジャクソンに敵意を抱く者など雑多な連合であった。
ホイッグ党という名称は 1834 年に広く使われるようになり、1856 年の大統
領選挙の後に党が解体するまで使われた。
「ホイッグ」という言葉はイギリスで
国王に反対する一派が自らを「ホイッグ」と称したことに因んでいる。ホイッ
グ党の代表的な指導者はクレイとダニエル・ウェブスター(Daniel Webster)であ
る。彼らは、アメリカ体制と呼ばれる全国的な経済政策を支持した。アメリカ
体制は、保護関税、連邦政府による国内開発事業の推進、合衆国銀行の継続、
保守的な公有地販売政策を特徴とし、その本質はハミルトンの経済政策に遡る。
またホイッグ党は議会の優越性を確立し、大統領の権限を制限するべきだと考
え、民主党の大統領と対立した。ホイッグ党と民主党によってアメリカの二大
政党制度は発展した。
ジャクソン派の民主党員はホイッグ党との競争で優位を占めた。1828 年から
1856 年までの大統領選挙で民主党が敗北したのは 1840 年と 1848 年のみであ
った。1828 年の大統領選挙におけるジャクソンの勝利は、農業的な南部と西部
のフロンティアの利害が東部の金融的、商業的利害に勝る傾向を示していた。
1803 年のルイジアナ購入と 1819 年のフロリダ購入は、合衆国に広大な領域を
付け加え、以前は政治の埒外にいた人々に大きな影響力を与えた。
1828 年の大統領選挙はこれまでにない激しい中傷が交わされた。アダムズは
ホワイト・ハウスに自ら購入した撞球台とチェスを備えていたが、ジャクソン
支持派は公共の資金でそうした賭博に関連する設備を購入したと中傷した。ア
ダムズを支持する新聞は、ジャクソンが不服従の罪で 6 人の州兵を射殺したこ
とを取り上げ、ジャクソンの決闘騒ぎやジャクソン夫人との関係を中傷した。
大統領選挙の結果、ジャクソンは南部と西部を制し、ペンシルヴェニア州とニ
342
アメリカ大統領制度史上巻
ュー・ヨーク州で勝利を収めてアダムズの 83 人に対して 176 人の選挙人を獲得
した。ジャクソンの勝利に貢献したのは、南部の猟師や奥地の農民、そして閣
僚から大統領を目指す政治家に飽き飽きしていた北部の民衆であった。
ジャクソンは既存の政界の外部から大統領になった初めての人物であった。
ジャクソンの前任者達は副大統領や国務長官として皆、国政や外交で豊かな経
験を積んでいた。ジャクソンはほとんど正規の教育を受けていなかった。さら
に連邦議会での経験に乏しかったし、行政経験もほとんどなかった。ジャクソ
ンは独立独行の人物であり、時代の強力な象徴であった。松の木の中の小さな
小屋から身を起こし大統領にまでなった人物である。ジャクソンは健全な人格
と常識を備えた平均的なアメリカ人であれば大統領職に就くことができること
を自ら証明した。
第 3 項 就任式
ジャクソンの就任式を見物しようと 1 万人もの人々がワシントンに殺到した。
当時のワシントンの人口は 1 万 8,000 人であったからそうした人々でワシント
ンは混雑を極めた。ジャクソンは軍隊によるパレードを行うこともできたが、
そうした名誉を一切辞退し、投宿先から連邦議会議事堂までの半マイルを友人
達とともに歩いただけであった。父ジョン・アダムズがジェファソンの就
任式に出席しなかったのと同じく、ジョン・クインジー・アダムズも後
任者の就任式に出席しなかった。就任演説を行った後、ジャクソンは馬車
でホワイト・ハウスまで向かった。その後には多くの人々が馬車や徒歩
で付き従い非公式のパレードを行った。
警察の手配は特にされておらず、2 万人に及ぶ人々がホワイト・ハウ
スに雪崩れ込んだ。ホワイト・ハウスの中で陶器を壊したり、食器を壊
したり、窓を割ったり、狼藉を働き始める者もいた。ダマスク織りの椅
子に泥だらけの靴でのったり、ソファを潰したり、壁紙を剥がしたり、
衣服を引き裂いたり狼藉はひどくなる一方であった。泥酔したり、喧嘩
を始めたりする者までいた。ホワイト・ハウスの中で無傷で残された物
はほとんどなかった。幸いジャクソンの周りには屈強な友人達がいて、
ジャクソンは何とか裏窓から逃れることができた。ジャクソンは就任最
初の夜をホワイト・ハウスではなく投宿先で過ごさなければならなかっ
ジャクソニアン・デモクラシー期
343
た。
第4項
ジャクソニアン・デモクラシーの原理
ジャクソンの原理はほぼ 30 年間にわたってアメリカを支配した。アメリカの
歴史の中でこの時代をジャクソニアン・デモクラシーと呼ぶ231。ジャクソンの
時代の最も重要な政治的主題は、何人も他人を犠牲にして特権を得ることがで
きないという信念から生まれた機会の平等を求める運動である。ジャクソンは
ジェファソンに倣って、社会から特権をなくすためには政治的指導者が連邦政
府の役割を厳しく制限しなければならないと考えていた。急速な領土拡大は劇
的な経済成長を伴い、すべての人々に無制限の機会を約束しているように思え
た。ジャクソン主義者はできる限り州政府を妨害しないように連邦政府の権限
を制限するべきだと考えた。
ジャクソンは連邦政府を国内開発事業から撤退させている。1830 年、ジャク
ソンはメイズヴィル道路法案に拒否権を発動し、西部の人民を落胆させた。そ
の法案は、ケンタッキー州内の道路建設に連邦政府が資金を拠出するという内
容であった。ジャクソンは、国全体よりも 1 つの州に特別措置を取ることは憲
法違反だとして拒否権を発動したのである。メイズヴィル法案に対するジャク
ソンの拒否権は、国内開発事業をめぐる争いに終止符を打った。憲法は、州内
のみに関する公共事業に出資せず、州間輸送網や外国貿易の港湾施設の建設に
のみ出資するという原則が確立した。
ジャクソンは議会が支出を増やすことに警戒感を抱いていた。ジャクソンに
とって州権を保護することが重要であり、直接税や公債をできるだけ避けるべ
きであった。ジャクソン政権下で軍事力、特に陸軍は最小限に縮小された。ジ
ャクソンの財政政策は支出を切り詰めた。合衆国銀行の特許更新は認められな
かった。そして、ジャクソンは政府の預託金を合衆国銀行から引き上げ州法銀
行に配分した。
ジャクソン主義者は、連邦政府の権威という点では矛盾した側面を抱えてい
た。ジャクソン主義者は大統領を人民の擁護者と見なしていた。そうした考え
は、民主主義的な要望が高まる中で大統領に大きな影響力を与えた。ジェファ
ソン主義者の時代においても、大統領はしばしば人民と緊密な関係を築こうと
努力した。しかし、そうした努力は、議会の優越を認めたうえで行われていた。
344
アメリカ大統領制度史上巻
しかし、ジャクソンは大統領と人民の間に直接的な関係を築こうと努め、連邦
政府を代表する議会の地位に挑戦した。そうすることでジャクソンは独立した
権限を獲得し、議会よりも大統領が人民の意思を体現するようになった。ジャ
クソン政権下で特に強化された大統領制度は民主的なナショナリズムの勃興に
即したものであり、関税と奴隷制をめぐる地域的争いに直面する連邦を維持す
るのに貢献した232。
ジャクソニアン・デモクラシーは 1812 年戦争後、産業革命と西部開拓の進展
により、これまで上層部に限られていた政治運動が民衆運動にまで拡大してい
った傾向を指す。1820 年代から 1840 年代にかけて、労働組合運動、勤労者党
の運動、反フリーメイソンリー運動、奴隷解放運動、第 2 次信仰復興運動など
が相次いで起きた。しかし、1960 年代以降、ジャクソン時代における階級間の
流動性の低さと貧富の差の拡大から、ジャクソニアン・デモクラシーという歴
史学上の概念としての有効性が疑問視されるようになっている。
第 5 項 猟官制度
支持者に見返りとして官職を与えることはこれまでにもあったが、猟官制度
として大きく行われるようになったのはジャクソン政権からである。猟官制度
は既にニュー・ヨーク州やペンシルヴェニア州など北部の州で行われていた。ジ
ャクソン政権以前は、公職者の在任期間が長く、それが当然だと考えられてき
た。また民主共和党が 28 年間にわたって長期政権を築いたこと、全国的な党組
織が未発達であったこと、そして、初期の大統領が公職者を政治的信条によっ
て解雇してはならないという信念を持っていたことがそうした傾向を強化した。
大統領は空席になった公職や新設された公職に党に忠実な者を就けたが、長官
職を除けば民主共和党が連邦党の公職者を解雇するようなことはほとんどなか
った。
公職制度は終身的になりつつあったが、それに対する批判が起こるようにな
った。選挙権の拡大によって、公職を民主化する積極的な是正措置が必要であ
るという気運が高まった。批判によれば公職制度は終身的だけではなく世襲的
になりつつあった。議会は 1820 年公職在任法によって公職の任期を定め、そう
した傾向を防止しようとした233。ジャクソンは「勝者に分捕り品は属する」と
いうスローガンの下、官職の入れ替えを行った。しかし、官職の入れ替えと言
ジャクソニアン・デモクラシー期
345
っても全面的なものではなく連邦職の約 15 パーセントに過ぎなかった。
ジャクソンは専門的な官僚主義を否定した。官職に長く在任し続けることは、
腐敗を生み、本来、官職は人民に奉仕するべきだという信念を忘れさせる。そ
うすると官僚制度は多数者を犠牲にして少数者を支持する機関に成り下がる。
民主主義自体が官職の交代を必要としている。政府の業務が一般の人々には難
し過ぎるというのはエリート主義で非民主的である。人民は彼ら自身を統治で
きるので特権的な少数者に政府の運営を委ねる必要はない234。ジャクソンは第
1 次一般教書で以下のように猟官制度の理念を示している。
「相当長期にわたり官職にあって権力を振るいつつも、しかも、その公的な
責任の忠実な遂行に有害なような気持ちを多かれ少なかれ持つようにならない
でいられる人は少ない。人格がしっかりしていれば就任早々には様々な誘惑に
打ち克つこともできるだろうが、[長期にわたり官職にあると]公的な利益に対し
て無関心な態度をとり、未経験者なら排撃すると思われるような行動まで大目
に見るというような習慣を持つようになりがちである。官職は一種の利権と見
なされ、政府も人民への奉仕のためにのみ作られた機構であるというよりは、
私的な利益を促進する手段と見なされるようになる。すべての官吏の職務責任
というものは、著しく簡単明瞭なものであり、ある程度の知能がある者は誰で
もそれらの職務責任を遂行する資格条件をすぐに備えるようになれるものであ
る。したがって、私は、一定の人物を長期間にわたって同じ官職に在任させる
ことから生じる損失のほうが、それだけ長い期間から得られる彼らの経験によ
って生じる利得よりも大きいと信ぜさるを得ない。すべての官職が人民の福祉
のために設けられているような国では、何人も自分個人に能力があるからとい
って、官位に就く権利を他の者以上に持っていない。すべての官職は公的費用
において一部の人々に支援、便益を与えるために設けられているのではない。
それ故、ある人物を退職させても、その個人に不当な損害を与えることにはな
らない。官職に任命されることも官職から罷免されることももともと[個人的]
権利の問題ではないからである。現在の在任者も初めは公共の福祉という見地
から官吏となったのであれば、公共の福祉が私的な利害関係の故に犠牲にされ
なければならないといことはない。罷免される者も生計を立てていく方法につ
いては、まだ 1 度も官職に就かなかった人々と同様の地位に置かれるに過ぎな
い。私の提案するこの在任期間の制限は、当今、あまりにも常識的になった官
位を利権視するという考え方を打破するに違いない。もちろん、時には個人的
346
アメリカ大統領制度史上巻
に気の毒な結果となる場合も起こるだろうが、それにも拘わらず、この制限は
共和主義思想の中で最も重要な 1 つの原理であるところの『官職交替制』を促
進することによって、政府の全機構に健全な活気を注入することができるだろ
う」235
猟官制度は大統領の権限を著しく拡大した。大統領は行政府内で政権の政策
に同意を効果的に求めることができるようになった。しかしながら、実際には
そうした猟官制度は、大統領のリーダーシップを制限する形で地元の党組織に
よって統御されていた。党の指導者が有権者の票を集めた見返りに官職を求め
れば、強力な大統領でさえもそれを拒否することはできなかった。さらに税関
や郵便局などの連邦の官職者は、自らの職を保つために給料の一部を地元の党
組織に差し出しさえしていた。郵便制度は猟官制度の主要な対象であった。ジ
ャクソン政権から始まって 20 世紀に至るまで、猟官制度の中心的な周旋人に郵
政長官の職を与えることが慣例となっていた。党派心に鈍感な大統領はうまく
政治的支持が得られなかった。例えばブキャナンは、前任者のピアースが任命
した民主党に忠実な官職者を解任した時に、民主党の有力な指導者から攻撃を
受けた236。
またジャクソンの猟官制度は大きな悪弊をもたらした。それ以前にも大統領
に任命された行政官が横領を行ったり、満足に帳簿を付けたりすることができ
ずに批判されることがあった。けれどもジャクソンの猟官制度によって職を得
た者の汚職に比べればたいした問題ではなかった。ジャクソンの当選に貢献し
たことでニュー・ヨーク港の徴税官の職を獲得したある者は 10 年にも満たない
期間で 100 万ドル以上の公金を横領した。猟官制度が定着したことで行政組織
の効率が低下したことは明らかである。
第 6 項 ネイティヴ・アメリカン政策
ジャクソンはネイティヴ・アメリカンの強制移住を促進した。1827 年、チェ
ロキー族は成文憲法を採択し、ジョージア州における部族の領域に主権を確立
しようとした。ジョージア州はチェロキー族の主権を認めず州の権限を及ぼそ
うとした。ジャクソンはチェロキー族を支持することを拒否し、一般教書で、
チェロキー族はミシシッピ川以西に移動するべきであり、ジョージアの州法に
従うべきだと議会に示唆した。ジャクソンはネイティヴ・アメリカンの絶滅を
ジャクソニアン・デモクラシー期
347
救う手段は強制移住しかないと考えていた。ジャクソンは、大統領にネイティ
ヴ・アメリカンの退去を交渉する権限を与えるように議会に影響力を及ぼした。
1830 年、議会はインディアン強制移住法を可決し、ネイティヴ・アメリカンを
西部に移住させるために 50 万ドルの予算を認めた。同法によって、ネイティヴ・
アメリカンが譲渡する東部の土地と引き換えに、ルイジアナの未編入部分にお
ける土地をネイティヴ・アメリカンに下付し、その新しい居留地でネイティヴ・
アメリカンを保護し、移住費と 1 年分の生計費を与えて強制移住の補償を与え
る権限が大統領に与えられた。
ジャクソン政権は 94 の退去条約を締結し、1840 年までに東部と南部のほと
んどすべてのネイティヴ・アメリカンが移住させられた。1831 年、チョクトー
族は支援を受ける約束で西部に移住したが、約束は実現されなかった。1836 年
の移住の間に、3,500 人のチョクトー族が命を落とした。ジャクソンはチェロキ
ー族を強制移住させるために連邦軍を使った。いわゆる「涙の旅路」で 4,000
人のチェロキー族が命を落とした。1830 年 12 月 6 日の一般教書でジャクソン
は以下のように述べている。
「白人定住地から離れた土地へネイティヴ・アメリカンを移住させることに
関して、過去 30 年近く着実に進められてきた合衆国政府の博愛的な政策が目出
度くも完成に近付きつつあると議会に報告できることは私の喜びである。速や
かな移住がもたらす効果は、合衆国及び各州にとって、またネイティヴ・アメ
リカン自身にとって重要であろう。それによって連邦政府に約束される経済的
利益は、勧告の理由の中では最も比重が小さい。移住を実行すれば、連邦と州
の政府当局の間でネイティヴ・アメリカンのために起こり得るあらゆる衝突の
危険を終わらせることができる。現在、未開狩猟民が占有している広大な領域
に、高密度の文明人口を移すことができる。北はテネシー州、南はルイジアナ
州の両州にまたがる領域のすべてを白人の定住地として開放することで、南西
部フロンティアを強化し、隣接諸州を将来、遠方からの援軍がなくても侵略に
対して反撃できる程に強化することができる。ミシシッピ州全体とアラバマ州
西部からネイティヴ・アメリカン占有地を除去し、両州を人口、富、武力の面
で急速に発達させることができる。ネイティヴ・アメリカンを白人居住区と直
接接触しないように隔離し、州の権力から解放し、彼らも自分達の生活様式と
原始的な制度の下で幸福を追求することができる。ネイティヴ・アメリカンの
人口減少のようなネイティヴ・アメリカン衰退の傾向を遅らせ、連邦政府の保
348
アメリカ大統領制度史上巻
護と助言者の助けによって、ネイティヴ・アメリカンに徐々に野蛮な慣習を捨
てさせ、キリスト教文明社会に転向させることができる。連邦政府の現在の政
策は、これまではもっと緩慢であった同じ前進的変化の連続に過ぎない。今、
東部諸州を構成している地域に居住していたネイティヴ・アメリカン部族は、
絶滅させられたか、あるいは自ら消滅して白人に場所を明け渡した。人と文明
の波は西部に押し寄せつつあり、我々は今、ネイティヴ・アメリカンによって
占有されている南部と西部の土地を公正な取引で獲得し、合衆国の費用で以っ
て、彼らの存在を永続させ、場合によっては別の土地へ移住させることを提案
している。言うまでもなく、先祖代々の墓地を離れるのは苦痛であろう。しか
しそれが、我々白人の先祖が過去に行い、子孫が現在行いつつあることとあま
り違わない。未知の土地でより良い生活を求めるために、我が先祖達は貴重な
不動産をすべて後に残してきた。我々の子孫は毎年何千人も遠く隔たった土地
に新しい居住地を求めて、生まれ故郷から旅立って行く。その時、若い魂は、
彼が愛着を持つ命あるもの、命なきものすべてに辛い別れを告げるが、これに
人道主義は涙を流すだろうか。まずそのようなことはあり得ない。若者が人間
の力と能力を最高に発揮し、肉体も精神も束縛されること無く自由に動き回れ
る場を我が国が提供し得ることは、むしろ喜ばしいことである。若者は自費で
数百マイルから数千マイルも移動し、居住する土地を購入し、新しい住居で到
着したその時から自活していく。政府の力が及ばない出来事によって、ネイテ
ィヴ・アメリカンが古来の居住地でやりきれない思いをしている時に、政府が
彼の土地を購入し、新しく広大な領地をあてがうことがどうして残酷と言える
だろうか。このような条件で西部に移住する機会が与えられれば、我が国の何
千という人民はその機会を絶対逃さないだろう。もし、ネイティヴ・アメリカ
ンに対する申し出が彼ら白人にも差し伸べられるのであれば、感謝と歓喜を以
って迎えられるに違いない。放浪する未開人のほうが定着し文明化されたキリ
スト教徒よりも故郷への愛着が強いのであろうか。先祖の墓地を後に残すこと
が、我が白人の兄弟や子孫以上に彼を苦しめるというのか。公平に判断すれば、
連邦政府のネイティヴ・アメリカンに対する政策は気前が良く寛大である。ネ
イティヴ・アメリカンは州法に従い、州民に混じって居住することを好まない。
そうしなくてもよいように、もしくは彼らを絶滅から救うために、連邦政府は
親切にも新しく居住地を提供し、移動と定着の全費用を支払うことを提案して
いる」237
ジャクソニアン・デモクラシー期
349
第 7 項 連邦法無効闘争
ジャクソンは奴隷制度廃止論者の活動を州権を侵害するものだとして非難し
た。ジャクソンとその支持者は議会で奴隷制度に関する議論に緘口令を布き、
奴隷制度廃止論者の郵便を違法にした。ジャクソンは州権を支持していたが、
大統領職にある間、国家の主権を擁護した。
ジャクソンの姿勢は、特に連邦法無効をめぐる闘争で明らかに示されている。
北部は高い保護関税を主張する一方で南部はそれに反対した。北部の製造業者
は保護関税で多くの利益を得たが、南部の農園主は消費財の高騰という負担に
苦しんだ。また綿花を栽培する地域が拡大するにつれ、綿花の価格は下落した
のでさらに南部の農園主を苦しめた。保護関税と国内開発事業は北部の利益の
ために南部に課税する邪悪な策略であるという考えが南部で信奉されるように
なった。
ジェファソンの誕生日を祝う公式晩餐会でジャクソンは乾杯のために立ち上
がり、ジョン・カルフーン副大統領に向かって「我が連邦は維持されなければ
ならない」と言った。カルフーンはそれに対して「連邦は最も大切な我々の自
由の次に位置する」と答えた。
1832 年関税法が議会を通過すると、サウス・カロライナ州は、11 月 24 日、
カルフーンが秘かに起草した連邦法無効宣言をサウス・カロライナの人民の名
の下に発表して激しく抵抗した。1832 年関税法は、南部にとって忌まわしき唾
棄すべき関税の幾つかの条項を削除していたが、鉄と織物原料に対する重関税
は手付かずのままであった。
連邦法無効宣言でサウス・カロライナ州は 1828 年と 1832 年の関税法は同州
内では無効であると発表し、もし武力を以って法律の施行を迫るのであれば連
邦を脱退すると警告した。連邦法無効の論理は、合衆国憲法は諸州間の契約で
あるという理論と州が決して奪われない主権を持つという理論から成り立って
いる。憲法はアメリカ国民によって直接制定されたものではなく、主権を持つ
州によって制定されたものである。したがって、主権は州に存在し、連邦政府
はその代行者に過ぎない。州の主権を行使する州議会が、連邦法が合憲である
か否かを判断し、もし違憲だと判断されれば、州内での連邦法の実施を阻止す
る手段を講じることができる。ケンタッキー決議やヴァージニア決議でも同様
350
アメリカ大統領制度史上巻
の主張が行われたが、本質的に異なる点は、両決議が連邦法無効をすべての州
による集団的な行為と見なしたのに対して、サウス・カロライナの連邦法無効
宣言は、単一の州に連邦法無効を判断する権限を認めた点である。
連邦法無効を唱える者達は、ジェファソンとマディソンが外国人・治安諸法
に対して両者がケンタッキー決議とヴァージニア決議を以って抗議したのと同
様の抗議を行っているに過ぎないと主張した。それに対してマディソンは、連
邦が国民を単一に統合するものではないと譲歩を設けながらも、合衆国憲法は
各州の総意ではなく、国民の総意に基づいているので、連邦法は州の権威に優
越するという見解を明らかにしている。またマディソンは連邦と州の間で権限
の管轄領域をめぐって紛争が起きた場合に、それを最終的に解決するのは連邦
最高裁であり、そうした判断を諸州に委ねることは法の権威の一貫性を損なう
ことになると論じている。こうした見解の根拠としてマディソンは、
「この憲法、
これに準拠して制定される合衆国の法律、および合衆国の権能をもってすでに
締結されまた将来締結されるすべての条約は、国の最高の法である。これによ
って各州の裁判官は、各州憲法または州法律中に反対の規定ある場合といえど
も、拘束される」と規定する憲法第 6 条第 2 項と「司法権は次の諸事件に及ぶ
―すなわち、この憲法、合衆国の法律および合衆国の権能により締結されまた
将来締結されるべき条約にもとづいて発生するすべての普通法ならびに衡平法
上の事件」と規定する第 3 条第 2 節第 1 項を挙げている。
さらにマディソンは憲法には連邦による権限の侵害から州を守る措置が多く
講じられている一方で、連邦法無効の原理は連邦政府が根拠の疑わしい州の主
張に対して自らを擁護する手段を欠いていると論難した。その一方でヴァージ
ニア決議について、その意図は連邦法の執行を差し止める権利が個々の州にあ
ることを明言することにあったのではなく、単に諸州に協力を呼びかけること
にあったと弁明している。
南部人は、州権尊重の立場からジャクソンがサウス・カロライナ州の行動を
認めると期待していたが、ジャクソンはそれと反対の行動に出た。確かにジャ
クソンは自らを州権論者と見なしていたが、同時に国家主権に些かの疑問も抱
いたことはなかった。ジャクソンにとって州権は連邦法に対する不服従を決し
て正当化できるものではなかった。ジャクソンはモールトリーとサムターの要
塞を強化し、関税吏が抵抗を受けても関税を徴収することができるように税関
監視艇に命令した。ジャクソンはサウス・カロライナ州の連邦法無効宣言に対
ジャクソニアン・デモクラシー期
351
して 12 月 10 日に対抗する布告を出し、武力による連邦離脱は反逆罪であると
強く抗議した。
「連邦法無効宣言は、合衆国市民の義務を直接侵害するようなサウス・カロ
ライナ州の人民の行動指針を規定し、国の法に反し、その憲法を覆し、我々の
父祖が愛国心と共通の大義の他、何も彼らを結び付ける絆がないのに、栄光あ
る独立した神聖な連邦のために血なまぐさい戦いをした、今まで侵されていな
い我々の政治的実体とともにあり、我が国の幸福な憲法によって守られ、諸国
の歴史に匹敵するような国内での繁栄、海外での尊敬という天の恩恵を我々に
もたらす連邦が伝える教条の目的に反しているので、我々の政治的実体の絆を
破壊から守り、国家の栄誉と繁栄を傷付けないように維持するために、そして、
私に与えられた同胞市民からの信頼を保障するために、私、アンドリュー・ジ
ャクソン合衆国大統領は、憲法と、サウス・カロライナ州議会によって採択さ
れた施策と彼らが正当だと考える理由に適用可能な法に関する私の見解を伝え、
人民の理解と愛国心に訴え、憲法の命じるものを遵守することによって生じる
不可避の結果について警告する声明を発行することを適切だと考える。連邦を
保持するために、法を執行するために私に今、与えられている権限、今後、与
えられる権限を行使することだけが私に課される厳格な義務である。州の権威
で装われたこの事例で想定される差し迫った側面と合衆国人民の利害は、より
強力な措置に訴えることを予防する際に感じられ、その一方で、理性と忠告、
おそらく要求に何でも従い、サウス・カロライナ州に対する完全な説明と国民
に私がこの重要な問題に関して抱く観点、それと同じく私の義務感によって追
求することを要する行動指針に関する率直な声明が容認される希望がある。連
邦法無効宣言は、明らかに違憲であり、持続させるには抑圧的過ぎる法に抵抗
する取り消せない権利に基づいているわけではなく、州は連邦議会の法を無効
だと宣言できるばかりか、その執行を禁止でき、憲法に一致してそうすること
ができ、本当の憲法の解釈は、州にその地位を連邦で保つことを認め、合憲だ
と考えることを選んだ法以外に束縛されないという奇妙な立場に基づいている。
彼らは、この法の破棄を正当化するために、それは明らかに憲法に反している
ことは本当であると付け加えるが、そういった法に抵抗する権利を与えること
は、どの法がその性質に値するか決定する自由な権利とともに、すべての法に
抵抗する権限を与えることであることが明らかである。もしサウス・カロライナ
が歳入法を違憲であると考え、チャールストン港でその執行を妨げる権利を持
352
アメリカ大統領制度史上巻
つのであれば、あらゆる他の港でその徴収に対して憲法上の明らかな反対があ
るだろうし、どこからも歳入は徴収されないだろう。というのはすべての関税
は平等だからである。州自体がその合法性の問題を判断する限り、憲法に反し
ている法は法でないと繰り返すことに対して回答はない。というのは、地方の
利益に対して不正に運用されるあらゆる法は、おそらく違憲であり、魅力がな
いと考えられ、そう表現されるからである。もしこうした主義が初期に打ち立
てられていれば、連邦はその萌芽において解体していただろう。ペンシルヴェ
ニア州の物品税法や東部諸州の出港禁止通商禁止法、ヴァージニアの馬車税は
すべて違憲だと見なされていて、今、不平が述べられている法よりもその運用
にあたって不平等であったが、幸いにもそうした州は、サウス・カロライナ州
が今、主張しているような権利を彼らが持つとは気付かなかった。国家の威信
と我が市民の権利を維持するために我々が強制された戦争は、もし州がそれを
破滅的で憲法に反すると見なし、法を無効とする権限を持ち、それを宣言し、
その防衛のための物資を出すことを拒否していれば、勝利と名誉の代わりに敗
北と不名誉で終結しただろう。憲法は、合衆国人民の名と権威の下、示された
前文で宣告され、その代表が編成し、その憲法批准会議が承認した重要な目的
のために形成された。こうした目的の中で最も重要なのは、すべてのその他の
ものの中で最初に置かれている『より完全な連邦を形成するために』という言
葉である。たとえ憲法と合衆国の法律に州に優越する至高性を与える明確な規
定はなくても、連合よりも完全な連邦を形成する目的のために行使される憲法
が我が国の集合知によって、その存在を地域的利害、州の党派的精神や州内に
広がる党派的闘争に依存する連合の政体に代わるものとして解釈されるように
考えられるということは今、あり得るのか。この問題を聞いて平明で単純な理
解を持つすべての者は、連邦を保持するように回答するだろう。実行不可能な
理論を追求するような抽象的な巧妙さのみがそれを破壊するような回答を編み
出すだろう。私は、州によって負われる合衆国の法を無効とする権限は、連邦
の存在と相容れず、明白に憲法の条文と矛盾し、憲法が基づくあらゆる原理に
矛盾し、その精神によって認められず、憲法が形成された大いなる目標を破壊
すると考える。危機によって、私の意図だけではなく、私の行動の原理の自由
で完全で明白な言明が必要となった。そして、連邦法に無効とする州の権利の
主張が断言され、その意のままに連邦から脱退する主張さえ断言されている中
で我が政府の起源と形態に関する私の見解と連邦を創造した憲法に対する解釈
ジャクソニアン・デモクラシー期
353
を率直に表明することは適切だと思われる。私の義務に関する法的で憲法上の
見解の妥当性について完全な自信を持つことが表明されたが、すべての憲法上
の意義によって連邦を保持するために、もし可能であれば、穏健だが確固とし
た措置によって武力に頼る必要性をなくすために、法を執行するという私の決
意に対するあなた方の統一された支持をあてにできると同様に私は自信を持つ。
そして、もし兄弟の血を流すことが人類に対する原初的な呪いであると回想が
我らの大地に降りかかるというのが天の意思であるならば、合衆国の側の攻撃
的な行為によってそれは祈念されない。同胞市民よ、極めて重大な事例があな
た方の前にある。政府に対するあなた方の統一された支持はそれが関与するあ
なた方の神聖な連邦が保持されるか、連邦が我々に保障する 1 つの国民として
の恩恵が永続されるか否かという大きな問題の決定にかかっている。その決定
で示された同意が共和政体の新しい自信を喚起し、その防衛にもたらされる深
慮、叡智、そして勇気が損なわれず活気に満ちたままで我々の子供達に伝えら
れることは誰も疑うことはできない」238
ジャクソンの考えによれば、1 つの州に連邦法を無効にする権限を認めること
は連邦の存在と相容れず、明確に憲法に違反し、憲法に基づくあらゆる原理に
一致せず、その精神によって認められず、憲法が作成された目的を破壊する。
1861 年、リンカンは南部の脱退に対して同じ論拠を使用した。1833 年 1 月 16
日、ジャクソンは関税を徴収するために軍を送る許可を議会に求めた。ジャク
ソンは自ら軍を率いてサウス・カロライナ州に向かうつもりであった。ジャク
ソンは連邦を守る責任を大統領が担うことを明言したのである。1794 年にワシ
ントンがウィスキー暴動に直面した時は、単なる 1 つの地方の暴徒の反乱に過
ぎなかったが、今度は連邦を構成する 1 つの州を制圧するというこれまでにな
かった行動をとらなければならないことを意味した。憲法批准会議を通じて連
邦を形成したのは人民自身であり、人民の意思を最も完全に体現するのは大統
領であるとジャクソンは信じていた。ジャクソンの大統領制度に関する概念は、
ナショナリズムと州権という古い対立軸を超越して新しい国民主権の理解を促
すものであった239。
サウス・カロライナ州議会は志願兵を召集してジャクソンに公然と反抗しよ
うとした。しかし、他の南部諸州はサウス・カロライナ州を支持しようとしな
かった。サウス・カロライナ州とジャクソンが対立している間に議会はクレイ
の主導で妥協関税法を通過させ、10 年間の 20 パーセントの関税引き下げが認
354
アメリカ大統領制度史上巻
められた。3 月 2 日にジャクソンは妥協関税法案に署名した。同時にジャクソン
は、司法的続きが妨害された場合には関税徴収のために武力を行使することを
認める法案にも署名した。こうした硬軟両面の対策が功を奏してサウス・カロ
ライナ州は妥協関税法を受け入れて連邦法無効宣言を撤回し、連邦離脱の危機
は回避された。この危機を乗り越えることによってジャクソンは州権に対する
連邦法の優位性を確立したのである。
第 8 項 人民を代表する大統領と党組織の発展
大統領は人民の直接的な代表であるという考え方はジャクソニアン・デモク
ラシーの中心的な考え方である。連邦党よりは人民による支配を支持したもの
の、民主主義に対する民主共和党の信念は限定されたものであった。憲法の解
釈をめぐる連邦党と民主共和党の戦いは、立法府、行政府、司法府の関係、州
と連邦政府の関係、そして人民とその代表の関係など様々な関係において穏健
な民主主義を求めるという両者の暗黙の了解を隠していた。ジャクソン主義者
は、憲法や政治制度を世論に従属させることによってそうした均衡関係を覆そ
うとした。
1833 年、ジャクソンはニュー・イングランドを巡行した。巡行はコネティカ
ット州の民主党委員会の招待状によるものであった。大統領が政党の指導者と
して遊説旅行に出掛けることは適切だろうかという疑問が生じた。大統領は政
党を超越することで品位を守るべきだという観念と政党の指導者たるべきであ
るという観念の 2 つの相反する観念があった。大統領は伝統的な大統領の品位
を守りながら自らの党派に属する人々を満足させなければならなかった。ジャ
クソンはできる限り党派的な演説を行うことを避けた。ジャクソンの演説は非
常に手短なものに限られた。ジャクソンはそのような姿勢をとることで大統領
は人民の代表であって政党を超えた存在であるという理念を守ろうとしたので
ある240。
ジャクソン主義者の人民の概念は現代とは異なり限定されていた。人民の概
念には黒人、ネイティヴ・アメリカン、そして女性は含まれていなかった。し
かし、1830 年代の劇的な民主主義的改革が大統領制度に大きな影響を与えた。
ジャクソンの大統領選出は、諸州で選挙人の選出を州議会ではなく一般投票に
委ねるという変化とともに起きた。最初の 3 度の大統領選挙では多くの選挙人
ジャクソニアン・デモクラシー期
355
は州議会によって選ばれた。しかし、1824 年には 6 州を除くすべての州で一般
投票の形式をとるようになり、1832 年までにはサウス・カロライナ州を除くす
べての州で一般投票の形式がとられるようになった。サウス・カロライナ州は
南北戦争まで州議会によって選挙人を選出する方式をとり続けた。その結果、
ジャクソンは間違いなく一般投票で最初に選出された大統領だと言える。それ
故、ジャクソンとその支持者は、大統領の権限はすべての主権の源、つまり人
民に直接由来するものだという信念を抱いた241。
大統領が人民を代表する存在であるという主張は選挙権の拡大によって強化
された。ジャクソン主義者は、諸州に投票権の財産資格を撤廃するように促し
た。それは 1832 年までに白人男性による普通選挙が実現したことを意味する。
投票権の拡大は農夫、職人、労働者にもたらされ、彼らは大統領の下に政治的
勢力を結集させた。彼らによる支持は大統領が、マディソン政権からジョン・
クインジー・アダムズ政権を特徴付けた議会の強い影響力から抜け出す手助け
をした。1824 年に連邦議員を中心とする党幹部会による大統領指名制度が崩壊
するとともに、ジャクソンはワシントン以来、連邦議会の関与なく選出された
初めての大統領になった。1829 年に大統領職に就いたジャクソンは大統領職を
新しい活力で復活させることができる立場にいることに気が付いた。
ジャクソンの登場は党組織の重要な発展と関連している。大統領選挙で帝王
的党幹部会が大統領候補を指名する制度として機能しなくなり、代わりに党大
会が用いられるようになった。民主党は 1832 年に、ホイッグ党は 1836 年以降
に党大会を大統領候補指名に用いるようになった。全国党大会の代表は州党大
会で選ばれる。州党大会は地方の党員によって構成される。全国党大会の構想
は、代表の権威が一般人民に由来するという暗黙の前提を含んでいた。こうし
た新しい制度は全国に広がり、ジャクソンは議会を超えて直接人民に訴えかけ
る初めての大統領になった。
党組織の改革はそれ自体を強力な大統領制度を意味するわけではなった。全
国党組織は州と地方の党組織の緩やかな連合でしかなかった。しかし、大統領
候補指名が党幹部会から党大会に移ったことにより、ジャクソンのような強力
な指導者は政治的影響力を高めることができた。党組織は中央集権化していな
かったが、全国的な選挙運動を行った。その結果、議員はある程度、地域的な
利害から離れることができるようになり、党の綱領で示された全国的な政策を
支持するようになった。さらに、ジャクソニアン・デモクラシーの時代に確立
356
アメリカ大統領制度史上巻
した二大政党制度によって、初めて政党に対する忠誠心がアメリカ人の心に深
く刻み込まれることになった。大統領は人民の支持を直接受けるようになり、
議会と人民の注目をめぐって争うことができるようになった242。
議会ではなく人民に基づく大統領職の登場は激しい政治的論争を招いた。ホ
イッグ党は 1828 年から 1856 年に行われた 8 回の大統領選挙の中で僅か 2 回し
か勝利を収めていないが、民主党と鋭く対立した。クレイとアダムズの考えを
中心にしてホイッグ党は全国的な問題に対してナショナリスト的な対策を取ろ
うとした。アメリカ体制と呼ばれる考え方は、第 2 合衆国銀行の設立、保護関
税の制定、国内開発事業の推進からなっていた。アメリカ体制の構想は、ハミ
ルトン的な憲法の拡大解釈に基づき、民主党が唱える州権尊重の考え方と相反
するものであった。しかし、ホイッグ党はジャクソンに対立する政党として、
行政府の権限拡大に反対し、人民を直接代表する機関として立法府を擁護した。
ジャクソンと民主党は下院を支配下に置いた。しかし、上院ではクレイやウェ
ブスターといったホイッグ党の指導者が、カルフーンやその他の州権を尊重す
る南部の民主党議員と連携してジャクソンの政策と大統領の優位性に挑戦した。
第 9 項 第 2 合衆国銀行の廃止
ジャクソンとホイッグ党の指導者との対立は第 2 合衆国銀行をめぐる攻防で
激化した。ハミルトンの政策の中心的要素であった第 1 合衆国銀行は連邦派と
民主共和派の主要な争点であった。ジェファソンやマディソンは合衆国銀行を
違憲と見なしたが、政権に就いてからは通貨を安定させるために合衆国銀行は
必要だと考え直した。第 2 合衆国銀行は 1816 年に設立され、特許の有効期間は
20 年間であった。しかし、クレイとウェブスターの働きかけでニコラス・ビド
ル(Nicholas Biddle)合衆国銀行総裁は早期に特許の更新申請を行うことに決定
した。クレイはジャクソンが合衆国銀行の特許申請に拒否権を行使すると予期
していた。そうすることでジャクソンが大統領に再選される見込みが低くなる
とクレイは考えたのである。
1832 年、第 2 合衆国銀行特許更新が上院では 28 票対 20 票で、下院では 107
票対 85 票で通過した。しかし、ジャクソンは第 2 合衆国銀行の特許更新を認め
ず、拒否教書を 7 月 10 日に議会に送付した。それは、かつて行使された中でも
最も重要な拒否権であった243。
ジャクソニアン・デモクラシー期
357
「合衆国銀行は、多くの点で政府にとって利便性があり、人民に有用である。
私はこういう意見を抱く一方で、現存の銀行が持っている権限や特権が、合衆
国憲法によって正当と認められないし、州の権利を侵害し、人民の自由によっ
て危険であるという信念に強く印象付けられているので、大統領に就任したば
かりに、同銀行の利点をすべて結合し、上述の欠点を除去した 1 つの機関を設
立する可能性について、連邦議会の関心を喚起することが私の義務だと考えた。
非常に残念なことだが、私に提出されたこの法案の中に、同銀行特許の修正、
つまり、私の意見では、正義や健全な政策や我が国の憲法と一致させなければ
ならないと考えられる修正を1 つも認めることができない。
現行の法人組織は、
[中略]連邦政府の権限の下、銀行業の排他的な特権を享受し、また政府の支持と
援助を独占し、その必然的結果として、外国為替と国内為替の大半の独占を享
受している。[中略]。すべての独占とすべての排他的特権は、適正な同価値のも
のを当然受け取る権利がある人民を犠牲にして付与されている。この法案によ
って現合衆国銀行の株主に贈与すると規定されている何百万ドルの資金は、直
接であれ間接であれ、アメリカ人民の所得の中から生じているに違いない。し
たがって、もし人民の政府が独占権や排他的特権を売り払うとすれば、少なく
とも政府はそれが公開市場で持っている価値と同じだけの金額をそれと引き換
えに厳しく取り立てなければならないし、それは人民に対する当然の義務であ
る。[中略]。この法によって提案された現特許状の修正は、私の意見では、この
特許状を州の権利または国民の自由と両立させるようなものではない。銀行の
不動産所有権の制限や、支店設置の権能の制限や、小額紙幣流通禁止の権能を
議会に保留したことは、比較的に価値または重要さを持たない制限である。現
銀行のすべての不都合な原則と嫌悪すべき特徴の大部分は軽減されることなく
保持されている。[中略]。本会期に連邦議会に提出された文書によれば、1832
年 1 月 1 日現在で、合衆国銀行の個人所有の株式 2,800 万ドルのうち、840 万
5,500 ドルは外国人、大半はイギリス人によって所有されている。西部と南西部
の 9 州で所有されている株式総額は 14 万 200 ドルで、南部 4 州が 562 万 3,100
ドル、中部と東部の諸州が 1,352 万 2,000 ドルである。同銀行の 1831 年の利益
は、議会に提出された計算書に示されているように、345 万 5,598 ドルで、この
うち西部 9 州から生じた利益は 164 万 48 ドル、南部 4 州が 35 万 2,507 ドル、
中部と東部諸州が 146 万 3,041 ドルであった。西部の株式の所有は僅かである
から、同銀行に対する西部人の負債が主に東部と西部の外国株主に対する負債
358
アメリカ大統領制度史上巻
であること、西部人が負債のために支払う利子は東部諸州とヨーロッパに持っ
て行かれること、そして、その負債が西部の産業の重荷となり、通貨の流出口
となって、それがどのような地方も耐えることができない不自由さと、時に困
窮をもたらすこと、以上のことは明らかである。[中略]。その本質上、ほとんど
我が国に束縛されることない銀行は、我が国の自由と独立に対する危険となり
はしないか。たいていの州法銀行は合衆国銀行の寛容によって存立していると
合衆国銀行総裁は我々に語った。その利害が外国株主のそれと一致している自
選取締役会の手に銀行の勢力が集中されるようになれば、(このようなことは、
この法が実施される場合には起こりそうなことであるが)、平時には我々の選挙
の純正にとって、戦時には我が国の独立にとって苦悩の種とならないであろう
か。彼らの権力は、彼らがそれを行使しようとする時にはいつでも大となるで
あろう。しかし、もしこの独占権が彼ら自身の提出する条件に従って 15 年ある
いは 20 年ごとに規則的に更新されるのであれば、彼らが選挙を左右し、国事を
支配するために、平時にその力を振るうことは稀であろう。しかし、市民であ
れ官吏であれ、誰かが干渉してその権力を剥奪し、あるいはその特権の更新を
妨害しようとすれば、彼は疑いもなく、その力の程を思い知らされるであろう。
合衆国銀行の株が主として外国人の手中に移り、しかも我々が不幸にもその国
との戦争に巻き込まれるのであれば、我々の状態はどうなるであろうか。その
所有権がほとんど完全に海外強国の人民の手中にあり、また感情はそうでない
としても利害がそれらの外国人と同じ方向に向いているような人々によって経
営されている銀行が、どのような進路を辿るかについては疑問の余地はない。
国内における銀行の全活動は、国外の敵対的陸海軍を援助することになるであ
ろう。我が国の通貨を統制し、公金を受け入れ、数千の我が市民の独立を支え
ているのであるから、この銀行は敵の陸海兵力よりも恐るべき危険なものとな
るであろう。もし我々が私的な株主からなる銀行を持たなければならないとす
れば、健全な政策の考慮のうえからしても、またアメリカ的感情の行動のうえ
からしても、その銀行が純アメリカ的であるべきことが要請される。[中略]。合
衆国銀行擁護論者の主張によれば、そのすべての重要な点に関して銀行が合憲
性を有するかどうかについては最高裁の決定によって確定された前例があるも
のと考えられるべきだと言われる。かかる結論に私は賛同することができない。
単なる前例は権威の源泉たるには危険なものであり、また国民と諸州の承認が
十分に確定されていると考えられ得る場合を除いては、憲法的効能の諸問題を
ジャクソニアン・デモクラシー期
359
決定するものと見なされるべきではない。それどころか、この問題に関しては
却って銀行反対論の論拠を前例に求めることができるのである。[中略]。最高裁
の意見がこの法の根拠全体を擁護するものであるとしても、それはこの政府が
持っている同様の諸権威を掣肘すべきではない。議会と行政府と裁判所はそれ
ぞれ独立に憲法に関する独自の意見によって指導されなければならない。[中略]。
議会の意見が裁判官に優越した権威を有するものではないのと同じく、裁判官
の意見は議会に優越した権威を有するものではない。そしてこの点において、
大統領は議会と裁判官の両者から独立しているのである。それ故、最高裁の権
威にとって許されるべきことは、議会または行政府がその立法上の能力の範囲
内で行動しつつある場合にそれを掣肘することではなくて、単に議会や政府の
推理力が当然受けなければならないような影響力を与えることでなければなら
ない。しかし問題となっているこの場合において、最高裁は合衆国銀行のあら
ゆる点が憲法と両立するものだという決定をしたのではない。確かに同裁判所
は、この銀行を組織する法は議会による合憲的な権能行使であると言っている。
しかし裁判所の全見解と彼らがかかる結論に到達するに至った推理を考慮に入
れるのであれば、彼らは銀行が連邦政府の持つ諸権能を遂行するための適当な
手段であるが故に、銀行を組織する法はかの憲法の条項、すなわち、
『これらの
権限を実施するのに必要で適当なあらゆる法を制定する』権能を議会が持つべ
きだと宣言しているかの憲法の条項に一致するとの裁決を下したものだと私は
了解する。憲法の『必要な』という言葉は『有用な』
、
『必須の』
、
『肝要な』
、
『助
けになる』ということを意味し、また『銀行』は、政府の『財政活動』を遂行
するうえに便利で、有用で、かつ肝要な機関であると考えたうえで、彼らは、
『こ
の機関を用いることは議会の任意に委ねられるべき』であり、また『合衆国銀
行を組織する法令は憲法に従って作られた法である』と結論するのである。
「し
かし」と彼らは言う。
『法が禁止されておらず、またその法が政府に委任されて
いる何かの目的を遂行しようという意図を真に持っている場合でも、その法の
必要度について詮議することは、司法府の埒を超え、立法の領域を侵すことと
なるであろう』
。ここに述べられている原則は、銀行制度の全細目も含めて『法
の必要度』は専ら立法的考慮にとっての問題であるということである。銀行は
合憲的であるが、しかしかれこれの特殊なる権能や、あるいは免除が銀行をし
て政府に対する種々の義務を履行させるのに『必要かつ適当』であるかどうか
を決定するのは立法の領域であり、したがって最高裁の決定よりすれば、法廷
360
アメリカ大統領制度史上巻
に訴えるべき理由は何もないことになる。それ故、最高裁の決定の下では、こ
の法令の細部の条項が銀行をして財務代行機関としてそれに割り当てられた公
的義務を便利かつ有効に遂行するために必要かつ適当、したがって合憲的であ
るか、あるいは不必要かつ不適当、したがって違憲であるかどうかを決定する
のは、議会と大統領の独占的分野である。最高裁によって確認された一般原則
に対する批判は抜きにして、裁判所が設定した立法行為の規則に従ってこの法
令の細目を吟味してみよう。そうすれば銀行に付与された権能や特権の多くの
ものは銀行を創設しようとした目的にとって必要とは思われず、したがって所
期の目的達成のための必要な手段ではなく、またその結果、憲法によって正当
化されるものではないということが分かるであろう。[中略]。合衆国銀行は政府
の行政府の代行機関として公然と設立されており、銀行の合憲性はかかる基礎
の上に維持されている。ところが銀行の現行動の妥当性についても、またこの
法令上の諸条項についても、行政府はこれまで相談にあずかることはなかった
のである。行政府はかかる権能と特典を与えられている代行機関を必要ともし
なければまた欲してもいないということを述べる機会をこれまで持たなかった
のである。銀行を必要、あるいは適当にするものは何もない。この法令を生じ
させたものが、どのような利害あるいは勢力であったとしても、その公的たる
と私的たるとを問わず、それは行政府の欲するものでも必要とするものでもあ
り得ないのである。行政府は、現行動は時期尚早であり、その代行機関に付与
されている諸権能は単に不必要であるばかりではなく、また政府及び国家にと
って危険であると考える。富める者や有力者が自分の利益のために、度々、政
府の活動を歪曲させることがあるのは残念なことだと言わなければならない。
[中略]。政府に必要悪はない。その悪は、政府が権力を濫用する場合にのみ生じ
る。もし政府が平等な保護にその仕事を限定すれば、そして天が雨を降らせる
ように、その恩恵を高きにも低きにも降り注ぐならば、政府は完全に祝福とな
るだろう。[中略]。今や私は我が国に対する私の義務を果たしたのである。もし
我が国民同胞の支持を受けることができれば、私は感謝と幸福にたえないであ
ろう。もしその支持を受けることができないのであれば、私は私の心を動かし
てやまない動機の中に満足と平和のための十分な根拠を見出すであろう」244
ジャクソンの拒否の事由は、議会は銀行を設立する憲法上の権限がないと判
断したためである。それは州権に対する違憲的な侵害であるだけではなく、独
占と排他的特権を存続させ、外国人株主による支配の危険性があるものであっ
ジャクソニアン・デモクラシー期
361
た。またジャクソンは合衆国銀行が、ビドル総裁の下、一般庶民を犠牲にして
東部の商業階級の利益を守るために銀行業を独占していると考えた。ジャクソ
ンは「憲法制定者が、我々の政府は仲買人の政府になるべきだという意図を持
っていたということは本当に主張され得ることなのか。もしそうであれば、そ
の場合には、この全国的な仲買人の店は全体の利益のために役立てるべきで、
多数の利益をまったく無視して少数の特権的で金持ちの資本家の御用を務める
というようなことはあってはならない」と述べている。そもそも合衆国銀行は
西部や南部で人気がなかった。健全な通貨の維持と信用収縮方針に基づいて、
合衆国銀行が地方銀行の手形を即時支払いを求めて提示することによって、地
方銀行を抑制し、投機のための手形信用額を引き下げていたからである。それ
は西部や南部の人々からすれば、地方銀行に対する不当な干渉であり束縛であ
った。ジャクソンはそうした西部や南部の不満を共有していた。しかし、合衆
国銀行は 1819 年のマカロック対メリーランド州事件で合憲と判断されていた。
裁判所の判断を無視することによってジャクソンは憲法を解釈する権限は司法
府だけではなく大統領にも存在するという考えを提示した。
拒否権は大統領制度を強化するものであった。ワシントンを初めとする歴代
の大統領は議会の立法が違憲だと認められる場合のみ拒否権を行使することに
合意していた。憲法が制定されて以降、40 数年の中で 9 つの法案のみが拒否権
の行使を受けた。一方、ジャクソンは 8 年間の任期で 12 の法案に対して拒否権
を行使した。拒否教書の中でジャクソンは国家を害すると思われる法案に対し
て大統領は拒否権を行使すべきだという信念を示した。ジャクソンの考えでは、
人民を代表する大統領は議会に優越する存在であり、拒否権は何の制限もなく
大統領に与えられた立法権であった。立法過程に関与する権限を要求すること
でジャクソンは行政府と立法府の関係を大きく変化させた245。こうした拒否権
に関するジャクソンの姿勢は、クリーヴランド、セオドア・ローズヴェルト、
ウィルソン、フランクリン・ローズヴェルトなどによって踏襲された。
ジャクソンの拒否教書の中には他にも 2 つの重要な側面がある。第 1 に議会
と同じく大統領は裁判所とともに違憲性を問う権限があるという側面である。
ジャクソンは憲法の解釈において大統領は議会の法案にも裁判所の裁定にも縛
られないと主張した。立法府、行政府、司法府はそれぞれ独自の解釈に従うべ
きだとジャクソンは考えた。したがって、ジャクソンの拒否教書は、1803 年の
マーベリー対マディソン事件で決定した司法府の判断が立法府の判断に優越す
362
アメリカ大統領制度史上巻
るという原理を再び問い直すことになった。
第 2 に重要な側面は、アメリカ国民の前に議論を提示したやり方である。拒
否教書の最後の段落でジャクソンは最終的な判断は人民によるものだと明記し
た。第 2 合衆国銀行をめぐる争いが持つ政治的影響を心配して、議会は特許法
案を再可決することができなかった。1832 年、クレイは合衆国銀行の廃止を金
銭的な利害と少額の借り手の安全性を損なうものだと激しく非難した。しかし、
一般の多くの人々は合衆国銀行の破棄を特権の打破と見なして歓迎していた。
そのためジャクソンに批判的な新聞でさえも合衆国銀行に関してジャクソンは
人民の支持を得ていると報じる程であった。ジャクソンの勝利は、議会ではな
く大統領が人民の真の代表であるという確信を強めた246。
さらに 1832 年の大統領選挙で勝利して人民の支持を確実なものとしたジャ
クソンは 1833 年 10 月 1 日に第 2 合衆国銀行から政府の預託金を引き上げるこ
とを決定した。しかし、議会は預託金を移動させる権限をジャクソンに与える
ことを拒否した。1816 年に第 2 合衆国銀行の特許が認められた際に預託金を移
動させる権限は財務長官に与えられていた。ルイス・マクレーン(Louis McLane)
財務長官は合衆国銀行から預託金を州法銀行に移動させることを拒否した。そ
のためジャクソンはマクレーンを国務長官に指名し、ウィリアム・デュエイン
(William John Duane)を財務長官に据えた。しかし、デゥエインもその決定に
署名しなかったので更迭された。法によって大統領は財務長官に預託金の引き
上げを強制することはできなかった。ジャクソンはデュエインを罷免するしか
選択肢はなかった。議会が休会中なのを利用してジャクソンは議会の承認なく
新たな財務長官を任命した。
ジャクソンは新たな財務長官に命じて合衆国銀行から 1,100 万ドルの政府の
預託金を引き上げ、
「ペット・バンク」と呼ばれた州法銀行に移管した。ジャク
ソンに対抗してビドルは厳しい金融引き締め策を実施し、そのため 1833 年から
翌年にかけて金融危機がもたらされた。それでもジャクソンは合衆国銀行に対
する姿勢を変えず、合衆国銀行は 1836 年に特許の期限切れを迎えた。
ジャクソンの預託金引き上げに動きに対して上院は 1834 年 3 月 28 日、26 票
対20 票でジャクソンを憲法や法律で授与されていない権限を行使した旨で問責
する決議を採択した。1834 年 4 月 15 日、ジャクソンはそれに対して抗議声明
を発表した。抗議声明の中で、ジャクソンは大統領こそ人民の代表であり、州
議会によって選ばれる上院は人民を直接代表していないと述べた。さらにジャ
ジャクソニアン・デモクラシー期
363
クソンは、問責決議は憲法によって認められておらず、その精神を失墜させる
ものであると非難した。上院の問責決議で罷免されることはなかったが、大統
領の権威が損なわれる可能性があった。デュエインに代る新たな財務長官の任
命も 28 票対 18 票で否決された。これは閣僚指名が上院によって否決された最
初の例である。またジャクソンは預託金の引き上げに関する書類の開示を求め
る上院の要請を拒否した。ジャクソンは行政特権に基づいて、上院にはそのよ
うな要請を行う憲法上の権限はないと主張した。
デュエインの更迭と預託金の引き上げ、そして上院の問責決議は、大統領が
憲法に暗示されている罷免権を使って、議会が省庁の長官に与えている自由裁
