号.
6
.
自問
守
'
"
J
え
、
日本大型モーターサイクル発展史*
j
賓 崎 伸一朗日
はじめに
1 大型モーターサイクルへの展開
1 戦後二輪車産業の勃興と展開
2 大型モーターサイクルへの礎
2 大型モーターサイクル市場への進出
1 ホンダ CB750FOURの登場
2 最速技術を目指すカワサキ
3 2サイクルメーカーのヤマハとスズキの動向
3 市場の変化とそれへの対応
1 カワサキ 900SUPER4(
Zl
)の登場
2 日本メーカ一同士の織烈な争い
3 オーバー 1Qの時代へ
4 ターボ車の登場
4 世界二輪車産業への影響
1 イギ リス二輪車産業
2 イタリア二輪車産業
3 その他の国(アメリカ , ドイツ)
5 スタンダードモデルの石
在立
おわりに
はじめに
本稿は,
日本において独自の成功を遂げた大型モ ー ターサイクルの発展史である 。
日本の基幹産業である自動車産業の重要な一角を占め, その時代の二輪車生産台数が世 界 1
二輪車,本田技研工業,ヤマハ発動機, スズキ,川崎重工業
金沢大学大学院自然科学羽「
究科
(1) 道路交通法施行規則 (以下道交法ならびに道交法施行規則 とl
唱す)による分類で,大型自動二輪
車指す。総排気量04
0
0Qを越える内燃機関を原動機とする 二輸の 自動車 (
側車付きのもの を含む)
*
**
技術と文明
1
5巻 2号(2
)
表。− I 世界の輸出シェアから見た日本の上位 1
0産業 (
1
9
8
5年)
産
世界の総輸出額に
占めるシェア
業
モーターサイクル
テレビ映{象,音声レコーダー
デイクティテインク機械
計算機
光学用レンズ
写真,現像機器
スチー/レカメラ ,フラッ シュ
キャ ッシュ ・レジ スター,会計機械
船舶用ピストン ・エンジン(船外)
プレーヤー
輸出額
2
,0
9
2
,
4
1
6
6.
6
2
2
,1
1
9
1
,
81
7
,
41
3
8
2.
0
8
0
.
7
7
1
.7
6
9
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7
6
7
.
5
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5
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9
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.
2
6
2
.
0
61
.0
5
9
.
0
輸入額
1
,0
0
0ドル)
(
1
,0
0
0ドlレ) (
6
6
0
.4
3
2
5
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9
,
4
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6
0
8
,
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,
8
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5
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6
,
6
8
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9
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51
9
4
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12
9
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,
6
4
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6
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0
5
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1
7
4
1,
6
2
6
1,
4
4
8
9
9
7
日本の総輸出額に
占めるシェア
11
9
3.
7
7
1
.0
3
0
.
3
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.
3
3
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1
5
出所 Mich
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rTHECOMPETJTIVEADVANTAGE OFNATIONS,TheFr
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,1
9
9
0(
土1
1
皮対1ほか
訳
r
国の競争優位(下)』ダイヤモンド社,1
9
9
2年
, 6頁)より 作成。
位の発展の要因として,技術力の結集である大型モータ
サ イ ク ル の 発 展 が , 世 界二輪 車市 場
での競争優位を生み出したという視点から, 1960年 代 後 半 か ら 80年 代 後 半 ま で の 約 20年 に 焦 点
を絞り , ホ ン ダ, ヤ マ ノ \ ス ズ キ , カ ワ サ キ の 世 界 4大 メ ー カ ー の 競 争 に 新 た な 光 を あ て る こ
とを目指している 。
(4)
二 輪 車 は 排 気 量 や ス ポ ー ツ 車 , ビ ジ ネ ス 車 な ど の 分 類 に よ って 分 け る こ と が で き る が , 大 型
モーターサイクルは自社の技術水準を誇示し,世界の最高水準をめざした,メーカーの顔とし
ての商品特性をもっている 。
二輪車は自動車と,地上の乗り物の双墜をなしてきたが,従来の自動車産業研究では,乗用
(5)
車を中心とした自動車(四輪車)に力点が置かれ,表 0- 1に示すように, 二 輪 車 は, 日 本 で
で,大型特殊自動車及び小型特殊自動車以外のもの。
本稿では生I
室側か らの考察を 目的とし ているため, 排気量別の分類法を採用し, 二輪車の大 きさ
を表す呼称を次に示すとおり,囲内で一般的用いられる小型 −中型 ・大型の 3種類とする。
−排気量が 1
2
5
c
cまでの二輪車,但し原付を含まず。 「
小型車」。
」
。
・排気量が 125cc超∼ 400ccまでの二輪車 「中型車
・排気量が400ccを超え る二輪車 「大型車」。
二輪車で分類が必要なのは,道交法や免許に関連するが,それぞれの分類における使用目的が異
なる。小型車は税金 ・保険が安価で,燃費がよく経済的であり,通勤・通学や配達業務など生活圏内
での使用が多い。中・大型車になるほど,趣味 ・レジャーの要素が大きくなる 。
(2) 一般的には 「オートパイ」 (
ア メリカ英語 Au
to B
icycl
eの造語) 「モー ターバイク」 (
Motor
Bike)
「バイク 」( Bi
ke)「二輪自動車」とも呼ばれ,大型スポーツ車だけを指す場合 「スーパーバイ
ク」( Sup巴rBi
ke) とも H
乎ばれる。なお,本稿で取り上げるのは排気量が400ccを超える大型モータ
ーサイクルであり, 小型車 ・中型車などの比較する場合は大型車 という名称を用いる。 また,原付自
転車 (
以下原付と略すを含めた二輪車総称として二輪車を用いる 。
(3) 二輪車メーカー各社は時代によ ってその,名称や組織を変更している。 しかし,そのつど注記す
ることは非常に繁雑であるため,たとえば「本田技研工業」ではなく「ホンダ」のように,通称とし
ても っと も一般的と考えられるものを使用した。
(4) 日本における分類は,ビジネス,スポーツ,スクーターに分けられ,スポーツはさらにオンロー
ド,オフロード,競技車両に分けられる 。 また,オンロードは,スーパースポーツ,ツアラー,アメ
リカに大別できる。t
世界における分類は,その国の経済社会や交通手段の発達度等に分けられる 。本
国技研工業広報部世界二輪車概況編集室 『
世界二輪車概況』 2004
年版, 46-48頁。
2
日本大型モーターサイ クjレ発展史
最も優れた国際競争力をもっ産量正義えられるが,論じられることは少なかっ店:
こうした, 自動車中心の視点から導き 出 される 二輪車への評価 は,軽自動車を参入点とした
自動車発展の前段階を担うものであり,そのための資金や技術を準備する手段に過ぎないなど
である 。
その 中でも ,富塚は,二輪車の発明から日本における察明期, 第二次 大 戦 後 (
以下,戦後とす
る)の復興, 技 術 面ての発達と技術者逮にも述べている 。 また,出足)
は二輪 車 産 業 の 歴 史 と 共
に,技術史領域においてまとめている 。
しかし,本稿の主l
l
良である ,大型モーターサイ クルについては H
守代背景の違いもあり,多〈
語られて いない。
以上を踏まえて, あらためて二輪車の発展史を見直してみる 。 日本で初めて二輪車が造られ
明治4
2)年であり, 1885年にドイツのゴ ッ トリーブ ・ダイムラー( G
o
t
t
l
i巴b Da1
m
たのは 1909 (
(
1
2
)
!
er
)が世界最初の二輪車を発明してから 24年しか経っていない。
その後, 日本は戦後の混乱期を経て, 1960年には 147万 台 を 生 産 し フ ラ ン ス を 抜 い て 二 輪 車
生産台数が世界 1位とな った。 しかしながら , フランスや西ドイツの生産の 中心機 種 は モ ペ ッ
(
1
3)
(
14)
トであり , モペットを除いたモータ ーサイクルとスクーターについてみれば 58年 に 世 界一位と
(5) 以下,自動車を指す場合は,凶輪車を指し,軽自動車なども四輪車を指す。
(6) マイケル ・ポーターは,匡|
際競争力て測った日本の企業を調査した際,二輪車産業が l位である
こ と を 示 し て い る。だ が,議 論 さ れ た 内容 は 論 じ て い な い。Michel E
. Por
t
e
r THE
刀 1VEADVANTAGE OFNATIO
NS, The FreePres
s,1
990 (
土岐坤ほか訳 『
匡l
の競
COMP
ET
)。
争佼位 (
下)
』 ダイヤモ ン ド社
, 1992年,4-51頁
(7) 自動車産業の中の二輪車産業でいあり ,二輪車工業, 二輪車業界なども 同意義につかわれているが,
本稿では自動車産業とは別の二輪車産業としてとらえる。
(8) ホンダについては,すて快
に数多 くの書物が出版されていたが,堀内俊洋 『
ベンチャーホンダ成功
の法則』東洋経済新報社, 1
9
98
年は, 二輪車と海外をキーにホ ンダの現在をもベンチャーとい う発
想をあげ,ホンダの基盤は二輪車であり ,海外展開はホ ンダの強みであるとしている 。
(9) 自動車メーカーを参入の時点で評価するとい った視点軸である。伊丹敬之 「
成長の軌跡」
『競争
孝雄 ・榊原清則 ・伊藤元重著,東洋
と革新一一 自動車産業の企業成長』伊丹敬之 ・加護野忠男 ・小村t
経済新報社, 1
98
8
年, 1
0頁。
(
1
0) 富塚清 『
オートパイの歴史』 1
1
1#
i
f
,
堂, 1
98
0
年,237頁。なお。これとほぼ同じ 内容のもつものが
?版として,『
!
日本のオー トパイの歴史』 三樹書房, 1996年
, 2
2
1頁。新訂版として,『日本のオー ト
来
パイの歴史一一二輪車メーカーの興亡の記録一一』 三樹書房,2
00
1年,2
3
1頁。別の出版社から刊行
されている。
(
1
1
) 出水力 『
オートパイの王国』第一法規, 19
91
年
, 1
4
8頁。本稲作成において重要な位置づけを占
汀工場から世界のホンダへの技術形成』ユニオンプレス, 1999年
, 325頁。
めている。その他には,町l
『
オートパイ ・乗用車産業経営史』 日本経済評論社, 2002年,308頁。ホンダを中心と して論じてい
る。
(
1
2) 岩立喜久雄 「
戦前の国産オー トパイの残像」 『
軽自動車情報』光文社, 1
9881
9
8
9年連裁。
(
1
3) 欧米では,モーターの他に自転車並の足踏みペダルを持つ型式を “
Moped”という 。 しかし,
0c
c形には, 自転車並の ペ ダルはない,そこで最後の文字は d の代わりに t として
日本の 5
“
Mope
t”という呼称ができた。 日本のものは「ペ ット」すなわち愛玩物の意であり,ベ ッ ドの方は
「ペダル」pedalの略称である。 ヨーロ ッパではこの機種にペダルをつけて,足踏みでも走行できる
塚清 『
オー トパイの歴史』 188頁
, 215頁。全般的には 50cc以下の原付 を
ことを条件と して いる。百5
指す名称である。
(
1
4) 日本におけ るスクーターの定義は 1
9
5
3年1
0月に日 本の貿易促進 を担っていた当時の通商産業省,
日本小型自動車工業会,メーカーなどの関係者によ って「スク ーターとは原動機を座席の下に設け,
2インチ以下であるような 2輪自動車を指す」という条項が存在
前方に足踏台のある,車輸の直径が2
3
技術と文明
1
5巻 2号( 4)
なっている 。
各メ ーカーが60年代中 頃から本格的な海外市場開拓に 乗 り出し て以来,高性能 ・高 品質そし
て圧倒的な技術開発カ・ 生産能力と柔軟な企業経営によって世 界 市場 の リーダーとしての帰る
ぎない地位を確立した。
日本の二輪車が世界制頼を果たした要因のーっとして富袋)
は,「
機 種 が き わ め て 多く ,万 般
の要求に応ず ること可能」であることを 述べて おり,また奥お)
比 ホ ンダの海外進出の特徴と
して,市場を先進国であるアメリカに求めたことをあげている 。
その特徴のなかで大型モーターサイクルはどのように展開したのか。戦後圏内の二 輪 車 産 業
での競争は,原付ならびに 小 型 ・中型二輪車の分野 で リーダー企業であ るホ ンダ、が先行し,同
じ静岡県浜松市を発祥地 とするスズキ ,ヤマハが追走するという構図の 中で,後発 のカワサキ
が大型モーターサイクルの分野で量産体制 を作 り 上げていたことによって, 日本の 4メーカ ー
が世界の 4大メーカーにな った。
二輪車はもともと西欧生まれの製品であり ,「西欧にサイクルの起点をもっ製 品」の範暗に
属するが,日本の大衆の足として定着 し
, 量産化技術と 結びっくこ とによ って
, 「日本 をサイ
クルの起点とする製品」 に生まれ変わり ,新しい展開を示すことになった。
今日 ,日 本の二輪車メーカーの強みは,突 出した個々の技術に あるだけでな く,全体として
のレベルの高さにあり , それが世界市場における二輪車の卓越した競争力としてあらわれてい
るのである 。 その中で大型モーターサイクルの高品質がこの競争を支えてきたといえる 。
本稿は日本二輪車産業全体の流れをとらえた上で,主力 機種である ロードスポーツ 車を 中心
として,大型モーターサイクルの技術ならびに市場競争の発展を見ていくこととする 。
した。小関和夫 『
カタログでふりかえる日本のスクーター』三樹苦房,2002年, 5頁。富塚清編
『
オートノ〈イとスクーター』 コロナ社, 1
9
6
1年
, 2頁。では,「
輪が小 さく ,フレームは前輸のすぐ
後方が著しく下 っていて,大またぎをせずらくに座席にかけることができるような二輪車の称」 とし
SCOOTER)正し くは MOTORSCOOTERであるが,日 本では苦から一般
ている。スクーター (
的にスクーターで通用している。
(
1
5) 通商産業省重工業局自動車課 『日本の自動車工業』 1
9
6
06
1年版,通商産業研究社, 1
9
6
1年,
1
0
61
0
9頁。
(
1
6) その他には, a.
1
9
5
5(
昭和 30)年頃,国を上げて の二輪車の大流行時代の到来。 b.
敗戦によ
り軍需工場壊滅。そこて嘩われた高い技術を持った人材が,数多く 二輪車界へ流出。 c.
