ジェイン・エア』の物語構造と「主の祈り

日本大学大学院総合社会情報研究科紀要 No.8, 411-422 (2007)
『ジェイン・エア』の物語構造と「主の祈り」
大野 房江
日本大学大学院総合社会情報研究科
The narrative structure of Jane Eyre and the Lord’s Prayer
ONO Fusae
Nihon University, Graduate School of Social and Cultural Studies
Jane Eyre has been analyzed from various viewpoints so far; however, it seems there were few
approaches from a Christian perspective. In my view, Christianity is an important factor in Jane Eyre,
that is, the narrative has something to do with the biblical structure. Indeed, the plot of the narrative
almost corresponds to not only the order of the Lord’s Prayer but also the contents of the Bible.
This paper is a study about the relationship between the Lord’s Prayer and the narrative structure of
Jane Eyre.
1. はじめに
道徳論に過ぎなくなっていたといわれるが、そのよ
1
『ジェイン・エア』(Jane Eyre, 1847 )は出版と同
うな時代にあって、
「ブロンテ姉妹の家庭での宗教生
時に、爆発的な人気を得て翌年一月に再版され、現
活は重要な意味をもっていた 4 」。加えて彼女にとっ
在まで名作として読み継がれている 2 。シャーロッ
て繰り返し読み、かつ教えられた聖書は内面化され
ト・ブロンテ(Charlotte Brontë, 1816-55)は経済的理由
た価値基準である。その聖書に記されたできごとは
で売れる本、いいかえれば三巻本として出版社に発
「字義どおりの歴史的意味と霊的意味との両方を持
行してもらえる本を目標に書いた。確かに語られた
つ 5 」との主張があるように、『ジェイン・エア』に
できごとを文字通り追うだけでも充分に楽しめる作
おいても霊的意味について解釈を試みることは可能
品である。これまで多種多様なアプローチで批評さ
であると考える。その理由として、第一に、語り手
3
れ解釈されている が、聖書との関連に言及したもの
ジェイン・エアは経験を経たジェイン、つまり過去
は、筆者が知るかぎりでは少ない。
の自分に対して、俯瞰できる立場で内省的に回想す
シャーロット・ブロンテの父パトリック・ブロンテ
るのであるが、その回想には、物語の結末の契機を
(Patrick Brontë, 1777-1861)は、ケンブリッジ大学出身
内在させる構成、技法において聖書に依存したキリ
の英国国教会の牧師であった。パトリックはジョ
スト教徒としての思考様式が一貫して流れている。
ン・ウェスレー(John Wesley, 1703-1791)のメソジスト
第二に、シンボリズム(symbolism)という方法が一部
派の教義と英国国教会内の福音主義の影響を受けた
に用いられていて、登場人物や地名、事物にある一
牧師である。十八世紀末から十九世紀初頭の英国国
定の性質や意味をこめている。一例をあげれば、エ
教会が信仰的には形式的とされ、礼拝説教が陳腐な
ア“Eyre”はair/εər/の響きが聞き取れる。“air”には「創
造的息吹で無限・天国・魂などを象徴する 6 」語のイ
1
本稿において作品からの引用は、Bronë, Charlotte. Richard, J.
Dunn. Jane Eyre, 1848. An Authoritative Text, Contexts, Criticism
third edition, 2001 (Norton Critical Editions)を用い、引用箇所は
括弧内に略語と引用ページ(JE, p. )を示す。
2
『ブロンテ姉妹小事典』内田能嗣編、研究社出版、1998 年、
p.ⅲ。
3
同上 pp.124 -141。
4
Thormahlen, Marianne. The Bronës and Religion Cambridge
University Press, 2004, p.15.
5
『聖書:その構造・解釈・翻訳』S・プリケット、R・バー
ンズ、小野功生訳、新教出版社、1993 年、p.151。
6
“air”『ジーニアス英和辞典 第 4 版』2007 年、大修館書店。
『ジェイン・エア』の物語構造と「主の祈り」
メージがある。“fairy”は、ジェインが窓に映った自
すると、
「古くから、人びとは主の祈りの順序を二つ
らの姿を見間違えただけでなく、ロチェスターのジ
の部分に分けた 9 」。「天にまします我らの父よ」とい
ェイン・エアに対する呼び名でもある。その“fairy”
う呼びかけに続く「御心を天におけるごとく、地にも
には超自然的な魔力をもつ女性で「神意」という意味
行わしめたまえ」までの三つの祈りは「神の事柄」に
7
『英国国教会 祈祷書』(The Book of
がある 。第三に、
関する祈りである。すなわち、神のみ名があがめら
Common Prayer, 1662)の教会暦による諸聖徒日、降誕
れ、神の支配と御心が実現するようにという祈願で
節(降誕日)、聖誕祭、復活節、6 月 24 日洗礼者聖ヨ
ある。
ハネ誕生日(St. John’s Day)によって物語は展開する。
後半の三つの祈り「我らの日用の糧を今日もあた
第四に、主要人物のジェイン・エアやヘレン・バーン
えたまえ」から「悪より救いいだしたまえ」は、「人間
ズ(Helen Burns)、エドワード・フェアファックス・
の事柄」に関する祈りで、パンや罪のゆるしや神の守
ロチェスター(Edward Fairfax Rochester)、セント・ジ
りのように、現実の広い世界で人間が必要とするも
ョン・リヴァーズ(Mr. St. John Rivers) の経験は、
「主
のにかかわる祈りである。後半の祈りが必要な人間
の祈り」(The Lord’s Prayer) が下敷きになっている。
の現実は、
「放蕩息子の譬え」に示されるように、ひ
本稿では上記のうち、
「主の祈り」に着目し、作品
とが父から離れ「遠いところ」、すなわち父がいない
としか思えないところに住んでいるからである。そ
の解釈を試みる。
れゆえに聖なる神の支配がこの世に全的に実現する
2. 「主の祈り」の構造
ことを願い、神自身の力によって神の約束が果され
8
本論に入る前に「主の祈り 」の全体の構造を概観
ることを待ち望むという祈りである。このように祈
り、生きる者がこの世で生きながらえるためにはパ
ンが必要であることは言うまでもない。従って「主の
“Eyre”と語源的には関係ないが、音の響きによって連想でき
る。「祈り」の“prayer”/prεər/にもある。さらに綴り字はロチ
ェスターにも“air”(Fairfax)が含まれる。“Eyre は発音/εər/
よって“fairy”と“Fairfax”に含まれ魂や霊的な世界のイメージ
を創りだす。ジェイン・エアは、“air”と“fairy”の結びつきから
「神の定めを知る霊」という意味を含みもつといえよう。
7
「fairy と fate とは二重語である。Fate はラテン語の fari, fatus
から派生したラテン語 fatum(神意・運命)が語源である」
(梅田修『英語の語源事典』1991 年、大修館書店、p.120)
8
「新約聖書」マタイ傳 6 章 9 節「この故に汝らは斯く祈れ」
とイエス・キリストが教えたことによる。
「主の祈り」は『英
国国教会 祈祷書』に含まれる。
祈り」は、人間にとって真に必要な事柄のすべてを含
んでいる 10 。
3. 『ジェイン・エア』の物語構成と「主の祈り」
ジェイン・エアやロチェスターなど主要登場人物
は、互いに出あうことにより信仰の世界に導かれる。
それぞれの旅(人生)に「主の祈り」が結び合わさ
れていることを以下で論証していく。
‘The Lord’s Prayer’
Our Father, which art in heaven,
Hallowed by thy Name.
