2014年3月16日 目白町教会主日礼拝説教 「人はパンだけで生きるものではない」 マタイによる福音書 4:1~11 松 木 信 [新共同訳] 1 節 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、 “ 霊”に導かれて荒野に行かれた。 2 節 そして 40 日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 3 節 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。 「神の子なら、これらの石がパンにな るように命じたらどうだ。 」 4 節 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る 一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」 5 節 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、 6 節 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。 『神があなたのために天使たちに命じ ると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支え る』と書いてある。 」 7 節 イエスは、 「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われ た。 8 節 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶ りを見せて、 9 節 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 10 節 すると、イエスは言われた。 「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主 に仕えよ』と書いてある。 」 11 節 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。 [説 教] 「マタイによる福音書」で前回学びましたのは、イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネか ら洗礼を受けられた時の事でした。その時「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う 者」と言う声が、天から聞こえたとありました。本日のテキストは、それに続く物語で、 イエスが聖霊に導かれて荒野に行き、悪魔(サタン)から 3 つの誘惑を受けられたという 箇所です。この時イエスは、悪魔の誘惑を見事に退けられました。悪魔に対する、このイ エスの勝利は、まさにイエスこそ「神の子」 ・「主なる神の御心に適う者」であることを実 証する出来事でした。悪魔(サタン)というのは、現代人にとってはいかにも神話的とい うか、おとぎ話的・空想的な存在に思われるかもしれませんが、私達の心の動きを有りの 儘に、正直にえぐり出してみますと、私達の心の中に住んでいて、中から私達に働きかけ て「悪」へと誘うものが生き生きと働いていることを実感しないわけにはいきません。そ れは「悪」という言葉で表現されるような抽象的概念ではなくて、「悪魔」という表現が ぴったりくるような生き生きと働いており、時に魅力的でさえある、生々しい人格的な存 在なのです。このような存在に気づいて、それを重要視した古代の人々の感覚や知恵とい -1- うものを軽んじる事は出来ないと思います。聖書の元の言葉では「サーターン」と言いま すが、それは「敵対する者」という意味です。悪魔とは、第一に「神に敵対するもの」で あり、第二に「人と人とを敵対させるもの」です。神様に敵対して、私達を神様から引き 離そうとしているものであり、私達人間を相互に敵対させ、憎しみの感情を増幅させるも のです。イエスがここで悪魔の誘惑を受けられたというのは、イエスは「神の子」であり ながら、私達人間と全く同じく悪魔の誘惑にさらされる 1 人の人として来て下さった方だ と言うことです。ですから私達はイエスに祈ることができます。私たちは絶えずサタンの 誘惑に出会っており、しばしばサタンに敗北している者です。サタンに負けてはならない と思いながらも、ついつい負けてしまっているというのが私達の実情ではないでしょうか。 イエスという方は、このサタンのしぶとさや狡猾さというものを本当によくご存知ですか ら、敗北した私達の思いを分って下さり、私たちの祈りに応えて下さるのではないでしょ うか。 1 節から 2 節にかけて、イエスが「荒野」に導かれて、「40 日間」飲まず食わずで過ご され、そして悪魔の誘惑に遭われたと記されています。ここには、その昔イスラエルの祖 先が「出エジプト」の後、 「40 年間」シナイの「荒野」を、幾多の試練に会いながら旅す ることによって 1 つの民族に育てられ、イスラエルの歴史が本格的に開幕することになっ たという、旧約聖書のあの出来事が暗示されています。福音書の記者は、出エジプトのあ の出来事がイスラエル民族の古い歴史の開幕になったように、今、イエスが「荒野」で「40 日間」過ごされ、悪魔の誘惑に見事に打ち勝たれて「神の子」であることをはっきりと示 されたこの出来事こそ、全人類に罪と死からの救いがもたらされるという新しい歴史・新 約の時代の開幕を告げるものであると語ろうとしているのです。私たちはまさに、イエス キリストと共に始まった新しい時代に生きることを許されているのです。 「ヨハネによる福 音書」には次のように記されています。 「あなたたちの父アブラハムは、私の日を見るのを 楽しみにしていた」 (8:56)。また、この「マタイによる福音書」13:16・17 には次のよ うに記されています。 「あなた方の目は見ているから幸いだ。あなた方の耳は聞いているか ら幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなた方が見ているも のを見たかったが、見ることができず、あなた方が聞いているものを聞きたかったが聞け なかったのである」と。私たちはこのように、アブラハムや過去の多くの預言者や義人た ちが遥かに待ち望んでいた、神の子・救い主が遣わされ、「インマヌエル、神共にいます」 の言葉の通り私達と共にいて下さり、 「神の国」に生きる喜びを与えられている「新約の時 代」に生きているのです。なんという幸いでしょうか。もしこの幸いに気付くことなく生 きているとしたら、それこそ人生最大の損失と言わざるを得ません。 荒野での悪魔の誘惑は 3 回に亘りましたが、最初の誘惑は、断食によって空腹を覚え られたイエスに対して、悪魔が「お前が神の子なら、ここにある石がパンになるように命 じたらどうだ」と語りかけたことでした。本日はこの最初の誘惑だけを取り上げます。石 をパンに変えることは、神の創造の御業に関わることであり、神が「よし」とされた創造 の秩序に変更を加えることです。1 人の人としてこの地上に来られたイエスは、 「神の子」 -2- として奇跡と呼ばれている神の御業をしばしば行ったと伝えられていますが、それは皆、 病気やその他の苦しみから人々を救い出すための愛の御業でした。