六義園が我々に語るもの r02005 荒井宏介

建築史 第
一回報告書
(R02005) 荒井
宏介
※このフォルダ用のバージョンでは、用紙提出用とは違うレイアウトです
が、内容と文章に変わりはありません。また、CD−RW に保存し、提出用
フォルダに落としましたが、CD-RW 保存の際、写真の位置等に狂いが
生じて、保存してしまうこともありますので、ご了承下さい。また和歌の部
分に、現在使用されていない日本語を用いて、原文そのままを掲載致し
ました関係で、赤波線が下線として引かれているところがあります。こちら
もご了承ください。
出題:
授業で述べた日本的手法「結界・見立て、虚
空・あいまいな空間・その他」の一つを日常生
活から採り上げ、自分独自の視点で文字、写真、
画像、その他データを駆使し、論ぜよ。
テーマ:
主題:
見立て (写し)
り く ぎ えん
身近な庭園、六義園が我々に語るもの
り く ぎ えん
〜六義園の見立て・写しに隠されたものが何を悟らせ
るのか
〜写しを通じ、庭園が見立てるものが何を語らせるの
か
※六義園は「写し」を通じ、あたかもその「写し」た原型が、その
場にあると見立てていることから、本レポートにおいて、「見立
て」=「写し」と致す。
目次:
§1. 情報
り く ぎ えん
1-1. 「六義園」 選別理由
り く ぎ えん
1-2.「六義園」の解説
1-3.建設当初の存在意義
1-4.大名庭園の心得
1-5.現在の概況
§2. レポートの本題
2-1.(起)序論
2-1-1. テーマ選別理由
2-2-2. 現在の表面的な存在意義
2‐2.(承)庭園が語るもの、語らせるもの
2‐3.(転)他の視点より
2‐4.(結)結論
§1.
情報
り く
ぎ えん
1-1. 「六義園」
選別理由
筆者は美を堪能することを好む。その一環として庭園巡りを、
機会があった時は行う。これまで 18 年 9 ヶ月の人生のうち、幾
度となく庭園を訪れた。熊本市の水前寺公園、金沢市の兼六
園、東京北区滝川の古河庭園、東京文京区の六義園…。そ
の中で今度は建築史を学ぶ者として「庭園」を見ることにした。
「庭園」と一口に言っても、日本はさることながら、東京都だけ
でも相当数 の庭園が 存 在する。筆 者はその中 から 、日常
「衣」・「食」・「住」を営んでいる自宅の近くの庭園、「六義園」
に焦点を於いた。「六義園」には時々訪れる。自宅の筆者の部
屋からも、木々が見える。都内の中では珍しく、広大な敷地を
持つ庭園であるので、一回の訪問で全てを見学することは不
可能。現に筆者は文京区本駒込 6 丁目在住 4 年目であるが、
くま
庭園内全てを、隈 なく見たわけではない。この報告書作成を
良い契機として、未知なる「六義園」を、専門科目への報告書
として、歴史・見立て・存在意義を軸に調査することにした。六
義園の中のそれらが何を語るかについて著したい。
り く
ぎ えん
1-2.「六義園」の解説
沿革(園内の案内板から)より要約:
六義園は元禄 15 年(1702)武州川越藩主柳沢出羽守吉保
が築造した庭園である。昭和 15 年 8 月、史跡名勝天然記念物
保存法によって名勝の指定を受け、昭和 28 年 4 月特別名勝と
なった。
庭園の形式は江戸時代の庭園にみる所謂回遊式築山山水
庭園である。園の中央に池を設け、中島を置き島に妹背山が
あり、東南部に平坦な芝生、その他の部分には大小多数の築
山が起伏し、園の北部に最大の築山藤代峠を設け、各所に桃
の茶屋・滝口の茶屋・吟花亭・熱海の茶屋・つつじの茶屋・芦
辺の茶屋等東屋を配している。その後改修、また今次大戦に
より焼失したものもある。この庭園の作庭については、吉保自
身の身を培った文芸趣味の思想に基づき、設計から 7 年余り
の歳月を費やして、池を堀、山を築き、流れを見せ、紀州和歌
の浦の景勝を、あるいは「万葉集」や「古今集」から名勝を選び
園内に八十八景を写しだすという園の構成でとなっている。
「六義園」の名は、中国の古い書物である毛詩に配されてい
る賦・比・興・風・雅・頌の六義に由来する和歌の六体によるも