生産設備が
すべて新設である為,世界最高水準の能率のものの採用が可能。 d.テスト方式が単 なる却J
によるも
のから期倒見。科学的方法が適用。 e
.製品は性能だけではなく意匠にもすぐれる。 f
.労働の質のよい
こと 。以上 7要因をあげている。富塚清 『
前掲書』206-207頁。
(
1
7) 奥村昭博 『
経営戦略』 日本経済新聞社
, 1
9
8
9年,5
47
4頁。
(
1
8) 大塚昌手J
I「
浜松地域におけ る二輪車工業地域の形成」
『地理学評ー論』5
8(
Ser
.A)9
,1
9
8
5
年,577
5
9
5頁で詳しく述べられている。
(
1
9) 衣笠洋輔 『日本企業の国際化戦略』 日本経済新聞社,1
9
7
9
年
, 255頁。
4
日本大型モーターサイクノレ発展史
1 大型モーターサイクルへの展開
|ー |
戦後二輪車産業の勃興と展開
第二次大戦前の 日本の二輪車の状況は,外国車のライセンス生産や輸入車の時代であり,む
しろ大型車の時代であったといえる 。 国内 生産にいたっ ては 1
940年には 3,047台を生産。 太平
洋戦争へ突入した 1941年を境に,害j
l
当資材の不足や労働者不足などを原因として,終戦時 45年
(
21
)
には 146台にまで減少した。 自動車も同じように 4
1年 45,682台から 45年 6
,892台へ減少する 。
戦後,二輪車の生産が爆発的に拡大するのは 50年代以降のことである 。 この段階ではガソリ
ンの供給が不十分であったこと ,安価で手!I
をな乗り物として実用に供されるには性能不足であ
ったことなどの理由に よる 。 49年 4月時点の二輪車 メー カーには 表 1
1に示すとおり ,現在
の二輪車産業を主導していくホンダやスズキ ,ヤマハやカワサキもまだ登場していない。
各社の二輪車参入時については,ホ ンダは 4
6年 1
0月に本田技術研究所として開設。株 式会社
本田技研工業として資本金 100万円をも って設立をみ たのが 48年 9月24日である 。バイクエン
ジンの増産の 中
, 本格的なモーターサイクルを指向してドリ ーム号 D型を完成させたのが49年
8月である 。織機の製造販売に従事していた鈴木式織機株式会社 (
5
4
年 6月に鈴木自動車工業株
9
9
0
年 10月現スズキ株式会社と変更)が経営多角化 のためにバイクエンジンの試作
式会社と変更。 1
に成功し,生産開始したのは 5
2年 4月のことであ る。完成車としては 54年 5月コレダ号 c
o型
90ccに始 まる。ヤマハは, 日本楽器製造株式会社 (現ヤマハ株式会社)が 55年 1月 YA-11
25cc
の製造した後,この時,資本金3000万 円 をもってオートパイ製造部門が分離独立, 55年 7月,
ヤマハ発動機株式会社とし て発足,分離以前より浜北工 場にて製造していた 二輪車を継続生産
(
2
6)
販売 した。
浜松市における二輪車産業は本田宗一郎 のアイディアに よって発祥をみたことは知 られると
ころである。戦後織機と ミシン 以外これとい った主力製品をもたなかった遠州地方の鉄工業界
に二輪車という新 しい分野の工業は笑に魅力 的であり ,全盛期には 40社にも 達す る業者の林立
(
27)
をみた。浜松市 を中心とした国内メ ーカーが発足し発展へと加速してい き, 50年代に入り 小型
(
2
0) 小型の二輪車そのものがないという意味において。1
9
3
6
年ごろ二輪車の黄金時代形成と して,
国産大型車では,
|箆王,アサヒ 。輸入車では,イ ンディア ン(
米)
,ハーレーダッ ビドソ ン(米) ,ア
リエル (
英
) , ノー ト
ン(
英
) ,BSA(
英
) ,ツンダップ(独) ,ノ ームローン(仏)
な どがあげられている。
, 1
9
6
3
年,2
2頁。
『日本小型自動車変遷史第 2巻』交通タイムス社
(
2
1) r
「
司
書
』 2
3頁
。
(
2
2) その問の事情については,山本惣治『 日本自動車工業の成長と変貌
』 三栄書房,1
9
61
年,1
13
1
4
9頁参照。
(
2
3) 自転車用補助エンジンのこと。バイクモーターとも I
I
乎
ぶ
。
(
2
4
) 本田技研工業編『ホンダのあゆみ』1
9
7
5
年
, 45頁。
(
2
5
) 1
9
0
9
年1
0月創業
。 1
9
2
0
年 3月1
5日,資本金5
0万円にて設立。鈴木自動車工業 『
7
0年史』1
9
9
0年
,
1
6
頁。
(
2
6) ヤマハエンジニア リング編『挑l
j
或(ヤマハ発動機創立の原点)
』 1
981
年
, 68頁。
(
2
7) 浜松商工会議所遠州機械金属工業発展史編集委員会『遠州機械金属工業発展史』浜松商工会議所
,
1
9
7
1年,8
5
38
5
5頁。
5
(単位台)
表 1ー | 二 輪 車 メ ー カ ー別 生 産 笑 績 表 (
1
9
4
6-62年度)
合判名
ド田f
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二裁
き
2
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業
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280
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1,!60
1,291
3,155
172
I,267
705
318
902
I,899
120
297
,
1
78
74'
1
48
476
189
994
I 848
342
108
104
174
68
145
42
376
807
86
目
18
50
120
290
709
307
933
29
2 666
2,811
5 671
13 987 56,
316
326
14
4,681
58.<84
4 938
12 770
9 643
6 706
3,826
2.315
914
5.757
3 029
90
1
69
5.
781
68.726
4 555
31.425
11,584
7
6,485
85.
2
9
:
l
1 046
25 444
8 691
7 406
5 724
I 669
6 496
4 487
I 880
l 653
7.050
11 683
4 485
3 843
300
105
1 2 •1
406
27
436
11 630
6.52'
1
29 419 20,632
17,966 6,610
576
3,567
4.926
5 233
7.853
4.274
4,580
3,031
2 920
4 201
3 517
8,31
9
3,931
3,650
3,982
I,800
961
14 517
30.34'
1
15 463
l,547
496
13
1 638
277
6,007
36.939
8,737
9.665
9,675
8 434
6,117
141
32
153
1 374
3,790
6 435
1 283
3,678
6 120
4 051
499
5
5,
607
28.442
6 791
6,698
7 653
8,429
6 381
4,022
6,497
4 044
3,934
2,690
I,848
3 059
1.1
56
l 686
825
I 056
l1
90
1,316
2 923
930
826
30
336
238
786
769
88
71
1
6
56
217
1
23
315
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19
99
8,356
110.
856
4,512
757
106,632 81.
457
注 1
9
54
年以前の二輪車には l
京十J
'
2種を含む.サイドカー, スクーターは含まず。
i
拍車変選史第 2巻』交通タイムス社
, 1
963
年, 4
24
5頁よ り作成。
出所 『日本小型自l
" 075
3 384
4,564
4.389
I,577
I 592
,
1.481
884
l 348
1 186
520・
481
1,016
2.947
580
461
345
328
23
42
377
5
9
l 180
5,907
1 401
319
375
178
191
3 206
668
781
1
41
1
52
225
480
1
3
9,777 18,195
69 859 70.105
’
s
12 333 16 252
5,14
:
l
9,
890
435
573
288
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60
61
666
352
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21
862
93
296
1
1
'
1 546 125.
096
1
05,869 .
267
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9,
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147,
814
330
143,300
100,988 97,432
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4 877
14.1
88
I 507
28,
1
16
93
1
5
55
I,593
298
132
2 023
3,282
1960
4 8<
1
8
665
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1959
3,771
I 261
1956
1 719
I,891
873
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1953
,
f
r
]
,
。
1
958
2 840
I,131
200
35
298
6
66
77
1955
I 243
I 807
819
2 150
1952
1962
1
961
8,591 I7 127
558
858
1957
2.557
I 935
569
371
270
30
88
88
32
50
17
1
954
120
I,971
I
.196
7,955
1951
日本大型モーターサイク Jレ発展史
5
0
0,
0
0
0
ι
4
0
0,
0
0
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3
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5
3
5
4
5
5
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6
5
7
5
9
6
0
6
1
6
2
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.
.
.
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4輪
一 + 一 中t
-.
愉
I 二輪車 ・軽自動車生産台数( 1
9
5
06
2年度)
注 1
9
5
4年以前の軽二輪には原付 2磁を含む。
出所 『
日 本小型自動車変遷史第 2巻』交通タイム社, 1
9
6
3
年, 3
1頁より作成。
表 1- 2 モーターショウに おける スポーツ車の出品状況
よ
1
9
5
8
1
9
5
9
1
9
6
0
1
9
6
1
1
9
62
1
9
6
3
1
9
6
4
1
9
6
5
N
o
.
5
N
o
.
6
N
o
.
7
N
o
.
8
N
o
.
9
N
o
.
10
N
o
.
1
1
N
o
.
1
2
2
3
6
8
8
1
1
.
5
1
3
.
2
2
1
6
0
3
1
7
6
0
3
4
6
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1
1.
7
1
2
6
0
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6
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2
0
.
0
1
0
5
3
2
1
0
1
8
.
9
2
2.
6
7
5
3
2
1
4
2
6
.
4
3
0
.
2
6
5
0
1
1
7
3
4
.
0
3
6
.
0
6
6
5
6
2
1
3
2.
3
41
.5
\ 〈 二 :ウ
出品メーカ ー 数
A
出品車中 2
5
l
c
c以 上の 車両 数 B
出品車中 スポーツ用の j
l
[
岡数 C
0
0
CI
A×1
0
0
(
B+C)
/A×1
出品翠統計
。
0
.
0
5.
0
出所安藤吉之助「日本の 2輪自動車の特質と世界における地位」『自動車技術』 1
9
6
6
, Vo
.
l2
0
,N
o
.l
,3
8頁より一部
修正。
車の需要が高まっていった。
カワサキについては, 50年の川崎機械工業時代 に単気筒エ ンジン K E-1150ccが完成した。
本格的 な二輪車の生産を開始したのは,上 記 3社に遅れ, 55年に K B-5エンジンを搭載 したメ
イハツ 125からである 。“カワ サ キ”のブラ ン ドとしてはじめてのモデルは, 61年 春 に 販 売 した
(
2
8
)
カワサキペッ トM 550ccで、ある 。
1は二輪 車 ・軽自動車生産台数( 1
9
5
06
2
年度)であるが, 60年代に入る頃まで軽快性
(
2
9
)
で勝る軽二輪車の需要は戦後日本の経済の底辺を支えてきたのである。 だカペ 軽二輪車は,
実
図1
(
2
8
) 川崎重工業町 1
1
崎重工業株式会社百年史(通史)
』 1
9
97
年,526頁
。
(
2
9
) 二輪車が始めて免許の種類として登場したのは, 1
9
4
7
年道路交通取締法であり ,その中で軽二
徐き , 4サイクル1
5
0c
c
, 2サイクルl
O
Oc
c以下とされ, 5
3
年に 4サイ クル250c
c
,2
輪車は,原付を I
サイクル1
5
0
c
c以下, 5
6
年に 4サイクル, 2サイクルとも 250
c
c以下とされた。
7
技術と文明
1
5巻 2号 (
8)
用的なデリパリーカーとしての性格がより強か っただけに,軽三 ・四輪の台頭で次第に下降線
をたどることとな った。
5年前後にはホ ンダを筆頭に約 30
社 も の会社 が そ れ
表 1- 1に示すように,経二輪車では, 5
ぞれ年間 1
0
0∼ 30,000台程度を生産している 。 6
0年に入り,ホン夕、、につづき ,ヤマハ, スズキ
の三社が 1
0,
00
0台を超える生産休制を築きあげる 。
寡占化された二輪車産業は,車種面から見れは、小 企業多種生産時代に本格的に突入した。 各
メーカーは圏内市場を拡大するために,あらゆる価格,用途にしたが った二輪車を生産し始め
た。
表 1 -2に示すようにモーターショウにおけるスポーツ車の 出品数の割合も高まり , 60年を
境として笑用車から,趣味的要素が強いスポーツ車へと国内ユーザーのニーズの移行が始ま っ
たものと思われる。
I 2
大型モ
6
0年代に入り,
タ サイクルへの礎
日本の二輪車は世界のト ップに伍す実力を備えていたとはいえ,その内容は
ホンダのスーパーカブ C
lO
Oに代表される原付や小型車クラスが大半であった。大型車は, 当
時はまだ外国車が主流を占めていた。
戦後の国産二輪車は外国車を模倣することからはじまり,その後, 小型車を 中心に独自の技
術を身につけてきたとはいえ ,大型車に関しては未発達である 。 中型車の場合でも,スポーツ
モテゃルの排気量 は250ccが中心て。あり,それをベースに排気量を上げて 300ccもしくは, 350cc
が精一杯のところであ った。
当時,すでにアメリカの排気量 250ccクラス以下の市場では, 日本車が席巻していたが,世
界的に大型車が主流となりつつあ った6
0年代後半においては,どれだけ性能が高い中型車であ
っても,外国車の大排気量がもたらすト ルクの余裕には敵わなか ったのであ る。 日本製は小中
排気量クラス,欧州勢は大排気量クラスとい った図式が, アメリカ市場では成立して いたわ け
である 。
ホン ダは国内 で生産する二輪車の半分以上 を輸 出してい たが, アメリカなど先進国 で求め ら
(
3
0) 国立国会図書館調査立法考査局 『
わが国自動車工業の史的展開』 1
9
7
8
年,26
9頁。なお,向調査
は天谷章吾担当し,ほぽ同じ内容で加筆 したものが,天谷主主吾 『日本自動車工業の史的展開』
(亜紀
書房, 1
9
8
2年) として 出版 されている。
(
31
) 4サイクル5
0
c
cて・
4.
5
psとい う当時では篤異的なパワーで発売。使い勝手のよさと高性能で幅広
いユーザーを獲得。現在でも活躍するベスト&ロ ングセラー車。本田技研工業 『
語り継ぎたいこと 』
1
9
9
9
年
, 4
75
2頁。
(
3
2) 1
9
5
5年にホンダ初の OHC単気筒!
として SA250
c
cと SB350ccを発売。 また 5
7
年には OHC2気
5
0c
cと C753
0
5
c
cを発売。ライラ ックは 5
9年に LS3
82
5
0
c
cと MF393
0
0
c
cを発売す
筒として C702
るなど軽二輪車ベースとしてエン ジンのボアを変更し自動二輪車でbある兄弟車を発売した。自動二
輪車専用設計はこの当時のホンダてもまだなか った。
(
3
3) モーターサイクリスト臨時増干j
lr
国産モーターサイクル戦後史』八重洲出版, 1
9
8
7
年 8月号,
5
4
9頁。
8
日本大型モーターサイクノレ発展史
れていた大型車のスポーツバイクは梨県〈 , これに対応すべ〈登場したのが65年の CB450である 。
450cc、
て既 存の 650c
c以 上の性能」をコンセプ トとして 作 り出 され,同社 と し て は初め ての
「
(
3
4
)
DOHC (ダフゃルオーバーヘ ッドカムシ ャフ ト)を採用
, 当時の国産車としては最高の性能を誇った。
「オー トパ イの王様 ですから 初 心者には おすすめできません」という 広告の 内容のものであ っ
た
。 これは,アメ リカ・ホ ンダの要請に 応 えて 開発したものであ り
, 当H
寺の 開発責任者,原 旺l
(
35)
義郎は,
1
960年のアメ リカの大型二輪車マーケットは,年間 6万台程度で, そのほとんどは英国製
で 占められていました。 日本ではさらに 小 さく ,月 に数百台という 市場に過ぎませんでし
た。量産を念頭において,
日本とアメ リカの両方で売れる 450ccクラスの 二輪車をつくろ
うと いう ことに なったのです。
と語っている 。
仮売戦略と原 因の発言から 判断すると , 450c
cの選択は 日米のマーケットを考慮し
囲内 での j
た経営戦略から 出てきたものと思われる 。さ らに,世界 GPで証明 してきた, ホンダの技術 力
cの排気量は 必要ないと 判断 されたのである。また,既存車種の倍程 度
をもってす れば, 650c
の排気量を量産する こ とは 国内市場にも不安があったとされる。
動 力性 能 に 関 し て は,表 1
3に 示 す よ う に イ ギ リ ス 車 の BSA, トライアンフ (
TRI-
UMPH)そしてノー トン( NORTON)などに 引けをとらなかったが, 当 H
寺の 日本車全般の評価
として,小排気量エンジンでスピードを 上 げるには,アクセルを 開け 回転数を高めに維持する
必要があった。 そのた め振動 ・制御 など操縦安定性 はよ い評価 を得 られず,結局伝統的 なイギ
リス大排気量車を越えるには至らなかった。
しかしながら ,量産車初 の DOHCを採用した高性能モテソレを身近なものとしたホンダの姿
勢は大いに評価 に値するものと思われる 。
その頃の他社の大型モーターサイクルへの動向 を見てみると , スズキ初の自動二輪車として
c2気筒の T500が 6
7年に発表され,翌日年に発売された 。 2サ イクルエン
空冷 2サ イク jレ500c
ジン とし ては世界最高で、,これにより スズキは原付ーから大型車まで, 2サイクル車をラ インナ
ップす るという他のメーカーには無い,
2サイクル専業メーカーの地位を確立してい った。
また
, カワ サ キは,傘下 に入った目黒製作所(以下,メグロ)から 引継いだ, メグロ K2をベ
ース とした空冷 4サイクル OHV2気筒の 650Wlを66年に発売 した。本来は対米輸出車 として
リリー スし,圏内はディーラーの注文のみの販売であ った。国産 二輪車としては最大排気 量 で
(
3
4
) 量産車という意味において。 1
9
6
2
年に CRUD5
0
c
cDOHC単気筒,市販レ ース車に保安部品を
装着した公道仕様が4
9台市場に出ている 。
(
35
) 本回技研工業 『
前掲書』 1
9
4頁。
(
3
6) Wor
l
dGr
a
n
dPri
xロードレース世界選手権のt
儲
か
。
(
37
) それ以前の最大排気量としては,1
93
5
年陵王がハーレ ーダビッ ドソンのコピー として陸王第 1
号車 1
2
0
0c
cとして発売。戦後も RQ75
0
c
c,VFE12
0
0c
cなどを生産,6
0年 RT I
I7
50
c
cが最終販売
。
その後はメグロが Kシリーズの最大排気量を生産。後にカワサキの傘下に入った。
9
技術と文明
1
5巻 2号 (
10)
表 |ー 3 ホ ン ダ CB450とイギリス主要大型モーターサイクル比 較表( 1
9
6
0年 代 前半)
会社名
司
王
名
エンジン
排気量
設 高 出力
率重
最高速度
BSA
A65
空冷 4サ イ ク ルO
I
I
V2気筒
6
5
4c
c 5
3ps
/7
,OOOrpm
1
9
l
k
g
1
8
5
km/
h
NORTON
650SS
空冷 4サ イ ク ルO
I
IV2気筒
6
4
6
c
c 4
9ps
/6
,800rpm
1
97kg
1
85km/h
TRIUMPH
Tl20
空冷 4サ イ ク ルOI
IV2気筒
6
5
0
c
c 46ps
/6
,5
0
0
rpm
1
83
k
g
l
7
7k
m
/h
ホンダ
CB450
空j
令 4サイ ク
ノレDOI
I
C2気筒
4
44
c
c 43ps/
8,
500rpm
1
87kg
1
80km/h
HugoWil
s
onTheENCYCLOPEDIAo
fTheMOTORCYCLE,Do
r
l
in
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s
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9
9
5より作成。
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9
8
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750SS
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T500
CB450
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2
3
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0
0
0
5
,
0
0
0
6
,
0
0
0
エンジン 1
1~;弘 数( rpm
7
,
0
0
0
8
,
0
0
0
)
図 1- 2 エンジン性能曲線(トルク出力)
注 N を回転数3
,
0
0
0として,CB450の場合,最大トルク 3.
