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祈りに関する教え - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

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祈りに関する教え
ルカによる福音 47
祈りに関する教え
11:1-13
ここは前半が「主の祈り」、後半が真夜中にパンを三つ都合してくれと言
って叩き起こされる話が、その後「求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さ
らば開かれん」という有名なお言葉で結ばれる形になっております。4 節の
終わりまでと、8 節の終わりまでと、9 節から後とに大体三等分、10 行ずつ
位の三つの区分で論旨が繋がっていると見てよいでしょう。一つながりです。
少なくともこれを記録したルカ自身にとっては一つのテーマで、しかもイエ
スの精神で一貫しているわけです。
元々このお話は、初めの部分にもありましたように、お弟子の一人がイエ
スにお願いしたことから始まります。「主よ、祈ることを教えて下さい」
この人がまあ、お祈りのし方、正しい祈りの手本を教えて下さい……とお
願いした理由を考えてみますと、多分この時点までイエスは祈りの型みたい
なものは、弟子たちに教えておられなかったのでしょうね。もちろん、この
人たちはみんな生え抜きのユダヤ教徒ですから、祈りのし方位は知っていた
のでしょうが、イエスは特別にイエス流の祈りの文句とか、「わが教団の祈
祷文はこうだ、よく暗記せよ」というようなものはお教えにならなかったら
しい。ところが、バプテスマのヨハネが残した弟子たちが、師が投獄された
後も「師の教え給いし祈り」みたいなものを唱えて結束を固めておったよう
ですね。やっぱり何も無いのは頼りないから、これこそイエス弟子団の祈り
と言えるようなものを伝授して下さい……と申し上げたのです。
もう一つの理由はこの時の事情から考えて、弟子たちは多分イエスの祈り
を見ているうちに何かにひどく動かされたというか、イエスの祈りの真剣さ
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とそこから得られる力を見たのでしょう。もちろん、イエスは大事な祈りは
必ず一人で離れて祈られたようですが、その祈りが済んで弟子たちの前に現
れる時のイエスが特に力に満ちて、この人たちにも何か感じる所があったの
でしょうか。とにかく、そういう力でみなぎるような祈りができるようにな
りたいという願いと、何かヨハネの弟子団に負けないだけの立派な祈祷文が
欲しい、という動機が一緒になって、イエス様からこの祈りのひな型を引き
出すことになったのです。
1.イエスが弟子たちに教えた祈り
:2-4.
2.そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御
名があがめられますように。御国がきますように。 3.わたしたちの日ごとの
食物を、日々お与えください。 4.わたしたちに負債のある者を皆ゆるします
から、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせな
いでください』」。
どうですか……さっきのと大分内容が違うでしょう。所々抜けている項目
もあります。ですから、「主の祈り」というのは必ずしもあの通りに言えな
くてもよいし、一つ二つ端折って簡単にしてもかまわないものでしょう。こ
れは祈りの内容と精神を教えたものですが、経文のような反復用ではなかっ
た。多分ルカとパウロを主に使っていた教会では、初めはこれでやっていた
わけです。私たちのように 27 巻全部揃った写本を備えていた教会は無かった
のですから、初めの間は……
普通教会で使われるものは、ご存じの通りマタイ福音書に出ている長い方
の形に、結びの頌栄を付けたものです。“国と力と栄とは……”という所、
あれはユダヤ教会の習慣で付け足したものです。ああいうのを付けないと祈
りは祈りにならない、というのがユダヤ教徒の考え方でした。
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ところで、私たちはできるだけ普通の言葉で……というので、私が自分で
試みに訳したものを使ってきましたけれど、あれでやっているのはここだけ
なんです。それに大多数の教会では、日曜毎にみんなで唱えます。あまり使
わないのはこの辺りでは守口とここですが、それでも大事な祈りですから、
私たちもできるだけ使うようにしてきました。
今週から十一週間、全国共通の古い文語訳マタイ版でご一緒に祈るのは、
できれば神戸の会で他の皆さんと一緒に唱和できるようにしておきたいから
です。「われらの日用の糧を」と他の方たちが言っておられる時に、「私た
ちの一日分のパンを」と言っていれば、周りの人の方が「あっ、まちがえた
かな!」と一瞬つまったり恐れがあるでしょう……はた迷惑になります。そ
れに口語訳の方もお休みの間にもう一回手を入れて、磨き上げてみたいとこ
ろも出てきました。また変わるのかと言われそうですが……。ではこの極度