ので、吉保自身「むくさのその」と呼ばせ、館を「六義館」と書
いて「むくさのたち」と読ませていたという。
この庭園は吉保が没した後は荒れる一方であったが、文化 7
年に至り、漸く整備され、明治 10 年頃付近の藤堂・安藤・前田
の各私邸とともに、岩崎氏の別邸の一部となるに及んで再び
昔の美しさを取り戻し、昭和 13 年 1 月岩崎氏から庭園を中心
とした 3 万余坪を市民の観賞・休養の地として、東京市に寄贈
され同年 10 月東京市の管理のもとに公開され、現在は東京
都が管理公開している。
1-3.建設当初の存在意義
前述どおり、この「六義園」は柳沢吉保が設立したものであ
る。和歌の名所を八十八境※1として構想し、それをちりばめて
作り上げたいと思ったという、「写し」である。柳沢吉保は、徳川
五代将軍綱吉公の家来であったため、写すだけの富はあった
ことになる。無論、柳沢吉保が造成させたからには、この「六義
園」も大名屋敷である。さて、江戸時代、大名の屋敷に付属す
る大名庭園はなぜ必要だったのか。それは、大名自身が鑑賞
し、楽しんでいたと言うのもあるが、最も大きな理由は、将軍家
の御成りや、他の大名家との儀礼と交際のためであった。庭園
は、大名の身分を維持していくために必要なものだったのであ
る。これは民衆向けではない。権力のひけらかしでしかなかっ
た。こう考えると美自体の目的はないことに帰する。美を創り、
それを要人にしか公開しないのであった。
1-4.大名庭園の心得
大名庭園の特徴として、最も代表的なのが"地泉回遊式"で
ある。六義園も採用している地泉回遊式とは、園内に池を作り、
その周りを回遊しながら庭園を鑑賞する形式のことである。回
遊することによって、風景が様々に転換するようになっている。
日本庭園の場合に取り入れられる手法は借景と縮景、見立て、
写しなどである。借景は庭園の外部の景観を庭越しに取り込
んで、庭園が境界を越えてはるか遠方にまで伸びていって、
外部と一体となっているかのごとき印象をつくるものである。縮
景は、庭園のなかにつくる岩や樹木を、実際のスケールより大
きなものであるかのように見做す手法である。それは、庭園の
なかに外の世界の名所や景色を取り込むものである。六義園
について補足すれば、庭園のなかに外の世界の名所や景色
を取り込むものであるので、柳沢吉保はこのように「写し」を
通じ、彼の財力を用いて自分の思うままに、好きな風景を手に
入れたのである。自らの欲による行動とも言えよう。吉保が意
識していたかは不明なるも、彼は自身の権力を駆使し、限られ
た敷地において、広い世界を見ていたのであろう。
補足:現在借景といえば、住宅において庭の持てない家に対
して、近所の庭のある家にその風景を、ベランダから等、自然
に見せてもらうという意味にも使われる。
1-5.現在の概況
六義園は、池の周囲が芝生で覆われているので、池に近づ
くことができない。従って、池の中に浮かぶ蓬莱島、庭園の陸
にある玉藻磯、出汐湊などの八十八境の1つも見づらくなって
いる。他の庭園よりも、特に芝生に厳しく、妹背山、鶺鴒石など
がある中島も、立ち入り禁止になっており、遠くから眺めること
しかできない。かつて、庭園を無料で公開していた時期があっ
た。その時に、園内がかなり荒れてしまったらしい。そういう背
景があったからこそ、大事な場所は安易に近づけないようにし
ているのかもしれない。しかし、そのおかげか、六義園は他の
庭園よりもきれいな姿を保っている。
このような負の側面だけではない。読者の方に想像して頂き
たい。貼付地図を御覧頂けばお分かり頂けるのであるが、正
に都心の中に位置する六義園。脇の本郷通り、山手線の線路、
皆音を発生させる媒体であり、その喧騒はけたたましい筈であ
る。しかし、一旦六義園に入れば、それらから解放される。殆ど
聞こえてこないのだ。さらに奥へと侵入していくと、東京都文京
区であることすら忘れさせる。ただ自分が美の中に在るのだ、
という感情が沸くのである。(設立された江戸時代には、自動
車や電車は無かったから、そのような騒音はない。)週末や、
長期的観光時期になれば、はとバスが停車し、一行が園内に
