■随想 ︵高 回︶ 林俊との出会いと著作 井原 修 ●林俊略歴 1913年飯田市知久町生 まれ。幼年は谷川の祖父母に育てられた。 下町、花街に詳しく市井の文学をつづっ た。飯田中学 回卒。大東文化学院在学 中、 日 本 プ ロ レ タ リ ア 作 家 同 盟 に 参 加。 太平洋戦争勃発と同時に検挙、投獄され、 出所後出征。戦後シベリアに 年間抑留。 著書に 『りんご並木』『けむり』 『人虫記』 『寺 の音』『白の影絵』などがある。 『黒馬』『橋』 同人。信州文芸誌協会顧問、日本文芸家 協会会員、日本ペンクラブ会員、新日本 文学会会員。2008年 月 日没。 5 30 4 俊と接することができた。 それから 余年、 25 歳に彼が死去するまでのおつきあいが始 50 林俊との出会いは幸福であった。彼との 出会いは私の社会復帰を完全なものとし た。飯田高校在学中突然倒れた私は、市内 の病院で入退院を繰り返していた。 仮退院し市内を歩いていた時、中央通り 丁目に古本屋を見つけた。南湖書林とい うしょうしゃな構えにひかれて店に入っ た。優しいにこやかな店主、伊坪さんが私 を迎えてくれた。私は何冊でも、今では著 名となった現代詩人の処女詩集を入手する ことができた。この上ない喜びであった。 「詩をやっているんですか。そうですか。 馬場町の メガネ屋さんへ行っ てみなさい。 文学の収穫があると思いますよ」 作家林俊の詩が、余技の域を出ているか どうかは、後世の評論家に任せるところで 以前にいくつかの文芸誌が出現している。 文芸同人誌『橋』もその一つである。私 がかかわった誌はそれだけであるが、それ を発散させた。うねりのようであった。 ら解き放たれた民衆は競って民主主義文化 化運動が始まっていた。軍国主義の抑圧か 林俊が永いシベリア生活から解放され日 本に戻った時、我が郷土飯田には多くの文 まった。長いようで短い期間だった。 96 18 伊坪さんのそのひとことで私は初めて林 ありし日の林俊 『群影』 出版記念会にて 群影 長野日報文芸叢書 2002 年 地域の文学 伊那毎日新聞社 1986 年 3 58 随想 あるが、昭和 年に出版された 年に処女出版された『人虫 記』から、最晩年の平成 『白の影絵終篇』の中には、全 て詩人林俊 の 感 性 が 存 在 し た。 私 が 作 家 林 俊 の 中 に、 詩人を見出したのは『橋』の冒頭に掲載さ れた短詩からであった。 橋 水あり 人をめぐりて流る 一つの橋を渡り さらに幾つかの橋を渡る この目に見 この指にふるる すべて いのちのある間のことである 私は幸い なことに文学という この『橋』 を渡った一人である。多くの友人がこの橋 が流れていることは、知られるところであ ろう。 またいつか、林俊の詩集について書いて みたい。林俊との友情は私のひとりとして の人格を確立させた。 私はささやかな詩集『林俊詩集・裏町文 庫版』を発刊した。林俊の往時を偲び彼の 霊に捧げたい。 ●いはら・おさむ 1947年飯田生まれ。純粋の 飯田っ子で飯田以外の土地を知 年前、林俊 らない。数々の職歴を持ち現在 古書籍業を営む。 資料を得意としている。 藤吾堂〟とし現在に至る。郷土 の命名により屋号を〝裏町文庫 31 を渡り去っていった。 林俊、没後 年、私の心もおだやかにな りつつある。今、後作の意志はないが、私 の書くものには林俊のセンチメンタリズム 59 林俊詩集 裏町文庫版 南信州新聞社出版局 2014 年 りんご並木 秀文社 1958 年 人虫記 前衛社 1970 年 白の影絵 終篇 風塔舎 2006 年 18 45 6
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