にしまったルカ伝の「主の祈り」の各項目に十数秒ずつコメントを加えます。
父よ! これは短いですね。「天にまします」も「われらの」もありませ
ん。使徒パウロが教えた「アバ、父よ」を思わせます。神への祈りに Father
という呼びかけを教えたのはイエス様独特です。
御名があがめられますように。 神の名は神ご自身を指します。「あなた
の名が聖とされよ」と直訳できるこの祈りは、『あなた様にすべての者が服
しますように。一人残らず御支配に服させて下さい』という祈りです。した
がって第二の祈りはこれを言いかえたものともいえます。
御国が来ますように。 「あなたの王権によるご支配を」です。以上、先
ず神の名と神の支配を第一に考えた上で、人間の求めと願いが続きます。
わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。 マタイ伝の祈りと
違う所は、日々という所で、「今日もまた一日分でよろしうございます」と
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いう所。これは自分の力で得たのではなく、あなたの憐れみによることを実
感させて下さいということです。
私たちの罪をお許しください。私たちに負債のある者を皆ゆるしますから。
これが原文の順序です。憎しみと恨みの掃除とその確認です。これは引き換
え条件ではありませんが、人に恨みを抱いたままでは、赦しを頂く精神状態
になるのは不可能だからです。
わたしたちを試みに会わせないで下さい。 弱気の意気地なしの祈りのよ
うに聞こえますが、本当はこれは自分の罪の悲しさを知る人の祈り、ペシャ
ンコになった経験のある人にだけ祈れる祈りです。
こうして、この五項目の簡潔な祈りは、「罪をお許しください」「これ以
上汚れに落ちないよう助けて下さい」「神様の力で支配して、清い強い者に
作り直して下さい」―という切なる叫びを響かせて、次の真夜中の緊急の
請求者という話につながります。
2.真夜中の懇願 :5-8.
これはイエス様の残された譬話の中でも、ちょっとポイントがつかみにく
いものの一つです。問題は 8 節 3 行目「しきりに願うので」と訳してある所、
原文は「まさにその厚顔無恥に免じて」
という
のですが、「厚顔無恥」に何故免じるのか、「ずうずうしさ」に何故感心す
るのか―です。それでこの「あつかましさ」「ずうずうしさ」というのは
「しつこさ」のことだろうというので、英語でも because of his presistence
と訳す人が多いようです。「粘り強さ」ですね。
調べてみますと、こんな風に取り始めた元凶というか張本人は、教父クリ
ソストモスらしくて、この人は「厚顔無恥」というのはテコでも動かぬ粘り
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だというのです。
「
とは
なり」つまり「粘りだ」と説明したのですが、
何分ギリシャ人で偉い人だから間違いないだろうというので、みんなそう取
るようになりました。今度の共同訳でも「しつこく頼めば起きてくる」と訳
してあります。
でもこの「ずうずうしさに動かされて」というのはどうも、私は「初めは
起きる気がなかったが、いつまでもうるさいから、とうとう気が変わって起
きてくる」というのではないと思うのです。ここの所「その厚かましさの故
に」と直訳しているのは、東京大学の前田護朗さんだけですが、もう一つよ
い線行っているのは「その厚かましさにはかなわず」と訳している塚本虎二
さんです。これは「そこまで非常識もかえりみず、起こしに来なければなら
ない事情を察して」ということではないかと私は思うのですが……。普通な
らそんなバカなことをする筈がないのにする。切羽詰まった need と言って
いいと思うのです。Geldenhuys という人だけが私と似た受け取り方をして
いてホッとしましたが、「そこまで無茶なことをして起こすのは余程のこと
だろう」というので、まあ普通なら友人でも起きてやらないのだけれど起き
てくれる。人間でも緊急を察したらそうする、まして愛の神は……という論
理です。オーバーでユーモラスな譬え話ですが、話のアウトラインを一度追
ってみますと……5 節から
夜遅く旅人が腹をすかして着きます。ユダヤやガリラヤでは涼しい夜のう
ちに旅をすることが多かったからです。飢えた友人にパンと水だけでも供し
たいが、たまたま古いパンのかけらもない。それで近所の友人を夜中に起こ
してでも何とかしてやろうと思い立ちます。夜が明けるまで空腹のまま寝て
てくれと言うに忍びなかった。その人もあてにして着いたのでしょう。
『パンを三つ貸して下さい』(5 節)とありますが、こういう丸パン三つ
というのは、大体一人の一日分の量だったそうです。前の「一
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日分のパンを」……というフレーズと繋がっているとも言われます。
こんな場合(7 節)、まあ親しい友人でも起きないだろう……というので
す。一昔前の戦後のバラックと変わらない狭苦しい所に、めじろ押しに寝て
いるのです。子供の頭を蹴飛ばすか、足を踏んづけるかも知れない。電気の
