何故, 「精神病院」 は存在するのか

鳳穏、臨、度
何故,「精神病院」は存在するのか
一ミッシェル・フーコーの洞察から一
呉大学看護学部
山 本明 弘
キーワード=ミッシェル・フーコー,狂気,精神病院
■ はじめに
と心理学』第5章,「精神疾患の歴史的形成」3)を
要約し,歴史の陰に隠された,この「意味規定」
精神医学が医学の一領域であるということの当
の始原を照らし出そうとするものである。不安の
然にもかかわらず,私達は精神医療を行う病院を
意味を明らかにすること,それは精神医療を社会
化するための重要な手続きなのである。
精神病院と呼び,その他の病院を一般病院と呼び
区別してきた。一般の対語は特殊であり,特殊性
は常に精神病院に帰属され,そこに関わる人々も
1.かつて,「狂気」との多様な関係があった。
また,それが利用者としてであれ,医療従事者と
してであれ,常に特殊な人々と見なされてきた。
フーコーは,「狂気というものに精神疾患とい
う地位が与えられた」歴史的推移について論じて
この先経験的な理不尽の眼差しは,いつ,どの
いる。
ような理由で私達に備わったのであろうか。鷲田
は,「フッサールにおける生活世界の意味既定の
フーコーは,この章の冒頭で,まず,「ポジティ
二義性」に言及するなかで,「生活世界のうちに
かれた者とみなされていた」という「定説」に疑
問を投げかける。彼は,この説を「不正確な先入
ブな医学の到来に至るまで」は,「狂人たちが懸
はいつもすでに過去の意味形成の歴史が還流し沈
殿しているのである以上,そのような歴史的に相
観にもとづく」「推論上の誤り」と断定する。さ
対的な『意味の堆積態』からさらにその既定とし
らに,「懸依という複雑な問題は,直接狂気の歴
て析出さるべき原的明証領域などといったものは,
史に属するものではなく,宗教思想史に関係する
一種の虚構,あるいはせいぜいカント的な意味で
の『限界概念』にすぎないのである」1),と指摘
このことについて,「19世紀以前に二回にわたっ
している。
この記述に照らしてみると,私達の「生活世界」
において一般的脅威を欠くにもかかわらず生起す
る,ある対象や事態に対する,恐れ,不安,嫌悪
の眼差しもまた,今日的には生得的備えとしての
ものである」とも述べている。
て,医学は懸依問題に介入した」ことをあげてい
る。それは,ひとつには,「宗教裁判4)に反対す
る勢力」が,もうひとつには,「プロテスタント
およびジャンセニスト5)の神秘主義」に対して,
ア・プリオリ性を主張したとしても,その多くが,
カトリック教会と政府が,「自己の内部の分裂を
統一するために」「医学に助けを求めた」,という
過去のいずこかの地平において偶発的あるいは人
事実のことである。
為的に形成され,いまだ私達の「生活世界」を支
配する,ある「意味規定」に起因するものだと言
この時すでに,宗教は,医学に対して「悪魔的
な約束とか儀式なるもの」や「胱惚状態,霊感,
えよう。
予言,聖霊による葱依などの現象」が,「ことご
本文は,ミッシェル・フーコー2)著『精神疾患
とく,狂った想像力の作用」や「いろいろな体液
やまもと あきひろ
〒737−0004呉市阿賀南2−10−3呉大学看護学部
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何故,「精神病院」は存在するのか
や生気の激しい運動によるもの」であることの証
しかもヨーロッパ全土につくられ,それらはただ
明を,要求しているのである。結果的に,その後
狂人用だけでなく,互いにひどく異なった人びと
この糾弾手法は,医学側によって「あらゆる宗教
を受け入れるためのものであった。少なくともわ
的現象に適用」されるという,「不利」な「逆用」
れわれの知覚基準からみて,ひどく異なった人び
として利用されるのであるが。
とである。すなわち,肢体不自由の貧困者,困窮
また,フーコーは,「ギリシャ医学以来,狂気
の領域の一部は,すでに病理学的概念及びそれに
老人,乞食頑固な怠け者,性病患者,各種の風俗
壊乱者,家族の意向または王権により,公の刑罰
結びついた実践でしめられていた」と述べている。
を加えるわけに行かない人びと」,「要するに,す
さらに,「しかし,これは精神病の中の一小部分
べての理性,道徳および社会の秩序に関して,変
にすぎず,治療可能と判断されたかたちの精神病
調の徴候を示す人たちが閉じこめられた」。そし
に限られていた」,そして,「この周囲に狂気は大
