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九州教区五十嵐主教按手 10 周年記念講演 =Ⅰ=
2010 年 5 月 14 日(金)
前ソウル教区主教 朴耕造(パク・キョンジョ)
1-1
九州教区の皆さんこんにちは。私は前ソウル教区長として働いた朴耕造(パク・キョン
ジョ)主教です。宣教 151 周年を迎えて、九州教区の上に神様の恵みが特別にあることを
願っています。そして私が尊敬する五十嵐正司主教様の就任 10 周年を心よりお祝い致しま
す。私が主教様と出会ったのはとても昔のことになりました。東京教区で司祭として働い
ておられた時から知っており、かなり以前から存じ上げている方です。私は東京教区の主
教になられると思っていましたが、思いの外、九州教区の主教様になられてもう 10 年にな
ったのですね。
教区長として大変な職責を遂行しておられるのを誠にご苦労様なことと存じあげます。
九州教区はすばらしい主教様を招かれて多くの祝福を受けたと思います。主教様がいらっ
しゃる間より一層良き働きが多く生まれて九州教区がとても発展をされることを心より祈
っております。
1976 年に九州教区は大田教区と姉妹教区を結び、ソ・ヨンピル司祭が久留米の教会で 1
年間奉仕し、堀尾憲孝司祭が 1978 年から 1 年間、全州教会で勤務されました。そして 1994
年に約 4 年間、チャ・キョンヘ司祭が鹿児島の大口教会で勤務したことがあります。そし
て今、韓国の李浩平(イ・ホピョン)司祭がここで働いています。李浩平司祭を皆さんが
司祭として受け入れてくださったことに対して、私は李浩平司祭を派遣した前任主教とし
て本当に深い感謝の意を申し上げたいと思います。李浩平司祭は勤勉で誠実な司祭です。
皆様が彼を愛してくださっていると思いますが、もし言葉や文化の違いにより問題が生じ
ても深く愛して、よりよき司祭に成長できるように激励して、祈ってくださるのをお願いし
たいと思います。
私は韓国で司祭として、主教として 34 年間ほど働いた間多くのことを経験しました。韓
国という社会は過去、3,40 年間、とても激しい変化を経ました。韓国の教会はこのような
社会的変化の過程の中から宣教の課題を実践するために息苦しく、疲れる時期でした。この
間私が経験した韓国教会の宣教的流れを皆さんにお話をすることで今後、両国聖公会が進
まねばならない方向を共に考えることができるなら本当に感謝致します。
私が中学生だった時、教師は時々おかしな体罰を加えました。それは2人の学生を向か
い合わせて互いの頬を殴らせるということでした。初めは互いにそうっと叩きましたが教
師が強く叩けと命令したら、ある学生が力を込めて叩き、向かいの学生が怒ってもっと強
く叩くようになりました。そうなれば教師の命令がなくてもお互いの頬が赤くなるくらい
叩くようになります。暴力の悪循環が続けられるということです。本当に無慈悲な体罰だ
1
ったと記憶しています。
2-1
マタイの福音書の5章(38節)に頬を叩かれる話が出てきます。
『目には目を、歯には歯を』とおっしゃっているみ言葉をおまえたちは聞いた。しかし、私
は言っておく。復讐してはならない。誰かが右の頬を叩いたら、左の頬を差し出せ・・・
(韓
国語の共同約聖書から呉光現が翻訳)。
(日本の共同約聖書は以下の通り『目には目を、歯に
は歯を』と命じられている。しかし私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かが
あなたの右の頬を打つなら。左の頬も向けなさい)
相手の右の頬を叩くのは私の手の甲で叩くことであります。当時の社会で相手の頬を手
の甲で叩くという事はその人にどのような身体的傷を与えるよりも相手を侮辱する為です。
相手の右の頬を叩くという事は同等な関係からはできない行動です。この行為は権力者が
下の人に、主人が奴隷にする行為です。
「わかったか?」と、恐怖心を与える行為でありこ
れは不平等な支配関係を強化する行動です。
私たちがこの不当な侮辱を受けた時、私たちがとる道は二つです。一つはその侮辱的な
暴力の前で屈従、逃げる道であり、もう一つは同じように暴力で報復する道です。普通私
