霜月祭 - 日本映像民俗学の会

日本映像民俗学の会ニュース・レター
2005 年 6 月
映
像
民
俗
第 19 号
19
会員の皆様へ
第 27 回大会は、以下のように開かれました。大会報告をお送りします。
尚、本会(日本映像民俗学の会)のホームページが立ち上げましたので、
http://jefs.org/をご覧下さい。
日本映像民俗学の会
第 27 回大会
期 日:平成 17 年 2 月 19 日(土)∼20 日(日)
会 場:飯田市美術博物館(下記地図参照)
長野県飯田市追手町 2-655
電話:0265-22-8118
共 催:飯田市美術博物館
後 援:柳田國男記念伊那民俗学研究所
■テーマ
【三遠南信地域の祭りと芸能】
長野・愛知・静岡の、いわゆる三遠南信地域は民俗芸能の宝庫として注目されてきまし
た。早川孝太郎、折口信夫、柳田國男、渋沢敬三など多くの研究者が昭和初期から訪れ、
さまざまな研究や映像を残しています。当会代表故野田真吉氏もここで 1969 年から作
品を撮り続け、遺作もこの地で撮った作品になりました。近年も多くの映像が民俗学者
や映画人によって作られています。
今大会は、27 年前の映像民俗学の会の発足の地である南信で、渋沢敬三を始めとする
初期の映像から最近の民俗誌映像までを上映し、話し合いをします。
2月 19 日(土) 9:30 開演
一般:参加費 500 円(会員の美博の観覧料は、210 円)
■特集<三遠南信地域の祭りと芸能>
○9:40∼12:00
特別上映 野田真吉作品「ゆきははなである―新野の雪まつり」(130 分)1980 年
解説:桜井弘人(飯田市美術博物館、会員)
○12:00∼13:00 昼食
○13:00∼13:15 代表牛島厳挨拶
飯田市市長挨拶
○13:15∼14:45 特集上映:渋沢敬三と宮本馨太郎の「昭和初期の映像記録」
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「花祭り・網町邸」
(1930)18 分
「信州浪合・中馬街道」
(1931)18 分
「三河地方旅行」
(1933)32 分
「花祭り」
(1934)13 分
解説:岡田一男(会員)
、北村皆雄(会員)
○14:45∼15:00 休憩
○15:00∼17:30 特集上映①:三遠南信地域の祭りと芸能 (解説:橋都
正、桜井弘人)
「山のまつり―遠山地方の霜月祭」岩波映画(1955)25 分
「山のまつり―天龍村の冬」1990 年(50 分)監督:茂木
栄
共同制作:民俗文化財研究協議会/国学院大学日本文化研究所
「西浦の田楽」
水窪町教育委員会(65 分)
○17:45∼18:45 シンポジューム 「映像で見る三遠南信地域の祭りと芸能」
パネラー:桜井弘人、橋都 正、米山博昭、北村皆雄、大森康宏、岡田一男
崔
吉城
○ 19:00∼21:00
懇親会
2月 20 日(日)
○ 9:30∼10:15
総会
○ 10:20∼10:50 会員作品上映
「島語り島の声・宮古島 2004」(20 分)新里光宏
○ 10:50∼11:40「ムサップ
台湾先住民プュマの成巫儀礼(2)」(40 分)蛸島 直
○ 11:40∼12:05「日光山輪王寺
延年の舞」(30 分)
○ 12:05∼12:30「アキハバラ」(25 分)
○ 12:30∼13:30
○13:30∼15:45
長島節五
村上鹿寿恵(駒沢女子大学学生)
昼食
特集上映②:
「三遠南信地域の祭りと芸能」
○「山のまつり―第1部天龍村の夏」1990 年(25 分)監督:茂木
○ 「神と語る四季―第2部天龍村坂部」NHK
○ 「おてんとうさまのおかげだなむ
栄
60 分
下久堅三石家の1年」1998 年(50 分)
SBC(解
説:米山博昭)
○ 感想・意見
○ 5:00 閉会の辞、解散
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第 27回大会(飯田市)
「三遠南信地域の祭りと芸能」総括
会代表
牛島
巌
美術博物館講堂にて開催した。会員である桜井弘人さんのお世話で、飯田市美術博物
館に共催を、柳田國男記念伊那民俗学研究所には後援を、得てのことであった。大会の
準備、会場設置、大会運営に御尽力していただいた関係の方々に、感謝いたします。
いわゆる三遠南信地域の祭りや民俗芸能、年中行事には奥深いものが多い。多くの民
俗芸能研究者、日本映像俗学の会第27回大会は、平成17年2月19日(土)・20
日(日)に飯田市民俗学者が昭和初期から訪れ、この地域の祭事に魅了され、今日まで
さまざまな研究が残されてきた。また、映像による記録も多く蓄積された。当会の代表
であった故野田真吉もここで1969年から映像作品を取り続け、遺作もこの地で撮っ
た作品になった。今大会は、27年前の我々の会が発足した地である南信で、渋沢敬三
をはじめとする初期の映像および三遠南信地域の祭り・芸能の映像を特集とした。
これはひとえに、この地域の祭りをくまなく調査を続けてきた桜井弘人会員らの企画
に大きく依存して開催できたものであった。そして会場には連日地元の方々が次々と来
館され、延べ 120 人以上の会員及び一般参加者を得ることができた。これは運動体とし