8
8
k
g
-m/
7
,5
00rpmとして青1
n.o印は最高
トlレクの場所を示す.
T 二九r
n
x[
1j(N
,m
a
x
-N)
'
/
N
,
'm
a
x
J
j=N
,
'maxi(
N,max-N)2× (
1一
九/Tmaxl
=3.
88×
( 1-j(7500-3000)2/7500'
)
=7500'I
(7500-3000)2× (
1-3
.0/3
.8
8
)
樋口健治 『自動車工学』朝倉書店, 1
9
8
0年
, 4
24
6頁の計算式を使用。
実際のカタログの曲線は笑 i
l
¥
l
!
f
l
直を描いており,最大トノレク以降の下降線については傾斜度が強しこの
点については図と大きな誤差がある 。
同時に 50ccから 650ccまでの 「日本最大の車種揃え 」と いうキ ャッ チフレーズを行い,輸出で
好調であった 2サイクル車 Al 250cc, A7 350ccの中型スポーツなどにより,実用車からスポ
ーツ車メーカーへと脱皮をしてい った。 68年に WlSとして国内販売が行 われ, 53馬力という
性能とパーチカ ルツインエンジン独特の排気音から 人気車種になった。
上記車種など, 60年代の後半から日本の二輪車は次第に大排気量へと 向かっていった。
図 1 2は,各メーカーのカタログのデー タを元に求めた ,エンジン性能曲線を比i
i
変し たも
のである 。下線の車種は 3. lにて後述する。
1
0
日本大型モーターサイクル発展史
トライアンフなどイギリス車のエンジン性能曲線は公表さ れていないので,比較することは
できな いが,おおむね 650WlSに近いものと思われる 。
最大トルクの値はエンジンの回転数範囲に対して変動 11高が少ないほど,いい かえれば低回転
および高回転,
トランスミ ッションの 同ーギヤ位置に 対して駆動力の変化が少なくなり,低速
(
3
8
)
でねば り強 〈,高速では加 速がよく 伸びて使いやすいエンジン特性といわれる。
図 1- 2から 判断すると,
トップギアでも低速からスムーズな加速力のトルク感が得られる
イギリス車に対し, CB450は,高回転,高出力を保ちつつギアチェンジを必要とし,
トルク出
力が少ない。高速回転型エンジンが CB450の意外な弱点となった。
寺のトルク出力の少なきゃ,回転数に気をつけ運
また , T500は, 2サイクル特有の低速の H
転する必要があり, 加減速にお いてギアチェンジを頻繁にする必要がある 。
時代てやは, CB450や T500は
このように,スーパースポーツモテソレが650cc級の外国車主流の|
排気量に起因する操作性に劣っていた。 Wlについては問題がなかったわけではない。
(
39)
W lのエンジン設計を担当した,稲村暁ーは,
この機種は川崎として初めて米国へ輸出した 4ス トローク車にな ったのですが,パランサ
ーもない 2気筒 624ccものエンジンでしたから振動問題では大変に痛めつけられました。
アメリカの市場というものが判 っていなかったからでしょうが,
日本での使い方はでは楽
であ ったんです。 日本では考えられない高速連続走行を常時するので,車体の外装部品が
走行中に脱落すると言う事が重な ってアメ リカの販売網を演す気かと 言わ れたものでした。
この機種では無理であったのです。
と述べている。
つまり, Wlはイギリス車を参考にしたメグロの古典的なメカニズムであ ったため,すでに
人気のあ ったトライアンフと 比較対照され, 一時はアメリカの大型車市場から撤退することと
なる。
広大による新機種開発の模索の H
寺代であり,新時
以上のように, 60年代後半までは,排気量J
代を切り開いた大型モータ ーサイクルとはなれなか った。
2 大型モーターサイクル市場への進出
本稿では 1968年を国産大型モータ ーサイ クルの 出発点と位置づけ る。その理由の一つは,図
(
40)
2- 1に示すように戦後 200社以上のメーカーが淘汰され,また表 2 -1のように最後のスク
(
3
8
) 樋口健治 『自動車工学』朝倉書店,1
98
0年
, 4
24
6頁。
(
3
9) 自動車技術史委員会編 『自動車技術の歴史に関する調査研究報告書』1
9
9
9
年度,自動車技術会,
2
0
0
0
年
, 3
8頁
。
(
4
0
) 二輪車の生産を目指したものは 3
0
0
社近いがそのほとんどが, l
町工場程度で詳しい数字はわから
ない。出水力 『
オートパイの王国』5
7頁。また,富塚清 r
前掲書』 l頁。は1
2
0
社程度としている。
他には,昭和 3
0
年代には,2
0
0
社以上が林立し,およそ 2
7
0
1
:
:か
[ ら2
80
社の参入,退出があったとされ
ている。公正取引委員会編 『
高度寡占産業における競争の実態』大蔵省印刷局,1
9
9
2
年
, 2
3
2頁。
1
1
技術と文明
1
5巻 2号 (
1
2)
4
44
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0
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ハ
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数
2
0
0
0
一
一一I−+;の輪メーカ数
図 2ー l 二輪車メーカ と生産台数の推移
9
9
1年
, 5
7頁。生産台数は r自動車統計年
出所 メーカー数は,出水力 『
オートパイの王国』第一法規, 1
報』
,『日本の自動車工業』 日本自動車工業会,各年版より作成。
表 2- I 二輪車メーカーの撤退時期
年
内
容
1
955 モナーク,エープスター,その他の類似中小メーカ-~次倒産または廃業
キャブトン )
倒産
1
956 みづほ自動車製作所 (
1
958 トヨモータース倒産.北川自動車(ライナー)廃業.大東精機( DSK)転業.
1
960 昌和製作所倒産. 問中工業転業
1
9
61 伊藤機関(製品名 I
MC)廃業.丸小自動車 (ライラック) 倒産 ・ロケ y ト商会廃業.
1
962 富田製作所転業.
1
963 新明和(ポインター)転業.山口 自動車倒産 片山産業 (オリンパス)転業.
1
9
6
4 目黒製作所倒産,事業はカワサキに移譲.東京発動機倒産,会社更生法適用.
1
967 プ リジスト ン園内販売停止,のち 間もな く完全転業.
1
968 E
言士重工二輪車業停止.以後,ホンダ,ヤマハ,スズキ , カワサキの 4社体市I
]
.
出 所 富 塚 治 rオートパイの歴史』i
l
l海
堂, 1
9
8
0年,1
9
0-1
9
1頁ょっ作成。
ー タ ー メ ー カ ー 富 士 重 工 の 撤 退 に よ り そ の 後 現 在 ま で 統 〈 , ホ ン ダ , ヤ マ ハ, ス ズ キ , カ ワ サ
(
41)
キ の 4社 体 制 に な っ た こ と で あ る 。
(
41) 公正取引委員会編 『
前掲蓄' J 232頁には, 1979
年にはダイハツ工業株式会社も退出して,それ以
降は現 4社のみとしているが,同社は 74
年にキャブレターメーカーのソレ y クス(フランス)の姉妹
会社,サンファックス社製モペ ッ ドをソレ ッ クス( 50cc )として~!(i1j 入 ・ 販売したものであり,
75年
に原付 1種の 3輪車, ダイハツハローを生産している 。 自動車統計年報によると,上記 2車種を組立
車および原付 l種の 3輪車として,注釈ム 印にて表記している 。上記の表現であると 79年まで 4社 体
制になってない表現と間違えられる 。 また,ブリジストンは 1970年,穏高工業は 77年まで輸出 車 専
1
2
日本大型モータ
サイク lレ発展史
二輪車事業の撤退としてブリジストンは,
「BSのやることなら, BSのマークさえついていれば,必ず成功する 」 という過信からく
る市場調査不十分,技術力の看過,発売前の社内外でのテスト不十分,要因追求の不徹底
などが指摘されてもしかたない悲痛な体験であ って,後世繰返されるべきでない多くの教
訓を含むものとして記憶されなければならない。
としているように,同社は撤退によ って自転車 に専念し,上昇傾向 をたど り始め,自転車産業
のト ップメーカーの地位 を築いた。
日本の二輪車メーカ一群立の頂点は 53年頃であるが,翌年には落伍する会社が出始め,ホン
ダを筆頭に上位メーカーの生産は 向上し,品質も 良くなってきた 。 それに対応で きない メーカ
ーが, 55年∼ 65年の約 10年間に相次いで倒産し, また,ブ リジストンのように他 業種に専念す
ることになる 。
そして 出発点 と位置づけるもう 一つの理由はその年の秋の東京モーターショウにホンダが
CB750FOU Rを発表して,大型モーターサイクル時代の幕開けとな ったからである 。
2-1 ホンダ CB750FOURの登場
1
9
6
0年 代,世 界のスーパースポーツ率の代表はトライアンフの 650であ った。世 界ー の生産
台数や世 界 GPでソロ全クラスを 制 したホンダも大型車に関しては No.
lの車種がなか った。
国産の市販二輪車の最大排気量はカワサキ W lの 4サイクル 2気筒 650ccの時代で、ある 。
68年,第 15回東京モーターショーで,排気量,最高出力, 最 高速のすべてにおいて世界ー を
目指したスポーツ車が CB750FOURである 。量産車としては世界初の OHC (
オーバーヘ ッドカ
(
4
3
)
ムシャフト )並列 4気筒を搭載し,そのスペ ックは,ライバルの追随を許さない圧倒的なものが
あった。
(
4
4)
翌 69年 4月輸出開始し,同年 8月囲内発売した。 その年のモーターショウの講評には,
ホンダは名実ともに,世界第ー のオートパイの座を占め,……(中間各)ー…・なかでも 4ス
トローク OHC並列シリンダエ ンジンのモデルは人気の焦点であって,
ドライサンプ潤滑
方式, 5速トランスミ ッションの採用のほかに ,世界ではじめての試みとしてディスクブ
レーキを前輪に装架している 。
としていることからわかるように,発表 と同時に世界中が絶賛。囲内では 「ナナノ\ン 」 という
用として,販売しているがこれ らも含ま ない。
(
4
2) ブリジストンタイヤ 『
ブリジ ス トンタイヤ五十年史』1
9
8
2
年
, 3
6
4頁。
(
4
3) 量産車初の 4気筒モ デルはイ タリア M VAGUSTA600GTであり, D
O
I
I
C
,シャ フ トド ライ
ブのツーリン グ車である 。累計生産台数は 2
0
0台を満たない。Hugo Wilson THE ULTIM
ATE
MOTORCYCLEBOOK,Dorl
i
ngK
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yL
t
d
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,1
9
93
,pp.
1
0
7
.5
J
J
I冊モーターサイクリスト臨時
増干j
l『
輸入尊 1
0
0
年史』八重洲出版, 1
9
8
8年 1月号, 3
0
03
0
1頁
。 しかしながら,生産台数の少なさ
から CB750FOURをも ってf
量産車初の表現を用いる 。
(
4
4) 自動車技術編集委員会「第1
6回東京モーターシ ョウをみて」
『 自動車技術』V
o
l
.
2
3
,No
.
1
2,1
9
6
9
年,1
2
2
9-1
23
0頁。
1
3
技術と文明
1
5巻 2号 (
14)
言葉までも生んだ。 この CB7
5
0FOURが,現在につつ、〈マルチシリングー全盛時代の尖兵であ
り,真にホン夕、、の名を世界に知らしめた車である 。
開発に当た っての技術指標を次のように定めている 。
①ハイウエーにおける最高クルー ジング時速を 1
4
0
k
mから 1
6
0
kmと想定し, 他 の交通車両と比
較して十分な出力の余裕を持 って,安定した操縦性が保てること
②高速からの急減速頻度の多いことを予想し,高負荷に対する信頼度と耐久性に優れたブレ
ーキを装着すること
③長時間の継続走行でも運転者の疲労負担をi
i
を減できるよう ,振動,騒音の減少に努めると
ともに,人間工学に基づく配慮を 加 えた乗車姿勢,操作装置とし,容易に運転技術に習熟
できる構造であること
④灯器類,計器類などの大型化 をはじめとした各補器装 置は ,信頼度が高く ,運転者に正確
な判断を与えるものであるとともに,他の車両からの被視認性に優れていること
⑤各装置の耐用寿命の延長を図り ,保守,整備が容易な構造であること
⑥優れた新しい材質と生産技術,特に最新の表面処理技術を駆使した,ユニークで量産性に
富んだデザインであること
これらの趣旨を徹底し,世界 GPロードレースからの撤退後の次なる目標として,レース活
動で得た技術を市販車の高性能化 に活かすことにより ,試作期における企画の修正,設計変更,
改造,テストなどの開発工程の効率 を高め,短期間での量産ライン移行を綿密に計画すること
が‘で”きた。
また,生産ラインに関しても,埼玉製作所 (
現,和光工場)でエンジンを,浜松製作所で車体
を生産することにな った。 ホンダにと って初の大型機種であり,販売見通しを立てるのも難し
いことか ら,各工場では最小投資で済む汎周遊休設備をフル活用することとした。 だが,発売
と同時に人気 を呼び,パ ックーオ ー ダーを抱えるまでにな った。
市場調査は,既存の製品分野のニー ズを計ることはできても, CB750FOURのような,全く
新しい 市場を作り 出す製品には必ずしも通用しなかった。
専用機を持たなか った砂型クラ ンクケースの加工は量産に追いつかず,途中ですべて生産設
備を更新して, ダイキ ャストの金型クランクケースに変更 した 。 また ,人海戦術による暫定ラ
(
48)
インで増産に対応するなど,徐々にラインを整えていった。
販売台数 を急激に伸は、
してい った CB750FOURは
, 7
1
年 7月には車体の, 1
0月にはエンジン
の生産を鈴鹿製作所に移管する 。 これを機に ,長期的観点から二輸の車体組立ラインを L型か
ら直線化し,大型二輪車生産のための要員を,自動車工場からの補充を人選して組織すること
(
4
5) 本田技研工業 『
前掲書』1
9
5頁。
(
4
6) 『
同書
』 1
96
頁。
(
4
7) 出水力 『
オートパイ ・乗用車産業経営史」 2
1
5
頁。
(
4
8) 本国技研工業 『
前掲書
』 1
9
6頁。
1
4
日本大型モータ ーサイクノレ発展史
表 2-2 ホンダ CB750FOURと主要大型モーターサイクル価格表
9
6
9年頃)
アメリカ市場( 1
会社名
エンジン
車名
M VAGUSTA 600GT
最高出力
排気量
価格
空i
令 4サイクノレDOHC4気筒
5
9
2c
c
5
2
p
s
/
8
,2
0
0
rpm
$2.
8
8
9
BMW
R69S
~冷 4 サイクルOH V2 気筒
5
9
4
c
c
4
2
p
s/7
,O
O
Orpm
$1,
6
4
8
BSA
ROCKET3
空j
令 4サイクルOHV3気筒
7
4
0
c
c
60ps
/
7
,2
5
0r
pm
$1
,7
6
5
NORTON
COMMANDO 空 冷 4サイクルOHV2気筒
7
4
5c
c
5
6ps
/
6
,5
0
0rpm
$1,
4
6
0
TRIUMPH
Tl20R
~冷 4 サイクルOH V2 気筒
6
4
9c
c
5
0
p
s/7
,O
O
Or
pm
$1
,3
7
5
ホンダ
CB750FOUR
空 冷 4サイクルOHC4気筒
7
3
8
c
c
6
7
p
s/
8,
5
0
0r
pm
$1,
4
9
5
注当時の為替換 t
)
:
価
格
( $1=¥360)
で CB750FOUR(
¥5
3
5
.0
0
0)である
出所 HugoWi
ls
onTheENCYCLOPEDIAo
fTheMOTORCYCLE
,D
o
r
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gK
i
n
d
e
r
s
l
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yL
t
d
.,1
9
9
5
.本田技研工
業『諮り継ぎたいこと 』 1
9
9
8年より作成.
