ISSN 1345-7403 地質学史懇話会会報 第 41号 2013 年11月 30 日 目 次 地質学史懇話会のお知らせ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・表 i 地質学史懇話会報告 (2013 年 6 月 23 日 東京・王子)・・・・・・・・・・・・・・・・01 日本地質学会夜間小集会報告(2013 年9月15 日 仙台)・・・・・・・・・・・・・・03 <論説> 中川智視:小泉八雲と服部一三 ―富山大学附属図書館ヘルン文庫の調査から見えてきた意外な関係―・・・・・・04 蟹澤聰史::歌枕と津波・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12 永広昌之:北上山地の地質自慢・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20 原 郁夫:磯崎ほか(2010)の日本地域地質学史研究再考・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27 福川知子:久米邦武が『米欧回覧実記』で活用した地理書 (その6 スイス編)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35 大沢眞澄:H. シュリーマンの文化財科学への関心・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43 大村 裕:和島誠一の考古学・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・46 大沢眞澄:「オレゴン大学火山学センター」への補遺 ―アンデサイト・コンファランス (1968) その他―・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・48 <翻訳> 会田信行・大森昌衛(訳): 王鴻禎・夏湘蓉・陶世龍(著):古代中国における地質学・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・50 <報告> 矢島道子:INHIGEO 2013 年、マンチェスターに参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・58 <追悼文> Kenneth L. Taylor : 鈴木尉元さんを偲ぶ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・62 事務局より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・63 編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・63 投稿規程・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・iii 地質学史懇話会のお知らせ 2013 年 12 月 23 日(月・休):午後1時 30 分-5 時 00 分 場所:北とぴあ 8 階 803 号室:JR 京浜東北線王子駅下車 3 分 長田敏明 『戦前の満州の科学博物館の活動について』(仮題) 小野田滋 『地質工学の開拓者・渡辺貫とその周辺』(仮題) JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) 地質学史懇話会 2013 年例会報告 日時:2013 年 6 月 23 日(日)午後 1 時 30 分-5 時 会場:北とぴあ 8 階 808 号室(東京都北区王子) 参加者:相原延光・石井良治・猪俣道也・大沢眞澄・加藤 進・加藤碩一・木谷清一・ 金 光男・首藤郁夫・立澤富朗・続木直英・中川智視・中陣隆夫・馬場永子・樋 口 雄・平林憲次・矢島道子・山田俊弘・山田直利・湯田広吉(出席者 20 名) 開会に際し、加藤碵一会長の挨拶があり、この間逝去された物故会員に対して、出席 者全員による黙祷が捧げられた。事務報告がされた後 、次の 2 講演が行われた。 中川智視: 「小泉八雲と服部一三-富山大ヘルン文庫調査から見えてきた意外な関係- 富山大学附属中央図書館の所蔵する「ヘルン文庫」のヘルンとは Lafcadio Hearn (1850-1904)のドイツ語読みに他ならず、ヘルン文庫は小泉八雲の蔵書と八雲関連資 料を指す。旧制富山高校は、当地において北前船の交易によって財をなした馬塲はる (1886-1971)から、1923(大正 12)年 100 万円の寄付がなされ、その翌年県立の旧 制高校として開校した。ヘルン文庫は 1923 年の関東大震災に際し東京に文化遺産が集 中し保管されるリスクが見直された折、富山高校の南日恒太郎初代校長へ、実弟の田部 隆次氏を介して小泉セツ夫人から譲渡の打診があり、その翌年、富山へ移されたもので ある。購入にかかる費用は富山高校開校のお祝いとして、馬塲はるより再び寄贈された。 中川氏が「ヘルン文庫」を調べた際、 1896” “The Great Disaster in Japan, June 15th という印刷物(中川氏は「リーフレット」とする)を、その中から偶然見出し た。「明治三陸津波」として歴史に記される大災害について、当時横浜にあった英字新 聞社ジャパン・ガゼット社の記者の手による英文調査報告書である。小泉八雲は滞日中、 東京から北方に出掛けた経歴がなく、これが八雲執筆でないことは明確である。 1896(明治 29)年大津波が三陸海岸を襲ったとき、岩手県の知事には服部一三(い ちぞう:1851-1929)が任じられていた。服部は 1880(明治 13)年にミルン(1850-1913) らが創設した「日本地震学会」の初代会長だった人であり、地震学をはじめとする科学 の 全般 にあか るい 人で、 歴史 地震に 関す る論文 Japan” “Destructive Earthquakes in を 1878 年に日本アジア協会誌上に発表した経歴を有する。講師は、服部の 助力なくしてジャパン・ガゼット社記者の被災地取材は不可能だったし、もし服部がい なければ、その英文報告書は八雲の手元に送られなかったと推定した。 小泉八雲は 1890(明治 23)年に、米国経由により来日するが、直後彼が松江へ教師 として赴任することに、既に、服部が深く関与していた。かつて服部は 1880(明治 13) 年東京大学法文理三学部(現在でいう一学部の扱い)の総理だったが、やがて地方行政 官に転じた人である。 服部は、1875(明治 8)年、米国ラトガーズ大学でバチュラー・オブ・サイエンスの 学位を得る。また、1885(明治 18)年に米国ニューオリンズで開催された万博に日本 ― 1 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) 代表の事務官として派遣される。八雲の米国滞在中の経歴を調べると、彼は服部とニュ ーオリンズの万博会場で面談している。文学と科学(地学)の狭間にある小泉八雲と服 部一三の交流史については、今後ますますの研究の進展が期待される。 平林憲次: 「戦前から現在までの北樺太の石油開発-石油地質を中心として- 平林氏は、高橋純一以来の伝統を有する東北大学石油鉱床学講座において、田口一雄 の指導のもと、堆積学と地球化学に基づき、続成作用について詳しく研究した地質学者 である。彼は学位取得後、サハリン石油協力 K.K.(SODECO)に勤務する。 げんざい「サハリン 1」あるいは「サハリン 2」と称され、世界中から注目されてい る巨大ガス・油井は、実は SODECO によって探査され、現実的な開発の道を開かれた ものだった。歴史を遡ると、サハリンの北端に位置するオハの街には、かつて油井が林 立し、帝政ロシアからソ連に移行する混乱期において日本が石油採掘権を得て、1921 (大正 10)年から 1943(昭和 18)年までフル稼働した『日本の油田』があった。ABCD 包囲網の中、秋田~新潟などから生産される石油とほぼ同量の石油が、継続してオハ油 田から日本に運ばれ、日本はそれによって戦闘機を飛ばし、軍艦を巡航させることが出 来たとされる。 平林氏は 1880(明治 13)年から現在までの樺太石油開発史について詳しく報告し、 歴史の闇に埋もれた多くの史実を明らかにした。さらに、1970 年代後半から 2013 年 に及ぶサハリンの石油開発史(地質調査史+物理探査史)について、わかり易く解説し た。樺太南部に露出する地質は北海道北部の地質と、その構造が全く一致すること、さ らに樺太中央部を東西に横切るトランスフォーム断層があり、それを境として、北部の 地質は南部と全く異なることをスライドで詳説するなど、しばしば聴衆からどよめきの 声があがる、鮮やかなプレゼンテーションが展開された。 講師は、オハの街を見おろす丘には、そこで殉職した 56 柱の石油技術者の遺骨が埋 められていること、そして火山のない樺太にも温泉のあることなどについて紹介し、そ こで展開された日本人の数々の苦悩や、今も住む朝鮮民族の歴史などについて話題提供 された。 講演に際しては活発な質疑応答がおこなわれ、つづいて近くの会場「半平」に懇親会 の席が設けられ、講師を含む会員間の交流が和やかにかわされた。 (金 ― 2 ― 光男・中陣隆夫) JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) 地質学史懇話会夜間小集会報告 日 時:2013 年 9 月 15 日(日)18:00~19:30 場 所:東北大学 C21 教室(日本地質学会第 117 年学術大会) 出席者:会田信行・鮎沢 金 潤・永広昌之・大友幸子・蟹澤聰史・加藤碵一・ 光男・滝川雅大・原 郁夫・御子柴真澄・矢島道子・山上 諒・ 高橋雅紀・島津光夫(14 名) 講 演: 蟹澤聰史:歌枕と津波 永広昌之:北上山地の地質自慢 加藤碵一会長の挨拶の後,東北地方の地質学史に関する上記の2講演が行 われた.蟹澤氏・永広氏ともに現在は東北大学総合学術博物館の協力研究員 をされている.講演の概要は次の通り. 蟹澤氏は歌枕の意味(和歌の題材とされた日本 の名所旧跡)の解説から始め,多賀城市の歌枕「末 の松山」と「沖の石」についてその地質学的背景 を含めて話された.松尾芭蕉の奥の細道は歌枕を 訪ねる旅であった. 「 末の松山」は標高が 12m あり, 3.11 の時に大勢の人が避難した場所で,「ちぎり きな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさ じとは」は津波と関係がある歌である.また「末 蟹 澤 氏 の松山」から 200m 程離れたところにある「沖の石」 「沖の井」はかつては別々 の場所であった.Yabe and Shimizu(1927)の記載(三畳紀の化石)からもわ かる.そのほか「松島」「名取川」「笠島」についても言及された. 永広氏は用意されたレジメをもとに話された. 南部北上山地を中心に,最新の古地理に至るまで の地質研究史の概略の説明の後,特質すべき地質 資源について紹介された.鹿折金山のモンスター ゴールド,雄勝のスレート,井内石(縄文時代 から利用)など 見所がたくさんある.また 皿貝坂 (ナウマン発見のモノティス化石)を初めとし て 中・古生界の重要な発見が数多く,日本の模式となっ 永 広 氏 ている.さらに日本産 アンモノイドの記載が最も多い.世界最古の魚竜化 石,日本最古の両生類化石,下部ジュラ系からの矢石化石なども重要な 発見である. 北部北上山地については,岩泉町の宮古層(日本の恐竜化石 第 1 号のモシリュウ),P/T 境界層などを紹介した. 講演の後,仙台駅前に会場を移して懇親会を行った.(会田信行) ― 3 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) 小泉八雲と服部一三 ―富山大学附属図書館ヘルン文庫の調査から見えてきた意外な関係― 中川 智視 1. 明治三陸地震の未確認資料について 発表者の 2 年間の調査は、1896 年 6 月 15 日に発生した明治三陸地震の未確認資料 The Great Disaster in Japan, June 15th, 1896 を、大震災の直後にラフカディオ・ハーン (日本名 小泉八雲:1850-1904)の蔵書を収蔵した富山大学附属図書館ヘルン文庫 で発見したことに始まる。1 発見の経緯を紹介したい。2011 年 4 月、非常勤先の大学の授業開始が東日本大震災 のため遅らされたことを受けて、私は 1 週間ほどヘルン文庫の調査に向かい、GDJ を 偶然発見した。その後、調査の過程でこの資料が未確認で、かつ富山大学附属図書館 だけが所蔵する資料であることが判明し、2011 年 10 月 1 日の読売新聞富山版に掲載 された。資料は B5 サイズで全 32 枚の内容である。当初あったはずの裏表紙は、ど うやら経年劣化で破損してしまったようだ。なおこの資料については、現在は富山大 学附属図書館によってデジタルデータ化され、一般にも広く公開されている。2 その後、発表者は資料の本格的な翻訳に取りかかった。GDJ は実質 3 部構成で、 内容は以下のとおりである。 導入部では、最初に日本人の地震に対する知見や、過去に日本で起きた地震と津波 現象、そして安政南海地震の被害の実例などが紹介される。その後、明治三陸地震に おけるリーフレット作成時点で報道されている情報や、原因の考察などが示されてい る。筆者はこの部分を書き下ろしだと思っていたが、調査の結果一部が転用されてい ることが判明した(詳細は後述)。 続いてこの先は、横浜在住の外国人記者(内容からイギリス出身と思われる)たち による、明治三陸地震の被災地取材が話題となる。横浜から岩手県花巻町までの汽車 の旅、花巻駅から同県釜石町(現釜石市)への馬と徒歩の旅、被災地の取材、そして 釜石から花巻までの帰路が詳細に記されている。 6 月 21 日。行きの汽車における状況と、花巻から遠野までの徒歩の旅が説明されて いる。一行ははじめ被災地全体を回って報告するつもりだったが、車内で出会った内 務省県治局長の三崎亀之助に訪問先を一ヶ所に限定するよう忠告され、最大の被害を 受けた釜石に絞ることにする。彼は記者たちに紹介状を書くほかに、一行の移動の困 難を軽減するよう最大限の配慮を尽くしていた。花巻から遠野までの旅のうち、途中 の宮守(みやもり)まで一行は人力車で進む。その人力車の手配は、三崎の便宜によ るものだった。人力車が使えない宮守から先は、荷馬を用いての旅になる。雨に打た れながら、一行は遠野にたどり着き、ここに宿泊する。 6 月 22 日。朝から釜石へ向けて山を越える旅になる。イングランド・デヴォン州の ― 4 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) The Great Disaster in Japan 関係 (左上) 表紙 (右上) 見開きの地図 (左下) 最初のページ(以上富山大学附属図書館所蔵) (右下)服部一三肖像画(『山田川疎水事業沿革誌』より 岩手県立図書館所蔵) ― 5 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) リドフォード渓谷に準えながら、場違いなほど山の美しさを堪能している様子がうか がえる。また釜石は鉄の産地であった関係で、早くから港への鉄鉱輸送用の貨物線が 確保されていた。前述の三崎による紹介状が効果を発揮し、貨物線を走るトロッコの 特別車に乗ることができる。やがて釜石に着いて、一行は佐々木由良蔵助役からの歓 迎を受ける。 筆者は、高台にある釜石町役場から被災地の状況を見渡す。そして、釜石で津波に 遭難したカトリック神父アベー・リスパルの行方を心配した、ふたりのカトリック神 父に出会う。おそらく時間が前後しているものと思われるが、トロッコを降りてから 被災地の惨状を目にするまでの様子が説明される。津波によってずらされた石碑や、 沖から陸地へ流されてきた 2 艘の大型船、流されて破壊された多数の漁船、仮設病院 となった学校での軍医たちの救護活動、そこでの瀕死の負傷者たちの様子などの描写 を経て、服部保受町長の案内で市役所へと行くことになる。そこで一行は、津波の難 を逃れた服部と佐々木、リスパル神父に付き添っていた日本人男性を取材して、生々 しい証言を聞く。そして救助活動に当たった宿のおかみ、沖に出ていて難を逃れた漁 師、地域の郡長などの証言が続く。その夜一行は、板垣退助内務大臣が後日宿泊する 予定の特別室に泊まる。 6 月 23 日。一行は、町長の便宜によって小舟を借り、釜石町の中心部からその舟で 湾を越える。その途中で一行は若い女性の遺体を発見し、どうするかを話し合った末、 取材の帰りに収容することに決めて、白浜に上陸する。そこで現地の人々と話をする。 しかし、精神的な負担も大きく、これ以上見聞を深めることの意義が見いだせないと 考え、一行はこの場所を以って取材を終えることにする。そしてその帰り道で、一行 は女の子の遺体をさらに発見する。同行していた船頭に遺体を託し、一行は帰途に着 く準備を始める。帰途に着く前に、一行は釜石にある鋳物工場を見学する。移動に関 する諸々の手配を済ませ、午後 8 時ごろ釜石を出発する。 6 月 24 日。大橋を経て、翌 24 日の午前 2 時すぎに遠野の宿にたどり着く。しかし 宿は満室で、雑魚寝でよければという条件で宿泊にこぎつける。一行は翌朝 7 時に宿 を出発し、12 時半に宮守に到着する。そして 16 時半ぐらいに土沢(つちざわ)に到 着し、そこからそれまで以上に歩を速めて、列車が到着するわずか 15 分前に、花巻 に到着する。 以上で旅行記は終わるが、ここでは記者一行以外に被災地に赴いた外国人から、新 聞社に届いた手紙が最初に紹介される。 それ以降、記者たちの旅行記ではなく、新聞や雑誌、公的文書などに掲載されたと 推定される記事をおもに英訳して、紹介している。最大の被災地である岩手県に割か れている箇所がもっとも多く、宮城県と青森県がその後に続く。6 月下旬ごろまでの 情報が掲載されていることから、この資料が 7 月に出版された可能性を推定できる。 この資料の発見を受けて、静岡福祉大学附属図書館(焼津市)の進藤令子氏から問 い合わせをいただき、企画展示に協力させていただくことになった。焼津はハーンが 東京帝国大学に赴任して以降毎年のように夏に訪れていた、彼ゆかりの場所のひとつ ― 6 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) である。この縁で、進藤氏とは昨年度 2 度の企画展示を行うことができた。ひとつは 昨年 5 月から開催された「小泉八雲と自然災害」展で、もうひとつはこれを受けて発 展し、昨年 11 月から開催された「『稲むらの火』誕生と服部一三」展である。両企画 展とも、静岡福祉大学附属図書館のカウンター横の企画展示コーナーにて行われた。 2. ハーンと服部の出会い―ニューオーリンズ万国博覧会― 服部とハーンの出会いは、1884 年末から翌 1885 年にかけて当時ハーンが新聞記者 として活躍していたニューオーリンズで開催された万国博覧会(通称「国際綿花産業 百年記念万国博覧会 (The World’s Industrial and Cotton Centennial Exposition)」)に遡る。 ニューオーリンズの観光文化についてまとめた Kevin Fox Gotham によれば、この万 博は、綿花の積荷がニューオーリンズから欧州に向けて初めて出荷されてから 100 年 経ったことを記念して開催された博覧会である (吉見、2010、 p.49) 。吉見俊哉や木 下直之が指摘しているように、当時の日本政府は、欧米の万国博覧会に工芸品などの 積極的な出展を行い、かつ欧米の芸術家や批評家たちに非常に大きな影響を与えてい たことがよく知られている(吉見、2010、p.118, 124, 214-24、木下、2010、p.19-45)。 ヨーロッパではモネやゴッホなど、当時の画家たちが日本美術に大きく影響されたこ とはよく指摘されるところだが、アメリカでも類似の事例がある。J. M. Mancini は、 1876 年のフィラデルフィア万博で日本館が人気を博し、James Abbott McNeill Whistler らの画家の表現方法に大きな影響を与えたことを指摘している (Mancini, 2005, p.12) 。 ニューオーリンズ万博自体は、1851 年のロンドン万博、1862 年のパリ万博、1873 年 のウィーン万博、1876 年フィラデルフィア万博、1893 年のシカゴ万博などと比較し て、あまり知名度の高い博覧会とは言えないのが実情である。Gotham によれば、こ の博覧会は海外からの展示が少なかったことや、当初 400 万人を見込んでいた総入場 者がわずか 116 万人弱にしかならなかったことなどを含め、興行的には失敗に終わっ た (Gotham, 2007, p.46) 。ただし彼は、この博覧会が大企業や電力などの典型的な近 代装置によって大規模に運営された点と、観光地としてのイメージが定着した点で、 相応の意義があると考えている (Gotham, 2007, p.46-47, 65-68) 。 このころの博覧会に出展した日本政府は、博覧会に内包される思想を、それらの起 源である西洋の認識にすり合わせることに成功した時期だと考えられる。吉見によれ ば、明治期以降日本各地で「博覧会」と称する催しが開催されていた。明治半ばごろ に開催された博覧会の傾向として、吉見は展示行為から見世物的要素が排除されるよ うになり、代わりに体系化や啓蒙といった単語に収斂するような、近代性を顕著に帯 びるようになったことを指摘する (吉見、2010、p.130-138) 。その例として吉見は、 ウィーン万博とその責任者だった佐野常民が、西洋で興った博覧会に対し、より西洋 の意図を汲み取った理解を示したことを挙げる (吉見、2010、p.123-130) 。服部は、 そのような時期に日本からニューオーリンズに責任者として派遣された。 なお服部に関しては、兵庫県知事時代の知己が顕彰のために没後およそ 10 年を経 た 1941 年に刊行された伝記『服部一三翁景伝』が、確認できる事実上唯一の出版物 ― 7 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) となる。服部は 1851 年長州に生まれ、岩倉具視の息子である岩倉具定に随行して 1868 年にアメリカに行き、1871 年にニュージャージーにあるラトガース大学へ留学、1875 年に学位を取得する。3 その後岩手県知事に就任するまで、官僚として文部省に奉 職し、在職中、東京英語学校校長(旧一高)や大阪専門学校総理(旧三高)に就任す る。前後して東京帝国大学の創設にも大きく関与する。万博後彼はアメリカからヨー ロッパに渡り、視察を続ける(彼はアメリカより、ドイツの法制に関心を示したよう である)。帰国後は再度東京帝国大学の運営にかかわったのちに地方行政に転じ、岩 手県 (1891-98)、広島県 (1898)、長崎県 (1898-1900)、兵庫県 (1900-16) の県知事を歴 任する。また 1903 年に貴族院議員にも任じられ、1929 年に亡くなる。 大臣職などを経ていないため、服部の知名度自体はそれほど高くないが 1896 年の 明治三陸地震時に岩手県知事の職にあったという事実は、東日本大震災以降の社会情 勢を鑑みれば、その事績について学術的見地からの検討を加える必要がある人物だと 言えるだろう。清水唯一朗は『近代日本の官僚』という本の中で、明治初期から大正 時代までの官僚制度の変遷を、概略的に追いかけている。この本には明治時代の官僚 の名が多数登場するものの、残念ながら服部への言及はない。しかし清水は、日本が 1870 年代以降、近代立憲国家へと向かう過程で多数の人材が欧米に留学したことを指 摘する。服部も、当時の立身出世のためのルートに乗った人物のひとりであったと、 考えられるのではないだろうか。 他方ハーンであるが、1885 年前後は文筆家としての知名度がアメリカ国内において、 全国区になりかかっていた時期と言える。彼はこの博覧会の運営を指揮していた新聞 社 Times Democrat 紙の記者として活躍していたと同時に、この万博に合わせてクレ オール料理のレシピ本 La Cuisine Creole や、クレオールのことわざ集である Gombo Zhebes という 2 冊の本を出版し、後の来日にもかかわる Harper 社の雑誌に、記事を 寄稿するようになっていた時期である。