て会が継続していく励みとなった出来ごとでもあった。
2月19日(土)の午前、野田真吉作品「ゆきははなである―新野の雪まつり」を特
別上映した。下伊那郡阿南町新野に伝わる「雪まつり」の全貌を構造的に克明に記録し
た 130 分の作品である。この祭りは、古い形を豊かに伝えている。確かに南信の山村に
は古いものが古い形で残っている。しかし、野田真吉は、そんなものは永続しないとい
う認識のもとで、渾身を込めて1980年にこの作品を制作し、衰滅の途を辿る祭りの
新生にまつわる問題を提起した。何度も見た作品であるが、祭りの中に参加していくカ
メラがとらえた映像の臨場感は、いつ見ても新鮮である。雪道を延々と歩く「お下り」
と「お上り」の行列の長いシークエンスで始まる映像は、大松明の点火と同時に、面の
一番手サイホウが登場しクライマックスを迎える。頭にヤス状の藁の帽子をかぶった柔
和な面のサイホウが松の枝と団扇を持ってステップを踏む、ついで「もどき」が登場す
る。だが桜井弘人会員の解説によると、かって大勢の見物人や調査者でにぎわった「雪
まつり」も、平成 12 年のハッピーマンデー法の施行以来、その賑わいを失った観があ
る、という。氏は「小正月」という伝統文化を無視した都市の論理に憤然としていた。
同感。この作品は 25 年前の祭りを記録した貴重な文化遺産として残されていくのか、
それとも地域の活性化に寄与することになるのであろうか。
午前は、来賓された飯田市長の挨拶で始まった。特別上映:「渋沢敬三と宮本馨太郎
の「昭和初期の映像記録」では、1930年から1934年に撮影された「花祭り・網
町邸」「信州浪合・中馬街道」「三河地方旅行」「花祭り」の作品を岡田一男会員の解説
で上映した。多忙の中時間を作っては採訪の旅に出ては、撮り続けた渋沢敬三が、北設
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楽郡東栄町の花祭りを東京に招き、自宅を花宿として、舞ってもらったエピソードを初
めて知った。石置き屋根の山村の民家、ヒゴヤ(月小屋)、棚田などを背景に、高橋文
太郎、早川幸太郎、宮本常一たちが雪道の新野峠を越え、そして天竜川下りを楽しむ。
ついで、特別上映①「三遠南信地域の祭りと芸能」では、まづ1955年の岩波映画
「山のまつり−遠山地方の霜月祭」を見た。よく知られた映像であるが、桜井弘人会員
によって、これは南信濃村上町の霜月祭をベースに、中郷や下栗などの祭の一部を寄せ
集めて作られた作品であったこと、本来一人で読み上げるべき神帳を集団で申し上げる
などの演出がなされ、服装とともに、この岩波映画よる撮影が、実際の祭りにも影響を
与えていることが披露され、興味深かった。こうしたことでも、祭りは変遷しながらも、
継続されることを実感できた。国学院大学の民俗学者茂木栄が監督した「山のまつりー
第二部天竜村の冬」は、翌日に上映された「山のまつり―第一部天竜村の夏」と対をな
す作品である。これは下伊那郡天龍村の坂部・向方・大河内を撮影の舞台として、3地
区の祭りを比較しながら、冬の神を迎えての湯立て祭りと、夏の精霊様送りの盆行事と
の対比で、行事の構造が理解できることを、映像を通じて提示した作品である。以前見
た作品であるが、学者の研究成果を元に分析的な解題を加えた労作として評価できるの
であるが、神事は外から眺められ傍観的に撮影されており、分析の解題として映像が編
集されているためか、地元の人の顔がみえてこないという、当初の感想は変わらなかっ
た。ついで水窪町教育委員会制作の「西浦の田楽」が上映され、短い時間ではあったが
「映像で見る三遠南信地域と祭りと芸能」についてのシンポジウムを行った。その後、
近くの料亭でささやかな懇親会を開き、地元の方々との交流のひと時をすごした。
2 月 30 日(日)の午前中は総会に引き続き、会員作品上映を行ったが、これは後述
する。午後
再度特別上映②「三遠南信地域の祭りと芸能」を、橋都
正、桜井弘人、
米山博昭さんらの解説を加えて催した。前述の茂木栄作品「山のまつり―第一部天竜村
の夏」の上映に引き続いて、同じ天龍村坂部を舞台にした NHK 放映作品「神と語る四季
―天龍村坂部」を見た。これは祇園祭・9月の祭り、冬祭りなどの村の行事の映像をは
さみながら、村の旧家である大杉家に伝承され、丹念に記帳されている盆行事、山の講、
正月・小正月などの年中行事を詳細に記録した番組である。「ふるさとの伝承」シリー
ズのなかでも高く評価できる作品の一つといえよう。次の SBC 放映番組「おてんとうさ
まのおかげだなむ
下久堅三石家の一年」も、こうした特定の家に伝承している行事の
記録であった。撮影当時、飯田市のなかでも、この三井氏家だけが一年を通じて伝統行
事を受け継いでいた。酪農と稲作を営む専業農家の6人家族が、カメラの存在を忘れた
かのように、先代から伝わった行事を淡々と行いながら、祖父が孫の世代に伝えていく。
ひとつの豊かさをもった暮らしを表現した作品である。会場に、この映像に登場してい
るおばーさんが参られ、孫に行事を教えたいたおじいーさんは亡くなり、孫は大学生に