となる 。
様々な技術の導入した CB750FOURは
, CB450で得た教訓を生か し,それまでどのような
国産二輪車もなしえなか った圧倒的速さ を安全に 出し うる二輪車といえたのである。
表2
年頃)
2のホ ンダ CB750FOURと主要大型モーターサイクル価 格表
アメリカ市場( 1969
に示すように, CB750FOURは価格的にもヨーロッパ車をアメ リカ市場から放つの
に充分な競争力をもってなしえたのである 。
この CB750FOURの登場は日本の二輪車産業が生産・技術共に世界を 制 する時代の幕開けと
なった。
2-2 最速技術を目指すカワサキ
ホンダ同様,他のメーカーも打倒トライアンフをめざしていた。 カワサキがそうである 。当
時のトライアンフは大型モーターサイクルの最大市場である北米市場を販売戦略の中心として
考えてお り
, TRIDENTなどの一部車種は 北米市場専用として販売され, イギリス圏内では購
入することができなかった。
(
49)
カワサキは 1964年からアメ リカに輸出を開始した。 2サイクルの軽二輪車を主要輸出車種と
していたが, Wlの発表を先駆けに,カワサキは対アメリカ輸出戦略である スポーツ車を重点
として大型モーターサイクルへと移行した。一方 ヨーロッパへの進出は アメリカよりも遅< 67
年 3月から開始された。
世界市場における 250cc以下の小・中 型車ではカワサキ はどっしてもホ ンダ,ヤマノ\スズ
(
4
9
) 1
9
6
4年以前に関しては商社経由で輸出。 6
4年1
0月にロサンジェルス,6
5
年 7月にシカゴに駐在
仮休制へ切り替えた。明石工場編
事務所を設け, 66年にアメリカン ・カワサキモータースを設立。直j
纂委員会『明石工場 5
0年史』川崎重工業,1
9
9
0年
, 1
65
-1
6
6頁。アメ リカへの現地法人の設立は,5
9
年,アメリカ ・
ホ ンダモーター,6
0年,ヤマハ ・
イ ンターナショナル, 63年,
スズキ。先行 3社
u
s
と技術ともに販売面での競争も展開することになる。 日本自動車工業会編「モーターサイクルの日本
史』山海堂,1995年
, 5
5-5
6頁
。
1
5
1
5巻 2号 (
16)
技術と文明
キの 3社に迫るほどにはシェアを 伸 ばせなかっ た。 65年の国内総生産台数 221万台におけるシェ
アは, ホンダ66% , スズキ 15%,ヤマハ 11% そし てカワサキ 2 %であった。 しかしながら,先
に述べた よ うに,ホンダ以外に, 25lcc以上の排気量の車種においては突出したメ ー カーは無
く対抗する余地が残っていた。
そこでカワサキは開発コンセプトを世界最速のスーパースポーツ車に絞り ,「
ナナ ハン」を
意識した モデル, 500SSマ ッハ I
l
l(
輸出名 Hl)の生産を 68年 9月より開始し ,サ ンプルを各国
へ輸出。 69年 1月にアメリカ市場へ, 同年 9月国内販売した。得意分野の 2サイクルエン只ン
を生かし たモ ーターサイクルである 。
(
50)
当時の『川崎技報』には ,
並列 3気筒ーという , 2サイクル ・モーターサ イクルに 先例 のないエンジンの採用により,
500ccの排気量てイ憂に 7
50c
cを凌駕する量産市場最高の性能を発揮し,かっ半導体エレ クト
.
D
.
I
) を導入する等,
ロニクスを利用した無接点式点火装置( C
2サイクル車の極地を行く
もの として開発した ものである 。
その中で,モ ーターサイクルとして一般的な 2気筒をやめて,
①モーターサイクルとして
3気筒を採用した理由は,
m新さを持たせる 。
②ガス流路,有効面積の拡大と ,回転速度を 増大するこ とに より,
2気筒より遥かに上回る
性能が得られる 。
③気筒径が小 さくでき,冷却効果が大となる。
④力学上振動軽減ができる 。
⑤トルク変動率が小 さくなり , ミッション ,クラ ッチを 小型化することができる 。
技術的優位性を確保するという基本方針のもと,最高出力 60ps/7,
500rpm,最大トル ク5.
85
(
5
2
)
kgm/7,
OOOrpmを発揮, 174kgという軽さで、 200km/hの最高速をマークしたのであ る。
時ほぽ同 じく,ホン夕刊の CB750FOURが発売さ れ, 2サイクルと 4サイクルエンジンという
対照的な 500SSと CB750FOURとが世界に名を轟かせたのである 。
だが,世界最速の名をほしいままにしたカワサキが問題にしなければならなかったのは,排
気量の大 きさ である 。 250ccの差はいかんとも難しく,そこで,カワサキも 750ccの開発に着手
した。
7
1年 1
0月の第四回東京 モーターショウに 750SSマ ッハ N (
輸出名 I
12)を発表。 1
1月に発売し
た。表 2
3は重量車性能比較である が,設計上の狙いとして, 二輪車界で最高の性能を確保
するという基本方針のもとマ ッハシリーズの最高峰として市場の需要に応える形となり,アメ
川崎重工業円 1
[
1
1
崎技報』34
号,1969年,1
4
2頁。
『
同書
』 1
4
2頁。
最高時速 200km/hは,当時同社が製造する新幹線 「
ひかり 」に匹敵すると 言われた。
川崎重工業 『
前掲書』45号,1
9
7
1年
, 7
7頁。
カワサキ空冷 2サイクル 3気
筒
!一連のペッ トネーム。500SS(7ツハ I
l
l),750SS(
マッハ N)のほ
か
, 350SS(7ッハ I
I)1
9
7
1年 4月発売。250SS(7γ ハ I)
7
2
年 2月発売。の 4車種。
(
5
0)
(
51
)
(
5
2)
(
5
3)
(
5
4)
1
6
日本大型モーターサイ ク
/レ発展史
表 2-3 重量率性能比較
メーカ ー
車名
排気量
エンジン
(
c
c
s
/
(
力 排
/)
Q
気量 最
(
最
ps
大
/r
出
pm
力) 出
(
k
m
高/h
速
)
率
(k
g
重)
スズキ
T500
~I令 2 サイ ク ル 2 気筒
4
9
2 4
7/
6
,
5
0
0
9
6
1
8
5
1
9
0
ホン夕
、
CB500
空 冷 4サイ クルO
I
I
C4気筒
4
9
8 4
8/
9
,
0
0
0
9
6
1
8
0
1
9
6
カワサキ
500SS
空 冷 2サイ クル 3気筒
4
9
8 6
0
/
7
,
5
0
0
1
2
0
2
0
0
1
7
4
BMW
R69S
~冷 4 サ イクルOH V2 気 筒
5
9
0 4
2/
5
,
8
0
0
7
1
1
6
6
カワサキ
W2SS
~冷 4 サイ クルOH V2 気 筒
6
2
4 5
3
/
7,
00
0
8
5
1
8
0
1
9
9
TRIUMPH
T1
2
0R
~I令 4 サイ ク ルOHV 2 気筒
6
4
9 5
2
/
6
,
5
0
0
8
0
1
7
7
1
7
6
BSA
M KN
~冷 4 サイ ク ルOH V2 気筒
7/
6
,8
00
6
5
0 4
7
2
1
9
3
1
8
9
BENELLI
6
5
0
空冷 4サイ クルOH
V2気筒
8/
6,
8
0
0
6
5
0 4
7
4
1
4
5
ヤ 7、
ノ
XS1
~冷 4 サイ ク ルOH C2 気 筒
3/
7
,
00
0
6
5
3 5
81
1
8
5
7
MOTOGUZZI V-
~冷 4 サイ ク ルOHV 2 気筒
7
0
4 5
0/
6,
50
0
7
1
1
7
7
ホンダ
~冷 4 サイ ク ルOHC4 気 筒
7/
8
,
0
0
0
7
3
6 6
9
2
2
00
2
20
CB750
1
9
4
スズキ
GT7
5
0 水 冷 2サイクル 3気筒
7
3
8 6
7/
6
,
5
0
0
91
1
8
5
21
4
TRIUMPH
T1
5
0
~冷 4 サイ クルOH V3 気筒
7
4
0 6
0
/
7
'2
5
0
8
1
2
0
9
21
9
NORTON
7
5
0
空冷 4サイ ク
ノ
レOHV2気筒
7
45
空 冷 4サイ クノ
レOHV2気筒
7
4
5 5
5
/
6
,
2
0
0
7
4
1
8
5
空 冷 2サイ クル 3気筒
7
4
8 7
4/
6,
80
0
9
9
2
1
0
1
9
2
8/
6
,
8
0
0
8
8
3 5
6
6
1
8
5
2
4
0
6/
5
,
6
0
0
1
2
0
0 6
5
5
1
7
7
1
1
MATCHLESS Pカワサキ
7
50
SS
H
A
R
L
E
YD
A
IV
I
D
S
ON XLCH 空冷 4サイ クルOHV2気筒
H
A
R
L
E
YD
A
I
V
I
D
S
O
N FLH
出所
~冷 4 サイ ク ノレO H V2 気筒
川崎重工 業 『J
J
I
崎技報』 4
5号
,
2
0
2
1
9
7
1年
, 7
9頁.
リカでのカワ サ キ の 地 位 を不動 のものとしてい った。
2-3
2サイクルメーカーのヤマハとスズキの動向
ホン ダやカワサキ に遅れる こと なく , ヤ マ ハ と ス ズ キ も 大 型 モー タ ーサイ ク ル へ と 進出す る。
ヤマハは1
969年 の 第 1
6回東 京 モ ー ターショウで,
4サ イ ク ル OHCパ ー チ カ ル ツ イ ン 650c
c
XS1を発表し,翌 70年 3月発売した。 そ れ ま で ヤ マ ハ は ス ズ キ同様 2サ イ ク ル 専 業 メ ー カ ー
(
55)
であり , 初の 4サイクル車が大型車であ った。 設計を手がけた井坂善治は,
6気 筒 の 2気 筒 分 を 持 っ て き た の で す。 ZOOOGTが 7
5×75mmの 1987ccな の で , そ の 2気
筒ですと, 6
62ccになっちゃうので,ストロークを lm
m縮 め て 654ccに し た の で す。
そして, DOHCよりは SOHCの ほ う が 確 実 だ か ら変 更 し た 以 外 は,バ ル ブ の 挟 み 角 か
らパ jレフo径とかまでトヨタ Z
OOOGTのエンジンと同じなんですよ 。
(
5
5
)
ピ ッ クマシ ーン 増干lj 号『開発者が諮る 2 0世紀の 日本 の名 Ijl~ 内外出版,
頁
。
1
7
(
以下略)
2000年 12 月増刊号,
108
技 術 と文明
1
5巻 2号(18)
当時のヤマハは 二輪車では 2サイクル技術を得意としていたが,
トヨタ 2
000GT用 DOHCエ
ンジンを手がけていたため 4サイクル技術も合わせ備えていた。
4サイクル車を開発するにあた って,ホン夕、、やカワサキ同様,
トライアンフを目指していた
が
, CB750FOURや 5
00SSのような最速を目指すモーターサイクルではなく , トライアンフ同
様パーチカルツインエンジンを搭載しスリムを身上としたモデル車を選び研究するという手法
を用いていた。
0
0の登場から 3年後の 7
0年の第 1
7回東京モーターシ ョウに GT750を発表,翌 7
1
スズキは T5
年 9月に発売した。 これは 2サイクル専業メーカーの総力を結集 した国産初の 2サイクル水冷
3気筒エンジンである 。
J
O令式は 6
5年にス ズキ初
当時のスズキは,軽乗用車はすべて空冷 2サイクル 3気筒であり, ;
0
0が 2サイクル水冷 3気筒を搭載した。 GT750をはじめ,自動車のエ
の小型乗用車フロンテ 8
ンジン技術が大型モーターサイクルに大きく影響しているものと思われる。
ホンダやカワサキが最高速にこだわりを見せたのに対し , GT75
0の開発目標は,①最高 出力
6
7
p
s
。②最高速は 1
8
0
k
m/
hで低速から高速までフラットなトルク。③音質は低周波にして 2ス
] える 。④ メカ音低減。⑤耐久性があること 。⑤高速操縦安定性に優れ
トロークの甲高い音をが|
ることであった。
エンジン設計を担当した鈴木清ーは,
最高速はそんなに出さなくてもよいから,ツーリングバイクとして余裕を出すことに留意
したんです。 ・
・
・
ー ・(
中i
I
各)……低迷馬力と音質の点では,エキゾース卜部の連結管が効果
あったんですが,高速馬力が極端に落ちましてね。ア メリカからは文句がなかったのです
0
0
k
mにして
が,欧州からは最高速が出ないとい って
, 4型で連結管を外して,最高速を 2
います。
しかし ,開発コンセプトを超えた GT750の高性能は時代をハイパワーモーターサイクルへ
の開発競争へと向かわせることになる 。
以上のように,各メーカ ーが大型モー ターサイクル市場へ参入したのは 7
0年代前後であるが,
それぞれのメーカーが特色を前面に出してきた時代でもあった。打倒トライアンフを 目指した
ホンダやカワサキは最高出力を,ヤマハはスタイルをコンセプ卜に,スズキは 2サイクル技術
を中心に 開発が進んだものと思われる 。
こうした大型モーターサイクルの動向は,これまで安価,簡便な小 型車を量産しモテル ・チ
ェンジし て国内市場を開拓し てきた各メーカ ーが,安定成長期をむかえて価格,性能とも高い
大型車を生産し,その利潤を高める経営戦略をとりはじめたことを示している。
(
5
6) 1
9
6
7
年 5月発売。最高速度2
2
0
k
mのトヨタ初の本格的なグランドツーリングカー。搭載したエ ン
ジン「 3M型」
( DOHC
1
9
8
8
c
c
,1
5
0馬力)は トヨタとヤマハで共同開発し,ヤマハが生産。
(
5
7) 『問書』 1
5
9頁。
(
5
8) 『同書』 1
5
9頁。
1
8
日
本大型モーターサイクノレ発展史
そして, 7
1
年,第 1
8回東京モーターショウでヤマハが,7
/(
.(令 2サイクル 4気筒の G
L750を発
表したが,売買はきれなかった。アメ リカ市場での, 2サイクル車に対する 排 出ガス規制 がに
わか に注目されはじめたところである 。排 出力ス規制 について は 3 2にて述べる。
また,並亨l
j4気筒というレイアウトは,たとえコンパクトにまとめられているとはいえ ,ヤ
(
5
9)
マハの伝統 とする軽量 ・ス リムというイメージにはそぐわない, という抵抗 もあった。
CB75
0
FOURに端を発した大型モーターサイクルは,いずれも 3∼ 4気筒のマルチシリンダ
ーであり , その後,国産の大型モーターサイクルの王流はこのマノレチシリングーとな っていく
のである 。
3 市場の変化と それへの対応
1
9
7
0年前後を境として, 4メーカ ー とも大型モ ー ターサイクルの分野に 出揃うことになった。
しかし ,各メーカーはそれぞれオ リジナ リティを駆使した車種を発売したこともあ り同じ個性
を持つ車種の競合はなかった。 その中で,二輪車市場の大型化 は世界的にさらに要求がエスカ
レートし , それに応えるべく, 7
0
年代は高性能時代の幕開けとな った。
各メーカーのターゲッ トは打倒トラ イアンフから打倒 CB750FOURへと変化 し,追う 物 と追
われる者の構図から蛾烈な開発競争の時代に入り,国産大型モーターサイクルの 比類なき高性
能を生み 出すことになる 。
3-I カワサキ 9
0
0
S
U
P
E
R
4(
ZI
)の登場
0
0SSと,常に トップをねらった 二輪車造 りを自負して
国産最大排気量の WI,世界最速の 5
97
2年 8月
, アメリカ市場へ最大最速のスーパースポーツとして送り 出 した
いたカワサキが, 1
0
0SUPER4 (
Zl
) である 。
のが9
カワサキはW シ リーズ以外, 2サイクル車 中心に開発してきた。 アメリカでの市場調査では,
4サイクルが好まれた。 この 2サイクルを嫌つ理由として, 当時,カワサキ USAで市場開拓,
製品企画を担当した種子島経は,
“
安物だ” “
音が悪い ”
“ メンテナンスが面倒”
“性能が悪い” “
維持費が高くつく ”等,全
くの偏見で技術 的には間違っている場合も多く ,“少々の広告宣伝ではこの偏見は 引 っく
り返せない。やはりたくさん売るには 4ストローク ” と思わざるを得なか った。 自動車を
締めつめつつある規制がモータ ーサイクルに及んだ場合, 2ストロークではどうにも対応
できないのも目に見えていた。
と語っている 。
こうした こ とが, 7
5
0c
c4サ イクルが開発プランに練られていた。しかし,東京モーターシ
(
59
) 講談社編 『
われらがヤ 7 ハ・モーターサイクル』1
98
0年
, 7
07
1
頁
。
(
6
0) 種子島経 『
Zl開発物語』ライダーズク ラブ
, 1
9
9
0年, 6頁。
1
9
1
5巻 2号 (
2
0)
技術と文明
ョウで CB750FOURが発表されたため,開発は一旦中止 とな った。 その後,より完全なモータ
ーサイクノレをめざして,研究と実験が繰り返された。
カワサキはあらゆる点で CB750FOUR を凌駕することを考えた。 CB750FOURの SOHCに
3
6
c
cに対して Zlは9
0
3
c
cと,国産車
対して, Zlは DOHC とした 。 そして, CB750FOURの 7
50(MOTOGUZZI) を上回り ,ハーレーダビッド
では最大であ り,世界でもモト ・クッツィ 8
ソン( HARLEYDAI
VISON)に続く大型モーターサイクルとなった 。
2
p
s/
8
,5
0
0r
pm,走行性能は O∼ 4
0
0mが 1
2秒
, 最高速度2
1
0
k
m/h以上で 750SSよ
最高馬力は 8
り 8馬力 高〈,当時自動車の 1
2
0
0
c
cが7
7馬力であったことを考えると , その底力がわかろうと
いうものであった。
大排気量化にともなうトル ク出力に関しては,前出,図 1- 2に示すように 750SSなど 2サ
イクル車のトルクはエンジン 回転速度にいち じるしく影響され,低迷ではトルクが小さい。 Zl
など大型の 4サイクル率はトルクが低速からフラ ッ ト状態にあり ,高速道路など,加速をする
際にもト ップギアに入れたままアクセルをひねると,自動車のようなオートマチ ック的な操縦
カて可古色である 。
2サ イクルエ ンジンの特性上から発生する短所として福西は,燃費の惑い点など以外に,エ
ンジンブレーキが利かないことをあげている 。
ロードスポーツ車の極致として開発された Zl誕生の意義は大きかった。マッハシリーズに
代表される 2サイクルメーカーのイメージから
4サ イクルのカワサキのイメージを果たした
役割も大きく,この技術が後のカワサキ大型モータ ーサ イクル開発への大きな裏付けとなる 。
また, Zlの本格的量産ラインとして, 7
3
年
,
4サイクルエンジン専用工場(第 3
9
工場)が稼
(
64)
動。 4サイクル市場に乗り出したカワサキの新工場にかける期待は大きいものがあった。
, 7
5
0RS (
Z
2) が国内用として登場した。 メーカーの自主規制により圏内で売り出
同年 2月
すことができなか った Zlを圏内規定にあわせてスケールダウ ン した車種である。また , Zl同
様,ターゲ ットとしていた CB750FOURを超え ,国内においてもカワサキは最強モデルの座に
着いたのである 。
5
0
c
cモデルを海外で発売し , 同 じフォルムをもっ
そして,この Z2で用いられたオーバー 7
7
5
0c
cモデルを国内市場にという手法は, 9
0年代前半頃まで定石 手 段 として定着することとな
った。
(
6
1) 明石工場編纂委員会 『
前掲書』 1
7
5頁
。
(
6
2) 『
同書』 1
7
6頁
。
(
6
3) 福西豊二「二サイクルエンジンの技術開発状況」
『 自動車技術』1
9
7
2年
, V
o
l
.