たちは侮辱的な暴力を受けた時、この2つの道から一つを選択します。私たちキリスト者
はイエスさまのこのみ言葉をそのまま耐えて、忍耐せよというみ言葉として理解してきた
ために不当なる権力の横暴や戦争のような暴力を前にして沈黙で一貫とした場合が多くあ
ります。
イエスさまがおっしゃった真の意味はなにだったのでしょう。
2-2
イエスさまは「誰かが右の頬を叩いたら左の頬をさしだせ」とおっしゃいました。その
まま受けて我慢せよという、み言葉でしょうか?私たちがこのみ言葉の意味もう尐し明ら
かに理解するためには「復讐するな」というみ言葉をよく理解せねばなりません。
(改革改
訂版:悪い人に敵対するな。カトリック聖書:悪人と張り合うな)
ここで「復讐するな」
、
「張り合う」と翻訳された単語は(ヘブライ語では antistenai)軍
事的用語としてそのまま対立するということではなく、暴力で抵抗することを意味します。
暴動を起こしたり、蜂起して対立する意味という事です。ですから「復讐するな」という
意味はそのまま我慢せよという意味ではなく誰かが暴力で侮辱を加えたら同じように暴力
で張り合うなというみ言葉です。このようなイエスさまの教えを土台にした初代教会の伝
承を新約聖書から見ることができます。
「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ書 12:21)
「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい」
。
2
(テサロニケⅠ 5:15)
「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。」
(ペテロⅠ
3:9)
「誰かが右の頬を叩いたら左の頬をさしだせ」というみ言葉の真の意味は誰かが侮辱的
な暴力を加えたとしても同じ方法で報復をするなということです。その暴力に屈服して我
慢して過ごせということでもありません。当時、この言葉を聞いていた人たちはユダヤ社
旗で権力者たちから抑圧を受けていた貧しい人たちでした。イエス様はそのような人たち
に自身の尊厳性を侮辱して暴力を加える支配者たちにそのまま堪え忍び服従せよとおっし
ゃったことでは決してありません。
左の頬を差し出せということは私の尊厳性を守りながら相手の不当な暴力的侮辱を私は
受け入れないという断固とした意志が盛られた行動です。この行動は支配者の不当な暴力
を暴露し非暴力的な方法で抵抗する行為です。これがまさしくイエスさまが教えになり歩
まれた新しい道でした。そしてイエスさまはついに十字架の道としてこの世のすべての暴
力の悪循環を終わらせる道を選ばれたことです。
この教えを社会的な関係から創造的に実践した人がまさにアメリカの人権運動家のマル
ティン・ルサー・キング牧師でした。白人たちが黒人たちの頬を打ちながら彼らを嘲弄し
て侮辱した時ある黒人たちは暴動を起こし抵抗しました。またある黒人たちはその暴力の
前で屈従して生きていました。しかしキング牧師は白人たちの侮辱と暴力の前で報復や屈
従ではない新しい第 3 の道を歩みました。それは非暴力的な抵抗の道でした。キング牧師
はこの道を通してアメリカ社会の憎悪と暴力を克服していったのです。
又、インドのガンジーはイエスさまの教えを国家と国家間で創造的に適用し、実践する
ことで人類社会に新しい可能性を投じてくれました。この聖書的理解をもって過去、韓国
聖公会で起こったいくつかの社会運動と信仰運動の経験を分かち合いたいと思います。
1980 年代の韓国社会はクーデターで政権を得た朴正熙が殺害され、新しい軍部が不当な
方法で権力を掌握し、無慈悲な暴力を行使していた時期でした。新軍部の権力掌握に抗議
した光州市民を無慈悲にも銃剣で制圧してこの課程で多くの市民が軍人たちの銃弾を受け
死ぬという事が起こりました。新軍部は韓国社会全体を暴力的な方法の統治を開始して、
これに対して多くの人が抵抗を始めました。教会の中でもこの抵抗運動は活発に起こり、韓
国聖公会の中でも意識を持った神学生と青年たちが既存の制度的教会の限界を認識し、教
会の改新と民主化、そして社会変革という時代的課題を抱いて取り組み始めました。
2-3(ナヌメチップ運動=分かち合いの家運動)
当時、私はソウルのある教会で平凡な牧会をしていました。そこで、毎晩若く意識を