なったことなどを語られた。ただ、現在三石家は専業農家を止められてしまったと、桜
井弘人会員は残念そうに語る。
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かくて、今大会では、新旧の三遠南信地域の祭りを記録した映像を、まとめて見るこ
とができた。この伊那谷地域で記録された映像はまだ残っており、このような上映会を
美術館でも継続して行きたい、と桜井弘人会員が最後に語っていたのが、印象として残
った大会であった。
今回の会員作品は、時間の関係で4本に留まった。ここ数年定番と成りつつあるのが、
新里光宏、蛸島直、長島節五各会員の作品である。地元宮古島の小さな祭りをこまめに
取材し続けている新里さんは、今回も放映番組をまとめた「島語り島の声
2004」
を見せてくれた。地方のケーブルテレビに関心を持つものにとって、毎年の大会の楽し
みがひとつ増えた。いつも嬉しく拝見する。女性の神役を中心とする南西諸島の祭儀を
見てきた新里さんにとって、女性の世界が見えない内地の祭りは、違和感のある祭祀空
間に思えるらしい。蛸島さんは、台湾の巫女儀礼を継続しながら、家庭用ビデオカメラ
で、事象を記録し、家庭にあるビデオカセットで荒編集した作品を見せてくれる。民族
学や民俗学の研究者が、調査途上で研究撮影者として動態記録することを、推薦する者
にとって、蛸島さんの実践は嬉しいことである。今回の「ムサップ
台湾先住民の成巫
式女」では、男性禁止の成巫儀礼の場面に据え置かれたビデオカメラが、粛々と進む女
性の世界を撮り続けていた。長島さんだから入り込めるのが修験の世界である。今回も
「日光輪王寺
延念の舞」では、古くから輪王寺に伝わる舞を、しっかりと見せてくれ
た。4番目に駒沢女子大学3年生村上鹿寿恵さんが始めて製作した「アキハバラ―オタ
クの街」が上映された。秋葉原はアニメオタクの町でもある。アニメの二次創作・パロ
ディである同人誌を買い求める若者の生態を描いたのがこの作品。イントロ部分に一工
夫する余地はあるが、都市の生態の一端を描いた新しい作品である。それにしても主人
公の近眼のお兄さん(友人の兄だという)のキャラクター勝ちの作品であった。彼女の
卒業作品が期待される。
事務局報告
北村皆雄
ホームページ立ち上げ
今回の総会は、特に大きなテーマもなく短時間出終了した。ただ、25回宮古大会以来
懸案となっている各地域の活動拠点として作られているセンターの廃止にともない、会
のホームページを作りネット配信と掲示板を通して会員間の交流をはかるとされたが、
ホームページの立ち上げが遅れ、会員に迷惑をかけていることをお詫びしたい。27年間
の書類の整理がまだつかない状態だが、とりあえずスタートさせようということなった。
デザインは、デザイナーの山田みどりさん、文書整理は、亘 純吉さん、阿部櫻子さ
ん、HP立ち上げに、駒沢女子大学の市瀬紀彦先生、長村佳恵さんらのお世話になった。
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専用アドレスは、日本映像民俗学の会の英語表記名「Japanese Ethnological Film
Society」から、
「jefs.org」と、登録している。
このホームページの「掲示板」を通して、会員間、および会に興味のある人々との交
流をしたいと思っている。
研究会なども、ホームページを通して、連絡したい。
ホームページの管理者は、牛島 巌(代表)、北村皆雄(事務局)
、亘
純吉(機関紙
ニュースレター担当)
、阿部櫻子(会員)が、書き換え、サポートをおこなう。
今後の課題
A) 映像民俗学論研究部会
B) 上映鑑賞会
新しい映像民俗学の思想、理論研究。
今までやってきた映像研究会の継続。希望者に提供。
C) 創る ひとつのテーマ、あるいはそれぞれのテーマで作る。グループを組んでも
いいし、個人でもかまわない。
上記の3つが、とりあえずの会の課題である。
A)
については、2007年度の「日本映像民俗学の会30周年記念論文集」
【映像民俗学】
の発刊し、掲載したいと思うので、会員各位の論考を期待します。
B)
については、今後も引き続きおこなう予定である。とりあえず、牛島
厳氏の翻
訳による海外の「民族誌映像」の上映を、好評につき継続させたい。
C)
については、大会で上映されるよう、努力していきたい。
28回大会のこと
尚、28回大会は、韓国ソウルで、ソウル大学の協力でおこないたい旨、今回北村から
報告したが、韓国の対日感情が、竹島問題や教科書問題などで、最悪の状態であり、韓
国での大会の道筋をつけられた崔
吉城氏(会員)と北村、牛島らが相談の結果、延期
することにした。
代案として、山口県下関にあり、崔
吉城氏が勤める「東亜大学」で、韓国の学者に
参加を請い、おこなうことにした。
現在テーマを検討中であるが、
「日本の植民地時代の映像表現」を考えている。
内容が固まり次第、ホームページでお知らせするようにしたい。
新入会員
今回、新入会員は、次の人々です。
● 川口航司
〒441-0000豊橋市東幸町大山219-3 (御園花祭若連)
〈電話番号省略〉
● 浜島
司
● 米山博昭