Thy kingdom come.
Thy will be done, in earth as it is in heaven.
Give us this day our daily bread.
And forgive us our trespasses,
As we for give them that trespass against us.
And lead us not into temptation;
But deliver us from evil: For thine is the kingdom,
The power, and the glory, For ever and ever. Amen.
「主の祈り」訳文は『日本聖公会 祈祷書』
(1959 年)を使用
する。ただし、「主の祈り」における最後の頌栄はシャーロッ
ト・ブロンテが用いた『英国国教会 祈祷書』 (The Book of
Common Prayer, 1662 )にあるが、『日本聖公会 祈祷書』の
1959 年版(文語)にはないので、同書の 2004 年改訂版の頌栄
を訳文として用いる。
「主の祈り」
天にまします我らの父よ、
願わくは御名を聖となさしめたまえ。御国をきたらしめたま
え。
御心を天におけるごとく、地にも行わしめたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し
たまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン
9
福田正俊『主の祈り』日本キリスト教団出版局、1979 年、
p.21。
10
「主の祈り」の項は、前掲書、福田正俊『主の祈り』を参考
にまとめる。
412
大野
房江
3.1 天にまします我らの父よ(Our Father, which art
よって、自分の人生が誤った方向へ押しやられたと
in heaven,)
ジェインに告白する。
「主の祈り」のなかで、最初に神に対し呼びかける
ことばである。我らの父すなわち神とは一人の人間
I started, or rather (for, like other defaulters, I like
の神ではなく、今はまだ祈ることができない無数の
to lay half the blame on ill fortune and adverse
人々の神であり、それらの人々をも含めて「我らの
circumstances) was thrust on to a wrong tack at the
父よ」と呼びかける。この神は人格的な存在であり、
age of one-and-twenty,….( JE, p.115)
悟りや瞑想により霊的交渉をもつ神ではない。神に
語りかける対話形式の祈りによって信仰は深まる。
ただし、その責任を自ら引き受けることなく半ば
「天にまします」ということばは、超越性を指し示
不運と逆境のせいにする。バーサが、ロチェスター
す。神がその呼びかけに応えるのは、ひとの能力や
に媚を売り嬌態や才芸をみせつけたことや、彼が遊
資格にではなく、人間の存在そのものに対してであ
び仲間の計略に乗せられて結婚したからである。
11
る 。
All the men in her circle seemed to admire her and
envy me. I was dazzled, stimulated: my senses were
ジャマイカ(Jamaica)のロチェスター
物語を時系列に再構成すると、始まりはジェイン
excited; and being ignorant, raw, and inexperienced,
が生まれる前、ロチェスターがいた西インド諸島の
…. There is no folly so besotted that the idiotic
生活からとなる。ジャマイカとは「泉の島」の意味を
rivalries of society, the prurience, the rashness, the
12
もつ とおり、綠がゆたかな熱帯雨林の島である。
blindness of youth, will not hurry a man to its
泉は井戸と同時に、「いのちの水」や「いのちの水の川
commission. ( JE, p.260)
13
」、「いのちの木」を連想させる。「いのちの木のイ
メージには楽園の暗示がある 14 」。「ヨハネの黙示録」
悪だくみにはまったことに気づいたのは結婚後で
だけでなく「創世記」の楽園を思い起こさせる地であ
ある。彼は兄と父が相次いで亡くなったので、26 歳
る。ロチェスターは、‘All right then; limpid, salubrious:
のときに発狂した妻バーサを連れてソーンフィール
no gush of bilge water had turned it to fetid puddle. I was
ドに帰ってくる。しかし、妻の性格が邪悪だっただ
your equal at eighteen ―quite your equal.’( JE, p.116)
けでなく、その後精神状態も悪化したため 10 年間、
と言う。十八歳まで住んでいたソーンフィールド
自宅の「野獣の檻」に監禁する。その結果なぜわた
(Thornfield Hall)での生活は清らかで健康的だったと
しがこの気が狂った女性と一緒なのかと、わが身の
いう。それはジェインに対する告白だけでなく、ソ
苦難を嘆く日々となり“This life,” said I at last, “is
ーンフィールドの館で働く下僕の証言もある。彼は
hell! this is the air ― those are the sounds of the
18 歳から 26 歳まで南の西インド諸島ジャマイカに
bottomless pit!” (JE, p.262) と、その暮らしは地獄さ
住みバーサ・アンティオネッタ・メイスン(Bertha
ながらだといわざるをえない。わが身の苦難を神に
Antoinetta Mason)と結婚した。バーサはロチェスタ
呪い恨まなければおさまらないロチェスターである。
ーの好みの美人であったが、大柄で色も黒く高潔な
「ヨブ記」ではヨブが、「義人のわたしがなぜ」と問う
感情とは無縁な女性である。彼はバーサとの結婚に
が、同じように悲惨な人生を引き受けざるを得ない
人物としてロチェスターは登場する。ロチェスター
の苦難と心理的な疎外と絶望と怒りにあふれたうめ
11
福田正俊『主の祈り』日本キリスト教団出版局、1979 年、
p.43。からまとめる。
きは、自分を超えた大いなる存在すなわち超越的絶
12
『世界地名ルーツ辞典』牧秀夫編著、創拓社、1990 年、p.248。
対者への問いかけ、つまり呼びかけである。
13
「ヨハネの黙示録」22 章1節。
14
リーランド・ライケン『聖書の文学』すぐ書房、1990 年、
p.537。
413
『ジェイン・エア』の物語構造と「主の祈り」
ゲイツヘッド(Gateshead Hall)のジェイン・エア
ある。物語はそのような季節から語られて、ジェイ
ジェイン・エアの両親が結婚するのは、ロチェス
ンのこれからの人生の厳しさを想像させる。幼いジ
ターとバーサが結婚する五年前である。ジェイン・
ェインは弱さゆえに死の世界にあこがれる。彼女の
エアの父が貧しい牧師なので、母方の祖父リード
慰めは本を読むことで、トマス・ビュウィック
(Reed)は、身分違いの結婚に反対する。言いつけに
(Thomas Bewick)の『英国鳥禽史』(The History of the
背いた二人は家族や友人から見離される。結婚して
British Birds, 1797)の北の海や墓の絵を夢中になって
一年目、ジェイン・エアが生まれてまもなく両親は
見る。神に喩えられる太陽の光を照り返すのが月で
感染症のチフスで相次いで亡くなる。生まれたばか
あるが、ジェインが見た月は、彼女のこころを映し
りのジェインは慈善施設に預けられたが、慈善施設
て凍るような青白い月である。
はみなし子のジェイン・エアを母方の親戚に連れて
バーサと同じように、ジェインもジョン・リード
行く。その家が、伯父リード(Uncle Reed)のゲイツヘ
(John Reed)によっていじめられ酷い目にあっていた。
ッド館(Gateshead Hall)である。ゲイツヘッドのゲイ
‘He bullied and punished me; not two or three times in
15
ツ(gate)は他の場所への通過点の門である 。ジェイ
the week, nor once or twice in the day, but continually.’
