Salon d` AALA 39号

松 田 典 子
最近人気の旅行先スロベニアとクロアチアへ行って来ました。そのうえヨーロッパのクリスマスを味わってみたいと
12 月 20 日関空を飛び立ちました。スロベニアはチトー大統領亡き後、ユーゴスラビアの分裂、内戦をへて 1992 年に独
立しいち早く EU に加盟した政治的にも経済的にも安定した治安のいい国です。
スロベニアに入るには幾つかのルートがあるが、今回ローマ経由でトリエステ、そこからバスで国境を越える。スロベ
ニアはすでに EU に加盟しており国境を越えて入国するのは容易だ。飛行機はイタリア国内線の乗り継ぎだったため、行
きも帰りも待ち時間は無くお陰で買い物する時間がなくて残念なほどスムースな移動であった。
日本を経ち同日着となるが国境を越えブレットに着く頃には深夜となり疲れてベッドに入る。熟睡できぬままかすか
に聞こえる鐘の音で時計を見ると7時、まだ暗い、当然、この時期の夜明けは遅く8時過ぎになるらしい。窓を開ける
とどうやらホテルのすぐ前がブレット湖で、その中の教会から聞こえくる。白々と明けていく景色を見ていると、崖の
上にはブレット城、湖の中には聖マリアンナ教会が浮かんで見える。冷たい空気にふれな
がら朝靄にかすむ景色を見ていると心が洗われるようだ。朝食のあと湖畔を散歩する。
2週間前は寒波に襲われ大雪だったと、あちこちに汚れた雪がつまれているのが見える。
「アルプスの瞳」と呼ばれるブレット湖も冬に訪れる人は無く手漕ぎボートで渡った島も教会も私たちの貸しきり状態。この手漕ぎボー
トは代々受け継がれる家業、また環境を考慮してこの湖には手漕ぎボートのみ許可されている。チトー大統領もこの地をこよなく愛し別
荘を持っていたが、今はホテルとして営業している。このあたりの農業人口は今では 60 パーセントに減ってきていると説明を受けつつ、
名産のワインを試飲する。赤、白、辛口から甘口までたっぷり試飲させて頂いた。午後はバスでひたすら走り続けクロアチアの旅が始ま
る。旅の最終日25日に首都リュブリャナに戻ってくる。11月の「エスニック料理を食べる会」で訪れたスロベニア料理「ピカポロ
ンツァ」のオーナーの話では、
人懐っこく人情味あふれ、人は穏やか、治安はよく,
ヨーロッパで2番目に美しいクリスマスを見ることができるという言葉に期待は膨らむ。街中が幻想的なイルミネーションで彩られ、
バロック時代の建造物が残る美しい街はイルミネーションに映え一段と魅力的で期待を裏切らない。家族や友人たちと静かに聖夜を祝う
のだろうか。ぞろぞろと向かう先は三本橋を渡った 広場に面した聖フランシスコ教会。そこで静かに祈りをささげる。スロベニア
語のミサはもちろんわからず、キリスト教徒でもないが教会の中に響き渡る厳かな声に、涙が出そうなほど厳粛な気持ちになる。路上で
楽器を演奏しながらロシア民謡を歌っているグループがあり、ユーゴ時代の名残を思わせる。マトリョーシカも見かけた。たくさんの人
出だが喧騒は無く幻想的なイルミネーションが心に残る静かで美しいクリスマスを味わうことが出来た。翌日トリエステからローマに向
かう飛行機では機長がメリークリスマスハッピーニューイヤーと挨拶し特別にシャンパンがサービスされた。エコノミーゆえプラスチ
ックのカップではあったが、同行の人といい旅を感謝し新年の幸せを祈って乾杯をした。
「もとめる!
歩く!