〒470-1161 愛知県豊明市栄町村前46
〈電話番号省略〉
〒395-0811 長野県飯田市松尾上溝3243-7
〈電話番号省略〉
尚、新しい会員を募集中である。以下が本会の会則である。参考のために紹介する。
また、会計報告がなされ承認されたが、ホームページへの公表はひかえる。
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「日本映像民俗学の会」会則
(1)名称
日本映像民俗学の会
Japanese
(2)目的
Ethnological
Film Society
会は映像民俗学の確立、その理論と方法の研究、並びに会員
相互の親睦を図る。
(3)会員
会の目的に賛同し、年会費2,500円を前納する。
(4)事業
会の目的を達成するため、左の活動を行う。
A
大会及び総会
B
研究会
C
会報の発行及びWEBサイトの運営
D
映像記録による共同研究
E
民俗資料映像、講師派遣の斡旋
F
会員による諸活動の支援
G
その他必要な事項
(5)運営
総会において運営委員10名以内と会計監査2名を選出する。
運営委員の互選により、会代表を選出する。
会は総会の決議を経て顧問を置くことができる。
運営委員と会計監査の任期は2年間とする。
但し、重任を妨げない
日常の会務は事務局を構成して、これにあたる。
会則の変更は総会の決議による。
(6)本部・事務局
本部:〒206-8511
東京都稲城市坂浜238
駒沢女子大学・人文学部牛島巌研究室気付
「日本映像民俗学の会」とする。
事務局:〒160-0014 東京都新宿区内藤町1-10テラス小黒201
「日本映像民俗学の会事務局」とする。
尚、運営委員会のメンバー及びプロジェクト担当は、以下のように決まった。
○運営委員会メンバー
牛島
厳(代表)/北村皆雄(事務局長)/間宮則夫/大森康弘/岡田一男/康
/多比良建夫/蛸島
事務局
亘
浩郎
直/阿部武司/新里光宏
純吉(機関紙 ニュースレター担当)
大塚正之(会計担当)
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会計監査
松島岳生
芥川隆信
映像作品発表メモ
澁澤敬三と宮本馨太郎の「昭和初期の映像記録」のためのメモ
岡田一男
(会員、東京シネマ新社/下中記念財団 EC 日本アーカイブズ)
「柏葉拾遺」という昭和 31 年に出版された澁澤敬三還暦記念の栄一から雅英まで澁澤
家4代にわたる写真集がある。そこに載った年譜と旅譜を参考に、今回見る映像に関連
することを当たってみた。
澁澤栄一
1840-1931
澁澤篤二
1872-1932
澁澤敬三
1896-1963
澁澤雅英
1925敬三は 1922 年、横浜正金銀行ロンドン支店に赴任し 25 年に米国経由で帰国、コダック
シネスペシアルという 16mm 撮影機を持ち帰った。早速 26 年には「台湾」旅行で撮影し
ている。敬三の父篤二は、写真好きで知られるが、篤二もまた晩年会長を務めた澁澤倉
庫で、昭和初期の物流に関する興味深い 16mm 映像を数多く記録した。
今日見る映像では、
「花祭・綱町邸」が 1930 年(昭和 5 年)に撮られた。敬三は研究書
「花祭」を書いた早川孝太郎らと共に昭和 3/4/5 年正月と奥三河を訪れ「花祭」を見学
している。昭和 5 年ごろには、岡書院を支援して、早川の「花祭」や、田村浩の久高島
に関する著書「琉球共産村落の研究」などを出版させている。そして前年より改築して
いた三田綱町の工事完了を記念して 4 月 13 日に披露の会を催したが、その出し物とし
て花祭の一行を招来し、その実演を参加者に見せた。今日は、宮本馨太郎の作品も見る
訳だが、もともと敬三と付き合いがあった、馨太郎の父、勢助もまたこの時、自家に花
祭一行を招いている。この年の敬三の映像との関わりではまた、3 年間にわたる記録「第
一銀行本店建設」が特筆すべきだが、現在存在が確認できているのは断片に過ぎない。
翌年 1931 年 6 月「羽後飛島と津軽半島」に旅をし、9 月に信州伊那路を旅して「中馬
街道」を記録している。中馬の作品としての特徴は、再現撮影であること。そして非常
に良く撮影のアングルを考えている。早川孝太郎、高橋文太郎、村上清文、小川徹、宮
本馨太郎と共に伊那街道を訪ね、平谷村において中馬宿の跡を見ると同時に、かつて中
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馬に従事した老人、塚田藤吉翁に中馬の様子を再現してもらい、記録に収めた。中馬の
扮装、用具、馬にわらじを履かせる、街道でしばしば見られた移動賭博「ひっかけちょ
ぼ」などが、収められた。この年の 11 月、栄一が逝去した。喪主敬三が撮影に携わる
事はなかったが、その「大葬儀」もまた克明な 16mm 映像に残された。
1933 年昭和 8 年からまた 3 年続けて正月休みを三河、
花祭の旅と見学にあてている。
「三
河地方旅行」は元旦に東京を発ち、6 日に東京に戻った旅行の記録。この旅には宮本馨
太郎も同行し、彼の方は 9.5mm の小型カメラ、パテベビーで撮影している。この年の旅