量権に対してどの程度の命令が下せるのかという問題を提起した。クレイやウ
ェブスターは財務長官に自由裁量権を与える議会の権限を擁護した。それに対
してジャクソンは、大統領は行政府全体の行動に責任を持つと主張した。それ
は行政府内部の管理をめぐる大統領と議会の長い戦いの 1 つであった。その戦
いにジャクソンは勝利を収め、1837 年 1 月 16 日、問責決議は上院の議事録か
ら抹消された。ジャクソンの勝利は個人的な政治的勝利であっただけではなく、
大統領が行政府を監督する権限を確定するものであった247。
第 10 項 台所閣僚
行政府の中でジャクソンは閣僚の地位を低下させた。8 年間で 4 人の国務長官、
5 人の財務長官、2 人の陸軍長官、3 人の司法長官、3 人の海軍長官、そして 3
人の郵政長官が入れ替わった。大規模な入れ替えは 1831 年に起きた。ジャクソ
ンはペギー・イートン問題を解決することができないことに苛立ちを募らせ、
全閣僚に辞任を要求して閣僚の再編を行った。これはアメリカ史上唯一の事例
である。
またペギー・イートン問題の影響でジャクソンは定例の閣議を行わなくなっ
た。ペギー・イートン問題とはペギー・ティンバーレイク(Peggy O’Neale
Timberlake)という女性をめぐる問題である。一般に流布したゴシップによると
ペギーは夫がある身でありながらジョン・イートン(Johnn Eaton)と関係を持っ
たという。1828 年に夫が海で亡くなったのも自殺だと言われている。ペギーは
その後、すぐにイートンと結婚した。
閣僚の妻やホワイト・ハウスの接待役であるエミリー・ドネルソン(Emily
364
アメリカ大統領制度史上巻
Donelson)などワシントンの社交界はペギー・イートンを仲間に入れず疎外した。
このような仕打ちを見てジャクソンは自分の妻に向けられた非難を思い起こし
た。ジャクソンはイートン夫人の擁護に回り、閣僚に適切な尊敬の念で以って
イートン夫人を扱うように要求した。しかし、ほとんどの閣僚はそれを拒絶し
た。定例の閣議を開く代わりにジャクソンは友人や顧問と秘密裡に協議するこ
とが多くなった。それは非難の意味を込めて、台所の階段を通ってこっそり大
統領の書斎に行くことから「台所閣僚」と呼ばれた。それに対して従来の閣僚
は「客間閣僚」と呼ばれた。しかし、憲法上、アメリカ大統領は、個人、また
は集団から公的にあるいは私的に助言を受けることを禁じられていない。台所
内閣の構成員は絶えず入れ替わり、恒常的に助言を行う組織ではなかった。
第 11 項 最高裁の権威への挑戦
1832 年のウースター対ジョージア州事件でジャクソンは最高裁の権威に従わ
なかった。ジョージア州は州法によってネイティヴ・アメリカン以外がネイテ
ィヴ・アメリカンの領域に居住することを禁じていた。州政府から特別の許可
を得た者だけが居住を認められた。サム・ウースター(Sam Worcester)とその家
族はネイティヴ・アメリカンの領域と定められた場所から立ち退くことを拒否
した。ウースターは州政府から特別の許可を得ることも拒んだ。州政府は軍隊
を派遣してウースターを逮捕した。ウースターは、退去は憲法に認められた権
利の侵害であるとして最高裁に訴えた。ウースターの考えではジョージア州は
ネイティヴ・アメリカンの領域で法を執行する権限はなかった。
ウースター対ジョージア州事件の判決は 1832 年 3 月 3 日に下された。最高裁
は、ジョージア州の州法を違憲であり無効であるという判決を下した。この判
決に不服を抱いたジョージア州は裁判所の命令を無視した。ジャクソンは判決
を公然と批判することもなく、ジョージア州への支持を明らかにすることもな
かったが、ヴァン・ビューレンの助けで陰から妥協を図った。ウースターは告
発を撤回する代わりに知事から特赦を得た248。実質的にジャクソンは、最高裁
は憲法上の問題の最終的な裁定者であるという考えを認めなかった。ジャクソ
ンの考えでは、行政府、立法府、司法府はそれぞれ憲法に関する独自の見解で
導かれるべきであった249。
ジャクソニアン・デモクラシー期
365
第 12 項 正貨回状
1835 年 1 月に公債は完済され、連邦政府は多額の余剰金を抱えるようになっ
た。メイズヴィル道路法案に拒否権を行使したことからジャクソンが国内開発
事業にそうした余剰金を注ぎ込むことはないように思えた。そのためクレイは
連邦歳入分与法案を提出した。連邦歳入分与法によって、約 2,800 万ドルが国
庫から各州に分配された。
そうした資金は投資活動を促進した。さらにこれまで合衆国銀行が果たして
きた金融規制がなくなることで半ば無法状態になった。州法銀行が乱立して適
切な正貨の裏付けがない銀行券を増発した。そうした紙幣の膨張に関して不信
感を抱いたジャクソンは正貨回状で公有地の売却に関する支払いを正貨に限る
ように財務省に命じた。市場に十分な正貨がなかったために公有地の売却は滞
り、土地投機は壊滅的な打撃を受けた。その結果、金融業界、特に西部の銀行
は深刻な影響を被った。議会はそうした状況を考慮して正貨回状を無効にする
法案を可決したがジャクソンは法案に握りつぶし拒否権を行使した。
第 13 項 対仏関係
ジャクソン政権下で戦争の瀬戸際まで対仏関係は悪化した。アメリカは、ナ
ポレオン戦争の間にフランスによってアメリカ船舶に加えられた損害に対して
2,300 万ドルの賠償金を請求していた。フランスはそれに対して、独立革命期に
アメリカ植民地に貸与された糧食の代価に対する請求権を持っていた。1831 年
7 月 4 日に結ばれた条約によってフランスはアメリカに差し引き 500 万ドルの
賠償金を支払うことを約束した。しかし、フランスは支払期限が来ても賠償金
を支払わなかった。
ジャクソンは 1834 年の一般教書で、賠償金が支払われない場合、フランスの
財産に対する報復的強奪を認める法を制定するように議会に求めた。そうした
威嚇に対してフランスは艦隊を西インド諸島に急派した。ジャクソンは合衆国
海軍に非常召集をかけた。フランスは、ジャクソンが報復的強奪を求める一般
教書について満足できる説明をしない限り、賠償金を支払わないと通告した。
ジャクソンはそうした説明を行うことを拒絶した。幸いにもこうした行き詰ま
りはイギリスの仲介によって解消され、両国の戦争の危機は回避された。
366
アメリカ大統領制度史上巻
第 14 項 テキサス共和国の承認
ジャクソン政権の末期、
テキサスの併合の是非が問題となった。
1836 年、
6,000
人のメキシコ軍がテキサスに向かっていた一方で、テキサス各地から集まった
代表は独立を宣言した。サム・ホーストン(Sam Houston)率いるテキサス軍は
サン・ジャシント川の戦いでメキシコ軍を破り、メキシコに独立を承認させた。
ホーストンはテキサス共和国の大統領に選ばれ、合衆国にテキサスを奴隷州と
して併合するように求めた。ジャクソンは奴隷制度の拡大という激しい論争を
引き起こしかねない問題に取り組みことを避け、またメキシコと衝突するのを
避けるために決定を先延ばしした。任期の最後の日にジャクソンは公式にテキ
サス共和国を承認した。
第 15 項 結語
ホイッグ党によれば、ジャクソン政権の主要な遺産は大統領権限の危険な拡
大であった。合衆国銀行問題を引き合いに出してホイッグ党は、行政府が立法
府と司法府の影響力を縮小させるような権限を持ち、三権分立の原理を損なっ
ていると指摘した。ホイッグ党は、民主党が「国王アンドリュー1 世」を支持す
るあまりにジェファソン主義の原理を放棄したと批判する250。しかし、ジャク
ソン政権下で培われた政治的伝統は曖昧なものであった。ジャクソンは単純に
行政府の単独的な行動の機会を拡大したわけではない。ジャクソンの行政府の
権限拡大は人民の指導者としての大統領の出現に依拠していた。ジャクソンは
合衆国銀行問題で人民に訴えかけようとしたが完全に直接的に訴えかけたわけ
ではなかった。その代わりにジャクソンは政党を通じて人民に訴えかけた。
合衆国銀行をめぐる争いや他の政治的闘争は 1830 年代に発達した政党寄り
の新聞によって行われた。政党寄りのジャーナリストとの緊密な関係は、ジャ
クソンのリーダーシップに新たなる側面を与えた。そうしたジャーナリストは
大統領の決定を効果的に人民に伝える手段を提供した。グローブはジャクソン
政権とヴァン・ビューレン政権の公的な機関紙となった。新聞は政界に特別な
伝手を持ち、様々な利得を得た。ジャクソンからブキャナンまでのすべての民
主党の大統領は少なくとも 1 つの重要な新聞に手厚い支援を与えた。そうした
ジャクソニアン・デモクラシー期
367
新聞は同時に民主党の新聞であり、党の計画や組織に貢献していた。したがっ
て大統領は独断的であればある程、より攻撃的で大衆的な政党寄りの新聞に頼
るようになった。
ジャクソンが活気付けた大統領権限は党組織だけではなく、ジャクソン自身
が信奉した政治的信条によって制限された。つまり、連邦政府の責任を制限す
るという政治的信条である。民主党の狭義の憲法解釈は連邦政府の組織的能力
を弱めた。ジャクソン主義者は州権を国家の信条にまで高め、連邦政府の権限
と大統領権限を制限した。またジャクソン主義者は国内開発事業を否定し、合
衆国銀行の設立を拒んだ。さらにジャクソン主義者は、連邦政府が諸州におけ
る奴隷制度の拡大も廃止も妨げる権利を持たないと考えていた。アレクシ・ド・
トクヴィル(Alexis de Tocqueville)は、
「ジャクソン将軍の権威は絶えず増してい
るが、大統領の権威は落ちている。ジャクソンの手の中で連邦政府は強大であ
るが、後継者の手に渡ることになれば弱くなるだろう」と評している251。
第 2 節 ヴァン・ビューレン政権
第 1 項 概要
1782 年 12 月 5 日、マーティン・ヴァン・ビューレン(Martin Van Buren)は
ニュー・ヨーク邦キンダーフックで生まれた。アメリカ独立後に生まれた初めて
の大統領である。5 人の子供の 3 番目として生まれた。母は再婚である。14 歳
の時、初等教育を受けただけに過ぎなかったが、早くも法律を学び始めた。弁
護士となったヴァン・ビューレンは、遺言検認判事を皮切りにニュー・ヨーク
政界で次第に地歩を築いた。州上院議員、州司法長官を歴任する。オールバー
ニー・リージェンシーと呼ばれる政治団体を組織し、州内の実力者となった。
1828 年の大統領選挙でジャクソンの当選に貢献している。ジャクソン政権下で
国務長官や駐英アメリカ公使を歴任した後、1832 年の大統領選挙で副大統領候
補となり、ジャクソンとともに当選した。その巧みな政治手腕から「小さな魔
術師」と呼ばれた。ジャクソンの後援を得て大統領に当選したヴァン・ビュー
レンは 1837 年に大統領に就任した。1837 年恐慌が起きた際には政府支出を切
り詰め、恐慌を回復させる有効な手を打つことができなかった。民主党から大
統領候補指名を受けたヴァン・ビューレンであったが、恐慌で国民の支持が衰
えていたためにホイッグ党の大統領候補のウィリアム・ハリソンに敗北した。
368
アメリカ大統領制度史上巻
1844 年と 1848 年に再び大統領への道を目指したがいずれも成功しなかった。
第 2 項 大統領選挙
1836 年の大統領選挙でヴァン・ビューレンはジャクソンの後継者として民主
党の大統領候補指名を受けた。ホイッグ党は、ヴァン・ビューレンの当選を阻
止しようと地域毎に異なる候補者を擁立した。その中にはウィリアム・ハリソ
ンも含まれていた。ホイッグ党の目的は、それぞれの地域で候補者を擁立する
ことでヴァン・ビューレンが過半数の選挙人を獲得することを阻止し、下院に
大統領の選出を任せることであった。しかし、ホイッグ党の戦略は失敗に終わ
った。ヴァン・ビューレンは 6 割近い選挙人を獲得して当選した。
しかし、副大統領候補のリチャード・ジョンソン(Richard M. Johnson)下院
議員が問題を引き起こした。ジョンソンがアフリカ系アメリカ人の女性との間
に子供をもうけたという噂を聞いて23 人のヴァージニア州の選挙人はジョンソ
ンに投票することを拒んだ。それによりジョンソンは当選するのに必要な過半
数の選挙人を獲得することができなくなった。憲法修正第 12 条に基づいて、副
大統領の選出は上院に委ねられた。その結果、ジョンソンの当選が確定した。
上院が副大統領を選んだ唯一の事例である。しかし、1840 年の大統領選挙で民
主党はジョンソンを指名することを拒んだ。
第 3 項 1837 年恐慌
トクヴィルが予期したようにジャクソンの後継者であるヴァン・ビューレン
は就任当初から難しい局面を迎えた。ヴァン・ビューレンは全国的な経済危機
に対処した最初の大統領になった。ヴァン・ビューレンが大統領に就任するや
いなや、経済は下降線をたどり始めた。1837 年恐慌は投機によって引き起こさ
れた。西部の土地、製造業、運送業、銀行業、そしてその他の事業への投資ブ
ームは 1825 年に始まり、信用の過剰供与をもたらした。
ジャクソン政権が合衆国銀行から預託金を引き上げてペット・バンクに移し
変えることによって信用の拡大に寄与した。過剰拡大した経済に対応するため
に、ジャクソンは 1836 年 7 月に正貨回状を出した。それは公有地の代金として
政府に支払うべき貨幣を金貨もしくは銀貨に限る命令であった。市場はジャク
ジャクソニアン・デモクラシー期
369
ソンとその後継者が通貨の引き締めに取り掛かろうとしていると判断した。銀
行が債権を回収し始めたために恐慌が引き起こされた。
アメリカの商社は閉業し始め、ニュー・ヨークでは高騰する小麦価格に抗議
する暴徒が出現した。ほとんどの銀行が正貨での支払いを差し止め、ジャクソ
ンが合衆国銀行の代わりに打ち立てた州法銀行制度は崩壊した。ヴァン・ビュ
ーレンはジャクソンよりも実際的な政治家であったが、ジャクソン主義者の原
理に固執して、経済危機に対して政府資金による救済策をとろうとしなかった。
通貨を統制するために合衆国銀行のような全国組織を創設するというあらゆる
試みをヴァン・ビューレンは否定した。同様にヴァン・ビューレンは財務省が
国内流通を促進するために紙幣を発行すべきだという見解も否定した。
積極的に政府が介入するべきだというホイッグ党の要望を受け入れず、ヴァ
ン・ビューレンの経済危機への対策は控え目なものであった。ヴァン・ビュー
レンは財務省分局を設立し、政府資金を州法銀行に預ける代わりに独立した国
庫に納めることを提案した。財務省分局の権限は制限され、州法銀行は連邦の
監督から自由になる。その一方で、連邦政府自身も政府資金を自由に管理運営
できる。こうした提案は 1840 年まで実現することはなかった。連邦政府が経済
面でもっと積極的になるべきだと考える民主党の保守派とホイッグ党の同盟が
ヴァン・ビューレンの提案に反対したからである。1840 年の大統領選挙は経済
危機の中で行われた。多くの有権者は経済危機の責任が民主党にあると見なし
た。
第 4 項 行政府の管理に関する争い
ケンダル対合衆国事件は郵便局に関する事件であり、行政府の管理に関する
大統領と議会の争いの 1 つである。事の発端はジャクソン政権期まで遡る。ア
モス・ケンダル(Amos Kendall)郵政長官は郵便を配達する民間契約者を監督す
る査察機関を設立した。契約者はケンダルが不正利得を得ているとしてその代
価を請求した。最初、ケンダルは請求を支払うことを拒否した。議会は、財務
省の会計官が支払うべきだと認めた額を契約者に支払うことを郵政長官に命じ
る法を制定した。会計官は、契約者は約 16 万 1,000 ドルを受け取る資格がある
と結論付けた。ジャクソンの同意を得て、ケンダルは 12 万 2,000 ドル以上を支
払うことを拒んだ。
370
アメリカ大統領制度史上巻
契約者は法廷で議会の法によって請求の支払いは自由裁量が認められない事
務的な行為となると主張した。それに対してケンダルは、行政府によるいかな
る支払いも自由裁量を認められる行為であると反論した。自由裁量が認められ
るか否かはマーベリー対マディソン事件まで遡る。マーシャル最高裁長官は、
自由裁量を行使でき、国家にのみ説明責任を負う大統領の権限と法によって割
り当てられた事務的義務を果たさなければならない大統領の下僚の法的義務を
峻別した。
コロンビア特別行政区の巡回裁判所の判決は、マーベリー対マディソン事件
の判決に依拠して、大統領は行政官が適切な動機で実直に行動しているか配慮
する以外の監督権を持たず、法を解釈する権限を持たず、行政府の行動が法に
適合しているか確認する権限を持たないという判断を下した。最高裁は大統領
の監督権をそれほど狭義に解釈していない。スミス・トムソン(Smith
Thompson)判事は、行政官によって自由裁量が認められる行為を執行するのに
使われる大統領の行政権と法によって定められ、郵政長官も大統領も否定した
り統制したりする権限を持たない単なる事務的行為を明確に区別した。最高裁
は、行政官は大統領の絶対的な指示の下にあるわけではないと主張した。最高
裁の見解では、行政官の義務が大統領によって完全に統制され、議会が適切だ
と考える義務を行政官に課すことができないという考え方は危険な原理である。
そうした場合、行政官の義務と責任は大統領の指示に従うのではなく法の統制
に従うべきである。最高裁は巡回裁判所の職務執行令状を支持し、郵政長官の
義務は自由裁量が認められない義務であり、財務省の会計官が認めた額をその
まま契約者に支払わなければならないと命じた。
最高裁の判決に勇気付けられた契約者はさらにケンダルに支払いが遅れたこ
とによる利子と訴訟費用を請求した。ホイッグ党員から構成される陪審団は 1
万 2,000 ドルの損害賠償を支払う責任がケンダルにあると認めた。しかし、最
終的にケンダル対ストークス事件で最高裁は、最初の判決で既に契約者は法的
救済を得ているので十分であるとして訴えを棄却した。
ケンダル対合衆国事件で重要な点は、大統領が行政組織に対して絶対的な権
限を持っていないと判断された点である。コロンビア特別行政区の連邦裁判所
は、議会によって割り当てられた資金を使うような自由裁量が認められない事
務的な義務だと考えられる行為に対して行政官に職務執行令状を発行している。
連邦裁判所はケンダル対合衆国事件に倣って、もし権利を侵害された者が自由
ジャクソニアン・デモクラシー期
371
裁量を認められない法が遵守されていないと主張した場合、大統領の権威を犠
牲にしてでも法を支持することが期待された。
第 5 項 キャロライン号事件
カナダの反乱に対してヴァン・ビューレンは中立を貫きイギリスとの衝突を
避けた。カナダの反乱軍がイギリスの支配を覆そうと蜂起した。反乱軍はトロ
ントを襲撃したが失敗し、ナイアガラ川のネイヴィ島にカナダの独立を目指し
て亡命政府を樹立した。反乱軍に同情的なアメリカ人は蒸気船キャロライン号
でネイヴィ島に物資を運んだ。
1837 年 12 月、イギリスから命令を受けたカナダの民兵がアメリカの領域内
でキャロライン号を拿捕し、火を放って、ナイアガラの滝に投げ込んだ。1 人の
アメリカ人が死亡し、数人が負傷した。ヴァン・ビューレンは連邦軍をその地
域に派遣したが、イギリスとの戦争を求める声に抵抗した。ヴァン・ビューレ
ンはイギリスに抗議するとともに反乱軍の首謀者と反乱軍に協力するアメリカ
側の義勇軍の指導者を告発した。ヴァン・ビューレンは両者を投獄し、義勇兵
の武装解除を行った。
第 6 項 アルーストゥック戦争
アメリカとイギリスの関係はさらにアルーストゥック戦争で悪化した。メイ
ン州とカナダのニュー・ブランズウィック州の間の境界は明確に定められてい
なかった。アメリカとカナダは約 768 万エーカーのアルースゥック川沿いの土
地の領有権を主張した。1839 年 2 月、アメリカが領有権を主張している地域に
カナダの木材切り出し労働者が入り込み、それに抗議したメイン州上院議員を
捕らえた。メイン州とニュー・ブランズウィック州はお互いに民兵を召集し、
国の支援を求めた。ヴァン・ビューレンは支援を与える代わりにウィンフィー
ルド・スコット(Winfield Scott)を派遣し平和的解決にあたらせた。2 月 27 日、
暫定協定が結ばれた。最終的な境界問題の解決はタイラー政権によってなされ
た。
第 7 項 テキサス問題
372
アメリカ大統領制度史上巻
ヴァン・ビューレンはテキサス併合を拒んだ。1836 年、テキサスはメキシコ
から独立した。テキサスはアメリカに州として加入することを望んだ。北部人
は、新たな奴隷州が連邦に加わることを嫌ってテキサス併合に反対した。奴隷
制度廃止論者は、テキサス併合を奴隷制度を拡大するための陰謀と見なした。
ヴァーモント州議会は、国内の奴隷制度を認める憲法を有するいかなる州の連
邦加入に反対することを表明している。
その一方で南部人と西部人はテキサス併合に賛成していた。奴隷制度擁護派
は、ある州を奴隷制度の故を以って除外することは連邦を崩壊させることにな
ると警告した。奴隷州は 1820 年ミズーリ協定によって不利な立場に置かれてい
ると考え始めた。自由州は 13 州、奴隷州は 13 州で一時は均衡していたが、奴
隷州として新たに加入してくると考えられる州はフロリダだけであったのに対
して、自由州として新たに加入してくると考えられる州はウィスコンシン、ア
イオワ、ミネソタの 3 つであった。テキサスを併合することで、テキサスをい
くつかの奴隷州に分割すれば政治的均衡を回復できると奴隷州は考えた。
ヴァン・ビューレンは、奴隷制度は地域的な問題であり、全国的な問題では
ないとする南部の姿勢に同調していたが、テキサス併合については北部人の見
解を支持した。ヴァン・ビューレンはテキサス併合に反対した。なぜならテキ
サス併合が奴隷制度をめぐる議論を過熱させ、地域的な利害の衝突を激化させ
ると考えたからである。
第 8 項 アミスタッド号事件
その一方でヴァン・ビューレンはアミスタッド号事件で黒人をスペイン政府
に引き渡そうとした。1839 年 2 月、ポルトガルの奴隷商人がシエラ・レオネか
ら一団の黒人を誘拐した。商人は黒人達を 2 人のスペイン人農園主に奴隷とし
て売却した。農園主達は黒人達をアミスタッド号に乗せてキューバに運ぼうと
した。7 月 1 日、アフリカ人達が船を占拠し、船長と料理人を殺害したうえ、農
園主達にアフリカに進路を戻すように要求した。8 月 24 日、アミスタッド号は
ニュー・ヨーク州ロング・アイランド沖でアメリカ船に拿捕された。農園主達
は解放され、アフリカ人達は殺人罪の嫌疑で収監された。殺人罪の嫌疑は棄却
されたものの、農園主達が黒人達に対する財産権を主張したために、彼らの収
ジャクソニアン・デモクラシー期
373
監は解かれなかった。
ヴァン・ビューレンは駐米スペイン公使の要求に従って船を所有者に返還し
アフリカ人達をキューバに送ることに同意したが、奴隷廃止論者達はそれに反
対した。1841 年 1 月、アミスタッド号事件は最高裁に持ち込まれ、ジョン・ク
インジー・アダムズがアフリカ人達の弁護を務めた。アダムズはヴァン・ビュ
ーレン政権が裁判に介入しようとしていることを非難し、アフリカ人の自由を
取り戻すために尽力した。最終的に最高裁は、アフリカ人は奴隷でも海賊でも
なく自由人であり、故郷から誘拐されて不法にアミスタッド号に乗せられたこ
とを認め、アフリカ人全員をアフリカに送還する裁定を下した。しかし、スペ
イン政府は諦めず補償を求め続け、歴代政権はリンカン政権までそうした要求
が正当であると認め続けた。
第 9 項 結語
ジャクソン政権期とヴァン・ビューレン政権期にかけて全国的な党組織の萌
芽が見られた。各州で憲法が修正され、公職に就くための宗教資格と財産資格
は撤廃され、成人男子選挙権が拡大した。多くの公職が選挙で選ばれるように
なった。連邦と地方の政治は極めて緊密に繋がり、地方の政治情勢が大統領選
挙に影響を及ぼすことも稀ではなく、反対に大統領の政策が地方の選挙の結果
を左右することも珍しくなかった。州政府は有権者を引き付けるために、連邦
議会に影響を及ぼそうとその範疇に属さない連邦の問題に関する決議案の起草
に多大な努力を払った。
公職の候補者を指名する党大会が全国に広まった。地方の党幹部会は郡党大
会に代議員を送り、郡党大会では郡の公職の候補者を指名し、州党大会への代
議員を選出した。州党大会では、州の公職の候補者を指名し、大統領候補を指
名し綱領を決定する全国党大会に送る代議員を選出した。蒸気船と鉄道の発達
によって政治家は多くの場所で演説することができるようになり、遊説旅行が
行われるようになった。有権者は政治に積極的な関心を示すようになり、政党
への忠誠心を高めた。しかし、選挙による公職の多様化と猟官制度は政界を著
しく腐敗させ、公職制度を堕落させた。
第 3 節 ウィリアム・ハリソン政権
374
アメリカ大統領制度史上巻
第 1 項 概要
1773 年 2 月 9 日、ウィリアム・ハリソン(William Henry Harrison)はヴァー
ジニア植民地バークレイで生まれた。父は独立宣言の署名者の 1 人であり、後
にヴァージニア邦知事も務めている。 14 才の時、ハリソンはハムデン・シドニ
ー・カレッジで医学を学び始めた。父の死後、ハリソンは医学を学ぶのを止め
て軍隊に入った。西部で軍歴を積み、北西部領地長官、インディアナ準州長官
を歴任した。1811 年、ハリソンは軍を率いてティぺカヌーでネイティヴ・アメ
リカンを撃退し、根拠地を焼き払った。さらに 1812 年戦争の最中、テムズ川の
戦いでイギリスとネイティヴ・アメリカンの連合軍を破った。戦後、連邦下院
議員、オハイオ州上院議員、連邦上院議員を務めた。ホイッグ党の指名を受け
て大統領選に出馬した。就任式の際に雨で身体が濡れ、それが原因で風邪をこ
じらせ肺炎となった。そして、就任後、1 ヶ月で亡くなった。在職中に死亡した
初めての事例である。
第 2 項 大統領選挙
1840 年の大統領選挙ではホイッグ党の大統領候補ウィリアム・ハリソンが勝
利を収めた。ハリソンの勝利はジャクソン主義者の国内政策だけではなく制度
的業績に挑戦するものであった。ホイッグ党はジャクソン政権期に起きた大統
領の権限拡大に反対していた。クレイやウェブスターといったホイッグ党の指
導者は 1837 年恐慌を議会の力を取り戻す好機と見なした。1840 年の大統領選
挙でクレイは有力な候補と見なされていた。クレイは反ジャクソン的な一派の
指導者でありホイッグ党の立役者であった。しかし、ホイッグ党は 1812 年戦争
におけるティペカヌーの戦いの英雄であるハリソンのほうがクレイよりも当選
が確実だと考えてハリソンを大統領候補に指名した。クレイは敵が多かったが、
ハリソンは全国的な知名度があるうえに、論争を呼ぶ問題に関しては明確な態
度をとっていなかった。それ故、誰の反感をかうこともないと期待されたので
ある。ハリソンは大統領の任期を 1 期に限り、財務省を大統領の統御から解放
し、拒否権を違憲の場合のみに限るという改革案を支持していた。それはクレ
イやその支持者にとって慰めとなった。
1840 年の大統領選挙では深刻な争点はなかったが、ハリソンは 1 期を務めた
ジャクソニアン・デモクラシー期
375
後に大統領職を辞職することを表明していた。ウェブスターとクレイが執筆に
助力したハリソンの就任演説では、その大半が大統領による権力簒奪の批判に
あてられている。ハリソンは、大統領選挙中に繰り返されたホイッグ党の主張
を脚色し、もし自らの提案が実行されれば大統領職は単なる名目上の職になる
だろうと主張した。ハリソンは、大統領が人民の要求をより良く理解するべき
だという考えを非常識な考えとして斥けた。ハリソンは憲法の制定者が財務長
官を大統領から独立した存在にしなかったことを残念に思った。財務長官は議
会の要請のみで罷免されるべきだとハリソンは考えていた。ハリソンは罷免に
至るすべての状況を議会に伝えることなく財務長官を罷免することはないと誓
約した。ジャクソン主義者はそうした考えをホイッグ党の指導者が大統領を議
会の傀儡にしようとしているのではないかと疑った252。ハリソンの主張は、大
統領職に関する政治的理解に基づいていたわけでもなければ、大統領が議会の
攻撃に対して自らを擁護する必要性を認識していたわけでもなければ、提案を
実行するのに現実的な方針が示されていたわけでもなかった。もしハリソンが
中途で病死せずに大統領職を継続していたら、大統領制度は容易に回復できな
い程の痛手を被ったかもしれない。
大統領制度におけるジャクソン主義者的な要素はホイッグ党の挑戦にも拘わ
らず生き残った。1840 年までに大統領制度の重要性は民衆の心に深く根をおろ
していた。もはや大統領はジェファソン主義者の時代のように弱い立場に戻る
ことはできなかった。1840 年の選挙戦の中でホイッグ党は大統領制度の恒久的
な変化に図らずも貢献した。ジャクソンの政敵は民主党が大統領選挙で用いる
大衆的な選挙戦術を好ましく思っていなかった。しかし、そうした選挙戦術に
悉く敗北したホイッグ党は 1840 年の選挙で自らも大衆的な選挙戦術を採用す
るに至った。政党のプロパガンダのために新聞を買い上げたり、大規模な集会
を開いたり、政党の演説家に遊説をさせたりして、できるだけ多くの有権者を
動員しようとした。
民主党に打ち勝つためにホイッグ党は、以前は軽視していたスローガンや歌
やシンボルといった要素を重視するようになった。
「ティペカヌーとタイラー
も」というスローガンが考案され、丸太小屋の生まれであることが大統領選挙
で初めて重要なシンボルとなった。民主党のジャーナリストは教養のないハリ
ソンについて「彼に林檎酒 1 樽と年金 2,000 ドルをやればよい。そうすれば彼
は彼の残された日々を丸太小屋で座って過ごすだろう」と記した253。ホイッグ
376
アメリカ大統領制度史上巻
党の宣伝者はそれをハリソンの利点に変えた。ハリソンは「丸太小屋と林檎酒
の候補」となり、そうしたイメージは多くの有権者の心をとらえた。丸太小屋
のバッジ、丸太小屋の歌、丸太小屋の新聞、パレードの山車、そして林檎酒の
樽が至る所で見られた。多くの町で実物の丸太小屋が建てられ、壁にはアライ
グマの皮がかけられていたり、アライグマが歩き回ったりしていた。ハリソン
は大統領候補として初めて公衆の面前で選挙演説を 23 回行った。
そうした選挙戦術は国中で著しい熱狂をもたらした。ヴァン・ビューレンは
もともと控え目な性格であったが、衣装は人目を引く豪華なものであり、
「丸太
小屋」の候補であるハリソンに対して勝ち目はなかった。約 240 万人の有権者
が投票した。全有権者の 80.2 パーセントを占める。その数字が破られたのは
1860 年と 1876 年の 2 回のみである254。ハリソンは、イリノイ州とミズーリ
州を除く西部、ニュー・ハンプシャー州を除くニュー・イングランド、そして、
ヴァージニア州とサウス・カロライナ州を除く南部を獲得する地滑り的勝利を
収めた。
第 3 項 結語
皮肉なことにも民主党の選挙戦術を効果的に模倣したホイッグ党は、大統領
が民衆の指導者であるというジャクソン主義者の概念を図らずも強化すること
になった。ホイッグ党は強力な大統領に反対したが、大統領制度をジェファソ
ン主義者の時代に戻すことはもはやできなかった255。
ハリソンは短い任期にほとんど何も達成することはできなかったが、猟官者
を退けた。ハリソンのポケットは請願書で溢れ、ホワイト・ハウスは猟官者で
いっぱいになった。ハリソンは猟官制度を撲滅したいと真剣に検討していた。
ハリソンは、職務怠慢でのみ現職の公職者を罷免するように命じた。
第 4 節 タイラー政権
第 1 項 概要
1790 年 3 月 29 日、ジョン・タイラー(John Tyler)はヴァージニア州チャール
ズ・シティ郡で生まれた。8 人の子供の 6 番目である。父は農園主でヴァージニ
ア州知事も務めた。タイラーはウィリアム・アンド・メアリ大学を 17 歳で卒業
ジャクソニアン・デモクラシー期
377
後、法律を学んで弁護士になった。父を見習ってタイラーは政界に進出した。
ヴァージニア州下院議員を皮切りに連邦下院議員、ヴァージニア州知事、連邦
上院議員を歴任した。1840 年の大統領選挙でウィリアム・ハリソンとともにホ
イッグ党の副大統領候補として選挙を戦い、当選した。ウィリアム・ハリソン
が就任後 1 ヶ月で病死したので、タイラーは副大統領から昇格して大統領に就
任した。タイラーは厳格な憲法解釈に基づいて、議会が推進する国内開発事業
や合衆国銀行などに関連する法案に拒否権を行使した。そのため閣僚が異を唱
えて辞任しただけではなく、ホイッグ党の支持を失った。一方でテキサス併合
に成功している。南部連合結成時にその議員として選出されたが、まもなく亡
くなった。
第 2 項 大統領就任
ジャクソン主義的な大統領制度の強化はハリソンが就任後 1 ヶ月で死去した
時により明白となった。
1841 年 3 月 4 日は史上最も寒い大統領就任日であった。
ハリソンの死因は、1841 年 3 月 4 日の就任式で雨の中、歴代最長の 1 時間 40
分に及ぶ就任演説を行い、肺炎を発症したことによる。副大統領のタイラーが
大統領として直ちに宣誓し、ハリソンの残りの任期をまっとうすることを表明
した。タイラーの大統領就任は、大統領職が空席になった時に副大統領が完全
な資格で大統領に就任する権利を持つことを明らかにした。タイラーはハリソ
ンに比べてホイッグ党の政府の原理、特に大統領に関する原理を熱心に信奉し
ていなかった。ホイッグ党の指導者達は、タイラーがジャクソン主義的な大統
領制度を解体しようとする試みにあまり協力しようとしないのを知って落胆し
た。
タイラーが完全な資格で大統領に就任することができるか否か憲法上の権利
は不確定であった。憲法第 2 条の継承に関する条項は曖昧であり、大統領が死
亡、辞職、罷免、もしくは無能力になった場合、
「同上」は副大統領に移り属す
ると規定しているだけである。この規定は、タイラーが副大統領のまま、特別
選挙が行われるまで単に大統領の権限を代行しているに過ぎないのか、それと
もハリソンの残りの任期の間、完全な資格で大統領となるのかという疑問を生
じる。
タイラーはあらゆる意味で自身が大統領であると即座に主張した。ハリソン
378
アメリカ大統領制度史上巻
が亡くなったすぐ後に、議会で議論が継続中であったのにも拘わらず、タイラ
ーは宣誓を行い、10 日以内にホワイト・ハウスに移った。大統領としての資格
に疑念を残さないために、1841 年 4 月 9 日、タイラーは選挙で選ばれた大統領
と同じく公衆の面前で就任演説を行った。タイラーは自らがハリソンの陰に立
つことに甘んじないことを国中に示した。それはまたクレイを代表とするホイ
ッグ党の指導者の従順な召使にはならないという警告であった。タイラーは積
極的かつ断固たる行動をとることによって、明確な憲法の規定がない中で、臨
時の大統領が選挙で選ばれた大統領と同じ地位を享受できるという前例を打ち
立てた256。下院ではタイラーを「前大統領の死亡によって大統領職の権限と義
務が移り属する副大統領」と通信で公式に呼称する動議が提出されたが、圧倒
的な票数で否決された。それは議会がタイラーの主張を黙認したことを示して
いる。大統領であれ、大統領代行であれ大統領の権限と義務を遂行する人物を
疎外することによって政治的に得られることはほとんど何もなかった。
第 3 項 大統領と議会の対立
タイラーが大統領に就任することで直面した困難は継承にまつわる憲法的な
疑念を超えるものであった。タイラーの大統領昇任は政治的行き詰まりを生み
出した。タイラーは、元民主党員であり、ホイッグ党の指導者が唱導するナシ
ョナリスト的な観点と意見を異にする一派を代表していた。アメリカの政党政
治でよく見られる慣習として、タイラーの指名は南部の州権を重視する一派へ
の妥協策であった。この場合はそうした妥協策が裏目に出た。タイラーはハリ
ソンの死後、積極的に大統領の権限を行使し、州権を尊重し、ホイッグ党の指
導者が推進するアメリカ体制の実現を脅かした。タイラーはヴァージニア決議
で示された州権の原理を主張し、連邦政府が僭取した権限を剥奪することが自
らの使命であると信じていた257。
多くのホイッグ党の国内政策に反対したために、タイラーはジャクソンを除
いてこれまでの大統領よりも数多くの拒否権を行使した。1841 年、タイラーは
ジャクソンが葬った第 2 合衆国銀行に似た 2 つの連続する法案に対して拒否権
を行使した。タイラーが 2 回目の拒否権を行使した後、ホイッグ党の指導者の
怒りは爆発した。それは大統領選挙で勝利した後も、自らの政策を実現できな
いホイッグ党の苛立ちを示していた。タイラーの人形が国中で焼かれ、暗殺を
ジャクソニアン・デモクラシー期
379
仄めかす手紙が何百通も届いた。閣僚はウェブスター国務長官を除く全員が辞
職した。民主共和党の時代のように国務長官が大統領の後継者となることを想
定してウェブスターはさらに 1 年半、タイラーと協調しようとした258。もしウ
ェブスターが、タイラーによる新しい閣僚の指名を阻む企みを支持するように
求めるクレイの圧力に抵抗していなかったら、タイラー自身が辞任を余儀なく
されたかもしれない。
銀行問題をめぐる争いはタイラーとホイッグ党の指導者の間の争いの始まり
にすぎなかった。
1842 年の関税法案に対するタイラーの拒否権の行使によって、
史上初めての大統領弾劾の試みがなされることになった。タイラーの拒否権は
覆され、史上初めて大統領の拒否権が覆された例となった。タイラーの積極的
な拒否権の行使は、大統領は議会に従属するべきだというホイッグ党の理念と
相反する行為であった。クレイは、単純過半数で大統領の拒否権を覆すことが
できるように憲法を修正するように提案している。こうした対立によってタイ
ラーはホイッグ党を放逐された。そのため引き継ぎの大統領ではなく、自ら選
挙で勝利して任期を獲得したいというタイラーの願いは打ち砕かれた259。
第 4 項 ドアの乱
タイラーは州権を尊重していたが、ロード・アイランド州で起きたドアの乱
に介入した。ロード・アイランド州は独立以来、植民地時代に授与された特許
状を憲法として採用していた。その特許状によって約 5,000 人の土地所有者が
参政権を独占していた。そうした状況に不満を抱いた人々は州議会を無視して
1841 年 10 月に憲法制定会議を開催し、白人成人男子に選挙権を拡大する憲法
を採択した。新しい憲法は人民投票にかけられ圧倒的な多数で批准された。1842
年 4 月、トマス・ドア(Thomas Dorr)が知事に選出され、新政府を樹立した。そ
の一方で従来の特許状に基づく旧政府はドアの新政府を反乱分子であると宣告
し、民兵を召集し、全州を戒厳令下に置いた。
タイラーは新旧両政府からの訴えを聞いて、旧政府が合法的な政府であり、
必要であれば武力を行使してでも支持すると声明した。新政府側は州武器庫の
奪取を目指して蜂起したが失敗した。ドアは反逆罪で有罪となった。旧政府は
勝利を収めたが、さらなる内乱の発生を恐れて憲法修正会議を開催し、選挙権
の拡大を認めた。
380
アメリカ大統領制度史上巻
第 5 項 ウェブスター=アシュバートン条約
タイラー政権はウェブスター=アシュバートン条約を締結し、メイン州とカ
ナダのニュー・ブランズウィック州の現在の境界を定めた。それによりアルー
ストゥック戦争が起きた原因が解決された。約 768 万エーカーの係争地域のう
ち約 448 万エーカーをアメリカは獲得した。またウェブスター=アシュバート
ン条約によって東海岸からロッキー山脈に至るまでの国境線が調整された。さ
らに同条約は、暴力犯罪や通貨偽造などについて逃亡犯罪人の引渡しについて
規定し、奴隷貿易の抑圧に協力することを取り決めた。
第 6 項 テキサス併合
1844 年 4 月、アメリカとテキサスは併合条約を結んだ。しかし、奴隷制度の
拡大に反対するホイッグ党議員が中心となって上院でテキサス併合条約の批准
を阻んだ。またホイッグ党が支配する北部の州議会は、外国の併合は違憲であ
り、連邦の自由の権利に対する侵害であるという決議を採択した。それに対し
て民主党の支配下にある各州議会はテキサス併合を求める請願を連邦議会に行
った。その中でもサウス・カロライナ州の過激派は、もし併合が失敗すれば、
南部諸州は連邦から脱退してテキサス共和国と合体すべきであると主張した。
条約の批准に失敗したタイラーは議会に両院共同決議を求めることを考えつ
いた。条約の批准には上院の 3 分の 2 の賛成が必要であるが、両院共同決議は
両院の単純過半数のみで可決される点に目をつけたのである。その結果、議会
は両院共同決議でテキサス併合を認めた。タイラーは任期が終了する 3 日前に
両院共同決議に署名した。これは国際条約が条約の批准ではなく両院共同決議
で発効した最初の例である。しかし、タイラーのこうした措置は違憲性の疑い
があることは確かである。タイラーは任期の最後の日に、特使をテキサス共和
国大統領に派遣して、テキサス共和国の同意が得られれば連邦加入を認めると
通告した。テキサスはタイラーの申し出に即座に同意した。
第 7 項 結語
ジャクソニアン・デモクラシー期
381
タイラーは初めて副大統領から大統領に昇格することで継承の先例を確立し
た。また拒否権を行使して議会を主導するホイッグ党と対立した。それは憲法
上、大統領が議会の意思に抵抗できることを示した。しかし、タイラーはホイ
ッグ党の支持を失ったために大統領候補指名さえ得ることができなかった。
第 5 節 ポーク政権
第 1 項 概要
1795 年 11 月 2 日、ジェームズ・ポーク(James Knox Polk)はノース・カロラ
イナ州メクレンブルグ郡パインヴィル付近で生まれた。10 人の子供の長子であ
る。父は農園主であり、測量や土地投機なども行なっていた。テネシー州の辺
境に一家が移転したためにポークは両親から読み書きの手解きを受けた。ノー
ス・カロライナ大学を卒業後、法律を学び法曹界に入った。ポークはテネシー
州下院議員当選を以って政界に入った。その後、連邦下院議員を務め、議長に
も任命されている。その間、一貫してジャクソン大統領を支持した。テネシー
州知事を 2 期務めたが、再々選はかなわなかった。しかし、1844 年、政治的妥
協の結果、民主党大統領候補指名を獲得し、ホイッグ党の対立候補を破った。
大統領としてポークは領土拡大を実現させた。英米の共同管理下に置かれてい
たオレゴン地域の北緯 49 度以南を獲得した。さらにテキサス併合をめぐってメ
キシコと戦火を交え、カリフォルニアを含む広大な土地を合衆国に組み入れた。
大統領退任後まもなく病死した。ポークはジャクソンからリンカンの間の歴代
大統領の中で最も優れた手腕を発揮した大統領であった。トルーマンはポーク
を最も成功した大統領の 1 人に挙げている。
第 2 項 大統領選挙
タイラーの任期が終わった時、後継者となった民主党の大統領ポークが政権
を成功に導くと予測した者はほとんどいなかった。タイラーは大統領制度が後
退することを防いだが、ポークは大統領制度をさらに前に進め、その責任を十
全に果たしたと言える。ポーク政権の業績はたやすく達成されたわけではない。
ポークは両院で交戦的なホイッグ党の少数派と対峙しなければならなかったし、
一方で民主党は奴隷制度をめぐって党内で亀裂が生じ始めていた。アメリカの
382
アメリカ大統領制度史上巻
領土を拡大する過程の中で奴隷制度をめぐる争いはポークを大統領に押し上げ
た。
ヴァン・ビューレンが 1844 年の民主党の大統領候補指名を勝ち取ると思われ
ていた。しかし、テキサス併合が大きな問題となった。民主党とホイッグ党が
それぞれ党大会を開催する直前にカルフーン国務長官はテキサスと併合条約を
締結した。その結果として民主党のヴァン・ビューレンとホイッグ党のクレイ
はそれぞれテキサス併合に関する意見を明らかにせざるを得なくなった。クレ
イとヴァン・ビューレンはそれぞれテキサス併合に関する意見を示した文書を
出版することに合意した。テキサス併合により奴隷を保有する領域を拡大する
ことについて北部と南部の間で深刻な意見の不一致があった。
クレイは、不名誉なこともなく、戦争もなく、連邦全体の同意が得られ、公
明正大な条件が実現されなければテキサスを併合すべきではないと述べた。ク
レイの併合への反対はほとんど議論もなく、北部が支配的になりつつあったホ
イッグ党に受け入れられた。しかし、ヴァン・ビューレンが、事を急げばメキ
シコとの戦争になる可能性があるという見解を示すと民主党内で激しい非難の
嵐が起きた。ジャクソンは領土拡大を支持しており、そうした立場は南部や西
部にとって神聖なものであった。ホイッグ党を打ち負かすために、民主党は奴
隷制度を西部に拡大しようとする南部の支持を得ることが絶対に必要であった。
ヴァン・ビューレンは実際的な政治家として知られてはいたが、自らが信じる
道に従って奴隷制度の拡大に反対した。ヴァン・ビューレンは南部の拡張論者
に対抗して指名を獲得できるだけの票を集めることができなかった。ヴァン・
ビューレンが大統領候補指名を勝ち取ることが難しくなり、党大会が膠着状態
に陥った中、テネシー州知事のポークが南部と北部の妥協の結果、当初の予想
に反して大統領候補に選出された。ポークは全国的にはほとんど無名の人物で
あり、ニュー・ハンプシャー州が 8 回目の投票で票を投じるまで票を得られな
かった。9 回目の投票でニュー・ヨーク州がポークの支持に回り、次第にポーク
に票が集まるようになった。民主党の大統領候補指名を獲得したポークは大統
領本選で 170 人の選挙人を獲得し、クレイを破った。
第 3 項 行政府の監督
巧妙な政治的処置と強力な政治的手腕を併せ持ったポークは 1840 年代後半
ジャクソニアン・デモクラシー期
383
にアメリカ政界を支配するようになった分離主義的傾向を適切に克服すること
ができた。民主党の大統領候補指名を勝ち取った後、ポークは大統領職を 1 期
で退くことを表明した。しかし、その 4 年間の任期の間、ポークはジャクソン
主義者の大統領の権限の概念を拡大し、行政府の機能を積極的に強化した。ポ
ークは行政府の省庁を緊密かつ日常的に監督した最初の大統領である。ポーク
は「一般的な原理だけではなく大部分の些細で詳細なことまで政府の義務と働
きに十分慣れ親しむことができた」と述べている。ポークはほとんど閣僚の助
けを必要としなかった。ポークの観点によれば、過ちを避けるために詳細な事
柄を管理することは必要なことであった。詳細な事柄を下僚に任せることによ
って絶えず過ちに悩まされたことから、ポークは公務を下僚に任せるよりも自
身で政府全体の運営を監督することを好んだ260。
ポーク政権まで、大統領の影響力は特に財務省との関係において不在であっ
た。大統領には毎年、議会に提出される省庁の予算見積もりを監督する法的責
任はない。その代わりに 1789 年財務法によって、費用の概算を議会に報告する
義務が財務長官に課された。
ワシントン政権下でハミルトン財務長官はそうした問題について大統領に諮
ることさえなかった。ハミルトンやジェファソン政権とマディソン政権で活躍
したギャラティン財務長官は、予算の政策決定について主導権を握っていた。
ハミルトンやギャラティンの後継者達は、各省庁の予算を受け取って議会に提
出するだけであった。例えば 1839 年、ヴァン・ビューレン政権の財務長官リー
ヴァイ・ウッドベリー(Levi Woodbury)は、包括的な予算をまとめる責任や他の
省庁から受け取った予算の項目を審査する責任を否定した261。
ポークの主要な業績の 1 つは、予算の政策形成に積極的に関与したことであ
る。ポークは各省庁の予算要求を審査しただけではなく、各長官に予算見積も
りを下方修正するように求めた。1846 年に米墨戦争が始まった後、関税率を引
き下げたウォーカー法の下でポークは財政を緊縮させる必要があった。ポーク
と民主党は長らく関税を改革する法案を通過させようとしていた。下院議長を
務めていた時、ポークは関税を引き下げようとするジャクソンやヴァン・ビュ
ーレンの試みを支持した。第 1 次一般教書でポークは関税率の引き下げと価格
に準じて関税率を設定する方式を採用するように議会に求めた。米墨戦争が近
付いても関税を改革しようとするポークの努力は衰えなかった。それどころか
ポークは 1846 年にウォーカー法を通過させるように議会に働きかけた。ポーク
384
アメリカ大統領制度史上巻
は保護主義への攻撃を主要な国内政策の業績と見なし、ジャクソン主義的な経
済的正義を実現するものだとした。ジャクソン主義者は領土の拡大を産業化と
都市化の脅威を抑える手段と見なしていた。またジャクソン主義者は、保護関
税が製造業者に恩恵を施す一方で労働者には不利であり、農業を主体とするア
メリカの理想像に有害であると考えた262。
ジャクソンと同じく、ポークは政府支出の制限と公債の抑制に留意した。財
政の健全化と大統領の特権を積極的に主張するやり方はポークを予算の効果的
な監督者にした。ポークが予算を効果的に監督したことは、戦争が終わった後
に、陸軍長官に戦前の水準までに予算を戻すように強制したことで示されてい
る263。ポークが打ち立てた先例は、リンカンを除いて 19 世紀の大統領達には
受け継がれなかった。しかし、大統領には各省庁の活動を監督する権限と義務
があるというポークの姿勢は、ジャクソン主義者的な大統領制度の概念をアメ
リカの政治制度により深く根付かせることになった。ホイッグ党の強固な抵抗
に直面しながらもポークは、最後の教書の中で、議会が人民の意思を実行する
ように人民に命じられているのと同じく、大統領も人民の意思を実行するよう
に人民に命じられていると主張した。ポークは、大統領は、議員がそれぞれの
地区の人民を代表しているように、人民全体を代表する特別な地位を占めてい
ると論じた。
第 4 項 オレゴン問題
戦争に訴えることなくポークはオレゴン問題で大きな外交的勝利を獲得した。
オレゴン地域はロッキー山脈以西の北緯42 度から北緯54 度40 分にわたる地域
である。19 世紀初期からアメリカとイギリスが領土主張を行ってきた。1827
年に両国はオレゴンを共同管理することで合意した。1843 年 7 月、オハイオ州
シンシナティでオレゴン会議が開催され、北緯 54 度 40 分をアメリカの国境線
にすることを求める決議が採択された。1844 年、ウィルリム・アレン(William
Allen)上院議員は「54 度 40 分か戦いか」という言葉を使ってアメリカのオレゴ
ン獲得に対する野心を表現した。
「54 度 40 分か戦いか」は領土拡張を推進する民主党とポークの選挙スロー
ガンとなった。大統領に就任したポークは就任演説でアメリカがオレゴン地域
全体の領有権を持つと主張した。イギリスは現カナダ領のブリティッシュ・コ
ジャクソニアン・デモクラシー期
385
ロンビア州と現アメリカ領のワシントン州に対する領有権を主張した。ポーク
は妥協案として北緯 49 度でオレゴン地域を分割する案を提示した。
駐米イギリス公使が提案を拒否した時、ポークは第 1 次一般教書で、アメリ
カはすべてのオレゴン地域の領有権を唱える準備があると述べた。モンロー・
ドクトリンを引き合いに出して、ポークはヨーロッパの植民地を北米大陸に作
ろうとするいかなる試みにも反対すると主張した。ポークの警告はモンロー・
ドクトリンに対するポーク系論として知られる。ポークはモンロー・ドクトリ
ンをアメリカ外交の基本理念として再確認した最初の大統領になった。
「我々の領土上でこれまで居住者のいなかった土地への居住地の急速な拡大、
我々の連邦への新しい州の追加、自由の原則の拡大、及び国家として我々の上
昇する偉大さはヨーロッパ列強の注目の的となっていて、最近、私たちの前進
を抑制するためにこの大陸で『勢力均衡』のヨーロッパ列強の中で方針が提案
された。 あるゆる国々とともに良い理解関係を維持するのを心から願ってやま
ない合衆国は北アメリカ大陸における少しのヨーロッパの干渉も黙認できない
し、何かそのような干渉が試みられれば、ありとあらゆる危険を冒してでもそ
れに抵抗する準備ができている」264
議会は、ポークに 1 年後、オレゴンの共同占領を終わらせる権限を与える決
議を可決した。アメリカとイギリスが衝突するのは必至であった。しかし、イ
ギリス政府はその当時、政争と国内問題に忙殺されていてアメリカと衝突する
余裕はなかった。両国は北緯 49 度を国境線とし、コロンビア川の自由航行を認
める条約を締結した。1846 年 6 月 6 日、ポークは公式にこの提案を受諾した。
6 月 10 日、ポークは変更を加えることなく条約を上院に送付した。2 日後、上
院は条約を批准した。
第 5 項 米墨戦争の勃発
大統領制度の発展に対するポークの最大の貢献は米墨戦争で最高司令官とし
て行った精力的な活動である。そのことは大統領の行政権の発展に大きく寄与
した。ポークは戦争機関として大統領制度が持つ行政的能力を最初に示したと
言える265。テキサスを併合した後、戦争は不可避であった。メキシコはテキサ
スを自国の領土だと主張し、アメリカによる併合を敵対行為と見なした。メキ
シコはアメリカとの国交を断絶した。メキシコからニュー・メキシコとカリフ
386
アメリカ大統領制度史上巻
ォルニアを確保しようとするポークの方針はさらに領土紛争を悪化させた。ポ
ークはアメリカ国民の自由な発展のためにアメリカ大陸を支配するという明白
な運命の概念を支持していた。アメリカはリオ・グランデ川を南西部の国境と
して主張し、メキシコはニュエセス川を国境として主張した。ポークは、カリ
フォルニアで反乱が起きるように工作する一方で、アメリカの西部への拡大を
実現するために、ジョン・スライデル(John Slidell)をメキシコに派遣し、リオ・
グランデ川を国境としてメキシコが認める代わりにアメリカが代償を支払い、
さらにメキシコからニュー・メキシコとカリフォルニアを購入する申し出を行
った。しかし、スライデルの交渉は失敗した。
交渉で目指す領土を購入できないことを悟ったポークは武力に訴えることを
決意した。ポークはテキサスが正式に併合を承認した後、テキサスを予測され
るメキシコの攻撃から守るためにテイラー率いる軍を派遣した。スライデルの
受け入れをメキシコ政府が拒否したという知らせを受け取ったポークは、テイ
ラーにニュエセス川を渡り、リオ・グランデ川の左岸を占領するように命じた。
これは明らかに戦争行為であった。メキシコ軍はテイラーに対しニュエセス川
まで撤退するように要求した。テイラーは要求に応じずマタモロスを封鎖した。
3 月 12 日、メキシコ外相は、テキサス併合を戦争の正当な理由と見なし、アメ
リカが現在のような姿勢を続ける限り戦争は不可避であると警告すると同時に
テキサス併合問題について話し合う用意があると通達した。ポークはメキシコ
外相の申し出を拒否した。4 月 25 日、ポークは戦争教書の起草を始めた。ポー
クの戦争教書の草案には、開戦の理由として、スライデルの受け入れ拒否と債
務の未払いしか挙げられていなかった。テイラーは宣戦布告前からメキシコ分
割作戦を開始していた。5 月 8 日にメキシコ政府の防衛的宣戦布告による行動と
してメキシコ軍はパロ・アルトでテイラーの部隊を攻撃した。テイラーは反撃
してメキシコ軍を破った。テイラーはメキシコ軍を追撃し、さらにレサカ・デ・
ラ・パルマでメキシコ軍を破った。ポークは閣僚と協議して議会に宣戦布告を
求めることを決定した。5 月 11 日、ポークは議会に戦争教書を送付し、メキシ
コがアメリカを侵略し、アメリカ人の血が流されたと主張した。
「合衆国とメキシコの現在の関係は、私が議会の考慮の主題として提出する
のに相応しい状態である。現在の会期が始まるにおいて私の教書で、1845 年 3
月に両国の外交関係を停止されるに至ったこうした関係の状態と原因、そして、
合衆国市民の財産と身柄にメキシコ政府によって行われている長く続く是正さ
ジャクソニアン・デモクラシー期
387
れない誤った行動と不正行為を手短に示す。あなた方の前に提示される事実と
意見を慎重に考慮する時に、私は、この通達であなた方に知らせるよりも状況
に関する私の確信をより良く明かすことはできない。寛大で名誉ある条件でメ
キシコと平和を樹立する強い願い、そして、我々が最も友好的な国家と恒久的
な関係を結ぶのと同じ公正で平等な原理に基づいてメキシコと我々の境界とそ
の他の相違を調整し、
規定しようとする我が政府の意思によって私は先の9 月、
両国の外交関係を再開しようとした。我々の側で、こうした望ましい結果を促
進するためにあらゆる方策が採用された。我々がメキシコから被り、20 年間以
上にわたって積み重なってきた不正行為の声明を簡潔に議会に通達するにあた
って、メキシコ人を怒らせるか、平和的結果を遅らせ、挫くようなあらゆる表
明は慎重に避けられた。すべての現在の相違を調整する完全な権限を持った合
衆国の使節がメキシコに赴いた。しかし、両国の協定によってメキシコの領土