ンにとって究極の門は天の門である。ヘッド(head)
(JE, p.8)。ジェインのあらゆる神経は十四歳のジョ
とは高い頂、つまり希望のように聳え立つ山の高い
ン・リードを怖れている。リード家の家族からいつ
頂は目指す方向を暗示する。ジェインが天の門を目
ものけ者にされる。バーサとロチェスターの争いの
指して旅立つのがこのゲイツヘッドである。ロチェ
ように、ジェインもジョンといつも闘っている。十
スターが発狂した妻バーサを連れてソーンフィール
歳のときの 11 月に、彼女は反抗して‘You are like a
ドに帰って、妻を屋敷内に幽閉していたその頃、ジ
murderer ― you are like a slave-driver ― you are like
ェインはゲイツヘッドに引き取られて十年になろう
the Roman emperors!’ 16 (JE, p.8) と言った。ジョンは
としていた。両親の死後、ゲイツヘッドのリード家
怒ってジェインに飛び掛った。ジェインは頭から血
に預けられ反抗的な子どもとして成長する。伯母や
を流し、狂ったようにジョンにつかみ掛った。そこ
従兄妹たちにいじめられ、愛されたいと願っても誰
にリード夫人(Mrs. Reed)が使用人を従えて現れる。
からも相手にされなかった。物語は冒頭から、散歩
をする日課が苦痛なほど、弱々しく体力や気力もな
Did ever anybody see such a picture of passion!
いさびしいジェイン・エアであることを伝える。
Then Mrs. Reed subjoined: ― Take her away to
the red-room, and lock her in there. Four hands
There was no possibility of taking a walk that day.
were immediately laid upon me, and I was borne
We had been wandering, indeed, in the leafless
upstairs. (JE, p.9)
shrubbery an hour in the morning; … the cold
winter wind had brought with it clouds so sombre,
ジェインは抵抗したが、リード夫人がジェインを
and a rain so penetrating, that further outdoor
赤い部屋に連れて行き、そしてかぎをかけるよう、
exercise was now out of the question.(JE, p.5)
使用人に命じたので部屋に閉じ込められる。「赤い部
屋」でジェインは幽霊をみる。恐怖で泣きわめいたが
厳しく寒い冬がはじまる11月1日は、古代ケルト
出してもらえず気を失う。「赤い部屋」には亡くなっ
の暦では年の初めの日で、諸聖徒日(All Saints)でも
たリード伯父が使用した寝台があり、それは幕屋
ある。その翌日、2日は諸魂日(All Souls)で、『英国
国教会 祈祷書』の教会暦では死者の霊が帰るころで
16
「ヨハネの黙示録」にローマ皇帝の権力を象徴する獣がい
る。その獣はキリスト教徒を弾圧する皇帝ネロの残虐さを告
発するものである(『キリスト教シンボル事典』p.62)が、ジ
ェインを虐めネロに喩えられるジョン・リードはネロと同じ
ように自死する。
15
フイエ,ミッシェル『キリスト教シンボル事典』武藤剛史
訳、白水社、2006 年、p.171。
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大野
(tabernacle)のようにジェインには見える。赤色は象
房江
りにあふれている。このときのジェインやロチェス
17
徴的に流された血と結びつく 。そこでジェインは
ターは「新約聖書」の福音、つまり「よき知らせ・
自らを「身代わりの山羊」と言い、これが異質なも
よき音ずれ」という人間に与えられた神の恵みを知
のに対する仕打ちであったことに気がつく。このよ
らない。ただ、誰かが自分を助けてくれるはずと信
うに誰一人頼る人がいない孤独なジェインであるが、
じて願っている。ひとりぼっちで「一人の我」という
幼い日に亡くなったリード伯父が自分を助けに来て
わが身の存在を自覚することによって、この世にな
くれると希望をもっている。死の誘惑にもかられる
い大いなる存在に向かって呼びかけることを知る。
が自分の魂がまだその準備ができていないと気づく。
そのときに超越者である神に対して初めて、「天にま
ジェインは、自分を救い出すものはこの世にはいな
します我らの父よ(Our Father, which art in heaven,)」
いと思う。別の世界の超越者にこころを向ける。そ
と呼びかけることになる。苦悩はふたりにとって、
のジェインの呼びかけに応えてリード伯父は霊とな
大いなる存在に呼びかけるきっかけとなり、初めの
って、彼女を新しい世界に導くかのように現れる。
一歩を踏み出す。すなわち、ふたりは「苦悩によっ
て神の世界にひきこまれた 19 」のである。そしてジ
‘Something passed her, all dressed in white, and
ェインには新しい世界、つまりローウッド女学院
vanished ― ‘A great black dog behind him’ ―
(Lowood Institution)へと旅立つきっかけとなる。
‘Three loud raps on the chamber door’― ‘A light
in the churchyard just over his grave’ (JE, p.16)
3.2 願わくは御名を聖となさしめたまえ。御国をき
た ら し め た ま え 。( Hallowed by thy Name. Thy
ジェインの願いと祈りはリード伯父に届いた。リ
kingdom come.)