松江市立図書館は、ハーンの作品のみならず、 当時の新聞や雑誌批評など関連する多数の古い記事を所蔵しているが、そのなかに当 時の記事があるので、それを参照してみたい。ハーンは同誌の 1885 年 1 月 31 日号で、 日本館を早くも取り上げ、詳しくその様子を説明している。彼はそこで、日本製の香 炉、花瓶などの工芸品、絵画、刀などに大きな関心を寄せているものの、服部の名前 には言及していない。その名がハーンの記事に初めて登場するのは、確認できるかぎ り同年 3 月 7 日号の Harper’s Weekly の記事である。服部はこの記事の中で、日本の 教育が西洋の水準に決して劣らないことを力説している。ついで Harper’s Bazar 3 月 28 日号で、彼は再び日本館を取り上げている。ここで彼は以前の記事と異なり、工芸 品よりも展示されている書籍に関心を寄せている。彼は、1883 年に刊行された小石川 庭園の植物誌 Figures and Descriptions of Plants in the Koishikawa Garden (伊藤圭介英 訳)、日本の音楽教育に関する伊沢修二の著作などを紹介する。そしてこの記事の後 半で、彼は服部の言葉を概略的に紹介している。そこで服部は、日本では十分な科学 教育に必要な装置が、安価で揃うことをハーンに伝えている。 以上のことから、服部は、大学の創設や運営・維持管理体制の確立、学会の創設、 ― 8 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) 科学教育の水準向上など、近代国家の学術体制の確立に強い関心を寄せていた可能性 が、見えてくるのではないだろうか。彼のそのような関心は、明治維新を経て近代国 家への道を着実に歩んでいた当時の日本社会の情勢とも、密接にかかわってくる。現 時点の調査で断定することは難しいが、彼は、ニューオーリンズ万国博覧会で、国家 の基幹となる教育制度や体制が西洋に劣らず十分に整備されている日本の現状を語 る役割を期待されていたと考えられるだろう。 ここで、ハーンの来日直後の状況についても触れておきたい。彼はもともと、先に 紹介した Harper 社の通信記者として、日本の記事を執筆するために来日した。つま り、彼が万博の記事や文学作品を出版した Harpers Monthly (現 Harper’s Magazine) をはじめとする、同社が抱える系列雑誌に掲載されることになる記事を書くための記 者だったのである。しかし、同社と稿料をめぐってトラブルになり、そのまま同社と の関係を解消してしまう。他方服部は 1890 年、ハーンが来日した時点では文部省普 通学務局長の職にあった。このとき、収入口がなくなったハーンに手を差し伸べ、松 江への就職をあっせんしたのが、のちに彼の友人となる Basil Hall Chamberlain と、 当時文部省の要職にあった旧知の服部一三だったのである。ハーンはその後日本国籍 を取得し周知のように小泉八雲と名乗るが、最初に派遣された場所が松江でなかった なら、彼の遍歴はきっとまた別の展開になっていたはずだ。 3. ハーンと服部の「意外な関係」 では、発表者はハーンと服部の「意外な関係」に、どのようにして気がついたのか。 話は、ニューオーリンズ万博からおよそ 7 年、遡ることになる。1878 年 3 月、当時文 部官僚だった弱冠 27 歳の服部は、日本アジア協会で日本の地震に関する発表を英語 で行い、その内容を同会の紀要に残していた。発表者がなぜこの存在に気がついたか であるが、それは最初に紹介した GDJ に、“Mr. Hattori” という記載があったことに 始まる。その箇所を引用してみたい。 「地震が引き起こした津波が深刻な被害をもたらしたという見つかるかぎ りの最古の記録は 869 年 5 月のもので、服部氏が数年前にアジア協会で発表 した報告の中で言及している。」 (GDJ p.1 翻訳と下線は引用者による) 上記の引用は、先の東日本大震災に関連してたびたび言及されていた、いわゆる「貞 観地震」の紹介である。そこに「服部氏」がアジア協会で発表したという具体的な語 句が出てきたところから、この「服部氏」が誰かを特定すべく、ヘルン文庫に収蔵さ れているアジア協会の紀要をさらに調査し、ここに記載されている「服部」が服部一 三であることを確認した。服部は明治三陸地震時の岩手県知事であっただけでなく、 日本の近代地震学の確立にも大きくかかわっていたのだ。さらに彼は 1880 年から 2 年ほど日本地震学会の会長職にあり、その立ち上げにもかかわっていた。4 服部の論文はアジア協会での発表の記録を、そのまま文章に起こしたものだと思わ ― 9 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) れるが、GDJ と共通する箇所を挙げたい。それはとりわけ GDJ の冒頭に集中してい る。日本における地震の歴史を概略的に紹介した GDJ の導入部は、この論文をもと に要約を行ったものである。また、とりわけ GDJ に登場する安政南海地震の高知の 状況を紹介したところは、事実上の転載を行っている。 この論文に通底する問題設定は非常に単純で、古文書や古い文学作品などに記述さ れた過去の大地震の記述を調査し、英語で概略的に紹介したのみである。また客観的 な記述の羅列になっている箇所も少なくない。ただし、この論文は英語だけでなく、 文語と口語の日本語の「三者」に通じていないと、おそらく発表や執筆ができない内 容だったことには気をつける必要がある。アメリカ留学帰りの服部は、その条件を満 たす数少ない人物だったのだ。 まず服部は、日本における地震にまつわる問題を取り上げるうえで、漢籍(『後漢 書張衡伝』)に収録されている地震計をまず紹介する。彼はその複製品を陶工に作ら せており、発表のさいに披露しているようである。それから、陰陽道や鯰、神話など、 当時の地震に関する伝承や民間信仰を紹介する。前置きを経て、彼は日本書紀に記さ れた 416 年から 1872 年までの地震を紹介する。 彼は京都や江戸などの人口密集地と、 そうでない場所の記述の残り具合に偏りがあることに注意を払いながら、この作業を 行っている。そして、古い時代よりも比較的直近である江戸時代以降の地震のほうが、 必然的にその記述に厚みがあることにも、同じく彼は気がついている。 この発表を締めくくるにあたり、服部は以下のようにまとめる。日本で地震が終息 したとは言えないこと、日本のほぼ全域が地震の脅威にさらされてきたこと、ほぼ 10 年に 1 度程度の間隔で大地震が起きていること、さらに大地震が短期間のあいだに集 中すること、大地震の予兆として異常気象が起こりうること、最後に大地震に先立ち、 磁気の異常が発生する可能性があること。以上の仮説を示して、論文は結ばれる。そ して、彼のこの発表がもたらした反響の大きさは、質疑応答で示された多彩な反応に 表れていると言えよう。そしておそらくはこの発表と論文がきっかけで、彼が地震学 会会長に推挙されたと考えることができるだろう。 ハーンが所蔵し、富山大学附属図書館所蔵のヘルン文庫に遺した 1 部のリーフレッ トから始まった調査と翻訳作業は、思いがけぬ形で発展した。彼の来日に大きくかか わった服部一三は、明治三陸地震当時の岩手県知事であっただけでなく、日本の近代 地震学の立ち上げにもかかわっていたのである。現状、服部に関する調査はまだそれ ほどなされていないので、筆者の今後の課題となることだろう。 1 同資料については、以下 GDJ と略記する。 富山大学附属図書館のレポジトリである、ToRepo を参照のこと。リンクについて は、http://utomir.lib.u-toyama.ac.jp/dspace/handle/10110/10652 3 William Elliot Griffiths (1843-1928) は、日本におけるラトガース大学の卒業生を紹介 した講演の中で、服部の名に言及している。Griffiths, 1916, p.23. 4 なおこれは、同郷の工部官僚山尾庸三 (1837-1917) が会長就任を辞退した関係で回 ってきた職であった。 2 ― 10 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) 引用文献 木下直之、 『美術という見世物―油絵茶屋の時代―』講談社、2010. 清水唯一朗、 『近代日本の官僚―維新官僚から学歴エリートへ―』中央公論新社、2013. 吉見俊哉、『博覧会の政治学―まなざしの近代―』講談社、2010. Gotham, Kevin Fox. Authentic New Orleans: Tourism, Culture, and Race in the Big Easy. New York: New York UP, 2007. The Great Disaster in Japan, 15th June, 1896. Yokohama: Japan Gazette, 1896. Griffiths, William Elliot. The Rutgers Graduates in Japan. New Brunswick: Rutgers College, 1916. 7th Mar 2010. Internet Archives. Cornell University Library. 1st July 2013. https://archive.org/details/cu31924023312899 Hattori, Ichizo. “Destructive Earthquakes in Japan.” Transactions of the Asiatic Society of Japan 6. 2 (1878): 249-75. Hearn, Lafcadio. “The East at New Orleans.” Harper’s Weekly. [7th Mar. 1885]. ※ -----. “The New Orleans Exposition.” Harper’s Weekly. [31st Jan. 1885]. ※ -----. “The New Orleans Exposition -- Some Oriental Curiosities --.” Harper’s Bazar. [28th Mar. 1885] ※ Mancini, J. M. Pre-Modernism: Art-World Change and American Culture from the Civil War to the Armory Show. Princeton: Princeton UP, 2005. ※ これら 3 点の資料については、松江市立中央図書館が所蔵する、ハーンに関 する資料を集めた「モース・コレクション」から引用した。これらの引用元は切り抜 きであり雑誌の巻号等が判明しないため、明示されている発行日を以って代えた。 本論文の執筆にあたっては、富山大学附属図書館の栗林裕子氏、静岡福祉大学附属図 書館の進藤令子氏、岩手県立図書館の似内千鶴子氏、松江市立中央図書館の廣江誠一 氏にそれぞれお世話になりました。ありがとうございました。 ― 11 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) 歌枕と津波 蟹澤聰史 まえがき 芭蕉の『おくのほそ道』の冒頭には「月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅 人也」とある。これは、李白の「それ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客 である。而して浮生は夢の如し」に拠る。2011 年 3 月 11 日の大震災、それに続く 大津波、この歴史に残るような大災害と引き続いた福島第一原子力発電所の事故を 経験して、科学の発達した今の時代に、自然の大きさは人間の比ではないことを思 い知らされた。人生はまさに宇宙という宿に一夜を借りる旅人であり、夢のような、 ほんの一瞬に過ぎないものであるとの思いを強く持った。そのような経験を経て、 300 年以上前に芭蕉が憧れたみちのくの歌枕、それと津波とがどんな関係にあるの か私見を述べたい。 1. 「歌枕」とは そもそも、歌枕とはどういうものなのか。金沢規雄氏(1986)によれば、 「歌名所」 としてもよいとあるが、この規定では「歴史的属性を明確にして把握しない限り『歌 枕』を理解したとは言えない」としている。さらに、扇畑忠雄氏による「・・・い わゆる名所化の傾向は、すでに万葉後期にもうかがわれるが、歌枕として観念が固 定化し、一般化したのは平安時代に入ってからである。現地を踏まないでも、その 本の歌の情趣や表現にすがって自己の心情を歌うことが出来た。いわば本歌取に似 た一種の作歌法である。 ・・・」 (明治書院『和歌文学大辞典』1962)を引用し、こ の説明が、歌枕の成立過程について、的確に述べているとしている。 2. 『おくのほそ道』における歌枕 『おくのほそ道』の一節に「それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は、 まつしょうざん ・・・」とある。 寺を造りて末 松 山 といふ。 末の松山は、陸奥国の歌枕であるのは確かだが、詳しい場所は不明とのことであ る。しかし、伊達綱村時代に歌枕として整備されたもので、多賀城市宝国寺の裏の 丘とされたというのが一般的な解釈となっている。 「沖の石・沖の井」も歌枕とし て有名で、いずれも現在の「末の松山」付近にある。芭蕉は、これをよりどころに 多賀城市の末の松山、沖の石などを訪ねたのであろう。 私が気になったのは、3 月 11 日の大津波で、多賀城市も大きな被害があったと 聞いたとき、どの辺まで津波が押しよせたのかということであった。津波の襲来で ― 12 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) 想い起こすのは清原元輔の「ちぎりきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 な みこさじとは」 (後拾遺和歌集)である。この歌は、古く古今和歌集の東歌「君を おきて あだし心を わがもたば すゑの松山 浪もこえなむ」を本歌としている。 いろいろな解説を読むと、この歌は男女の「愛の契り」を詠んだもので、末の松 山を超える波というものは、本来あり得ないこと、つまり「愛の破局」のたとえで、 「行く末までも心変わりをすることは絶対にないと。 」ということになる。 文学的解釈はともかく、何か津波に関係があるかもしれないと思いついたことか ら、震災の年の 10 月に現地を訪れた。JR.多賀城駅から 10 分ほど、多賀城市八幡 の宝国寺の後ろの標高 13m の丘が「末の松山」で、その上に2本の堂々たる松が立 っている。 そこから細い道を南に 100m ほど下ると、池の中にゴツゴツした頁岩が出ており、 これが「沖の井・沖の石」である。この頁岩は三畳系利府層に属し、この地域の北 方にかなり広く分布していて、模式地の利府町にある石切場ではアンモナイトが産 出することで知られている。この歌枕は、古今和歌集に載っている小野小町の「お きのいて 身を焼くよりも 悲しきは 宮こ島べの別なりけり」 、あるいは千載和 歌集にある二条院讃岐の「わが袖は しほひに見えぬ おきの石の 人こそしらね かわくまぞなき」などの歌が詠まれていることで有名である。昔は、海岸線がこの 石のごく近くにあり、満潮時には沖合に浮かぶような格好で見えたのではなかろう かと想像できる。 実際にこの二つの歌枕を訪れたとき、付近の人に聞いてみると、3 月 11 日、沖 の石は津波に襲われ、周囲の家々は浸水したとのことである。標高 2~3m ほどの沖 の石付近では、人間の背丈よりも高い 2m ほどのところまで津波の痕跡が塀やフェ ンスに残っていた。標高 13m の末の松山のすぐ下まで津波が押しよせたと地元の人 は言っていた。そのときは、大勢の人たちが末の松山の丘に避難して一夜を明かし たとのことである。宝国寺の近くにある酒屋さんのご主人は、 「一階は完全に浸水 したが、二階だけは何とか助かった」と語ってくれた。 末の松山を超えるような大波は、それこそ「愛の破局」だったかもしれないが、 古今和歌集の成立は、延喜 5(905)年なので、貞観 11(869)年 5 月 26 日(グレ ゴリオ暦では 7 月 13 日)に仙台平野を襲った「貞観津波」からそれほど経ってい ないことを考えると、その背景には、まさにこの津波との関係も考えられるのでは ないかと思ったのである。 3.貞観 11 年の巨大地震と津波 貞観 11 年(869)に起こった「貞観地震・津波」について『日本三代実録』では、 ― 13 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) 次のように記述されている。武田・佐藤(2009)による読み下し文では、 「廿六日癸 未、陸奥國、地大に震動りて、流光晝の如く隠映す」との書き出しではじまってい る。さらに要約すれば、 「家屋が倒れ、地割れが起こった。城郭・倉庫・門・櫓・ 囲いの壁は倒壊し、巨大津波が襲い、田畑・道路も全て浸水し大海原となった。そ のため、舟に乗る暇もなく、高所に避難しようとしても間に合わず、溺れ死んだ人 は千人ほど、財産や家屋、作物もほとんど残らなかった」とある。 このときの被害の様子や、地震・津波の規模に関しては、近年の貞観地震津波堆 積物の研究によってかなり具体的に明らかにされている(阿部ほか,1990;Minoura and Nakaya, 1990; Minoura et al., 2001, 澤井ほか,2006;宍倉ほか,2010)など。 これらの研究によると、平野堆積物のサンプリングにより、10 世紀はじめの十和 田a火山灰(912 年~934 年)の下位に数 cm~数 10cm の厚さで堆積する細粒砂層が 認められ、汽水域や海水域に生息する珪藻などが含まれることから、貞観 11 年の 津波堆積物と認定された。この細粒砂層の追跡から、貞観津波の浸水域は仙台平野 や石巻平野では当時の海岸線(現在よりも 1km ほど内陸寄り)から 3km ほども内陸 まで到達したことが判明した。この津波の時の地震の規模はマグニチュード 8 以上、 津波の被害は三陸沿岸から現在のいわき市沿岸までに及んだ。また、貞観津波の下 部にも数枚の津波堆積物が発見され、その繰り返し間隔は 600~1300 年程度と推定 されている。さらに、慶長 16 年(1611)にはマグニチュード 8.1 の大地震と巨大津 波が仙台平野を襲ったことも明らかにされた。 また、2012 年から調査の始まった山王遺跡では同じような洪水砂層が認められ、 詳細な研究が継続中である(宮城県教育庁文化財保護課,2012) 。 1960 年に発掘調査が開始された多賀城跡は、貞観地震との関連が次第に明らか にされ、丘陵地に造られた多賀城は津波による被害こそ受けなかったが地震による 被害は大きかった(柳澤 2012;2013a,b)。 実は、貞観津波に関しては既に吉田東吾が明治 39(1906)年に「歴史地理」第 8 巻で指摘しており、特記すべきことである。 また、松本秀明氏は、今から 2000 年前に仙台平野を襲った津波による堆積物を、 仙台市若林区にある弥生時代の沓形遺跡水田跡の上部から発見し(松本,2013;松 本ほか,2013) 、このときの規模は、ほぼ貞観地震・津波とほぼ同じ程度であった。 このことは、2011 年 3 月 11 日の大津波も考慮して、およそ 1000 年ごとに同じ規 模の地震と遡上距離 4km を記録する巨大津波が仙台平野を襲ったことを示す。 また、河野幸夫氏は、 やはり「末の松山」と貞観津波との関係について論じ(2007)、 『日本三代実録』などに記されている出来事、さらに海底遺跡や文献調査に基づい て「末の松山」を貞観大津波が越えたのではないかとの仮説をたてられた。そのと ― 14 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) き、 「末の松山」を波が越えて逆流したという情景の記憶が歌の表現に眠っている のではないかということである。一方で、文学作品を史実や海底遺跡で解釈するの が文学の文学たる所以を破壊することは本意ではないとも述べておられる。 ところで、末の松山と津波との関係に関して、金沢規雄氏(1986)は、 「 『末の松山』 を大浪が越えなかったという考え方もあるが一切不明である」との見解を出されて いる。金沢氏によれば、十七世紀以降の江戸時代には、各藩が文化に力を入れはじ め、その気運の一つとして領内の名所旧跡を整備し、古人ゆかりの地(歌枕)を保 存・踏査しようとする試みがはじまった。その結果、 「末の松山」は「みちのく」 に四箇所もあることとなった。その一つが「多賀城八幡」であり、佐久間洞巌の『奥 羽観蹟聞老志』 (享保四年 1719)は過去の記録をまとめたものであるが、必ずし も実在の「末の松山」に則して述べているかどうか不明である以上は事実として肯 定できないという。 さらに金沢氏は「沖の石」に関しても、 『百人一首』に収録された二条院讃岐の 歌が有名になり、元来固有名詞であった「沖の石」が固有名詞化し喧伝され、地名 として定着したという。先の『奥羽観蹟聞老志』にも「未ダ其ノ地ヲ詳ラカニセズ。 相伝フ。同郡(宮城郡)八幡ノ農家中ニ小池有リ。池中奇石礧々佳状愛ス可シ。州 人古来、称シテ興ノ石ト曰フ。 ・・・」と言うことで、これも一つの奇石伝説とみ るべきだとしている。 つまり、こういった仮説・あるいは伝承などは、史実を証明する資料が集まらな い限り使用できないということである。 今のところ、 「末の松山」と津波との関連は想像の域を出ない。しかし 2011 年の 大地震・大津波の際には、直下まで津波が押し寄せたが、 「末の松山」を越えるこ とはなく、大勢の方々がここに避難して助かったということはまぎれもない事実で ある。 4.沖の石と沖の井 『おくのほそ道』には、 「沖の石」とあり、一方『曽良旅日記』には、 「末ノ松山・ 興井」となっており、くいちがいが見られる。 ところで、現在は「沖の石」と「沖の井」は同じ場所と記載されているが、もと もとは別の場所であった。これに関して、秋月瑞彦氏(1993)が、多賀城駅から南に 延びる産業道路の一角、現在の多賀城市町前 2 丁目付近に「沖の石」があったこと、 ダオネラやアンモナイトの化石が含まれていたが、化石マニアや子供たちに削られ、 道路や建物の建設などで消えてしまったことを紹介している。一方で、江戸時代後 期の「奥州名所図会」や明治初期の地形図には、この二つの位置は明らかに別に記 ― 15 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) 載されていること、 「沖の石」の周辺は 1942 年に海軍工廠用地として強制買収され、 地名自体が消滅してしまったことなどを橋本修一氏からご教示頂いた。 この2つの場所に関して、さらに調べてみたところ、 「沖の井」と「沖の石」の 化石について、Yabe and Shimizu(1927)により記載されていた。それによると「沖 の井」には、Spiriferina sp., Pecten sp., Daonella two species, Ptychites sp. γが産し、沖の井の南西 1200m にある「沖の石」には、Pecten sp., Pedarion sp., Ptychites sp.β が産するとある。ここに記載されている「沖の石」が古い地形図 に残っている場所で、矢部・清水両氏の調査した頃には、いずれの地域にも三畳系 の露頭が存在していたことを示すものである。このことは、多賀城市から利府近辺 にかけての新第三系の下部には、三畳系利府層がかなりの範囲で分布していること を示唆するものである。 5.松島 松島を詠った歌は多い。例えば、 「わがせこを都にやりて塩がまのまがきの島の まつぞ恋しき」『古今集 東歌』、「たちかへりまたも来て見ん松島や雄島の苫屋 波に荒らすな」藤原俊成『新古今集』、などがある。 芭蕉は、 『おくのほそ道』の冒頭近くで「・・・松島の月まづ心にかかりて・・・」 と、かなり松島には思い入れが深かった。実際に松島を訪れたとき、中国の風景に たとえながら、その島々の形態をみごとに描写しているが、一句も残していない。 同行の曽良が、 「松島や鶴に身をかれほととぎす」と詠っているのみである。 芭蕉が松島に泊まったのは『曽良旅日記』によれば、旧暦 5 月 9 日(新暦では 6 月 25 日)なので、朝から天気も良く、翌日も良かったので、満月にはやや日にち がある 9 日の月を眺めたことであろう。 