聖 餐 式

餐
礼 拝 式 に お け る
聖
式
の 諸 問 題
木下
真俊
芳次
日本基督教団宣教研究所
芳賀
- 3 - 4 -
は
し
が
き
宣 教研究所第一分科の研究主題の一つ は礼拝式の問題である。この主題 を諸種の具体的な面か
ら研究することにした 。本論文は、聖餐式を中心とした礼 拝式の研究であり、芳賀真俊氏(平 塚
富士見町 教会牧師)と木下芳次氏(茅ヶ崎教 会牧師)の二氏に担当していただ いた。
本論文中、一章から四章の聖 餐式に関する歴史的研究は芳賀氏の 執筆であり、五章から八章の
礼拝式に関する 日本プロテスタント教会の特殊性 と今後の問題は木下氏の執筆である 。
聖餐式の形式その他については、両 氏が教団や教団外の諸教派の約五〇 名の教職を訪問、調査
された。また宣教研究 所の所員、加藤邦雄、鈴木正久ら も協力した。
内容に ついては読まれる方におのずからお 分かりのことであるが、なかなか 興味あり、牧会上
の参考になる点も多々ある と思う。宣教研究所の、この方面に ついての研究は、原理的であると
日本 基督教団宣教研究所第一文科所員
)
(
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カルヴァンに於ける聖餐と戒規
)
一
現代典礼運動 と聖餐の貧困
(
二
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リ タージーの意義
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語義とその歴史
)
(
一
式 文礼拝による教会
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一四
九
九
六
五
五
三
鈴 木 正 久
ともに実際面 にも役立つことを念願しているが、 その意図を生かして、真剣に努力 してくださっ
次
た芳賀、木下両氏に心から感謝す る。
昭和三五年九月
目
説
聖餐式軽視の傾向
聖餐の貧困 について
一
序
は し が き
第一章
第二章
二
- 5 - 6 -
)
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二〇
一五
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フランス改革教会に於け る礼拝式への関心
(
一
キリス トの身体なる教会の認識
式文礼拝によらざる教会
二
燭火と自然神学の問題
)
(
)
(
)
(
)
(
第三章
三
三
英国 教会と非国教徒の礼拝論
礼拝 における聖餐の位置
二〇
二一
二二
二三
四
三〇
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第四章
聖餐式の形式と その意義
祭壇か,聖卓か
三四
三〇
一
十字架をおくか
三五
二
回数
三五
五
礼拝の中でか ,一旦閉じてするか
チャンセル(聖堂内陣)という意 味を重視するか
六
陪餐者への指導
三
七
進み出るか
説教との関連
八
現行式文をどう考えるか
自席でか
九
聖器は途 中に持参するか
- 7 -
四
三九
四七
四七
五四
五七
五九
十
六一
一一 一つの器を重視するか
六二
一二 準備は 誰がするか
六三
ホステ ィアか
一三 普通のパンか
六五
一四 聖別 の祈りについて
- 8 -
七四
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一五 不足 した場合
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一六 残った場合
七六
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こぼした場合
一七 あ やまって
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一八 病者に対して
七七
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七八
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(
第五 章
一九 世のための教会を重視するか
アメリカプロテスタ ント教会との関係
二〇 求道者の陪餐につ いて
一
アメ リカプロテスタント教会の特色
礼拝式に関する日本プロテスタ ント教会の特異性(史的背景)
八二
八四
二
九六
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現代日本プロテスタ ント教会の聖餐式
第六章
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第七章
今後の問題
「礼 拝式 にお ける 聖餐 式の 諸問 題」
ー其の形式と 意義についてー
- 9 -
一〇五
- 10 -
一
序
説
聖餐 式軽視の傾向
或る真面目な信仰をも った人が、聖餐式を受ける場合に、 心から信仰をもって受けることがで
ことば
きない のに苦しんで、「いったい、我々の 信仰生活で、説教のほかに、なぜ聖 餐が必要なのだろ
うか。説教から罪のゆるし を聞くことができ、キリストへの信仰 を養われるとしたら、 言 だけで
十分ではない だろうか。」と申してきたことがあ る。
事実、この人は礼拝のうち、説教に は真剣に耳を傾けるが、いよいよ聖 餐式という時には欠席
してしまうのである 。
又、 或る牧師は「実は規則正しく、説教を うける人が、聖餐に与かろうとし ない。それだけで
なく、しばしば公言して、 聖餐などなんの役にも立たないと云 ってはばからない。ほかの人達は
そこまでは 云わないが、同じことを考えている。 説明した所で、大して役に立ちそ うもない。」
と嘆息をもらしている。
確かに、今教会のうちの少な からぬ人々がーーこう云うことが許 されるならーー聖餐をキリス
トの身体の盲腸 のように見ており、従って、なぜ それが存在するか、見通しも、説明 もできない
が、ただこの際手術をすることが果 して得策であり、当をえたものであ るかに悩んでいるだけで
ある。
我々が 、罪のゆるしと、永遠の生命の確信 をただ、単にきくだけでなく、更 にそれを味わい見
るということ、耳をもって 教会に行くのみならず、眼と手で、 口と胃とでもって、教会に行くと
いうことは、 福音主義を信奉するものにとって、 大きな障害となることは事実であ る。
さて、この文章は、実際にスイス の教会が直面した問題を率直に言い 表したものであるが、か
の地の教会の事情は そのまま今日われわれの教会が当 面している事情をうつし出している と思わ
れる ほどである。
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そこで、わ れわれはこの小論の出発点をまず「 聖餐の貧困」ということに求め、そ の所在を見
極めることから始め、ついで、 どういう立場から、それに対処しよ うとするのであるかを明らか
にするつもりであ る。
- 11 - 12 -
一
第一章
聖餐の貧困につい て
カル ヴァンにおける聖餐と戒規
聖餐の深き意義への、 間断なき追求は、その教会、又時代 の何れを問わず、重要な課題であり 、
決して 等閉に付せらるべきものではない。
一五三七年
事実、世々の教会は、常に 聖餐の理解に真剣な討議を重ね、教会 の革新をさえそこから導き出
し、戦ってき たのである。
カルヴァンの最初のジュネーブ追放 の原因となったといわれる「教会規 則」
)
の
(
冒頭には「そもそも 教会というものは、そのうちにおい て主の聖餐がしばしば守られこれに しば
しば 出席がなされない限りは、良く秩序づ けられていると申せないことは確 であります。また、
ここに正しい規律が布かれ て、人は敬虔に、かつ特別なうやう やしさをもってでなければ、おの
れを差し出 すことができないと思わせられるほど でなくてはなりません。また、こ の理由によっ
て、教会を全き姿に保つためには 、聖餐停止の戒規、すなわち、神の み言に対して敬愛の念いを
もって服さず、すべての従順 をいたそうともしない人達を矯正し ようとする戒規がどうしてもな
くてはならぬも のであります。」という言葉で始 められている
(
。
キリスト教古典叢書 カルヴァン
篇)しばしばその戒規の厳しさの故 に、世から冷酷、峻厳に過ぎると彼 は評されているが実は主
の聖晩餐の純正なる意 義を守り、その理解を浸透させる ために他ならないことを、この言葉 は示
現代の典礼運動 と聖餐の貧困
してい るのである。
二
それ故、教会の聖餐についての正 しい理解をもとうとする場合、まず 徹底的にその貧困が問題
にせられねばならな い。
事実 、かかる貧困は、教会のうちに到る ところに存在していたのである。
そして、更にそのことを 明らかならしめようとするとき、た だちに気付かしめられることは、
貧困そのも のの認識が多種多様であり、甚だあ いまいであるということである。
我々教会人は、「聖餐の貧困」 について、しばしば極めて、漠然と した不快感でものいうくせ
があり、つっこん でその原因をつきとめようとはしな い。
そ こで、その貧困の原因について、時 々不当な、又は不幸な非難が加えら れ、その貧困をとり
- 13 - 14 -
除こうとして、 種々な手段と途が講ぜられているの である。それらの中には勿論有用と 思われる
も のが見出されるが、なかには全くお かしい、不当なものもなくはない。
くわしくしらべていく と、人が簡単にこれが原因だとあげ ているものに、どうしてもそうは思
われない ものがある。たとえば、陪餐回数が 少ないという単純な事実があるか らといって、それ
がただちに、聖餐の貧困とし て言うことができるかどうかは問題 である。
何れにせよ、聖 餐の回数を機械的に増やすことに よって、貧困が除去されるという保 証は得ら
れないのである。かえって近来教会 内で合言葉のように云われてきた聖 餐の貧困はそうした機械
的操作で目立つだけで 、その根は深いことをあらわにす るだけである。
スイス のベルン地区の改革教会の十年間に 関する報告の中で、カール・フォ ン・グレイエルツ
牧師が「今日の聖餐に対す る無関心と嫌悪は非常にその根が深 く、ただ種々の方法ーたとえば一
つ一つの杯に 変えてみたり、アルコール抜きのぶ どう汁、坐って受ける代わりに、 前に進みでて
受けるやりかた、その回数の増加 、受餐中ずっと聖書を読むことなど 、あれこれ方法を変えるだ
けで除去されること はできない。」と述べていること は、我々の教会のうちにひそむ病弊 を指摘
した ものに他ならない。
この報告書は、さらにそ の無関心の状態を説明して「教会が 聖餐を守ろうとする行為は礼拝出
席者の半分が、いや多くの場 合、殆どの信徒が立ち去ってしまう 状態で始まり、からになった教
会で、たんなる 付録のようなものにすぎないとい うこうした無価値な、非福音的な状 態は、いず
れにしても変更せられねばならない 」と論じている。
トウルナイゼンも、自 分が若いとき、堅信礼が終わって まもなく聖餐にあずかるのを止めて し
まった ことをのべ、その貧困が彼個人、ま た彼の牧師に止まらず、当時の教 会全体をおおってい
た傾向であったことを告げ ている。
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確かに、この貧困への戦いは、真 剣な討議を必要としていると云わね ばならない。
- 15 - 16 -
一
第二章
リタージーの意義
語義 とその歴史
現在の聖餐の貧困を論 ずる場合、当然にでてくる問題は、 我々が如何なる視点に立って「貧困
を見極 めようとしているかであり、その立 場によって、問題は又自ずと異なっ てくるであろう。
この視点の検討を、我々は 通例の分類に従って、次の二つをあげ たいと思う。
一、式文礼拝 による教会(
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二、式文礼拝によらざる教会(
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)
この分類の当否はと もかくとして、この二つの在来の意 味を明らかにしていくことは、問題 の
所在 を把握するのに便宜かと思われる。
さて、その検討に入る前に 、まずリタージーの本来の意味を明 らかにしていくことは、問題の
所在を把握 するのに便宜と思われる。
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リタージーは、ギリシャ語の λ
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α に起因し、λεω (民)と εργον(奉仕)で分るよう
名詞四〇回使 用され、ヤーウエ礼拝の祭儀をさす 。
に「公の奉仕」をいみし、邦 訳では「典礼」「礼拝式」と訳され る。
旧約では、この 語は動詞一〇六回
それに比して、新約ではこの語は動 詞三回、名詞六回と急激に減少し、 ーーしかもその中には、
、
エルサレムのための愛 の献げもの(ロマ書一五・二七 コ リント後九・一二)共同の祈り(使 徒行
伝一三 ・一)が入っている。ーーそれに代 わって、キリストの出来事を指し 示す Κ
ηρ
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ω六一回
ευ
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ω 五四回 δ
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δ
α
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ω九五回が あらわれる。すなわち、旧約のい けにえを毎日ささげるこ
の祭儀的用法 が後退し、大祭司なるイエス・キリ ストと贖罪のみわざの一回性の出 来事が、その
中心として報知され、彼を指示す るものとして前面にこれらの語がで てくる。
従って、新約では、 未だ一定の礼拝式というものはな く、ただ「仕える」という意味で用 いら
れて いる。ルターはこの語を「礼拝」と している。エレミアスは、コリント 後書一四章、使徒行
伝二章四二節にその崩芽 を認めている。
なお、ロー マ教会は、使徒行伝一三章の二節か ら、初代教会の典礼を聖会のいけに えの式を行
うこととみなしている。
次ぎに歴史的に大 別し、叙述すれば、
使 徒 後 教 父
- 17 - 18 -
一五〇年から二 〇〇年にかけて、ユステイン(
)ヒッポリタス(
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.)は一定の式文にふれており、内 容は使徒行伝二章四二節と類似して いる。
東 方 教 会
いろいろ な型をまとめれば、ビサンチン型と 総称せられるであろう。前二者と 類似しており、
聖公会祈祷書の新改訂では、 ローマ・ミサより古いシリヤ典礼を 基にしたと言われるが、そのシ
リヤ典礼はこれ にぞくする。
西 方 教 会
ローマ・ミサは、司式 司祭がとなえる祈り即ち典礼文で ある秘蹟書
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レオ 教
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を一つにまとめたものである。
皇秘蹟 書、グレゴリウス教皇秘蹟書、ロー マ定式書 と書翰・聖福音書とを集 めた奉読集
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と聖歌隊によって うたわれる交誦聖歌集
現在のミサ典 書は、トレント公会議(第一九回 公会議一五四九ー一五六三)に、ピ オ四世によ
って始められ、ピオ五世教皇の時 完成し、一五七〇年公布された。
ちなみに、ミサの語 義に関して「ミサの歴史」の中に 、次の如く記されている。
)からくる。これ
その すべての儀式と祈りとを含めて、神 に対する崇敬の本質的おこないをあ らわすミサという
言葉の語源は、なかなか 興味深いものである。ミサはラテン 語のミッサ
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(
は「散会」「おいとま」とい う意味のことばである。
昔の典礼には、 二つの散会があった。一つは、第 一部の終わりにあって、その時に求 道者つま
り洗礼志願者と公けの痛悔者とが散 会させられた。もう一つは、いけに えが終了して全会衆が散
会するときであった。
このこ とから、ミサということばは、いけ にえと同じいみにとられるように なったのである。
ラテン語のテキストに、時 として、(
)と 複数形で読まれるのも「散会の儀
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式」というい みで同じである。
この呼び方は、はっきりしている 通り、一つの特定の、全く外部的な おこないによって出来た
ものであるが、それ にも拘らず、少くとも、西方にお いては、この名がそのままいすわる ことに
なっ てしまった。
この呼びかたが、はじめ から信者たちに強い共感を抱かせた という事も否めないのである。奥
義が始めら れる前に、まだ完全なキリスト信者 でないものと、ふさわしくないもの とが遠ざけら
れるということは、単にもっと もなことと考えられもするが、人が 初めてキリスト信者にされる
洗礼と同じように 、出席者に自分が生きた団体なる教 会にぞくしているということを如実 に感じ
さ せるものであったからである。
- 19 - 20 -
しかし、使徒行 伝から採られた「パンをさく式」「 集会」「エウカリスティア」「典礼 」すな
わ ち優れたる意味での「神への尊い奉 仕」「奉献」「一致」「聖なるいけ にえ」「聖祭」などの
ミサ の歴史 二八頁
初代の意義深い名称が すたったことを惜しまずにはいられ ない。
カ トリッ ク全書
なお、ミサの語義について、 カルヴァンは「その名称は集められ た供物からくるとのべ、その
複数形を指摘し ている。
四篇 一八章 八節
ルターの礼拝式はロー マ・ミサから出発し、その秩序を 変更せず、ただ神
キリス ト教綱要
プロテスタント教会
)
イ
(
ルーテ ル教会
学を変更した。かくして彼 はミサの三つの誤りを指摘する。
二
一
ミサが功績の 如く考えられている。
非キリスト教・おとぎ話・嘘 を混入した。
神の言 をなおざりにした。
) )
( (
三
)
ロ
(
)
(
改革 教会礼拝
)
ハ
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)に帰ろうとすることであり、一八 九四
- 21 - 22 -
ローマ・ミサにその起源 をもたず、中世紀の説教礼拝より由 来する。
敬虔主義・啓蒙主義時代の礼 拝
この時代には礼 拝式の秩序は崩れ、礼拝は単なる 回心の集り、又教訓の集会と変容し た。
一八二二年、フリードリッヒ・ウィ ルヘルム三世によってつくられた礼 拝式文に刺戟され、復