において、完全な権限が与えられ、最も友好的な性質が示された証拠があるが、
その使命は無益に終わった。メキシコ政府は使節の受け入れを拒んだばかりか、
その提案を聞き入れず、長く続く一連の脅迫の後、遂に我が領土に対する侵略
を行い、我が同胞市民の血が我が国の領土で流された。現在の会期の初めにお
ける私の教書で、私はあなた方に、両院とテキサス議会に率直な訴えで、私が
ニュエセス川からデル・ノルテ川の間に十分な兵力を配置するように命じたこ
とを伝える。メキシコ軍によるテキサス侵略の脅威に備えるために必要であり、
そのために軍備が拡張された。テキサスが合衆国議会の厳粛な決議に従って我
が連邦に加入しようと決意したためにこの侵略が差し迫っており、その市民と
領土を守ることが私の義務である。マタモロスのメキシコ軍は敵対的な姿勢を
とり、4 月 12 日、アンプディア将軍は、テイラー将軍に 24 時間以内に陣営を
片付け、ニュエウス川の向こうに撤退するように通告し、もしそうした要求に
従わない場合は問題を解決するために武力を行使すると宣告した。しかし、4 月
24 日まで公然とした戦闘行為は行われなかった。その日、メキシコ軍の指揮を
引き継いだアリスタ将軍は、テイラー将軍に戦闘行為が開始され、それを追求
することを考えていると通告した。63 人の兵士と将校からなる竜騎兵部隊が同
日、アメリカの陣営から、メキシコ軍が渡河したかどうか、渡河を準備してい
るかどうか確かめるためにデル・ノルテ川を左岸で遡るように派遣され、メキ
シコ軍の大部隊と交戦になり、短い交戦の後、16 人が死亡し、負傷し、包囲さ
れ降伏を余儀なくされた。現在、ここにある危機の可能性を予期して、先の 8
388
アメリカ大統領制度史上巻
月に、テイラー将軍に向けて、緊急に応じてテキサスだけではなく、ルイジア
ナ州、アラバマ州、ミシシッピ州、テネシー州、ケンタッキー州から志願兵を
受け入れ、そうした州の各知事に伝達する手紙を送るという侵略に対する予防
的な措置をとるように命令が与えられた。テキサスが我々の連邦に統合された
直後、先の 1 月にこうした命令は繰り返され、テイラー将軍はさらに大統領に
よって、懸念される侵略に対して国家の安全を保障し、侵略を撃退する必要が
ある場合に民兵を州の行政部に要請する権限が与えられた。3 月 2 日、テイラー
将軍に、かなりのメキシコ軍が接近してきた場合、必要だと思う予備軍を召集
する与えられた権限を行使するように指示した。戦争が実際に起こり、我々の
領土は侵略され、テイラー将軍は私の指示で彼に与えられた権限を遂行し、テ
キサス州知事に 4 つの連隊を要請し、2 つは騎兵で 2 つは歩兵であり、さらにル
イジアナ州知事にできる限り迅速に4 つの歩兵連隊を送るように要請した。
我々
の権利と我が領土の防衛をさらに証明するものとして、私は議会に戦争が起こ
ったことを認め、行政府の意向で戦争を積極的に行う手段を与え、その結果、
平和の回復を促進する迅速な行動をとるように求める。この目的のために私は、
もしすぐに解散されなければ、6 ヶ月、もしくは 12 ヶ月を超えない期間で軍務
に服する志願兵を公務に就かせるように推奨する。志願兵はその他のどのよう
な市民兵よりも有能であり、彼らの国の召集に応じて、直ちに求められる以上
の数が戦地に赴くことは疑いない。私はさらに、我が軍全体を維持し、補給と
軍需物資を与える自由な規定が定められるように推奨する。最も活力があり、
迅速な措置と大規模で圧倒的な軍の出現が、メキシコとの現在の衝突を迅速に
成功裡に終結させる最も確実で効果的な手段として議会に推奨される」266
民主党員は米墨戦争を熱狂的に支持した。そして、南部と西部のホイッグ党
員も戦争を支持した。しかし、ポークの主張に対して疑念を抱く議員もいた。
ウェブスター上院議員は、宣戦布告は違憲であり、不必要であり、不公正であ
ると唱えた。ウェブスターは多くの北部のホイッグ党員と同じく、戦争を武力
による領土拡大と奴隷制度の拡大をもたらす手段と見なしていた。この頃、下
院議員であったリンカンもその中の 1 人であり戦争に批判的であった。リンカ
ンはアメリカ人が銃撃を受け殺害されたという報告について疑念を示した。リ
ンカンは、アメリカ人の血が実際にどこで流されたか示すようにポークに求め
た。マサチューセッツ州議会は、米墨戦争が奴隷制度擁護派を強化するための
戦争であり、自由州に対する戦争であって、違憲であるので即刻中断するべき
ジャクソニアン・デモクラシー期
389
であり、アメリカ国内の奴隷制度を撤廃するためにあらゆる努力をなすべきだ
と決議した。
5 月 13 日、ポークの戦争教書に応じて、議会は大統領に 1,000 万ドルの予算
と 5 万人の兵士を徴募する権限を与えた。ポークは戦時に最高司令官に就いた 2
番目の大統領である。戦時に最高司令官に就いた最初の大統領はマディソンで
あったが、最高司令官としてほとんど何も権限を行使しなかった。ポークは最
高司令官としての大統領の権限を最大限まで拡大したわけではなかった。それ
は南北戦争においてリンカンによって成し遂げられた。しかしながら、ポーク
は軍事的経験なしで大統領が将軍を指揮できるという先例を打ち立てた。ポー
クは陸軍と海軍の戦略を決定し、士官を任命し、補給の問題に関心を払った。
さらに軍の予算に配慮し、戦闘を行うために閣僚を主要な調整機関とした。ポ
ークは、陸軍長官と海軍長官に詳細なことまですべての事項に注意を払うよう
に求め、重要な決断を下す前に大統領に諮るように促した267。ポークはすべて
の軍事的問題の最終的な決定権は大統領にあると主張した。こうした意味で米
墨戦争は初めての大統領の戦争であった。
メキシコ軍はアメリカ軍よりも数で優っており、地理にも明るかったが、ア
メリカ軍は優れた軍事技術を駆使して戦闘に勝利した。米墨戦争は 2 段階の局
面で戦われた戦争であった。第 1 段階は辺境でメキシコを包囲してカリフォル
ニアを奪取する作戦である。第 2 段階は、メキシコ政府がポークの領土要求を
認めなかったために行われたメキシコ中心部に対する攻撃とメキシコ政府が領
土割譲に応じるまで首都を占領した作戦である。当初、ポークはたやすくメキ
シコ政府の戦意を挫くことができると考えていた。そのために中心部に攻め込
まずに辺境部を攻撃する戦略が採用された。同時にアメリカ海軍は西海岸の都
市を掌握し、メキシコ湾を封鎖する戦略を採用した。メキシコはすぐに戦いに
疲れてアメリカの要求に応じるだろうとポーク政権は目論んだ。
1846 年 5 月、パロ・アルトとレサカ・デ・ラ・パルマでメキシコ軍を打ち破
った後、テイラーは南進し、5 月にマタモロス、7 月にカマルゴ、9 月にメキシ
コ北東部のモンテレーの要塞、
そして 11 月にサルティロと次々に勝利を収めた。
その一方で、カリフォルニアではアメリカ人入植民がベア・フラッグ反乱を起
した。さらにジョン・スロート(John D. Sloat)率いるアメリカ軍は、モンテレー
とサン・フランシスコを攻略した。スティーヴン・カーニー(Stephen Kearny)
率いるアメリカ軍はカンザス州リヴェンワース要塞から出征してニュー・メキ
390
アメリカ大統領制度史上巻
シコの要地であるサンタ・フェを抵抗にあうことなく占領し、合衆国と同様の
憲法を適用した民政を布いた。カーニーはさらにカリフォルニアに西進した。
ロバート・ストックトン(Robert Stockton)が指揮するアメリカ海軍とメキシコ
支配に対するアメリカ人の反乱に助けられてカーニーはメキシコ軍と戦った。
1847 年 1 月のサン・ガブリエルでの勝利でカリフォルニアはアメリカの手に落
ちた。
カリフォルニアは実質的にアメリカの手中にあり、アメリカ軍はほとんどの
戦いで勝利したのにも拘わらず、条約の締結によってメキシコ政府にアメリカ
の征服の成果を認めさせることができなかったので、ポークは戦略を再検討し
た。条約の締結が正式に行われるまで軍事的な領土占領は国際法上、違法な行
為であった。条約の締結をメキシコに強制するために、メキシコ中心部への攻
撃に戦略が転換された。ウィンフィールド・スコットはポークに内陸に侵攻す
る許可を求めて認められた。スコット率いるアメリカ軍は 1847 年 3 月に大規模
な水陸両用上陸作戦を行ってヴェラ・クルスを占領し、4 月、セルロ・ゴルドの
戦いでメキシコ軍を破り、8 月に激戦の末、チュルブスコの戦いに勝利を収め、
9 月にメキシコ・シティを占領した。
第 6 項 ウィルモット修正条項
ポークは戦争を進める一方で議会に 200 万ドルの秘密支出を求めた。サンタ・
アナ(Santa Anna)に賄賂の前金を支払ってカリフォルニアを譲渡させるためで
あった。200 万ドルの支出を認める法案に、買収によって獲得した領土で奴隷制
度を禁じるウィルモット修正条項を加えることが提案された。北部の諸州の州
議会はウィルモット修正条項を支持する決議案を可決した。多くの北部人は奴
隷制度が存在していない領土に奴隷制度を導入することに反対した。それに対
して南部人は、ウィルモット修正条項を奴隷制度に対する不当な介入だと見な
した。
ポークは、ミズーリ妥協に基づいて北緯 36 度 30 分で新たに獲得された領土
で奴隷制度を禁止する地域と奴隷制度を認める地域を分けるように提案した。
しかし、ポークの提案を受け入れる者は少なかった。結局、ウィルモット修正
条項は下院を通過したものの、上院を通過しなかったが、ウィルモット修正条
項をめぐる議論で奴隷制度に関する新しい理論が現れた。1 つは奴隷制度廃止論
ジャクソニアン・デモクラシー期
391
者が支持する理論で、連邦議会はその権限が及ぶ領域で奴隷制度を廃止する道
義的義務を有するという理論である。もう 1 つは奴隷制度擁護派が支持する理
論で、連邦議会は新たに獲得された領土や準州で奴隷制度を禁止する権限を持
たず、奴隷制度を保護する義務を有するという理論である。
第 7 項 党派的行動と議会の抵抗
ポークの最高司令官としての行動はまったく過ちがなかったわけではないし、
党派心に無縁でもなかった。ポークは戦争がテイラーという英雄を生み出した
ことに当惑した。テイラーはホイッグ党員であり、1848 年の大統領選で民主党
の有力な対抗馬になることが予測された。テイラーは盛んに各種の新聞に手紙
を送ったので、ポークはテイラーが人気取りをしているのではないかと疑った。
党派心に支配されたポークは、ブエナ・ヴィスタの戦いで勝利を収めたテイラ
ーの栄誉を称えて礼砲を放つ命令を軍隊に与えることを拒絶した。ポークは民
主党の上院議員トマス・ベントン(Thomas Hart Benton)がテイラーに代わって
戦場の指揮権を得ることができるように中将の地位を与えようとした。ベント
ンの軍事経験が乏しかったために、上院は大統領の提案を拒んだ。そこでポー
クは陸軍のトップであるスコットに目をつけた。スコットもテイラーと同じく
ホイッグ党員であったが、テイラーと違って人気者になる性質を備えていない
ように思われた。テイラーが兵力と兵糧の補給がないためにモントレーに足止
めされていた一方で、スコットは海軍の支援を受けてヴェラ・クルスからメキ
シコ・シティに向けて進撃を開始することができた。スコットは政治的な理由
で任命された将校に妨害され、現地で食糧を調達し、敵から奪い取った弾薬で
戦うことを余儀なくされながらも目的を十分に果たした268。
ポークと将軍達の間の問題は、ジャクソン主義的な大統領制度と新たに組織
された党組織の緊密な関係に起因していた。
党派的な行動は1830年代から1840
年代にかけて大統領の政治に深く埋め込まれていたので、そうした行動は戦時
でさえも控えられることはなかった。スコットとテイラーは正規軍の軍人であ
ったのでポークが彼らに対してできることはほとんどなかった。しかし、民兵
の部隊の士官には民主党員が任命された。民兵を召集するという決定は、自由
な政府に矛盾すると見なされていた大規模な常備軍に反対する民主党の原理に
沿っていた。民兵への依存はしばしばポークを悩ませた。最終的にポークは自
392
アメリカ大統領制度史上巻
らの過ちを認識し、1846 年 12 月、正規軍の規模の拡大を求めた。1847 年 2 月
に議会がポークの要請を認めるまで、主要な軍事行動は差し止められた269。
党派心に基づく行動はあったものの、ポークは米墨戦争をうまく主導した。
ポークが自ら考案した戦略は 1848 年までに決定的な勝利を収めていた。その結
果、アメリカはニュー・メキシコとカリフォルニアを獲得した。したがってポ
ークは主要な戦争目的を達成し、ジェファソンを除いて、広大な領土を合衆国
にもたらした大統領になった。大統領が最高司令官として戦略を立案し、その
遂行を監督することができると示すことによって、ポークは大統領が合衆国の
軍事作戦に責任を持つという原則を確立した270。しかし、最高司令官としての
ポークに対する挑戦がまったくなかったわけではない。ポークは、ニュー・メ
キシコとカリフォルニアにおける民政を承認することで不当に行政権を拡大し
たと批判された。また下院は戦争の長期化に懸念を示し、米墨戦争は憲法に違
反して開始されたと宣言し、メキシコからの速やかな撤退を求める決議を採択
した。
第 8 項 講和交渉
メキシコ・シティが陥落した後、ポークは独りで占領政策を決定した。ポー
クは軍にメキシコの関税収入を押収するように命じた。それにより 50 万ドル以
上の収入がもたらされ、占領政策の費用に充当された。講和交渉でもポークは
単独で行動した。上院の承認なしでメキシコと秘密裡に交渉する使節が送られ
た。ポークは要求する土地とその支払額について単独で使節に指示を送った。
1847 年 9 月、ニコラス・トリスト(Nicholas Trist)はメキシコにリオ・グランデ
川を境界として認め、サン・フランシスコを含む領域を割譲するように求めた。
しかし、メキシコ側は交渉に乗り気ではなく、戦闘が再開された。メキシコ・
シティが陥落した後、メキシコ側はトリストに以前の条件で講和を締結したい
と申し入れた。さらなる譲歩をメキシコから引き出せると考えたポークはトリ
ストを召還しようとした。トリストは召還を拒み、メキシコと講和条約を結ん
だ。ポークはその講和条約の内容に不満であった。占領をさらに長引かせるこ
とでもっと良い条件の講和条約をメキシコに結ばせることをポークは計画して
いたからである。ポーク政権が従来の戦争目的を達成した今、ホイッグ党が支
配する議会で戦争に対する支持を取り付けることは難しく思われた。もし議会
ジャクソニアン・デモクラシー期
393
の支持を取り付けることができなければ戦争を遂行する予算が得られない。さ
らにホイッグ党が次の大統領選挙で勝利すれば、メキシコから奪ったすべての
領土を失ってしまう可能性もあった。そのためポークは講和条約を上院に提出
し、承認を求めた。講和条約は 38 票対 14 票で承認された。こうした講和条約
におけるポークの思惑は、大統領の外交権限が議会によって制限され得ること
を示した271。
1848 年 2 月 2 日の締結されたグアダルーペ・イダルゴ条約の結果、ニュー・
メキシコとカリフォルニアをアメリカは 1,500 万ドルで購入し、アメリカ市民
がメキシコ政府に求めた損害賠償 300 万ドルを支払うことになった。メキシコ
政府は、アメリカのテキサス併合と国境をリオ・グランデ川にすることを容認
した。アメリカは 3 億 2,000 万エーカーを獲得した。それはルイジアナ購入以
来、最大の領土拡張であった。メキシコの領域は約半分に縮小した。アメリカ
に対するメキシコ人の怒りはその後、長く引き続いた。米墨戦争は南北戦争勃
発の遠因となった。メキシコとの戦争によって新たに得た領土で奴隷制度を認
めるか否かは国家的な激しい議論を招き、南部奴隷州と北部自由州との間に存
在していた地域間の分裂をますます拡大させた。
第 9 項 結語
ポークはジャクソニアン・デモクラシーの時代において、奴隷制度に悩まず
に済んだ最後の大統領である。テキサス併合と米墨戦争の結果、アメリカの南
西部は著しく拡大し、その地域における奴隷制度が問題となるのは火を見るよ
りも明らかであった。大部分の北部人は新しい領土に奴隷制度を拡大すること
に反対していた。一方で、南部の白人は、北部の自由土地主義を強硬な奴隷制
度廃止論と区別しようとせず、新たな領土で奴隷制度を禁止する試みを、既存
の奴隷制度に対する脅威と見なすようになった。
ポークが成功したのは、政権の中枢に自ら立ち、統一と調和を生み出すよう
にすべての閣僚を指導したからである272。そうした統一は、オレゴン問題の解
決、関税率の引き下げ、独立した財務省の再建、カリフォルニアの獲得という
ポークの 4 つの目標を達成しようとする弛まない努力によって形成された。ポ
ークは 1 期の在任期間でそのすべての目標を達成した。
394
アメリカ大統領制度史上巻
第 4 章 南北戦争前後
第 1 節 テイラー政権
第 1 項 概要
1784 年 11 月 24 日、ザカリー・テイラー(Zachary Taylor)はヴァージニア邦
オレンジ郡モンテベロで生まれた。9 人の子供の 3 番目である。一家がヴァージ
ニアから移転したケンタッキーはあまり学校がなく、テイラーは基礎教育を概
ね両親から受けた。
1806 年に義勇兵として入隊した後、
合衆国陸軍に配属され、
1812 年戦争ではウィリアム・ハリソンの下で戦った。20 年以上にわたってフロ
ンティア各地に赴任し、ブラック・ホーク戦争にも従軍した。その後、フロリ
ダに配置換えになり、セミノール戦争で活躍した。米墨戦争の際には、ブエナ・
ヴィスタの戦いでメキシコ軍を撃破し、一躍、国民的英雄になり「ブエナ・ヴ
ィスタの老雄」と呼ばれた。テイラーは 40 年以上も軍籍にあり、政治的な経験
はほとんどなかった。テイラーが大統領に就任した頃は南北の対立がますます
深刻になっていた。テイラーはその解決を見ることなく、任期半ばで病死した。
第 2 項 大統領選挙
ポークは1 期で大統領を退任することを約束していたので1848 年の民主党の
大統領候補には南部の拡張論者に宥和的なルイス・キャス(Lewis Cass)が選ばれ
た。ホイッグ党はウィリアム・ハリソンの先例に倣って戦争の英雄であるテイ
ラーを大統領候補に指名し、副大統領候補としてフィルモアを指名した。
その一方で奴隷制度廃止論者を中心にして北部で結成された自由土地党はヴ
ァン・ビューレンを大統領候補に指名した。1844 年に奴隷制度問題は民主党を
分裂の危機に立たせたが、妥協策としてポークが大統領候補に選ばれることで
危機はひとまず回避された。しかし、米墨戦争の勝利は同様の妥協を不可能に
した。1848 年、民主党を 1 つにまとめあげてきたヴァン・ビューレンは民主党
を離れて第三政党の自由土地党から大統領選挙に出馬した。ヴァン・ビューレ
ンは結局、
一般投票で僅かに10 パーセント程の得票を占めたにすぎなかったが、
民主党候補のキャスから票を奪う結果となった。その結果、テイラーがニュー・
ヨーク州を制し、大統領選挙に勝利した。
テイラーはおそらくヴァン・ビューレンの立候補がなくても勝利を収めただ
南北戦争前後
395
ろう。しかし、自由土地党は多くの州の選挙に影響を与える十分な票を得た。
ヴァン・ビューレンの選挙運動によって民主党とホイッグ党は奴隷制度問題を
無視することができなくなった。10 年も経たないうちに、ジャクソニアン・デ
モクラシーの時代を支配してきた党組織が崩壊し、新しい政治的連立が出現す
ることになる。
民主党は南部に強固な地盤を持っていたために奴隷制度問題や南北戦争にも
拘わらず生き残った。しかし、1848 年の大統領選挙における勝利はホイッグ党
が収めた最後の政治的勝利となった。テイラーは就任演説で行政府の権限につ
いて否定的な見解を示した。それはホイッグ党の原理に従うものであった。し
かし、テイラーは政権半ばで死去したために就任演説で示した見解を実現する
ことはできなかった。
第 3 項 1850 年の妥協
奴隷制度をめぐる争いとジャクソン主義者の遺産は、大統領が無干渉でいる
ことを不可能にした273。テイラーが 1850 年の妥協に反対したことは注目に値
する。カリフォルニアを連邦に加入させる際に自由州として加入させるか、奴
隷州として加入させるかをめぐって北部と南部が激しく対立した。カリフォル
ニアは人民投票で奴隷制度を禁止する憲法案を採択していた。最も過激な奴隷
制度擁護派でさえも奴隷制度は州の問題であると考えていたが、カリフォルニ
アが自由州として連邦に加入する動きに警戒感を高めた。
1849 年 12 月に開会した下院は奴隷制度をめぐって激しい派閥対立が吹き荒
れた。そのために下院議長を選出するだけでも 63 回の投票が行われた。テイラ
ーはカリフォルニアを自由として連邦に加入させ、奴隷制度に関係なくニュ
ー・メキシコ準州とユタ準州を設置するように議会に勧告した。そうした勧告
に抗議する南部の議員に対してテイラーは、もし南部が連邦から脱退しようと
する動きがあれば、自ら軍を率いて阻止すると述べた。南部の連邦からの脱退
を防止するためにクレイは妥協案を議会に提出した。クレイの妥協案は、カリ
フォルニアの連邦加入を認めること、奴隷制度に関係なくニュー・メキシコ準
州とユタ準州を設置すること、厳格な逃亡奴隷取締法を制定すること、そして、
コロンビア特別行政区で国内奴隷貿易を廃止することである。
テイラーは自身も奴隷を所有していたが、奴隷制度の拡大に反対していた。
396
アメリカ大統領制度史上巻
テイラーは、奴隷制度は南部では経済的に必要性があるが、それは西部のフロ
ンティアでは適用されないと考えていた。そのためテイラーは、メキシコから
の割譲地において奴隷制度に何の規制も設けず、さらに厳格な逃亡奴隷取締法
を制定するという妥協に反対した。カリフォルニアを自由州として連邦に加入
させるのは当然のことであり、妥協は必要ではないとテイラーは考えたのであ
る。1850 年の妥協を成立させようと議会は準備していたが、テイラーは奴隷制
度の拡大を認めるいかなる措置にも拒否権を行使する姿勢を示した。テイラー
の反対は南部の奴隷主を激怒させた。それでもテイラーは脱退を仄めかす南部
に対して強硬な姿勢を保った。
第 4 項 クレイトン=バルワー条約
テイラー政権はイギリスとクレイトン=バルワー条約を締結した。同条約に
よって次のように定められた。中央アメリカに建設される運河を中立とし、両
国は絶対的な管理権を行使しない。両国は運河に要塞を設けない。両国は中央
アメリカのいかなる領域も占領せず、植民地化しない。最後の条項は非常に曖
昧であったので、解釈の余地を残し、民主党は、イギリスのホンジュラスやそ
の他の既存の植民地に対する領土主張を認めるものだとして批判した。事実、
イギリスは条約が遡及的効果を持たず、さらなる植民地化を禁止しているだけ
であると解釈した。それに対してタイラー政権は、過去も未来もすべての植民
地化を禁止していると考えた。
第 5 項 ガルフィン問題
テイラー政権はガルフィン問題と呼ばれるスキャンダルに巻き込まれた。ガ
ルフィン家は、先祖の遺産をめぐって合衆国に数十年にわたって補償を求めて
きた。テイラーが大統領に就任する前、ガルフィン家は補償を受けたが、さら
に 19 万 1,000 ドルの利子の支払いを求めた。財務長官はその要求に従って全額
を支払った。ガルフィン家に対する支払いについて大統領と閣僚が考えている
一方で、ジョージ・クローフォード(George Crawford)陸軍長官は、ガルフィン
家の利害を長年にわたって代表し、補償で得た利得の半分を受け取る約束をし
ていた。クローフォードの関与が明らかになるとテイラー政権に非難が寄せら
南北戦争前後
397
れた。テイラーと閣僚はクローフォードの関与についてまったく知らなかった
が、民主党は利益相反を批判し、大統領の弾劾を仄めかした。テイラーは閣僚
の再編を決意したが、その前に死去した。
第 6 項 結語
ワシントンで1850 年7 月4 日に開かれた祝典に参加したテイラーは多くの氷
水や冷やしたミルク、さくらんぼを食べた。その頃、コレラが流行していたの
で人々はそうした食べ物を口にするは危険だと警告していた。それから 5 日後
に訪れたテイラーの死は異常だと思われ、毒を盛られたという噂は長期間、消
えることがなかった。1850 年の妥協に反対していたテイラーの死によって、
1850 年の妥協が成立する道が開かれたのは確かである。タイラーが訴えていた
胃の不調は砒素中毒であると考える者もいた。祝典の際にタイラーが演説を聞
いている間に飲食物に砒素を盛られたというのである。1991 年にテイラーの子
孫の許可によってテイラーの遺骸が掘り起こされた。遺骸から組織のサンプル
が採取され検査を受けた結果、砒素による毒殺説は打ち消された。
第 2 節 フィルモア政権
第 1 項 概要
1800 年 1 月 7 日、ミラード・フィルモア(Millard Fillmore)はニュー・ヨーク
州カユガ郡サマーヒルで生まれた。9 人の子供の 2 番目であった。父は小作人で
貧しい家庭であった。そのためにフィルモアは徒弟奉公に出された。しかし、
フィルモアは自ら自由を買い戻して教師になった。さらに法律を学び法曹界に
入った。ニュー・ヨーク州下院議員がフィルモアの政治経歴の始まりであった。
その後、連邦下院議員に当選し、下院歳入委員会の長にも選ばれた。フィルモ
アはホイッグ党の中で北部を代表する 1 人として知られるようになった。ニュ
ー・ヨーク州知事選挙で民主党候補に敗れた後、1848 年の大統領選挙でテイラ
ーとともに戦う副大統領候補を探していたホイッグ党の指導者達の目に留まっ
た。テイラーが在職中に病死すると、フィルモアは副大統領から昇格し大統領
に就任した。1850 年妥協を支持し、諸法案に署名した。しかし、妥協に反対す
る閣僚の多くが辞任した。1852 年、ホイッグ党から大統領候補指名を獲得する
398
アメリカ大統領制度史上巻
ことに失敗し、引退を余儀なくされた。引退後もアメリカ党から大統領選に出
馬したが落選した。
第 2 項 1850 年の妥協
1850 年の奴隷をめぐる論争が佳境を迎える前にテイラーは死去した。テイラ
ーの後継者のフィルモアは、大統領の権限を制限するというホイッグ党の原理
を確認したが、重大な国内問題を議会の決定に委ねようとはしなかった。しか
し、フィルモアは 1850 年の妥協が成立するのを見守った。フィルモアは大統領
になる前から 1850 年の妥協を支持していた。1850 年の妥協が奴隷制度をめぐ
る最終的な解決策になると信じ、もし上院で票が均衡する場合は、妥協を支持
するほうに副大統領として決定票を投じるとフィルモアはテイラーに伝えてい
た。フィルモアの支持は政治的に重要であった。テイラーが死去する前は 20 人
から 30 人の議員が妥協に強固に反対していたが、フィルモアの支持が明らかに
なってからは劇的に態度を変えた274。フィルモアは 1850 年 9 月に、地域的な
争いは最終的な解決が行われたと宣言した275。
1850 年の妥協が成立するのを見守ったフィルモアは逃亡奴隷取締法を積極的
に施行した。マサチューセッツ州が逃亡奴隷取締法に違反した市民を告発する
のに協力を拒んだ際にフィルモアは、北部であれ南部であれ、連邦法を無効に
する権利を認めないと宣言した。しかしながら、逃亡奴隷が保護されている北
部で大統領が逃亡奴隷取締法を遵守させる手段は実質的になかった276。
第 3 項 極東政策
西漸運動を進めてきたアメリカは米墨戦争によって広大な領土を獲得し、太
平洋国家となった。さらに 1844 年に中国と望廈条約を結び、アメリカは西欧列
強と同様の貿易上の特権を手に入れていた。しかし、中国貿易は中国国内の混
乱によって大きな打撃を受けた。また当時、盛んだった捕鯨業の中継基地を確
保することも重要であった。こうした事情によって極東に対するアメリカの関
心は高まった。
そこでフィルモアはマシュー・ペリー(Matthew C. Perry)を日本に派遣した。
1852 年 11 月、ペリー率いる 4 隻の艦隊は極東に向けて出港した。ペリーは、
南北戦争前後
399
難破したアメリカ船員を救助し、アメリカ船に石炭やその他の物資を提供し、
少なくとも 1 つの港をアメリカとの交易のために開くことを日本に約束させる
ようにフィルモアから命じられた。ペリーはアフリカ西岸沿いに大西洋を南下
してインド洋に至り、マラッカ海峡、香港、上海を経て、1953 年 5 月に那覇、
そして 6 月に小笠原諸島に到着した。7 月に浦賀沖に艦隊を進めたペリーは大統
領親書の受理を幕府に要求した。ペリーは長崎に回航するように求める幕府の
要請を拒絶し、江戸湾に侵入した。幕府は大統領の親書を受理した。ペリーは
12 ヶ月以内にまた寄港することを約して日本を離れた。ペリーは香港に立ち寄
った後、日本に戻り、1854 年に日米和親条約を締結した。日米和親条約は下田、
函館の開港、燃料、食糧などの補給、難破した米船の船員の救難、保護、米領
事の下田駐在などを取り決めている。1855 年 1 月、ペリーはアメリカに帰還し
た。
第 4 項 結語
フィルモアが大統領職を引き継いだ時、既にホイッグ党崩壊の前兆は既に示
されていた。主要なホイッグ党員は、西部の準州への奴隷制度の拡大に反対す
る自由土地党のような政党に鞍替えしていた。1852 年の大統領選挙で、ホイッ
グ党は州権を尊重するフィルモアの代わりに奴隷制度反対派のスコットを大統
領候補に指名した。しかし、スコットは大統領選挙で 42 人の選挙人しか獲得で
きずピアースに敗れた。主に北部のホイッグ党員から構成される奴隷制度反対
派は 1854 年の共和党の結成に加わった。1856 年の大統領選挙が、ホイッグ党
が大統領候補を立てた最後の機会となった。
第 3 節 ピアース政権
第 1 項 概要
1804 年 11 月 23 日、フランクリン・ピアース(Franklin Pierce)はニュー・ハ
ンプシャー州ヒルズボローで生まれた。8 人の子供の中で 6 番目であった。父は
ニュー・ハンプシャー州知事を務めている。ピアースは 15 才の時にボードウィ
ン・カレッジに入学した。卒業後、法律を学んで弁護士になった。父が州知事
を務めるかたわら、ピアースもニュー・ハンプシャー州下院議員として政治家
400
アメリカ大統領制度史上巻
としての一歩を踏み出した。その後、連邦下院議員、連邦上院議員を歴任した。
ニュー・ハンプシャー州の民主党の領袖として重きをなした。米墨戦争が勃発
すると、大佐の辞令を受けて出征した。コントレーラスの戦いで負傷し、帰還
後、勇士として迎えられた。混戦であった 1852 年の民主党大統領候補指名で急
浮上し指名を獲得した。ピアースが大統領に就任した直後に成立したカンザス
=ネブラスカ法をめぐって南北の対立が激化した。ピアースは法案を支持した
ことで北部の法案反対派からの支持を失い、大統領候補指名を獲得することが
できなかった。
第 2 項 カンザス=ネブラスカ法
ジャクソニアン・デモクラシーの時代を通じて強化された大統領制度であっ
たが、奴隷制問題によってもたらされる危機に十分に対応することはできなか
った。この時代の最後の 2 人の大統領であるピアースとブキャナンは、民主党
内の北部と南部の派閥をまとめようとして無駄な努力をした決断力のない人物
であった。彼らは奴隷制度を政治的問題として無害にしようと努めた。しかし、
そうした努力は遅きに逸した。奴隷制度をめぐる亀裂は、彼らの緊張を緩和し
ようとする努力によって余計に悪化するだけであった。
1854 年のカンザス=ネブラスカ法は、ピアースが南北の緊張を和らげようと
して失敗した顕著な例である。準州委員会のスティーヴン・ダグラス上院議員
は、アイオワとミズーリの西にネブラスカ準州を設立する法案を提出した。準
州はカンザスとネブラスカに分けられた。さらにダグラスは奴隷制度を全国的
な政治的問題から除外しようと考え、カンザス=ネブラスカ法に奴隷制度を認
めるか否かは、その州の住民が決定するべきであるという住民主権の原則を盛
り込んだ。住民主権の原則は、北緯 36 度 30 分以北における奴隷州の禁止を規
定した 1820 年のミズーリ妥協を廃棄し、北西部への奴隷制度の拡大を認めるに
等しいものであった。
ダグラスの住民主権に関する議論は 3 ヶ月も続いた。ピアースは住民主権の
原則が認められるように、官職任命権の行使も含めて大統領として影響力を最
大限活用した。1854 年 5 月 25 日、カンザス=ネブラスカ法案は、下院を辛う
じて通過した後、上院で大差で可決され、ピアースは法案に署名した。しかし、
6 ヶ月もしないうちに、ミズーリ妥協の廃棄が奴隷制度問題を解決するどころか
南北戦争前後
401
悪化させ、民主党を分裂させていることが明らかになった。期待に反してピア
ースが強力なリーダーシップを発揮することによって、皮肉にも民主党は統治
機構としての崩壊を早めた。
カンザスの奴隷制度が住民主権によって決定されることになると、奴隷制度
廃止論者と奴隷制度擁護派がそれぞれカンザスに流入した。1855 年、奴隷制度
廃止論者はトピーカで憲法制定会議議会を開催してカンザスを自由州にしよう
と試みた。奴隷制度擁護派は北西部からの移民を阻止しようとし、奴隷制度廃
止論者の入植地であるローレンスを襲撃した。その結果、奴隷制度擁護派と奴
隷制度廃止論者の間で内戦が勃発した。ピアースは奴隷制度を認めるか否かを
決定する権利は州にあると信じていた。カンザスの流血は奴隷制度廃止論者に
よって引き起こされたとピアースは考えていた。
第 3 項 ガズデン購入
ピアース政権はメキシコから現代のアリゾナ州とニュー・メキシコ州にあた
る 2,900 万エーカーの土地を 1,000 万ドルで購入した。購入が行われたのは南
部の大陸横断鉄道を通す候補地になっていたからである。購入はジェームズ・
ガズデン(James Gadsden)駐墨アメリカ公使の名前に因んでガズデン購入と呼
ばれる。カズデン購入によってアラスカを除いて現代のアメリカの大陸領域が
定められた。
第 4 項 キューバ問題
さらにピアース政権はスペイン植民地のキューバ獲得を検討した。キューバ
がアメリカ商船であるブラック・ウォリアー号を拿捕し、スペインは国内の擾
乱に直面していたのでキューバ獲得の好機であるように思われた。ピアースは
議会にブラック・ウォリアー号事件をスペイン本国に通達すべきだと勧告した。
アメリカは賠償と名誉の回復をスペインに求めた。それに応じてスペイン政府
はアメリカに謝罪を行った。ブラック・ウォリアー号事件はピアースの対キュ
ーバ政策を変える一因となった。
ウィリアム・マーシー(William L. Marcy)国務長官は、駐西アメリカ公使にキ
ューバを 1 億 3,000 万ドル以下で買い取る交渉をスペイン政府と行うように訓
402
アメリカ大統領制度史上巻
令した。さらにピアースはヨーロッパ諸国のアメリカ公使にスペインにキュー
バをアメリカに売るように圧力をかけるよう訓令した。ベルギーのオステンド
で会合した公使達はオステンド・マニフェストをまとめた。オステンド・マニ
フェストは、アメリカは購入の他の手段に訴えてでもキューバを獲得すると示
唆することで、ヨーロッパの銀行家にスペインに圧力をかけさせ、キューバ売
却を認めさせる提案である。オステンド・マニフェストの内容は機密だったが、
報道に漏出し、議論を引き起こした。キューバは奴隷植民地であったので、キ
ューバの獲得は奴隷制度擁護派の勢力を伸ばす試みであると奴隷制度廃止論者
は強く非難した。その結果、ピアース政権はオステンド・マニフェストを否認
せざるを得なくなった。
第 5 項 グレータウン事件
ピアース政権は中央アメリカをめぐってイギリスと対立した。イギリスはア
メリカの影響力の拡大を抑えようとクレイトン=バルワー条約を既に結んでい
た。クレイトン=バルワー条約をアメリカはイギリスが中央アメリカにおける
すべての植民地を放棄するものだと解釈したが、イギリスは既存の植民地はこ
れまで通り維持されると主張した。
グレータウンで起きた事件によって米英関係はさらに悪化した。グレータウ
ンでアメリカ公使が暴行を受けたのでピアースは軍艦サイエイン号を派遣して
謝罪を求めた。謝罪を得ることができなかったのでサイエイン号はグレータウ
ンを砲撃して破壊した。イギリス政府は賠償金を要求したが、クリミア問題に
巻き込まれるようになったのでそれ以上、事件に深入りしなかった。
第 6 項 結語
1856 年 6 月、民主党はシンシナティで全国党大会を開いた。有力な大統領候
補は、ピアース、ブキャナン、ダグラスの 3 人であった。3 人とも奴隷制度の合
憲性を支持していた点では変わらなかったが、ブキャナンは国外にいたために
カンザス=ネブラスカ法をめぐる争いに距離を置くことができた。さらにブキャ
ナンはオステンド・マニフェストの起草に関わったことから南部で人気を得て
いた。ピアースはカンザス=ネブラスカ法の制定に積極的に関与したこと、そ
南北戦争前後
403
してカンザスの流血を止められないことから支持を失い、大統領候補指名をブ
キャナンに奪われた。
第 4 節 ブキャナン政権
第 1 項 概要
1791 年 4 月 23 日、ジェームズ・ブキャナン(James Buchanan)はペンシルヴ
ェニア州ストーニー・バッターで生まれた。11 人の子供の中で 2 番目であった。
父はアイルランドからアメリカに渡り、商人と農夫として成功した。ブキャナ
ンは一家が営むフロンティアの交易所を手伝って育った。ディキンソン・カレ
ッジを卒業後、法律を学んで弁護士になった。政界に入ったブキャナンはペン
シルヴェニア州下院議員に当選後、連邦下院議員、駐露アメリカ公使、連邦上
院議員、国務長官、駐英アメリカ公使を歴任した。多くの公職に就いたために
自らを「年老いた公僕」と称している。猶、歴代大統領の中で唯一、生涯独身
であった。1856 年の大統領選挙で民主党大統領候補として当選した。奴隷制度
をめぐる南北の対立がますます深刻化する中で、ブキャナン個人は奴隷制度が
不公正であると信じていたが、奴隷を保有する南部の憲法上の権利も認めてい
た。ブキャナンは中道的な立場をとろうとしたが、そうした姿勢は北部から南
部に過度に加担するものと見なされた。南部諸州脱退の危機が迫るとブキャナ
ンは宥和策をとろうとしたが失敗した。
第 2 項 大統領選挙
1856 年の大統領選挙は新しい政治連合の出現を明らかにした。1852 年以後
のホイッグ党の崩壊と北部の奴隷制度に反対する勢力は新たな政党を結成した。
最初の共和党の公式な会合は1854 年7 月6 日にミシガン州ジャクソンで行われ
た。会合で共和党という名称が選ばれた。共和党という名称は平等とジェファ
ソンの民主共和党を想起させる名称であった。共和党は綱領を採択し、ミシガ
ン州の公職の候補者を指名した。1856 年の大統領選挙で奴隷制度の拡大に対抗
するために共和党はジョン・フリーモント(John C. Fremont)を大統領候補に指
名した。共和党は選挙で善戦したが南部でほとんど支持が得られず、北部でも
十分に組織化することができなかった。
404
アメリカ大統領制度史上巻
共和党は、民主党とホイッグ党の二大政党制度の中で第三政党と見なされて
いたが、共和党がホイッグ党を追い抜くのに長い時間はかからなかった。カン
ザス=ネブラスカ法の制定に積極的な役割を果たし、カンザスの流血を止めら
れなかったピアースは民主党の大統領候補指名を獲得することができなかった。
ピアースの代わりに民主党の大統領候補指名を獲得したブキャナンは、メリー
ランド州を除くすべての奴隷州だけではなく、インディアナ州、ニュー・ジャ
ージー州、カリフォルニア州、イリノイ州、そして出身州のペンシルヴェニア
州で勝利を収め、さらに南部の 112 人の選挙人をすべて獲得して大統領に選出
された。
第 3 項 ドレッド・スコット事件
奴隷制度に関する緊張を和らげようとしたブキャナンは、ピアースが議会に
よる解決を求めて戦ったことでこうむった政治的弊害を避けようと考えた。就
任演説の中でブキャナンは準州における奴隷制度問題の解決は最高裁によって
行われるべきだと表明した。係争中のドレッド・スコット事件に言及し、ドレ
ッド・スコット(Dred Scott)は最高裁の判決に従うべきだと主張した。奴隷制度
問題を司法の問題にすることで過熱する奴隷制度廃止論者の政治的動きを抑え
ようとしたのである。
ドレッド・スコット事件は奴隷のスコットの解放をめぐる裁判である。ヴァ
ージニア州で奴隷として生まれたミズーリ州のスコットは奴隷主に付き従って、
長い間、自由州であるイリノイ州や連邦議会によって奴隷制度が禁じられてい
るウィスコンシン準州などで過ごし、正式に結婚もした。奴隷の結婚は合法的
には認められていなかったので、正式に結婚が認められた時点でスコットはも
はや奴隷ではなく自由であったと解釈できる。その後、スコットは再び奴隷主
に従ってミズーリ州に戻った。奴隷主の死亡によって、ドレッドは奴隷制度が
禁じられた土地の住民であったという理由でミズーリ州裁判所に自由を請求し
た。
以前にミズーリ州最高裁は、自由州に居住した奴隷は自由を獲得できるとい
う判決を下したことがあった。しかし、奴隷主の未亡人がスコットは依然とし
て奴隷であり自分の財産であると訴えた。陪審団はドレッドの主張を認めたが、
州最高裁は陪審団の決定を破棄し、一度、自由を獲得すればその後も自由が認
南北戦争前後
405
められるという原則を覆した。州最高裁は、スコットを解放することで、州政
府を倒壊させようとする奴隷制度廃止論者の精神を満足させることになると論
じた。
裁判が進んでいる間にスコットの所有者は変わっていた。スコットは新しい
主人を暴行殴打と不法監禁の罪で連邦裁判所に訴えた。スコットが連邦裁判所
に告訴した根拠は、原告と被告が異なる州に属する場合は州裁判所ではなく連
邦裁判所に管轄権があるという異州民間訴訟管轄権であった。連邦裁判所は、
スコットが奴隷であるからそもそも合衆国市民ではなく、裁判所に訴える権利
を持たないので訴訟が成立しないという見解を示した。さらに連邦裁判所は、
奴隷制度の問題は連邦の問題ではなく、ミズーリ州最高裁の州法の解釈に従う
べきだとして、スコットの訴えを斥けた。スコットは連邦最高裁に控訴した。
ブキャナンは、すべての善良な市民は最高裁の決定が何であれ従う義務があ
ると主張した。そうした義務によって、政治的な意見の違いが克服されるとブ
キャナンは述べた277。ブキャナンの主張は、裁判所が判決を通じて政策を裁定
する権利を否定していたジャクソン主義者の一員として奇妙なものであった
278。しかし、ブキャナンの最高裁への敬意は不誠実なものであった。ブキャナ
ンは影響力のあるジェームズ・グリアー(James Grier)最高裁判事に働きかけて、
連邦議会や準州議会が奴隷制度を禁じる権限を否定する同僚判事に味方するよ
うに促した279。
最高裁との内密の同盟によって奴隷制度をめぐる論争を鎮めようとしたブキ
ャナンの試みは失敗に終わった。1857 年 3 月 6 日、ドレッド・スコット事件の
判決でロジャー・トーニー最高裁長官は、スコットの自由の要求を 3 つの根拠
で却下した。スコットは奴隷である以上、特定の州の市民となることはできる
が合衆国の市民権はなく、したがって異州民間訴訟管轄権に基づいて連邦裁判
所に提訴する権利を持たない。スコットはミズーリ州の住民である以上、イリ
ノイ州の法はその身分について何の効力も持たない。北緯 36 度 30 分以北に居
住したという理由で自由を請求することはできない。なぜなら連邦議会には正
当な法の手続きを経ずに市民の財産権を侵害する権限はなく、準州から奴隷制
度を排除することはできないとし、ミズーリ妥協を違憲とした。ダグラスの提
唱した住民主権も同時に認められないことになった。なぜなら連邦議会が準州
から奴隷制度を排除することができないのであれば、その連邦議会によって組
織される準州政府が、たとえ住民投票の結果に従ったとしても奴隷制度を禁じ
406
アメリカ大統領制度史上巻
ることは認められないと解釈されるからである。それは西部全体を奴隷制度に
向けて開くのに等しかった。こうした奴隷制度問題における裁定は最高裁の威
信を傷付けただけではなく、南北の争いを激化させた。その結果、民主党は分
裂し、1860 年の大統領選挙で共和党大統領候補となったリンカンを躍進させる
ことになった。
第 4 項 カンザスの連邦加入
ドレッド・スコット事件の最高裁の判決によって、奴隷制度は憲法に根差し
ており、たとえ新しく設けられた準州においても除去されないというブキャナ
ンの信念は強められた。カンザスは、カンザスを自由州にしようとする奴隷制
度廃止論者とカンザスを奴隷州にしようとする奴隷制度擁護派の戦場になって
いた。1855 年、奴隷制度廃止論者は奴隷制度を禁止するトピーカ憲法を制定し
た。1857 年、奴隷制度擁護派はトピーカ憲法に対抗してレコンプトン憲法を制
定した。
個人的には奴隷制度にブキャナンは反対していたが、憲法上、奴隷制度を支
持しなければならないと考えた。ブキャナンはレコンプトン憲法を承認し、カ
ンザスが奴隷州として連邦に加入するのを認め、もし住民が希望すれば新しい
憲法を制定することを許すように議会に求めた。議会はそれを拒否した。1858
年に住民投票が行われ、レコンプトン憲法は否認された。最終的にカンザスが
1861 年に州として連邦に加わる時までに奴隷制度廃止論者が圧倒的多数となり、
結局、カンザスは自由州となった。
第 5 項 1857 年恐慌
1857 年 8 月、オハイオ生命保険会社の破綻が契機となって恐慌が起きた。国
中で取り付け騒ぎが起き、景気後退は南北戦争まで続いた。恐慌の原因は、鉄
道の過剰拡張、貧弱な州法によって設立された州法銀行の急速な拡大、クリミ
ア戦争の終結によって外国政府がアメリカからの食料品の輸入を削減したこと、
カリフォルニアのゴールド・ラッシュによる金価格の下落などである。北部と
西部は深刻な打撃を受けたが、南部はヨーロッパの堅調な綿花需要のお蔭で打
撃は小さかった。ブキャンは、恐慌の犠牲者を救うのに何の対策もとらなかっ
南北戦争前後
407
た。
第 6 項 領土購入計画
ブキャナンはメキシコの動乱に乗じて南部の奴隷地域をさらに拡大しようと
試みた。ブキャナンは議会にメキシコ北部のソノラ州とチワワ州に軍事拠点を
設ける権限を大統領に与えるように求めた。ブキャナンはメキシコのフアレス
政権を承認し、ローワー・カリフォルニア、チワワ、ソノラを購入する提案を
行った。メキシコは購入提案を拒否したが、メキシコ領内を横切ってメキシコ
湾から太平洋岸に至る永代通行権を与える条約を締結した。ブキャナンは条約
を上院に提出したが、上院は批准を拒否した。
第 7 項 南部の連邦脱退
1860 年、リンカンが大統領に当選した数週間後、サウス・カロライナ州は連
邦の名の下にサウス・カロライナ州と他の州を結び付ける絆が消滅したことを
宣言した。サウス・カロライナ州にとって西部への奴隷制度の拡大を認めよう
としないリンカンの当選は死活問題であった。南北は西部をめぐって歴史的に
争ってきた。南部は西部に奴隷州を拡大することで奴隷制度の拡大と連邦政府
における発言力の拡大を目指した。その一方で、北部は急激に発展した産業の
市場として西部を見なしていた。しかし、西部出身のリンカンが大統領に当選
したことは、従来、農業地帯として南部に同情的であった西部が北部に組した
ことを意味していた。こうして南部は連邦内に留まって北部の圧力に抵抗する
か、それとも連邦から脱退して新たな独立国家を形成するか決断を迫られた。
中でもサウス・カロライナ州は農場主と奴隷商人によって支配された州であ
った。収奪的な奴隷農業は土地を荒廃させるので新たな肥沃な土地を必要とす
る。奴隷商人も奴隷市場として西部を必要とした。そのため奴隷制度の拡大が
阻止されることは奴隷制度の存続自体が危機にさらされることを意味した。リ
ンカンが当選後、サウス・カロライナ州出身の連邦官吏は次々に辞職した。さ
らに 1860 年 12 月 17 日、サウス・カロライナ州で特別会議が招集され、3 日後、
全会一致で連邦からの脱退を決議した。サウス・カロライナ州は、独立宣言、
各州による憲法批准などを論拠として、合衆国憲法が主権を持つ諸州の間の契
408
アメリカ大統領制度史上巻
約に過ぎず、北部諸州がその契約に違反する行動をとっているので、南部は契
約を履行する義務から解放され、主権国家として連邦から脱退する権利を持つ
と主張した。
ブキャナンはさらなる脱退を防ごうとした。ブキャナンはリンカンとともに
憲法修正会議の開催を呼びかけようとした。リンカンがブキャナンの申し出を
拒否した時、ブキャナンの南部人の閣僚は辞任し、さらに南部の 6 つの州が脱
退した。1861 年 2 月 8 日、脱退した州は南部連合を結成した。南部連合は憲法
で州権優先と奴隷制度擁護を主張した。南部連合議会は、補助金を与えたり、
保護関税法を制定したり、国内開発事業の支出を承認したりすることを禁じら
れた。南部連合の最高裁を設けず、南部連合の判事は各州の議会によって弾劾
される。また南部連合議会は、奴隷制度を否定するようないかなる法も制定で
きない。また南部連合の大統領は 6 年の任期を認められるが再選は認められな
い。こうした主張は従来の南部諸州の主張に沿うものであった。
第8項
南部の連邦脱退に直面してブキャナンは連邦の資産を守るために南部の港に
軍を送るように勧められた。ブキャナンはそうした措置が暴力を引き起こすと
考え、助言に従うことを拒んだ。しかし、結局、南北戦争の勃発が避けられな
かったことは歴史が証明している。ブキャナンは南部の連邦脱退に有効に対処
できなかった。それは完全に大統領のリーダーシップが失われていたことを意
味する。ブキャナンは歴代大統領の中でも最悪の大統領の 1 人として数えられ
ている。
第 5 節 リンカン政権
第 1 項 概要
1809 年 2 月 12 日、エイブラハム・リンカン(Abraham Lincoln)はケンタッキ
ー州ハーディン郡(現ラルー郡)で生まれた。2 番目の子であった。父は農夫や大
工を生業とし、当時では珍しいことではないが自分の名前の他は読み書きがで
きなかったという。リンカンは子供時代のほとんどをケンタッキー州とインデ
ィアナ州の農場で過ごし、ほとんど学校で教育を受ける機会はなかった。イリ
南北戦争前後
409
ノイ州に移住したリンカンは様々な職業を経験した。ブラック・ホーク戦争に
従軍した後、州議員選挙に挑戦したが落選した。またリンカンが携わった雑貨
店は失敗に終わり、多額の負債が残された。再度の挑戦で州議会議員の椅子を
手に入れ、法律を学んで法曹界に入った。その後、連邦下院議員になった。 1858
年の連邦上院議員選挙で共和党候補として戦うが敗れた。しかし、1860 年の大
統領選挙で共和党初の大統領として当選した。リンカンの当選で危機感を強め
た南部は連邦から脱退し、南北戦争が始まった。4 年にわたる南北戦争を一貫し
て強力な大統領権限の下で主導した。
1863 年 1 月 1 日、
奴隷解放宣言を発表し、
さらに同年 12 月には南部の再建計画を示した。2 期目が始まってまもなく、暗
殺者の凶弾に倒れた。リンカンは歴代大統領の中でも最も優れた大統領として
挙げられ、その謙譲、勇気、そして公平さで記憶されている。南北戦争を通じ
てリンカンは大統領の最高司令官としての役割をこれまでにない程に強化した。
第 2 項 大統領権限の拡大
リンカンは、大統領制度の理論と実践に重要な貢献をなした 19 世紀最後の大
統領である。リンカンの業績は、アメリカの立憲民主制の基盤を根底から破壊
するような国内の危機の中で生じた。南北戦争と奴隷解放を主導するうえで発
揮したリーダーシップによって、リンカンはアメリカ人の間で最も偉大な大統
領と目されている。歴史家もリンカンの政治的手腕を賞賛している。最近の調
査ではアメリカの歴史家はリンカンを最も偉大な大統領と位置付けている。
リンカンの手腕と業績が立憲民主制を強めたか、それとも弱めたかは若干の
議論がある問題である。リンカンは慈悲深い指導者であったと多くの研究者が
指摘するが、研究者の中にはリンカンを強力な指導者だけではなく独裁者と見
なす者もいる。確かにリンカンは南北戦争の期間中、フランクリン・ローズヴ
ェルト以前のどの大統領よりも強大な権限を行使した。最高司令官としてリン
カンは国家の非常時に大統領がとても強大な権限を持つ可能性を示した。南北
戦争は 1861 年 4 月に始まった。議会は休会中でほぼ 4 ヶ月間にわたって南部の
脱退に抵抗しようとする措置は大統領の独断的措置であり、議会の承認なしに
行われた。リンカンは議会に承認されていない徴兵権を要求し、海上封鎖を宣
言した。リンカンはそうした措置を一時的なものと考え、緊急事態に対する措
置を完全に有効にするためには議会の承認が必要だと考えた。しかし、奴隷解
410
アメリカ大統領制度史上巻
放と南部再建の問題をめぐってリンカンは、戦争権限が大統領に与えられてお
り、大統領は非常時大権を持つと信じた280。またリンカンは通常の司法府の機
能を制限するような方法で行動し、人身保護令状を差し止め、様々な場所で軍
法を布いた。
南北戦争の間、リンカンは大統領の権限の通常の範疇を超えていたが、個人
の自由への尊重に相反しないように戦時の施策を行っていた。確かに軍の将校
の中にはリンカンの権限を非難する者がいた。またボルティモアのある市長は
南部に同調的という理由で逮捕され、1 年以上も監禁された。またメリーランド
州のある裁判官は大陪審に命じて官吏の不法行為を調査させたという理由で憲
兵の監視に置かれ、6 ヶ月も監禁された。その他にも人身保護令状を差し止める
宣言の下、政府財産の窃盗から反逆罪に至る罪名で 1 万 3,000 人以上が軍に拘
束された。そうした不幸な例外はあったものの、リンカンは民主主義全体を倒
壊させることなく非常時大権を行使することができた281。両大戦期に比べると
敗北主義者も良心的徴兵忌避者も反体制派の新聞も政府に批判的な人々もリン
カン政権下でそれ程、過酷な扱いは受けなかった。新聞の全面的な検閲もなけ
れば、容疑者の強制隔離も行われなかった。軍法会議が行われたのは事実だが
その判決は概ね緩やかで、受刑者も平和の到来と共に解放された。もちろんリ
ンカンは自らの統治を独裁だとは考えていなかった。大統領は通常の過程を尊
重しながらもそれ以上に憲法の基本的原理を擁護する責任があるという概念で
リンカンは自らの行いを弁明した。したがってリンカン政権は、政治史の中で
重要な節目であっただけではなく、アメリカの共和政体の中で緊急時に行政府
の権限はどのように適切な場を占めるのかという問題を提起した。
第 3 項 大統領就任以前の政治理念
リンカンが大統領の権限を大幅に拡大した大統領になったのは皮肉なことで
ある。カンザス=ネブラスカ法が制定され、共和党が成立される 1854 年までリ
ンカンはホイッグ党員であった。リンカンは、1830 年代から 1840 年代にかけ
てのジャクソン主義者による大統領の権限拡大に反対することで頭角を現した。
1840 年代半ば、リンカンは米墨戦争を遂行するポークの独断的なリーダーシッ
プに反対を唱えた。ホイッグ党の下院議員としてリンカンは、ポークが戦争を
正当化しようとした論理を粉砕しようとした。リンカンは、憲法は戦争を行う
南北戦争前後
411
権限を議会に与えており、人民の意思は大統領の影響なしで形成されるべきで
あると論じた282。リンカンが行った批判はポークに完全に無視され、下院で確
固たる地位を築きたいというリンカンの願いも実現しなかった。議員はリンカ
ンの批判演説を特に気に留めることもなく、幾つかの地方紙を除けば新聞に取
り上げられることもなかった。
リンカンは友人に向かって大統領の戦争権限の危険性を述べている。大統領
が独断で侵入を撃退することが必要だと見なした時にいつでも隣国に侵入して
もよいことになれば、大統領は好きな時にそういう目的で行動してもよいこと
になり、勝手に戦争を引き起こすようになる。そうれなれば、大統領がイギリ
スの侵入を防止するためにカナダに侵入しなければならないと主張した場合、
大統領を抑えられる者は誰もいなくなる。イギリスが侵入する可能性はないと
否定しても、大統領は自らの判断が正しいと主張するだけで行動を是正するこ
とはない。憲法が制定された時に、宣戦布告を行う権限が議会に与えられたの
は、君主制のように国王が人民の利益のためになるという口実で人民を圧迫す
るような戦争を始めることを防止するためであった。大統領を国王と同じよう
な立場に置くことになっては共和政体の意義が失われてしまう。後に大統領の
戦争権限を限界まで引き延ばしたリンカンが米墨戦争に関してこのような見解
を示していることは興味深い。
リンカンは奴隷制度廃止論者ではなかった。奴隷制度問題に対する比較的穏
健な姿勢のお蔭でリンカンは、全国的な知名度を持つ共和党の指導者で強固な
奴隷制度廃止論者であるニュー・ヨーク州知事のウィリアム・スーアード