2
6
,No
.
2
,1
13
-1
2
0
頁
。
(
6
4) 『
同書』 1
7
61
7
7頁。
(
6
5) ホンダの提唱により国内市場て•·t;J:750cc を超える相|気置は販売しない申し合わせが成立。 中沖満
『
オートバイクラフテイ 』C
B
S
・ ソニー出版, 1
9
8
4
年
, 1
6
7頁。 1
9
8
8
年に園内販売されることにはなっ
たが,出力に関しては l
O
O
O
c
c級で l
O
Opsを超えるものは国内販売されていない。
2
0
日本大型モーターサイク Jレ発展史
45.bo/~ )
4
0.
0
×
,
_
x
,
3
5.
0
冶
V
/
\
/
3
0.
0
/
\×
/
/
2
5.
0
,
,
2
0
.
0
,
,
/
)
(
演
?
,
,
.
、
--:-
~・2、~-
、
−、
,
タ
〆
、ーー、
、
、 ,
A
・一一−− −
.
;
イ
、
、
J
メ 園
a
、
,
/
〆
_
,
.
、
、
’
〆
,
、
,
−
/
1
5.
0
/
,
,/
1
0
.
0
a
/4一・’ − ’ "
v
ノ
5
.
0
0
.
0
ノ〆
_
−
_
>−官.
_−
__
−
_
−
_
.
−
ご
−
_
−.
;
・
令
,
,
1
9
6
5
6
6
6
7
6
8
6
9
,守
F
,
’
F
7
0
− ー ホ ンダ ー・ー ヤ マハ ーせ” スズキ
7
1
7
2
7
3
7
4・
'
I
"
一%ー カワサキ
図 3ー
|
メーカー別,生産台数に占める 2
5l
c
c以上の割合( 1
9
6
57
4年)
出所 r
自動車統計年報』 1
9
7
5年版, 日本自動車工業会, 1
6
2
1
頁より作成.
前章で述べたように,カワサキは大型車市場を戦略の重点とした。 図 3- 1は各メーカーの
生産 台数に占める 2
5lc
c以上の車種の割合であるが,カ ワサキは大型車の割合が他の 3メーカ
ーより大 きい。 このように Z
l
, Z2は現在 でも続く ,カワサキ大型モータ ーサイクルシリーズ
の原点であり,今日のカワサキの地位 を築いた車種であった。
3-2 日本メ ー力 一同士の燐烈な争い
(ホンダ)
かくしてホンダ CB750FOURの王座はカワサキ Zlに明け渡されたが, これが大型モーター
サイクルの需要に 拍車を掛けることになる 。 7
4年 9月に国産初の SOHC水冷水平対抗 4気筒シ
ャフトドライブ GL
l
O
O
Oゴールドウィ ングを 発売した。 打倒 Zlが開発コ ンセプトであ った が,
Zlのようなスポーツモテソレではなくアメリカ市場指向のロングツアラーで,国産大型モーター
サイクルのま庁たなジャ ンルを開拓したのである 。
当初は日本からの輸出車であ ったが,需要の増大に伴い,ホンダ・オブ ・アメ リカ・マニュ
ファクチ ュアリング (
HAM) で現地生産に切り替え , GLllOOとして, 80年に現地生産に切 り
替えている 。 アメリカでの高い評価を 受 けた GLは,ホ ンダの現地生産の発展に大きく寄与す
ることになる 。
7
5年 6月に CB750FOURの フルモデルチ ェンジ, CB750FOUR-I
Iは 4
in
tol集合マフラー,
国内初のリヤディスクブレーキ,キャップ埋込式燃料タンクなどで,性能,外観上 特 徴 とする
(
6
6
) 8
8
年には日本でも販売を開始し, 2
0
0
1年に GL18
0
0として排気量を 1
8
0
0
c
cに上げフルモデルチ
ェンジした。現在,ホンダ二輪車ライ ンナップの最高峰モテールのーって、ある 。
2
1
技術と文明
1
5巻 2号 (
2
2)
テザインであった。性能 は大きな変化はないが,大容量エア
クリーナーの採用により,静か
な排気音をセールスポイントとして発売された。 その中, 対 カワサキ Zl
,2
2系の機種として
は79年 の CB900F・CB750Fまで DOHCモデルは発売されなかった。
(スズキ)
スズキは 2サイクル メーカ ーとして磐石な基盤を築いていたが,石油危機や排 出ガ ス規制な
どによ って,その方向’性の転換を迫られることにな った。
表
3 1に示すが,アメ リカにおいて,モーターサイクルの排 出ガ ス 規 制 (
エミ ッション規
制)が適用された。特徴は, 82年のカリフォルニア規 1
1
1
1までは,日 C (
炭化水素)の排 出量 レ ベ
ルが比較的高いことである 。 これは H C排出 量の多い 2サイクルエンジンが,モー ターサイク
ルで多用されているためである 。 いいかえれば, 4サイクルならば十分にクリアできる規制 で
(
67
)
ある 。
そのような状況の中,ロータリーエンジンに目をつけ,コンパクトであること,排出カリス規
制を達成できること,性能が良 いこと などを基準にして検討がすすめら れ
, 70年 1
1月 NSU社
(
68
)
とパンケル社との聞に,二輪車に関するライセンス契約が締結された。 レシプロエンジンの
750ccクラスに匹敵する性能を目指し, 73年 東 京 モ ー タ ー シ ョ ウ に ロ ー タ リ ー エ ン ジ ン を 搭 載
した RE5 を発表。翌 74年に 海外モデルとして発売。世界初とな るパンケル ・シングルロータ
リ一式エンジンは,
7
]
<
.
(白冷というメカニズムを採用,ユニークなメカニズムとジョルジェ
ッ
(
70)
ト・ジ ウジアーロ (
G
i
o
r
g
e
t
t
oG
iug
i
a
r
o)の デ ザ イ ン に よ る デ ザ イ ン で GT750とと もにスズキ
のイメージリーダーとして発売された。 しかし, 世界的な石油危機により燃費重視の社会的動
向が強まり, RE5
は,排出カ、
ス 規制問題については有利なロータリーエ ン ジン車ではあ った
表 3ー | モーターサイクルの排出力ス規制ド
伏況
c
o
年 1月 1日以降生産車
1
9
78
1
9
8
0年以降年式車
1
9
8
2年以降年式車
全米'
J
'
J
i
¥
f
l
j
l
j
HC
1
7
g/
k
m
1
2
g/
k
m
カリ フォルニア規制
HC
c
o
4
g/
k
m
'
"
5∼ 1
5
g/
k
m
‘
ー
ー
←
1
2g/
k
m
l
g/
k
m
注 ※5
0
c
c以上 l
7
0
c
c未満5
g/
k
m.l
7
0
c
c以上は 5
g/
k
mから 7
5
0
c
cの1
4
g/
k
mまでエン ジンの容積にしたが って一律
5
0
c
c以上は 1
4
g
/
k
m
.
に増加.7
出所 後藤修 「
二輪車技術の現状 と将来J r
自動車技術』1
9
7
9年,V
o
l
.
3
3
,N
o
.1
,4
5頁.
(
6
7) 後藤修 「
二輪車技術の現状と将来」
『 自動車技術』 1
9
7
9
年
, VoL33,N
o
.
l
,4
5頁。
(
6
8) 鈴木自動車工業 『
前掲書』l
l
O頁。
(
6
9) スズキにおけるロータリ ーエンジンに関しては,山岡茂樹 『ロータリーエンジンン』第一法規,
1
98
8年,9
39
8頁で詳しく述べ られている。
(
7
0) イタリア人デザイナー。アルファロメオ,フ エラー ,
リ B M W等多数のカーデザインを担当。
l
7クーべなども手がける 。オフィス家具やカメラ,アノマレル等幅広いデザイン活動を国内外
いす>" l
で展開。
2
2
日本大型 モーターサイ クル発展史
が,時代の流れには抗しがたく,発売期間わずか l年余りという短命に終わってしまう 。
4サイクル率を求める傾向の時代の流れのなかで,スポーツ車として初めて手がけた 4サイ
(
7
1)
クルエンジン搭載車とな ったのが76年 GS750である 。 2年聞の開発期間を経て登場したこのモ
デルはオーソド ックスなデザインで 4気筒 DOHCエ ンジンを搭載していた。
特にエンジンについての重点的なねらいは次のようなものである。
①振動が少なく静かで‘あること 。
②ユーザー負担を極力避けるため,調整および整備性に優れていること 。
③長時間の高速運転で耐久性があること 。
④高速のみならず 中低速 もバラ ンスのとれた性能であること 。
⑤公害対策への配慮、として,ブローパイガス還元装置,騒音対策,無鉛化 ガソ リン使用が盛
り込 まれること 。
などである 。
他社のナナハンを大いに参考することにより ,品質の裏付けされた GS750は,耐久性の高さ
を認められ,スズキ 4サイクルの新たなイメージを確立 していくことになる 。
2サイクルにこだわり続けたスズキが, 4サイクルに移行してきた開発の背景にとして,
2サイクル ・エンジンは, 4サイクル ・エンジ ンに比べて,軽量小 型であり , しかも安く
て高性能という利点はあるものの,燃費や排気煙の少なさという点では, 4サイ クルに 一
歩譲らざるを得ない面もあ った0 ・
・
(
中
岡
高)
ーまた, 400cc以上の大型車では熱の問題
と性能上からも,必ずしも 4サイクルに勝るとはいえない点もあった。 そして何よりも市
場ニーズが, 4サイクル車を求める傾向を強めてきていた。 このような状況から,当社は,
排出ガ ス規制実施に先立って 4サイクル ・エンジ ンの開発に着手することにした。
としている 。
。
熱の問題としては,冷却行程(吸入行程)が 4サイクルに特有であ って, 2サイクルにはな い
また,性能も前節で述べたよ 7に 2サイク ν
j持有の操作性が欠点と考えられる 。
結果として,ヤマハと同じく , 4サ イクルへの進出は大型モーターサイクルである 。 そこに
は,軽自動車も 2サイクルから 4サイクルへ と移行の時期であ ったこともあり,開発にあた っ
ては一定上の排気量が必要だったことが考えられる 。 そして,
4サイクル車で大型モーターサ
イクルに進出することにより,技術は標準化への傾斜を強めて行った。
c
o
c
o
(
7
1) 1
9
5
4年に 4サイクルのコレダ号
型90cc,5
5年にコレグ号
型125ccを発売しているが, 57
年以降は 2サイクル専業となる。
(
7
2) 鈴木清一「スズキ GS750用機関」
『内燃機関』山海堂, 1977年
, V
o
l
.
1
6
,N
o
.
1
9
4
,4
6頁。
(
7
3) 鈴木自動車工業 『
前掲書』1
1
3頁
。
(
7
4) 『
同書』1
12頁。
(
7
5
) 鈴木自動車工業『 50
年史』1970年
, 1
6
6頁。
2
3
1
5巻 2号 (
2
4)
技術と文明
(ヤマノ、)
従 来 2サイクルメーカーであ ったヤマハも , XS
-1の成功 で 4サイ クルへと進出し てくる 。
7
2年 8月 TX750を発売。 同社初のナナハ ンは 4サイ クル 2気筒 OHCエ ンジンを 搭載,これは,
3気筒や 4気筒というマルチシリンダーに,ツインで対抗しよういう試みであった 。
(
7
6)
この年の東京モーターシ ョウには,ヤンマーが,様々な ロータリーエンジンの可能性の lっ
2
01を発表した。 しかし,発売までには
とし て, ZR330Z型エンジンをヤマハ率に搭載した RZ
5が一足先に発売されたこともあ り,ロー タリーエンジ
いたらなかった。上述したス ズキ REンそのものの評価が石油危機の流れ影響から,あまり好ましい評価を得ることができなかった
(
7
7
)
のが原因とされて いる 。
その後,ヤマハは, 7
3年 4月に 4パルフ守 DOHC 2気筒の TX500,7
5年 2月にビ ッグシング
6年 4月 DOHC3気筒の GX750とユニークな 4サイクルを発売した。
ルの XT500を。 そして 7
J
寺のヤマハ は DT12
5
0
c
cを初めとする小 −中型 2サイクルトレールモデルが市販車とし
当I
ての評価を高めていた。
ヤマハは ,一貫して小型 ・軽量 ・高出力なモーターサイクルを生み出し , 4サイクルにおい
(
78)
ても,そのコンセプトに基づき, XT5
0
0な ど に そ の 技 術 が 生 か さ れ,大 型 車 に お い て は
CB750FOURや Zlに対抗し ようとするモデルを発表しなか った。 カワサキやスズキが 2サイ
5
0
c
cを市販したのを考 えれば、,ヤマハは発表段階にとど ま り, 2サイ クルの 限界点 を察
ク
ノ
レ7
知し ていたのかもしれない。
(
79)
XS-1や XSl
lO
Oなどの設計を担当した水谷昌司は,
4ス トロー ク開発は 当H
寺の大命題で,最 大優 先事項でした。 この技術のために,お金をか
けさせてくれました。 当時先発のホ ン夕
、、
さんには, とても追いっけないだろうと思って い
5
年, 8
5
年の F
Z750で屑を並べられたと思っ ています。
ましたが,そ れから 1
(
以下略)
他 3社は最高速争いを 中心に技術開発を求めていたが,ヤマハはまだ, 4サイ クルの技術に
関してはコンセプ卜の違いから ,あえて挑戦せず,他社にはな い,気筒数の配列 などスマート
なイメージを製品に反映し大型モーターサイクルの中での楼み分け意識していたように思われ
る。
3-3 オーバー I£の時代へ
大型モータ ーサイ クルの進出により世界の二輪車市場を席巻した日本のメーカーは, 7
0年 代
後半以降は欧米を中心とした輸出用モデルの生産に力を注ぐことになる 。 こうした状況下で大
(
7
6) ヤン マーディーゼル。現ヤンマー (
株)
小型ディーゼルエンジ ン世界的 なノマイオ ニアとして知ら
れる,テ引イーゼル界の老舗。現在でも産業製品等においてヤマハとの間で相互供給契約を結ぶ。
(
7
7) ヤン 7 ーにおけるロータリーエン ジン に関しては,山岡茂樹 r前掲書』8
29
3
頁で詳し く述べら
れている。
(
7
8) ピック7 シーン増刊号 『
前掲書』1
0
9頁。
(
7
9) 『
同書』1
0
9頁。
24
日本大型モ
タ サイ クノレ発展史
型モータ ーサイクルは 1Q時代へと突入する 。 ホンダ CB900F
, スズキは GSl
O
O
O, カワサキも
Z
l
O
O
Oへとステップア ップした。 これらは AM Aスーパーバイクレースのレギ ュレ ー ション に
(
81
)
合う形で発売された。 アメリカ市場では, AMAの成績が販売に結びついた。ヤマハはクルー
ザータイプの XSl
l
O
Oをラインナップに揃える ことに なる 。 これらは全て 4気筒であるが, 7
8
年ホン夕、、は世界 1位の 二輪車メ ー カーと しての威信 をかけた DOHC4パルフ事空冷 6気 筒の
CBXlOOOを 発 売 し た。 CBXlOOOの 性 能 は 1
0
4
7c
c,1
0
5
p
s
/
9
,
0
0
0rpm, 最 大 ト ル ク 8
.