て人々はこれを,「一般病院」,と呼んだのである。
きくひろがっていた」のであり,「このひろがり
は時代によって変化する」,とも述べている。続
けて,「15世紀末というのは,たしかに,狂気が
この時期,障害者や生活困窮者,そして犯罪者
は一ヶ所に集められ,収容されるようになった。
フーコーは見逃さなかった,それこそがまさに,
言語の本質的な力と,再び手を結んだ時期の一つ
社会が「狂気」に対してある「地位」を与える契
であろう。ゴチック時代のさいごのあらわれは,
機となったことを。
死の観念と狂気の想念に次々とそして連続的につ
このことついてフーコーは,「ひとは医療を受
きまとわれ,支配されたものであった」,そして
この時代において人々は,絵画,歌,踊り,哲学,
けるためにそこにはいるわけではなく,もはや社
会の一員としてやって行けなくなったか,または,
文学,演劇など,あらゆる表現手段を用いること
やって行ってはいけないからはいる」のであり,
によって,「狂気」との関わりを持っていたのだ,
「この時期の問題として浮かびあがるのは狂気と
という状況が述べられている。
病の関係ではなく」,「社会が個人の行為のうち,
この時代,「狂気は,本質的には,自由な状態
で体験されていた。狂気はあたりを歩きまわり,
何をみとめ,何をみとめないか,そのことの関係
一般の背景や言語の一部をなしていた。それは各
人にとって日常的な体験であってそれを抑制する
この転換の意味を考えるためには,当時の社会
構造の変化に目を向けなければならない。この時
よりは,むしろ大切にした」のであり,また,
「水面から大きく浮かびあがり,文化的風景の全
代西欧においては,封建君主と,それに従属する
体に,何の困難もなく統合され」ていたのであっ
た。そして彼は,「1650年頃までは,西欧文化は,
てその一方で,新しい価値観を持つ市場経済と市
民社会が形成されつっあった。
こうした体験形態に対して,ふしぎに受容的であっ
この時代についてフーコーは,「商業の世界に
おける最大の悪徳,とくべつの罪と何であるかが
定義されたばかりであった。それは,もはや中世
が問題」になったのだ,と述べている。
教会や大貴族の権威は崩壊に向かっていた。そし
た」,と述べている。
以上のことから,17世紀以前の西欧世界におい
ては,「狂気に対する経験は極めて多様なもので
あった」のであり,それは,けして「懸依」とい
う現象に一元化されるものではなかったのだ,と
いうことが理解できる。そして,今日と同様に,
時代の思想的要求が,「狂気」の解釈に多大な影
響を及ぼしていた,ということがわかるのである。
このように多様な「狂気に関する経験」が,や
がて,「疾患という概念に吸収」されるに至るに
は,その後の歴史的変遷を見て行く必要がある。
期における傲慢とか,どん欲とかではなく,怠惰
にほかならなかった。収容施設に住むすべてのひ
とを一括する共通なカテゴリーとは(彼らの責任
のためであろうと事故のためであろうと),冨の
生産,流通および蓄積に参加できない,というこ
とであった。この人たちに加えられる疎外は,こ
の無能力の度合に比例したものであって,この疎
外こそ,現代世界に,以前には存在しなかった断
絶があらわれたことを示す。というのは,この隔
離収容ということは,その起源と,その原初的意
味において,この社会空間の再構成に結びついた
2.そして,隔離と誤解がはじまった。
「17世紀半ばに,突然,変化がおこった。狂気
の世界は阻害の世界となる。大きな収容施設が,
のである」,と述べている。ここに,「狂気の体験」
と私達の日常との亀裂を生み出した,決定的な地
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殻変動があったのである。
「狂人専用」の病院へと変わって行き,そこに固
さらにフーコーは,「この現象は,狂気につい
ての,当時の体験形成において二重の意味で重要
であった」,と述べている。それは,第一に,「あ
んなにも長い間,地平の上に現前していた狂気が
姿を消してしまった」,ということである。そこ
では,「狂気は今や沈黙の時期にはいり,長い間,
そこから出て来ないことに」なり,「狂気はその
ことばを奪われ,他人が狂気について語りつづけ
えたとしても,狂気が自らについて語ることは不
可能」になったのである。
そして第二の意味として,このような一括収容
によって,「狂気は新しい,奇妙な近親関係を結
有の地位が与えられるのである。それは,「医学