入っていく。勿論、付近の住民も、時折踏み入れる。特に、春
つ つ じ
先は観光客が多い。ちょうどその頃、駒込駅構内にある躑躅
の花が満開を迎え、少しはなれたところにある古河庭園、 六
義園の3つが共鳴し、駒込の町が活気付く。
§2. レポートの本題
起
序論
2-1-1. テーマ選別理由
2-1.
普段無意識に口にしたり赴いたりする庭園。その庭園には
大きな意味を持っている。単に『美』を提供しているのではな
いということである。昔、芸術とは何かと言うアメリカの小論文を
読み、それに感銘を受けた。建築にも応用できないかと思い、
この報告書のテーマ選定が始まった。そこで何を提供している
のかをレポートにすることにした。その後証拠収集開始。
全ての基盤である、土地、庭園の土地に注目しよう。当然そ
の土地は何らかの形を持つ。江戸は遥か、原始時代、地球誕
生から。しかしその土地を無視しては何も生じない。そこに庭
園として使用されているという意味を与えよう。こうすることでそ
の土地は、実体を持ち、意味をなくして存在することはなくなる
のだ。庭園でなくても、建物で良い。ちょうど人間と同じ。ある
人間に対して、名前がなければ、その人間という生物は、存在
意味がない。だがそれに名前を与えることで、存在意味を与え
るのだ。名前が無ければ何もしようがないということ。建築に関
しても同様。何か建造物を作っても、使用目的、使用者が居な
たたず
ければ何も意味がない。さらに、 佇 んでいる建築物を呆然と
眺めたって、何も得ることはない。これから昔読んだアメリカの
小論文をも踏まえ、「では庭園の見立てが、どんなことを言わ
んとしているのであろう」を考えることにした。つまり、六義園の
見立てのみに惑わされることなく、きちんとそれに潜在するも
のは何かを考えたい。
2-1-2. 現在の表面的な存在意義
前に、無料で公開していた時期があったと書いたが、有料
になっても、なぜ人々は入場料等を払ってこの六義園へ足を
運ぶのであろうか。これは紛れも無く、美・安らぎを求めるから
である。確認は取れていないが、付近の会社である科研製薬
そび
(写真中のビル)の社員が、聳え立つビルの上層階から、六義
いや
園を見下ろしていることくらいは容易に想像可能だ。昨今、癒
しという言葉がよく飛び交っているのは自明。これを連想すれ
ば良い。(事実、この科研製薬のビルが格好の六義園観賞の
場であることは、暗黙の了解であろう。)
ではその美・安らぎを提供しているものとは何かといえば、
六義園、つまり「庭園」である。庭園とは建造物、建築に当ては
まる。建築は身体のすべてを取り込んで存在するものである。
その建築が人々に満足感を与えるのだ。それに限らず、一般
に建築は人に何らかの満足感を与えなければ意味がない。
(刑務所、警察署等のように、人を罰したり人を貼り付け状態
にしたりすることを目的とする建物は、当てはまらないであろ
う。) そこの人々は、物理的な敷地の広さと形状を越えた場に
満足を感じる。六義園は庭園だが、その庭園は動かない。庭
園にできることは、そこに庭園独自の世界を作り出すことであ
けんそう
る。前述通り、中に入ってしまえば都会の喧騒から解放される。
残るのは庭園の風景のみ。この「風景」こそが、全てを握って
・
・
・ ・
いる。しかし、無心の庭園の美に浸かり、のほほんとしてばかり
ではいけない。
2-2.
承
庭園が語るもの、語らせるもの
では、「風景」を見れば何が分かるのであろうか。勿論筆者
を含めた一般人は、その庭園の美を見て「綺麗」、「美しい」、
「心休まる」などと言う。これを否定してはいけない。しかし表面
・
・
的な美のみを風景は語ろうとしているのではない。建築におけ
る「庭園」においても、現在を生きる我々は、その見かけだけを
あげつら
論 って評価してはならないのだ。庭園の配置、緑、物物を吟
味して、それが何を我々に訴えかけているのかを考えなくては、
庭園を真に味わうことにはならないと思われる。六義園の場合、
柳沢吉保が見たい和歌の 88 箇所の「写し」をしたものであるが、