興した典礼は、ルター の「ミサ形式」(
年のド イツ式文は「恩恵の言」と「グロリ ア」或は「罪の告白」と「キリエ 」というふうに、そ
れらをただ心理的に結びつ ける操作だけで終わっている。
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式文礼拝による教会
て いささかうかがえるように、この言 葉は、本来の素朴な「神礼拝」とい ういみからはずれ、次
我々は、ここに、 リタージーの本来の語義とその歴史 の素描をこころみてきたが、それに よっ
二
さて、前にあげた一応の 分類に従って、問題を進めてみれば 、
先に あげた分類に従い、問題を進めよう 。
二
ü
第に特別な内容 を示すものとなり、その背後に祭司 的なものが予想されるに至った。す なわち
「 聖餐を中心にする式文礼拝」という 定義が生まれてきた所以である。い わゆる典礼教会がそれ
)
礼拝 と音楽
由 木康「 宣教第 二世紀 の礼拝」
(
式文礼拝によら ざる教会
一月 号
である。聖公会、ルー テル教会がこの系譜にぞくする。
一
三
前項の教会と相対照したとき、いわ ゆる非典礼教会というよびかたが生 じてきた。これは一般
に、式文を使う、使わ ないという形式は全く自由で、ひ たすら、その内容の吟味、検討に関 心が
向けら れる。教団に所属する教会は殆どこ の系譜にぞくすると思われるので 、これの特質をもう
少し明らかにしよう。
さきに、前掲 辞典から、改革教会の礼拝はロー マ・ミサからきたのではなく、中世 紀の説教礼
拝に起因すると申しのべたが、そ れについて一つの文献を紹介しなが ら、論を進めて見たい。
後期中世紀の頃、説 教礼拝はミサのなかで独立した要 素にまで発展し、いわば、サクラメ ント
礼拝 のうちに、説教礼拝が挿入されたと いう事態をうみ出したのである。
「志願者ミサ」(前ミサ とも云われ、入祭文から使徒信経ま での部分である。)或は「ミサ奉
献」(
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)とよばれている会衆席の 側廊室で、一定の順序でなされてい る礼拝がも
)は司祭によって祭壇でなされてい るが、それと同時に、いわゆる
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プロナウス(
たれていた。それは説教の他に、公 同のざんげ、ドイツ語でなされた罪 の告白とゆるし、使徒信
経、十戒、マリヤ、主 の祈である。
後にと いっても、後期中世紀に、スイス・ 南ドイツなどで、ミサから、この プロナウスが独立
した所もあった。バーゼル では一五世紀にセント・テオドール 教会で、ウーリッヒ・ズルガント
牧師(
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)は「説教礼拝」の中世紀 におけるさまざまの礼拝式の要素 について若い
牧師のために、ドイツ語で一書を 著した。(
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)そ の後継者レオ・ユッドはツ
ィングリーの共働者 であり、ツィングリー自身は、一 〇才にして、テオドール教会でラテ ン語を
学び 、ズルガント牧師が前述の書を刊行 した一五〇二年ウィーンからバーゼ ルに帰ってきていた。
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以上の如く 、改革教会の礼拝が、ミサからきた のではなく、説教礼拝のプロナウス に由来する
ことが承認される場合、その典 礼・礼拝式の中心を、神の言の正し い宣教に求め、説教を典礼に
従属せしめず、典 礼を説教に従属せしめたことは自然 の成り行きであろう。この点をもう 少し明
ら かにすることは無駄ではないと思わ れる。
- 23 - 24 -
彼らは、リター ジーを独立的なものとして切りはな して考えることはしなかった。いつ でも
「 典礼と神学」「神学と典礼」は切り はなして考えることは許されない。 なぜなら、リタージー
の問題は形式だけの問 題でなくて事柄・内容の問題だから である。いや、本来のいみにおいて
「言がリ タージーであり、宣教すなわち神の 言の説教という行為において、宣 教は活ける神の言
となる。説教の悦び神の恩恵 を発見する悦びのあまりに、改革教 会は礼拝をもはや、いわゆる典
礼的に打ち建て ようとする興味を失ってしまった ようである、従って、改革教会の礼 拝は聖公会
・ルーテル教会に比べると、貧しい という他はないように思われる。あ たかも、彫像におけるト
ルソーの如く、手足も ない、頭もない不完全・不調和と も見ゆるのであるが、しかし、彼ら は、
貧しい というこの点において、実は、それ を貫く神の言のゆたかさの故に、 キリスト教礼拝の本
来の意味と課題を担う証言 を見出しているのである。
勿論、叙上の 説を簡単に首肯しない人もあろう 。というのは、宗教改革の礼拝式の 歴史をしら
べると、改革教会の礼拝こそ、礼 拝の正しい形式即ちリタージーを求 める点で、ルーテル教会よ
り、もっと激しいの ではあるまいかという結論がでて くるからである。
なる ほど、改革教会の礼拝では、礼拝式 は何度も編成し直され、改訂され、 そのことに極めて
熱心であるように見える 。ジュネーブの礼拝式のきまるまで 、シュトラスブルグの式文が、二〇
版も改訂版を出していること は事実である。
しかし、むしろ この事実こそは、プロテスタント 教会本来のもつ説教の「自由」「拘 束」に相
対応するものであり、説教の形式は あくまで自由に、内容は聖書の証言 に厳しく拘束されるプロ
テスタント教会の特質 をもっともよく表しているのでは あるまいか。「改革された、そして 常に
改革さ れていく」(
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)はここでも要求される。
従って、一般的に、そのこ とは、典礼的には粗野化の原因・弱 点としてみなされるのであるが、
しかし、これ こそ聖言を信じ、ただこれに聴従す ることにおいて贈られた自由、か の常に礼拝を
更新していく自由・責任・生命が 脈動している証左であると云えない であろうか。
我々はこの点でも、 ルターがドイツ・ミサの序文での 言葉を記憶すべきである。
「ま ず第一に、私は遠慮なく是非お願い したいと思うのであるが、それは、 だれでもこのわれ
われの礼拝様式を見、あ るいはこの様式に従おうと欲する人 は、そこから必要なおきてをひき出
したり、誰 かの良心をそれで強制したり、束縛 することなく、キリスト教的な自由 に従って、ど
のようにして、どこで、いつま たどの位の長さにすれば、しっくり と要求に適合するか、各自の
四四 六頁
気に入るよう用い ていただきたいということである。 」
ル ター篇
- 25 - 26 -
さて、上述した 如く、形式に於ては、まったくの自 由であり、なにものにも拘束されな いこと
は 、我らの堅く持する所であるが、そ の中にあってなお、イエス・キリス トを主と崇める礼拝が
それにふさわしい真の 礼拝式が自覚的に絶えず探求され、 ともすれば、旧来の因習に無自覚的 に
なじみ易 い点と戦っていかなければならない ことは、教会が、キリストの身体 としての教会を絶
えず自覚的に探求して行く、 すなわち、教会論の検討を絶えず促 しめられるのと同様である。
カルヴァンが「 礼拝式文」の序文の中で、「礼拝 が正しく守られ、わたしたちの教会 のなかで
用いられるために、いろいろな祈祷 と聖礼典の式文集のようなものを出 版することは好ましいこ
とと思われるのであり ます。」と述べている意に我々の 願いもあるのである。
そこで 、従来の各伝統に従い、一は、その 善き伝統の意味を明確にし、他方 、多少雑然と執り
行われてきたさまざまな点 を反省し、いくらか、そのことを自 覚的、歴史的に解明せんとするの
が、本論の意 図するところである。
今、我々はいかなる立場で、聖餐 の課題に対処しようとしているかを 検討してきた。
このことは、これら の課題が、教会論の検討と相まっ て、そのなかで行われねばならない こと
礼拝 における聖餐の位置
フランス改革教 会における礼拝式への関心
第三章
をい みする。次章において、そのことが 取り扱われる。
一
フランス改革教会の重鎮で あり、現在シュトラスブルグ大学で 教鞭をとっておられる、ベノア
教授が、最近 のフランス改革教会において、礼拝 式・聖餐への関心がたかまってい る風潮に対し
その遠因として、かのバルトロマ イ祭のユグノーの逆殺以来、除々に 陥ち入ってきた個人主義的
な傾向への反省に、 その歴史的背景を求めながらも、 神学的な理由として、この関心はす べて、
一,カール・バルト、並 びに、カルヴァン研究の復興の
認識。
影響。
最近 五〇年間の三つの動きに負うている と論じている。
二,教会観 の徹底、キリストの身体なる教会へ の明確な
三,礼拝論の真剣な討議。
彼が、現代の聖餐 論の背後に、かかる三つの神学問題 を指摘していることは、極めて当を 得た
も のと思われる。
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二
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キリストの身体なる教会 の認識
我々には 、一寸信じられなぬほどであるが、 スイスで、ほんの二、三〇年前に 、聖餐が一年に
一回しか守られず、それも、 スイス連邦の定めた祈祷日に守ると いった教会もあったそうである
が、こうした悲 しむべき状態を克服する唯一の途 は、「聖餐の本質への新しい吟味と 教会論の真
実な検討にある。」とリュティが指 摘していることは、やはり問題の所 在とその関連性を明らか
にしていると云えよう 。
今少し く、ふえんすれば、聖餐に対して、 現代人が感ずる困難さに、実は二 つあることを見の
がしてはならない。一は、 現代の教会がもっている貧困、すな わち教会論の欠如からくる聖餐へ
の軽視であり 、他は、もともと聖餐そのもののう ちにある困窮である。聖書はこれ を躓きという。
この躓きはキリストの受肉のうち に見出されるつまずきであり、神が 多くの可能性から、なぜ受
肉という貧しい一つ の出来事を選び給うたかという福 音そのものの躓きである。
従っ て、聖餐の貧困を克服する途は、む しろ、この信仰に固有の十字架のつ まずきを明確に認
識することにおいて、聖 餐本来の躓きを正面から受けとめよ うとするところから始まるのである 。
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現代の典礼運動 が、このキリスト教に固有なつま ずきを避け、解消をこころみ、代わ りに燭火
をおいたり、さらに典礼を複雑に構 成し直すことにより、現代人の眼に 映ずる聖餐の軽視を解決
しうるとする危険がな いでもないことは、ティリッケ(
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(織物) に関心をもっている。」と評したこ とばからもうかがえ
)が「現代の教会の多く は、
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(み言)よりも
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ることである。
一九五三年の ベルンの式文においては、画像、 燭台、聖餐時の白い祭司服、聖卓を 祭壇式に装
おうとすることなどが改めて拒否 せられている。このことは、現代に これらの復活を企図してい
燭火と自然神学
ると見える或種の典 礼運動に対して、厳しく抵抗を表 明していることを示している。
三
かかる象徴 の使用は、我々の側においては、自 然神学との関わりにおいて、すなわ ち恩恵と自
然との一致の問題として、とり あげられねばならないし、検討を要 するであろう。
燭台の光は、ただ ちに、キリストが世の光りでいます ことへの直接的、連続的な証になる こと
は できない。被造の世界はすべて、審 判のもとに立つのである。
- 29 - 30 -
自然と恩恵は存 在のアナロギアでも、見るアナロギ アでもなく、ただ、み言とそれへの 聴従か
ら 生ずる信仰のアナロギアである。
キリストは世の光りで いますことは感覚的には示されず、 象徴的なことでもない。あくまで宣
教せられ ることだからである。
人がしばしば、我らの教会に 向って批判する「無趣味」は、我々 の「美」についての欠乏から
きているのでな く、信仰の認識からきているので ある。
四
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、
綱要四 巻一七の 三 一 四
英国教会 と非国教徒の礼拝論
さて、この章において、聖 餐が、教会論・礼拝論ときりはなし て考えることはできず、それと
の関連につい て、どのように取り扱われるべきか を、いささか明らかにしてきたが 、そのことは
礼拝そのものの吟味へと促がしめ ずにはおかないであろう。
教会・礼拝そのもの の吟味については、宗教改革者の 古典的定義がまずあげらるべきであ ろう。
「キ リストの教会とは聖徒の会衆であり 、そこにおいて福音が純粋に教えら れ、聖餐が福音に
従って正しく執行せられ る。」(アウグスブルグ信仰告白)
勿論、ここで礼拝論を神学的 に真正面から論ずることはその任で もないし、本論の枠を越えた
ことになろう。 あくまで聖餐論に関連した限りで のことであるが、そのいみで多少煩 雑のおそれ
もあるが、又一つの文献を紹介し、 論評を加えて行きたい。
この文献は、イギリス の自由教会にぞくする立場から、 英国教会の礼拝成立を主にしながら 、
歴史的 に宗教改革の礼拝をのべたもので、 なお前のリタージーの歴史と重複 する所を省く。
少しく箇条に すれば、
)
(
一 原 始 教 会
礼拝はみ言と聖晩餐 のバランスのとれた礼拝である。 ユスティヌスは、第一弁明書(一四 〇
年) で「一つ所に集まり、使徒書と予言 書がよまれ、教えとすすめがなされ 、それが終わって立
ち上がり、祈りをする。 この祈りが終わったのち、パンとぶ どう酒がもち来らされる」と記して
いる。
)
(
二 ロ ー マ 教 会
ミサは全く初代教 会の礼拝からはずれてしまい、説教 は衰退し、礼拝に大衆の関与がなく なっ
て しまった。
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ü
英 国 教 会
)
(
三
宗 教改革の中で、特異な道をたどり、 混合的な性格、すなわち、教義に 於て当初カルヴァン的
であるが、礼拝は中世 紀のそれをうけつぐ祈祷書によって いる。
クランマーは、一五四九年、 一番最初に編集された第一祈祷書の 序文に、その指導精神として
第一
従来の錯綜を極 めている礼拝を簡素にする。
英語で、すべてがよまれ、す べてがうたわれる。
四つをあげてい る。
第二
西方教会の典礼伝統の迷信的なもの はとり除き、その本質的なものは 古代の場所にかえ
この国 では、従来式文がばらばらであっ たから、一定の式文を使用する。
す。
第三
第四
この第四を除いては、他の三つは 全く宗教改革的である。
当時聖餐に人々が実 際に与るのは一年に一度イースタ ーであった。その上、礼拝は人々に 理解
ので きないラテン語でなされているドラ マであり、ショウを見ている如くで あった。説教の衰退
と共に大衆を教える面が 消え去っていた。
一五四七年、クランマーにあ てた、ガーディナの手紙に「従来、 人々は司祭がチャンセルでな
している動作に は殆ど無関心である。なにが行わ れているか知ろうともしない。ただ 福音書がよ
まれるときには立ち上り、聖別の祈 りにはなんの注意も払われていない 。」と書いている。その
ガーディナが、クラン マーを評した言葉は、よく改革の 精神を伝えていてくれる。
「クラ ンマーは、大衆がよく”ユーカリス トを理解し”直接に参与すること が大切であり、主
の晩餐はたんに司祭の奉挙 したものを見るだけでなく、主と交 わることであると強調するのであ
る。」
このように、会衆の直接参与を強 調したのは、たしかに宗教改革的で あるが、他方彼は祈祷書
の資料を、当時の修 道院の「聖務日課」(
) に求めたことは、その性格を中世紀 的にし
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たの である。
(讃歌)
(一時祷)
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(終 課)である。これらは、教会の聖歌 隊席、
(三時祷)
聖務日課とは特に、五三 〇年のベネディクト規則制定以来、 ミサとは別にミサを補足する聖務
(晩祷)
(朝 祷)
日課で、朝 の祈りその他、一日の定まった時間 の祈りである。
(九時 祷)
(終夜祷)
時祷)
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又 修道院で守られ、うたわれてきたの で、いわゆるコワイヤ・オフィス(
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)とも云
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われる。
ク ランマーは、これを二つに分け、朝 祷と晩祷にした。そしてこの日課 の形式を簡素化し、中
心に詩篇を体系的に唱 え、聖書をよむことを主にした。一 ヶ月に全詩篇、一年に一回旧約、二 回
新約をよ みとおすことが目的となった。現在 の礼拝はこの聖務日課(朝祷)に ミサの聖餐式が付
け加えられ、従って説教は自 然と軽視される傾向となり、今日に 至っている。
宗教改革礼拝
)
(
四
彼らはひとしく、神の言の宣教を信 仰と礼拝の基礎におき、それゆえ、 み言はたんに完全なる
聖餐にいたる序論又挿 入の如くではなく、聖餐こそ、み 言の印とした。
勿論、 説教と聖餐の二つのことがらが、プ ロテスタント礼拝の中心的なもの であることは申す
までもないが、とりわけ、 第一におかるべきは説教で、その次 が聖餐である。
彼らは、み言 を第一においたということによっ て、その礼拝が母国語で語られるこ とを明らか
にし、牧師の説教は理解しうるよ うに語られ、聖卓の牧師の行為は、 会衆が見ることができるよ
うに配慮せられ、そ れ故、牧師は聖卓のうしろに立ち 、原始教会の如く、会衆と向い合わ ねばな
らぬ ように、すべてが注意せられたので ある。
ルターは、カールシュタ ットの破壊的言動に悩まされて、改 革の度合において、慎重であり、
一五二三年の礼拝形式(
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)では、その神学にお いて根本的な変革をなしながら
もその形式では 、ローマ・ミサのたんなる簡略版 である。ラテン語は残され、燈明、 香、祭服も
ある。(後世のルーテル教会は殆ど これによる。)
三年たって刊行された ドイツミサでは、ドイツ語でなさ れるようになったが、なお燈明、祭 服