スイッチなんかは無い時代です。ランプと火打石を探すよりは、戸を開ける
方が簡単なのです。
それでも(8 節)「何てバカな非常識な奴だ!」と腹を立てながらでも、
その厚かましさの裏には余程の事情があって、本当に困るのだろうと察すれ
ば、子供の頭の一つや二つ踏んづけてでもパンを持って起きてくるだろう。
問題は、そこまで切羽詰まった窮状なんだが「迷惑だ、面倒だ」と考える凡
人がこうやって起きてくるとすれば、神は本当に行き詰って叫ぶ人の声を真
剣に聞いていて下さらない筈があろうか―という、いわばユーモラスな間
奏曲で次の部分につながります。
3.人間の父の応え方と天の父の応え方
ここで初めて、初めの「父よ」という所に戻って、本当に父である方が応
えて下さる。それも本当に父よと必死でお願いしないではおられないような
悲しみがあるなら、人間の父とは比べることもできない大きな愛の持ち主で
ある方が、あなたに最善のものをもって応えて下さることが信じられない
か! そのお答えが遅れているように見えても、自分の期待した答えと違って
いる場合でも、父に真剣にすがることができるのではないか……
9.そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるで
あろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あ
けてもらえるであろう。 10.すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門を
たたく者はあけてもらえるからである。 11.あなたがたのうちで、父である
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ものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。
12.卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。
初めて読むと、この魚の代わりに蛇という所の連想が湧きませんが、これ
は長めの魚の干物の連想らしいと物の本にあります。日本では蛇と間違える
ような干物は、まあありませんけれど、それでも私の学生時代、友人の谷山
邦男さんがよくウツボの干物を「これは蛇の干したものだ」と言って丸かじ
りしておりまして、私どもは気味悪がって見ておりました。本当は美味しい
ものだそうで、多分真実を語ればすぐ無くなるのを蛇だと偽って防いでおっ
たものでしょう。
これに比べると、サソリと卵の連想はちょっとつながりませんが……サソ
リは北京で見たことがあります。ザリガニを小さくした感じで、細い尾の先
に針があって猛毒があります。今でも時々夢に見ましてうなされますが、壁
の割れ目から次々にサソリが出てきたり、天井からバサッと目の前に落ちた
り……ムカデの方が怖くないですね、でもそのサソリがクルクルと丸くなっ
て卵くらいになるような巨大なものは見たことがありません。あれは冬眠す
る時丸虫のオバケみたいにダンゴになるといいますが、意地悪い親父さんが
「ホラ卵だ手を出せ」と言いまして、子供が「ぼくのオタマチャン」と手を
広げるとブワーッとサソリになって広がる……まあ、そんなことは人間の親
だってしない。「卵を求めるのにさそりをやるだろうか、魚の代わりに蛇を
つかませるか」という所、イエス様の譬えはユーモアがありますけれど、時
にヘブライ的ブラックユーモアのスケールが違うので、ついて行きにくいこ
とがあります。
13.このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈
り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に
聖霊を下さらないことがあろうか。
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ハッと胸を突かれて感動することもあるし、人によっては大いにシラケル
ただの理屈にも聞こえます。これは無理のないことで、弟子たちだってそう
でしょう。イエスの理屈の面白さには舌を巻いても、初めに見たあのイエス
の力強い祈りを自分のものにすることは多分できなかったでしょう。
弟子たちの印象に残ったのは、蛇とサソリのブラックユーモアとか、夜中
に厚かましさに負けてパンを出してやるヒドイ話とか、それに主の祈りの言
葉もそうですね。少なくとも二つの形で後世に伝わった。しかし、この時点
で本当に何が伝わったのかは問題です。
これが理屈じゃなく身について、本当に実感としてわかって「父よ」と申
し上げるためには、その前にそんな父を知っていなければならないわけです。
弟子たちにはまだそこまでの道のりは長くて、これからエルサレムへ行って
あるショックに触れることが必要でした。これは私たちにとっても同じであ
りまして、まずそういう父に触れて、そういう父に知られる経験をして初め
て、祈りの力を体験できるものです。どんなに悲しい時でも、どんなにペシ
ャンコでも、父に祈り終わって再び勇気に満たされる。この私のために御子
を下さった父、私を生かすためにイエスを復活させた父に触れる体験があっ