18
ード伯父の霊が万聖節に帰って扉を叩いた 。ジェ
この祈りは「聖なる神よ、われわれの間で神とな
インは死んだ伯父の霊が訪ねてきたことをベッシー
ってください」ということを意味する 20 。ローウッ
たち使用人の語る話から確信する。この幻は彼女を
ド女学院(Lowood Institution)の生活においては、
悲惨な生活から別の世界に旅立たせるきっかけとな
ヘレンやテンプル先生たちの語ったことばや行いが
る。目がさめたとき、ジェインはベッドに寝かされ
ジェインにとっての「信仰」の問題として、中心的役
ていた。ロイド(Mr. Lloyd)薬剤師がそばにきている。
割を担っている。
ロイドにジェインは自分の境遇を語り、ゲイツヘッ
ブロクルハースト(Mr. Brocklehurst)の恐怖
ドを出て学校に入りたいという希望を自ら伝える。
ジェインは、孤児で誰からも好かれない反抗的な
ローウッドは陰鬱で陰湿な「低地の森」をあらわ
少女である。体力的に非力な人間にとって、力が支
す。ジェインをもてあましたリード夫人は、ロイド
配する世界に対抗するためには理性や正義といった
氏の薦めもあってローウッド女学院という孤児のた
ものしかない。しかし弱い立場でいじめられ、どれ
めの慈善寄宿学校に入れる。ジェインは、1 月 19 日
だけ抵抗してもかなわないリード家の従兄妹たちを
朝、5 時に起きて 6 時に門の前を通る馬車に一人乗
前にして、それらは無に等しいのだから、その絶望
る。朝は清浄と希望のときである。慈善寄宿学校は
感ははかりしれない。
高い塀で囲まれている。つまり向こう側を見通すこ
とができない障壁によってさえぎられた空間である。
ゲイツヘッドのジェインもジャマイカのロチェス
ローウッド女学院はジェインが望んで入った学校で
ターと同じように、苦難と心理的な疎外と絶望と怒
あるが、個人の判断や思想を認めない宗教カルトの
17
ミッシェル・フイエ、『キリスト教シンボル事典』武藤剛
史訳、白水社、2006 年、p. 74。
18
『新約聖書』
(文語改訳)
「ヨハネの黙示録」3 章 20 節には
「視よ、われ戸の外に立ちて叩く」とあるので、いずれ主が現
れ祈りがきかれることを思いあわせて読める。
19
ライケン,リーランド『聖書の文学』すぐ書房、1990 年、
p.162。
20
福田正俊『主の祈り』日本キリスト教団出版局、1979 年、
p.66。
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『ジェイン・エア』の物語構造と「主の祈り」
ような教育がなされている。ローウッド女学院のブ
きっかけはヘレンが読んでいた『ラセラス』(The
ロクルハーストは子供たちの行動や感情を恐怖心に
History of Rasselas, Prince of Abissinia, 1759)という本
よって支配したが、ジェインやテンプル先生(Miss
で あ る 。 ジ ェ イ ン が 声 を か け る 。 ‘Is your book
Temple)たちは個人としての尊厳を貫いて闘う。
interesting?’(JE, p.42)。何しろ本が大好きなジェイン
ある日、ブロクルハーストは死後の世界をジェイ
である。互いの読書好きに共感してヘレンというす
ンに問う。
ばらしい友達を得る。ブロクルハーストのもとで過
酷な生活を強いられてもヘレンは従順であり、ジェ
No sight so sad as that of a naughty child, he began,
インと違って反抗することはない。ゲイツヘッドの
especially a naughty little girl. Do you know where
ジェインと対照的である。ヘレンは人の命がはかな
the wicked go after death? They go to hell, was my
いものであり、死は幸福への門であり栄光への門で
ready and orthodox answer. And what is hell? Can
あると、ジェインに語る。彼女から見れば、ジェイ
you tell me that ? (JE, p.27)
ンは、人間の愛に捉われているということになる。
ヘレンはこの眼前の世界の他に目に見えない世界、
「地獄へ行きます」とジェインは答える。ジェイン
つまり霊の世界があると教える。ジェインたちの周
に対して、ブロクルハーストは不安や恐怖心をあお
りには、ジェインたちを守るように神さまから命じ
る。しかしジェインは負けていない。‘What must you
られた天の使いが至るところにいる。さらにジェイ
do to avoid it?’(JE, p.27)という質問に、ジェインは‘I
ンの身体をつくりそこに命を吹き込んだ神さまがい
deliberated a moment; my answer, when it did come, was
て、ジェインも含めて他の弱い人々が頼れる存在で
objectionable: I must keep in good health, and not die.’
あるという。ジェインはヘレンのことばに素直に耳
(JE, p.27)。彼女は健康を保ち、死なないようにし
を傾ける。ジェインに信仰心を芽生えさせたのはブ
ますと答える。すなわち彼の質問によって、ジェイ
ロクルハーストの地獄の恐怖でなくヘレンの信仰で
ンの信仰がどのようなものであったか明らかになる。
ある。
彼女はまだ福音や天国や霊的な世界について知らな
ヘレンは、ローウッド女学院の石の門標に刻まれ
い。朝晩お祈りをしているか、聖書を読んでいるか
た聖句に疑問をもつジェインに教える。‘Let your
と訊ねられる。‘Do you say your prayers night and
light so shine before men that they may see your good
morning?’ continued my interrogator.’ … ‘Do you read
works, and glorify your Father which is in heaven.’- St.
your Bible? (JE, p.27)。しかし彼女は、時どきしか聖
Matt. v. 16.(JE, p.41)。「かくのごとく汝らの光を人
書を読んでいない。‘With pleasure ?