などは 残してある。といっても彼の真意は 勿論それらを不用と考えたのであ るが唯時のくるまで
それに反対しないというに すぎない。
自由教会の礼 拝
)
(
五
メアリーの治下、大陸に亡命して いた人々は一五五九年の祈祷書に厚 意を示さなかった。
彼らの礼拝は、ジュ ネーブで学びとった純粋なる神の 言による活ける礼拝であった。
「神 の言の純粋」このことから、ピュリ タンという名が生まれたのである。 英国教会及びルー
テル教会が消極的に、聖 書に禁じられているもののみを礼拝 から追放すべきであると考えたこと
に対し、ピ ュリタンは、純粋なる神の言に権威 づけられているものを積極的に生か そうとした。
その礼拝の範は、ジョン・ノッ クスのジュネーブ礼拝書であった以 上、み言と聖餐がその中にあ
ったのは当然であ る。
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以上がこの文献 の紹介であるが、なおこの著者の目 指す所は、一八世紀プロテスタント 衰退の
時 、ピュリタンもその例に洩れず、礼 拝もさまざまなくずれを見せてき一 九世紀に入って礼拝を
改革し、その豊かさを 回復しようという運動がおきたとき 、その範を英国教会の祈祷書に、そ れ
もやはり くずれた祈祷書の朝祷に求めたのは 決定的に不幸なことであるとし、 言い換えれば、最
近のリタージー復興運動も、 カルヴァン的基調の上に、祈祷書の マティン(朝の祈り)を混ぜ合
わせたもの故、 み言と聖餐のバランスのとれた礼 拝とはなっていないと批評している ところにあ
ると思われる。
この説がどのような裏 付けと適用を見出されるかは、こ の文献では未だ明確を欠いており、 こ
聖餐式の形式とその意義
の問題 の当否は今後に残さざるを得なかっ た。
第四章
我々は、さきに、形式につ いては全く各人の自由に委ねられて いることを明らかにした。
それ故、ここ では各形式の意義をたずね、学び えたところを、二、三ずつ報告する だけである。
直接会って聞いた意見は、聖公会 、ルーテル教会はその旨記し、その 他はA、M、S、の三人
に分け、A牧師は教 団内にあっていわゆる典礼運動に 関心のある人、M牧師は、それに意 見をも
ち、 多少批判をもつ人、或はその運動に 消極的である人、S牧師はそのなか で、ホーリネス系統
というように一応区別し てみたが、もとより便宜上の事で、 厳密なことではない。
祭壇とよんでいるか、聖卓とし ているか。
それに加え て、書物からいささか学びえたもの とを問と答の形式で、雑然とならべ たにすぎな
い。
問一
- 37 - 38 -
★ 聖公会の一九五九年祈祷文改訂の特 色。
)
(
一 ローマ教会よりも 、さらに古いシリヤの式文を基にし て、従来のが参考とされ、前後八年
費やされ た。
二 従来、祭壇を教会の最も 奥の所においた。新改訂書では、そ れを聖堂内陣
)
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(
のな
)
(
かで多少前に出 し、聖職と信徒が祭壇を囲んです る。従って、祈祷も従来は、会衆に 背を向け
てしていたが、今回は前にむいて、 すなわち会衆の方をむいてひざまず く。
)
(
三 聖堂内陣に入るも のは、聖職のみで、その祭壇に十 字架をおき、中心とする。聖餐によ ま
れる聖 書は、祭壇の上にのっけて読む。
★この新改訂 書は、それ以前の一九〇六年に始 まり一九二九年に決定された線を動 かしてはい
ないようである。しかし、我々は 新祈祷書と同時に、一五四九年の祈 祷書のときには、カルヴァ
ン・ブツエル・ラス コーなどの影響により、全く違っ た線が打ち出されておったことを想 起した
い「 彼らはローマのいろいろな慣習、た とえば秘密ざんげ、悪魔ばらい、十 字を切るような事を
追放し、ひざまずくこと は崇拝をいみしないと説明する。何 故ならそれは偶像崇拝に陥るからで
あり、公式には 〈祭壇〉ではなく、〈聖卓〉であ り、そこには彫刻も、はりつけ像の 十字架、燭
台もなにもおかれないのである。」 と、勿論それらは直ちに高教会運動 によって否定せられたの
であるが。ちなみに一 九二〇年のラムベス会議では教会 の教えと生活のすべての尺度として 、祈
祷書が 重視され、三九条はそれとの関連に 於て、補いとして参考とせられる と決定せられたこと
は、今後の方向に大切な点 であろう。
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二四四
★マルティン・ブツ エルは、シュトラスブルグ市長ヤ ーコブ・シュトウールと協力して、 礼拝
の改 革をこころみ、五つの原則を示して いる。
)
(
一 聖餐は、パンとぶど う酒の二種で与えられること。
) )
( (
二 ミサは 、ラテン語でなく、通俗語で誦す ること。
三 祭壇は、聖餐式の卓机とと りかえる。
)
(
四 牧師は、会衆 の方を向いて、礼拝式をすること。
(
)
五 司祭の服を廃し、牧師は式服を着 ること。(ガウンは、祭服でなく、 博士すなわち、群衆
- 39 - 40 -
た 。)
を教え、聖書を 説明することのできるために必要な 研究をした人の礼装と考えられてい
★カルヴァンは「それ 故、主は祭壇を与えて、その上にい けにえをささげるのでなく、食卓を
我々に与 えて、そこに我々を饗宴せしめたも うのである。いけにえをささげる 祭司たちを聖別し
四巻 一八の 一二
たまわず、神聖なる饗宴をわ かつ教職者たちを聖別したもうたの である。」と述べている。
基督 教綱要
★ラスコーも、聖卓の教職 の行為は会衆が見ることができるよう にせねばならず、それ故牧師
《
は聖卓のうし ろに立ち、原始教会の如く会衆と向 かい合わねばならないことを重視し 、祭壇を廃
止し、聖卓にする。
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★ルーテル教会
祭壇を真中におく。 最近のルーテル教会に、前に出し てくる傾向あり。聖公会も新祈祷書 では
会衆 と向い合い、一緒に陪するというい みを重視していることは既述したと おりだが、ローマ教
を重視する。
身体 なる教会がつらなるという意味
壇を前にチャ ンセルぎりぎりまで出
会でも最近、原始教会に かえれという運動があり、祭壇をか こむようにつくられる。(石神井神
学校。)
A牧師、
に倣って食卓を囲む意を表す。
正面(平生は壁にくっつけてある) 。聖餐を行う際、祭
してくる。古代教会
B牧師 、
ある。
犠牲という意味が強調され 、唯一回のキリストの犠牲に
で祭壇とよぶ べきで
M牧師、
前におく。会衆と同 じ床上に設けられた聖卓というこ と
N牧 師、
現 在の日本の教会にあっては聖餐卓
く。
く台位にしか考えない。
ている現状を思い、講壇 の中央におき、説教壇は左にお
M牧師と同じく、祭壇た ることを厳しく拒否しながら、
があまり軽 く扱われ
S牧師、
説教壇の前におく ことは当然であるとするが、献金を お
- 41 - 42 -
問二
十字架を おくか。
★ 聖公会、ルーテル教会はいずれも十 字架をおくが、ローマ教会の如き はりつけ像付き十字架
ではなくただの十字架 である。というのは、キリストはす でに復活し、昇天されたからである と
云う。
★教団にあっては、装飾とし ておくという人はかなり多くなって きた。が聖公会、ルーテル教
会の如く、祭壇 におくという人は少ない。A牧師 のように「十字架をえがいた芸術的 な旗をかか
げておく。それはたんに芸術的にと いうだけではなく、神の臨在を象徴 している。」とまで考え
聖堂内陣という意味 を重視するか。
る人もある。
問三
★聖公会「至聖所と会衆・説教席 の間に隔てを設ける。それはキリス トによりて隔ての幕裂か
聖餐式を執行する 場合、必ず説教と密接な関連をもっ てするか、説教を伴わなくても、
れたりを表すために 、真中をあけておく。チャンセル に入りうるものは聖職である。」
問四
例えばアガペーとの関連で執 行することがあるか。
★一五二〇年の ツイングリーの礼拝規程は、聖餐 が実際に守られていない場合の礼拝 でも、必
ず聖餐に向かって備えられ、開かれ たものである。説教が終ると公同の ざんげ、短い祈りがある。
「我らの罪をゆるし、 主イエス・キリストによりて、永 遠の生命に導き給わんことを。アー メ
ン」し かし、それで終了したのでなく、式 文には、云わば終止符のコンマで はなく、継続符のコ
ンマ・・となっており、聖 餐へのつながりを示している。
★ローマ教会で、最近説教がどう 考えられているかを、見てみよう。
「聖福音の奉読のつ ぎにおこなわれる説教を何かのつ けたしのように考えるのは、もって のほ
かで ある。これは初期のミサにも見られ た一つの要素である。ユダヤ人の集 会には以前から礼拝
中の一行事として、聖書 に関する説教がおこなわれていた。 イエズスもナザレトの会堂において 、
イザヤ書の 一節を解説されたことがある。<ル カ四の一六・二二>」
しかし、一世紀以後しばらくの 間、ローマでは説教があまりおこな われていなかったようであ
る。それにしても 聖アウグスティヌスがヒッポ市の司 教座教会でおこなった説教が数多く つたえ
ら れている。
- 43 - 44 -
現在信者が説教 をきらい、時間がつぶされないよう に、ミサだけがどんどん進んでいく ミサや、
説 教なしにミサがおこなわれる教会を 捜し出そうと懸命になっているとい うのは二〇世紀病、す
なわち、あまりにも、 あわただしいということの結果であ ろう。しかし、他方、説教師のほう に
も、つま らなく平凡に堕して、聞き手の注意 を引く努力が不足しているという 原因も認めるべき
であろう。司教達がくりかえ し注意をうながしているように、説 教師の努力がまず必要である。
説教はふつうに 、奉読の一方から主題がとられる 。それはおだやかな調子でなされ、 誇張を用
いない。よく準備されて、明瞭、適 切であり、しかも短くまとまってい れば、説教はけっして人
をあかせることなく、 ゆたかな効果を生じると保証して も、断じて言いすぎではない。じつ に信
者を教 え、神のみことばを宣伝することは 、司祭の本質的なつとめの一つで あり祈りのふんいき
のもりあがるミサのときこ そ、みことばは、信者の心にもっと よく受け入れられ、しだいにまこ
九五頁
とのキリスト 信者を養成することができる。」
ミサの 歴史
この「ミサの歴史」 は、もともとフランスで発行中の 「カトリック新百科全書」の一冊と して
)が前掲論文の終わりのこ とばとして、「今日のエキュメニカ
一九 五九年パリで出されたものだが、説 教についての現下の事情を知りえて 、興味深い。他方我
々の側にあって、デュル (
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ル運動は、ややもすると、説 教を軽視した方向で打ち出されてい るように思われる。」と指摘し
ていることは現 実の一面をついたものとして、傾 聴さるべきことばである。
★カルヴァンは「我らの主イエスキ リストの聖餐についての小論」の中 で、「教皇の教会にお
いて聖餐と考えられて いるミサは、厳密に定義すれば全 くの猿まねであり、道化にすぎない ので
ある。 わたしはそれを猿まねと呼ぶという のは、あたかも猿が無定見にかつ 軽率に人のすること
を見てまねるように彼らは 理由もないのに、主の聖餐をそれに よってまねようと望んでいるから
である。
それはともかく、主がわれらにす すめたもうた第一のことは、まこと の悟性をもって、この聖
餐を執り行えという ことであった。それゆえそこから 本質は教えにあることが当然生じて くる。
それ が取り除かれれば、もはやそれは冷 たい効力のない儀式でしかない。そ のことは聖書によっ
て示されているばかりで なく、教皇の法規によっても、聖ア ウグスティヌスから引用されたその
章句の中で 、また明らかにされているのである 。すなわち、彼はそこで次のように 問うている。
”言を伴わぬ洗礼の水は何んで あるか。それは腐敗し易い要素にす ぎない。しかも言葉は語られ
た言葉でなくて理 解された言葉である。”彼はそれに よって次のことをいみしている。言 葉が理
解 されるように説かれるとき、聖礼典 は言からその力を得る。これがなけ れば聖礼典と呼ばれる
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に価しないので ある。」
問五
カルヴ ァン篇
)
(
一
綱要
一三 八頁
四巻 一七の 三九
二
(
)
聖餐執行 の回数
★主日礼拝毎に守らなけれ ば、完全な礼拝と云えないという考え 方がある。
聖公会、ルー テル教会はこれにぞくするが現在日 本ルーテル教会は、月一度守るとい う教会が
多いそうで、アメリカはもっと少 ないそうである。近時ドイツでも、や はり主日毎に聖餐式をも
つという原則から後 退し、言の礼拝と聖餐式への分離が なされた。月一回という点で、改革 教会
の慣 行と接近が見られる。
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★最 近の運動に「言の礼拝」と「聖餐式 の礼拝」(本来の完全なる礼拝)と の間に区別しよう
とする傾向が生めれてい る。
「完全な礼拝」とはローマ・ ミサの「奉献ミサ」を削除しただけ の根本図式であり、ルター教
会に残っている 聖餐式を中心にした礼拝である。 勿論この古い全世界的な礼拝形式に 意義を簡単
に唱えることはできない。
ツイングリーでさえも 、又多くの改革教会の典礼に於て も、言及された構造は尊重されてい る
のであ って、簡単にローマ・カトリック的 とか、ルーテル教会的とかいう訳 にはいかない。
唯その際見のがすことの出 来ないのは、この区別をこころみて いる人々の、無意識的にか、意
識的にもせよ 、説教を軽視する傾向が見られるこ とであって、あたかも「言の礼拝 」では不完全
であり、本質的なものが欠けてい るというふうにきめつけるのである 。
その論ずる所は、す べての正しい礼拝たるものは、そ の中心、最高点は聖餐式であり、聖 別さ
れた コムミュニィオンの行為であるとい うのである。だが一体礼拝の中で、 これが中心、いわば
最高の位置にあると自分 勝手に定めてよいのだろうか。礼拝 における神の行為は全く自由であり 、
典礼的に完 全とか、不完全とかに拘束されたま わない。神は、聖餐にてと同様「言 の礼拝」に於
ても完全にご自身をわれわれに 贈りたもうのである、神の「現在」 の奇蹟と恩恵は、聖餐式にも
説教にも、否祈り にも、さんびのうたにもいましたも うのである。人が自分でアクセント をおく
こ とは間違っている。
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★ローマ ・ミサで、一年に一度しか聖体拝領 が守られていないのはなぜか。ー 聖体拝領ー(ミ
サの歴史より)
「つぎに行われ るのは、いけにえの聖さんであっ て、すべての参列者が、いけにえを 会食する。
聖体拝領をするよう規定されている のは、司教司祭だけであるが、教会 の希望としては、トレン
ト公会議においても、 信者はミサにあずかるたびに、聖 体を拝領するがよいことであるとい われ
ている が、これはもっともなことである。 この教会の強い希望は、特に聖ピ オ十世の回勅におい
て、信者の聖体拝領、およ び毎日の聖体拝領のことがとりあつ かわれてから、熱心な信者たちに
よって、日毎 に満たされるようになりつつある。
教会の規程としては、ただ年に一 度、ご復活節のころに聖体拝領する ことが命ぜられているだ
けである。しかし、 ミサにあずかって聖体拝領しない ということは、だれにも、なにか不 足に感
じら れ、もの足りず、変則的なことであ ると思われるのである。
四世紀までは、聖体を拝 領しないで、ミサにあずかることな どは、考えられないことであった。
そればかりかミサをおこなわ ない日には、パンだけの形色を自宅 で拝領した。
しかし、迫害が 終るとともに、とくに九世紀から 、しだいに聖体拝領が減少した。つ いには一
二一五年第四ラテラン公会議におい て、最小限、ご復活節に一度は聖体 を拝領しなければならな
い、という規定が定め られるまでになった。残念なこと に、おおくの信者が、この規定以上 に進
もうと は、けっして考えないのであった。 この非常に好ましくない現象はど う説明されるのであ
ろうか。それは、罪のゆる しの秘跡である告解があまり厳格で あって、聖体拝領前の断食の規定
がむずかしす ぎていたことも考えられる。さいご には、聖体に対する信心が盛んに なって、ほか
二 一六、 二二四 頁
の信心業とともに、単なる希望に すぎない霊的拝領がじっさいの聖体 拝領にかわってきたことも
あげられる。」
ミ サの歴 史
★なお、聖餐を一 年に一度うけることについては、カ ルヴァンが、綱要四巻一七の四四に 、そ
れの 不当なることにふれている。
★ジョン・ウェス レイ
彼 を特徴づける燃ゆる体験と、人の魂 に対する使徒的愛は、伝道活動を活 発ならしめた。メソ
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ジスト条令に「 その礼拝は、会衆は毎週教会に出席 し、毎週聖餐にあずかるべし。」と ある。そ
の 背景にあるものは、英国教会にある 故、当然とは云えるが、一七四四年 、聖餐が毎週守られる
ことが極めてまれであ ったことから考えると、この原則は おどろくべきことである。
彼はなお 、一七八四年にも四〇年(一七四四 )前と同じすすめをなしている。
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現行条令には、 (各教会において、少なくとも四 季毎に一回聖餐式を行うべし。」と ある。
★カルヴァン
一五三 七年の教会規則に、「イエス・キリ ストの聖なる晩餐の拝領は、少な くとも慣習上は、
毎日曜日に行われることが 、まことに望ましいことであります 。
この日、教会 は、信仰者達の受くべき大いなる 慰めと、そこから出る実り、すなわ ちすべての
手段を通じて、そこで、わたした ちの信仰に示されるもろもろの約束 を受けるために、群れをな
して集うのでありま す。
その 約束とは、わたしたちが真にイエス の御体、イエスの御血、その死、そ の生、そのみ霊、
そのいっさいの祝福にあ ずかるものとなる、との約束であり ます。こうして、わたしたちが、そ
こで受ける勧めによって、こ の驚くべきことがら、すなわち、わ たしたちの身に及ぶ神の恩ちょ
うを讃美の告白 をもって認め、崇め、遂に、わた したちがキリスト者にふさわしく生 き、同一の
体の肢々の如くに、兄弟愛の一致の うちに互いに結び合うに至るのであ ります。また事実、イエ
スによって制定された のは、年に二度三度記念するとい ことではなく、わたしたちの信仰と 愛と
をもっ てしばしば守るということでありま した。それは、キリスト者の団体 が、その集りを持つ
ごとに行うべきものであり ました。使徒行伝二章に記されてあ るように、主の弟子達はパンをさ
くことを持続 しております。これは聖晩餐の規則 であります。・・・・このミサに よって、すべ
ての信仰者が拝領したのに代わっ て、一人がすべての人に代わって、 犠牲をささげるという恐る