の映像としては、6 月の「越後三面」、9 月の「田澤仙岩峠」への旅があった。東京→豊
橋→田口(泊)→和市→下津具(泊)→柿のそれ→津具→新野峠→大河内→本山(泊)炭焼
き小屋火事→坂部→佐太→大谷→河内(泊)→天竜川→中部→浦川→本郷市場(泊)→川
合→豊橋→東京。
そして最後の「花祭」は 1934 年、昭和 9 年正月の記録と思われる。しかし、1930 年あ
るいは翌 1935 年正月の記録という可能性も残されている。撮影時期のキャプションが
付けられていない古い映像の撮影時期の特定は、慎重に行われるべきであろう。なお「柏
葉拾遺」には、この作品が澁澤の業績としては記載されていない。このことは、撮影が
宮本馨太郎の手によって行われた可能性をも示唆している。三河北設楽郡の中在家の花
祭の記録で、湯立ての舞を中心に祭りのハイライトをコンパクトに的確なアングルでま
とめている。
キパラハン:台湾先住民プユマの成巫儀礼(VHS:44 分)
(日本映像民俗学の会第 26 回大会)
蛸島
直
2001 年の秋、台湾先住民プユマのカサヴァカン集落で4年ぶりに成巫儀礼が行
われた。トゥマララマオと呼ばれる病気治療を専門とするシャーマンを誕生させ
る儀礼である。2日間にわたって行われ、さまざまな儀礼場面から構成される
が、東方海上かなたに住むといわれる前任者の霊魂を招き、新任者に依り憑かせ
る場面が要となっている。
マラヒュウ(新トゥマララマオ)となったのは、1940 年生れのハナコ(別名ア
クウ)である。彼女は、1990 年頃に体調を崩し、トゥマララマオに診せるとムキ
アンガイ(召命)との診断であった。しかし、トゥマララマオになることを好まず
に、何度も病気を繰り返していた。2000 年に至ると、頭痛に加え、胃を病んだ。
いよいよトゥマララマオになることを決意し、この年の 12 月に夫の手で屋敷地内
にカルマハン(祭屋)を建て、はじめて祭祀を行った。カルマハンの名称はマカ
9
ウナムンといい、以前は母親のフテアンが祭祀を行っていた。なお、ハナコにム
キアンガイしているのは、母の母の母トゥカサであり、彼女はハナコに対し、カ
ルマハンの祭祀とともに自分と同じようにトゥマララマオになることを求めてい
たのである。こうして、2001 年の5月に集落のトゥマララマオの長の一人、シズ
コのもとで呪詞の学習を開始することになった。成巫儀礼は同年 9 月 30 日と 10 月 1
日の両日午後に行われた。
キパラハンには広狭2義があり、狭くは初日の儀礼をいい、2日目をムサップ
と呼ぶが、広義では2日間の儀礼を総称してキパラハンという。今回は初日のキ
パラハンの映像をまとめたものである。この日の儀礼は以下のように進行し4時
間ほどに及んたが、今回編集して上映したのは*印部分(の一部)である。
(1)スムルウ:儀礼の開始に先立ちアヴォクル(師巫)を迎えに行く。その
際、アヴォクルに鈴を贈る。
(2)アヴォクルが新トゥマララマオのアルユット(鞄)にガラスの小珠を縫い
付ける。鞄は鈴や小刀などトゥマララマオの諸道具を収めるとともにトゥマラ
ラマオの象徴でもある。
(3)パカダダム:カルマハン(祭屋)のリンスウカン(聖なる柱)および東に
向かい諸神霊・祖先等に儀礼の開始を告げる。
(4)*屋敷地の東南部で東に向かい諸神霊や祖先霊に檳榔子を配置(タアタ)
し、儀礼の進行への協力を求める。
(5)プトゥパ:屋敷の外、左右二ケ所に檳榔子を供え、死者霊たちに対し、儀
礼の邪魔をしないように祈る。
(6)*プヴナウ:アヴォクルが新トゥマララマオの左手首にヴナウ(苧麻の腕
輪)を結ぶ。ヴナウもまたトゥマララマオの象徴の一つである。
(7)*プルウム:アヴォクルが新トゥマララマオの両肩と頭頂部に手を当てて
イナシ(土製小珠)を置き加護を与える。
(8)*四方および天地の諸神霊に呼びかける。トゥマララマオたち全員が、鈴
を結んだ縄を持ち、カルマハン前にコの字型に並ぶ。アヴォクルが米のとぎ汁
をはじくなか、一同呪歌を歌いながら鈴を鳴らす。
東(ミアドゥップ、土地の神)
、南(ルヴォアン:祖先発祥地)、東(ラウドゥ:
海)
、北(アラヌム:都
蘭山)、西(ラヤ)、上方(カイタサン:天の神)
、下方(サルキスック)の順
に呼びかけ、呪詞が前任者から円滑に継承されるように祈る。
(9)*キニトゥグダン(トゥマララマオの前任者たちの霊)を招く。一同再び
東に向かい、海上に住むとされるキニトゥグダンを招く。呪歌が続くうちにト
ゥマララマオたちの表情が変わり、やがて倒れるが、キニトゥグダンが子孫た
10
ちの身体に憑いたと解釈される。
(10)*キスナイ:初日の儀礼を終えキスナイ(呪詞の練習)が始まる。
(11)*宴。
ムサップ:台湾先住民プユマの成巫儀礼(2) (VHS:41 分)
(日本映像民俗学の会第 27 回大会)
蛸島
直
第 26 回大会で発表した「キパラハン:台湾先住民プユマの成巫儀礼(VHS:44 分)
」
の続編である。新シャーマンを誕生させる成巫儀礼キパラハンは2日間にわたって行
われる。初日は狭義でのキパラハンが行われ、2日目はムサップと呼ばれる儀礼が行
われる。今回発表したのは、2日目(10 月 1 日)の様子である。