芭蕉がその美しさに絶句した松島は、大小 260 以上の島々からなる多島海で、島 の大部分には第三紀中新世のシルト、砂岩、火山角礫岩を挟むデイサイト質軽石凝 灰岩からなる松島層、および海成のシルト岩を主とし、凝灰岩を挟む大塚層が分布 する。 宮城、福島県境から比較的なだらかな海岸線が続く中で、松島湾は新第三系から なる丘陵地によって囲まれており、南西端には七ヶ浜町の丘陵地、北東には東松島 市の大高森によって抱きかかえられているようにも見える。また、その間には桂島、 野々島、寒風沢島、朴島、馬放島などをはじめとする大小さまざまな島があたかも 防波堤のように点在している。 東日本大震災による津波は湾内まで侵入し、瑞巌寺は庫裏の壁が落ち、亀裂が走 り、津波は参道まで押し寄せた。島への橋の一部が落ちたりもしたが、その被害は ― 16 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) 仙台平野や石巻平野に比べると少なかった。隣接する東松島市では, 死者・行方不 明者の数は 1,047 名・58 名に対し、松島町では死者 2 名である(2012 年 3 月 13 日 現在、消防庁災害対策本部)。松島町での津波の高さは3.8mにも達したが、碗 の入り口に点在する島々が津波のエネルギーの緩衝材の役割を果たしたためだと いう(読売新聞 2011 年 3 月 23 日、産経新聞 2011 年 6 月 19 日など) 。 6.歌枕としての「名取川」と埋もれ木 名取川は、宮城県西部の神室岳付近を源として仙台平野を流れ、途中で広瀬川と 合流して、太平洋に注ぐ一級河川である。仙台平野では広く水田に囲まれ、河口付 ゆりあげ 近の名取市閖上地区では貞山運河と繋がる。 閖上は古くから漁港として栄えてきたが、東日本大震災による津波で壊滅状態に なってしまった。 この名取川は、古くから歌枕として有名で、万葉の時代から詠われている。 陸奥に有りといふなる名取川 なき名とりてはくるしかりけり 壬生忠岑『古今 集』 、名とり河せぜのむもれ木あらはれば 如何にせむとかあひ見そめけん よみ びと知らず『古今集』 、などがある。 名取川で目立つのは「埋もれ木」について詠っている歌が多いことである。この 「埋もれ木」とは何であろうか。 『新版 地学事典』 (地学団体研究会編,1996)に よれば「炭化度の低い褐炭で、まだ木質部の組織が保存されているものの俗称。仙 台地方では鮮新世の仙台層群から産出し、昔から細工物の材料として有名であるが、 産出量が減っている。樹種はほとんど Taxodioxylon sequoianum。 ・・・」とある。 仙台付近でみられる亜炭層・埋もれ木は仙台層群に数層が挟在し、古くから市民に 親しまれてきた。向山層広瀬川凝灰岩部層に重なる凝灰岩質シルト岩に発達する亜 炭は3層あり、上部のものは良質で最も厚く、本𨫤と称されていた(奥津,1956)。 おたまやした また、仙台市青葉区霊屋下の広瀬川河床面に露出する向山層下部の化石林植物に ついては、早坂一郎・江原真伍両氏(1915)により詳細に報告された。 「埋もれ木」は、地下にあるものということから、 「下」あるいは「人知れぬ」 にかかる枕詞として用いられており、人知れぬ恋が露見したらどうしようといった 意味の歌が多い。 名取川の河口付近で、古来詠まれている「埋もれ木」にはこのほか、 「川埋もれ 木」と称するもので、河川堆積物に埋もれていた古い流木が洪水などで再び露出し たものもある。このような「川埋もれ木」は、阿武隈川でもしばしば発見されてお り、いずれもケヤキ、カシ、クリ、ナラなどだといわれている(松浦,2009) 。名取 川の「埋もれ木」は、広瀬川との合流点よりも下流側に多く発見されていることか ― 17 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) ら、松浦氏は仙台層群に由来するものと、それよりも新しい「川埋もれ木」との2 種類があるとしている。松浦氏は、阿武隈川梁川橋上流のクリ材の埋もれ木につい て 2300 年 BP の炭素同位体年代を報告している。したがって、これら「川埋もれ木」 は、仙台層群のものとは時代的に全く異なる。 しかし名取川では、仙台層群は下流の河床面にも露出している。太白区富田の名 取川沿いの河床面には、名取層群の上部に不整合で亀岡層、向山層、大年寺層が重 なり、その中に亜炭層が挟在する(Fujiwara et al., 2008;地学団体研究会仙台支 部,2011)。この付近ではほぼ N30°W ほどの走向、30~45°EW ほどで、下流側に傾 斜している。したがって、これより下流側には中新世~鮮新世の地層の露出してい る可能性は低いであろう。古くから歌に詠まれている埋もれ木は、この付近よりも 下流の河床から発見された流木の他に、仙台層群の露頭から流れ出した埋もれ木も 含まれるとの考えは妥当なものである。 なお、 『万葉集』にも「埋もれ木」が詠われている。例えば、2723 よみびと知 らず ものによせておもいをのぶ あまたあらぬ 名をしも惜しみ 埋木の 下ゆぞ 恋ふる 行方知らずて など、これまた人に知られないような恋という。 古の人たちも、河床に埋もれていた古木や、地層の中に挟在している亜炭層(埋 もれ木)などを、 「古い植物などが埋もれていたもの」という認識はあったのであ ろう。 謝辞 小文を草するにあたり、藤原益栄、橋本修一、河野幸夫、松本秀明、柳澤和 明の各氏から多くの情報、文献を紹介して頂いた。記して感謝する。 引用文献 阿部 壽・菅原喜貞・千釜 章(1990) 仙台平野における貞観 11 年(869 年)三陸津波の痕跡 高の推定.地震,第 2 輯,43,513-525. 秋月瑞彦(1993) 史都の巨大石(2) 沖の井と沖の石,広報たがじょう 史・季・彩,第 256 号. 地学団体研究会編(1996)『新版 地学事典』平凡社 1443pp. 地学団体研究会仙台支部編(2011) 『気分は宝さがし! せんだい地学ハイキング』創文印刷 (株) 191pp. Fujiwara, O., Yanagisawa, Y., Irizuki,T., Shimamoto,M., Hayashi,H., Danhara,T., Fuse,K. and Iwano,H. 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(1994)は,CHIME 年代にも とづき,氷上花崗岩類はデボン紀以降のさまざまな年代の岩体をもふくむとしたが, その年代論は層位関係と矛盾する(永広,1995) . 3.わが国の地質学をリードした研究 1) 日本地質学の黎明期から明らかにされた地質 上述のように北上山地,とくにその南部は古くから地質学的・古生物学的研究が行われ てきたこともあり,20 世紀初頭には全域の 20 万分の 1 地質図が作成され,地質の概要が明 らかにされていた. 1892 年 菊池 安,20 万分の 1 石巻図幅 1892 年 菊池 安,20 万分の 1 一関図幅 1903 年 金原信泰,20 万分の 1 釜石図幅 1911 年 中村新太郎,20 万分の 1 二戸図幅 1915 年 山根新次,20 万分の 1 盛岡図幅 また,1956 年には,北上山地を含む岩手 県全域の 10 万分の 1 地質図およびその説明 書(小貫,1956)が刊行されている. 2) わが国の地質研究の先駆的発見 黎明期やその後の研究において,北上山地 ではわが国の地質学研究史における重要な発 見が数多くなされている.とくに三畳系・デボン 系・シルル系は北上山地ではじめてその存在 が確認された. わが国における三畳系の存在は,Naumann 上部三畳系皿貝層群産二枚貝 Monotis ― 22 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) (1881) に よ る南三陸町 歌津皿貝坂 からの二枚 貝 Monotis の発見では じめて確認 された.デ ボン系のそ 上部デボン系鳶ヶ森層産腕足類 Cyrtospirifer れは,Yabe (左)と東北大学地質学教室初代教授矢部長克(右) & Noda (1933) の 一 関市東山町 の鳶ヶ森層からの腕足類 Spirifer vernuili (=Cyrtospirifer yabei, C. tobigamoriensis: Noda & Tachibana, 1959)の報告である.なお,鳶ヶ森層からは 1950 年に鱗木化石 Leptophloeum .また,シルル系は,小貫(1937)による大船渡市樋 も発見されている(Tachibana, 1950) 口沢からのクサリサンゴ・ハチノスサンゴなどの発見でその存在が確認された. なお,北上山地における その他の古中生界各系の発 見史は以下の通りである. ・ジュラ系の確認:南三陸町 志津川細浦(坂,1885: Harada, 1890 に引用) ・ペルム系の確認:石巻市 雄勝町小浜・登米市米 谷・気仙沼市(神保, 1887:Harada, 1890 に引 用) ・白亜系の確認:気仙沼市 わが国からはじめて発見され たシルル紀クサリサンゴ化石 大島(脇水,1894) (Sugiyama,1940)(左)と発見 ・石炭系の確認:大船渡 者の小貫義男(右) 市・陸前高田市・住田町 (遠藤,1924) 3) 古中生界の模式的地域として 南部北上帯の浅海成中部古生界~下部白亜系は,いくつかの不整合を挟みながらも, ほぼ連続したシーケンスを残している.このことから,南部北上帯,とくに北上山地南部 のそれらはわが国における模式となっている.また,これらから産するアンモノイドフォー ― 23 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) はじめて科学的に記載された日本産アンモノイド(Mojsisovics, 1888: 石巻市井内の中部三畳系伊里前層産) ナは,北海道の白亜紀のそれをのぞいて,国内有数 で,アンモノイドが繁栄を始めるデボン紀以降の各紀 のフォーナがすべて見られるのは南部北上帯のみで ある. わが国産アンモノイドが初めて科学的に記載された のは 1888 年で,E. Naumann が 1881 年の南三陸地域 の地質調査の際採集した石巻市井内産(伊里前層)三 畳紀アンモノイド(Hollandites, Gymnites, etc.)が,高知 上部デボン系鳶ヶ森層産の日本最 古のアンモノイド Platyclymenia 産のものとともに,Mojsisovics (1888)によって報告され (左)と Costaclymenia (右) た.また,下記の 3 つの紀のアンモノイドも北上産が初 記載である. ・デボン紀:Platyclymenia, Costaclymenia (Ehiro & Takaizumi, 1992: 鳶ヶ森層:日本最古 のアンモノイド) ・ペルム紀:Stacheoceras (Mabuti, 1935:岩井崎石灰岩) ・ジュラ紀:Schlotheimia, Harpoceras, etc. (Yokoyama, 1904:細浦層) ちなみに,日本産石炭紀・白亜紀アンモノイドの初記載は以下の通りである. ・石炭紀: Gastrioceras (矢部長克,1904:秋吉帯青海石灰岩) (ただし,suture のみ図 示.記載を伴うも のは Hayasaka (1954)の南部北上帯日頃市層・有住層産 Gastriocers, Prolecanites?) ― 24 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) ・白亜紀: Phylloceras, Pachydiscus, Desmoceras, etc. (Yokoyama, 1890: 北海道蝦夷層 群産) 4. 南三陸は魚竜化石の宝庫 1970 年に,日本各地の P/T 境界層の研究を行っていた研究者たちが,南三陸町(当 時は歌津町)館崎の西海岸に露出する下部三畳系大沢層から魚竜(ウタツギョリュウ) 化石を発見した.これは世界 でも最古の魚竜のひとつで, 化石産地と魚竜化石は 1975 年に国の天然記念物に指定さ れ,魚竜化石は Utatsusaurus hataii(新属・新種)として記載 された(Shikama et al., 1978) . その後ウタツギョリュウは南 三陸の多地点の大沢層から報 告されている. 南三陸地域からは,1985 年 に歌津管の浜の海岸の中部三 畳系伊里前層からクダノハマ ギョリュウも発見されている. また,1952 年に南三陸町細浦 のジュラ系細浦層から発見さ れていたは虫類化石も 90 年 代に魚竜(ホソウラギョリュ ウ,ないしシヅカワギョリュ ウ)であることがわかった. わが国から知られている魚竜 はこの 3 種のみで,南三陸以 外の地域からはこれまで知ら れていない. なお,南三陸地域からはそ の他の重要な化石も産出して いる.中島・Scoch (2008)は, 南三陸町唐島の下部三畳系平 磯層からマストドンサウルス 科の大型両生類の下顎化石を 報告しているが,これは日本 南三陸地域(岩井崎~井内)のペルム系~ジュラ系と主要な化石 最古の両生類化石である.ま ― 25 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) た,Iba et al. (2012)は,下部ジュラ系韮の浜層産の矢石化石 Sichuanobelus utatsuensis お よび Belemnitina 亜目の属種不明の大型矢石を記載し,矢石類の起源についての重要な 考察をおこなっている. 5. おわりに これまで南部北上帯について述べてきたが,北上山地北部における重要な発見も数 多い.代表例を上げれば, 1978 年の加瀬友喜・花井哲郎による岩泉町茂師の下部白 亜系宮古層群からの脊椎動物化石の発見がある.これは後に長谷川善和氏によりマメ ンキサウルスに類似する恐竜の上腕骨化石とされたが,わが国における最初の恐竜化 石である.また,Takahashi et al. (2009)は岩泉町安家川上流部のジュラ紀付加体中に認 められた深海相 P/T 境界層を報告した.これは東北日本における深海相 P/T 境界層の 初報告であるとともに,西南日本において従来知られていたそれよりも地層の連続性 に優れており,境界をはさんでの岩相や化学組成・同位体組成などの連続的な変化を 記録している. 南部北上帯において重要な地質学的知見が多数知られてきたのは,この地域に中部 古生界から下部白亜系にわたるほぼ連続した浅海成層が,わが国としては例外的に, 残されているためであり,今後とも新たな発見が期待される. 文 献 (図幅類はのぞく) Adachi, M., Suzuki, K., Yogo, S. and Yoshida, S., 1994,. Jour. Min. Petrol. Econ. Geol., 89, 21-26. ; 永広 昌之,1995,地学団体研究会編,新版地学教育講座第8巻, 53-56. 東海大学出版会.; 永広昌 之・大上和良,1990,地質雑,96,537-547.; Ehiro, M. and Takaizumi, Y., 1992, Jour. Geol. Soc. 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Wallis(1998)による四国三波川帯-秩父帯の構造 論における, 「Most workers・・・・define a series with nappes that have distinct deformational and metamorphic histories (e.g. Hara et al., 1977, 1990, 1992; Faure, 1983, 1985; Higashino, 1990). In contrast, other workers have treated the region essentially as a thermalmechanical continuum (Banno,et al.,1978;Toriumi,1985;Otsuki,1992;Wallis et al., 1992a; Wallis, 1995」と言う説明に明らかである.こ の時期に動観的視点による私の研究が示唆したこ とには, 「in central Japan and Kanto Mountains are not found exhumation units which are correlated with the Saruta unit, Fuyunose unit and Sogauchi unit developed in Kyushu, Shikoku and Kii Peninsula, showing an eastward younging age polarity」(Hara et al.,1992), クラ-太平洋海嶺の沈み込みや黒瀬川-古領家陸塊の内帯への衝突に伴うhanging wallの変形に より四国三波川帯では沈み込み圧力-温度経路が大きく変化したことがあげられる(Sem phase TGL→SpmTGL→FpmTGL;原・塩田,1996,Figs.5 & 32) .後に,青矢(2004)は, 「ここでの研究成 果は,高圧変成岩上昇機構や対の変成帯形成機構を目指した研究において,一つの世界基準とな る可能性を秘めている」と述べるのだが,それは,三波川帯-領家帯のもつ資質と動観的視点に よる研究で可能になった自立科学である.磯崎ほか(2010)の変成帯論史は,両帯の動観的変成 帯論のこのような歴史的展開を取り上げていない. では本稿での課題に話を移そう.磯崎ほか(2010)は,Ichikawa et al.(1990)編集の論集の時 代 までを, 「植民地科学の時代」であるとして,次のように書いている. 「最近の日本における典 型的な植民地科学的活動としては,1970 年代末に北米西岸地域の地質から新たに提唱された『テ レーン』説を誰がいちばんはやく日本に適用するのかという競争があげられるだろう.・・・・日本 各地の付加体からなる領域についてまでも,従来の帯という名称を廃し,テレーンと呼びかえる ブ-ムが起きた(水谷,1988;Ichikawa et al.,1990) .しかし Sengor and Dewey(1991)らが”a new hat on an old head”と揶揄したように,これは単に言葉の置き換えによって何か新しい知識を 得た錯覚をおこした だけで,実際は無用な混乱を残しただけであった.このような発想の根底に は,まさに植民地科学時代の精神が根深く内在していたといえるだろう」 .このように嘲笑的に評 しているのだが,1980 年代の歴史は,磯崎・丸山・柳井にとっては同時代史である.同時代史は 自分たちがどのようであったかを並記することで初めて可能になるものである.本稿では, Ichikawa et al.(1990)の論集から, 彼らも深く関わった外帯構造論を読みながら, 磯崎ほか (2010) の歴史分析をさらに検討したい. ― 28 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) 2.1980 年代末外帯構造論の二つの論述型式:A→C型とA→B→(D,E or F)型 2.1 付加体とテレ-ン まず Ichikawa et al.(1990)の論集の中で,磯崎が著者の一人である論文『Kurosegawa Terrane』 の中から, 「late Pleozoic chaotic complex(古生代後期付加 体) 」についての記述を読み,問 題を指摘することから始めよう.四国において黒瀬川古期岩類(黒瀬川帯)の北側に分布する「the late Paleozoic chaotic complex is disordered mixture of the oceanic- and land-derived materials which were primarily formed in fairly isolated environments from oeach other」 (問題-1)と述べた後, 「They were accumulated as olistostromal deposit by gravity-induced debris flows in lower slope basin and/or trench slope. Another evidence supporting this tectonic setting [subduction zone] is the upward increase of terrrigeneous materials recognized in the sequence of the late Pleozoic chaotic complex which begins with rocks of pelagic origin. This phenomenon can be interpreted gradual access of depositional sites on ocean floor to a certain convergent plate boundary developed along the Kurosegawa Landmass(黒瀬川陸 塊) from where the terrigeneous clastics were supplied(問題-2) 」 , と Yoshikura,Hada & Isozaki(1990)書いている. 石賀(1983)以降,もはや問題-1 の意味がではなく,問題-2 が問題であった.付加体を構成 する陸源性砕屑物のハイマ-トを,隣接する陸塊に仮定しないで clastics の詳細な解析(論考過 程B)を基礎に,結論(C)求めることが必要であるとされた.Kobayashi(1941)以来の当然な作 業であっ た.この意味で,Mizutani(1990)が「Mino Terrane」で記した,水谷と共同研究者によ る詳細な解析は,模範的なA→B→C型研究であった.Mizutani(1990)の論文を少し読もう. 「Before we discussed the geology of the Mino area on the basis of the terrane conception, it has been debated that the clastic materials extensively distributed in the Mino area might be derived from the Hida area」 ,と述べる水谷と共同研究者は, 「terrane conception」 の出現以前から,飛騨帯と美濃帯の関係を単純に頭から決めてかかってはならないとして,付加 体の陸源性堆積物の clastics のハイマートを丁寧に検討していたのである.その結果について, 次のように述べている.全文を引用すべきだが紙幅の都合もあり一部だけ引用させて頂こう. 結論としては「It should be emphasized here that there is no evidence of provenance linking between the Hida and the Mino Terranes in Jurassic time as already discussed by Mizutani and Hattori(1983)」 .さらに続けて次のように書いている. 「Moreover, the isotopic ages of quartzite clasts found in the Hida area is significantly different from those of the quartzite clasts in the Kamiaso conglomerate as shown in Fig.7 (Shibata,1979), We must discuss, therefore, the nature of provenance of the Jurassic sedimentary formations solely based on the petrographic properties of the clastic minerals in the Mino Terrane. The key minerals and key rocks for the evaluation of provenance geology are heavy mineral clasts (especially garnet and purple rounded zircon), light mineral clasts (especially plagioclase and lutecite), orthquartzite clasts and Precambrian rocks of quartzo-fledspathic gneisses and granites」 .