の前にかがやかせ。これ人の汝らが善き行為を見て、
Are you fond of
it?’(JE, p.27)と訊ねられて、聖書のなかで好きな個所
天にいます汝らの父を崇めんが為なり 21 」。しかしジ
を答える。‘I like Revelations, and the book of Daniel,
ェインはこの聖句に疑問を抱く、この聖句とローウ
and Genesis and Samuel, and a little bit of Exodus, and
ッド女学院がどう結びつくのか分からない。粗末な
some parts of Kings and Chronicles, and Job and
食事に対して感謝の祈りをせよといい、過酷な生活
Jonah.’(JE,p.27)。ジェインが好きだと答えたのは「ヨ
を強いる学院である。この慈善寄宿学校は前述の聖
ハネの黙示録」、「ダニエル書」と「創世記」と「サ
句とはかけはなれている。この聖句の本来の意味は
ムエル記」、
「出エジプト記」の一部、
「列王記」と「歴
「自分自身を世の光として、周囲の人々によい影響
代誌」、「ヨブ記」と「ヨナ書」のところどころであ
を及ぼすようによい行いをしなさい。そうすれば、
る。ブロクルハーストがどれほど恐怖心をあおって
神も人も評価するだろう。自分自身の行いを誇るこ
も、ジェインに信仰心が芽生えることはない。
とがないように、栄光は神様に返しなさい」という
ヘレン・バーンズ(Helen Burns)の信仰
21
『新約聖書』(文語改訳)日本聖書協会、1917 年、「マタ
イ傅」5 章 16 節。
ジェインの人生を変えたヘレン・バーンズと話す
416
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ことである。それはちょうどヘレンのことである。
だという。ヘレンは天の御国を信じ、神様は正しい
彼女は自らを誇ることはなく成し得たのは神様のお
方だと信じている。‘I am sure there is a future state; I
導きであると、神様に感謝しつつ短い生涯を終えた。
believe God is good;’( JE, p.69)という。ヘレンのこと
「願わくは御名を聖となさしめたまえ。御国をきた
ばでいえば、死とは少し先に眠りについているだけ
らしめたまえ」はヘレンの短い生涯の有り様である。
である。ジェインはヘレンを光の子と言い、こころ
の中に、内に潜んでいるものを燃え上がらせ、魂を
3.3 御心を天におけるごとく、地にも行わしめたま
語る少女だと感じる。心の底から「御心を天における
え(Thy will be done, in earth as it is in heaven.)
ごとく、地にも行わしめたまえ」と、祈れるようにし
最初、嘘や偽善という悪がジェインを取り囲んで
たのは、ヘレンの証言によるものである。ヘレンの
いたが、ヘレンやテンプル先生に導かれて、彼女は
魂はジェインの母と同じように、いつもジェインに
精神的にも調和のとれた女性へと成長し、神の約束
寄り添うようにいて、ジェインの旅における人生の
を信じ、神がどのような存在かを知ることになる。
選択を誤りなく導くという重要な存在である。
ヘレン・バーンズの死
3.4 我らの日用の糧を今日もあたえたまえ(Give us
ヘレン・バーンズの「神を信頼し生きることに対
this day our daily bread.)
前述したとおり、「天にまします我らの父よ」とい
して悪意や恨みを持たない最期は、ジェインの信仰
22
的な将来を決定するとき 」になる。
う呼びかけにつづく「願わくは御名を聖となさしめ
たまえ。御国をきたらしめたまえ」、そして「御心を
They woke, they kindled: first, they glowed in the
天におけるごとく、地にも行わしめたまえ」までの三
bright tint of her cheek, which till this hour I had
つの祈りは「神の事柄」に関する祈りである。すなわ
never seen but pale and bloodless; then they shone
ち、神のみ名があがめられ、神の支配とみ心が実現
in the liquid lustre of her eyes, which had suddenly
するようにという祈願である。後半の三つの祈りは
acquired a beauty more singular than that of Miss
「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」からとなるが、
Temple's ― a beauty neither of fine colour nor
今度は「人間の事柄」に関する祈りで、パンや罪の赦
long eyelash, nor pencilled brow, but of meaning, of
しや神の守りのように、人間が必要とするものにか
movement, of radiance. Then her soul sat on her
かわる祈りである。言いかえれば、ヘレンやテンプ
lips, and language flowed, from what source I
ル先生によって導かれたジェインにとっても、信仰
cannot tell. (JE, p.62)
の実践編になる祈りである。十代で亡くなったヘレ
ンは悪に染まることもなく、天国に行くことが約束
いつも青白く血の気のなかったヘレンの頬は赤味
される。しかしジェインは、これからさまざまな試
として照り映え、ついで彼女の目はきらきらした輝
練に遭遇する。ロチェスターも十八歳までは、清ら
きとなり、その目は突然にテンプル先生のそれより
かだったと告白するように、生きることは悪に染ま
はるかにふしぎな美しさを示すようになる。彼女の
ることとの闘いであるという人間の現実がこれから
魂はその唇に宿り、ことばはどこからともなくほと
示される。
ばしり出る。彼女は臨終の際、肉体を離れた霊魂は
平等であるということばを残す。またそのとき、ヘ
ソーンフィールド(Thornfield Hall)への旅立ち
レンは安らかなそして清らかな青白い顔で ‘Yes; to
ジェインは妖精の知らせ、すなわちヘレンが語っ
my long home ― my last home.’(JE, p.69)。へレンは
た天の使いで、ジェインを守るように神に命じられ
わたしの永遠の家へ……わたしの最期の家へ帰るの
ている霊によって、新聞に広告を出すという方法を
教えられる。ジェインは新しい職を求める準備をす
22
Thormahlen, Marianne. The Bronës and Religion Cambridge
University Press, 2004, p.61.
る。人はパンを得るために働かねばならない。それ
417
『ジェイン・エア』の物語構造と「主の祈り」
ゆえ彼女も日用の糧を得るためにガヴァネスになる
ルヴィン主義者のセント・ジョン・リヴァーズ(Mr.
ことを決意する。ジェインは職業に対する引け目は
St. John Rivers)にであう。ジェインは彼との対話を
ない。なぜなら、ヘレンによって肉体を離れた霊魂
通して、霊的あるいは精神的な日々の糧は満たされ
は平等であると教えられ、神のもとの平等を信じて
たかのようである。しかし彼の説教に不安を抱く。
いるからである。
This grew to force ― compressed, condensed,
controlled. The heart was thrilled, the mind
第 1 日目と脱出の日
ソーンフィールドに到着した最初の日、夕べの祈
astonished, by the power of the preacher: neither
りにおいて、ジェインが感謝の祈りをささげたこと
were softened. Throughout there was a strange
に着目したい。そこでフェアファックス夫人(Mrs.