(William H. Seward)を抑えて、1860 年の共和党の大統領候補指名を獲得する
ことができた283。リンカンは絶えず自身を反奴隷制度論者だとしたが、連邦政
府には既存の奴隷制度を廃止する権限はないと考えていた。同時にリンカンは
西部の準州に奴隷制度が拡大されるのを認めようとはしなかった。リンカンの
観点では、西部の準州への奴隷制度の拡大は、奴隷制度を恒久化させ、事実上、
容認することであった。1854 年のカンザス=ネブラスカ法の制定に対してリン
カンはもはや沈黙を守ることを放棄した。奴隷制度に新しい領域を開くことは、
奴隷制度は必要悪であり、封じ込められなければならず、やがては自然消滅を
迎えるであろうという憲法制定者の意図を議会が損なっているとリンカンは考
えた。そうした過ちは、1857 年にドレッド・スコット事件で最高裁が、連邦議
会や準州議会が奴隷制度を廃止する法を定めるのは違憲であると認めたために
412
アメリカ大統領制度史上巻
助長された。
リンカンは、カンザス=ネブラスカ法とドレッド・スコット裁判の判決が、
ルイジアナ準州の北部で奴隷制度を禁じる 1820 年のミズーリ妥協を覆すもの
であったので困惑した。リンカンは、ミズーリ妥協の精神は憲法だけではなく
独立宣言の原理に即していると主張した。独立宣言の起草者であるジェファソ
ンは、後のオハイオ州、ミシガン州、インディアナ州、ウィスコンシン州、そ
してイリノイ州に相当する北西部領地で奴隷制度を禁止する 1787 年北西部領
地条例が定められた時に、そうした精神を明確な形で表した。リンカンは、連
邦のためだけではなく、自治政府の神聖な権利のため、そして、国家の信頼を
回復させるためにミズーリ妥協を復活させることを望んだ。1854 年のピオリア
での演説でリンカンは以下のように語っている。
「我々の共和制の外套は土に塗れ、埃の中を引きずられた。それを元通りに
綺麗にしよう。もし血に濡れていなければ、革命の精神でそれを洗って白くし
よう。奴隷制度を道義的権利から切り離して既存の法的権利に戻し、必要な議
論を行おう。奴隷制度を我々の父祖が置いた位置に戻し、そこで安寧を得られ
るようにしよう」284
憲法によって連邦政府に課せられている制限を尊重してリンカンは南部の奴
隷制度を攻撃しようとしなかったが、カンザス=ネブラスカ法の発案者である
ダグラスと違って、リンカンは準州への奴隷制度の拡大を認めることで連邦を
救おうとはしなかった。そうすることで憲法は独立宣言で唱えられた道義的基
盤を失うとリンカンは信じていた。リンカンによれば、建国の父祖は奴隷制度
に原理として反対していたが、必要不可欠なものとして容認せざるを得なかっ
た。しかし、1850 年代になって必要不可欠なものが神聖な権利に変えられよう
としている。独立宣言ですべての人が平等に作られていることが宣言されたの
にも拘わらず、今やある者が他の者を奴隷にすることが自治の神聖な権利と宣
言されるようになっている。リンカンは、南部は北部とともに、北西部領地条
例とミズーリ妥協で決定された長期にわたる妥協を復活させるべきだと論じた。
1858 年の上院議員候補指名受諾演説で以下のようにリンカンは述べている。
「分れたる家は立つこと能わず。私はこの政府が恒久的に半ば奴隷州、半ば
自由州で存続することはできないと信じる。連邦が崩壊することを私は期待し
ていない。この家が倒壊することも期待していない。しかし、この政府が分裂
することを止めることを私は期待している。
それは完全に1 つのものとなるか、
南北戦争前後
413
完全に別のものとなるかである」285
「分れたる家は立つこと能わず」という言葉は新約聖書に由来する。キリス
トが病める者や悩める者を癒した時に、それを見ていたパリサイ人は、キリス
トが悪魔の頭を使って悪魔を追い出しているのだと非難した。キリストは、そ
の非難に答えて、悪魔達が内部で諍いを起こしているのであれば、きっと悪魔
たちは滅びるに違いないと言った。リンカンの言葉は、アメリカがこのまま奴
隷制度をめぐって分裂していれば滅びてしまうかもしれないという強い警戒を
示した言葉であった。リンカンはこの演説で、ダグラスの住民主権の論理は、
もし誰かが他人を奴隷にしようとした場合に第三者がそれに反対することがで
きなくなる危険な理論だと指摘した。さらにドレッド・スコット事件に関して
ブキャナンと最高裁の間で予め何らかの打ち合わせがあったと示唆した。そし
て、比喩を使って、ダグラス、ピアース、ブキャナン、トーニーの 4 人が共謀
して奴隷制度を擁護しようとしたと仄めかした。
第 4 項 リンカン=ダグラス討論
リンカンは、この指名受諾演説をはじめとして少なくとも 60 回の演説をイリ
ノイ州各地で行った。総移動距離は約 7,000 キロに及ぶ。中でも全米の注目を
集めたのがダグラスと 7 回にわたって行った公開討論である。毎回 3 時間にも
及んだ熱戦である。最初に話す者がまず 1 時間話した後、相手が 1 時間 30 分話
し、それから先に話した者が再び 30 分話すという形式である。
「大草原が炎上
している」と当時の新聞は公開討論の過熱ぶりを伝えている。
リンカンとダグラスの公開討論は、
「公開討論」という言葉を聞いて我々が想
像するものとはまったく異なるものであった。一言で言えば、それはお祭りで
あった。ご馳走が並べられ、旗が賑々しく翻る。礼砲が鳴り響き、行進曲が演
奏される。道は馬車や人でごった返し、周辺のホテルは満員になった。ソファ
で眠れる者はまだましなほうで、ロビーにまで宿泊客が溢れたという。とにか
く、普段の人口に倍する数の群衆が会場となった町に押し寄せ大変な人出とな
った。最も少ない時でも 1,200 人、最も多い時は 2 万人にのぼったという。そ
れだけ人が集まったのは当時の地方社会では娯楽が少なく政治的な演説も娯楽
の一種として考えられていたからである。
支持者達は、リンカンが駅に到着すると、6 頭の白馬が牽く馬車に乗せてリン
414
アメリカ大統領制度史上巻
カンを会場まで連れて行ったという。なにしろお祭りであるから、討論の最中
も群衆は黙って静かにしてはいなかった。盛んに拍手をしたり、野次をとばし
たり大変な騒ぎであった。まだ現代のように記録する手段が発達していなかっ
たので、討論会の内容は速記記者の記録による。速記記者を雇っていたのは主
に新聞である。この当時の新聞は、販売部数を確保するために政治色や党派色
が露骨であった。そのため何人かの速記記者の記録が残っているが、それぞれ
食い違っている。しかし、おおまかに討論の流れを追うことはできる。
ダグラスはリンカンを、完全な奴隷制廃止を求める急進派だと批判した。ダ
グラスによれば、建国の父祖達はそれぞれの州がそれぞれのやり方で問題を処
理する住民主権を認めているので、奴隷制度を認めるか否かはそれぞれの州に
任せるのは当然であった。そして、独立 13 州のうち 12 州が奴隷制を容認して
いたという事実から、建国の父祖達の意思を正しく読み取っているのは自分で
あるとダグラスは主張した。
対するリンカンは、南部諸州が奴隷を所有する権利は憲法によって認められ
ているが、これ以上の奴隷制拡大を認めるべきではないと主張した。そして、
独立宣言はすべての人の平等を唱え、ジェファソンも奴隷貿易の廃止を訴えて
いるので、建国の父祖達の意思を継いでいるのはダグラスではなく自分である
反論した。それに加えてリンカンは、奴隷制度は道徳的に悪であると断言し、
ダグラスは道徳に無関心なのではないかと攻撃した。
リンカンの攻撃に応えてダグラスは、奴隷制度を認めるか否かは住民主権の
問題であって、道徳的な問題ではないと反論した。道徳的な問題は良心と神の
問題であり、政治的討論とは関係ないと訴えた。
リンカンは、準州の住民が奴隷制度反対を決定できるかどうかとダグラスに
問い質した。これはダグラスにとっては手痛い質問であった。ダグラスの考え
方である住民主権からすれば、もちろん準州の住民は奴隷制反対を決定できる
はずである。しかし、一方で最高裁は、ドレッド・スコット事件の判決で、事
実上、奴隷制度が全国で合法であると認めていた。民主党のブキャナンはこの
決定を支持していた。最高裁の考えに従えば、準州の住民は奴隷制度に反対す
ることはできなくなる。ダグラスは自らの考えである住民主権を放棄するか、
それとも民主党が支持するドレッド・スコット事件の判決に反対するか、窮地
に追い込まれた。
しかし、ダグラスはリンカンの追及を見事に切り抜けた。ダグラスは、もし
南北戦争前後
415
準州の住民が奴隷制度に反対しようとすれば、奴隷制度を維持するための法を
制定しなければよいと答えた。そうすれば奴隷制度は実質的に存続できないと
ダグラスは考えた。これならドレッド・スコット事件の判決にそむくことなく、
住民主権の原則を反映させることができる。しかし、これによりダグラスは奴
隷制度を維持しようと考える南部の反感をかうことになった。
第 5 項 1860 年の大統領選挙
連邦上院議員選挙はダグラスが制した。しかし、1860 年の大統領選挙でリン
カンはダグラスを破ることができた。1860 年、共和党はシカゴで全国党大会を
開き、リンカンを大統領候補に指名し、奴隷州における奴隷制度に干渉しない
が、準州への奴隷制度の拡大を阻止するという綱領を採択した。また共和党は
長らく北部が望んできた国内開発事業と保護関税、さらに開拓民に半マイル四
方の公有地を無償で与えることを約束した。それは寛大な土地政策を要望する
西部地方の自由農民とアメリカ産業の保護を要請する北東部地方の製造業の利
益の提携を実現したという点で画期的であった。
チャールストンで開催された民主党全国党大会は奴隷制度に関して意見が分
裂した。南部人はカンザスが奴隷州として連邦に加入することを期待してダグ
ラスがカンザス=ネブラスカ法で示した住民主権を支持したが、その結果、期
待は裏切られた。南部人は民主党の綱領に奴隷制度擁護を認める条項を挿入す
るように求めたが、否決された。そのため南部の代表は民主党全国党大会から
退場した。結局、大統領候補は指名されず、全国党大会は延期された。ボルテ
ィモアで再開された民主党全国党大会でダグラスが大統領候補に指名された。
その一方で、南部の代表は独自に党大会を開催し、ジョン・ブレッキンリッジ
(John C. Breckinridge)副大統領を大統領候補として指名した。大部分が元ホイ
ッグ党員とアメリカ党員から構成される第三政党の憲法連合党は、ジョン・ベ
ル(John Bell)上院議員を大統領候補に指名した。大統領選挙は実質的に北部と
南部の 2 つの選挙であった。
1860 年の大統領選挙は主に 4 人の候補で争われた。
北部の票は共和党候補のリンカンと民主党候補のダグラスの間で分かれ、南部
の票は南部の民主党を代表するブレッキンリッジと立憲連合党のベルの間で分
かれた。
リンカンはニュー・ジャージー州を除く北部の州のすべて、17 の自由州の 180
416
アメリカ大統領制度史上巻
人の選挙人を獲得した。北部の一般投票の獲得率は 54 パーセントに達した。し
かし、南部でほとんど得票できなかったために全国的な一般投票の獲得率は 40
パーセントに過ぎなかった。たとえ民主党が団結していてもリンカンは大半の
選挙人を獲得しただろうが、一般投票の獲得率はさらに下がっていただろう。
ブレッキンリッジは 11 の奴隷州を制し、72 人の選挙人を獲得した。リンカンの
勝利の後、共和党は大統領職を南北戦争から南部再建期を通じて支配した。民
主党は引き続く 17 回の大統領選挙の中で 4 回しか勝利できなかった。そして、
1932 年にフランクリン・ローズヴェルトが当選するまで完全に政治勢力を回復
することはなかった。
第 6 項 南部の連邦脱退
1860 年の大統領選挙におけるリンカンの一般投票の獲得率は史上最低である。
1860 年の大統領選挙でリンカンは南部でほとんど票を得られず、奴隷制度問題
によって引き起こされた道義的危機を解決するのに必要な信任を十分に得るこ
とができなかった。リンカンの勝利は南部諸州の脱退を促した。ワシントンに
向けて旅立つ前に、リンカンは次のように別れをスプリングフィールドの市民
に告げた。
「我が友人達よ、この別れに臨んで私が感じている悲しさを正しく理解でき
る者はいないし、私のような状況に立つ者もいない。この場に、そしてこれら
の親切な人々に私はすべてを負っている。ここで私は 4 半世紀を暮らし、若者
から壮年になるまで過ごした。ここで我が子供達は生まれ、その中の 1 人が葬
られている。私は今、旅立つが、私がいつ戻ることができるのか、それとも戻
ることができるかどうか分からないが、私の前にはワシントンが背負った以上
に大きな仕事がある。ワシントンをかつて導いた神の助けなしで私は成功する
ことはできない。その助けがあれば私は失敗することはない。私とともにあり、
あなた方とともにあり、あらゆる善とともにある神を信じて、すべてがうまく
いくことを確信して願おう。皆を神の御手に委ね、皆も祈りの中に私を神に委
ねることを願って、心を込めた別れを告げる」286
リンカンはワシントンに向かう途中、ボルティモアで電車を乗り換える隙を
狙って暗殺しようとする企てがあるという警告を受けた。そのため夜陰に乗じ
てボルティモアを通過した。1861 年 3 月、リンカンは南部の脱退によって国中
南北戦争前後
417
が暗澹たる雰囲気に包まれる中、ワシントンに到着した。暴力を恐れて、リン
カンは兵士によって守られた秘密の経路を使って就任式に向かった。リンカン
はブキャナンとともに無事に連邦議会議事堂に到着し、東翼柱廊玄関で宣誓を
行った。
ワシントン政界はリンカンを温かく迎えたわけではなかった。大統領候補指
名でリンカンに敗れたスーアードは、リンカンが連邦下院議員を 1 期しか務め
たことがなく、1858 年の連邦上院議員選挙でダグラスに敗れていたことからリ
ンカンを見下していた。東部の共和党の指導者達はリンカンを大草原の弁護士
と見なし、大統領候補指名を適任者から奪った成り上がり者だと思っていた。
選挙の後、リンカンはスーアードを懐柔し、国務長官の座に就けた。リンカン
は閣僚を競合者から選んだ。スーアードに加えてサモン・チェイス(Salmon P.
Chase)を財務長官に、エドワード・ベイツ(Edward Bates)を司法長官に任命し
た。彼らはそれぞれ政治地盤を持ち、リンカンよりも自分が大統領に相応しい
と思っていた。競合者を閣僚に任命することで、リンカンは共和党の指導者に、
辺境出身の大統領と蔑んだまさにその人物が南部の脱退という未曾有の危機に
対処しなければならないということを目の当たりにさせた287。
南部の脱退に直面してリンカンは1861 年3 月4 日の就任演説の中で南部に自
らの政策が強制ではなく寛容に基づくものであることを保証した。当初、リン
カンはスプリングフィールドを出発する前に書き上げた演説草稿の中で、平和
か戦争かという重大な問題を決めるのは南部であって自分ではないと南部に強
く決断を迫るつもりであった。しかし、リンカンが閣僚に助言を求めた際にス
ーアードは草稿が南部に対して挑発的過ぎるとして修正を提案した。スーアー
ドの提案に沿って修正が行われ、宥和的な結びの言葉が付け加えられた。南部
の人々の間には共和党の大統領の就任により、彼らの財産、平和、そして個人
の安全が脅かされるという恐れが広がったが、リンカンはそうした恐れは根拠
がないとして斥けた。以前からの姿勢を堅持してリンカンは既に奴隷制度が存
在している州の奴隷制度に介入しないことを確約するとともに分離には絶対に
同意しないとい姿勢を明示した。
「普遍的な法則及び憲法に基づいて考える時、アメリカ合衆国の連邦組織は
恒久的なものであると私は信じる。いかなる州も単に自分の州だけの動機から
連邦を脱退することは法的に許されない。そして、憲法そのものが明確に私に
命じているところに従い、連邦の諸法規がすべての州において忠実に施行され
418
アメリカ大統領制度史上巻
るように、私の力の及ぶ限り注意したいと思っている。私は、私に委託された
権限を行使して、政府に属する財産と土地を保持し領有し所有し、また課税と
租税を徴収することに努める。不満を抱く同胞諸君、内乱の重大危局を避ける
鍵は私の手にではなく諸君の掌中に握られている。政府は諸君を攻撃しない。
諸君自身が攻撃者となることがなければ、闘争は起こり得ない。諸君は、我が
国の憲政を破壊しようと天に誓ったはずもなく、また私は『憲法を維持し保護
し擁護すべきこと』を極めて厳粛に宣誓しようとしている」
リンカンが主張するには、国が実質的に直面している問題は奴隷制度の拡大
をめぐる論争であった。南部が奴隷制度を正しいと考えてそれを拡大しようと
しているのに対し、北部は奴隷制度を誤りだと考えてそれを拡大すべきではな
いと考えている。こうした道徳的な論争は、最高裁がドレッド・スコット事件
で示した判決のように法律上の権利で解決できる問題ではない。その代わりに
奴隷制度問題は既定の選挙という手段を通じて世論という名の法廷で決定すべ
き問題である。またリンカンは、連邦が各州に先立って存在すること主張し、
州が連邦から脱退する権利を否定し、大統領として連邦政府の財産と土地の保
有維持の受託、現政府を擁護して持続させる責務、憲法の擁護の宣誓を改めて
確信し、国民の伝統と同胞愛に基づいて連邦を結ぶ紐帯の存続を祈念した。
リンカンの言葉は南部の諸州に聞き入れられなかった。1860 年 12 月 20 日、
サウス・カロライナ州が連邦から脱退した最初の州になった。1832 年の連邦法
無効宣言のようにサウス・カロライナ州は,脱退は州が持つ憲法上の権利であり、
諸国の間で分離・独立した地位を回復することを宣言した。リンカンの就任演
説が行われるまでに、さらにジョージア州、アラバマ州、ミシシッピ州、フロ
リダ州、ルイジアナ州、そしてテキサス州の南部の 6 つの州が連邦から脱退し
た。リンカンはジャクソンに倣って就任演説の中でそうした脱退を反逆として
非難した。リンカンは、憲法が命じるままにすべての州で連邦法を執行し、連
邦を擁護することを宣言した。
奴隷制度問題を平和的に解決しようとするリンカンの提言は分離主義者の指
導者により拒絶された。南部の白人達はリンカンの妥協の呼びかけを強硬な奴
隷制度廃止論と区別しようとはしなかった。彼らは半分以上、正しかった。何
故ならリンカンの妥協の呼びかけは辛うじてリンカン自身の奴隷制度に対する
義憤を隠すものであったからである。リンカンは奴隷制度が 2 つの生活様式に
根差した善悪の問題であり、政治的妥協では解決が難しい問題であることを理
南北戦争前後
419
解していた。こうした信条は南部にとって受け入れ難いものであった。リンカ
ンもまた共和党の基盤である準州での奴隷制度拡大阻止について妥協する気は
なかった。リンカンの就任演説が行われる前に、南部の諸州の脱退に対してそ
うした申し出が交渉の一部として提案されることを知ったリンカンは即座に反
応した。リンカンは共和党の議員に準州での奴隷制度拡大阻止については妥協
するつもりはないことを伝えた。リンカンのこうした態度は、どのような犠牲
を払っても連邦を擁護するという考えにそぐわない感じである。憲法の文脈で
のリンカンの理想とする平等と自由は、北部と南部の歩み寄りが南部の生活様
式を否定するような道徳的基盤でしか成しえないことを意味していた。共和党
もリンカンの考えに同意していた。
第 7 項 南北の和解の試み
1860 年 12 月 18 日、共和党の上院議員ジョン・クリッテンデン(John
Crittenden)は、憲法修正によって州法による以外は奴隷制度を侵すべからざる
ものと定め、逃亡奴隷を取り返せなかった奴隷主に補償を与え、ミズーリ妥協
に基づいて北緯 36 度 30 分線を太平洋岸まで延長し、その以北では奴隷制度を
禁じ、以南では奴隷制度を認めるという妥協を提案した。リンカンは、もし南
部の上院議員が連邦脱退に反対することを表明するのであれば、憲法修正によ
って州法による以外は奴隷制度を侵すべからざるものと定める点と逃亡奴隷を
取り返せなかった奴隷主に補償を与える点を支持しようと約束した。しかし、
リンカンは、ミズーリ妥協に基づいて、北緯 36 度 30 分線を太平洋岸まで延長
し、その以北では奴隷制度を禁じ、以南では奴隷制度を認めるという点につい
ては容認するつもりはなかった。リンカンが共和党の基盤だと見なしている準
州での奴隷制度拡大の禁止を断念することは、共和党にとって致命的であるだ
けではなく、アメリカの民主主義にとっても致命的であると考えたからである。
南部の上院議員は連邦脱退に反対することを表明することはなかった。またク
リッテンデン妥協案に対して共和党の議員は 1 人も賛成票を投じなかった288。
さらにワシントンで2 週間にわたる平和会議が21 州の代表を集めて行われた。
これは南北戦争を回避するための最後の努力となった。平和会議はヴァージニ
ア州議会の提案によって開催され、憲法修正を行うことで脱退した南部諸州の
復帰を促すとともに、境界奴隷州を満足させて連邦に慰留することが目的であ
420
アメリカ大統領制度史上巻
った。平和会議は、準州の奴隷制度に関して、クリッテンデン妥協案と同じく、
ミズーリ妥協に基づいて北緯 36 度 30 分線を太平洋岸まで延長する案を採択し
た。さらに将来の領土の獲得は、奴隷州と自由州両方の多数の賛成を要する。
既存の奴隷制度に影響を及ぼすような法を連邦議会は制定しない。逃亡奴隷を
返還するのを規制するような法を州議会は制定しない。外国奴隷貿易を恒久的
に禁止する。不法行為で逃亡奴隷を解放された奴隷主に完全な補償を与える。
会議はこうした提案を採択し、連邦議会に送付した。連邦議会は早速、憲法修
正案を可決し、各州に送付したが、南部諸州を復帰させることもできず、境界
奴隷州を満足させることもできなかった。共和党の政治綱領を実行しようとす
るリンカンと準州での奴隷制度拡大阻止について妥協を拒絶する共和党の姿勢
は、奴隷制度の廃止を阻止しようとする南部の指導者達の不安を強めただけで
あった。
第 8 項 南北戦争の勃発
リンカンが就任する頃までに南部連合はペンサコーラのピケンズ要塞とチャ
ールストンのサムター要塞を除いて南部各地に存在する要塞と海軍の造船所を
占拠した。そうした施設は連邦からの脱退によって管轄権が南部連合に移った
と見なされた。南部連合は、残るピケンズ要塞とサムター要塞の明け渡しを要
求するためにワシントンに使節を派遣した。その一方でリンカンのもとにサム
ター要塞の指揮官から、食糧の補給がなければ降伏せざるを得ず、南軍の攻撃
から要塞を守るためには 2 万人の兵士が必要であるという要請が届いていた。
リンカンは要塞の明け渡しを拒否し、7 人のうち 5 人の閣僚の反対を押し切って、
サムター要塞に補給船を送る準備を行うように命じた。リンカンはサウス・カ
ロライナ州知事にサムター要塞に食糧のみを補給すると通告した。さらにリン
カンは、もし補給が阻害されなければサムター要塞に通告なしで兵員や武器弾
薬を補給することはないと確約した。こうしたリンカンの措置は北部の世論か
らすれば危険を回避する措置と見なされる一方で、南部連合を窮地に追いやっ
た。なぜならもし食糧の補給を阻めば北部が実力行使に訴えると考えられたか
らである。しかし、食糧の補給を認めれば、北部によるサムター要塞の占拠が
続くことになる。それは南部連合の威信を損なうことになる。1861 年 4 月 12
日、南部連合はチャールストン港のサムター要塞を砲撃することで答えを出し
南北戦争前後
421
た。補給船が到着したが要塞に近付くことはできなかった。サムター要塞は集
中砲火を浴びて終日応戦したが、弾薬が尽きたために翌日、降参した。サムタ
ー要塞の攻撃によってリンカンは南部連合に対して非常手段をとる大義名分を
得た。リンカンは連邦が直面しているのは極めて普遍的な危機だと主張した。
「この問題は単にアメリカ合衆国の運命に関わるだけではない。これは立憲
共和国もしくは人民政府、つまり同一の人民によって運営されている民主主義
国家に対して、自国内の敵から領土の保全を維持できるか否かという問題を全
人類に提示している。これはまた、国内の不満分子がその人民政府を瓦解させ、
地上から自由な政府を根絶やしにしてよいものか否かという問題を提示してい
る」289
さらにリンカンは「すべての共和国には、こうした内在的で致命的な弱点が
存在しているのか、政府は必然的にその人民の自由を奪う程、強力であるべき
なのか、さもなくば政府自体を維持していけない程、弱体でなければならない
のか」という疑問を提示した。そして、リンカンは「連邦政府に残された唯一
の道は政府の戦争権限を発動し、政府打倒を目指す暴力に対抗するために武力
を行使するより他ない」と主張した。もし南部の連邦脱退が暴力的で取り返し
がつかないものであれば、憲法を擁護するという誓約に従って、奴隷解放も含
む非常手段をとるべきだとリンカンは信じていた。リンカンは南北戦争を異な
る政府間の戦いではなく、南部の反乱と見なしていた。
リンカンは南部の州権の主張を認めなかった。南部連合の考えでは州は連邦
に先立って存在し、別個の主権を持つ主体であった。しかし、リンカンはそれ
とは反対の考えを持っていた。リンカンによれば、大陸会議がまず存在し、そ
の後、各植民地から各邦が形成された。これまで州が連邦を離れて別個に存在
したことはなく、主権を政治上、より優位なるものがない政治共同体と定義し
た場合、州権は認められず、もし合衆国憲法が分離の原理を認めているのであ
れば、いかなる政府も存続できない。
リンカンは 1864 年の手紙の中で国内の反乱に対して憲法を基本法とする国
家を守るために許される限りの手段を使う必要があると述べている。法の基盤
自体、すなわち連邦の保全が脅かされている時に法の細かい点を守ることは無
意味であるとリンカンは論じている。
「憲法を擁護することができて国を失うということがあり得るだろうか。一
般法によって、生命と四肢は守られるに違いないが、度々、四肢は生命を守る
422
アメリカ大統領制度史上巻
ために切り離される。四肢を救うために生命が失われることはない。他の状態
では憲法に違反する手段も国家の保全に不可欠であれば合法的になると私は思
う」290。
またリンカンは最高司令官として大統領は、反乱の際に人民の安全のために
何が求められるか決定する権限を持っていると主張した。もし大統領がそうし
た権限を濫用すれば人民は大統領を弾劾するだろうとリンカンは述べた291。
リンカンの選出に対する南部の諸州の反乱はジャクソニアン・デモクラシー
の時代に起きた大統領制度の変容を劇的に確立させるものであった。少数の南
部の指導者は、奴隷制度に関する大統領の権限が制限されると論じながら連邦
から脱退しないように勧めたが、そうした助言は、1829 年以来、大統領の権限
の拡大を見てきた人々には無意味であった。大統領の権威は人々の心の中で過
大評価されていたが、大統領制度が連邦政府の中で最も重要な機関であるとい
う通念は大統領職を強力な役職に変えた。
第 9 項 初期の戦時措置と人心保護令状の差し止め
1861 年 4 月 12 日に反徒がサムター要塞を攻撃した後、リンカンは憲法に違
反するような手段に訴えることを躊躇わなかった。
「戦時においては、軍の最高
司令官として、私は敵を征服するために最良の方法をとる権限を持っている」
とリンカンは述べている292。7 月 4 日に議会が招集されるまでに、連邦を擁護
し戦争を遂行するあらゆる施策が大統領の権限で行われた。南北戦争の初期の
段階は、大統領が法を手中に握る劇的な例を示した。それはリンカンが「大統
領の戦争」を遂行したと言えた293。リンカンの行動、例えば 4 月 15 日に通常
の法の手続きでは抑えることができない程、強力な反乱を鎮圧し、法を支障な
く施行するために 7 万 5,000 人の民兵を召集したことは大統領の権限の適切な
範囲内であった。しかし、リンカンは大統領の権限の適切な範囲を踏み越えた。
反乱を迅速に鎮圧するために、リンカンは南部海岸の封鎖を行い、海軍に 1 万
8,000 人、陸軍に 2 万 2,000 人の兵士を増員した。封鎖は議会の宣戦布告を必要
とする戦争行為である。しかし、リンカンにとって南北戦争はあくまで反乱で
あり対外戦争ではなかった。また前もって議会に予算を求めることなく憲法上
の手続きを無視して 5 隻の海軍船舶の購入を命じた。
さらにリンカンはフィラデルフィアとワシントンを結ぶ鉄道沿線で人身保護
南北戦争前後
423
令状を差し止めた。人身保護令状については憲法第 1 条第 9 節 2 項で「人身保
護令状の特権は、反乱あるいは侵略に際し公共の安全にもとづく必要のある場
合のほか、停止されることはない」と定められている。人身保護令状は、恣意
的な行政権に対して個人を守るためのものであり、停止することができるのは
議会のみであった。リンカンは議会の承認を予め得ることなく人身保護令状を
差し止めた最初の大統領になった。1862 年 2 月 14 日、リンカンは自らが発令
した人身保護令状の差し止めを取り止め、もはや危険ではないと見なされた
人々に恩赦を与えた。リンカンは人身保護令状を差し止めた理由を、政府のす
べての省庁は南部の反逆によって機能しなくなり、連邦議会は国家非常事態を
想定することも、またこれに備えることもできなかったので、反乱に際して憲
法が行政府に委託した臨時の権限を全力で用いるように強いられたと弁解した。
これまで反乱は何度か起きてきたが人身保護令状を差し止めた大統領はいな
かった。アメリカ史上、初めて人身保護令状が差し止められた。人身保護令状
の差し止めは、大統領の権限の下で働く軍人や政府の役人に広範な権限を与え
た。軍人や政府の役人は法律で明確に定義されていない不法行為に対して令状
なしで逮捕することができ、法廷の前でそうした行動について釈明する必要が
なかった。
ワシントンと北部の州を結ぶ鉄道はボルティモアを通っていた。ボルティモ
アでは分離主義の傾向と反共和党の感情が強かった。反乱を鎮圧するためにリ
ンカンが召集した軍隊はボルティモアで暴徒と衝突した。南部に同情的な暴徒
は兵士の活動を妨げようとした。ボルティモアの市長は北部からの「侵略」に
対抗するように市民に訴えかけ、連邦軍をこれ以上、街に入れないために鉄道
橋を破壊することを命じるようにメリーランド州知事を説得した。メリーラン
ド州を通る電信線は遮断され、ワシントンに対する侵略が差し迫っているとい
う噂が流れた。リンカンが人身保護令状の差し止めを命じたのは、ボルティモ
アが暴徒で溢れ、橋が燃やされた直後である294。
リンカンは軍隊に反乱を支援している疑いのある者は誰でも拘留するように
命じた。人身保護令状の差し止めに関して、大統領は憲法を擁護する義務があ
るが国家を保全するために敢えてそれに反することも緊急時には必要であると
リンカンは考えた。大統領は法が忠実に執行されるように配慮する義務がある。
したがって法の執行を妨げようとする者に対して人身保護令状を差し止めるこ
とは正当化される。さらに軍隊の最高司令官として大統領は敵を屈服させるた
424
アメリカ大統領制度史上巻
めに最善の施策をとることができる。しかし、リンカンを批判する者は、人身
保護令状の差し止めは議会の権限に属すると主張する。これは非常に議論を呼
ぶ問題であり、アメリカ人の自由の権利に打撃を与える問題であった。
1861 年 5 月、連邦軍は分離主義者に同調し鉄道の橋を破壊する支援を行った
という理由でジョン・メリマン(John Merryman)を逮捕した。メリマンはマク
ヘンリー砦に軍事捕虜として収監された。ロジャー・トーニー最高裁長官はメ
リマンの拘留の正当性を判定させるように軍隊に要求した。連邦軍はリンカン
の命令に基づいてトーニーの要望を拒絶した。メリマンの申し立てによる事件
で、トーニーは、人身保護令状の差し止めを正当化するリンカンの主張に挑戦
した。法が忠実に執行されるように配慮する大統領の義務は、外部の力が法の
執行を妨げないようにすることである。したがって、司法府の権限を脅かす外
部の力があった場合、大統領は司法府を助けなければならないが、軍隊を使っ
て司法府の権限を剥奪する権利はない。またトーニーは大統領の非常時大権に
ついて、もし行政府が他の府を踏みにじるようなことがあれば、アメリカ国民
はもはや法の下で安心して暮らすことはできないと述べた。もし非常時の故を
以って、大統領が憲法を放棄すれば、憲法は空文化する。行政府ではなく議会
のみが人身保護令状を差し止めることができるのでメリマンの拘留は違法であ
る。
しかし、リンカンはこうしたトーニーの意見に対して、人身保護令状の差し
止めをどの府が行うかは憲法で明確に規定されていないと述べた。また人身保
護令状を差し止めることができる条件は憲法で明確に定められている。トーニ
ーの憲法解釈は憲法を自滅に追い込んでしまう。大統領の最大の憲法上の義務
は憲法を擁護することである。そのために大統領は憲法を擁護するのに必要な
施策をとらなければならない。人身保護令状を差し止めることができなければ、
リンカンは、南部に同情的な判事が破壊活動を行う者をすぐに解放してしまう
のを阻止できなかった。それは連邦軍の補給線を危険にさらすことを意味して
いた。また現行法では未曾有の危機に対応するのに十分ではなかった。
またリンカンは、すべての準州とコロンビア特別行政区で奴隷制度を撤廃す
る法に署名することでドレッド・スコット事件で示された最高裁の解釈を実質
的に無視した。その署名に際してリンカンは、当該の地域で連邦議会が奴隷制
度を廃止する憲法上の権限に関して決して疑いを抱かないという声明を発表し
た。リンカンはさらに最高裁の黒人の公民権を否定する憲法の解釈に従うこと
南北戦争前後
425
を拒んだ295。
第 10 項 南北戦争前半の展開
北部は南部に比べ人口と工業力、そして海軍力で圧倒的に有利であった。そ
のため南部に対して封鎖を行うことができ、南部が外国から必要な物資を輸入
することを妨害することができた。南部連合は造船の中心地を持たず、ほとん
ど軍艦を建造できなかったために北部の封鎖に対抗できなかった。その一方で
南部は多くの優秀な軍事指導者を擁し、地理に明るい場所で戦闘し、自分達の
故郷を守るという意思の下、兵士の頑強な抵抗を期待することができた。また
ヨーロッパの工業に不可欠な綿花を輸出していることで南部はヨーロッパ諸国
の同情を期待することができた。戦争目的の違いも重要であった。北部は連邦
の再統合を戦争目的としていたために南部連合政府を完全に瓦解させなければ
ならなかった。しかし、南部は独立を維持することが戦争目的であったので北
部の政府を転覆させる必要はなく、ただ北部が再統合を諦めるまで攻撃を撃退
しさえすればよかった。
リンカンは優勢な兵力と海軍の優越を理解し、戦略の全体構想を持っていた。
リンカンは、軍事経験は豊富とは言えず、知識を補うために連邦議会図書館か
ら戦略に関する書物を借りて深夜まで読み耽ったというが、最高司令官に必要
な知力と強固な性格を兼ね備えていた。リンカンはワシントンを離れて前線を
11 回も訪れ、総計 42 日間を軍とともに過ごした。戦略の実施についても直接、
前線司令官に命令を出すなど積極的に関与した。北軍の戦争開始初期の目的は、
志願兵の大部分に訓練を施している間に南部を海上封鎖し、重要な戦略拠点を
確保することであった。
まずケンタッキー州、ミズーリ州、ウェスト・ヴァージニア州といった境界
諸州の支配権を獲得することから始められた。1861 年 7 月、最初の主要な戦闘
がブル・ランで行われたが、多くの市民が戦闘を見物するために集まった。彼
らは連邦軍が烏合の衆である南部連合軍をたやすく打ち破ると信じていた。し
かし、ピエール・ボーレガード(Pierre G. T. Beauregard)、ジョゼフ・ジョンス
トン(Joseph E. Johnston)、ストーンウォール・ジャクソン(Stonewall Jackson)
率いる南軍は、アーヴィン・マクドウェル(Irvin McDowell)率いる北軍を打ち破
った。この敗北によって連邦は戦闘が容易に終わらず長期化することを悟った。
426
アメリカ大統領制度史上巻
連邦は長期戦の準備を始めた。それに対して南部連合は、北軍の海上封鎖によ
って手遅れになる前に綿花をヨーロッパに出荷して武器弾薬を購入せず、1861
年度の課税を行うこともなかった。
イギリスは南北戦争に関して中立を表明していたが、トレント号事件によっ
てイギリスと連邦は危うく戦争になるところであった。南部連合の 2 人の外交
官とその 2 人の秘書がイギリスの郵便船に乗ってハヴァナからオランダ領西イ
ンド諸島のセント・トマスに向かっていた。4 人はそこからイギリスを目指す予
定であった。4 人が乗船していることを知った連邦の軍艦はワシントンから命令
を仰ぐことなく、その郵便船に発砲して停船を命じ、4 人を連行し監禁した。イ
ギリスはこの事件をイギリス国旗への侮辱と見なした。イギリス政府は、謝罪
と 4 人の釈放を求めた。リンカンはイギリスの脅迫に屈することで生じる政治
的影響を心配した。しかし、最終的にスーアード国務長官は 4 人の釈放をイギ
リスに通告し危機は回避された。
リンカンはマクドウェルを更迭し、代わりにジョージ・マクレラン(George
McClellan)を指揮官に据えた。マクレランは高い才能を持った軍事組織者であ
ったが、戦場では慎重過ぎた。マクレランは海上封鎖を長引かせることで南部
の勢いを削ぎ、その間に大規模な攻撃の準備を整えるのが得策だと考えていた。
マクレランが積極的な攻勢に出ないためにリンカンの政治的立場が損なわれ、
リンカンのリーダーシップに挑戦する過激派が頭角を現した。議会は戦争指導
合同委員会を設置した。議会は大統領に広範な戦争権限を与えたにも拘わらず、
目立った戦果があげられないことに焦燥感を深め、トレント号事件に危機感を
抱いたのである。また戦費の増大で国家財政が圧迫されるのは火を見るよりも
明らかであった。こうした事態に直面して共和党過激派は、大統領に積極的な
攻勢と奴隷解放政策の推進を求めた。戦争指導合同委員会は大統領の戦争指導
と軍隊の戦争遂行状況を監視した。しかし、同委員会は様々な審問を行い、前
線に委員を派遣し、リンカン政権の戦争遂行努力を損なう結果をもたらした。
マクレランは 1862 年度の作戦を立案し、リンカンはそれを承認した。東部戦
線ではマクレランがリッチモンドに向けて進撃する。西部戦線では、テネシー
州東部で包囲にさらされている北軍を救出し、リッチモンド=メンフィス間の
鉄道を遮断する。ミシシッピ川に沿って陸軍を南下させ、海軍と協力してメキ
シコ湾を通ってニュー・オーリンズとヴィックスバーグへの突破口を開く。北
軍に最初に重要な勝利をもたらしたのはグラントであった。テネシー川に築か
南北戦争前後
427
れたヘンリー砦とカンバーランド川に築かれたドネルソン砦が、南軍が占領す
る西部への進路を扼していた。グラントは両砦を攻略することができれば、南
部連合の領内に深く進攻できる水路を確保でき、側面を突くことができると考
えた。ヘンリー砦はグラントが指揮する陸軍部隊が到着する前に艦隊の砲撃に
よって降伏した。グラントは軍を進め、ドネルソン砦を降伏させることに成功
した。降伏の条件を聞かれた時、グラントは「無条件かつ即時の降伏以外は受
け入れられない」と答え、一躍その名を知られるようになった。この勝利によ
って北軍はテネシー州を実質的に支配下に置くことができた。
攻勢に出たグラントであったが友軍の合流を待つ間にシャイロウで不意を襲
われ南軍の攻撃を受けた。当初、北軍は南軍に圧倒され敗色が濃厚であったが
反撃に転じて大きな犠牲を払いながらも勝利を収めた。北軍は実に 5 万 5,000
人の兵士のうち 1 万 3,000 人以上を失った。グラントを更迭するように求める
声が高まったが、リンカンはそうした声に断固として応じようとはしなかった。
シャイロウの戦いの後、北軍は西部の奥深くに 2 度にわたって侵攻した。その
一方で北軍の海軍はニュー・オーリンズを攻略した。さらにバトン・ルージュ
とナッチェズが降伏した。しかし、当初の目標であったヴィックスバーグを攻
略することはできなかった。西部戦線ではすべての目標を達成することはでき
なかったが、ミシシッピ川の大部分を北軍の支配下に置くことに成功した。
東部戦線では、マクレランが作戦に従ってリッチモンドに進撃することにな
った。マクレランはフレデリックスバーグを経由して正面からリッチモンドに
進撃しようとしたが、ジョンストン率いる南軍がフレデリックスバーグを占領
していたので計画の延期をリンカンに求めた。リンカンはマクレランにそのま
ま正面突破を目指すか、側面に迂回して回り込むかを選択するように求めた。
マクレランは迂回してリッチモンドに進撃することに決め、11 万人の兵士を引
き連れて海路、ヴァージニアの沿岸に上陸し、ヨーク川とジェームズ川の中間
地帯を慎重に前進した。そのため南軍は軍を結集させ、徴兵を行う時間的余裕
を持つことができ、7 日間戦役でマクレランの進撃を阻止することができた。さ
らに南軍のロバート・リー(Robert E. Lee)は、メリーランド州からペンシルヴ
ェニア州ハリスバーグに向けて積極的な攻勢を行った。ハリスバーグを攻略す
ることができれば、東部の各都市と西部を繋ぐ交通路を遮断することができ、
連邦を分断することができた。そうすることでリーは南部連合をリンカンに承
認させようと考えた。その途上、リーは 1862 年 8 月に、第 2 次ブル・ランの戦
428
アメリカ大統領制度史上巻
いでジョン・ポープ(John Pope)率いる北軍を破り、ポトマック川を渡ってメリ
ーランド州に前進した。第 2 次ブル・ランの敗北によって北軍がヴァージニア
で得た戦果は失われた。連戦で南軍の兵士は疲弊していたが、リーは奴隷州の
メリーランドに入れば歓迎されるだろうと期待して作戦を強行した。
9 月、マクレランは、アンティータム・クリークでリーを迎え撃ち、凄惨な激
戦の末にリーの前進を阻み南方へ撤退させた。アンティータムの戦いは南北戦
争の激戦の 1 つであり、7 時間程の戦いで 6,000 人以上の兵士が戦死し、1 万
7,000 人以上の兵士が負傷した。連邦軍は南部連合軍をヴァージニアに押し戻す
ことに成功したが、マクレランは積極的に南部連合軍を追跡しようとはしなか
った。もしマクレランがリーを追撃していれば、南北戦争はこの時に終わって
いただろうと考えられている。1862 年 11 月、リーの部隊を殲滅することで南
部連合を屈服させようと望んでいたリンカンはマクレランを更迭し、アンブロ
ーズ・バーンサイド(Ambrose E. Burnside)を指揮官に任命した。バーンサイド
はラパハノック川を挟んでフレデリックスバーグの対岸に軍を集結させ、リッ
チモンドへの侵攻を試みた。リーはフレデリックスバーグを見下ろす台地に陣
を構えた。バーンサイドはリーの陣地に対して正面攻撃を仕掛けた。その結果、
北軍は南軍の倍以上の死傷者を出してラパハノック川の対岸に撤退した。
第 11 項 大統領の非常時大権
リンカンの施策の多くは、戦争遂行の合憲性について疑念をもたらした。議
会によって認められていない軍隊の拡大は議会の憲法によって定められた「軍
隊を募集し、これを財政的に維持する」権限を明らかに侵害していた。1861 年
5 月 3 日、既存の法の範囲を超えて正規軍を募集する大統領令の中でリンカンは
自らに与えられた権限を踏み越えていることを率直に認めた。大統領を批判す
る者は、憲法第 1 条で示されている緊急時の人身保護令状の差し止めを行う権
限は議会に属すると指摘した。
苛烈なリンカンの施策は、共和党員からも軍事的独裁だと非難された。7 月 4
日まで議会の特別会期を招集しないという大統領の決定はこうした非難をます
ます助長した。1863 年、大統領としてのリンカンの行動の合憲性が拿捕船をめ
ぐる裁判で問題となった。1861 年 4 月 19 日と 27 日の大統領令によって南部海
岸の封鎖が命じられたが、それに違反する船舶が合衆国海軍によって拿捕され
南北戦争前後
429
ていた。海軍がそうした拿捕を行うことが合法なのか決定する際に、最高裁は
初期の段階において戦争が合法なのか否かを決定しなければならなかった。船
舶の持ち主は、戦争は議会が 1861 年 7 月 13 日に宣戦布告するまで始まってい
なかったと主張した。したがって、議会が招集される前にリンカンが南部の反
乱を鎮圧するためにとった施策は封鎖も含めて無効である。
1863 年の緊急事態を考慮して、最高裁は船舶の持ち主の主張を一蹴した。最
高裁はリンカンが封鎖を開始した時から戦争の合法性を認め、議会が休会中の
間にとった大統領の行動の正当性を支持した。この判決を下す際に最高裁は
1861 年 7 月 13 日に議会がリンカンの命令を認めた法を制定したことに注目し
た。しかし、判事は、リンカンの一連の行動を正当化するのに法制化が必要で
あると宣告することを拒んだ。拿捕船をめぐる裁判で最高裁が下した判決は、
リンカンの行動が、公共の安全に対する脅威によって、そして、議会が最終的
に大統領の行動を容認するという見込みによって正当化されるという主張を支
持した。
リンカンに与えられた非常時大権は、非常時であるという点でのみ理解され
る。北部からすれば南北戦争が戦争ではなく反乱として始まったということは
法的に重要な側面を持つ。憲法において、大統領は宣戦布告を行うことはでき
ないが、国内で反乱が起きていることは宣言できる。国内で反乱が起きた際に、
外国との正式な戦争とは違って大統領に迅速で単独の行動をとることが許され
るという点で議会と最高裁は合意しているとリンカンは信じていた。
反乱を鎮圧する大統領の責任は人身保護令状の差し止めや多くの地域を軍法
下に置くことを正当化した。したがって大統領は反乱行為に関与していると疑
われる人物を逮捕し勾留する権限と平和な地域に住む市民を軍法裁判にかける
権限を要求した。ワシントンも独立戦争の間、軍法裁判を使用した。軍法裁判
は戦時の敵勢力の構成員に対して適用され、通常の裁判に適用される規則の範
囲外で運用された。リンカンは軍法裁判の使用を認めた最初の大統領である。
リンカンは、南北戦争が進むにつれて、議会からの委任を求めることなく、
より幅広い軍事的権限を要求するようになった296。例えば 1862 年 9 月 24 日
の大統領令では、すべての反徒と軍隊の募集を妨げる者、徴兵に抵抗する者、
もしくは国家に対して背信行為を行った者は軍法会議か軍法裁判にかけられる
と宣告された。この命令は北部で激しい論争を引き起こした。南北戦争で初め
て行われた徴兵は非常に不人気であった。1863 年 7 月、徴兵に反対する暴動が
430
アメリカ大統領制度史上巻
ニュー・ヨークで起きた。その暴動は南北戦争を除けばアメリカ史の中でも最
大級の市民暴動であった。しかし、徴兵に対する抵抗は、軍法裁判と人身保護
令状の差し止めが戦時下にある地域だけではなく平和な地域でも必要であると
リンカンに確信させた。
第 12 項 ミリガンの申し立てによる事件
最高裁はリンカンの軍法に基づいた施策の行き過ぎに挑戦した。しかし、そ
れは南北戦争が終わった後であった。1866 年のミリガンの申し立てによる事件
で最高裁は、侵略にさらされておらず軍隊から離れている地域の市民を軍法裁
判にかけることは違法であるという判決を下した297。南北戦争中、ラムディ
ン・ミリガン(Lambdin P. Milligan)は反逆罪の容疑で逮捕され、1864 年 10 月
に軍法裁判で裁かれた。ミリガンは 1865 年 5 月 19 日に絞首刑に処せられるこ
とが宣告された。そこでミリガンは合衆国巡回裁判所に人身保護令状を請求し
た。最高裁は、軍法の無軌道な行使は憲法によって保障された公平な裁判を受
ける権利を侵害し、単に非常時であるという理由で自由が無効にされることは
ないと宣告した。さらに最高裁は、軍法は通常の裁判所が改定されている場に
は存在せず、実際に戦争が行われている場に限定されるとした。ミリガンの刑
は大統領により終身刑に変えられ、1866 年 4 月 10 日、最高裁の判決に基づい
て釈放された。1868 年 3 月 13 日、ミリガンは不法監禁の故を以って損害賠償
請求訴訟を起こした。裁判の結果、一部の損害賠償が認められた。
ミリガン事件は、リンカン政権で打ち立てられた戦時の前例の法的な重要性
を幾分か弱めるものであった。しかし、南北戦争でリンカンが行使した権限は、
大統領が非常時の施策をとるために無制限の権限が与えられ得るということを
示した298。リンカンは極端な施策をとったが、議会も最高裁もリンカンを効果
的に抑制することはできなかった。議会は、通常の法廷で告発されていない囚
人を解放する法令を出すことによって人身保護令状の差し止めに挑戦した。し
かし、その法令は超法規的な投獄を終わらせることはできず、懲罰を課す権限
を軍法裁判から通常の法廷に移すこともできなかった。戦争が続いている間、
最高裁は軍法裁判の運営に干渉することを拒んだ。法的な側面では、南北戦争
はアメリカ史の中で例外的な時代であり、憲法による抑制が完全に働かず法の
支配が崩壊した時代であった299。
南北戦争前後
431
リンカンは権力の掌握により独裁者と批判されたが、リンカンのリーダーシ
ップは連邦と憲法によって定められた目的に忠実であった300。リンカンが要求
した権限は過大なものであり、濫用される機会も多くあったと考えられる。し
かし、リンカンの権限の行使は非常に抑制されていた。多くの場合、短期の軍
事的な勾留は解放と仮釈放を伴うものであった。軍法に関して、軍法裁判は軍
事的犯罪に対して戦闘地域で市民を裁くのに使われることが多かった。ミリガ
ン事件のように非軍事的な犯罪を平和な地域で市民を裁くのに軍法裁判が使わ
れるのは稀であった。また最も重大な点として、リンカンは南北戦争の間、自
由で公平な選挙が行われるのをまったく妨害しなかった。したがって憲法は南
北戦争の間、著しく拡大解釈されたが覆されたわけではない。リンカンは非常
時において他のどの大統領よりも恣意的な権限を行使せざるを得なかったが、
度々、その厳しさよりも寛大であるという点で批判された301。
第 13 項 ヴァランディガムの申し立てによる事件
ミリガンの申し立てによる事件と対照的なのがヴァランディガムの申し立て
による事件である。奴隷解放宣言を発表した 2 日後、リンカンは徴兵を阻害し、
反乱を支援する不忠誠な行いをする者を軍法裁判で裁くために軍隊に捕らえさ
せる命令を出した。民主党のクレメント・ヴァランディガム(Clement Laird
Vallandigham)下院議員はリンカンの強権的な手法を非難し、奴隷を解放するた
めの大統領の戦争は、負債と課税、そして恣意的な権力によって白人を隷属さ
せることになると主張した。オハイオ州マウント・ヴァーノンで 2 万人の群集
を前にヴァランディガムは自由を破壊し、独裁制を樹立するために戦争を始め
たとリンカンを攻撃した。1863 年 5 月 6 日、連邦軍はヴァランディガムを逮捕
した。軍法裁判でヴァランディガムは反乱を鎮圧する政府の努力を阻害する目
的で不忠誠な意見を述べたという罪で有罪になった。ヴァランディガムは戦争
が終わるまで収監されることになった。
リンカンはヴァランディガムの逮捕を直接命じたわけでもなければ、軍法裁
判の結果を認めたわけでもないが、連邦軍の権威を損なうつもりもなかった。
論争を避けるためにリンカンはヴァランディガムを収監する代わりに追放した。
リンカンはヴァランディガムの逮捕を、政府を批判したためではなく、軍の士
気を挫いたために行ったと擁護した。
432
アメリカ大統領制度史上巻
ヴァランディガムは収監も容認できなかったが追放も容認できなかった。市
民を軍法裁判で裁くことを憲法は認めていないと確信してヴァランディガムは
最高裁に訴えた。しかし、ヴァランディガムの申し立てによる事件で最高裁は
戦争遂行を阻害するような訴えに耳を貸そうとしなかった。最高裁は、軍法裁
判は最高裁の管轄外なのでヴァランディガムを何も助けることはできないと述
べた302。追放されたヴァランディンガムは南部に向かって北部の民主党員がリ
ンカンを追放することを保証した後、カナダに向かった。ヴァランディンガム
はカナダから平和運動を展開し、1864 年の選挙の際に帰国して民主党の敗北主
義的な綱領を起草した。
第 14 項 奴隷解放宣言
リンカンが憲法の枠内を慎重に守ろうとしたことは奴隷解放宣言の取り扱い
で示されている。最高司令官として平和時には禁じられている戦争権限を握る
ことによってリンカンは 1863 年 1 月 1 日に奴隷解放宣言を発表した。
「西暦 1862 年 9 月 22 日、合衆国大統領によってその他のことの間に以下の
ことを含む宣言が出された。西暦 1863 年 1 月 1 日、人民が合衆国に対して反乱
を行った州、もしくは州の一部が反乱状態にあると指定された地域で奴隷の状
態であったすべての者は、それ以後、そして永久に自由である。そして、陸軍、
海軍を統括する合衆国の行政府は、それらの人々の自由を承認し、かつ保護す
るだろう。またそれらの人々がその自由を現実のものとするために払う努力を
抑制するいかなる行動にも出ないだろう。大統領は上述の 1 月 1 日に、依然と
してまだ合衆国に対して反乱状態にある人民のいる州や州内部の特定の地域が
反乱状態にある場合、布告によってその当該の地域を指定するだろう。州、も
しくはその州民がその当日において、州の有権者の大多数が参加する選挙によ
って選出された議員を連邦議会に誠意を以って代表として送っている事実があ
る場合、それを覆す程、強い反証がない限り、そのことはその当該州が合衆国
に対して反乱状態にないという決定的な証拠と見なされる。それ故、ここに私、
合衆国大統領アブラハム・リンカンは、合衆国政府とその権威に対する武力反
乱の勃発に際して、合衆国陸海軍総司令官として私に与えられている権限に基
づいて、またその反乱を鎮圧するための適切かつ必要な戦争手段として、本日、
1863 年 1 月 1 日現在、合衆国に対して反乱状態にある人民のいる州と州内部の
南北戦争前後
433
特定の地域を以下のように指令し、かつ指定する。アーカンソー州、テキサス
州、セント・バーナード、プラークミンズ、ジェファソン、セント・ジョン、
セント・チャールズ、セント・ジェームズ・アセンション、アサンプション、
テレボーン、ラフォーチェ、セント・マリー、セント・マーティン、ニュー・
オーリンズを含むオーリンズの行政区を除くルイジアナ州、ミシシッピ州、ア
ラバマ州、フロリダ州、ジョージア州、サウス・カロライナ州、ノース・カロ
ライナ州、ウェスト・ヴァージニア州として指定された 48 の郡、バークレイ、
アコマック、ノーザンプトン、エリザベス・シティ、ヨーク、プリンセス・ア
ン、ノーフォークとポーツマスを含むノーフォーク諸郡を除くヴァージニア州、
そしてその除外された地域はこの宣言が布告されないままで置かれる。前記の
権限と目的のために、以上に特定した州及び州内部の地域において奴隷の状態
に置かれているすべての者は自由であり、また今後、自由であるべきことを私
は命令し、宣言する。また合衆国陸海軍を統括する合衆国政府が、上述の者の
自由を承認し、かつそれを保護することを命令し宣言する。そして、私はこの
ようにして解放を宣言された者に、自己防衛のために避けられない場合を除い
て、すべての暴力行為を回避することを命令する。また機会が与えられたあら
ゆる場合において、適切な賃金を得て、忠実に労働することを勧告する。さら
に私は、それらの者の中で適切な条件を備えている者を合衆国の軍務に受け入
れ、要塞守備隊、陣地、駐屯所やその他の場所、そして、我が軍のあらゆる艦
船に就役させることを宣言し、かつ告知する。真に正義の行為であると信じら
れ、かつ憲法によって軍事上の必要措置であると正当化されるこの布告に対し
て、私は人類の思慮深い支持と全能の神の加護を心から祈念する」303
奴隷解放宣言のように大幅な実効力を持つ宣言はこれまでほとんどなかった。
大統領による宣言の大部分は、ワシントンによって初めて発表され、1863 年以
来、毎年発表されるようになった感謝祭の宣言のように儀礼的なものであった
304。しかし、ワシントンの 1793 年の中立宣言のように、またリンカンが南北
戦争勃発後に発令した大統領令のように実効的な意味を持つ宣言もあった。
奴隷解放宣言は単なるリンカン個人の思いつきや気まぐれで発表されたわけ
ではない。発表には高度な政治的動機が絡んでいた。1862 年、ヴァージニア州
で北部は敗北を喫した。敗北を知った北部の中の和平を求める一派が、あくま
で戦争で連邦の再統合を図ろうとするリンカンを強く非難した。彼らは、勝利
が収められないのであれば、早期講和をしたほうがよいと考えた。そうした一
434
アメリカ大統領制度史上巻
派を説得するため、最後まで戦争を継続する大義名分が必要であった。それが