自分の空腹を癒すため に父なる神の力を利用することは、「神の子」であるイエスには出来ることではありませ んでした。イエスにとって「神の子」であることは、人間の救いのため、また世界の救い のためであって、自分の救いのためではなかったのです。しかし、ここでイエスが悪魔の 誘惑を退けられた最も重要な理由は、悪魔におっしゃったイエスの言葉の中にあります。 本日の説教題「人はパンだけで生きるものではない」この言葉は、聖書を読んだことの 無い方でもよくご存知の 1 つの格言になっています。人間が生きていくためには食料を始 め物質的なものが必要だが、それだけでは人間は満たされない。精神的なもの、心を満た すものが必要なのだ、と言う意味で使われています。それはそれで、それなりの意味を持 った格言だと思いますが、聖書はこの言葉だけで終わるのではなく、次の 2 行目の言葉が これに続いています。そしてこの後半部分こそが、肝心要の、欠くことのできない、重要 な核心的部分なのです。 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」 これは旧約聖書、申命記 8:3 にある言葉で、そこからの引用です。そしてこれに続く 8: 5 には次のように記されています。 「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの 神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の 道を歩み、彼を畏れなさい。」と。つまり私たちは生きるのに当たって、自分のことを後生 大事に第一に考えるのではなく、何よりも先ず、神様が私たちをわが子のように愛し導い てくださっていることを忘れてはならない、神様の戒めを守り、神様の道を歩み、神様を 畏れて生きることをこそ第一にすべきなのだ、と言うのです。すなわち申命記では「神の 口から出る一つ一つの言葉で生きる」とは「あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、 主を畏れて生きる」ということなのです。 さらに申命記には、続いて次のような言葉が記されています。8:14-18 です。「主は あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、 ・ ・ ・硬い岩から水を湧き出させ、あ なたの先祖が味わったことのないマナを荒野で食べさせて下さった。それは、あなたを苦 しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは、 『自分の力と手の働きで、この 富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富 を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日 のようにしてくださったのである」 。即ち人間は、自分の生活を自分の知恵や才覚・能力に よって築いたものだと思ってはならない。私たちの所有するものすべては、神様が与えて くださったものであることを忘れてはならないということです。申命記は、ここでは「神 の口から出る一つ一つの言葉で生きる」を「私たちは神様が与えて下さる、神様の一方的 な恵みによって生きている」と解説して、同時に「人間は自分を誇ってはならない」と私 達を戒めているのです。 申命記をこのように読んで参りますと、私達は直ちに主イエスの「山上の説教」を思い -3- 起こします。 「マタイによる福音書」6:25-34 です。 「自分の命のことで何を食べようか 何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。空の鳥、野の花をよ く見なさい。天の父は、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に収めもしない鳥を養って下さ る。働きもせず、紡ぎもしない野の花を、栄華を極めたソロモン以上に装って下さる。ま して、あなた方にはなおさらのことではないか。だから、『何を食べようか』『何を飲もう か』 『何を着ようか』と言って、思い悩むな。あなた方の天の父は、これらのものが皆あな た方に必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうす れば、これらのものは皆加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。」 本日の聖句「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生 きる。」について、この「山上の説教」の主イエスの言葉以上に優れた注解はないでしょう。 「主なる神にすべてをお委ねして、今日のことも明日のことも思い悩まず、何よりもまず 神の国と神の義を求めて生きる」それが、申命記の「神の口から出る一つ一つの言葉で生 きる」ことなのです。 紀元前 8 世紀に北イスラエル王国で活動したアモスと言う農民出身の預言者がいました。 彼は当時のイスラエルの宗教的・社会的堕落を裁かれる主の言葉を、厳しい言葉で人々に 伝えました。旧約聖書、アモス書の 8:11 です。 「見よ、その日が来ればと主なる神は言 われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことで もなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。」と。すなわち食べるもの・飲むもの がなくて飢え渇く飢饉よりも、地上にはびこる悪の故に神の裁きを受け、神の御言葉を頂 くことのできない「主の御言葉の飢饉」こそが、最も恐ろしい飢饉なのだという神の御言 葉です。 19 世紀以来 200 年余りの近現代の人類の歴史・世界の歴史は、経済効率を唯一の目安 として科学・技術の進歩に基づく産業化・工業化を推し進めて参りました。単純化して言 えば、パンの獲得のみをひたすら追いかけて歩んできたと言っても良いと思います。この 時代は文明批評家によって「神なき時代」とも呼ばれてきました。 「主の御言葉の飢饉」で す。その挙げ句の果てに辿り着いたのは、いま全世界を覆っている、この悲しむべき、恐 るべき状況です。人類に未来はあるのかと思わずにいられないような世界の状況です。 この国でも、日本国民は長年の不況とデフレに苦しんだ挙句、何よりもパンが欲しいと、 一昨年の選挙でパンを選びました。その結果、政権の担い手は、ますます神のみ言葉に背 を向けた方向に、この国を引っ張っていこうとしているようです。 教会は、クリスチャン一人一人は、この「主の御言葉の飢饉」の中で神の御言葉を頂い ています。主イエスも、 「主の御言葉の飢饉」のただ中に一筋の光・天からのロゴスとして 来て下さったのではなかったでしょうか。私たちは非力であり、無力を感じずには居られ ません。しかし主が共にいて下さり、 主が私たちに先立って進んでくださることを信じて、 諦めることなく忍耐強く、主に従って歩んでまいりましょう。 以上 -4-
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