この日の儀礼は以下のように進行したが、編集して上映したのは*印部分(の一部)
である。
(1)∼(4)までは前日と同様な諸儀礼が繰り返される。
(7),(8)は参加者
の姿勢等は異なるが呪歌の内容、旋律等は前日と同一である。なお、(7)から(11)
までは男子禁制となり、この間、三脚上にビデオカメラを残して撮影することが許さ
れたが、良いアングルを確保できず、また重要な場面を追えなかったのが残念である。
さらにクライマックスともいえる場面にゴミ回収車の音楽が流れるのは運命のいたず
ら?といえようか。
(0)*準備:儀礼に用いる諸道具や檳榔子を用意する。
(1)*スムルウ:儀礼の開始に先立ちアヴォクル(師巫)を迎える。
(2)*パカダダム:カルマハン(祭屋)および東に向かい諸神霊・祖先等に儀礼の開
始を告げる。
(3)屋敷地の東南部で東に向かい諸神霊に檳榔子を配置(タアタ)し、儀礼の進行へ
の協力を求める。
(4)プトゥパ:屋敷の外、左右二ケ所に檳榔子を供え、死者霊たちに対し、儀
礼の邪魔をしないように祈る。
(5)*マルキドゥダン:アヴォクルがイトゥン(トゲカズラ)を噛み、それを新トゥ
マラマオに渡して噛ませる。こうすることによって呪詞の学習が早く進むとされ
る。
(6)西に檳榔子をプトゥパ。土地の神、山々、谷川、山で死んだ者に供える。
(7)*四方および天地の諸神霊に呼びかける。前日と同様に諸神霊に呼びかけていく
が、ムサップでは皆が脚を延ばして座る。ここからはしばらく男子禁制となる。
(8)*キニトゥグダン(前任者の霊)を招く。やはり座った姿勢で東に向かい、呪歌
とともに鈴を鳴らし続ける。やがてすすり泣く声が聞こえる。
(9)ヤウラス(託宣)
:本当はここでキニトゥグダンの憑霊による託宣がなされるが、
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今回はなされなかった。
(10)*ムアハイ:ディンディガン(竹を編み、貝殻、蟹などを付けた呪具)を持ち、
新トゥマラマオがカルマハンの前で飛び跳ねる。
(11)*トゥムアダ(敵討ち)
。人間に見立てたバナナにトキワススキで作った
槍を投げ、小刀で切り捨てる。
(12)*キタラマオ:男子禁制は解除となり、新トゥマララマオが、病気をもつ
村人たちに加護を与える。
(13)宴
批評・感想
「山のまつり−遠山地方の霜月際」に寄せて
間宮則夫(会員)
雪のため小一時間ほど遅れて、バスは飯田に到着した。会場に入ったら、スクリーンに
はアチックミュウゼアムの「中馬街道」が映し出されていた。画面は数十年前の古い歴史
的な作品とは思えないほど、鮮明な映像をしている。改めて科学技術の素晴らしさに脱
帽しながら、先駆者達の映像に見入った。やがて明るくなって会場内を見渡すと、椅子を
埋めている大半は地元の人々のようであった。 盛会だな!
「山のまつり
と思ったのが第一印象。
遠山地方の霜月祭」とは50年ぶりの出会い。作品の出来の良し悪し
よりも、先ず懐かしさが先に立った。この映画に、私は初めからスタッフとして参加して
いたわけではなかった。撮影中にたまたま助監督が急性盲腸炎になり、急遽祭りの始ま
る2∼3日前にピンチヒッターとして呼ばれたのであった。霜月祭について何の知識も
無く、ただ
遠山地方にある珍しい祭り
と言った貧しい認識しか持ち合わせていなか
った。都会生まれの都会育ちである私にとって、祭りと言えば神輿と山車が賑々しく町
内を練り歩く、町場の お祭り しか念頭に無かった。だが、この山里深い小さな神社の
祭りは、厳冬の川で禊ぎして身を清めた、祭りの担い手である村人達が神名帳を読み上
げて全国の神々を招じ入れ、夜を徹して神々をお守りし、湯立てして五穀豊穣・無病息
災・家内安全を願うもので、全国的に著名な祭りであるなど、その当時は露程も知らなか
った。ましてや一揆で皆殺しした遠山一族の怨霊を鎮魂し、逆に神として祀ることで怨
霊を鎮める、言わば禍を福とする、大胆な逆転の発想も加わった極めてドラマチックな
祭りであるなど、現地の上村の村役場で霜月祭のパンフを読むまでは恥ずかしながら全
く知らなかった。
時々刻々と経過していく祭りの神事を、カメラマンはカメラで追い、録音技師はマイ
ク片手にレコーダーを回して記録していく。薄暗い裸電球と湯立ての薪の燃え盛る炎が
唯一の明かりであった、この神秘的で呪術的な祭りの場の空間は当時の感度の悪いフィ
ルムでは撮影することが出来ない。そこでプロとして恥ずかしくない、綺麗な映像に仕
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上げるために、ライトを照らして撮影を行うようになる。50年代から60年代にかけ
ては映画界の黄金時代であり、プロカメラフェティシズムと言ったらよいのか、プロカ
メラ万能時代と言ったらよいのか、仰々しい三脚を付けたカメラを担いで「済みません、
映画撮影で・・・」と言えば、大抵の無理は罷り通る時代であった。かくして、煌々とし
た明るさの下で展開される祭りは神秘さを失い、祭りの真の姿を伝えることはできない。
57 年製作の野田眞吉作品「東北のまつり第 3 部−小正月の行事」について、作者は製