的性格を持った措置」と呼ばれ,「どの精神医学
史も医学史も」「ヒューマニズムとようやくポジ
ティブなものになった科学の誕生」,と絶賛する
のである。
しかし,フーコーはこの欺隔の殻をも粉砕する。
「ピネル8)やテユーク9)や,その同時代人,及び
後継者たちは,隔離収容という古い習慣の鎖をほ
どいたのではない。かえってその鎖を,狂人のま
わりにしめつけたのである」。「病人たちを物理的
に拘束していた物質的な鎖は,たしかにとりのぞ
くの重,軽犯罪者などと同居させたこの隔離空間
かれた。しかし,彼らのまわりには,道徳的な鎖
が再びはりめぐらされたから,これが収容施設を
一種の恒久的審判所のようなものに変化させた」
んだ」,ということをあげている。すなわち,「多
は一種の漠然たる同化作用をひきおこし」,その
のだと。さらに彼は,「ピネルの時代につくられ
結果として,「道徳的,社会的に有罪なものと狂
た収容施設は,疎外のための社会空問の医学化を
気とは,親類としての縁をむすぶことになり,そ
あらわすものではない,ということである。それ
は,ただ一つの道徳的体制の内部で,二種類の技
のきずなはまだ,断たれそうにない」,「犯罪はそ
の犯罪たる理由と,犯罪でない理由との双方を,
ともに狂気において発見するわけである」,とい
術が混在していたにすぎない。その一方は社会的
予防措置の性格をもち,他方は医学的術策の性格
うように。
をおびていたのである」,と述べている。
このように社会は,「狂気」と「犯罪」とを人々
まにか,「狂気」を見る目に親密さと繊細さを失っ
市民の人権意識は,「隔離収容を古い圧政の象
徴であるとして」,まさに,象徴的に,これを解
体した。しかし,もはやそこには,「狂気」との
て行くのである。
共存を当然のものとする世界観は,失われていた。
の目から遠ざけ,同居させることにより,いつの
そして,社会の理性は,「医学」と「道徳」の付
3.「狂気」の復権と新たな隔離が生まれた。
与という「良心」において,再び「狂気」を囲い
「18世紀半ばになると,不安が再び生まれる」。
込んで行くのである。
この時期,西欧,とりわけフランスにおいては,
「精神病院」の誕生である。
ブルジョワ革命6)および人権宣言7)採択へと向か
う,激変の時代であった。そして,人権思想と自
■ おわりに
由主義思想の波は,否応なく隔離施設の存在をも
揺さぶっていた。「恣意的な監禁が政治的に告発
以上の要約を通して,私は以下の結論を得た。
され」,「ビセートルやサン・ラザールのような施
設が悪の温床として評価され」,「だれもかれもが,
西欧において,近代社会の開始とともに抑圧の
扉から開放された「精神病者」は,結局はその社
隔離収容の撤廃を要求する。狂気は昔の自由に復
会に安住の地を得ることなく,そのまま「精神病
権する」はずであった。しかしながら,日常の中
院」へと居を移された。そこでは「善意」と「科
にはもはや,過去にあった「狂気」に対する素朴
な親和性は,失われていた。それどころか,「狂
学」に裏付けられた強固な壁が張り巡らされ,以
人は自由な身に戻されると,周囲の家族や集団に
えにくくなった。わが国においても,西欧文化の
とって危険な存在」になる,といった新たな認識
流入とともにその在り方は移植され,明治,大正
を経て着実に定着して行った。その結果,現代に
前にも増して「精神病者」の姿は世間の目から見
が生まれていたのである。ここに,「彼らを拘束
しておく必要と,狂人や危険な動物を放浪させて
おく者に対する刑罰」が必要になったのである。
戻すことなく,それどころか時折世間に漏れ聞こ
こうして,過去の収容施設は「一般病院」から
える医療者の不祥事が,ますますその存在を特殊
いたるまで「精神病者」は社会との親密さを取り
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なものへと押しやって行った。
そして今日,様々な曲折を経て脱病院化の流れ
もちろん,そういった「秩序」の中にあっても,
は世界の趨勢となり,遅ればせながらわが国でも,
「社会的予防措置」に異を唱え,「医学的術策」
の枠を越え,精神病者の生活権擁護に努力を重ね
ようやく精神医療の真の開放とは何かが,堂々と
議論される時代がやって来た。「精神病」への親
てきた精神医療従事者は数多い。しかしながら,
密さを取り戻すためのこのチャンスを,逃しては
彼らの努力もまた世間の側からは見えにくく,正
当な社会的評価を得ることは難しかった。