庭園が作り出す風景に注目すると、それ自身が語るもの、「写
し」の意味、偉大さ、それに関連する想像を、人々は得ること、
することができる。
その一環に、庭園は文化を保存し、我々に提供する。庭園
の配置・出所等を見れば、その時代の風潮・事情を知ること・
考えることができる。筆者の調査も踏まえて書くと、庭園のなか
に物理的な敷地の広さと形状を越えた、世界を見るのである。
庭園がこのように庭園そのもの実物を越えて拡がり、連想を開
始させる。現実の世界が拡大されたり縮小されたりし、同時に
それが歪められたり肥大化したりして、見物人の脳裏の中に湧
く。そして一旦庭園のなかに写し込まれた世界の映像・イメー
ジは瞬間にして、見物人の立場を忘れさせる。それで、江戸
時代の風潮を描写したり、施工人の気持ちを読み取ったりす
るのは、庭園の世界に支配されるからである。そうして膨らん
できたイメージが、見物人が解釈した庭園である。少なくとも表
面上の庭園ではなく、その見物人独特の鑑賞内容となる。
その際、どんなことを思い浮かべるのであろうか。筆者
は・・・、
「この庭園を作った人は何を目的に持ってこのように作らせた
のであろうか。」
「この大きい石はどこから持ってきたのかな。きっと莫大な資金
を投資して運ばせたんだ。それほどここの建築主は巨大な
富を持っていたのか或いは手に入れたんだ」
わざわざ
「88 箇所の和歌の名所を態々複製したのか。建築主の欲望?
なぜこんな欲が生じたんだ?当時の世間の風習でこれが富
の証だったら、今とは違う」
と、色々試行錯誤をしてみると、その庭園の存在意義が多方
向から見えてくる。それが間違いであっても良い。誰一人とし
てこの世に柳沢吉保と接見した人物は存在しないのであるか
ら。人の解釈は、十人十色である。また庭園が作られた時代を
想像すると、
「88 箇所もの和歌の名所の写しをしたことを考えれば、そこま
で吉保は和歌好きであったことには間違いない。当時、和
歌がそんなにも人気があったなんて知らなかった。そういえ
ば平安時代の頃は和歌で恋文を書いたんだっけ?点数は
悪かったが高校の古典であった気がする。江戸の頃は和歌
を恋文に使ったかは分からない。それでも和歌を重宝して
いたのか、あるいは過去の人が作った和歌を重んじていた
のかどちらかだ。そういえば本居宣長や賀茂真淵なんかも
古事記や万葉集の研究をしていた。やはり和歌など、そうい
う大昔のものを大事にしていたらしい。」
「時は江戸時代。将軍様のお膝元。どんな人がこの庭園を見
たのであろうか? 武士か、一般市民か? 確か綱吉の頃
は『生類哀れみの法』なんてのがあった。その頃の市民は
生活に苦労したろうなぁ。どんな動物も殺してはならないの
だから。」
「このような庭園を作り出したのが江戸時代から? 別にそれ
以前にも似たものは・・・、法隆寺、四天王寺、曲水の宴、東大
寺、京都御所、土御門亭、平等院鳳凰堂、厳島大社、金閣、
銀閣、・・・など。あ、大体貴族が絡んでいる。少なくとも柳沢吉
保は貴族ではない。権力や財力を本当の武士が持てるように
なったんだ。」
ここで詳しく見ると、
歴史の順番:法隆寺→四天王寺→曲水の宴→東大寺→京都
御所→土御門亭→平等院鳳凰堂→厳島大社→
金閣→銀閣→各大名庭園(六義園)
創設者:聖徳太子→天皇方の貴族→聖武天皇→(桓武天
皇?)皇族→藤原道長→藤原頼通→平清盛→足利
義満→足利義政→各大名
各創設者の出身:用命天皇の息子→文武天皇の息子→(三
条天皇、後一条天皇)天皇の摂政→白河法
皇?の息子または直結の家来→室町幕府の
元将軍(=元征夷大将軍=天皇支配の元代
行者)→江戸幕府の将軍(=征夷大将軍=
天皇支配の代行者)の家臣(家来)
これより時代を経るにつれて、次第に天皇、将軍のような中
枢から離れた人でも、財力を握れるようになったことが分かる。
六義園は江戸中期であるが現代へ近づくにつれ、財力ならず
権力までもが、幕府以外の人間へ移り変わろうとしていった。
明治維新で、最高権力は天皇へ遷ったが、事実上、最高権力
者は総理大臣や軍人の類であった。なお今は国民主権。
このように、庭園を見ることによって、財力所持者の変遷も