作意図で『小正月の行事が民俗行事として、極めて貴重なものであり、生産とふかくつな
がっていた祭礼や行事のなかに、とおい、祖先たちの生活の姿をたずね、その本来の意味
を知る・・・』と記している。そして野田さんはその意図を実現するために、ロケ地で
ある新潟県の西横山の集落の人々が充分に納得し受け入れてくれるまで、数度に渡って
足を運び、公民館の和室で話し合いを重ねたことを、その時、私も行を共にしており、両
者の話し合いについては今でも鮮明に記憶している。地元側の意見の大要は
① 地元では、小正月の行事を非常に大切にしている。戦後の生活改善運動で若い者た
ちのなかに行事を止めようという意見もある。
② 小正月は女の正月。部外者が入ってきて、女性に余計な負担を掛けたくない。
③ 撮影隊に行事を荒らされたくない。
おおよそ以上のような点が上げられた。回を重ねた話し合いのなかで、私たちの真
意が汲み取られたのか、村人たちの理解と信頼を獲ち得ることができた。そんなこと
もあって、後年、当会の設立をすすめるにあたって、野田さんの心中にはこの西横山の
体験が原点となっているのではないかと想われる。70 年以降の各民俗映画作品「冬の
夜の神々の宴」「ゆきははなである−新野の雪まつり」「生者と死者のかよい路−新野
の盆おどり・神送りの行事」の各作品も『だから映像は民俗学を待たなければならな
い』と言う確信のもとに制作されたものだと、私は想っている。そこには 50 年代に罷
り通った 撮影至上主義 と言う傲慢な映像づくりではなく、対象にやさしさと深い
理解をもって接する謙虚な映像づくりを見出すことができる。
50 年ぶりに再会した、懐かしの作品を目の当たりにし、想いを新たにしながら帰路
についた。
日本映像民俗学の会
第 27 回大会
飯田市美術博物館に参加して
長島節五(会員)
今回は民俗芸能の宝庫と云われる場所だけに、盛沢山の映像をみせて頂いたが、その
ためか解説とか会場との質疑応答の時間が少し足らなくなったようである。特に懇親会
は時間が少なかったように思える。二日間で貴重な映像が盛沢山、幹事さんは大変だっ
たと思う。残念見るほうも大変、日程にゆとりを、二泊三日で行ったほうがよいのでは
ないか。
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民俗、芸能などの伝統行事も明治五年の神仏分離廃仏毀釈の政策にもめげず、密かに
行われてきた行事や習慣も、敗戦後、民主主義民主主義と声高に叫ばれだすと、伝統的
な行事や習慣は、味噌糞の区別も無く、軍国主義の片割れやカビが生えた古臭い因習と
して、昭和二十∼三十年代に百束一絡げで扱われ、アット言う間もなく廃れていった。
時代の流れと共に変化するのはいたしかない事だが、当時は文化力が零になっていた。
今は誰でも簡単に動画(ビデオ)が記録できる時代なのだが、文化力は上がってきたので
あろうか。
映像解説された中で、柳田國男が行事の視察に来るとかで、行事を体裁よく見せるた
めに変えてしまったとか、NHK が取材に来るので綺麗な衣装を着て行事を行ったので、
それ以後そのままの綺麗な衣装で行事を行う事になってしまっているとの事だが、伝統
行事や習慣が安易に変えられていくのは何故なのだろうか、振り返って見ると小中学校
の頃、教育の場で伝統行事や習慣を否定することを刷り込まれた記憶がある。
身近に見られまた体験できるものとして、人の一生で一番大事な行事である葬式を見
ても、葬儀屋セレモニーショップがどんどん変えていってしまうのが現状だ。一々取り
上げると切りが無いが、例えば「清の塩」を会葬の帰り際に手渡されるが、この「清の
塩」の扱いについては、葬儀社や僧侶でも良く知らないのが現実である。ましてや個人
個人ではてんでんばらばらの解釈がなされている。
この「清の塩」は自宅まで持ち帰り(本来は自宅で用意して置くかお捻りに入れて持
参するものだったようだ)、家に入る前、門前で後ろを振り返らないままで、肩越しに
後ろに向かって塩を放り投げるように撒くのだ。つまり会葬の場から死者の霊(死穢)
が会葬者に付いて来る、その死霊と向き合うと意識が通じるので、意識を通じさせない
ため振り替えらないで帰宅する。それでも付いて来る死霊に向かって塩を投げつけ、死
者の国、黄泉の国へ帰れと塩を投げつけて追い払うと云うことになる。
最終日の20日、地元のからの発言で小正月を国民の休日にする運動をされていると
のお話があった、伝統行事は小正月に多いのだから、其の日を祝日にして少しでも参加
者が多くなればそれは良い事だと思う。残念ながら日本では伝統を維持することに国や
行政が無関心過ぎるように見受けられる。その証拠に最大の民俗行事習慣であるお盆を
祝日にしないのは、この国が真から伝統を大切にしようと思っていない事に他ならない。
盆正月は小話落語のネタになるように、昔から休みに決まっている。盆も正月も仏教以
前からの行事、盆は迎え火を頼りにご先祖がお盆様となってお出でになり、正月は門松
を目印にご先祖がお正月様になってお出でになる、「こんなめでたい事は無い、酒だ酒
だ酒だこれが飲まずにいられるか、小正月とお盆を祝日旗日にしないのは罰たかりだ」
。