べき涜聖が行われる ようになったのであります。これ によって聖餐は全く壊滅し、廃止さ れるに
至っ たのであります。
ところが、民衆の弱さは はなはだしい為、かくも卓越した秘 義が、かくもしばしば執行されま
すと、これ を軽く見るようになるのであります 。このため、次のようにすることが 適当だとわた
したちには思われたのでありま す。すなわち、今なお弱さの中にあ る人々が強められることを期
待しつつ、この聖 晩餐を説教の守られている三つの会 堂たるサン・ピエール、リーヴ、サ ン・ジ
ェ ルヴェのうちの一つにおいて、各月 に一回宛行われるということであり ます。つまり、或月に
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はサンピエール において、次の月にはリーヴ、その 次には、サン・ジェルヴェにおいて という風
に 順を追って全教会をめぐるのであり ます。もっともこれは市の中のその 区一つのために執行さ
三七頁
れるものでなく、全教 会のためであります。」
カ ルヴァ ン篇
彼が、年に四回(実は月に一 回)ときめたのは、一般には、市会 の希望に止むおえず、屈した
のであると云わ れるのであるが、必ずしもそうで はないであろう。
もし、彼がどうしても毎週行うべき と思ったら、信仰のことで、妥協、 後退したりはしまい。
一 七の四 三
四四
ただ彼は聖餐の意義を 重要視したからに他ならないと思 われる。
綱要
★ツイングリ ー
彼は年に四回守り、しかも、クリ スマス、受難週、イースター、聖霊 降臨日のいわゆる祝祭日
である。
彼は 、「言の礼拝」と「聖餐の礼拝」の 分離を図り。さして聖餐を重んじな かったとの評はど
- 53 - 54 -
うであろうか。確かに、 彼は、年に四回としても、それも欲 するならばという程度に量を減少し
たのは、彼の聖餐論からも当 然の帰結であろう。が、分離を何で もかんでもしようとしたのでな
く、むしろ、そ の深い改革をこそこころみている のである。というのは、従来の聖餐 は、会衆の
有無如何に関わらず、司祭がなして いた。その不合理をついて、改革者 たちは、それに陪する会
衆の信仰を問題にした のである。ミサの如く、聖体の聖 別に頂点をおかなかったからである 。
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中 でも、非常にリタージーを重んぜら れるA氏が、年二回それも受難週、 世界聖餐日に執行さ
月一回から、年四 回隔月等それぞれの慣習、伝統によ るが、多くは主日礼拝に守られる。
★日本の教会
る祈祷日を加えて守る慣 習は、ツイングリーの影響によるの か。
すこ し前までスイスのバーゼル教会では 、年に五回、上述の祝祭日四回に、 スイス連邦の定む
村では隔月それに加 えて、三大節を守った。
月に一回。ラスコーの影響のつよ いクールプフェルツの教会規程は一 五六三年に月一回、町又
★ラスコー、 ノックス
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れているのは興 味深い。
主 日礼拝と聖餐の関係については、後 述するが、自由教会のアバは「聖 餐は、死んだイスラエ
ルの悲しむべき記念で はない。よみがえりたもうた栄光の 主との交わりである。ユーカリスト は
単なる主 の晩餐の再生ではない。初代教会が 聖餐を木曜日の晩に守らず、又金 曜日の午後に守ら
ず生命と救いとの我らの全秘 訣が主の死に存していることを告白 し主の日の朝に定めたことは意
聖餐は、説教に 引続きなされるか、一旦閉じてな されるのか。
味のあることで あるとのべている。
問六
★在来は、一旦礼拝を閉じ て、求道者が退散して守るという教 会も案外に多い。
バプテストの T牧師は、未信者を配慮してとの 理由であるが、又この理由のために 逆に礼拝の
なかでという人も多い。
これが、実際に、日 本における特殊事情、求道者への 配慮によるのか、改革教会の「説教 礼拝
に基 づくのか或はミサの第一部志道者ミ サ
の退散 して、奉献ミサの始
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陪餐者を どう指導するか
まることにあるのかは、 各人の見方によるところであろう。
問七
★カルヴァンは「教会規則」に「聖 餐式の挙行される前の日曜日に、次 のことを会衆に告示す
ることに留意されなく てはならない。第一に、めいめい がこれを受けるにふさわしい、うや うや
しさを もってなすべき準備をなし心がまえ
をするようにということ・ ・・・・
聖餐式の執行 される日には、牧師は説教の終わり に、それについて触れる、或は、 必要ならば全
説教をそれにあて、私たちの主が 、この奥義によって語り、又示そう としたもうところ、及び私
たちがどのようにし て、これをうけるべきかを人々に 説明する。」
又一 五四二年「礼拝式文」の初めに「聖 パウロも証しているように、聖餐式 は、主の御体と御
血との伝達である。私た ちが、いよいよ豊かに、キリストの うちに住まい、かつ生き、かれも又
いよいよ豊 かに私たちのうちに住まい又生き給 うために受けらるべきものである。
それ故、この聖餐をおごそかに 執り行うにさいしての一切のことは 、私たちが、キリストのう
ちに生き、かつ、 住まうこと(即ち主の肉を食らい、 主の血を飲むこと)をいよいよ請い 願い、
又 、この食物と飲みものとをいっそう 大いなる実りと敬虔とをもって、受 け入れるという目標に
- 55 - 56 -
向けることがふ さわしい。」ということから初めて いる。
我 々は、こうしたカルヴァンのすすめ からどのような指導を考うべきか 、一、二のべて参考に
供したい。
聖餐式は、公同礼拝に おいて守らるべきこと。
)
(
一
カルヴァンは「 晩餐は、我々すべてがキリスト・ イエスに連絡する交わりについて、 我々を教
えるため、教会の公の会合に於て執 行せらるべきである。」(四巻一八 の七)「この交わりはミ
サによって解消され、 破壊されてしまった。かくして私 誦ミサに途が開かれた。凡そ信徒た ちの
間に主 の晩餐になんら与る事をしない場合 には、我々はこれを私誦ミサとい う。」(一八の八)
と申している。すなわち、 ニーゼルは「聖礼典は、まさに会衆 の存在と関与(即ち教会)とを要
求する。聖礼 典の執行が、み言の役者にのみ委ね られているとしても、なお、聖礼 典は全教会の
事柄である。教会はカルヴァンに よると本質的に、聖餐教会である。 」と、公同礼拝と聖餐の関
係を明らかにしてい る。
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このニーゼルの言葉は、聖餐 が正しく、キリストの身体なる公同 教会において始めて、守らる
べきを示してい る。
我々は、ミサの如く、会衆の関与な く、司祭の聖体聖別に中心をおくの でなく、又個人個人が
ばらばらに召され、聖 餐に与るのでもなく、
主の身 体なる教会に主の肢として召され、 主の交わりに入れしめられた契約 の民として、主の
晩餐に与るのである。この 事が明瞭にせられるのは、説教を中 心とする公同礼拝に於てである。
「主との一致 を、聖礼典に展示されるパンが再 現する。パンは多くの穀粒から成り 、相互に区
別され得ないように混合している 。」
「我らが祝うところ の祝の酒杯は、これキリストの血 に与るにあらずや、我らがさくとこ ろのパ
ンは これ、キリストの体に与るにあらず や。パンは一つなれば、多くの我ら も一体なり。皆とも
四 巻一七 の三八
に一つのパンに与るによ る。」(コリント前一〇の一六)
綱要
★私誦ミサについ て
ロ ーマ聖座の最近の規程によると、読 誦ミサもたとい信者がひとりもあず かっていない場合も
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いつも教会の公 式の行事であるから私誦ミサという 用語を、決して使わないようにいっ ているが、
そ の性格は変えようとしていない。
はラテンでは
聖 餐は、我らの信仰の終末性、秘義性 をもっともよく示すものである。
)
(
二
カルヴァンが、ギリシャ語の
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と訳されていることを指摘
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しているのは周 知の如くである。(四巻一四の二 )
我らの信仰は、主イエス・キリスト にありて現在のものとして捉えるべ きであるが、同時に未
だ完成されざるもので あり、その光栄は、神のうちにか くされておるものである。「汝らは 死に
たる者 にしてその生命はキリストとともに 神のうちにかくれあればなり。我 らの生命なるキリス
トの現れ給うとき、汝らも これとともに栄光のうちに現れん。 」
聖餐は、十字 架にて、我らのために、もたらさ れし救いについて、その現在の救い を心から喜
ぶことであり、同時に、キリスト の来臨における、優れたる晩餐への 約束に生きることである。
「汝らこのパンを食 し、この酒杯を飲むごとに、主の 死を示して、その来たりたもう時に まで及
ぶな り。」
我らの行う礼拝は、そこ が目指す終着地としての堅牢無比な 建物や、凡ゆるものが満たされて
しまう大邸宅のなかに住んで いるもののなす礼拝でない。そうで はなくて、我々はむしろ常に動
き破れる幕屋に 住んでおり、神の国を目指してい く旅路の礼拝である。
もし旅路の礼拝に徹することができ たとき、そのときにはとかく我々の 教会の礼拝、聖餐式に
は何の装飾もなく余り に殺風景すぎると批評をうけるこ の貧しいリタージーが、その実、か えっ
て、幕 屋に住む神の民としての本質、存在 をもっともよく表しているように 思われる。
およそ、信仰は「愛するも のよ、我らは神の子たり。」と「後 いかん、いまだ顕れず、主の現
れ給うとき、 我らこれに肖んことを知る。」との 緊張関係に於て、とらえるべきで ある。(ヨハ
ネ第一書三章二節)
聖餐の貧困について のいろいろな誤解や非難は、すべ て、信仰をかかる緊張関係に於てと らえ
てい ないとき、生じてくるのである。
信仰生活が現在、我々に 臨みたもう主への信仰と、来るべき 主への信仰との緊張関係によって、
とらえられ なければならないと丁度同じように 、聖餐についても「我らは主の聖卓 に招かれたも
のである。」ということと、「 我らは今尚、来るべき終末の時、神 の国での主の聖卓には、まだ
はべっていない」 という事実との緊張関係においてと らえるべきを示しているのである。
こ の「未だ、しからず」ということは 、聖餐式の美しさと光栄の面を、形 にあらわそうとする
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動き、すなわち 美化することへのブレーキとなるの である。このことは厳しく考察せら れねばな
ら ない。従って、我々はこの光栄の面 を余りに人間的なものを媒介にして 表そうとし易いし、い
ろいろな手段を用いて 、旅路にある幕屋の礼拝での貧しさ の欠けた面を補わんとし、地上に於 て、
その光栄 の面を形に見出そうとし易いのであ る。すなわち燭台、祭司服、香な ど様々な美的な手
段で、「未だ、もたざる光栄 」を表現しようとすることは愚かな ことである。
最後の大いなる 神の国での主の聖卓において、始 めて、礼服をつけないできた客は外 に投げす
てられる。それ故、地上にあって、 我々のうける聖餐には、素朴であり 、聖書的なリタージーの
みが、ぞくするのであ る。
従って 、あまりに典礼的に豊富にしようと する運動は、教会の様式を統一し 、束縛し、ひいて
は、教会を奴隷にまで追い やってしまうのである。この意味に おいて、聖餐をうけるとき、繰り
かえし、その 秘義が強調されねばならない。
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★ク ールプフェルツ(
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)式文は 、一五六三年、改革教会の伝統に 立ち、教会合同のざ
んげ、罪のゆるしの信仰 、改善への祈りの三つを陪餐への準 備に不可欠なものとした。
★宗教改革者は、陪餐の間、 詩篇一一三篇アグヌス・デイ、或は 聖書、殊に受難のテキストを
聖卓に進み出るか、自席でう けるか。
よむことなどし た。後に、ピユリタンは沈黙して 受けるを適当とした。
問八
★古代教会、 東方教会では、前に進むが立ってう ける。
★ローマ教会のひざまずく起源は 後述。
★ルター「ドイツ・ ミサ」に聖卓の前に進み、ひざまず くかその傍らにたち、パンをうけ、 杯
の方 へ移りいき賜物に与る。
★聖公会、前に進み、ひざ まずくが、初期にはひざまずくこと は聖体を崇拝する意にあらずと
解説したる は既述の如し。
★メソジスト、前に進み、ひざま ずきうける。
★シュトラスブル グ・ジュネーブでは陪餐には初代教 会に従って、前に進み、立ち、或は 聖卓
に坐 して受ける。
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★スコッ トランドも、前者と同じく、聖卓を かこんでうける。ジェームス王朝の 時、「ひざま
ノック スに、礼拝式についての大きな影響を 及ぼした
ずく」ことを強制されたが、 彼らはそれに抵抗し、遂に、てっか いせしめた。これその背後にロ
ーマ・ミサ的な ものを感じた故である。
と見られる、ヨハネス・ラスコーも 祭壇を廃し、その代わりにすえられ た聖卓をかこんで、陪餐
者の座を設く。
なおラ スコー(一四九九ー一五六〇)は改 革教会の陣営で、近時強く注目を浴 びてきているの
で、簡単に紹介しておきた い。
彼は、一四九 九年ポーランドの貴族の家に誕生。 その思想は、カルヴァンとツイング リーの二
人より学び、多くの宗教改革者の うちにあって、教会秩序の形成に重要 な寄与をなした。若い時
イタリヤ遊学し、又 エラスムスとの交遊によりヒューマ ニズムの空気を吸った。一五二二年 バー
ゼル でツイングリー、エコラムパディウ スに接す。その年プロテスタントへ の嫌疑をかけられた
が、ローマ教会教徒たる宣 誓によりて、要職に起用せらる。一 五三八年プロテスタントとして公
言し、その 職を捨て、国を離れ、一五四〇年に「 北欧のジュネーブ」と称せられる エムデンに居
を定む。四三年、低ザクセン地方 の監督として、ジュネーブに範をと った教会憲法を定めた。四
六年辞任し、五〇年イギリス に行き、クランマーのすいせんによ り、ロンドンの外国人教会の牧
師となる。ここ で、カルヴァン的聖書観による教 会の理想の実現をこころみる。この 規程はのち
に、アングロサクソン、長老教会、 ピユリタンによって、大いに参考と せられたものである。
その典礼、式文は、低 ザクセン、クルプフエルツ式文の 基になったもので、聖餐は一ヶ月に 一
度、聖 卓を囲んで陪餐する。
メリー女王の時、ロンドン を追われ、辛苦を重ねた末、五四年 エムデンで余生を送らんとせし
が、ポーラン ドに招きかえされ、晩年は聖書の翻 訳をし、平和のうちに死去した。
★ツイングリーの独 自な形式は、教職者が各自席にひ ざまずいている会衆にパンを与え、 ぶど
う酒 を与える。
★自席でうけることにつ いては、一七世紀の非国教徒、後に 、スコットランドに及びバプテス
ト、組合、 長老教会で守られている。
この風習については、二世紀の 礼拝におけるユスティンの記述があ る。
この習慣は、本来 、主の聖卓をかこんで、すわって、 受けるという意味を重視した所から きた
の である。すなわち、各席についてい る聖書をおく所に(
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)聖 餐式の時には白布をし
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き、主の聖卓の 延長として、ともに聖卓を囲んで受 けることを表しているのである。
日 本の教会での慣習に於て自席でうけ るということは、ツイングリーの 聖餐式に従っているよ
うであるが、全会衆が 、ともに主の聖卓をかこんでうける という意味から、むしりジュネーブ 、
ラスコー 、ノックスにその伝統を負っている ことと思われる。先頃までアメリ カの長老教会では
白布云々は行われていたよう であるが、最近は行われていない。
スコットランド の自由教会のシエターが、この二 つの綜合を考え、前に進みでるのは 、信仰の
個人性をいみし、各自席でうけるの は、教会が一つに聖卓を囲むという ことの強調と相まって聖
餐式はたびたび行う場 合は前者の方法で行い、一年に一 度か二度は後者で行った方がよいと すす
めてい るが、多少方法にとらわれている感 じがしないでもない。
★ローマ教会では、いつ頃 から、ひざまずくようになったので あろうか。
「断食の日以 外は、立って聖体をうけていたよ うである。ホスティアは、信徒の右 の手の上に
のせられた。九世紀になって、現 在のように、ホスティアが薄いもの になってからは、司祭が直
接に信者の舌の上に のせるようになった。さらにその 時から、ひざまずいて聖体を拝領す るよう
二二〇 頁
現行式文 をどう考えるか、不十分とすれば 、どの所か。
ミサの 歴史
にな った。現在では、このほうが、もっ と敬虔な姿勢であると考えられてい る。」
問九
★その事は、五章で取 り上げられる所であるが、大部分 の人が不満をもっているようである 。
なかに は、A・B牧師のように、自分の教 会のために、独自なものをつくっ て使用している教会
もある。その不満とする所 を大別すれば、一,公同のざんげ、 ゆるしの面が少ないということで
ある。といっ て、口語式文のように、外国のをい くら伝統だからといって簡単にそ のまま、全部
典礼的に取り入れられては困ると いう意見と種々ある。とりわけ、リ タージーを非常に重んずる
人が現在の式文は冗 長すぎると評しているのは興味深 い。
二, は分餐の言「味わうべし」の意義が あいまいである。現行文語文の分餐 の言は、その衝にあ
った人から聞くと詩篇か らとったそうであるが、聖公会のと 全く同じである。すなわち「願くは 、
汝の為に与 えたまいしイエス・キリストの体、 汝の体とたましいとを、限りなき生 命に到るまで
守り給わんことを。汝これをと りて、食し、汝のために死に給いし ことを記憶して、信仰をもっ
て心のうちに、キ リストを食いて感謝せよ。」この「 食いて」は福音主義教会辞典(
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「味わうべし」とある。お そらくそこからきたのではあるまい か。
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旧 メソジストの式文は「感謝をもって これを食し信仰をもって心のうち に、キリストを体験
(あじわう)べし」と 。体験と書いて、味わうとふりがな をつけたのは、その意味を明確にし た
ものであ ろう。
なお、聖公会式文の唯今の分 餐の言に「信仰をもって」とあるの は、いわゆる「不敬虔者の陪