奴隷解放宣言である。リンカンは、中途半端な形の講和ではなく、完全に連邦
を再統合する手段を講ずるべきだと強く信じていた。リンカンは連邦を一時的
ではなく恒久的に救うためには奴隷制度が最終的に廃止される道を辿ることが
必要だと考えていたが、もともとリンカンは連邦の再統合を優先し、奴隷解放
を戦争目的に入れるつもりはなかった。1862 年 8 月 22 日の公開書簡でリンカ
ンは以下のように述べて、奴隷解放に関する公的な義務と個人的な願望を区別
した。
「私は連邦を救済したいと思っている。私は憲法に適合する最も簡単な方法
で連邦を救済したいと思っている。国家の権威の回復が早ければ早い程、連邦
は『往年の連邦』に近くなるだろう。奴隷制度を同時に救済することができな
ければ、連邦を救済したくないと考える人々がいても、私はそれに賛成しない。
もし、奴隷制度を同時に破壊することができなければ連邦を救済したくない
人々がいても、私はそれに賛成しない。私にとって戦争の最高の目的は連邦の
保持であって、奴隷制の存続か、破壊かではない。奴隷の一部を解放し、他を
そのままの状態に置いたままで連邦が救済できるなら、そちらを選ぶだろう。
またもしすべての奴隷を自由にすることで連邦が救済できるのであれば私はそ
うするだろう。私は奴隷制度と黒人のために何かをするとすれば、そうするこ
とで連邦を救済する助けとなると信じているからである。また、私がもし何ら
かの行動を差し控えるとすれば、それはその行動が連邦の救済に有用だと私が
信じないからである。私の行動が原理のためにならないと信じれば、私はその
ような行動をとらないようにし、さらなる行動が原理のためになると信じれば、
常に積極的に行動するだろう。誤りと分かれば、誤りを是正するように努力し、
新しい考え方が真実と分かれば、すぐにその考え方を採択するだろう。以上の
ように、公的な義務に対する私の見解に従って、私が目的とする内容を述べた。
これまで度々表明してきたようなすべての人間がいかなる場所でも自由になっ
て欲しいと願う私の個人的願望は変えるつもりはない」305
リンカンは奴隷解放を個人的な願望とするだけで、戦争の目的はあくまで連
邦の保持であり、奴隷制度の破壊ではないことを明言している。しかし、早期
講和を求める一派の支持と過激派の支持を得るためにリンカンは戦争目的に奴
隷解放を入れることにした。とはいえ奴隷解放宣言は南部連合の敵愾心を煽る
一方で、北軍の士気を鼓舞するようなことはなかった。そもそもリンカンはも
南北戦争前後
435
ともと奴隷解放よりも黒人を海外に移すことで奴隷制度を消滅させて南北間の
衝突の原因を解消することが望ましいと考えていた。そうした考えは、1852 年
に行われたヘンリー・クレイの追悼演説の中で既に示されている。
1862 年 8 月、リンカンは 5 人の自由黒人の代表をホワイト・ハウスに招いて
会談を行った。そして、黒人の海外植民に協力するように要請した。またリン
カンは 1862 年 9 月 11 日に、中央アメリカの鉱山開発事業を手がけるチリキ開
発会社と契約を結び、500 人の黒人を現在のコロンビアに入植させようとした。
新たな植民地を自らの名を冠してリンコニア植民地と名付けた。しかし、周辺
諸国の反対にあい、計画実行を断念した。さらに 1862 年 12 月 31 日、リンカ
ンはハイチ領カウ島に黒人を入植させる契約を結んだが、この計画もうまくい
かなかった。リンカンは奴隷を解放した後、海外に入植させようと考えていた
が、結局、それを実現することはできなかった。
国内の支持を集める必要性に加えて南部連合が外国の協力を得ようとしてい
るという情報もあった。奴隷解放宣言という大義名分が北部にあれば、外国は
南部に協力がし難くなる。例えばイギリスは 18 世紀末から 19 世紀初めにかけ
て奴隷貿易の撲滅に積極的だったので、イギリスを牽制するには効果的であっ
た。実際、奴隷解放宣言は、人間の自由を守るために北部が戦っているという
評価をヨーロッパで高めた。そのためイギリスもフランスも南部の独立を承認
しようと動くことが難しくなった。
奴隷解放宣言はいつ頃から考えられていたのか。そもそも北部の戦略にとっ
て重要な境界州を離反させないためにおいそれと奴隷解放宣言を行うことはで
きなかった。リンカン派は保守的な北部の世論が、連邦の再統合のためには喜
んで戦うが奴隷制度を廃止するためには戦おうとしないのではないかと考えて
いた。そして、南部が奴隷制度を擁護するために戦うようになれば、戦争はま
すます苛烈になるのではないかとリンカンは恐れた。しかし、戦争が長引くに
つれて、奴隷制度を破壊せずに戦争に勝利しても意味がないという共和党過激
派の意見が強まった。まず議会は 1862 年 4 月と 6 月にコロンビア特別行政区と
準州の奴隷制度を廃止する法を制定した。さらに第 2 次反乱者財産没収法案に
よって、逃亡奴隷、及び謀反人が所有する奴隷を永久に自由にし、黒人を軍務
に徴用する権限が大統領に与えられた。リンカンは、大統領の自由裁量で法を
適用できるように修正が加えられた後、法案に署名した。リンカンは最高司令
官として敵の占領地域で奴隷解放を行う絶対的な権限が与えられるように主張
436
アメリカ大統領制度史上巻
した。もしそうした権限を議会が大統領から奪うことができれば、大統領の戦
争遂行に対して容喙するようになり、南部連合に不寛容な講和を押し付ける可
能性があるとリンカンは考えた。
奴隷解放宣言の公布をリンカンに決心させたのは、その他の政策の失敗であ
る。クリッテンデン妥協案を再確認することを議会は拒み、補償付き奴隷解放
を行うという提案は境界州の強い反対を受け、さらにリンカンは保守派の支持
を失っていた。奴隷解放宣言は、諸外国による南部連合承認を阻止するだけで
はなく、政権の支持者を繋ぎ止めるために不可欠であった。リンカンは「私が
問題を統御したとは主張しない。逆に問題が私を統御したと率直に告白する」
と述べている。
1862 年 7 月 22 日の閣議で奴隷解放宣言の予備的草案が閣議に提出されてい
るので、奴隷解放宣言が考えられたのは少なくともそれよりは前である。そし
て、スーアード国務長官の提言によって、目立った軍事的勝利の後に奴隷解放
宣言を公表することになった。もし軍事的勝利がなければ、自暴自棄になって
奴隷解放宣言を行ったと誤解される恐れがあると考えたからである。スーアー
ドの提言にしたがってリンカンは公表を延期した。アンティータムの戦いで北
軍が勝利した 5 日後の閣議でリンカンは、奴隷解放宣言を公表することを決意
したと閣僚に述べた。その翌日に奴隷解放予備宣言は公布された。
奴隷解放宣言の中で忘れてはならない重要な点がある。それは、反乱軍、つ
まり南部連合が支配している領域で奴隷を解放すると宣告した点である。奴隷
解放宣言は軍事的、政治的便宜の産物であった。奴隷解放宣言は、閣僚や共和
党過激派が望むよりは限定的であった。奴隷解放宣言は包括的な奴隷解放を宣
告するものではなく、すべての奴隷を解放したわけではない。実際、リンカン
は、占領地域で奴隷を解放した 2 人の将軍の宣言を無効にしている。なぜ領域
を限定したのか。まず当時のアメリカ合衆国憲法では、大統領が奴隷制度を廃
止する権限はない。なぜなら奴隷制度の廃止は奴隷所有者の財産権を侵害する
からである。財産の自由は憲法で保障されているので、財産と見なされていた
奴隷を勝手に解放することはできない。
しかし、1 つの抜け道があった。反乱軍、つまり南部が支配している領域では、
特別に大統領が軍事権限で奴隷を解放することができる。それ故、リンカンは
奴隷解放の範囲を限定した。さらにこのように奴隷解放宣言の適用範囲を限定
すれば、奴隷廃止論者を少しは喜ばせることができる一方で、反乱軍に属して
南北戦争前後
437
いない地方の奴隷所有者を怒らせないですむ。事実、連邦に忠誠を示した境界
州に関しては 1865 年に戦争が終焉する最後の月まで奴隷所有を合法としてい
た。ちなみに戦時に軍事権限で奴隷解放を実行するという発想はリンカンが独
自に思いついたわけではない。もともとはジョン・クインジー・アダムズの発
想である。それをリンカンは人づてに聞いて知った。
奴隷解放宣言は、黒人が連邦軍に参加する道を開いた。軍事的に必要な措置
として奴隷解放宣言は重要な効果をもたらした。奴隷解放宣言によって、南部
は奴隷を失うことにより労働力を奪われ、さらに奴隷の一部は連邦軍に参加し
た。10 万以上の元奴隷が連邦軍の兵士になった。リンカンは「我々に重要な成
功をもたらした我が軍の野戦司令官は、奴隷解放政策と黒人を軍で使用するこ
とが反乱軍に対する手痛い一撃になると信じている」と書いている306。確かに
北部の兵士の一部には、連邦のために戦っているのであり、奴隷解放のために
戦っているのではないという不満があった。また境界州や民主党の司令官は奴
隷解放宣言に反発した。しかし、大部分の兵士は奴隷解放政策を理解し受け入
れた。
奴隷解放は連邦の戦略の重要な部分となったが、奴隷解放宣言は奴隷を非道
徳的だと非難したわけでもなければ、戦争が終わった後に奴隷制度が廃止され
ることを保障したものでもなかった。確かにリンカンは奴隷制度の廃止こそ戦
争の大義であることを認めるようになった。しかし、後にリンカンは、全面的
な奴隷解放を含むウェイド=デーヴィス法案に拒否権を行使している。リンカ
ンは連邦政府が南部の州にそうした再建策を押し付ける憲法上の権限はないと
信じていた。しかし、リンカンは解放された奴隷をまた元に戻すことも現実的
ではないと認識していた。奴隷解放と南北の再統合を一緒に実現しようとする
ことは南部連合との講和交渉において障害になるので解放された奴隷を元に戻
したほうがよいと北部の民主党議員は提案した。その提案に対してリンカンは、
それは連邦の大義を損なうことになり、連邦のために戦ってきた黒人兵士を裏
切ることになると反対した。
リンカンは、奴隷制度は連邦と共存できず、連邦は法の前の平等という原理
で 1 つにまとまるべきだと考えていた。それ故、リンカンが 1863 年 12 月に発
表した南部再建策では、南部の白人に連邦に忠誠を誓うだけではなく、リンカ
ン政権の奴隷解放政策を支持することも再建の要件として求めた。再建された
州政府は、ルイジアナ州、アーカンソー州、そしてテネシー州といった連邦に
438
アメリカ大統領制度史上巻
占領された地域で戦争が終わる前に奴隷を解放した。
リンカンは、法的な正当性を尊重したために大統領の布告のみで奴隷制度を
完全に廃止しようとはしなかった。その代わりにリンカンは、憲法修正を通じ
て奴隷制度の廃止を達成しようとした。1864 年、共和党全国党大会でリンカン
は、合衆国のあらゆる場所で奴隷制度を禁止するように憲法を修正する綱領を
採択するように求めた。綱領によれば、奴隷制度は共和政体、正義、そして国
家の安全の原理に反しており、共和党はアメリカから奴隷制度を完全に根絶す
ることに尽力する。完全な奴隷解放は連邦の勝利の手段であると同時に目的と
なった307。1864 年から 1865 年にかけてリンカンは、議会に憲法修正を発議す
るように働きかけた。その結果、連邦議会は 1865 年 1 月にすべての奴隷を解放
するという憲法修正 13 条を通過させた。リンカンは、戦争権限に対する憲法上
の制約を無視すると同時に憲法の原理に忠実であったと言える。憲法の尊重と
奴隷を解放したいという願望を両立させたリンカンの才能は、連邦の資源を南
部連合を破ることに集中させることができた。
第 15 項 南北戦争後半の展開
バーンサイドに代わってジョゼフ・フッカー(Joseph Hooker)が司令官となっ
た。1863 年 5 月、ヴァージニア州チャンセラーズヴィルでフッカーはリーが率
いる南軍を二重に包囲しようとしたが頑強な抵抗に阻まれた。北軍が守勢に回
って陣形を建て直している間に、リー指揮下の南軍は防備が手薄な右翼を奇襲
して数に優る北軍を敗走させたが、数々の戦いで栄誉を手にしたストーンウォ
ール・ジャクソンを味方の誤射で失った。リーは再び北進し、ペンシルヴェニ
ア州ゲティスバーグでフッカーに代わったジョージ・ミード(George Meade)率
いる北軍と激突した。戦闘が終わった時、南軍は 7 万 5,000 人のうち 4 分の 1
の兵力を、北軍は 9 万人のうち 5 分の 1 の兵力を失った。北軍の防御を崩すこ
とができなかったリーは再び南部への撤退を余儀なくされた。北軍は撤退する
南軍に決定的な打撃を与えることができなかったが、南北戦争中の最大の激戦
に勝利した。ゲティスバーグの勝利に喜んだリンカンであったが、リーがヴァ
ージニアに逃げ帰ったと知らされた時に著しく落胆した。その一方で西部では
グラントが要衝の地であるヴィックスバーグを制し、ミシシッピ渓谷の下流全
域を支配下に置いた。
南北戦争前後
439
1864 年、リンカンはグラントを連邦軍全軍の指揮官に任命した。グラントは
牽制作戦が失敗した後、優勢な兵力を背景に正面突破を行う作戦を採用した。
グラントが召集した兵力は 17 個師団で総勢 53 万 3,000 人にのぼる。これは第
1 次世界大戦までアメリカが結成した最大規模の侵攻軍であったが、リーを打ち
破るにはさらに 13 ヶ月を要した。ウィルダーネスで南軍の攻撃を受けた北軍は
多くの兵士を失ったが、グラントは進撃を止めなかった。グラントは敵の側面
を突こうとしたが、リーはその意図を見破りスポットシルヴェニアで待ち構え
た。スポットシルヴェニアでは本格的な塹壕戦が行われた。グラント率いる北
軍はスポットシルヴェニアでさらに多くの兵士を失ったが、不退転の決意を示
した。北軍はコールド・ハーバーで一時的な勝利を収めたが南軍の戦線にほと
んど食い込むことができなかった。リッチモンドからの補給線を断つというグ
ラントの作戦から危うく逃れたリーはピーターズバーグに立て篭もった。敵陣
を一斉攻撃して陥落させる火力も兵力もなかったために、北軍はピーターズバ
ーグを 9 ヶ月も包囲した。リーが足止めされている間に、ウィリアム・シャー
マン(William T. Sherman)率いる北軍は南部連合の支配地を蚕食することがで
きた。シャーマンは南軍の戦闘能力を削ぐためにあらゆる軍需物資、生産施設、
輸送施設を破壊する殲滅作戦をとるように命じられた。シャーマンはアトラン
タの攻略に成功し、さらにサヴァナに向けて焦土作戦を行いながら前進した。
サヴァナを攻略した後、シャーマンは北に向けて進軍を開始した。その一方で
テネシー州中部に侵攻した南軍はナッシュヴィルで大敗した。北軍海軍は陸軍
と協力して各地の沿岸要塞を攻略し、南軍の封鎖破りを完全に封じ込めた。南
部連合の運命は急速に悪化の一途を辿った。
第 16 項 行政府の長
ポークと違ってリンカンは戦争や奴隷制度など優先すべき事柄を除いて多く
の事柄を下僚に任せた。閣僚達は省務を大統領からの監視がほとんどない状態
で自由に行った。外交分野でさえリンカンは小さな役割を果たすだけに甘んじ、
国務長官にほとんどの仕事を任せていた。各省庁に対して権限を行使しないリ
ンカンは一見すると劣った行政府の長に見える。行政府の統制という点から大
統領の強さを決定するのであれば、リンカンはポークよりも弱体な大統領のよ
うに思える。しかし、多くの事柄を各長官に任せることでリンカンは優先的な
440
アメリカ大統領制度史上巻
課題に管理能力を集中させることができたし、不人気な政策による批判から逃
れることができた308。リンカンは閣議を重視していなかったし、閣僚に出席を
強要することもなかった。リンカンが奴隷解放宣言を閣僚に示した時も、それ
は助言を求めるためではなく単に文言を見せるためであった。スーアード国務
長官の目立った軍事的勝利の後に奴隷解放宣言を公表するべきという助言のみ
が受け入れられた。
リンカンは議会で証言した最初の大統領となった。1862 年 2 月 13 日、リン
カンは下院司法委員会で議会に送付したばかりの一般教書の一部がニュー・ヨ
ーク・ヘラルドに時を置かずして掲載されたことについて釈明した。記者はリ
ンカン夫人の友人であった。そのためリンカン夫人が一般教書の内容を漏らし
たのではないかという疑惑がかけられた。リンカンは、司法委員会に家族の誰
もが漏洩に関与していないことを納得させた。
第 17 項 1864 年の大統領選挙
1864 年の大統領選挙は自由で完全な政党間の競合であった。その事実はリン
カンが独裁的なやり方で戦争を行っていないことを示していた309。民主党は戦
争の前途に希望がないと非難した。合衆国は多くの死傷者を出し、最終的には
撃退されたとはいえワシントンの手前まで南軍の奇襲部隊が迫り、南部連合は
共和党が白人よりも黒人を持ち上げ、州と個人よりも連邦を持ち上げると思い
込み反乱に固執していた。1864 年の全国党大会の綱領で民主党は、4 年間の戦
争で連邦を元に戻せていない現状を非難し、すぐに戦闘を止めるべきだと提案
した。民主党の大統領候補となったマクレランは再統合の前の平和は拒否した
が、奴隷解放宣言に反対し、戦闘継続は南部諸州が脱退する前の状態に戻るま
ででよいと主張した。それ故、共和党員は、民主党の勝利が南部連合の独立と
奴隷制度の永続、そしてさらなる合衆国の分裂をもたらすものだとして警戒し
た。
リンカンと他の共和党の指導者達は 1864 年の大統領選挙で民主党が勝利す
る可能性があると思っていた。事実、1862 年の中間選挙で民主党は躍進してい
た。リンカンの戦時の行動への反対が一般に広まり、大統領の任期を 1 期に限
るという慣習がここ 30 年間で培われていた。1832 年にジャクソンが勝利を収
めて以来、ジャクソンに続く大統領は誰も再選されず、1840 年のヴァン・ビュ
南北戦争前後
441
ーレンを除いて党の大統領候補指名を再度獲得する者もいなかった。
また共和党内も分裂していた。戦争開始当初から奴隷制度をめぐって保守派
と急進派は対立していた。リンカンはその任期中、絶えず共和党の領袖間、議
会の指導者間、閣僚間の対立に悩まされた。占領した南部諸州の処遇について
急進派は大統領の政策を批判した。急進派はリンカンの大統領候補指名を阻む
動きを見せたが、戦況の好転に助けられてリンカンは大統領候補指名獲得に成
功した。
民主党の党大会の 6 日前、リンカンは大統領選挙で敗北することを予想し、
次期大統領と協力して連邦を再統合する道を模索するのが義務だと考えていた。
共和党は、南部連合に対抗する民主党員の支持を集めようと全国統一党の名の
下にボルティモアで全国党大会を開催した。テネシー州軍政長官であった民主
党のアンドリュー・ジョンソンが副大統領候補に選ばれた。
選挙戦の最中、リンカンが敗北すれば人民の判定の結果を受け入れず、政府
を破滅に追いやろうとするだろうという噂が広まった。そうした噂に対してリ
ンカンは、政府を倒壊させようとしているのではなく維持しようと努めている
と主張した。そして、誰が大統領に選ばれても 1865 年 3 月 4 日に確実に大統領
の座に据えられると確約した。それが人民のためであり、憲法に基づく方途で
あるとリンカンは述べた310。リンカンが人民主権を尊重する姿勢は、出版と言
論の自由に対して寛大に接したことで示されている。不運な例外はあるものの、
反リンカンや反合衆国を標榜する報道機関は原則として何も妨害されなかった。
1862 年の中間選挙が自由で公正であったように 1864 年の選挙は自由で公正な
ものであった。
1864 年の大統領選挙でアメリカ国民はリンカンに 55 パーセントの一般投票
を投じた。選挙人獲得数に至っては民主党のマクレランに対して 212 票対 21 票
で圧勝した。民主党員の中には不正手段が取られたと訴える者もいたが、マク
レラン自身はリンカンの再選はまったく問題がないと認めていた。合衆国軍に
よるアトランタ攻略とモービル湾で行われた海戦の勝利、そして効果的な共和
党の選挙戦術によってリンカンの勝利はもたらされた。1864 年の大統領選挙は
戦時に行われたが活気のある選挙であった。1864 年 11 月 10 日、勝利を祝って
ホワイト・ハウスに集まった群衆に向かってリンカンは次のように訴えた。
「元来政府というものは、非常に強力であるために国民の自由を侵害するに
至る程、力あるものでなければ、重大な非常時に直面した時、自ら存立を維持
442
アメリカ大統領制度史上巻
していくだけの力を持ち得ないだろうかという問題は長い間にわたっての深刻
な問題であった。今次の反乱によって、我が共和国はこの点で厳しい試練を受
けている。また反乱の間にも平常のように規定の時に行われる大統領選挙は少
なからず試練の重圧を増し加えるものであった。もし忠誠を抱き団結した人民
が謀反に対抗して力の限りを尽くして戦っているのであれば、彼らの間の政争
により彼らが二分させられて、半ば麻痺状態に陥るに至ると当然、倒れてしま
わないだろうか。しかし、選挙は是非とも行われなければならなかった。我々
は選挙によらずして自由な政府を持つことはできない。そして、もしこの謀反
のために我々の全国的選挙が止むを得ずして中止または延期となるようなこと
があれば、反乱軍のために我々は既に征服され破滅させられてしまったと言っ
てもよいだろう。選挙戦は人間性をその選挙という具体的な場合のうちに現実
に反映させているものである。この場合に生じたことは必ずまた同じような場
合にいつも起こるに違いない。人間性は変わるものではない。我が国の将来の
一大試練の時にも、現在の試練にあっている人々と比べてまったく同じように、
弱い者、強い者があり、また愚かな者、賢い者があり、また悪い者、良い者が
いるだろう。それ故、今度の選挙に伴った様々な出来事を、知恵を学び取るべ
き哲学を学ぶ態度で見るようにし、何事も復讐すべき過ちとして見ないように
しよう。しかし、今回の選挙は、選挙にありがちな偶発時や望ましくない争い
を伴っていたが、良い結果をもたらしている。すなわち人民の政府は一大内乱
の最中にも全国的選挙を行うことができるということを証明した。今日に至る
まで、かかることが可能であるということを世界は知らなかった。そのことは
また同時に、我々が今も猶、いかに健全で強いかということを示すものである。
それはまた同一政党の候補者の間においても、連邦に最も忠誠を抱き、謀反に
最も反対している者が国民の投票の多数を受け取ることを示した。しかし、謀
反は相変わらず続いている。選挙は今や終了したので、共通の関心を持つ者す
べて、我々の共通の国を救うために、再び結束して共通の努力を行おう。私は
このためにいかなる障害も作らないように努めてきたが、これからも努める。
私がこの地位を占めるようになって以来、故意に他人の胸に憎悪の念を植え付
けたことはない。私は非常な好意によって再選されたことに対して厚く感銘し、
また全能の神に対して我が国民をして、彼ら自らを益すると思われる正しい結
論を下すように導き給うたと信じて、当然の感謝の念を抱くが、他の何人がこ
の結果に失望し苦しんでいるということは私の満足を曇らさずにおかない。私
南北戦争前後
443
に賛成した人々に願うことは私のこのような心構えと同じような精神を私に反
対した人々に対して持つことである。最後に我が勇敢な兵士達、水兵達のため
に、また武勇に秀でた将校達のために個々から万歳の三唱を願い、私の話しを
終わりたいと思う」311。
第 18 項 第 2 次就任演説
リンカン政権の基本的な責務は、共和政体が国家的な危機に直面しても存続
できることを示すことにあった。
「人民の自由を守ることができる程、強くない
政府が、大きな危機の際にその存在を維持できるだけ十分に強いのかという深
刻な疑問が長い間あった」とリンカンは述べている312。南北戦争におけるリン
カンの行動はその疑問に対して肯定的な答えを与えたと言える。リンカンは南
北戦争について次のように第 2 次就任演説で格調高く語っている。
「同胞諸君、大統領職の宣誓をするためのこの 2 度目の機会に際して、今回
は第 1 期の場合と比べ、広範にわたる演説をする理由がない。当時は施行すべ
き政策について幾分詳細に述べることが適当で当然であると思えた。過去 4 年
間には、今猶、国民がその注意を集め、その精力を傾けている大きな争いにつ
いてそのあらゆる方面や形成を絶えず公表する必要があったが、この 4 年の歳
月が過ぎ去った今では、新たに言うべきことはほとんどない。戦局がいかに進
捗するかということに一切のことがかかっていると言ってよいが、この進捗に
ついては私自身と変わらない程、国民一般もよく知っている。そして、すべて
の者にかなりの満足と鼓舞を与えていると思う。将来に関して大いなる希望が
かけられているが、将来のことについての予言は敢えて試みない。4 年前の就任
演説の際に、人々は皆、差し迫る内戦を心配していた。すべての人々がそれを
恐れ、それを避けようとしていた。就任演説が、ただひたすら戦争を起さずに
連邦を救おうとして、この場所から行われている時に、反乱者の代表達はこの
市中で、戦争以外の方法で連邦を破壊しようとしていた。すなわち、交渉によ
って連邦を解体し、国家の資産を分割しようとしていた。双方ともに戦争に反
対していた。ただし、一方がこの国家を存続させるよりは戦争を始めたほうが
よいと考えていたのに対して、もう一方は国家を滅ぼすくらいであれば戦争に
応じたほうがよいと考えた。このような理由で戦争が起こった。総人口の 8 分
の 1 は黒人奴隷だったが、連邦全体に分布しておらず、連邦の南部だけに存在
444
アメリカ大統領制度史上巻
していた。これらの奴隷をもとにして独特の強力な利害関係が作られた。この
利害関係がともかく戦争の原因であることはすべての人々が知っていた。反乱
者達が戦争に訴えてでも連邦を分裂させようとしたのは、この利害関係を強化
し永続させ拡大させることが目的であった。しかし、その一方で、連邦政府は
それが準州内に拡大するのを阻止しようとした他は何の権限も主張しなかった。
双方とも戦争がここまで大規模化し長期化するとは予測していなかった。双方
とも戦争の終結とともに、もしくはそれ以前に戦争の原因がなくなるとは予想
していなかった。どちらの側ももっと簡単な勝利を予想して、これ程、深刻で
驚くような結果になるとは思ってもいなかった。双方とも同じ聖書を読み、同
じ神に祈り、互いに敵に勝てるように神の加護を願った。他人が額に汗して得
たパンを奪うのに正義の神の助力を願うことは奇妙に思えるかもしれない。し
かし、我々自身が裁かれないように、他者を裁くことも止めるべきである。そ
のいずれの祈りも完全に聞き届けられることはなかった。全能の神は神自身の
目的を持っている。
『この世は罪の誘惑があるからわざわいである。罪の誘惑は
必ずくる。しかし、それをきたらせる人はわざわいである』
。もし我々が、アメ
リカの奴隷制度は神の摂理により必ず来る罪の誘惑の 1 つだが、神が定めた期
間、存続した後、神はそれを除去することを望み、またその罪の誘惑をもたら
した者が、当然受けなければならない苦難として、神が北部と南部の双方にこ
の恐ろしい戦争をもたらしたと考えたとしても、神の生ける信者が常に考えて
いる神の特質に何ら矛盾することはないだろう。我々がひたすら望み、切に祈
るのは、この戦争の大いなる苦難が速やかに過ぎ去ることである。しかし、も
し神の思召しが、奴隷の 250 年にわたる報われない苦役によって蓄積された富
がすべて失われるまで、また鞭により流された血の一滴一滴に対して剣によっ
て流される血の償いがなされるまで、この戦争が続くことになるならば、3,000
年前に言われたように、今も猶、
『主のさばきは真実であって、ことごとく正し
い』と言わなければならない。誰にも悪意を抱かず、すべての人々に慈愛を以
って、神が我々に示した正義を固く守り、今、我々が行おうとしている事業を
成し遂げるために努力し、国民の傷を縫合し、戦いに倒れた者、その未亡人と
その孤児の面倒をみるように努め、そして、我が国民の間で、またすべての諸
国民との間に正しく恒久的な平和を実現し、それを育成するように努力しよう」
313
第 2 次就任演説の最大の特徴は、南北戦争に対してリンカン独自の神学的な
南北戦争前後
445
解釈を下した点にある。奴隷制度が神の御心に反するものであると認めたうえ
で、南北戦争という悲劇は神の意向に沿わなかったために南部と北部の両方に
下された罰であるという論をリンカンは展開している。この演説では、リンカ
ンの個人的な信教、そして公的な宗教観の融合が顕著に示されている。リンカ
ンは南北戦争の意義を連邦の維持という本来の目的から、神の下ですべての人
民の自由を保障するという理念の実現に変容させようとしたのである。
第 19 項 公開書簡と個人秘書の活用
大統領と人民との関係においてリンカンは重要な貢献をした。リンカンはホ
ワイト・ハウスを訪れる者から話を聞くのに多くの時間を費やした。またリン
カンは、大統領のリーダーシップに挑戦する手紙への返答という形式で公開書
簡を通じて自らの見解を国中に伝えた。20 世紀まで、大統領は儀礼的な場合を
除いて演説を行わないのが慣習であり、政策への支持を訴えることも慎むべき
だと考えられていた。リンカンの公開書簡はそうした慣習を遵守すると同時に
うまく回避した。個人への返信という形式でリンカンは実質的にアメリカ国民
に訴えていたのである。そのような試みは前例のないことであった。ジェファ
ソンもリンカンに匹敵する文筆の才能を持っていたが、公開書簡で自らの名前
を出すことはなかった314。
リンカンは複数の個人秘書を有効に活用した。これまで個人秘書は主に大統
領の親族が勤めていたが、リンカンは能力に基づいて個人秘書を選んだ。その
中には後にマッキンリー政権とセオドア・ローズヴェルト政権で国務長官を務
めることになるジョン・ヘイ(John Hay)が含まれていた。個人秘書の仕事は、
ホワイト・ハウスでの社交を取り仕切ることであり、不必要な訪問から大統領
を守ることであった。また手紙の整理も重要な仕事であった。大統領宛の手紙
は個人秘書によって確認され、内容に従って適切な部署へ送られた。大統領が
読む手紙はせいぜい 50 通に 1 通程度であった。さらに個人秘書は新聞にリンカ
ン政権を擁護する多くの記事を投稿した。
個人秘書が政治的に重要な役割を果たすこともあった。チャールズ・フリー
モント(Charles Fremont)将軍が奴隷解放を宣言したために、ミズーリ州が連邦
を脱退しそうになった。リンカンは事実関係を確認するために個人秘書の 1 人
を現地に送った。調査を行った後、個人秘書はリンカンにフリーモントを免職
446
アメリカ大統領制度史上巻
するべきだと報告した。2 日後、リンカンは閣僚の反対にも拘わらず、フリーモ
ントを免職した315。
第 20 項 ペンドルトン案
リンカン政権期に大統領制度を大きく変え得る提案がなされた。ジョージ・
ペンドルトン(George Hunt Pendleton)下院議員によって 1864 年 2 月に提案さ
れたペンドルトン案である。閣僚に下院の議席を与えるというのが提案の内容
である。その当時、下院議員だったガーフィールドはペンドルトン案を強く支
持した。裁決を委ねられた委員会は、閣僚はその省に関する事項が論議される
場合、論議に出席する権利が与えられ、質問の答弁を強制されるという議案を
提出した。結局、この議案は表決されなかった。それから 15 年後、ペンドルト
ンは再び同じ案を提案したが、1846 年と同じく表決されなかった。さらに 1886
年、ジョン・ロング(John Davis Long)下院議員が閣僚に自由に下院に出席し発
言することを認める案を提出したが実現しなかった。もしペンドルトン案が実
現していれば、大統領は議会で影響力を持つ人物を閣僚に選ばなければならな
くなる。実質上、下院議員に閣僚になる優先権を与えることになる。閣僚が議
会で成功を収めれば収める程、大統領から独立するようになる。その結果、大
統領のリーダーシップは閣僚の手に移る。閣僚が議会の指導者の地位を兼ねる
ことによって影響力を増大させる可能性があるからである。こうした理由から
ペンドルトン案はもし実現していれば、大統領の権限と影響力を著しく低下さ
せる危険性があった316。
第 21 項 議会との協調
もし南北戦争がなければ、リンカンが国を主導したいと思ってもその能力は
著しく制限されただろう。
1860 年の大統領選挙でリンカンが代表した共和党は、
リンカン自身がそうであったようにその大部分が元ホイッグ党員によって構成
されていた。リンカン自身が訴えていたように、彼らはジャクソン主義者によ
る大統領権限の拡大を是正しようと考えていた。リンカンが南北戦中に確立し
た大統領の権限は共和党議員を驚かせた。
しかし、リンカンは決して自らの政治的原理を放棄したわけではなかった。
南北戦争前後
447
戦争中でもリンカンは、1830 年代から 1840 年代にかけて自らが擁護したホイ
ッグ党の原理を完全に見捨てたわけでなかった。リンカンは、単に不同意であ
るという理由で法案を拒否することを否定し、法案が違憲であると判断される
場合のみ拒否権を行使するべきだと信じていた317。リンカンは戦争に無関係な
問題については決定を議会に付託した。共和党議員が、農務省を創設し、公有
地の供与によって大学を設立し、ホームステッド法を通過させた時、リンカン
はただ法案に署名するだけであった318。ホームステッド法は、160 エーカーの
土地を僅かな手数料で権利を主張できるようにし、5 年間、それを保持すれば所
有者として認める法である。
リンカンは戦費を賄うために新たな税を導入することを避けようとした。そ
の代わりに、公債、関税率の引き上げ、公有地の売却で戦費を賄おうとした。
公債の販売はチェイス財務長官によって促進された。チェイスはさらに 1 億
5,000 万ドルを州法銀行から借り入れた。1857 年に始まる景気後退と南部の脱
退による歳入の減少によってリンカン政権は大規模な赤字に悩まされた。チェ
イスはさらに議会に法定貨幣法を可決するように働きかけた。法定貨幣法によ
って、グリーンバック紙幣が初めて合衆国の公式の紙幣となった。グリーンバ
ック紙幣の導入によって連邦政府は債権者や兵士に支払うことができた。こう
した財政事情のために議会が所得税や相続税、酒類、煙草、馬車に対する物品
税を制定してもリンカンは反対しなかった。
第 22 項 ゲティスバーグ演説
南北戦争の間、最高司令官として獲得した権限によって、リンカンは大統領
職を効果的に利用することができた。しかし、戦争の終わりは反動をもたらし
た。リンカンは平和時に残存するような形式で大統領の権限を拡大することは
なかった。それにも拘わらず、リンカンと南北戦争はアメリカの政治に継続す
る痕跡を残した。
「80 と 7 年前」という有名な最初の言葉から始まるゲティスバ
ーグでの演説は、憲法ではなく独立宣言を、自由を持つ新しい国家がすべての
人は平等に創られたという原理に貢献する基盤となった文書として賞賛してい
る。リンカンは、独立宣言を起草したジェファソンをアメリカ史上最も卓越し
た政治家と見なしていた。リンカンにとってジェファソンの諸原理は自由社会
の定理であり公理であった。
448
アメリカ大統領制度史上巻
「80 と 7 年前、我々の父祖は、この大陸に新たな国を誕生させた。この国は
自由を抱き、すべての人々は平等に創られたという信条のために作られた。今、
我々は大きな内戦をしている最中である。この国が、まさに自由を抱き信条の
ために作られた国が、永らえることができるかどうか試されている。我々はこ
の戦争の激戦地に集っている。我々は、この国を生き残らせるためにここで命
を捧げた者達の最後の安住の地としてこの戦場の一部を供するためにやって来
た。我々がそうすることはまったく適切で妥当なことである。しかし、より大
きな意味では、我々がこの地を聖別することはできず、聖化することもできず、
清めることもできない。生者であれ死者であれ、ここで戦った勇敢なる人々こ
そがこの土地を聖化してきたのである。我々の劣った力では余分なものを加え
ることも何かを減じることもまったくできない。ここで我々が言うことには世
界はほとんど注目もしないし、記憶に長くとどめることもないだろう。しかし、
勇敢なる人々がここでなしたことは決して忘れ去られることはない。ここで戦
った者達がこれまで気高く進めてきた未完の仕事に、ここで献身するのはまさ
に今、生きている我々なのである。我々の前に残された大いなる責務にここで
献身するのはまさに我々なのである。その責務とは、こうした誉れある死者の
ために、彼らが死力を尽くして献身した大義に我々がさらなる献身をすること
であり、ここで我々が、こうした死者達が無駄に死んだわけではないと高らか
に決議することであり、神の御許でこの国に新たな自由の誕生をもたらすこと
であり、そして人民の、人民による、人民のための政府を地上から消滅させな
いようにすることなのである」319
ゲティスバーグの演説でリンカンは、国民社会に権力と自由の関係が変化し
たことを示した。リンカンは奴隷制度の告発が新たな積極的な自由を生み、政
府が法の下の平等を保障する義務を持つことを確認した。リンカンは意見の形
成が大統領の主要な仕事であり、言葉が持つ力をよく理解していた。しかし、
19 世紀当時は就任演説や一般教書を除いて大統領の言葉が民衆に伝わることは
ほとんどなかった。ゲティスバーグ演説はリンカンの最も有名な演説であるが、
リンカンは墓地の奉献式で「2、3 の適切な意見」を表明することを求められた
だけであった。事実、ゲティスバーグの演説は全部で 272 語という短いもので
ある。奉献式の主要なイベントはエドワード・エヴェレット(Edward Everett)
元上院議員の 2 時間にわたる演説であった。記者の関心の対象はリンカンでは
なくエヴェレットであった。19 世紀のアメリカ人は、閣僚や議員よりも大統領
南北戦争前後
449
の言葉を聞く機会が少ないことに慣れていた。それにも拘わらず、リンカンは
公衆の反応を予測し、言葉がどのように響くかを確かめるために、文書の草案
を友人や側近、閣僚に読んで聞かせたという320。しかし、リンカンは現代の大
統領のように公衆の面前で頻繁に演説したわけではない。なぜなら公衆の面前
で演説することは大統領の威信を損なうと考えられていたからである。
第 23 項 憲法修正
リンカンはゲティスバーグの演説で独立宣言を賞賛したが、それは南北戦争
の影響を受けた憲法修正で具現化された。憲法修正第 13 条で奴隷制度が廃止さ
れただけではなく、憲法修正第 14 条ですべてのアメリカ人が市民権の特権と免
責、そして州による侵害に対して適切な法の手続きと法の平等な保護を受ける
権利が保障され、さらに憲法修正第 15 条でアフリカ系アメリカ人の投票権が認
められた。こうした 3 つの憲法修正は憲法の発展を変えた。憲法修正第 12 条ま
では主に連邦政府の権限を制限してきたが、それに続く 7 条のうち 6 条は連邦
政府の権限を拡大した321。
憲法修正第 13 条から第 15 条の制定が南北戦争直後にもたらした結果は限定
的であったが確実なものであった。独立宣言によって保障される平等に関する
理解は、セオドア・ローズヴェルト、フランクリン・ローズヴェルト、そして
リンドン・ジョンソンといった 20 世紀の大統領の経済的抱負に比べれば穏健で
ある。南北戦争による改革は、個人の財産の尊重、制限された政府、そして地
方分権的な傾向という長期間にわたって培われた伝統によって制約された。リ
ンカンの貢献は、連邦政府が平等な機会を確保する義務を持つことを明らかに
したことにある。
第 24 項 南北戦争の終結
ピーターズバーグでグラントと睨み合っていたリーであったが食糧が乏しく
なったためにピーターズバーグを脱出して南方の部隊と合流しようと試みた。
しかし、南軍はファイヴ・フォークスの戦いで敗北し、さらに西に逃れた。1865
年 4 月、リッチモンドが陥落し、退路を断たれたリーはアポトマックスでグラ
ントに降伏した。グラントは寛大な条件を示した。南軍は連邦に反乱を起さな
450
アメリカ大統領制度史上巻
いことを誓い、銃や大砲などの武器を引き渡す。しかし、士官は着装武器と私
物の馬や荷物を保持することが許された。そして、すべての将兵は敬意を以っ
て扱われ、帰宅が認められた。リーの降伏で実質的に南北戦争は終結したが、
南部連合政府は完全に消滅したわけではなかった。
リッチモンドが陥落する前にジェファソン・デーヴィス(Jefferson Finis
Davis)大統領は特別列車で数人の閣僚とともに脱出した。デーヴィスは南部連
合の人民に戦闘の継続を訴えた。リーの降伏を聞いた後もデーヴィスは諦めず、
敗北を認めるように勧める閣僚の言葉も聞き入れなかった。デーヴィスが北軍
に逮捕され、南部連合政府の火が完全に消えたのはリンカンが暗殺された後で
あった。南北戦争の結果、連邦は 36 万 5,000 人の死者と 28 万 2,000 人の負傷
者を出した。南北戦争は奴隷制度を終焉させた。敗北した南部は、10 年以上に
わたって北部の直接支配下に置かれ、その後も、北部の影響下に置かれた。
第 25 項 暗殺
1865 年 4 月 14 日、リンカンは夫人や友人達とともにフォード劇場で観劇中
にジョン・ブース(John Wilkes Booth)によって背後から頭部左側を銃撃され意
識が戻らぬまま、翌朝 7 時 22 分、亡くなった。ブースは「暴君の最後は常にか
くのごとし」と叫んで逃亡した。この事件が起きたのは南北戦争が終結して 6
日後であった。ブースは南部連合の支持者であり、南北戦争が起きた原因はリ
ンカンにあると考えていた。最初、ブースはリンカンを誘拐して捕虜収容所に
収監されている南部連合の兵士と交換する予定であったが、南北戦争の終結を
知って計画を暗殺に切り替えた。4 月 11 日、ブースは、ホワイト・ハウスに集
まった群衆に向けてリンカンが投票権をアメリカ系アメリカ人に与えなければ
ならないと演説するのを聴いていたという。ブースとその一味は、リンカンだ
けではなく副大統領のジョンソンと国務長官のスーアードも殺害する予定であ
った。行政府の混乱が南部連合が復活する引き金となることをブース達は期待
した。スーアードは襲撃を受け、首と顔に傷を負った。その一方でジョンソン
を襲撃する予定だった暗殺者は襲撃を実行に移さずに逃亡した。4 月 26 日、ワ
シントン近郊の納屋に潜んでいるところを発見されブースは銃殺された。ブー
スの共謀者は逮捕され軍法裁判にかけられた。1865 年 7 月、有罪を宣告された
中で 4 人が絞首刑に処せられた。
南北戦争前後
451
第 26 項 結語
南北戦争は、アメリカを緩やかな連邦主義から中央集権化された統治形態へ
変化する契機をもたらした。建国以来、絶えず主張されてきた州権の理論に解
決がもたらされた。連邦政府の政策に不満な州が憲法上の州の地位を振りかざ
し、連邦脱退や連邦法を否認するような態度に終止符が打たれた。連邦政府は
劇的に権限を拡大させ、経済発展を促すために銀行業や鉄道輸送業などとます
ます結び付くようになった。また南北戦争は、南部から奴隷制度に基づく特殊
な社会的、経済的組織を取り除き、南部をアメリカの不可分な全体の一部とし
て統合し、アメリカが資本主義産業国家として発展を遂げる基礎を整えた。
リンカンは南北戦争を未曾有の手段を以って指導した。明らかに憲法によっ
て規定された以上の権限を根拠なく大統領に付与する行政権の不穏な肥大化が
もたらされた。アメリカ人が命を賭けても守ろうとするアメリカ的価値観を損
なわないようにするためには、とりわけ戦時において合衆国が標榜する基本的
な民主主義の原理を保持することが連邦政府の義務であった。しかし、リンカ
ンの行動は戦争の勝利という国家の最優先課題を遂行するために憲法上確立さ
れた個人の自由という概念と衝突した。リンカンは後世の大統領が依拠するよ
うになる行政権の拡大という顕著な先例を作った。
リンカンは建国の父ワシントンと並ぶ神格化の洗礼を受けた。まず凶弾に襲
われたのが、奇しくも受難日にあたり、それはキリストが全人類の救済のため
に十字架の上で血を流したように、リンカンも「連邦の救世主」として自らの
命を捧げたと解釈されるようになった。多くの作家や詩人がリンカンをキリス
トの次に最も偉大な人物に祭り上げた。彼らにとってリンカンは、贖罪者であ
り、救済者であり、殉教者であった。南北戦争による多大な犠牲、そしてリン
カンの受難により、アメリカは奴隷制度の桎梏を逃れて血の洗礼を受けた神聖
な国家として新たに生まれ変わった。リンカンの神格化はこうした国家概念を
支持する強力な源泉となっている。
第 6 節 アンドリュー・ジョンソン政権
第1項
452
アメリカ大統領制度史上巻
1808 年 12 月 29 日、アンドリュー・ジョンソン(Andrew Johnson)はノース・
カロライナ州ローレーで生まれた。3 人の子供の末子であった。父は労働者であ
ったがジョンソンが 3 歳の時に亡くなり、母は裁縫を生業にしていた。ジョン
ソンはまったく学校教育を受けることなく仕立屋に徒弟奉公に出た。徒弟奉公
をやめた後、ジョンソンはテネシーのグリーンヴィルに移住し、自分の仕立屋
を開いた。グリーンヴィルの住民によって市会議員に選ばれたことが政治への
入り口となった。その後、州下院議員、州上院議員を務め、さらには連邦上院
議員に選ばれた。テネシー州が南部諸州とともに連邦から脱退した時、独り上
院に残って連邦を支持した。1864 年の大統領選挙で副大統領候補に選ばれ当選
した。副大統領に就任直後、リンカンが暗殺されたために昇格して大統領にな
った。ジョンソンは穏健な南部再建政策を実施しようとしていた。しかし、共
和党の過激派は厳しい南部再建政策を実施しようとした。ジョンソンと共和党
の過激派は南部再建政策をめぐって対立した。ジョンソンは議会の南部再建政
策に関する法案に拒否権を行使するが覆された。そこでジョンソンは自らの政
策に支持を集めるために直接に国民に訴えかけようとした。そして、国民連合
運動を展開するが、中間選挙で共和党の過激派が勝利した。ジョンソンは共和
党の過激派を攻撃するが、逆に議会によって弾劾された。僅か 1 票差でジョン
ソンは罷免を免れた。もしジョンソンが罷免されていれば大統領制度は回復で
きない傷を受けただろう。退任後、ジョンソンは連邦上院議員に選ばれたが任
期の半ばで亡くなった。
第 2 項 南部再建をめぐる対立
1864 年の大統領選挙でリンカンとともに副大統領に選ばれたアンドリュー・
ジョンソンは大統領職を継承するにあたって困難に直面した。ジョンソンが大
統領職を継承したのは 1865 年 4 月 15 日であった。その日の朝、前日にフォー
ド劇場でブースに銃で撃たれたリンカンが亡くなったのである。南北戦争は連
邦の永続性を打ち立て、奴隷を解放したが、1865 年春の戦闘行為の終焉は南部
の再建という大きな問題をもたらした。どのようにして南部連合の諸州は連邦
に復帰するのか。解放された奴隷の地位をどうするのか。
リンカンと共和党議員の大多数は、南部再建の主要な目的は奴隷制度を破壊
し、旧南部連合の指導者に政治権力を与えないことにあるということで合意し
南北戦争前後
453
ていた。しかし、奴隷制度が染み付いた南部に自由を植え付けるために、どの
程度厳しい再建策を取るべきかについては合意が成立していなかった。リンカ
ンは、南部連合の諸州が復帰する際にあまり条件を付けずにできるだけ早く連
邦を元に戻したいと考えていた。しかし、チャールズ・サムナー(Charles
Sumner)上院議員を中心とした共和党過激派は、旧南部連合の高官を反逆罪で
厳しく処罰し、南部の諸州が完全に再建され忠誠が確認されるまで完全な権利
を認めるべきではなく、黒人には完全な市民権を与えるべきだと主張した。
戦争が終結しても民主党内での再建をめぐる衝突は未解決のままであった。
1863 年にリンカンは合衆国軍に占領されたアーカンソー州、ルイジアナ州、そ
してテネシー州を連邦に復帰させる10 パーセント計画と呼ばれる寛大な計画を
公表した。それは、もしその地域で忠誠を誓約する票が 10 パーセント得られれ
ば、州政府を樹立し、連邦議員を選出することを認めるという計画であった。
議会では脱退した諸州の法的地位について議論されていた。そもそも脱退が違
憲であれば、脱退した諸州は反乱が鎮圧された後、猶、連邦の州としての地位
を持つのか、それとも脱退が合憲であれば脱退した諸州は被占領国の地位を持
つのかという問題である。リンカンはそうした問題を抽象論として斥け、正常
な関係を取り戻すことが先決だと主張した。共和党に支配された議会は再建を
行政府ではなく立法府の仕事とし、リンカンが提示した条件を寛大過ぎるとし
て拒否し、南部の 3 つの州から新たに選ばれた議員に議席を与えることを拒否
した。
議会の南部再建案はウェイド=デーヴィス法案として結実した。同法案は、
旧南部連合の高官から公職就任権を剥奪し、忠誠を誓約する票の割合を 50 パー
セントとし、奴隷制度の廃止を連邦への復帰の条件とするというものであった。
1864 年 7 月、リンカンは同法案に対して握りつぶし拒否権を行使し、南部再建
は行政府の仕事であると表明した。リンカンは公職就任権の剥奪は過酷であり、
各州は自発的に奴隷制度を廃止しなければならないと考えていた。リンカンの
表明に対して共和党議員はウェイド=デーヴィス声明書を発表した。ウェイド
=デーヴィス声明書は、リンカンの再建案を攻撃し、議会の権威を擁護するも
のであった。それはホイッグ党のジャクソンに対する攻撃を彷彿とさせた。1864
年 11 月のリンカンの圧勝により共和党過激派は鳴りを潜めたように見えたが、
リンカンが暗殺されると再び力を増した。
当初、共和党過激派はジョンソンを信頼していた。リンカンは 1862 年にジョ
454
アメリカ大統領制度史上巻
ンソンをテネシー州軍政長官に任命した。ジョンソンは 1864 年に副大統領候補
に選ばれるまでその職に留まった。その時、ジョンソンは上院議員で過激派が
支配する戦争指導合同委員会の委員であった。同委員会はリンカンが議会の正
当な権限を侵害していると度々非難していた。リンカンが亡くなってから僅か
数時間後、同委員会の長でありウェイド=デーヴィス法案の共同起草者である
ベンジャミン・ウェイド(Benjamin Wade)上院議員はジョンソンを訪問して、
「ジョンソン、我々は君を信頼している。幸いにも今、政府を運営するうえで
障害はなくなるだろう」と言った322。
共和党過激派の信頼は短期間で潰えた。ジョンソンはリンカンの閣僚を留任
させ、リンカンの影響を排除すべきだという過激派の助言を無視した。さらに
ジョンソンは、1865 年の春から夏の間に議会に諮ることなく、リンカンの南部
再建策を大統領声明によって実行に移した。ジョンソンは制限された連邦政府
を信奉し、南部の州政府をできる限り迅速に復活させたいと考えていた。リン
カンの 10 パーセント計画にジョンソンは手を加え、旧南部連合の各州に奴隷制
度の廃止を含む憲法修正第 13 条の批准、旧南部連合の負債の履行の拒否、連邦
脱退の法令の破棄を求めた。そうした条件を各州が満たせば、ジョンソンが一
時的な戦争権限で連邦への復帰を認めることになっていた。ジョンソンはリン
カンの再建政策を支持し、任命がまだなされていなかった州のすべてに民間人
の中から暫定知事を任命した。旧南部連合の高官、旧南部連合を支持した有産
階級は投票権を与えられなかったが、連邦に忠誠を宣誓すれば大統領によって
赦免が与えられた。そうやって赦免を得た者の数は 1 万 4,000 人にのぼった。
ジョンソンは反乱の終結を宣言した。ジョンソンは戦後の施策を調整するため
に議会を招集することもできたが、そうする代わりに再建策への議会の関与を
妨げた。共和党議員は激怒したが対応策をとることはできなかった。議会は 12
月まで招集されず、ジョンソンは特別会期を設けることを拒んだからである。
ジョンソンの大胆で単独的な行動は、リンカンが南北戦争初期に議会が休会
中の間に主要な政策を決定し、既成事実を議会に認めさせた手法に明らかに影
響されている323。しかし、ジョンソンはリンカンのような政治的技量を持たず、
緊急時という条件を欠いていた。1865 年 12 月に議会が招集されると、共和党
議員は早速、南部再建の主導権を掌握しようと動き出した。議会の再建案の本
質は、黒人の平等が州の法令に組み込まれるまで南部諸州の復帰を認めないと
いうものであった。憲法修正第 14 条と第 15 条によって黒人の公民権と投票権
南北戦争前後
455
は保障され、旧南部連合の高官は公民権を剥奪され、南部諸州は旧南部連合が
発行した戦債を支払うことを禁止された。南部選出議員は、それぞれの出身州
が憲法修正第 14 条を批准することを条件として議席を与えられる。特に憲法修
正第 14 条は、連邦は州の内政に干渉できないという建前を覆した点で画期的で
あった。
ジョンソンと議会の対立は、ジョンソンを大半の共和党員から際立たせる原
理によって悪化した。黒人の法の前の平等を確保するために連邦政府の権限を
強化しようとしたリンカンと比べて、ジョンソンは州権を擁護する立場から議
会の再建法案に挑戦した。確かにジョンソンは連邦の強力な擁護者であった。
1860 年から 1861 年にかけて南部の諸州が連邦を脱退していく中でジョンソン
は反乱に参加しなかった唯一の南部の上院議員であった。しかし、ジョンソン
はその背景といい、信念といい州権を尊重するジャクソン主義的な民主党員で
もあった。ジョンソンは 1864 年の大統領選挙でリンカンと出馬するために民主
党から離れざるを得なかったが、共和党の中で満足していたわけではなかった
324。
ジョンソンの州権を尊重する姿勢は過激派だけではなくすべての共和党員と
の不和の種となった。議会が再建法案を打ち出し始めた時に、穏健派の議員は
大統領の政策と妥協点を探ろうとジョンソンに接近した。しかし、ジョンソン
はそうした試みを拒絶した。1866 年 2 月、ジョンソンは、解放黒人局を存続さ
せるために穏健派のライマン・トランボール(Lyman Trumball)上院議員が提出
した法案に拒否権を行使した。1865 年 3 月に創設された解放黒人局は戦争によ
って住居を失った解放奴隷に食料、衣服、そして医療を提供し、彼らが自由な
地位に移行する手助けをしていた。黒人に対して旧主のもとに戻って給料を得
て働くように促し、黒人だけではなく白人の避難民を故郷に帰還させ、雇用者
と被雇用者の間の紛争を仲裁する裁判所を設けた。さらに黒人にとって初めて
の初等教育の学校が創設された。拒否教書の中でジョンソンは、戦時中に南部
の黒人の福祉を増進するために設立された解放黒人局を平和時にも維持するこ
とは違憲であると主張した。トランボール法案に拒否権を行使することでジョ
ンソンは議会の中で過激派ではなくすべての共和党議員に挑戦する結果となっ
た。
ジョンソンと共和党の絆は、それから約 1 ヶ月後に、トランボール法案と同
じく共和党議員から圧倒的な支持を受けていた公民権法案に対してジョンソン
456
アメリカ大統領制度史上巻
が拒否権を行使したことによって修復不可能となった。同法案は、黒人を市民
とし、契約を履行し、法廷で告発し証人となり、土地やその他の資産を所有し、
法の下での平等を享受する権利を認めるものであった。
もしジョンソンが公民権法案を支持していれば、南部の黒人を保護しようと
する北部の強い願いを満足させることができただろう。共和党過激派は、黒人
に投票権を認める条件を課さずに南部の諸州に連邦への復帰を許せば、南部で
白人による黒人の支配を永続させることになると考えていた。事実、南部諸州
は解放黒人局の施策を外部からの不当な干渉として排除しようとした。また南
部諸州の州政府は白人の暴力にさらされる黒人を保護しようとしなかった。過
激派に対して穏健派は、黒人の市民権を完全に実現する政策が採用されるまで
黒人に投票権を与えなくてもよいと考えていた。公民権法案に対してジョンソ
ンが拒否権を行使したことによって、共和党と世論は一致してジョンソンに背
を向けた。
1866 年 4 月 6 日、
上院は 33 票対 15 票でジョンソンの拒否権を覆し、
公民権法案を再可決した。
3 日後、
下院も 122 票対 41 票で同法案を再可決した。
ジョンソンの拒否権を覆して公民権法案が再可決されたことは憲法の発展にお
ける画期的な出来事であった。なぜなら重大な問題をめぐって初めて議会が大
統領の拒否権を覆し、再可決に成功したからである。また公民権法案の再可決
は政治的にも重要な出来事であった。大統領ではなく議会が今や南部再建の舵
取りを担っていることが明らかになったからである。ジョンソンは拒否権を 21
回行使したが、議会が拒否権を覆すのに成功したのは 15 回にのぼる。これ程、
高い頻度で拒否権を覆された大統領はジョンソンの他にはいない。議会との対
立がいかに深刻であったかを示している。
連邦の擁護者として、南部に根付いた貴族的な制度の敵としてジョンソンは