持った神学生が集まり読書会をし、討論して夜遅くまで話をし始めました。私は初めはこ
の集まりがあることすら知りませんでした。その時、1986 年のある春の日、私は一人の新学
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生に手を引かれて撤去民(注:スラムに住んで強制撤去される人々)が集まり暮らす山の
町(注:ソウルは盆地であり、70 年代以降の急激な都市化により離農した人たちがソウル
の小高い丘に集中して住むようになった。旧市街の中心より高いところにあるので「山の
町」と呼ばれることが多い。多くはもともとは公有地であり、再開発により撤去の対象と
なった)に行くことになりました。当時は 86 年のアジア大会、88 年のソウルオリンピック
を前にして政府は「環境美化」
「住居環境改善」という名目で都市貧民地域の不良住宅を壊
してしまい、新しい建物を作り始めた時でした。今の南アフリカ共和国でこれと似たこと
が起こっているということをBBC放送を通して聞いています。
当時、ソウルの撤去現場はまさに目を開けてみられない残酷な光景でした。酒に酔った
数百名の撤去班員が重機で家屋をつぶし始め、反抗する住民に棍棒や拳で暴行をおこない、
血みどろになった子どもたちを放り投げて傷を負わせ、老人が部屋にいても重機で屋根に
穴を開け重体に陥れることが起こっていました。暴行に耐えられない住民が道ばたに逃げ
ると待ち構えていた戦闘警察が彼らを連行して撤去が完了するまで警察署に留置しました。
暮らすところをなくした都市貧民は郊外に追われてより厳しい生活をしていたのを私は
神学生の手に引かれて初めてその場の惨状がわかりました。司祭である私よりは後輩の神
学生たちが教会と社会に対する問題意識をより鋭く持っていたのでした。
訪問した都市郊外の貧民地域はすべての環境があまりにも劣悪でした。裏山に登ってみ
たら青尐年たちが吸ったたばこの吸い殻と麻薬を吸引して捨てられた容器があちらこちら
に散らばっていました。その神学生は此処で教会が何かをしなければならないと、私を説
得し始めました。私は当時教務局長という職にあり、先輩の主教様に金シモン(金成洙)主
教様が教区長の職にあった時でした。主教様の確固たる宣教意志に力を得てそこで小さな
部屋 2 つと台所がついた家を賃貸で借りました。そして神学生たちと青年たち何名かがそ
こで暮らし始めました。
彼らは貧しい人たちに何をするかと言うよりはそのまま彼らと一緒に暮らし始めたので
した。これが「分かち合いの家」の始まりでした。
貧民地域で暮らしていた人たちは大部分が日雇い労働者であったので子どもたちを見な
ければなりませんでした。そこで始まったのが託児所、勉強部屋(注:一種の学童保育)
夜学のような活動でした。初めは半信半疑で懐疑的な視点で眺めていた一般の教会も教区
の確固たる宣教意志と司祭たちの情熱的な献身を確認すると物心両面で援助を始めました
この相互間の協力は他のプロテスタント教会とは違い、聖公会「分かち合いの家」が一つ
のいい宣教的モデルとして位置をえることができるように助けてくれました。そして多く
の若者たちが集まり共に活動を始め、運動を通して聖職の道を歩みました。当時の社会的
状況に大きな不満を抱いて挫折していた若者たちと既存の教会で対して懐疑的だった若者
が聖公会に希望を見いだし、集まりだしたのでした。そこで 70 年代後半まででも、ソウル
教区聖職者数は 20 名の水準でしたが金シモン主教様が教区長であった 80 年代以後、
若く、
4
聡明な聖職者の数が急に増えることになりました。
ソウルで始まった聖公会「分かち合いの家」はソウル教区だけでなく大田、釜山教区に
も一つの信仰運動として広がっていき、各地域に必要な形で位置を得はじめました。そうし
て大教会に対する否定的イメージとは違い、聖公会は小さな教会ですが影響力のある教会
として韓国社会に次第に知られていきました。そしてついに民主政府になって「分かち合
いの家」は政府の福祉政策事業と緊密な協力関係を結び活動が一層多様に、広がっていき
ました。
「分かち合いの家」は暴力的な社会に順応せずに、そこに向き合って抵抗しようとした