bitterness; an absence of consolatory gentleness;
Fairfax)による先行する恵みに出会う。それまでの孤
stern allusions to Calvinistic doctrines ― election,
児としての生い立ちからは、想像できなかったほど
predestination, reprobation ― were frequent; and
の無条件の好意をうける。
each reference to these points sounded like a
sentence pronounced for doom. (JE, p.300)
新しい環境のもと、不安と期待のなかで身構えて
いたジェインであったが、イングラム嬢(Blanche
Ingram)と婚約するかに見せつけるロチェスターに
聴衆は、セント・ジョンの説教の力強さにおのの
対し、彼女は昂然と神のもとの平等を主張して反撃
き、心は驚きに満たされたがいずれも平安はない。
する。すなわち、貧しく名もなく醜い小さな存在だ
不思議な痛烈さが漂うからである。カルヴィンの教
からといって魂も心もないものとお考えですか、と
義 ― 神の選び、予定、劫罰 ― をたびたび引用す
怒りをあらわにする。そして、もしそうなら思い違
るので、人の心を慰めるやさしさに欠けていた。厳
いをしている。ジェインにだってやはり魂があると
格で禁欲的なセント・ジョンの考え方に、ジェイン
いう。しかし、バーサの存在を知りソーンフィール
も聴衆と同じようにわが身を振り返る。ロチェスタ
ドを去ることになるが、それは人間として神の前で
ーも含めて自分の救済を保証する信仰を彼女は必死
正しく生きるという選択の結果であり、
「魂」を失わ
に求めている。しかし自分が根深い罪人であるため
ずに済んだ。しかしそれによってパンという「日ご
に、救済されるようには運命づけられておらず、神
との糧」を失うことになる。
から見捨てられることが予め定められているなら、
このようなわが身の人生における苦闘はすでに無意
ムーア・ハウス(Moor House)の安らぎと不安
味となる。ジェインはその深い渕を覗き見たような
恐怖にさらされる。心の糧、あるいは魂の糧を求め
ソーンフィールドを去りジェインがたどり着いた
23
のは、荒野の家あるいは避難所 で聖書の「出エジプ
るジェインの心に安らぎはない。
ト記」の荒野を想起させるムーア・ハウスである。
その一方、降臨節が近づいたころ、彼女にもたら
ジェインは正しいことをしようという強い意思の
された贈り物は、思いがけない伯父の遺産2万ポン
もとに、ソーンフィールドの屋敷を出て馬車に乗る。
ドだった。つまり充分過ぎるほどの日用の糧が与え
馬車代を払い所持金が無くなったので、食を乞いイ
られた。救い主イエス・キリストを待ち望むときに、
ナゴ豆という豚の餌を食べながら荒野をさまよう。
彼女がずっと待ち続けたことがかなう。赤い部屋で
行き倒れて死にそうになって小さな家にたどり着い
幽霊を恐れ、亡くなった肉親が助けにきてくれるこ
く。その家では、本名を明かすことなく村の学校の
とを願っていたのは十歳の時である。さらにセン
教師としての職が見つかり、平安な日々を送ること
ト・ジョンはジェインの本名が明らかになったとき、
ができた。ここでロチェスターと正反対の性格でカ
彼女が長い間行方知れずの従兄妹であり、ワイン商
人の叔父の相続人であることを知る。その遺産によ
って彼女は経済的に自立する。プレゼントは遺産だ
23
『ブロンテ研究』開文社出版、1989 年、p.69 注記。
418
大野
房江
けではない。孤独でさびしいジェインには従兄妹と
judged! Off with you now.’(JE, p.251 )。確かにひとは
いう心強い血縁のひとびとが与えられる。
人を裁くことはできない。このロチェスターのこと
ばは「マタイ傳」7章 1-2 節の、
「なんぢら人を審くな、
3.5 我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我ら
審かれざらん為なり。己がさばく審判にて己もさば
の罪をも赦したまえ。
(And forgive us our trespasses,
かれ、己がはかる量りにて己も量らるべし」を踏ま
As we forgive them that trespass against us.)
えている。何も知らせず、そして親戚がいないこと
前の祈り‘Give us this day our daily bread.’というパ
を確認して結婚を申し込むロチェスターの卑劣な行
ンに関する祈りとの間に、“And”が挿入される。人
いは許されない。しかし、ロチェスターの罪はジェ
がパンなしに生きることができないように、人はこ
インに対する偽りが問題ではなく、神に対する「罪
の祈りなしには生きられないことを表している。
の負い目」である。ロチェスターの生活、言いかえ
れば神も神の意思もないかのように生きている生活
そのものが罪なのである。
リード夫人へのゆるし
かつて、ヘレンはジェインに人をゆるすことの大
‘And forgive us our trespasses, As we forgive them
切さを話した。ジェインが感じたとおりにリード夫
that trespass against us.’この祈りは「わたしたちの負
人への憎しみを激しく語ると、ヘレンは答えに窮し
債(おいめ)のある者をゆるしましたように、わた
ながらも自分の信仰をジェインに話す。
したちの負債をもおゆるしください」と訳される。
この「負債とは罪の負債を意味することで罪責 25 」
I can so clearly distinguish between the criminal
である。罪とは道を誤ること、法則に反することで
and his crime; I can so sincerely forgive the first
あるのに対して、罪責の場合には、その背後に横た
while I abhor the last: with this creed revenge never
わる人格的な関係が強く表れて来る。
『聖書』による
worries my heart, degradation never too deeply
本来の意味は「善意や信頼をもって何かを神から委
disgusts me, injustice never crushes me too low: I
託された場合その信託に背くということ、すなわち
live in calm, looking to the end. (JE, pp.49-50)
神の具体的な委託や命令に背くことである 26 」。ジェ
インは、リード夫人には「ゆるします」というが、
ヘレンは、罪を憎みながらも罪を犯した人を心から
ロチェスターには直接に「ゆるす」ということばは
赦すことができると語る。この信条があるから、復
ない。それは、赦しというより回心して、悔い改め
讐の念で心を悩ますこともないし、不当な仕打ちに
たロチェスターに対する喜びの方が大きかったから
ひどく打ちのめされることもないという。リード夫
である。すなわち『聖書』や「主の祈り」の中心的
人の臨終に立ち会ったときには、リード伯母の酷い
な主題〔「放蕩息子」のたとえ〕が背後にあるといえ
仕打ちをすべて赦しソーンフィールドに帰る。
「ヘレ
よう。その聖書箇所は「ルカによる福音書」15 章
ンの死の床の記憶は、ジェインの十分に惜しみない
11-32 節である。リーランド・ライケンは『聖書の
24
ゆるしをほどこすことに役立った 」。
文学』のなかで、
「〔「放蕩息子」のたとえ〕というい
ささか誤解を与える題で一般によく知られているが、
ロチェスターへのゆるし
…… 悔い改めた罪人を迎え入れる神の喜びがテー
ロチェスターは、ジェインを罠にかけて重婚の罪
マであり「許す父の譬え」と解釈する方が明快であ
を犯そうとする。妻がいることが明るみになったと
る 27 」と述べている。ジェインの赦しもこの譬えの
き、かれは弁護士と牧師に向かっていう。‘ … then
ように、神(父)から遠く離れて神がいないところ
judge me, priest of the gospel and man of the law, and
remember, with what judgment ye judge ye shall be
25
『福田正俊著作集Ⅲ』新教出版社、1994 年、p.92。
同上、p.93。
27
リーランド・ライケン『聖書の文学』すぐ書房、1990 年、
p.466。
26
24
Thormahlen, Marianne. 2004, p.61。
419
『ジェイン・エア』の物語構造と「主の祈り」
に住んでいるロチェスター、つまりここでは罪の中
って償いができると信じてセリーヌの娘・アデール
にいるロチェスターを迎え入れる喜び、という赦し
(Adela Varens)を養女にするが、心に平安が与えられ
が表される。リード夫人に対するのとは違う罪の「ゆ
ることはない。彼の愛人たちが住むヨーロッパは語
るし」がある。赦す神のよろこびを、神の定めを知る
源と同じように、彼には闇であり悪の世界である。
霊であるジェイン・エアが現実に倣ってみせる。
ソーンフィールドのジェイン・エア
3.6.