5
k
gm/
30
k
m/
hを発揮するなど国内でも人気が高〈 ,数多くの台数が逆輸入された。
8
,O
O
O
r
p
r
no最高速 2
3
0
0を7
9年に発売。 3
0
0
k
gを越える
そしてカワサキは水冷 DOHC 6気筒シ ャフ トドライブの 21
2
0ps
/
8
,OOOrpmの出力か ら相ま って最大の座を手中に収める 。 21
3
0
0に用いられた シャ
車重と 1
9
4
0年か らの歯車専門工場をもち,現在の歯車 ・トラン スミッ シ
フトドライブの歯車技術は, 1
ョン部門の技術をもっ, カワサキ の多事業部門にわた る強みである。
50
ccから 8
50
cc
へ
,
この間ヨーロ ッパの メーカ ーも モト ・グッツィはルマン系を 7
ドゥカテ ィ
(
DUCAT
I
) も7
50
c
cから 8
50
, 1O
O
O
c
cへと 排気量を 拡大。 BMWはフェアリングを装着するな
ど
, 日本メーカーの動きに追従した。
CB750FOURの登場以後, 2
1
3
0
0の登場をもってフラッグシップ争いがひとまず収ま った。
3-4 ターボ車の登場
1
9
8
0年代前半,自動車のタ ーボブームに呼応するように 4メーカーとも ターボ車を発売し た。
表 3-2は 4メーカーのタ ーボ率比較表であ るが
これまで 4メーカー ともあらめるエンジン
の開発に取り組んできたが,タ ー ビンに関しては全てが外注ということもあ って開発にはそれ
1
ほど多くの時間をかけることなく出揃うことになる 。市販化の先|俸を切 ったのは ホン ダで, 8
年に CX500TURBOを発売。続いて 8
2年ヤマハ XJ
650TURBO,ス ズキ XN85が 登 場。 カワ
4年に最後発かつタ ーボ車最大の動力 性能 をも って Z
7
50TURBOを投入する 。 しかし,
サキは 8
これら のモデルで後継車を出した のは8
2年に排気量を拡大 したホ ンダ CX65
0TURBOだけであ
3年までの生産で終了した。 カワサキも 8
5年に生産終了することになり , 5年と
る。 それも翌 8
いう非常に限られた期間のみ存在したモテゃ
ル
て
。ある 。
国内市場において運t
愉省は, ターボの必要性を認めず,むしろ危険なものとして,認可 を降
5
0
c
c以下の排気量 を持ちながら , ター ボは輸出 専用モ デルとなっ
ろさなか った。そのた め
, 7
たのである 。
4メー カ ー と も タ ー ボ専 用 車というものはなく ,例 え ば カ ワ サ キ は GPZ750をベ ー ス に
(
8
0
) Ameri
c
a
nM
o
t
o
r
c
y
c
li
s
tA
s
s
o
ci
a
t
i
o
n
.市販車ベースの改造レースによるもの。1
9
7
3
年にプロ夕、
クションレースが開催。7
7
年に正式にシリーズ戦となる。ロー ドライダー特別編集 『
AMAスーパー
バイク列伝』立風書房,2
0
0
1年,6
06
7頁。
(
81
) 前節で述べた ように,ヤマハは 8
5
年,FZ
75
0で本格的参戦する 。
(
8
2
) r
THEKAWASAKIZi
s
m』C
B
S
・ ソニー出版,1
9
9
0年,8
5頁。
2
5
技 術 と文 明
1
5巻 2号 (
26
)
表 3- 2 ターボ車比較表
会社名
発売年
1
981
1
98
3
1
98
2
1
9
8
2
1
98
4
ホン ダ
ホン ダ
ヤマハ
スズキ
カワサキ
ンジン
車名
排気量
:L
イク
ノレV型OHV2気筒
CX500TURBO 水 冷 4サ
イク
ノ
レ V型OHV2気筒
CX650TURBO 水 冷 4サ
XJ650TURBO ~l令 4 サイ ク ノレDO l-I C4 気筒
空冷 4サ
イク
ノレ
DOl-IC4気筒
XN85
Z750TURBO
~冷 4 サイ クノレDOHC4 気筒
最高出力
4
9
6
cc 82ps
/8,
OOOrpm
6
7
4c
c l
O
O
ps
/8
,OOOrpm
6
5
3
cc 85ps/
8
,500rpm
6
7
3
cc 8
5
p
s/7
,500rpm
7
3
8
cc l1
2
ps
/9
,OOOrpm
率重
タービン
2
3
9
k
g 石川島矯磨重工
2
3
0
k
g 石川島矯磨重工
2
3
0
k
g 三菱重工業
2
2
5
k
g 石川 島繕磨重工
2
3
3
k
g 目立製作所
出所 ヤエス メディアム' /1 ・
モーターサイクリス ト『日本モーターサイ
ク
ノ
レ史』八重洲出版, 1997年より作成
Z750TUR B Oが設計されている 。
ターボ車が市場に受け入れられなか った背景には,以下に示すようないくつかの理由が考え
られる 。①スロ ッ トルを開けてからターボがきいてノ マワーが立ち上がるまでのタイムラグがあ
り,峠道では扱いづ らい,②フレームとエンジンのバラ ンス上,自動車 は比較的余裕があるが,
二輪車の場合は出力向上に 比例して,尊重が増加する傾向があり , ブレーキ ,サスペンション ,
フレームなどに無理がかかる,③排気量の割には高価であり,ターボ付 よりも排気量の大きい
モデノレの方がニーズがあ った。
二輪車のターボはスペース的に難しいが,その技術が,ホンダやスズキは自動車に生かすこ
とができた。 スズキは, 550ccという軽自動車排気量枠 (
90
年 1月より現行の 660cc)で
, 2,000cc
よりも速い評判 を取り , 以降軽四輪=スズキのイメージを確立したアルトワークスは, XN85
での開発経験が大きく役立ち, 開発期聞の大幅な短縮が図られた。
その後の自動車界のターボ普及化 をみると ,再評価の時期が訪れる可能性はまだあると思わ
れる 。
ターボ車の時代は, 二輪車ブームの真 っ只中であ ったこともあり,その時代の熱気なくして
はターボモデルの開発も無か ったと思われる 。 その意味ではターボ車は 二輪車産業が活発であ
った時代の現れである 。
4 世界二輪車産業への影響
現在,世界の大型 モーターサイクルメ ー カーは日本の 4社を筆頭に , イタリアメーカー,ハ
ーレーダビ ッ ドソン,そして, B M Wが主要なところである 。
日本のメーカーが目標としてきたイギリスモーターサイクルメーカーはなぜ消えたのか。 そ
して,イタリアの中小メーカーがなぜ市場に存続しているのか, そして, アメリカ(ハーレーダ
ビッ ド
ソン
) とドイツ (
BMW)について も触れてみることにより ,大型モーターサイクルの特
(
83) ヤエ スメテー
ィア ム ック rホンダ50年史』八重洲出版, 1998年
, 60頁
。 なお, 二輪車におけるタ
ーボに関しては,単発的な製品の ため資料が少ない。
(
84) ヤエスメディアム ック ・モー ターサイクリスト 『日本モーターサイクル史』八重洲出版, 1997
年,514頁。
(
85) ピックマシーン増
干j
l
号 『
前掲書』 194-195頁。
26
日本大型モーターサイクル発展 l
J
.
!
.
微を探し出してみる 。
4ー |
イギリス 二輪車産業
日本の二輪車産業の成功の陰にはイギリ ス二輪車産業の衰退がある。アメ リカ市場で日本の
各 メ ー カ ー が 目 標 と し た の は , イ ギ リ ス の 大 型 車 で あ る こ と は,前 章で述べたが,
CB750FOURの登場以来,
トライア ンフ , ノートン,BSAなど イギリス車は撤退していった。
革新と優秀な製造技術を誇 ったイギリス 二輪車産業も 1
9
7
0年代後半には衰退の道をたどること
になる 。
イギリス 二輪車産業は, 1
9
一
世紀末に興 った自転車産業に続いて発展した。それに関連して,
エンジン ・ギアボックスなどのパーツを扱う産業も並行して拡大し ,2
5年には,約1
2
0のメー
(
86)
カーが存在した。BSAは3
0年に 1
7モデルを 揃えるなど,世界の二輪車産業を リードし てきたが,
3
0年代の不況で,小 さなメーカーがたくさん倒産し,市場は徐々に技術力のあるメーカーに独
(
87)
占されていき ,3
9年には 3
2社にまで縮小することになる 。
戦後以降は,ひとにぎりの企業に生産が集中し 5
0年代半ばになると ,図 4- 1に示すように ,
主 なイギリスの二輪車産業は AM C (
A
s
s
o
c
i
a
t
e
dMotorC
y
c
l
e
s)と BSAの二つの会社に支配さ
れるようになった。AMCは AJS,マチレス, ノート ン, ジェームス , そして, フランシス ・
(
8
8
)
ノ〈ーネットを 吸収し た。 また,BSAはアリエル,
ギ リス率の特徴とい えば,
トライアンフ ,BSAを一社に統合した。 イ
4ス トロ ー ク単気筒とパーチカルツインは典型的 なイギ リスのモー
ターサイクルとして知られるようにな ったが, 多くのモーターサイクルは戦前の設計をベース
にエンジン排気量を上げで性能を向上させたのである 。 その 中でも ,3
6年にアリエルからトラ
(
89)
イアンフへ移籍した,エドワード ・ターナー (
EdwardTurner)デザインのスピード ・ツイン
が3
7年に発売される 。 このモデルは,8
0年まで, トライア ンフの大型 モーターサイクルのベー
スとなってい る。 その後,優秀で排気量の小さい日本製モ ーターサイクルの出現に脅かされた
イギリスのメーカーは,より利益率の高い大型モーターサイクル市場へと退いていった。
BSAに移籍した,エドワ ー ド・ターナーが,6
0年に来日し , ホンダ,ヤマハ, スズキのそれ
(
90)
ぞれの工場を訪れた後,次のようにコメ ン トしている 。
「日本の二輪工業は, どのような根拠でこれだけ膨大な生産設備の増強を行っているの
(
86
)S
t
eve Koerner “
The Br
it
i
s
h motor
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c
l
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u
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93
0
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,March1
9
9
5
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.
5
8
.
(
87
) I
b
i
d
,
.pp5
8
.
(
8
8) Hugoo
戸c
i
t
.
,p
p
.
6
6.
(
89
) イギリスモーターサイ クルの賞金時代を築いた人物の一人。ア リエルH
寺代に,ジ ャック ・サン グ
スター (
J
a
ckSangs
t
e
r)
の下,デザインを手がける。サングスターがトライアンフ買収時には, ゼネ
ラルマネージャー兼チーフデザイナーとなる。 その後, BSA, トライアンフの要職を歴任。彼が後
世のモーターサイクルに与えた i
開 刑 訴|
り知れない。
(
9
0) 本回技研工業 「
1
2のf
j
;
l
l門で綴 る5
0
年」
『語り継ぎたいこと 』1
9
9
9
年。なお,本資料は CDROM
l
仮のため頁数の表記はない。
2
7
命心計吋一
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※l
1
951
1
9
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の名前だけが過去のなご(
りとな っている。
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1
966
倒産
洋骨司作持活
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NORTON)
AMCへ
トライアンフ
(
1
951
BSAへ
1
9
0
2
(
TRI
UMPH)
アリエノレのジヤン
ク ・サングスター
が 収
w
図4
注
︶
∞
I
I
1
936
↑
1
973
倒産
一
一
一
一
一
一 1983
※l
ヘ
1
977 一
メリデン労働組合 労働組合解散
トライアン 7の商業
織と資産がメリデン
労働組合に譲渡
I イギリス主要モータ ーサイク/レの系譜
BSAグループに入ったトライアンフなどは,別個に経常されるなど,統合されていても各々のプランドで製造されていた .
トライアン 7の名前
はジョン ・プ
と怖刷l
ロアに n
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f
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1
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AMCより SUNBEAM災収
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)
エンジン会社
BSAグループを吸収
ヴイヤーズと合併
1
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BSA
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B
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s)
1
9
6
6
5A
ノートン
トJ
日本大型モーターサイク/レ発展史
か。 これほど大きな生産設備を持つだけの十分な裏付けとなる調査は出来ているのか。私
には手さぐりに近い状態で企業の運営を行っているとしか思われないが。 まったく危険 な
ことである」といっていたが,彼の見方は正しか ったといわざるを得ない。
そして又, 「日本の二輪車市場は今や世界のト ップに立つものである 。 しかしこの市場
は,世界のどの市場とも異なる特殊なものであ って, 日本の市場で正しいといわれるもの
が,どの市場でも通用するとは思われない。 …・ (
中I
l
各)・…だから日本の 二輪工 業 が,
世界でただ一つの大企業としての旺盛な生産システムによってこのままの勢いで生産量を
伸 ばして いった場合, はたしてその結果はどうなるのであろうか」と暗に世界市場で日本
と競合してゆくことの恐ろしさを認めていた。
ターナーは,
日本のモーターサイクルの潜在力,生産力を無視できないものとし,帰国後,
レポートまと め BSAの首脳人に提出し たが,日本は小型車しか造 って お らず, それがアメリ
カで人気 を得ることは,モーターサイクルの購買層を広げる良い効果はあ っても , ヨーロ ッパ
(
91)
の大型モーターサイクル市場に悪影響はないというのが,彼らの一般認識だ ったようである 。
また,イギリス 二輪車産業界には「軽量率はおもちゃのようなもの。本当のモーターサイクル
は大排気量率である 」 など,軽 −中 量級スポーツ車市場を奪われでも,まだ楽観的な空気が漂
(
92)
っていた。
イギリ スメーカーは 5
9年 にアメ リカ 二輪車市場の 49%のシェアを誇っていたが, 66
年には日
本 のメーカー,とくにホン夕、がイギ リスメーカーにと ってかわ り
, ホンダ一社で市場の 6
3% を
占める までに なって いた。 日本メーカ 一三社 で85%のシ ェアに達することとなる 。 イギリスメ
(
93)
ーカーのシェアは 7
3年には 9 %まで落ち込む。
日本車の進出と同調して起こ ったイギリス 二輪車産業の衰退は,大型モーターサイクルの進
出で決定的となる 。
衰退した要因として,二輪車産業だけでなく ,戦後の イギリ ス経済そのものが競争力の低下
(
9
4)
していたことで重要である 。 その 中で二輪.産業では,次のような理由が指摘 される 。
(
9
1) 『ワールド MCがイド 14TRIUMPH』ネコ ・プブ リシング, 1
9
9
8年
, 5
3頁。
(
9
2) モーターサイクリスト臨時増刊 『
前掲書』 5
4
9頁。
(
9
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4
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(
9
4) 戦後のイギリス経済について,アレ ック ・ケアンクロス( Al
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,イギリス経済論の
パイオニア)は,次のような珪i
l由をいくつか指摘し,それぞれにコメントしている。
①低い投資水準一一これは原因よりも現象形態であり,追加投資がなされたとしても ,低い生産性
しか示さない場合もある。
②コモンウェルスの緩岐な市場成長一一 これは一時的なもので説得力に欠ける 。
③国際収支の悪化およ び輸出競争力の低下
これは 比較的広〈受け入れられている議論であるが,
0
年代はたしかに輸出が伸び,産業生産性
戦後の輸出地加の時に必ずしも成長率は伸びず,また 8
のや
わ びも 4%台以上とな ったが,しかし輸出以上に輸入がはるかに伸びたので,国際収支は好転
しなか った。
④経営者側あるいは労働者側に欠陥があるとするもの一一 問題は労働者の生産性がイギリスで低い
ということではなし生産性自体がなぜ緩慢な成長しか示さないのかということである 。生産性
を仰ばすためには,生産,製造工程,技術,設備,原材料,組織あるいは熟練などの改良が必要
2
9
技術と文明
1
5巻 2号 (
3
0)
①設計開発に十分投資をしなか ったこと , そして本格的な大量生産に踏み切らなかったこと
伝統的な 4ストローク単気筒とパー チカルツイン以外は,際立 って新たなものが製作で
きなか った。 多くのモーターサイクルは戦前の設計をベースにエンジン排気量を 上 げで性
能を向上させたのである 。
② 世 界 の レ ー ス で の 優 位 性 を 失 う ー イ タ リ ア , 日 本 の 台 頭 に よ り , 表 彰 台 を 失 う 。世 界
GP500c
cクラスでは, 19
5
1年 のノートンを最後にタイ トル を 取 っ て い な い。 BSAなどは
公式的にはレースに参加しなかった。
③ 輸出依存が強すぎたこと ー アメリカへの輸出依存が強〈,自国では買えない車種もあった。
輸入制限もせず,自国の市場も注意深〈見守る必要があった。
④度重なる経営転換,不振による共同経営一個性のあるメ ーカー, モーターサイクルが存在
しなくなった。 また,政治的政策にも影響された。
(
96
)
⑤重役たちがモーターサイクルの知識を持 っていなか ったこと
日本に対抗しようとした近
視眼的な経営が7
0年代の凋落を招いた。
ほとんど無抵抗に近い状況のまま,次第に窮地に追い込まれていくことになる 。根本的には
“外の声”を聞こうとしなかった経営陣の失敗である 。 その時代に,日本の多気筒エンジンの
スムーズさに,ユーザーが共感し,スポーツモテ‘ルの基本形となる 。 そして,古典的なイギ リ
ス車が取り残されたのである。
新 生 ト ラ イ ア ン フ は 90
年 に ジ ョ ン ・ブロア (
J
ohn Bl
oor) の 新 し い マ シ ン が ヒ ン ク レ ー
(
Hinck!