奴隷制度の廃止を支持した。1865 年 10 月、黒人の兵士達の前でジョンソンは、
「我が国は平等の原理に基づいている」と語っている325。しかし、議会が主導
する再建策に反対するジョンソンの姿勢は、イデオロギーだけではなく、黒人
が劣った人種であるという信念に根差していた。ジョンソンはしばしば露骨な
白人優越主義を示した。ジョンソンの個人秘書は 1868 年にジョンソンは、黒人
に対して病的な嘆きと感情をしばしば示したと記録している326。
しかしながら、イデオロギーと政治は、ジョンソンが南部再建政策を形成す
るにおいて人種的偏見よりも重要な役割を果たした。ジョンソンは、自身の人
種関係に関する見解は当時の白人の大多数と一致していると確信していた。公
南北戦争前後
457
民権を南部に押し付けることは違憲であるだけでなく、南部人に加えて北部人
の大部分を離反させ、ニュー・イングランドの 5 つの州だけが黒人に投票権を
認めるだろうとジョンソンは信じていた。人種的平等の問題を州に委ねること
は、黒人と過激派を除くすべての人々を満足させるはずだとジョンソンは考え
ていた327。
ジョンソンは政治的影響力を獲得しようと罷免権を行使した。政敵を処罰し、
友人に報いるために罷免権は行使された。リンカンも罷免権を積極的に行使し
たが、その対象は主に民主党員であった。それに対してジョンソンが対象にし
たのはリンカンによって任命された共和党員であった。自らの政策を議会が受
け入れないことを確信したジョンソンは多くの罷免を行った。1865 年 12 月か
ら 1866 年 6 月までの期間で罷免された郵便局長は僅かに 50 人であった。しか
し、引き続く 5 ヶ月間で罷免された郵便局長は実に 1,700 人にのぼった328。
1866 年の中間選挙は、ジョンソンと議会のどちらが南部再建を担うべきかと
いう問題に関する国民投票だったと言える。ジョンソンは選挙運動の中で積極
的な役割を果たした。ジョンソンは北部を巡る遊説旅行で敵対する議員を罵詈
雑言で攻撃し、大統領の再建策を支持する国民連合運動を擁護した。国民連合
は、民主党員、保守的な共和党員、そして同調的な南部人の連合であった。ジ
ョンソンは、大統領の南部再建策を支持する国民連合の決議を、議会が管理す
る再建策からアメリカを解放するものであり、独立宣言と奴隷解放宣言に次ぐ
ものだとして賞賛した。ジョンソンは大統領の官職任命権を駆使して敵対者を
処罰し、閣内から国民連合運動を支持しない者を追放し、その代わりに保守的
な共和党員を据えた。議会の南部再建策に同調的な閣僚の中で唯一、職に留ま
ることができたのは陸軍長官のエドウィン・スタントン(Edwin Stanton)のみで
あった。
行政府が中心となる組織を作ろうとしたジョンソンの努力は、共和党過激派
が北部で圧倒的な勝利を収めたことで失敗に終わった。大統領声明によって再
建されていた南部のすべての州が憲法修正14 条の批准を拒否したことや南部の
白人の挑発的な態度に嫌悪感を覚えて北部の有権者はジョンソンの追随者を完
敗させ、共和党過激派に両院の支配を任せた。特にジョンソンにとって痛手で
あったのは、修正に批准することを拒むように南部に促したことであった329。
第 3 項 アラスカ購入
458
アメリカ大統領制度史上巻
1867 年、多くのアメリカ人はロシア領アメリカと呼ばれる地域を購入する条
約が提案された時、大いに驚いた。アラスカ購入に関する交渉は 1854 年と 1860
年にも行われていた。交渉は 1867 年 3 月にスーアード国務長官によって再開さ
れた。合意は迅速に達成され、アメリカはロシア領アメリカを 720 万ドルで購
入した。調印して数時間後にジョンソンは条約を上院に送付した。条約の批准
は困難に思われた。4 月 9 日、ジョンソンはアラスカ購入に関する演説を 3 時間
にわたって行った。その後、上院は 37 票対 2 票で条約を批准した。しかし、新
聞は条約を激しく非難した。新聞はアラスカが広大な氷に覆われた不毛の地だ
と信じて「ジョンソンの北極熊園」
、
「スーアードの冷蔵庫」
、
「スーアードの馬
鹿げた事業」などと呼んだ。
第 4 項 大統領権限の剥奪
有権者の支持によって勢いを得た共和党急進派は、連邦議会が最終的な決定
権を握るために、下院に対して責任を負うイギリスの内閣制度に倣って、大統
領の地位を連邦議会に責任を負う単なる閣僚の議長に貶めようと目論んだ。ま
ず議会は 1867 年にジョンソンから南部再建を管理する権限だけではなく省庁
の業務を管理する権限を剥奪する法案を通過させた。軍政再建法によって、南
部にはジョンソンが認めていた民間人による州政府の代わりに、大統領の命令
から完全に独立した軍司令官が管理する軍管区が設けられた。軍司令官の任務
は、人身と財産の保護と成人男子普通選挙の原則に基づく新しい有権者を確定
し、次いで新たな州憲法を制定する憲法制定会議の代表を選ぶ普通選挙の監視
を行うことであった。また軍司令官には、不正や暴力によって当選した公職者
を更迭する権限と連邦に忠誠を誓う宣誓を行っていない州議会議員を議会から
追放する権限が与えられた。平和時に数百万の市民が軍政下に置かれ、政治的
権利を奪われ、その当時は政治過程に関与するには不適任だと思われた黒人に
選挙権が与えられた330。さらに議会は陸軍歳出予算法案の付帯条項で、大統領
と陸軍長官はグラント将軍を通して命令を伝えなければならないと定め、グラ
ント将軍を上院の同意なしに解任、停職、または更迭することを禁じた。この
最高司令官としての大統領の権威への挑戦は、ジョンソンを南部再建計画から
締め出そうとしていた共和党議員と共謀するスタントン陸軍長官によって仕組
南北戦争前後
459
まれた。
ジョンソンは軍政再建法案に対して拒否権を行使し、同法案は南部に専制を
生み出すものであると非難した。さらにジョンソンは陸軍歳出予算法案の付帯
条項について最高司令官としての大統領の権威を傷付けるものだと非難した。
ジョンソンの抗議を無視した議会は拒否権を覆して法案を再可決した。さらに
ジョンソンが南部再建計画で主導権を取り戻すのを防ぐために、議会は会期を
恒久的に続けるように手配した。この行動は大統領が議会の法案に対して握り
つぶし拒否権を行使する権限と特別会期を招集する権限を無効にした331。
次に議会は行政府の省庁人事に関する権限を大統領から剥奪した。1867 年 3
月、議会はジョンソンの拒否権を覆し、1867 年公職在任法案を再可決した。同
法は、大統領が上院の同意なしに公職者を罷免することを禁じている。また同
法は上院の承認によって任命された公職者は、後任が同様の方法で任命される
までその職に留まると規定している。大統領は公職者を議会の休会中に停職さ
せることができるが、議会が招集されればすぐにその理由を提出しなければな
らない。もし上院が大統領の決定を認めなければその公職者は在職し続けるこ
とができる332。これにより 1789 年に確定して以来、ほぼ 80 年間にわたって
守られてきた大統領の行政官に対する罷免権が侵害されることになった。議会
とジョンソンの戦いは、前例や憲法上の規定が、行政府の権限に対する共和党
過激派の攻撃を抑制できないところにまで達した。1867 年公職在任法は 1887
年に廃止されるまで 20 年間も効力を発揮した。
1867 年の春までにジョンソンは多くの政治的権限を剥奪された。議会が通そ
うとする法案を阻止しようにもどうすることもできなかった。ジョンソンがで
きることは世論に直接訴えかけることだけであった。ジェファソンと特にジャ
クソンは大統領と人民の間に緊密な関係を作り上げたが、それは党組織を通じ
てであった。同様にリンカンは戦争と南部再建策に対する支持を動員するため
に党組織に依存した。しかし、共和党との絆が絶たれたジョンソンは、共和党
に代わる政治勢力を作ろうとする試みにも失敗していて、もはや頼るべき党組
織もなかった。ジョンソンができることは、議会の指導者の頭越しに世論に訴
え、弱体化した大統領制度を回復させることであった。
第 5 項 弾劾
460
アメリカ大統領制度史上巻
ジョンソンは自分自身を優れた弁舌家だと思っていた。野次を飛ばされたり
アルコールを飲んでいたりした場合の議会に対するジョンソンの攻撃は非常に
辛辣なものであった。1866 年 2 月 22 日、公民権法案に対するジョンソンの拒
否権を支持するためにホワイト・ハウスに集まった群衆に向けてジョンソンは
演説した。その演説の中でジョンソンは議会の中の過激派が政府のすべての権
限を握り、連邦の復旧を妨げていると主張した。ジョンソンは過激派の代表達
を南部連合の指導者と同じく反逆的であると評した333。
ジョンソンのそうした演説は逆効果となった。ジョンソンの演説の大半は北
部巡行の際に行われた。報道はジョンソンの演説を嘲笑し、政治的風刺の格好
の的にした。北部の大部分の人々は、ジョンソンの演説を読んで怒りを覚えた。
特に議会の中の過激派を反逆的であると評したことは彼らの反感を招いた334。
さらに 19 世紀の間、ジョンソンの演説の目的、つまり、自らの政策に支持を集
めるために世論を喚起することは誤った行為だと考えられていた。民衆を扇動
するようなやり方は大統領職の品位を損なうと考えられていたからである。
ジョンソンの政治的に不適切な演説は、1868 年 3 月 2 日と 3 日に下院が提出
した大統領弾劾の 11 項目の 1 つとなった。大統領弾劾の第 10 条では、大統領
が議会を攻撃するために職責を無視し、不節制で扇動的、かつ中傷的な演説を
行ったことが非難されている。しかし、不適切な演説を行ったことはジョンソ
ンの弾劾の主要な理由ではなかった。多くの議員達は、そうした演説が弾劾さ
れるべき不法行為なのか疑問に思っていた。しかし、19 世紀の慣習として大統
領が直接人民に訴えかけることは誤った行為だと考えられていたので、彼らは
ジョンソンの演説を軽視することもできなかった。さらにジョンソンの演説は
議会の意思を無視しようとするものであり、行政府が権力を簒奪する策謀の一
部であるので弾劾すべきであるとジョンソンの政敵は主張した。
1868 年 5 月に行われたジョンソンのスタントン陸軍長官の罷免は弾劾の過程
の中で主要な問題であった。常に政敵と共謀していたスタントンを罷免する際
にジョンソンは公職在任法を無視して上院の同意を求めなかった。ジョンソン
の意図はその合憲性を問うために同法を裁判所の判定に委ねることであった。
1867 年、議会の休会中にジョンソンはスタントンを停職させ、グラントを陸軍
長官代理に指名した。12 月に招集された上院にジョンソンは教書を送付し、ス
タントンを停職させた理由と 1867 年公職在任法が違憲である旨を訴えた。ジョ
ンソンによれば、閣僚の意見と大統領の意見が異なる場合、それを解決する手
南北戦争前後
461
段は免職である。35 票対 6 票で上院はスタントンの罷免に同意を与えることを
拒んだ。したがって、スタントンはそのまま陸軍長官に在任し続けることにな
った。しかし、ジョンソンは、上院の決定に従うことを拒み、公職在任法は行
政権を侵害しているので違憲であると主張した。結局、6 週間後、ジョンソンは
スタントンを罷免した。スタントンの罷免は、1867 年公職在任法に反した行為
であり、弾劾の主要な理由となった335。スタントンは、ジョンソンの弾劾の結
果が判明するまで、陸軍省に居座り続け、護衛を配置し、書類が差し押さえら
れないようにした。
1868 年 2 月 24 日、下院は 126 票対 47 票でジョンソンを重大な犯罪と非行
によって弾劾することを決定した。そのことは、憲法上の問題は司法府ではな
く上院で決定されるべきだということを意味した。ジョンソンの政敵は、ジョ
ンソンが法律に違反しただけではなく、立法府の意思を行政府の権限に服従さ
せようとしたという理由で罷免されるべきだと考えていた。しかし、ジョンソ
ンを弾劾する本当の目的は共和党過激派の上院仮議長のウェイドを大統領に据
えることであった。
ジョンソンの弾劾の審判は 6 週間にわたって行われ、ジョンソンの大統領と
しての地位を脅かしただけではなく、行政府の独立をも脅かした。上院での審
判は、ジョンソンが重大な犯罪と非行に手を染めたかどうか審判する場という
よりも、共和党過激派がジョンソンを追放しようと議論する会議の様相を呈し
た。3 月 16 日、その他諸々の非難を総括する第 11 条が表決にかけられた。結
果は35 票対 19 票であった。
僅か 1 票差で大統領を罷免するには至らなかった。
10 日後、同様に他の 2 項目についてもジョンソンは罷免を免れた。残りの項目
は票決にかけられなかった。
ジョンソンが罷免を免れたのは 7 人の共和党議員のお蔭である。穏健派の共
和党議員はジョンソンに協調したわけではなかったが、大統領を罷免すること
で憲法制定者が意図する抑制と均衡が破られるのではないかと恐れた。彼らは
ジョンソンの代わりに過激派である上院仮議長のウェイドを大統領に据えるの
を好ましく思わなかった。当時の法では、副大統領がいない場合、上院仮議長
が大統領継承の最上位に置かれていた。彼らは党と世論の圧力にも負けず、民
主党と協力してジョンソンの弾劾に反対票を投じた。
第 6 項 結語
462
アメリカ大統領制度史上巻
もしジョンソンの罷免が確定していれば、最高裁は議会に屈し、共和党過激
派は南部だけではなく連邦憲法に対しても完全な勝利を収めただろう。そして、
さらに重要なことに大統領制度はその権限と権威に回復できない痛手を被った
だろう336。
南北戦争前後
463
464
アメリカ大統領制度史上巻
第 5 章 金ぴか時代
第 1 節 グラント政権
第 1 項 概要
1822 年 4 月 27 日、ユリシーズ・グラント(Ulysses Simpson Grant)はオハイ
オ州ポイント・プレザントで生まれた。6 人の子供の長子であった。父は皮革業
に携わり、オハイオ州、ケンタッキー州、イリノイ州、ウィスコンシン準州に
工場や店舗を持っていた。グラントは父の骨折りでウェスト・ポイントの陸軍
士官学校に入った。陸軍士官学校を卒業後、米墨戦争に従軍した。米墨戦争終
結後、カリフォルニアへの異動を命じられるが、2 年後に退役した。ミズーリ州
で農業や不動産業に手を出したがうまくいかなかった。その後、弟の誘いで皮
革店の事務員として働いた。南北戦争が勃発するとグラントは軍歴をかわれて
イリノイ義勇軍の大佐に任じられた。ヴィックスバーグ包囲戦をはじめとして
数々の戦いを勝利に導き、遂にはピーターズバーグの戦いで南軍のリーをアポ
マトックスでの降伏に追い込んだ。南北戦争での戦績により国民的な知名度を
得たグラントは 1868 年の大統領選挙で当選した。アンドリュー・ジョンソン政
権下で議会は行政府の公職者に対する大統領の罷免権を制限する公職在任法を
通過させていた。グラントは公職在任法の撤廃を望んだが、議会は僅かな修正
を施しただけであった。結局、公職在任法の是非をめぐるグラントと議会の争
いは議会が勝利を収めた。しかし、グラントは大統領の権限の中で拒否権の行
使を有効に復活させた。93 回も拒否権を行使したが、覆されたのは僅か 4 回の
みであった。グラント政権は数多くのスキャンダルに見舞われた。中でもウィ
スキー汚職事件ではグラントの個人秘書の関与が疑われた。グラントが有利な
証言を行ったために個人秘書は無罪となった。数多くのスキャンダルにも拘わ
らず、グラントは公職制度の改革に乗り出した。公職委員会を設置し、各省庁
を監視下においた。しかし、議会は公職制度の改革に抵抗し、公職委員会の予
算を認めなかった。そのためグラントは公職制度改革を断念した。また 1873 年
恐慌で経済は停滞した。その一方で南部諸州は順次、連邦に復帰し、グラント
政権終了後まもなく、連邦軍の撤退で以って南部再建が完了した。
第 2 項 金ぴか時代の楽観主義
金ぴか時代
465
金ぴか時代は、
狭義では南北戦争が終結した 1865 年から 1873 年までを指す。
広義では同じく 1865 年から 1890 年頃までの時代を指す。この名は、マーク・
トウェイン(Mark Twain)が当時の成金趣味を風刺して書いた小説の題名からと
られた。金ぴか時代は、自分の為になることならどんなことでもしてよいとい
う個人主義が幅を利かせた時代であり、一般市民にとって誰もが大金持ちにな
れるというアメリカの神話が現実のものとなる時代であった。
近代工業を基盤にした資本主義が急速に発達を遂げ、多くの大実業家達が登
場した。大実業家達はこれまでにない巨大企業を生み出し、アメリカ社会に大
きな影響を及ぼすようになった。アメリカは、これまでの地域共同体が散在す
る社会から、大きな 1 つの国民社会に変貌しつつあった。
金ぴか時代は、アメリカン・ドリームが現実となる時代であったが、一方で
暗い側面も持っていた。当時は労働者を保護するのに十分な労働法も、巨大企
業の不当な独占を有効に防止する独占禁止法もまだなかった。そのために貧富
の差が著しく拡大した。また労働者と資本家との衝突も激しくなった。現代で
は労働者と資本家の間に国家が立って調停を行うが、当時は、国家は最大限の
自由を保障すべきで実業に介入すべきではないと考えられていた。こうした暗
い側面がありながらも、昔よりも今が、そして未来がより良いものとなるとい
う楽観主義がこの時代を支配していた。そうした楽観主義はグラントの第 1 次
一般教書に如実に現れている。
「最初にこの偉大な国の行政首長としてあなた方の前に私が姿を現した際に、
我々が享受する多くの利益をもたらしてくれた神に感謝の念を捧げる。我々は
国内では平和に恵まれ、国外でも困難を予感させるような同盟に絡んでいない。
5 億もの人々を十分に養うことができ、数世代間、世界に供給しても十分な量の
ありとあらゆる有用な鉱物に溢れ、比類なく肥沃な領土に恵まれている。有り
余る程の穀物に恵まれている。あらゆる種の大地の富を産出するのに適し、あ
らゆる生き物の習性、嗜好そして要件に適する多様な気候に恵まれている。す
べての人が 1 つの言語を話す 4,000 万人の自由民に恵まれている。あらゆる人
が教育を受ける施設に恵まれている。名声か、もしくはいかなる財産の恩恵を
得る手段が誰にも閉ざされてはいない制度に恵まれている。説教の自由、言論
の自由、学派の自由に恵まれている。政府が必要とする分を超えて国庫に流れ
込む歳入に恵まれている。幸いにも国内の調和は急速に回復している。これま
で国内で知られていなかった工業製品がすべての分野で続々と出現し、他のど
466
アメリカ大統領制度史上巻
のような大国の地位とも比べることができない程の国家の独立した地位を生ん
でいる」337
第 3 項 議会の優越
ジョンソンが罷免を免れても大統領職の権威は回復しなかった。ジョンソン
の残りの任期は行政府と立法府の間で比較的静穏な停滞状態にあった。さらに
1868 年の大統領選挙でグラントが当選しても大統領の権威は回復しなかった。
もしアメリカ人が大統領の議会への従属を不安に思ってグラントを大統領に選
んだとしたら、それは誤りであった。軍歴からするとグラントは優秀な行政能
力を持っているように思われたが、その能力をうまく戦場からホワイト・ハウ
スに転移させることはできなかった。文官としての経験不足からグラントは行
政府の長として責任を果たすのに必要な政治過程の知識を持っていなかったし、
他の指導者を自らの目的に向けさせるのに必要な政治的能力も持っていなかっ
た。
文民の指導者としてのグラントの欠点はすぐに示された。グラントは当選後
に 1867 年公職在任法の撤廃を望むことを明らかにし、同法が撤廃されるまで閣
僚人事以外は行わないと公表した。上院は共和党の過激派の支配の下、実質的
に行政府の役人を罷免する際の上院の役割を残したままの妥協的な修正のみを
認めた。大統領に有利になった点は、停職させた公職者について大統領はその
理由を上院に報告する必要はなくなった。また従来は、罷免は不法行為、犯罪
行為、そして不能力、無資格の場合に限られていたが、大統領の自由裁量で停
職させることができるようになった338。大統領としてグラントは公職在任法の
撤廃を望むことを明らかにした時、自らの人気と名声によって勝利できると考
えていた。それどころかグラントは自らの決定を実現できず、結果的に上院に
降伏することになった。
グラントの戦略的誤りはグラント政権に付いて回った。グラントは上院の共
和党の指導者との最初の衝突で失った権威を回復することができなかった339。
公職在任法を撤廃するか否かという問題においてグラントは上院に黙従したが、
それはグラントの大統領職に関する概念に明らかに影響されていた。グラント
は自身を単なる管理職と考えており、大統領としてアメリカ人の意思を反映す
る議会の意向を疑問もなく受け入れるべきだと考えていた340。
金ぴか時代
467
グラントの大統領のリーダーシップに対する理解は、議会の優越を信じる上
院の共和党の指導者の理解と一致していた。リンカンやジョンソンと違って、
共和党議員はグラントを御し易いと見なしていた。その結果、グラント政権に
おいて上院の権威は最高に達した。議会の優越は議会の活動において明らかで
あった。1865 年から 1875 年にかけて、制定された法や決議の数はそれ以前の
10 年間にくらべて約 3 倍に達した。南北戦争後の議会の活動が頂点に達したの
は第 42 議会であり、実に 1,012 にのぼる法や決議が制定された341。
第 4 項 拒否権の復活
議会の支配に直面してグラントは完全に大統領の責任を放棄したわけではな
かった。実際、グラントは 19 世紀の大統領制度の中で最も重要な権限である拒
否権を復活させている。ジョンソンは拒否権を攻撃的に行使したが、その大半
が議会によって覆された。グラントは 93 回も拒否権を行使した。その数はこれ
までの大統領が行使した拒否権の合計よりも多く、しかもそのうち覆されたの
は 4 回のみであった。
最も重要な機会は 1874 年紙幣増刷法案に対する拒否権の行使であった。同法
案は国中の銀行の倒産によって引き起こされた 1873 年恐慌に対応するために
紙幣を増刷し、西部の小規模農場主の債務危機を緩和しようと努めるものであ
った。グラントは地方の窮状に同情的であったが、紙幣を濫発することで政府
の信用を損ない、物価高騰を引き起こし、景気後退が本格的な不況になること
を恐れた。さらにグラントは正貨兌換復帰法の成立を促し、アメリカの金本位
制を確立した342。
第 5 項 サント・ドミンゴ問題
その他の国内政策にグラントはほとんど興味を示さなかった。軍人としての
経歴からグラントの関心は国家安全保障の分野に向けられた。合衆国の海外に
おける利権を守るべきだと信じてグラントは中央アメリカに目を向けた。グラ
ントは議会に宛てた教書の中でカリブ海と太平洋を結ぶ運河の建設を訴えた。
グラントは、海軍は大規模な天然の良港をカリブ海に持つべきだと考えた。そ
のためにグラントは、ジョンソン政権によって始められたサント・ドミンゴ購
468
アメリカ大統領制度史上巻
入計画をやり遂げようとした。
サント・ドミンゴはサマラ湾に面するカリブ海の中でも屈指の良港である。
サント・ドミンゴは独立する前、何回かスペインとフランスの支配を交互に受
けてきた。独立後、サント・ドミンゴをスペインの支配下に戻そうとする一派
が蜂起した。グラント政権はサント・ドミンゴの独立を守ろうとした。深刻な
経済的問題を抱えていたサント・ドミンゴは密使を通じて、ハミルトン・フィ
ッシュ(Hamilton Fish)国務長官にサント・ドミンゴを売却する提案を行った。
フィッシュは提案に疑いを抱いたが、グラントは提案に関心を示し、秘書のオ
ーヴィル・バブコック(Orville R. Babcock)を通じて交渉を進めた。グラントの
サント・ドミンゴ購入計画は政権内でほとんど支持されなかった。さらにサン
ト・ドミンゴ購入計画は上院に騒ぎをもたらした。
サムナー上院外交委員会議長はグラントの拡大主義的な政策に反対し、共和
党の理念を傷付けるものだと非難した。多くの元奴隷制度廃止論者は、世界中
で数少ない黒人の独立国家を併合することを非難した。サムナーの道義的義憤
は別の怒りによって助長されていた。国務長官に指名されないことを怒ってい
たサムナーは、アメリカの外交を上院外交委員会を通じて左右しようとした。
サムナーはサント・ドミンゴ併合条約を上院外交委員会で否決した。グラント
は併合条約を上院の本会議にかけるように求めた。本会議でもサント・ドミン
ゴ併合条約は否決された343。表決が行われる前に、バブコックがサント・ドミ
ンゴの大統領に 10 万ドルと武器を供与する約束をしていたことが判明した。そ
うした事実が判明したのにも拘わらず、グラントはバブコックを罷免しなかっ
た。
グラントは上院の否決を軽くは受け取らなかった。グラントは上院の共和党
の指導者を説得してサムナーから外交委員会議長の座を剥奪した。そうした復
讐は上院のサント・ドミンゴに対する外交政策に何の変化ももたらさなかった。
1871 年、上院はサント・ドミンゴ併合条約を再び否決した。
第 6 項 ワシントン条約
しかし、グラント政権はワシントン条約に関して上院の同意を取り付けるこ
とに成功した。同条約は国境問題、漁業権問題、アラバマ号事件などイギリス
との長引いた紛争を解決するものであった。アラバマ号事件は、アラバマ号や
金ぴか時代
469
その他のイギリスの援助で建造・艤装された南部連合の商船襲撃船により合衆
国が被った損害に関わるものであった。イギリスは当初、アラバマ号事件を調
停裁判に持ち込むことを拒否していた。もしアラバマ号事件の解決が行われな
ければ、反英感情が爆発し戦争になる恐れもあった。サムナーは、イギリスが
奴隷制度に反対すると公表しておきながら、南北戦争で南部連合に封鎖破りの
船を売ることで利益を得たと非難した。さらにサムナーは、イギリスは合衆国
が間接的であれ直接的であれ被った損害に対して補償すべきだという強硬な姿
勢を示した。サムナーの主張によれば、イギリスが南部連合に売った船によっ
てアメリカの商船は大きな損害を被っただけではなく、南北戦争そのものも長
期化した。グラントはサムナーと同様の見解を抱いていたが、紛争を早期に解
決しようと試みた。グラントはイギリスの仲裁提案を受け入れた。上院に提出
された紛争を仲裁する条約はすぐに認められた。その結果、イギリスの中立義
務違反が認められ、賠償金は 1,550 万ドルと定められた。これは国際法上の重
要な先例となった。なぜなら国家の威信をかけた問題で世界の 2 つの大国が武
力ではなく、複数の国から構成される国際的な仲裁裁判を経て紛争を解決した
最初の事例だからである344。
第 7 項 ネイティヴ・アメリカン政策
1871 年 3 月、議会はインディアン収用法を定め、ネイティヴ・アメリカンと
連邦政府の間で条約を締結することを終わらせた。行政府の条約締結交渉では
なく議会に認められた法を通じてネイティヴ・アメリカン問題が処理されるよ
うになった。
1840 年代までに西部の開拓者はオレゴン地域に達した。大統領は有権者から
開拓者を保護し、領域拡大を求める圧力を受けた。グラントはネズ・パース族
からの要請に応えて 1873 年に大統領令でワロア渓谷をネズ・パース領地として
認めた。しかし、2 年後、その地域へ開拓者をさらに多く導入することを目的と
する荷馬車道を建設するためにインディアン問題局の圧力を受けてグラントは
その大統領令を撤回した。
第 8 項 人種隔離撤廃の促進
470
アメリカ大統領制度史上巻
グラントは、人種に関係なく合衆国市民に投票権を保障する憲法修正第 15 条
を支持する大統領声明を発した。またグラントは、アフリカ系アメリカ人の投
票権を保護するために連邦軍の使用を認める 1870 年執行法を支持した。さらに
南部の人種に関係する暴力を除外するための 1871 年クー・クラックス・クラン
法をグラントは支持した。グラントは、黒人が投票するのを州が妨害する場合、
武力を使うと仄めかした。サウス・カロライナ州のクー・クラックス・クラン
の活動が盛んな地域で人身保護令状が差し止められ、大量検挙が行われた。1875
年公民権法で、公営住宅と輸送機関における人種隔離が禁止された。しかし、
1883 年、最高裁はそれを違憲と判断した。最高裁の判決は、議会によって可決
された多くの公民権に関する法を無効化した。最高裁は、議会が憲法に反して、
州の権利を超えて人種的隔離から解放された奴隷を保護しようとしていると結
論付けた。
第 9 項 数々のスキャンダル
グラントが率いる共和党員は党組織の活力を維持するために猟官制度を使う
実践的な政治家であった。しかし、そのためにグラント政権は数々のスキャン
ダルに見舞われた。さらにグラントの親族もスキャンダルに関与した。金融業
者のジェイ・グールド(Jay Gould)とジム・フィスク(Jim Fisk)は 1869 年、金相
場を吊り上げようと大量の金を買い占めた。金の購入は金融危機を引き起こし、
株式市場は 1869 年 9 月 24 日に閉じられた。その日は「暗黒の金曜日」として
知られる。グールドとフィスクは金相場を左右する企てにグラントの協力を求
めようとグラントの妹の夫であるアベル・コービン(Abel R. Corbin)に賄賂を贈
った。グラントはグールドとフィスクの申し出を断り、金の価格を下げるため
に政府が保有する金を売却するように命じた。高い価格で金を購入していた投
資家は大きな損失を被った。しかし、グラント政権と金融業者との関係は議会
の調査の対象となった。
1872 年、クレディ・モビリエ社に関するスキャンダルが発覚した。スカイラ
ー・コルファックス(Schuyler Colfax)副大統領をはじめとする政治家が、鉄道
建設の利益を吸い上げるためにユニオン・パシフィック社の発起人によって創
設されたクレディ・モビリエ社の運営に関与した。議会によって、クレディ・
モビリエ社が鉄道建設予算を水増ししていたことが発覚した。さらにクレデ
金ぴか時代
471
ィ・モビリエ社と深く関与するオークス・エームズ(Oakes Ames)は、ユニオン・
パシフィック社に有利になるように、3,300 万ドル相当のクレディ・モビリエ社
の株式を市場よりも安値でコルファックスや多くの議員を含む株主に売却して
いた。
最大のスキャンダルはウィスキー汚職事件である。南北戦争以後、酒類税は
酒類の価格の 8 倍まで引き上げられた。セント・ルイス、ミルウォーキー、シ
カゴなどの大規模な酒造業者は国税庁の役人や共和党の有力者に贈賄して税金
を免れていた。1875 年に事件はベンジャミン・ブリストー(Benjamin Helm
Bristow)財務長官によって暴露された。グラントは「1 人の有罪者も逃すな」と
検事に言明したが、事件の関係者に秘書のバブコックも含まれていた。バブコ
ックはグラントが準備した宣誓証言のお蔭で無罪となった。告発された者の中
にはその他にもグラントの長男や弟も含まれていた。ブリストーの摘発によっ
て、300 万ドル以上の税収が取り戻され、110 人の共謀者が有罪宣告を受けた。
グラントは、汚職を摘発し、犯人を司法の裁きの下に引き出した功績者であ
るブリストーに冷遇を以って報いた。グラントは明らかにブリストーの政治的
野心に苛立ちを深めていた。グラントは、ブリストーが自分の評判を傷付け、
後継者の地位を狙っているのではないかと思うようになった345。最終的に、ブ
リストーは 1876 年に辞任した。その一方でバブコックは灯台の検査官に任命さ
れた346。
このウィスキー汚職事件の他にもグラント政権は数多くのスキャンダルに見
舞われた。1876 年、ウィリアム・ベルクナップ(William W. Belknap)陸軍長官
は貿易業者から収賄した罪で弾劾された。ベルクナップは弾劾を受けた初めて
の閣僚となった。ベルクナップは辞職して弾劾を避けようとしたが上院は審判
を進めることを決定した。審判の結果、有罪判定を下すには票数が足りず、ベ
ルクナップは免職を免れた。
第 10 項 公職制度改革
数々のスキャンダルにも拘わらず、中間選挙で共和党が敗北を喫した後、グ
ラントは 1870 年に公職制度改革を打ち出し、猟官制度では公職にふさわしい最
善の人物が得られないと宣言した。改革派に譲歩するためにグラントは、公職
者の採用に関する規定を作り、公職者の適正を評価する職員を置き、公職者の
472
アメリカ大統領制度史上巻
行動規範に関する規則を定める権限を大統領に与える法を制定するように議会
に求めた。3 月に議会から公職制度改革を行う全面的な権限を与えられたグラン
トは公職委員会を設立し、改革的な規則を考案させた。公職制度改革運動の指
導者であるジョージ・カーティス(George W. Curtis)が公職委員会の議長に選ば
れた。最も腐敗した政権の 1 つであるグラント政権は公職制度改革に初めて本
格的に乗り出した政権となった。
公職委員会が最初の規則を勧告した時、共和党議員は黙認した。公職委員会
は公職の任用に関する規則を制定し、試験委員会を設け、限定的であったが、
ワシントンの官庁やニュー・ヨーク税関、ニュー・ヨーク郵便局に競争試験を導
入した。しかし、1872 年の選挙が終わり、1873 年に財務省で初めて公職採用
試験が行われることになると共和党議員は敵対的になった。
ロスコー・コンクリング(Roscoe Conkling)を中心とする共和党議員の堅固派
は公職委員会を攻撃し始めた。コンクリングは多くの共和党の指導者だけでは
なく官職を求める民主党員にも支持された。堅固派の勃興は南北戦争後の政治
的状況を多分に示している。共和党の過激派と同じく、堅固派は最初、南部再
建を重要課題として挙げていた。しかし、戦争が終わり、次第にその政治的重
要性が薄れ始めると、猟官制度の擁護と党組織の維持が堅固派の重要課題にな
った。堅固派は、党組織の必要性が政治的原理よりも優先されるという新しい
政治的状況の産物であった。共和党内で堅固派が支配力を持つことにより、イ
デオロギーの政治から組織の政治に移り変わった347。
こうした堅固派の抵抗もあって、議会は翌年の公職委員会の予算を承認しな
かった。公職制度改革を支持し、堅固派の支配に反対する共和党員は第三政党
となる自由共和党を 1870 年代初期に形成した。しかし、自由共和党は草の根ま
で勢力を拡大することはできなかった。1872 年の大統領選挙で独自の大統領候
補を擁立した自由共和党はグラントに嫌われ、グラントと協力して公職委員会
を議会の攻撃から守ることができなかった。しかもグラントはもともと改革派
に譲歩するために公職制度改革に乗り出したので、議会の決定にほとんど何も
抵抗しなかった。グラントは公職制度改革にそれ程、熱心ではなかった。1872
年の選挙の後、グラントがニュー・ヨーク税関をはじめとする多くの公職に政
治任命者を就かせると、カーティスは失望して辞任した348。
1875 年に議会が再び公職委員会の予算を承認しなかったので、グラントは公
職委員会の規則を無効とした。最終的に議会が公職委員会の予算を認めないと
金ぴか時代
473
いう形で公職制度改革に抵抗したために、グラントは公職制度改革を断念した。
立法府が政策を決定する機関であるという信念を持っていたグラントは、1874
年の 12 月 7 日の一般教書の中で、議会が公職制度改革法案を通過させないで休
会した場合、公職制度改革を継続しないと公表した。結局、議会は公職制度改
革法案を通過させないまま休会した。1875 年 3 月 9 日、グラントは全国の公職
監査委員会を解散するように命じた349。
第 11 項 結語
明らかにグラントは大部分の研究者が思っているよりも強力な大統領であっ
た。しかし、グラントには国家を導く大きな戦略がなかった。グラントは、南
北戦争期からアメリカが軍事的、商業的大国として勃興する金ぴか時代へ移り
変わる転換期の大統領であった。紙幣増刷法案に反対した姿勢で示されている
ように、グラントはそうした変化を好ましく思っていた。しかし、そうした変
化を導くような具体的政策は何もとらなかった。グラントの主な関心事は共和
党が政権を掌握し続けることであった350。
大統領の権威はグラント政権期を通して凋落した。グラントは無能な人物を
閣僚に任命し、評判の悪いニュー・ヨークの金融資本家と関係を持ち、関税の実
質的な引き下げに失敗し、公職制度改革を効果的に前進させることができなか
った。上院の指導者は行政府を完全に支配していると信じていた351。大統領の
権限が一貫的、かつ効果的に擁護されるには、グラントの後継者であるヘイズ
の登場を待たなければならなかった。
第 2 節 ヘイズ政権
第 1 項 概要
1822 年 10 月 4 日、ラザフォード・ヘイズ(Rutherford Birchard Hayes)はオ
ハイオ州デラウェアで生まれた。5 人の子供の末子である。父はヘイズが生まれ
る前に亡くなった。しかし、遺産が多額にあったのでヘイズは進学することが
できた。ケニヨン・カレッジを総代で卒業した後、ハーヴァード大学ロー・ス
クールで学んだ。弁護士として法律事務所を開いて成功したヘイズはオハイオ
州シンシナティの法務官に選出された。南北戦争が勃発するとオハイオ義勇軍
474
アメリカ大統領制度史上巻
の一隊を指揮し、サウス・マウンテンの戦いで負傷した。戦後、連邦下院議員
に当選、さらにオハイオ州知事になった。1876 年の大統領選挙で共和党大統領
候補指名を獲得するが、民主党候補を相手に苦戦した。結局、両党の取引によ
りヘイズの当選が確定した。ヘイズは大統領選挙での取引に基づいて南部の軍
政を終了させ連邦軍を撤退させた。ヘイズは閣僚人事を上院に諮ることなく決
定した。上院はヘイズが提出した閣僚人事をなかなか認めようとしなかった。
しかし、世論の圧力を受けて上院はヘイズの閣僚人事を認めざるを得なかった。
さらにヘイズは公職制度改革に乗り出した。ヘイズの目標は議会が支配してい
る猟官制度の打破であった。ヘイズは国中の税関を監査する独立委員会を設け
た。中でもニュー・ヨークの税関は公職制度改革の焦点となった。ヘイズはニ
ュー・ヨークの税関の 3 人の上級職員を更迭しようとした。しかし、上院は上
院儀礼に基づいてヘイズの後任人事を認めようとしなかった。ヘイズはそれで
も諦めなかった。ヘイズは議会が休会中に問題の 3 人の上級職員を更迭し、別
の人物に一時的に代えた。さらにヘイズは上院に後任人事を提出した。最終的
に上院はヘイズの指名を認めた。ヘイズはリンカンの暗殺以来、失われていた
大統領の権威を取り戻し、上院による政府の支配を覆した。またヘイズは中国
からの移民を排斥する法案に拒否権を行使して議会と対立した。外交面ではパ
ナマ運河をアメリカの管理下に置く姿勢を示し、ヨーロッパ列強を牽制した。
第 2 項 大統領選挙
結果的にヘイズは南北戦争後の大統領の威信の低下を終わらせたが、ヘイズ
政権の始まりは幸先の良いものではなかった。1876 年の大統領選挙で共和党の
敗北は確実視された。民主党の大統領候補であるニュー・ヨーク州知事のサミ
ュエル・ティルデンが勝利を収めるように思われた。しかし、軍政下の 3 つの
南部の州とオレゴンの選挙人の投票は不確定であった。そうした票がなくても
ティルデンは 184 票の選挙人を獲得していた。その一方でヘイズは不確定の選
挙人をすべて獲得したとしてもようやく 185 票の選挙人しか獲得できないと予
測された。
フロリダ州、ルイジアナ州、オレゴン州、そしてサウス・カロライナ州の 4
州はそれぞれ 2 組の選挙証明書をワシントンに送った。そのどちらが有効か、
また有効か否かを判定する権限を持つのは誰かという問題が生じた。その問題
金ぴか時代
475
を解決するための規定は憲法に存在しない。当時、上院は共和党が多数派を占
め、下院は民主党が多数派を占めていた。上院仮議長がどちらの選挙証明書が
有効か認める権限が与えられれば、ヘイズの当選は確実となるだろう。その一
方で、両院合同会議にその決定が委ねられれば、ティルデンの当選が確実とな
るだろう352。
1876 年の大統領選挙をめぐる議論の最中、ティルデンは完全に冷静さを保っ
ていた。危機の 1 ヶ月間をティルデンは過去の選挙人投票の歴史をまとめて過
ごした。最終的に問題が解決した時、ティルデンは、人民によって自身が大統
領に選ばれたことを後代の人々が認めてくれるのを期待すると述べただけであ
った353。
事態に対応するために議会は、
5 人の民主党議員と 5 人の共和党議員に 5 人の
最高裁判事を加えた 15 人からなる選挙委員会を設立した。その結果、共和党の
指導者と南部の民主党の指導者の間で妥協が成立した。いわゆる 1877 年の妥協
である。南部の民主党がヘイズの当選を黙認し、憲法修正第 13 条、第 14 条、
第 15 条を遵守し、南部の共和党に報復を行わない代わりに、共和党が南部の軍
政を終わらせることを約束した。また密約としてヘイズは、連邦政府がミシシ
ッピ川の堤防工事や南部を通る大陸横断鉄道建設に助成金を出し、郵政長官に
南部の白人を任命することを約束した。結局、密約の中で実現したのは郵政長
官に旧南部連合の人物を任命したことだけである。それに対して南部の民主党
は、結局、守られることはなかったが新しい連邦議会下院議長に共和党のガー
フィールドを選出することに同意した。1877 年 3 月 2 日、選挙委員会はヘイズ
をティルデンと 1 票差で勝者と宣言した。
第 3 項 南部再建の終了
妥協に従ってヘイズはサウス・カロライナ州とルイジアナ州の州議会議事堂
を警備していた連邦軍に兵舎に戻るように命じた。それは南部再建が実質的に
終わりを告げた象徴的な出来事であった。しかし、そのために元奴隷を含むす
べての市民に公民権を保障する憲法修正第14 条を守らせる試みは放棄されるこ
とになった。さらに連邦政府は人種に関係なく投票権を認める憲法修正第 15 条
を支持する試みを放棄した。共和党の勢力は南部から一掃され、民主党が支配
する「堅固な南部」が形成された。
476
アメリカ大統領制度史上巻
共和党が南部再建を終わらせることに同意したのは、南部再建計画による混
乱に幻滅していたからである。1875 年に州の選挙が行われた際に共和党のミシ
シッピ州知事は、白人の暴徒から黒人の投票者を守るために連邦軍の派遣を求
めた。しかし、司法長官は、
「人民は、南部でこうしたことが毎年起こるのにう
んざりしていて、大多数の人々は連邦政府の介入を今、批判しようとしている。
ミシシッピ州の軍隊で治安を維持し、大部分が共和党員であるミシシッピ市民
が彼らの権利のために戦い、無実で害のない自由民を殺害した血に濡れた暴徒
を打ち破るのを国中に知らせよ」と宣言して州知事の要請を拒んだ354。いわゆ
る 1875 年の革命でミシシッピ州の白人は黒人を投票所から追い払い、州政府を
掌握した。したがって南部再建計画は 1877 年の妥協が成立する前から既に綻び
を見せていた。南部から連邦軍を撤退させたヘイズの措置は、共和党過激派に
よる南部再建計画の崩壊を加速させただけであった355。
第 4 項 公職制度改革
1877 年の妥協のような芳しくない取引が、上院の行政府に対する支配を打ち
破り、公職制度改革を行う大統領を生み出したことは皮肉である。ヘイズは改
革を志向するオハイオ州知事であった。共和党の大統領候補指名を受諾する手
紙の中で、公職制度改革を支持することを表明した。大統領の任命権は不適切
に議会の手に握られているとヘイズは考えていた。さらに就任演説の中でヘイ
ズは公職制度改革を徹底的に行うことを宣言した。
しかし、議会は公職制度改革に無関心であった。グラントの 2 期目の終わり
までに、連邦議員の公職任命への影響力は大きくなっていた。ヘイズは上院に
諮ることなく閣内人事を決定したことで上院の共和党指導者の感情を害した。
特に旧南部連合に属していた人物を郵政長官に任命したことは彼らの怒りをか
った。さらに公職制度改革論者のカール・シュルツ(Carl Schurz)を内務長官に
任命したことは彼らを不安がらせた。彼らはシュルツが猟官制度を攻撃するの
ではないかと恐れた。事実、シュルツは内務省に成績競争主義に基づく任用制
度を積極的に導入した。
たとえヘイズが優秀な人物を指名したとしても、上院はそうした指名を上院
に対する挑戦と見なした。ヘイズが上院の同意を得るために閣内人事を提出し
た際に、それは長期の査定を行うために諸委員会に送付された。承認の遅延が
金ぴか時代
477
大統領の意思を挫くことを期待して、上院はジョン・シャーマン(John
Sherman)上院議員の国務長官への指名も査定から除外しなかった。それは、シ
ャーマンのような十分に資格のある同僚議員の指名は査定なしで認めるという
慣例に反していた。上院が閣僚人事全体の認定を遅らせることは異例であった
ので、国中に怒りの嵐を巻き起こした。ホワイト・ハウスは大統領を勇気付け
る電報や手紙で埋まった。上院はすぐに世論に屈し、ほぼ全会一致で閣僚人事
全体を認定した。南北戦争以来、初めて上院は大統領との間の問題において譲
歩した。これは上院がその絶頂期を過ぎたことを示す出来事であった356。
けれどもヘイズと議会の戦いはまだ続いた。閣内人事を思い通りにすること
に成功したヘイズは次に猟官制度に目を向けた。1877 年 4 月 22 日の日記にヘ
イズは「今度は公職制度改革だ」と記している357。まず手始めにヘイズはニュ
ー・ヨーク、サン・フランシスコ、ニュー・オーリンズなどの税関を監査する
数多くの独立委員会を設置した。そうした連邦の出先機関は地元の党組織に支
配されていて、連邦の歳入を徴収する際に常軌を逸した慣習を作り上げていた。
監査は国中の多くの地域で改革をもたらしたが、最も税収高が多いニュー・ヨ
ークの税関は地元の党組織に支配されたままであった。ニュー・ヨークの税関
を監査した独立委員会は、職員が政治的圧力によって選ばれていること、給料
を党組織に差し出すことで査定される制度があること、そして税関で停滞と汚
職が広がっていることを報告した。
ニュー・ヨークの税関に関する報告を受けたヘイズは、3 人の上級職員を更迭
しようとした。その 3 人はニュー・ヨーク州の共和党の有力な党員であり、後
に大統領となるアーサーも含まれていた。しかし、大統領の決断は慣習と法に
よって阻止された。1 つの障害は建国初期以来、行われてきた上院儀礼の慣習で
ある。ニュー・ヨーク州選出上院議員であるコンクリングはニュー・ヨークの
税関を政治力の重要な基盤としており、上院儀礼を以ってヘイズが更迭した 3
人の上級職員の代わりに指名した人物の認定を拒んだ。
大統領の指名は上院通商委員会に送付された。議会は指名を承認することな
く会期を終えた。公職在任法の改正された条項の下、上院は大統領の罷免を承
認する権限を失っていたが、上院が大統領の指名した後任者を承認するまで前
任者は在職し続けることになっていた。結局、ヘイズの指名は承認されず、ヘ
イズが更迭しようとした 3 人の上級職員はその職に留まり続けた。そして、コ
ンクリングとニュー・ヨーク州の共和党は税関の支配を続けた。
478
アメリカ大統領制度史上巻
ヘイズは諦めずに戦いを続行した。1877 年 12 月 12 日の日記にヘイズは「報
道によるとコンクリング上院議員は政権との戦いで大勝利を収めたという。し
かし、終わりはまだ分からない。私は正しいし、戦いを諦めようとは思わない」
と記している358。ヘイズとコンクリングの戦いは個人的な側面もあった。コン
クリングは 1876 年のヘイズの大統領候補指名に反対していた。ヘイズの当選が
確定した後、コンクリングは公然とヘイズを批判した359。1878 年に議会が休
会になった後、
ヘイズは問題となった3 人の上級職員を再び更迭し、
「大統領は、
上院の閉会中に官吏の欠員が生じた場合には、その欠員を補充することができ
る。ただし、その任命は次の会期の終わりに効力を失う」と定める憲法第 2 条
第 2 節 3 項に基づいて、代わりの人物を一時的に任命した。そして、12 月に再
び空席となった税関職員の指名を上院に送付した。コンクリングは上院の決定
を 2 ヶ月間にわたって遅らせたものの、閣僚の個人的な手紙を読み上げたこと
で多くの上院議員を辟易させた360。1879 年 2 月 3 日、上院はヘイズの指名を
承認した。
ヘイズはニュー・ヨークの税関の人事制度を完全に改める原理を打ち立てた。
新しく任命された徴税官に向けてヘイズは、
「単に彼が前徴収官の友人であると
いう理由で誰も追放しないようにし、単に彼が我々の友人であるという理由で
就職させることがないようにしよう」と述べて、できる限り猟官制度を制限す
るように求めた361。ヘイズは上院から官職任命権を奪おうとしたのではなく、
猟官制度を完全に廃止しようとしたのである。公職制度改革にあたってヘイズ
は、連邦の公職を党派ではなく、試験に基づく成果主義で充当しようとしたの
である。ヘイズは連邦職員にあらゆる政治活動に参加することを禁じた。ヘイ
ズは、政治制度をジャクソンの時代やホイッグ党の時代に戻そうとしたのでは
なく建国初期に戻すことを目標とした362。
ヘイズは 1 期のみ大統領に在任することを誓っていた。それは、再選を実現
するために官職任命権を使わないとヘイズが決心したためである。任免権はそ
れを行使する者を腐敗させるというのがヘイズの信念であった。官職任命権は
議会と大統領を腐敗させる。政治的な野心を持たない大統領のみが猟官制度を
突き崩すことができる。しかし、政党を主導する地位に就かなかったヘイズは
制度的改革を行うのに必要な影響力を十分に議会に及ぼすことはできなかった。
第 5 項 労働争議の鎮圧
金ぴか時代
479
ヘイズは労働争議に連邦軍を出動させた。1877 年、1873 年の景気後退の影
響から脱しきれない鉄道会社は従業員の賃金削減を開始した。従業員はストラ
イキを行った。州軍は装備も整っていなかったばかりか、兵士達はストライキ
を行っている従業員を鎮圧することを拒んだ。暴徒を抑えるのに必要な実力行
使ができないと悟ったウェスト・ヴァージニア州知事は、緊急事態に対処する
ために州議会を招集する余裕がないと主張して連邦軍を送るようにヘイズに求
めた。ヘイズは暴徒の強さと州が暴徒に対処できない理由を詳細に報告するよ
うに求めた。当初、ヘイズは鉄道会社と従業員の間で問題を解決することを望
んだ。連邦裁判所がストライキを行っている者が法廷を侮辱しているという声
明を出した後、ヘイズは、暴徒に解散を命じるとともに、憲法第 4 条第 4 節の
侵略や反乱にさらされた州を連邦政府が保護するという規定に基づいて連邦軍
を出動させた。
同様の事例においてこれまでの大統領の中でヴァン・ビューレン、タイラー、
ピアースは平和を維持するために連邦軍の派遣を求める州の要請を拒否してい
た。ジャクソンのみがメリーランド州の要請に応じて、チェサピーク=オハイ
オ運河の労働争議を鎮圧するために連邦軍を出動させている。これまでの事例
は地域に限定され、連邦の介入の必要性があるのか否かは必ずしも明確ではな
かった。しかし、ヘイズが直面したストライキに関する暴動は深刻であった。
暴動はウェスト・ヴァージニア州だけではなく、太平洋岸の諸州と中西部にも
拡大した。そのためヘイズはウェスト・ヴァージニア州に加え、メリーランド
州の要請に応えて、カンバーランドとボルティモアに連邦軍を派遣し、地元当
局が治安を回復する支援を行った。鉄道会社の中には賃金改正を行い労働者と
交渉する会社もあったが、多くの鉄道会社は州軍と連邦軍を後ろ盾にして力で
ストライキを終息させた。
第 6 項 中国人移民問題
ヘイズは中国からの移民を禁止しようとする議会の法案に反対して中国との
関係を悪化させないように努めた。中国からの移民は年々増加し、1880 年まで
にはカリフォルニア州の人口の9 パーセントを占めるまでになっていた。
当初、
アメリカは中国人の移民を鉄道建設のために安価な労働力が獲得できるとして
歓迎した。しかし、鉄道建設熱が冷めると、中国人の移民は他の職を探すよう
480
アメリカ大統領制度史上巻
になり、西部の政治家の有権者にとって深刻な脅威となった。1879 年、議会は
中国とアメリカの相互の国民の権利を認めるバーリンゲーム条約を一方的に破
棄する法案を可決した。それは中国人の移民を認めないことを意味していた。
ヘイズは中国との関係を損なうことを恐れてその法案に拒否権を行使した。さ
らにヘイズは新しい条約を結ぶように国務長官に命じ、中国人の移民を制限す
るが、完全には禁止しない条約が締結された。
第 7 項 結語
ヘイズは行政府を議会の支配から脱却させようと考えた。ヘイズはコンクリ
ングに対して勝利を収めたが大きな犠牲を伴った。対立の焦点となった上級職
員を更迭するのにほぼ 18 ヶ月かかったが、その間、大統領は行政府の長として
実質的に無力な状態に置かれた。したがって、ヘイズの勝利がリンカンの暗殺
以来失われた大統領の権威を回復したとしても、ヘイズ政権は新しい地平を切
り開いたと言うよりも礎を守ったと言える363。
ヘイズ自身も長い間、政府を支配してきた上院の権威に打撃を与えられたこ
とで満足していた。1880 年 7 月 14 日の日記でヘイズは「私が主に目指した目
標は議会の猟官制度を壊すことであった。戦いは苦しいものであった。それは
私を攻撃、反対、誤解、そして権力ある者の憎しみにさらした。しかし、私は
大きな成功を収めた。両院の誰も今や指名に指図しようとはしない。指名を行
う単独の私の権限が明確に認められた」と記している364。
第 3 節 ガーフィールド政権
第 1 項 概要
1831 年 11 月 19 日、ジェームズ・ガーフィールド(James Abram Garfield)
はオハイオ州オレンジで生まれた。5 人の子供の末子であった。9 ヶ月で歩き始
め、3 歳で本を読み始めたという。借金を支払うために土地のほとんどを売却し
た一家は貧しく、ガーフィールドは夏に農場で働き、冬に学校に通った。働き
ながら学費を工面してガーフィールドはウィリアムズ・カレッジに進学した。
卒業後は教師を務めた。ガーフィールドは優れた弁舌によって知られるように
なり、オハイオ州上院議員に選ばれた。さらに法学を修めて弁護士になった。
金ぴか時代
481
南北戦争が勃発すると、オハイオ義勇軍に加わり、ミドル・クリークの戦いで
自軍を勝利に導いた。その他にも各地で転戦した。戦争終結前に退役し、連邦
下院議員に就任した。ガーフィールドはコンクリング率いる堅固派とジェーム
ズ・ブレイン(James G. Blaine)率いる穏健派の妥協の結果、大統領候補に選ば
れた。1880 年の大統領選挙は接戦であった。そうした接戦は全国的政党が高度
に組織化された結果である。政党は地元の問題や利権をめぐって派閥抗争を行
うようになった。ガーフィールドはそうした派閥抗争から距離を置こうと努め
たが、過熱する派閥抗争に巻き込まれた。コンクリング一派は財務長官の人選
に口を挟んだ。ガーフィールドは妥協案を示したが、上院はそれを拒絶した。
ガーフィールドはコンクリングの政敵をニュー・ヨーク港の徴税官に指名した。
コンクリングはその指名に抵抗するために辞職した。しかし、最終的に上院は
全会一致でその指名を承認した。ガーフィールドは公務員を誰が管理すべきか
という問題で上院に対して完全な勝利を収めた。その勝利は大統領の権威が復
活したことを示す重要な出来事であった。1881 年 7 月 2 日、ガーフィールドは
ワシントンにある駅の前で撃たれた。犯人は、大統領選挙で貢献したのにも拘
らず、自分に与えられた公職が期待したよりも低いことを恨んで犯行に及んだ
とされている。約 2 ヶ月にわたって懸命の治療が続けられたが、銃弾を摘出す
ることができず、療養先で亡くなった。
第 2 項 大統領選挙
1880 年の大統領選挙までに党内の派閥抗争がアメリカの政治を左右するよう
になっていた。ガーフィールドは 36 回目の投票でようやく大統領候補指名を獲
得した。ガーフィールドはコンクリング率いる堅固派とブレイン率いる穏健派
の妥協の結果、選ばれた。共和党は、コンクリングに近く、ニュー・ヨークの
税関の長を務めていたアーサーを副大統領候補として選ぶことで亀裂を埋めよ
うとした。民主党は南北戦争の将軍であるウィンフィールド・ハンコック
(Winfield S. Hancock)を大統領候補に選んだ。一般投票でガーフィールドは僅
か 9,457 票差でハンコックに勝利した。
選挙人票ではガーフィールドが214 票、
ハンコックが 155 票を獲得した。
接戦は主要な問題に関する熾烈な戦いの結果ではない。高度に組織化された
全国的な政党組織が支持者を投票するように動員した結果であった。南北戦争
482
アメリカ大統領制度史上巻
後、接戦は普通のことであり、二大政党に対する人民の曖昧な心理を示してい
た。そうした有権者の姿勢は、地元の問題や利権をめぐる組織的な争いのよう
な党内の派閥抗争を反映するものであった365。
第 3 項 スター・ルート・スキャンダル
大統領に就任してすぐにガーフィールドはトマス・ジェームズ(Thomas L.