棒にあたる」
ミュージックアドベンチャーFujimoto
藤
本
忠
正
「ミュージックアドベンチャーFujimoto」という音楽プロダクションを立ち上げて、10年になります。澤居さん
と知り合って、
「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ」の文化交流が一同に集まってできればと「よこしま」な気持
ちで加入しましたが、いまだに実現できていません。2年くらいの間に国際交流会館でできたらと思っています。ぜ
ひお力をお貸しください。
今年の目標は、各行政区に一か所、年4回くらいコンサートのできる会場(喫茶店や集会場、ギャラリーなど)を
確保すること
です。そんな場所があれば、是非お知らせください。
「生の音楽を安い料金で聴いてもらいたい!」
という思いで立ち上げたプロダクションです。今年は実験的に2~3か所で、コンサートをしたい
と思っています。1月13日の女子駅伝の日に烏丸丸太町で見つけました。40人は
入れるギャラリー&cafe。オーナーに相談するとコンサートや作品展、絵画の個展などOK。
それもビックリするほど格安。
先日、掛け軸の表具屋さんの奥さまとお話をしている中で、
「絵が好きな方、書が好きな方の所には、絵や書が集
まるといいますもんね。
」と言われて「なるほど」と思いました。
2~3年前に読んだ、脳科学者の茂木健一郎さんの本の中で「あの人は、運の強い人だと言うけれど、そんなこと
はありません。その人は、何時も考え探しているのです。目の前にチャンスが来た時につかまえるのです。
」
「何も考
えてない人は、チャンスが目の前にあってもつかまえることはできません。運がいいとか、悪いとかの問題ではあり
ません。
」と書いていました。
追伸:年末に勇気をもって、中国人・テノール歌手(中国笛の名手)
楊
雪元(よう
せつげん)さんに直接電
話をして、1月に出演していただきました。楊さんと帰りに行った中国人のお店でコンサートをしようというオマケ
まで付きました。
今年は、
「いいミュージシャンといい会場を」と呪文をとなえながら歩きます 。
ご一緒にいかが
藤本惠美子
1969年12月、私はスペインのマドリードにいた。当時スペインはフランコの時代だが何
も知らない私には特別変っているという感じはしなかった。
ユースホステル(Y.H.)に宿泊し(森の中にあったので
カサ
デ
カンポと言ったりしていた)
、毎日のように大学食堂
へ15円の地下鉄に乗って昼食も夕食も食べに行った。
(私は学生ではなかったけれど)
わり自由、
一回75円でスープ一品・パン・デザート、スープはお代
パンのお代わりは5円、安いと思った。木曜日はパエリヤ、金曜日には魚であっ
たように記憶している。日曜日は街の食堂に行って食べたが安い時は100円ぐらい、パエリ
ヤは40円ぐらいだった。誰かがレストランエコノミカと呼んでいた。
大学食堂で昼食を食
べた後、街の中心近くにあるカフェで長い時間を過した。カフェアリマンという店だったよう
に思う。
なぜドイツカフェなのか判らない。古くて広い店でヘミングウエイーも来ていたと
聞いた。スペインの昼休みは長い。
カフェにはセニョリータも多く来ていて楽しいところだった。
土曜日はプラド美術館が入場料無料なのでよく行った。ゴヤ、ベ
ラスケス、エルグレコ、ダリ、ピカソ。今はもっとしっかり観て
おけばよかったと思う。プラド美術館がすごいところだとは知ら
なかった。
Y.H のシャワーは冷たいので、時々、カサ
デ
バンヨーに行った。共同浴場で温かいシャ
ワーが使えた。日本人は使用時間が長いので時間制限される者もいた。ある日大学食堂でひと
りの日本人が言った。
「昨日日本の留学生が警察に捕まった」と、街の酒場でフランコのことや
スペイン人のことを悪く言ったのだろう(それをスペイン語で)
。ビバー
エスパニア
と叫ん
でおけばよかったのに、と私は思う。 街のあらゆるところに秘密警察がいたらしい。私も二、
三人で Y.H
から公園の森の中を抜けて駅に行く途中、私服の警察官らしい二人連れに呼び止
められた。
「ドキュメント」と言ったように思う。パスポートを見せると去っていった。フラン
コ、スペイン内乱から第2次大戦へ、ジョージオーエル、ヘミングウエイー、ピカソ、堀田善
衛。参加したり、考えたり、語ったりした人は多い。何が始まり、何が起り、何が続いている
のか、歴史の中で私には解らない。大学の建物に弾丸の跡らしきものが見えた。あれは内乱の
時の跡だと誰かが言っていた。ある日大学食堂で一緒に行っていた日本人が言った彼、アラブ
の国からの留学生は国に帰って(留学を終えて)アラファトのところへ行くと言っている。ど
この国の留学生だったかは忘れた。
スペイン、Y.H、のこと、バルセロナ、サラゴーサ、マドリードのノミの市、泥棒、いろいろな
ことが記憶の中で。1970年2月マドリードを出た。野宿しながらヒッチハイクでパリへ向
った。
~次回へ