2014年1月5日 - KLJCF クアラルンプール日本語キリスト者集会

 「天にまします我らの父よ」 山本将信 KLJCF礼拝説教(1 月5日<日>)要旨 「 ‥ ‥ だ か ら 、 こ う 祈 り な さ い 。 『 天 に お ら れ る わ た し た ち の 父 よ 、 ‥ ‥ 」 マタイ福音
書 6 : 9 私たちは祈るとき、必ず目を閉じてうつむいて祈ります。 この祈りの姿勢は神秘主義の影響をキリスト教が受け始めたころから始まったものらし
いのです。主イエスが教えて下さった祈りは、その内容ばかりでなく、祈りのたたずまい
も含んでいます。つまり「天におられるわたしたちの父」へ祈りですから、目を閉じ、う
つむいて祈るのではありません。現在の私たちの祈りは内省と対になっていますが、祈り
の第一の目的は内省ではなく、あくまでも「天におられる」父なる神へ向けられます。 まさしく天を仰いで祈るのです。 日の出と共に、朝風がさやかに吹く夏の野良に出て、私がまずすることは目を見開き、
大空を仰ぎ、山々を眺め「主の祈り」を捧げることです。 八方塞がりの行き詰まりに悩まされていても、九方目は開かれていて、そこから必ず究
極の助けが来ます。八方塞がりは、実は思い込みであって、道は思いがけない方向に、開
かれていることに、天を仰ぐ祈りの中で気づかされます。 東京在任時代のことです。求道者の若い女性が思い詰めた声で「相談に乗ってください」
と電話してきました。勤務後、5 時頃の来訪を約束したのですが、余程思い詰めていたと
みえ、勤務を早退し 4 時頃来られました。教会屋根のペンキ塗りを青年たちとしていたと
きのことで、私はまだ屋根の上にいたのです。渋る彼女を屋根の上に招き上げました。 その日は快晴で、日没も近づいており、富士山もくっきりと遠望できました。その見事
な景観に彼女は驚いていました。私は「イエス様もね、こういう夕陽を眺めながら祈られ
たと思うよ。イエス様のご覧になった夕陽も、ボクたちの何千年前にもさかのぼる祖先も
同じ夕陽を眺めたのさ。ボクたちが世を去ってからも同じだな。よし、目を見開いて『主
の祈り』を祈ろう」と促しました。日も暮れ始めたので「じゃあ、下りて話を聞こう」と
言うと、「先生、もういいです。何だか私の思い詰めていることってばかばかしいことに
思えてきました。」楽しく歓談しただけで、彼女は帰っていきました。 「天におられるわたしたちの父」こそが真のカウンセラーです。瞑目して己の内面に向
かう祈りも必要ですが、それに劣らず目を見開いて天を仰ぐ祈りは、自縛自縄の追い詰め
られた思いから 私たちを解放してくれます。天への祈りは私たちを大空に解放し、明日へ
羽ばたかせてくれます。 「主の祈り」は翻訳の都合で「天におられる」で始められていますが、原語では「父よ」
と言う呼びかけで始まります。神が「父」と呼びかけられることは旧約聖書ではありませ
ん。旧約の神は君臨し、厳しく律し、支配するお方として顕現されます。 しかし、主イエスが体現される神は君臨されると同時に、「独り子を給うほどに」人間
を愛し救われる神でいまし給います。その神に主イエスも使徒パウロも「アッパ父」と呼
- 1 - びかけています。「アッパ」とは、パパと呼ぶ私たちの現代語に似た甘えた表現です。 近年、女性解放神学が唱えられるようになり、或るその女性解放論者は神を「父」と呼
ぶことを拒否しています。それはキリスト教が男性優位、父権至上主義を助長するという
趣旨からのようです。もちろん男性優位、父権至上主義には私も反対ですが、さりとて聖
書の表現を変更することはできません。そもそも新約における「父」に父権至上主義があ
るかどうかに私は大いなる疑問をもっています。 もちろん「父」を母と言い換えることなどできませんし、することはできませんが、「ア
ッパ父」と呼びかけられる神は、私たちの「お袋さん」のイメージではないでしょうか。
私たちを丸ごと包み受け入れる「お袋さん」のような神でいまし給います。そのことを示
しているのがルカ福音書 15 章のあの有名は「放蕩息子の譬え話」です。 あの譬え話は父親たる者のモラル・モデルではありません。あの父親はこの世において
は父親失格者だと私は考えています。放蕩に身を持ち崩すことは火を見るよりも明らかな
のに財産を生前贈与してしまいます。案の定、その息子は放蕩三昧をして全てを失い、ユ
ダヤ人には恥辱以外の何者でもない豚飼いにまで身を落とします。そしてせめて雇い人の
一人に雇ってもらいたいと父親の下に帰ってきます。その帰ってきた落ちぶれた息子を遠
くから発見して、父親は駆け寄り、抱いて接吻し、羊を屠って祝宴を設けます。兄貴が怒
るのも無理もありません。 在京時代、横浜の桜木町で家庭集会を月一度もっていました。渋谷から東横線で桜木町
まで行くのですが、昼下がりの電車で私はうとうと居眠りをしていましたが、異様な感じ
で目を覚ましました。目覚めてその理由が分かりました。居たたまれないほどの悪臭が漂
い、近辺の乗客は隣車両に移っており、私だけが座っていました。その悪臭源は、凄まじ
い身なりのいわゆる浮浪者乗客でした。鼻がひん曲がるほどの悪臭なのです。私も思わず
腰を浮かして隣り車両に行こうとしたのですが、思いとどまりました。幸い次の駅で彼は
降りていってくれました。 思いとどまりながら思ったのは「放蕩息子物語」の父親のことでした。わが息子がこの
浮浪者のような姿で悪臭を放ちながら帰ってきたのです。その息子に駆け寄って抱き、接
吻したというのですが、私にはとてもできません。 まさしく私たちの父なる神様は異常なお方です。パウロのいう「ギリシャ人には愚か」
であり「ユダヤ人に躓き」の何者でもありません。主イエスはあえて近辺で笑いものにな
っていた逸話を譬え話に取り上げられたのではないでしょうか。神の愛は世の常識からす
れば異常なのです。私たちの神が異常な愛をもってくださったお陰で、私たちは救われた
のです。私たちは異臭しか放てない「放蕩息子」でしかありません。神はその私たちに駆
け寄って抱き、「お袋さん」になって下さいました。それを受け入れることが「砕かれた
心」であり、それを私たちは信仰と名付けています。 私たちは開かれた天を仰ぎ、アッパ父よと呼びかけ、神の懐に抱いていただけます。そ
の懐で安んじて良く、安んじることが赦され、安んじなければなりません。 - 2 -