James)郵政長官に、郵便路線に関する契約で不正行為が行われているという非
難を調査するように命じた。ジェームズの調査によって収賄に共和党員が関与
していることが明らかになった。これはスター・ルート・スキャンダルと呼ば
れる。調査を続行し、スキャンダルを暴露すべきだというジェームズの要望に
応えて、ガーフィールドは「あなたがどこに誰とぶち当たっても前に進むよう
に。私はあなたにこの病根を完全に明らかにし、除去してしまうように命じる」
と述べた366。スキャンダルには共和党の上院議員や郵政省内の職員が関与して
おり、検察官は 400 万ドルの損害が生じたと見積もった。結局、誰も有罪判決
を受けなかったが、このスキャンダルは公職制度改革を進める 1 つの契機とな
った。
第 4 項 公職制度改革
ガーフィールドは政党政治の新しい傾向に適しているように見えた。ヘイズ
とは違ってガーフィールドは懐柔的であり妥協的であった。ガーフィールドは
共和党内の堅固派や穏健派とうまく協調していくことを望んだ。しかし、そう
した意思に反して、ガーフィールドは派閥争いに巻き込まれることになった。
公職の管理をめぐる大統領と議会の間の戦いはヘイズのコンクリングに対する
勝利でも終わらなかった。そうした戦いはガーフィールド政権の初めの数週間
で再び開始された。過熱する派閥争いの中でガーフィールドは前任者が始めた
上院儀礼に対する攻撃を続けざるを得なかった367。
財務長官の人選に口を挟む堅固派に対抗するためにガーフィールドは上院を
攻撃した。堅固派はニュー・ヨークの銀行家のリーヴァイ・モートン(Levi P.
Morton)を財務長官に任命するように大統領に求めた。ガーフィールドは、モー
トンのウォール街との繋がりや保守的な経済感覚が西部の共和党員に受け入れ
金ぴか時代
483
られないと論じて抵抗した。モートンを財務長官の代わりに海軍長官に任命し、
財務長官にはその他の者を堅固派が推薦するというガーフィールドの妥協案は
拒絶された。堅固派はあくまでモートンを財務長官に任命するように要望した。
ガーフィールドはそのような大統領の権威に対する甚だしく攻撃的な挑戦に
対して妥協を許さなかった。ニュー・ヨークの共和党のコンクリングの一派の
多くを公職に就けた後でガーフィールドは閣僚人事を自ら選ぶことを主張した。
ガーフィールドはヘイズと同じく、行政府の独立は、上院の意思に対する大胆
な挑戦と上院儀礼に対する戦いによって保持され得ると悟った368。
ガーフィールドはウィリアム・ロバートソン(William H. Robertson)をニュ
ー・ヨーク港の徴税官に指名した。ロバートソンはコンクリングの政敵であっ
た。それ故、ロバートソンの指名はコンクリングに対する挑戦であり、上院儀
礼の慣習に対する挑戦であった。コンクリングはガーフィールドにロバートソ
ンの指名を撤回させるように政治組織を総動員した。副大統領のアーサーは、
大統領の支持者や報道から厳しく非難されながらも、コンクリングの策動に全
面的に協力した。1881 年 4 月 14 日、アーサーは記者の目を逃れ、ホワイト・
ハウスでガーフィールドと面談した。アーサーは、ニュー・ヨークの共和党を
安定させるためにロバートソンの指名を撤回するようにガーフィールドに求め
た。しかし、ガーフィールドの考えを変えさせることはできなかった。
ロバートソン以外の指名を認めることで大統領と出し抜こうとコンクリング
一派が企んだ時、ガーフィールドはニュー・ヨークに関するその他の指名をす
べて撤回した。公職を誰が管理するべきかという問題が解決されるまで指名を
行わないとガーフィールドは主張した。大統領の大胆な行動はコンクリング一
派を手も足も出ないようにさせた。ガーフィールドは日記に「ニュー・ヨーク
の指名の撤回は多くの側から大きな反応を得た。それは人民が上院でボスの支
配の継続を望んでいないということを示していると私は思う」と記している369。
1881 年 5 月 16 日、ロバートソンの指名が避けられないことを悟って、コン
クリングともう 1 人のニュー・ヨーク州選出のトマス・プラット(Thomas C.
Platt)上院議員は、州議会が彼らの面目を施すために再選してくれることを望ん
で辞職した。しかし、州議会は彼らの再選を拒んだ。長い戦いの後、別の 2 人
が新たにニュー・ヨーク州選出の上院議員に選ばれた。
ガーフィールドの勝利は完全であった。上院は全会一致でロバートソンの指
名を認め、コンクリングが復帰することはなかった。ヘイズがニュー・ヨーク
484
アメリカ大統領制度史上巻
の税関を改革しようと始めた長い戦いは大統領の勝利で終わった。その勝利は
ホワイト・ハウスの権限と権威が復活したことを示す画期的な出来事であった。
上院が大統領に人選を示唆し、好ましくない指名を拒否する際に振るう影響力
は残ったが、大統領の判断を無視するような傾向は終わりを迎えた370。
第 5 項 暗殺
ガーフィールドは包括的な公職制度改革の計画を実行する十分な時間が持て
なかった。1881 年 7 月 2 日、ワシントンの駅でチャールズ・ギトー(Charles
J.Guiteau)は大統領を銃で撃った。
ギトーは大統領から公職に任命されることを
期待する一方で、ガーフィールドによるコンクリング一派への攻撃に怒ってい
た。ギトーは暗殺の朝、
「大統領の悲劇的な死が悲しいが必要であり、それが共
和党を 1 つにし共和国を救うことになる。私は大統領に対して悪意を持ってい
ない。彼の死は政治的に必要だ」と記している371。ギトーは逮捕された時、
「私
は堅固派であり、アーサーが大統領だ」と述べた372。弁護士はギトーが狂って
いることを理由に無罪を訴えたが、ギトーは有罪宣告を受け、1882 年 6 月 30
日、絞首刑に処せられた。
今日の医療技術であればガーフィールドは命を落とすことはなかっただろう
と医療史の研究者は考えている。1881 年当時の医療技術では大統領を救うこと
ができず、むしろその死を早めた。医師は消毒されていない器具で撃ち込まれ
た銃弾を発見しようとガーフィールドの体内を探った。その頃、発明された金
属探知機も使用された。ガーフィールドは敗血症に罹って、9 月 19 日に亡くな
り、副大統領のアーサーが大統領に昇格した。
検死の結果、医師は誤った場所を探っていたことが分かった。銃弾はガーフ
ィールドの背骨の右側に入ったが、左側に移っていた。嚢腫が銃弾の周りに形
成され、実質的に無害になっていた。自然回復に委ねれば、ガーフィールドは
おそらく数週間で復帰できたと考えられる。
第 6 項 結語
ガーフィールドは「大統領は連邦議会の記録係に過ぎないのか、それとも合
衆国の行政府の最高責任者であるのか、その点を明確にしたい」と考えていた。
金ぴか時代
485
もしガーフィールドが職務に復帰することができていればヘイズと同じく、ア
ンドリュー・ジョンソン政権以来、議会の度重なる権限の侵害によって名目上
の首長になりかけていた大統領の権限を回復しようと努めただろう。
第 4 節 アーサー政権
第 1 項 概要
1829 年 10 月 5 日、チェスター・アーサー(Chester Alan Arthur)はヴァーモ
ント州フェアフィールドで生まれた。5 番目の子供であった。父はアイルランド
から移民した牧師であった。ユニオン・カレッジを卒業後、教師になったが、
弁護士を目指すために法律事務所の事務員になった。弁護士となったアーサー
はしばしば逃亡奴隷や自由黒人の弁護を行った。その一方で熱烈な共和党支持
者となった。南北戦争時にはニュー・ヨーク州の主計総監を務めた。さらにグラ
ント政権下でニュー・ヨーク港の関税徴収官に任命された。1880 年の共和党大
会で副大統領候補に選ばれ当選した。ガーフィールドが銃撃され治療の甲斐も
なく亡くなったので、アーサーは副大統領から昇格して大統領になった。アー
サー自身が猟官制度の恩恵を受けていたために、公職制度改革の進行はほとん
ど期待できないように思われた。しかし、猟官制度に対する世論は激しさを増
し、アーサーは限定的な公職制度改革を約束せざるを得なかった。第 2 次一般
教書の中でアーサーはペンドルトン法案の可決を議会に促した。1883 年に成立
したペンドルトン法により、成果主義に基づく競争試験制度が導入され、政治
的査定が禁止された。ペンドルトン法の適用対象は連邦職員の一部に限定され
ていた。しかし、ペンドルトン法は連邦行政制度における重大な転換点であっ
た。
第 2 項 公職制度改革
当初、公職制度改革論者はニュー・ヨークの堅固派であるアーサーにほとん
ど期待していなかった。元大統領のヘイズは、アーサーの後援者であるコンク
リングが陰から影響力を及ぼすだろうと予測した。しかし、ガーフィールドの
暗殺は猟官制度に対する世論に火をつけた。アーサーは、もし公職制度改革を
支持しなければ、南北戦争以来、共和党が享受してきた支配的な政治的地位を
486
アメリカ大統領制度史上巻
危険にさらすと悟った。アーサーはホワイト・ハウスがニュー・ヨークの税関
のようになってしまうと心配する人々の恐れを和らげるように努めた373。アー
サーは、ガーフィールドが任命したニュー・ヨークの税関の徴税官を罷免し、
堅固派に忠実な者を代わりに任命するようにというコンクリングの要求を拒否
した。アーサーは前大統領の政策を継続する道義的義務があると主張した374。
政治的地位を強化するためにアーサーは第 1 次一般教書で限定的な公職制度改
革を支持することを表明した。アーサーの表明は多くの者を驚かせた。
猟官制度の弊害は明らかであった。まず猟官制度は必ずしも大統領の権限を
拡大しなかった。なぜなら上院議員は各自の州内の党組織の指導者または代表
者として、下院議員選挙区の代表者である下院議員とともに、自州内における
連邦官職の分配を支配する受託者となっていたからである。しかし、議員達は
猟官者に追い回されて国務に注ぐべき時間を浪費させられた。
さらに猟官制度の弊害として、官吏が能力や適性に関係なく政党への忠誠度
に応じて任命されるために、そして、官吏が経験を積んだとしても政権交代で
新たな官吏に交代させられるために、行政が極めて非効率な状態に置かれた。
さらに信条や政策ではなく、官職の獲得をめぐって露骨な政争が行われるよう
になった。公職は公共の福祉に奉仕する尊敬されるべき対象ではなく、政争の
道具として国民に軽蔑される対象となった。
第 3 項 ペンドルトン法
1882 年の中間選挙で民主党が勝利を収めたためにアーサーは改革を実行する
ことを余儀なくされた。第 2 次一般教書の中で大統領は議会に 1881 年に民主党
上院議員のジョージ・ペンドルトン(George H. Pendleton)によって提案された
ペンドルトン法案を可決するように求めた。しかし、議会はアーサーの要求を
無視した。アーサーは改革を要求する世論に訴えかけ、全国公職制度改革連盟
のような草の根の組織と連携した。公職制度改革者は、成果競争主義の導入に
よって、公職は政治的取引の対象ではなくなり、官吏の地位が安定し、行政の
効率が改善されると信じた。また大統領や連邦議員は猟官者に悩まされること
がなくなり国務に専念することができるようになる。さらに官職を利権として
利用してきた政治的ボスの暗躍を防止することができ政界を浄化できる。アー
サーの働きかけの結果、ペンドルトン法案の成立は促進された。1883 年に議会
金ぴか時代
487
は同法案を可決し、アーサーの署名によって同法案は成立した。したがって、
皮肉にもかつてニュー・ヨークの税関から猟官制度の最たる例として更迭され
たアーサーは公職制度改革を実行した大統領となった。
ペンドルトン法は限定的に適用された。同法によって、成績主義に基づく競
争試験制度と政治的査定の禁止が定められた。大統領の任命と上院の承認に基
づく 3 人から構成される超党派の公職委員会が設置された。同委員会には 2 つ
の重要な権限が与えられた。採用試験を管理する権限と新しい公職に関する規
則が施行されているか調査する権限である。さらに大統領には大統領令によっ
て機密の公職を拡大する権限が認められた。当初の適用は限定的であったが、
ペンドルトン法は後代に続く公職管理の基礎を打ち立てた375。
ペンドルトン法の下で成果競争主義の適用を受けたのは 10.5 パーセントであ
り、ワシントンの行政官と主要な税関や郵便局の職員に限られた。その他の約
11 万 7,000 人の連邦職員は対象とされなかったが、公職の政治任命者は大幅に
減少した。そうした猟官制度に利用され得る職員の管理は、アーサーの後任者
であるクリーヴランドと議会の争いの主要な原因となった。またペンドルトン
法は、上院の承認を必要とする公職と肉体労働者を除く公職を成果競争主義の
適用対象に含める権限を大統領に与えた。歴代大統領は、成果競争主義の適用
範囲を縮小するように求める議会の圧力に直面しながらも、徐々に成果競争主
義の適用対象を拡大し、1897 年には 50 パーセント近く、1932 年までに 80 パ
ーセン近くに達した376。
ペンドルトン法は画期的な法であったが公職制度改革を推進していた人々を
完全に満足させることはできなかった。公職者の報酬と威信は依然として最優
秀の人材を引き付ける程には高くなく、多くの規則があるためにしばしば怠慢
で無能な人間を免職させることができなかった。しかし、職場の士気と能率が
上がったことは事実である。また行政府の肥大化に対応するために専門知識を
有する公職者を確保する道が開けたことは重要なことである。したがって 1883
年の公職制度改革の業績は、連邦行政制度の歴史の中で根本的な転換点であっ
たと言える377。
第 4 項 中国人移民問題
アーサーは中国人の移民を禁止する法案に拒否権を行使した。ヘイズ政権で
488
アメリカ大統領制度史上巻
締結された中国人の移民を制限する条約に反して、議会は中国人の移民を 20 年
間、差し止める法案を可決した。アーサーはその法案に拒否権を行使したが、
差し止め期間を 10 年に短縮した中国人入国拒否法に署名した。中国人入国拒否
法は、熟練工、非熟練工を問わず適用され、鉱山における中国人の採用に適用
された。また裁判所が既に合衆国内に居住している中国人に市民権を与えるこ
とも禁じられた。中国人入国拒否法は 1892 年と 1902 年に更新され、1943 年
に撤廃された。
第 5 項 雑駁関税法
1882 年、アーサーは関税を引き下げるべきだという提言がなされた後に、関
税委員会を設立した。保護主義論者も自由貿易論者も議会にロビー活動のため
に押しかけた。その結果、議会は全般的に関税を 1.5 パーセント以下引き下げる
ことを決定した。いわゆる雑駁関税法である。アーサーは法案に署名したが、
誰も満足させることはできなかった。それは党派による関税をめぐる争いの幕
開けであった。共和党は保護主義を提唱し、民主党は自由貿易を提唱した。
第 6 項 結語
1884 年の大統領選挙でアーサーは大統領候補指名の獲得を目指した。
しかし、
公職制度改革を実行したことで堅固派の支持を失った一方で改革派もアーサー
を未だに信用していなかった。そのためアーサーは共和党の大統領候補指名を
獲得することができなかった。
第 5 節 クリーヴランド政権 1 期目
第 1 項 概要
1837 年 3 月 18 日、
グロヴァー・クリーヴランド(Grover Cleveland)はニュー・
ジャージー州カルドウェルで生まれた。9 人の子供の 5 番目であった。父は長老
派教会の牧師であった。クリーヴランドは大学進学を希望していたが、父が亡
くなったために職を探さなければならなくなった。職を転々とした後、法律事
務所の見習いとなって法律を学んだ。そして、法曹界に入った。クリーヴラン
金ぴか時代
489
ドはニュー・ヨーク州エリー郡の検事補に選ばれた。また同郡の保安官も務め
た。さらに、バッファローの市長に選ばれたクリーヴランドは市政改革に乗り
出し名声を得た。それがもとで民主党の州知事候補に指名され、圧倒的票差で
当選した。当時、州議会議員であったセオドア・ローズヴェルトと協力して汚
職や猟官制度の撤廃に努めた。1884 年の大統領選挙で当選し、共和党政権が連
続する中で唯一の民主党政権を担った。クリーヴランドは大統領としても改革
を推進し、既に成立していたペンドルトン法を厳格に施行した。また南北戦争
の退役軍人に対して個人年金を支給する法案に対して拒否権を行使した。1888
年の大統領選挙で一般投票では対立候補を上回ったものの選挙人数で逆転され
落選した。しかし、1892 年の大統領選挙に再出馬し返り咲きを果たした。1893
年恐慌に対してクリーヴランドは対策を打ち出したが打開策とはならなかった。
第 2 項 大統領選挙
公職制度改革に対する支持も穏健派のブレイン下院議長の大統領候補指名も
1884 年の大統領選挙における共和党の敗北を食い止めることはできなかった。
民主党の大統領候補であるニュー・ヨーク州知事のクリーヴランドが勝利を収
めた。クリーヴランドはブキャナン以来、28 年間振りに当選した民主党の大統
領である。
クリーヴランドは保守反動的な民主党員であった。クリーヴランドは、広範
囲な社会的、経済的改革を望む労働者や小規模な農民に懐疑的な姿勢を示す共
和党員と近い立場にある民主党の保守派の指導者でああった。19 世紀後半にア
メリカ経済に起きた大規模な変化に直面して、民主党の強固な保守派は伝統的
なジェファソン主義者やジャクソン主義者の原理に固執した。新しい時代にお
いて、大規模な工場や企業は、本来、小規模な農民や地場産業を保護するため
の原理の恩恵を受けるようになった。民主党の保守派は南部を支持基盤として
いた。彼らは実業者と農園主を代表し、白人の優越性を説くことで多くの貧し
い白人の支持を集めた。保守派が説くジェファソン主義やジャクソン主義の原
理は多くの北部の民主党員にとっても魅力的であった378。クリーヴランドは特
に実業志向の哲学を持ち、中央集権化に反感を抱く中西部と北西部の共和党員
の間で強い影響力を持っていた。民主党の保守派は、改革を求める農民と労働
者から産業革命を擁護する役割を果たした379。
490
アメリカ大統領制度史上巻
国中のあらゆる地域の穏健派は、クリーヴランドの選出が、南北戦争によっ
て生み出された衝突の真の終わりを告げるものだと期待した。クリーヴランド
は彼らの期待が正しいと証明しようとした。南部から大きな支持を受けた民主
党の党首としてクリーヴランドは多くの南部人を閣僚も含めた高い公職に就け
た。共和党は党派的な敵愾心をあおることを止めようとぜず、民主党員を連邦
政府を管理するにはふさわしくないと見なした。クリーヴランドが軍人恩給法
案に拒否権を行使したことは共和党に大統領を攻撃する材料を与えた。共和党
の敵愾心は、クリーヴランドが南部連合の旗を南部に返すことを認めたことに
よってさらに燃え上がった380。しかし、クリーヴランドの 1884 年の勝利は、
南北戦争後の政治的秩序が民主党の大統領の選出によって覆されないことを証
明していた。1884 年の大統領選挙とその直後の動きは、近年の選挙が国家的な
問題をめぐる大きな対立ではなく猟官制度の管理をめぐる争いだということを
示していた。また民主党の勝利は、国民が南北戦争の遺産から関税や通貨、そ
してその他の経済的論争に注意を向けるようになっていたことを示していた
381。
第 3 項 公職在任法の撤廃
クリーヴランドの選出は、公職の任命をめぐる大統領と議会の争いに猶予を
もたらさなかった。アンドリュー・ジョンソン政権とグラント政権で深く傷付
いた大統領の威信はヘイズとガーフィールドによってある程度、回復していた。
公職在任法を撤廃させる最後の重要な戦いを行ったのはクリーヴランドである。
クリーヴランドが長年、猟官制度の恩恵にあずかることができなかった忠実
な民主党員を公職に任命しようとしたことで戦いは始まった。選挙に貢献した
民主党委員は実に 88 パーセントに達する公職の入れ替えを要求した。クリーヴ
ランド自身は猟官制度の支持者ではなかった。バッファロー市長としてニュ
ー・ヨーク州知事としてクリーヴランドは改革論者としての名声を既に得てい
た。クリーヴランドはペンドルトン法を忠実に施行し、新たに確立された公職
に関する既定の対象とならない連邦職員の候補者を選定するのに莫大な時間を
費やした。クリーヴランドのやり方は多くの優れた任命を生み出し、公職制度
改革論者から賞賛を勝ち得た。
ジャクソン主義的な民主党員を以って自らを任じていたクリーヴランドは猟
金ぴか時代
491
官制度の利点も理解していた。クリーヴランドは功績のある民主党員を長い間、
共和党員が占めてきた官職に就けたいと考えた。改正された公職在任法の規定
の下、大統領ができたことは連邦職員を停職させることだけであった。事実上、
クリーヴランドは上院が開会中で指名が承認された時しか連邦職員を更迭する
ことができなかった。上院を支配する共和党議員は公職者が停職された理由を
調査する権利を議会が持つと主張した。クリーヴランドは、上院の要望に応じ
て停職に関する情報を提供しないように閣僚に求めた。共和党が支配する上院
は、大統領の任免権を制限しようと彼らの要望が叶えられるまでクリーヴラン
ドに協力することを拒んだ。その結果、クリーヴランドが政権初期に停職にし
た 643 の公職のうち、3 ヶ月の開会中に上院が認めたのは僅かに 15 のみであっ
た。クリーヴランドは内密の情報を議会に開示することを拒み、どの資料を開
示すべきか決定する行政特権を大統領が持つことを示した。それは 1860 年代以
後、低迷していた大統領の権威を回復させる顕著な例であった。
大統領と議会の間でより大きな論争を巻き起こしたのが、アラバマ州の連邦
検事の任命をめぐる争いである。クリーヴランドは現職のジョージ・ダスキン
(George M. Duskin)を停職にし、代わりにジョン・バーネット(John D. Burnett)
を指名した。上院司法委員会の議長であるジョージ・エドモンズ(George F.
Edmunds)は、バーネットの指名を厳しく審査することにした。エドモンズは司
法長官にバーネットの指名に関わる書類だけではなくダスキンの停職に関する
書類を提出するように求めた。クリーヴランドは上院の要望に応じてバーネッ
トの指名に関する書類を提出するように司法長官に命じた。その一方で、上院
の介入なしに大統領が連邦職員を罷免する権限を恒久的に確定しようと考え、
クリーヴランドはダスキンの停職に関する書類を提出するのを拒んだ。
そうしたクリーヴランドの姿勢に対して上院の共和党議員は政権を協調的で
はないと非難する決議を以って応じた。議会へ送付した教書の中で大統領は自
らの行動を擁護し、憲法に定められた行政府の長としての大統領の責任を議会
が侵害しようとしていると非難した。クリーヴランドと上院の衝突はすぐに国
民の関心を引いた。この種の以前の戦いでは世論は大統領を支持していた。敗
北を悟った上院は面目を保って撤退する方法を探した。この論争が行われてい
る間に、ダスキンの任期が切れた。そのためクリーヴランドがダスキンをわざ
わざ停職する必要はなくなった。上院はバーネットの指名をすぐに承認した。
数ヶ月後、公職の任命に対するクリーヴランドの姿勢は正しかったと証明さ
492
アメリカ大統領制度史上巻
れた。共和党と民主党の圧倒的な支持の下、公職在任法を撤廃する法案が通過
したのである。クリーヴランドは後年、
「したがって、不幸な論争は幸いにも、
憲法上の大統領の特権に対する法的な容認の最後の要求の撤廃を伴い、我々を
伝統的な憲法の解釈に復帰させた」と記している382。公職在任法が撤廃された
結果、大統領は上院の助言と同意なしで自由に公職者を更迭することができる
ようになった。その結果、クリーヴランドは全国の郵便局長のほぼ全員と他の
連邦の官吏の約半数を入れ替えた。
第 4 項 州際通商委員会
クリーヴランド政権期に州際通商法によって州際通商委員会が設立された。
州際通商法が制定されたのは、鉄道が全国的に急速に発展し、1870 年代までに
最も基本的な州際交通路となったために、その運営を連邦政府が取り締まる必
要が出てきたからである。自由競争下において、鉄道会社は利己的経営を行い、
高率な運賃を設定し、大企業に有利な差別的運賃制度を採用し、政治家に対し
て贈賄した。それに対する西部農民の不満が高まっていた。そうした不満に答
える形で西部諸州は州内の鉄道交通を公正に規制する法、いわゆるグレンジャ
ー法を制定した。鉄道会社はグレンジャー法を合衆国憲法に違反するとして無
効を最高裁に求めた。最高裁は鉄道会社の訴えを斥けてグレンジャー法を合憲
と認めた。その結果、鉄道業の営業取り締まりと交通規制が合法であると認め
られ、連邦政府による交通統制立法の発足に重要な法的根拠となった。
州際通商委員会は最初の連邦規制機関であり、かつ近代的な行政委員会であ
り、鉄道運賃を公正に定め差別的措置を禁じ、鉄道会社が大企業に与えてきた
優遇措置を終わらせることを目的にした。それは経済の自由な活動に対する最
初の連邦による干渉であった。しかし、クリーヴランドはそうした連邦による
規制に反対していた。また連邦裁判所は州際通商委員会の命令を審査する権限
を主張し、貨物料金を定める権限を州際通商委員会に認めなかった。そのため、
セオドア・ローズヴェルト政権によって改められるまで州際通商委員会は執行
権を持たず、有効な措置をとることができなかった。
第 5 項 軍人恩給制度改革
金ぴか時代
493
クリーヴランドは南北戦争の退役兵が身体障害のために年金を要求する制度
を改革した。退役兵は、地元の連邦議員に年金の請求を行った。連邦議員は軍
人恩給法案によって彼らに年金を与えた。クリーヴランドは年金の請求を厳格
に審査し、200 人以上の請求を却下した。クリーヴランドは大衆に迎合すること
なく自分の信念に従って、拒否すべきだと考えたことは断固として拒否した。
クリーヴランドは放牧業者がネイティヴ・アメリカンから不法に借入していた
牧草地の契約を無効とした。また失敗に終わったがブランド=アリソン法で認
められた銀貨の自由鋳造を止めさせようとした。旱魃に苦しむ農民を救済する
ためのテキサス種子法にクリーヴランドは拒否権を行使した。クリーヴランド
の考えでは、
「人民は政府を支持するけれども、政府は人民を支持するべきでは
ない」と連邦政府が救済に関与することを否定した。
第 6 項 1886 年大統領継承法
ガーフィールドの暗殺と 1885 年のトマス・ヘンドリックス副大統領の死去に
伴って、1886 年大統領継承法が制定された。上院仮議長と下院議長の代わりに
閣僚が副大統領に続く継承順位に据えられた。継承順位は省が創設された順番
に沿って定められた。その結果、国務長官が副大統領の次の継承順位に据えら
れた。1886 年大統領継承法は特別大統領選挙を行うことを定めていない。それ
まで 6 人の国務長官経験者が大統領になっているのに対して、議会指導者が大
統領になった例は下院議長だったポークが大統領になった例しかない。1947 年
大統領継承法が定められるまで、副大統領が空席になった事例は 5 例あるが、
1886 年大統領継承法が適用されたことは 1 度もない。
第 7 項 ネイティヴ・アメリカン政策
1887 年 2 月 8 日、ドーズ法が成立した。クリーヴランド政権は同法を「イン
ディアンを解放する法」だと賞賛した。同法によって、大統領に、居留地の土
地を部族全体ではなくネイティヴ・アメリカン一人ひとりに自作農地として分
与する権限が与えられた。同法は、従来、部族による共同土地所有というネイ
ティヴ・アメリカンの慣習を打破し、個人を単位とする土地所有形式によって、
ネイティヴ・アメリカンの生活様式を転換し、将来に合衆国市民権を付与する
494
アメリカ大統領制度史上巻
ことを約束した点で、ネイティヴ・アメリカンにとっても、合衆国政府のネイ
ティヴ・アメリカン政策においても画期的な意義を有した。しかしながら、1887
年から 1933 年の間に部族が所有する土地の半分以上が土地横領者、公売、政府
による「剰余土地」の払い下げによって失われた。そもそもネイティヴ・アメ
リカンの土地所有の概念は個人所有ではなく共同所有であること、そして自作
農になることはネイティヴ・アメリカンの望みではなかったことからごく限ら
れた成功しか収めなかった。自作農地を割り当てられたネイティヴ・アメリカ
ンはそれをどう扱えばよいのか分からなかったために多くの者が僅かな賃貸料
で土地を貸し出すか、売却するかした。
第 8 項 財政面に関する大統領のリーダーシップの欠如
グラントの後任者達の業績にも拘わらず、19 世紀後半の大統領制度は規模に
おいて小さく、権限において制限されていた。 行政府の領域の管理に対する大
統領の権限は回復されたが、行政府の領域自体が依然として非常に制限されて
いた。19 世紀末の大統領は行政府の省庁が推進する政策や政府の支出に対して
ほとんど影響力を持っていなかった。
財政面では、南北戦争の終わりにより、政府の支出の額と目的の管理は、大
統領から議会に戻った。ヘイズとクリーヴランドは、議会が予算法案を使って
その意思を行政府に押し付けようとする試みを拒否権を行使して払い除けよう
とした。例えば 1879 年にヘイズは、陸軍予算法案に拒否権を行使した。なぜな
ら同法案に民主党議員が、執行官が議会選挙の投票所の治安を維持するために
南部で軍や武装した市民を使うことを禁じる付加条項を加えたからである。こ
れにより、ヘイズは大統領の権限を侵害する予算付加条項に反対する前例を作
った383。
しかし、財政面で拒否権を行使することは防衛的なやり方であった。予算会
計法が 1921 年に成立するまで、課税と支出に対する大統領の権限は無きに等し
かった384。大統領は、少なくとも平和時は、省庁の支出見積もりが作られる時
期について関与しなかったし、そうした見積もりがいつ議会の諸委員会に監査
されるか相談を受けることもほとんどなかった。財務長官は予算のまとめ役で
あり管理者ではなかった。財政面に関する大統領のリーダーシップの欠如は無
責任で乱雑な予算を助長した。さらにそうした状況は、支出に関する決定を下
金ぴか時代
495
す権限を多くの予算委員会に分散させる議会の慣習によって悪化した。
第 9 項 保護関税への攻撃
19 世紀の後半において大統領の公共政策を主導する能力と政権の計画に議会
の支持を獲得する能力は制限されていた。この時期には、立法過程において積
極的なリーダーシップを発揮する大統領はいなかった。例えば行政府の独立を
熱心に擁護したクリーヴランドでさえ立法過程に関して議会に施策を考えるよ
うに勧告する以上の責任を大統領が持つとは考えなかった。1880 年代に共和党
と民主党の衝突の主な原因となった関税のような問題についても、クリーヴラ
ンドは議会を自らの意思に沿わせようとはしなかった。
民主党が 1886 年の中間選挙で議席を失った後に、民主党の原理に順応して、
クリーヴランドは議会に関税を引き下げるように求めた。クリーヴランドは政
府の助成と規制は最小限にすべきだと考えていた。保護関税は物価上昇をもた
らし消費者にとって不利であるだけではなく、トラストが形成される原因にな
るとクリーヴランドは信じていた。1887 年の一般教書をすべて使ってクリーヴ
ランドは高い関税率に対する攻撃を行った。クリーヴランドは一般教書で、関
税問題をもはや保護貿易か、それとも自由貿易かという見解上の差異から取り
扱うべきことではなく、アメリカが直面する実情をいかに救済するかという問
題であると主張した。輸入関税によって、国民が生活必需品に対して製造業者
に多額のお金を払っている点が問題であり、生活必需品とその原材料に対して
大幅な関税の削減を断行しなければならないとクリーヴランドは訴えた。クリ
ーヴランドによれば、国民に対して重い負担を強要することは、弁護の余地が
ない強奪であり、アメリカの公平と正義に対する裏切りであった。それは前例
のない一般教書であった。なぜなら一般教書を 1 つの問題に絞った大統領はこ
れまでにいなかったからである。
「国家の諸制度はすべての市民に対して彼を保護する政府を慎重に、かつ経
済的に無駄なく維持していくために必要な負担のみを除いて、その個人の勤労
と営業のすべての成果を保障するものであるとする制度論からすれば、これ以
上の強要は弁護の余地のない強奪であり、アメリカの公平と正義に対する責め
るべき裏切り行為であることは明らかである。国民の税金の重荷を担う人々に
課せられた不正は、他の不正と同様に有害な結果を増殖するものである。国庫
496
アメリカ大統領制度史上巻
は国民の税金と正当な支出目的へと送達する導管として働くためにのみ存在す
べきであるが、それが貿易や国民の用途から不必要に回収された貨幣の溜り場
と化し、それによって我が国民の活力を奪い取り、我が国の発展を阻止し、生
産的な企業への投資を妨げ、金融混乱の脅威を与え、遂には公然たる略奪の陰
謀を招く」385
この一般教書によって国民の関心が関税に向けられた。しかし、大統領はそ
れ以上のことはほとんど何もしなかった。そのためクリーヴランドの提案はほ
とんど受け入れられず、関税率は少し引き下げられただけであった。クリーヴ
ランドの保護関税を攻撃する姿勢は1888 年の大統領選挙の敗因の1 つになった。
ベンジャミン・ハリソンは保護関税を支持し、実業の支援を受け、東部と中西
部の大きな州、特にニュー・ヨーク州で勝利を収めることができた。
第 10 項 結語
19 世紀後半の大統領のリーダーシップを制約する束縛についてウィルソンは
1885 年に「明らかに支配力と統制力、すべての目標とすべての管理権限の中核
と源は議会である」と書いた386。クリーヴランドは一部の例外を除いて一般的
に議会の優越に挑戦しなかった。
しかし、クリーヴランド政権の 1 期目の終わりまでに、南北戦争後の大統領
の権威の低下は食い止められた。上院の行政府に対する介入、特に罷免権に関
する介入はヘイズ政権、ガーフィールド政権、そしてクリーヴランド政権で上
院が敗北することで緩和された。大統領制度の独立を回復させようとする戦い
は、政党の猟官者の地元の利害から公職を隔離することによって開始された公
職制度改革の法制化によって前進した。
第 6 節 ベンジャミン・ハリソン政権
第 1 項 概要
1833 年 8 月 20 日、ベンジャミン・ハリソン(Benjamin Harrison)はオハイオ
州ノース・ベンドで生まれた。10 人の子供の 2 番目であった。曽祖父は独立宣
言の署名者の 1 人であり、祖父はウィリアム・ハリソンである。父も連邦下院
議員を務めている。ハリソンはマイアミ大学を卒業後、法律を学んで法曹界に
金ぴか時代
497
入った。インディアナ州インディアナポリスで開業したハリソンは弁護士とし
て成功を収めた。南北戦争では義勇軍の大佐として従軍した。戦後、共和党の
候補指名を受けて州知事選挙に挑むが落選した。しかし、連邦上院議員に当選
した。ハリソンは退役軍人への年金支給を一貫して支持したので「兵士の立法
者」と呼ばれた。上院議員の再選に失敗した後、1888 年の大統領選挙への立候
補を表明し、共和党候補として現職のクリーヴランドを接戦で破った。ハリソ
ンは国内産業を保護するために関税を大幅に引き上げるマッキンリー関税法を
成立させた。しかし、そのために物価が高騰したので同法は不評であっ た。他
にもシャーマン反トラスト法やシャーマン銀購入法を成立させた。ハリソンは
1892 年の大統領選挙で再びクリーヴランドと争ったが敗北した。
第 2 項 大統領選挙
ハリソンはインディアナ州選出の上院議員であり、1888 年の大統領選挙を制
した。ハリソンが北部で多くの票を獲得した一方で、クリーヴランドは南部の
州で多くの票を獲得し、全国の一般投票でハリソンより多くの票を獲得した。
しかし、クリーヴランドは北部の大きな州を落とし、そのため多くの選挙人を
失った。
ハリソンの勝利により、政府の行動を統制しようとする議会の試みを理解す
る大統領が誕生した。ハリソンは、クリーヴランドと大統領の罷免権をめぐっ
て衝突した上院の議会指導者の一団に属していた。したがってハリソンは、大
統領がなすべきことに関するシャーマン上院議員の助言を早急に受け入れる必
要はなかった。シャーマンはハリソンに向かって、大統領は党とはまったく異
なる政策を持つべきではないし、行政府よりも立法府を代表すべきであると助
言した。さらにシャーマンは、クリーヴランドは関税政策を議会に押し付けよ
うとして失敗したが、ハリソンは議会と友好関係を保つべきであり、両院の共
和党議員を指導するのではなくてその意向に沿うべきであると主張した。
行政府の業務を勤勉かつ厳格に監督したのにも拘わらず、ハリソンは大統領
の地位を復活させる戦いから撤退した。クリーヴランドは猟官制度に対して戦
いを挑んだが、ハリソンは猟官制度を初めから受け入れた。クリーヴランドは
議会と論争し、関税政策をめぐって大統領のリーダーシップを模索しようとし
たが、ハリソンは喜んでお飾りであることに甘んじた387。
498
アメリカ大統領制度史上巻
第 3 項 議会の再編
ハリソン政権における大統領のリーダーシップの欠如と議会の優越性の勝利
は、義務を効率的に果たすために議会が自らを再編することを促した。1880 年
代以前、議会は主に審議するための機関であった。19 世紀の終わりまでには議
会は、統治するための複雑だが秩序だった組織に発展した。
下院では立法は、諸委員会の議長や下院議長といった議会指導者の管理の下
にますます置かれるようになった。ハリソン政権期の共和党の下院議長トマ
ス・リード(Thomas B. Reed)は、複雑な議事を簡素化する諸規則を下院に導入
した。少数派の民主党員は出欠確認の際に無言を通すことで定足数が満たされ
るのを妨害しようとした。リードはそれに対してそうした民主党員が出席を自
ら知らせなくても出席者として数えることで応じた。1891 年、最高裁は、議事
妨害の禁止などを盛り込んだリードの諸規則の合憲性を支持することで、下院
がより秩序だった機関になるように認めた388。
下院と同様の変化が上院にもたらされた。財政委員会議長のネルソン・アル
ドリッチ(Nelson W. Aldrich)や予算委員会議長のウィリアム・アリソン(William
B. Allison)などはリードが行ったような統制を上院に課した。結果としてハリソ
ン政権期において共和党議員は上院に秩序だった議事進行をもたらした。
第 4 項 マッキンリー関税法
ハリソン政権では議会と党組織が大きな力を持った。ハリソン政権期の前半
で最も重要な法は、これまでで最も高い関税率を設定するマッキンリー関税法
である。マッキンリー関税法案が制定された目的は国内産業の保護であった。
国内で生産されない産品や農作物にも関税が課された。砂糖は関税を免除され
たが、1 ポンドあたり 2 セントの奨励金が生産者に補償を与えるために国内産の
砂糖に課された。マッキンリー関税法は消費物資の高騰をもたらした。その結
果、1890 年の中間選挙で有権者は共和党に背を向けた。
しかし、マッキンリー関税法の制定は党組織の有効性を示していた。ハリソ
ン政権は、共和党によって初めて実行に移されたホイッグ党的な議会を中心と
する政党政治であった389。その他にも通商を妨げるトラストと独占を違法とす
金ぴか時代
499
るシャーマン反トラスト法、通貨の供給量を増やすシャーマン銀購入法が制定
された。南北戦争の退役兵のために扶養年金法が制定された。扶養年金法は政
府の年金支給額をほぼ 2 倍にした。
第 5 項 シャーマン反トラスト法
シャーマン反トラスト法は最初の反トラスト法であり、独占の悪弊を不正行
為として制限しようとした。州際通商や外国通商を規制する試みを行い、トラ
ストを形成する者に最高 1 年の禁固と 5,000 ドルの罰金が科された。シャーマ
ン反トラスト法が対象とするトラストの定義は曖昧であった。トラストの定義
は最高裁によって明確にされた。最高裁は、合衆国対 E・C・ナイト社事件で、
シャーマン反トラスト法が製造業には適用されず純粋な商業のみに適用される
と判断した。また最高裁は、砂糖トラストが精糖業界の 98 パーセントを独占し
て業界を支配しようとした事件で、州際通商ではないという理由で、シャーマ
ン反トラスト法に違反しないという判決を下した。そのためシャーマン反トラ
スト法は有効性を大幅に失った。セオドア・ローズヴェルトは自伝の中で「個
人主義的物質主義が荒れ狂った時代で個人の完全な自由は実際問題として、強
者が弱者を食い物にする完全な自由を意味していた。強力な産業界の実力者の
権力が大幅に増したのにも拘わらず、そうした実力者を政府を通じて規制する
方法は依然として時代遅れであり、したがって、事実上、無力だった」と述べ
ている。シャーマン反トラスト法はセオドア・ローズヴェルト政権とタフト政
権で積極的に適用された。またシャーマン反トラスト法は後のクレイトン反ト
ラスト法で強化された。
第 6 項 シャーマン銀購入法
シャーマン銀購入法は、マッキンリー関税法に対する西部の支持の見返りに
制定された。シャーマン銀購入法によって、財務省は市場価格で 450 万オンス
の銀を毎月購入することを求めらた。その量は全国の鉱山の銀の総生産高に匹
敵する。銀は兌換可能な手形によって購入される。所有者が手形をすぐに金に
交換したために連邦準備金は著しく減少した。シャーマン銀購入法は 1893 年に
撤廃された。
500
アメリカ大統領制度史上巻
第 7 項 大統領の行政特権
1890 年、ニーグルに関する事件で大統領の行政特権が確立した。法廷で騒動
を起し法廷侮辱罪に問われたデイヴィッド・テリー(David S. Terry)はスティー
ヴン・フィールド(Stephen J. Field)判事を殺害すると脅迫した。そのため連邦
法執行官デイヴィッド・ニーグル(David Neagle)が司法長官によってフィールド
判事の身辺警護を行うように任命された。テリーがフィールド判事に暴行を加
えたためにニーグルはテリーを射殺した。ニーグルは逮捕され、カリフォルニ
ア州裁判所に殺人罪で告訴された。連邦裁判所はニーグルをカリフォルニア州
の管轄から解放する人身保護令状を発行した。カリフォルニア州は連邦裁判所
の人身保護令状を支持する巡回裁判所の判決に対して最高裁に控訴した。
法の手続き上の問題は、連邦裁判所が、カリフォルニア州の法に基づいてテ
リー殺害容疑で告訴されているニーグルに人身保護令状を発行することができ
るか否かである。この問題に判決を下すために最高裁は、殺害の脅威にさらさ
れている連邦判事が職責を果たせるように大統領が保護する権限を持つか否か
を判断しなければならなかった。さらに最高裁は、大統領の法律顧問として司
法長官が判事を保護するように連邦法執行官を指名できるか否か、そして、連
邦法執行官が、連邦判事の身を守るうえで州の執行官が正当な殺人を行うのと
同じ権利を持つのか否かを決定しなければならなかった。最高裁は、ニーグル
が職責に従って合法的に行動している限り、カリフォルニア州はニーグルに管
轄権を及ぼすことができないという理由で人身保護令状の請求を支持した。
最高裁は、忠実に義務を遂行する連邦判事を生命の危険から守ることができ
ない政府は職務怠慢であるだけではなく、もはや政府とは言えないと認めた。
そうした保護は法で特に規定されているわけではなく、政府のどの府が行うべ
きかも定められていない。連邦判事に保護を与える法的根拠の問題を最高裁は
取り上げた。憲法によって大統領には法が忠実に執行されるのを監督する義務
がある。それ故、職責を果たそうとする連邦判事を大統領が保護する権限を持
つことは明らかである。また司法省が必要な保護措置をとることは適切な行為
である。法の執行に関与する公職者の生命を保護する権限を大統領が持つとい
う原理には疑問の余地がない。しかし、ニーグルに関する事件の判決は、さら
なる意義を持っている。国内の平穏を維持する権限が大統領に認められただけ
金ぴか時代
501
ではなく、そうした平穏が崩壊した場合、議会による特別な授権なしですべて
の権利を守る広範な権限が大統領に認められた。
第 8 項 外交的危機
1891 年、ハリソンはイタリアとの外交的危機に直面した。組織犯罪とニュー・
オーリンズの警察署長に対する暗殺を企てたとして告発されたイタリア人達が
無罪の判決を受けた。判決の結果に怒った暴徒は牢獄に押し入りイタリア人達
を殺害した。イタリア政府は合衆国との外交関係を絶った。最初は事件が州の
管轄にあるという理由でイタリア政府の抗議を受け入れなかったが、ハリソン
はイタリア政府に賠償金を支払うことで外交関係を修復した。
さらにチリとの関係悪化がイタタ号の拿捕から始まった。チリのホセ・バル
マセダ(José Manuel Balmaceda)大統領は、議会と対立していた。1891 年 1 月
1 日、議会支持者は大統領に反乱を起した。反乱者はイタタ号を奪取し、カリフ
ォルニア州サン・ディエゴに到着して武器と補給品を買い揃えた。バルマセダ
政権の要請を受けて、アメリカ政府はイタタ号を臨検する執行官を派遣した。
イタタ号は執行官を乗せたまま走り出し、後で執行官を降ろした。公海上に達
した後、イタタ号は他の船と合流して弾薬を積み替えた。
ハリソンはイタタ号がアメリカの中立を侵害していると判断し、海軍にイタ
タ号を追跡してアメリカ領海内に引き戻すように命じた。米艦チャールストン
号はチリでようやくイタタ号を発見し、降伏させた。反乱者は既に積荷が積み
かえられた後だと主張したが、チャールストン号は命令に従って、イタタ号を
サン・ディエゴに引き戻した。しかし、反乱者がバルマセダ政権を打ち倒した
ためにチリとアメリカの関係は悪化した。アメリカ政府はイタタ号を解放した。
アメリカの裁判所は、アメリカ海軍がイタタ号を拿捕したことで過ちを犯した
と判定した。
議会支持者は 8 月 28 日にヴァルパレイソを占拠し、数日後、サンティアゴで
新政府を樹立した。数人のバルマセダ政権支持者がアメリカ公使館に保護を求
めた。アメリカ公使は彼らに保護を与えた。新政府はバルマセダ政権支持者を
告発しようと考えていたので、アメリカ公使に彼らの引渡しを要求した。アメ
リカ公使が要求を拒んだためにチリとアメリカの関係悪化の新たな原因となっ
た。
502
アメリカ大統領制度史上巻
ボルティモア号事件で両国の関係はますます悪化した。米艦ボルティモア号
はヴァルパレイソに停泊していた。1891 年 10 月 16 日、ヴァルパレイソに上陸
した水兵が地元住民と乱闘騒ぎを起した。乱闘騒ぎはすぐに拡大し、地元住民
が暴徒化し、アメリカ人を襲撃した。2 人の水兵が死亡し、18 人が負傷した。
アメリカ軍の指揮官は、事件をワシントンに電信で伝え、水兵は非武装だった
ので攻撃を招くようなことはなかったと主張した。事件を知ったアメリカ国民
は激怒しチリとの戦争を求める声が高まった。
国務省はチリ政府に抗議し、謝罪と賠償を求めた。チリ政府は事件を調査す
るのに時間が必要だと回答した。しかし、アメリカの国旗が侮辱されていたた
めにハリソンは急速な対応を求めた。ジェームズ・ブレイン国務長官は大統領
に事態の解決を忍耐強く待つように求めた。
12 月 9 日、
ハリソンは一般教書で、
チリの警察がアメリカ人の襲撃に関与し、
アメリカの国旗が侮辱されたために賠償を求めると述べた。それに対して、チ
リのマニュエル・マッタ(Manuel A. Matta)外相は、地元の新聞にハリソンを批
判する声明を発表した。セオドア・ローズヴェルトはチリとの開戦を唱え、海
軍の造船所は艦船の建造を速めた。殺害された水兵の遺体はインディペンデン
ス・ホールに正装安置された。その栄誉はこれまでリンカンとクレイのみにし
か与えられていなかった。ハリソンの閣僚はブレイン国務長官を除いて全員が
チリとの開戦に積極的であった。1 月 21 日、ハリソンは最後通牒をチリに送っ
た。
一方、チリ政府ではマッタ外相に代わってルイス・ペレイラ(Luis Pereira)が
新たに外相に就任した。ペレイラはアメリカ公使と会談し、ボルティモア号事
件の賠償金支払いとアメリカに保護されていたバルマセダ政権支持者の亡命を
認めた。しかし、ペレイラはボルティモア号事件の詳細に関して双方に責任が
あったと主張した。チリの裁判所は、警察の関与を否定し、1 人のアメリカ人水
兵と 2 人のチリ人を有罪とした。
ハリソンもブレイン国務長官もチリの対応に満足せず、アメリカ人は被害者
だと主張した。さらにブレインは、マッタが行ったハリソンに対する侮辱を撤
回するべきだと主張した。1 月 25 日、ハリソンは議会にチリ政府に対して適切
な処置をとるように求めた。その一方でペレイラはアメリカ公使と再び会談し、
賠償金を支払うだけではなく、マッタの発言を完全に撤回すると伝えた。ペレ
イラの対応を知ったハリソンは 1 月 25 日の議会への要請を撤回し、チリ政府と
金ぴか時代
503
の関係が修復されたと述べた。チリとの戦争の危機は回避された。
第 9 項 結語
クリーヴランドのような民主党の保守派とは違って、共和党は長らく連邦政
府を使って経済的目的を達成したいと考えてきた。共和党の計画は、もともと
南部の奴隷制度に依存した経済を克服するために考案された。南部再建の終わ
りを迎えて、産業的な資本主義の推進が共和党の原理となった。共和党は、保
護関税と資本を産業の発展に利用する金融政策でそれを実現しようとした。共
和党が実業志向を示すことは概して政治的な利点があった。保護関税と政府に
よる国内開発は多くの有権者によって支持された390。
そうした議会を中心とする政党政治は国中で進行中の変化によって時代遅れ
になりつつあった。大きな社会的、経済的変化によってアメリカ人の生活はそ
の規模と複雑さを増していた。それは経済秩序を混乱させ、激しい政治的衝突
を生み出した。変化に直面して、連邦政府がより広範な役割を果たし、公共政
策を体系立てて管理する新しい統治形態が求められた。地方分権的な党組織、
猟官制度、そして支配的な議会といった 19 世紀の政治制度は不断の強力な大統
領のリーダーシップに依存する新しい秩序に道を譲るようになる。
第 7 節 クリーヴランド政権 2 期目
第 1 項 大統領選挙
新しい政治秩序が大統領制度に及ぼした影響が最初に現れたのはクリーヴラ
ンドの 2 期目である。クリーヴランドは 1892 年の大統領選挙でハリソンを破っ
た。クリーヴランドが大統領に返り咲くことができたのは、企業の近代産業化
によって引き起こされた経済秩序の混乱という国家的な問題を軽減することに
実業志向の共和党が失敗したためである。共和党が支配する第 51 回議会は大企
業による経済独占に対抗するために 1890 年、シャーマン反トラスト法を通過さ
せ、銀貨の鋳造を増やすことで通貨膨張論者からの圧力に対応したが、第 51 回
議会は歴史上最も不人気な議会となった。憲法は大統領に法が忠実に執行され
るように配慮することを求めている。しかし、シャーマン反トラスト法はクリ
ーヴランド政権とマッキンリー政権を通じてほとんど適用されることはなかっ
504
アメリカ大統領制度史上巻
た。それは大統領が法の執行に関して広範な自由裁量権を持っていることを示
している。シャーマン反トラスト法が頻繁に適用されるようになったのはセオ
ドア・ローズヴェルト政権に入ってからである391。
第 2 項 1893 年恐慌
ハリソン政権がクリーヴランド政権 1 期目の政策を覆そうとしたように、ク
リーヴランドはハリソン政権で実施された政策を覆そうとした。クリーヴラン
ドの就任 1 年目からアメリカは景気後退に直面した。クリーヴランドは景気後
退の原因がマッキンリー関税法にあると指摘した。しかし、クリーヴランドは
議会に関税改革を認めさせることはできなかった。
1890 年の中間選挙で民主党は大差で下院の支配権を取り戻した。それは 2 年
後のクリーヴランドの再選の先触れであった。
しかし、
1893 年恐慌が起こると、
今度は共和党が 1894 年の中間選挙で議会の支配権を取り戻した。総人口 6,500
万人の中で400万人が失業した。
シカゴやオハイオ州マッシロンで暴動が起き、
職を失った人々はワシントンに向けて行進した。恐慌の原因は、急速な金準備
高の減少、産業の過剰拡大、南部と西部の農産物の不作、そしてヨーロッパの
経済不況などが考えられる。
民主党の政治的敗北にも拘わらず、クリーヴランドはリンカン以後の大統領
の中でも最も積極的に大統領の権限を行使して 1893 年恐慌に対応しようとし
た392。シャーマン銀購入法を撤廃するためにクリーヴランドは特別会期を招集
したが、それは金本位制を守るうえで積極的なリーダーシップを発揮したこと
を示している。クリーヴランドは金本位制を守ることで通貨の健全性が保たれ
ると考えていた。クリーヴランドはシャーマン銀購入法とマッキンリー関税法
が恐慌の原因となったと考えていた。シャーマン銀購入法は撤廃されたが、恐
慌が改善される様子は見られなかった。金準備高は主に輸入の超過と恐慌の後、
ロンドンでアメリカの債券が金に換えられたことによって底を尽いた。金の準
備高の減少が止まらなかったために、クリーヴランドは金公債をウォール街の
銀行家に金流出を止める協力の見返りに安値で販売した。そうした措置は党内
の人民主義者の支持を失わせた。銀貨の自由鋳造を主張する農民と労働者は大
統領に裏切られたと感じた。またクリーヴランドの立法過程に対する積極的な
介入は党の支持を失わせる結果を伴った。クリーヴランドはウィリアム・ブラ
金ぴか時代
505
イアン(William J. Bryan)のような民主党の通貨膨張論者の支持を失っただけ
ではなく、大統領の国内政策に対する積極的な介入をこころよく思わない議会
指導者の支持を失った。
第 3 項 ウィルソン=ゴーマン関税法
クリーヴランドは関税の引き上げを望んでいたが保護関税の下で既得権益を
確保していた共和党員と東部の民主党員の反対により実現しなかった。1894 年
に成立したウィルソン=ゴーマン関税法案は本質的には保護関税の意味合いが
強かった。また関税率を引き下げるというクリーヴランドの公約を満たすもの
ではなかった。クリーヴランドはウィルソン=ゴーマン関税法案が民主党の綱
領に反すると非難したが拒否権を行使せず、結局、大統領の署名なしでウィル
ソン=ゴーマン関税法は成立した。ウィルソン=ゴーマン関税法は 4,000 ドル
を超える所得に 2 パーセントの所得税を課す条項を含んでいたが、最高裁はそ
の条項を違憲と判定した。それによって連邦所得税制度を合法的にするために
は 1913 年の憲法修正第 16 条の成立を待たなければならなくなった。
第 4 項 プルマン・ストライキの鎮圧
さらにクリーヴランドは、1894 年に労働者がプルマン寝台車会社に対して起
こしたプルマン・ストライキをめぐる処置で民主党内の支持を失った。プルマ
ン・ストライキをめぐる処置でクリーヴランドはこれまで考えられてきた国内
問題に対する大統領の権限の枠を超える権限を行使した。プルマン車両工場の
労働者は賃金カットに抗議してストライキを行った。アメリカ鉄道労働組合は
ストライキを支持した。その一方で経営者側は調停を拒否して実力で対決する
構えを見せた。
シカゴの連邦巡回裁判所は労働組合の執行部に、列車妨害と郵便物の滞貨を
中止させるために強制差し止め命令を出したが、暴徒は郵便列車を脱線させ、
操車場を占拠した。そこでクリーヴランドは、民主党のイリノイ州知事である
ジョン・オールトゲルト(John P. Altgeld)に諮ることなく、合衆国の資産を守り、
郵便輸送に対する障害を取り除くために連邦軍をシカゴに派遣した。連邦の介
入に対してオールトゲルトは電報で怒りをクリーヴランドに伝え、連邦軍の即
506
アメリカ大統領制度史上巻
時撤退を要求した。クリーヴランドはオールトゲルトの電報に対して、危機の
際には法への服従を復活させ、生命と財産を守ることが議論よりも優先すると
答えた。
「連邦軍のシカゴ派遣は、郵便業務妨害の排除を求める郵政省の要求、連邦
裁判所の令状が通常の手段では執行できない旨の合衆国法務官による申し出、
及び州際通商に関する共同謀議が存在することが法的に有効な形で証明された
ことに基づき、厳格に合衆国憲法と法に従って行われた。明確に連邦の権限の
範疇に属するこうした状況に対処するために、連邦軍のシカゴ市内駐屯は適切
であるだけではなく、必要と見なされる。またそうすることで、同市の治安維
持にあたる地方当局の明白な任務を妨害する意図はなかった」393
プルマン・ストライキに対するクリーヴランドの介入は、南北戦争期にリン
カンによって打ち立てられた前例を再確認するものであり、正式な戦争と国内
の反乱の文脈を超えた大統領の非常時大権の概念を拡大させた。クリーヴラン
ドの連邦軍の投入は重要な意味を持っていた。なぜならクリーヴランドはその
行動に際して明確な法的権限を持っていなかったし、州や地方当局に対して強
制力も持っていなかったからである。クリーヴランドはストライキを弾圧する
意思は持っていなかったが、この問題を法と秩序の問題と単純に考えたのであ
る。オールトゲルトはストライキを支持するつもりはなかったが連邦の介入に
反対したことで反逆者の汚名を受け、公的生活から追放された。
プルマン・ストライキはデブズに関する事件を伴った。ユージン・デブズ
(Eugene V. Debs)はプルマン・ストライキに同調してアメリカ鉄道労働組合を率
いてストライキを行った。連邦裁判所は、アメリカ鉄道労働組合にストライキ
の停止を求める命令を発し、その命令に違反したとしてデブズに 6 ヶ月の禁固
刑を科した。1895 年、連邦政府はデブズとその他のストライキの指導者はスト
ライキによって郵便運送を妨害した罪で告発した。最高裁は、憲法第 2 条に規
定されている一般的な行政権の下、大統領は合衆国の平和を守るためにあらゆ
る手段を取ることが認められているという判決を下した394。またストライキを
規制するために強制的差し止め命令を使うことが法的に正当な行為として認め
られた。しかし、陪審審理もなくデブズを裁判所の命令で収監し、ストライキ
に包括的な差し止め命令を使ったことは広く批判された。プルマン・ストライ
キの鎮圧の成功に対してクリーヴランドは政治的に高い代償を払うことになっ
た。民主党内の保守派は大統領を賞賛したが、労働者達はクリーヴランドと民
金ぴか時代
507
主党に背を向けた395。
第 5 項 ハワイ問題
クリーヴランドは、ハワイ併合を否定し、ハワイに独立自決の道を与えよう
とした。1892 年、ハワイを支配していた君主制がアメリカの実業家に指嗾され
た一団によって打倒された。新政府がすぐに樹立され、合衆国に併合を求めた。