て初めて、この結びの言葉はシラケル理屈でなくなるのです。
最後の一行「求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」は、祈り
求めるものの極限を指し示すと申しましょうか、まあ誰しも初めはせいぜい
魚やパンを求めてピイピイ言っていた幼児が、イエスの祈りを身につけて力
に満ちることが可能です。そこまで強くするのが父の意思である。信じた人
が本気で祈れば、必ず精霊のエネルギーで満たしてチャージして下さる―
それが信じられるか、という呼びかけになってここは終わります。
(1983/05/01)
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《研究者のための注》
1. 「主の祈り」は初期にはこのルカの伝える形で祈る教会もあったと申しました。この
二つの違った形で伝えられたという事実は、これが反復唱和用の礼拝形式として定め
られたものではないことを暗示します。これは確かに個人の祈りとしても、また特に
マタイの形で共同の祈りとしても大事にすべき祈りのひな形ではありますが、決まっ
た祈祷文というよりは、祈りの内容と精神をお教えになったものと解すべきでしょう。
またい 6 章のテキストによる私の試訳と、「主の祈り」の内容の講解については、1978
年 5 月の「主の祈りに関する説教」を参照して下さい。
2. 神を父ととして表現したのは、イエスが初めてであるとよく言われます。正確には、
むしろ祈りの中で「父よ」と呼びかけることを教えたのはイエスが初めてであったと
言うべきでしょう。神がイスラエルの父であるという思想は、モーセ五書、詩篇、預
言書などにすでに現れますし、祈りの中で「父よ」と呼びかける前例も旧約外典のソ
ロモンの知恵に
ベン・シラの知恵に
ただ、平凡な一般人が例外なく神様に「父よ」
という言い方が見られます。
とお呼びして祈ってよいのだ、
ということは確かにイエスによって初めて教えられた、というよりイエスの贖罪のお
かげで可能になったというべきでしょう。なお、マタイの「天にいます」と「我らの」
を除いたこの短い形は、マタイのものに比べてユダヤ的色彩が幾分薄くなり、異邦人
の福音書ルカに保存されるのにふさわしい形であったとも言えます。
3. マタイ 6 章の「主の祈り」は、山上の説教の枠組の中に入っております。こういう形
でもお教えになったものでありましょう。ルカの方では弟子の一人の求めに応じて、
この祈りのお手本が与えられております。イエスの弟子の祈りの真髄を示した最も重
要な祈りであると同時に、反面ルカの書き方はサムエル記上 8:22 にあるサウル王の
王制のような形で与えられたという印象も拭えません。
4. 罪の赦しを祈る第 4 の祈りは、人間の罪の問題にスポットをあてて、主の祈りの中で
も十字架を望み見る重要な視点になっています。このような、他の人の罪を赦すこと
を祈りの前に命じることは、すでにユダヤ教の中でも心ある人たちが考えていたこと
で、例えばベン・シラの知恵 28:2 にも「あなたの隣人に対して、その不正を赦して
やれ。そうすればあなたが祈った時あなたの罪は解かれるであろう」とあります。こ
うして旧約聖書と外典の中で少しずつはっきりさせられてくる罪と死の問題が、十字
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架を前にして「主の祈り」の中でも明確に示されたのです。
5. 真夜中の懇願者の譬え話の中心点を、自己の need の意識という点に見ました。大多
数の注解者はクリソストモス以来、「粘り強く求め続けること」に見ておりますが、
願い求めることをやめないで願い続けること自体が父の答えを引き出すという考え方
は、求める側の執拗さに、つまり粘り強い押しの行為に重点が傾きすぎて、それによ
って父の意志を無理に動かすような行為主義の匂いが強すぎるように私には思えます。
ですからここの解釈には適しないと私は思います。7 節カギカッコの『面倒をかけな
いでくれ。……』以下の言葉は、両者が長時間押し問答する際のセリフではなくて、
中からの最初の応答、あるいは普通なら先ず考えるであろうことを
で表したものと思います。6 節の「言った場合」、7 節の「言うであろう」ともに原文
は
でアオリスト接続法、いずれも想定されたセリフで一回きりです。なお 10 節
の求める者、捜す者、門を叩く者は、いずれも現在分詞ですから、継続・反復を含蓄
しますけれども、その継続・反復自体が父の意志を動かすのではなくて、求め続け叩
き続けてやめないだけの真剣な差し迫った必要の自覚が、そこに与えられる父の答え
に耳を開かせ、霊の目を開かせるのでしょう。この現在分詞から「厚かましさの故に」
の中へ粘りを読み込むのは誤りでしょう。
6. 最後の「聖霊を下さらないことがあろうか」という一句は、往々、ペンテコステ、ア
センブリー系の解釈者によって、異言を伴う聖霊のバプテスマの現象が信じない者や
祈り求めない者には与えられないが、信じて祈り求める者には必ず与えられるという
典拠に引かれますが、全く根拠のない結び付け方であると言えましょう。
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