これは,磯崎ほか(2010)の言う「 『テレーン』説を誰がいちばんはやく日本に 適用するのかという競争」などとは,全く次元の違う話であることが理解されよう. Mizutani(1990)の研究と比較して,Yoshikura,Hada & Isozaki(1990)の研究は,明らかにA→C 型であった. この論集の編集者は,市川・水谷・原・波田・八尾となっているが,事務局の構成メンバーと して磯崎・前島さんも毎回の編集会議には出席していた. 各論文に主査読者がおかれてはいたが, 送付されてきた原稿にはさまざまな問題があり,それらについて自由に意見を述べ議論し多様な ― 29 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) 意見が出された. 活発な討論は楽しみであった. その結果をコメントとして記し執筆者に送った. しかし,意見の統一を求めることはなく,執筆者の自由裁量とされた.このため,この論集にお いては,大きく異なる論述の仕方と結論を記すことが許されたのである. 2.2 黒瀬川帯は陸塊か? A.黒瀬川帯陸塊説 市川と共同研究者にとって,外帯の古生代-中生代テクトニクスの中核にあるものは,黒瀬川 陸塊の存在である(Ichikawa,1981;市川,1982;Isozaki,1987;Hada & Kurimoto,1990;Yoshikura, Hada & Isozaki,1990).ここに二つの重要な情報が加わった:情報-a=Ichikawa(1981;市 川,1982)が提唱した古領家帯,情報-b=秩父帯北帯における武田ほか(1977) ・佃ほか(1981) による三波川変成岩類\御荷鉾岩類の構造的上位に位置するナップ(中津山ナップ)と下位に位 置するナップ(秩父帯プロパー)の識別.これらの鍵となる情報は,その理解の仕方と対応の仕 方で,市川と共同研究者の外帯構造論に,決定的な分裂を齎らした.それは地質学に対する基本 姿勢を露出させた. Yoshikura,Hada & Isozaki(1990)の論文を読もう. 「The present configuration of the late Paleozoic complex and the Kurosegawa Tectonic Zone indicates that the oceanic plate, which was located between the Kurosegawa Landmass to the south and the Sino-Korean Landmass to the north, had been subducting southward underneath the Kurosegawa Landmass(結論-1 ) 」 . 「On the basis of the palemagnetic study, Sasajima (1981) pointed out the rapid northward migration of Kurosegawa Landmass in the late Jurassic time. The Mesozoic oceanic basins (Northern Chichibu Basin 中生代海域) between the Sin-Korean Landmass and the Kurosegawa Landmass have been thoroughly consumed by the rapid northward migration of the Kurosegawa Landmass and collision of the two(結論-2).・・・・Such a kinematic model indicating the continental subduction of the Kurosegawa Landmass has been proposed by several authors (Hada and Suzuki,1983; Faure,1983,1985; Ozawa,1985)」 .これは Isozaki(1987)の見方でもある. Yoshikura,Hada & Isozaki の古生代-中生代構造論は, 「oceanic plate, which was located between the Kurosegawa Landmass to the south and the Sino-Korean Landmass to the north 」 と言う枠組みがあり,結論-1の古生代後期テクトニクスと結論-2の中生代テクトニクがあっ た,古生代付加体と中生代付加体はまた「were thrust to the south onto the Kurosegawa Landmass 」=「continental subduction of the Kurosegawa Landmass」 (結論-3)と言うもの である.彼らは, 情報-aと情報-bを無視し(Bの論考過程を省き)結論-2(C)を記して いる(A→C) .これは磯崎・丸山(1991)の構造論でもある.ここで結論-2は,内帯外帯中生 代付加体連続体説であるが,これは,Faure(1983,1985)の仮説である.Faure のこの説の根拠は 類似性=連続体という破天荒 なものであったが,磯崎・丸山も Faure の説に拠ってモデルを構築 したのである(原,2010 参照) .磯崎ほかはまた, 「構造的に下位に向かって付加体の年代が系統 的に若くなることが解明され(磯崎・板谷,1991;磯崎・丸山,1991) 」 ,と「自立科学の時代」の 代表例としてこの論文をあげているのだがしかし,石賀(1983)以降多くの研究者の地域地質学 は,明確な形でどの堆積体がどの時代の付加体であるかを明らかにしながら,downward younging ナップ構造論を展開してきていたのである. Hada & Ichikawa(1982)は,地質と放散虫化石研究から,中津山ナップと秩父帯プロパー=仁淀 川 ナップ(情報-b)を同時代中生代付加体であると確認した.Hada & Kurimoto(1990)の構造 論は, 「The suduction process in the Sambagawa regime was coupled with the closure of the Northern Chichibu Basin」 . 「Although the Nakatsuyama nappe overlies the Mikabu nappe of the ― 30 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) Sambagawa Terrane, it is more likely that the former nappe does not belong the geologic body which was situated on the north of the Mikabu nappe, but was originated from the space between the Mikabu nappe and the Niyodogawa nappe judging from the lithological similarity between the Nakatsuyama unit and the Niyodogawa unit and in age」と言うものである. 四国における黒瀬川岩類と秩父帯中生代付加体の分布は複雑であり二つの異なる構造モデルが 提案された:秩父帯北帯中生代付加体/黒瀬川帯岩類=Hada & Kurimoto(1990,Fig.10)の断面図 =結論-3の根拠,秩父帯北帯中生代付加体\黒瀬川帯岩類=原ほか(1987)・Hara et al.(1992,Fig.2)の 断面図.Hada & Kurimoto(1990)は,彼らの断面図を根拠に, 「Polarity in age and lithologic associations of the Mesozoic Complex may imply that the Mesozoic Complex is also explained as accretionary complex in a subduction zone along the northern margin of the Kurosegawa Landmass. Judging from the following point of views, however, such conclusion is not persuasive」 ,中生代には沈み込みは三波川帯の形成と繋がる形で起こってお り,内帯と外帯の中生代付加体は全く別の構造単元であるとした. Ichikawa(1981)・市川(1982)の構造論は,白亜紀古・中期から三波川帯の形成を伴う古領家 帯へのプレートの沈み込みが始まった. 「ジュラ紀古・中期にかけて黒瀬川地帯から北へ低下する 海底古斜面で,砕屑物質が黒瀬川地帯から供給される場で黒瀬川地帯へ南斜するアンダースラス トパイルが形成(=秩父帯北帯地層群の形成)され,海盆が閉鎖した・・・・三波川海盆の閉鎖とほ ぼ同時と見てよいであろう.・・・・白亜紀には収束主境界は南に飛躍して四万十帯の形成をみた」 と言うものである.このように,Hada & Kurimoto(1990)の見方と異なるのは,市川が,前島(1978) が記載した, 黒瀬 川岩類ナップが秩父帯北帯中生代付加体に衝上する関係を重視したことによっ ている. 市川や波田・栗本が,現場の地質から構造論を紡ぎだそうとしたことは確かである.しかし, 外帯の構造論の構築において,情報-aと情報-bに黒瀬川帯を取り巻く構造(情報-c)を含 めた三つの情報に関わる論考過程 (B) をふむことで, A→B→結論 (D=Hada & Kurimoto 〈1990〉 , E=市 川〈1982〉 ) ,さらに次に説明される結論(F=原ほか〈1987;Hara et al., 1990〉 )が現 れたのである.これに対して,自ら自立科学の代表例とした磯崎・丸山(1991)の構造論は,B の論考過程を省く Faure 説の借用で,結論に直行するA→C型であった.原(2010)による詳細 な分析からも明らかな ように,磯崎・丸山の構造論は,Faure(1983,1985)に依存した「植民地科 学」にすぎなかった. B.黒瀬川帯ナップ説 では,論集掲載の Hara et al.(1990)の構造論を読もう. 「In the Kanto Mountains, nappes consisting of granitic rocks (250-290Ma after Ono(1983) and Hayama et al.(1987)), high P/T type metamorphic rocks (Hirajima,1983a,b) and Permian pelitic rocks (Tokda,1986), which all appear to belong to the Kurosegawa Terrane, are emplaced on the Mikabu Subterrane・・・・ In Kyushu, the Northern Chichibu Terrane appears to be partly covered with the nappes of the Kurosegawa Terrane rocks (Sonoda & Hara,1984). The Northern Chichibu Terrane is underlain by the Southern Chichibu Terrane (Sambozan Terrane) which overlies the Shimanto Terrane. In Kii Peninsula (Kurimoto,1986), the Sambagawa Terrane is directly underlain by the Shimanto Terrane(注) 」 (Hara et al.,1990) .この注は後頁で引用される. 上記の事実を考慮して Hara et al.(1990)は次のように説明した. 「Hara et al.(1987) have pointed out such a possibility that the Sambagawa Terrane was structurally continuous with the Southern Chichibu Terrane, that the Kurosegawa Terrane was nappe derived from the ― 31 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) continent (Kurosegawa continent), beneath which the Northern Chichibu Terrane, Mikabu Subterrane and Sambagawa schist megaunit were subducted, and that the Kurosegawa continent was placed on the north of the Sambagawa Terrane.・・・・the Iratsu Subterrane[五良津岩体 -東赤石岩体-東平岩体=島弧下部地殻-上部マントル(Kunugiza et al.,1986)]of the Sambagawa schist megaunit was tectonically introduced from the depth part of the hanging wall of the Kurosegawa continent into the Sambagawa schists placed in ca.35km depth」 . ここでの重要な情報は,三 波川変成岩類が,約 35km 深度で,島弧下部地殻-上部マントルの岩 片(Iratsu Subterrane)を取り込ながら上昇してきていることが示唆する,沈み込み帯 hanging wall を構成する陸塊の存在であり,三波川変成岩類ナップ群\御荷鉾岩類ナップ\秩父帯中生代 付加体ナップ群\黒瀬川帯構成岩類+古生代後期付加体ナップと言う downward younging を示す 積層構造の発達である. ここで,先に注として記した私たちの文章の要約を読んで頂こう.「In the KamikosakaKiihosokawa district of Kii Peninsula the Sambagawa schists (74 ± 5Ma;Yamguchi & Yanagi,1970) are undelain by the Shimanto Terrane rocks which contain radilarian fossils around Cenomanian-Turonian age and show Kr-Ar whole rock age of 65.5±3.3Ma. The age relationship between the Sambagawa schists and the Shimanto Terrane rocks is clearly comparable with that between the Sougauchi-Sakamoto nappe (Sambagawa schists) and the Oboke nappe schists in Shikoku. Therefore, the Oboke nappe schists may be assumed to belong the Shimanto Terrane and to be an accretionary complex around Cenomanian-Turonian age」 (Hara et al., 1990) .この注を読むことで,Hara et al.(1990)の見方がより良く理解出来たはずであ る.このような推論が可能なのは,情報-bの仁淀川ナップの構造的位置は,秩父帯/御荷鉾帯 /三波川帯という初生構造が,大洲時相の褶曲作用により二次的に変化されたことによると説明 されていたからである(原,1977) . 情報-a,情報-b,情報-cを検討したこの構造論は,Yoshikura,Hada & Isozaki(1990)の 結論-1 と結論-2 が成立しないこと,彼らの問題-2 の論証の仕方に根拠がないことを示唆する ものである.Hara et al.(1990)の「Kurosegawa continent」は,後に Ichikawa(1981)の古領家 帯と同義語 となり,黒瀬川-古領家陸塊と呼ばれることになる(原ほか,1991;Hara et al.,1992; 原,2010) .今日黒瀬川-古領家陸塊は確定している(Sakashima e al.,2003;田切ほか,2010; 原,2010) . C.蛇紋岩と雁行状白亜紀堆積盆:横ずれ構造帯は断層帯か雁行褶曲帯か? 1980 年代に現れたいま一つの外帯構造論は,平ほか(1981) ・Taira et al.(1983)による,横 ずれ断層帯論である.この見方に対して,磯崎ほか(2010)は,論証もなく次のように述べてい る. 「マントル起源の蛇紋岩を含む横ずれ構造帯ができたと解釈した研究者もいた(Taira et al., 1983) . しかし,これらの説明にも独創性はなく,しかも誤っていたことが後に地殻弾性波探査 によって実証されつつある(佐藤ほか,2005;伊藤・佐藤,2010) 」 .しかし,Yoshikura,Hada & Isozaki(1990)のモデルは,黒瀬川帯は横ずれ断層帯の特徴を示す帯であるとして,次のように説 明している. 「Recently, Murakami(1987) suggested that the observed aeromagnetic anomaly is best explained by a model requiring downward extention of northerly dipping serpentinite slab to depth of at least several kilometers.・・・・Namely, the present-day Kurosegawa Tectonic Zone should be a profound crustal break in the Outer Zone of Southwest Japan.・・・・this crustal break is a result of the secondary modification by post-collisional strike-slip movement」 . ― 32 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) Yoshikura, Hada & Isozaki(1990)はさらに,平ほか(1981)と Woodcock & Fisher(1986)を参照 しな がら, 「Imbricate faults usually have a dip-slip component, dominantly with normal sense in an extensional fan or duplex and a reverse sense in a contractional fan or duplex. The constituent rocks of the Kurosegawa Tectonic Zone occur in the latter and Cretaceous formations were deposited in the former domain. During the strike-slip motion many of the serpentinites were probably emplaced upward along the fault」と述べている.このように考 える磯崎 には,上記引用のようなコメントを書くことは,矛盾であることは明らかである. ここで問題とされている白亜系分布は,小林(1950)が, 「これらの陸棚相堆積体は雁行状に分 布するが,それは基盤の褶曲作用が齎らした堆積盆の形状を反映したものである」と説明した構 造であり,原ほか(1977)が,外帯のナップ群形成後,肱川時相の左横ずれ鉛直褶曲作用の反映 と説明してきた構造である.1970 年代後半から 1980 年代前半に,秩父帯-黒瀬川帯の蛇紋岩を 含む構成岩類が,層面片理に沿うように多数の緩やかなナップ群を形成することが報告されてき ていた(原ほか,1987 ;原,1993 参照) .現在「地殻弾性波探査によって実証されつつある」のは, ナップ構造のことであ る.伊藤・佐藤(2010)の図-3 と Hara et al.(1992)の Fig.2 の比較に よって明らかである. 3.おわりに 磯崎ほか(2010)は,Ichikawa et al.(1990)編集の論集を, 「無用な混乱を残しただけ」の植 民地科学であるとした.しかし,本稿におけるこの論集の論文群の分析結果は,それを否定し, 彼らにはこのような嘲笑は許されないことを示すものであった.この論集には,編集主幹であっ た市川浩一郎の退官を記念するための出版という目的があった.このために,市川や水谷が先導 した放散虫革命と言われることになる研究の成果を総括することが意識され,1980 年代までの蓄 積に拠って,現場の地質情報から手順をふんで構造論を紡ぎだすことが目標とされた.この論集 の論文の多くは,この目標にそって執筆され,日本列島の地質構造の理解を着実に進展させる自 立科学であった. この時期の地質学史の構築においては,塩田・原(2004) ,原(2010)が試みたように,1980 年代以降に”先進国”から来て日本の地域地質学に関わった研究者の論文(e.g.Faure,1983,1985; Wallis,1990)から彼らの研究に日本の地質学者の研究結果がもった意味,そして後の日本の地質 学者の論文から彼らの研究結果が日本の地質学者の研究にもった意味を読み取る作業が重要であ る. 市川ほか編集の論集の出版は,投稿期限を1年以上も遅れて提出された原稿もあり,早期提出 原稿に postscript を挿入することが許されるほど大きく遅れた. 地質学史上の同時代の論文との 比較では,このことは考慮されるべき点であることからも,付記することにした. 引用文献(引用文献中の文献は記さない.邦訳のある論文は邦訳論文を文献として記す) :青矢睦 月(2004)地学雑,113,664-677;Bassala,G.(1967)Science,156,611-622;Barrow, G. (1893) Quart. J.Geol.Soc.London,49,330-358 ; Clough,C.T.(1897)Mem.Geol.Surv.Scotland ; Clough, C. T. (1900) In the Summ.Progr.Geol.Surv.London,for 1899,14-18;Clough, C. T. (1904) Quart. J. Geol.Soc.London,60,400-449 ;Faure,M.(1983)J.Geol.Soc.Jap.,89,319-329;Faure, M. (1985) Tectonophysics,113,139-162;波田重照・市川浩一郎(1982)月刊 地球,40,434-441;Hada,S.& Kurimoto,C.(1990)Ichikawa,K.et al.