飯田の皆様には、小正月とお盆を祝日にする運動を是非全国規模の運動に広げて頂きた
いと思うしだいである。出来る事なら私達もこの運動に賛同し、伝統の維持保存へと発
展させることが、この運動の一助になり、そうした事も我国の文化力を上げる力になる
だろう。
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◆一般参加者の声
●松井美由紀/コピーライター/43歳
表現したつもりも、表現したわけでもないのに、
表現されてしまうものがある。
そして、その中にこそ、
表現者の「次元」が、そのまま現れてしまうということの
恐ろしさと崇高さ。
だからこそ、表現する者の責任は重いと感じました。
私はコピーライターです。
仕事の中で、文章には「己の次元」が出るということを、
これまで幾度も思い知らされてきました。
自分を磨くことだけが、納得できるコピーを書くことに
繋がるのだと、我が身に言い聞かせ、言い含め、道を歩いています。
映像もまた同じでしょう。
作り手はみな、図らずも現れてしまう、
自分ではどうしようも出来ない「次元」をも含め、
己と戦いながら、映像と向きあっているのだと思います。
表現者の「次元」は、良きにつけ悪しきにつけ画面の中にまざまざと形を表し、
それは受け手が小さな子供であれ、豊かな知識を持った博学の徒であれ、
ただストンとわかる、という方法で伝わっていきます。
その「次元」を輝かしい喜ばしい場所へと持ちいくために必要なのは、
会場での最後の意見交換の場で示された「映すものへの愛」でしかないのだと思いま
す。
「映すものへの愛」が其処にあれば、
自ずとその存在への畏敬が生まれ、
存在への畏敬を肚の奥深く据え、そこから発する意識で向き合った時、
表現に図らずも現れてしまう「次元」は、大きく形を変えていくのではないでしょう
か。
聖なるものであれ、俗なるものであれ、
愛ある表現者と組することが出来たものは奇跡を受け取ることができる。
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表現者がとるべき責任は、その奇跡を世の中に示していくことにほかならない。
今、そう感じています。
そしてまた、観る者の責任として、
映像に秘められた人知を超えた「次元」が伝えてくるメッセージを
読み取れる人として、映像と向き合うことの出来る鑑賞者でありたい、と願っていま
す。
●佐々木尚絵/フリーエディター/40歳
はるか昔から今に至るまで残されてきた祭、昔とはすっかり変わってしまった祭、あ
るいは消えてしまった祭。それが何故なのか。
残ったことが良くて消えてしまったことは悪いのか。
何故自分は、この映像を撮っているのか。まるでなにものかに突き動かされるよう
に…。
何故この映像がここに残されているのか、まるで奇跡に助けられでもしたかのように。
そしてその映像を、何故、今、自分は見ているのか。
「やがて、すべてのものごとの意味が、わかるときが来る」
映像を通して、そんな予感を、さらに強く抱いた2日間でした。
●岩永廣子/主婦/55歳
あの日会場で、なぜ「アキハバラ」を上映したのか、と質問した者である。
あの時に伝えきれなかったことをまとめてみた。
怒りと焦りのイザナギが、原因の子「火之迦具土」の首を切断。首は「アキバ明神」
、
胴は「アタゴ明神」となった、と神話は伝えている。プログラムに名を連ねていた
「アキハバラ」は、私の中で当然これを予感させるもので、今もあの電気街の秋葉原
は、将門の首にまつわる秋葉明神・雷神の因縁の地と直感している。
ドキュメントやノンフィクションというものは、作家の動機がどうであれ、物質の次
元で
取り上げられること
、 発表が可能となること
自体、事件だから、飯田の会
場で学生があのムービーを発表したときには、
〈オタクの現実の意味〉をしきりに、し
かも素直に、神々の大いなる過去の次元へと問いかけていた。で、
「ああっ、秋葉明
神は胴体がないから頭だけでしか肉体的要求を満たすことができないんだ。だから学
問の府・雷神天満宮の周りは、肉体への満たせぬ望みが現象化し、ラブホテルでいっ
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ぱいになっているんだ」と、おかげでスッキリした結論に至ったのである。だが、一
方の胴体アタゴは何をしているんだとなると、今度は「アダゴコロ」でも「アタコゴ
ト」でも何でもいいから、頭のない胴体の言い分を聞いてみたいとなった。
また、とびきり活きのいい若者が、どこか隠れ里に横たわる胴体を発見してくれるこ
とを切に願っている。
事務局連絡:総会に出席されなかった方は、
年会費、2500 円の納入をお願いいたします。
郵便振り替え
振込先:00170-6-91128
日本映像民俗学の会
映 像 民 俗 N0.18
発行日 2004 年 5 月 15 日
ニュース・レター映像民俗編集部
日本映像民俗学の会事務局
〒160 ー 0014
東京都新宿区内藤町 1-10 テラス
小黒 201
☎ 03-3352-2291 FAX
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