餐」
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を背景として、それ への拒否として(二八条)考えらる べきである。
それは、病者のための二品保留が決 定せられた一九二九年にも、そのま ま継承せられ、今日に至
っている。
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★スコットラ ンドの聖餐式に関しての言葉に、 「分餐の言などに、聖言だけを用い キリストの
言に何ものも加えず、変えず、省 かず」というくだりがある。
問十
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礼拝前すでに、聖 器はおかれてあるか、礼拝の途中に もってくるか。
★ローマ教会が、奉献(いけ にえの準備)という点から、礼拝の 途中にささげるいみを重視す
る(現在は行わ れていないようである。)のは当 然である。
「受ける前に何かをささげなければ ならない。じっさい、聖体拝領する ものにあたえられる神
のめぐみは、 教会のささげものがどれだけ神に喜ばれる かによるのである。これがこのいけ にえ
一七七 頁
をささ げるすべての人の心構えが重大であ るといわれる理由である。」
ミサの 歴史
★聖公会も、 最初からおかれているのは空の器 であり、礼拝のうちに、信徒奉仕者 がこれを捧
持してくる。司祭はそれをうけ、 のち聖別する。これは感謝のささげ ものという意か、或は人の
ささぐる犠牲という 面を重視していることなのか。
★も ちろん、プロテスタントでは、厳し く、「ミサの奉献」は拒否される。 改革教会では、牧
師が聖餐において、聖別 の司祭的役割をせず、神の右に在す 主キリストとの聖霊による交わり、
主の聖卓で の兄弟の交わりであるが故に、犠牲 の奉献という概念は問題にならない 。ルターも厳
しく、「未聖ホスティア」の奉 献奉挙(
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)のにおいのする ものを厳しく一切削除したが、
一五二三年のミサ 形式には、聖餐のときにひざまずき 、又、パンを掲げることなどが見え ている。
正 式にそれを廃止したのは一五四二年 である。
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フ オルサイスは「ローマ教会は、ささ げるという意を強調する余りに、 聖餐における神のイニ
シヤティブの行為とい う概念をあいまいにしてしまった。 我らの強調は、パンをさき、ぶどう 酒
を注ぐと いう行為において、キリストの繰り 返し得ない犠牲、神のイニシヤテ ィブの行為を想い
起こすべきである。ロマ教会 は、その行為よりも二品の聖別に強 調点がおかれたことにより、人
のささげる祭司 的語謬に陥ち入ってしまった。」 と論じている。(この項は、アバの 著書より引
用す。)
他方、こうしたミサの 奉献を警戒するあまりに、初代の 教会が、感謝のささげものをしたう ら
やまし き慣習が見失われてはならない。献 げものの中から、聖餐とぶどう酒 の二品が適当に取り
出され、残りは貧しい人に わたされたのである。後には、直接 に品物を持参せず、金銭をささげ
祈りにおいて 、感謝の献身を表した。
この習慣は、未だ、欧米の長老教 会、メソジスト教会(日本にも戦前 は斬る習慣があったよう
である)に残ってお り、礼拝の献金とは別に、礼拝堂 のうしろに箱が備えられ、聖餐式礼 拝の時
一つの器から飲み、 一つのパンからうける意味を重視す るか。
に、 特に貧しい人々のためにささげられ たそうである。
問一一
★ローマ教会が九世紀頃までの慣習 「サンクタ」(前のミサで聖別され た小片)のカリス(聖
杯)におとす第一の混 和における「一致と連続」を如何 に強調しているかは当然のことであ る。
すなわ ち、どこでも、いつでもささげられ るホスティアは同じものである。 そして、おもにこの
ホスティアを中心として、 教会の一致は固められているのであ る。
ローマ及びそ の近在の司祭たちは、主日には、 自分が聖別するパンに、教皇から聖 別して送ら
れたパンの小片(フェルメントウ ム
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)を合せて、パクス・ ドミニの時にカリスに入れ
たものである。こう して、聖体は一致の秘跡としてあ らわされた。この一致のしるしとし て、自
分た ちの聖体を相手の教会へ送ったとい うほどの強いものであった。しかし 、この習慣は、ただ
二 〇七頁
賢明と尊敬の理由だけの ために廃止されるようになった。
ミ サの歴 史
★今世紀の初頭、聖餐は、衛生 的な見地で、沢山の杯が、教会の一 つのカリスの代わりに使用
されるようになり 、或は、パテナ(聖体皿)のついた 杯が用いられだしてきた。
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問 一二
聖餐の準備は誰がするのか、 牧師長老・家族か、分餐の際、長 老が奉仕するか。
★補教師 は誰から受けるのかという疑問がし ばしばだされた。それには、陪餐 者の一員として、
長老から受けて当然とする意 見と、教師として、牧師を助け、牧 師は、二品を伝道者を通して、
長老にわたすべ きだというのと二つに分かれた。
「奉仕者がさきに与るのか、あとに か」とについて、マックスウエルは 、「牧師が先にうける。
初代教会、改革教会、 ウエストミンスター指示書、バッ クターのサヴォイ・
リタージーなど皆そうであ る。牧師が後で長老から受けるとい う事は、食事のエチケットとリタ
ージーの原理 との混合である。牧師は、主の聖卓 の主人ではない。それ故主人であ るかの如く、
ふるまうべきではない。我らの主 が、主人であり、牧師も当然に主か ら受けるのである。人々に
先に例を示すのは牧 師の務めである。主の手から受け るものとして、牧師は自ら受けるべ きであ
る。 主の聖卓にあって、彼のみ、ひとり 按手された教職である。」といって いる。
問一三
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普通のパンを用いるか、ホ スティアの如きものを希望するか。
★ルターは「さきて」 というみ言を語りながら、大きな ホスティアを四つに分ける。
★改革 教会では、聖書のみ言に照らして聖 餐のパンは、円いパン、又オブラ ーテンの如きもの
ではなく、裂かるべき一い っこんのパンとし、普通のパンを用 いる。いずれにしろ、次のカルヴ
ァンの言葉は 記憶せらるべきであろう。
「信者がパンを自分の手にとって 、自分で分つか否か、或は各人が別 々に彼に与えられたもの
を別々に食するか否 か、或は隣人にわたすか、パンが 酵母を入れたものか否か、或は赤ぶ どう酒
か白 ぶどう酒かといった外的な出来事に 関する限り、それはくだらぬことで ある。これらは教会
四 巻一七 の四三
においては、些末なこと 、自由にされてよいことである。」
綱要
カルヴァンのジュ ネーブ追放の直接の原因はパンの代 わりに、ホスティアを用いよとのベ ルン
方 式の要請を拒絶した所にあったがそ れは、ただパンまたはホスティアの 可否云々ではなく、ベ
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ルン市の教会政 策に対する拒絶すなわち、国家に対 する教会の自由と独立の問題であっ たことは、
さ きの彼の言葉からも明かである。
問一四
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パン、ぶどう酒の配餐の前の聖別の 祈りについて
★順序として「 聖別」のミサの用語を明らかにし よう。
「信徒のささげし、いけにえとして の未聖ホスティアが、キリストの死 去の前日の晩餐のおり
聖体を制定した時の言 葉を司祭が、かけることにより、 聖変化する。
小 林珍雄 「キリ スト教 用語辞 典」
「ハンク・イ ジトウル」(主よ、主の全教会と 僕たちのささげるこの供物をうけ入 れられよ。
・・)の祈りは、最初の頃は、身 をかがめて唱えられたものであった 。しかし一二世紀からピオ
五世の規定によって 、ホスティアとカリスとの上に手 をおおいながら、となえるようにな った。
この おこないが単にささげものを示すし ぐさだけではないと考えるべきであ ろう。旧約時代(出
エジプト記二九章の一0 )には、ささげるものが、自分の代 わりにささげるという微に、いけに
えの頭に自分の手をおいたも のである。司式司祭の(按手)とい うこのしぐさは、旧約のこのお
一 五一頁
こないに似たも のと考えるべきである。
ミサの 歴史
★旧ホーリネスのS牧 師は二品の上に手を按いて祈る。 この按手はこれらの言葉を背景にし て
なすの であろうか。
兄弟たちよ、祈れ
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小林珍雄辞典)とをも って終り、聖変化に入る。セクレ タは、祭壇に
★ミサのうちで、「奉献の 部はオラテフラトレス
タ(通常には 密誦と訳す
供えられたささげものを、もう一 度神にささげる祈りである。ささげ ものの上にする祈りはフラ
ンスで、小声で、と なえられるようになり、その習慣 が全教会にひろまった。ここから「 密誦」
とい う言が生ずるが、誤解を生じ易い。
セクレタとは、本来「区 別された」「聖別されたささげもの の上にする祈り「
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と云われるが、それなら この「セクレタ」は「セケエルネレ 」
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(区別する)という動詞から くることになり「聖別の祈り」と訳 すべきである。
★聖変化がいつ、 すると考えられているか。
ミ サでは、祈りに引き続き、唱えられ る制定語によるのに対し、東方教会 では、更に、エピク
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レージス
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「聖霊を呼びくだす祈りに よって聖変化せられるとなす」。
現 在のローマ・ミサでは、この「くだ って、聖変化が行われるように」 との聖霊に対する祈り
が欠けている。つまり 、ミサのカノンには、まことの意味 のエピクレージスは存在しないので あ
る。
この点について、四世紀以降 、東方典礼がたどった道は、これと はひじょうに違ったものであ
る。つぎは、イ ェルザレムの聖チリツル
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が新信者に教えた言葉である 。司教はさ
いごの晩さんの話につづいてつぎの ように云っていた。「われらは、善 良の神にむかって、ささ
げものの上に聖霊をお 送りになり、それによって、ささ げものを、キリストのおん体とおん 血と
になさ れるようにと祈るのである。」
そののち、エピクレージス の文句は、ついに考え誤れるように なった。とくに聖ヨハネ・ダマ
シエノをふく めた東方神学者たちはこれを、聖体 制定のときのことばと同じ程度又 はそれ以上の
本質的なものと考えたのである。 ギリシャ正教会では、一二世紀以降 にはエピクレージスだけで
も、聖変化がおこな われるという説を支持するほどに なった。
いず れにしても、トレント公会議に於て 、聖変化は、制定語によるのである というカトリック
一八 一頁
の立場は、はっきりし、 聖霊は、聖変化を行うようにだけで なく、聖体拝領の効果が保証される
ためである。」
ミサ の歴史
★聖体奉挙について( ミサより)
「聖変 化の直後に、聖体が奉挙される式は 、中世紀におこったものである。 信者に礼拝させる
ために、聖体の両形色を上 にささげ、いけにえの本質部がおこ なわれる時期をあきらかにする目
的で、この式 がなされる。どの典礼においても、 聖体が拝領する前には、信者がそ れを礼拝する
ように、聖体の両形色が奉挙され る。ローマ典礼においては、この奉 挙は、カノンのおわりの ・
歌ののち、主のいの りの直前におこなわれる。
一二 世紀以降、司式司祭は、聖変化にな るとパンをとって、信者によく見え るように高く上に
かかげるようにしていた 。しかし多くの司教は、信者が聖変 化のおこなわれていないパンを礼拝
することの ないように、一二一〇年頃、聖変化 のまえにはホスティアをけっして胸 の高さより上
にあげないように規定し、聖変 化のことばをとなえ終ってからすぐ に、高くうえにささげるよう
命令した。
ホ スティアを見ようという望みはこの 時代の特徴である。これは、この時 代に非常に強くなっ
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てきたキリスト の人性に対する信心とそのころから 始められだした霊的聖体拝領の信心 に関係し
お こったのである。霊的聖体拝領に関 しては、実際の聖体拝領がしだいに 稀になって、それにか
わって、霊的聖体拝領 が行われ始めたのである。
初め、司 祭は聖変化の後は、ただ礼をするだ けであったが、一五世紀になって ひざまずくよう
になった。
一 六〇頁
聖体をみるとい うことから、聖体の顕示、聖体の 祝日の聖体行列が始められるように なった。
ミサの 歴史
★聖公会祈祷書の改訂 が一九〇六年計画され、その長い 間の結実が、一九二七年と二八年に 、
議会に よって否決された。それは、その中 に、「聖別後のパンとぶどう酒を 翌日の病者の為に会
堂に保存される。」という ことが含まれていたからである。が 一九二九年、聖職会議は、前年の
議会の決定に 対して、監督をはげまし、その祈祷 書の改訂を承認した。「パンの保 存」はそれ以
来可能になった。(現在、会堂に 保存してあるときは、赤ランプをつ けるという慣習はこれと合
致する。)
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★奉挙について、ルター はこう云う。
「奉挙を廃止しようとは思わ ない。むしろ残したいと思う。なぜ なら、ドイツ語の「聖なるか
な」と美しく調 和するからである。そうしてキリ ストが彼を記念するようにと命じ給 うことを表
微するからである。というのは、そ こにキリストの血と肉は見られない にも拘らず、聖別された
パン又はぶどう酒が持 ち上げられるのは、説教の言葉に よって、彼の事が想起され高められ 、更
にそれ を受けることにより告白され崇めら れ、すべては信仰においてとらえ られるからである。
キリストがどのようにして 、彼の肉と血を我々のために与え給 うたかは見られないが、しかもな
小島 訳
四六 三頁
お我々のため に神のめぐみを乞い、示し、そのた めに身を供え給うているからであ る。
ドイツ ・ミサ
★聖公会では、奉仕 者の棒持しきたるものを、パテナ 、カリスに移すとき、按手し祈りを する
のは 当然と思われるが、S牧師のように 、教団の教職で按手をされる場合も ある。問題は勿論
「聖別の祈りをどう考え るか」によって違ってくる。
O牧師は、 「現在は教団の式文の通りですから 聖別の祈りは致さず、小生の育ちか ら云えば、
旧メソジストのようにする方が よいのではないかと思うが、神学的 な問題で、聖別したら、あと
の仕末もあり、迷 信がかってくるから考えものなり。 」とのべる。
ウ エスレイは「主の晩餐に用いたるパ ンとぶどう酒とを貯蔵し、又はこれ を携帯、運搬し又は
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これを棒持し、 又はこれにき拝せしむることは、キ リストの命じ給える所に非ず。」と 宗教箇条
一 二条にのべている。
K牧師は「先頃、一婦 人が聖餐式のあとしまつをするとき 、牧師の知らぬその数個のパンを別
紙に包み 、礼拝に欠席した病人の所に持参し たということがあった。このこと がある連合婦人会
で、ある人の証をきいて大変 感心したので、私もそうしましたと の事であったそうである。事実
であるなら、そ の婦人の思いつきとすます訳にも いかないようである。
「ミサに於て、 司祭は魔法使いのように、口中で唱 え、
★カルヴァンは、聖餐には、必ず言 葉が伴わねばならない。しかもそれ は語られた言葉でなく
理解された言葉である とのべたあと、
又多く の身振りをしながらその手中に、イ エス・キリストを、くだらせよう と考えるのであるか
ら、彼らの聖別は、一種の 魔法にすぎない。そこには、聖餐の 固有の主要の本質が欠けているこ
とをしるので ある。すなわち、聖餐は人々によく 説明されるべきこと、御約束は明 確に唱えられ
るべきこと、言いかえれば、司祭 は人々から離れて、全く低い声で意 味もなく、理由もなく、ぼ
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そぼそと唱えないこ とである。それは道化であり、茶 番狂言である。」
聖 餐につ いての 小論
★カルヴァンのもと牧し たシュトラスブルグの外国人教会は 、二五年しか続かなかった。ルー
テル教会の極端な主張の故に 、マールバッハの指導の下に、カル ヴァン的キリスト者を危険な異
端とした。
「共在説」を認めないとの理由であ る。カルヴァンは一五五六年(ブッ ツエルは一五四九年イ
ギリスにいく。)フラ ンクフルトへの途次、この市を通 過し、一部の人々・学生に歓迎せら れな
がら説 教は許されなかった。「共在説」を 信じないとの同じ理由による。一 五六三年八月九日、
改革教会の礼拝は全く禁止 された。
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★ローマ教会では「教会の一致と 連続を示すため前のミサで聖別され た小片(サンクタ)をぶ
どう酒(カリス)の 中にひたすのである事は、既述し たとうりであるが、何故ひたすのか 、その
理由 とするところは次の如くである。
これは単に便利のためにされたこ とだったらし
「教会の一致と連続だけ を表すとすればその都度、前のミサ の聖体を拝領しさえすればよい。
なぜこれを ぶどう酒の中に入れるのだろうか?
い。そのころのホスティアは、 普通のパンで、それ程精製されてい なかったので、硬くなるのも
早かった。そこで 、食べ易くするために、先に、ぶど う酒によく浸しておいたのである。 」と。
な おこの保存された「サンクタ」の慣 習は九世紀頃までで、現在は行われ ていない。ただし、
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信心のために、 聖体を残して安置することは現在も なされている。
た だ、その日のホスティアとぶどう酒 の混和は第二の混和とされ、なさ れているが、その意味
は明かでない。従来は この混和によって、ぶどう酒が聖変 化するとも説明されたが、今は受け 入
れられて いない。ただ、この両形色の一致が 説かれているだけである。
★いったい、何 時頃から、ぶどう酒が飲ませられ なくなったのか?