考えることが出来るのだ。上に挙げたものは筆者が考えたもの
であるが、一人でこのくらい想像できるのであるから、来訪者
全員の思想をここに書けば、さらにこの 10 倍 100 倍ものスペー
スが必要になるであろう。
ところで「写し」をするのであれば、当時は写真など存在しな
かったので、必ず誰かが手本となる風景の在る場所まで赴く
必要がある。「写す」対象を凝視し、それに見合った石・樹木・
草・苔等を調達するには、莫大な資金を有する。そもそも「写
し」自体を目に掛かることはあまりないが、「写し」を六義園のよ
うに行っている庭園が他にもあることは容易に想像できる。江
戸時代は「写し」が規模の差はあれ、良かれと思われていたの
である。88 箇所も「写し」をした財力にも注目できる。庭園は当
時の風潮・事情を知ることができると言ったが、これを一纏めに
言ってしまうと、文化を知ること、あるいは知る手掛かりを得るこ
とができると言っても過言ではない。
2-3.
転
他の視点より:
このように、庭園から得られるヴィジュアルサイトより、様様な
事が読み取れることを考えると、庭園は絵画の芸術のようだ。
芸術とは、ただ「美」のみを放出していると思われがちであるが、
そうではない。芸術は本来、我々の日常生活と密着しているの
であった。例えば、写真のなかった頃は人物像を記録するた
めに「絵」を書いた。「肖像画」である。他にも冠婚葬祭の絵、
イエス=キリストの絵、舞踏会の絵、風景画等々。皆生活に沿
った、生活に中に取り入れたものが主流であった。本当に日
常生活密着式であった。例を挙げてみよう。画家のゴヤ『わが
子を食うサトゥルヌス』、ピカソ『泣く女』の絵(右絵参照)を見れ
・ ・
ば、必ずしも「美しい」だけを言われる事を目的としている絵で
はないだろうと、素人感覚で分かることもある。 「美」のみを描
写して、過去の画家なり製作者達は作成しているのではない。
昨今の芸術家達の多くに、互いに技量・腕を競い合って生計
を立てているだけにしか見えないように思う。鑑賞者達はその
作品の出来栄えのみを評価しているとも言える。ただし江戸時
代になると日本でも西洋でも、芸術が日常生活から表面上次
第に離れていったが、その作品には作者の意図にかかわらず、
その本質が携われている。
・
このように庭園に限らず、ある芸術的作品には必ずといって
良いほど、それが意味する深刻な内容を、伏線として張ってい
る。それは日本においてだけではなく、世界にも通用する。そ
れを筆者は、洋書、『庭の意味論』、サイトから確信できた。
2-4.
結
結論:
庭園の存在意義は、現在の世の中において、殆どが今流
行の『癒し』を得るためになっているが、それだけでない。歴史
的な庭園のみならず歴史的な建築は、その『美』のみを我々
に提供するのではなく、建設当時の文化・建築主の内面など
を、庭園内の独立した空間から運んでくるのである。六義園か
らは、江戸時代をも超越した過去からの事実より、歴史をも発
見できた。筆者が挙げた例の場合、庭園一つと少々の歴史的
知識を備えるだけで、歴史の有機的融合、有機的分野の関
係も見出せた。
漠然と庭園の風景を眺めて、「綺麗」・「美しい」・「癒される」
等、表面上を見ただけの感想を持つことも大切であるが、それ
に含まれる、ポテンシャル・バックグラウンドを主観的に吟味す
ることが、本当の観賞の仕方なのだ。受身的に眺めることも良
いが、能動的に食い入ることも面白かろう。それを通じて個々
が得た解釈を、友人同士で軽く交換し合うと、さらに違った観
点からの見解に出会えるので、さらに面白さが増そうかと思わ
れる。アフター・シーイング・ヴァリューディスカッション(After
Seeing Value Discussion)を開くことも一つの方法。ただし観賞す
る際、自分の解釈・見方・見解の正否を考えることは、あまり必
要ない。一番大切なことは、見た人がオリジナルの考えを根拠
も添えて持つことである。
さらに違った観点からの、本レポートの結論を言おう。庭園
は我々が日常存在する、4 次元の世界ではなく、庭園独特の