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたま
ロチェスターはジェインに告白させようとイング
え(And lead us not into temptation; But deliver us
ラム嬢と婚約するかのように企らんだ。そのときジ
from evil:)
ェインは、
何をもって「試み」というのか、
「悪」というのか。
それは、神の視線を逃れ、離れることによって与え
Do you think I can stay to become nothing to you?
られる試練であり誘惑である。ロチェスターにとり、
Do you think I am an automaton? ― a machine
試みや誘惑とは、ヨーロッパ旅行や重婚の罪をジェ
without feelings? … I have as much soul as you,
インにも負わせようとしたことである。
― and full as much heart! … it is my spirit that
addresses your spirit; (JE, pp.215)
ロチェスターの旅
ロチェスターがたびたび訪れたのはセント・ペテ
と、ソーンフィールドに留まることはできない。
ルスブルグ、パリ、ローマ、ナポリ、フローレンス、
自分は機械仕掛けの人間ではないと言う。ロチェス
ヴェニスやウィーンの各都市である。ヨーロッパの
ターと同じように自分には魂(soul)というものがあ
語源は、紀元前十数世紀に古代アジアで栄えたアッ
ると激しく抗議する。ジェインの霊魂(spirit)がロチ
シリアに遡る。アッシリア語のエレブ(ereb)は「西、
ェスターの霊魂に呼びかけているという。彼女にと
日没」から、エーゲ海以西の土地を示し、「日没する
ってロチェスターとの別れは、恐怖と悲しみである
28
闇の地」を意味した 。
と、感情をあらわにして語ったほどである。しかし
妻バーサがいながらジェインと結婚しようとするロ
Ten years since, I flew through Europe half mad;
チェスターに対して、ジェインは、かつてテンプル
with disgust, hate, and rage, as my companions;
先生(Miss Temple)から受けた薫陶、ヘレンに教え
now I shall revisit it healed and cleansed, with a
られたことや学んだ日々を糧として想いを断ち切る。
very angel as my comforter. (JE, p.221)
ロチェスターは一緒にヨーロッパへ逃げようと、そ
こでの生活をまるで楽園であるかのように誘うが、
ジェインは彼の愛人として生きることを拒否する。
ロチェスターは、半ば気が狂ったようにヨーロッ
そのころを振り返ってジェインは次ぎのように語る。
パ中を嫌悪と憎悪と激怒を道連れにして飛び回った
と、ジェインに告白する。彼にとってヨーロッパは
「魅力あるもの、自らを幸福にするものと錯覚し、
My future husband was becoming to me my whole
父の家の外に真の自由と幸福があるというような陶
world; and more than the world: almost my hope of
29
酔に陥った 」結果である。それは家を出て神の視
heaven. He stood between me and every thought of
線を逃れたということである。彼には、オペラ・ダ
religion, as an eclipse intervenes between man and
ンサーで愛人のセリーヌ・ヴァランス(Celine Varens)
the broad sun. I could not, in those days, see God
が偶像になっていた。幾多の罪もひとつの善行によ
for His creature: of whom I had made an idol. (JE,
p.234)
28
『世界地名ルーツ辞典』牧秀夫編著、創拓社、1990 年、p.164。
福田正俊『主の祈り』1979 年、p.137
ロチェスターはジェインにとって全世界にもかえ
29
420
大野
房江
がたいものになっている。ジェインは神を忘れて被
て、インドへの宣教は自分が天国に行くための手段
造物であるロチェスターに心を奪われていたと告白
であり、自己満足の手段となっていることにある。
する。愛するロチェスターを偶像視していて神を見
セント・ジョンは、自分の救済の確信を得たいとい
失っていた自分に気づき述懐する。
う誘惑に駆られ、あえて困難な地に赴いたのである。
ふたりとも、重婚の罪を犯すという危機を回避す
る。そこには、「我らを試みにあわせず、悪より救い
3.7 国と力と栄光は、永遠にあなたのものです
いだしたまえ」という祈りがある。祈りは神に聞き届
ーメン(For thine is the kingdom, The power, and the
けられその結果、「啓示」が与えられる。つまり“I
glory, For ever and ever. Amen.)
asked, ‘What am I to do?’ But the answer my mind gave
ア
この頌栄のことばを伝えたのは、二世紀後半に活
― ‘Leave Thornfield at once. ”(JE, p.253)。どうしたら、
動したタティアヌス(Tatianus)である。この祈りは
よいのだろうという不安なこころに応じて、― ただ
イエス・キリストがこのように祈りなさいと言った
ちにソーンフィールドを出でよという答えが、母の
「マルコ傳」や「ルカ傳」にはない。
「主の祈りは神
声となって与えられる。‘But, then, a voice within me
への呼びかけ、つまり冒頭の荘厳な呼びかけからは
averred that I could do it and foretold that I should do it.