西方では、ぶどう酒の形色による聖 体拝領は一四四五年、コンスタンス 公会議で、完全に廃止
された。その頃から、 ローマの高位の聖職者たちも聖別 されたぶどう酒を数滴注いだ普通の ぶど
う酒を うけるようになった。
祭壇にのせられた唯一のカ リスはそれ程大きくなかったようで ある。事実、助祭はミサの間に
何回も、その カリスを動かす式があったので、軽 いものでなければならなかった。 従って、信者
の数が増えたとき、一つのカリス では足りなくなった。そのため、ほ かの所では、聖別されたぶ
どう酒が少なくなっ てくると、ほかのぶどう酒をそれ に加えた。その時、聖別されたホス ティア
が投 げこまれて、聖別されたのである。
とにかく、ぶどう酒の形 色による聖体拝領にはいつも不便が あった。それをこぼす心配もあっ
たし、必要量を正確に、はか る事は、困難である。又聖別された ぶどう酒があまった場合、特に
すぐに変質して しまうような暑い地方では、これ を保存することは大変な問題であっ た。遂に、
一二世紀になると、キリストが両方 の形色のおのおのに、欠けるところ なく実存して居られると
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パン とぶどう酒が、不足した場合どう するか
ミ サの歴 史
いうことが、はっきり し、廃止したのである。
問一五
★聖公会祈祷書
『若 し、中間にて聖別したるもの尽きな ば長老前の聖別祷に従いて、更に聖 別すべし、但し
「パン」を祝するときは 「主イエス付さるる夜」より「汝ら 、これをなして我を記念せよ」まで
用い、又ぶ どう酒を祝するときは、「夕食を終 りしのち、杯をとり」より終りまで 用うべし。』
祈祷書 、三五 九頁、 新改訂 書一六三 頁
★ルーテル教会
「 配餐の途中において、パンかぶどう 酒が不足したるときは、牧師は必要 量を聖餐器に移し、
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二 八頁
聖餐設定のみ言 の中、それに関する部分のみを唱う べし。」
ル ーテル 教会式 文
★大部分は、そのまま 、不足分を補うが、S牧師のように 、再び按手する。或は再び聖別の祈
りをする という発言も相当に見られる。
再び按手をする。或は聖別の 祈りの適否については、ローマ教会 の聖変化が、聖言を司祭が語
残ったものを どう処理するか
ったときに、行 われるということを思い起こした い。
問一六
★聖公会、「聖別したるも の残らば、礼拝堂内外に出さず、祝 祷終りし後、会師、陪餐者とと
三六 八頁
もに慎んで飲 食すべし」
祈祷書
★ルーテル教会、「 焼却する、ぶどう酒は土に流す。 」
「教 職が処理し、残りを食する」という のが多い。焼きすてるというS牧師 もある。K牧師の
ように、長老に全てを粗 末にならないようにまかせるのもい る。
プロテスタントは云うまでも なく、制定語をよみ、聖霊の働きと 執成しによる我らの信仰をも
って飲食する場 合にのみ、祝福があるのであって 、余ったものは、全く意味がない。 不敬虔にな
パンとぶどう酒を、あやまってこ ぼしたり、おとしたりする場合
らない程度に処理する配慮だけで十 分であろう。
問一七
★聖公会「パ ンをそのまま拾い上げる。ぶどう 酒は布でぬぐい、その布は世俗のも のと区別す
るため、焼却する。」ルーテル教 会「止むをえない。」
按手をされたS牧師 始め、殆どの人が止むをえないと する。こぼしたものを床に口をつけ てす
うと 云うN牧師もあるが、例外である。
勿論、聖別したる後でも 、そのような事故の時は、ただ粗末 、不敬虔にならぬ程度で、普通に
病人晩餐 への配慮
処理するこ とが妥当であろう。
問一八
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病者に対して、必ず説教が必要で ある。それ故、その前に絶えず、 規則正しく訪問をなし
★三つの事が想 起せられねばならない。
1
絶えず、礼拝に与ってい る会衆の祈りを覚えて、受けるべき である。何故なら、公同礼拝
み言が語られておらね ばならない。できうるなら、会衆に なされた説教と共に与かるのが望ま し
い。
2
に於ける陪餐の 交わりに於て意味があるからであ る。特別という意識を病人にもたせ ず、従って
必ず、数名のもの が一諸に陪餐すべきである。それ は、長老、信徒、家族、誰かそこに 陪
ローマ教会の云う「終油」との印象 をもたせてはいけないことは当然で ある。
3
餐し、 牧師も与るべきである。
問一九
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教会が世の ためという意味を重視するか、も し重視するなら、教会に所属する信 徒の
家が 開放され、家の教会として、礼拝 、聖餐式をなすことはどう考えるか。
★聖公会、「積極的に推進し ている。家の教会を奨励している。 ただし、全体教会の性格がで
なければ駄目。 聖餐式をやってもよいが、主日礼 拝の延長としてならよい。」
★この問の背景には、中都市の教会 がともすれば、教会にくる人を相手 にして礼拝・伝道をや
っていたのでは教勢も 思うようにのびない。日本の封建 的な町では、そのために教会に来れ ない
人がい る。その人々のために、むしろこっ ちから積極的にでかけていく必要 があるのではないか
という問がある。
賛否、両論相 半ばしているが、「聖餐式をやっ ていけない」という理由はないとい うのが賛成
論者で、消極的である。他方、否 定論者は、福音をもち行く或は、求 道者のくるのを待つことの
可否の問題ではなく 、福音に対する態度がすなわち、 どこまでが妥協で、どこまでが配慮 か、そ
の限 界を見極めるのに困難で、えてして 、妥協、口実の方が我々には強いと いうのである。聖餐
求道者にも陪餐せしむ る時があるか。
論を越えた問題とも関連 してくるようである。
問二〇
も と、ホーリネスのN牧師は、聖会席 上で「洗礼をうけようと決心してい る人は、聖餐をうけ
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てもよい」と云 い、結局全員陪餐してしまったと伝 えられる。相当な大教会で現に求道 者にも陪
餐 せしめている教会もある。
これは、ルターのいわ ゆる「不敬虔者への陪餐」
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を誤り解した一つの
結果なの であろうか。それとも日本に特有な 現象で、とり立てて問題にする必 要はないのだろう
か。
カルヴァンは「 凡そ、キリストの霊を欠いている ものは、よくキリストの肉を食する とも、香
味をおびざるぶどう酒を飲むにひと しい。」「死せるかつ生気なきもの として、
キリストの体を不信者 にも濫食せしめることは、確かに 極めて不当にキリストの体を寸断す るこ
とであ る。」「堅い岩の上に落つる雨が、 如何にしても石の中に入り得ずし て、流れ去るのと等
しく、不敬虔者らが、彼ら の硬心によって神の恩ちょうを斥け て彼らの中に透徹せざらしめるこ
とも真実であ る。それのみならず、信仰なしに、 キリストを受け入れることは、種 子が火のうち
四巻 一七の 三三
に萌芽すると云うのと同じく矛盾 することである。」と云う。
網要
聖公 会では、洗礼とは、原則として小児 洗礼のことであり、壮年聖洗式を受 けた人でも信徒按
手礼をうけなければ、聖 餐に与かりえない。考えを間違って 理解したのか、逆に教団の教会に、
小児洗礼だけで、陪餐をする という教会もでてきたようである。
以上、聖餐式の形式とその意義を多 少歴史的に探求してきたが、ここに 、ドイツ・ミサの終わ
りの語を引用し、この 項を閉じたい。
「要す るに、この、あるいはどの様式もす べて、濫用されるようになれば惜 しみなく捨てて、
他の様式をもってくるよう にしなければならないのである。例 えば、ヒゼキヤ王が神自身の命令
で造られた銅 の蛇を、イスラエルの子らが濫用す る故に、打ちこわして捨てた如く に。なぜなら、
様式は信仰と愛の助成に仕えなけ ればならないのであって、信仰を害 うことになってはならない
からである。
礼拝 様式がこのことにもはや役立たない ならば、その様式は現に死んでいる のであり、過ぎ去
っているのであって、も はや妥当しないのである。良金も偽 造されると、その濫用のために廃止
され変更さ れるように、或は新しい靴が古くな り、履きにくくなると、もはや用い られず、捨て
られて買いかえられるように。 様式は外的な事柄である。どれほど よいものでも濫用される事は
できるのである。 そうなれば、それはもはや一つの様 式ではなくびん乱である。それ故絶 対的と
み なされるような様式が今までなかっ たように、それ自身で何かであるよ うな様式は存在しない
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のである。むし るすべての様式の生命、品位、力、 徳はその正しい使用にあるからであ る。でな
け れば全く無価値であり、無駄である 。
マルテ ィヌス・ルター著
ー史的背景 ー
礼拝式に関する日 本プロテスタント教会の特異性
ル ター篇
神の霊とめぐみとが、 われらすべてと共にあらんことを。 アーメン。」
小島 訳
第五章
一、アメリカプロ テスタント教会との関係
日本が キリスト教に取って、如何に異質的 な精神的風土の国であったか、その 歴史的過程
日本プロテスタント教会 は、左の如き独自な性格を持ってい る。
1
に徴して明かである。キリスト 教は、その始めパレスチナの一角よ りやがてヘレニズムの世界に
伝播されていった 場合と、日本の場合と考え合わせて 見ると一見似ているように思える。 確かに
ヘ レニズムという異質的文化の唯中に 新しい地盤を求めた点において類似 しているか、当時キリ
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スト教はすでに ユダヤ教的背景を脱して進んでヘレ ニズムを摂取受容し、正に新しい形 態を取り
つ つあったのである。しかしこれに対 し日本の場合は事情を異にする。キ リスト教は依然として
一六 頁
先進国ヨーロッパ、ア メリカ的形態を保持しつつ異質文化 の素地に移植されようとしている。 こ
日本 キリス ト教の 歴史的 意義と 展望「 福音と 世界」一 九五九 年一月
又東南アジア方面にキリスト教 が伝播せられた事情とも異なる。キ リスト教が優越せる知
石原謙
こに断層 がある。
2
識と体験をもって未開 地を開発教化しつつキリスト教社 会を形成せんとしたのに対し、日本 は既
さて東洋伝道は一八世 紀後半の福音主義運動から出発した 。そして日本プロテスタント教
に異質 の文化・知識体系が先在し、キリス ト教を極めて批判的に迎えたので ある。
3
会はその一環 として考察される。しかしここで特 別に注意を払わねばならない点が あげられる。
それはアメリカプロテスタント教 会の直接的影響である。ヨーロッパ 圏からではなくアメリカ大
陸を経由し渡来、受 容されたのである。この場合連関 して中国プロテスタント史が日本伝 道を契
機と して一応考慮されねばならないであ ろう。なに故ならギュッツラフやウ イリアムスの日本語
研究や聖書翻訳事業がヘ ボンやブラウンの横浜における聖書 翻訳と密接不離であり、ヘボン自身
中国伝道は全く日本伝道のた めの準備であったと述べ、一面失敗 のようであったがモリソンの伝
ドク トルヘ ボン
プロテスタント国アメリカ
六四頁 ー六五 頁
二、アメリカプロテスタン ト教会の特色
以上の諸点を念頭に置 き、先ずアメリカプロテスタント の特質を歴史的に素描しよう。
高谷道 男
道方法を学んだ 事や、中国語の知識は大いなる収 穫となったのである。
1
宗教改革者マルチン ・ルターがヴィッテンベルヒの城 教会に、九十五箇条文を掲げて改革 の狼
火を あげた事件(一五一七年)とクリス トファ・コロンブスがアメリカ大陸 を発見した事件が
(一四九二年)ほぼ時を 等しくしていた点、アメリカをプロ テスタント国たらしめるくしき摂理
があったと 思われる。一五世紀後半より一六世 紀前半にわたってカトリック教会が 海外にめざま
しく進出し、プロテスタント教 会は極めて僅か北欧、西欧に新しい 地域を占めたに過ぎない。と
ころがこのプロテ スタント教会に全く未開の無尽蔵と も思われる伝道の宝庫を提供し、二 世紀の
後 には世界的規模にまで強大ならした のは実にアメリカであったのである 。
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北アメリカにお けるプロテスタント教会の優勢さは 、すでに植民地時代の後期、北はメ イン州
か ら南はジョージア州まで凡ゆる種類 の三、一三〇の教会中、僅か五〇を 除いてプロテスタント
教会であった。この五 〇のカトリック教会はほとんどメリ ーランドとペンシルヴァニアにあっ た
のである 。始めこのメリーランドさえカトリ ックは優勢ではなかった。一八世 紀半ばカトリック
はメリーランドの人口の僅か 一二分の一を占めたに過ぎない。ま ことにプロテスタントの国アメ
プロテスタント教 会の右翼と左翼
リカといわねば ならぬ。
2
まづア メリカのプロテスタント教会とヨー ロッパのそれと教派的分布を比較 してみると、丁度
ひっくり返しになっている 。ヨーロッパにおいてプロテスタン ト教会の主勢力は国教会である。
即ちイギリス 、オランダ、スコットランド、ドイ ツ、スカンジネヴィアの国々にお いては国家教
会として法律によって確立された 。そこでは組合派、メソジスト派、 バプテスト派等々はセクト
(分派)でしかなく 、小数で無力であった。しかるに アメリカではその教会の主勢力は反 対にヨ
ーロ ッパの主勢力のアングリカンやルタ ー派がセクトであった。
そもそもこれは宗教改革 の始めから包蔵していた所で、二つ のタイプとも言うべき傾向を有し
た。私たちはこの西ヨーロッ パ諸国における多くの国家教会を一 応右翼とよんでおこう。このプ
ロテスタントの 右翼、即ちルター派イギリス・ア ングリカン等はカトリックに対して は勿論であ
るがセクトと相容れぬものであった 。他方この右翼に対して批判的で決 して満足しない人々がい
たのである。これらの 人々は主として純粋な初代キリス ト教に生きんとする人々で時代をき よめ、
世の腐 敗を防がんとする事であった。これ をプロテスタントの左翼とよんで おこう。彼らは一般
にプロテスタントの右翼の 人々から軽蔑された一群であった、 所でこの左、右両プロテスタント
がアメリカ植 民地に移植されたのである。だいた い一六六〇年までヨーロッパの教 派分布に似て
いたが、これ依然明らかにアメリ カは左翼プロテスタントが次第に勢 いを増し需要となっていっ
た。そしてアメリカ においては左翼プロテスタント教 会がほとんど完成された姿で実現を 見たの
であ る。ヨーロッパの教派分布の裏返し になったわけである。しかもアメリ カは西ヨーロッパの
宗教的急進主義者達の避 難所であった。植民地時代ーー一七 世紀特にイギリスでは宗教に関して
と同様、政 治に関しても政府は攻撃の的とせら れた。最初アメリカ植民者達は信仰 的に反対した
ばかりでなく、多数の貧困者ら が当時の政治経済に対して強い不満 を持ち、これが一般庶民を一
層信仰に接近せし め、自由に積極的に近づけたのであ る。
こ の事実はスペイン植民地、即ち南ア メリカにおけるかトリック教会と著 しい対照を示すので
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ある。スペイン 植民地はその支配を完全にスペイン 帝国の下に置かれ、何ら新しい発展 も機会も
アメ リカ独特の進展
な かったのである。
3
植民地アメリカ に移植された右翼教会の最も重要 なものはアングリカン教会であった 。スコッ
トランドの長老派、及び北アイルラ ンド(いずれもそこから多くの植民 地がきた)の長老派の人
々は国教会に反対した 。当然彼らは植民地で主流となり 、左派プロテスタントに傾いていっ たの
である 。オランダ改革派教会はニューヨー ク(ニューアムステルダムといっ た)をオランダが支
配している中は右翼であっ た。ドイツ・ルター派、ドイツ改革 派は旧大陸において国教会であっ
たがアメリカ 植民地ではいつの間にか左翼になっ ていたのである。他方極めて興味 深いのはイギ
リス本国においては左派であった 組合派はアメリカに来て、ニューイ ングランドにおいて右翼に
なっていたのである 。そこで彼らは法律によって確立 された一般課税で維持されたのであ る。ア
メリ カにおけるアングリカン教会の伝道 失敗はイギリス政府が明確な教会方 策の手を打たなかっ
た所に有り、もし可及的 迅速に政策が立てられていたら少な くとも六つの植民地において見るべ
きものがあったであろう。最 大の彼らの勢力圏と思われたヴァジ ニア、メリーランド、南カロラ
イナにおいてさ え急激に増加する国教会反対者ら によって抵抗を受けざるを得なかっ たのである。
最初の百年間アメリカのプロテスタ ント教会は大部分旧大陸の複製版で あった。勿論しかし植
民地アメリカの右翼プ ロテスタントは一七世紀ヨーロッ パ・プロテスタントの如き制度的に 枯渇
したも のではなかった。ようやく一八世紀 を迎えてヨーロッパキリスト教は 大衆庶民に福音が伝
播せられ浸透して行ったの であるが、すでにアメリカはそれは 先立って著しい大衆庶民への宣教
が目立つので ある。もっともアメリカにおいても 一八世紀を迎えて独自な進展を見 せ世界史的な
ものとなるのである。このキリス ト教の大衆との接近は、枯渇せる煩 労極まる国教会的儀式、礼
拝式は全く人気を失 っており、生ける福音が庶民の生 活そのものを動かし、社会の風習に までな
り、 キリスト教の行事も儀式ではなく、 彼らの生活の不可欠の行事として、 牧師も宗教上の機能
を有するばかりでなく民 法上の機関となり大いなる影響を大 衆に及ぼすに至ったのである。この
底力になっ たのは左翼プロテスタントであった 。ヨーロッパ大陸では信仰は機械的 、制度的、組
織化し化石化し生命を失わんと していた。個人の信仰義認、悔改め より、救は教会の機関を通じ