勇気ある平和運動であり、信仰運動でした。意識のある青年とそれに合わせて時代の兆し
を読み取り勇気を与えた教区当局と力を集めて彼らを支えた数多くの信者がいたから可能
だったことでした。このことは今日にも充分有効なことです。
今日、私たちが生きている資本主義の時代は人間の利己心と貪欲さがその極みに達して
いる時です。人間の限りない貪欲さは金融危機と自然破壊、競争と争い、テロと戦争を呼
び起こしています。この時代に私たちキリスト者はこの世で暴力に屈服することなく抵抗
し、平和の神の国を建てることに献身せねば成りません。
3-1
1986 年「分かち合いの家」から始まった大韓聖公会の社会宣教は以後、多様な形態で発
展しました。その中の一つが移住労働者(注:外国人労働者のこと)の為の「シャローム
の家」です。現在韓国では約 35 万名の移住労働者が暮らしています。そのうち約 19 万名
程度が「不法滞在者」です(2006 年政府資料)
。彼らに対する賃金未払い、労働災害、そし
て各種差別による人権蹂躙問題が非常に深刻な状況であり 1997 年、聖公会「シャロームの
家」が開設され、移住労働者のための本格的活動に着手することになりました。
草創期の分かち合いの家で活動した女性活動家は売春の女性をサポートする売買春女性
のシェルターを運営しながら最も低いところでイエス様の教えを実践しています。そして
野宿者の為のシェルターが開設され、フードバンク(FOOD BANK)運動(食事をとること
が厳しい人たちに食事を提供する事業)が導入され貧しい人たちに食べ物を提供していま
す。そして、障がい者のための活動、非行青尐年の為のシェルター等が開設され活動中で
す。
これとは別に聖公会は早くから平和統一運動に介入し北朝鮮で飢えて苦しみを受けてい
る人たちへの人道的支援のため大きな努力を傾けてきました。そうして 2008 年 11 月には
韓国で「世界聖公会平和大会」を開催し、世界の聖公会の指導者と平和運動家を招請し「東
北アジアの平和」に対して深い論議をしました。そして韓国戦争(注:朝鮮戦争)初めて
北朝鮮の地に世界の聖公会関係者が集まり聖餐式を捧げ、東北アジアの平和の為に祈りま
した。又、GFSの会員を中心に脱北女性への支援運動である「井戸端プロジェクト」を
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進めています。他の教団の人たちはこの話を聞けば、とても驚きます。どうして、この小さ
な(聖公会という)教会が多くのことでき、大きな影響力を行使できるのかを訊いてきま
す。
しかし、詳しく見てみれば多くの問題点を抱えていることは事実であり、とても困難な
ことがあるのも事実です。そして日本のように安定した社会ではこのような活動は難しい
かもしれません。しかし韓国という社会はとても不安定ですが躍動的な社会であるのでこ
のようなことが可能ではないのかと思います。
九州教区が五十嵐正司主教様の人徳あるリーダーシップにより、大過なく平和なのは神
様の大きな恵みです。私は詳しくは存じ上げませんが日本の他の教区が多くの大変な経験
をしていることや、韓国のある教区では今も大きな震動を経験しているのを見てきました。
そして九州教区が困難な中にあってもフィリピンの教会を支援しているのは本当にすばら
しいことだと思います。私は韓国と日本の教会が共にアジアの苦痛を分かち合い成熟した
教会に育っていかねば成らないと思います。まさにこのことの為に神様が私たちを招いて
お互いが交流するようにしてくださり協力するようにしてくださったのではないかと私は
考えています。
最後に皆さんが韓国の司祭を招請して、彼らを皆さんの霊的な指導者として牧会者と
して喜んで受け入れてくださったことに対して、私はもう一度感謝を申し上げたいと思い
ます。このことは真に、神様の恵みでなければとうていできないことです。神様は皆さん
を通して誰も考えつかなかった大きな業を始めさせてくださいました。両国聖公会の一層、
深い交流を通して、両国の平和はもちろんのこと、東北アジアの平和のため韓日間がより
緊密さがますように、私たち皆が祈り、努力せねばならないと思います。
(了)
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