巴y)で造 られた 。 7
50ccから 1
200ccの水冷式, DOHCの
3気筒と 4気筒エンジンをスチ
ールノ fイプフレームに搭載。現在では,エンプレムだけが過去のなごりとなっている 。
4 2 イタリア二輪車産業
2
0世紀を通して,イタリアは絶えずモーターサイクルを生産し続けた国である 。 1922年ペニ
ート・ム ッソリーニ (
Beni
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i)が政権を握ると , モーターサイクルの一大生産拠点で
あった同国を,生産を増やすことによ って,経済を活性化させようと考える 。 このような状況
を背景にモト ・グッツィなどマン TTレー スに参加。イタリアのメーカーが世界のレースで活
である 。それらの改良をわれわれは革新と呼び,それは発明や科学的躍進にあるのではなく,利
益を生みだそうとする日常の商業的努力にある。
⑤戦争に勝利した国は,敗戦国よりも既存の制度に固執しがちである これについては,アメリカ
やフランスの例 をみると正しくないということになろう 。おそらく理由を 1つに限定することは
不可能であり , またたとえ 1つに絞ることができても ,時代や産業によってそれは変わらざるを
えないものと思われる 。結局,ケアンクロスによれば,経営者,労働者の対応の問題を一番重視
し,それが多分に文化的要因に左右されていると指摘した。湯沢威編『イギリス経済史』有斐閣,
1
9
9
6年
, 2
5
22
5
3頁
。
(
9
5) 1
9
6
0
年代,ウィルソン政権下につくられた産業再組織会社は,イギリス企業に合併を奨励する
ことが世界規模を作り出すという誤った理論がもとになっていた。土岐坤ほか訳 『
前掲書』 1
51
頁
。
(
9
6) BeartHopwood Wh
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3
0
日本大型モーターサイク/レ発展史
躍できるように融資による援助が始まる 。 しかし,敗戦と同時にムソリ一二時代のモーターサ
イクルは人気を失う 。
その後,ベスパ (
VESPA)などスクーター などが大量生産されるようになる 。世界 GPでは
M Vアグスタ (
M VAGUSTA)が活躍。図 4
2に示すように,
ドゥカティ, M V,ベスパ,
そして,カジパ (
CAGIVA)の前身のアエノレマ ッキ (
AERMACCHI)などは,戦後に登場して
いる 。
5
0∼ 6
0年代には,ほかの国々と同じように安い自動車が出始め, 5
7年に発売されたフィア ッ
ト5
0
0(
FI
AT)のような大衆車の登場によ り不況を強いられる 。 さらに 6
0年代末にイタリア市
場に登場した日本車は,生 き残 っていたメ ー カーを 一段と苦しい状況に追い込むことになる 。
ハーレーでさえこの動きを無視することはできず,アエルマ ッキを買収して,軽量の OHVロ
ードスターを ,ハーレーダビッドソン ・スプ リン トの名前で,アメリカ国内向けに販売するよ
うにな った。
6
0年代を生き延びたメーカーは 7
0年代に入ると,海外市場の需要から,大型モーターサイク
ルを生産するようになり,モト ・グッツィ,
ドゥカティ,ラウホエルダ( LAVERDA)など は海
外市場でその名を広めていく 。 この頃,世−界の二輪市場は日本を除いて衰退の方向にあ つたが,
z
イ夕リア政府は自国の二輪車産業を保 菱するため, 3
80
c
cて
車の輸入をほぼ全面的に禁、
止 している 。 イタリアは!I
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命
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J限 を敷くことにより,製造業の基盤
が守られていたため,優秀なモーターサイクルの生産を続けることができた。
現在,モト ・グッツィ , ラベルタを傘下におさめたアプリリア (
APRI
L
IA)はヨーロ ッパに
おいて, 50ccから 1,000ccと二輪車の全カテゴ リーをカバーする l
唯一 のメーカーとなった。完
4万台に達している 。会社は現在 1,
7
5
0人の従業員を抱
成車の合計生産台数が 2000年には,約 2
え,これ以外にも関連事業部門で3,500人 を雇用している 。アプリリアがロードレース世界選
手権に参戦して 以来,レー ス活動で達成した結果は,市場の堅調な成功として 表れている 。
アプリリアのように規模が拡大してきているメーカーもあるが,イタリアモーターサイクル
メーカ ーの多くは,中小企業である 。しか しながら,国際競争力を 誇 るイタリア企業の 多くは,
国際的な水準から見れば中小企業がほとんどである。
大型モーターサイクルに関しては, L型ツインはドゥカティ ,縦置き 9
0度 Vツインはモト ・
グッツィとメーカーの顔ともいえるエンジ ンを持ち,エンジンの個性とイタリア的なデザイン
を差別化することによって成功している 。 モーターサイクルにかぎらず,イタリア企業は,製
(
I
田)
品テザインが優れていると同時に,加工技術でも想像力に富んだイ ノベーターである。
(
9
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9
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高衡正訳
『ドゥカティ ・ヒストリー』グラ ンプリ出版, 1
9
8
7
年
, l
l
O頁
)
。
(
9
8) 崎谷哲夫 『
ホンダ式大成功への海外戦略』ジ ャテ ック 出版,1
98
6
年
, 5
8頁。
(
99
) 土1皮坤ほか訳 『
前掲書
』 s
o
頁。
(
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司書
』 81
頁
。
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再登場再々登場
図 4- 2 イタリア主主Eモーターサイクノレメーカーの系図
注.カジパグループに入ったドゥカティなどは,統合されていても各却のブランドで製造されていた.
日本大型モ ー ターサイ JI
レ発展史
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1
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図 4- 3 イタリア二輪車生産台数
1
98
0年までは, 5年ごと, S
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e以上の 7
0
年までの数値は未記載 CKD含む.
『
主要国自動車統計』 2
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0年
, 日本自動車工業会, 1
1
9頁.2
0
0
0
年以降は,本回技研工業広報部世界二
0
0
4年版, 7
7頁より作成.
輪車概況編集室 『
世 界二輪車概況』 2
注
出所
図 4- 3に示すように, モーターサイクノレとモペットを含めた, イタリアの二輪車生産台数
は80年に 141万台を境として, 92年には約 56万台と半減し,近年では, 100万台を割っている 。
その中て・・, 50lcc以上の大型モーターサイクルは, 増加の一 途であり, 2003年には始めて, 1
0
万台を超え,今後も個性的な車種の登場が期待される 。
4-3 その他の国(アメリカ,
ドイツ)
(アメ リカ )
アメリカの二輪車産業は 90年以上もの間, もっぱら Vツインと呼ばれる形式のエンジンだけ
を使用し, 現在は,ハー レーダビッ ドソ ン一社である 。
アメ リカ の二輪車産業は 1910年代にインディアン( INDIAN)がi
:
!
:界最大のメーカーににな
った。 しかし, 08年に発売さ れた T型 フォード( FORD)の 出現により市場は縮小してしまう 。
20年代半は、には, インディアン,ハーレー, そしてエクセルシャー( EXCE
LSIOR)の 3社にな
(
I
O
I l
位)
ったが, 31年エクセルシャーが撤退。 インディアンとハーレーが国内市場で争うことなる。 40
年代の末期, イギリスからの輸入率がアメリカ市場に進出する 。インディアン は Vツインをは
(
I
田
)
じめ, 直列 4気筒や並列対向 2気筒の “ヨーロ ッパ ・タイプ”を続々と生み出したが,新しく
(
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5年,日本製のハーレーのちの 「
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箆王」が誕生する。陸王は第二
(
1
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) ハーレーの海外進出で唯一,1
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9
三
当時のものであった。パイプズ 10周
次大戦を挟んで60年代 まで生き続けたが,その基本設計は 3
年記念特別編集 r
鼓動の見開銀』ディ・アンド・エー,2001年
, 24-27頁。
(
1
0
3
) 小関和夫『単車ハーレーダビ ッ ドソン』池田書店, 1
980
年
, 1
2-1
4頁
。
3
3
技術と文明
1
5巻 2号 (
3
4
)
表 4ー l ハーレータビ ンドソンの経営指標
1
98
2年
米国市場シェア (
6
5
lc
c以上)
出荷台数
売上高
営業利益(損失)
従業員数※
1
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3
2
,
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0
21,
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0万ドル
(
1
,5
5
0万ドル)
2
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2
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6年
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0万ドル
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人
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注 推定 (
子会社のイー グ
ノ
レマ 1 ・7 7イナンシャノレ サービスの従業員を含む
)
出所 R
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(
伊豆原弓訳『ハ
レーダピ yドソン経営再建への道』勿旅社, 2
0
01
年
, 3
1
5頁)
登場したモデルは信頼性が低〈 ,競争力のない製 品であ ったため に結果は 完全 な失敗に終り ,
53年活動を停止。 以後ハーレ 一一社となる 。
59年以降,ホンダを中心とした日本車がアメリカ市場に大量に 輸入されるようになり,中で
も日本のメーカーは需要の多い小排気量のモーターサイクルの輸出に力を集中する 。
そこで,ハーレーは日本の挑戦に対抗するために , 60年, イタリアメーカーのアエルマ ッキ
と提携。成長中の小・ 中型モーターサイクル市場 に 参 入。 自社のティーラー網で同社の小排気
量 モ デ ルにハーレーダビ ッ ドソンの名を 付 けアメ リカでの販売を開始。 しかし,ハーレーは
小・中 型車の シェアを確立することに失敗する。最大の原因は, ディーラー網の反対 であった。
テ ィーラーの利 益率は,大型モーターサイクルのほうがはるかに高〈 ,小・中型 モーターサイ
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(
I
刷
)
クルは,ハーレーの主要顧客にと ってイメージを損なうと考える向きが多かった。 そして,経
営不振により 78年にはカ ジパに売却する。
60
年代末期はアメリカで企業の買収熱が増していた時期だ った。生産よりも 他 企業を買収す
(
I
恒)
ることで成長するコングロマリ ッ トの力が強大になっていた。
(
1
凪)
ハーレーは 69年 に AMF (
AmericaMach
i
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e& Foundr
y)と合併するが, A M Fは 資本 と 資 源
(
I
前
)
を持っていたが品質管理は低劣であ ったために ,ハーレーの経営陣は 81
年 に 会 社 を買い戻す。
しかしながら , Z
lをはじめとする , 日本車のリ ッタークラスの登場に , 73年 に 約 80%を誇った
850c
c以上のモーターサイクルのシェアは, 83年には 23%にもなった 。 このためレーカ、ン政権
(
I
曲)
は不振にあえぐ 国内二輪車産業にも ,保護関税を適用した。 83年 4月レ ー ガン 政権 は ITC (
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伊豆原弓訳 rイノーベーションのジレンマ』朔泳社,2
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)
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4-1
1
6頁
。
(
!
白) 香山智子構成『ハーレーダビッドソン物語』グリーンアロー出版社, 1
(
I
)
侃 AMFは,もともと 堅実経営を守ってきたコングロマ リッ トで,資産の大部分は,たばこ製造 ・
製パン用機械などの工業製品の製造に関係していた。6
0
年代に経営多角化を目指し,レジャー用品業
界に進出を始めた。 Ri
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伊豆原弓訳 『ハーレーダビッドソン経営再建への道』掬泳社,2
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年, 2
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高薪正訳 『
ハーレーダビ ッ ドソン 8
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年史』グランプリ出版, 1
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年,3
2
83
3
9頁
)。
(
!
O
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) 伊豆原弓訳 『
前掲書
』 1
5頁
。
3
4
日本大型モーターサイクノレ発展史
c以上の大型モーターサイクルに初 年度それまで
際貿易委員会)の勧告を入れて, 日本製の 700c
の4.
4% 比べ,実に 1
0倍 以上の 45%という高率関税を i
(
愉入課徴金)を適用す るとの決定を行つ
(
I
朋
)
た。
その後需要が増加 し製品も改良されてい ったこともあり, 80年代の後半には劇 的な回復を為
し遂げ, 2002年には 同社初の水冷 V ツインを搭載した V-ROD (
1
13l
c
c)を発売している 。
ハーレーの復活が成功した理由には,誇りある過去と復古趣味の流行があった。なにより V
ツインへの こだわりが, 100年のモーターサイクルづくりの歴史が,販売されるモーターサイ
クルの一台一台を支えていたのである 。
(ドイツ)
ドイツはモーターサイクルを生みだした固として知られているが,かつて大量生産を行 った
メーカーの 中では,唯一 B M Wだけが現在生き残 っている状態である 。
戦後,東西ドイツにわかれ, B M Wは西ドイツ側につくものの,戦後の時期にいくつもの危
機を乗り越え, 1960年代半ばには安定してきた。 60年代, 70年代はドイツ圏 内が繁栄期に入り ,
多くの人が自動車を貰えるようになるとモーターサイクルの需要は減り ,隆盛を誇ったドイツ
1
87
3
年設立,現ア
の他 メーカーにとっても苦難の時代がや ってきた。王なメーカーでは, NSU (
)
) は, 1955年には年間総生産台数343千台を誇る 世 界最大の二輪車メーカーであ
ウディ( Audi
った。その 中
, 自動車の販売に望みをかけ,ロ ータ リーエンジンの開発に集 中的 に取 り組む こ
とにより, 63年にモーターサイクル, 65年にモペッ トの生産を 中止する。また , 30年代 にいた
るまでは世界最大のメーカーで, 2ストロークで定評のあ った,D K Wも58年にヴィクト リア
(Vi
c
tor
i
a)と エ ク ス プ レ ス ト (
Exp
re
s
s
)と合併 し, ツ ヴ ァ イ ラ ッ ト ・ユ ニ オ ン ( Zwei
r
a
d
Un
ion)を作ったが, 66年ハーキュレス( He
r
c
ul
e
s
)と合併。 しかし , この間にドイツ市場が崩
壊 して しまったため, B M W以外は姿をけすことになる。
B M Wにおける 戦後直後の動きと して, まず 6
0c
cまでの二輪車の生産許可が下り , B M Wが
モペッ トの生産を は じめる前に生産がゆるめら れ
, 49年に 250c
c未満の モー ター サ イク ルが作
れるように なった。 50年 500c
c,51
年全面解除 され, B M Wの生産が本格的になった。
B M Wの特徴は水平対向エンジン,すなわち ボ クサーエンジンへのこだわ りである 。 B M W
は23年に第 I号車の R32を発売した。 80年以上経過した今 日でもボクサーエンジンと一体ミッ
ション, シャフト駆動の構成は不変のものである。モーターサイクルにおいてボクサーエンジ
ンは B M Wのイ
t名詞とな っている 。 この点についてブルース ・プレストン( BrucePreston)が
(
1
)
的 下川浩一『自動車産業脱成熟I
時代』有斐閣,1
9
85
年,26
0頁
。
(
1
1
0) アウデ
ィ ・ジャパン「TheAudiN巴wsL
e
t
t
巴r
」1
9
9
9
年,No.