(eds)『Pre-Cretaceous Terranes of Japan』Pub. IGCP224, 165-183;原郁夫(1993)日本地質学会『日本の地質学 100 年』,82-86;原郁夫(1995)地質 雑,101,795-812;原郁夫(1996)嶋本利彦 ほか編『テクトニクスと変成作用』13-43;原郁夫(2008) ― 33 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) 『地域地質学の方法論』ニシキプリント ;原郁夫(2009) 『本州地向斜,忘却の地質学史』ニシ キプリント;原郁夫(2010) 『変成帯地域地質学の現在』ニシキプリント;原郁夫(2011) 『変成 帯地域地質学の現在-II』ニシキプリント;原郁夫(2012a)地質学史懇話会会報,39(印刷中) ; 原郁夫(2013)地質学史懇話会会報,40(印刷 中) ;原郁夫ほか(1977)秀敬編『三波川 帯』広 島大学出版研究会,309-390;原郁夫ほか(1987)日 本地質学会第 94 年学術大会講演要旨,70-71; Hara,I. et al.(1990)Ichikawa, K. et al.(eds)『Pre-Cretaceous Terranes of Japan』Pub. IGCP224, 137-163;原郁夫ほか(1991)日本地質学会第 98 年学術大会巡検案内,1-20;Hara,I. et al. (1992) J.Sci.Hiroshima Univ.Ser.C,9,495-595;原郁夫・塩田次男(1996)広大地研報,28;Harada, T. (1890;石井八満次郎,1891 邦訳)地学雑,293-296;市川浩一郎(1970)星野通平編『島弧と海洋』 東 海 大 学 出 版 会 ,193-200 ; Ichikawa,K.(1981)Hara,I.(ed) 『 Tectonics of Paired Metamorphics』,113-116;市川浩一郎(1982)月刊地球,40,414-420 ;Ichikawa, K, et al. (eds) (1990)Ichikawa,K.et al.(eds)『Pre-Cretaceous Terranes of Japan』Pub.IGCP224;Isozaki, Y. (1987) J.Geosci.Osaka City Univ.,30,51-131;磯崎行雄・丸山茂徳(1991)地学雑,100,697-761; 磯崎行雄ほか(2010)地学雑,119,378-391;J.M.G.(1995)J.Metamorphic Geol.,13,445-448; Kobayashi,T.(1941)J.Fac.Sci.Imp.Univ.Tokyo,Sec.II,5,219-578;小林貞一(1950)日本地方地 質 誌『四国地方』朝倉書店;小島丈児(1948a)地質雑,54,108-109;小島丈児(1948b)地質 雑,54,109-110;小島丈児(1949) 『岩石の成因』国民科学文庫;小島丈児(1951)地質雑,57,177-190; Kunugiza,K.et al.(1986)Geol.Soc.Am.Mem.,164,375-385;前島渉(1978)地球科学,32,59-85; 松本達郎 (1949) 『日本地史学の課題』平凡社 全書;松本達郎(1977)地質雑,83,741-742; Miyashiro, A.(1961)J.Petrol.2,277-311;都城秋穂(1965) 『変成岩と変成帯』岩波書店;Miyashiro, A.(1973) 『Metamorphism and Metamorphic Belts』Georg Allen & Unwin;Miyashiro,A. (1994) 『 Metamorphic Petrology 』 UCL Press ; Mizutani,S.(1990)Ichikawa,K. et al.(eds) 『 PreCretaceous Terranes of Japan』Pub.IGCP224,121-135;Naumann, H. E.(1885;山下昇 1996 邦訳) 『日本地質の研究』167-221;Oxburgh, E.R. & Turcotte, D. L. (1974) Schweitz. Min. Petrogr. Mitt., 54,641-662 ; Ramsay,J.G.(1963)Johnson,M.R.W.& Stewart,F.G.(eds) 『 The British Caledonides』 Oliver & Boyd, 143-175;Rast,N.(1963)Johnson, M. R. W. & Stewart, F.G.(eds) 『The British Caledonides 』Oliver & Boyd,123-142;Sakashima,T.et al.(2003)J.Asian Earth Sci.,21,1019-1039;Shimizu,I.& Yoshida,S.(2004)Island Arc,13,95-109;塩田次男・原郁夫 (2004 )徳島大学総合科学部,自然研究,18,25-48 ;田切美智雄ほ か(2010 )地学雑 誌,119,245-256;平朝彦ほか(1981)平朝彦・中村一明編『日本列島の形成』358-365;Taira,A.et al. (1983) Geodyn. Ser. Am. Geophys. Union, 11, 303-316;Takasu,A. (1984) J. Petrol., 25, 619-643; 武田賢治ほか(1977)秀敬編『三波川帯』広島大学出版研究会,107-150;佃栄吉ほか (1981)中生代造構作用の研究,3,49-59;Woodcock,N.H. & Fisher,M. (1986) J. Struc. Geol., 92, 155-158; Wallis, S. (1990) J. Geol. Soc. Jap. 14, 271-280;Wallis, S.(1998)J. Metamorphic Geol.,16,83-95;Yoshikura.S., Hada,S.& Isozaki, Y. (1990) Ichikawa, K.et al.(eds)『PreCretaceous Terranes of Japan』Pub. IGCP224, 185-201. ― 34 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) 久米邦武が『米欧回覧実記』で活用した地理書 (その6 スイス編) 福川 知子(久米美術館) 1.はじめに 久米邦武 1 ) 著作の『特命全権大使 米欧回覧実記』 2 )(以後『実記』と 呼ぶ)の自然地理学分野について,久米の所蔵している地理書を,久米がい かに活用したかを考察する.これまで,国別に『実記』の第一冊目米国編, 二冊目英国編,三冊目フランス・ドイツ編,四冊目ロシア・北欧三国編,そ して同冊のイタリア・オーストリア編の 5 回を,本誌に投稿した 3 ). 今回は,『実記』五冊目のスイス編の自然地理学分野について,前回と同 様の考察をする 4 ).スイスは,久米一行が視察した最後の国である. 久米の地理関連蔵書には, 『地理全志』5), 『 環志略』6), 『輿地誌略』7), 『聯邦志略』 8),そして,“ Appleton's Illustrated European Guide Book ” 9) の五書がある.五書を省略してこれ以後, 『地理』, 『 環』, 『輿地』, 『聯邦』 そして『アップルトン』と呼ぶ.今回は,米国だけの記載である『聯邦』を 除いて,『地理』,『 環』,『輿地』,そして『アップルトン』の四書について 調べる. まず,出版年順に前記四書と『実記』についての書誌と添付地図数を表1 に,まとめて示す. 表1. 『 地理全志』, 『 瀛環志略』, 『 輿地誌略』, “ Appleton’s Illustrated European Guide Book ”及び『実記』の書誌と添付地図数 書名 『地理全志』 『 環志略』 『輿地誌略』 “Appleton’s Illustrated 『実記』 European Guide Book” 構成 1859 年 1861 年 1870-78 年 1872 年 1878 年 上下篇各 5 10 巻 10 冊 11 巻 12 冊 1冊 5編5冊 内田正雄 纂輯 ― 久米邦武 三守柳圃訓点 阿陽対嵋閣 修静館 D.Appleton 博聞社 冊 著者 慕維簾 徐継 ・井上 (William 春洋・森荻園 Muirhead) 出版 社 爽快楼 Seizerland 全図 1 枚 スイ ス 地図 ― 瑞士全図 1 枚 瑞士全図 1 枚 市内図 2 枚 The Lake of Geneva And Its Environs ― 35 ― ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) スイスの全図があるのは,『 環』,『輿地』と『アップルトン』の三書で ある.『 環』と『輿地』は,概略図ではあるが,山脈が多く連なり湖が多 い国であることが解る. 『 環』には,大区分名があるが, 『輿地』には無い. 『輿地』の方が,山川湖が多く記入され,その名もある.『アップルトン』 には,スイス全図 1 枚,首都ジュネーブの市内地図とジュネーブ湖(レマン 湖)の周辺地図の 2 枚がある.地理事項は湖のみの記入であるが,観光用に 移動ルートと都市名が記入されているので,久米一行は,旅行中に,この 3 枚の地図を利用したと思われる. 『 環』,『輿地』及び『アップルトン』にある添付地図を図1に示す. 『 環志略』 図1. 『 『輿地志略』“Appleton’s Illustrated European Guide Book ” 環志略』, 『輿地誌略』,及び“ Appleton’s Illustrated European Guide Book ” の添付地図 2.岩倉使節スイス回覧コースについて 岩倉使節団の回覧の時期とコースを図2に示す. (1873 年 6 月 18 日~7 月 14 日) 図2.岩倉使節団スイス回覧コース ― 36 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) 岩倉使節団は,1873 年 6 月 18 日オーストリアから,ドイツのミュンヘン 経由の汽車でスイスに向かった.ボーデン湖(コンスタンス)の波止場リン ダウから対岸のロマンスホルンまで汽船で渡り,チューリッヒ経由の汽車に 乗り,6 月 21 日ベルンに着いた.久米一行は,大統領に面会した後に, 「こ の国の美しい景色によって皆様をおもてなしいたしましょう.新しく建設し た登山鉄道の落成を国民と共に祝っていただきたい.」との申し出があった. この2日間の観光の旅は,トーン湖から始まり,インターラーケンを経由し, ルツェルンの対岸から,新設のリギ登山鉄道に乗った.23 日鉄道落成記念 式典に出席した後,ベルンに戻り 4 日間滞在し,29 日ジュネーブに向かっ た.汽車でローザンヌに行き,レマン湖(ジュネーブ湖)の定期船で,対岸 のニオンに渡り,馬車でジュネーブに着いた.2 週間余滞在後に,汽車でフ ランスのリヨンに向かい,7 月 20 日マルセイユ港から,船で帰国した.ス イスには約 27 日滞在し,欧州各国の人々に賞賛される風景を堪能した. 3.スイス国の概要,地形,景色と気候について スイス国の概要,地形,景色と気候について,四書と『実記』との記載を まとめて,表2に示す.縦項目の国名から区分までが概要であり,地勢から 河川が地形である. 表2.スイス国の概要,地形,景色及び気候についての四書と『実記』との比較 書名 『地理全志』 ”Appleton’s Illustrated “ European Guide Book” 『瀛環志略』 『輿地誌略』 Switzerland 『実記』 国名 瑞士国 瑞士国・ズウイツツルランド 瑞士国・スウイス・ スウイツルランド 位置 墺地利・佛・以・日耳曼 の四国間 欧羅巴の中 墺地利・佛・以・日耳曼 の四国間 墺地利・佛・以・日耳曼 の四国間 France・Italy・Germany の三国間 - - - - - - 約500~600里 82里 200miles 216英里 約300~400里 60里 156miles 140英里 2500余方里 15233smiles 22州・3部 東北11・西南4・南2州 - 14341方英里 当初8郡→13郡→25郡(カントン)3大 部 東北14・西北8・南3カントン 赤道46~48度 緯度 経度 北京偏西116~111度 500里 東西長 700里 南北広 50000方里 地積 区分 地勢 初13部→19部→22部 万山叠峯嶺参天 野谷綿亘 - 万山畳峙・峰高接 瑞士国 スイツルランド(英・仏では) シワイツ(独逸では) 仏・以・独 の三国間 欧羅巴の中部 北緯45度50分~47度50度 東経5度55分~10度30分 欧州中最も山脈多き邦土 アルプス大山脈が盤錯・背高の地 The Alps主山脈 域内三分の二は皆山地 面積2/3が高山・残り平地 海面から1300フィート以上 四周険峻の高峰で環遍 海抜1300ft 中に小原野 高原海面から130丈 山 湖 - - 甚多 水清 日内瓦 官斯丹 官斯丹薩(コンスタンス) 牛砂徳・慮撒拿・蘇黎 白山(欧州1)仏境内 モンテロサ セントゴータルト モンブラン・1500余尺欧州一 Mon Blan15735ft Monte Rosa・Eigher14705ft モントロサ・南方 Jungfrau13700・St. Gothard マテルホロン・サンソタルト 多し・清零水色鴨緑 日内瓦(シニバ) 官斯丹(コンスタンス) 牛砂徳(ニューシャトル) Constance・Luzern Neufchatel・Zurich Geneva Maggiore 甚多・渓間交流 清冽・大川源この国に 欧羅巴の大河の発源 莱尼(ライン)・支流数千 アイル・リッース・リマット 幽勝・遠客偏遊 西土の桃花源・遠客偏遊 景色絶佳画図の能く 景色 逈異・山嶺・厳寒 高低・山向背で寒温懸殊 - 気候 一般に高地で隣国より寒冷 平原・温和:山谷・炎熱 河川 Aar・Rhine・Rhone 甚多・大小星羅・水色鴨緑・深い ボーチン(コンスタンチン)・東北 ニューシャーテル・ズリッキ・ルゼル ンデマン(セネーヴァ)・西境 清・この国が源流 景色がヨーロッパ一魅力的 桃花源の如し・名勝の地・遊衍の郷 寒い・春も長い間氷結・あられ 雹も烈しい・谷は放射で暑い - 始めに,スイスの概要について検討する.国名は,久米と三書の漢字表記 ― 37 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) は「瑞士」である.久米は,『 環』,『輿地』や『アップルトン』に類似し た名,スイツルランドとも記し,独逸国では「シワイツ」と呼ぶと,現地で 使われる別名も付け加えている. 位置ついては,久米と『アップルトン』は,「フランス・イタリア・ドイ ツの三国間に位置する.」と記すが,他三書は,オーストリアを加えた四国 に境界すると記す.東側はオーストリアに境界している部分もあるのに,オ ーストリアを除くのは,接する面積が少なく,久米がスイス入国時,ウイー ンからミュンヘン経由でベルンに行ったからではないかと推察される.また, 久米と『地理』だけは,ヨーロッパの中部に位置すると記す.欧州内部の位 置関係をよく知らない一般の日本人に理解させるには,中部と記した方がよ いであろう. 長さと幅については,四書に記載がある.しかし,東西長が南北幅より大 きい久米の値は, 『地理』だけ逆の値で,誤りである. 『地理』の出版年は他 書より約 10 年前で,山が入り組み,国境も入り組んでいるので,まだ鉄道 が発達しない時期の古い値であろう. 地籍については,久米の数値は,単位が同じである『アップルトン』と類 似している. 区分数は, 『地理』と『輿地』の数値は,22 部・3 大区分であり,久米は, 当初は 9 郡から 22 郡,今は 25 郡・3 大部に分かれると記し,久米の数の方 が,当時の最新区分数であろう. 次に地形について,考察する.地勢は,久米は「アルプス大山脈が盤錯, 背高の地.」と記すが,これは四書に共通に記述がある.久米の「最低の地 も,海面より 1300 フィートの上にあり,山脈の中に小原野.」という記載は, 『地理』には「野谷綿旦」, 『輿地』には「3分の2が高山で,残りの高原は, 海面から 130 丈.」とあり,久米と同じ様に,「海面から」と記す.『アップ ルトン』にも同様な記述, 「above the level of the sea」とある.当 時は,「海抜」という用語は,なかった様である. 山に関しては,久米は,欧州一高いモンブラン,モンテロサとマッターホ ルンの三の名を挙げる.『輿地』と『アップルトン』にも,山の名が挙げら れている.『アップルトン』には,アルプス山脈の分脈名等も挙げられてい る. 湖については,久米は,「甚だ多い」と言うが,『地理』と『輿地』にも, 同様な記述はある.久米は,「水が鴨緑色である.」と記すが,『輿地』だけ に,同表現「水色鴨緑」とある.鴨緑という語は,中国と北朝鮮との国境を 流れる鴨緑江をイメージさせる様である.この川の水の色が,鴨の頭の色に 似ているということで銘々され,李白の詩にもその語はある.久米は,それ を知っての表現であろう.そして久米は,ジュネーブ,ツーリッヒ,コンス タンス(ボーデン),ニューシャトルやルゼルンの名を挙げる.久米は,英 ― 38 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) 名とドイツ名両方を挙げている.久米が記す 5 つの湖は,『 環』には,コ ンスタンスの名だけであるが,他三書にも記載がある. 河川については,久米は,「水が清い,欧州の川の源流はこの国である.」 と記すが,川名の記載はない. 『輿地』には, 「清冽」とあり, 『 環』と『輿 地』には,「川の源の国」という記載がある.一般に,水が清く透明で,底 まで見えることや,水の色が緑であるのは,スイスの湖・川の特徴である. 久米は,雪解け水であるからと記すが,不純物が少ないから,透明度が高い 理由にはなるが,色は,底の岩石や太陽光線の当たり具合に依存するであろ う.欧州の川の源流に関しては,久米の記述通り,欧州の大河ライン河,フ ランスのローヌ川そして,イタリア最長のポー川等の源流なのである. スイス国については,久米一行は,政府が美しい景色を楽しむ旅行に特別 に招待され,その旅行記を久米は,『実記』に1巻つけ加え記録している. ここで,久米は,産業ばかりでなく,観光が国を豊かにする事業であること に気付いた.そこで,「景色」という項目を増やし,スイスの景色の美しさ は,地理書に記述があるか,他国の評価も合せて考察する.久米は観光と言 う語は,使わず「山水」と記す.観光という語は,最近の造語なのである. 『実記』に「山水の記」があるのは,2 編の英国の「ハイランド山水の記」 と「スイス山水の記」の二つだけである.「ハイランド山水記」の冒頭に, 「欧羅巴洲中に於いて,山水の勝に名ある地三あり,一にスイス,二にイタ リア,三にスコットランドなり.西洋の人は遊歩を愛し,路をまげ,険を超 えても,遠くに尋訪するを嫌わず.」と記す.久米は,スイスについては, 「欧州各国は,此国を賞美する.桃花源の如し,名勝をめぐり,国民は利潤 を受ける.」と記す.『 環』には,「西土の桃花郷」とあり,久米と同表現 で,『アップルトン』には,「ヨーロッパで一番景色が魅力的に美しい.」と の記述がある.スイスは,四書が共通に絶賛する世界的に風景の良い国であ る.久米の記述通り,高い山の連なり,万年雪の白さ,清い川の水,湖の透 明な緑色が.スイス風景の美しさの特徴である. 気候については,『実記』のスイス国の総論の中,気候の項目はない. 久米一行は,スイスに 6 月中旬から 7 月中旬に,約 27 日間滞在し,19 日 が晴れ,6 日曇り,そして 1 日が雨であった.霧がかかることは,よくあっ たが,概ねよい天気であった.久米の記述から,スイスの初夏は,かなりの 暑さであったが,清々しい風がふき,気持のよい天気であった. スイス国についてまとめて言えば,概要については,国名は書物の参照が みられるが,概要の他項目は,現地最新情報を参考にしているといえよう. 地形については,久米は,『 環』と『輿地』の地図より,山や湖が多い ことを知り, 『輿地』と『アップルトン』の「低い所も海面から」と『輿地』 の「河や湖の水が鴨緑」を引用しており,久米の記述の多くは書物の記載事 項と一致し,類似性が高い.その参照度の順を言えば,『輿地』,『アップル ― 39 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) トン』そして『地理』である.しかし,スイスは,日本の領土の約9分の1 と狭く,27 日間かけて,斜めに国を横断した旅行記はとても詳しい.久米 は,山の名前や谷,高原などの容貌,流れる川の名や合流分岐,湖への流入 や流出,そして,水量,速さを克明に記録しており,現地情報が半分強を占 めている. ウィーンからチューリッヒに向かう列車の窓から,「スイスの農家の建物 は軒を張り出して,日本の建て方に似ている.どの家も必ず避雷柱を立てて いる.スイスの田舎は雷が多いからである.」とあり,久米の現地観察が加 味されている.久米は避雷柱と記し,当時は「避雷針」という語は,まだ一 般的でなかった様である. そして,久米一行が,移動したベルンやジュネーブについては,『アップ ルトン』に詳しい記載があり,湖に面し高い山の連なりが見える谷インター ラーケンは,「一番美しい景色の一つ」,ルッチエルンは,「世界的にスイス で一番美しい湖」との記載がある.久米一行は当時,一番有名な観光地に招 待されたのである. スイス観光旅行に於ける久米の風景描写は,文学的で美文であると思うの で,その一節を表3に,紹介する. 表3.久米の旅行記の一節(『実記』(五)74-75 頁) 「 チュン」湖尾ノ埠頭ニ達ス,山水ノ奇ハ是ヨリ始ル, ○蒸気車,始メテ埠頭ニ達スルトキ,湖上ノ郵船ハ己ニ来リ待ツ,車ヲ出テ船ニ移 リ,翹首スレハ,白峰翆嶺,相環垬シテ,一鏡ノ湖ヲ開,此日朗晴ナレハ,空青倒 ニ浸シ,雲日共ニ清ク,皆奇絶ト叫ハサルナシ,湖尾ノ水壮ニシテ,色ハ鴨緑ヲナ シ,両崕ヲ拍テ流レ落ツ,船ハ其岸ヨリ軔ヲ発セリ,瑞士ノ水ハ,雪水ノ融セルモ ノニテ,其色異常ニ緑ナルヲ以テ,水ニ鑑ミル白峰青岑モ,殊ニ晶美ナリ,湖上ノ 山ハ,峰頂突兀トシテ,険奇ヲ争ヒ兀立ス,近クハ,遠キハ嶄巉タリ,・・・南ニ ハ「ユリ」郡ノ高嶽,雪白ノ尖ヲ出シ,傾クアリ,欹ツアリ,削ルカ如キアリ,頽 レルカ如キアリ,遠峰ハ氷玉ヲ瑩キ,剣刃ヲ束ネ,近山ハ崔山嵬巍峨トシテ,奇岩 樹ヲ負テ聳エ,嶄然,兀然,大濤崩レ,浪立ツ,雪峰ノ最高ナルハ,「シヨングヒ ル」嶽ニテ,一万三千尺ニ及フ,湖水ハ長サ十一英里,幅広キ所三英里,楕円ノ形 ニタゝヘ,其底ノ深キコト数千尺ニ及フトナリ,」 スイス訪問中,久米は,国が外国事情の蒐集に努めており,そして,観光 を重視している事に気付いたので,その一例を述べる. ベルンの博物館の図書室(ベルン歴史博物館)を視察した報告には,「蔵 書数 8 万冊の中に日本の地理を調べた図入り本 2 冊と地図が,2 冊があった. 緻密な調査であった.スイスは山間の小国であり,遠洋を航海することは, ― 40 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) あまり必要でないのだが,それでも外国事情の研究を精密におこなってい る.」とある.続いて久米は, 「西洋の学問は,具体的な科学研究に努め,実 際的な知識を本質としている.東洋の学問は抽象すぎる.」と,記す. 観光に関しては,険しい山や谷を切り開いて鉄道の便を良くしているだけ でなく,国民が観光に大切な,おもてなしの精神を持ち,暖かく一行を歓待 してくれたと,記す.久米は,「使節一行がベルンについた時より,以前に 日本に来たことがあるハンベルト氏 1 0)が迎え,ジュネーブから帰国する時 も見送り,親身に歓迎してくれた.」と,記す.このハンベルト氏は,1863 年に幕府との和親条約締結を目的として来日したスイス使節の一員で,滞在 10 カ月中に日本の歴史,地理,社会,風俗などを調査して,帰国後は,ロ ーザンヌやヌーシャトルで教職につきながら,1870 年に日本に関する本を 出版した人である.久米は,視察旅行以前に,氏の書を読んでいた様で, 「ハ ンベルト氏の日本紀行は,大変な努力の結果といえよう.」と記す.この様 に接触時間の多かったハンベルト氏から,最新事情を久米は得たと思われる. 4.まとめ これまで,『実記』中の総説でとりあげた各国について,地理書の活用の 有無を考察したが,共通して言えることは,久米は,いつもその国の特徴を 大きく捉え,日本人に理解しやすく説明しようとしている.地図や書物をま ず調べ,共通に記載のある事項を集める.そして書物の中の,国の特徴をう まく表現した言い回しを探し,誤りでなければ,それを採用する.