時間軸とその空間を持った、言わば 8 次元空間の中にある。
図の水色で塗られた図形が庭園、 x , y , z , t の各軸が現実に
ある万人共通の軸。
x ′, y ′, z ′, t ′ の各軸が庭園のみが持つ
軸であるが、個人個人によって異なるものである。個々によっ
て異なる故、それが齎す効果も個々によって異なる。それも庭
園に対する解釈なのだ。なお、現実世界でも庭園世界でも、
時間軸は目に見えないものであるので、各3軸から離れたとこ
ろにある。しかし、その時間軸が及ぼす影響からは誰しもその
束縛から説かれることはない。ただし、2つの時間軸が互いに
影響を及ぼすことはない。(ただし、その軸の原点 ※2はどこに
あるかは分からないであろうが、一応太陽とでもしておく方が
良かろう。)
3.付録情報
ここの項目には本文中に記した事項について、その追加情
報を記載する。
六義園という名前の由来 : 六義園の六義とは、中国の古書
『詩経』に記されている詩の分類
で、性質による分類の風・雅・頌、
表現方法による分類の賦・比・興
から来ている。
①「風」…民間に行われる歌謡、各国の民謡。
②「雅」…朝廷で歌われる雅やかで正しい音楽。
③「頌」…宗廟における祭りの音楽。
④「賦」…感想をそのまま述べたもの。
⑤「比」…比喩を用いて表す方法。
⑥「興」…あることを言ってから本題を引き起こす方法。
六義園八十八境:
今日駒籠の別墅に遊びて、名づくるに、佳名をもってす。
園を六義園と云ふ。館を六義館と云ふ。射場を観徳場と云ふ。
馬場を千里場と云ふ。毘沙門山を久護山と云ふ。山川泉石洲
渚、停館凡そ八十八境、記を作りて其の梗概を述ふ。(『楽只
堂年録』)
(翻訳)「今日駒籠の園内をめぐって、八十八の名所を作っ
た。園名を六義園とし、邸館を六義館とし、射場を観徳場とし、
馬場は千里場とし、毘沙門山を久護山とした。」とある。その中
で現在に残るものを紹介すると、
玉藻磯・出汐港・妹山・背山・玉笹・常盤・堅盤・せきれい
石・浮宝石・臥龍石・裾野梅・紀川・詠和歌石・片男波・仙禽
橋・芦葉・藤浪橋・宿月湾・渡月橋・千年坂・紀川上・朝陽岩・
水分石・枕流洞・紀路遠山・下折峯・尋芳径・吟花亭・衣手岡・
指南岡・吹上浜・吹上松・吹上小野・吹上峯・白鴎橋・藻塩水
道・藤代峠・不知汐路・座禅石・萬世岡・山陰橋・蛛道など
この中で、もとになった和歌がわかっているものを上げると、
以下のようになる。
八十八
境
和歌
玉藻磯 和歌の浦に千々の玉もをかき集め万代まてもきみか見んため
出汐湊 和歌の浦に月の出汐のさすままによるなくたつの声はさひしき
妹山
背山
いもせ山に生きたる玉ささのひとよのへたてさもてつゆけき
玉笹
裾野梅 春くれは裾野の梅のうつりかに妹せの山やなき名たつらむ。
紀川
人ならはおやのおもひは朝もよひ紀の川つらのいもと背のやま
芦葉
三代まてに古しへ今の名もふりぬひかりをみかけ玉つしまひめ
宿月湾 玉津島やとれる月の影なからよせくる波の秋のしほかせ
渡月橋 和歌のうら芦辺の田鶴の鳴声に夜わたる月の影そさひしき
下折峯 吉野山去年のしをりの道かへてまた見ぬかたの花をたつねん
衣手岡 夕されは衣手さむしみよし野のよしのの山にみ雪ふるらし
指南岡 尋ねゆく和歌の浦ちの浜千鳥あとあるかたに道しるへせよ
吹上松
吹上小
野
穐の夜をふき上の浦の木枯によこくもしらぬ山の端の月
吹上峯
白鴎橋 鴎ゐる吹上の浜の汐風に浦さひわたる冬の夜のつき
不知汐
路
和歌のうらしらぬ汐路にこき出て身にあまるまて月を見る哉
※1
もっとも吉保自身は、この構想を練っているうちに八十八をこ
える名所の写しを作り上げてしまい、後の世のひとびとは伝説
の八十八境が八十八として完結していたはずだと思い込み、
逆に後世の人々によって八十八境が新たに選び直されてしま
うという皮肉を生むことになるのだが。これは実体としての庭が、
現在の言葉でいえばフィクションを備えるに至っていることを
意味するだろう。
※2
宇宙の重心系と、galilei変換:
極端に考え過ぎると、銀河系の中心やら宇宙の中心やら重心
 x′ = x − ( X 0 + u x t )