て達成される様に 考えられ、明確な決意なく信者とせ られるのであった。アメリカに渡っ た植民
地 開拓者らの信仰は日々の生活との戦 いであり、その力に基いて困苦欠乏 に耐えていったのであ
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る。かくてその 地域ぐるみ団結し協同し植民的形成 に粉骨を惜しまなかったのである。 当時ヨー
ロ ッパ・キリスト教の行きづまり、教 理の固定化打開にこのアメリカ伝道 開拓こそ驚くほどの転
地、厚生の役をなした のであり、又福音宣教の輪作とでも 言い得るのではないかと思うのであ る。
アメリカ 植民地時代のプロテスタントの個人 的徹底化は言う迄もなくドイツ敬 虔派の紹介と共
に、その内心に偉大な覚醒を もたらした植民地時代のリヴァイヴ ァリストであり、ほとんど例外
なくカルヴィニ スト達であった。しかしそのカル ヴィニストらは幾分修飾された人達 であって、
一八世紀終わりまでにアメリカは左 翼プロテスタントになっていたので ある。それは形式より内
面を、信条より個人の 魂を強調する者であった。
他方ア メリカのプロテスタント教会がかく も巨大となり大衆に浸透して行っ た歴史的、社会的
側面を検討する時、欧州に おいてはすでに政治経済の組織体系 が確立され、国教会がその牢固た
る地盤を築い ていた際、当然教会の儀式的礼拝、 典礼は人心を縛し、その力を発揮 していたので
ある。アメリカは未だ未開の新天 地として拡がり行く国であったし、 当然政治経済の組織形態は
整う段階に達しては いず、ほとんど二〇世紀を迎えて ようやくその体制を確立したのであ る。従
って このような社会的状況は人々をして 教会と一般大衆とを著しく近づけ、 親近感を深めるとこ
ろとなったのである。彼 らはアメリカの植民者らの生活は、 極めて容易に信仰と結合し自然なも
のであったのである。
更に特質すべき 一事はプロテスタント教会が西部 開拓時代、まことに甚大な精神的影 響、貢献
をなしたということである。社会状 勢の著しい変化進展に伴いアメリカ 開拓民が西へ西へと移住
し、展開して行く時、 又暴力主義、弱肉強食が横行する 中に、これとよく戦い克服せんとし たの
は始め 監督教会と組合教会であった。その 他バプテスト派、メソジスト派、 デサイプロ派、ルタ
ー派も活動したが最も効果 的に働いたのはリヴァイヴァリスト のグループであった。この植民的
リヴァイヴァ ル運動はアメリカにおける最初のデ モクラチックな運動であり、この 運動が大衆庶
民にどれほど浸透したか知れぬ程 である。直接の結果として教会員が 数を増し、各々種々のタイ
プの指導者を生み出 したのである。
教育 の面も簡単に触れると、アメリカで は始めから教育文化の形態はプロテ スタントであった。
聖書は道徳的文化的影響 を与え、言論自由のために力強い作 用をなしたのである。極めて優秀で
高度の教育 についてもプロテスタント教会がそ の基礎を与えた。九つの植民的カレ ッジのうち八
つがプロテスタントによって建 設され(三つは組合系、二つは監督 系、長老派、バプテスト系、
改革派系各一つ) 、フィラデルフィア・カレッジ(今 のペンシルヴァニア大学)は教派的 介入な
し であった。この九大学の中五つは今 日世界有数の大学に発展した。プロ テスタント教会は実は
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開拓時代以来教 育的機能を十分に果たした。大多数 のカレッジは南北戦争前に出来てい たのであ
る 。一七八〇年ー一八二九年までに創 設された四〇のカレッジの中一三は 長老派、五は組合派、
六は監督派、三はバプ テスト派、一はドイツ改革派、一は ロマ・カトリック派、一一は州立で あ
った。メ ソジストは一八三〇年頃まで一つも なかった。その後一八六〇年まで に三四のカレッジ
をたてた。南北戦争までに一 八二のカレッジとユニバーシテイー が出来、一五〇がプロテスタン
ト系で、一三が カトリック系で一九が州立であっ たのである。
この項 は次の書 に負う 処多い
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以上総括して 述べるとアメリカ・プロテスタン ト教会の機能、特質は極めて多様な 要素を含み
つつ疑いもなくアメリカ独立の根 本的契機となっていたのである。他 のいかなる植民地にも見ら
れぬ非常に進んだピ ュリタンらの宗教的自由が見られ 、やがてアメリカの政治的自由に傾 いて行
った 事情も明らかになって行くのである 。そして教会のデモクラシーの生長 は政治的デモクラシ
ー発展の基礎的要因であ ったのである。
教育の制度、組織、形成の過 程はヨーロッパの教会より甚だしく 、草書的にくずれていること
は否定し得ない 。又教会に属さないキリスト教的 人材も少なくなかったのである。ア メリカにお
いてはかかる教会形成の確率は求め ることが出来ぬし状況も又ゆるさざ るものがあったのである。
しかしそれは他面アメ リカプロテスタント教会の弱点で あると共に、歴史的役割をはたす特 質と
しての 長所でもあったのである。即ち福音 の伝播と驚くべき進展はゆうに今 日の大をなすに至っ
た。従ってアメリカ・プロ テスタンティズムに関してヨーロッ パ・プロテスタンティズムとの対
比において論 ずるのは当を得ていない。やはりア メリカ大陸において状況に適合し た発展が必然
であったのである。
さて最後にアメリカ ・ピューリタニズムのわが国プロ テスタント教会へ及ぼせる影響につ いて
であ る。明治初年来渡来せるキリスト教 は主としてこの清教徒的精神の所持 者達であった。中に
もマサチューセッツ州及 びコネチカット州の会衆派教徒の正 系であった。彼らの伝道によって組
合教会が出 来た。又北米長老ミッション、アメ リカ改革派教会の宣教師達も皆一九 世紀後半の正
統主義の神学即ち堅実は福音主 義に立っていたのである。後の横浜 バンドで旧日基、組合、メソ
ジストの教会を形 成した。札幌バンドの中心人物であ ったクラークも南北戦争の勇士で生 き生き
と した信仰をもって学生を指導したの である。
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大づかみに言っ て日本プロテスタントの特質をここ に上げてみよう。
合同教会的ー日本基督 公会
初めて日 本に伝道の為に渡来した宣教師の教 派別はどうだったかと云うと、始 めの一三年間に
米国プロテスタント監督教会 のリギンス、ウィリアムス、米国プ レスビテリアン(長老派)のヘ
ボン夫妻、タム ソン、コルネス夫妻、米国レフォ ームド(改革派)のブラオン、シモ ンズ、フル
ベッキ、バラ夫妻、少しおくれて米 国バプテスト自由伝道局のゴオブル 夫妻、それから英国監督
教会派のエンソル夫妻 、アメリカンボードミッション( 米国伝道局)のグリーン夫妻、デビ ス等
であっ た。この中第二と第三は横浜の日本 基督公会を生み出し発展せしめた 派である、識見ある
宣教師は高い見地に立って 各人の所属せる教派を主張せず、横 浜バンドは超教派的な日本基督公
会を設立した のである。これは成功しなかったの であるが、絶えず教会合同の議が 起り努力がつ
づけられた。明治五年超教派主義 に発足した日本基督公会の悲願が昭 和一六年の日本基督教団の
成立となったのであ る。もとよりこの中には種々なる 動機・経過を持っており十分な検討 がなさ
られ ねばならぬが、他面極めて健実な自 主独立の教会形成と理想が存した。 従って礼拝式も種々
アメリカより 渡来せるプロテスタントには余りに も倫理的な面が強く原罪を認める
雑多のものを含みつつ日 本の教会に真に生ける福音宣教の場 所として断えざる研究が重ねられね
ばならぬ。
倫理主義
が理想主義的であった。最近大内氏 が指摘されている所であるが、「明 治初期のキリスト教徒は
キリスト教に入って始 めて文明開化へと情熱を傾けたわ けではない。その逆であってキリス ト教
はあく までもあとから倫理を供給している のである。その場合日本をいかに 文明開化にするかそ
一 三三頁
ういう倫理問題、世俗の処 理が先決でしかもそのエネルギー提 供源はけっして聖書ではなくナシ
近 代日本 の聖書思 想
ョナリズムで あった」。
大内三 郎
この問題はたとおえ ば熊本バンドを上げてみるとキリ スト教が仏教を完成するものとして 、日
本の 救済のために信者となった。又当時 清教徒の精神にさえも南北戦争に出 陣したジョーンズ等
の軍人気質、その人格的 影響は甚大なものがあった。小崎弘 道の儒教との対決にみられる「政教
新論」は明 らかに儒教を批判しているが、その 批判の基準は近代主義の立場なので ある。唯植村
正久の「真理一班」の方ははっ きりとした福音主義からこれに対決 している。ともあれその倫理
において人格の尊 厳、個性の尊重、一夫一婦制等、フ ランス流の自由民権思想と相まって 大きな
貢 献をなしたのである。
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聖書主義
これを初期キリ シタンの布教宣教師とプロテスタン ト宣教師と対比してみると直ち
に 気づかれる点がある。キリシタンの 布教宣教師は渡来してまず、日本語 に翻訳したものは、教
理書の類で「こんてむ つすむんじ」「どちりなきりしたん 」「いみたちよくりすち」等教義を 説
明する建 徳的な入門書であったのである。し かしプロテスタント宣教師は全勢 力を聖書翻訳に傾
けたのである。勿論彼らが渡 来した当時、キリスト教禁制で伝道 出来なかった事情もさることな
がら、その準備 に一致して心がけたのは聖書の翻 訳ということであった。ギュッツラ フの「約翰
福音書之伝」(天保八)ゴーブル「 摩太福音書」(明治四)ヘボン・ブ ラウンの「新約聖書馬可
伝」「約翰伝」「馬太 伝」(明治五)が出版された。明 治二一年新旧約邦訳の完了したので ある。
しかも これらにたずさわった宣教師らは異 なった教派に属しつつもこの翻訳 のために一致協力し
達成したのである。これは 何も日本プロテスタント教会の特質 としてだけ直ちにあげうるか問題
であろう。又 プロテスタントの信仰的基礎が「聖 書のみ」という時に当然のことと も言い得るで
あろうが、とにかくその後の内村 鑑三全集、植村正久全集、其の他聖 書主義の尖鋭な面は否定し
得ない所なのである 。石原博士によれば「東洋ミッシ ョンは一八世紀後半の福音主義運動 から出
発し た。それは教派的教会と対じし英国 教会の風潮への反発をもっていた。 従って聖書主義にお
いて尖鋭化するが教会的 訓練を怠った。日本教会は著しく教 会秩序組織、制度に弱く、歴史的現
前掲書
現代日本プロテスタント教会の 聖餐式
一四 頁
実を重んじなかった」。わが 国の礼拝の様式は根本的にピューリ タンの伝統をうけついでいると
思われる。
石原謙
第六章
ーその形式、意義等につい てー
過去一世紀を経て来た我が国プロ テスタントの礼拝形式は種々雑多で あった。特にその聖餐式
の形式は司式者の個 人的判断によって、いろいろ異な った面がしばしば見られる。しかし 又一方
その 礼拝式は「霊と真を以て主を拝する 」点において驚くほど一致と統一が あったといえる。こ
れら礼拝式その中の聖餐 式に関して一層自覚的にその神学的 伝統、牧会的実践を熟慮考究し、そ
れらの意味 をたずねたいと思う。以下の調査は 聖餐式を行う形式に関して、数十名 の各派の代表
者又特に意見を持っている方々 を訪ねてまとめ、それに連関した事 柄をつけ加えたのである。こ
れは極めて不完全 な試みにすぎないが、今後更に広く 探求されることが望ましい。
- 103 - 104 -
一
聖 餐式の形式についてーその意味の 解明ー
礼拝 堂内部の形式
) )
( (
1 聖卓をどの 位置におくか
a 聖卓の存在すら知らぬ者が多数 あった。献金を献げる台とか、伝道 集会用の机とか、会議
の場合の書記席のよう に考えている向きが多く、説教台 を必要以上に重視し、聖卓を軽視せ る傾
)
(
向が多 かった。 b プロテスタント教会は ほとんど中央説教壇の直下が多か った。しかし近頃は
)
(
聖卓を後方正面の壁につけ 説教台と聖書朗読台とに分離せる傾 向がある。 c プロテスタントが
聖卓を奥深く 後退させ始めたのと逆行して近頃カ トリック教会は、プロテスタント の様に聖卓を
会衆席に前進させて来てこれを囲 んで聖餐を受ける傾向が著しい。< 原始教会に帰れ>の運動か
ら今やプロテスタン トに近づきつつあるのである。い よいよプロテスタントの聖卓がカト リック
的祭 壇に奥深く祭られるのに対してカト リックは甚だプロテスタント的にな りつつあるのである。
)
(
2 十字架を中央に置くか
)
(
a 中央に置く のは勿論カトリックやアングリカ ン、ルターその他多数。カトリック とアング
リカンの十字架の区別は、カトリッ クは釘つけられたまいしキリスト像 、アングリカンはすでに
復活し昇天したまいし 主を仰ぐゆえ、何のかざりもない 十字架のみをかかげる。
プロテ スタントではシンボルとして掲げら れ表徴的意義以上には出ないがよ い。
)
(
3 ガウンを 着用するか
)
(
)
(
二つの考え方が見られる。 a 特 別な礼拝的な雰囲気を感じさせる。 b ガウンは特別に目立た
せる為のものでなく 、特別意識を消すために着用する 。いろいろの意見があり、まとめ難 い。し
かし 次の点は考えさせられる。ブッツア ーがガウン着用に関して注意してい るごとく、プロテス
タント教職は祭司服をき るのでなく、教える者、博士として 大学教授のガウンを着用せよといっ
たが、当時 ガウン着用は普通服を着用せよとの 意味でその頃の大学教授のありふれ た服装であっ
たと思われる。そうとすれば、 今日プロテスタントの教職がガウン を着用することは特別な服装
を意味し、形式に おいてはプロテスタント初期の教職 者と一致しても、その着用の精神に おいて
全 く逆となる。従ってプロテスタント 的な考え方をもってすれば今日教職 は普通服、背広を着用
- 105 - 106 -
し、目立たぬ為 に、簡素清潔な服装であることが真 意にかなってはいまいか、制度、形 式、服装
礼拝 で説教・聖餐の占める位置、関係
の 如きものは動きにおいて真意が把握 されねばならない。
二
)
(
1 回数 毎週 、月一回、年六回、祝日、特別な教 派クエーカー、プレマスブレザリン 等は毎週
行うが、他は月一回、年六回、年四 回、年二回、種々教会又教職の考え 方によりまちまちである。
近頃日本基督教団内で 毎月一回聖餐式を行う傾向があり 、又概して旧日基系の教会では第一 日
曜日執 行している。これは恐らく初期プロ テスタント宣教師、ブラオン、ヘ ボンらが宣教前横浜
四五 七頁
一 二三頁
成仏寺において毎月第一日 曜日聖餐式を行っており、基督公会 において受け継がれて来た伝統で
あると思う。
高谷道 男「ド クトル ヘボン 」
植 村正久と 其の時 代ー第 一巻ー
礼拝式、典礼の重視、強 調から比較的その聖餐式の回数を増 やそうとする傾向が見られる。し
かしそれが真の意味で教会全 体の内面的要求と深い神学的考慮が 払われた上で実際的に適用され
ているかどうか 問題である。云うまでもなく説教 と正礼典の行われる所に正しい教会 が存する。
真正の教会にとってこの二つは不可 欠のものであり密接不離であり、本 質的に一致しているもの
である。しかしこの本 質的一致が果して必ずしも時間的 に常に同時に行われねばならぬもの では
ない。 対象によって状況によって説教が多 く語られ聖餐式が行われないこと があったってよいし、
陪餐者をどう指導するか
又当然である。この点は結 論において述べる。
三
)
(
1 自席 で受けるか、聖卓に進みひざまずく か
礼拝堂、特に聖卓の位置 構造などによって進み出る場合と、 自席で受ける場合とある。従来ル
ター派、旧 メソジスト派は進み出てひざまずい た。旧日基系の教会は自席で受け共 に陪したので
ある。歴史的伝統としてはカル ヴァンは進み出ることを主張し、ツ ヴィングリー及び和蘭の改革
者ラスコーは自席 で受餐する事を主張したのである。 旧日基系はカルヴァンよりツヴィン グリー
式 であったのではなかろうか。神学的 理解は、進み出るルター派メソジス ト派は「信仰の自発
- 107 - 108 -
性」を力説して いるように思われる。カルヴァン派 伝説(ツヴィングリーとラスコーだ が)の自
席 において陪するのは聖卓の延長とし て又「共に」いただく共同性を力説 しているように思われ
る。
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聖餐式を行う際、どの様な順序 で行うか
いずれであれ真に自覚的に為 されるならそれでよいであろう。
四
)
(
1 式文に よるか、式文によらぬか
半々ぐらい、現行式文はい ずれも冗漫で今日の教会に適合し難 いとの批判がある。伝道的教会即
ち求道者を含 む礼拝の場合一層考慮を要する。
)
(
2 礼拝開始前聖餐の用器が準備され てあるか、礼拝の途中から持って来 るか
アングリカン教会で は用器は準備されてあるが、事物 は信徒奉仕者が捧持し、司祭はこれ を受け
聖別 する。これは恐らく聖餐が我々の生 活の奉献を表す意味から来ていると 考えられる。
)
(
3 用器準備は誰が行うか
ほとんど牧師が大半、中に長 老、補教師、これを行う場合が若干 見うけられる。
)
(
4 聖餐を分け与え る時、長老は奉仕するか
プロテスタントのほとんどの教会で は長老を奉仕せしめている。典礼教 会は奉仕せしめず、むし
ろ児童の奉仕者で手伝 わしめることがある。
)
(
5 一般に 配る前に、司式者が先に与るか
まちまちである。しかしこ の場合神学的に考慮すべきでエチケ ットとして謙譲の美徳など発揮す
ることはない 。執行者が最初に与るか、全部配し て一しょに食し飲むのがよいであ ろう。
)
(
6 一つの杯から飲み一つのパンから うける意味を重視するか、重視すれ ばどんな形でするか
気持ちにおいて重視 するが、形では特に表さないとい うのがほとんど全部、今世紀に入っ て衛生
思想 の普及から一人一人の杯、一片のパ ンを用いる様になったのである。た だアングリカンはこ