この点が, 一番書物の引用を確認できる所である.この様に,久米は下調べとしての書 物からの基本情報に,各国が配布してくれた新資料やその国の人に聞いたこ とを加味し,久米自身が見聞きしたことを,一番の重みで記述していると推 察される.それだけに留まらず,久米はその国の現状の良き点,学ぶべき点 を記述し,近代化を推し進めている日本や日本人に啓蒙しているのである. 岩倉使節団の最終訪問国となったスイス国についても久米は,同じ様な下 調べに四書を使っている.スイス国の特徴は, 「 欧羅巴の3分の2は平野で, 3分の1が山脈である.山はだいたい欧羅巴南部にかさなり,スイスは,そ の山脈の背の上にある国で,秀麗な景色を持つことで世界に有名である.」 と日本人に判りやすく紹介する.明確な書物の参照がみられたのは, 『輿地』 や『アップルトン』の「海面より1300フィートの上」と『輿地』の「水 色鴨緑」という表現である.四書と久米の記述と類似性が高い順を言えば, 『輿地』, 『アップルトン』そして『地理』である.しかし報告の半分は,ス イス国の現状が,統計数と共に記述されており,これは,現地で政府や交際 のあった人達,特にハンベルト氏から入手したのであろう.そして,狭い国 を 27 日もかけて旅行した久米の実体験が多く記されている.また,スイス 国に関しては,他国に比して,風景記録が多いのが,特徴である.この美し ― 41 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) い風景描写が久米の言葉でなされ,彼の感動がそのまま読者に伝えられてい る.美しい風景以上に,観光に重要な要素,国民のおもてなしの精神を久米 は感じ,「スイスで,一番暖かい心の篭ったもてなしを受けた.』と記す. 久米は交通と教育の大切さを常に強調するが,スイス国についても,政府 の政策で,港の無い国が,お金と労力をかけ,鉄道を架設し,これが観光に も役立ち,国民を豊にしている.そして,世界の国に目を向けた教育が,国 民が来訪者に暖かいおもてなしで,接することを促進していると日本人に啓 蒙しているといえよう. 注と文献 1)高田誠二,『久米邦武』(日本評伝選),ミネルヴァ書房,2007 年. 2)久米邦武編田中彰校注,『特命全権大使 米欧回覧実記』,初版 1878 年, 岩波書店,1977―1978 年,5 冊. 3)福川知子,「久米邦武が『米欧回覧実記』で活用した地理書」,『地質学史 懇話会会報』,第 31 号,2008 年 11 月,21-28 頁. 「久米邦武が『米欧回覧実記』で活用した地理書(その2英国編)」,同上 誌,第 33 号,2009 年 11 月,25-32 頁. 「久米邦武が『米欧回覧実記』で活用した地理書(その3ドイツ・フラン ス編)」,同上誌,第 35 号,2010 年 11 月,31-38 頁. 「久米邦武が『米欧回覧実記』で活用した地理書(その4ロシア・北欧三 国編)」,同上誌,第 37 号,2011 年 11 月,20-27 頁. 「久米邦武が『米欧回覧実記』で活用した地理書(その5イタリア・オー ストリア編)」,同上誌,第 39 号,2012 年 11 月,40-47 頁. 4)2013 年 5 月 28 日,日本科学史学会第 58 回年会において研究発表. 福川知子,「久米邦武が『米欧回覧実記』で活用した地理書(その6.ス イス編)」. 5)慕維簾(William Muirhead),『地理全志』,爽快楼,1859 年,上下篇各 5 冊. 6)徐継 ,井上春洋・森荻園・三守柳圃訓点,『 環志略』,阿陽対嵋閣, 1861 年,10 巻 10 冊. 7)内田正雄纂輯,『輿地誌略』,修静館,1870-78 年,11 巻 12 冊. 8)裨治文(E.C.Bridgman),箕作阮甫訓点,『大美聯邦志略』, 邑墨海書 館, 1861 年,上下巻 2 冊. 9)“Appleton’s Illustrated European Guide Book”5 th.ed.New York,1872. 10) Aimé Humbert (1819-1900) “Le Japon illustré” (Paris: Hachette,1870);republished as “Voyage au Japon” (Paris: Stock, 1981 ); English translation by Mrs. Cashel Hoey, edited by H.W.Bates, published as “Japan and the Japanese”(London: Richard Bentley,1874) ― 42 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) H. シュリーマンの文化財科学への関心 大沢眞澄(東京学芸大学名誉教授) 1 はじめに 現役後半の時代、私は文化財科学の研究に従事していた。文化財資料特に石器や焼 き物(土器~陶磁器類)の微量成分元素を中心とする検討を行ってきた。その中で、 縄文時代草創期に関する長崎県泉福寺洞穴について、昭和54年度朝日学術奨励金を受 領した――「日本における土器の起源」 (千葉大学麻生優教授を中心とする共同研究)。 私として最後に調査に参加したベトナム、タインホワ省の胡朝城址は、2011年に世界 文化遺産に登録された(昭和女子大学菊池誠一教授を中心とする発掘調査、2002~2004 年度)。 並行して文化財科学のうち、考古資料に関する考古科学の研究発展史にも注目し、 人物や方法などについて考察した。今迄に発表したテーマを記す(考古学や日本との 関係も含む)。 1972 古代を探るためのアプローチ:分析化学的に、Klaprothを中心として。 1984 過去を掘る:遺跡・遺物の語るもの。 1992 文化財の化学の発展:考古資料の化学的研究の跡をたどる。 1996 文化財科学研究史の一側面:DavyとJewett。 1999 文化財と化学:交流・研究史上の人々。 1999 シーボルトとガウランド:日本考古学の紹介者。 2000 文化財科学研究史の一端:考古科学の周辺。 2001 文化財科学研究史の断面:KlaprothとMoissanをめぐって。 2002 文化財科学研究史の断面:Schliemannの場合。 2004 文化財科学研究史の諸断面。 2009 文化財科学の研究史について。 2011 大森貝塚出土土器の赤色顔料について:御雇外国人教師E.S.モースの研究。 2012 考古資料の科学的.研究:幕末に来日したH.シュリーマンによる。 2013 P. F. von Siebold, H. von Siebold 父子の日本考古学への寄与。 2013 シーボルト収集の日本の考古資料、ならびに文化財資料分析(放射化分析) の個人的回想。 自然科学的方面よりの考古資料の化学分析は、クラプロートに始まり、デービーな どに継承される。一方、文科的方面・考古学よりのアプローチは遅れ、レヤード、シ ュリーマンに至るのである。 2 考古科学周辺の研究発展史 レヤード、シュリーマンの自然科学に対する関心の背景として、広く考古科学に関 連する事柄の発展について記す。 ― 43 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) 1748 ポンペイの発掘。 1764 J. J. ウィンケルマン『古代美術史』(ポンペイにも行っている)。 1773~ 木内石亭『雲根志』。 1795 M. H.クラプロート(ウランの発見者)古代ギリシャ・ローマ貨幣の化学分析。 1815 H. デービー(Na, Kなどの発見者、M. ファラデーの師)古代顔料の研究(ロ ーマ、ポンペイ出土)。 1821 H. デービー ヘルクラネウム出土炭化パピルスの研究 (考古学との連携の最初)。 1830 C. ライエル『地質学原理』。 1832~ P. F. フォン・シーボルト『日本』。 1836 C. J. トムセン 3時期法の利用(石器・青銅器・鉄器時代)。 1845 A. H. レヤード ニネヴェ付近の発掘開始。 1859 C. ダーウィン『種の起源』。 1860 G. フィオレッリ ポンペイ遺跡発掘、石膏固定法開発。 1865 J. ラボック 石器時代の区分(新・旧石器時代)。 1865 H. シュリーマン 来日。 1873 H. シュリーマン トロイ第2市より「プリアモスの宝」発見。 1879 E. S. モース『Shell Mounds of Omori』(F. F. ジュウェット 土器赤色顔料 の化学分析)。 1880 W. M. F. ピートリー エジプトで研究開始。 1892 A. カルノー フッ素による骨の相対年代。 1897 W. ガウランド「日本のドルメンと埋葬墳」。 1912 C. ドーソン ピルトダウン人化石骨の発見。 1941 北京原人化石骨消失。 1945 「プリアモスの宝」行方不明となる。 1947 W. F. リビー 放射性炭素年代測定法の確立。 1953 J. S. ウェイナー他 ピルトダウン人問題の解決(フッ素などの分析による。 わが国における濱口・立本の縄文時代など人骨のフッ素の研究は1950年)。 1996 「プリアモスの宝」プーシキン美術館にて展覧公開。 3 A. H. レヤードの場合 Sir A. H. Layard(1817-1894)は英国の高名な外交官で下院議員、スペイン、トルコ公 使。一方、アッシリア研究者としてニムルド、ニネヴェ遺跡を発掘し、先駆的業績で 知られる。『Discoveries in the Ruins of Nineveh and Babylon; with Travels in Armenia, Kurdistan and the Desert: Being the Result of a Second Expedition』1853(リプリント 2002)のAppendix III(p. 670-677)に英国・王立鉱山学校のPercy によるニネヴェ出土 の青銅製品4点の分析値(銅とスズ)が記されている(実際に行ったのは助手の化学 者 T. Philipps)。また着色ガラス1片も分析された(銅)。さらに他の研究者による 古代の金属やガラスに関する論考も付されている。 ― 44 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) 4 H. シュリーマン(H. Schliemann 1822-1890) 彼の人物像は近年多くの改正が為されつつあるが、トロイ、ミケーネ、ティリンス などの遺跡の発掘に基づくトロイ、ミケーネ文化の研究者としての考古学史上での位 置は不動であり、周知の通りであろう。彼の著作は現在の発掘報告書的な内容も含め て、極めて多彩である。1867年の『シュリーマン日本中国旅行記』(藤川徹訳、新異 国叢書116、雄松堂、1982)に始まり、1891年のW. Dorpfeld との共著まで、著名なも のが多い。代表的なものとして、 1875 『Troy and Its Remains: A Narrative of Researches and Discoveries Made on the Site of Ilium, and in the Trojan Plain』、 1878 『Mycenae: A Narrative of Researches and Discoveries at Mycenae and Tiryns』、 1880 『Ilios: The City and Country of the Trojans: ---』、 1884 『Troja: Results of the Latest Researches and Discoveries on the Site of Homer’ s Troy』、 1885 『Tiryns: The Prehistoric Palace of the Kings of Tiryns: The Results of the Latest Excavations』。 いずれも膨大な内容を含み、自然科学的な記述も極めて多くみられる。幸いなことに、 シュリーマンの著述は現在、その殆どがリプリントで得られる。彼の発掘に対する方 法は、かなりの批判を被っているが、中途からのデルプフェルトやR. フィルヒョウと の共同研究・関係は多彩な考古学の成果に色濃く反映されている。彼の発掘は当時と しては問題がないという見解も示されている。 シュリーマンの自然科学への関心は発掘出土品に対する種々の観点よりのアプロー チにみられるが、その原点となっているのは、1868年5~6月にナポリ、ポンペイでフィ オレッリに会ったことであろうと思われる。その後の発掘方法に示唆を得たりしてい るが、彼との接点が自然科学的思考への転換点であったのではないのかと推定される のである。シュリーマンは1890年12月26日にナポリで急死するが、ポンペイへの訪問 のためであった。 各地遺跡の出土品についての科学的検討は多岐にわたる。琥珀酸含有量による琥珀 の産地・流通経路の解明、金・銀・銅・青銅製品の化学組成と製作技法、土器類の胎 土の分析とその製作、また石器など石製品の岩石・鉱物種の同定などに最新のデータ を考慮して検討している。 彼の著書にみられる多くの化学分析的事項などは、当然ながら彼自身が行ったもの ではない。多くの専門の研究者に依頼しているのであるが、パーシーの存在は大きい。 つまり考古学的サイトから、自然科学利用の重要性に気付いた、かなり初期の人物と 認定されよう。彼の考古学についての新しい視野に対する評価は、トロイに関する 『Ilios』に記されたフィルヒョウの序文「ここに全く新しい科学が始まる」にみられ るであろう。これが現在の文化財科学と認めたいのであるが。 ― 45 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) 和島誠一の考古学 大村 裕 昭和初期、マルクス主義考古学者のグループが期せずして学界の一角に登場する。彼 らは、田中義一内閣(1927~1929)による激しい弾圧を受ける過程で、 「実践活動」か ら少し距離を置き、官憲の目をかいくぐりながら、「文化運動」を展開した一群の研究 者たちの一部である(大多数は日本近代史研究や柳田國男の学問に走る)。 明治時代以来、「日本史」と「考古学」は異なる学問として位置づけられて来たが、 彼らは、「記紀」神話に拠らず、考古学的手法により、日本原始・古代史の実態解明に 乗り出し、天皇制国家の「虚構」を暴きだそうと各地で共同研究を始めるのである。当 然官許の「皇国史観」と抵触し、厳しい弾圧を受ける。 戦後彼らは、「弾圧に抗して『科学的考古学』を守り通した研究者」として称賛を浴 び、1950 年代初頭の「国民的科学運動」の先頭に立つが、果して実態はどうであった ろうか。その代表的考古学者として和島誠一(1909~1971)を採りあげ、彼の考古学 入門から 1950 年代までの行動を追跡し、「光の部分」と「影の部分」を洗い出し、再 評価を試みた。発表の要点を以下にまとめる。 (1) 和島の考古学入門は、1933(昭和 8)年、早稲田大学内でエンゲルスの著作の読書 グループを組織しようとしたことが理由で官憲にとらわれ、半年間拘留されたこと が直接の動機になっている。当時共産主義に共鳴した多くの知識人たちは、官憲の 暴力の前に屈し、政治活動から身を引いた(例えばマルクス経済学者の河上肇)が、 そうした屈服は彼らの心に深い傷跡を残したとされている。和島の考古学入門は、 政治的な実践活動からは身を引く代わり、考古学的な証拠に基づいて原始・古代史 を科学的に解明して、日本の民主化に多少なりとも役立ちたいと企図したことにあ るものと推定される。こうした方向転換は、和島と親しかった赤松啓介(1909~ 2000)、酒詰仲男(1902~1965)にも共通するものである。 (2) それまで別個に捉えられていた「日本史学」と「日本考古学」を結び合わせようと した和島の努力は高く評価される。当時の日本考古学は、土器型式の編年が整備さ れ、年代的秩序が構築されつつあったが、まだ社会構成や国家の起源に関するテー マはほとんど手付かずのままであったのである。この問題に鋭く切り込もうとして 企画された『日本歴史教程』 (白揚社刊)の執筆に、 「三澤章」のペンネームで和島 は参画するが、刊行当時はマルクスやエンゲルス、及びモルガンの著作の引き写し であるという批判が出た他は、学界では黙殺されていた。 (3) この『日本歴史教程』第一冊~第二冊は、戦後、<官憲の暴圧に屈せずに真の「科 学的考古学」の構築を目論見た、「日本考古学の金字塔」>と称揚されるに至った。 しかし、1937(昭和 12)年 6 月までの日本は、戦後想像されたような思想弾圧に ― 46 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) 厳しい状況にはなく、かの田中義一首相(昭和初期に激しい共産主義者への弾圧を 行った陸軍大将)でさえ、<皇室の尊厳に触れない限りは、種々の思想には寛容な 態度で臨む>と声明していたのである。1937 年までは、 『資本論』の刊行さえ容認 されていたのであり、 「商人」である白揚社社主(日本共産党幹部にして優れた経済 史家の野呂栄太郎による評価)の主導でこのシリーズは刊行されていたのであった。 1937 年 7 月、日中全面戦争が始まったことにより、日本の政治・社会状況は大き く変貌し、思想・学術の方面に対しても官憲の目が厳しくなって行く。こうしたな かで和島は、赤松啓介と共同執筆する予定であった『考古学』 (唯物論全書)の執筆 から降りると赤松宛に速達で申し送る。その後、赤松は 2 度目の捕縛にあう(1939 年)が、和島との関係を遂に漏らさず、刑期の軽減をされぬまま満期出所を迎える (この時期になると、 「転向」を表明しても許されず、同志との関係を明かさなけれ ば釈放も刑期の軽減もされなかったのである) 。この間、和島は東京帝国大学理学部 人類学教室の主任教授の長谷部言人(1882~1969)の知遇を得、同人類学科の選科 生として本格的な学問の修行に励み(1939~1942)、1942 年には人類学教室の嘱託 として学者としての基盤を構築したのであった。しかし、赤松はこの和島の動きに 非難めいた発言を一切していない。戦中、沈黙を守ったり、態度を変えたりした「進 歩的知識人」たちは、敗戦後強烈な「罪の意識」に苦しんだとされているが、和島 もそうした例から漏れるものではなかったと想像される。和島の戦後における「正 気の沙汰」とは思えない、原始・古代集落跡(横浜市南堀貝塚・同市三殿台遺跡な ど)の全面発掘にかける情熱は、赤松啓介や渡部義通(1901~1982 『日本歴史教 程』のリーダー的存在。渡部も 1940 年に官憲に捕縛されるが、共同研究者たちと の関係を一切明かさず、赤松同様満期出所を迎える)への強い贖罪意識に突き動か された側面もあったのではないかと推定される。和島が組織した労働者・地域住民 を巻き込んだ共同調査方式は、赤松の戦前からの「夢」であったし、原始・古代の 共同体の考古学的解明は、渡部の願望でもあったのである。 (4) マルクス主義の図式的解釈が脳裏にあったためか、和島の考古学研究は解釈に走り 勝ちで、眼前の考古資料に対する分析が苦手であったようである。他者の研究の理 解・評価には優れ、戦後、日本考古学の成果の紹介者・日本史学界とのパイプ役と して大きな力を発揮した。 (5) 和島の考古学入門時期が遅かったため、土器研究について行けなかった(土器研究 は遅くとも 20 代前半までに始めるのが望ましい) 。これが集落を構成する個々の竪 穴住居址の時期認定において桎梏となった。 (6) 報告書を作る経験が乏しかったため、報告書の刊行は稀であった。刊行できた報告 書は、友人や弟子たちの奮闘に負うものが多かった(岡山県月の輪古墳、横浜市三 殿台遺跡など) 。このため原始集落の全面発掘として輝かしい評価を受けている神奈 川県南堀遺跡は、現在新興住宅地の中に埋もれ、記念碑すら建っていない。 ― 47 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) 「オレゴン大学火山学センター」への補遺 ―アンデサイト・コンファランス (1968) その他― 大沢 眞澄 大沢氏より伊豆大島で 2013 年 3 月 9 日に開催された地学史研究会のシンポジウムでの発 表「オレゴン大学火山学センター 個人的な回想」 (『地質学史懇話会会報』 、40 号、2013 年 5 月、48-49 ページ)への補遺が寄せられましたので紹介します(地学史研究会 山田 俊弘)。 * * * 1968 年 6 月、行って直ぐに Andesite Conference があり、Bend の Central Oregon State College (当時、現在は州立大)に合宿、エクスカーションではいろいろな所を巡 り、セスナ機でカスケード山脈の上を飛んだりもしました。久野先生もコンビーナーのお 一人でした。記憶に残っているのは、彼のハンマーが木の柄のもので、この種のものを持 っていたのは、他にドイツから来た人だけでした。年輩の方は経験がおありと思いますが、 金属の部分がゆるみ、木の柄の先端を叩いておられました。Waters、Yoder, Jr. など高名 な方々のお顔を見ることができました(写真参照)。 Crater Lake は直接の研究対象ではありませんでしたが(一緒にいた院生のテーマ) 、 よく行きました。崖を調べながら湖面まで下ったり、ボートで走ったりもしました。周り の山に登ったりもし、道路のない林道を行き、帰路古木が倒れていて、その除去に苦労し たことなど、いろいろな経験もいたしました。コロンビア川玄武岩の分析試料の採集には、 古い Picture Gorge から、Yakima 方面などへ随分出かけたものでした。 この種の岩石については、当時何の知識もなく、金沢の山崎正男さんから、最初の研究 計画であった安山岩(Mt. Hood など)はつまらないから、玄武岩の方がずっと面白いと 云われ、そのように相談した結果なのでした(当時、筆者は金沢大学化学科に在職中)。 実際にコロンビア川玄武岩を見て、その規模の雄大さに仰天した次第でした。私の地質学 についての知識はそんな程度のものでした。ワシントン州のハンフォード(プルトニウム 原爆の材料を作った原子炉のある)のガンマ線測定の専門家を会社に訪ねた時も、同行し たのがイギリス人、フランス人で私も日本人なので、その手続きは大変なものでした。今 では普通に見る写真付きの身分証明書もそこで初めて見ました。ハンフォードの原子炉は、 日本からの風船爆弾が電線を切り、一日運転が止まったといわれています。 微量成分元素の放射化分析に使用した原子炉は、TRIGA mark III 型(パルス中性子を 発生させることができる)で、同 I 型もちょっとですが使いました(本体が地下にあり、 中性子バックグランドが低い。遅発中性子測定でウランの定量に利用。ポ―トランド市 Reed College)。帰国後、使っていたのは II 型です(横須賀の立教大学原子力研究所)。 ガンマ線の測定(ガンマ線スペクトロメトリー)にはゲルマニウム半導体検出器を用いま ― 48 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) すが、その大きさが日本では数 cc のものでしたが、向こうでは 40 cc もあり、びっくり しました。また測定室も年中、空調され、停電も1回もありませんでした。 アポロ資料分析の件も、最初から研究計画の中に入っておりました。日本では当時、私 などは想像もしておりませんでしたが、向こうでは本気なのに驚いたことでした。 センターでは、マックバーニーの自宅の地下室には、鉄道模型(走る)が部屋一杯にあ り、ウイリアムズも悪戯好きなとても面白い方で、いつも一緒におりました。2年目でし たか、宇井忠英さんのところに中村一明さんが来られ、一緒にレニア山など一週間ほど State car (official use only) で各地を走ったこともありました。火山学センターの建物(地 質学科の別棟)の廊下には、日本の火山の地質図が沢山展示してありました。漱石の孫で 知られるマクレーン・ヨーコ・松岡さん(日本文学科教授であった、最近没)などにもお 会いしておりました。 写真 2013.6.1 追記 アンデサイト・コンファランス(1968 年 6 月、Bend, Oregon) 左最前列で着色の服が筆者、その右の白シャツが村瀬、その右後ろに久野、久野の列右 に 1 人おいて H. S. Yoder, Jr.、左側に返って筆者の左後ろの帽子が勝井、その右へ G. G. Goles、A. Waters。