 y′ = y − (Y0 + u y t )
 z′ = z − ( Z + u t )
0
z

やら、物理学的な話になる。アインシュタインの相対性理論に
よらなくては、正式な話はできない。それを考えると、本当の原
点を定めることはできなかろう。これより筆者は原点を太陽とし
た。そもそもこのような二次元三次元四次元の考え方を考案し
た人は、1600〜1700 年くらいの頃で、Newton 力学のみが主
現実世界において、時刻tにおける位置
流であった。現在物理学においては、Newton 力学ならぬ
( x, y, z )に対して、Lorentz変換後の世界は
Newton 物理学に欠陥が見つかる分野も発見されている。しか

t − (u / c 2 ) x
′
t
=

2

u
1
−
 

c

−
x
ut
 ′
x =
2

u
1−  

c

y′ = y


z′ = z

しここまで考えると、話が建築史から遠く離れていってしまうの
で、ここで止めておこう。しかし、庭園の中では、我々が感じて
いる時間とは異なる時間を歩んでいると、筆者は書いたがこれ
はもしかすると、庭園の中で、Lorentz 変換と呼ばれる変換と
似た、時間変換が、人の心の中で行われているのかもしれな
い。(右に宇宙の重心系と galilei 変換・Lorentz 変換を参考に
張っておく。)
参考書籍 :以下の参考は、筆者の持論を固める際に使用し
た。
『庭の意味論』 M.フランシス他著 (鹿島出版会)
『日本建築史序説』 太田博太郎著 (彰国社)
『interactions two』 What can we learn from art?
From
chapter 8 Tastes and Preferences
Edited by Elaine Kirn (McGrow-Hill International Editions)
参考サイト:
・場所なき建築 建築史専門家:鈴木博之氏
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/dm2k-umdb/publish̲db/books
/va/japanese/01.html
・六義園案内
http://www.asahi-net.or.jp/˜dz3y-tyd/teien/rikugien/rikugie
n.html
・六義園内各写真
http://earsp.hp.infoseek.co.jp/riku.htm
http://203.138.109.83/test/rokugien/6keien.html
http://members.aol.com/takayaichi/riku.htm
・泣く女 (ピカソ)
http://www.hit-plan.com/kao/picaso3.html
※【注意】 この画像はコピー防止処置がとられており、筆者は
画面コピーより入手した。
・我が子を喰うサトゥルヌス
(ゴヤ)
http://www002.upp.so-net.ne.jp/aphrodisiac/underground/u
nderground-6.html
最後に、このレポート作成は筆者・筆者の愛用パソコンにとっ
て命がけであった。写真をこの枚数ほど貼り付けると、いくら
jpeg にしたって 2000KB 近くまで膨れ上がってしまうのだ。