ならない。
参考文献
・ミッシェル・フーコー:中村雄二郎訳『言語表現の秩序』河出書房新社.1981
・ジョン・ライクマン:田村椒訳『ミッシェル・フーコー 権力と自由』.岩波書店.1987
・バリー・スマート:山本 学訳『ミッシェル・フーコー入門』新曜社.1991
・村治能就編=『哲学用語辞典』東京堂出版.1974
・村上堅太郎他編二『世界史小辞典』山川出版社.1968
・河野健二:朝日選書331『フランス革命二〇〇年』朝日新聞社.1986
・西丸四方:『精神医学入門』南山堂.1988
・『看護学大辞典』メジカルフレンド社.1982
注1)鷲田清一:『現象学の視線』講談社学術文庫.pp.192 193.1997
注2)ミッシェル・フーコーMiche1Foucault(1926∼1984)
フランスに生まれる。高等師範学校で哲学を専攻,ついで数年にわたりドレーやピショーなど,
フランス精神医学の大家について精神医学の理論と臨床を研究する。コレージュ・ドゥ・フラン
スの哲学教授。
注3)ミッシェル・フーコー二神谷美恵子訳『精神疾患と心理学』みすず書房.pp.113−132.1970
注4)宗教裁判(異端審問inquisitionとも言う)
異端者の発見,処罰,予防を目的とする教会の法定である。古代以来,体刑は追放のみであっ
たが,民間俗権による私刑が多かった。その無秩序を是正するために,13世紀以後,ドミニコ修
道会による説得が始められ,1229年,グレゴリウス9世が教皇庁に審問権を統一したが,俗権に
よる私刑は続けられ,宗教改革時代には,新旧両派ともに火刑を行い悪名を高めた。
注5)ジャンセニズムJansenism
オランダ人,イブル(カトリックの一宗派)司教,神学者であるヤンセニウスComelius
Jansenius(1585∼1638)が提唱した主張。彼は最後の著書『アウグスチヌス』(1640)において,
古代のペラギウス的恩恵論(Pelagianism,イギリスの修道士,ペラギウスの唱えた異端説。原
罪と幼児洗礼を否定し,正統教理と対立した)を説き,ジェズイット派と論争を起こした。これ
がジャンセニスト派発生の契機となった。弾圧が激しくなり,18世紀初めに衰微した。
注6)フランス革命La RevolutionFrangaise(1789∼1799)
フランス市民革命。アンシャンレジーム(旧社会,政治,経済体制)に対する,ブルジョワと
国民大衆である。「貴族の革命」に始まり,「ブルジョワの革命」,さらに「民衆の革命」,「農民の
革命」へと続く。
注7)人権宣言(正確には,「人と市民の権禾1の宣言」)De6clarationdesDroitsde1,Ho㎜eetduCitoyen
1789年8月26日フランス国民議会が採択した宣言。憲法制定に先だち,あらかじめその基本原
理を提示する意図のもとに制定され,91年憲法に前文として付された。前文と17条からなり,第
1条「人は自由かつ権利において平等なものとして生まれ,存在する」に始まり,第2条では,
自由・所有・安全・圧制への抵抗を自然権とし,政治体の目的をその維持に求め,以下,国民主
権,一般意志の表現としての法の支配,権力分立などの政治体の組織原理,法の前の平等,意見
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rT π
何故,「精神病院」は存在するのか
とその表現の自由と限界などの市民の権利を規定している。
注8)フィリップ・ピネルPhilippePinel(1745∼1826)
フランスの精神医学者。1773年トゥルーズ大学を出て医師となる。1792年にパリのビゼートル
精神病院の医院となり,精神病患者の悲惨な状態を知り,鎖とむちを排し,愛情と忍耐による治
療の必要性を主張し,これを実行した。1795年にサルペートリエル病院の医員となり,パリ大学
教授に任命された。
注9)ウイリアム・テユークWilliamTuke(1732∼1822)
イギリス・ヨーク生まれのThe Society of Friendsのメンバー(Quaker教徒)であり慈善運動
家である。1972年のヨーク保養所設立に尽力した。1975年,ヨークのThe Society of Friendsの
メンバーが,ある精神病院で不適切な治療によって死亡したのを知り,人道的で適切な治療の必
要性を主張した。
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