他方、一番右端にいるのが A. R. McBirney、左へ 1 人おいて S. R. Taylor、さらに 9 人目少し下がった白いズボンが H. Williams。なお、最前列で村 瀬の右の女性は McBirney 夫人(敬称略) 。 ― 49 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) 古代中国における地質学 王鴻禎・夏湘蓉・陶世龍(著) (会田信行・大森昌衛訳) 訳者まえがき 本編は中国地質学会地質学史委員会と中国地質大学地質学史研究部から 1989 年に 出版された小冊子"A Brief History of Geology in China"(英文 75 頁)を日本語訳し たものの一部である.元は中国語の原稿で,これを英語に直して出版されたようであ る.その内容は,黄汲清によって『地質評論』vol.28,no.6(1982)に掲載された「中 国の地質科学の最近の 60 年間の主要な成果と今後の課題の大略」と題する総括的論 文に準拠しているという.中国の地質学史が簡潔によくまとめられており,広く紹介 したいと,大森昌衛氏が翻訳を開始した.その後会田が加わり完成した.この黄汲清 の論文は『地球科学』37 巻 5 号(1983)に猪俣道也氏の訳文で紹介されている.小 冊子は全部で 9 章から構成されており,第 3 章以降(53 頁)は確かに黄汲清の論文を もとに加筆された内容になっている.しかし,第 2 章(16 頁)は紀元前から 19 世紀 までの中国での地質学の知識を紹介した内容であり,この部分は黄汲清の論文にはな い.この第 2 章は,章鴻釗によって書かれた『支那地質学発展史』(1943)などでも 取り上げている地質学的エピソードを多く集めているのが特徴で,ジョセフ・ニーダ ム の "Science and Civilisation in China" Vol.3, Part3 (The Science of the Earth)(1970)(日本語版の『中国の科学と文明 (6)地の科学』 (1991))の内容と重複 するところが多い.中国の古典からの引用文の多くがニーダムの本(日本語版)に中 国語でも掲載されている. 本編は小冊子の中の第 2 章の日本語訳である.ただし古典からの引用文(20 箇所) については,ニーダムの本から該当する箇所の訳文を引用する形をとらせていただい た.小冊子は本文のみで,図表がない.そこで訳者(会田)の責任で,理解しやすい ように新たに図表等を挿入し,また補足説明(下線で表示)を加えた. 著者を簡単に紹介する. 王鴻禎(1916-2010):中国科学院院士.中国地質大学教授,国際地質学史委員会 (INHIGEO)副会長.著書に『中国古地理図集』,『中国の地質(英文)』(共著)等. 夏湘蓉(1910-2001):中国地質学会地質学史研究会副会長.著書に『中国古代鉱業 開発史』 (共著), 『中国地質 学会史』(共著)等. 陶世龍(1929- ):北京地質 学院(中国地質大学の前身) 地質学史研究室主任の後, 著述業に専念.自然科学と 中国文化の融合に関する著 書多数. 王鴻禎 夏湘蓉 陶世龍 1.はじめに 中国では学問の諸部門の起源は古く,地質学も例外ではない.ごく早い時代から有 用鉱物や土壌が我々の祖先に注目されていた.冶金術の知識は先史時代にさかのぼる. 『禹貢』篇では,各地 地理学の最古の資料のひとつである(B.C.5世紀の『書経』の) 方の土壌の性質や色調が注意深く記述されている.実際,土壌の違いによって,管理 ― 50 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) の方法が異なっていたようである.また金・銀・銅・錫-鉛・鉄などの金属の記述が 見られる.『山海経』(B.C.475-207)は真に自然史の初歩的な記述となっている.こ れらの本は主として有用な岩石と鉱物を扱っているが,地質学的作用についての記述 はない. 荘周(B.C.369-286)による『荘子』の次の最良の一節が,A.W.グラバウ著『中国地質 史 Stratigraphy of China 』(1928 ) Pt.Ⅱの巻頭に引用されている. 荘子寓言篇 「萬物皆種也,以不同形相禪,始卒若環,莫得其倫,是謂天均,天均者天倪也」 (一切の物は千種萬様で,素よりその形態は不同であるが,古来相禪り,相傳へて, 無限に連続してゆくもので,そのさまは何に比すべきものもない.これ不齊の中にお のづから至齊のものの存在する所以で,これをば天均と稱する.天均とは天倪即ち自 然である.)(吉田義成訳著『現代語訳 荘子』(1923)より引用) この古代の中国の哲学者の基本的な考えは,19 世紀のダーウィンの進化論やライエ ルの斉一説に幾分か似ているように見える. 2.地質学的観察 山の起源に関する記述についての最も有名な文献は,朱熹(1130-1200)の本であ る.『朱子全書』の集約的研究の中に次のような文章がある. 「混沌とした物質が分かれる前の,天と地の始まりに,火と水の他は何も存在して いなかっただろう.大地は水からの堆積物として形成された.われわれが高い隆起の 上に立って,四方を見ている今日でさえ,丘陵の連なりは海の波のように見える.水 が鋳型となってこうした形になったに違いないが,その凝結が起こった時期に関して は,われわれは何も知らない.最初,きわめて柔らかかったものが固くなって凝結し た.」 注 1 「私は高い山において,しばしば岩に埋もれたスイショウガイやカキの殻(螺蚌) を見たことがある.古代には,これらの岩は土や泥であり,スイショウガイやカキは 水中に住んでいた.突然地の底のものがすべて山の頂になり,もともと柔らかかった ものは固いものとなった.」 注 2 上記の引用文の中の主要な地質学的興味は,生きていた 動物の殻が海底の柔らかい泥の中に埋没した後に,山が隆 起したという事実を朱熹が認めていたことであると,グラ バウは指摘している. 隆起した地層のゆっくりした侵食は,中世中国の思想の 中できわめて明確に理解された.宋王朝期(960-1279) に,沈括(1031-1095)はその著『夢渓筆談』の中で,多 くの興味ある観察を記した.1070 年頃には次の記録を残し ている. 「温州の付近の雁蕩山は,非常に美しいが,古い書物に はその記述がない.・・・・さて私自身も,雁蕩山はほかの山々と 沈括 は異なることに気づいた.そのそびえ立つ峰は嶮岨であり, 1962 年発行の切手 鋭くて奇妙である.その巨大な絶壁は1千丈の高さがあり, ほかの場所で見られるものとは異なっている.その峰は,ふもとの丘に隠れて外から あまりよく見ることはできないが,峰々に近づけば空に突き刺さるようである.これ らの形状の理由を考察して,私は(数世紀もかかって)山の豪雨が急激に流下し,す べての土砂を運び去り,こうして固い岩石だけが残されて孤立するようになったのだ ― 51 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) と考える.・・・・いま成皐や陜西の大渓谷においては,100 尺ほどにも及ぶ高さのとこ ろまで土が垂直に立っているのが見られる(黄土峡谷).雁蕩山は堅い岩石であるのに 比べて,こちらはただの土であるにもかかわらず,実はこれらは雁蕩山の小模型であ る.」 注 3 沈括はまた堆積作用について次のように記している. 「私が公務を帯びて河北へ行ったとき,太行山脈の北部の絶壁の辺りにおいて,バ イ貝様の動物,カキ殻,鳥の卵の殻のような石(ウニ類の化石)を含んだ帯(地層) があるのを見た.だからこの場所は,今でこそ海の西 1000 里にあるが,かつては海 浜であったに違いない.それゆえ,いわゆる大陸はかつては水の下にあった泥や沈殿 物からできたに違いない.」 注 4 「いったい大(すなわち黄)河・漳水・滹沲・涿水・桑乾河はすべて沈泥をたたえ た河川である.陜西と山西の西部においては,河水は 100 尺あまりもの深さの峡谷を 走る.当然,泥や沈泥は,年ごとにこれらの流れによって東方へ運ばれることであろ う.」 注 5 11 世紀の沈括は近代地質学の基礎となっている考えを既に持っていたようである. これらの地方で見られる洞窟と地形の研究は,中国の全史を通じて行われてきた. 恐らく B.C.4 世紀に記された『計倪子』の中に,無機的で化学的な物質と薬品の古い リストがあり,その中に鍾乳石が含まれている. 温泉に関する大量の知識も,百科辞書ないし地理学的記録の中に認められる.6 世 紀初期の『述異記』の中に温泉についての次のような記録が見られる. 「陽泉(という泉)は天餘山の北にある.澄んだ流れが数十丈にわたって湧き出てい る.草木や木の端を水中に入れると,すべてきれいな固い石に変化する(化爲石)」 注 6 中国における温泉の記録も豊かである.唐王朝の徐堅(659-729)は彼の辞典『初學記』 の中で,川の上流で硫黄の臭いをかいだら,水源はおそらく暖かい泉であろうと記し ている.元王朝期(1271-1368)に,『齊東野語』の著者周密(1232-1308)は,地下 における硫黄と明礬の燃焼で熱が生じたと信じていた. 3.古生物学 唐王朝期(618-907)に,顔真卿(708-783)は『麻姑山僊壇記』(770 頃)という 評論の中で次のように書いている. 「・・・高い丘陵の上の石や岩にさえ,カキや二枚貝の殻があるのが見られた.それら はかつて海水の下にあった木立や野原(桑田)から変化したものだ,とある人は考え た.」 注 7 宋王朝期,沈括の次の言葉はかなり明瞭なある種の化石植物を示すと思われる. 「近年(1080 年頃),延州近くの永寧關の大河の岸に地滑りがあった.岸が崩れて, 数十尺の地面が裂け,地下に竹の子の林がこうして現れた.完全な根や茎をつけた数 百本の竹があって,すべて石になっていた. ・・・今では竹は延州には育たない.これ らは,現在の地面の下,数十尺の深さのところにあった.どの王朝のときのものなの かはわからない.恐らく大昔には,気候は今と異なっており,その場所は低温で陰鬱 であって,竹の成育に適していたのだろう. ・・・この石化した竹は,今日ではその地 に産出しないものであるのに,非常に深い地下に現れたのである.これはとても不思 議なことである.」 注 8 この文章の中の,いわゆる「竹林の森林」は,現代の古生物学者によって,三畳紀 後期の Neoclamites corcinoides と N.carerei と鑑定されている. 動物化石については,さらに確実な資料がある.腕足貝の Spirifer とその中間の属 ― 52 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) は鳥の羽を広げたような殻を持っているため,中国名で石燕と呼ばれている.中国の デボン紀の Spirifer 類は 1853 年にダヴィッドソンによって記載されている. 石燕に関する最初の重要な文献は,5世紀末(もしくは6世紀初)にさかのぼる. 酈道元(?-527)によって著された『水經注』の中に次のような記事が認められる. 「石燕山には,ツバメのように見える石のカキ(石蚶)の一種がある.そこからこ の山の名前が生まれた.・・・・雷雨のときに,これらの石ツバメは本当のツバメのよう に飛び回る.」 注 9 しかし, (宋王朝期の)杜綰はこの奇妙な話には同意せずに,彼の『雲林石譜』(1133) の中で,次のように記している. 「石ツバメは永州の零稜で産出する.古代には,雨が降るときに飛び回ると言われ た.しかしながら,近年,私は高い崖によじ登って,ツバメの形をしている多くの石 を発見した.そのうちのいくつかに,私は筆で印をしておいた.岩が強い日光にさら されたとき,それらは裂けて,雷雨のにわか雨がきたときに風化した.そして,私が 印をつけたものが次々と落下した.それらが空中を飛び回るのは,暑中には膨張し, 寒中には収縮するためであった.本当は飛ばないのである.」 注 10 上の文章の中で述べられている「石燕」は,現代の古生物学者によってデボン紀後 期の Cyrtospirifer disjunctus と鑑定されている. 明王朝期(1368-1644)に,オルドヴィス紀の石灰岩から見つかった直角貝の化石 は塔石-化石に見られる隔壁がそのように見えたため-として知られていた. カンブリア紀の石灰岩から産出する三葉虫の化石 Drepanura premesnili は,その 尾部がこうもりの羽に似ているため,「コウモリ石」と呼ばれていた.3世紀に郭璞 (276-322)は『爾雅』という辞書の注釈の中で,齊の国の人はこの種の「コウモリ石」 を硯に使っていると述べている. 洪積世のカニの化石は,はるかに広い地域から知られている.中国で最も普通に知 られている化石種は,海南と廣西で発見されている Macrophthalmus latreilli で,通 常「石カニ」と呼ばれている. 「石カニ」は泥の中に埋もれたもの(カニ)が後になっ て石化したものである,と宋王朝期から清王朝期に書かれた多くの本に記されている. 「本草綱目」中の図(1) 左から鍾乳石,石燕 Spirifer,石蟹(石のカニ),石蛇(石のヘビ:アンモナイト) 中国人の関心を引いた脊椎動物の化石には,魚類・爬虫類・哺乳類の遺体が含まれ ている.化石魚類についての最も古い文献は,間違いなく(5世紀末もしくは)6 世 ― 53 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) 紀初にさかのぼる.酈道元の「水經注」の註釈の中に次のような記述が認められる. 「湘郷県の石魚山に,磁性のない鉄鉱石(玄石)がたくさんある.それは黒っぽい色 で,雲母のように筋がある.もし外層を劈開すれば,中には常に,ちょうど彫刻する か描いたように鱗とひれ,頭と尾のある魚の形のものがある.長さ数寸で,詳細なと ころまで完全である.もし焼けば,魚のようなにおいさえも出すのである.」 注 11 爬虫類と哺乳類の化石椎骨は,中国では「竜骨」と常に呼ばれた.その大部分は哺 乳類で,サイ・マストドン・エレファスゾウ・ウマ・サイなどの多様な種からなる. ほかに恐竜や翼竜の骨も含まれる.竜骨の最初の記録は三國時代(220-265)の本の中 にある. 我々が目にすることのできる図は,おそらく2世紀頃から 15 世紀にかけて書かれ たものであろう.近代科学の成立以前に,ヨーロッパよりも先行して中国では化石遺 体の解釈が行われていた. 4.鉱物学 地質学と鉱物学は,主としてルネサンスの後に興った科学である.しかしさまざま な岩石や鉱石,宝石および鉱物の記録がすでに『禹貢』篇や『山海経』など戦国時代 (B.C.473-221)に書かれた本の中に認められる.鉱物学の起源ははるかにさかのぼる. 中国における鉱物学史についての最も重要な著作は章鴻釗の『石雅』 (第一版 1921; 第二版 1927)と『古礦録』 (1954)である.後者は古代の中国の文献に記されている 若干の重要な鉱物についての通覧を収めている. この鉱物学史についてのもう一つの重要な書籍は夏湘蓉・李仲均・王根元の『中国 古代鉱業開発史』(初版 1980;再版 1986)である.この本の第一部では,1840 年ま での古い中国における鉱山業の通史を記し,第二部では,昔の 中国における鉱山技術をもれなく記述している. この『中国古代鉱業開発史』では,歴史的資料の大部分が地 質学的見地から考察されている.章鴻釗の『石雅』および『古 礦録』の続編と見なされている. 次に古代中国の鉱物学についての概略を記す. 地球の中での金属の成長に関する古代中国の学説について, 『本草綱目』(1596)の巻 8「金石(鉱物)」の序言の中で李時 珍(1518-1593)は,次のように説き起こしている. 「石は気の核であり,土の骨である.量が多ければ,それは 岩石や絶壁となり,小さな粒子になれば砂や塵となる.その精 の本質(精)は金や玉となり,その毒素が砒華(礜)や亜砒酸(磇) 李時珍 となる.気が凝固すれば(凝),辰砂や緑礬となる.気が変化を 1955 年発行の切手 受ければ,液体となり,明礬や水銀となる.その変化は(多様で あって),ミルク状の塩水が岩石(岩塩)となる場合のように,柔らかいものは固くな り,草木や,あるいは飛んだり這ったりする動物でさえ石化することがあるように, 動くものが動かなくなる.かつては生気をもっていたのに,生気のないものに変化す るのである.さらに,雷電や落雷が石になるとき,無形のものが形を持つものに変化 する・・・・.」 注 12 ここに記した文章に述べられているような予察的な考えは,辿ってみると,少なく とも 11 世紀から 5 世紀まで遡ることができる.このような考えの内容を調べてみる と,アリストテレス(B.C.384-322)によって提唱された地球における鉱物や金属が 徐々に成長するという「発散の教義」に密接に結びついているということがわかる. ― 54 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) 地殻の構成物におけるゆっくりした化学的変化の過程と現在呼ぶべきものを,我々の 先祖が認めていた限りにおいて,考えがそれほど間違っているとはいえない.誤って いた点は,金属と他の構成物質が地殻の中で相互に変化するという仮説にあった. 中国の文献の中で,鄭思肖(1241-1318)の『所南文集』には, 「鉱層の堆積は岩石 の裂かを通過する地下水の循環によって生ずる」という次のような最も力強い記述が 認められる. 「大地の下には,土や岩石や流泉水の層が重なり合っている.これらの地層は,何 万という支流,鉱脈,微細鉱脈(のような穴)に(分布して)存在する何千という蒸 気の上にある.絶えずあちこちへ流れ,変成を行っている柔らかいまたは堅い(物質 がそこにある).・・・・(地下の内部は)(われわれの知っているような)金属でも石で も土でも水でもない.何千何万という水平と垂直の鉱脈が,縦糸と横糸のように支流 を織り成している. (中略) (大地の実体は,人間のそれのようだ.)同じように,水圏 の下の大地はきわめて熱い.そうでなければ,すべての(水の)陰の気をひっこませ ることはできないであろう.・・・・」 注 13 鄭思肖はこの記述の中で,地球の中で進行しているある種の循環という考えを,鉱 脈における地下水の蒸発(または沈殿)による鉱物の堆積に明確に適用している. ここで 16 世紀の G.アグリコラによって提唱された見解を思い出さずにはいられ ない.アグリコラは鉱液石化説を最初に明瞭に提示した.アグリコラの見解は,裂か 中の地下水の循環によって周辺の岩石中に鉱物が堆積するという現代の考えの基礎を なすものと考えられている. 研究はまた特定の鉱物の璧開や断口および結晶型に向けられた.雲母の璧開につい ての記載は次のようなものである.蘇頌 ( 1020-1101)の著した『本草圖經』(1070) の中で記されている. 「雲母は地と岩の間に生じる.それは,層をなした薄片のようであって剥離できる. きらきらしていて滑らかだ.最上のものは白くて輝いている・・・・.その色は紫金のよ うだ.剥離した薄片はセミの羽根のようだ.それを積み重ねると,折り畳んだ紗のよ うに見える.これはガラスの部類に属すると言われる.」 注 14 この記述には,薄い透明な雲母片の特徴が十分明らかにされている. 古代中国でのすべての鉱物学的仕事は結晶型に注目し,物質の違いが六方型,針状, ピラミッド状その他の結晶型を作ることに気がついた.蘇頌は石英の結晶はあたかも ナイフでカットしたような6つの面をもち,方解石の結晶は方形で面張った形をもつ ことを記載している. 彼はまた自然水銀の産状と貝殻状の切り口について次のように記している. 「辰砂(丹砂)は,「辰砂の床」(朱砂林)として知られる一種の白い石(白石)と いっしょに発見される.この鉱物はこの石の上に成長する・・・・.この鉱物の塊を破っ て,雲母片の内側のように滑らかな,壁のような(表面をした)切り立った傾斜をな すのが見られる・・・・.」 注 15 と.さらに「(蘇恭の)『唐本草』は,10 種以上のものが あると言う.最上の種類の光明砂は,「石のほこら」(石龕)と呼ばれる(岩層)に生 じる.最も大きな塊は,卵ぐらいの大きさで,小さなものは,ナツメの実,栗,ある いはムクゲの実のようである.表面を破ると雲母のように滑らかな輝きを見せる. 「雷 公藥對」には,それぞれが鏡のように輝いて見え,14 の面を持つ・・・・塊(結晶)を発 見できるとある.」 注 16 と記している. これには鉱層の徴候や母岩の特徴に払われた注意が記述されており興味深い.結晶 型の,特に六方対称型と斜方双晶型についての記載が含まれている.貴州地域の有名 な水銀鉱床の中にまさに 14 の面をもつ結晶が知られている. ― 55 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) 鉱物や岩石の体系的分類は古い中国の文献には見られないが,極めて多数の岩石や 無機物が識別され命名されている.唐王朝期に,梅彪によって書かれた鉱物と薬品の 同義語辞典『石藥爾雅』(818 頃)は,鉱物についての重要な論説であり,62 の化学 物質について 335 の同義語を記している.また他方,李時珍の『薬種大録』(1596) では 217 の鉱物種についての推敲記事が見られる. 夏湘蓉ほか(1986)は,昔の中国で認められている若干の重要な金属および非金属 鉱物について行き届いた評論を試みている.鉱物のリストを以下に記す. 金属鉱物:(1)含鉄鉱物:鉄隕石,磁鉄鉱(玄石),天然磁鉄(磁石),赤鉄鉱(赭石), 雲母赤鉄鉱,代赭石,紅粉 (2)含銅鉱物:自然銅,孔雀石,斑銅鉱,赤銅鉱 (3)含錫 鉱物:錫石 (4)含鉛鉱物:方鉛鉱,自然鉛,蜜陀僧 (5)含亜鉛鉱物:菱亜鉛鉱,炭酸 亜鉛鉱 (6)含銀鉱物:自然銀,輝銀鉱,含銀方鉛鉱(銀母),紅玉銀(淡紅銀鉱と濃 紅銀鉱)(7)含金鉱物:自然金,銀金鉱 (8)含水銀鉱物:辰砂,按黒辰砂,自然水銀 非金属鉱物:陶土,カオリン,岩塩,石炭,石油,天然ガス,硬玉,トルコ玉. 上に掲げた鉱物のうち,硬玉と石油は古代中国史で特に関心がもたれていた. よく知られているように,硬玉は中国文化を最も特徴づけるもののひとつであり, その石質や構成物・色調が,数千年の間彫刻師の技工の対象となってきた.夏湘蓉ほ か(1986)は中国の硬玉を軟玉,鮑文玉(蛇紋石玉),糟化石の 3 種に分類し,軟玉 が最も重要であるとした. 石油に関して,沈括は次のように記している. 「石油は, (陜西や甘粛の)鄜や延に産出する.このあぶらの水(脂水)は,古い書 物に高奴縣に産出すると記されているのと同じものである.水・砂・石が混じって出 てくる.その泉において,土地の人びとはキジの尾の刷毛で石油を集め,それは壺に 入れると,漆のように見える.容易に燃えるが,非常に濃いその煙は,まっ黒な煙幕 を作る.私はかつてこの煙は役立つかもしれないと考えて,その煤を集めて墨を作ろ うと試みたことがあった.この黒色は漆のように鮮やかで,松脂の墨もこれには及ば なかった.(そこで私はこれを多量に作って,延川石液と呼んだ.)私の発明は,広く 行われるだろうと思う.石油は豊富だし,松の供給が尽きるのに反し,地中でもっと 多量に作られるであろう.」 注 17 凡そ 1070 年頃に書かれたこの記述の著しい特徴は,沈括が黒色の墨を作るのに石 油を用いたことであるが,地球の中で「無尽蔵に」供給される石油を有限の材(松) の代用物として使えると考えたことにある. 「本草綱目」中の図(2) 左から磁石(磁石を示さないものは玄石=磁鉄鉱),赤鉄鉱,石炭,石油 ― 56 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) 鉱床の発見に関しては,ある岩石や鉱物が経験的に結びつくという知識をもとに探 査することが,昔の中国の鉱夫たちの間に申し送られていて,このことは漢の 時代 (B.C.206-A.D.220)やそれ以前までさかのぼる.このことは,管仲(?-B.C.645) による『管子』に次のように書かれている. 「上に丹砂があるところには,下に黄金が発見できる.上に磁鉄鉱があるところに は,下に銅と金が見つかる.上に陵石があるところには,下に鉛,錫,赤銅が見つか る.上に赤鉄鉱(赭)があるところには,下に鉄が見つかる.こうして,山というも のには豊かなものがいっぱいあることがわかるのです.」 注 18 しかしながら,中国の鉱夫たちは,鉱石と岩石の組み合わせを認めていたばかりで なく,植物と鉱石との間のある種の関係も認めていた.すなわち鉱床の存在を指示す るものの中で,植物がかなり有効であることを認めていた.この点に関して,最も良 く知られている文章が,800 年頃に段成式によって書かれた『酉陽雑俎』の中に認め られる.