の両方の気持ちと形を重 視して一つの杯から受けるが、衛生 的見地も加味してアルコールのなる
べく強く殺 菌力あるのを用いると云う。
)
(
7 葡萄酒を用いるか、液汁を用い るか
購入の便宜上、大 体市販のぶどう酒、通常のパン屋の を用いる。老人や特別な個人差を考 え酒が
咽 喉を刺激するので液汁にしている場 合もある。一方液汁は保存ができず 、比較的高価という不
- 109 - 110 -
利な点がある。 頑固な明治以来の禁酒主義の傾向の 教会牧師の所は、この点から液汁を 用いる。
聖別奉献について
そ の為婦人会が年間の聖餐式用液汁を 作り、会員の病人見舞い用を兼ね用 いている教会もあった。
五
)
(
1 パン葡萄酒を配る前に、聖別の祈り 、もしくは棒拝するか
ある自由教会は按手し て配るといい、祈りはするがその ものの聖別ではないと主張する者も あり、
メソジ スト条令には「主の晩餐に用いたる パンと葡萄酒を貯蔵し又はこれを 携帯運搬し、又はこ
れを棒持しき拝せしむるこ とはキリストの命じ給える所に非ず 」(宗教箇条一二条)
がこれに
ー
タ
ル
ついて棒拝を 禁じたのは有名である。
)
(
2 パン葡萄酒が不足した場合どうす るか
追加する。全部無効 にしてやり直す。新しい分を聖別 して続行する。アングリカンは「長 老前の
聖別 祷に従い按手して聖別すべし」と記 されてある。
極めて常識的に、異例で なく新しく加えて行えばよいと思う 。改めて祈祷したり聖別したりす
ることは少し奇妙なことであ る。言葉や按手が有効なのではない 。制定語を読み聖霊の働きと執
り成し、これに 対する各人の信仰において聖餐の 恩寵は有効なのであるから。
)
(
3 残ったものはいかに処理するか
アングリカンは「聖別 したるものの残らば、礼拝堂の外 に出さず、会師陪餐者(奉仕者)と 共に
慎んで 飲食すべし」(祈祷書三六八頁 ) 牧師が食す。又焼却し酒は土に流す 等々あった。しかし
特別にかくすべしというこ とを発見しなかった。粗末に不謹慎 にならぬ様に取り扱うことが望ま
戒規との関連 に於て
しい。誤って こぼしたり、落としたりした場合も 同じことである。
六
)
(
1 陪餐停止される場合あり や
カトリック 及びアングリカンは勿論あり。プロ テスタント教会でも当然考えられる 。日本では行
われた事例を余り知らない。唯 その場合いかなる理由、又決定をど こがするか問題である。道徳
的法律的刑罰を受 けている場合、しかし心から悔い改 めている場合、謹慎としての一種の 懲罰的
な ものとして行うか、一定した規準は ない。しかし個人的判定は避けられ るのが望ましい故、長
- 111 - 112 -
今
後
の
問
題
礼拝式(聖餐式)につ いての自覚的認識
第七章
老会、役員会、 叉は教会会議において決定されるの が正しいであろう。
一
今日わが国フロテスタント教会で は礼拝式、なかんずく礼典に関して 新たなる関心が高まりつ
つある。それは必然 的によかれ悪かれアメリカプロテ スタソトの影響下に置かれ、又特異 なる異
教的 文化国日本に移入された非典礼的教 会の反省から出発している。更に過 去一世紀間の日本プ
ロテスタント伝道史は種 々なる要素を含みつつ今や第二次段 階を迎え、福音主義による健全なる
教会の形成は正に不可欠の緊 急事となっている。かかる真剣な教 会観確立の為の意識は必然的に
礼拝式その礼典 執行に関して特別な関心と注意を 払わねばならぬのは当然である。簡 単に触れた
如くわが国プロテスタント教会は極 めて独特な性格を持ち、その当初か ら「教会合同的」であり
「聖書主義的」かつ「 倫理主義的」でその点に鋭さを示 し、社会的指導力をもって知識階級 に対
する伝 道に見るべきものがあったのである 。
当然かかる性格の伝道教会 、自由教会の傾向が非リタージカル であり、反リタージカルでさえ
ある。
しかしそもそもリタージーという 本来の語義ならびに聖書に基く場合 、必ずしもヨーロッパ的
教会が真にリタージ カルだとは言えない。単にそれは 「仕えること」「礼拝すること」ル ターは
ドイ ツ語に訳して
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神礼拝と した。私共が「礼拝を献げる」こと に他ならす、典礼的
教会と非典礼的教会との 区別は後世の歴史的事情に基くので あることはしばしば述べられた所で
あり、一定 の形をとった礼拝式に他ならぬ。す ると私共の礼拝式は歴史的には非典 礼教会に属す
のであるが、かかる既成概念で 区別する事は問題であろう。むしろ それは「 単純な礼拝式」「 複
雑な礼拝式 」とがあるので あって、カトリックやアングリカンの 人々が言う礼拝式が、いかに純
正 古い形式かというだけでは問題にな らない。
- 113 - 114 -
最近わが国では ヨーロッパ教会の神学の影響と相呼 応してヨーロッパ教会直接の典礼運 動もな
か なか強く主張され始めている。又ア メリカ・プロテスタント教会では最 近はヨーロッパ的、否
むしろカトリック的の 教会建築、礼拝堂、礼拝式を大胆に 受入れんとする傾向も見られる。果 し
てこの日 本の現状に適合するか、再考を要す る点が少くない。むしろ日本プロ テスタントの特異
なる単純な礼拝式を真に 自覚的認識に掘り下げて行く時期ではあ るまいか。問題は私共が礼拝式
(
)
聖餐式等 に対 して自覚的か否かにかかって来る 。礼拝が真に私共にとって生命的な かつ一回的
なものであればあるほど、形式や慣 習の奥に存する精神の問題こそ重大 である。
(一)
教会が、異教的無 神論的脅威にさらされ、協同の体制 を整える時
教派的差別を越え、信仰的覚醒の 時
大体教会史に徴して見 る迄もなく「単純なる礼拝式」や 礼典が行われた時は次の場合である 。
(二)
日本プロテス タント教会における、「単純なる 礼拝式」はまことに前記二項の時期 であったの
である。従って礼拝式について無 思慮、礼典に対する無知、欠如とだ けは片づけられない。複雑
な文化体系の中にキ リスト教がいかにして侵入しよう かと云う接触点を尋ね、摸索する創 世の時
代と してその礼拝式、教会秩序まで手が 廻らなかったのである。しかしすで に一世紀を経てこの
日本の土壌に福音を浸透 せしめ、永代にわたる基礎を牢固た らしめるに、今日教会が土壌に根を
下し、その信者は種々なる習 慣を脱し、福音的人格を形成する為 に正しい教会の秩序が守られ、
教会訓練を徹底 して置かないと一切を失う結果と なるであろう。この点からもう一度 百年を省み
礼 拝式を定める基準
て凡てを 自覚的に検討し反省してみ なければならぬと思う。
二
私共にとって 礼拝は何よりも自覚的 ということ が本質的なものへの態度であり、か かる場合の
み、生けるキリストの教会は存す るのである。
この自覚こそは「霊 と真をもって拝する」礼拝であり 、場所や様式ではなく、真に人格的 なの
であ る。この点に関してカトリリク教会 はしばしは誤りを犯して来たし、又 プロテスタント教会
(二)
(一)
誤まてる 合同教会の問題
自由主義・個人主義の 影響
主 知主義・合理主義、審美主義に傾く 時
も再びその危険に瀕して いるのである。即ち自覚的礼拝を妨 げるのは次の様な時であった。
(三)
教 会史をひもとくまでもなく啓蒙主義 の主知合理主義の時代、又カトリッ ク的審美主義、これ
- 115 - 116 -
は人間の本質に 巣喰っているぬき難い誘惑である。 カルヴァンは「基督教綱要」の中で カトリッ
綱要第四部第
(
。
中山訳 四一一ー四一五頁
ク 聖礼典の特質に「古さ」「優麗さ」 「好奇的」の三つを上げてしりぞけ ている
十九章一ー四
)
私共伝道 者はしばしば無意識の中にこの誘惑 に陥り易く、たとえば牧会的な無 力を礼典の影に
逃げ込むとか、説教が貧弱で みじめであるから礼典を厳かに執行 してつっかい棒にするとか、牧
師の人間的弱さ を支える松葉杖、ギブスにする様 な場合がある。
真に自覚的な礼拝、その礼拝式とは どの様なものであろうか、おのずか らそこに基準が考えら
(三)
(二)
(一)
信仰表現との一致
現実状況との 一致
他教会との一致(公同教会 的)時間的
信仰の 父祖達との一致(伝統的)空間的
れねばならない。次の 四点が挙げられる。
(四)
日本基督教団は周知 の如く大別して教会組織、教会観 において三つの型に分けられる、第 一は
組合 教会型、第二は長老教会型、第三は 監督教会型、これである.しかし「 歴史的特徴を尊重し
つつ聖なる公同教会の交 わりに入る」を決意して教団が形成 されているのであって、この前記四
)
(
)
(
点の中の 一 および 二 に立 って、常にこの両者の十分な考慮の 下に目標めざして進まねばなら
ない。しかし礼 拝式はどこまでも教会の生ける現 実情況を離れては抽象化するに過ぎ ない。私共
)
(
はこの点固く信仰者の現状に立ち、 その時一番相応しい形式が生み出さ れねばならない。 三
更に付け加えれば「宣 教」の表現として適切でなければ ならない。信仰と宣教の表現として ふ
)
(
さわし い形式を生み出す様に努力せねばな らない。 四
以上四つの観点からの考慮 なしに礼拝式文、聖礼典を定め、或 は改訂してみてもカトリック教
聖餐式理解の二、三の 問題
)
(
形式 と内容に関して
三
会やアングリ カン教会の様に画一的意味しか持た ない。
1
日本プロテスタント初期 の信者、又その伝統の下にある人々 は、キリスト教、特にプロテスタ
ンティズム によって始めて宗教的律法主義、在 来の仏神宗教の煩労なる形式主義、 又因習化され
た宗教的行事、それらから真に 解放された信仰の自由を享受し、こ れこそ人間を生かし導く原理
として比類なき高 度なる信仰として受け容れた。信仰 的内容を失って唯宗教的儀式のに行 ってい
る それら宗教は呪術的で、非人格的で 、奇怪なる事柄でしかなかった。
- 117 - 118 -
従ってカトリッ クやアングリカンの様な典礼的教会 は慣習化された仏教的、又偶像的印 象を人々
に 明確に区別を与えることが不可能で あった。インテレクチアルな人々は 、進んで簡素な、然も
生々とした人格的なプ ロテスタントに集まったのである。 しかしプロテスタントもその歴史の 示
す如く教 理の固定化と霊的枯渇化によって再 びカトリック的に転落する危険を も持っている。勿
論プロテスタントの礼拝も、 又主日毎に繰り返されるのであるか ら、それが習慣化し無自覚的、
形式化を警めね ばならない。しばしばカトリック やアングリカンから、私たちは礼拝 中の説教で
も祈祷でも余りにプロテスタソトは 共の場主義で、時にその人の私人的 好みが出ていて、礼拝ら
しくないと批判される 。披らはそれより礼拝式の私人的 性格をめぐって公共性の式文を用い るの
がよい と考えている。しかしどれほど厳粛 荘厳であっても決断的一回的な要 素がなければ習慣化
されてしまう。私達は礼拝 中の祈祷や告白もリタージーとして みてよいものか、なお考慮せねば
ならない。そ れに加えて重大なることは、礼拝式 の生命なる自覚的と毎主日繰り返 される習慣的
の面とをいかに緊張的に保持しう るであろうか、これは自覚的と習慣 的とは相矛盾せず、反って
互いに助け保ちうる ものなのである。習慣的という中 に二つの意がある、一つは正しい善 き習慣、
これ は同一の事柄を繰り返し反覆する度 に自覚的にその人を動かし真剣に立 ち向わせる。しかし
悪しき習慣、これは因習 化とよんだ方がよい。これは自覚の 反対に麻痺せしめ駄目にしてしまう
所のものである。礼拝の自覚 と正しい習慣は矛盾せず反って覚醒 を与えられ、高くさせられるの
である。常に自 覚を失わしめる因習化を警戒して 行かねばならない。
聖餐は秘義で、魔術ではない
)
(
2
聖餐の内的意義を会得 すること、又教えることは至難の 業である。これはもとよりその根本 の
キリス トの生ける人格への告白、聖霊の働 きなくして理解出来ぬ問題でキリ スト論に基くのは言
をまたぬ。私達はその聖餐 式の形式、方法において直ちに異教 的呪術と何らか区別するのみなら
ず、何よりも 御言葉の宣教において十二分に訓練 されておらねばならない。御言葉 は啓示者イエ
ス・キリストの人格に固着せるも のなる故、聖餐の形式は根本がキリ ストの人格的媒介によって
いるに他ならず、御 霊の執成により信仰をもってこれ に与る時に主イエスは現臨したもう のであ
る。 これ受肉の秘義であり、十字架の秘 義でもある。私たちはカトリック的 「存在類比」自然神
学を排除しながら「信仰 の類比」御言葉の宣教と信仰におい て解明して行かねばならない。この
点に関し指 唆されるカルヴァンの言葉(アウグ スチヌスを引用)「汝ら、顎ではな く、心情を備
えせよ、晩餐が勧奨されている のは心情に対してである。見よ我々 はキリストを信仰にて受け容
れる時に信ずるの である。受け容れることによって我 々は、我々の思考するところのもの を知る
の である。我々はパンの砕片を受ける 。しかして心情において我々は養わ れるのである。それ故
- 119 - 120 -
に我々を養うの は我々の見るところのものでなく、 我々の信ずるところのものである」 と、面て
キ リストが信仰によってしか受けられ ないことを教えている。(綱要第四 篇第十七章三四、中山
訳三七五頁)
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終末論の問題
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説教と聖礼典
聖餐式を行ってい るし、近時、聖礼典の重視というこ とは、回数を増加する事によって関 心の高
も教会で同時に行われねばなら ぬものであろうか。現にクエカーや プレマスの人々は、毎主日に
実践神学の 立場から考えてみよう。説教と聖礼 典が本質的に一致せるものであるか ら、時間的に
するのである。この説教 と聖礼典との本質的一致に関して私 たちは今論じようとするのではない 。
カル ヴィンめ「綱要」を待つまでもなく 教会に説教と聖礼典が執行される所 、真正の教会が存
4
実」の牡厳さ を感動を以て認めておられる。(神 学と教会第五巻)
せる聖餐式が「説教と渾一 体となった聖賓式、恩寵の実在、聖 晩餐に現在し給う主、神の純粋現
物故せ る小塩力牧師は、コリント前書の聖 礼典に関する論文の冒頭に、恩師 高倉徳太郎氏の司式
ならない。洗礼は世と の訣別死を意味するに対し、天に 連なり甦えるとの面が聖餐に鮮明で ある。
証しであり、神の国そのものがここ にある。神の国との連関性、甦えり の面が明確にせられねば
聖餐はこの世の 限界性の認識に基き、神の国の饗 宴に与かる、ここから神の国が始ま っている
れ始めたのはこの影響による のではなかろうか。
特に弁証法神学が移入さ れて理解され始めた様に思われる。 聖餐式の真の意義が理解され自覚さ
動や 過激な説教は語られていたが、真に 信仰的に内面化された終末論は、よ うやく第一次大戦後
日本のプロテスタン ト教会はこの点に関し鋭い福音の 検討がなかった。勿輸終末観的な再 臨運
満の投影、復讐的に「あの世」を 求めたのであった。
れるのである .日本人には終末観がなかったので ある。たとえ終末観があったとし ても現実の憤
量せず、まず自己の生活が 肯定され無条件に前提せられ、宗教 的原理はそれを支える手段とみら
教的又 儒教的道徳の原則がなかったわけで はないが、これらの基準をもって 現世や現実を批判考
その宗教観は全く自己 並びに家族の生命保持延長の為手 段化され、御利益的である。勿論高 い宗
日本人は極めて現世肯定的で、世俗 主義的傾向がが強い.ひたすらの関 心は生への執着である。
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さ を示す如き風潮がみられるのである が、決して感心すべきことではない 。本質的に一致してい
- 121 - 122 -
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るものだから時 間的にも必ず同時に行うべきはずの ものではない。むしろ本質的一致せ るものな
ら 対象や状況によってより有効、適切 に行為されることがあってよいし、 あるべきである。聖書
の中においても明らか にそうであって、パウロがツラノの 講堂で説教したおりそのつど聖餐式 が
行われた わけでもない様だし、大体信者より 未信者が大半であったのだから、 パウロは御言の宣
教に専心していた様にさえ思 われる。大体次の様な場合に十分考 慮が払われ検討されねばならな
いと思う。
)
1
(
大衆一般、特に異邦人への伝 道的教会の場合、聖餐式は慎重に取 り扱われ行われれねばな
らない。
)
2
(
信者を中心とする朝拝と求道者を主 とする伝道会、ここにも自ら区別、 差異が生ずるのは
当然である。礼拝として行 われる宣教の本質的意味は全く同一 であるが、時と場合によって
考慮されねば ならぬ。
)
3
(
日本と外国との事情の相違こ れは当然のことであるが、未だに認 識不足の人や宣教師がい
る。極めて慎重であ らねばならない。従来日本プロテ スタント教会では朝拝は信者で、夕 拝
は未 信者の伝道会というふうになってい た。従って聖餐式は主に朝拝で行う だけで夕拝では
行わない。しかし近頃都 会では夕拝がなくなり朝拝に求道者 が混じっている為に、又再び新
たに考えねばならぬ事態があ る。外国のキリスト教の慣習化した 社会と日本の異教的背景と
では種々の面で 独自なその立場で考えられねばな らない。より有効に、より適切に、 神の言
.
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頒布価80 円
が語られ、聖餐が実質的に守られる 様に、ふさわしい礼拝式が考慮さ れるのが望ましいので
ある。
「礼拝における聖餐式の 諸問題」
1960年9月29日印刷
日本基督教団宣教研究所
1960年10月 5日発行
編 集者
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印 刷所
発行者
日本基督教団 出版局
文化社
日本基 督教団
丹羽
発行所
巌
東京都 中央区銀座4の2
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