じまるが、それに対応する重々しい結びの言葉が前
I wrestled with my own resolution:’ (JE, p.253)。ジェイ
述の祈りである 30 」。
ンには、はっきりと内なる声が聴こえ、それはでき
終の住いとなったファンデーン(Ferndean Manor)
るとジェインは言い、そうすると予言する。このよ
は、この世から離れた新天地である。温暖で湿潤な
うな経緯によってジェインはロチェスターのもとを
気候に羊歯は育つ、その「羊歯の谷間 31 」である。フ
去り、ヨーロッパという「暗闇」に行くことを回避
ァンデーンには「主の祈り」前半の基調をなす神の
する。ヨーロッパはジェインにとっても悪の世界で
支配と栄光に立ち帰り、賛美せずにはいられない語
ある。なぜなら、彼女がマーシュ・エンドの村で女
り手ジェイン・エアの姿がある。
教師をしているときに語ったことがら、つまりもし
セント・ジョンの求婚を受けようとしたときに、
ロチェスターとともにヨーロッパに行っていたら、
ジェインはロチェスターが「ジェイン、ジェイン」
マルセイユの夢幻の楽園に女奴隷となり、しばし虚
と呼ぶ声を聞き、家を飛び出してそのままロチェス
妄の悦楽に耽溺し、つぎに悔恨と恥辱の世にも苦い
ターのもとを訪ねる。帰るとソーンフィールドは焼
涙に死ぬほどの苦しみを味わったであろうと回想し
失し命がけで妻バーサを助けようとしたロチェスタ
ているからである。
ーは片腕を失い目が見えなくなっていた。彼女はロ
チェスターが自らの人生に神の導きを認め、悔い改
めて回心したことを喜び神の栄光を讃える。彼女は
宣教師のセント・ジョン
結婚できたから神を賛美するのではない。ジェイン
インドに同行することは「神の意志」だというセン
ト・ジョンのことばにジェインの心は揺れた。しか
はロチェスターとの結婚が目的で帰ったのではない。
し伝道者の妻として自分が相応しいという理由で結
ソーンフィールド宛の手紙に返事がないので、また
婚することに納得できない。つまりセント・ジョン
彼が荒れてヨーロッパに行ったのではないか。どん
は伝道という目的に役立つ手段としての利用価値を
な生活をしているのか心配でようすを見に行くので
ジェインに見出しているからである。セント・ジョ
ある。セント・ジョンの説教から深い淵をのぞき見
ンの礼拝説教に否定的なジェインだが、彼の神に対
たジェインは救済の保証を求めている。彼女は、
「見
する義務を優先する姿勢は尊敬に値するかもしれな
失った羊 32 」を捜しに戻ったのである。つまり罪人
いと思う。後にセント・ジョンがインドで宣教し、
30
神に捧げた人生を終えるであろうことを手紙によっ
福田正俊『主の祈り』1979 年、p.14。
『ブロンテ研究』中岡洋 青山誠子編、開文社出版、1989
年、p.69 注記。
32
「ルカによる福音書」15 章 4 -7 節。
31
て告げ知らされるとき、死を前にしても彼の心は臆
することはないと感涙する。しかし問題は彼にとっ
421
『ジェイン・エア』の物語構造と「主の祈り」
がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要とし
らの日用の糧を今日もあたえたまえ」、すなわち日々
ない九十九人の正しい人にもまさる大きい喜びが、
の糧を得るためである。ムーア・ハウスでは、生き
天にあるからである。神は失われたもの、その最小
るための現実的な問題に対する祈りがある。試練と
のあるいは最後の一人が失われたままになっている
ともに、心の糧を求める祈りである。ソーンフィー
ことを欲しない。神が一人の人間をかけがえのない
ルドでは「我らに罪を犯すものを我らがゆるすごと
存在として、捜し求めたようにジェイン・エアはロ
く、我らの罪をもゆるしたまえ」とロチェスターを赦
チェスターの許へもどった。そこで回心し神に感謝
す伏線としてリード夫人に対するゆるしがある。ヨ
する彼に会うのである。
ーロッパに行き愛人たちとの生活に明け暮れていた
真実の愛は「相手の価値に依存しない自発的で、自
ロチェスターは、罪を償うためにたった一つでも善
33
由な愛 」である。過去の自分を振り返り、神の導き
いことをすれば救われると信じるが、そこに救いは
に感謝するジェインとロチェスターにとって、「国と
ない。ジェインも同じである。母のことばが聴こえ
力と栄光は、永遠にあなたのものです
アーメン」
なかったら、悔恨と恥辱に死ぬほどの苦しみを味わ
という祈りはもっともふさわしい。また、この頌栄
ったであろうと述懐するほどである。フェアファッ
はセント・ジョンによる神への信頼をこめた最期の
クス夫人の無条件に先行する恵みに感謝しつつ、ロ
ことば「アーメン、主イエスよ、来たりたまえ」。
チェスターの企みという悪の世界を予感して、「我ら
“Amen; even so come, Lord Jesus!”(JE, p.385)で物
を試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ」と祈り
語が閉じられることによっても明らかである。
を捧げたのは、ソーンフィールドに到着した晩であ
る。その祈りは神に届き、神(あるいは天の使い・
4. おわりに
妖精)の知らせによって、重婚の罪に陥るという第
ジェインとロチェスターの人生には、確かに「神
一の危機を回避する。同じように第二の危機つまり
の手(the hand of God)」
(JE, p.380)が働く。それを
セント・ジョンとの結婚を回避できたのも、ジェイン
ジェインは神の御心と言い感謝する。
を呼ぶロチェスターの声が聞こえたからである。
ゲイツヘッドでは「天にまします我らの父よ」とい
このように希望や怖れ抱きつつ、勇気をもって神
う祈りがある。それはジェインが神に対してひとり
のもとに立ち帰ったエドワード・フェアファックッ
の我という自らの存在を自覚し、自分を超えた大い
ス・ロチェスターとジェイン・エアの祈りに、神が働
なる存在の神への呼びかけである。ローウッド女学
き応答した結果が、ロチェスターの回心と神への感
院では、テンプル先生とヘレンによって、
「神の事柄」
謝にあふれたことばである。ここに賛美と頌栄の「国
をつまり神がどのような存在かを教えられる。ジェ
と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン」
インは成長して、福音の光に出会い神の約束を信じ
という祈りが結びあわさる。
「願わくは御名を聖となさしめたまえ。御国をきたら
従って『ジェイン・エア』の物語内容と構造は「主
しめたまえ」と祈れるようになる。臨終のヘレンが残
の祈り」の内容と構造に深くかかわっていると考え
したことばは、「御心を天におけるごとく、地にも行
られる。
わしめたまえ」という神への祈りである。ヘレンは愛
読書『キリストにならいて(イミタチオ・クリスチ)』
のような生涯をジェインに示す。
後半は神に祈らざるをえない現実を生きる人間の
姿が示される。ローウッド女学院を去るにあたって
ガヴァネスとして働くために広告を出したのは「我
33
北森嘉蔵『愛における自由の問題』東海大学出版会、1979
年、p.17。
422
(Received: December 31, 2007)
(Issued in internet Edition: February 8, 2008)