それによると, 「山に葱(玉ネギ)があれば,その下には銀が見つか る.山に薤(ネギの一種)があれば,その下には金が見 つかる.山に薑(ショウガ)があれば,その下には銅と 錫が見つかる.」 注 19 段成式の『酉陽雑俎』以前にも,5 世紀の『地鏡圖』 の中にこの問題についての次のような若干の興味深い記 述がある.すなわち「もし(ある)植物(の葉)が緑で 茎が赤ければ(草茎赤秀) ( 右図の紅草がその例とされる), 多量の鉛がその下に見つかる.(ある)植物の茎が黄色 紅草 Sedumrosei Hamet ですばらしいものであれば(草茎黄秀),その下には銅が 夏湘蓉ほか(1986)より 注 20 見つかる.」 地質学・鉱物学についての古代の中国人の観察が,現在の科学的業績や実験の先駆 となっていたことは,上記のことから十分に知られるが,現在の地質科学に発達する ことはなかった. 注 1~20: 『中国の科学と文明』第 6 巻より引用.1:p.124,2:p.124,3:p.131,4:p.131, 5:p.131,6:p.134,7:p.127,8:p.142,143,9:p.143,10:p.144,11:p.149,12:p.166, 13:p.180,181,14:p.178,15:p.179,16:p.179,17:p.137,18:p.208,19:p.210,20:p.211 文献 Grabau A.W.( 1928) :Stratigraphy of China, Part II.Geological Survey of China. 夏湘蓉・李仲均・王根元編著(初版 1980;再版 1986) : 『中国古代鉱業開発史』.地質 出版社,北京,442p. 章鴻釗(前田隆良・熊谷喜之訳) (1943) : 『支那地質学発展史』.人文閣,東京,202p. ジョセフ・ニーダム(1991) : 『中国の科学と文明 (6)地の科学』,思索社,東京,387p. 原本は"Science and Civilisation in China by Joseph Needham and Wang Ling" Vol.3, Part3 (The Science of the Earth)(1970), Cambridge Univ.Press. 明 李時珍撰(1930):『本草綱目』(一).商務印書館出版,香港. 吉田義成 訳著(1923):『(現代語訳)荘子』.支那哲学叢書第7,新光社,502p. Wang Hongzhen, Xia Xiangrong and Tao Shilong (1989) A Brief History of Geology in China.The Geological Society of China and China Univ. of Geosciences, Beijing,75p. ― 57 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) INHIGEO 2013 年、マンチェスターに参加して 矢島道子 2013 年の INHIGEO は 7 月 21 日より 28 日までイギリス・マンチェスター で 開 か れ た 第 24 回 国 際 科 学 ・ 技 術 ・ 医 学 史 学 会 ( iCHSTM2013: 24th International Congress of History of Science, Technology and Medicine)と共 催であった。INHIGEO は IUHPS- DHST(International Union of the History and Philosophy of Sciences - Division of History of Science ) と IUGS (International Union of Geological Sciences)の 2 つの傘の下にある国際組織 なので、4 年に 1 度開催される国際科学史学会があるときにはそこでシンポジウ ムを行うことが多い。たとえば、23 回 iCHSTM はハンガリー・ブダペストで 開催され、INHIGEO シンポジウムも共催であった。22 回 iCHSTM は北京で 開催されたが、INHIGEO シンポジウムはチェコ・プラハで共催であった。 私の国際科学史学会の出席は 3 度目だったが、今年は 47 ヶ国から 1758 名(う ち日本人 62 名)の参加があり、全体で約 1400 本の論文が提出され、411 のセ ッションに分かれて報告・議論された。会場は 23 会場で並行されて行われた。 日本からの報告は約 50 本で、大きな学会であった。また私は日本代表として理 事会にも出席したので、日本学術会議から旅費の補助を受けた。私自身の発表 が最終日であったことを除いて、国際科学史学会を十分に楽しめた。申込みも 講演要旨集もみなインターネット上で行われ、毎日ニュースがメールで送られ てくる学会であった。今回の学会でもっとも印象的だったのは、開会式の基調 講演、 「チューリング・マシン」というオペラの鑑賞、そして最終日のディナー の楽しさであった。 INHIGEO はヨーロッパの中心であるイギリスでのシンポジウムであったの で大変盛況であった。常に 30~50 人の研究者で会場はいっぱいであった。ヨー ロッパの国でも通常は出席しないスウェーデンやギリシャなどの研究者の発表 があった。ラドウィックやオルドロイドなど大家もフル出場し、今回の責任者 であるイギリスの地学史研究者グループ HOGG(ロンドン地質学会の History of Geology Group)の大変な努力の結果であった。 地学史のセッションは INHIGEO の提唱したシンポジウム「地学と芸術」 「地 学とフィールド」の二つが行われた。 「地学と芸術」のセッションは 7 月 23 日から 24 日まで 17 の口頭発表が行わ れた。発表者と研究された芸術家の名前をならべてみる。Muriel Adrien 「ジ ョ ン ・ マ ー チ ン 」、 Pascale Manning 「 ラ イ エ ル 」、 Laurence Roussillon-Constanty「ジョン・ラスキン」、Ernst Hamm 「カスパー・フリ ― 58 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) ードリッヒ」、Claudia Schweizer 「ノヴァリス」、Gabrielle Sims 「Giacomo Leopardi’s La Ginestra (1836) 」、Melissa Bailes 「Felicia Hemans」、Gowan Dawson 「ディッケンズ」 、Stephen Rowland 「マーク・トウェイン」、Claudine Cohen 「19 世紀フランス文学」、Philippe Taquet 「バルザック 」、Karen Cook 「グリノウ」、Stefano Magnani 「Torquato Taramelli 」、David Oldroyd 「ア ミブエと Jules Marcou (1861)」、William Twycross「ジョン・ミルン」、Irena Malakhova 「Dmitry I Sokolov」、Leonid Kolbantsev 「Vladimir Obruchev」 である。地質学と関係する文学者、美術家はたくさんいる。学会の後行われた 見学旅行は湖水地方にラスキンの跡を訪ね、このシンポジウムを補完するもの であった。 写真 1 ジョン・ラスキン記念館の前で もう一つの「地学とフィールド」のセッションは 7 月 26 日から 27 日にかけ て 21 の口頭発表が行われた。Kenneth Taylor「1760 年代のデマレ」、Ezio Vaccari 「アミブエ (1835-36)」、Marianne Klemun 「1848-1867 年のウィー ン地質調査所」、Susan Turner「Thomas Sopwith 1839 年」、 Luz Azuela 「William Gabb」、Beth A. Johnson「アガシ」、Barry Cooper 「地質学にお ける空間感覚」、Cynthia Burek と Bettie Higgs 「アイルランドの女性地質学 者」、Martina Kölbl-Ebert 「Ries Crater (1933 to 1945)」、Teresa Salomé Mota 「20 世紀のポルトガル地質調査所」、Leucha Veneer 「冷戦下の北海研究」、 ― 59 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) Ermelinda Pataca 「ポルトガルの 1777-1808 年」、Geir Hestmark 「Jens Esmark」 、Mike Johnston「Thomas Ridge Hacket (1827-1884):」、Christer Nordlund 「Lennart von Post 」、George Vlahakis 「18-19 世紀のギリシャ」、 Wolf Mayer「オーストラリアの地質学者」、Johannes Mattes「20 世紀、オー ストリア」、Ros Westwood「ダービーシャー」 、Paul Kabrna 「ジョン・ミル ン」、矢島道子「災害は忘れたころにやってくる」など、それぞれの活動がフィ ールドとどのように関連していたかの考察が話された。私は 3.11 地震にふれて、 寺田寅彦の科学と芸術の話をし、俳句という文化について欧米の研究者の興味 を誘った。 途中、ミュンヘンの Bernhard Fritscher がつい 3 週間前に亡くなったことが 報告された。講演予定だったので、その時間を利用して、つきあいのあった人 が一言ずつ思い出を語った。私も知己で、びっくりして声もなかった。享年 58 歳、ご冥福を祈る。 今年は地震学者ジョン・ミルンの没後 100 年であり、それを記念して映画が 製作され、7 月 24 日公開された。製作者はジョン・ミルンの遠縁の William Twycross である。映画はこの秋の日本地震学会でも公開される。ジョン・ミル ンの伝記作家である Patrick Nott と Paul Kabrna の講演もあった。Paul Kabrna の書いた伝記はまだ邦訳されていない。 なお INHIGEO の主催ではないが、いくつか地学に関係する発表もあった。7 月 22 日に行われた「政治と地図製作」のセッションでは中部大学の渋谷鎮明氏 が「朝鮮半島の古図と近代地図の関連」の話をされ、同日の「地質学の旅行」 のセッションでは Bessudnova Zoya が「Nikolai Koksharov (1818-1892) とマ ーチソン」、Renee Clary が「デ・ラ・ビーチとハンマー」、 John Diemer が「ス ウェーデンのマーチソン」の話をした。7 月 24 日の「20 世紀の応用科学」のセ ッションでは精華大学の楊艦氏のお弟子さんたちが第 2 次世界大戦中の中国の 科学界の報告をし、会津大学の青木滋之氏が「日本ではプレートテクトニクス 説受容以前に地球科学という概念があった」と報告した。 最終日に行われた INHIGEO のビジネスミーティングでは、次の開催国が確 認された。2014 年アメリカ・カリフォルニア、2015 年中国・北京、2016 年南 アフリカ、2017 年ロシアの順番である。2017 年の国際科学史学会はブラジル・ リオデジャネイロで開催(代表は地学史研究家の Márcia Regina Barros da Silvia)と決定されたので、国際科学史学会でも地学史のセッションが開催され るはずである。2015 年の北京の招待講演もあった。INHIGEO の会長・事務局 長・会報編集長は続行である。INHIGEO Newsletter は“INHIGEO Annual Record” と名前が変わった。 ― 60 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) 写真2 シンポジウム中の見学旅行、バクストン駅にて HOGG の世話で会議の前の 2 泊 3 日の見学旅行、会議中の日帰り旅行、会議 後の 2 泊 3 日の見学旅行が催された。会議の前に行われた、ラドウィックとト レンズの率いるシルル系を訪ねる巡検は参加できなかった。私は水治療場であ る Buxton への日帰り旅行と、会議後のジョン・ラスキンを訪ねる湖水地方への 旅行を楽しんだ。真珠の御木本一族の収集していたラスキン文庫はイギリスで も有名であった。旅行はよく準備されており、世界の地学史研究家と旧交を温 めることができた。 ― 61 ― 地質学史懇話会会報 第 41 号(2013) 鈴木尉元さんを偲ぶ 元日本地質学史懇話会会長の鈴木さんの地質調査所時代を含め国内に於ける諸活動や 人柄などについては地質学雑誌を始め多くの弔辞が寄せられており、重複を避けたい。海 外からも数多くの弔辞が寄せられたが、そのほとんどは公表されないままになる恐れがあ るので、代表として以下に INHIGEO 会長・オクラホマ大学科学史科名誉教授 Dr. Kenneth L. Taylor さんから寄せられた弔辞を加藤碵一さんの訳で披露したい。 (事務局) 国際地質学史委員会 INHIGEO を代表して鈴木尉元博士の『偲 ぶ会』に際して若干述べる機会を得た事をありがたく思います。 本委員会の名において、鈴木氏の亡くなられたことに深甚の哀悼 の意を表します。またご遺族、同僚やご友人方に本心からお悔や み申し上げます。彼は傑出した人物として称賛に値する特質につ いて偉大な愛情をもたれていました。 鈴木尉元氏は日本地質調査所における長く優れた経歴を持ち、 また個人的な地質顧問として 1990 年に INHIGEO の委員に選出 されました。彼は、世界各地で開催された多くのシンポジウムに参加し地質学史における 日本の活動について委員会に報告すべく広く出席するなど実に活発な委員でした。1994 年に遡る日本地質学史懇話会 JAHIGEO 創設メンバーの一人として、委員会における歴史 調査研究が日本人会員によく知られるように、さらにハイレベルになるように、育成する 手助けをしました。彼は、島弧の深部構造研究グループのリーダーとして多くの科学的か つ歴史的な論文を出版しました。また、彼は著名な日本の地震学者や構造地質学者の伝記 的研究について幾つもの論文も書きました。彼は 2011 年に日本で開催され抜きんでた成 功を収めた INHIGEO シンポジウムを企画実行した中心人物の一人でした。 国際社会は、地質造構史や地震学史に関する学問 的な業績同様、中・深発地震に関連する構造や地熱 現象についての彼の重要な調査研究を極めて高く評 価し、その死を深く惜しむものです。彼の死を知っ て以来、近年私が交流している INHIGEO の委員た ちは、彼をたいへん賛嘆し好意をもったことの幾つ かを私に強く思い出させました。彼はまた親切で優しく素晴らしい紳士でした。彼は、な みはずれて快活なユーモア精神の持ち主で、抑えきれない好奇心と冒険心の持ち主でした。 かれは熟練した芸術家でもありました。彼は、国際的な同僚たちによって大いなる慈しみ と共に記憶されその死が寂しく思われるでしょう。 最後に、我々の同僚であり友人だった故鈴木尉元氏に弔意を述べる特典を与えていただ いたことを深く感謝する次第です。 INHIGEO 会長 オクラホマ大学科学史科名誉教授 Kenneth L. Taylor ― 62 ― JAHIGEO Bulletin no. 41(2013) 事務局より ★ 地学史研究会は以下のように順調に行われています。 ・第 51 回地学史研究会は 6 月 29 日(土) 午後 2 時~5 時に早稲田奉仕園セミナーハウス にて大沢眞澄氏の「H. シュリーマンの文化財科学への関心」と大村 裕氏の「和島誠一の 考古学」の講演がありました。大沢氏は B4 判の資料 16 枚をもとに、考古学史・文化財科 学史の観点から話題提供されました。大村氏は A3 判の資料、合計 9 枚をもとに、考古学史 研究の成果が発表されました。内容の概略は本誌に掲載されています。 ・第 52 回地学史研究会は、10 月 12 日(土)午後 2 時~5 時に早稲田奉仕園にて菅谷 暁 氏の『18 世紀フランスにおける「地球の年齢」 』の講演が行われました。とりあげられたの はアンリ・ゴーティエ (1660–1737)、ブノワ・ド・マイエ (1656–1738)、ビュフォン (1707 –88)、ラマルク (1744–1829) の 4 人です。彼らの「地球の理論」、 「地球の年齢」算定の方 法、公表の形態、正統信仰との関係などについて議論されました。 ★ 2013 年 1 月以降の懇話会会員の異動は以下のようです。 退会 増田孝一郎(2013.1.8.逝去)、鈴木尉元(2013.5.12.逝去) 垣見孝弘(2013.7.1.逝去)、田中 収 休会 住所変更 吉岡 学 神戸信和 176-0021 練馬区貫井 2-9-9 本田博巳 606-8277 京都市左京区北白川堂ノ前町 33 コンフォール北白川3E 小野田滋 114-0015 北区中里 3-24-2 グランデ中村橋二番館 422 E-5 立澤富朗 399-0511 長野県上伊那郡辰野町横川 895 電話 0266-47-5566 編集後記 地質学史懇話会会報 41 号をお届けします。夏の会合の報告、夜間小集会の報告、総説 2 本、地学史研究会の報告 3 本、翻訳、INHIGEO の報告、追悼文と結構、ページ数が多くなり ました。鈴木尉元さんは地質学史懇話会の創設からのメンバーで、懇話会の屋台骨のよう な存在でした。鈴木さんの逝去でぽっかり穴が開いたような感じです。次号で、鈴木さん の追悼小特集を組んでみたいと思います。追悼文を事務局にお寄せいただけますよう、 お願い申し上げます。 (矢島道子) ― 63 ― 地質学史懇話会会報について この会報は,広義の「地質学史」に関する論考,資料など多くの情報を会員に提供し,研究の発 展に資することを目的とし,年 2 回(5月末,11 月末)発行される.投稿原稿はそのつど編集委員 会で審議される. 投 稿 規 程 1.会員は地質学史懇話会会報に投稿することができる.共著の場合には,著者の少なくとも一人 は会員であることが望ましい. 2.投稿原稿は地質学史およびそれに関連する論説,総説,解説,研究動向,書評(紹介) ,随想 などとする.投稿の際,そのいずれかの明示をする. 3.原稿の題名には必ず英文を,著者名にはローマ字名を付ける. 4.投稿原稿は,原則としてワープロの場合,図表を含めて A4 判(38 字×38 行)8 枚までとする. 5.図・表・写真のある場合は,そのまま印刷できる完成原稿のハードコピーが望ましい.文字原 稿のみの場合は電子メールでの投稿が望ましい. 6.投稿原稿の送付先は 矢島道子 〒113-0033 東京都文京区本郷 6-2-10-901 [email protected] 会田信行 〒287-0225 千葉県成田市吉岡 1085-5 [email protected] 7.編集委員会の責任において,原稿の再考をお願いすることもある. 会費納入方法 2001 年から,年会費が 2,000 円となりました. 年会費(会合案内,会報誌代等)未納の方は下記の口座にお振り込みください. 郵便振替口座 00170-1-670873 口座名称 地質学史懇話会 地質学史懇話会会報 第 41 号 発行日 2013 年 11 月 30 日 発行者:加藤碵一 編集者:矢島道子・会田信行・中陣隆夫 発行所:地質学史懇話会 〒113-0033 東京都文京区本郷 6-2-10-901 矢島道子気付 tel & fax 03-3812-7039 印刷所:よしみ工産株式会社 ⅲ ISSN 1345-7403 Japanese Association for the History of Geological Sciences JAHIGEO Bulletin,No. 41 November, 2013 Contents Announcements of the annual Tokyo meeting, 2013-----------i Reports of the summer Tokyo meeting, 2013------------------01 Reports of the autumn Sendai meeting, 2013------------------03 ARTICLES NAKAGAWA Tomomi: Lafcadio Hearn and Ichizo Hattori – Unacknowledged relationship found in the search of Lafcadio Hearn Library ----------------04 KANISAWA Satoshi: Places of poetical association and tsunami----------------------------12 EHIRO Masayuki: Distinctive geologic characteristics of the Kitakami Massif, Northeast Japan ----------------------------------------------------------------------20 HARA Ikuo: Further considerations on Isozaki et al.'s (2010) historical study of regional geology of Japan ----------------------------------------------------------27 FUKUKAWA Tomoko:The geography books to which K. Kume referred for editing “Bei-O Kairan Jikki”(PartⅥ, The volume on Switzerland)-------------------35 OSAWA Masumi: H. Schliemann's interest in the scientific studies on cultural properties------------------------------------------------------------------------------43 OMURA Yutaka: Seiichi Wajima's archaeological Studies--------------------------------46 OSAWA Masumi: Supplementary to the article on the Center for Volcanology, University of Oregon----------------------------------------------------------------48 TRANSLATION Wang Hongzhen, Xia Xiangrong and Tao Shilong:Geological knowledge in ancient China (prior to 1900) (translated by Nobuyuki AIDA and Masae OOMORI) ----------------------------------------------------------------------------50 REPORT YAJIMA Michiko: Reports of the INHIGEO Symposium, 2012, Mancheter ----------58 OBITUARY Taylor, Kenneth: Obituary to Yasumoto SUZUKI ------------------------------------------62 Membership-------------------------------------------------------------63 Editorial postscripts ---------------------------------------------------63 Instructions for authors ------------------------------------------------iii
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