ベンジャミン・ハリソンは併合条約に調印し、上院に送付したが、退任するま
でに条約は表決にかけられなかった。1893 年、クリーヴランドは併合条約を撤
回した。クリーヴランドはアメリカの帝国主義に疑念を抱いていた。クリーヴ
ランドは、ハワイの君主制を打倒するのを手助けしたアメリカ人の行動が合法
か否か調査したいと考えた。調査の結果、ハワイの君主制に対する革命はアメ
リカ人によって周到に計画されたものであったとクリーヴランドは確信した。
1894 年、ハワイの革命家達は憲法制定会議を開き、共和国を樹立した。クリー
ヴランドはハワイ共和国を承認しなかった。
第 6 項 国際紛争の仲裁
クリーヴランドはイギリスとヴェネズエラの国境紛争を解決しようと試みた。
ヴェネズエラはイギリス領ギアナとの境界問題で 1870 年代半ばから 1880 年代
後半にかけてモンロー・ドクトリンを信奉するアメリカに介入を求めた。当初、
アメリカは介入に乗り気ではなく、イギリスも仲裁に応ずることを拒否してい
たが、1895 年 12 月 17 日の一般教書でクリーヴランドは、モンロー主義に基づ
いてイギリスに仲裁に応じるように求めた。イギリスの領土搾取に対してあら
ゆる手段で抵抗するのがアメリカの義務であるとクリーヴランドは訴えた。イ
ギリスはクリーヴランドの呼びかけを拒否した。さらにリチャード・オルニー
(Richard Olney)国務長官は、イギリスにアメリカが南北アメリカ大陸の主権者
であると主張し、軍事介入の可能性を示唆した。イギリスは回答期限までに回
答を行わなかったが、イギリスとの軍事衝突を望まなかったクリーヴランドは
特別教書で議会に国境画定のための調査委員会の設立を求めた。イギリス国内
でもアメリカと妥協すべきだという声が高まり、結局、イギリスは国際的な仲
裁裁判で紛争を解決することに合意した。その結果、1899 年に問題は解決され
508
アメリカ大統領制度史上巻
た。
第 7 項 結語
民主党が全国党大会でブライアンを大統領候補に指名し、金と同じく銀を通
貨の基盤に置く案を選挙運動の主要な問題に据えた時、プルマン・ストライキ
の鎮圧で関係が悪化していた民主党と労働者の間の溝はさらに深まった。クリ
ーヴランドは自身のリーダーシップが党大会によって否認されたことに怒った。
金本位制の擁護を綱領とする共和党が選挙に勝利したことを知ってクリーヴラ
ンドは満足したのを隠そうともしなかった。ブライアンは、敗因はクリーヴラ
ンドの実業寄りの政策にあると非難したが、農民を主体とした選挙運動が現実
味のある政策を提供することができなかったのが主な敗因である。
第 8 節 マッキンリー政権
第 1 項 概要
1843 年 1 月 29 日、ウィリアム・マッキンリー(William McKinley)はオハイ
オ州ナイルズで生まれた。9 人の子供の 7 番目の子供であった。父は銑鉄製造業
を営んでいた。マッキンリーはアレゲーニー・カレッジに進学したが病気のた
めに退学した。療養後、大学に復帰しようとしたが家庭の経済状況により教師
を務め、郵便局で働いた。南北戦争で出征し、ヘイズと同じ部隊で戦った。戦
後、法律を学んで法曹界に入った。マッキンリーはスターク郡の検事に立候補
して見事当選を果たした。しかし、再選を阻まれてからは弁護士業に勤しんだ。
その後、共和党から連邦下院議員に選出され計 12 年間にわたって在職した。下
院議員としてマッキンリーは高関税政策を主張し、マッキンリー関税法案を提
出した。さらにオハイオ州知事選に出馬し、民主党候補を抑えて当選した。知
事を 2 期務めた後、1896 年の大統領選挙で勝利を収めた。マッキンリーは史上
最高税率のディングリー関税法案を成立させた。また金本位制を確立させた。
米西戦争でスペインを破り、多くの海外領土を獲得した。1900 年の大統領選挙
で再選されたが、就任後、銃撃され亡くなった。マッキンリーは大統領権限の
拡大に貢献し、近代的大統領の予兆と目される。リンカンの暗殺以後、クリー
ヴランドが若干の成功を収めたものの、議会は大統領の権限を抑制してきた。
金ぴか時代
509
マッキンリーはリンカン以後に登場した最初の強力な大統領であった。マッキ
ンリーの積極的な外交政策はアメリカを世界の列強の地位に押し上げ、将来の
大統領が外交面で積極的な役割を果たす基礎を作った。
第 2 項 大統領選挙
クリーヴランドの保守主義は、特に 2 期目において、民主党の人気を失わせ
た。近代産業化した都市が国中で急速に拡大していく中、1896 年の大統領選挙
で民主党が労働者と都市住民の票を多く失ったことは共和党に優位な政治的再
編を促進した396。1896 年の大統領選では、1893 年恐慌が民主党にとって大き
な負い目となったこととブライアンの急進性を危惧した産業界の反発により、
共和党候補のマッキンリーが勝利して大統領に就任した。オハイオ州知事のマ
ッキンリーが北西部と中西部の産業が発展した州を抑え、旧南部連合諸州と極
西部を抑えたブライアンを破った。ブライアンの支持基盤は主に南部と西部の
農民であった。一般投票は伯仲していたが、マッキンリーはブライアンの 176
人に対して 271 人の選挙人を獲得した。
ちなみにこの時、ブライアンは 36 歳で、もし当選していたら最年少大統領に
なっていたはずである。金の十字架演説で有名になった。金の十字架演説は、
1896 年 7 月 8 日にシカゴで開かれた民主党全国大会で行われた演説で単一金本
位制を批判して「諸君は労働者に茨の冠を被せ、人々を金の十字架にかけては
ならない」と述べた。ブライアンは銀貨の自由鋳造を唱え、所得税を違憲とし
た最高裁の判決を批判し、課税の公正を求め、労働争議に対する強制差し止め
命令を個人の権利を抑圧する政府の干渉だと非難し、連邦軍によるストライキ
の鎮圧を州権の侵害であると論難した。
また 1896 年の大統領選で目を引いたのは第三党としての人民党の隆盛であ
る。人民党は 1891 年に結成された西部と南部の農民や都市の労働者を支持母体
にした政党で、公益のために個人の自由と権利は制限されるべきであると主張
していた。人民党は現制度に対する痛烈な告発であり、銀貨の自由鋳造、鉄道、
電報、電話の国有化、所得税の累進課税、運送会社の独占を打破する小荷物郵
送、移民の制限、8 時間労働、連邦上院の普通選挙、オーストラリア式秘密投票、
国民の発議権と決議権など急進的な綱領を採択した。ブライアンはこの人民党
の勢力を背景に民主党の大統領候補になることができたのである。1896 年の大
510
アメリカ大統領制度史上巻
統領選は、急進性を恐れる実業勢力と革新的な大衆勢力との争いだったと見る
ことができる。
1896 年の大統領選挙は選挙運動に重要な変化をもたらした。多くの有力な民
主党員から見放されたが、演説技量に自信を持つブライアンは有権者に直接支
持を訴えるために国中で遊説旅行を行った最初の大統領候補となった。高い演
説技量に恵まれたブライアンは 1 万 3,000 マイルを踏破し、27 州を巡り、800
回以上の演説を行った。1 日に 6 度の食事を摂り、睡眠は短時間で済ませ、強壮
薬としてアルコールを飲み、ブライアンは遊説旅行を続けた。列車の上から演
説するブライアンのもとに人々は集まった。鉄道の沿線の小さな町をあまねく
巡って遊説旅行は行われた397。
もしブライアンが勝利したとしても有益な政策をとることはできなかっただ
ろう。巨大な産業界を規制する政策を行う準備はまだできていなかったし、銀
貨の自由鋳造が行われていれば不況は長引いたかもしれない。ブライアンの登
場は産業主義に反対する従来の農業を主体とする経済体制の最後の抗議である
とともに革新を求める新しい体制の萌芽であった。ブライアンはジャクソンと
セオドア・ローズヴェルトの中間的な存在であった。
マッキンリーも州知事時代の 1894 年 9 月から 11 月にかけて大規模な遊説旅
行を行ったことで知られている。特別列車を使い、1 万 6,000 マイルを移動し、
約 200 万人に対して毎日平均で 7 回の演説を行った。しかし、1896 年の大統領
選挙でマッキンリーは、遊説旅行に出掛けることはなく共和党の党組織を活用
して「玄関先の選挙運動」を展開した。マッキンリーは、オハイオ州カントン
の自宅で有権者の代表達に挨拶した。6 月半ばから 11 月にかけて、30 州からの
合計約 75 万人の訪問者にマッキンリーは演説した。マッキンリーの演説は長く
て平凡なものであったが、催事は慎重に計画された。代表達が到着する直前に、
カントンに電報が届き、代表達に関する情報が伝えられた。訪問者が到着する
までにマッキンリーは名前を呼んで代表達に挨拶し、姿が見えない家族に言及
し、代表者の故郷に関する話をすることができた。
ブライアンの小さな町を鉄道で巡る遊説旅行と同じく、マッキンリーの玄関
先の選挙運動は、政党が中心となった選挙運動から候補者が中心となった選挙
運動への移り変わりを示すものであった。マッキンリーの家を訪問した者の中
には、有名な玄関の一部を土産として持ち帰る者もいた。またマッキンリーに
贈り物をする者も多かった。インク壺から浴槽に至るまで様々な贈り物がもた
金ぴか時代
511
らされた。そうした人々の行動は、政党ではなく候補者が選挙運動の中心に置
かれるようになったことを示している398。
1896 年の大統領選挙における共和党の劇的な勝利は、手腕に富んだ政治家で
あるマッキンリーに大統領の座をもたらした。マッキンリー政権は、活力に富
んだセオドア・ローズヴェルト政権の前触れとして言及されることが多い。ク
リーヴランドが 2 期目で発揮した強力なリーダーシップを続行することでマッ
キンリーは 1 期目で大統領制度に重要な変革をもたらした。
第 3 項 議会を主導するリーダーシップ
マッキンリー政権はある側面では非常に伝統的であった。ベンジャミン・ハ
リソンのようにマッキンリーは長い議員経験を経て大統領になった職業的な政
党人であった。したがってマッキンリーは良い政治は党組織を通じて達成され
ると信じていた。そして、議会の優越性を尊重していた。しかし、ハリソンと
違って、マッキンリーは大統領の権威を低下させるようなことはなかった。マ
ッキンリーは、南北戦争後の大統領の中で、議会指導者の怒りをかうことなく
政治的主導権を握った最初の大統領になった399。
立法過程に関するマッキンリーのリーダーシップは活発なものであったが、
それは大統領の権限を拡大するような形で発揮されたわけではない。マッキン
リーが議会に影響力を及ぼす手法は、民主共和党の計画を法制化するために党
幹部会を利用したジェファソンの手法と似ていた。ジェファソンの後継者達は
ジェファソンのような議会に対する影響力を持つことができず、大統領のリー
ダーシップを維持する手段としての政党政治の限界を示した。
第 4 項 報道関係
マッキンリーはホワイト・ハウスに記者達のための場所を設けた。大統領の
側近が正午と 4 時の 1 日 2 回現れて様々な事情を簡潔に伝えた。実質的にこれ
はホワイト・ハウス報道室と言えた。マッキンリーは大統領の威信を保つため
に記者達と一定の距離を置こうとした。記者達はホワイト・ハウスの一角に専
用の場所が与えられたものの、事前の約束がなければ大統領に面会することは
できなかった。しかし、マッキンリーはできるだけ記者達と友好な関係を築こ
512
アメリカ大統領制度史上巻
うとした。クリーヴランドとは違って、マッキンリーは、記者達によって設立
されたグリディロン・クラブの夕食会に参加した。グリディロン・クラブは今
日でも記者と政治家が交流する重要な場となっている。
1897 年の遊説旅行でマッキンリーは記者達を随行させただけではなく、親し
く彼らの間に混じって会話を楽しんだ。マッキンリーがワシントンを離れて遊
説旅行に出掛けた回数は約 40 回に及ぶ。例えば 1899 年 10 月に中西部で行っ
た 2 週間の遊説旅行で約 80 回もの演説をマッキンリーは行った。6 人の速記者
を大統領に随行させることで、演説が終わった直後に記者達が演説の正確な原
稿を入手できるようにした400。マッキンリーは、それ程、効果的とは言えなか
ったものの、報道と遊説旅行を使って議会に圧力をかけようとした。それはヘ
イズやハリソンが慎重に避けていた手段であった。マッキンリーが公衆の面前
で暗殺前に最後に行った演説は、上院が無視していた条約を擁護する内容を含
んでいた401。
第 5 項 ハワイ併合
マッキンリー政権は立法ではなく戦争と外交政策にかかりきりになった。大
統領は最高司令官と外交政策の担い手としての役割を十二分に果たした。クリ
ーヴランド政権はハワイ共和国を承認しなかったが、マッキンリーはすぐにハ
ワイ共和国を承認した。マッキンリーはタイラーがテキサス併合で行ったよう
に議会にハワイ併合を認める両院合同決議を出すように求めた。議会は決議を
可決し、1898 年 7 月 8 日、マッキンリーの署名によって成立した。1 ヶ月後、
ハワイ共和国の主権はアメリカに移った。
第 6 項 米西戦争の勃発
スペインからの独立を求めるキューバに対する同情、西半球で植民地を維持
しようとするヨーロッパ列強への反感、そして、キューバ人に対するスペイン
の強制収容所での残虐行為に関する報道によって、アメリカ人の戦いを求める
声は高まった。さらにアメリカは、キューバにプランテーション、鉄道、鉱山
などを中心とする総額 5,000 万ドル以上の経済的権益を持っていた。マッキン
リーはキューバ問題を軍事介入なしで解決することを望んでいた。外交的手段
金ぴか時代
513
を通じてマッキンリーは、スペイン政府にキューバ人を人道的に扱い、反乱者
と交渉によって解決をもたらすように促した。スペイン政府は強制収容所を廃
止し、現地の司令官を更迭し、キューバに自治権を与えることを約束した。危
機は回避されたかのように思えた。
米西戦争は、1898 年 2 月 15 日 21 時 40 分にキューバのハヴァナ港に停泊し
ていたアメリカ海軍のメイン号が何らかの原因よって爆発し、
266 人が死傷した
ことが直接的な引き金となった。メイン号は、キューバ人に対するいかなる妥
協にも応じるつもりがないスペイン人がハヴァナで暴動を起したために、アメ
リカ人を保護し、キューバへの支持を示そうと派遣されていた。アメリカは、
メイン号の爆発が外部的な要因によるものだと断定した。国民の怒りは「メイ
ン号を忘れるな」という合言葉の下に一気に燃え上がった。事件の翌日、マッ
キンリーはスペイン政府に、即時休戦、捕虜の釈放、アメリカ政府による仲裁
を求める覚書を送付した。スペイン政府はアメリカとの戦争を極力避けようと
して問題の解決を図ろうとした。もしマッキンリーが平和的解決を断固たる決
意で推進すればスペインとの戦争は避けられたかもしれない。しかし、マッキ
ンリーは報道の好戦的なプロパガンダに扇動された世論と共和党内のタカ派の
主張に最終的に屈し、外交的手段による平和的解決を諦め、1898 年 4 月 11 日、
議会に戦争教書を送付した。
「長い試練の末に、スペインが戦争をする目的は達成できないということが
明らかになった。暴動の火の手は、季節の移る変わりとともに燃え上がりくす
ぶり続けるであろう。しかし、現在のやり方で鎮火することはできないという
ことは今までは明白ではなかったが、今や明白である。もはや耐えられない状
況から救われ、平穏になるための唯一の希望は、キューバに紛争解決を強いる
ことである。人道の名の下に、文明の名の下に、対話し行動する権利と義務を
与える、アメリカの危機にさらされた利益のために、キューバでの戦争を止め
なければならない。こうした事実と考察から、私は、スペイン政府とキューバ
人民の間の戦争行為を完全に終わらせるために、秩序を維持でき、国際的責務
を遵守でき、平和と平穏、人民の安全を我が国の国民と同様に保障することが
できる安定した政府をキューバ島に樹立させるために必要となる措置を取る権
限と合衆国陸海軍を目的に応じて使用する権限を大統領に認めて与えるように
議会に求める。そして、人道のために、キューバ島の飢えている人民の命を救
う支援を行うために、食糧と生活必需品の配布を継続させ、市民の義捐金を補
514
アメリカ大統領制度史上巻
足するために国庫から予算を割くことを提言する。問題は今や議会とともにあ
る。それは厳粛なる責任である。我々の軒先で起こっている容認し難い事態を
解決するためにありとあらゆる努力を惜しまなかった。憲法と法によって私に
課せられたあらゆる義務を遂行する覚悟はできている。私はあなた方の行動を
待つばかりである」402
議会はマッキンリーの戦争教書に対して 4 月 20 日、大統領に軍事力を行使す
る権限を認め、4 月 25 日、正式にスペインに対して宣戦布告した。しかし、議
会は露骨な帝国主義を心配する人々を安心させるために、テラー修正と呼ばれ
る合同決議で、平和のための場合を除いてキューバの主権を放棄し、平和が達
成された後は、キューバの支配をキューバ人民に委ねることを約束した。米西
戦争に反対する者はごく少数で挙国一致の戦争と言えた。アメリカ人によって
米西戦争は、表向きは旧世界のすべての専制、不信行為、腐敗から自由と民主
主義を守るための戦いであった。米西戦争の勝利は、アメリカを帝国主義勢力
として台頭させることになった。しかし、その目的は本来、キューバとハワイ
を確保し、モンロー・ドクトリンを誇示してアメリカの優越性を主張し、イギ
リスに西半球、特にカリブ海地域に影響力を拡大させないために必要な戦争で
あった。
マッキンリーは戦争遂行を毎日、時には毎時間、監督した。それは大統領が
戦争遂行に積極的に関与するより強固な基礎を築いた403。また米西戦争はマ
ス・メディアを中心とした大統領制度の形成に貢献した。メイン号が爆発した
事件の直後、記者達は答えを求めてホワイト・ハウスに殺到した。新しいニュ
ースを待ってホワイト・ハウスの前で記者達は待機した。1 日に 2 回の状況の説
明では記者達の要望に応えることができないのは明らかであった。戦争中、マ
ッキンリーはホワイト・ハウスの報道機能を拡大し、毎日、公式声明を発表し、
ホワイト・ハウスを通じてどのような小さな情報でも得られるようにした404。
マッキンリー政権の終わりまでにホワイト・ハウスは政治的なニュースの中心
となった。アメリカ国民からホワイト・ハウスに寄せられる手紙は年間 10 万通
に及び、整理に 30 人の職員を必要とした。
第 7 項 米西戦争の展開
戦闘行為は短く、勝利は決定的であった。アメリカ海軍は近代的であり、兵
金ぴか時代
515
員の士気は高かった。それに比べてスペイン海軍は老朽化しているうえに兵員
の士気は奮わなかった。1898 年 5 月 1 日、ジョージ・デューイ(George Dewey)
率いるアジア艦隊は宣戦布告の知らせを受けると香港から出港し、マニラ湾で
スペインの太平洋艦隊に完勝した。アメリカ海軍の戦死者はなく 8 人が負傷し
たのみであり、艦船の損害も軽微であった。それに対してスペイン艦隊は 400
人以上が死亡し、7 隻の艦船すべてが破壊された。デューイは海戦で勝利を収め
たが十分な兵力がなかったために、フィリピンの占領は本土からの陸軍派遣を
待たなければならなかった。マッキンリーはフィリピンに陸軍を派遣したが、
マニラのみを占領するのか、それともフィリピン群島全体を制圧するのか明確
な指示を与えなかった。6 月、フィリピン派遣軍の分遣隊によってグアムが占領
された。アメリカ海軍はフィリピンの革命派の指導者エミリオ・アギナルド
(Emilio Aguinaldo)率いる部隊がマニラを攻撃する支援を行った。マッキンリー
はフィリピン独立運動にどのように対処するのか決定していなかった。そのた
めアメリカ軍はアギナルドに戦略的な主導権を奪われた。6 月、アギナルドはフ
ィリピン独立を宣言した。遅れて到着したフィリピン派遣軍はスペインと取引
を行った。アギナルドをマニラの要塞の外に追放することと引き換えにスペイ
ンはマニラをアメリカに引き渡した。その一方で、アメリカの北大西洋艦隊は
キューバ海域を封鎖した。ウィリアム・シャフター(William Shafter)率いるア
メリカ軍は護衛戦艦に守られてサンティアゴ付近に上陸した。シャフター率い
る部隊はエル・カネイとサン・フアン・ヒルの攻略に成功し、7 月にサンティア
ゴを占領した。ウィリアム・サンプソン(William Sampson)率いるアメリカ艦隊
はキューバとジャマイカの間の海域でスペインの大西洋艦隊を打ち破った。7 月
終わり、アメリカはプエルト・リコを占領した。
米西戦争で最も重要な点は、カリブ海と太平洋における領土の拡大が相当な
ものであったので、南北戦争後に起きたような大統領の権限に対する戦後の反
動がなかったことである。米西戦争の勝利に伴うフィリピンの獲得とキューバ
への影響圏の拡大は、合衆国に広範な国際的な責務を負わせた。合衆国が国際
問題において新しい顕著な地位を得るようになったというアメリカ人の思いを
助長させた。したがって米西戦争は大統領制度の憲法上の発展における画期的
な事件であった405。マッキンリーは秘書に向かって「私はもはや政党の大統領
とは呼ばれない。私は今や全人民の大統領である」と言っている406。
さらにマッキンリーはアメリカの使命感を強く主張した。マッキンリーは第 2
516
アメリカ大統領制度史上巻
次就任演説の中で、アメリカの歴史がまさに「自由と博愛」を高める歴史であ
ったと概括し、
「神への畏敬の念の下に、好機を利用し自由の領域をこれから拡
大する」と明言している。マッキンリーは自身が神の意志に従って行動してい
るという印象を国民に与えようとした。アングロ・サクソンの優位性と自由、そ
してナショナリズムが結び付き、アメリカは「最大の自由と最も純粋なキリス
ト教信仰と最高の文明」を人類に流布する使命を帯びた国であるという自意識
を持つようになったのである。
第 8 項 講和交渉
スペインは講和を求めた。停戦は 8 月 12 日に宣告された。米西戦争で戦死し
たアメリカ人は400人以下であったが、
数千人がマラリアや黄熱病で死亡した。
1898 年 12 月 10 日、パリ講和条約が締結された。スペインはキューバに対する
領有権を放棄し、プエルト・リコ、グアムをアメリカに割譲し、2,000 万ドルと
引き換えにフィリピンを割譲した。
アメリカはフィリピンを獲得することで極東進出への橋頭堡を確保するか、
それともフィリピンを放棄して極東から一切撤退するか選択を迫られた。さら
にドイツがフィリピン獲得を狙っていることは明らかであった。結局、アメリ
カはフィリピンの獲得することを選択し、植民地を持つ海洋帝国として世界の
強国となった。フィリピンの獲得は同時にアメリカを極東の一大強国とし、ア
ジアの勢力均衡に巻き込み、最終的に日本との対決に繋がった。そうした意味
でフィリピンの獲得とはアメリカの歴史における重要な転換点であった。
ただしフィリピンやプエルト・リコ、グアムは公式には植民地として扱われ
ず保護領であり、植民地省のような植民地を監督するような組織は設立されず、
陸軍省内の島部領土問題局の管轄下に置かれ、離島領土は海軍省の管轄に置か
れた。また保護領は連邦議会が定めた組織法を憲法として採択した。そして、
合衆国憲法は組織法で示されている部分と連邦裁判所が適用可能と判断した部
分のみが適用された。保護領の住民は連邦政府によって特別に認められない限
り、アメリカの市民権を持たなかった。
第 9 項 米比戦争
金ぴか時代
517
講和条約で米西戦争は終結したが、それはフィリピンでのさらなる戦いを意
味していた。アメリカはマニラの共同占領を求めたアギナルド率いるフィリピ
ンの革命派を裏切る形になった。スペインとアメリカの休戦の知らせが届いた
頃、アメリカ軍と革命派の間で既に戦闘が始まった後であった。フィリピン人
はアメリカが導入する民主主義と自由によってもたらされる変革を歓迎するも
のだと予想していたために、フィリピン人の抵抗はアメリカにとって驚き以外
の何物でもなかった。初代大統領に選出されたアギナルドは、フィリピンを占
拠しようとするアメリカ軍の試みに抵抗すると声明した。
フィリピンでの戦闘は米西戦争よりも多くの戦死者を出したが、マッキンリ
ーは議会に戦争権限を求めようとしなかった。なぜならフィリピンは既にスペ
インから割譲されたアメリカの領土の一部であるから、フィリピンでの戦闘は
反乱だとマッキンリーは考えたためである。マッキンリーはフィリピン人が自
治政府には不向きであると考えていた。マッキンリーの考えでは、アメリカが
すべての責任を負い、フィリピン人を教育し、キリスト教化しなければならな
かった。しかし、実際にフィリピン人に行われたのは拷問、虐殺、略奪であっ
た。フィリピンにおける 2 年半に及んだ紛争で、アメリカは 12 万人の兵士を動
員し、4,300 人の犠牲者を出した。一方で、フィリピン人は 1 万 6,000 人の兵士
と 25 万人以上の民間人が犠牲になったと言われている。
19 世紀の大統領制度の伝統に基づいてマッキンリーは、アメリカの対フィリ
ピン政策を決定するのはアメリカ人民の声を代弁している議会であると主張し
た。しかしながら議会は組織法を定めた他はアメリカの最初の植民地であるフ
ィリピンの地位を具体的に決定する法案を制定しようとはしなかった。その代
わりに議会は、大統領にフィリピンを軍政下に置く権限を認めた。実際、議会
がフィリピンをほとんど監督することがなかったので、フィリピンは大統領の
監督下に置かれた。戦時の大統領としてマッキンリーは非常時であること強調
し、これまで以上に大統領の権限を拡大した407。
第 10 項 キューバ統治
一方、キューバでは事態は平和的に進んだ。ヨーロッパ列強はアメリカがキ
ューバを併合すると予想していたが、アメリカはキューバを自由にするという
約束を果たした。少数のアメリカ占領軍がキューバを 3 年にわたって統治した
518
アメリカ大統領制度史上巻
が、フィリピンと対照的にアメリカに反抗するような動きは見られなかった。
1900 年、キューバで憲法制定会議が開催され、アメリカの要望にしたがってグ
アンタナモ海軍基地がアメリカに譲渡され、キューバの独立と秩序を維持する
ためにアメリカの介入を認めるプラット修正条項が認められた。その後、アメ
リカ軍は撤退し、キューバは主権を獲得した。プラット修正条項は 1934 年に破
棄されるまで存続した。
第 11 項 門戸開放政策
アメリカが国際的な責務を担うようになったことで政党間の相違が緩和され
た。ワシントン以来、初めて大統領は党派政治の枠組みを超えた地位を享受す
ることができた。太平洋に領土を持つことは極東における合衆国の利害を増加
させた。ハワイとフィリピンの獲得によって、中国との貿易を行う中継点が確
保された。当時、日本、イギリス、フランス、ロシア、そしてドイツは弱体化
する中国から特殊権益を獲得していた。アメリカ国内で中国市場におけるアメ
リカの特殊権益を確保するように求める声が高まった。
1898 年 9 月、マッキンリーはジョン・ヘイ国務長官を通じて中国に対する門
戸開放政策を唱えた。アメリカは中国が列強の侵略によって崩壊し、列強がア
メリカに対して貿易障壁を築くのではないかと恐れていた。ヘイはイギリス、
ロシア、ドイツ、フランス、ベルギー、イタリア、日本に、各国が中国におけ
る利益範囲、租借地域の条約港、既得権益に干渉しないこと、中国の関税率を
利益範囲の港で陸揚げ、船積みされる商品に対してその国籍に関係なく適用す
ること、そして、利益範囲内の他国籍の船舶、鉄道運賃、商品に対して自国籍
よりも高い運賃、税を課さないことを要請した。つまり、差別関税やその他の
規制なしですべての交易国に中国で平等な足掛かりを与えるというのが要点で
ある。中国との貿易を独占し続けたいと考えていた列強はアメリカの門戸開放
政策を歓迎しなかった。
中国に進出する機会は 1900 年に義和団事変が起きた時に訪れた。義和団は北
京のイギリス大使館に篭城した各国公使を包囲した。義和団は 8 ヶ国連合軍に
よって鎮圧された。マッキンリーは門戸開放政策を認めさせる見返りにアメリ
カ軍を派遣した。北京議定書の下、中国政府は 3 億 3,300 万ドルの補償金の支
払いを認めた。アメリカはそのうち 2,500 万ドルを獲得し、その多くは中国人
金ぴか時代
519
学生の奨学金に使われた。
ヘイは 1900 年 7 月に 2 度目の通告を各国に送付し、中国の領土的、行政的独
立の維持を求めた。アメリカは欧州列強や日本による中国分割を牽制しつつ、
自国の将来の権益を確保しようと図ったのである。こうした門戸開放政策は 20
世紀半ばまでアメリカの対中政策の基本原則となった。
第 12 項 暗殺
マッキンリー政権は突然終わりを迎えた。1901 年 9 月 6 日、マッキンリーは
バッファローで開かれたパン・アメリカン博覧会を訪問中に無政府主義者の銃
撃を受けた。公式の歓迎会で大統領に挨拶する列に並んでいたレオン・チョル
ゴシュ(Leon Czolgosz)は手を差し伸べようとした大統領の腹部に向けて 2 回発
砲した。チョルゴシュの銃はハンカチに包まれた手の下に隠されていた。警護
の者は特に何の不審も抱かなかった。1 発の銃弾は胃を貫通していた。ガーフィ
ールドは近くの病院に運び込まれたが、医師は残る銃弾を発見できず、腹腔内
を洗浄して縫合するだけにとどめた。大統領は 8 日間生存したが、9 月 14 日に
壊疽によって亡くなった。検死によっても銃弾は発見されなかった。ガーフィ
ールドが亡くなった時、副大統領のセオドア・ローズヴェルトはアディロンダ
ック山脈に出掛けていたためにすぐに大統領職を引き継ぐことができず、13 時
間、大統領職が空席になった。
第 13 項 結語
マッキンリー政権は大統領制度の重要な転換期にあたる。確かにマッキンリ
ー政権は、活発な大統領のリーダーシップの前兆に過ぎないのかもしれない。
連邦政府は経済に関して限定的な役割しか果たさないという信念に基づいてマ
ッキンリーはトラスト、労働者、公職、人種関係などその当時の重要な問題を
解決するために積極的な施策をとろうとはしなかった。また既存の党組織を通
じて以外は世論に積極的に訴えようともしなかった。マッキンリーは教書や演
説で外国貿易やフィリピン問題に言及することはあったが、特定の法案や条約
に言及することはまれであった。
南北戦争後、アメリカ社会は大きく変化した。連邦政府が州政府や地方当局
520
アメリカ大統領制度史上巻
に対する優位性を確立し、近代国家の基礎が固められた。政党は全国的な組織
に成長した。戦時における大統領の権限拡大に対する反動として議会の影響力
が増大した。全国的に産業が発達し、独占的な企業が出現した。フロンティア
が消滅し、都市化が進捗した。工業の発達により工場労働者の数が増えた。労
働力の需要が高まり、移民が増加した。産業の発達とフロンティアの消滅によ
り海外市場の獲得に目が向けられるようになった。
社会の変化に伴って様々な弊害が生じた。独占企業は自らの事業を有利に進
めるために政治家を買収した。ジャクソン政権に始まる猟官制度がますます激
しくなり、政治的ボスが暗躍するボス政治が猖獗を極めた。都市化によって公
衆衛生、住宅、貧困、教育などの問題が生じた。労働者の数の増大によって過
重労働、低賃金、年少者労働など様々な労働問題が生じた。農作物価格の下落
によって農民が打撃を受けた。こうした弊害は、自由放任主義に基づく小さな
政府が社会の変化に対応しきれなくなった結果、生じた。弊害を是正しようと
しない政府への不満が次第に高まり、それは革新主義として結実するようにな
った408。
革新主義は政治の世界にも影響を及ぼした。運動は結合力がなく組織化され
ていなかったが、革新主義者は州政府に影響を及ぼし始め、政治的ボスの権力
を剥ぎ取り、主権を人民に返すことを大きな目的とした。広範な政治改革には
秘密投票、直接選挙による予備選挙、議会の施策に対する住民投票、有権者の
請願による立法、上院議員の直接選挙などが含まれた。直接投票による予備選
挙は、政治的ボスではなく人民の投票によって候補者を選ぶ仕組みである。1916
年までに 3 つの州を除くすべての州が直接選挙による予備選挙を採用した。し
かし、有権者による解職請求は広く受け入れられなかった。そうした政治改革
は公職者が有権者に対してより直接的に責任を負うようにさせた。革新主義を
提唱した代表的な大統領は、セオドア・ローズヴェルト、タフト、そしてウィ
ルソンの 3 人である。
金ぴか時代
521
注
1
2
3
4
5
6
Louis W. Koenig, The Chief Executive (Harcourt Brace, 1996), 2.
Louis W. Koenig, The Chief Executive (Harcourt Brace, 1996), 3.
Jefferey Cohen and David Nice, The Presidency (McGraw-Hill, 2003), 53-59.
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宇都宮静男、
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9 Jack P. Greene, Peripheries and Center: Constitutional Development in the Extended
Polities of the British Empire and the United States (University of Georgia Press, 1969),
27.
10 Gordon S. Wood, The Creation of the American Republic, 1776-1787 (University of
North Carolina Press, 1969), 138.
11 宇都宮静男、
『アメリカ大統領制度論』(有信堂、1974 年)、91-98。
12 酒井吉栄、
『アメリカ憲法成立史研究』(評論社、1965 年)、1:62-70。
13 宇都宮静男、
『アメリカ大統領制度論』(有信堂、1974 年)、121-126。
14 Richard J. Ellis, ed. Founding the American Presidency (Rowman and Littlefield,
1999).1-5.
15 Letter from James Madison to James Monroe, August 7, 1785.
16 Charles C. Thach Jr., The Creation of the Presidency, 1775-1789 (Johns Hopkins
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17 Letter from George Washington to Alexander Hamilton, March 31, 1783.
18 The Circular to State Governors, June 8, 1783.
19 宇都宮静男、
『アメリカ大統領制度論』(有信堂、1974 年)、151-154。
20 Vices of the Political System of the United States.
21 Journal of Jared Sparks, April 19, 1830.
22 Christopher Collier and James Lincoln Collier, Decision in Philadelphia: The
Constitutional Convention of 1787 (Ballantine, 1986), 120.
23 Letter from Benjamin Franklin to Thomas Jefferson, April 19, 1787.
24 Letter from George Washington to Alexander Hamilton, July 10, 1787.
25 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 1:242-245.
26 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 1:291-293.
27 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:177-189.
28 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:497-499, 508-509.
29 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:590-603.
7
8
522
アメリカ大統領制度史上巻
Clinton Rossiter, 1787: The Grand Convention (MacGibbon and Kee, 1968), 60-64.
Letter from John Adams to Thomas Jefferson, December 6, 1787.
32 Letter from Thomas Jefferson to James Madison, December 20, 1787.
33 Letter from Thomas Jefferson to James Madison, March 15, 1789.
34 Jack N. Rakove, Original Meanings: Politics and Ideas in the Making of the
Constitution (Knopf, 1996), 82.
35 Fred Barbash, The Founding: A Dramatic Account of the Writing of the Constitution
(Linden Press/Simon and Schuster, 1987), 175.
36 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 1:103.
37 Richard J. Ellis, The Development of the American Presidency (Routledge, 2012), 8.
38 William M. Goldsmith, ed., The Growth of Presidential Power: A Documented History
(Chelsea, 1974), 1: 38-40.
39 William M. Goldsmith, ed., The Growth of Presidential Power: A Documented History
(Chelsea, 1974), 1: 49-50.
40 William M. Goldsmith, ed., The Growth of Presidential Power: A Documented History
(Chelsea, 1974), 1: 55-57.
41 Letter from James Madison to George Washington, April 16, 1787.
42 Calvin C. Jillson, Constitition Making: Conflict and Consensus in the Federal
Convention of 1787 (Agathon Press, 1988), 42-47.
43 David C. Whitney and Robin Vaughn Whitney, The American Presidents,
30
31
Biographies of the Chief Executives, from George Washington through Barack Obama
(The Reader’s Digest Association, Inc., 2009), 618.
44 David C. Whitney and Robin Vaughn Whitney, The American Presidents,
Biographies of the Chief Executives, from George Washington through Barack Obama
(The Reader’s Digest Association, Inc., 2009), 622.
45 David C. Whitney and Robin Vaughn Whitney, The American Presidents,
Biographies of the Chief Executives, from George Washington through Barack Obama
(The Reader’s Digest Association, Inc., 2009), 623.
46 Richard J. Ellis, ed., Founding the American Presidency (Rowman and Littlefield,
1999), 12-13.
47 Charles L. Mee Jr., The Genius of the People (Harper and Row, 1987), 118.
48 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 1:65-66.
49 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 1:102.
50 David C. Whitney and Robin Vaughn Whitney, The American Presidents,
Biographies of the Chief Executives, from George Washington through Barack Obama
(The Reader’s Digest Association, Inc., 2009), 621.
51 Richard J. Ellis, ed., Founding the American Presidency (Rowman and Littlefield,
1999), 34.
52 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:487-488.
注
523
Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:68-69.
54 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:57.
55 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:31.
56 Richard J. Ellis, The Development of the American Presidency (Routledge, 2012), 24.
57 Clinton Rossiter, 1787: The Grand Convention (MacGibbon and Kee, 1968),199.
58 酒井吉栄、
『アメリカ憲法成立史研究』(評論社、1965 年)、1:190-194。
59 Richard P. McCormick, The Presidential Game: The Origins of American Presidential
Politics (Oxford University Press, 1982), 25.
60 丹羽巌、
『アメリカ大統領制の創造と展開』(成文堂、1993 年)、10-11。
61 丹羽巌、
『アメリカ大統領制の創造と展開』(成文堂、1993 年)、27。
62 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:500.
63 Carol Berkin, A Brilliant Solution: Inventing the American Constitution (Harcourt,
2002), 143-144.
64 David C. Whitney and Robin Vaughn Whitney, The American Presidents,
53
Biographies of the Chief Executives, from George Washington through Barack Obama
(The Reader’s Digest Association, Inc., 2009), 621.
65 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 1:68.
66 David C. Whitney and Robin Vaughn Whitney, The American Presidents,
Biographies of the Chief Executives, from George Washington through Barack Obama
(The Reader’s Digest Association, Inc., 2009), 622.
67 David C. Whitney and Robin Vaughn Whitney, The American Presidents,
Biographies of the Chief Executives, from George Washington through Barack Obama
(The Reader’s Digest Association, Inc., 2009), 625.
68 David C. Whitney and Robin Vaughn Whitney, The American Presidents,
Biographies of the Chief Executives, from George Washington through Barack Obama
(The Reader’s Digest Association, Inc., 2009), 626-627.
69 宇都宮静男、
『アメリカ大統領制度論』(有信堂、1974 年)、167。
70 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:53.
71 Richard J. Ellis, ed., Founding the American Presidency (Rowman and Littlefield,
1999), 233.
72 David C. Whitney and Robin Vaughn Whitney, The American Presidents,
Biographies of the Chief Executives, from George Washington through Barack Obama
(The Reader’s Digest Association, Inc., 2009), 620.
73 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 1:88.
74 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:550.
524
アメリカ大統領制度史上巻
Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:427.
76 Alexander Hamilton, James Madison, and John Jay, The Federalist Papers (New
American Library, 1961), 301, 303.
77 Richard E. Neustadt, Presidential Power (Wiley, 1960), 35.
78 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 1:82.
79 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 1:376.
80 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:284.
81 James Sundquist, Constitutional Reform and Effective Government (Brookings,
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82 Richard J. Ellis, ed., Founding the American Presidency (Rowman and Littlefield,
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83 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
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84 David C. Whitney and Robin Vaughn Whitney, The American Presidents,
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Biographies of the Chief Executives, from George Washington through Barack Obama
(The Reader’s Digest Association, Inc., 2009), 625-626.
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86 Richard M. Pious, The American Presidency (Basic Books, 1979), 29.
87 John Locke, The Second Treatise on Government (Bobbs-Merrill, 1952), 91-96.
88 Charles C. Thach Jr., The Creation of the Presidency, 1775-1789 (Johns Hopkins
University Press, 1969), 138-139.
89 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:318.
90 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
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91 Forrest McDonald, The American Presidency: An Intellectual History (University
Press of Kansas, 1994), 173-174.
92 Anthony J. Bennett, The American President’s Cabinet: From Kennedy to Bush (St.
Martin’s Press, 1996), 2.
93 Francis Newton Thorpe, The Federal and State Constitutions: Colonial Charters, and
Other Organic Laws of the States, Territories, and Colonies, Now or Heretofore Forming
the United States of America (Scholarly Press, 1909), 2633.
94 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 1:292.
95 Richard J. Ellis, ed., Founding the American Presidency (Rowman and Littlefield,
1999), 220-221.
96 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:426, 626.
注
525
Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:292.
98 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:309.
99 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:540.
100 Richard J. Ellis, ed., Founding the American Presidency (Rowman and Littlefield,
1999), 190.
101 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 1:67.
102 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:405.
103 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:522.
104 Francis Newton Thorpe, The Federal and State Constitutions: Colonial Charters,
97
and Other Organic Laws of the States, Territories, and Colonies, Now or Heretofore
Forming the United States of America (Scholarly Press, 1909), 2633.
105 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 1:67.
106 M. C. ペリー、
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107 エミリー・ウォリナー、
『ジョン万次郎漂流記』(宮永孝訳、雄松堂出版、1991 年)、150。
108 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:427.
109 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:468.
110 Charles C. Euchner and John Anthony Maltese, Selecting the President (CQ Press,
1997), 142.
111 Letter from John Jay to George Washington, July 25, 1787.
112 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:249.
113 丹羽巌、
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114 John D. Feerick, From Failing Hands: The Story of Presidential Succession
(Fordham University Press, 1965), 23-38.
115 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
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116 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:427.
117 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:535.
118 Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:137, 146, 163, 172.
119 John D. Feerick, From Failing Hands: The Story of Presidential Succession
(Fordham University Press, 1965), 48-51.
526
アメリカ大統領制度史上巻
Max Farrand, ed., The Records of the Federal Convention (Yale University Press,
1937), 2:537.
121 Alexander Hamilton, James Madison, and John Jay, The Federalist Papers (The
New American Library, 1961), 411-414.
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197 Letter from Thomas Jefferson to Spencer Roane, September 6, 1819.
198 アメリカ学会編訳、
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199 Second Inaugural Address, March 4, 1805.
173
注
529
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406
407
538
アメリカ大統領制度史上巻
注
539
アメリカ大統領制度史上巻
2013 年 9 月 1 日 初版
著者 西川秀和
発行所 デザインエッグ株式会社
{ISBN}
540
アメリカ大統領制度史上巻