2
, 4頁
。
(
l
l
l) 別冊モーターサイクリスト |
綿H
寺増刊 『
前掲書』 2
312
3
3頁。
(
1
1
2
) Bruc
ePre
st
onBWM: TH
E COMPLETE STORY
, TheCrowood Pres
s,1
9
9
0 (高痴正訳
『
BMWモーターサイクル史』グランプ リ出版,1
9
9
2
年
, 8
7頁)
。
(
13
) 『
ワールド M CYゲイド 7BM W(
改訂版) 』ネコ ・パブリシング, 20
02
年
, 3
6
頁。
3
5
技術と文明
1
5巻 2号( 3
6)
(
11
4)
時代背景について述べている 。
B M Wの歴史のこの時点で興味深いことは,戦勝国は好きな設計を採り入れることができ
たのであるが,西ヨーロ ッパのモーターサイクルメーカーは, どこも B M Wの水平対向モ
デルのコピーを作らなか ったことである 。 ・
・
ー (
中略)… −イギリス最大のモーターサイ
クルメーカーであ った BSAが
, B M W・R5
1の生産を考えたが, コストが高すぎるので諦
めた, といわれている 。
プレストンの言うようにボクサーエンジンは BM Wのオリジナルとなり ,今日まで続いてい
る。 品質面に関して, B M Wは当初から現在に至るまで,安〈作るために妥協するといった事
(
15
)
はせずに ,優れた品質を維持するというポリシーを確立していた。 また, BSAも戦前のモデル
が,選E
牛性や整備性の信頼度が高〈評価 されていたことも考えられ,結果として B M Wのみが
ボクサーエンジンを扱うことになる 。 だが, B M Wの特許であ ったテレスコピックフォークは,
(
1
1
7
)
世界で生産され始める 。
(/
] 令直列 4気筒の Kシリーズ,そして,水冷単
現在は,空冷水平対向 2気筒の Rシリーズ, 7
気筒の Fシリーズを発売し,全車種が大型モーターサイクルで,自 動 車 同 様, 高級車ブランド
として位置づけられている 。
5 スタンダー ドモ デノレの確立
ホンダ CB75
0FOU Rにはじまり空冷並列 4気筒てい出揃ったメーカーは, 様々なエンジンの開
発に挑んでいきた。 エンジンの高出力化に合わせ, 8
0年代後半に水冷並列 4気筒で出揃う 。
スズキは空冷エンジンを基盤とし,シリンダーヘ ッ ド面にオイルをジェ ッ ト噴射することに
(
US
)
より冷却性能を高めた油冷エ ンジン GSXR750を開発。
これら 「インライン 4」エンジ ンレイアウトは, 国産高性能二輪車の代名詞となる 。
表 5- 1は国産水冷並列 4気筒750ccスタートラインナ ップであるが,ホ ンダ CB系,ヤマハ
FZ (YZF)系,ス ズキ GS系, カワサキ Z系と ,今日までこのラインナップは継続され,現在
はリッターモデルを 中心に開発が進んでいる。また,ホンダは CB系と並び水冷 V型 4気筒l
モ
テツレをラインナップしており, CB系に先立つこ と
, 8
2年に VF750Fを発売。ホンダは,大型
(
1
1
4) 高努正訳 『
前掲書』8
8頁。
(
1
1
5) 『
同書』1
5頁。
(
1
1
6
) フランスのセメ γ ク (
CEMEC, 5
9以降,ラティエ (
RATIER)と名称変更)はライセンス生産
heENCYCLOPEDIA o
f TheMOTORCYCLE, Dorでフラ ットツインを製作。HugoWilson T
l
i
n
gKinders
l
eyL
t
d
.,1
9
9
5
,p
p
.
2
7
7
2
8
4
.
しかしソ速のウラル/ドニエプルそして, 中国の長江は, B MW の設備や図面から生み出され
ていたのは事実であ った。
『前
掲
\
!
}』ネコ ・パプリシン グ,36真。 また,高務正訳 r
前掲蓄』8
8頁に
て,日本では, コピー製品として,マルショウ ・マグナム(日本名.ライラ ック)をあげている 。訳
者あとがきで,DSKとBIMについても触れている。このl
時代 DSKの技術者が B M Wの製品 を神
機のように崇拝し,劣った材質と工作機械を使って挑戦した, という面があるそうである。
(
1
1
7
) i
連合国は BMWの特許を “
勝ちとった ”として造りはじめる。
『前掲容』ネコ ・パブ リシング,
3
5頁。
(
18
) 鈴木 自動車工業 『
7
0年史』1
8
9-1
9
2頁。なお, GSXR75
0は1
9
9
2年モデルより水冷化される 。
3
6
日本大型モーターサイク/レ発展史
表 5 -1 国産水冷:
;
j
f
;
.
)
'
I
J4気筒 7
5
0
c
cスタートラインナップ
会社名
発売年
車名
排気量
最 高出力
車重
価格
1
987
ホンダ
CBR750
748
c
c
77ps/9,500r
pm
224kg
¥789,
0
00
1
985
ヤマハ
FZ750
7
4
9
c
c
77ps
/9
,5
0
0r
pm
209kg
¥798 000
1
985
スズキ
GSX R7
5
0
7
4
9
c
c
7
7ps
/9
,5
0
0
rpm
200kg
¥780,
000
1
9
8
4
カワサキ
GPZ750R
7
4
8
c
c
7
7ps
/9
,
0
0
0rpm
228kg
¥748,000
注 ス ズ キ GSXR
750は泊冷エン ジン.
出所 ヤエスメディアム yク・モーターサイクリスト 『日本モーターサイク/レ史』八重洲出版, 1
997
年より作成.
ps:
k
g
:
k
r
n/h
3
0
8
9
.
6
3
0
0
−
−
−
−
∼v
2
2
8
/
2
0
0
2
0
5km/h
9
.
5
ム
イ2
253 ~
2
5
0
「
1
0
.
8
2
1
0
l~
//
1
5
0
1
47
1
1
.
5
1
0
0
1
2.
0
8
2p
s
5
0
Z
l(
1
9
7
2)
1
2.
5
GPZ900R(
l
9
8
3)
ZZRl!OO(l993)
ZX-12R(
2
0
0
0l
j
t(
名
図 5一l カワサキフラ y グシツプ王巨 t
1カグラフ
0
0
1年 6月1
5日
出所 高田康「モーターサイク jレの開発について」川崎重工業,金沢大学工学部特別講演, 2
聴講にて作成
スポーツ車に 関し ては VF系を 中心に開発していたこともあって,並列水冷 4気筒に関しては,
他社 より遅れての発売となった。
エンジン以外 では,アルミフレーム,電気式タコメーター,電子制御による排気テ、パイスが
この年代に採用された。
図 5- 1はカワサキフラッグシップ車
出力 グラフであるが, Zlの登場から約四年ごとに
GPZ900R (
1
9
8
3
)
, ZZ-RllOO (
1993
), ZX-12R (
2000)の車種の変遷を 横取|!とし て左縦軸に は
,最高速度( km/h),右縦軸には O→400r
n (
s
巴c
ond)を示すが, Zl以外は
馬力( ps),重量( kg)
, 急激な変化 を示す数値は無いが, 馬力
水冷並列 4気筒エンジンである 。約 30年の期間であ り
3
7
1
5巻 2号 (
3
8)
技術と文明
に関しては約 2倍,重量は 10%程度の削減など技術の進化を見ることができる 。二輪車の高性
能化の中で,車輪やフレ ームは重要な役割をしているが,動力であるエンジン技術の占める割
合は非常に大きい。
さらにエンジンのキャラクターによって多様なモデルが開発きれている。スポーツ,
トレー
ル,クルーザーなど,全てのジャンルにおいて大型車がラインナップされた。
技術史的に見るならば,二輪車の発展は水冷 4気筒エンジンが出揃った時代においてほほ成
熟し,それ以降はエレクトロニクス技術を駆使した自動車に道を譲ることになる 。
おわりに
日本の二輪車産業は,戦後数年で急速に成長をはじめ, 1
960年に生産台数世界ーを誇るまで
になった。技術・性能の面でも, 5
9年ホンダのマン島 TT レース出場を皮切りに技術も世界ー
を目指し, 6
1年には世界 GP125, 2
5
0でメーカーチャンピオンに輝くなど進歩を遂げていく 。
スズキ,ヤマハそしてカワサキも相次いで世界のレースシーンに出走,国産モテルの優秀性を
大いにアピールすると同時に ,二輪車造りの貴重なノウハウをも蓄積して行 くこととなる 。
6
0年代中頃まで,イギリスのメーカーは,大型車市場に固執し,この分野で 自らを無敵で、あ
ると信じていた。 当時の日本は小型車しか造 っておらず,それがアメリカで購買層を広げる良
い効果はあっても,アメリカならびにヨーロ ッパの大型車市場に悪影響は無いという一般認識
だったのである 。
しかし, 6
8年にホンダ CB750FOURが登場すると 二輪車の歴史は転機を迎えこととなった。
CB750FOUR は, 当時の市販車の中でも最高といわれるイギリス二輪車に匹敵する速さを持ち,
ライバルを負かす精巧な技術力を備えていた。
(
l
理)
日本の二輪車メーカーが急速に成長し,今日,世界市場を支配している要因として,小栗は,
①レース活動でその技術と品質の高さに挑戦したこと,②市場を先進国であるアメリカに求め
たこと,③海外における生産にいち早く着手したこと,を挙げているが,それらはホンダの行
動そのものを指すものである 。
筆者も上記の要因が主であると認識しているが,その中で,大型モーターサイクルの成功に
より,小型車∼大型車までのフルラインアップが揃い,これに継続的に新しい機能を付加して,
あらゆるニーズに応える製品の供給が可能で、あったことが重要であると考える。それも,先行
のホンダ 1社のみならず,ヤマハ,スズキ,カワサキもフルラインナ ップ を揃えるメーカーと
して日本の技術力を世界にアピールできたことである 。
そして,製品モデルをア ップグレードし,モデル ・チェンジを毎年行ない, 70年代の中頃ま
(
1
1
9) 遠藤博宣「動力機械論 (
5)
←ー主と してオートパイの発達過程について一一 」『
機械の研究』第 48
巻第 4号
, 1
9
9
6
年
, 8
081
頁。
(
1
2
0) 小栗忠雄 「
モーターサイクル産業の技術発展」
『 日本型イノベーション ・システム」野中郁次
郎 −永田晃也編著,白桃書房, 1
9
9
5年
, 1
0
4頁。
38
日本大型モータ ーサイク/レ発展史
でに, 日本のメーカーはより低いコストとより優れた品質を同時に提供し,欧米のライバルを
(
1
21
)
はるかに引き離した。
ただ,世 界二輪車産業において競争を行っている主体はあくまで個別企業である 。つまり,
(
1
2
2
)
こと競争に関しては団体競技ではなく個人競技に近いのである。
o
r
t
a
z
zi
)は
,
元駐日英国大使, ヒュー ・コータ ッツィ( HughC
日本企業の競争についてイキ
(
I
)
目
リスが受ける影響について二輪車産業をあげている 。
私は,英国の人々が日本の産業はレーザ一光線のようなマーケティング戦術で英国産業を
一つ一つ破壊しているという話をするのをしばしば聞いております。 …・
ー (
中
国
各)… ま
た英国産業が打撃を受けているのは,オートパイ産業の例に見られるように,その産業内
での日本企業聞の競争により , これら日本企業の競争力がさらに向上することにより ,そ
の結果であることが多いということを指摘してきております。
事 実,大型車市場で日本車に市場を奪われたイギリスの BSAグループは,中型 車 で ホ ン ダ
の CB3
50に対抗しようとした, DOHC2気筒 3
5
0
c
cのフ。
ロトタイプを製作するのが精一杯で,
(
1
2
4
)
生産に移る前に破綻してしまった。
, そしてドゥ
現 在, 日本に輸入されている王要なメーカーはハーレーダビッドソン, B M W
カティなどであるが,
3社とも,大型モーターサイクル専門のメーカーであり, 中・小型車を
(
1
2
5
)
製作していない。
また,大型モーターサイクルの開発にあた っては,自動車エンジンからの技術移転が重要な
要因の一つであると思われる 。排気量でも 小 型自動車や軽自動車などは同等のエンジンであり ,
ホンダ, スズキによる大型モーターサイクルへの進出の背景には, それまでの軽自動車を中心
(
I
出
)
とした開発から小型自動車への展開があ った。 CB450のエ ンジンが N360に用いられたように,
初期にはモーターサイクルで得た技術を自動車へ応用とい った構図であ ったが,ホンダの二輪
車,自動車技術は相互に交流のある展開を生かしている 。
年発売のトヨタ 2000GTをトヨタと共同開発して以来,高性能エンジ ン及び周
ヤマハは, 67
辺機器の開発・ 生産を始めとした幅広い分野にお いて トヨタとの密接な協力関係を築いてきて
(
I
)
訂
いる。
(
1
2
1) 7 イケル ・E ・ポーター・竹内弘高 『日本の競争戦略」ダイヤモンド社,2
0
0
0年
, 1
1
8頁
。
(
1
2
2) 藤本隆宏 ・武石彰 『自動車産業2
1
世紀へのシナリオ』生産性出版, 1
9
94
年
, 7
2頁。参照。
(
1
2
3
) 第1
0
4回国会予算委員会第 4号昭和 6
1
年 2月2
5日参考人として。
(
1
2
4
) 『ワールド MCガイド 14TRIUMPH」5
4頁
。
(
I
お) ドゥカティは日本の免許制度に合わせ 4
0
0
c
cにデチ ューン し
た
, 日本車用が ラインナップされこ
ともある。
(
I
)
お CB450のエ ンジンを素材に軽乗用車ではツインカムは必要なし SOHCに改められた。吉田匠
『ホンダ3
60ストーリー』 三樹蓄房, 2
0
01
年,3
4頁。
(
1
2
7
) 2
0
00
年 3月,業務提携強化により,この協力関係をさらに深まる 。資本提携も相互に,トヨタはヤ
マハ発動機の株式総数(潜主主株式調重量後)の 5%にあたる 1,
2
50
万株をヤマノ、捌から取得。 トヨタは
ヤマハ発動機がそれぞ、れトヨタの株
ヤマハ発動機の第 2位の出資会社となる。また,ヤマハ側および、
0万株を市場から取得。これにより,ヤマハグループではトヨタの株式を計 1
0
0万株保有している 。
式5
3
9
技術と文明
1
5巻 2号( 4
0)
(
1
2
8
)
カワサキも 5
0年代における通産省の国民事構想、による 4サイクル SOHC2気筒の軽自動車
KZ360を試作し たが, 5
9年から 6
3年までの開発期間,他社の軽自動車販売網確立などが影響し
て,発売されるにいたらなか った。 しかし ,KZ3
60が,この後の 4サイクルカワサキ車に与え
(
I
四
)
た影響は大きく, Z系シリーズへと波及したのである 。
また, Zl
3
0
0に用 いられたシャフトドライブの歯車技術は船舶,車輔,機械など他事業部を
持つカワサヨ干の強みである 。
自動車や輸送機器の開発が,他国のメーカーには無い, 日本の二輪車産業の強みであったと
思われる 。 また,今後もその傾向は変わらないものであると考えられる 。
海外生産に関しても,
日本 4メーカーは世界各国に KD方式等により需要のあるところで生
産しているが,大型車に関しては,ホンダとカワサキがアメリカで一部生産しているにとどま
り,大型モーターサイクルの開発に関しては 4社 とも日本で行ーっている 。
(
I
却
)
その中て",
2
0
0
1年 8月2
9日,カワサキとスズキが業務提携を結んだことに同意した。
現在のところ,スズキの2
5
0
c
cスクーターがカワサキブランドで,カワサキの250ccオフロー
ド率がスズキブランドで登場するなどして OEM機種が中型車を中心に,少数ではあるが販売
されている 。業務提携を結んだスズキの鈴木修会長は,り 1
1
重さんとは,やれるところは一緒
にやるけど,
8割は競合する 。 そこではとことん競争する 。基本は競争だよ 。」としている 。
大型車については,現在考えていない。 なぜならば,鈴木会長の言 うように ,競合,競争の
主となる製品は大型モーターサイクルであり,メーカーとしてのブランドカである。それは,
4社体制で伸びてきた日本の二輪車産業の力であり ,自 動車メーカーが世界的な再編の道を歩
んでいるのとは,違ったものである 。
最後に基本的なモーターサイクルの技術そのものは大きな変化は無く ,モ ーターサイクルは
2本のタイヤとシンプルな構造,作り手のセンスが重要であり,多くのライダーは常識を覆す
新たなモーターサイクルを待 っている 。 そ して,世界ーを目指したメーカーの競争が,その後
3
0年以上もの間, 日本の二輪車産業を世界最大のものとし,技術のリーダーとして,あらゆる
市場に供給する努力をしてきたのである 。
(
1
2
8
) 国民車を選ぶ車は少なくとも①最高速度は 1
00キロメートル以上出せること 。などの事務当局案
,
J1
9
5
5
年 3月 1
8日に て報道された。通商産業省・通商産業政策史編纂
大要が,日本経済新聞社朝干i
委員会編 『
通商産業政策史第1
7
巻』1
9
9
4
年
, 3
6
2頁。
(
1
2
9) 小関和夫『カワサキモーターサイクルズストーリー』三樹書房, 1
9
9
5
年
, 1
7
61
7
8夏。
(
1
犯) 川崎重工業 「
ニュースリリース」 2
0
0
1年 8月2
9日。
(
1
3
1) 読売新聞朝干I
]
, 2
0
0
3年 3月 3日。
4
0
日本大型モーターサイク Jレ発展史
HistoryoftheDevel
opmentofLargeMotorcyclesinJapan
by
Sh
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n
i
c
h
i
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oHAMASAKI
(Kana
z
awa Univ
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opme
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sand t
hemarket
W巴 w
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l
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te
r
na
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onals
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